青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十二月七日
水曜日の塾は、週の中で一番現実的だ。
部活帰りの疲れが残っている生徒もいれば、週末を見据えて気が緩み始める生徒もいる。
講師側も、月曜ほど気合いが入っているわけでもなく、金曜ほど解放感があるわけでもない。
つまり、集中できるかどうかは、完全に個人差だ。
その典型例が、隣の教室だった。
仕切り越しに聞こえてくるのは、鉛筆を机に転がす音。
「……はぁ」
山田くんの溜め息だ。
その隣では、同じ時間、同じ問題に向き合っているはずなのに、まったく違うリズムが刻まれている。
紙をめくる音。迷いなく走るペン先。
吉和さんだ。
淡々と問題を解き進める姿勢は、もはや安定感すらある。
山田くんが集中を切らすたびに、横で何も言わず、ただ自分の解答を積み上げていく。
そして、山田くんと吉和さんの間の席。
姫路紗良がいた。
背筋を伸ばして、ノートと問題集をきっちり並べている。
途中式も丁寧で、解答欄の余白に小さなメモまで書き込んでいる。
(……やっぱ、優秀だな)
前から分かってはいた。
姫路さんは、もともと成績がいい。
理解が早いし、復習も怠らない。教えなくても伸びるタイプに近い。
授業が終わり、山田くんも、吉和さんも、俺の担当だった生徒たちも、順番に帰っていった。
講師室の時計は、もうすぐ八時半を指そうとしている。
教室の明かりは少しずつ落とされ、残っているのは自習室と、講師室の蛍光灯くらいだ。
「お疲れ、岸和田」
鞄を肩にかけた咲太が、軽く声をかけてくる。
「お疲れ、咲太」
いつものやり取り。特別な意味はない。
それでも、今日に限っては、その一言で一区切りがついた気がした。
「なあ、咲太」
呼び止めると、咲太は靴を履きかけたところで振り返る。
「姫路さんって、まだ帰ってないよな?」
「ん?」
少し考えてから、咲太は顎で自習室の方を示した。
「ああ。自習室で勉強したいらしい」
「そうか」
確認できただけで、十分だった。
俺は一瞬、咲太の顔を見てから、少しだけ首を傾げる。
「お前は、見に行かないのか?」
「今日はさ」
咲太は、どこか照れ隠しみたいに視線を逸らした。
「麻衣さんが、家でご飯作ってくれるから、早めに帰りたいんだよ」
「……なるほどな」
それ以上、突っ込む気は起きなかった。
「岸和田」
今度は、咲太の方から声をかけてくる。
「姫路さんに、なんか用事あるのか?」
一瞬だけ、言葉を選ぶ。
正直に言えばいい。隠す理由も、誤魔化す理由もない。
「ああ」
俺は頷いた。
「ちょっと、話してみようかと思ってな」
「話?」
「姫路さんの思春期症候群について。何かわかるかもしれない」
咲太は、驚いた様子もなく、納得したみたいに息を吐いた。
「なるほどな」
それだけで、半分以上理解された気がした。
「何か分かったらさ」
靴を履き終えながら、咲太が言う。
「僕にも、教えてくれ」
「分かった」
短く答える。
それで十分だった。
「じゃあな」
「おう」
咲太はそのまま階段の方へ向かい、俺は逆に、自習室の方へ足を向けた。
廊下は、昼間より少しだけ冷えている。
塾特有の、消しゴムと紙の匂いが、やけに濃い。
自習室のガラス越しに、姫路紗良の姿が見えた。
背筋を伸ばし、静かに問題を解いている。
周囲の気配を、必要な分だけ切り落としているような集中。
(……やっぱり、優秀だな)
目が合う。姫路さんは、いつものみたいに軽く笑った。
「岸和田先生、まだいらっしゃるんですね」
「お前もな」
「私は、自習してますから」
正論で殴ってくるやつだ。
俺は言葉を選ぶ前に、口を開いていた。
「……今日、俺の担当もう終わったしさ。咲太も帰っちゃったし、よかったら、勉強の続き、見ようか」
提案した瞬間、少しだけ後悔する。
踏み込みは得意じゃない。でも、踏み込まないと分からないことがあるのも、もう分かってる。
姫路さんは目を丸くして、次の瞬間には、あっさり頷いた。
「いいんですか? じゃあ、お願いします」
軽い。軽すぎて、逆に怖い。
俺は彼女の隣の席を引いて座った。
ノートを覗き込み、問題を指でなぞる。
「ここ、どこで詰まってる?」
「えっと……この式変形、です」
「じゃあ、まず因数分解して……」
説明しながら、俺は姫路さんの反応を観察する。
表情。目線の動き。「分かったふり」の瞬間。
そうやって人を見てきた。そうやって、崩れる前の兆候を拾ってきた。
……拾ってきたつもりだった。
「岸和田先生」
姫路さんが、ペン先でノートをとんとんと叩いた。
「ん?」
「私、答えてますよ」
意味が分からなくて、俺は一瞬だけ固まる。
姫路さんは楽しそうに続けた。
「岸和田先生、さっきから、私の分かったふりを探してる顔してます」
「……してない」
反射で否定する。
「してますよ。だって、岸和田先生って見る”人だし」
言い方が、妙に当たっていて、背筋がひやっとした。
俺の沈黙を、姫路さんは面白がる。
「先生、あれですよね。勉強を教えてるフリして」
ペン先が、今度は問題文じゃなくて、俺の方を指す。
「私のこと、解こうとしてますよね」
「……」
口が乾く。
指先がギプスの端を無意識に撫でていた。
「……勉強、自主的にしてるのは姫路さんだろ」
逃げるように言うと、紗良は首を傾げる。
「でも、岸和田先生も一緒に考えるって、言ってましたよね?」
そこまで知ってるのが、まずおかしい。
「……なんで知ってる」
「えへへ」
姫路さんはさらっと言って、ノートの空欄を埋めていく。
当てた。
そう言い切るのに、ためらいがない。
「先生って、分かりやすいんですよ」
「……どこが」
「優しくしようとしてる時ほど、目が真面目になるところとか?」
「……って、思ってたんですけど」
笑いながら刺してくる。
その言い方が、冗談っぽいのに冗談に聞こえなかった。
前から、思ってた。
姫路紗良は、エスパーみたいだって。
人の間を読む速度が異様に速い。
嘘の雑さを見抜くのも早い。
相手が踏み込む前に、踏み込ませない。
それが性格の範囲か、症状の範囲か。
この数日で、線が曖昧になってきている。
「……じゃあさ」
俺は、わざと勉強に戻すふりをした。
「この問題の前提は分かってる?」
「前提は分かってます」
「じゃあ、途中式を」
「途中式も分かってます」
即答だった。
「……じゃあ、どこが分からないんだよ」
すると姫路さんは、あっさり言った。
「先生がどこまで教えてくれるのかが分からないです」
言いながら、彼女は笑う。
俺は溜め息を吐くしかなかった。
「それは数学じゃない」
「数学ですよ」
俺は言い返せない。
姫路さんに教えているはずの時間が、いつの間にか、俺がテストされている時間になっていた。
それでも、教えること自体はちゃんと進む。
問題が解ける。式が繋がる。答えが出る。
勉強は、嘘をつかない。
最後の問題を解き終えたところで、姫路さんが時計を見た。
「……あ、そろそろです」
「迎え?」
「はい。お母さんが来てくれるので」
鞄を肩にかけ、椅子を押し込む。
「ありがとうございました、岸和田先生」
礼儀正しい声に戻っている。さっきまで俺を揶揄っていたのに、切り替えが早すぎる。
姫路さんは自習室の出口で振り返った。
「岸和田先生」
「ん?」
「解けない問題もありますよ?」
そう言って、さらっと笑う。
それが忠告なのか、からかいなのか。
判断する前に、姫路さんは廊下の角へ消えた。
俺はしばらく、その角を見ていた。
(……もし、姫路さんの症状がエスパーみたいな何かだとしたら)
(発症要因は、何だ?)
他人への不信。先に知っている側に立ちたい欲求。考えはまとまりそうで、まとまらない。
講師室へ戻り、私物を取って帰ろうとしたところで、エレベーターホールに出た。
誰もいないはずの場所に、男が立っていた。
整髪料で固められた短めの髪、スーツじゃない、塾の講師用の上着。
でも、俺はその顔を知らない。
男が俺を見る。
「……岸和田くんで、合ってるっけ?」
突然名前を呼ばれて、反射で答える。
「はい。そうですけど」
男は、俺の右腕のギプスを一度だけ見てから、視線を戻した。
「君さ。姫路さんの担当でもないのに、随分と馴れ馴れしいね」
言い方が、最初から刺す気のやつだ。
「……どういう意味ですか」
俺が聞き返すと、男は表情を崩さずに言った。
「姫路さんに、近づかないでもらえないか?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
(……なんだ、この人)
でも、次の瞬間には別の思考が湧く。
(この人、姫路さんに固執する理由があるのか)
姫路さんの前の担当講師。関本先生。
俺はその事実を、この瞬間は知らなかった。
誤解されているのも不味い。ここで反発しても、良い結果にならない。
俺は一拍置いてから、言った。
「……分かりました」
関本先生は、満足したような顔もせず、ただ一度だけ頷いた。
「助かる」
それだけ言って、廊下の奥へ歩いていく。
俺はその背中を見送りながら、エレベーターの到着ランプを見つめた。
姫路紗良。
答えを持っているようで、持っていないふりをする少女。
そして、彼女に近づくなと言った男。
エレベーターのベルが鳴る。扉が開く。
冷たい空気が、現実みたいに流れ込んできた。
俺はその中へ足を踏み入れながら思った。
今夜、俺は症状を追いかけたつもりだった。
けれど、追いかけていたのはたぶん、姫路紗良じゃない。
姫路紗良の周りに集まり始めた、別の何かだ。
十二月九日
空になった弁当箱を咲太が片付けていると、「最近増えたよなぁ」と、本校舎の教室の窓から外を眺めていた福山がしみじみ呟いた。
俺はその机の向かいで、コンビニのサラダチキンの袋を丸めていた。
今日は、のどかも卯月も四限まで不在だ。街ぶらロケの撮影で、基礎ゼミに間に合うかどうかも怪しいらしい。
結果、三限の中国語の教室が咲太の授業のすぐ隣だった俺は、咲太と福山に流れで混ざって昼飯を食べている。
「増えたって何が?」
咲太は席を立って、窓辺に立つ福山の隣に移動する。
「付き合ってる男と女」
三階から見下ろした本校舎脇の道を、一組のカップルが仲睦まじく歩いているのが目に留まる。
何か面白い冗談でも言ったのか、互いに声を出して笑っている。
「これから恋人の季節だしな。イベントラッシュだもんなぁ」
恨めしそうに、羨ましそうに福山がもらす。
「ラッシュって言うほどあるか?」
「クリスマスイブにクリスマスだろ?」
「ふたつまとめてクリスマスって言わないか?」
「年末に正月だろ?」
「それ、カップルのイベントか?」
「なに?梓川は桜島さんと一緒に過ごさないの?」
「過ごすけど」
「ほら、カップルのイベントじゃない。梓川は幸せ過ぎて頭おかしくなってるな」
福山が満足そうに笑って、そのまま、俺の方へ視線を投げてきた。
「でさ、岸和田は?豊浜さんとか広川さんと過ごしたりしないの?」
箸が一瞬止まる。
俺は窓の外を見ないまま、なるべく軽く返した。
「二人のクリスマスライブ、見に行くぐらいだな。あとは……まだ決めてない」
「はぁ〜?」
福山が露骨に疑う顔をする。
「とかなんとか言って、結局二人と一緒に過ごすんだろ?岸和田も幸せ者だな」
幸せ者。
その言葉が、喉の奥で変な引っかかり方をした。
(……どっちが好きか分からない、とか)
(好かれるのが怖い、とか)
(そんなこと思ってる俺は……ある意味、幸せなのか?)
答えは出ない。出るはずもない。
「正月が終われば、節分だろ?バレンタインだろ?ホワイトデーだろ?」
福山は勝手にイベントの羅列を続ける。
明らかに違和感のあるものも混ざっているけど、俺たちはあえて突っ込まなかった。だいたい、どれもまだ先の話だ。
「来年のことを言う前に、まずはクリスマスだろ」
「だから、その日までに彼女を作るべく、今、合コンセッティングしてもらってるのよ。決まったら、梓川も来てくれ」
「やだよ。合コンにはいい思い出がない」
咲太にとって初の合コンは、上里の登場によって非常に居心地の悪いものだったろうし、恐らく一生忘れない嫌な思い出として刻まれている。
福山が俺の方を見て、当然みたいに付け足した。
「岸和田も来いよ」
「いや、行かねえよ」
即答した。
「なんでだよ」
「そういう場、向いてない」
俺がそう言うと、福山は「もったいねぇ」と言いたげな顔をして、また窓の外へ視線を戻した。
「あ、ほら、あれもカップルだろ」
福山が指差す。見えたのは一組の男女。ふざけた感じで、女子が男子の背中を押して送り出している。
何がそんなに楽しいのかは分からないが、二人とも声を出して笑っていた。
……そのときだった。
窓の外を見ていた咲太が、急に反応を止めた。
咲太の視線だけが、並木道の方向に吸い寄せられている。
赤い影が歩いている。見覚えのあるミニスカサンタ。その後ろ姿は、霧島透子に間違いなかった。
「……っ」
咲太は荷物を置いたまま、咄嗟に駆け出していた。
「なに?どったの?もうすぐ授業はじまるよ?」
福山の声が追いかける。
「教授にはトイレだって言っておいてくれ!」
教室を飛び出す。
「やだよ。恥ずかしい」
福山の返事を聞いたときには、咲太はもう階段を駆け下りていた。
俺は立ち上がらなかった。
立ち上がって追うのは簡単だ。教室も隣だし、事情もある程度察してる。
でも、福山がいる。
ここで口にした瞬間、変な噂になる。
「……気をつけろよ」
俺はそれだけ言って、背中を見送った。
(咲太……まさか、霧島透子を見つけたのか)
確信に近いのに、確定できない。
いつもの癖で、俺は窓の外の、赤い影が消えたであろう方向を、しばらく目で追っていた。
四限の基礎ゼミが始まる少し前。
教室の後ろの扉が、慌ただしく開いた。
「間に合った……!」
息を切らしたのどかが、肩で呼吸しながら小さく手を挙げる。
その隣で卯月が、何事もなかったみたいな顔で笑った。
「セーフ!ぎりぎりセーフ!」
「ぜんぜんセーフじゃないだろ」
俺が小さく突っ込むと、卯月は「細かいことは気にしない!」と返してくる。
のどかは俺の席の近くまで来て、鞄を置きながら声を落とした。
「ごめんね、蓮真。ロケ、伸びちゃって……」
「いや、仕事だろ」
言いながら、俺は二人の顔を見た。
ほんの少しだけ、頬が赤い。寒さのせいだけじゃない。外で走ってきた色だ。
卯月が、机の端に指を置いて身を乗り出す。
「ねえねえ、きっしー。明後日の予定、確認しとく?」
その言い方が、当たり前すぎて、心臓にだけ引っかかった。
「養老渓谷のやつ?」
「そう!」
卯月が勢いよく頷く。
のどかも、隣で同じタイミングで頷いた。
「九時に横浜駅集合。で、卯月のお母さんの車で行く予定」
「アクアライン経由!」
卯月が得意げに言う。のどかが「それ、卯月が運転するわけじゃないでしょ」と笑う。
「でも、車だと早いし、寒くても外歩けるし。楽しみだね」
のどかの声が柔らかい。
卯月も「楽しみ〜!」と、子どもみたいに笑った。
それを見て、俺の中で別の感情が静かに浮いた。
楽しみだ。
行きたい。
だけど、同じくらい、怖い。
二人が当たり前みたいに予定を共有してくるほど、俺の方が勝手に距離を測り始めてしまう。
(……何やってんだよ)
素直に笑えばいいだけなのに。
嬉しいのに、その前に、怖いが出る。
講義が始まって、ゼミの議論が進んでも、俺の頭のどこかに「九時、横浜駅」が残り続けた。
約束が、具体的で、現実的で、逃げ道がないからだ。
基礎ゼミが終わったあと。
俺は教室を出るタイミングで、咲太の背中を見つけた。
「咲太」
呼び止めると、咲太は振り返る。
「どうした岸和田」
周囲にはまだ学生が多い。だから、俺は声を落とした。
「お前、さっき出てったの……霧島透子を見つけたからか?」
咲太は一拍置いて、あっさり頷いた。
「ああ」
「どうだった?」
「空振りだな」
言い方だけは軽いのに、目が笑ってない。
「姫路さんのこと、霧島透子は知らないらしい」
「……そうなのか?」
俺は眉を寄せる。
「でも、思春期症候群をばら撒いたのは霧島透子なんだろ?」
咲太は肩をすくめた。
「広川さんとか赤城のことは、この大学の学生だから知ってた。でも姫路さんは、そうじゃないからな」
「なるほどな」
確かに、霧島透子が知っている範囲は、大学という枠に寄りがちだ。
姫路紗良は、塾の生徒で、高校生で、大学の線にまだ乗ってない。
咲太が、今度は逆に俺を見る。
「岸和田は、一昨日、姫路さんと話してどうだった?」
俺は少しだけ言葉を探してから、正直に出した。
「……あくまで推測だけどさ。姫路さんの思春期症候群って、エスパーなんじゃないか?」
咲太が眉を上げる。
「エスパー?」
「テレパシーとか予知とか……そういう類の」
咲太は、冗談みたいに笑わない。
その代わり、確認するみたいに聞いてきた。
「なんで、そう思う」
俺は息を吐いて、うまく言えない部分をそのまま言うことにした。
「なんか……俺の考えとか気持ちを読まれてる気がするんだよ」
「読まれてる」
「ああ。察しが良すぎたり、分かった風に揶揄ってきたり……上手く言語化できないけどさ。こっちが観察してるはずなのに、いつの間にか逆にされてる」
咲太は小さく頷いた。
「なるほどな。可能性としては、あるな」
「でも、決定的な理由はない。あくまでも推測だ」
言い切ったあとで、俺は自分の声の弱さに少しだけ腹が立った。
咲太は、その弱さを責めない。
「推測でも、今は十分だろ。手掛かりが少ないんだし」
「……そうだな。まぁ参考にしてみてくれ」
咲太が、珍しく素直に言った。
「ありがとう、岸和田」
その言葉は軽いのに、ちゃんと“頼ってる”が含まれていた。
俺は、曖昧に頷くだけで精一杯だった。
(頼られるのも、怖いんだよな)
好かれるのが怖いのと、似ている。
期待されるほど、答え方が分からなくなる。
咲太は、「じゃあ僕、麻衣さんのとこ行くわ」と手を振った。
俺はそれを見送りながら、ふと、さっきの二人の声を思い出す。
九時、横浜駅。
卯月のお母さんの車。
アクアライン。
楽しみだね、って笑う顔。
その全部が、嬉しいのに、嬉しいからこそ、怖い。
俺は自分の胸の奥が、また少しだけざらつくのを感じながら、校舎の階段をゆっくり降りた。
十二月十日
翌日。大学近くの公民館は、昼間でもどこか静かだった。
入口の掲示板には、『十二月二十五日 地域交流クリスマス会』と、まだ仮の紙がマスキングテープで留められている。
「ここ使えるの、助かるよね」
上里が、段ボールを抱えたまま言った。
「大学から近いし、子どもたちも来やすいし」
「あと、暖房ちゃんと効く」
赤城が真面目な顔で付け足す。
その言い方が妙に現実的で、俺は少しだけ笑ってしまった。
公民館の集会室は、学校の教室よりも天井が高くて、壁が白い。声が反響しやすくて、でも、どこか柔らかい。
「二十五日の支援、来られる子、去年より多いってさ」
赤城が、いつもより少しだけ大きめの声で言った。
大きめ、というのがポイントだった。
いつもの赤城よりも今日は、場を回すみたいに言葉が前に出ている。
(……焦ってる)
俺は折り紙を星形に切りながら、視線だけで赤城を観察する。
別の可能性の世界の記憶を持ったまま、普通の顔をして普通の会話をするのは、想像以上に疲れる。
何より、知ってるはずのないことを口にしそうになるかもしれない。それが、今の赤城の怖いところだ。
「へぇ、増えたんだ」
上里が、テープを引っ張りながら、軽い調子で頷く。
上里は上里で、先に場を転がす。
この場の緊張を溶かすには向いてるけど、機微には鈍い。
だからこそ、今日の赤城の無理してる明るさにも気づかない。
俺は、赤城が妙なことを言い出す前に、自然に割り込む。
「席の配置、このままだと狭いな。机、もう一列増やそう」
「……うん、そうだね」
赤城が、少しだけ安堵したみたいに頷く。
大丈夫。俺が見てる。
そう言外に渡して、俺は折り紙を机に置いた。
「そういえばさ」
上里が、急にテンションを上げた。
「みんなへのクリスマスプレゼントって、何がいいと思う?」
「いきなりだな」
「いや、プレゼント交換って盛り上がるかなって?子どもたちにも、スタッフさんにも」
赤城が「予算は……」と現実を口にしかける前に、俺が先に言い足す。
「高いのじゃなくていいんだよな?ちょっとした、気持ち的な」
気持ち。
自分で発したはずの単語が、胸の奥で引っかかった。
ちょっとした、気持ち。
軽いみたいに言うけど、渡す側の気持ちは、軽いほど誤魔化しが効かない。
俺は、折り紙の端を指でなぞる。
(……卯月とのどか)
プレゼント、買おうかな、と考える。
ライブを見に行くとか、養老渓谷に行くとか。そういう約束は、もう共有になっているのに。
形になるものを渡す、となると、途端に迷う。
迷う理由は分かってる。
(二人の好意に、素直に応えられずにいる)
応えられないくせに、受け取っている。
予定も、笑顔も、距離も。
それが一番、情けない。
「そういう岸和田くんは、何がいいと思う? プレゼント」
上里がこっちを見た。
俺は一瞬だけ言葉が詰まる。
「……実用的なやつでいいんじゃないか」
「出た、岸和田くんの無難」
「無難が正義だろ」
赤城が小さく笑った。
その笑い方が、いつもより少しだけ柔らかい。
俺は、赤城の普通の笑いを見て、少しだけ安心する。
でも、その直後に赤城が言った。
「……渡すって、難しいよね」
さらっと、独り言みたいに。
赤城の視線が、一瞬だけ俺に寄る。
(岸和田くんも、同じだよね)
と言われた気がした。
俺は、答えない代わりに、話題を戻す。
「子ども向けなら、文房具とか。あと、お菓子の詰め合わせ。スタッフ向けは入浴剤とか、使い切れるやつ」
「うわ、現実的」
上里が笑う。
赤城が頷く。
「それ、いいかも。消耗品なら、負担にならないから」
負担にならない。
その言葉が、また刺さった。
(負担にしたくないんだよな、俺は)
だから、踏み込めない。
だから、答えられない。
でも。踏み込まないまま、受け取るのは、もっと卑怯だ。
俺は折り紙を一枚手に取って、ゆっくりと折り始める。
星じゃない。
少しだけ難しい形。
折り目を間違えれば崩れる。慎重にやらないと、綺麗にできない。
たぶん、今の俺の気持ちに一番近いのは、これだ。
綺麗に折りたいのに、怖くて手が止まる。
「……よし」
赤城が、机の上のリストを整えて言った。
「二人のおかげで準備、間に合いそう。二十五日、いいパーティにしよう」
その言葉は、誰に向けたものでもあるのに、俺には赤城が“自分に言い聞かせてる”みたいに聞こえた。
だから、俺も同じように頷く。
「……ああ。いいのにしよう」
その返事が、自分の中のモヤモヤを少しだけ押し出してくれた気がした。
卯月とのどかに何を買うかは、まだ決めてない。決められない。
でも、決めないまま当日を迎えるのは、たぶん、もっと怖い。
公民館を出たのは、十四時を少し回った頃だった。
冬の空気は澄んでいるのに、日差しだけは妙に柔らかい。
コートの前を軽く押さえながら、俺は赤城と上里に別れを告げた。
「じゃ、また二十五日」
「うん。ありがとね、岸和田くん」
赤城の声は、さっきよりも落ち着いていた。
少なくとも今は、向こう側が滲んでくる気配はない。
駅へ向かう道すがら、頭の中で予定をなぞる。
夕方から塾のバイト。その前に、藤沢で飯を食う。
昼とも夜とも言えない時間帯。ちょうど、腹が減って、でもがっつく気分でもない。
藤沢駅近くのファミレスは、十六時前後になると、客層が一気に落ち着く。
高校生も会社員も少なくて、時間が一段緩む。
席に案内されて、メニューを開く前に、声がした。
「いらっしゃいませー……あ、きっしー先輩」
顔を上げると、古賀がエプロン姿で立っていた。
自然と、視線が右腕のギプスに落ちる。
「……きっしー先輩、いつ復帰できそうなんですか?」
言い方は軽いけど、気にしてるのは分かる。
「まぁ、早くてもクリスマスくらいかな」
俺はメニューを閉じながら答えた。
「なるべくなら年明けからは復帰したいけど、まだギプス必要だしな。しばらくは皿洗いからだ」
「ふーん」
古賀は相槌を打って、オーダーを取る体勢に戻る。
「きっしー先輩、クリスマスって用事あるの?」
俺は少し考えてから、正直に答える。
「ああ。のどかと卯月のクリスマスライブ見に行ったり、あと、ボランティアでクリスマスパーティーやる予定」
「……へぇ」
声に、ほんの少しだけ間が空いた。
「じゃあ、結構予定埋まってるんだ」
「まぁ、そうなるな」
俺は逆に聞き返す。
「古賀はどうするんだ?」
「あたしは家族と過ごす予定」
即答だった。
そのあと、少しだけ言い淀んでから、続ける。
「最近さ、付き合う子多くない?」
「まぁ……そうだな」
「ちょっと焦るんだよね。奈々ちゃんも彼氏できちゃったし」
「……米山さんに?」
思わず聞き返す。
「うん。この前話したでしょ?奈々ちゃんの中学の同級生の男子」
「ああ……なるほどな」
点と点が繋がる。
「奈々ちゃん、クリスマスイブにデートするらしくてさ」
古賀は笑ってるけど、その笑いは少しだけ薄い。
「まぁ、古賀も焦らなくていいだろ。大学行けば、いくらでも出会いあるし」
言った瞬間、遅かったと思った。
「……きっしー先輩にだけは、言われたくないなぁ」
即座に返される。
古賀は肩をすくめて、苦笑いした。
(……まぁ、そうだよな)
卯月とのどかのことで悩んでる俺が、言えた口じゃない。
俺はそれ以上言わず、黙って水を一口飲んだ。
食事を終えて、会計を済ませる。
席を立って、出口に向かったところで、ちょうどドアが開いた。
「……あ」
咲太だった。
その隣に、少し緊張した顔の男子。
「お疲れ様です、岸和田先生」
加西くんが、丁寧に頭を下げる。
「お疲れ」
俺は軽く返してから、咲太を見る。
「どうしたんだ?こんな時間に」
「飯食いに来てたんだよ」
俺は答えてから、首を傾げる。
「お前こそ、加西くんと一緒って珍しいな」
咲太は、少しだけ視線を逸らした。
「なんか、人生相談があるらしい」
(……ああ)
ほぼ確信があった。
(多分、双葉に告白した件だな)
でも、ここで口に出すことじゃない。
「そうか」
俺はそれだけ言って、二人の横を通り過ぎる。
「じゃ、俺はこれから塾だ」
「ああ。僕も終わったらすぐ行く」
咲太の声を背中で聞きながら、店を出た。
夕方の藤沢駅前は、昼とも夜ともつかない色をしている。
人の流れに紛れながら、俺は思った。
誰かの好意に悩んでるのも、誰かの相談を横目に見るのも、全部、同じ時間の中で進んでる。
立ち止まってるつもりでも、時間は勝手に進む。
塾へ向かう足取りは、少しだけ重かった。
でも、止める理由はなかった。
俺は、いつも通り、ギプスの腕を庇いながら、塾へ向かった。
一時間後、俺は自分の教室で、ペンを持っていた。
黒板の前。担当の生徒は二人。どちらも、今は問題と睨めっこしている最中だ。
「いいか、ここは公式を覚えるんじゃなくて……」
口では説明を続けながら、意識の半分だけを、隣の教室に残していた。壁は薄い。音は、必要な分だけ、勝手に入ってくる。
「……山田くんは、三十点が好きだなぁ」
(あ、今の、咲太だ)
俺は一瞬だけ、ペンを置く手を止めそうになって、すぐに戻す。
「集中な。ここ大事だから」
自分の生徒にそう言いながら、耳だけをそっちに傾ける。
「咲太先生、それ個人情報ろーえーだから」
軽い声。はっきりした抑揚。
(……山田くんだな)
俺は板書を続ける。数式を書きながら、向こうの様子を音だけで繋ぎ合わせる。
紙をめくる音。椅子がずれる気配。
「じゃあ、山田くんと吉和さんが間違えた問題を中心に解説するよ」
「はい」
返事がやけに綺麗だ。たぶん、姫路さん。
(満点の子ほど、返事がいいんだよな……)
説明の声が続く。途中で、自分の教室の生徒が手を挙げた。
「先生、ここって……」
「そこはさっき言った通り、符号に気をつける。ほら、ここ」
自分の指先でノートを指し示しながら、思考は分裂したままだ。
向こうで、問題を配る音。シャーペンが走る音。
速い。
姫路さんが先に終わったのは、音だけで分かる。
迷いがない。途中で止まらない。
「できました」
案の定だ。
俺は内心で小さく息を吐く。
(……あの子、ほんとに出来すぎなんだよな)
追加問題の気配。それから、少し空気が変わる。
「んー……」
山田くんの唸り声。
(詰まったな)
対して、もう一人の気配が薄い。吉和さん。
音がしない。これは、考えてる音じゃない。
「吉和さん、それはさっき解説したやつで解けるよ」
咲太の声。直後に……
「こういうことですか?」
(……吉和さんか)
自分の授業に戻る。
「じゃあ、次。この問題は一人でやってみよう」
生徒がシャーペンを動かし始める。その音の向こうで、また声が重なった。
「咲太先生、俺のことも助けてよ」
山田くん。
「山田くんはちょっと待ってな」
咲太の返し。
その間。
「山田くん、私が教えようか?」
出た。姫路さんだ。
俺は、内心で確信する。
(……やっぱり、揶揄う癖、抜けてない)
「いや……」
山田くんの戸惑い。
「嫌は、ショックなんだけど」
笑い混じりの声。責めてない。でも、逃がさない。
俺はホワイトボードに式を書きながら、思う。
(あれ、本人は無自覚なんだろうな)
(相手の反応を見るのが、癖になってる)
椅子が寄る音。距離が縮まったのが、音だけで分かる。
「この式を、こっちに入れて……」
シャーペンが走る。説明する声が、すぐ隣にある感じ。
(山田くん、固まってるな)
その気配と同時に、別の沈黙が広がる。
……吉和さん。
ペンの音が、完全に消えた。
俺は、自分の教室の生徒に声をかける。
「途中式、そこ省かない。後で自分が困るから」
そう言いながら、胸の奥で思っていた。
(……ああ、これ)
(人間関係の方が、解けなくなってる)
「わかった?」
姫路さんの声。
「山田くん、やってみて」
また教える側に回っている。しかも、相手が安心し始めているのが、音で分かる。
「こういうこと?」
「なんだ、山田くんできるじゃん」
そのやり取りが、うまく回っていくほど、もう一方は、余計に置いていかれる。
「えっと、吉和さん?」
咲太の声が、少しだけ低くなる。
「大丈夫です。自分で解けます。わかってます」
強い言い切り。
……でも、その強さが、逆に危うい。
その言い切りが、正しさじゃなくて、壁に聞こえた。
「うん、わかってるならいいんだ」
咲太は踏み込まない。正しい判断だ。先生としては。
俺は、ペンを置いた。
(でも……)
(姫路さんは、こういう揺れを、たぶん全部分かってて)
(それでも、ちょっと面白がるところがある)
揶揄う癖。場を回す才能。人の反応を見る速さ。
どれも、長所だ。でも、もし症状と重なっていたら、厄介になる。
「じゃあ、今日はここまで」
咲太の締めの声。
授業終了のざわめき。椅子の音。ノートを閉じる音。
俺は、自分の教室で、生徒に言った。
「よし、今日はここまで。次はここからな」
生徒が帰っていく背中を見送りながら、心の中でだけ呟く。
(……姫路紗良)
(やっぱり、人を揶揄う癖は健在だ)
(しかも、本人はそれを悪いことだと思ってない)
それが、ただの性格なのか。それとも、症状の一部なのか。
境目は、もう、かなり曖昧になってきている気がした。
授業の終わりを告げた俺の声のあと、隣の教室は一気に片付けの音に切り替わった。
椅子が引かれて、ノートが閉じられて、ペンケースのジッパーが走る。
俺は自分の教室で最後の一人を見送ってから、職員室へ戻るために廊下に出た。
ただ、その前に確認したいことがあった。
姫路紗良が、まだ残るのかどうか。
仕切りの向こうから見える背中は、やっぱり姿勢がいい。
山田くんが立ち上がるのと同時に、姫路さんも顔を上げる。
「咲太先生、お疲れ~」
真っ先に荷物を片付けた山田くんが元気よく席を立つ。
「山田くんは、今日の復習をしとくんだぞ」
咲太が声をかけると、すでに出て行こうとしていた山田くんは嫌そうな顔で振り向いた。
「山田くんまた来週、学校でね」
けれど、姫路さんにそう言って手を振られると、ぱっと明るい表情を見せる。
(……山田くんが犬なら、今ごろ尻尾をぶんぶん振ってるだろうな)
「姫路さん、帰んないの?」
「この先の授業のことで、先生と相談あるから」
姫路さんはちらっと咲太を見る。咲太は「ああ」と短く頷いて、机の上のプリントを整え始めた。
山田くんは、もう少し姫路さんと会話を続けようとして口を開きかけた。
その前に。
「そこ、邪魔」
帰り支度を終えた吉和さんが、淡々と言った。
「もう帰るし。邪魔じゃあねえし」
言い返しながらも、山田くんは結局、姫路さんには何も言えずに鞄を掴んだ。
そのやり取りを、俺は廊下の端から見ていた。見てるだけ。聞いてるだけ。いつもの距離。
そのはずだった。
山田くんが廊下に出た瞬間、視線が俺に刺さった。
「あ、岸和田先生。お疲れっす」
元気な声が、急に現実を近づける。
「お疲れ」
俺が短く返すと、山田くんは「っす!」と妙に気合いの入った返事をして、そのままエレベーターの方へ走っていった。
走っていく背中が、また元気だなとだけ思う。
次に顔を出したのは姫路さんだった。
「岸和田先生、お疲れ様です」
言い方は丁寧なのに、口元にだけ、いつもの含みがある。
見てましたよねと、目が言ってる。
「……お疲れ」
俺が視線を逸らさずに返すと、姫路さんは「ふふ」と小さく笑った。
やっぱり揶揄う癖がある。しかも、悪気がない。
その後ろから吉和さんが出てくる。
「お疲れ様です岸和田先生」
姫路さんとは違って、余計な色がない。
その色がないのが、逆に安心する。
俺は少しだけ声を落として言った。
「吉和さん。骨折のこと、大津と浜松さんに伝えてくれたみたいで、ありがとな」
吉和さんは目を丸くしてから、首を横に振った。
「いえ。お二人とも、岸和田先生から最近連絡なくて心配していたようだったので」
その言葉が、胸の奥に小さく引っかかる。
「……そうか」
俺は息を吐いて、苦笑いに近い形で言った。
「吉和さんにも気を遣わせちゃって悪いな」
「気を遣ったというより……念のためです」
淡々としてるのに、妙に優しい言い方だった。
「……ありがとな」
俺はそう言うと、少しだけ話題を変えるために聞いた。
「吉和さんも、沖縄のビーチバレーの大会、出るのか?」
「出ますよ」
吉和さんは少しだけ目を輝かせた。
「九月の大会が台風で中止になって……ずっと心待ちにしてました」
その声は、勉強の話をしてるときよりわずかに熱がある。
ああ、こういう好きは、強いんだな、と分かる。
「となると、塾は休みにするのか?」
「はい。たぶん、その週は」
俺は頷いた。
「もしそうなら、咲太に早めに言っといたほうがいいぞ」
「はい、そうします。お気遣いいただきありがとうございます」
きっちりした返事。俺は最後に、指先で軽く拳を作るみたいに言った。
「ビーチバレーも、勉強も。頑張ってな」
「……はい」
吉和さんは小さく笑って、今度こそ廊下の奥へ歩いていった。
姫路さんはその様子を見て、また含みのある顔をする。
「先生って、ほんと優しいですよね」
「……余計なこと言うな」
「余計じゃないです。観察結果です」
さらっと言い切って、姫路さんは教室の中へ戻った。咲太と話すために。
俺はその背中を見送って、咲太の方へ目をやる。
咲太はホワイトボードに書かれた数式を消しながら、姫路さんに何かを短く返している。
残る。二人で。
それを確認してから、俺は踵を返した。
だけど、今日は少しだけ違う。
姫路紗良の笑い方が、妙に頭に残っていた。
見てるのは、俺だけじゃない。
そんな当たり前を、今さら思い出させるみたいに。
俺はギプスの腕を庇いながら、エレベーターに向かった。
十二月十一日
藤沢駅の改札前は、冬の朝のくせに人が多かった。
吐いた息が白くならないぶん、余計に現実味がある。十二月の空気って、冷たいのに妙に乾いてる。
俺は右腕のギプスをコートの内側に隠すみたいに抱えて、改札の手前で立ち止まった。
人混みの向こうから、のどかが小走りで近づいてくる。帽子を深く被って、マフラーを口元まで上げているのに、目だけで分かる。
「ごめん、待った?」
「全然。今来た」
嘘じゃない。今日はほんとに今来たところだ。
「寒いね……!」
「冬だからな」
俺がそう返すと、のどかは「そりゃそうだけど!」と笑って、俺の隣に並んだ。
横浜駅で卯月と合流して、卯月のお母さんの車で養老渓谷へ。
その前に、藤沢でのどかと合流して、一緒に横浜まで行く。
当たり前みたいに決まってる流れが、俺には少しだけ怖い。
ホームで電車を待つ。
発車メロディが鳴ると、のどかが思い出したみたいに言った。
「ねえ蓮真。あたし体力づくりでキックボクシング習おうかなって思ってるんだ」
「キックボクシング?」
「うん。最近ね、撮影とかライブで体力きついなって思うこと増えてきてさ。あと、なんか……強くなりたい」
強くなりたい、の言い方が、いつもののどかより少しだけ真面目だった。
「蓮真もさ、体力づくりでなんかやったら?」
俺はギプスの端を指で軽く触ってから、肩をすくめた。
「ロードバイクやってるだろ。今は骨折してるからできないけどさ」
「あ……それもそっか」
のどかが小さく言って、視線を一度だけ俺の右腕に落とす。見て、すぐに逸らす。
気を遣わせたくない、と思った瞬間に、もう気を遣わせてるのが分かる。
電車が入ってきて、俺たちは並んで乗り込んだ。
窓際の席が空いていて、のどかが自然に隣に座る。座り方が近い。近いのに、触れない。
発車して少ししたところで、のどかがまた軽い声に戻した。
「そういえばさ。誰かと一緒にツーリング行ったりするの?」
「たまに」
「誰と?」
一瞬だけ、迷った。別に隠すことじゃない。けど、この手の話題は、変に角が立つことがある。
「高三の時の同級生で、大津ってやつと。あと、その友だちの浜松さんっていう」
「……え?」
のどかが目を丸くする。マフラーの上からでも分かるくらい。
「それって……もしかして、ビーチバレーで有名な大津美凪と浜松夏帆のこと?」
「そう」
「え、蓮真、知り合いだったんだ」
驚きが混じった声。少しだけ、嬉しそうにも聞こえるのが、逆に分からなかった。
「ああ、のどか知ってるんだな」
「そりゃあまあ、アイドルやってるからには、そういうことも知ってなきゃだし」
言って、のどかは指を折って数え始める。
「あとね、八重がファンらしくて」
「ああ、安濃さん」
「そうそう。よくスポーツ系バラエティで体張ってるもんね」
「分かる。安濃さん、身体の使い方うまいよな」
のどかが頷いて、少しだけ声を弾ませる。
「ね、体の動かし方とか参考にしてるんだってさ」
「なるほどな」
会話は、きれいに転がる。
引っかからない。刺さらない。安全な話題ばかり。
……それが、俺には一番分かりやすい。
(当たり障りのない会話ばっかしてるな)
そう思う。
のどかが俺に好意を持ってることは、分かってる。
分かってるのに、俺はそこに触れない。
触れないまま、隣に座って、同じ予定を共有して、普通に笑ってる。
卑怯だと思う。
でも、今の俺は、その卑怯さでしか壊さずに済む距離を作れない。
「……ねえ、蓮真」
のどかが窓の外を見たまま言った。
「なに?」
「今日、楽しみにしてた?」
質問は軽い。だけど、答えの重さだけが勝手に増える。
俺は少しだけ息を吐いて、嘘じゃない言葉だけを選んだ。
「楽しみだよ」
のどかが、ふっと笑う。それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
でも……温かくなるのが、怖い。
横浜駅まで、あと少し。卯月と、卯月のお母さんの車が待っている。
俺は窓に映る自分の横顔を見ないようにして、のどかの隣で、ただ次の駅名を聞いていた。
横浜駅の改札を抜けると、空気の匂いが少し変わった気がした。藤沢より人が多くて、歩く速度も一段早い。週末の朝のテンポだ。
「きっしー、こっちこっち!」
先に見つけたのは卯月だった。手をぶんぶん振って、相変わらず目立つ。帽子を被ってても、あれは隠れる気のない人間の動きだ。
「おはよう、卯月」
近づくと、卯月は満足そうに笑って、隣に立つ女性をちらっと見る。
「ででん。お母さん、きっしー来たよー」
「来た来た」
卯月のお母さんは、俺を見るなり、にっと笑った。
初対面の距離じゃない。もう何度も顔を合わせている。
「おはよ、蓮真くん。久しぶり……でもないか」
「おはようございます。この間もお会いしましたね」
「そうそう。ほんと、縁あるよねぇ」
そう言いながら、俺の右腕に目が止まる。
「……骨折。大丈夫?」
声のトーンが、ほんの少しだけ下がった。
「あ、はい。今はもう固定してるだけなんで」
「そっかぁ……無理しちゃだめよ?卯月、ちゃんと気ぃ使いなさいよ」
「え、私?してるよ!」
「口だけじゃなくて、行動ね」
即ツッコミが入る。
「してるってば!ほら、きっしーの腕に当たらないように、今日も気をつけるし!」
「気をつける宣言は信用ならないんだよなぁ」
のどかが冷静に言う。
「ちょっと、のどかまで!」
いつもの構図に、お母さんが声を出して笑った。
「はは、ほんと変わらないねぇ」
その言い方が、たまに会う大人じゃなくて、ある程度見てきた人の距離だった。
「じゃ、寒いし行こ。今日は卯月をよろしくね、蓮真くん」
「いえ、こちらこそお世話になります」
そう返すと、お母さんは軽く手を振った。
「堅い堅い。ほら、乗った乗った」
車に向かう。
運転席に卯月のお母さん、助手席に卯月。後部座席には、俺とのどか。
ドアを閉めるとき、のどかはさりげなく俺のギプス側を避けて動いた。
気づいてないふりをするくらい、ちょうどいい距離感。
エンジンがかかる。
「じゃ、養老渓谷までドライブ開始!いえーい!」
卯月が即座にテンションを上げる。
「テンション上げるのはいいけど、運転の邪魔はしないで」
卯月のお母さんが即ツッコむ。
「えー、助手席は盛り上げ役でしょ?」
「盛り上げすぎると事故るからやめなさい」
「えー」
そのやり取りを、俺は後部座席から見ていた。
卯月の天真爛漫、卯月のお母さんの現実的なツッコミ。
それを見守る俺とのどか。
(……前も、こんな感じだったな)
何度か一緒に出かけたときと、変わらない空気。
変わらないからこそ、今は少しだけ落ち着かない。
アクアラインに入り、しばらくして海ほたるで休憩することになった。
展望デッキに出ると、冬の海の匂いと、冷たい風。
「うわ、すご……!」
卯月が真っ先に声を上げる。
「富士山、見える!」
「ほんとだ……」
のどかが息を吸う。
「七里ヶ浜から見るのとは、また違うね」
「距離あるのに、存在感あるよね」
二人が並んで景色を見る。
少し離れたところで、俺と卯月のお母さんが並ぶ。
「……行かないの?」
お母さんが、顎で二人の方を示した。
「いえ、俺はここで」
そう答えると、お母さんは小さく「そっか」と頷いた。
「骨折してるし、無理もしないほうがいいしね」
一瞬、冗談みたいな言い方をしてから、視線が俺に戻る。
「それだけじゃないでしょ?」
見抜くスピードが早い。
俺は答えなかった。答えなかったことを、責められもしなかった。
「まあいいや」
卯月のお母さんは海の方を見る。
「悩むくらい、ちゃんと考えてるってことだもんね」
その言葉が、胸に静かに落ちた。
「今日はさ、養老渓谷。楽しめばいいから」
「……はい」
俺がそう返すと、ちょうど卯月が振り返った。
「ねえねえ!飛行機見て!羽田に降りるとこ!」
「はいはい、落ち着いて」
のどかが言いながらも、ちゃんと一緒に空を見上げている。
卯月のお母さんが、小さく笑った。
「ほんと、いいコンビだよね」
それが誰に向けた言葉なのか、分からないまま。
俺はギプスの腕を庇いながら、二人の背中を見ていた。
近づけない距離。でも、遠ざけてもいない距離。
その曖昧さを、卯月のお母さんには、もう見抜かれている気がした。
木更津で昼を食べて、再び車に乗り込む。
店を出ると、空気が少しだけ冷たくなっていた。
海沿い特有の、湿り気のある風。卯月のお母さんがエンジンをかけながら、「このあと山の方だから、もう一段寒くなるよー」と軽く言う。
「ちゃんと上着持ってきてよかった」
のどかが自分のコートをぎゅっと掴む。
「私は余裕!」
卯月は相変わらずだ。寒さに強いのか、気にしないだけなのか。
しばらく走って、信号の少ない道に入ったところで、俺はふと思った疑問を口にした。
「そういえばさ」
「なに?」
卯月が助手席から振り返る。
「なんで養老渓谷になったんだ?」
卯月は「あー」と声を出して、思い出すみたいに指を鳴らした。
「紅葉見れるとこ聞いたんだ、八重とほたると蘭子に」
「へえ」
「そしたら、八重は秩父がいいって言って、ほたるは養老渓谷、蘭子は筑波山がいいって返してきて」
「見事にバラバラだな」
俺が言うと、後部座席ののどかが小さく笑った。
「まあ、八重は埼玉出身だし、ほたるは千葉、蘭子は茨城だもんね」
「なるほど」
腑に落ちる。
「地元のおすすめ紅葉スポットってわけか」
「そうそう!」
卯月が満足そうに頷く。
「でね、一番遅くまで紅葉見れるのが養老渓谷だったから、じゃあここでいっか、って」
「いっか、の決め方が軽い」
「結果オーライ主義!」
胸を張る卯月に、のどかがすぐさまツッコむ。
「それ、行き当たりばったりって言うんだよ」
「細かいことは気にしないの!」
そのやり取りを、運転席から卯月のお母さんが笑いながら聞いている。
「まあでも、いい選択だと思うよ。今の時期、ちょうど綺麗だし」
「だよねー」
卯月が即同意する。
少しして、話題が自然に別の方向へ転がった。
「紅葉っていえばさ」
卯月がふと思い出したみたいに言う。
「東京の紅葉スポット、きっしー詳しそうじゃない?」
「……なんでそうなる」
「だって去年、一緒に勉強したときの……」
卯月は眉を寄せて考え込む。
「ええと……アリスなんとか……」
「有栖川宮記念公園だろ」
俺が即答すると、卯月がぱっと顔を明るくした。
「それそれ!あそこ!」
「覚え方が雑すぎる」
「でも良かったじゃん!めっちゃ!」
「まあな」
あそこは、都心のわりに静かで、季節の移り変わりが分かりやすい。
「蓮真、庭園巡りとか好きそう」
のどかが、少しだけ楽しそうに言った。
「そう見える?」
「うん。なんか……落ち着く場所選びそう」
図星すぎて、返事に一瞬だけ間が空いた。
「まあ、そうかもな」
俺は窓の外を見ながら言う。
「都内散策するとき、リフレッシュしに行くことは多いし」
「他にもおすすめある?」
のどかが身を乗り出す。
「浜離宮とか、六義園とか」
「わー、名前だけで雰囲気ある」
「浜離宮は広いし、水辺がいい。六義園は紅葉の時期、夜ライトアップされると結構綺麗だぞ」
「行きたい!」
卯月が即決する。
「今度、みんなで行こうよ!」
そのみんなでに、俺は何も言わなかった。
否定もしないし、肯定もしない。
ただ、卯月のお母さんが、バックミラー越しにちらっと俺を見た気がした。
話しているうちに、道はだんだん細くなり、周囲の景色が変わっていく。
建物が減り、木が増える。山の匂いが、窓越しでも分かるくらい濃くなる。
「あ、着いたっぽい」
卯月が外を覗き込む。
車が駐車場に入ると、色づいた木々が視界いっぱいに広がった。
赤、橙、黄色。混ざり合って、でもちゃんと秋だと分かる色。
「……きれい」
のどかが、小さく呟いた。
卯月はもうドアを開けかけている。
「よーし!養老渓谷、満喫するぞー!」
その声に押されるみたいに、俺もシートベルトを外した。
車を降りた瞬間、ひんやりした空気が肌に触れる。
骨折した腕を庇いながら、深く息を吸った。
ここまで来た。
逃げ場でも、答えでもない場所。
ただ、今は景色を見ていい時間だ。
そう自分に言い聞かせて、二人の後を追った。
物語解説
今回の物語では、姫路紗良という存在を軸にしながら、蓮真の観察する側でいることで保ってきた均衡が、静かに崩れ始める過程を描きました。
塾という閉じた空間で起きているのは、学力差でも人間関係のもつれでもなく、視線の主導権の入れ替わりです。
本来、人を見る側だった蓮真が、気づかないうちに見返され、測られ、揶揄われる。その違和感ははっきりした痛みにはならない分、確信に届かないまま胸に残り続けます。
姫路紗良の言動は、攻撃的ではありません。むしろ丁寧で、礼儀正しく、よく笑う。だからこそ、彼女の視線は見透かすものではなく、逃げ道を残さない種類の圧を持っています。
嘘の雑さ、間の取り方、無意識の仕草。蓮真が無意識に頼ってきた観察の技術が、そっくりそのまま裏返されている構図です。
関本という人物の登場は、その圧に別の形の輪郭を与えました。
「近づくな」という言葉は、忠告の形をしていながら、問題の存在を明確に指し示してしまう言葉でもあります。
姫路紗良の症状そのものではなく、彼女の周囲に集まり始めた関係の歪みが、ここから可視化されていきます。
一方で、物語は同時に、卯月とのどかという二つの距離感を並行して進めています。
予定を共有し、移動を共にし、同じ景色を見て笑う。その時間は確かに楽しく、温度もある。だからこそ、蓮真の中では嬉しさと怖さが分離できないまま共存しています。
のどかの真っ直ぐな好意と、卯月の無邪気な距離の近さ。どちらも拒む理由はないのに、受け止める覚悟だけが追いつかない。
当たり障りのない会話を選び続けることが、誰も傷つけない選択であると同時に、自分を守るための逃げでもあることを、蓮真自身がはっきり自覚し始めています。
卯月の母という大人の視線は、その曖昧さを責めません。ただ「悩むくらい考えている」という事実だけを肯定する。
その距離感は、蓮真がこれまでに出会ってきたどの大人とも少し違うものでした。
紅葉の景色は、答えを出しません。養老渓谷は、逃げ場にも、決断の場にもならない。ただ「今ここにいる」という現実だけを、はっきりと提示します。
この揺らぎが確信に変わるのか、それとも別の形で壊れていくのか。その行き先を、引き続き見届けていただけたら嬉しいです。
次回もぜひお楽しみください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月