青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十二月十四日
咲太は、教卓の端に腰をかけて、姫路さんの手元を覗ける位置に座る。
解説をするために、自分の手元にも同じ問題用紙を置いた。手本を示すには、先生の方も解けなきゃ話にならない。
まずは一枚目。
共通テストを想定した、典型的な二次関数の問題。
咲太は、三問とも解を導き出すことができた。
途中で計算が面倒な箇所はあったが、流れは見える。グラフの形も、最終的にどこへ着地させればいいかも分かる。
ここまでは、順調だった。
問題は、二枚目。
難関大学の過去問二問。
咲太は、その二つを選んだときは、正直、「いける」と思っていた。
模範解答を見て、分かった気になっていた。
導入の発想も、途中の置き換えも、「なるほどね」で済ませていた。
でも。
いざ自分で解こうとした瞬間、紙の上が真っ白に見えた。
式は書ける。途中までは行ける。けれど、そこから先が繋がらない。
(……あれ?)
咲太は、ペン先を止めた。
模範解答の流れを思い出そうとしても、記憶が曖昧だ。あのときは「そうなるんだ」で流した部分が、今は壁になっている。
自分が「分かったつもりだった」だけだという事実が、じわっと突き刺さってくる。
さすがに、解けないままではまずい。
姫路さんの前で「先生の方が分かりません」は、致命的だ。
咲太は咳払いを一つしてから、机の脇の棚へ手を伸ばした。参考書。分厚い解説書。
ページをめくり、該当の単元を探し、解説文を読んで、眉間が、ほんの少しずつ深くなる。
解説は丁寧だ。丁寧すぎて、逆に迷子になる。
「……ここで平方完成して、場合分けして……いや、なんでこの場合分け必要なんだ?」
独り言が漏れる。
隣の教室から聞こえるのは、姫路さんのペンの音だけだった。
カリカリ、と一定のリズム。
それが、妙にプレッシャーになる。
咲太は、参考書と問題用紙を見比べ、さらに格闘した。
そして、ふと、壁一枚隔てた向こうにいる俺の存在を思い出したみたいに、顔を上げた。
「……岸和田」
「ん?」
呼ばれて、俺は顔を上げる。
咲太は、いつも通りの顔で言った。
「暇なら手伝ってくれないか」
「暇じゃないけど」
反射で返すと、咲太は平然と続ける。
「僕が困ってる。つまり、暇だろ」
理屈が雑すぎる。
それでも、俺は立ち上がって隣の教室へ向かった。
廊下に出てドアを開けると、姫路さんが顔を上げた。
「え、岸和田先生も参加ですか?」
「参加っていうか、補習」
「豪華ですね、先生二人なんて」
軽く言いながらも、姫路さんは目を細めた。
“分かってる”目だ。
俺は咲太の机に回り込み、二枚目の問題用紙を覗く。
「どっち?」
「この一問目。導入はできるのに、途中で詰まる」
問題文を読む。
設定はシンプル。けれど、誘導がない。手段の選択を自分で決めるタイプのやつだ。
「……ああ、これ」
俺は、無意識にペンを取っていた。
咲太が「助かった」みたいな顔をするのが見えて、少しだけ腹が立つ。
俺は数式を書きながら、頭の中で流れを組み立てた。
置き換え。平方完成。条件の整理。
一問目は、解けた。
解き終えたところで、咲太が「おお」と小さく声を漏らす。
「さすが。やっぱり岸和田はそういうの強いな」
「昔の貯金だよ」
そう言いながら、俺は二問目を見た。
同じ二次関数。なのに、やけに嫌な匂いがする。
一見すると同じ型。けれど、微妙に条件が違う。罠がある。
俺はペンを走らせる。
最初の形は作れる。変形もできる。けれど、途中で、止まった。
式が、どうしても繋がらない。
「……」
咲太が様子を伺うように覗き込んでくる。
俺は、答えを誤魔化すための言葉を探した。
でも、探す前に分かってしまう。
自分が今、詰まっている理由。
分からないからじゃない。
前なら、ここで手が勝手に動いたのに。
今は、動かない。
発想が出ない。
途中の定石が、思い出せない。
「……学力、落ちてるな」
口に出した瞬間、自分の声が妙に冷たく聞こえた。
咲太が、気まずそうに笑う。
「お互い様だな」
俺は笑えなかった。
大学に入ってから、俺はずっと、必要なことは覚えて、必要なことだけ解いて、それ以上の負荷を避けてきた。
そのツケが、今、こういうところで出ている。
(解けない……)
目の前の二次関数が、急に遠い。
「……岸和田先生?」
姫路さんの声で、現実に引き戻される。
彼女はペンを止めて、こちらを見ていた。
不安そう、というより。
先生たちが詰まってることを、楽しむでもなく、ちゃんと受け止めている目だった。
「解けても、答えが出るとは限らないですよね」
俺は、息を吐いた。
ここで取り繕うのは、たぶん一番ダサい。
「……悪い。今、考えてる」
俺がそう言うと、姫路さんは小さく笑った。
「いいですよ。考えてる岸和田先生、好きです」
咲太が咳払いをした。
「岸和田、変な沼に引きずり込まれるなよ」
「誰が」
言い返しながらも、俺はもう一度、問題文に視線を落とした。
数学の問題。
人を好きになる問題。
どっちも同じだ。
分かった気になっていたところほど、いざ向き合うと、手が止まる。
そして、止まった瞬間にだけ、自分がどれだけ逃げてきたかが、はっきり見える。
その時、タイマーが終了の合図を鳴らした。
姫路さんは「ふう」と一息吐くと、シャーペンから手を離した。
試験が終わったあとのような雰囲気で、両手を膝の上に揃える。その表情は冴えない。
「どうだった?」
「最初の二問しか解けませんでした」
「今の時点で二問も解ければ十分だよ」
姫路さんはまだ一年生。本番まで二年もあるのだ。
ノートに書かれた姫路さんの解答を確認する。「解けた」と言っていた最初の二問は、正しく解を導き出していた。
三問目はいわゆる引っかけ問題。姫路さんは出題者の罠に見事にかかってしまい、答えとは違う方向に式を展開していた。
何か勘違いをしていることには、彼女も途中で気づいたようだが、正解にたどり着くには時間が足りなかった。
「まず、三問目から解説すると」
咲太は、ホワイトボードに模範解答を書いていく。
すると、最初の式を書き出した段階で、
「あ、そっちの式を使うんですね」
と、姫路さんの声が上がった。
何を間違えたのか、すぐに気づいたようだ。
「そう。こっちの関数は関係ない」
最初の選択さえ間違えなければ、実際の計算は非常に簡単な問題だ。数学以前に、国語力が試される内容になっている。
ひっかけとして巧妙なのは、これと似たような問題はいくつもあって、よく出題される問題は姫路さんがノートに書いた解き方をする。
そうした必勝パターンに慣れている生徒ほど、問題の深みにはまりやすい。
「なんか、咲太せんせみたいな問題ですね」
「僕はもっといい性格してるよ」
「咲太せんせのそういう図太いところ、私は好きですけど」
「じゃあ、次の問題」
「生徒の告白をスルーしないでください」
「僕も姫路さんのそういうところ嫌いじゃないよ」
「………」
咲太の言葉に、姫路さんが目を大きく開いて驚く。
それを気にせずに、咲太は背中を向けて、ホワイトボードに二次関数のグラフを書いた。
「僕や岸和田以外にも、そんな態度だと心配にはなるけど」
「………それ、どういう意味ですか?」
「そう、これなんだよなあ。この単純なy=xが、厄介で」
「私が言った『それ』は問題じゃなくて、咲太せんせが言ったことです」
手を止めて、咲太は姫路さんを振り向く。
「………」
姫路さんの目が、咲太を見ている。
さて、何をどう話したものだろうか。
言葉を探す咲太のことを、姫路さんは口元に笑みを浮かべて見ている。
すると、その姫路さんの後ろ……教室の前を、見知った人影が通り過ぎた。
双葉だ。
「あ、双葉、待った」
咲太が声をかけると、双葉は足を止めて振り返った。
「なに?」
「ちょっと来てくれ」
手招きされて、双葉は怪訝そうな顔のまま教室に入ってくる。
「……岸和田も、なんでいるの?」
視線が俺に向いた。
「ああ。咲太のフォロー頼まれたんだよ」
「へえ」
納得したのかしていないのか分からない返事。
双葉は姫路さんを一度だけ見てから、咲太に視線を戻した。
「授業中じゃないの?」
「この問題わかんなくてな。双葉、解説してくれ」
「塾講師として、その発言はどうなの?」
軽く呆れた声。
双葉は問題用紙を受け取ると、すぐに視線を落とした。
そして、ふと顔を上げて言う。
「……岸和田も、わからなかったの?」
「ああ」
少し間を置いて、正直に答える。
「学力が落ちてることを、痛感したよ」
双葉はそれ以上何も言わず、ホワイトボードの前に立った。
咲太と俺が書いていたグラフと式を消し、一から二次関数のグラフと式を書き直していく。
グラフが何を意味しているのか。式が何を表しているのか。
ひとつずつ、丁寧に。
途中の計算も、省略しない。
俺たちが二十分かけても詰まっていた難問を、双葉はものの五分で片付けてしまった。
ホワイトボードは、綺麗な線と式で埋め尽くされる。
「今ので、だいたいわかった?」
マーカーにキャップをはめて、双葉が振り返る。
「よくわかった」
姫路さんより先に答えたのは、咲太だった。
途中から姫路さんの隣に座り、同じように解説を聞いていたらしい。
「梓川には聞いてない」
素っ気ない一言。
姫路さんは一瞬だけ双葉を見てから、ゆっくり頷いた。
「よくわかりました。すごくわかりやすかったです」
本音だろう。
「姫路さんって、数学以外もきっと成績いいんだよな?」
唐突な咲太の質問に、視線が集まる。
「悪くはないですけど……?」
「一学期の成績、平均すると?」
「『8』と『9』の間くらいだと思います」
……高い。
高一の頃の俺と、同じくらいか。
あるいは、それ以上かもしれない。
「姫路さんなら、今からちゃんとした先生に教えてもらえば、難しい大学も現役で受かるんじゃないか?」
双葉が、わずかに眉をひそめる。
「それ、どういう意味ですか?」
「僕より双葉の方が教えるの上手いって、姫路さんも思ったろ?」
難しい問題になればなるほど、その傾向は強くなる。
一瞬の間。
姫路さんは、少しだけ視線を泳がせてから、静かに口を開いた。
「……でも、岸和田先生も、教えるの上手いですよ?」
思いがけない名前に、俺は一瞬だけ目を瞬かせた。
咲太は、姫路さんの方を見たまま、肩をすくめる。
「確かに、岸和田も悪くはないけど」
悪くはない、という言い方が、妙に引っかかる。
「でも、双葉の方が理解力は高いだろ」
そう言って、咲太は双葉の方を見た。
「説明の組み立ても早いし、引っかかりどころも的確だ」
淡々とした口調。評価としては正しい。
正しいからこそ、反論しづらい。
「だから、双葉に見てもらった方が……」
いい。
その言葉が最後まで形になる前に。
「私は、咲太せんせがいいんです」
低く、しかしはっきりした声が、教室の空気を切り裂いた。
姫路さんの感情が、そのまま覆いかぶさる。
咲太の言葉は、完全に遮られた。
教室の空気が、一瞬で凍り付く。
双葉が驚いたように目を瞬かせる。
俺も、咲太も、言葉を失っていた。
姫路さん自身もまた、自分の声に驚いているようだった。
衝動。
溢れた感情。
その奥に、双葉に向けられた、単純ではない何かを感じ取る。
(……もしかして加西くんのことか)
姫路さんと加西くんは確か幼馴染だったはず。きっと、その関係も無関係じゃない。
そんな気がした。
「何かあった? 大丈夫?」
教室の入口に顔を出したのは、塾長だった。
巡回の途中だったのだろう。
塾長はまず姫路さんの背中を見て、それから困ったような顔を咲太に向けてきた。
表情に緊張感があるのは何故だろうか……
「すみません。僕が勉強不足の問題があって、双葉先生と岸和田先生に助けてもらっていました」
「そうなの?」
それに姫路さんが「はい」と頷く。その姫路さんの反応を待ってから、俺も双葉も「はい」と短く答えた。
すぐに沈黙が訪れる。
それを破ったのは、授業の終了を告げるタイマーだった。
その音はやけに軽い。けれど、姫路さんが席を立つ切っ掛けとしては十分だった。
「今日もありがとうございました」
姫路さんが俯いたままノートとペンケースを鞄にしまう。
コートを掴むと、「次回もよろしくお願いします」と、頭を下げて、姫路さんは教室から出て行った。
何か声をかけようとしていた塾長だったが、結局、姫路さんを呼び止めることはしなかった。
代わりに、咲太の方を見て、「大丈夫かな?」と、曖昧な確認の言葉をかけてくる。何に対する「大丈夫」なのかがわからない。そこをはっきりさせたくない空気が塾長からは伝わってくる。
だから、咲太もその辺を曖昧にしたまま「はい」とだけ答えておいた。意味はないけれど、
この場をお開きにするために必要な儀式だった。
「とにかく、よろしくね」そう言って、塾長は教室の入口から離れていく。
やがて、その足音も聞こえなくなる。妙な空気とともに、俺たちは教室に残された。
双葉が一度深く呼吸をする。そのあとで、「これ、どういうこと?」と、咲太に聞いてきた。その厳しい口調は詰問と言ってもいい。
「どういうことって?」
「わざと怒らせたでしょ」
言葉は確認を求めているが、双葉の表情は明らかに事実を断定している。
巻き込んだ以上、きちんと説明するようにと要求している。
「結論から言うと、麻衣さんを守るためだな」
「それって、例のメッセージのこと?『霧島透子を探せ』と『桜島先輩が危ない』っていう内容の」
双葉の確認に、咲太は無言で頷く。
「双葉、前に言ってたろ?それって霧島透子が直接麻衣さんの害になるか、霧島透子のせいで思春期症候群になった誰かが、麻衣さんを危険に晒すかのどっちかだろうって」
「でも、前者の可能性は低そうなんでしょ?」
「まあな」
「じゃあ、話を後者に限定するとして……なるほど」
双葉は腕を組んで、小さく息を吐いた。
「梓川は、彼女の思春期症候群が何なのか、もう分かったってこと?」
「ああ。岸和田のおかげで、何となくは」
そう言って、咲太は俺の方を見る。
突然話を振られて、少しだけ間が空いた。
「……へえ。どんな?」
双葉の視線が、今度は俺に向く。
逃げる理由もないので、正直に話すことにした。
「確証はないけどな」
前置きしてから、続ける。
「彼女、エスパーなんじゃないかって思ってる。相手の心情とか考えを、無意識に読んでるんじゃないかって」
「それで?」
「それで、その情報を使って、他人を揶揄ったり、探ったりしてる。本人に自覚があるかどうかは別として」
双葉は、すぐに首を横に振った。
「でも、それって推測でしょ。証拠は?」
「ない」
即答した。
「だからこそ、咲太は姫路さんを怒らせたんだろ」
双葉が、ちらりと咲太を見る。
「大人気ないとは思ったけど」
咲太は肩をすくめる。
「まあ、否定はしない」
双葉は、少し考えるように視線を落としたあと、納得したように頷いた。
「そっか。そういうこと」
一拍。
「梓川らしいと言えば、実に梓川らしいね」
皮肉とも感心ともつかない口調だった。
「つまり」
双葉は、淡々と言葉を続ける。
「彼女がどんな思春期症候群を発症しているのか、その正体を知らないままでも」
「彼女自身が抱えている問題を先に解決して、結果的に思春期症候群ごと治してしまおう、って考えでしょ?」
「そういうことだ」
咲太が、悪びれもせずに答えた。
確かに、それは咲太らしいやり方だった。
現象よりも、原因。
観測よりも、対処。
「だからって、高校一年生の女子にあんな揺さぶりをかけるなんて、岸和田も言うように、さすがに大人気ないんじゃない?」
「ま、嫌われるかもな」
「それが目的なんでしょ?でも、彼女……梓川の狙い通りだったとは言え、ちょっと極端に反応しすぎているようにも見えたけど?」
「あ、それは双葉のおかげ」
「私?」
「姫路さんが思春期症候群を発症した切っ掛けは話しただろ?」
「振られたって話?」
「その相手が加西くん、だから」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で小さく音がした。
(やっぱり、そうか)
エスパーじみた距離感。他人の反応を試すような言動。そして、双葉に向けられた、あの瞬間的な拒絶。
全部が、一本の線で繋がった気がした。
「……」
双葉が文字通り絶句する。
「梓川」
静かな声の中に、確かな怒りを感じた。
「ん?」
「私を巻き込むときは、理由を話してからにして」
「言えば、協力してくれたか?」
「今回みたいなケースだったら、絶対に協力しないから」
双葉はそれ以上何も言わなかった。
その沈黙が、この話題の重さを物語っていた。
やがて、双葉はバッグを肩にかける。
「私は先に帰る」
「もう?」
「今日は情報量が多すぎ」
軽く手を振って、双葉は教室を出ていった。
残されたのは、咲太と俺だけ。
しばらく、言葉のない時間が流れる。
その沈黙を破ったのは、俺だった。
「……ちょっと話、逸れるけどさ」
「ん?」
「さっき、塾長。やけに困った顔してなかったか?」
咲太は一瞬だけ目を伏せてから、あっさり言った。
「ああ。僕が三人目の講師だからな」
「三人目?」
「姫路さんの担当」
俺は眉をひそめる。
「そうなのか?」
「前に担当した講師、色々と問題を起こして、全員交代してるらしい」
軽い口調。でも、内容は軽くない。
その言葉を聞いて、記憶がひとつ浮かび上がる。
この前、エレベーター前で話しかけてきた、あの男性。
視線を合わせて、妙に牽制してきた態度。
塾の講師らしい格好。
(……あの人、もしかして)
姫路さんの、前の担当だったんじゃないか。
そう考えると、背中に薄く寒気が走った。
「明日、調べてみるか……」
思わず、小さく呟いていた。
「何か言ったか?」
「いや」
俺は首を振ってから、咲太を見る。
「お前も、気をつけろよ」
忠告というより、確認に近い言い方だった。
咲太は、いつもの軽い笑みを浮かべる。
「今さらだろ」
「そういうところだ」
そう返しながら、俺は思う。
姫路紗良は、問題を抱えている。
でも、それ以上に、問題を引き寄せてしまう場所に立っている。
その中心に、今、咲太がいる。
そして、俺は、まだ一歩、外側だ。
だからこそ、見えるものがある。
だからこそ、踏み込みどころを間違えたくなかった。
十二月十五日
翌日。
塾のカウンター裏は、いつもより静かだった。シフト表を見る限り、この日は俺ひとり。双葉も咲太も入っていない。
その事実が、少しだけ呼吸を楽にした。
昨日みたいな空気を、もう一度吸うのは億劫だったからだ。
……でも、放っておけるほど鈍くもなれない。
俺は、授業準備の手を動かしながら、頭の中で昨日の映像を反芻していた。
姫路さんの言葉の刺さり方。塾長の困った顔。そして、あの「三人目」という咲太の軽い言い方。
軽くない。
(何があったんだ)
答えの形を見てしまう癖が、ここでも顔を出す。嫌な予感だけが、先に完成してしまう。
授業の合間、俺はカウンターから塾長を見つけて、先に口を開いた。
「塾長、少しだけよろしいですか」
塾長は一瞬だけ目を瞬いて、それから「うん」と頷いた。
「事務室、空いてるから」
事務室は狭く、紙の匂いが濃い。
塾長が椅子に座り、俺も向かいに腰を下ろす。この場に他の講師はいない。ドアも閉めた。
「昨日の件なんですけど」
俺が切り出すと、塾長の表情がわずかに硬くなった。
「……姫路さんのこと?」
「はい。雰囲気が……ちょっと特殊だと思って」
言葉を選んでいるのは、俺だけじゃない。塾長も同じだ。
「もし事情があるなら、共有しておいてもらえたらな、と思って」
塾長は、しばらく黙っていた。
それから、ため息をひとつ。
「岸和田くん、気づいたんだね」
「気づくっていうか……嫌な予感がしただけです」
塾長は頷いて、机の上の書類を指で揃えるみたいに整えた。
「姫路さんの担当、今の梓川くんで三人目なんだ」
「……やっぱり」
「前の担当が続かなかった。理由は色々だけど……一番大きいのは、相性じゃ済まなかったこと」
相性。その言葉の逃げ道っぽさに、胸が冷えた。
「具体的には?」
俺が聞くと、塾長は少しだけ声を落とした。
「姫路さんが、他人をからかうみたいに話すことがあるでしょう」
「あります」
「それを……好意だと受け取ってしまった人がいた」
一拍。
「一方的に勘違いして、距離を詰めた。……手を出そうとした」
俺の呼吸が、ほんの少しだけ止まる。
「未遂で終わった。大事にはしていない。姫路さん側も、表には出したくないと言った」
塾長は、言い切ってから、目を伏せた。
「だから、内部で処理して、担当を変えた」
塾長は、少しだけ言い淀んでから続けた。
「……その講師なんだけどね。関本先生って言うんだ」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で小さく何かが引っかかった。
「……今も、ここに?」
俺がそう聞くと、塾長は首を横に振りかけて、途中で止めた。
「今も一応はいるよ。表には出てないけどね」
いる。その言い方が、妙に重い。
塾長は一度、俺の顔をじっと見てから、少しだけ話題をずらすように言った。
「岸和田くん」
「はい」
「……どうして、そこまで梓川くんのことを気にするんだい?」
探るというより、確認に近い声音だった。
責めているわけでも、不審がっているわけでもない。
ただ、理由を知りたい、という顔。
俺は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
正直に言えばいいだけなのに、その「正直」を口に出すのが、少し照れくさい。
「……梓川先生……咲太とは、友だちですし」
そう言った自分の声は、思っていたよりも落ち着いていた。
嘘じゃない。誤魔化しでもない。
咲太は、友だちだ。
少なくとも、俺の中では。
それを言葉にできたことに、少しだけ驚いている自分がいた。
(……線、引けてるんだな)
咲太との間には、ちゃんと距離がある。踏み込みすぎない場所。預けすぎない位置。お互いの役割が、重ならないところ。
だからこそ、見ていられる。だからこそ、危ないときに「気をつけろ」と言える。
友だちだと、言える。
それに比べて。卯月との関係を思い浮かべると、胸の奥がわずかに詰まった。
のどかの顔を思い出すと、今度は息の仕方が分からなくなる。
(……引けてない)
線が、ない。
どこまでが友だちで、どこからが特別なのか。
守りたいのか、失いたくないのか、それとも、ただ、そばにいたいだけなのか。
咲太に向ける視線は、外側からだ。状況を見て、危険を判断して、必要なら手を出す。
でも、卯月とのどかに向ける視線は、いつも内側にある。気づけば、もう輪の中に立っていて、距離を測る余裕がない。
だから、決められない。
友だちだと、言えない。
恋だと、断言する勇気もない。
(……俺、ずるいな)
咲太のことは、守ろうとしている。
でも、卯月とのどかに対しては、守られている側でいたいと思ってしまっている。
それが、怖い。
友だちと呼べる関係は、失っても立ち直れる。
でも、線を引けない関係は、失った瞬間に、何も残らなくなる気がしてしまう。
塾長に言った言葉は、本音だった。
でも、本当に厄介なのは、友だちだと、言えなかった俺の方だ。
「友だち、か」
否定も肯定もせず、ただその言葉を噛みしめるように。
「なるほどね」
塾長は、それ以上深く踏み込んでこなかった。
俺が答えた「友だち」という言葉を、そのまま机の上に置いておくみたいに。
「今日はありがとう。気づいてくれて助かったよ」
そう言って、塾長は椅子から立ち上がった。
話は終わり、という合図だった。
俺も立ち上がり、事務室のドアに手をかける。
外に出れば、またいつもの塾だ。
生徒がいて、問題集があって、タイマーが鳴る。
でも、胸の奥に引っかかった感覚だけは、さっきよりもはっきりしていた。
線を引ける関係と、引けない関係。守れる距離と、巻き込まれてしまう距離。
咲太の背中は、外側から見ていられる。
卯月とのどかは、もう内側にいる。
その違いを自覚してしまった以上、俺は、もう前と同じ場所には立てない。
カウンター裏に戻りながら、俺は小さく息を吐いた。
今日の授業が終わったら、家に帰る。それだけの予定なのに、やけに遠く感じた。
塾を出たところで、冬の空気が頬を刺した。
駅までの道は明るいはずなのに、頭の中だけが妙に暗い。事務室で聞いた話が、胸の奥に残っている。
歩きながら、スマホをポケットに戻しかけた瞬間、振動が来た。
画面には「咲太」。
家電番号だった。
(珍しいな……?)
「もしもし」
「岸和田、今、大丈夫か?」
受話口の向こうの声は、いつも通りの軽さを装っている。けど、その軽さがむしろ不自然だった。
「歩いてるだけ。どうした」
「今日さ、福山がたまたま見てたんだよ。大学のミスコンのサイト」
唐突すぎて、俺は一瞬言葉に詰まる。
「……ミスコン?」
「ああ。そこに、去年の優勝者。岩見沢寧々って名前があってな」
その苗字が、胸の奥のどこかをくすぐった。
(……聞き覚えあるな)
「霧島透子の姿がさ。そいつと同じだった」
言葉が、冷たく落ちてきた。
霧島透子。
探せと書かれたあのメッセージの、中心にいる名前。
「……一致、ってことか」
「ああ。で、名前で検索したら本人のインスタが出てきた」
咲太の声が、少しだけ速くなる。
「見ていくと、ミスコンでグランプリ取る前からモデルっぽい活動してる。高校二年のとき、北海道の地元でちょっと仕事してたって書いてある。で、大学進学を機に神奈川に引っ越したらしい」
淡々とした報告。けど、情報の密度が妙に現実的で、逆に怖い。
「大学入ってからは、ミスコンきっかけでモデル事務所に所属して、ファッション雑誌中心に活動。……それが、更新が四月六日を最後に、ぴたりと止まってる」
四月六日。
日付だけが、ひときわ鋭く耳に残った。
「……止まってる、って」
「投稿もストーリーも、それ以降一切なし。急に」
沈黙が落ちる。
俺は歩道橋の手前で立ち止まって、空を見上げた。息が白い。
そして、ふと、あの苗字が頭の中の記憶を叩いた。
「岩見沢寧々……去年の夏、オープンキャンパス行ったとき……見たかもしれない」
「どういうことだ?」
「候補者のポスター。ミスコンの。……俺、興味本位でインスタ、フォローしたんだ」
「今、見れるか?」
言われて、俺はポケットからスマホを出し、画面を開く。
インスタの検索欄に、慣れた手つきで名前を打った。
表示されたアカウントをタップする。
画面が、読み込めない。
「……あれ」
「どうした」
「見れない。フォローしてたはずなのに……表示されない」
ブロックされた、という表示とも違う。リンクが切れてる感じに近い。ただ……
「……音」
「音?」
俺はもう一度タップして、画面の真ん中あたりに指を置いた。
何も映らないのに。
確かに、動画の「音」だけが、流れてくる。
人の声と、環境音。音声があることだけは分かる。
「……音声は認識できる。動画の音だけ」
「……は?」
咲太の声が、明らかに硬くなる。
「俺、霧島透子のこと、見えないけど……声だけは分かるからな。それが関係しているのかも」
口に出した瞬間、自分で自分の言葉が気持ち悪く感じた。
普通じゃない。
でも、普通じゃないことを前提にしないと、この状況は繋がらない。
「……岸和田。明日、昼メシの時間ないか」
即決みたいな声だった。
「ミスコンのサイトとインスタ、いっぺん一緒に見たい。お前の音だけってのが、どういう状態なのか確認したい」
「いいけど……忙しいのか?」
聞いた瞬間、咲太が一拍置く。
「……さっき、姫路さんから電話きてさ。明日夕方、会えないかって話になってる」
「姫路さんと……思春期症候群の件で話すのか?」
「ああ。それと、もう一つ」
咲太の声が少しだけ落ちる。
「姫路さんの前の担当講師が、姫路さんに会いたいって言ってるらしくて。その付き添いも兼ねて」
胸の奥に、事務室の紙の匂いが戻ってきた。
(関本先生か……)
「……なるほどな」
「だから、昼は空けたい」
咲太の言い方は軽い。けど、軽くできる話じゃない。
俺は息を吐いて、言葉を探した。
「……気をつけろよ」
「それ、お前が言うのかよ」
いつもの茶化し。だけど、笑ってない。
夜道を歩きながら、通話は一度途切れかけた。
「……ありがとな。共有してくれて」
「別に」
咲太の声は、いつも通り軽い。
「必要そうだったからな」
そこで、ふと引っかかる。
「なあ」
「ん?」
「なんで、そこまで情報回してくれたんだ?」
一拍。
ほんの一瞬だけ、間があった。
咲太は、考えたというより、聞かれたから答える、という調子で言った。
「霧島透子の思春期症候群、さっさと終わらせて、麻衣さんとクリスマスのイチャイチャデート楽しみたいだろ」
迷いのない言い方。
照れも、言い訳もない。
「……お前な。正直すぎるだろ」
「岸和田が聞くからだろ」
その言い方が、妙に咲太らしかった。
必要なことはやるけど、理由を語るのは、聞かれたときだけ。
「……まあ、お前らしいな」
そこで、ふっと声の調子が変わる。
「それより岸和田」
「ん?」
「お前こそ、なんでそこまで姫路さんの件、気にしてるんだ?」
核心を突く質問。
俺は一瞬だけ、言葉を選ぶ。
姫路紗良の思春期症候群に迫れれば、俺の中の「人を好きになるのが怖い」の形が、少し見える気がしている。
でも、それを言ったら、咲太にまで踏み込まれる。
それは今、無理だった。
俺は、代わりに、別の事実を出した。
「この前の日曜にさ」
そう前置きして、話題をずらした。
「姫路さんが見てるものが、急に流れ込んできた感じがあって」
「……それ、どういうことだ?」
「分からない。でも、思春期症候群には関係してそうだし」
「……俺も、無関係ではいられないだろ?」
沈黙。
咲太が息を吐いた気配がして、最後に短く言った。
「……まあ、好きにしてくれ」
投げやりじゃない。許可に近い。
「明日、昼。どこで」
「いつもの学食で、十二時でいいか?」
「了解」
「じゃあ、切る。帰り、気をつけろよ」
「お互いな」
通話が終わる。
画面が暗くなったスマホを見つめたまま、俺はしばらく動けなかった。
岩見沢寧々。
四月六日で止まった更新。
見えない画面の向こうで、音だけが残っている。
そして明日、咲太は姫路さんと、前の担当講師に会う。
嫌な点が、線になりかけている。
でも、線になった瞬間に、逃げられなくなる。その怖さだけは、もう、知っていた。
十二月十六日
二限の教室は、暖房が効いているはずなのに、どこか寒かった。窓際の席から見える空は薄い冬色で、板書のチョークの粉が、光の筋の中でゆっくり漂っている。
国際商学部の授業。
俺は美東美織と、いつも通り隣の席だった。
いつも通り、そう思いたいのに、今日は「いつも通り」がやけに不自然に感じる。
昨日の夜から頭の中に残っているのは、四月六日で止まった更新と、見えない画面の向こうで鳴っていた音だけだ。
俺がノートを取る手を止めた瞬間、美東さんが横目でこっちを見た。
「岸和田くん、今日ぼんやりしてない?」
囁くみたいな声。周りに聞こえない距離。
「……寝不足だよ」
嘘ではない。けど、全部でもない。
「ふーん」
美東さんはそれ以上踏み込まなかった。ただ、ペン先をくるりと回して、また前を向く。
それが妙に助かった。
踏み込まれたら、うまく線を引ける自信がなかったからだ。
授業が終わるチャイムが鳴って、学生たちが一斉に立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、波みたいに広がった。
俺は荷物をまとめながら、美東さんに言う。
「今日は先、行くわ」
「学食?」
「そう」
「梓川くんと?」
また、その察しの良さ。
俺は一瞬だけ止まってから、頷いた。
「ああ。ちょっと用事があって」
美織は「そっか」とだけ言って、肩にかけたバッグの紐を直した。表情はいつもと変わらないのに、その変わらなさが、逆に頭に残る。
まるで、何も知らないみたいに。
いや。知らないはずだ。俺はそう思い込む。
そのまま教室を出て、廊下を早足で歩く。冬の大学は、コートの擦れる音がやけに大きく響く。
学食に着くと、窓際の席に咲太はいた。
人の流れが見える場所。
「遅かったな」
開口一番がそれだ。
「二限の授業あったろ」
「知ってる」
知ってるのに言うのが咲太だ。俺はため息を吐いて、対面に座る。
「持ってきた」
俺はバッグから、ノートパソコンとタブレット、スマホを順番に出して机に並べた。自分でも笑えるくらい、やりすぎだ。
咲太が眉を上げる。
「実験かよ」
「観測だろ」
「言い方変えただけじゃないか」
軽口を叩いてる間に、俺たちは同時に画面を開く。昨日の夜、見えなかった岩見沢寧々の名前。
ミスコンのサイト。
検索結果が出て、候補者一覧のサムネイルが並ぶ。咲太は迷いなくスクロールして、去年の優勝者のページを開いた。
次の瞬間。
俺の目にも、はっきり見えた。
黒くて、清楚な長い髪。頬のラインは細く、目元は静かに笑っている。白くて清潔なブラウス。飾らないのに、整いすぎていて逆に現実味が薄い。
ページの下に、名前。
岩見沢寧々
「……見える」
俺が呟くと、咲太が「そうなのか?」と短く返す。
「昨日は?」
「昨日は、真っ黒だった」
自分のスマホを開く。インスタの検索欄に名前を打つ。アカウントをタップする。
今度は、読み込めた。
プロフィール。投稿一覧。ストーリーのハイライト。
全部、普通に見える。
「……なんで」
俺の声が、自分でもわかるくらい乾いていた。
昨日まで、画面は存在しないみたいに拒絶してきたのに。
今は、どの端末でも当たり前のように表示されている。
「お前、昨日言ってたよな。音だけは出るって」
咲太が覗き込んでくる。
「ああ」
俺は昨日の感触を思い出そうとする。見えない画面。耳だけに残る声。ありえない状況。
今は違う。
動画を開けば、映像も音も揃っている。
「……戻った?」
咲太が言う。
「普通にか?」
俺は首を横に振った。
「戻ったっていうより……」
言葉が見つからない。
「条件が変わった、って感じだ」
咲太が「条件」と反芻する。
俺は、頭の中で可能性を並べていく。
昨日は俺ひとりで見た。今日は咲太と一緒に見ている。
霧島透子を“認識できる”側の人間が隣にいる。
その違い。
「……たぶん」
俺は言った。
「咲太が一緒にいるから、俺も認識できるんじゃないかって思った」
言葉にした瞬間、どこか無理があることも自覚していた。
咲太は即座に首を振った。
「それは違うと思うな」
即答だった。
「え?」
「僕と麻衣さんが一緒にいる時に、霧島透子と話したことがある」
その一言で、空気が少し変わる。
「でも、麻衣さんは認識できなかった」
……あ。
言葉を失う。
「声も?」
「いや。声すら聞こえてなかった。僕だけが聞こえてた」
咲太は淡々と言う。でも、その淡々さが、余計に重い。
「じゃあ……」
俺は言葉を探す。
「霧島透子を認識できる人と一緒にいれば認識できるって条件でもないってことか」
「そうなるな」
咲太は、画面に映る岩見沢寧々の写真を指先でなぞった。
「少なくとも、僕と麻衣さんの組み合わせでは成立しなかった」
俺は背もたれに体を預けて、息を吐く。
「じゃあ、なおさら分からないな……」
昨日は見えなかった。今日は見える。
でも、その違いを「咲太がいるから」で説明できない。
「条件が複数あるか」
咲太が言う。
「もしくは、僕たちが気づいてないだけで、もっと単純な違いがあるか」
単純。
その言葉が、逆に怖い。
単純だからこそ、見落としている。
俺は無意識に、今日の午前中をなぞっていた。
二限。国際商学部の教室。隣の席。
美東美織。
「……」
俺は首を振って、その考えを振り払う。
まだ、線になっていない。今は、無理に結びつける段階じゃない。
「とりあえず」
俺は話を戻した。
「見える・見えないが固定じゃないってことだけは確かだな」
「だな」
咲太も同意する。
「それに、四六時中咲太と一緒にいる前提なんて、現実的じゃない」
「無理だ」
咲太は即答した。
「それをやったら、僕の生活が崩れる」
「だろ」
俺は苦笑する。
友だちとして、線を引けている関係だから言える冗談だ。
でも。
線が引けているからこそ、線の外側で起きている条件が、余計に不気味だった。
画面の中の岩見沢寧々は、変わらず微笑んでいる。
見える。確かに、今は見える。
でも、その見えるが、いつまで続くのかは分からない。
そして、なぜ見えるようになったのか。
その答えだけが、まだ、意図的に伏せられている気がしていた。
十二月十七日
病院の待合は、いつ来ても同じ匂いがする。消毒と、湿った紙と、冬のコートの繊維。
名前を呼ばれて診察室に入ると、医者は淡々と俺の腕を見て、淡々と告げた。
「じゃあ、ギプス外しましょう。今日からシーネで固定ね」
固い白が、ハサミみたいな器具の音と一緒に割れていく。
外した瞬間、腕が軽くなるかと思ったら、逆だった。むしろ重い。骨が治ったわけじゃない。守ってくれていたものが外れただけだ。
シーネはギプスより薄い。包帯で巻かれたぶん、見た目は少しだけ普通に近づく。
近づくだけだ。
「痛みは?」
「……前よりは」
「無理しないで。手をついたり、荷物持ったり、まだダメ」
言われるまでもない。俺はうなずいて、会計を済ませた。
今日は目黒の実家に戻る日だった。戻るだけなら、寄り道なんてしない。……しないはずだった。
でも、気づけば渋谷で降りていた。
クリスマスまで、一週間。カレンダーの数字が、勝手に俺の背中を押してくる。
渋谷スクランブルスクエアは、昼間でも人が多い。肩が触れる距離。歩く速さ。視線の高さ。どれも、治ってない腕には少しきつい。
それでも、俺はエスカレーターを上がった。
「ハンドクリームのセット」
口に出して確認するのは、自分に言い訳するためだ。
売り場には、箱に入った綺麗なセットが並んでいる。香りの名前がいちいち洒落ていて、現実味がない。
店員に声をかけられそうになる前に、俺は一番無難そうなものを手に取った。
ちゃんとしたやつ。でも、重くないやつ。
レジで包装を頼むと、紙袋が渡された。
紙袋の持ち手が、シーネの上からでも少しだけ痛い。痛いけど、離したくはなかった。
次は原宿。
山手線の中で、俺は一度だけ深呼吸した。
これをやってる時点で、俺はもう普通に戻る気なんてない。
キデイランド原宿は、騒がしい。
音が多い。色が多い。人が多い。その全部が、逃げ道みたいに見える。
目当てのフロアに着くと、カービィのコーナーは想像以上に充実していた。
ぬいぐるみ、キーホルダー、文房具、謎に実用的な生活用品。
俺は、その中でイヤーマフを見つけた。
丸い。ふわふわ。ピンク。
似合うのが、想像できてしまうのが腹立たしい。
「……これだな」
独り言は、雑踏に溶けた。
会計を終えて外に出ると、原宿の空はもう夕方に近かった。
冷えた空気が頬を刺す。シーネの上からでも、じんと痛む。
それでも、紙袋は手放さなかった。
目黒に戻る道は短い。短いくせに、妙に長かった。
家の玄関を開けると、リビングからテレビの音が聞こえた。
……父がいる。
(珍しいな)
靴を脱ぎながら、紙袋を背中に隠すみたいに持ち替える。
自分でも分かる。挙動が怪しい。
「ただいま」
声をかけると、父がソファから顔だけこちらに向けた。
「ああ。おかえり。病院どうだった」
「ギプス外して、シーネにした」
「治ってきたってことか」
「……まあ」
会話を切り上げたいのに、視線が、俺の手元に落ちた。
父は、俺の持ってる紙袋を見ている。
「……それ、何だ」
指先が止まる。
「買い物」
「見りゃ分かる。何の買い物だ」
詰める声じゃない。でも、逃げ道を削る声だ。
「……ハンドクリーム」
俺が言うと、父は少しだけ眉を上げた。
「お前が?」
「乾燥するだろ」
「ふーん」
父の返事は短い。
短いくせに、そこに納得してないが全部入っている。
視線がもう一度、紙袋に戻る。そして、次に俺の顔に戻った。
「……誰にやるんだ?」
心臓が一拍遅れた。
「……誰にも」
嘘が、口の中で硬い。
「自分用」
俺がそう言うと、父は笑わなかった。代わりに、ほんの少しだけ、目を細めた。
「分かりやすいな」
それだけ言って、父はテレビの方に視線を戻した。話は終わり、という態度。
でも、終わってない。
俺はその場に立ったまま、紙袋の持ち手を握り直す。
指が痛い。痛いのに、離したくない。
父は何も聞いてこない。名前も、相手も、確認しない。
それなのに、全部見抜かれた感じだけが残った。
(会ったこともないくせに)
そう思って、すぐに気づく。
会ったことがないからこそ、父は答えを知らない。
知らないのに察せるのは、俺の方が答えを抱えたまま、表に漏らしてるからだ。
シーネの白は薄い。薄いくせに、俺の隠し方も一緒に薄くしていく。
俺は紙袋を抱えたまま、自分の部屋に向かった。
クリスマスまで、一週間。
その一週間が、たぶん一番長い。
部屋に戻って、紙袋を机の上に置いた。
スクランブルスクエアの上品な紙袋と、キデイランドの派手な袋。並べてしまうと、隠していたはずの意図まで見える気がして、俺はすぐに引き出しの奥へ押し込んだ。
クリスマスまで、一週間。
長い。
長いくせに、何もしなければ勝手に来る。
それが余計に腹立たしい。
シーネの上から腕をさすっていると、スマホが震えた。
画面には「咲太」。
また電話かよと思いながら、俺は出た。
「もしもし」
「岸和田。いま大丈夫か?」
声は軽い。けど、軽さがいつもより薄い。
「大丈夫。どうした」
「姫路さんの思春期症候群、だいたい見えた」
その言い方で、喉の奥が少し乾く。
「……何だった」
「千里眼」
短く言い切る。
俺は息を吐いた。
「……やっぱりか」
「お前の予想、ほぼ当たってたよ」
褒めるというより、報告みたいに言われると、逆に居心地が悪い。
「で、その千里眼って、どういう条件なんだ」
「会ったことがある相手。しかも、強くぶつかった相手だけらしい」
ぶつかった、という言葉が、塾の教室での姫路の目を思い出させる。
揺さぶるような距離感。試すような言い方。自分の反応を見てくる視線。
あれは、能力じゃなくて癖じゃない。癖に見せた条件だった。
「だからさ」
咲太が、少しだけ声のトーンを落とした。
「姫路さんと霧島透子をぶつければ、霧島透子の考えがわかるかもしれない」
俺は一拍、反応が遅れた。
「……ぶつけるって」
「クリスマスイブに霧島透子の生配信の撮影の手伝いを頼まれてるから、その日に会わせる。姫路さんの千里眼が刺されば、霧島透子の内側が見えるかもしれない」
それが可能なら、確かに手掛かりにはなる。
でも。
「おいおい。お前、麻衣先輩とクリスマスデートするんじゃなかったのかよ」
思わず突っ込むと、咲太は一瞬も迷わず返した。
「麻衣さんには了承得てるよ」
「……お前なぁ」
「麻衣さんが危ないんなら、手段は問わないつもりだ」
軽い声なのに、言葉だけが重い。
冗談の形をして、冗談じゃない。
俺は黙って、机の上の紙袋の存在を思い出した。
守りたい相手がいると、人は躊躇を捨てられる。
それが強さか、怖さかは分からない。
「……で、その千里眼の原理は?」
「量子もつれだと思う」
咲太は当たり前みたいに言った。
俺は眉をひそめる。
「量子もつれって確か……ある一定以上の力で衝突した二つの粒子が、同じ振る舞いをするようになって、どんなに距離が離れても、変わらず同じ振る舞いを維持する、ってやつか?」
沈黙が一拍。
「……お前、知ってるんだな?」
「前に浜松さんの思春期症候群のことで、双葉に相談したことがあってな。そのとき聞いた」
「ああ、そういうことか」
咲太の声が少しだけ納得に寄る。
「だから、僕も姫路さんの状態を共有できる。お前みたいに」
胸の奥が、微かに硬くなる。
「……それって、俺が一昨日言った、姫路さんが見てるものが急に流れ込んできた感じのことか」
「ああ」
「……なるほどな」
俺は椅子にもたれて、ゆっくり息を吐く。
「だから俺も、姫路さんの感覚を認識できたのか。偶然分かったとはいえ」
ぶつかり合いと共有の連鎖。量子もつれ。
笑えないくらい辻褄が合ってしまう。
「……で、わざわざ俺に電話してきたってことは、他にも話したいことがあるんだろ?」
俺が言うと、咲太は少しだけ間を置いた。
「ああ。姫路さんが、お前に会いたいらしい」
「俺に?」
「二十四日のことで。同伴してほしいって」
胸の奥がひやりとする。
「なんでだ」
「霧島透子を見える相手がもう一人いるなら、協力してもらった方がいいって思ったらしい」
(なるほど。姫路さんからすれば合理的だ)
「その代わり、姫路さんと僕のデートは邪魔しない範囲で、ってことらしいけど」
「……姫路さん、デートする気満々じゃねえか」
「だから困ってるんだよ」
どの口が言う。
俺は笑いそうになって、笑えなかった。
「その日、午後からスイートバレットのライブあるんだけどな……」
独り言みたいに漏らすと、
「花楓から聞いてる。だから短時間でいい」
咲太はさらっと言う。
相変わらず、人の予定を処理するのが上手い。
俺はしばらく黙って、決めた。
「……とりあえず話だけでも聞くか」
「助かる」
咲太の声が、ほんの少しだけ軽くなる。
「いつだ」
「姫路さんからは、月曜の塾終わり。藤沢駅近くのレトロ喫茶店だって」
「分かった。明後日、姫路さんと話してみるよ」
「ありがとう。岸和田」
その呼び方だけが、妙に現実的だった。
通話が切れたあと、部屋の静けさが戻ってくる。
机の引き出しの奥には、隠したはずの紙袋がある。
守りたい相手がいる。
だから、手段は問わない。
咲太の言葉が、遅れて胸に刺さる。
俺はそれを強いと思うのか。
それとも、自分がそこまで踏み切れないことを、ただ怖がっているだけなのか。
シーネの白が、部屋の灯りにぼんやり浮いた。
クリスマスまで、一週間。
そして、その前に、藤沢の喫茶店がある。
物語解説
今回は、「揺さぶる側」と「揺さぶられる側」が、はっきりと分かれてしまった回でした。
咲太は、守るためなら嫌われることも選べる人間です。
目的が定まった瞬間、手段を選ばなくなる。その強さと危うさが、今回は前面に出ています。
一方で蓮真は、同じ状況を見ていながら、同じ選択ができません。
危険を察知し、構造を理解し、最善手がどこにあるかも分かっている。それでも、最後の一歩だけが踏み出せない。
姫路紗良の思春期症候群、千里眼は、その対比を浮き彫りにするための装置でもありました。
「見えてしまう」彼女と、「見えているのに動けない」蓮真。能力の有無ではなく、向き合い方の違いが、二人を決定的に分けています。
また、「線を引ける関係」と「引けない関係」というテーマも、静かに進行しています。
咲太とは友だちだと言える。距離を測り、危険を判断し、必要なら忠告できる。けれど、のどかや卯月に対しては、その線が引けない。
守りたいのか、守られていたいのか。失いたくないのか、選べないだけなのか。
その曖昧さこそが、蓮真という人物の弱さであり、同時に物語の核でもあります。
問題を解く力があっても、感情には公式がない。正解が分かっていても、それを選ぶ覚悟がなければ意味がない。
クリスマスという期限が近づく中で、蓮真は少しずつ「立ち止まっていられない場所」へ追い込まれていきます。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月