青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十二月二日
朝、スマホが震えた。
枕元の画面にはのどかの名前。
寝ぼけたまま指を滑らせる。
《蓮真、今日さ、お姉ちゃんの誕生日ケーキ買いに行きたいんだけど》
《四限の基礎ゼミ終わったら、卯月と花楓ちゃんと一緒に行けない?》
彼女たちは明日からの広島遠征ライブに向けて、レッスンに追われている。時間をひねり出して動きたいんだろう。
《いいよ。終わったら合流する》
返した瞬間に、既読がついて、すぐにスタンプが飛んできた。
無邪気なやつだ、と息が抜ける。胸の奥の不安を、日常の通知がいったん押し戻してくれる。
午前の講義をいくつかこなして、昼。
のどかは一限から、卯月は二限から大学に来ていたが、二人とも明日の広島ライブの準備で立て込んでいて、昼はそれぞれ別の用事が入っているらしい。
結局、学食に向かうのは俺一人だった。
久しぶりに一人で列に並ぶ自分が、妙に浮いて見えた。
トレーを持って席を探していると、視界の端に赤城郁実が入る。
ちょうどこっちを見つけたらしく、軽く手を挙げて近づいてきた。メガネの奥の目が、いつもより少し柔らかい。
「岸和田くん、ここ、いい?」
「もちろん」
彼女は向かいに座る。
雑談は、最初はどうでもいい講義の話だった。
教授の言い回しが回りくどいとか、学食の味が日によって当たり外れがあるとか。そういう、世界を壊さない話。
半分ほど食べた頃、ふと思い出したように俺が口を開いた。
「……そういえばさ。これからボランティア、どうやっていく?」
赤城が箸を止める。
「どうって……今まで通りだけど?」
「いや。今まで通り、って言い切れるのかと思って」
赤城が眉を少しだけ寄せる。
俺は言葉を選びながら続けた。
「向こうの世界の赤城が、こっちでやってたこと。ボランティアの中身とか、人間関係とか。全部、把握しきれてないんじゃないかって」
赤城は一拍置いてから、ふっと息を吐いた。否定でも肯定でもない、落ち着いた呼吸。
「向こうの私とメッセージでやり取りしてたし……大体は分かるよ」
その言い方が、本当に大体でしかないのを、逆に証明していた。
「でも」
赤城は目線を俺に戻して、ほんの少しだけ口角を上げる。
「フォローしてくれると、嬉しいかな」
「了解。俺にできる範囲でな」
そう言った俺の声は、思ったより軽くなかった。
できる範囲って便利な言葉だ。何でも受け止められるようで、どこか逃げ道も残す。
赤城はそれを見抜いたのか、箸を置いて、小さく言った。
「それと……メッセージのことで、話したいことがあるんだけど」
来た。
この話題は、学食の湯気と一緒に出せる類じゃないのに、赤城は迷いなくテーブルの上に置いてくる。
「月曜日にね」
赤城は声を少し落とした。
「私の手のひらに、黒いペンで……小さい文字が走り書きされてた」
赤城は、まるで自分の手を見つめるみたいな目で、虚空を見た。
「——霧島透子を探せ ——麻衣さんが危ない」
その二行は、俺の中でもう一度だけ、くっきりと線を引く。
言葉の重さは、口に出しても軽くならない。
「……それを、梓川くんと桜島さんに相談した」
赤城は淡々と言って、俺の反応を待った。
俺は咀嚼し終える前に、言ってしまう。
「知ってるよ」
「え?」
「月曜日、赤城と話したとき……手のひら、ちょっと見えてたから」
一瞬、赤城の頬がわずかに赤くなる。
照れる、という感情が出てくるのが、逆に彼女が普通に戻っている証拠みたいで、俺は少しだけ安心する。
「岸和田くん……目ざといね」
「観察が取り柄だからな」
苦笑いで返すと、赤城も小さく笑った。
ただ、その笑みはすぐに消える。話の続きがそれを許さない。
「そのメッセージだけどさ」
俺は声を落とし直した。
「向こうの世界の赤城に、意味を聞くことはできないのか?メッセージで」
赤城は首を横に振る。ため息に近い呼吸が、薄く白い湯気に混ざる。
「それ、梓川くんにも言われて……やってみたんだけど、届かないみたい」
「届かない?」
「たぶん、向こうの私に、こっちからのメッセージが届いてないんだと思う」
赤城は続けて、言いづらそうに視線を落とした。
「あのメッセージを受け取ったあと……向こうの私と感覚が繋がった感じは、一度もないし」
その言葉には、ほっとしたい気持ちと、取り残されたみたいな怖さが同居していた。
俺は、できるだけ結論を急ぎすぎないように言う。
「……じゃあ、そのままの方が赤城のためだな。思春期症候群が完治したってことだし」
「……そうなのかな」
赤城の声は小さい。
完治って言葉は、口にするときれいだけど、心が追いつくとは限らない。
「赤城が責任を感じることじゃないよ」
俺は続ける。言葉で支えるしかできない場面では、言葉を惜しまない。
「悩んでるなら、咲太や麻衣先輩じゃなくてもいい。俺も話、聞くし」
赤城は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐに困ったみたいに笑った。
「でも……梓川くんと桜島さんと違って、岸和田くんは無関係だし。迷惑かなって思って」
「無関係じゃないよ」
俺は間を置かずに言った。
「ボランティア仲間だろ。そういうの、気にするな」
赤城が、少しだけ目を細める。
「……そういうとこだよね」
「え?」
「勝手に、線引きを消すところ」
それは責めてるんじゃない。
むしろ、分かってる、という言い方だった。
そこで、背後から明るい声が割り込む。
「郁実も岸和田くんも、二人とも何してるの?」
上里沙希が、トレーを片手に立っていた。
赤城はすぐに表情を切り替えて、いつも通りのテンポで返す。
「お昼ごはん。沙希も一緒にどう?」
「いいの?じゃあ遠慮なく」
上里は笑いながら座りかけて、赤城の顔をじっと見る。次に、メガネへ視線が落ちる。
「ねえ郁実、前までメガネつけてなかったのに。なんかあった?」
空気が一瞬だけ薄くなる。
入れ替わりを知らない人間にとって、これはただの雑談。
けれど赤城にとっては、心臓を指で軽く押されるような質問だ。
「そうかな、沙希?」
赤城はとぼける。口調は平然としてるのに、ほんのわずかに目が泳ぐ。
俺は即座に割り込む。
「上里さんだってイメチェンするだろ。気分とかさ」
上里が目を丸くして、すぐに笑う。
「うーん、まあするけどさ、でも郁実は真面目だからさ、珍しいなって思って」
赤城は曖昧に笑って、その場をやり過ごした。
俺は心の中で息を吐く。
入れ替わりが戻っても、上里と赤城の関係が壊れていない。そこだけは救いだった。
赤城がトレーの端を整えながら、思い出したように言う。
「そうだ、来週の十日なんだけどさ」
「二十五日にやる学習ボランティアのクリスマス会の準備を早めにしたくて。二人、来られる?」
「いいぞ」
俺が即答すると、上里も頷く。
「いいよ、郁実。空けとくね」
赤城はほっとしたように笑った。
その笑みが、さっきまでの重たい話題をほんの少しだけ遠ざける。
でも、完全に消えるわけじゃない。
手のひらの文字は、もう消えても。意味だけが残っている。
赤城は箸を置いて、俺と上里を見比べた。
「私、梓川くんと桜島さんにちょっと用事があって……行ってくるね」
「了解。私終わるまで待ってるね」
俺も立ち上がる準備をする。
「俺も三限、中国語あるし。ここで解散だな」
赤城は軽く手を振り、上里は「じゃまた」と笑う。
日常のやり取りの皮をかぶせて、それぞれの不安はそれぞれの胸にしまわれる。
食堂の出口へ向かいながら、俺はスマホを一度だけ握り直した。
のどかからの朝のLINEが、また画面の奥で光っている気がした。
同じ一日の中に、幸福と不穏が同居している。
三限の教室は、窓際の席に座るだけで冷える。暖房は効いているはずなのに、コートを脱ぐ気にはなれなかった。
福山が隣の席に滑り込んでくる。
「お、岸和田。昼メシどうだった」
「普通だな。……普通が一番助かる日もある」
「普通って他に感想ないのかよ」
福山はあくび混じりに言って、教科書を開く。
中国語の授業は、内容よりもこの時間がちゃんと来ることが大事みたいな顔をして、淡々と進む。
右腕のギプスが机に当たって、たまに邪魔になる。
それでも、書けないほどじゃない。でも、書こうとすると、書く前に一回余計な呼吸を挟む。そういう小さなストレスが積もっていく。
授業の途中、福山が小声で囁いた。
「それ、まだ痛いの?」
「痛いっていうか、鬱陶しいな」
「じゃあ治ってきてるな。痛いのは本当に痛いときだし」
「お前、妙に実感ある言い方するな」
「この前階段で転んだ」
「それはお前が悪い」
小声のやり取りのまま、四限のチャイムが来る。
基礎ゼミの教室へ移動すると、空気が少し違った。
いつもの面子、福山、咲太、美東さん。そこに、のどかと卯月もいる。
のどかは、椅子に座る前から俺を見つけて、小さく手を振ってきた。卯月はその横で、わざわざ指で「ギプス!」みたいなジェスチャーをして笑う。
席に着くと、背後から声がかかった。
「岸和田くん」
振り向くと、美東美織がノートを差し出していた。
トートバッグを肩にかけたまま、何でもないふうに笑う顔が、今日は少しだけ、ふてくされて見えた。
「一昨日のノート。どうぞ〜」
「ありがとう、美東さん」
「岸和田くん早く治しなよ」
「それ言われると何も返せないな」
美東さんは小さく笑って、俺の机の端にノートを置いた。
紙の匂いがする。たぶん、彼女の筆圧が残ってる匂いだ。
それを「懐かしい」と思った自分に、少し遅れて気づく。
その光景を、教室の斜め前から咲太が横目で見ていた気がした。
気がしただけかもしれない。けど、俺の中の警戒心が勝手に反応する。
基礎ゼミが始まる。
咲太は福山と一緒に受けるらしく、二人は隣同士で座っている。
俺は、のどかと卯月に挟まれる形になった。
のどかが小声で言う。
「蓮真、今日、ノート取れないでしょ」
「取れるけど、遅くなる」
「じゃあ、取ってあげる。卯月も手伝ってね」
「え、私も?よし、きっしーのために頑張る!」
卯月が余計に元気に言う。
「……ありがとな」
礼を言うのが、ちょっと悔しい。
でも、こういうときは素直に言った方が、後々まで面倒が残らない。観察者としての経験則だ。
ゼミの内容は、いつも通り、抽象的な話と現実的な課題が混ざったやつだった。
先生の話を聞きながら、のどかのペン先が走る。卯月も、たまに真面目な顔をして書いている。……たまにだけど。
俺はそれを横目に見て、思った。
日常って、こういう形をしてる。
四限が終わると、教室が一気に騒がしくなる。椅子の脚が床を擦って、笑い声が飛ぶ。
俺は立ち上がりながら、のどかに言った。
「じゃ、ケーキ買いに……」
「岸和田」
呼び止められた。
咲太だ。机に荷物を詰めながら、こっちを見ている。
「ん?」
卯月が「え、なに?」って顔で俺と咲太を見比べる。のどかは察しのいい顔をして、すでに半歩引いた。
咲太が言う。
「昼メシの時に麻衣さんから聞いたけど。今日、麻衣さんの誕生日パーティー……岸和田も来るのか?」
「行くけど」
俺が即答すると、咲太は一瞬だけ口を閉じる。
確認したかっただけって顔をしてるのに、その間が妙に長い。
「……なんか不味かったか?」
聞き返すと、咲太は目を逸らして、すぐに戻した。
「いや、別に」
その別にが、一番怪しい。
(咲太、麻衣先輩に他の男が近くにいると嫉妬するのか?)
そう思って、次の瞬間に自分で苦笑いする。
(……まあ、今日は麻衣先輩の誕生日だしな)
心の中だけで片づけておく。
わざわざ言葉にして揉めるほど、俺は空気を壊したくない。
のどかが時計を見る。
「長くなりそうだし、先に行くね、蓮真。」
卯月も、スマホを振ってくる。
「終わったら連絡してね、きっしー!」
「了解」
二人の背中が教室の出口へ消えていく。
遠征前の忙しさの中でも、ちゃんとお姉ちゃんの誕生日を優先するところが、のどかののどかさだと思った。
残ったのは俺と咲太。
咲太が声を落とした。
「あとさ。昨日、双葉と話してどうだった?」
「ああ……霧島透子の思春期症候群を治すために、しばらくは #夢見る について調べてみたら、って言われたな」
「やっぱり同じ結論だよなぁ」
咲太は小さく息を吐く。その呼吸が、俺の胸の奥の不安と同期する。
俺は思い出して言った。
「昨日、電話でお前の家に何度かかけたけど繋がらなくてさ。誰かと通話してただろ?」
咲太が、あっさり言う。
「ああ。霧島透子と話してたんだよ」
「……は?」
俺の声が、思ったより素で出た。
「どういうことだ?」
「この間、赤城の元カレの人と会ったすぐ後にさ、霧島透子に会ってさ。霧島透子に携帯の番号聞いたら、見せてきて」
咲太は、たいしたことじゃないみたいに続ける。
「電話したら繋がったんだよ」
言葉が追いつかない。
「……昨日、俺からの電話に出れなかったのも、それか?」
「ああ」
咲太は迷いなく頷いた。
つまり、霧島透子は、電話の向こうにいる。
見えないのに。
姿がないのに。
繋がる。
俺の背中に冷たいものが走る。
咲太が言った。
「だから今日、霧島透子に会いに行く。今日しか会ってくれないらしくて」
俺は反射で言い返す。
「お前が霧島透子に会いに行くのはいいけど、今日麻衣先輩の誕生日だろ。ちゃんと許可取ってんのか?」
咲太は、さらっと肩をすくめた。
「取ってるし。お詫びに午前中サボりデートしてもらったから大丈夫だ」
俺は呆れて笑う。
「お前……とんだブタ野郎だな」
咲太が、口元だけで笑った。
「ニブ野郎に言われたくはないな」
「誰がニブ野郎だ」
「自覚ないのが一番ニブだろ」
軽口の形をしているのに、会話の芯は冷たい。
今日しか会えない
それが、どれだけ嫌な匂いを持っているか。俺も咲太もわかっている。
咲太と別れたあと、俺はのどかと卯月に連絡して合流した、というわけでもなく。
結局、咲太の「今日しか会ってくれない」を聞かされたせいで、頭の中の比重が変なふうに偏ったまま、俺はその場に残っていた。
教室の片隅。人が引いていく時間の、いちばん中途半端なところ。
咲太は教室の時計を一度見て、俺のギプスに視線を落とす。
「……お前、ちゃんと追いつけんのか。ケーキ組に」
「追いつく。むしろ俺が遅いと、のどかが機嫌悪くなる」
「豊浜はそういうとこあるな」
「ある」
わかってるのに、笑えない。
今日が、麻衣先輩の誕生日で。その日に、咲太は見えない誰かに会いに行く。
ふたりとも、軽口の形でしか飲み込めないものがある。
そんなタイミングで、教室の入口側から、軽い声が飛んだ。
「梓川くん、岸和田くん、オラ」
スペイン語で「やあ」と挨拶してきたのは、美東美織だった。
教室の光に溶け込むみたいな自然な歩き方で、机に近づいてくる。
「美東、今日はひとりか?」
咲太が訊く。
「真奈美たちはサボって、遊びに行っている」
「女子だけで?」
「男子も一緒に」
「美東が迷子になって参加できなかった合コンの相手と?」
「そうです」
あっさり肯定して、わざとらしく肩をすくめる。
少しふてくされたようなニュアンスが含まれているのは、のけ者にされたからだろうか。
「それはよかったな」
咲太が言うと、美東さんは即座に返した。
「むかつくわ〜」
「だって、美東が行くと、ひとりでモテまくって、友だちに恨まれるだろ?」
「わたしって、感じ悪い女だもんね」
冗談にも本気にも聞こえる。
少なくとも、周囲からそう思われていることを、美東さん自身が自覚している言い方だった。
(……俺にはそう見えないけどなぁ)
内心でそう思ってしまう。
感じ悪いより先に、親身が来る。そういうタイプだ、美東さんは。
美東さんは、俺の顔を一瞬だけ見て、すぐに話題をひっくり返した。
「あ、それより、麻衣さん見たよ」
急に変えるなり、美東さんは机に両手をついて身を乗り出してくる。距離が近い。
その勢いに、咲太が半歩だけ身を引いた。
「三限、基礎英語で一緒だったんだけど、手元が輝いてましたなぁ」
おかしな口調になって、咲太をからかってくる。
「あれ、梓川くんからの誕生日プレゼントでしょ?」
「麻衣さんに聞かなかったのか?」
「幸せオーラが眩しすぎて聞けなかった。いいなぁ、指輪」
うっとりした顔で、美東さんが天井を仰ぐ。
俺は反射で、咲太の顔を見た。
「……咲太、お前、麻衣先輩に指輪プレゼントしたのか?」
「まあな」
「やるな、咲太」
咲太は「別に」と言いたそうな顔をする。でも、その耳の赤さは隠しきれてない。
咲太が、ふと思い出したように俺に向けて言う。
「そういえば岸和田。お前、麻衣さんと英語の授業一緒なんじゃなかったのか?」
「麻衣先輩と一緒なのは英会話の講義の方だよ。基礎英語は俺、前期に取ったから」
「じゃあ今日見たのは美東だけか」
「言い方」
咲太が一瞬、むっとする。
そのむっとが、指輪の話と繋がってるのが見えるようで、俺は心の中で肩をすくめた。
美東さんは、指輪の話をまだ引きずっている。
「わたしも、麻衣さんにプレゼントしたかった」
「美東はもらう側だろ」
「今のところくれる人いないし。だから、もらってもうれしくない?」
わかるような、わからないようなことを言って、美東さんは首を傾げる。
言いたいことはわからないでもない。
要するに、くれる相手の気持ちと、もらう自分の気持ちがあって、はじめて喜べる。
指輪という物体に意味があるわけじゃない。「この人からもらいたい」が、先にある。
「あ、ちなみに、わたしの誕生日はね」
「美東はそういうことを言うからモテるんだよ」
言葉を遮って、的確な助言を咲太はする。
「梓川くんか岸和田くんにしか、言わないって」
「そういうことを言うからモテるんだよ」
咲太が同じ台詞をもう一度重ねる。
それが、半分本気で半分焦りなのが分かってしまう。
美東さんは頬を膨らませて、咲太を睨む。
「じゃあ、男の子とは何を話せばいいですか?」
ふてくされた顔を咲太に向けてくる。まるで咲太が悪者だ。
「今日はいい天気ですね、とか?」
「それの何が面白いの?」
そこで、咲太が俺の方を見た。
「……岸和田とやりとりしてる時はどうなんだ?」
「普通じゃないか?むしろ親身な時すらある」
俺が言うと、美東さんは「うんうん」と頷いて、さらっと刺してくる。
「まあなんか、岸和田くんは放っとけないから」
「放っとけないって何だよ」
「そのまんまの意味」
言い切られて、反論の形が見つからない。
咲太は、それを横目で見ながら、何も言わないまま口を閉じた。
その沈黙の中に、言葉になってないものが混ざる。
(……何で美東は岸和田に対しては少し距離が近いんだ)
美東さんは、そんな空気を気にするでもなく、トートバッグを持ち直した。
「わたし、五限もあるから、行くね。チャオ」
小さく手を振って、美東さんは教室を出て行った。
その背中が曲がり角に消えるまで、俺たちは一度も追わなかった。
その背中を最後まで見送ることなく、咲太も俺も席を立ってリュックサックを背負った。
咲太は歩き出しながら、ぽつりと言う。
「……ケーキ、間に合うのか」
「大丈夫だよ。二人が待ってるし」
「そうか」
咲太の声が、少しだけ軽くなる。
その軽さが逆に、今日の重さを際立たせた。
指輪と誕生日と、見えない相手と今日しか会えない。
俺はギプスの重さを確かめるみたいに、肩を回してから、スマホを取り出した。
画面には、卯月からの通知が光っていた。
《きっしー!どこー?》
その軽さが、いまはありがたい。
俺は短く返す。
《今向かう。先に行っててくれ》
藤沢駅の改札を抜けた瞬間、冬の空気が頬に当たった。
人の流れの向こうで、手を振ってるのが見える。
卯月とのどか、そしてその横に花楓ちゃん。
「きっしー!遅い〜!」
卯月が大げさに頬を膨らませる。のどかはそれを横目に「別に遅くないでしょ」と言いながらも、目尻が少し柔らかい。
「ごめん。ちょっと引っかかった」
「咲太?」
のどかの一言が刺さる。俺は曖昧に笑って、話を先に進めた。
「ああ……ケーキ、買いに行くか」
花楓ちゃんが小さく頷く。
「はい。麻衣さん、喜んでくれるといいな」
四人で駅前のケーキ屋へ向かう。
ショーケースの前に立つと、色とりどりのケーキが並んでいて、冬なのに眩しい。
チョコ、モンブラン、フルーツタルト、季節限定。どれも、それぞれ理由がある顔をしていた。
「お姉ちゃん、何がいいだろ……?」
のどかが真剣な顔で悩む。
「麻衣さんって、甘すぎるのはあんまり?」
卯月も首を傾げる。
花楓ちゃんはショーケースを覗き込みながら、控えめに言った。
「……無難なのが、いいと思います」
結局、いろいろ考えた末に、いちばん誕生日っぽいところに落ち着く。
ショートケーキ。
王道で、逃げなくて、外れない。
「ショートでいいんじゃないか。今日の主役はケーキじゃなくて麻衣先輩だし」
そう言うと、のどかが「それ、かっこつけてない?」と笑って、卯月が「きっしー、たまにいいこと言う〜」と乗っかる。
花楓ちゃんは小さく「はい」と頷いた。
咲太の家の前で、紙袋の持ち手を握り直した。
花楓ちゃんが鍵を開け、扉が開く。
「お邪魔します」
俺が言うと、
「お邪魔しまーす!」
卯月が元気よく続けて、花楓ちゃんに向けて小さく会釈しながら入っていく。
のどかは、もう何度も来てるせいか、言葉もなく当たり前みたいに靴を揃えた。
その当たり前が、少しだけ羨ましい。
部屋に入ると、準備は自然に始まった。
テーブルを拭いて、皿を出して、フォークを並べて。誰も指揮を取らないのに、ちゃんと回る。
そして……
「……なすの、いた」
咲太の家の飼い猫なすのが、トコトコと現れて、迷いなく卯月の足元へ行く。
「えへへ。なすの〜!」
卯月がしゃがんで手を差し出すと、なすのは当たり前みたいに頭を擦りつけた。
「相変わらず懐いてんな」
俺が言うと、のどかが「卯月、猫に好かれる才能あるよね」と笑う。
微笑ましい。微笑ましいのに、足りない席がひとつあるのが、妙に目に入る。
インターホンが鳴った。
玄関へ向かう。のどかと一緒に。
扉が開いて、そこに立っていたのは麻衣先輩だった。
「お邪魔します」
俺は自然に背筋が伸びる。
「麻衣先輩、お誕生日おめでとうございます」
のどかが少し照れたみたいに言う。
「お姉ちゃん、誕生日おめでとう」
麻衣先輩は、少しだけ目を細めて笑った。
「ありがとう、蓮真くん。のどか」
その声だけで、部屋の温度が上がる気がした。
のどかがふと思い出した顔で言う。
「……あれ?お姉ちゃん、咲太と一緒じゃなかったの?」
麻衣先輩は、一瞬だけ視線を逸らしてから、いつもの落ち着いた声で答えた。
「咲太、どうしても外せない用事があるらしくて」
「はぁ!?」
のどかが露骨に眉を吊り上げる。
「咲太、お姉ちゃんの誕生日に何やってんのよ!」
その怒りが、妹として自然すぎて、逆に胸が痛い。
「まあ……咲太、本当に外せない用事だったらしいから」
俺がなだめるように言うと、のどかは「外せないって何よ……」と不満げに唇を尖らせつつも、怒りを飲み込んだ。
麻衣先輩は俺を見て、ほんの少しだけ困ったみたいに笑った。
部屋に入ると、卯月が待ち構えていたみたいに声を上げる。
「麻衣さん!誕生日おめでとうございます!」
花楓ちゃんも、丁寧に頭を下げる。
「誕生日おめでとうございます、麻衣さん」
「ありがとう、花楓ちゃん。広川さん」
麻衣先輩がそう返した瞬間、花楓ちゃんの視線が、麻衣先輩の右手に止まった。
右手の薬指、ハートのリング。
「麻衣さん、それ……どうしたんですか?」
花楓ちゃんの問いに、麻衣先輩は珍しく頬をわずかに赤くする。
「……咲太がプレゼントしてくれたの。二十歳のお祝いに」
「えっ、咲太やるじゃん!」
のどかの機嫌が、信じられない速度で戻る。
「お兄ちゃん、すごい……」
花楓ちゃんは驚きと呆然が混ざった顔で言う。卯月はニヤニヤして、指を組んだ。
「お兄さん、やりますな〜」
麻衣先輩は「もう」と言いながら、どこか嬉しそうだった。
咲太が来る前に、五人で一足早くケーキを食べることになった。
箱を開けると、ショートケーキの白が、部屋の光をふわっと返す。
「ねえねえ、ハッピーバースデーの歌、歌お!」
卯月が唐突に言う。
「いいじゃん、それ!」
のどかが即座に乗る。
花楓ちゃんが少しだけ身を縮めながら、俺を見る。
「……蓮真も、歌うでしょ?」
「……俺もやんなきゃダメか?」
俺が渋ると、「うん!」と、卯月とのどかが声を揃えた。
花楓ちゃんも、控えめに拳を握る。
「ちょっと恥ずかしいけど……やります!」
俺は内心で、引っかかった。
(咲太がいないのに、いいのか……)
その迷いを察したみたいに、麻衣先輩が柔らかく言った。
「私は別にいいわよ、蓮真くん」
言い切る声音が、逆に強い。
だから俺も、腹を決めた。
卯月がテンポを取るみたいに手を叩く。
「いくよー!」
俺たちは声を揃える。
ハッピー バースデー トゥー ユー
ハッピー バースデー トゥー ユー
ハッピー バースデー ディア
花楓ちゃんと卯月は「麻衣さん」、のどかは「お姉ちゃん」。
そして俺は、迷いなく「麻衣先輩」と言った。
ハッピー バースデー トゥー ユー
歌い終わると、卯月が「いえーい!」と声を上げ、なすのがびくっと耳を動かした。
麻衣先輩は少し照れたまま笑って、短く言った。
「……ありがとう」
その笑顔が、指輪より眩しいと思った。
咲太の席は、まだ空いている。
でも、今この部屋には、確かに誕生日があった。
花楓ちゃんが、ふと思い出したみたいに手を挙げた。
「……そうだ。よかったら、この間の卯月さんのソロライブ、オンデマンドで見ませんか?」
「え、見る見る!」
のどかが即答する。卯月は両手を振って、少し慌てた。
「ちょ、ちょっと恥ずかしいよ!」
「恥ずかしいって何。すごかったでしょ!」
のどかが笑いながら、卯月の肩を軽く叩く。
花楓ちゃんは自分のノートPCを抱えて、テレビの前にしゃがみ込んだ。慣れた手つきでケーブルを繋ぎ、画面を切り替える。
「……これで、映るはずです」
次の瞬間、テレビにライブ会場の映像が映った。照明の青が部屋の壁に反射して、さっきまでの誕生日の暖色に、少しだけ別の光が混ざる。
のどか、花楓ちゃん、卯月がソファに並んで座る。卯月は膝の上で手を握って、落ち着かない。
「やば……ほんとに映ってる……」
「卯月すごいよ」
のどかの声は、遠征前の忙しさを忘れたみたいに真っ直ぐだった。
花楓ちゃんが画面を見つめたまま、少しだけ前のめりに言う。
「私も今度は……生で見に行きたいです」
「行こ行こ!花楓ちゃん絶対楽しいよ!」
のどかが言うと、卯月がますます耳まで赤くして、クッションに顔を埋める。
「やめてぇ……!」
そのやり取りを、麻衣先輩がキッチンから紅茶のカップを持ってきながら、静かに見ていた。
微笑ましい、という言葉だけじゃ足りない顔。
彼女はダイニングテーブルの端、三人から少し距離のある位置に腰を下ろす。俺も自然に、その近くに座った。
画面の中では、卯月がステージ中央で歌っている。客席のペンライトが波みたいに揺れていた。
三人が完全に配信に集中した瞬間を見計らって、俺は麻衣先輩にだけ聞こえるくらいの声量に落とした。
「麻衣先輩……霧島透子のことなんですけど」
麻衣先輩が、カップに口をつける前に視線だけをこちらへ寄越す。
「蓮真くんも心配してくれるのね」
「はい」
短く返すと、麻衣先輩は息を吐くみたいに、少しだけ笑った。
「私のこと、そんな心配してくれなくてもいいわよ。咲太がいるから」
俺は即座に引かない。
「でも……麻衣先輩に何かあったら、のどかが不安がるじゃないですか」
麻衣先輩は一瞬だけ黙って、それから小さく頷いた。
「……それはそうね」
そして、紅茶の湯気越しに目を細める。
「……本当、のどかと仲がいいわね」
「……まぁ、友だちですから」
俺がそう言うと、麻衣先輩は、声をさらに小さくした。
「でも、あなたの話になると、どっちも少し表情が変わるわ」
「……どっちって?何ですか?」
麻衣先輩は、答える代わりに視線だけで返す。
「言わなくても分かるでしょ」
「………」
テレビから、卯月の歌声が流れてくる。客席の歓声。三人の呼吸。ここだけが、妙に静かだ。
麻衣先輩が、姉の顔になる。
「蓮真くん。姉として言うけど……のどかの気持ちは、そう簡単に揺れるものじゃないの」
一呼吸置いて、目を細める。
「のどか、不器用だけど。一度好きになったら真っ直ぐだから」
俺は返せない。返す言葉を探すほど、答えが浮き彫りになる気がした。
麻衣先輩は続ける。
「広川さんは、空気が読めないけど一番近くに来てしまうタイプ」
「だからこそ、二人とも、あなたの言動ひとつで、その境界を越えてしまうかもしれないの」
ふと、麻衣先輩がこちらに視線を戻す。
「のどかも広川さんも、蓮真くんのそういう曖昧な優しさに惹かれてるのよ」
「……そうなんでしょうか?」
「少なくとも、私にはそう見えるわ」
そこから先の声は、笑ってるのに、笑ってない。
「もし妹に加えて妹の友だちまで泣かせたら、私は許さないわ」
「……脅しですか」
麻衣先輩は、カップを置いて、落ち着いたまま言った。
「アドバイスよ」
少しだけ間を置いて、視線が柔らかくなる。
「私がそう思うってことは、蓮真くんを信頼してるってことでもあるわ」
麻衣先輩はふっと微笑み、紅茶を一口含む。
「咲太はね、その辺りははっきり言うの。いい意味でも悪い意味でも、わかりやすい」
「……」
「でもあなたはそうじゃないから。受け取る側は、想像以上に揺れるのよ」
ほんの少しだけ間が落ちた。
麻衣先輩は紅茶の湯気越しに、俺をまっすぐ見て言う。
「でも、あなたなら選べるでしょ」
「……選ぶ?」
「曖昧なまま優しくするか。相手に届く形を選んで優しくするか」
その声は柔らかいのに、逃げ道を塞ぐみたいに的確だった。
「……気をつけます」
俺がそう言うと、麻衣先輩は頷いた。
「そうしてちょうだい」
それから、少しだけ声の温度が戻る。
「咲太が最初からはっきり言うタイプだったから、私は好きになった。でも蓮真くんはそれとはまた違ったやり方ができるはずよ」
麻衣先輩は、こちらを見ずに、テレビの方へ視線を向けたまま言う。
「相手との距離を測りながら届く言葉を選べる……そういう人なんだから」
俺は、逃げ道を作るみたいに口角だけを上げる。
「……それ、今サラッと惚気ましたよね」
麻衣先輩は涼しい顔で返した。
「事実を言っただけよ」
その瞬間、テレビの中で曲が終わって、歓声がひときわ大きくなる。
ソファの二人が同時に拍手して、卯月が「やめてぇ!」とまた顔を隠す。
誕生日の部屋は笑っている。
なのに、俺の胸の奥だけが、少しだけ硬くなったままだった。
オンデマンドの映像が続く。
ステージの上の卯月は、画面越しでも分かるくらい堂々としているのに、ソファの卯月は落ち着きがなかった。
クッションを抱えたり、膝を抱えたり、歌声が盛り上がるたびに「ちょっと無理……」と小さく呻く。
「卯月、ほんとすごいよ」
のどかがそう言うと、卯月はますます顔を伏せる。
「やめてってばのどか……」
その様子を、俺は特に深く考えずに眺めていた。
自分のライブを改めて見るのは、誰だって気恥ずかしいだろう。
映像の中で、卯月がカメラに向かって笑う。
ソファの卯月が、ほんの一瞬だけ顔を上げる。
目が合った、気がした。
いや、たぶん気のせいだ。
俺はそう結論づけて、視線をテレビに戻す。
(まあ、そりゃ恥ずかしいよな)
それ以上の理由は、浮かびもしなかった。
その少し離れた場所で、麻衣先輩だけが、その一瞬を見ていた。
卯月の視線の行き先と、それに気づかずに画面へ戻る俺。
何も言わない。眉も動かさない。
ただ、紅茶のカップを持つ指先が、ほんの少しだけ止まった。
(……なるほど)
そう理解して、それ以上、何もしない。
のどかは素直に感動しているし、花楓ちゃんは前のめりで画面を見ている。
誰も、空気の微妙な歪みに気づいていない。
「……終わった?」
卯月が顔を上げて、ほっとしたみたいに言う。
「お疲れさま」
俺がそう返すと、卯月は小さく笑って、曖昧に頷いた。
麻衣先輩は、そのやり取りを一度だけ目で追ってから、何事もなかったようにテレビへ視線を戻した。
気づいたのは、たぶん、私だけでいい。そんな距離感で。
オンデマンド配信が終わると、テレビ画面が静止して、部屋に小さな余白が生まれた。
「……ふぅ」
卯月がクッションから顔を上げて、ようやく肩の力を抜く。
「やっぱりライブって、後から見るの恥ずかしいね……」
「でも、ほんとすごかったよ」
のどかは素直に言って、スマホを手に取った。
「せっかくだしさ、スイートバレットの他のライブも見よ!」
「いいですね!」
花楓ちゃんが頷く。
のどかがテレビの入力を切り替えて、YouTubeを開く。
検索欄に「スイートバレット」と打ち込もうとしたその時。
「あ、ちょっと待ってください」
花楓ちゃんが、画面を指さした。
「……これ」
おすすめ欄の一番上。
見慣れないサムネイルが、妙に目を引いた。
白とオレンジを基調にした、シンプルな背景。中央に、細い文字。
「I need you」霧島透子
「……新曲?」
卯月が首を傾げる。
「今日、配信されたみたい」
のどかが、投稿日を確認する。
「え、今?」
「ついさっき、ですね……」
のどかが少しだけ眉を寄せた。
「……見る?」
誰かが決めたわけじゃない。でも、誰も反対しなかった。
花楓ちゃんがマウスを動かして、再生を押す。
画面が暗転する。
次の瞬間、静かなピアノの音が流れ始めた。
ピアノの音が、部屋の空気を薄く切った。
霧島透子の声は、思ったより近い。
ライブ会場の歓声も、拍手もない。
ただ、ひとりぶんの呼吸と、言葉だけが残っている。
画面には、白い雪。
部屋の中から見ている誰かの視線。足元に擦り寄る猫。
他には誰もいない。
ベッドに寝転んだ誰かが、何かを掴むように天井へ手を伸ばす、けれど、そこには何もない。
> 君は今どこにいるの
> 誰といるの 何を思っているの
> 僕は今家にひとり
> 猫とふたり 君のことを考えて
> でも寂しくない 悲しくない 泣けてもこない
> 胸が苦しくない 痛くもない 締め付けられない だから……
そこまで聴いた瞬間だった。
インターホンが鳴った。
誰かが立ち上がるより先に、玄関の鍵が回る音がして「ただいま」と咲太の声。
玄関で足が止まる気配が、ここからでも分かった。靴の渋滞。遅れて置かれる、もう一足。
「……まさかな」
小さく呟く声が、廊下を伝って近づいてくる。
咲太はリビングの入口で、立ち尽くした。
テレビに映る雪と、耳に届く歌声。
「おかえり、咲太」
麻衣先輩が言って、俺も続ける。
「邪魔してるぞ、咲太」
のどかと卯月と花楓ちゃんは、口だけで「おかえり」と返す。
意識は完全に、画面の中。
曲が終わりに向かう。
> 聞かせてよ 聞きたくない あなたの好きな人
> 知りたいよ 知りたくない 私の好きな人
最後の音が消えて、一瞬の静寂。
花楓ちゃんは、ボリュームを落として、もう一度だけ再生ボタンに指を置いた。
そして、そのあとでようやく、咲太に向けて改めて言う。
「お兄ちゃん、おかえり」
「おかえりお兄さん!ケーキを食べに来ました」
「麻衣さんの誕生日を祝いにってのが正解だろづっきー」
「ハッピーバースデーの歌は、さっき歌ったよ」
「あたしと花楓ちゃんと蓮真も一緒にね」
のどかがそう付け足してくる。
「へぇ」
咲太が花楓ちゃんを見ると、「いいじゃん、別に」と、咲太を睨む。
咲太はそこで、俺を見る。
一拍置いて、平然とした顔で、でも妙に丁寧に聞いてきた。
「……岸和田も歌ったのか?」
「歌ったけど」
俺は肩をすくめる。
「めちゃくちゃ恥ずかったけどな。あれ、男が混ざると難易度跳ね上がるだろ」
卯月が即反応する。
「きっしー、恥ずかしかったの?」
俺は普通に頷く。
「まあ、そりゃ」
「咲太、その箱は?」
麻衣先輩が咲太の手元に視線を落とす。
「あと十五分で賞味期限が切れるモンブランです」
のどかが、咲太の持ってきた箱を覗き込んで、目を丸くした。
「あ、これ……入学式のあと、蓮真と卯月と食べに行ったモンブランじゃない?」
俺もロゴと紙箱の色を見て、記憶が一段だけ巻き戻る。
「ああ、確かにそうかもな。美味かったよな、これ」
卯月が一気にテンションを取り戻して、指先で空中に丸い形を描く。
「そうそう!上の栗クリーム、帽子みたいでかわいかったな〜」
「……なんで味じゃなくて形から入るんだよ」
俺が突っ込むと、卯月は悪びれずに笑った。
「だって、かわいいは正義!」
のどかが頷いて追撃する。
「しかも、ちゃんと美味しいやつ。最強じゃん」
咲太が、モンブランの皿を並べながらぼそっと言う。
「麻衣さんの誕生日なのに、なんか青春の思い出みたいになってんだけど」
麻衣先輩は涼しい顔でフォークを取って、淡々と言った。
「咲太が十五分モンブランなんて持ってくるからよ」
「ネーミング最悪ですよ、それ」
すでにケーキを一切れずつ食べていたはずなのに、甘いものは別腹とはよく言ったもので、のどか、卯月、花楓ちゃんの三人はモンブランをぺろりと平らげてしまった。
俺と咲太と麻衣先輩はゆっくり食べ、それから、使った食器を片付け終わったのが、夜の八時前。
「お兄さん、麻衣さん、ごちそうさまでした!」
「じゃあ、あたし、卯月を駅まで送ってくるね」
「づっきー、今日は、麻衣さん家に泊まらないのか?」
「明日、朝から広島遠征なんだ」
卯月が咲太に笑顔でピースをしてくる。
「帰って、荷物の準備をしないと」
言いながら、のどかと玄関に向かう。その後ろに、わざわざコートを羽織った花楓ちゃんがついて行く。
「私も、途中まで行ってくる。コンビニ行きたいし」
「蓮真、一緒に行く?」とのどかから軽く振られて、俺は一拍だけ置いた。
「……ちょっと待ってて」
玄関先に残っていた咲太に視線を向ける。
「咲太。霧島透子の件……今度、聞いてもいいか?」
咲太は一瞬だけ目を細めて、それから面倒くさそうに、でも誤魔化しのない声で頷く。
「ああ」
それだけで、十分だった。
「じゃあな、咲太」
「ああ」
背後で麻衣先輩の声が、静かに重なる。
「またね、蓮真くん」
「はい。麻衣先輩、また今度」
俺は会釈だけ返して、玄関を出た。
その場で霧島透子の話を掘らなかったのは、俺が観察者だからじゃない。
今日は麻衣先輩の誕生日。
この日くらいは、咲太と麻衣先輩の二人きりの時間が、ちゃんと残ってた方がいいって思っただけだ。
だから、聞くのは今度にした。
それが正しいかは、わからないけど。
夜の冷気が、コートの隙間から入ってくる。
駅へ向かう道。卯月とのどかと花楓ちゃんと並んで歩く。卯月とのどかも、明日の広島遠征のことが頭の半分を占めてるはずなのに、口から出るのは、相変わらずどうでもいい話ばかりだった。
「ねえねえ、きっしー。モンブラン、ほんとギリだったね」
卯月が笑う。
「十五分って言ってたのが、気づいたら五分になってたもんな」
「咲太、時計と戦ってたよね」
のどかがくすっと笑う。
「あ、そうだ!広島のお土産、花楓ちゃん、何がいい?リクエストして!」
花楓ちゃんは迷わず言った。
「……もみじ饅頭がいいです」
「王道!任せて!」
卯月が胸を張る。
花楓ちゃんはそれから、少しだけ声を落として言った。
「私も……時間とお金があったら、遠征ライブ、行きたいです」
のどかが横目で花楓ちゃんを見る。
「花楓ちゃん、絶対楽しいよ。いつか行こ」
俺も頷く。
「まあ遠征は、普通に金かかるからな……」
現実的な言葉が口から出た瞬間、花楓ちゃんは俺を見て、首を傾げる。
「でも、蓮真さんは……遠くに行くの、慣れてそうですよね」
「旅行好きだしな」
俺が答えると、卯月が「わかる〜」と頷き、のどかが軽く肘で俺を小突いた。
「じゃあ今度さ、どっかで……鹿野さんとか、咲太も連れ出して、みんなで遠征行けたらいいな」
「いいね!」
卯月が即答して、花楓ちゃんも小さく頷く。
そのタイミングで、花楓ちゃんが「あ、コンビニ寄ってきます」と言って、道を逸れた。
「いってらっしゃい」
のどかが手を振る。
残ったのは、俺とのどかと卯月。
駅までの道を、三人で歩く。
のどかが、何か面白い話をしている。
卯月が、笑いながら相槌を打つ。
俺も笑ってる……はずなのに、頭の片隅に、さっきの麻衣先輩の声がずっと残っていた。
「のどか、不器用だけど。一度好きになったら真っ直ぐだから」
「広川さんは、空気が読めないけど一番近くに来てしまうタイプ」
「だからこそ、二人とも、あなたの言動ひとつで、その境界を越えてしまうかもしれないの」
「のどかも広川さんも、蓮真くんのそういう曖昧な優しさに惹かれてるのよ」
言葉だけを並べれば、ただの忠告だ。
でも、麻衣先輩の目はただの忠告じゃなかった。
俺のことを見ていた。二人のことも見ていた。
見て、理解して、それでも崩さない距離で釘を刺してきた。
その意味が、今さら胸に刺さり直す。
卯月が笑う横顔。
のどかが歩幅を合わせる癖。
俺のギプスに気づくたび、二人とも当たり前みたいに手を貸そうとするところ。
(俺、なんでそれを日常って呼んで、安心してたんだ……)
のどかがこっちを見る。
「なに?蓮真、急に静か」
卯月も覗き込む。
「きっしー、眠い?大丈夫?」
心臓が、変な跳ね方をした。
俺はとっさに、いつもの逃げ道に滑り込もうとする。
「いや、別に……」
でも、その「別に」が、さっき咲太が言った「別に」と同じ匂いがして、俺は口をつぐんだ。
のどかの目は真っ直ぐで。
卯月の目は、無邪気なのに距離が近い。
(……二人のどっちが好きなんだろうな)
そんなこと、考えたこともなかった。
考えないようにしてた、の方が正しい。
麻衣先輩の言う、曖昧な優しさって、たぶん、こういうことだ。
好きになる前に、好きにさせてしまう。
境界線を引く前に、踏み越えてしまう。
俺は初めて、二人への好意を、“好き”って言葉で片づけられない熱を、自覚した。
のどかがいると、安心する。
卯月がいると、気づけば笑ってる。
同じなのに、違う。
違うのに、同じくらい近い。
のどかが、少しだけ眉を寄せた。
「蓮真?」
俺は一度だけ息を吸って、笑ってみせた。
「……なんでもない。ちょっと考えごとしてた」
卯月がすぐに笑う。
「え、なになに?お土産の悩み?」
「違う」
即答したのに、声がやけに乾いて聞こえた。
のどかが、冗談半分みたいに言う。
「ふーん。じゃあ、今度ちゃんと話してね」
卯月も、同じテンポで頷く。
「うんうん。きっしー、溜め込むと爆発しそう」
「……勝手に決めるな」
言い返しながら、胸の奥が妙に熱かった。
駅の明かりが見えてくる。
改札の向こうに、明日の遠征へ続く時間がある。
その前に、今夜がある。
そして、俺の中で、何かがもう戻れない形で動き始めていた。
十二月三日
夕方の空はもう薄い。冬の夕方は、夜に引っ張られるのが早い。
塾の受付横の時計が、十八時四十五分を指している。担当の生徒を送り出して、教室のドアを閉めた瞬間、肩の力が抜けた。
「ありがとうございましたー」
生徒の背中に手を振って、俺は講師室に戻ろうとする。
その途中、自習室のガラス越しに、見慣れた後ろ姿が見えた。
姫路紗良。
峰ヶ原の制服じゃない。丸襟のブラウンコートを着た、どこかレトロな格好。
机に顔を近づけるみたいにノートへ向かっている。ペン先が細かく動いて、止まって、また動く。
たぶん、咲太を待ってるんだろう。あいつ、今日は確かファミレスのバイトのはずだ。
俺が横を通り過ぎようとした、そのタイミングだった。
姫路さんが顔を上げる。
視線が、迷いなく俺に刺さる。
「岸和田先生」
呼び方が、ちょっとだけ距離を詰めてくる。
俺は足を止めて、ガラス越しに手を挙げた。
「どうした?」
姫路さんは椅子を小さく引いて立ち上がり、自習室の扉を開けて出てきた。
「今、授業終わりました?」
「終わった。姫路さんは……誰か待ってるのか?」
「はい、咲太せんせを待ってて。……でも、来るまでに、もうちょっとやりたいところがあって」
姫路さんは、言いながら視線を上げる。わざとらしくないのに、逃げ道がない目。
「岸和田先生、ちょっとだけ、教えてもらえませんか?」
断りにくい言い方を、わざわざ選んでくる。
俺は一拍だけ置いて、頷いた。
「いいよ。峰ヶ原の範囲なら、俺も分かる」
姫路さんの目が、ほんの少しだけ明るくなる。
「峰ヶ原、母校なんですよね」
「そう。出題のクセとか、だいたい覚えてる」
それは本当だった。
峰ヶ原の中間・期末は、問題文の言い回しに癖がある。基礎を落とすと点にならないくせに、妙に引っかけが多い。真面目にやってる子ほど引っかかる。
姫路さんを連れて自習室へ戻り、向かいの席に座る。机の上には英語の問題集と、数学のプリントが重なっていた。
「どこが詰まってる?」
「ここです」
姫路さんは迷いなくページを開く。英語の長文。
「この文の itが、何を指してるのか分かんなくて」
「指示語か。じゃあ前の文を見よう」
俺がそう言って指でなぞると、姫路さんはペン先を止めて、俺の指の動きをじっと見た。
……見られてる感が強い。
教えにくいわけじゃない。けど、変に意識させられる。
「これ、主語は?」
「えっと…… the decision”です」
「そう。で、次の文の itは、その decisionを受けてる」
「なるほど」
姫路さんは頷いて、書き込む。
ちゃんと理解が早い。優等生と聞いているだけある。
それなのに、姫路さんは時々、問題より俺を見ている。
見ている、というより、探ってる。
「岸和田先生って」
姫路さんが唐突に言う。
「優しいですよね」
俺はペンを止めずに返す。
「普通だよ」
「ふーん。普通って便利ですね」
声に笑いが混ざってる。
姫路さんは、ペン先を指でくるりと回しながら、何でもないみたいに続けた。
「先生って、線引きが上手そうですよね」
俺は一瞬だけ、息を止めた。
「……急に何だよ」
「なんとなく。優しい人って、線を引くのも上手いのかなって思って」
俺は顔を上げて、姫路さんを見る。
「何が言いたい?」
姫路さんは、わざとらしく首を傾げた。
「別に、なんでもないですよ?」
その言い方が、昨日の咲太の「別に」と同じ匂いがして、俺の胸が少しだけ硬くなる。
(……やめろ、そういうの)
俺は問題集に視線を戻す。
「次。ここ、選択肢の罠だ」
「岸和田先生、話逸らすの上手い」
「勉強教えてるんだよ」
姫路さんは小さく笑う。
その笑い方が、子どもっぽいのに、どこか大人びている。人の反応を見て、微調整してる笑いだ。
俺は教えながら、少しだけ警戒していた。
この子、俺のことを試してる。
何を?
どういう意図で?
分からない。
分からないから、余計に嫌な予感がする。
しばらく英語を潰して、数学に移る。
姫路さんは式を書きながら、わざとらしく言った。
「岸和田先生って、今、悩みとかあります?」
「……急に何だよ」
「なんとなくです。先生って、頭の中にいろいろ抱えてそう」
「抱えてない」
俺は即答した。
即答しすぎた。
姫路さんの口角が、ほんの少しだけ上がる。
「へぇ。即答なんだ」
(……この子)
俺はペンを机に置く。
「姫路さん、勉強する気ある?」
「ありますよ。すごく」
姫路さんはあっさり頷いて、でも、目だけが笑ってない。
空気が、薄くなる。
そのタイミングで、姫路さんがぽつりと話題を変えた。
「そういえば」
「咲太せんせって、本当にスマホ持ってないんですか?」
俺は目を瞬いた。
「……ああ。持ってないけど」
「なんで知ってるんだ?」
姫路さんは、さらっと言う。
「朋絵先輩にさっきLINEで聞きました」
なるほどな、って納得してしまう自分がいる。
古賀は情報のハブだ。悪意はないけど、繋がりが多すぎる。
「それで?」
俺が促すと、姫路さんは椅子の背に少しだけ寄りかかって、言った。
「岸和田先生、もしかして」
「咲太せんせの家の電話番号なら知ってますか?」
心臓が、変な跳ね方をした。
(……何でそれを、俺に聞く)
俺は一瞬、答えを迷って。
迷った時点で、負けだった。
「知らないよ」
嘘をついた。
その嘘の形が、自分でも分かるくらい雑だった。
姫路さんは、瞬きひとつせずに俺を見た。
「へぇ〜」
声が甘い。甘いのに、刃がある。
「そうなんですね」
見透かされた。
確信があった。
俺は視線を落として、問題に戻るふりをした。
「……続きやるぞ」
姫路さんは何も言わずに、ペンを動かし始めた。
それが逆に怖い。
この子は、引いたんじゃない。溜めたんだ。
夜の九時すぎまで、俺は姫路さんの自習に付き合った。
数学、英語、最後に国語。峰ヶ原の傾向はやっぱり峰ヶ原で、説明する側も気が楽だった。けど、姫路さんの視線だけは、最後まで気楽にさせてくれない。
九時を過ぎたころ、姫路さんが鞄を閉じる。
「ありがとうございました」
礼儀はちゃんとしている。
そのまま席を立つかと思ったら、姫路さんは鞄を机の脇に置いた。
「……あ、私、咲太せんせと用事があるので」
そう言って、軽い足取りで自習室を出る。
階段の方へ向かって、下に降りていく気配。
残されたのは、机の上のノートと、姫路さんの鞄。
俺は、椅子に座ったまま、背もたれに体重を預けた。
(……姫路さん)
咲太と一緒にいる時間を増やしたいのか?
そういう単純な話にも見える。
でも、さっきの質問の仕方は、単純じゃない。
スマホの件を確認し、家電の番号に繋げようとして、俺の反応を確かめた。
俺の嘘も、すぐに見抜いた。
そして、今、鞄を置いていった。
まるで、戻ってくる前提みたいに。
俺は、ふとこの間のことを思い出す。
#夢見る。
あの中で、姫路さんと咲太が一緒に出てきた。
ただの偶然で片づけるには、引っかかりが増えていく。
(……何か関係してる)
俺は鞄に触れないまま、机の端を指で軽く叩いた。
冬の塾は、空調が効いてるはずなのに、どこか冷たい。
静かな自習室の中で、俺は自分に言い聞かせる。
(警戒しなきゃな……)
姫路紗良は、ただの生徒じゃない。
そう結論づけた瞬間、自習室のドアが、もう一度だけ開く音がした。
物語解説
今回の物語では、麻衣の誕生日という祝福の日と、霧島透子という見えない存在を同じ時間軸に重ねながら、日常の温度が少しずつ変質していく過程を描きました。
藤沢のケーキ屋、咲太の家のリビング、駅までの帰り道。どれも平凡で、どれも穏やかで、だからこそ、祝い事のはずの一日が、蓮真の中では安心と不穏を同居させたまま進んでいきます。
学食の場面で郁実が語った手のひらのメッセージは、すでに消えているのに、意味だけが残り続ける種類の怖さでした。向こうの世界と繋がらなくなったことは「完治」なのか、それとも「取り残された」だけなのか。
郁実の揺れを受け止めながら、蓮真が口にした「できる範囲で」という言葉の便利さは、彼自身の逃げ道でもあり、境界線でもあります。
咲太の家の場面では、のどか、卯月、花楓が同じ方向を向いて笑っている一方で、麻衣だけが境界の揺れを静かに見抜いています。
蓮真の曖昧な優しさが、好きになる前に好きにさせてしまうこと。のどかの真っ直ぐさと、卯月の距離の近さが、同じ場所で同時に存在してしまうこと。麻衣の忠告は、脅しではなく、姉としての現実的な警告であり、同時に蓮真への信頼でもありました。
そして姫路紗良のパートで描いたのは、“見透かされる”ことの種類の違いです。
のどかと卯月に対して蓮真が抱いた揺らぎは、温度のある罪悪感と、名前をつけられない好意でした。けれど紗良の視線は、その揺らぎを言葉にする前に、逃げ道ごと塞いでくる。質問の仕方、間の取り方、嘘の雑さを見抜く早さは、蓮真の輪郭を確かめるための針として機能しています。
境界線は、誰かを守るために引くものでもあるのに、引いた瞬間に越えたい側が生まれてしまう。今回の揺れは、恋の揺れでもあり、思春期症候群の予兆でもあり、そして何より、蓮真が観察者でいることで保ってきた均衡の揺れでした。
この揺らぎがどこへ向かうのか、引き続き見届けていただけたら嬉しいです。
次回もぜひお楽しみください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月