青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十二月三日
夜の九時半を迎えても、塾の中は煌々と明かりが灯っていた。
学校では考えられないが、塾としてはこれが日常だ。
とは言え、土曜日の今日は幾分人の気配が少ない。
「もう授業はやってないな」
講師室を出て、咲太は教室の様子を一度だけ確かめる。
廊下の向こう、自習室の灯りもいくつか落ちていて、残っているのは本気組か、帰るタイミングを逃した連中くらいだろう。
「私、鞄取ってくるので、そっちで待っててください」
紗良がそう言って、自習室の方へ足早に向かう。
その頃、俺は自習室で軽く息を吐いていた。
実は俺も、ここに残る理由があった。
霧島透子。
咲太に聞きたいことがある。
だから、姫路さんが鞄を取りに行くタイミングで、俺も一緒に教室へ向かった。
咲太は言われた通り、先に教室に入っていた。
ホワイトボードの前に立って、腕を組み、誰もいない教室を見渡している。
その姿を見て、俺は一瞬だけ足を止めた。
(話すなら、この後だな)
そう思ったところで、教室の扉を開ける。
「……岸和田?」
咲太が振り返って、少し意外そうに言う。
「いたのか」
「ああ。さっきまで、姫路さんの期末試験の勉強、見てたんだよ」
姫路さんが当然のように頷く。
「そうです。岸和田先生、かなり頼りになりますよ」
「それはどうも」
小さく返すと、姫路さんはくすっと笑った。
姫路さんは自然と長机の椅子を引いて座る。
位置関係は、咲太が授業をする時とまったく同じだ。
そして、咲太に耳打ちするみたいに、少し身を乗り出す。
「誰もいないと、ドキドキしますね」
声のトーンが、意図的に落とされる。
すぐに、付け足すように言った。
「……まぁ、岸和田先生がいるんですけどね」
「いるけど」
俺は肩をすくめる。
普段なら、生徒の質問の声や、講師の解説が隣や向かいから聞こえてくる。
それが一切ない。
この静けさは、確かに新鮮だった。
「期末試験で、わからない問題でもあったか?」
咲太が、教師の声で訊く。
「試験はバッチリです。咲太せんせの試験対策、見事的中でした」
「それは、山田くんの結果にも希望が持てそうだな」
「だといいですね!」
山田くんと同じクラスだという姫路さんは、何か知っているのか、おかしそうに笑っていた。
「んで、試験のことじゃないなら……」
視線に疑問を乗せて、咲太は姫路さんを見る。
その目を、姫路さんはじっと見つめ返した。
間が、一拍だけ落ちる。
その沈黙を破ったのは、姫路さんだった。
視線を俺に向けたまま、少しだけ困ったように笑う。
「……岸和田先生」
「ん?」
呼ばれて、俺は顔を上げる。
姫路さんは一瞬だけ言葉を探す素振りをしてから、丁寧に続けた。
「申し訳ないんですけど……少しだけ、席を外してもらってもいいですか?」
あまりに自然な言い方だった。
理由を説明しないところも含めて。
俺は一拍だけ置いてから、軽く頷く。
「ああ、いいけど」
椅子から立ち上がりながら、付け足す。
「悪いな」
「いえ。ありがとうございます」
姫路さんは礼儀正しく頭を下げる。その仕草に、さっきまでの軽さはない。
俺はそのまま教室の出口へ向かった。
扉を閉める直前、ちらりと振り返る。
咲太は何も言わず、腕を組んだまま立っている。
姫路さんは、さっきより少しだけ背筋を伸ばして、彼を見上げていた。
(……咲太と、何の話をするつもりなんだ)
そんな疑問が、胸の奥で小さく引っかかる。
けれど、俺はそれ以上踏み込まない。
踏み込まないのは、癖だ。
必要なら呼ばれるし、必要じゃないなら、ここにいる理由はない。
廊下に出ると、塾の空気が少しだけ冷たく感じた。
自習室の方から、紙をめくる音と、誰かの咳払いが聞こえる。
俺は壁際に寄って、腕を組む。
ギプスの感触が、やけに現実的だった。
(……霧島透子の件、聞くつもりだったんだけどな)
タイミングが悪いとは思わない。
ただ、今日はこういう日らしい。
人が一歩引いたところで、何かが動き出す日。
教室の中から、かすかに声が聞こえた。
内容までは分からない。
でも、姫路さんの声色が、さっきまでと違うのだけは分かった。
「咲太せんせ……#夢見るって、知ってますよね?」
「最近、よく聞くな」
「それで、私……今朝、おかしな夢を見たんです」
「なるほど。おかしな夢ね」
「クリスマスイブの夢だったんですけど……」
「うん」
「一緒にいるのが、咲太せんせで……」
「………」
「たぶん、デートをしてたんだと思います」
教室の空気が、わずかに変わる。
咲太が、少し考えるように言う。
「そんで、僕と姫路さんが江ノ電の中で、指切りをしたりしてた、とか?」
「え……?」
「極楽寺のあたりで」
「え!?」
紗良の目が、はっきりと見開かれた。
驚きが、演技じゃないのが分かる。
「……もしかして、咲太せんせも?」
その問いは、確認というより、確信に近かった。
「見たよ。たぶん、同じ日の夢を」
「嘘……こんなことって、あるんですか?」
声が弾む。
不安よりも、好奇心が前に出ている。
「あるんだろうな。実際に起きてるんだし」
「ひとつ確認だけどさ」
「思春期症候群のことですか?」
「そう。あれ、本当なのか?治さないって約束がどうとか言ってたけど」
「はい、本当です。私、思春期症候群なんです」
紗良はからっとした笑顔で、あまりにもあっさり認めた。
そこに、後ろめたさや、戸惑いはまるで感じられない。困っているようにはまるで見えなかった。
「どんな思春期症候群なんだ?」
「それは秘密です」
同じテンションのまま、今度は拒否されてしまう。
「いつから?」
「GWが明けた朝です」
これには答えが返ってきた。しかも、やけに正確に。
今はもう十二月。半年以上前のことなのに、紗良がはっきり覚えているのは、それだけ印象深い出来事だったからだろう。
「その頃、嫌なことでもあった?」
「失恋しました」
今度もまた、紗良は咲太の質問に答えた。その表情はあっさりしたものだ。
「あ、付き合っていた人に振られたとか、告白して振られたとかではないんですけど」
「好きになったその人には、他に好きな人がいたパターンか」
「でも、今はもうあんまり悩んでるようには見えないけど?」
「はい。もう平気です」
紗良の表情に嘘はない。無理をしている様子もなかった。自分の意見がはっきりしている。
「思春期症候群のおかげで吹っ切れました」
「今は毎日が楽しいんです。だから、夢の中でも言ってましたけど……咲太せんせ、私の思春期症候群を治さないでくださいね」
「僕って、そんなおかしな病気を治せる医者に見えるか?」
「全然、見えません」
紗良が声に出して遠慮なく笑う。
「夢の中の私は、どうしてあんなこと言ってたんだと思いますか?」
「さあ」
「あ、それでこのことは、ふたりだけの秘密でお願いします」
思い出したように、紗良が約束を迫ってくる。
「このことって?」
「わかっているのに、聞き返さないでください。もちろん、私が思春期症候群だってことです」
「誰にも言わないよ」
「本当ですか?」
笑顔をしまった紗良が真剣な表情で見上げてくる。
「言わない。言ったところで誰も信じない。僕の頭がおかしいと思われるだけだから」
納得するだけの理由を咲太が重ねると、紗良は「それもそうですね」と微笑んだ。
「だいたい、どんな思春期症候群かわからないと、誰かに面白おかしく話すことはできない
しな」
遠回しに改めて聞いてみる。どんな思春期症候群なのだろうか。
「気になりますか?」
紗良は咲太の言葉の意図をきちんと汲んでくれた。
「まあ、僕に害がないなら、そこまで気にはならないんだけど」
「咲太せんせは、もっと教え子に興味を持ってください」
「でも、教えてくれないんだろ?」
「じゃあ、私からの宿題にします。どんな思春期症候群なのか、考えてきてください」
「宿題、嫌いなんだよなぁ」
「期末が終わったら、ちゃんと提出してくださいね」
「やったら、何かご褒美もらえるのか?」
「そうですね……正解してたら、咲太せんせのお願いをひとつ聞いてあげます」
考えるような仕草のあとで、紗良はからかうような笑顔を向けてきた。
「それは楽しみだな」
「エッチなのはダメですよ」
紗良が声に出して笑う。それを促すように、紗良の鞄のポケットの中でスマホが震えた。
「あ、もうこんな時間」
時計は夜の十時になろうとしていた。
「駅にお母さんが迎えに来ているので先に帰ります」
慌てた様子で席を立った紗良は、母親からの電話に出ながら鞄を肩にかける。
「あ、お母さん、ごめん。まだ塾。すぐ行くから」
要件だけを一方的に伝えて、紗良が電話を切る。教室を出て行く際に、一度だけ咲太を振り返った。
「宿題、忘れないでくださいね」
さわやかな笑顔で念を押してくる。
咲太が嫌そうな顔をすると、それに満足したように笑って、細い通路を小走りで帰っていった。
「廊下は走らないようにな」
一度、背中に声をかけたが、紗良の姿は言っている途中で見えなくなった。
「.......」
教室に残ったのは、咲太ひとり。
ホワイトボードの白が、やけに眩しい。
椅子の背に軽くもたれながら、咲太は小さく息を吐いた。
思春期症候群。
夢。
同じ日、同じ情景。
偶然にしては、出来すぎている。
そこへ、教室の扉が控えめにノックされた。
「……いいか?」
聞き慣れた声に、咲太は顔を上げる。
「岸和田か」
扉を開けて入ってきた蓮真は、廊下の冷気をまだ肩に残したまま、ゆっくりと教室に入ってきた。
「終わったみたいだな」
「ああ。今、帰った」
短いやりとり。
俺は、何も聞かずに一歩近づく。
聞かなくても、空気で分かる。
何かが確実に、起きている。
「……で?」
咲太が促すように言う。
「外してもらった理由、だいたい察しはついてるよ」
俺は腕を組み、視線を落としたまま続けた。
「同じ夢、また見たんだろ」
咲太は一瞬だけ目を細め、それから隠すのをやめた。
「見た」
即答だった。
「姫路さんも?」
「同じ日、同じ場所」
「……やっぱりな」
俺は、ため息ともつかない呼吸をひとつ吐いた。
「#夢見る、だよな」
言葉にした瞬間、教室の空気がわずかに張り詰める。
「赤城の件、霧島透子の件、姫路さん」
指で順番をなぞるみたいに、俺は続けた。
「個別の問題に見せかけて、全部、同じ方向を向いてる」
「方向?」
「夢が、共有され始めてる」
断定だった。
咲太は何も否定しない。
否定できる材料が、もうなかった。
咲太が、短く言った」
「姫路さん、夢の中で僕に言ったんだ。『私の思春期症候群を治さないって約束です』って」
その言い方は淡々としていたのに、言葉だけが妙に重かった。
「……姫路さん、思春期症候群に罹ってるのか?」
俺が訊くと、咲太は頷く。
「ああ。今年のGW明けかららしい」
「GW明け……」
その瞬間、記憶が勝手に引っ張り出された。
六月の頭、この塾で、俺が初めて講義をした日の帰り。
廊下の角。
姫路さんとすれ違った、ほんの一瞬。
空気が、微かに揺れたように感じた。
遠くの音が、薄くかすむ。
耳が塞がれたわけじゃない。ただ、世界の輪郭が一拍だけ曖昧になった。
次の瞬間には元に戻っていて、俺は気のせいだと片付けた。
けれど、胸の奥にだけ、ざらつきみたいな引っかかりが残った。
(……あれが)
(姫路さんの思春期症候群だったのか)
内心で、腑に落ちる。
気のせいで済ませるには、あの感覚は、俺には馴染みすぎていた。
「……で、治すなって?」
俺が言うと、咲太は肩をすくめる。
「本人がそう言ってる。しかも、困ってない顔でな」
「思春期症候群を都合のいいものとして扱い始めると、面倒になる」
口にしてから、自分の声が少しだけ低くなっているのに気づく。
咲太は、それを見逃さない。
「お前、何か心当たりある顔だな」
「あるよ」
短く返す。
「GW明けって聞いた瞬間に、思い出した」
俺は教室の隅、窓の外の闇に視線を投げたまま続けた。
「この塾で初めて講義した帰り。廊下の角ですれ違ったとき、空気が揺れた」
「揺れた?」
「ほんの一瞬、遠くの音がかすんだ。すぐ戻ったけど、変なざらつきが残った」
咲太は黙って聞いている。
否定もしないし、驚きもしない。
驚くほど、もう普通じゃない出来事に慣れている。
「……あれが、姫路さんだったんだな」
俺が結論を置くと、咲太は小さく息を吐いた。
「#夢見る」
咲太が、確認するみたいに呟く。
「だな」
俺は頷く。
「偶然じゃない。たぶん、こっちから触ってもいないのに、向こうから染み出してきてる」
「夢が共有されるだけなら、まだマシなんだけどな」
咲太の声が、わずかに固くなる。
俺も同じことを思っていた。
「……その現象ってさ」
咲太が、少し考えるように言った。
「他人の思春期症候群に触れたら、起こるものなのか?」
俺は一拍だけ置いてから、頷く。
「ああ」
短く肯定すると、咲太は眉を寄せた。
「どうして、そんなことが起きてる?」
教室の静けさが、その問いをやけに大きく響かせる。
俺は、すぐには答えなかった。
頭の中では、もう理由はわかっている。
中学の頃。
終わらなかったループ。
机に広げたノートと、閉じられなかった未来。
自殺未遂までして、無理やり抑え込んだ思春期症候群。
それが、いまも体の奥に残っている。
後遺症みたいに。
でも。
(……まだ、話せない)
咲太にすら。
俺は視線を逸らして、正直な嘘を選んだ。
「俺にも、よくわからない」
咲太の視線を感じながら、続ける。
「ただ、最近はさ。誰も思春期症候群に罹ってないはずなのに、この感覚になることがある」
「罹ってないのに?」
「ああ」
俺は小さく息を吐いた。
「だから、誰が今、どんな思春期症候群に罹ってるのか……正直、俺には判別できない」
「姫路さんのことも?」
「もちろん」
言い切る。
あのとき感じた揺れが、姫路さん個人だったのか。
それとも、もっと広く、薄く拡散した何かだったのか。
その区別が、もう曖昧になっている。
咲太は腕を組み、しばらく黙ったまま天井を見上げた。
それから、ぽつりと言う。
「……それ、霧島透子の言葉と繋がるな」
「どの?」
「『一千万人分の思春期症候群をプレゼントした』ってやつ」
その言葉が出た瞬間、俺の中で何かが静かに噛み合った。
「ああ……」
声が、自然と低くなる。
「やっぱりか」
「やっぱり?」
「特定の誰か、じゃなくなってる」
俺はゆっくりと言葉を並べた。
「空気みたいに、薄く広がってる。触れたって自覚すらないまま、影響だけが残る」
「夢が共有されるのも、その一部か」
「たぶん」
俺は頷く。
「だから俺は、誰が今どんな思春期症候群に罹ってるか、もう断言できない」
一度、言葉を切る。
「姫路さんも、……霧島透子自身も」
教室の白い壁が、妙に遠く感じた。
世界の輪郭が、じわじわと溶け始めている。
個人の問題だったはずの思春期症候群が、いつの間にか、共有される前提に変わってしまっている。
咲太が、低い声で言った。
「……厄介だな」
「厄介だよ」
俺は苦笑する。
「踏み込めば踏み込むほど、誰かのものじゃなくなる」
そして、心の中で続けた。
(だからこそ、観察するしかない)
まだ、俺には。
踏み込む覚悟よりも、見届ける癖の方が強い。
教室の外は、もう完全な夜だった。
塾の蛍光灯が、世界を繋ぎ止めているみたいに、無機質に光っている。
その光の下で、俺たちはしばらく、黙ったまま立ち尽くしていた。
「......とりあえず、帰るか」
ここにいても何の解決にもならない。それだけは、はっきりわかっている。
俺たちはゆっくり歩いて職員室前のフリースペースに戻った。
カウンター越しの職員室では、塾の講師がまだ何やら作業をしている。仕事の邪魔をしては悪いので、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、「お先に失礼します」と声をかけて俺たちは塾を出た。
ビルのエレベーターのボタンを押す。すでに上昇中だったため、十秒と待たずに五階まで俺たちを迎えに来てくれた。
小さなベルを鳴らし、ドアが開く。
「っ!?」
中から聞こえてきたのは、驚きを呑み込もうとする息遣い。
「なんで、双葉がいるんだ?」
エレベーターに乗っていたのは双葉だった。
「私は……昨日忘れ物をして」
言い訳するように理由を話して、双葉がエレベーターから降りてくる。
「珍しいな」
「梓川も岸和田も、なんでいるの?」
「いちゃまずかったのか?」
「……まずかったなら降りるけど?」
双葉の言葉と態度には、俺たちを咎めるような雰囲気がある。
「僕はちょっと色々あって。でも、まあ、双葉に会えて丁度よかった。相談したいことがある。このあといいか?」
時間もだいぶ遅いが、ここで双葉を捕まえられたのは幸運だ。
「じゃあ、待ってて。私も……梓川に相談したいことあるから」
それもまた、双葉の口から聞くのは珍しい言葉だった。
すぐにロッカーから戻ってきた双葉の手には、先ほどまでは持っていなかったグレーのコートがかけられていた。
「忘れ物ってそれか?」
「そう」
エレベーターの前で、双葉が俺を見る。
視線は鋭いけど、敵意じゃない。
情報を整理しようとする時の、あの顔だ。
「それで、岸和田は、何の用事?」
「俺も、色々あってな」
咲太と、ほとんど同じ言い方になる。
双葉は眉をひそめる。
「……色々ね」
納得してないのは明らかだけど、そこは追及しない。
代わりに、確認するように続けた。
「つまり、梓川と同じ話?」
「ああ」
俺は短く頷く。
「同じ相談だ」
その返答で、双葉は一瞬だけ考える。
「……岸和田も、来るの?」
声のトーンが、ほんの少しだけ変わった。
拒絶じゃない。ただ、想定外だったという響き。
俺は一瞬だけ言葉を探してから、正直に答える。
「ああ……咲太と同じ相談だから」
双葉は、ふっと小さく息を吐いた。
「そう」
それだけ言って、歩き出す。
エレベーターの扉が閉まる。
下降を知らせる振動が、足元から伝わってくる。
狭い箱の中で、三人分の沈黙が落ちる。
双葉が、腕を組んだままぽつりと言った。
「……どうせ、#夢見るとか、その辺でしょ」
俺と咲太は、同時に息を止めた。
そして、同時に苦笑する。
「察しがいいな」
咲太が言う。
双葉はちらりと俺を見る。
「岸和田」
「ん?」
「岸和田も絡んでるってことは、普通じゃ済まない話だよね」
淡々とした声。
でも、その奥に警戒と覚悟が混じっているのが分かる。
俺は肩をすくめた。
「期待しない方がいい」
「期待してない」
即答だった。
「ただ、覚悟はしてる」
その言葉に、エレベーターのランプが一階を示す。
到着のベルが鳴る。
ドアが開く直前、双葉が小さく付け足した。
「三人で話すなら、長くなりそうだね」
俺は、内心で同意する。
赤城。
霧島透子。
姫路紗良。
そして、#夢見る。
もう、点では済まない。
ドアが開く。
夜の冷たい空気が、現実みたいに流れ込んできた。
この先の話は、たぶん、もう引き返せないところまで来ている。
塾を出ると、俺たちは駅の南側に足を向けた。
入ったのは江ノ電の線路沿いを少し歩いたところにあるハンバーガーカフェ。アルコールの提供もする店内では、二組の先客が陽気な笑い声を上げていた。
腹が減っていた俺と咲太は、店自慢のハンバーガーを注文。ほどなくしてプレートに載せられたボリューム満点のハンバーガーが運ばれてきた。カフェラテだけを頼んだ双葉の前で、豪快にかぶりつく。
双葉の目は「よくこんな時間にそんなカロリーの高いもの食べるね」と呆れていた。
ハンバーガーを食べ終わったところで、咲太はフライドポテトをかじりつつ、俺はオニオンフライを食べつつ、咲太は双葉に、今日までの出来事を話した。
霧島透子がクリスマスイブにピッタリな新曲として、「I need you」をアップしたこと。
咲太が夢を見て、その夢で姫路紗良と一緒だったこと。
彼女が思春期症候群だと言っていたこと。
さっきまで咲太が姫路さんと会っていて、それが事実だと確認したこと。
そして……
「岸和田が、他人の思春期症候群を感知できるって話も、したんだろ?」
咲太がポテトを咥えたまま、横から補足する。
言い方は軽いのに、内容は軽くない。
双葉のカフェラテの氷が、からんと鳴った。
「……感知?」
双葉が、俺の方を見る。
さっきまでの呆れの目じゃない。
観察者の目だ。
「どういう仕組み?」
「仕組みは知らない」
俺はオニオンフライをひとつ口に放り込んでから答える。
油の熱が、喉の奥を通って、言葉を選ぶ時間をくれた。
「でも、触れたってわかる時がある。空気が揺れるみたいに」
「揺れる……」
双葉が小さく眉を寄せる。
「それ、どれくらいの頻度で?」
「一定じゃない」
俺は正直に言う。
「相手が強い時は分かりやすいし、薄い時は分からない。最近は、分かるのに“誰の”かが分からないこともある」
双葉はストローを口に運びかけて、止めた。
「……曖昧になってるってこと?」
「ああ」
咲太が、俺の代わりに言葉を継ぐ。
「霧島透子が言ってたろ。『一千万人分の思春期症候群をプレゼントした』って」
そのフレーズが店内の陽気な笑い声に混ざると、妙に浮いた。
双葉は顔色を変えない。
変えないまま、視線だけを鋭くする。
「……それが事実なら、岸和田の感知がノイズまみれになるのも、筋は通る」
俺は頷く。
「だから、姫路さんのことも確定じゃない。だけど……」
言いかけて、言葉を切る。
確定じゃないのに、確信に近いものがある。
六月のあの廊下の角。
ほんの一瞬、遠くの音が薄くなる感覚。
あれは、気のせいにしちゃいけないやつだった。
「……でも、姫路さん本人が思春期症候群だって言ってる」
咲太が淡々と言って、紙ナプキンで指を拭く。
「しかも、治さないでって条件つき」
双葉は、ゆっくり息を吐いた。
「治さないで、ね」
「厄介だろ」
俺が言うと、双葉は首を横に振らない。
否定できないって顔だ。
店内の笑い声が遠のいて、代わりに俺たちの会話だけが妙にくっきりする。
双葉はストローを回しながら、目線だけで咲太を促した。
「で。姫路紗良は、思春期症候群だって言ったんだよね?」
「ああ。本人の口からな」
咲太の返事に、双葉は小さく頷く。そこまでは、さっき聞いた情報の確認だ。
「……で、秘密にしてって言われた?」
「言われた」
咲太は悪びれずに答える。
双葉の視線が、今度は俺に向いた。
「岸和田は、聞いてた?」
「俺は外されてた」
言いながら、俺はオニオンリングの残骸を紙で寄せた。自分で選んだ距離のはずなのに、こういう時だけ、癪に障る。
双葉はまた咲太を見る。
「で、その秘密を、ここで私に共有してるわけだ」
咲太は肩をすくめた。
「共有って言い方がいやらしいな」
「いやらしいのは梓川の性格でしょ」
即答だった。
「梓川は早速約束を破って、彼女の秘密を私に話したんだ」と、双葉はため息交じりにもらした。
「僕って嘘つきらしいからな」
「それは知ってる」
「で、どう思う?」
「とりあえず、梓川が見た夢のおかげで、桜島先輩が危ないっていうメッセージの答えは出
たんじゃない?」
「そうか?」
「梓川の浮気が原因で、桜島先輩にぶすっと刺されるって意味でしょ」
「……確かに、それも『麻衣さんが危ない』だな」
そのやり取りを聞きながら、俺は内心で即座に首を振った。
(……それは、まあ、ないな)
咲太がそういうことを麻衣先輩からされる未来は、さすがに想像しづらい。
少なくとも、今回のメッセージがそれを指しているようには思えなかった。
それに、それだと「霧島透子を探せ」が繋がらない。
「冗談はさておきだ」
「梓川の場合、冗談とも言い切れないと思うけど」
双葉は本気のトーンだ。
「麻衣さんとのお泊まりデートをキャンセルして、僕が姫路さんとデートをすると思うか?」
「ただのデートなら絶対にしないだろうね」
「だろ?」
「でも、彼女の思春期症候群を治すためなら話は変わってくると思う」
「姫路さんの思春期症候群が、麻衣さんを危険に晒すかもしれない場合はな」
その言葉に、俺は今度こそ考え込む。
(……確かに)
姫路さん自身に害がなくても、その症状が他人、ましてや麻衣先輩に影響を及ぼすなら、話は別だ。
「桜島先輩のことがなくても、梓川はそうしそうな気もするけどね」
「こっちに害がないなら、放っておく気満々だよ。本人が治さないでくれって言ってるんだ
し」
確かに、現状維持を姫路さんが望んでいるのなら、咲太がしゃしゃり出る幕ではない。
「だったら、彼女の思春期症候群が有害か無害かを判断するために、梓川は出された宿題をやるしかないんじゃない?例のメッセージに関係している可能性がある以上は」
「まあ、そうなんだよな」
それがわかれば、次の手に進める。
それがわからないから、宿題をやるしかない。
「宿題ね」
咲太は嫌々その言葉を口にする。
俺はテーブルの上に視線を落としたまま、少しだけ考えた。
姫路紗良。
夢の共有。
治さないでほしいと願う、思春期症候群。
(……何か、ある)
そう思った瞬間、自然と口が開いていた。
「……姫路さんの思春期症候群が何なのか、俺も一緒に考えてみるよ」
咲太がこちらを見る。
一瞬だけ迷うような間があって、それから短く頷いた。
「ああ。頼む」
それだけだったけど、その一言には、俺に任せるという意味がきちんと含まれていた。
「自分で問題を解くのが嫌なら、カンニングでもすれば?」
双葉が不謹慎な提案をしてくる。
「どうやって?」
「姫路紗良の他にもうひとりいるでしょ?答えを知ってるかもしれない人物が」
「……そっか、霧島透子」
姫路さんの思春期症候群が霧島透子からのプレゼントなら、彼女が知っている可能性は確かにある。
「とにかく、もう一度会うしかないか」
「双葉に話して正解だったよ。ありがとな」
「どういたしまして」
お礼とばかりに、双葉は咲太のフライドポテトを一本摘んで少しずつ食べていく。
それがなくなるのを待ってから、咲太は話を変えた。
「私のは……」
視線を落とした双葉は、飲もうとして手を伸ばしたカフェラテの泡をじっと見つめている。
「………」
「………」
しばらく待っても、続きの言葉が出てこない。
そんなに言い出しにくいことなのだろうか。
双葉の視線が、ちらりと俺の方に寄った。
一瞬だけ。
すぐに逸らされる。
(ああ、これ……)
俺に聞かれたくない話なんだな、と察する。
「なんだよ、告白でもされたのか?」
話の切っ掛け程度のつもりで咲太が口にした冗談に、双葉が露骨に反応する。
「っ!?」
まさかの大当たりを引いてしまったのかもしれない。
双葉は俯いたまま、カフェラテのカップの縁を指でなぞる。
それから、今度ははっきり俺を見る。
言葉はない。
でも、目だけで言っていた。岸和田は、聞かないでほしいと。
俺は視線を受け止めて、何も言わずに肩をすくめた。
俺も、のどかと卯月の二人から同時に向けられている気持ちですら、正面から受け止めるより先に、戸惑いの方が出るくらいだ。
咲太みたいに、言葉で整理してやれる自信もない。
恋愛の相談なんて、俺は向いてない。
(……了解)
「……まじで?」
咲太が聞くと、双葉は俯いたまま小さく頷く。
「誰に?」
「塾の……」
その言い方が、やけに歯切れ悪い。
俺がいるせいだ。
たぶん。
俺は紙ナプキンを指で折りながら、会話の輪の外に一歩だけ退く。
「俺、聞いてないふりしとくよ」
言ってから、気づく。
聞いてないふりって時点で、もう半分聞いてる。
双葉はそれでも、少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがと」
小さな声。
咲太が、ここぞとばかりに続けた。
「加西虎之介だろ?」
「……なんでわかったの!」
双葉が上目遣いで咲太を睨んでくる。
でも、顔は真っ赤なので全然迫力がない。
「そりゃあ、双葉好き好きオーラが出てたから」
「……なんで教えてくれなかったの?」
今度は恨めしそうに睨んでくる。
「その方が面白いから……というのは嘘で、加西くんに悪いだろ。勝手に話したら」
「………」
双葉は無言で不満を訴えかけてくる。
「ちなみに、いつ?」
「昨日」
カフェラテのカップを両手で持って、双葉がぽつりと答える。
「どこで?」
「塾の教室で」
「どんな流れでそうなった?」
「最近、勉強に集中できてないみたいだったから……何か悩みでもあるのかと思って『どうしたの?』って聞いたら……」
「それは双葉が悪い」
「梓川が教えてくれてたら聞かなかった」
「んで、返事は?」
「する前に『返事は今じゃなくていいです』って、帰っていった」
「なるほど」
恥ずかしさに耐え切れなかったのだろう。以前、加西くんが塾で話した時には、双葉の話題を出しただけで、ドキドキしているのが伝わってきていた。
双葉が、ちらりと俺を見た。
たぶん、ここから先はもっと個人的な話になる。
俺は視線を逸らして、オニオンフライの最後のひとつを口に入れた。
咀嚼する音で、俺の存在を薄める。
「どうすればいいと思う?」
「双葉がしたいようにすればいいと思う」
「考えたことなかったし」
「だったら、この機会に考えればいいと思う」
「今は正論なんて聞きたくない」
「双葉にとっては、いい機会なんじゃないのか」
咲太がハンバーガーと一緒に頼んであったコーヒーを一口飲む。
「いい機会って、何が?」
「いつまでも、国見を引き摺ってるのもどうかと思う」
「別に引き摺ってない」
「ほんとかあ?その辺の男を、国見と比べてたりするだろ?」
「……してない」
言葉では否定していても、双葉の態度に説得力はなかった。
それよりも、その名前が出た瞬間、俺の中で別の驚きが生まれた。
(……双葉、国見のこと、慕ってたのか)
咲太は知ってたみたいな口ぶりだ。
俺だけが、今さらその事実を知ったみたいだった。
(そういうの、俺は本当に鈍い……)
のどかと卯月のことだって、気づいているくせに、気づかないふりでやり過ごしてる。
自分に向けられる好意が、嬉しいより先に怖い。
期待されるほど、答え方が分からなくなる。
双葉の戸惑いは、俺のそれと形が違っても、芯は似ている気がした。
「やめとけよ、それ。国見よりいいやつなんて、いるわけないんだし。あいつの欠点は女の趣味が悪いことだけだからな」
「国見の彼女は、立派だよ」
「そうか?」
「病院で働いている国見のお母さんの話を聞いて、自分も看護師を目指すって決めたらしいし」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
(……それは、同意だな)
上里は、赤城の手伝いでボランティアに顔を出すと、時々一緒になる。
必要なところで迷いがなく、歯に衣着せぬタイプだけど、しんどい場面でも、逃げずに手を動かすことがある。
双葉の言う通り、立派って言葉は、上里に似合うと思った。
「なんで、双葉がそんなこと知ってんだ?」
「卒業前に、『彼女のどこが好き?』って聞いたら、今の話をしてくれた」
「……そんなおっかないこと聞くなよ」
「でも、待てよ?ってことは、もしかして双葉も知ってたのか?上里がうちの看護学科にいること」
咲太は国見からも知らされず、双葉からも、そして俺からも知らされなかった。
入学から半年以上が経過して、よりにもよって合コンの場で、咲太は上里沙希に遭遇したのだから。
「僕たち友だちだよな?」
「友だちだから言えないこともあるでしょ」
もう一本、双葉が咲太のポテトを摘んで食べる。
その指先を拭きながら、「まあ、でも、ありがと」と、双葉はぽつりともらした。
「ん?」
「話聞いてもらって、少しは落ち着いた」
「こんな面白い話、いくらでも聞くぞ」
「梓川にはもうしないようにする」
残っていたカフェラテを双葉が飲み切る。
その横顔が、さっきより少しだけ軽く見えた。
俺は、そんな双葉を見ながら、胸の奥に小さな引っかかりを残す。
(……夢の話と、告白の話)
どっちが本題なんだ。
たぶん、両方だ。
双葉は、自分に向けられる好意に戸惑ってる。
そして今夜、もうひとつの夢の話を持ってきた。
それが、ただの偶然で済むわけがない。
店内の時計は十一時半を回っていた。
閉店の時間が近づいていた。
十二月四日
翌日。家で大学の課題を広げていると、スマホが机の端で震えた。
画面を見るまでもない。
この時間に鳴るのは、だいたい決まっている。
《きっしー観察会》
卯月とのどかのグループから、通知が連続で飛んできた。
《見て見てー!》
《蓮真、これ!》
送られてきたのは、厳島神社の鳥居の写真だった。海の上に浮かんでいるみたいで、画面越しでもやけに神々しい。
続けて、鹿。
角度のいい鹿。
別の鹿。
どっちが撮影者の趣味なのか知らないけど、鹿の主張が強い。
《鹿かわいいなあ》
《もみじ饅頭買った!》
もみじ饅頭の袋の写真までついてきて、卯月はなぜか自撮りまで添えてくる。
いつもなら、「いいな」「楽しそうだな」って、普通に返せる。
返せるはずなのに。
昨日と一昨日のことが、指先にだけ残っていた。
戸惑ってる。
自分でも面倒くさいくらいに。
画面を眺めたまま、返信欄に何か打っては消して、また打っては消す。
「……何してんだよ」
独り言が漏れる。
結局、《いいじゃん。鹿多いな》とだけ返した。
それだけで、二人からすぐにスタンプが飛んできた。
《でしょー!》
《鹿は正義!》
軽い。
いつも通りだ。
その軽さに、少しだけ救われるのに、胸の奥がまたざらつく。
続けてスマホが震えた。
今度は別の名前。
大津と、浜松さん。
久しぶりだった。
《岸和田骨折したんだって?大丈夫?》
大津からのメッセージを見た瞬間、俺は目を瞬いた。
(……そういえば)
浜松さんの一件から、少し気まずくて、連絡が途切れがちになっていた。
骨折のことも、わざわざ言ってない。
言ってないっていうか、言えないまま流してきた。
自業自得みたいな沈黙。
俺は大津に返信する。
《大丈夫だよ。誰から聞いた?》
少し間を置いて、返事。
《樹里ちゃんから》
「……ああ、吉和さんか」
口にした名前が、やけに現実的だった。
そのタイミングで、浜松さんからも通知が入る。
《岸和田くん、大丈夫?》
短い。けど、ちゃんと心配の色がある。
俺は画面を見つめたまま、指を動かす。
《ああ、ありがとう。大丈夫だよ》
送信。
すると、胸の中に別の問いが湧いた。
もし、俺が誰かに告白して、振られて。
それでも俺は、自分を振った相手を、今みたいに普段通り心配できるんだろうか。
(……できる気がしない)
いや、できるって言い切れる自信がない。
その時点で、俺はもう、浜松さんのことを「気まずい」、で片付けるのをやめた方がいい気がした。
また通知。
今度は、大津と浜松さんがほぼ同時だった。
《今度さ、沖縄でビーチバレーの大会があるんだ》
《お土産、何がいい?》
大津が先に振って、浜松さんが続けた感じだ。
俺は反射で返す。
《なんでもいいよ》
すぐに、返ってくる。
《なんでもいいは困るなぁ、岸和田》
大津の文面が、妙に生意気で、ちょっと笑った。
そして浜松さん。
《じゃあ、紅芋タルトとかちんすこうとか買ってくるね》
俺は少し考えてから、素直に返した。
《ありがとう。それがいいかな》
送信して、スマホを伏せる。
机の上には、開きっぱなしのノートと、解きかけの問題。
なのに頭の中は、答えのないことばかりで埋まっていく。
卯月とのどかの《きっしー観察会》。
大津の軽い心配。
浜松さんの、普段通りの優しさ。
みんな、変わってない。
変わってるのは、俺の方だ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく沈んだ。
十二月五日
基礎ゼミの教室は、いつもより少しざわついていた。
理由は単純で、中間後の課題説明が終わった直後だからだ。
ノートを閉じる音、椅子を引く音、次の予定を確認する声が、波みたいに重なっている。
その中で、俺はいつも通り席に座ったまま、ギプスをつけた右腕を机の端に置いていた。
「きっしー!」
聞き慣れた声が飛んでくる。
顔を上げると、のどかと卯月が並んで立っていた。二人とも、やけに満足そうな顔をしている。
「これ!」
卯月が差し出してきたのは、紙袋だった。
中身を見るまでもない。見覚えのある包み。
「……もみじ饅頭?」
「正解!」
卯月が、どこか得意げに笑う。
「蓮真、昨日のLINE、素っ気なかったからさ。ちゃんと現物で渡そうと思って」
「鹿ばっかで面白かった!」
「あれはあれで楽しかったよね」
そう二人は言いながら、俺は袋を受け取った。
手に伝わる重さが、妙に現実的だった。
画面越しじゃなくて、ちゃんと手渡し。
それだけで、昨日までの距離感が嘘みたいに縮まる。
「それでさ」
のどかが、少しだけ声のトーンを落とす。
「二十四日、空いてる?」
嫌な予感じゃない。むしろ、分かってた流れだ。
「クリスマスライブやるんだ」
卯月が続ける。
「横浜でね。それできっしーに来てほしいなって」
断りづらいとか、そういう話じゃない。
行きたいか、行きたくないかで言えば、行きたい。
ただ、その行きたいが、どっちに向いてるのか分からないだけだ。
「……予定、確認しておくよ」
そう答えると、二人は顔を見合わせてから、同時に笑った。
「うん了解、蓮真」
「きっしー、無理しなくていいからね」
優しい。
優しすぎるくらいに。
その後のゼミでも、二人はいつも通りだった。
講義中、俺の代わりにノートを取ってくれる。
板書の要点を押さえた文字と、横に添えられた小さな補足。
卯月のノートは少し丸くて、のどかのノートは整っている。
どっちも、俺の名前が書いてある。
どっちも、同じ距離で差し出される。
(……どっちが大切か、分からなくなるわけだ)
比べようとした瞬間に、比べること自体が間違っている気がしてくる。
それでも、同時に向けられる気持ちを、なかったことにはできない。
俺は結局、普段通りに振る舞うことしかできなかった。
笑って、礼を言って、余計なことは言わない。
そのくせ、頭の奥では別の考えが渦を巻く。
(もし、俺が……)
観察と記録だけじゃなくて。
他人の気持ちを、もう少しちゃんと分かる人間だったら。
あの中学のループも、起きなかったんじゃないか。
自分の選択に、もう少し自信を持てて。
誰かに好かれることを、怖がらずに済んだんじゃないか。
そんなもしが、今さら浮かぶ。
ゼミが終わると、卯月は雑誌の撮影があると言って、慌ただしく教室を出ていった。
のどかも、レッスンがあるからと、駅へ向かう。
気づけば、俺は一人だった。
校門に向かって歩きながら、冷たい空気を吸い込む。
その途中で、見慣れた背中を見つけた。
「咲太」
声をかけると、咲太は振り返る。
視線は俺に向いているのに、意識は周囲に散っている。
学生の流れ。
人混み。
その中に、何かを探している目だった。
「……ミニスカサンタ、いないな」
ぼそっと呟く。
「探してるのか、霧島透子を?」
「ああ。姫路さんの思春期症候群のこと、霧島透子に聞こうと思ったんだけどさ。見当たらなくてな」
「本当にカンニングするつもりなんだな」
俺が言うと、咲太は悪びれずに肩をすくめた。
「楽できるなら、するだろ」
「まあ、否定はしない」
俺も周囲を見渡す。
目には見えない。
でも、声なら聞こえることがある。
「見えないなりに、俺も探してみるよ」
「助かる」
その一言が、やけに素直だった。
別れてから、校門を抜ける。
歩きながら、俺は考える。
姫路紗良。
あの、からかうような距離感。
冗談めいた言葉。
相手の反応を先に引き出そうとする癖。
(……あれ、ただの性格じゃないかもしれないな)
思春期症候群のヒントが、そこにある気がした。
明後日は、塾のバイトだ。
姫路さんは、警戒すべき相手だ。
でも。
警戒しているだけじゃ、何も分からない。
こっちから、ほんの一歩だけ。
反応を見るくらいなら、許されるだろう。
観察と記録のためじゃない。
今度は、誰かの気持ちに、追いつくために。
そんなことを考えながら、俺は駅へと続く道を歩いていた。
物語解説
今回の物語では、姫路紗良の思春期症候群という明確な異常と、誰かに向けられる好意や戸惑いといった曖昧な感情を、同じ時間軸の中で重ねて描いています。
塾の教室、夜のハンバーガーカフェ、大学のゼミ、LINEの画面。どれも日常の延長にある場所で、特別な出来事は起きていません。
それでも、蓮真の中では確実に「受け取りきれないもの」が増えていきます。
紗良の思春期症候群は、本人にとってはすでに整理がついている問題として描かれます。困っていない。治す必要も感じていない。だからこそ、その症状は、異常でありながら、周囲の判断を曖昧にします。
一方で、蓮真が感じ取っている違和感は、確信には届かないまま残り続けます。霧島透子の言葉と結びつき、個人の問題だったはずの思春期症候群が、共有され、薄く広がり始めている可能性を示します。
双葉の告白の話は、好意を向けられる側の戸惑いという点で、蓮真自身の状況と静かに重なります。
のどかと卯月、二人から同時に向けられる気持ち。それを拒むでも、選ぶでもなく、「普段通り」でやり過ごしてしまう姿勢は、蓮真がこれまで保ってきた距離感そのものです。
夏帆や美凪とのやり取りでは、振られた側ではなく、振ったかもしれない側が、それでも変わらず心配される構図が描かれます。
そこで蓮真が抱いた疑問は、優しさへの感謝ではなく、「自分は同じことができるのか」という自己への問いでした。
基礎ゼミの場面で、のどかと卯月が差し出すノートともみじ饅頭は、どちらも善意で、どちらも等しく大切です。だからこそ、「どちらが大切か分からない」という状態が生まれます。選べないのではなく、選ぶこと自体がまだ想像できない段階に、蓮真はいます。
今回の話で描かれた揺れは、恋愛の揺れであり、思春期症候群の前触れであり、そして何より、「観察者でいることで保たれてきた均衡」が崩れ始める兆しです。
蓮真はまだ踏み込みません。けれど、観察と記録だけでは足りないかもしれない、という自覚だけが、静かに芽生えています。
その小さな自覚が、次にどんな選択を呼び込むのか。引き続き、見届けていただけたら幸いです。
次回もぜひお楽しみください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月