青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

今回の更新が、今年最後の投稿になります。

年末はやることは多いのに、気持ちだけはどこか立ち止まってしまう季節で。そんな空気の中で、この回を出せたのは、自分にとっても区切りになりました。

そして来年の秋公開の『青春ブタ野郎はディアフレンドの夢を見ない』については、待ち遠しさだけが先に膨らんでいって、公開日が近づいたら、きっと落ち着かなくなるんだろうな、と思いながら、今のうちからそわそわしています。

この作品を投稿し始めて、だいたい三ヶ月。正直、こんなに多くの人に読んでもらえるとは思っていませんでした。

読んでくれる人がいる。続きを待ってくれる人がいる。その事実が、書き続ける理由になっていました。

感想、評価、しおり、反応。どれも、画面の向こうに誰かがいることを実感させてくれるもので、書く側としては本当に救いになっています。

来年も、無理のないペースで書いていこうと思います。

それでは、良い年末を。

来年も、岸和田蓮真の物語を、どうぞよろしくお願いいたします。


5.夢に侵されて、本音と向き合わされる

 

 十二月十一日

 

 養老渓谷の駐車場に着いた瞬間、空気の温度が一段落ちた。

 

 車のドアを開けると、湿り気を含んだ冷気が頬に触れる。海沿いの風とは違う。山の匂いがする。土と落ち葉と、水の匂い。

 

 卯月が先に飛び出して、両腕を広げた。

 

 「紅葉、待ってたー!」

 

 「声でかいってば卯月、熊寄ってくるよ」

 

 のどかが即座にツッコむ。ツッコミの割に、目はちゃんと景色に奪われていた。

 

 赤、橙、黄色。空気の透明さに色がくっきり浮いて、葉の一枚一枚が光っているみたいだった。

 

 「……行こうか」

 

 俺がそう言うと、卯月のお母さんが「はいはい、置いてかないでよー」と笑った。

 

 ギプスの腕を庇いながら歩き出すと、足元の砂利がざりっと鳴る。普段なら何でもない音が、ここでは妙に現実的で、頭の中の余計なことを少しだけ落としてくれた。

 

 中瀬遊歩道は、川沿いに伸びる道だった。

 

 養老川は蛇行していて、進む角度が変わるたびに、見える景色も変わる。水面の向こうで紅葉が迫るみたいに広がって、渓谷が狭いぶん、色が圧縮されて見えた。

 

 「ねえ、見て見て!」

 

 卯月が立ち止まって、川の方を指さす。

 

 「水、めっちゃ綺麗。写真撮る!撮って!」

 

 「自分で撮りなよ」

 

 のどかが言いながら、結局スマホを構えた。

 

 卯月は素直にポーズを取って、次の瞬間には「きっしーも入って!」と俺の袖を軽く引っ張ろうとして、直前で止めた。

 

 「あ、ギプス……」

 

 「大丈夫だよ」

 

 大丈夫って言うのが、最近の癖になってる気がした。何が大丈夫なのか、分からないくせに。

 

 歩くたびに落ち葉が踏まれて、乾いた音がする。風が吹くと、頭上から葉が一枚落ちてきて、川の流れに吸い込まれた。

 

 弘文洞跡に近づくと、景色の輪郭が変わった。

 

 岩肌が露出していて、削られた地形が跡として残っている。人の手が入ったという事実が、逆に自然の大きさを際立たせる。

 

 「……ここ、ちょっと怖いね」

 

 のどかが小さく言った。

 

 「怖いっていうか、不思議〜」

 

 卯月がそう返して、足元を覗き込む。

 

 俺は何も言わずに、その跡を見た。

 

 削られた場所って、元に戻らない。戻らないのに、そこにちゃんと景色ができる。

 

 (……俺も、そういうのばっか見てるな)

 

 失ったものとか、ずれたものとか。戻らないものの上に出来る、別の当たり前。

 

 懸崖境に向かう道は、空が少し遠くなった。

 

 白っぽい岩肌の崖が、道のすぐ横に迫っていて、地層の線がくっきり見える。層が重なって、時間そのものが固まっているみたいだった。

 

 秋の色は、その白い岩肌に映える。

 

 紅葉の赤が、ただ派手なんじゃなくて、白の隣に置かれて初めて濃さになる。

 

 「……うわ」

 

 俺が思わず声を漏らすと、卯月のお母さんが笑った。

 

 「これ、写真じゃ伝わらないやつだね」

 

 「わかります」

 

 「わかるでしょー?」

 

 卯月が得意げに言う。自分の手柄じゃないのに。

 

 のどかは黙って、しばらく崖を見ていた。目が真面目になるときののどかは、あまり笑わない。代わりに、呼吸が静かになる。

 

 「……綺麗」

 

 その一言だけで十分だった。

 

 梅ヶ瀬渓谷は、空気がさらに静かだった。

 

 人が少ない。道も派手じゃない。だから余計に、落ち葉の音が響く。

 

 屋敷跡の紅葉の大木が作るじゅうたんは、言葉通りだった。

 

 赤と橙の葉が地面を覆って、土の色を完全に隠している。踏むのが勿体ないくらいで、でも踏むと、ふわっと沈む。

 

 「……これ、やばい」

 

 卯月が小声になっているのが珍しかった。

 

 「うん……すごい」

 

 のどかが頷く。二人が同じテンションで黙ると、本当に景色が勝ってるんだなって分かる。

 

 俺は、葉の上に落ちた影を見た。

 

 影が揺れる。風が揺らす。光も揺れる。

 

 (答えは出ない)

 

 でも、綺麗だと思うことは、出せる。

 

 それが救いなのか、逃げなのかは、まだ分からない。

 

 歩き回って、足湯に着いた頃には、足先の感覚が少し鈍くなっていた。

 

 腰を下ろすと、のどかと卯月が靴を脱いで足を湯に入れる。

 

 「はぁ……生き返る……」

 

 卯月が溶けたみたいな声を出した。

 

 「わかる。冷えてたんだね」

 

 のどかが笑って、足を軽く動かす。水面が揺れて、小さな波が広がる。

 

 その二人を見ていると、何かが胸の奥で痛くなる。

 

 近い。温かい。だから、怖い。

 

 俺は湯に入らず、ギプスの腕を膝の上に置いたまま、少しだけ距離を取った。

 

 卯月のお母さんが、俺の隣に座った。

 

 「入らないの?」

 

 「……足は、まあ」

 

 「ギプスのせいじゃなくて?」

 

 問いかけが、軽いのに鋭い。

 

 俺は答えなかった。その沈黙が、答えになってしまうことも、もう分かっていた。

 

 卯月のお母さんは、湯気の向こうで二人を見ながら言った。

 

 「蓮真くんさ」

 

 一拍。

 

 「もしかして、二人との距離に悩んでる?」

 

 誤魔化しは効かない。というより、誤魔化すのが一番ダサいって分かってる。

 

 俺は息を吐いて、視線を落とした。

 

 「……悩んでます」

 

 「だよねぇ」

 

 あっさり肯定される。責めるでもない。驚くでもない。

 

 「二人から好かれるって、幸せ者よ?」

 

 揶揄うみたいな口調。でも、その声にはちゃんと温度がある。

 

 「……幸せ者って言われても、困るんですよ」

 

 俺は、自分の声が少しだけ硬いのを自覚しながら続けた。

 

 「俺、どっちが好きなのか……どう接したらいいのかも、分からなくて」

 

 卯月のお母さんは「そうね」と言って、湯気の向こうを見た。

 

 「私さ、偉そうな恋愛論とか言えるタイプじゃないのよ」

 

 「……そうなんですか」

 

 「うん。だって私、十八で卯月産んでるし」

 

 さらっと言う。さらっと言える強さがある。

 

 「恋愛なんて、勢いでしちゃったことの方が多い。ちゃんと考えて、ちゃんと順番踏んで、ってタイプじゃなかったから」

 

 その言い方が、妙に正直だった。

 

 「学校も、熱心に行ってた方じゃないし。昔は、まあ……やんちゃしてたしね」

 

 「……想像できます」

 

 軽く肩を小突かれて、俺は苦笑いした。

 

 「だからね」

 

 卯月のお母さんは、急に声のトーンを少し落とした。

 

 「蓮真くん、真面目ね」

 

 その言葉は、褒めてるのに、どこか心配も混じっていた。

 

 「真面目だから、答えを出そうとしちゃう。正解を探しちゃう」

 

 俺は何も言えない。図星だった。

 

 「でもさ、恋愛って正解探しじゃないんだよね」

 

 卯月のお母さんは笑う。

 

 「まずは、二人のいいところを、自分がどう思ってるか見つめ直せばいいんじゃない?」

 

 「……二人の、いいところ」

 

 「そう。『好き』って言葉の前に、『どう思ってるか』があるでしょ」

 

 俺は湯気の向こうの二人を見る。

 

 卯月は、足湯でふにゃふにゃになりながら、隣ののどかの肩に頭を寄せかけて、のどかに軽く押し返されてる。

 

 「卯月、重いってば!」

 

 「えー、足湯のせいで力抜けてるだけだもん」

 

 そのやり取りだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。同時に、温かくなるのが怖い。

 

 「まあ、うちの卯月は天然だし、空気読めないバカだけどね」

 

 卯月のお母さんが、平然と言った。

 

 「ちょっと!?お母さん今の聞こえてる!」

 

 卯月が即座に反応する。

 

 「聞こえてるなら直しなさい」

 

 「直すとかじゃないし!」

 

 「バカはバカって自覚するとこから」

 

 「ひどい!」

 

 のどかが小さく笑って、「でも、卯月はそういうところがいいから」とフォローする。

 

 卯月が「えへへ」と単純に照れる。

 

 その一連が、卯月の強さで、のどかの優しさで、二人の関係の当たり前だった。

 

 俺は、その当たり前の中に入れてもらっている。

 

 だからこそ、怖い。

 

 「……確かに」

 

 俺は小さく言った。

 

 「二人のいいところを、自分がどう思ってるか……見つめ直すのは、必要かもしれないです」

 

 「でしょ」

 

 卯月のお母さんが満足そうに頷く。そして、間を置かずに言った。

 

 「まあ母親としてはさ」

 

 俺が顔を上げると、卯月のお母さんは、冗談とも本気ともつかない笑いで続けた。

 

 「卯月には、蓮真くんがいいと思うけど」

 

 「ま、母のひいきってやつ?」

 

 一瞬、言葉が出なかった。

 

 「……それ、今言うんですか」

 

 「言っちゃった」

 

 「やめてくださいよ」

 

 「だって、そう思うから」

 

 軽い。けど軽くない。

 

 俺は苦笑いするしかなかった。

 

 (見つめ直せ、か)

 

 二人のいいところ。

 

 俺は、ちゃんと見てるつもりだった。観察する側だから。

 

 でも、自分がどう思ってるかは、あまり見ないようにしてたのかもしれない。

 

 足湯の湯気が、白く上がって、空に溶けていく。

 

 紅葉の色は、まだ山に残っている。

 

 答えは出ない。

 

 でも、今、少なくとも一つだけ確かだったこと。

 

 俺は、この温度を、失いたくないと思ってしまっている。

 

 それが、いちばん厄介で、いちばん正直な事実だった。

 

 帰りの車内は、思っていたより静かだった。

 

 山道を下り始めると、タイヤがアスファルトを噛む音だけが一定のリズムで続く。エンジン音も、さっきまでより少し低い。

 

 俺とのどかは後部座席。卯月は助手席だった。

 

 しばらくは、紅葉の話とか、足湯がどうだったとか、そんな軽い会話が続いていたはずなのに、気づいたら誰も喋らなくなっていた。

 

 最初に静かになったのは、卯月だった。

 

 助手席でシートに深く身を預けて、首が少し傾く。信号で止まった瞬間、かすかに呼吸が整うのが分かった。

 

 ……寝たな。

 

 後部座席の隣を見る。

 

 のどかも、目を閉じていた。さっきまで真っ直ぐ前を見ていたはずなのに、疲れが出たのか、少しずつ体が傾いてくる。

 

 そして、ゆっくりと。

 

 俺の肩に、重みが乗った。

 

 「……」

 

 反射的に体を動かしかけて、止める。

 

 起こしちゃまずい。

 

 そう思ったのもあるし、それ以上に、今この距離を動かす理由が見つからなかった。

 

 のどかの頭の重さは、思っていたより軽い。温度だけが、はっきり伝わってくる。

 

 助手席からは、卯月の寝息が聞こえる。規則的で、安心しきった音だ。

 

 (……完全に信用されてるな)

 

 その事実が、胸の奥でじわっと広がる。

 

 ありがたい。嬉しい。

 

 でも、それだけじゃ済まない。

 

 二人とも、起きているときと同じ距離で眠っている。

 

 気を遣っていない距離。遠慮のない距離。

 

 俺は、何もしていないのに、その中心にいる。

 

 (このままでいいわけ、ないよな)

 

 答えは出ない。

 

 どっちが好きか、なんて、今すぐ決められるわけがない。

 

 でも。

 

 どう向き合うかは、考えなくちゃいけない。

 

 逃げないこと。

 

 観察して、記録して、分かったふりをするだけじゃなくて。

 

 ちゃんと、向き合うこと。

 

 卯月のお母さんの言葉が、静かに蘇る。

 

 「どう思ってるか、見つめ直せばいい」

 

 俺は、眠る二人をそっと見た。

 

 助手席の卯月。無防備で、真っ直ぐで、疑わない。

 

 肩に寄りかかるのどか。静かで、優しくて、距離を測れる。

 

 どちらも、俺にとって大切だ。

 

 その事実だけは、もう誤魔化せない。

 

 車は、カーブを抜けて、街の灯りが見え始めた。

 

 俺は身動きせずに、ただ考える。

 

 起こさないように。

 

 壊さないように。

 

 でも、何も変えずに済ませる気もない。

 

 この温度を失わないために、何を選ぶのか。

 

 それを決めるのは、まだ先でもいい。

 

 ただ。向き合うことから、逃げない。

 

 その覚悟だけを、俺は静かに抱えていた。

 

 藤沢駅に着いたのは、もう完全に夜だった。

 

 駅前のロータリーに車が止まり、卯月のお母さんが「着いたよ」と軽く言う。

 

 「卯月」

 

 助手席の背もたれを軽く叩く。

 

 「……んー?」

 

 卯月は一瞬だけ眉を寄せて、それからぱちっと目を開けた。

 

 「……あ、着いた?」

 

 「着いた着いた。ほら、起きなさい」

 

 「うわ、寝てた……」

 

 後部座席で、その様子を見ていると、肩にかかっていた重みがゆっくり離れた。

 

 のどかが、少し遅れて目を開ける。

 

 一瞬、状況が飲み込めていない顔。

 

 それから、視線が俺の肩に落ちて、はっとした。

 

 「あ……」

 

 声が小さく漏れる。

 

 「あ、ごめん、蓮真……」

 

 一拍置いて、少しだけ視線を逸らす。

 

 「あたし、寝てた……?」

 

 耳まで赤くなってはいない。でも、頬のあたりがわずかに熱を持ったのが分かる。

 

 「まあな」

 

 俺は、なるべく普通に言った。

 

 「二人とも、ぐっすりだった」

 

 「そ、そっか……」

 

 のどかは短く息を吐いて、髪を耳にかける。

 

 それ以上、何も言わない。

 

 言わないけど、距離を少しだけ空けようとして、結局やめたみたいな中途半端な動きが、余計にのどからしかった。

 

 そのやり取りを、助手席から卯月が見ていた。

 

 完全に起きていたわけじゃない。目を開けながらも、うとうとしていた、その途中。

 

 けれど。

 

 バックミラー越しに映った後部座席の様子を、卯月は確かに捉えていた。

 

 のどかが、少し照れた顔で視線を逸らしていること。

 

 俺が、必要以上に動かず、その距離を受け止めていること。

 

 卯月は、一度だけ目を瞬いた。

 

 (……あれ?)

 

 胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。

 

 名前も、理由も分からない違和感。

 

 卯月はそれを振り払うみたいに、軽く伸びをした。

 

 「んー……」

 

 わざとらしくない、でも少し大きめの声。

 

 「ねえ、きっしー」

 

 助手席から振り返って、いつも通りの笑顔を作る。

 

 「なんかさー、今日めっちゃ歩いたよね?」

 

 その視線が、ほんの一瞬だけ、のどかの方に向いた。

 

 ただ、「見ちゃった」あとに出る、無意識の確認。

 

 「……疲れた」

 

 ぽつっと、卯月が付け足す。

 

 のどかが「うん、さすがにね」と笑って返す。

 

 卯月も、同じように笑った。

 

 いつもと変わらない。天真爛漫で、距離の近い卯月。

 

 けれど、その笑顔の奥に、ほんのわずかだけ、別の感情の、芽みたいなものが混じっていた。

 

 本人すら、まだ気づいていないまま。

 

 卯月がシートベルトを外しながら振り返る。

 

 「じゃあ、きっしー。のどか、また明日ね!」

 

 いつもの調子。何も疑っていない声。

 

 卯月のお母さんも、ミラー越しに言った。

 

 「二人とも、気をつけて帰ってね」

 

 「はい。お世話になりました」

 

 のどかと声が重なる。

 

 タイミングまで一緒だったのが、少しだけ胸に残った。

 

 車を降りると、夜の空気が思ったより冷たい。

 

 ドアが閉まり、車がゆっくりとロータリーを抜けていく。

 

 卯月が助手席から手を振るのが見えて、それが見えなくなるまで、俺とのどかは並んで立っていた。

 

 「じゃ、蓮真」

 

 のどかが、いつもの距離で言う。

 

 「また明日」

 

 「ああ」

 

 短く返す。

 

 それ以上、言葉は続かなかった。

 

 背中を向けて、それぞれの方向に歩き出す。

 

 人の流れに紛れながら、俺は一度だけ振り返った。

 

 のどかは、もう人混みの中だった。

 

 家に帰ると、風呂を沸かした。

 

 コートを脱いで、ギプスの腕に気をつけながら服を置く。

 

 湯船に浸かると、今日一日の疲れが遅れて押し寄せてきた。

 

 養老渓谷。紅葉。足湯。車の中。

 

 考えようとしなくても、勝手に思い出が浮かんでくる。

 

 目を瞑る。

 

 何も見えなくなる。

 

 聞こえるのは、風呂の換気扇の音だけだ。

 

 それが普通だ。

 

 そう思った、次の瞬間だった。

 

 耳の奥で、音楽が鳴った気がした。

 

 「…………」

 

 気のせいじゃない。

 

 はっきりと、何かが聞こえている。

 

 感覚としては、イヤホンで音楽を聴いているときに近い。

 

 ……いや。

 

 そう思った途端、それは、イヤホンの音にしか聞こえなくなった。

 

 流れているのは、聞き覚えのある歌。

 

 >聞かせてよ 聞きたくない あなたの好きな人

 

 >知りたいよ 知りたくない 私の好きな人

 

 霧島透子の曲。

 

 「I need you」

 

 目を開けた。

 

 俺の意識は、もう湯船の中にはなかった。

 

 柔らかいベッド。

 

 枕をクッション代わりに、うつ伏せで寝そべっている。

 

 視界に入るのは、天井と、少し派手じゃない照明。

 

 「……どうしたら、咲太せんせみたいに、人を好きになれるのかな?」

 

 その声は、独り言だった。

 

 次の瞬間、部屋の外から声がする。

 

 「紗良、ご飯よ?」

 

 「……あ、待って。今行く」

 

 音楽が止まる。

 

 ワイヤレスイヤホンを外す感触が、やけにリアルだった。

 

 ベッドから起き上がる。

 

 見えたのは、ぱっと見ただけで分かる女子の部屋。

 

 カーテンの柄。

 

 整頓された机の上の小物。

 

 窓辺に置かれた、小さなサボテン。

 

 クローゼットを開ける。

 

 パジャマと下着を掴んだ、その脇。

 

 姿見に映っていたのは、姫路紗良だった。

 

 自分で鏡を見ている感覚なのに、映っているのは彼女の顔。

 

 息が詰まる。

 

 その瞬間。

 

 はっとして、目を開けた。

 

 そこは、見慣れた家の風呂だった。

 

 湯気の向こう、水面に映るのは、くたびれた俺自身の顔。

 

 「……何だ、これ」

 

 心臓の音が、やけに大きい。

 

 湯船の縁に、指先がかかっているのが分かる。

 

 「どうして……姫路さんが……」

 

 答えは、どこにもない。

 

 ただ一つ確かなのは。

 

 今日一日で、境界線がまた一つ、静かに踏み越えられたということだった。

 

 十二月十二日

 

 二限の国際商学部の講義が終わると、教室の空気が一気に緩んだ。

 

 ノートを閉じながら、隣を見る。

 

 美東美織は、いつも通り何事もなかった顔でペンをしまっていた。内容を理解しているのか、していないのか、外からは分からない。けど、少なくとも退屈そうではない。

 

 「岸和田くん、お昼行こ」

 

 彼女が言う。

 

 「学食?」

 

 「うん。今日は麻衣さん、いるかな〜」

 

 相変わらず、前提が唐突だ。

 

 「最近はCM撮影で忙しいって、この前のどかが言ってたけどな」

 

 そう返すと、美東さんは少しだけ目を細めた。

 

 「……ほんと、岸和田くんって、豊浜さんと仲いいよね」

 

 「まあ……そうだな」

 

 事実だから否定しない。

 

 歩きながら、なんとなく考える。

 

 のどか。卯月。昨日のこと。

 

 「そこに広川さんもいるし」

 

 「……どういう意味だよ?」

 

 思わず、間の抜けた声が出た。

 

 美東さんは、歩調を変えずに言う。

 

 「ううん。意味はないよ。ただ…」

 

 一拍。

 

 「この人、面倒くさいわーって思っただけ」

 

 「きついこと言うな、美東さん」

 

 笑いながら言ったけど、内心では、図星を突かれた感じがしていた。

 

 鋭いところを、容赦なく刺してくる。

 

 「岸和田くんはさ」

 

 学食の入口が見えたところで、美東さんは少しだけ声を落とした。

 

 「自分のこと、もっと好きになった方がいいと思うよ」

 

 「……」

 

 言い返せなかった。

 

 「自分を後回しにする癖、あるし」

 

 「……そうかもな」

 

 短く返すと、美東さんはそれ以上何も言わなかった。

 

 学食は昼時で、かなり混んでいた。

 

 美東さんは迷いなくカウンターへ向かい、掲示板も見ずに言う。

 

 「カツカレー、大盛りで」

 

 「……相変わらずだな」

 

 「頭使った日は糖分と脂質が正義」

 

 どこからその理屈が出てくるのかは分からない。

 

 俺はというと、そこまで食べる気になれず、別の軽めのメニューを頼んだ。

 

 トレーを持って、空いている席を探すと、視界の端に、見覚えのある二人が入った。

 

 向かい合って座っているのは、咲太と麻衣先輩だった。

 

 自然すぎて、一瞬、見逃しかけるくらい。

 

 「……あ」

 

 俺が気づくより先に、美東さんが咲太に声をかけていた。

 

 「ここ、いいですか?」

 

 咲太が顔を上げる。

 

 「好きなだけ座ってくれ」

 

 「え?いいの?」

 

 「いつもの梓川くんなら『邪魔だから遠慮してくれ』とか言うくせに」

 

 「今日の僕は機嫌がいいんだ」

 

 「では、お言葉に甘えて」

 

 「ていうか岸和田、お前も一緒か」

 

 「ああ。さっきまで同じ授業だったから」

 

 そう答えた直後、美東さんが迷いなく咲太の隣に座った。

 

 「……そっち?」

 

 「麻衣さんをじっくり眺めたいからです」

 

 咲太の無言の視線に、美東さんは平然とそう返す。

 

 結果として、空いている席は一つだけだった。

 

 俺はトレーを持ったまま、麻衣先輩の隣に腰を下ろす。

 

 座った瞬間、麻衣先輩の視線が俺の右腕に落ちた。

 

 「蓮真くん、ギプス邪魔ならいつでも言ってね」

 

 声の調子はいつも通りなのに、言葉だけが妙に柔らかい。

 

 「すみません。お気遣いいただいて」

 

 「ううん。遠慮しなくていいの」

 

 それだけ言って、麻衣先輩はフォークを取った。

 

 その自然さが、かえって落ち着かない。

 

 「なんだか楽しそうな雰囲気でしたが、何を話してたんですか?」

 

 大盛りのカツカレーを頬張りながら、美東さんが聞いてくる。

 

 「まあ、人を好きになることについてかな」

 

 「哲学的だね」

 

 「そうか? 野性的だろ」

 

 咲太の返しに、美東さんが小さく笑う。

 

 「でも、なんで急にそんな話?」

 

 麻衣先輩が、何でもないことみたいに言った。

 

 「咲太が、塾のかわいい教え子から聞かれたんだって」

 

 塾の、かわいい教え子。

 

 胸の奥が、わずかに引っかかる。

 

 (……姫路さん、か?)

 

 昨夜のことが、嫌なほど鮮明に浮かぶ。

 

 「……どうしたら、咲太せんせみたいに、人を好きになれるのかな?」

 

 そんな声が、まだ耳に残っている。

 

 「女の子?」

 

 「女子生徒だな」

 

 「うわー」

 

 美東さんが、わざとらしく嫌悪の視線を咲太に向ける。

 

 変態エロ塾講師を見る目だ。

 

 けれど、すぐに真面目な顔に戻る。

 

 「でもさ、わたし、ちょっとわかるな」

 

 スプーンに載せたカツを一口で飲み込みながら言う。

 

 「好きってなんだろうって、時々思う」

 

 それも、そうだよな。

 

 頭の中に、昨日の車内が浮かぶ。

 

 のどかの重み。

 

 卯月の、気づいていない視線。

 

 のどかが好き。卯月が好き。

 

 でも、その「好き」は、いったい何なんだ。

 

 「美東、カツカレー好きか?」

 

 「好きだよ」

 

 「じゃあ、それが好きって気持ちだよ」

 

 咲太の即答に、美東さんがむっとする。

 

 口の中がいっぱいで、文句も言えないままもぐもぐと咀嚼し、ようやく飲み込んでから水を一口。

 

 「この人雑だわー」

 

 そう言いながらも、どこか納得していないわけでもなさそうだった。

 

 「麻衣さんは、梓川くんのどこが好きなの?」

 

 その問いは、咲太ではなく、麻衣先輩に向けられた。

 

 咲太が期待した顔で麻衣先輩を見る。

 

 麻衣先輩は一拍置いて、当たり前みたいに答えた。

 

 「私を大好きなところ」

 

 「……」

 

 美東さんのスプーンが、空中で止まる。

 

 「なんか……真理」

 

 美東さんはそうぽつりと呟いて、カレーにスプーンを沈めた。

 

 (確かに、真理だ)

 

 人から好きと言われたら、好きになる。

 

 そんなの、当たり前のことだ。

 

 でも。

 

 俺は、心のどこかで自分が嫌いだ。

 

 だから、人から向けられる「好き」を、真正面から受け取るのが怖い。

 

 好きになってしまったら、失うのが怖い。

 

 借り物みたいな気持ちで、誰かの好意に縋るのが、どこか卑怯に思えてしまう。

 

 気づけば、俺はほとんど喋っていなかった。

 

 それに気づいたのか、麻衣先輩が一瞬だけ、横目で俺を見る。

 

 何も言わない。

 

 けれど、その視線だけで、胸の内を見透かされた気がした。

 

 そのとき、麻衣先輩のスマホが震えた。

 

 電話に出て、短く返事をする。

 

 「涼子さんが迎えに来たから、もう行くわね」

 

 「今からお仕事?」

 

 「うん」

 

 立ち上がる麻衣先輩に、咲太が言う。

 

 「食器、僕が戻しとくよ」

 

 「ありがと。それじゃあ、お願い」

 

 美東さんに微笑み、最後に俺を見る。

 

 ほんの一瞬だけ、声を落として。

 

 「蓮真くん」

 

 呼ばれて、背筋が伸びる。

 

 「不安がなくなるまで待ってたら、たぶん好きになれないわよ」

 

 それだけ言って、麻衣先輩はそれ以上続けなかった。

 

 言い切らないのに、逃げ道もない。

 

 指輪をした右手を腰のあたりで小さく振って、学食を出ていく。

 

 残された俺は、しばらくその背中を見送っていた。

 

 向き合え、ってことか。

 

 昨日と同じ言葉が、今度は別の角度で胸に落ちてきた。

 

 逃げないこと。

 

 答えを急がないこと。

 

 まずは、自分から目を逸らさないこと。

 

 それだけは、決めてもいい気がした。

 

 仕事に向かう麻衣先輩を見送ったあと、学生も少なくなった学食で、咲太はお茶一杯分だけ

くつろいで過ごした。

 

 その間、先ほど話題にしていた塾の教え子……姫路紗良についてもう少しだけ美東さんに話していた。もちろん、思春期症候群のことは割愛して。

 

 だいたい説明が済んだところで、俺たちは三限の基礎ゼミに間に合うように学食を出た。

 

 百メートルほど離れた場所にある本校舎を目指して歩き出す。

 

 「でも、その子すごいよね」

 

 「ん?」

 

 「梓川くんの教え子」

 

 「男子を転がしてるところが?」

 

 「どっちかというと、女子からの嫉妬を楽しんでるところかな」

 

 「美東は楽しんでないのか?」

 

 俺から見ても、美東さんは明らかにモテる。一緒にいると、男子学生の視線をちらほら感じる。

 

 そうした雰囲気は、周囲の女子にも当然のように伝わり、あまりにも簡単に嫉妬の感情へと発展するのだろう。

 

 実際、美東さんと出会った基礎ゼミの懇親会では、友だちが「いいな」と思っている男子学生から、美東さんは好意の視線を向けられていた。

 

 連絡先を交換する機会を待たれていた。それをかわすために、俺たちのテーブルにひとりで逃げてきたくらいだ。

 

 そうしたところで、友だちから向けられる微妙な感情は、しばらく残ったままだったのではないだろうか。もしかしたら、今も残り続けているのかもしれない。

 

 「わたしは無理だな。わたしにムカついてるくせに、わたしには勝てないって勝手に負けを認めてさあ。でも、わたしの側にいる方が得だから、離れていかない人は『面倒くさいわー』って思っちゃう」

 

 口調はほんわかしているのに、言っていることは案外辛辣だ。

 

 これが嫌味に聞こえないのが、美東さんのすごいところだと思う。そうだよな、と納得できてしまう。

 

 「ま、優越感がまったくないわけじゃないですけど」

 

 最後に、全部笑い話にするように、美東さんはそう付け足してくる。

 

 「なるほど、優越感ね」

 

 必ずしも悪いものではないと思う。自信と隣り合わせの感情だ。

 

 「姫路さんの場合、その優越感が他の感情に勝ってるのかもな」

 

 「それだけ自分のことが好きなんだろうね。他人のことなんかよりもずっと」

 

 「………」

 

 美東さんにとっては、何気ない言葉だったのかもしれない。そういう口調だった。

 

 だが、今の一言は、姫路さんの胸の内を的確に捉えている気がした。

 

 姫路さんの明るさには嫌味がない。

 

 人懐っこさにも邪気がない。

 

 山田くんや俺をからかう様子にも、悪意というものを感じなかった。感じさせなかった。というより、感じていないのだと思う。

 

 誰よりも自然体でやっているそうした仕草や言動は、姫路さんの体の一部になっている。

 

 無理がまったくない。背伸びをしていない。

 

 それは、いつも人の輪の中心にいて、それを当たり前として生きてきたから身に付いた所作のようなものなのではないだろうか。

 

 でも、誰よりも充実し、集団の中で常に恵まれた扱いを受けていたことが、姫路さん自身も気づかないうちに大きな落とし穴にはめてしまったのかもしれない。

 

 姫路さんにとっての好意とは人から向けられるもの。

 

 人から与えられて、受け止めるだけでいいもの。

 

 嫉妬はあるべくしてあるもの。むしろ、自分に自信を持たせてくれる刺激的なものくらいに

思っているのではないだろうか。

 

 そして、そうした環境の中に居続けた姫路さんは、誰かを好きになるよりも、誰かに好かれる自分を一番好きになってしまった。

 

 そう考えた瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。

 

 姫路紗良は、人から好かれることに慣れている。好意を向けられることも、受け取ることも、自然体でやっている。

 

 それは、俺とは真逆だ。

 

 俺は、人から好かれるのが怖い。

 

 受け取ってしまったら、返さなきゃいけない気がしてしまうのだから。

 

 「さすが、モテる美東は言うことが違うな」

 

 「わたしは違いがわかる女ですから」

 

 誇らしげに美東さんが胸を張る。

 

 「ついでと言ったらなんだけど、美東はどうしたらいいと思う?」

 

 「梓川くんのかわいい教え子のこと?」

 

 からかうように、わざわざ“かわいい”を強調してくる。

 

 「そのかわいい教え子のこと」

 

 「その子が言ってた通り、梓川くんみたいに人を好きになれるようにしてあげればいいんじゃない?」

 

 「どうやって?」

 

 「梓川くんに惚れさせてしまえばいいと思う」

 

 言い終えたところで、美東さんは我慢ができずに吹き出した。

 

 「それは名案だな」

 

 心底嫌そうに咲太が答える。それは美東さんにとって、狙い通りの反応だったように見える。

 

 「それか」

 

 美東さんが、俺の方を見る。

 

 「岸和田くんに惚れさせる?」

 

 「……それは無理だろ、美東」

 

 即答だった。

 

 俺も、小さく頷く。

 

 「まあ……そうだな」

 

 冗談なのは分かっている。それでも、否定に迷いはなかった。

 

 「まぁ麻衣さんには内緒にしておいてあげる」

 

 「そりや、どうも」

 

 「あ、でも、梓川くんも気を付けてね」

 

 「気を付けるって、何に?」

 

 「それはもちろん、ミイラ取りがミイラにならないように。っていうか、三人目のエロ塾講師にならないように?」

 

 「僕は麻衣さん一筋だ」

 

 「本当かなぁ?今日、梓川くんからは、そのかわいい教え子ちゃんの話しか聞いてませんけ

ど?」

 

 「………」

 

 鋭いところを突いてくる。

 

 「それって、教え子ちゃんの思う壺なんじゃないですか?梓川先生」

 

 本当に鋭いところを突いてくる。

 

 「気を付けるよ」

 

 咲太のその一言を聞きながら、俺は会話から少しだけ意識を引いた。

 

 姫路紗良の顔が、ふと頭に浮かぶ。

 

 あの屈託のない笑顔。誰かに好かれていることを、疑いもしない距離感。

 

 俺は、ああいう振る舞いができない。

 

 好意を向けられると、どこかで身構えてしまう。

 

 返せるのか。俺なんかが受け取っていいのか。

 

 そんなことを考えてしまう。

 

 その差が、たぶん、決定的だった。

 

 姫路さんは、良くも悪くも、自分の気持ちを優先できる。

 

 その強さは、正直、羨ましい。

 

 でも同時に、どこかで歪みは生まれるだろうとも思った。

 

 人から好かれる自分を一番好きでいられる限りはいい。

 

 それが崩れたとき、姫路さんはどこに立つんだろう。

 

 (……今は、咲太に任せよう)

 

 人と向き合うことに関しては、俺より咲太の方が上手い。

 

 その一方で、俺は思う。

 

 姫路紗良の思春期症候群を解き明かすことが、人から好かれるのが怖い、という俺の気持ちを見つめ直す手掛かりになるんじゃないか。

 

 自分を少しでも好きになれる、何か。

 

 そのヒントが、あの子の中にある気がしていた。

 

 本校舎が、すぐ目の前に見えてきた。

 

 そろそろ、三限の基礎ゼミが始まる時間だ。

 

 三限の基礎ゼミは、いつもより少しざわついていた。

 

 教室の後ろの席に座ってノートを広げていると、扉が静かに開く音がする。

 

 「すみませーん、遅れました」

 

 聞き慣れた声。

 

 のどかだった。そのすぐ後ろに、卯月が続く。

 

 二人とも私服で、少しだけ疲れた顔をしている。メイクもいつもより薄めで、どこか仕事明けの空気が残っていた。

 

 「今日、午前中クイズ番組の収録だったんだよね」

 

 席に来るなり、のどかが小声で言う。

 

 「早押し多くて、頭使った!」

 

 卯月がそう付け足して、俺の横の席に座る。

 

 「……大丈夫そう?」

 

 俺のギプスに目を落としながら、のどかが聞いてくる。

 

 「平気だよ、もう慣れた」

 

 そう言うと、卯月がすぐに動いた。

 

 「じゃ、ノート取るとき、私が紙押さえるね!」

 

 有無を言わせない感じで、俺のノートの端を軽く指で押さえる。

 

 反対側から、のどかがペンケースを差し出した。

 

 「替えのペン。落としたら取りにくいでしょ」

 

 「……ありがとう」

 

 自然すぎる。

 

 特別なことをしている自覚がないのが、余計に刺さる。

 

 講義が始まって、教授の声が教室に広がる。

 

 その間も、二人は何度かさりげなく俺を気にかけてきた。

 

 ページをめくるタイミング。

 

 机の端に置いた資料がずれたとき。

 

 俺が何か言う前に、もう手が動いている。

 

 (ああ、こういうところだ)

 

 のどかが好きなのは。

 

 必要以上に出しゃばらないのに、必要なところだけを正確に拾ってくれる。

 

 俺が「大丈夫」と言った言葉を信じつつ、それでも一歩だけ余分に用意してくれるところ。

 

 一方で、卯月は違う。

 

 「きっしー、それ書きづらくない?」

 

 そう言いながら、俺のノートの角度をぐいっと直す。

 

 遠慮がない。確認もしない。

 

 でも、それが嫌じゃない。

 

 むしろ、考え込む前に動いてくれるから、救われている。

 

 (……ほんと、種類が違う)

 

 同じ「助ける」でも、方向がまるで違う。

 

 講義が終わり、教室がざわざわとし始める。

 

 卯月が伸びをして言った。

 

 「はー、今日も終わったー」

 

 のどかは小さく息を吐いて、俺を見る。

 

 「ねえ、蓮真」

 

 「ん?」

 

 「先に言っておきたくて」

 

 一拍置いて、のどかが続ける。

 

 「これからクリスマスまで、ライブとか収録とか撮影が詰まってて……たぶん、あんまり会えないかも」

 

 卯月も、少しだけ申し訳なさそうに頷いた。

 

 「ごめんね。連絡はするけど、タイミング合わないかも」

 

 その言葉に、胸の奥が一瞬だけきゅっとなる。

 

 でも、それ以上に、二人が「先に言ってくれた」ことが嬉しかった。

 

 「気にしなくていいよ」

 

 俺は、できるだけ軽く言った。

 

 「仕事だろ?二人とも」

 

 「ほんと?」

 

 「ほんと」

 

 卯月が少し安心した顔をして、「よかったー」と笑う。

 

 のどかも、ほっとしたように肩の力を抜いた。

 

 その笑顔を見て、俺は思う。

 

 (……会えないなら、会えないなりにできることがある)

 

 クリスマス。

 

 二人とも忙しくて、一緒に過ごせないかもしれない。

 

 それでも。

 

 何か残したい。

 

 形にして、ちゃんと渡したい。

 

 プレゼント、か。

 

 高いものじゃなくていい。

 

 卯月には、卯月らしいもの。

 

 のどかには、のどからしいもの。

 

 それを考えている自分に気づいて、少しだけ可笑しくなる。

 

 (結局、俺は)

 

 もう、二人のことを考えない時間の方が少ない。

 

 教室を出るとき、卯月が振り返って言った。

 

 「じゃあ、きっしー。元気でね!」

 

 のどかも、隣で小さく手を振る。

 

 「無理しないでよ」

 

 「二人もな」

 

 短く返しながら、俺は思う。

 

 忙しくて会えない時間も、たぶん、無駄じゃない。

 

 好きな理由を、ちゃんと自分の中で言葉にできる時間になる気がしていた。

 

 十二月十三日

 

 二限の英語の授業は英会話が中心だ。

 

 机を並べて座り、テーマごとに話す形式。

 

 教授はほとんど口を出さず、間違ってもいいからとにかく話せ、というタイプだ。

 

 隣には麻衣先輩と美東美織。

 

 「Okay, talk about your plans for Christmas.」

 

 そんなお題が出て、場の空気が少しだけざわつく。

 

 俺は、頭の中で一瞬だけ、のどかと卯月の顔を思い浮かべた。

 

 ライブ、収録、移動。

 

 忙しい二人。

 

 会えないかもしれないって言われた時の、あの申し訳なさそうな表情。

 

 順番が回ってきて、簡単な英語で無難に答える。

 

 「I might go to a live concert.」

 

 それだけ。

 

 嘘ではないし、全部でもない。

 

 授業が終わり、学生たちが一斉に立ち上がる。

 

 俺はノートを閉じてから、少しだけ間を置いて声をかけた。

 

 「麻衣先輩」

 

 振り返った麻衣先輩は、すぐに気づいてくれた。

 

 「なにかしら?」

 

 「ちょっと……いいですか」

 

 美東さんが「じゃ、先行ってるね麻衣さん」と、察したように手を振って教室を出ていく。

 

 廊下に出て、人の流れが少し落ち着いたところで、俺は言った。

 

 「……のどかに、クリスマスプレゼントをあげようと思ってて」

 

 一瞬、麻衣先輩の目が細くなる。

 

 驚いたというより、確認するような視線だった。

 

 「へえ」

 

 それから、ふっと小さく笑う。

 

 「蓮真くん、ちゃんと向き合う気になったのね」

 

 図星だった。

 

 否定しようとも思わなかった。

 

 「……はい」

 

 短く答えると、麻衣先輩は少し歩きながら言った。

 

 「のどか、最近は街ぶらロケとかライブとかで、外にいることが多いでしょ」

 

 「そうですね」

 

 「冬になって乾燥もしてきたし……」

 

 一拍。

 

 「ハンドクリームのセットなんて、どうかしら?」

 

 なるほど、と思った。

 

 形になるけど、重すぎない。日常で使える。気遣いとして自然だ。

 

 「……いいですね」

 

 「香りは強すぎない方がいいわね。仕事中にも使えるし」

 

 そこまで具体的に考えてくれているのが、ありがたかった。

 

 「ありがとうございます」

 

 「どういたしまして」

 

 麻衣先輩は、ほんの少しだけ声を落として言った。

 

 「向き合うって、派手な覚悟じゃなくていいのよ」

 

 「……」

 

 「こういう、小さな選択の積み重ねだから」

 

 その言葉が、胸に残った。

 

 夜、いつものファミレス。

 

 席に着く前に、カウンターの方から声がする。

 

 「あ、蓮真さん」

 

 花楓ちゃんだった。

 

 エプロン姿で、いつもより少し忙しそうだけど、きちんと目を合わせてくれる。

 

 「こんばんは」

 

 「こんばんは、花楓ちゃん」

 

 水を置きながら、ふと思い出したみたいに聞いてくる。

 

 「そういえば……」

 

 「どうしたの?」

 

 「蓮真さんも、スイートバレットのクリスマスライブ、行くんですか?」

 

 「たぶん、行く」

 

 「ですよね」

 

 小さく笑ってから、続ける。

 

 「卯月さんも、のどかさんも出ますし」

 

 「ライブって、特別ですよね」

 

 「特別、か」

 

 「はい。終わったあとまで、思い出に残る感じがして」

 

 その言葉を聞いて、俺はふと思った。

 

 約束や時間は、もう共有している。

 

 でも、形になるものは、まだ渡していない。

 

 「実はさ、花楓ちゃん」

 

 「なんですか?」

 

 「……プレゼント、どうしようか考えてて」

 

 花楓ちゃんが、少し目を輝かせる。

 

 「もしかして卯月さんに、ですか?」

 

 「ああ」

 

 「そうですね。だったら……イヤーマフとか」

 

 「イヤーマフ?」

 

 「はい。どうせなら、キャラモチーフのとか」

 

 その瞬間、記憶が繋がる。

 

 「あいつ……カービィ好きだったな」

 

 花楓ちゃんは、納得したように頷いた。

 

 「やっぱり」

 

 「やっぱり?」

 

 「前に、LINEでカービィの話しました」

 

 「カービィのイヤーマフ、探してみるか」

 

 「きっと、喜びますよ。卯月さん」

 

 その言葉に、少しだけ背中を押された気がした。

 

 のどかには、ハンドクリーム。

 

 卯月には、イヤーマフ。

 

 どちらも、ちゃんと相手を見てる選択だ。

 

 それだけで、十分じゃないか。

 

 そう思えた自分を、今日は少しだけ好きになれた。

 

 十二月十四日

 

 大学の授業を終えて、十八時からの塾のバイトに間に合うように駅へ向かった。冬の夕方は、日が落ちるのが早い。キャンパスの外に出た瞬間、空気がひゅっと頬を刺す。

 

 塾の入っているビルが見えたところで、ちょうど入口付近に見覚えのある背中がいた。

 

 「……山田くん?」

 

 振り向いたのは、咲太の担当生徒、山田健人だった。リュックを片方の肩に掛け、妙に余裕のある顔をしている。

 

 「うわ、岸和田先生じゃん。マジで同じタイミング」

 

 「山田くんか、今日早いんだな」

 

 山田くんは俺の右腕、ギプスにちらっと目を落として、すぐに視線を戻した。気を遣ってるのか、ただの情報処理なのか、判断がつかない距離感。

 

 ビルの自動ドアが開いて、暖房の空気が足元から漏れてくる。エレベーターに向かいながら、山田くんが唐突に聞いてきた。

 

 「そういえば岸和田先生、クリスマスって用事とかあるんすか?」

 

 「用事ってほどじゃないけど……ライブを見に行く予定」

 

 「へぇ、岸和田先生ライブ行くんすね。何のライブ?」

 

 答えが喉に引っかかる。

 

 言うだけなら簡単だ。けど、言った瞬間に余計な派生が起こるのは目に見えている。

 

 「スイートバレットっていうグループの」

 

 言い終わった瞬間、山田くんの目がぱちっと見開かれた。

 

 「まじで?」

 

 「まじだ」

 

 「岸和田先生、ファンだったんだ……」

 

 「ファン、ってほど大げさじゃない」

 

 そう言ったのに、山田くんは勝手にテンションを上げていく。

 

 「え、じゃあ推しメン誰なんすか?」

 

 (……来た)

 

 ここで変な間を置くと、余計に怪しまれる。逆に即答すると、俺自身が嫌に意識してるみたいで腹が立つ。

 

 「豊浜のどかか、広川卯月かな」

 

 “か”。その二文字が、今の俺の逃げ道だ。

 

 山田くんは、にやっと笑った。

 

 「まじ?俺も広川卯月派」

 

 「……派ってなんだよ」

 

 「派は派っすよ。あの子、天然で空気読めないのに、たまに刺さること言うじゃないすか」

 

 刺さる。確かに刺さる。

 

 俺の脳内に、卯月の笑顔が浮かんで、勝手に消えた。

 

 「そういう山田くんは、豊浜のどか派じゃないんだな」

 

 「いや、豊浜のどかも強いっすよ? 強いけど、広川卯月の方がこう……わかんない感じが好きっす」

 

 こいつ、何を語ってるんだ。

 

 エレベーターが来て、俺たちは並んで乗り込んだ。

 

 「ていうかさ」

 

 山田くんが、さらに無邪気に爆弾を投げてくる。

 

 「岸和田先生、広川卯月と同じ大学っしょ?サインとか貰えないんすか?」

 

 「……は?」

 

 声が少し裏返ったのが、自分でも分かった。

 

 まさか、その卯月から好意まで向けられていて、その本人を、のどかと並んで意識し始めている、なんて悟られたら、面倒どころじゃ済まない。

 

 「そういうのは、梓川先生に頼ってくれ」

 

 俺はできるだけ平静を装って言った。

 

 「……あいつの方が芸能界と接点あるだろ。桜島麻衣の彼氏だし」

 

 「ま、それもそっか」

 

 山田くんはあっさり納得した、かと思った次の瞬間、口角を上げて追い打ちをかけてくる。

 

 「岸和田先生、女縁なさそうだし。彼女いないし」

 

 「余計なお世話だ」

 

 即答したのに、山田くんは「ウケる」と笑った。

 

 やられっぱなしも癪に触る。反撃くらいはしておく。

 

 「そういう山田くんは、気になる相手とかいないのか?」

 

 「別に。気になる相手なんていねぇーし」

 

 吐き捨てるみたいに言う。見事なまでの即否定。……そして、その否定の仕方が、妙に雑だ。

 

 「へぇ」

 

 俺が間の抜けた相槌を打つと、山田くんは一瞬だけ目を逸らした。

 

 「……なんすか、その顔」

 

 「いや。気になる相手いない奴って、もっと余裕ある顔すると思っただけ」

 

 「うわ、岸和田先生、咲太先生みたいな煽り方するじゃん」

 

 「お前が先に煽った」

 

 そう言い返したところで、エレベーターが目的の階に着いた。

 

 ドアが開く。塾の廊下の匂い、消しゴムのカスと暖房の乾いた空気。現実が戻ってくる感じがする。

 

 山田くんが先に降りながら、振り返って言った。

 

 「ま、でも岸和田先生、推しメン二人って欲張りっすね」

 

 「欲張りじゃない。決めてないだけだ」

 

 「それが一番めんどいっすよ」

 

 正論を、さらっと刺してくる。

 

 俺は何も返せず、廊下の照明を見上げた。

 

 (……めんどいのは、分かってる)

 

 分かってるから、余計にめんどくさい。

 

 エレベーターから降りると、山田くんは、「こんちわーっす」と、元気だけど、どこか力の抜けた声を、咲太と吉和さんに投げた。

 

 その横には、俺もいた。

 

 「……あ」

 

 咲太がこちらに気づいて、少しだけ眉を上げる。

 

 「岸和田、今日は山田くんと一緒か」

 

 「ああ。さっき偶々、下で会って」

 

 それだけの、何でもないやり取り。

 

 ……のはずだった。

 

 咲太の隣に立っていた吉和さんが、こちらを見て一瞬だけ動きを止める。

 

 そして、

 

 「……岸和田先生、こんばんは」

 

 少しだけ、声が上ずっていた。

 

 目を合わせているのに、視線が定まらない。頬が、わずかに赤い。

 

 「こんばんは」

 

 俺がそう返すと、吉和さんは小さく会釈して、すぐに視線を逸らした。

 

 (……ん?)

 

 違和感は、一瞬だったけど、確かにあった。

 

 「……二人で何話してたんだ?」

 

 訝る、というほど露骨じゃない。けれど、探るような声だった。

 

 「別に」

 

 咲太は、即答した。

 

 早すぎる否定。

 

 「ちょっと、進路の話とか」

 

 「へぇ」

 

 俺はそれ以上突っ込まなかったが、完全に納得もしていなかった。

 

 山田くんは、そんな空気をまったく気にせず、ポケットに手を突っ込む。

 

 「揃ったみたいだから、授業はじめるか」

 

 「……あれ?姫路さんはもう教室?」

 

 山田くんのその一言に、俺は内心で頷く。

 

 やっぱり、そこを見るよな。

 

 「姫路さんは、今日から別メニュー。時間も後ろにずらすことになった」

 

 「へ、へぇ」

 

 関心なさそうな声。

 

 でも、さっきの吉和さんと同じだ。

 

 早すぎる反応は、だいたい本音を隠してる。

 

 「すぐに行くから、教室で待っててくれ」

 

 「咲太先生、今日なにすんの?」

 

 「まずは前回のおさらい」

 

 「もうサイン、コサインはいいよぉ」

 

 「タンジェントもあるぞ」

 

 「まじうぜぇ」

 

 心底嫌そうな声を出しながら、山田くんが教室に入っていく。

 

 その背中を、吉和さんは見えなくなるまで見送っていた。

 

 俺からは、その横顔がよく見えた。

 

 唇を引き結んで、視線だけを落とす仕草。

 

 さっきの赤みは、まだ引いていない。

 

 (……なるほど)

 

 咲太と吉和さんが何を話していたのか。

 

 全部は分からない。

 

 けれど、少なくとも、俺がそこに加わった瞬間、空気が変わったのは確かだった。

 

 十八時にはじまった八十分間の授業は、予定通り十九時二十分に区切りがついた。

 

  授業の終わりが近づくころ、向こうの声が少しだけはっきり聞こえるようになる。

 

 「山田くん、よくできました。今日はここまで」

 

 「やっと終わったー。塾の授業長すぎるって」

 

 「大学行ったら、九十分あるからな」

 

 「俺、絶対に大学行かないわ。今、決めた。行かないね」

 

 机に突っ伏す音。

 

 そして、少し間を置いて。

 

 「あ、そうだ。山田くん」

 

 「なに?」

 

 「次の土曜だけど、来週の二十三日に振り替えてもいいか?」

 

 「お、まじ?土曜休みでいいの?」

 

 「振り替えな」

 

 「でも、なんで?」

 

 「吉和さんが沖縄で試合があるんだって」

 

 「へえ、それって全国?」

 

 「そうだけど」

 

 「一年なのにすげえな」

 

 「別に普通」

 

 その一言に、空気が変わる。

 

 「いや、普通じゃねえから。がんばれよ」

 

 ほんの一瞬の沈黙。

 

 「……うん、がんばる」

 

 その返事は、思ったより素直だった。

 

 次の瞬間、椅子が引かれる音。

 

 「失礼します」

 

 早口で言い残して、足音が遠ざかる。

 

 コートも羽織らず、鞄と一緒に手に持って。

 文字通り、逃げるみたいに。

 

 (……ああ)

 

 俺は、ペンを置いたまま天井を見上げた。

 

 吉和さん、完全にやられてるな。

 

 残されたのは、咲太と山田くん。

 

 山田くんは、机に突っ伏したまま、帰る気配がない。

 

 その沈黙が、逆に雄弁だった。

 

 (山田くんが気にしてるの、やっぱり姫路さんだ)

 

 確信に近い感覚。

 

 そして同時に、もう一つ思う。

 

 今日このあと、姫路さんが来るなら。

 

 まずは、咲太とどんな会話をしているのか。

 どんな距離で、どんな温度で話しているのか。

 

 俺は、今日は出ない。

 

 観察する。

 

 様子を見て、それから、必要なら、こちらから接触する。

 

 急ぐ必要はない。

 

 境界線を踏み越えるなら、順番は間違えたくなかった。

 

 俺は、そっと時計を確認した。

 

 まだ、時間はある。

 

 隣の教室から、また声がはっきりと聞こえ始めた。

 

 壁一枚隔てているだけなのに、今夜の塾はやけに静かで、会話がそのまま流れ込んでくる。

 

 「山田くんは帰らないのか?」

 

 咲太の声。

 

 ……やっぱり、帰らない。

 

 いつもなら、授業が終わった瞬間に真っ先に教室を出ていくのが山田くんだ。なのに今日は、椅子を引く気配すらない。

 

 「あのさ、先生」

 

 「なんだ?」

 

 「姫路さんって、付き合ってる人いんのかな?」

 

 俺は、ペンを止めた。

 

 (……確定だな)

 

 山田くんが気にしているのは、姫路さんだ。

 さっきまでの雑な否定も、落ち着かない視線も、全部ここに繋がる。

 

 すると、足音が一つ、こちらに近づいてきた。

 

 「……岸和田先生」

 

 呼ばれて、俺は顔を上げた。

 

 廊下に立っていたのは、姫路紗良だった。

 

 教室に入る直前で、まるで思い出したみたいに足を止めている。

 

 「こんばんは」

 

 いつも通りの笑顔。でも、その目は、妙に澄んでいた。

 

 「こんばんは。どうした?」

 

 そう聞き返すと、姫路さんは一歩だけ近づいて、俺の手元にちらりと視線を落とす。

 

 ノート。問題用紙の端。さっきまで、無意識に書いていた数式。

 

 「……問題、解いたんですね?」

 

 軽い口調。問いかけというより、確認に近い。

 

 俺は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 (……見えてる)

 

 俺が姫路さんの思春期症候群を、ほぼ看破していること。

 

 それを、推測という形とはいえ、咲太に伝えたこと。

 

 全部じゃない。でも、核心に触れている。

 

 それを、姫路さんは分かっている。

 

 「……まあ、少しだけな」

 

 誤魔化しきらない程度に、そう答えた。

 

 姫路さんは、ふっと笑った。

 

 「ですよね」

 

 否定もしない。追及もしない。

 

 でも、その「ですよね」は、完全に見透かした響きだった。

 

 「岸和田先生って」

 

 一拍置いて、続ける。

 

 「考える前に、もう答えの形を見ちゃうんですね」

 

 胸の奥が、きしっと鳴った。

 

 それは、咲太にも、麻衣先輩にも、のどかにも、卯月にも言われたことがない。

 

 でも、一番近いところを突いてくる言葉だった。

 

 「……買いかぶりだよ」

 

 そう返すのが、精一杯だった。

 

 姫路さんは首を横に振る。

 

 「ううん。たぶん、当たってます」

 

 「だから」

 

 振り返らずに、続けた。

 

 「解けても、答えが出るとは限らないですよね」

 

 姫路さんはいつもの、明るい声に戻って、「あ、まだ授業してました?」といいながら、そのまま、何事もなかったみたいに教室へ入っていった。

 

 廊下に残された俺は、しばらくその場から動けなかった。

 

 (……参ったな)

 

 見透かされた。

 

 思春期症候群の核心だけじゃない。

 

 俺自身が、答えを出すのを怖がっていることまで。

 

 姫路さんの問題は解ける。

 

 でも、人を好きになる理由は、まだ解けていない。

 

 そのことを、姫路紗良は、もう、分かっている。

 

 俺は、深く息を吐いてから、そっと視線を落とした。

 

 「山田くんが姫路さんに聞きたいことがあるんだって」

 

 「ちょっ! 咲太先生!」

 

 山田くんの声が裏返る。

 

 「山田くん、なに?」

 

 「た、たいしたことじゃないから」

 

 「なら、聞いてよ。気になるから」

 

 姫路さんの声は、責めていない。ただ純粋に気になる声だ。

 

 「えーっと、それは………もうすぐ、クリスマスじゃん?」

 

 「うん」

 

 「最近、学校でも付き合ってる連中増えてきたしさ」

 

 「ちょっと焦るよね」

 

 ……焦る、か。

 

 その一言が、胸の奥で引っかかった。

 

 「姫路さんは、付き合ってる人いないのかなぁ?って、咲太先生と話してたんだよ」

 

 うまく着地したつもりの言い方。

 でも、咲太を巻き込んだ時点で、もう逃げ場はない。

 

 「どうして、山田君はそんなことが気になるの?」

 

 「え?どうしてって」

 

 「姫路さんに恋人がいたんじゃ、クリスマスの二日間は授業入れられないと思ってさ」

 

 「クリスマスに授業をしたくないのは、咲太せんせの方ですよね?」

 

 「そうだな。絶対に入れたくないな」

 

 「先生、俺らと恋人、どっちが大事なんだよ」

 

 「そりゃあ、恋人だろ」

 

 「それ、思ってても言わないでください。しかも、そんな真顔で」

 

 笑い声。

 

 姫路さんも、山田くんも、表面上は軽い。でも、山田くんだけが笑えていない。

 

 「そうだぜ、先生」

 

 「じゃあ、俺、帰る」

 

 逃げる。

 

 「あ、山田くん」

 

 その背中を、姫路さんが呼び止めた。

 

 「え、なに?」

 

 名前をはっきり呼ばれて、山田くんの返事が遅れる。

 

 「私、付き合っている人はいないけど、気になってる人ならいるかな」

 

 ……ああ。

 

 「………」

 

 壁越しでも分かる。山田くん、完全に固まってる。

 

 「それだけ。ばいばい」

 

 姫路さんの声は軽い。でも、その一言は、確実に山田くんの胸を撃ち抜いた。

 

 「ああ、うん」

 

 意味のあるような、ないような返事。

 

 足音が遠ざかる。

 

 (やっぱりな)

 

 山田くんが気にしていたのは、姫路さんだ。

 

 そしてその好意は、本人が思っているよりずっと深い。

 

 隣の教室に残ったのは、咲太と姫路さん。

 

 ここからが、本題だ。

 

 「今のは、そういう話題を振った咲太せんせが悪いと思います」

 

 「別に責めてないよ」

 

 「でも、『またやった』って顔で見てました」

 

 「たいしたもんだと思って、感心してたんだ」

 

 「それ、ある意味で、ですよね?」

 

 「いろんな意味で」

 

 二人の距離が、近い。

 

 自然で、当たり前みたいな距離。

 

 「じゃあ、どうすればよかったのか、今日の授業で咲太せんせが教えてください」

 

 「じゃあ、まずはこれを解いてみて」

 

 紙の擦れる音。

 

 「一枚目は、共通テストくらいのレベルの問題。二枚目は難関大学の過去問ね。全部、二次関数の問題だから」

 

 そして。

 

 「これを解けば、咲太せんせみたいに、人を好きになれるんですか?」

 

 ……同じだ。

 

 日曜日に見た、姫路紗良の幻覚。

 

 あのとき、彼女はまったく同じことを言っていた。

 

 偶然じゃない。

 

 これは、姫路さんの本音だ。

 

 姫路紗良にとって、咲太は、人を好きになることを、わかりたい理由なんだ。

 

 じゃあ。

 

 (俺にとって、その理由は何だ?)

 

 自信のなさだろうか。

 

 人から好かれることに、慣れていないからだろうか。

 

 麻衣先輩や咲太みたいに、覚悟を持って「好き」を引き受ける強さがないからだろうか。

 

 それとも。

 

 赤城や浜松さんみたいに、自分の好意を、ちゃんと言葉にする勇気がないからだろうか。

 

 俺は、人から好かれるのが怖い。

 

 受け取った瞬間、返さなきゃいけない気がしてしまう。

 

 返せないなら、最初から受け取らない方がいい、そんな逃げ方を、ずっとしてきた。

 

 「姫路さんの今の学力がわかるよ。時間は四十分」

 

 咲太の声が、現実に引き戻す。

 

 俺は、自分の教室で、ノートの端を指でなぞった。

 

 さっき、姫路さんに言われた言葉が、まだ耳に残っている。

 

 「考える前に、もう答えの形を見ちゃうんですね」

 

 それは、褒め言葉じゃなかった。たぶん、警告に近い。

 

 答えの形を見てしまえば、その形に合わせて行動したくなる。

 

 正しい順番とか、正しい距離とか、正しい言い方とか。そういう枠に、気持ちまで押し込めたくなる。

 

 でも、気持ちは枠の中に収まらない。

 

 収まらないから、怖い。

 

 怖いから、俺はずっと「解く」方に逃げてきた。

 

 姫路さんの思春期症候群は解ける。

 

 だけど、俺の中の“好き”は、まだ解けない。

 

 その矛盾を抱えたまま、俺は塾の時計を見上げた。

 

 秒針が、淡々と進んでいる。

 

 四十分。

 

 答えが出るまでの時間じゃない。

 

 今の場所を見せつけられるだけの時間だ。

 




物語解説

今回は、岸和田蓮真という人物の「足が止まる瞬間」を、できるだけ丁寧に描いた回でした。

蓮真は、観察することができる。推測することも、整理することも、人より得意であり、その力で、誰かの思春期症候群の輪郭に触れることもできます。

一方で、「自分がどうしたいのか」「なぜ人を好きになるのか」という問いに対しては、いつも一歩引いてしまう。

姫路紗良の言葉や態度は、そんな蓮真にとって、どこか鏡のような存在です。

自分の気持ちを優先できる強さ。人から好かれることを前提にした生き方。それを羨ましいと思いながら、同時に、どこか危うさも感じてしまう。その感情の揺れが、今回の軸のひとつでした。

そして、その違和感は、のどかや卯月と一緒に過ごす「当たり前に楽しい時間」にさえ、静かに影を落とします。

その中で、「このままではいられない」という感覚だけが、蓮真の中に確かに芽生えていきます。

問題を解くことと、気持ちを理解することは、似ているようで、まったく違う。模範解答をなぞっても、それは自分の答えにはならない。

だからこそ彼は、解けない問題を前に立ち止まり、それでも目を逸らさずに考え続けようとしています。

次回以降は、もう少しだけ踏み込む話になるはずです。その一歩が誰かに向くのか、あるいは自分自身に向くのか。それは、まだ蓮真本人にも分かっていません。

引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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