青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
1.見えない声を追いかけて、冬の夜に惑う
十一月三十日
国際商学部の講義を終えて、俺は美東美織と並んで学食へ向かった。
右腕を骨折して以来、講義のノートはほぼ彼女に頼りきりだ。板書を写すたびに、内心で頭を下げている。
「今日の昼、奢るよ」
列に並びながら言うと、美東さんは少しだけ驚いた顔をした。
「え?別にいいよ」
「よくないよ。だって、ずっとノート写してもらってるし」
「勝手に折ったの、岸和田くんでしょ」
「そこは否定しないけどさ」
俺は券売機を指さす。
「よこいち丼でいい?」
「それ人気のやつじゃん」
「だからだよ」
「理屈が雑だわ〜」
そう言いながらも、美東さんは素直に頷いた。
席に着いて、美東さんは一口食べて、ふっと息を吐いた。
「……ちゃんと美味しい」
「ちゃんとってなんだよ」
「学食って、たまに気合いだけで来る日あるから」
「まあ、それはある」
他愛ないやり取りをしながら、昼の時間が流れる。この距離感は、やっぱり楽だ。
半分ほど食べたところで、美東さんが箸を止めた。
「このあと、鎌倉の自動車学校行くんだ」
「へえ、免許取るんだ」
「うん。岸和田くん、通学の方がいいって言ってたしね」
その言い方が、さらっとしていて、妙に胸に残る。
「なんで鎌倉?」
「今、大船に一人暮らししてるし。通いやすいから」
「ああ……なるほど」
「それに、鎌倉って落ち着くし」
ぽつりと付け足されて、俺はそれ以上突っ込まなかった。
「ちゃんと安全運転で」
「まだ運転してないって」
「将来の話な」
「はいはい」
食べ終えて、トレーを返す。
美東は立ち上がって、軽く手を振った。
「じゃ、行くね。ノート、今日の分今度渡すから」
「ありがと。助かる」
「骨、ちゃんと治しなよ」
「努力する」
それだけ言って、美東さんは人の流れに消えていった。
(……いい子すぎだろ)
そんなことを思いながら、俺は咲太を探すために歩き出した。
福山と統計科学学部の講義を終えたばかりだと聞いていたから、講義棟の出口付近で待ち伏せる。
少しして、見慣れた姿が出てきた。
梓川咲太。
隣に福山もいる。
「おーい」
俺が手を上げると、咲太が気づいて近づいてきた。
「珍しいな。お前が待ち伏せするなんて」
「咲太、用事がある」
「僕に?」
「お前に」
福山が「じゃあお先、明後日中国語でよろしくな、岸和田」と言いながら笑って、先に離れていく。
咲太と二人になったタイミングで、俺は声を落とした。
「一昨日、赤城と会ったんだけどさ」
「ああ」
「そのとき……赤城の手のひらに、書いてあった」
俺は言葉をそのままなぞる。
「——霧島透子を探せ」
「——麻衣さんが危ない」
咲太の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……やっぱり、言われたか」
「やっぱり?」
「僕も見た。っていうか、赤城が見せてきた」
咲太は歩きながら、俺に視線だけ寄こす。
「霧島透子の話は、双葉にはその日のうちに一度話してる」
「……二十八日にか?」
「ああ。麻衣さんから双葉へ連絡してもらって」
咲太は一拍置いて、続ける。
俺は、喉の奥の乾きを誤魔化すように、口を開いた。
「……あと俺、二十七日に変な夢を見た」
咲太が足を止める。
「どんな」
「塾で、お前が姫路さんから、『咲太せんせ』って呼ばれてた」
「……」
「姫路さんがいて、妙に現実みたいで。起きても余韻が消えなかった」
言い終えた瞬間、咲太が短く息を吐いた。
「……やっぱりか」
「やっぱり?」
「僕も同じ夢を見た。塾で、姫路さんがいて、呼び方まで一緒だ」
冗談めかした様子は、どこにもない。
だからこそ、背筋がひやりとした。
(偶然じゃない)
夢の輪郭が、現実の側からにじんでくる。
数秒の沈黙のあと、咲太が小さく肩をすくめた。
「岸和田も同じものを見たんなら……」
視線を前に戻して、咲太は言う。
「明日、また双葉に話すか」
確認じゃない。結論だった。
「霧島透子の件も、夢の件も、赤城の言葉も。今度は全部揃ってる」
俺は即答した。
「俺も塾のバイトだし、同伴していいか?」
咲太は少しだけ目を細めて、当然みたいに頷く。
「いいぞ」
そして、さらっと付け足す。
「お前、姿は見えないけど……霧島透子の声は聞けるみたいだしな」
その一言が、胸の奥を軽く叩いた。
咲太は歩き出す。俺も隣に並ぶ。ギプスが揺れて、少し痛む。
でも、その痛みが、逆に今を繋ぎ止める。
「明日、授業終わったら合流な」
「了解」
たったそれだけの約束なのに、俺は少しだけ安心していた。
逃げ道が消える安心と、戻れない感じの不安が、同じ場所で同居している。
(……十二月一日)
カレンダーの数字が、まだ遠いのに近い。
俺は視線を上げた。
空は高くて、やけに澄んでいた。
こんな日に、誰かが危ないなんて、似合わない。
でも、似合わないからこそ、起きる。
この世界は、そういうふうにできている。
講義棟を出て、キャンパスの並木道を歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を開いた瞬間、嫌な予感が的中する。
グループチャット《きっしー観察会》
(……またかよ)
未読が二件。
《蓮真、来月の十一日、紅葉見に行こ!》
《行こ行こー!前に約束してたやつ!!》
そういえば、と思い出して、思わず立ち止まる。
(……あ)
完全に忘れてた。
赤城だの、#夢見るだの、霧島透子だの。
頭の中がそっちに引っ張られすぎて、普通の約束が後回しになっていた。
既読をつけてから、素直に返す。
《あー……ごめん、忘れてた。行くよ》
間髪入れずに通知が跳ねた。
《やったー!!お母さんが車出してくれるって!》
《行き先はね〜……養老渓谷!!》
養老渓谷。頭の中で地図を広げる。
「……千葉か」
思わず声が漏れた。
神奈川に住んでると、近いようで意外と行かない場所だ。
《へぇ、千葉か。確かに行かないよな》
《でしょでしょ!途中で海ほたる寄ろ!絶対!!》
話がもう止まらない。
そのタイミングで、のどかが割り込んでくる。
《あ、そうだ蓮真》
《明後日、お姉ちゃんの誕生日パーティーやるんだ、咲太ん家で!》
《二人も来てよ!》
(……そういえば、麻衣先輩の誕生日って明後日だったな)
紅葉の話から一気に誕生日パーティー。
《了解。空いてる》
送った直後だった。
《あ!!そういえば紅葉で思い出した!!》
(いや、絶対思い出してないだろ)
《私たちさ、土日で広島に遠征ライブ行くんだ!》
なるほど、そういうことか。
《お土産何がいい??》
話の展開があまりにも天才的すぎて、思わず苦笑する。
《……この流れで聞くなら、もみじ饅頭しかないだろ》
一拍置いて。
《わかった!!!》
即答だった。
(……ほんと、自由だな)
でも、不思議と嫌じゃない。
赤城のことも、霧島透子のことも、明日の相談も、全部頭の中にあるのに。
こういうどうでもいいやり取りが挟まるだけで、世界はちゃんと回っている感じがする。
スマホをポケットに戻して、歩き出す。
(紅葉か……)
(麻衣先輩の誕生日パーティーか……)
(広島土産は、もみじ饅頭)
考えることが多すぎる。
それでも、今はそれでいい気がした。
少なくとも今は、日常の約束を引き受けられる場所に、俺はまだ立っている。
十二月一日
職員用のロッカーに荷物を入れて、塾講師の目印になっている白い上着を羽織る。
右腕のギプスがまだ少し邪魔だけど、動けないほどじゃない。
今日使う教材だけを持ってロッカールームを出たところで、咲太が塾長に声をかけられているのが見えた。
「梓川くん、いいところに」
「おはようございます」
「ああ、おはよう。今日から担当してもらいたい生徒がいるんだけど……どうかな?」
「今日ですか?また急ですね」
「本人たっての希望なんだよ。姫路紗良さんは知ってるね?」
「……わかりました」
「そうか、よかったよかった」
話がまとまったところで、
「あ、咲太せんせ」
ちょうど自習室から出てきた女子生徒が、咲太に声をかけた。
峰ヶ原高校の制服を、いかにも優等生らしく着こなした少女。姫路紗良だ。
そのとき、彼女は俺の姿にも気づいたらしい。
「あ、岸和田先生も……骨折、大丈夫ですか?」
少し心配そうに、首を傾げてくる。
「ああ。まあ、もうだいぶ平気」
そう答えると、姫路さんはほっとしたように小さく笑った。
「よかったです」
それから改めて咲太の方を向き、「今日からお願いします、梓川先生」と、両手を揃えて丁寧に頭を下げる。
塾長の前だからか、呼び方もきちんとしている。
「よろしく。姫路さん」
「あとはいつも通りお願いね、梓川くん」
塾長はそう言い残して、自分の机に戻っていった。
その背中を見送っていると、入口の方が少し騒がしくなる。
「ういす」
気だるい声と一緒に、山田健人が入ってきた。
その後ろから、「こんにちは」と、吉和樹里も続く。
「大丈夫っすか、岸和田先生」
山田くんが、俺のギプスを見て声をかけてくる。
「まあな。動けないほどじゃない」
「それならよかったです」
今度は吉和さんが、少し控えめに言った。
「岸和田先生、大丈夫ですか?」
「心配かけてるな。ありがと」
軽く返すと、二人とも安心したように頷いた。
その流れで、咲太が口を開く。
「今日から姫路さんも担当になったから。ふたりに伝えとく」
「よろしく。山田くん、吉和さんも」
「え?まじで!」
露骨に山田くんが動揺する。
「山田くん、それ、どっちの意味?」
姫路さんが、即座に突っ込んだ。
「え?どっちって何が?」
「うれしいのか、嫌なのか」
山田くんは顔を逸らして、しどろもどろになる。
その様子を見て、姫路さんは両手を口元に当てて、楽しそうに笑い出した。
(ああ、なるほどな……)
俺はそのやり取りを横目に確認してから、そっと距離を取る。
「じゃ、俺は行くわ」
誰に言うでもなく小さく声を出して、自分の担当生徒が待つブースへ向かった。
背後では、相変わらず賑やかな声が続いている。
それを聞きながら、俺は内心で思う。
(……夢で見た通りだ)
あの夢と、同じ光景。
同じ距離感。同じ十二月一日。
現実は、夢よりも静かに、でも確実に追いついてきていた。
授業が終わると、生徒たちはそれぞれ帰り支度を始めた。
俺もブースの片付けをしていると、背後から声をかけられる。
「スッキリした顔してますね、岸和田先生」
振り返ると、そこにいたのは姫路紗良だった。
いつの間にか、すぐ後ろまで来ていたらしい。
「……どういう意味だよ、それ」
怪訝に返すと、姫路さんは肩をすくめる。
「いえ、なんでも」
そう言って、意味ありげに口元だけで笑った。
からかっているのか、観察しているのか。どちらとも取れる曖昧な笑みだった。
「余計なこと言うなよ」
「先生の顔、ちゃんと見てるだけです」
そう言い残して、姫路さんは軽く手を振り帰っていった。
(……ほんと、鋭いな)
理由までは言い当てられていない。
けれど、何かが一段落した人間の顔を、見抜かれた気がした。
俺はそのまま職員室へ向かい、今日の授業内容を日報にまとめ始める。
決まったフォーマットに、淡々と文字を打ち込むだけの作業。
隣の席では、咲太も同じように日報を打ち込んでいた。
ちらりと日報を見ると、生徒欄がひとつ増えている。
当然、書く内容も増える。
「大変そうだな」
「まあな。自分で引き受けたからな」
キーボードを叩く音を止めずに、咲太は答える。
「姫路さん、飲み込み早いし。教えがいはある」
「それ、地味に一番疲れるやつだろ」
「否定はできないな」
短いやり取りを交わしながら、俺も日報を提出する。
特に問題なし。いつも通りの一日。
……少なくとも、書類の上では。
必要な事務作業をすべて終えると、俺たちは顔を上げた。
「で、双葉は?」
「まだ残ってるはずだけど」
咲太が職員室を見渡す。
俺も同じように視線を巡らせた。
この塾にいる、もう一人の共有すべき相手。
同じ講師で、同じ場所に立っていて、それでいて、誰よりも異常に気づける人間。
「……探すか」
「ああ」
俺たちは席を立ち、職員室の奥へと歩き出した。
これから聞く話が、夢の続きなのか、それとも現実の延長なのか。
その境界線は、もうほとんど見えなくなっていた。
職員室の奥へ進むにつれて、空気が少しだけ乾く。
教室側のざわつきが遠のいて、代わりに、キーボードを叩く音や紙をめくる音がはっきり聞こえる。
咲太が歩きながら言った。
「姫路さん、お前に何か言った?」
「『スッキリした顔してますね』って」
「……なんだそれ」
「だよなあ」
「観察されてる自覚持った方がいいぞ岸和田」
そんな会話をしているうちに、フリースペースが見えてくる。
そこで俺たち、は双葉の後ろ姿を見つけた。
フリースペースで、長身の生徒の質問に答えている。双葉が物理を教えている加西虎之介だ。
開いたテキストを指で差し、広げたノートにペンを走らせる。
双葉が「ここまでは、わかった?」と聞くたびに、「はい」と大きな体に似合わない小さな声が聞こえてくる。
一問解き終えると、双葉の解説は次の問題に続いた。まだまだかかりそうな雰囲気だ。
夢が本当になった話は、急ぎの用事、というより、急ぎで口にすると壊れる類の話だ。
ここで双葉にぶつけるのは、場違いだと咲太も思ったんだろう。
咲太は小さく息を吐いて、肩をすくめた。
「……双葉、まだかかりそうだな」
「っぽいな」
「じゃ、僕は先に帰る」
「おう。……悪いな」
「お前が待つのは、いつもの役回りだろ」
そう言い残して、咲太はフリースペースの入口で軽く手を上げた。
双葉はこっちを見ていない。加西くんのノートに視線を落としたまま、淡々と説明を続けている。
その背中を見て、咲太はもう一度だけ俺に言った。
「夢の話、双葉が終わったら連絡してくれ」
「了解」
そう返したところで、咲太が少しだけ立ち止まった。
「あー……そうだ」
俺の方を振り返って、少し気まずそうに頭を掻く。
「家の電話番号、教えとく」
「……家の?」
「何かあったら、そこに連絡くれ」
咲太はそのまま、メモ用紙を引き寄せてペンを走らせた。
切り離された紙切れを受け取る。
そこに書かれていたのは、ごく普通の固定電話の番号だった。はずなのに。
(……ん?)
数字を追った瞬間、胸の奥で、微かな引っかかりが生まれる。
理由はわからない。
記憶として思い出せる場面もない。
ただ、この並びを、どこかで見たことがある気がした。
「……どうした?」
咲太が怪訝そうに覗き込んでくる。
「あ、いや。なんでもない」
咄嗟にそう答えて、メモを折りたたむ。
「終わったら、そこにかける」
「頼む」
それだけ言って、咲太は塾の出口へ向かった。
俺はその背中を見送りながら、もう一度だけ紙を開く。
インクのにじみ具合まで、妙に現実的だ。
(……夢じゃない)
そう断言できるほどの根拠はない。
けれど。
知らないはずの番号を、知っている気がする。
その違和感だけが、はっきりと残っていた。
残ったのは、俺と、白い蛍光灯の光と、双葉の声。
「加西くん。式の意味を言葉で説明できる?」
「えっと……変化の割合、です」
「それをどこで見てるの?」
「……ここ、ですか」
加西くんがノートの端を指す。
その仕草が妙に慎重で、でかい体が余計に小さく見えた。
双葉は頷く。
「そう。なら、次。グラフの傾きは?」
「……微分、です」
「よし。じゃあ、今の問題のどこが微分になってる?」
加西くんが詰まる。沈黙が一秒、二秒。
双葉は急かさない。
待つ。たぶん、わざと。
考える時間を、奪わない。
その教え方は、どこかで見たことがある。
(……俺が、卯月にやってたやつに似てるな)
ぼんやり思って、ギプスの端を指先で撫でた。
痛みは薄い。代わりに、違和感が胸の奥に残っている。
夢の続きが現実に追いついてきた違和感。
それと同時に、姫路さんの言葉が蘇る。
スッキリした顔。
(スッキリなんかしてないだろ)
むしろ、ぐちゃぐちゃだ。
ただ、ひとつだけは確かに片付いた。
夢が当たった、という事実。
それを咲太と共有できたことで、少しだけ、逃げ道が減った。
加西くんが、ようやく答える。
「……ここ、のtが……時間だから、変化が……」
「そう。じゃあ、その変化を取る操作が微分。今言った通り」
双葉の声は、淡々としているのに、妙に優しい。
厳しいのとは違う。冷たいのとも違う。
正解に辿り着けるだけの道を、ちゃんと残してくれている。
加西くんが「はい」と言って、ペンを走らせた。
その筆圧が、さっきより少しだけ強くなる。
(……こういうところ、双葉はすごい)
俺はフリースペースの隅の椅子に腰を下ろした。
邪魔にならない場所。視界の端に双葉が入る場所。
待つのは、得意だ。
ずっと、そうやってきた。
スマホを取り出して、画面を点ける。
通知は、来ていない。
《きっしー観察会》も静かだ。
その静けさが、逆に不気味だった。
(今は、日常が息してる)
そう自分に言い聞かせる。
加西くんの質問が途切れて、双葉がノートを閉じる音がした。
「……今日はここまで。帰って復習して。今度同じところ聞く」
「はい。ありがとうございました」
加西くんが頭を下げて立ち上がる。
俺の前を通るとき、加西くんはちらっと俺のギプスを見て、気まずそうに会釈した。
「……岸和田先生」
「おう」
それだけで、加西くんはフリースペースを出ていった。
加西くんの背中が見えなくなった瞬間、双葉がようやくこっちを向いた。
「……待ってたんだ」
「待つくらいしかできない」
双葉は椅子に座り直し、髪を耳にかける。
その目が、俺の右腕に一瞬落ちて、すぐ戻った。
「骨は?」
「順調。たぶん」
「たぶん、ね」
双葉は鼻で笑うみたいに息を吐いて、それから真顔になった。
「で。話って何」
ここからだ。
さっきまでの塾の空気が、少しだけ変わった。
塾を出ると、外の空気は思ったより冷たかった。
吐いた息が白くならないあたり、冬はまだ本気じゃない。それでも、夜の風は容赦なく頬を撫でる。
俺と双葉は、言葉少なに駅前のファミレスへ向かった。
塾の蛍光灯の白さが、まだ目の裏に残っている気がして、店の暖色の照明がやけに落ち着く。
入口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませー」
聞き覚えのある、少しだけ緊張の残る声。
顔を上げると、エプロン姿の花楓ちゃんが立っていた。
こちらに気づいた瞬間、ぱっと表情が明るくなる。
「あ、理央さん。……蓮真さんも。いらっしゃいませ」
その言い方が、仕事と私情の境界線を必死に守ってるみたいで、少し笑いそうになる。
「こんばんは、花楓ちゃん」
双葉が軽く手を振る。
「こんばんは……えっと、二名さまですか?」
「ああ、二人。……あ、俺、片腕まだこれなんだけど大丈夫?」
ギプスを見せると、花楓ちゃんは一瞬だけ目を丸くして、すぐに真面目な顔になる。
「はい、大丈夫です。えっと……お席、広めのところにしますね。こちらへどうぞ」
テキパキと案内され、俺たちは窓際でも壁際でもない、落ち着いたボックス席に座った。
花楓ちゃんがメニューを置いて、水を二つ並べる。
「ご注文、お決まりになったら呼んでください」
そう言って去ろうとして、少しだけ、こちらを見た。
「……蓮真さん。骨、まだ大丈夫ですか?」
声が小さくなる。
仕事の顔の裏に、心配が透ける。
「大丈夫。もう痛いってほどじゃない」
「……よかった」
安心したように頷いて、花楓ちゃんは今度こそホールへ戻っていった。
テーブルの上に、静けさが落ちる。
双葉がメニューも開かずに言った。
「……まず、ドリンクバー行く?」
「行く。コーヒー飲まないと頭が追いつかない」
「岸和田、いまさら脳みそのスペック上げても手遅れだと思う」
「ひどいな」
でも、いつもの毒が混ざると、逆に安心する。
こういうときの双葉は、現実を整えるために言葉を使う。
俺たちは飲み物を取って戻り、向かい合って座った。
双葉がコーヒーを一口飲む前に、ふっと目を細める。
「……梓川が気にするのはわかるけど」
そして、淡々と刺してくる。
「岸和田が桜島先輩を気にするのは珍しいね」
「珍しいってなんだよ」
「だって、岸和田基本、関係あるなら気にするじゃなくて、巻き込まれたら気にするタイプでしょ」
図星だった。
俺は一瞬だけ言葉に詰まってから、正直に返す。
「そりゃ……麻衣先輩にはお世話になってるし」
それだけじゃ、足りない。
自分の中で、もう一段理由がある。
だから続けた。
「それに、麻衣先輩に何かあったら、のどかが心配するだろ」
「……」
「のどかに辛い思いはさせたくない」
言い終えた瞬間、双葉は目を閉じて、わずかに肩を落とした。
呆れた、というより確認できてしまった、みたいな顔だった。
「岸和田って、結局」
双葉が目を開ける。
「桜島先輩の妹さんと、そのアイドル仲間のどっちが大事なの?」
コーヒーの苦味が舌に残ったまま、俺は息を吐いた。
「……それ、今ここで答えなきゃいけないか?」
「ううん。別に。今すぐじゃない」
双葉は淡々と続ける。
「でも、岸和田、選ばないふりして選んでるときあるから」
痛いところを、優しく刺すタイプの言い方。
俺は視線を逸らして、言った。
「どっちも大事だよ」
双葉が、ほんの少しだけ眉を上げる。
「……そろそろはっきりした方がいいと思うよ。岸和田も」
その言葉が、ギプスの痛みより重く落ちた。
けれど、今はそこに踏み込む余裕がない。
「……どっちかを軽くした瞬間、俺は俺じゃなくなる気がするんだよ」
逃げるように、話を戻す。
「それより、霧島透子の話だ」
双葉はコーヒーを置き、ようやく本題の顔に切り替える。
「現段階で言えることは、大きく分けてふたつしかないんじゃない?」
ドリンクバーで淹れ直したのか、彼女のカップから湯気が細く上がっている。
「つまり?」
「霧島透子が桜島先輩に直接危害を加えるか」
「もしくは?」
「霧島透子を理由に思春期症候群を発症した誰かが、桜島先輩を危険に晒すか」
俺は短く頷く。
「……ま、そのどっちかだよな」
赤城の手のひらに書かれていた短い言葉。
そこから導けるのは、結局“方向性”だけだ。
「けど、さすがに直接はないんじゃないか?」
口にしてから、自分でも薄い根拠だと思う。
ただ、理性がそう言いたがっている。
「それはもう事件だし、霧島透子にそうする理由があるように思えない」
「私も後者の可能性の方が高いとは思うよ」
双葉は否定しない。
けれど、肯定もしない。
前者を完全に切り捨てる材料もない。そう言わんばかりに、視線だけで言う。
俺はカップを持ち上げ、熱で喉を誤魔化しながら続けた。
「この状況、双葉はどうすればいいと思う?」
双葉は一拍置いてから答える。
「問題の根っこを断つって意味なら、霧島透子の思春期症候群を治してしまえばいいんじゃないの。梓川と一緒に」
「俺は咲太と違って、霧島透子が見えないのに?」
「でも、声を聞くことはできるんでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
双葉は、ほんの少しだけ口角を上げる。
「梓川ほどではなくても、岸和田だって得意分野でしょ。見えないものの扱い」
それは褒め言葉の形をした、事実確認だった。
俺は肩をすくめた。
「それで解決するなら苦労しないだろ」
「でも、桜島先輩の時とケースは似てるでしょ?」
「確かに。麻衣先輩はみんなの記憶から消えた」
俺は指を折って整理する。
「でも霧島透子は、現状、姿だけだ。みんな覚えてる。曲も普通に話題になってる」
双葉が頷く。
「YouTubeに上がってる曲を聞いて、『霧島透子いいよね』って言ってる人もいるし」
「……双葉は、最近の思春期症候群の原因が霧島透子にあると思うか?」
俺が問うと、双葉は迷いなく答えた。
「本人がそう言ってたんでしょ。“プレゼントをあげた”って。梓川の話だと」
「本人がそう言ってるだけなんだろ」
「証明できない、って言いたい?」
「言いたい」
ここで何時間議論しても、結局同じところに戻る。
情報が足りない。
道が閉じている。
そう思った瞬間、俺の中で一つの結論が固まった。
「……結局、双葉の言った通りか」
双葉が目を細める。
「何」
「霧島透子の思春期症候群を治すしかないってこと」
言ってしまうと、逃げ道がまたひとつ消える。
でも、消えた分だけ前に進める。
双葉は小さく頷いた。
「気休めにもならないかもしれないけど」
「#夢見るを見てみたら?未来のことが何かわかるかもしれないでしょ」
俺は苦笑する。
「目には目を。歯には歯を。思春期症候群には思春期症候群、ってわけか」
「そういう梓川みたいな雑なまとめ方しないで」
「でも、双葉の言うとおり、確かにそうだ」
双葉が顎に指を当てる。
「そういえば岸和田。赤城郁実の#夢見るの手助けをしてた時は、どうしてたの?」
「その時は、赤城が自分で調べて、俺に連絡してきた」
「なるほどね」
双葉の声に、ほんの少しだけ納得が混ざる。
俺はテーブルの端に置いたタブレットを引き寄せた。
画面を点けて、検索窓に指を落とす。
#夢見る、桜島麻衣。入力して、検索。
スクロール。
スクロール。
……ない。
麻衣先輩が危ないに繋がりそうな書き込みは、見つからなかった。
俺は息を吐いた。
「……何もないな」
「ないなら、ないでいい」
双葉はあっさり言う。
「今は見つからないってだけ。未来は、岸和田が見たい形で出てくるとは限らない」
その言葉が、妙に重かった。
俺が画面を閉じたタイミングで、テーブルの横に影が差す。
「お待たせしました」
花楓ちゃんが料理を運んできた。
いつもの手際で、皿を置く。
けれど、置き終わったあと、ほんの一瞬だけこちらを見る。
「……お話、長くなりそうですか?」
遠回しな言い方。
でも、気遣いなのはわかる。
双葉が先に答えた。
「大丈夫。長くなるけど、静かにするから」
花楓ちゃんは小さく笑った。
「はい。ごゆっくりどうぞ」
去っていく背中を見送りながら、俺は思った。
日常は、ちゃんとここにある。
料理の匂いも、皿の温度も、花楓ちゃんの声も。
だから余計にこの話が、日常を壊す側の話だとわかってしまう。
ファミレスの暖かい空気の中で、俺たちは冷たい現実を並べ始めた。
夢の続きなのか、現実の延長なのか。
その境界線は、もう、ほとんど見えなくなっていた。
ファミレスを出ると、夜の空気が思ったより湿っていた。
駅前の喧騒から少し離れて、南口を抜けると、人通りは一気に減る。藤沢は、駅を背にした途端に静かになる街だ。
俺は新林公園と川岸の工場がある方向へ歩き出した。
街灯の間隔が少しずつ広がっていく。昼間なら気にも留めない道なのに、今日はやけに足音がはっきり聞こえた。
ポケットの中で、指先が紙に触れる。
咲太の家の電話番号。
ファミレスで受け取った、折り目のついたメモだ。
どこかで見たことがある。
理由のない違和感だけが、まだ残っている。
歩きながら、スマホを取り出して番号を打ち込んだ。
コール音。
一回、二回。
……繋がらない。
数秒遅れて、機械的な声が告げる。
「ただいま、お話し中です」
「……通話中?」
思わず、声が漏れた。
咲太が、誰かと電話してる。
固定電話で。
もう一度かけ直してみるが、結果は同じだった。
お話し中。
(きっと麻衣先輩と話してるのか……)
俺はスマホを下ろして、息を吐いた。
明日でいい。
咲太とは、明日四限の基礎ゼミで一緒だ。
その時に話せばいい。
今日あったこと全部。
赤城の言葉も、夢の一致も、双葉の結論も。
今ここで話したら、整理する前に感情だけが零れそうだった。
俺はメモをポケットにしまう。
逃げたわけじゃない。
ただ、今はまだ、夜の静けさに任せていいと思った。
街灯の下を通り過ぎるたび、影が一瞬だけ伸びて、すぐに消える。
明日になれば、また日常が顔をする。
その日常が、どこまで無事かは、まだわからないけれど。
登場人物紹介
名前 姫路紗良『ひめじさら』
身長 154cm
誕生日 6月6日
峰ヶ原高校一年生で、梓川咲太が塾講師を務める塾に通う生徒で、山田健人とは同じクラス。
体育祭実行委員で知り合った古賀朋絵に懐いているが、その距離感の近さゆえか、朋絵からはやや苦手意識を持たれています。
人懐っこく、誰とでも打ち解ける性格に見える一方で、根は真面目。しかし他人をからかったり、相手の反応を試すような言動を無意識に繰り返してしまう悪癖を持ちます。
本人にとっては軽い冗談でも、周囲との温度差を生むことが多い人物で、健人に遠回しに誘われたことをきっかけに咲太の授業に興味を持ち、実際に見学・受講するようになります。
咲太のことは「咲太せんせ」と呼び、面倒くさそうで本音が見えにくいその態度に、半ば楽しむような関心を向けています。
幼馴染でクラスの人気者でもあった加西虎之介とは親しい関係で、本人も周囲もカップル同然だと思っていました。しかし虎之介に双葉理央という「本当に好きな相手」ができたことで、初めて明確な失恋を経験します。
その際に芽生えたのは、悲しみ以上に「失恋した自分を、他人は内心で笑っているのではないか」という恐怖で、他者への不信感が強まった結果、「体がぶつかった相手の考えがわかる」という思春期症候群を発症します。
この能力を使い、異性の好意を見抜いたり、他人の恋心を牽制してからかうことで、先に知っている側に立つ安心感と満足感を得るようになります。
しかしそれを繰り返すうちに、彼女自身は次第には「人を好きになるとはどういうことなのか」が分からなくなっていきます。
蓮真に対しては、咲太とは別の意味で強い興味を示し、面倒くさく感情を隠す咲太に対し、内面が比較的読みやすい蓮真の内心を思春期症候群で見透かしながらも、周囲の男子の気を引き、自分を好きにさせる行動を無自覚に繰り返す彼女にとって、夏帆と郁実から告白されたばかりで、のどかと卯月を大切に思っている蓮真の存在は、「人を好きになること」を改めて揺さぶる、危険で特別な相手となっていきます。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月