青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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7.逃げ場のない視線に、覚悟を問われる

 

 十二月十九日

 

 三限の基礎ゼミは、窓際の席が少しだけ暖かかった。冬の日差しが、机の角をなぞるみたいに差し込んでいる。

 

 席につくと、右腕のシーネを無意識に押さえた。ギプスが外れたことで、逆に目立つようになった気がする。

 

 「蓮真」

 

 名前を呼ばれて顔を上げると、のどかが椅子を引きながら近づいてきた。隣には卯月。

 

 二人とも、まず腕を見る。

 

 「きっしー、それ変わった?」

 

 卯月が一番に言った。質問というより確認。

 

 「ギプス外れたんだ」

 

 のどかが、少しだけ身を乗り出す。

 

 「ああ。シーネにした」

 

 そう言うと、二人がほぼ同時に息を吐いた。

 

 「よかった……」

 

 のどかの声は、ちゃんと心配してた人のそれだった。

 

 「なんか普通っぽくなった!」

 

 卯月は笑いながら言う。軽い。でも、悪くない。

 

 「でも無理しちゃダメだからね」

 

 のどかが続ける。

 

 「転ばないでね。あと人混みは危険!」

 

 卯月も乗っかる。

 

 守られてる、という感覚が、胸の奥にじわっと広がる。ありがたいのに、落ち着かない。

 

 チャイムが鳴って、ゼミが始まる。

 

 ノートを取る手は動いているのに、頭は別の場所にあった。

 

 クリスマスが近い。言わなきゃいけないことが、まだ言えていない。

 

 授業が終わって、教室がざわつき始めた。

 

 「蓮真、このあとどうする?」

 

 のどかが自然に聞いてくる。

 

 「……ちょっと、話していい?」

 

 三人で廊下の端に移動する。窓から冷たい空気が流れ込む。

 

 俺は、一度だけ息を整えた。

 

 「二十四日なんだけど」

 

 言った瞬間、のどかの表情が予定確認の顔になる。

 

 「ライブのあと、少し時間もらえないかな」

 

 のどかはすぐに首を横に振った。

 

 「そのあと、スイートバレットでパーティーあると思うよ」

 

 「まぁ、だよな」

 

 「終わったあと、藤沢の家に帰る予定だし……」

 

 のどかの言い方は、あくまで日常の続きだった。

 

 「じゃあ、帰りに藤沢駅で」

 

 俺が言うと、のどかは少し考えてから頷いた。

 

 「それだけ?」

 

 「うん。ほんと少し」

 

 「なら大丈夫。終わったら連絡するね」

 

 会う理由を探す様子はない。ただ、顔を合わせるだけの約束。

 

 卯月が横から言った。

 

 「じゃあ私は?」

 

 完全に雑談のテンションだった。

 

 完全に順番が回ってきた、という顔。

 

 「卯月は……二十五日、空いてる?」

 

 「空いてる!」

 

 間髪入れずに返ってくる。

 

 「次の日、完全オフだもん。午前中とかなら余裕!」

 

 午前中という言葉が、自然に出てくるあたりが卯月だった。

 

 俺は少しだけ間を置いてから言う。

 

 「午後から、赤城とボランティアでクリスマスパーティーあるんだ」

 

 説明というより、事実確認。

 

 卯月は一瞬だけ首を傾げてから、すぐに笑った。

 

 「あ、そっか!」

 

 そして、次の瞬間にはもう納得している。

 

 「じゃあ午前中だね!」

 

 迷いも、引っかかりもない。

 

 「横浜とかどうだ?」

 

 そう言うと、卯月の目が一気に明るくなる。

 

 「横浜!? 行く!」

 

 理由を聞く前に、答えが出ていた。

 

 「朝の横浜いいなぁ、人も少ないし、海きれいだし」

 

 「……そこまで考えてたわけじゃないけど」

 

 「大丈夫大丈夫! 歩くだけで楽しいし!」

 

 計画性は皆無。でも、本気で楽しみにしているのが分かる。

 

 のどかが横から言った。

 

 「卯月、午前中だけだよ?」

 

 「分かってる分かってる!」

 

 手を振って即答。

 

 「お昼前くらいまででしょ? 全然いける!」

 

 その軽さに、俺の方が少しだけ戸惑う。

 

 「……いいのか?」

 

 念押しすると、卯月はきょとんとした顔をした。

 

 「いいよ?」

 

 理由を聞き返す気もない。

 

 「会うだけでしょ?」

 

 その一言で、全部が終わる。

 

 「じゃあ」

 

 卯月がまとめる。

 

 「二十四日の夜はのどか。二十五日の午前中は私と横浜」

 

 まるで、天気予報を読むみたいな調子だった。

 

 「了解!」

 

 最後に、卯月は元気よくそう言って笑った。

 

 のどかも、少し遅れて頷く。

 

 「無理しないでね、蓮真」

 

 二人はそれ以上、深く踏み込んでこなかった。

 

 ただ、予定が決まっただけ。

 

 意味を持っているのは、俺だけだ。

 

 十二月二十四日の夜、藤沢駅。十二月二十五日の午前中、横浜。午後からは、赤城とボランティア。

 

 卯月は、ただ楽しい午前中を想像している。

 

 その「分かった!」が、いちばん残酷だった。

 

 夕方の塾は、昼よりも静かだった。

 

 蛍光灯の白い光が、机と床を平等に照らしている。

 

 カウンター裏で準備をしていると、視界の端に姫路さんの姿が入った。

 

 コートを脱ぎ、鞄を椅子の背に掛けている。

 

 ……いた。

 

 一昨日、咲太から聞いた言葉が、遅れて頭の中に浮かぶ。

 

 授業前の、ほんの数分。

 

 俺はカウンターから出て、姫路さんに話しかけた。

 

 「姫路さん」

 

 名前を呼ぶと、彼女はすぐに顔を上げた。

 

 「はい」

 

 その反応が早すぎて、少しだけ引っかかる。

 

 「一昨日、梓川先生から聞いたんだけどさ」

 

 声を落として言う。

 

 「今日、塾終わりに俺に話があるんだろ?」

 

 一瞬だけ、姫路さんの目が丸くなった。

 

 「……ダメでしたか?」

 

 否定を想定していた声だった。

 

 「いや、いいけど」

 

 俺は首を振る。

 

 「何時ぐらいになりそう?」

 

 姫路さんは、少し考えるように視線を上に向けてから、きっちり答えた。

 

 「そうですね……十九時二十分には授業が終わるので」

 

 間。

 

 「そのあとがいいです」

 

 予定を伝える、というより。

 

 決まっている未来を読み上げるみたいな言い方だった。

 

 「わかった」

 

 それだけ答えると、姫路さんは小さく頷いた。

 

 そこで会話は終わるはずだった。

 

 でも、彼女は立ち去らなかった。

 

 俺の右腕のシーネの辺りに、一瞬だけ視線を落としてから、言う。

 

 「……答えられる岸和田先生って、すごいですね」

 

 褒め言葉の形をしている。でも、温度がない。

 

 俺は一瞬、返事に詰まった。

 

 「……何の話?」

 

 聞き返すと、姫路さんは首を傾げる。

 

 「いえ。いろいろです」

 

 それ以上、説明はなかった。

 

 ただ、分かっている、という顔。

 

 俺は小さく息を吐いた。

 

 (やっぱり)

 

 千里眼。

 

 見えてしまう。

 

 見えてしまうから、こちらがどこまで分かっているかも、もう把握されている。

 

 姫路さんは、最後に軽く会釈をして、自分の席へ戻っていった。

 

 残された俺は、その背中を見送りながら思う。

 

 (見透かされてるな……)

 

 答えを出せるかどうかじゃない。

 

 答えを知っているかどうかを、もう、見抜かれている。

 

 十九時二十分。

 

 その時間が、思っていたよりも近く感じられた。

 

 授業を終え、姫路さんに案内されて入ったのは、駅から歩いて二、三分。細い路地の途中にある小さな喫茶店だった。

 

 木の扉を開けると、空気が一段階、過去に戻る。

 

 椅子もテーブルも、壁に貼られたメニューも、全部が昭和っぽい。

 

 昭和を知らない俺にとっても、なぜか懐かしく感じられる場所だった。

 

 向かい合って座り、メニューを開く。

 

 「クリームソーダください」

 

 俺がそう言うと、姫路さんが目を瞬かせた。

 

 「岸和田先生も、クリームソーダ食べるんですね」

 

 「まあ……嫌いじゃない」

 

 「じゃあ、私もそれにします」

 

 即決だった。

 

 グラスが運ばれてくるまでの時間が、やけに長く感じられる。二人きりで面と向かって話すのは、これが初めてだった。

 

 何を話せばいいか考えていると、先に口を開いたのは姫路さんだった。

 

 「岸和田先生、って長いので……蓮真先生でいいですか?」

 

 「別にいいけど」

 

 言った瞬間、もう距離を詰められた気がした。

 

 「蓮真先生」

 

 呼び直される。

 

 「咲太先生の宿題、手伝ってましたよね」

 

 核心から来た。

 

 「……姫路さんの思春期症候群が何か、についてだろ」

 

 クリームソーダが置かれる。氷の音が、やけに大きく響いた。

 

 「はい」

 

 姫路さんは、あっさり頷いた。

 

 「私が千里眼だっていう。よく分かりましたね?」

 

 「むしろ、分かるように俺の前ではわざと行動してたんだろ?」

 

 スプーンでアイスを少し崩す。

 

 「やっぱり、バレちゃいますよね」

 

 笑っているのに、反省の色はない。

 

 「梓川先生……咲太と一緒に、思春期症候群を建前にして、クリスマスを楽しみたいからだろ」

 

 姫路さんの目が、ほんの少しだけ細くなる。

 

 「俺が分かったら、咲太に伝えることくらい分かるはずだし」

 

 さらに続ける。

 

 「俺が伝えれば、咲太は麻衣先輩を守るために、姫路さんと一緒にクリスマスを過ごさざるを得なくなる。それが狙いだったんだろ?」

 

 姫路さんは、否定しなかった。

 

 「はい」

 

 その一言が軽い。

 

 「咲太先生に褒めてもらいたいですから」

 

 真っ直ぐすぎて、逆に歪んで聞こえた。

 

 「それでも」

 

 俺は言う。

 

 「咲太にとって最優先は、麻衣先輩だぞ?」

 

 姫路さんは、少しも迷わなかった。

 

 「でも、私は咲太先生に、一緒にいてもらいたいです」

 

 それから、間を置かずに続ける。

 

 「……蓮真先生にとっての最優先は、誰なんですか?」

 

 論点が、ずれた。

 

 ずらされた。

 

 喉が一瞬、詰まる。

 

 のどかと、卯月。

 

 二人とも大切にしようとして、どちらも選ばない自分。

 

 「それは……」

 

 言葉が出ない。

 

 姫路さんは、あっさり言った。

 

 「やっぱり、蓮真先生って優柔不断ですね」

 

 「余計なお世話だよ」

 

 思わず返す。

 

 沈黙を切るように、俺はずっと気になっていたことを投げた。

 

 「姫路さんは、自分のことが好きなんだな」

 

 「そんなの、当たり前じゃないですか?」

 

 即答だった。

 

 (なるほど)

 

 内心で思う。

 

 自分が好きだからこそ、傷ついた自尊心を守るために、他人の好意をコントロールできる。

 

 そこが、俺との決定的な違いだ。

 

 でも同時に、別の考えも浮かぶ。

 

 (……ただ)

 

 誰を本気で好きか決めないまま、他人の好意を自分に向けさせて楽しんでいる節もある。

 

 それは、かなり危険だ。

 

 「蓮真先生と私、似てるかもですね」

 

 姫路さんが、さらっと言った。

 

 「何が?」

 

 「人を好きになることが分からないところ、とか」

 

 「……だから、姫路さんは咲太のことを気にかけるわけだもんな」

 

 「はい」

 

 そして、追撃。

 

 「蓮真先生が、お二人を気にかけるみたいに」

 

 完全に見られていた。

 

 「……本当に、人のことを見透かせるんだな、姫路さんは」

 

 「はい」

 

 姫路さんは、あっさり頷く。

 

 「例えば、お二人に何をプレゼントしようとしているか、とか」

 

 心臓が一拍遅れる。

 

 「霧島透子を見つけ出そうとしていることとか」

 

 逃げ場がなくなる。

 

 「それに……」

 

 一呼吸。

 

 「蓮真先生が、思春期症候群でループして、それをみんなに隠してることも」

 

 「……そこまでお見通しか」

 

 苦笑しか出なかった。

 

 「はい。だから、蓮真先生にも興味あります」

 

 クリームソーダの泡が、静かに弾ける。

 

 「私の思春期症候群を、どんなふうに扱ってくれるのかな、って」

 

 「俺は」

 

 はっきり言った。

 

 「姫路さんの思春期症候群を、どうこうする気はない」

 

 「へえ。なんでですか?」

 

 「人の気持ちが分かること自体は、悪いことだと思わない。使い方の問題だから」

 

 「それって、私の今の使い方は悪いってことですか?」

 

 「危険だとは思うよ」

 

 視線を逸らさずに言う。

 

 「人に勘違いさせやすいし、そのせいで姫路さん自身が傷つく可能性もある」

 

 姫路さんは、少しだけ目を細めた。

 

 「……蓮真先生って、ほんと優しいですね」

 

 「思ったことを言っただけだ」

 

 話が逸れてきた。

 

 俺は、本題に戻す。

 

 「それで、今日の本題は、クリスマスイブに、霧島透子に姫路さんの思春期症候群をぶつける件、だろ?」

 

 「はい」

 

 姫路さんは、迷いなく言った。

 

 「私なら、咲太先生にも、蓮真先生にも、力になれますから」

 

 「ちなみに……姫路さんには、霧島透子が見えたのか?」

 

 「見えました」

 

 即答。

 

 「咲太先生を通じて。ミニスカートのサンタクロースが」

 

 「……だから、会わせろと」

 

 「はい。だから、私を霧島透子に会わせてください」

 

 「俺は、会おうと思って会える相手じゃない」

 

 「でも、見えるようにはなったんですよね?」

 

 「まあ。ただ、条件次第かもしれない」

 

 「条件って?」

 

 「俺が咲太と一緒にいないと、見えない可能性がある」

 

 姫路さんは、少し考えてから言った。

 

 「でも、それなら」

 

 顔を上げる。

 

 「クリスマスイブ、一緒に行って確かめればいいじゃないですか」

 

 「……姫路さんとしては、咲太とのデート、邪魔されたくないんだろ」

 

 「はい」

 

 あっさり。

 

 「でも、デート中に別の場所に霧島透子がいたら、すぐ連絡できますよね?」

 

 「……まあ、その手はあるな」

 

 「よし!」

 

 机の上で、軽く手を叩く。

 

 「プラン成立です!」

 

 そして、スマホを取り出した。

 

 「あ、私のLINE教えますね。連絡用に」

 

 「……好きにしてくれ」

 

 会計を済ませて、店を出る。

 

 夜風が、やけに冷たい。

 

 店を出て、駅の方へ歩き出しかけたところで、ふと、引っかかっていたことが口をついて出た。

 

 「そういえばさ」

 

 姫路さんの背中に向かって声をかける。

 

 「確か、咲太は、霧島透子の生配信を手伝う時に、姫路さんを会わせるって言ってたんだけどさ」

 

 姫路さんは足を止めて、少しだけ振り返った。

 

 「はい」

 

 即答だった。

 

 「場所って、どこなんだ?姫路さんなら分かるんだろ?」

 

 少し考える素振りもなく、姫路さんは答える。

 

 「確か……咲太先生が通ってる大学で、十六時だったはずです」

 

 その瞬間、頭の中で予定がはっきり重なった。

 

 「……それ、俺は無理だな」

 

 正直に言うと、姫路さんは不思議そうに首を傾げる。

 

 「どうしてですか?」

 

 「十四時から、用事がある」

 

 言うまでもないことだった。

 

 「お二人のライブ、観に行くんですもんね?」

 

 あっさり、核心を突かれる。

 

 「……そうだよ」

 

 ため息混じりに返すと、姫路さんは小さく笑った。

 

 「やっぱり」

 

 その笑い方が、少しだけ引っかかる。

 

 「……なあ、姫路さん」

 

 足を止めたまま、俺は言った。

 

 「分かってたんだろ?俺が二十四日は一緒に行けないって」

 

 姫路さんは否定しなかった。

 

 「はい」

 

 間髪入れずに。

 

 「……揶揄ってるのか?」

 

 そう言うと、姫路さんは一瞬だけ考えるように視線を上に向けてから、答えた。

 

 「はい」

 

 即答だった。

 

 「でも」

 

 一拍。

 

 「こうやって、蓮真先生とお話ししてみたかったので」

 

 あまりにも素直な言い方で、言葉を失う。

 

 「……何だよ、それ」

 

 思わず、そう返していた。

 

 姫路さんは、どこか満足そうに微笑む。

 

 「千里眼でも、蓮真先生なら、直接話さないと分からないことって、あるかなって思って」

 

 それ以上、踏み込んではこなかった。

 

 「だから」

 

 姫路さんは一歩下がって、軽く会釈する。

 

 「二十四日は、私は咲太先生と行きます」

 

 それは宣言だった。

 

 「蓮真先生は、ライブを観に行ってください」

 

 「……そうするよ」

 

 俺が答えると、姫路さんは小さく頷いた。

 

 「それでいいと思います」

 

 そう言って、今度こそ本当に背を向けた。

 

 俺はその後ろ姿を見送りながら、深く息を吐く。

 

 (……厄介だな)

 

 人の心が見えることも。

 

 分かっていて、あえて踏み込まない選択をすることも。

 

 そして何より。

 

 見えているのに、踏み込めない自分が。

 

 十二月二十日

 

 二限の英会話が終わると、教室の空気が一気に緩んだ。

 

 外国語の授業特有の、集中したようでいてどこか散漫な疲れが残る。

 

 ノートを閉じて立ち上がろうとしたところで、声がかかった。

 

 「蓮真くん」

 

 振り向くと、麻衣先輩が立っていた。

 

 その隣に、美東美織もいる。

 

 麻衣先輩は、小さな紙袋を二つ持っていた。

 

 「これ」

 

 まず一つを、美東さんに差し出す。

 

 「福岡の映画祭に行ってきたの。そのお土産」

 

 「ありがとうございます」

 

 美東さんは、少し驚いた顔で受け取った。

 

 「ありがとう、麻衣さん!」

 

 「いいのよ美織。ちょうど人数分あったから」

 

 そう言ってから、麻衣先輩はもう一つの紙袋を俺に向ける。

 

 「蓮真くんも」

 

 「ありがとうございます」

 

 中身は、博多通りもん。

 

 定番だけど、ちゃんと嬉しいやつだ。

 

 「映画祭、どうでした?」

 

 俺が聞くと、麻衣先輩は軽く肩をすくめた。

 

 「忙しかったけど、楽しかったわ」

 

 そのやりとりを一歩引いたところで見ていた美東さんが、紙袋を覗き込んで言う。

 

 「あ、通りもんだ。これ、美味しいですよね」

 

 「間違いないな」

 

 俺が頷くと、美東さんは満足そうに笑った。

 

 「じゃ、わたしは真奈美と学食行ってくるね」

 

 話題が一区切りついたのを察したような、ちょうどいいタイミング。

 

 「またあとで」

 

 軽く手を振って、美東さんはその場を離れた。

 

 残ったのは、麻衣先輩と俺の二人。

 

 廊下の人通りが少し落ち着いたところで、麻衣先輩がふと思い出したように言う。

 

 「そういえば」

 

 視線が、探るみたいに向けられる。

 

 「蓮真くん、のどかにプレゼント買ったの?」

 

 一瞬、言葉に詰まった。

 

 「……はい」

 

 正直に答える。

 

 「麻衣先輩のアドバイス通りに、ハンドクリームを」

 

 麻衣先輩は、ああ、と小さく頷いた。

 

 「やっぱり」

 

 そして、続ける。

 

 「それ、クリスマスイブのあとに会うときに渡すんでしょ?」

 

 図星だった。

 

 「……やっぱり、バレちゃいますよね」

 

 俺が苦笑すると、麻衣先輩はくすっと笑った。

 

 「大丈夫。私からは秘密にしておくから」

 

 さらっとした言い方だった。

 

 まるで、最初から知っていて、黙っていただけみたいに。

 

 「クリスマスイブは、私は咲太とデートするから」

 

 そう前置きしてから、

 

 「蓮真くんも、頑張ってね」

 

 応援とも、激励ともつかない声。

 

 その瞬間、胸の奥に引っかかるものがあった。

 

 (……あれ?)

 

 確か、咲太は言っていたはずだ。

 

 麻衣先輩とのデートは、キャンセルしてもらったって。

 

 なのに、今この言い方。

 

 わざわざ「私は咲太とデートする」と言った。

 

 (……もしかして)

 

 麻衣先輩、姫路さんと咲太のところに、様子見という名目で一緒についてくる気なんじゃないか?

 

 俺は余計なことを聞かずに、頭を下げた。

 

 「ありがとうございます」

 

 一拍置いて、続ける。

 

 「……麻衣先輩も、頑張ってください」

 

 その言葉の意味を、麻衣先輩は一瞬で理解したらしい。

 

 ほんの少しだけ、目を細めて。

 

 「ふふ」

 

 それだけで、答えは十分だった。

 

 講義棟を出て、人波に紛れながらスマホを取り出す。

 

 画面が、ほぼ同時に二度震えた。

 

 表示された名前に、思わず眉が動く。

 

 大津に浜松さん。

 

 まずは大津から。

 

 《この前の沖縄のビーチバレーの大会さ、覚えてる?》

 

 《お土産あるから、今度渡したいんだけど》

 

 少し遅れて、浜松さん。

 

 《私も一緒にお土産買ってたから、タイミング合えば、直接渡したいんだけど》

 

 《ありがとう。いつがいい?》

 

 そう返すと、すぐに既読がついた。

 

 《木曜の夕方とかどう?》

 

 《藤沢駅なら行きやすいと思う》

 

 藤沢駅。頭の中で、今週の予定が自動的に並び始める。

 

 木曜の夕方なら、確かに空いている。

 

 《大丈夫》

 

 《木曜の夕方、藤沢駅で》

 

 送信して、ポケットにスマホを戻す。

 

 ……また藤沢か。

 

 偶然にしては、少し多い。

 

 でも、それを「面倒」だと思わない自分がいることにも気づく。

 

 人と会う約束が、ひとつ増えただけ。

 

 それだけのはずなのに。

 

 胸の奥で、予定が重なっていく感覚が、じわっと広がっていた。

 

 (クリスマスまで、ほんとに静かな日がないな)

 

 そう思いながら、俺は階段を下りていった。

 

 木曜の夕方、藤沢駅。

 

 また一つ、線が交わる場所が増える。

 

 十二月二十二日

 

 藤沢駅前は、昼頃になると一気に人が引く。

 

 朝の通勤と、夕方の帰宅。その間の隙間みたいな時間帯。

 

 人波が引いたあとに残るのは、冷えた空気と、少しだけ気まずい沈黙だ。

 

 改札前の柱の横。

 

 俺が待っていると、先に見えたのは大津だった。

 

 「あ、いたいた。岸和田ー」

 

 手を振るだけで、場の温度を上げるタイプの声。

 

 その少し後ろに、浜松さんが続く。手には紙袋が二つ。

 

 「……こんにちは」

 

 浜松さんは、いつも通り落ち着いた声だった。無理に明るくもしないし、暗くもしない。

 

 大津が俺の右腕のシーネに視線を落として、「あ、もうギプスじゃないんだ」と言ってから、すぐに話を本題に戻す。

 

 「はい、お土産!沖縄!」

 

 大津が、勝ち誇ったみたいに小さな袋を差し出した。

 

 「ちんすこう。定番だけどさ、定番は強いから」

 

 「ありがとう」

 

 俺はすぐに受け取った。迷わなかった。変に遠慮もしなかった。

 

 それが、いちばん誠実だと思ったから。

 

 「で、こっちは夏帆が買ったやつね」

 

 大津が横を向いて合図すると、浜松さんが一拍遅れて紙袋を差し出す。

 

 「……紅芋タルト。甘いの、大丈夫かなって思ったけど」

 

 「大丈夫。むしろ助かる」

 

 口にしてから、自分でも助かるの意味を少しだけ考えた。

 

 浜松さんが小さく頷く。笑っているように見えるけど、そこに無理はもうなかった。

 

 ……二人とも、ちゃんと覚えていた。

 

 そしてもう一つ。もっと別の、重たい話も。

 

 浜松さんが思い出したように言う。

 

 「そういえば、ちゃんと話してなかったよね」

 

 「ん?」

 

 「今回の大会」

 

 大津が、そこでニヤッとする。

 

 「あー、それね?」

 

 返事を待たずに続けた。

 

 「大学生の部、全国優勝」

 

 一拍。

 

 「……マジで?」

 

 思わず声が低くなる。

 

 浜松さんは、ほんの少しだけ視線を逸らした。照れた時の癖みたいに。

 

 「うん。たまたま、噛み合っただけだけど」

 

 「たまたまで全国は取れねえよ」

 

 反射で突っ込むと、大津が嬉しそうに笑う。

 

 「でさ、もう一個」

 

 大津は、言い方だけ軽い。

 

 でも、その軽さで言えることじゃないのも分かってるみたいだった。

 

 「樹里ちゃんも全国三位になったんだ。高校生の部で」

 

 一瞬、言葉が出なかった。

 

 「……そっか」

 

 やっと出た声は、自分でも驚くくらい小さかった。

 

 「吉和さんも、凄いな」

 

 それだけ言うのが精一杯だった。

 

 浜松さんが、そっと言う。

 

 「樹里ちゃん、すごかったよ。最後、ほんとに……逃げなかった」

 

 その言葉のせいで、胸の奥がきゅっと締まる。

 

 逃げなかった、って評価を、俺は誰かに言えない側の人間だ。

 

 沈黙が、少しだけ柔らぐ。

 

 「んじゃ」

 

 そのタイミングで、大津が口を開いた。

 

 「渡したし、私もう行くわ」

 

 大津が、あまりにも自然に言った。

 

 「え?」

 

 俺が聞き返すより先に、大津は肩をすくめる。

 

 「いや、なんか私がいると邪魔っていうか……」

 

 言いながら、浜松さんを見る。

 

 浜松さんは驚かない。否定もしない。目だけが、一瞬だけ揺れた。

 

 大津はその揺れを見逃さない。

 

 「ほら、私って空気読めるじゃん?」

 

 「お前がそれ言うの、だいたい読めてない時だろ」

 

 反射で突っ込むと、大津は「ひど!」と言いながら笑った。

 

 でも、その笑い方は、妙に優しかった。

 

 「じゃ、私、コーチに呼ばれてるから」

 

 嘘だ、とすぐ分かった。

 

 呼ばれてる顔じゃない。逃げる顔だ。

 

 逃げるけど、置いていくための逃げ。

 

 大津は俺の肩を軽く叩いてから、浜松さんにも手を振る。

 

 「夏帆、またあとでねー」

 

 「……うん。ありがと」

 

 その返事を聞いて、大津は満足したみたいに背中を向けた。

 

 数秒後、雑踏の薄い流れに溶けていく。

 

 残ったのは、俺と浜松さん。

 

 紙袋が、手の中で少しだけ重く感じた。

 

 沈黙が落ちる。

 

 でも、逃げるには短くて、誤魔化すには、近すぎる距離だった。

 

 「……あのさ」

 

 俺が口を開くと、浜松さんはちゃんと俺を見る。

 

 視線を逸らさない。それだけで、覚悟を試されている気がした。

 

 「この前のこと」

 

 告白の話だ、と互いに分かっている。

 

 「断ったのに、こうして普通にしてくれて……ありがとう」

 

 言葉は慎重に選んだ。余計な優しさを混ぜないように。

 

 浜松さんは、一瞬だけ目を伏せてから、頷いた。

 

 「……正直、ちょっとは気まずかったかな」

 

 そう言って、小さく笑う。

 

 「でも、岸和田くんがちゃんと断ってくれたから。曖昧にしなかったから」

 

 胸の奥が、少しだけ締まった。

 

 「だから、私もちゃんと戻れたよ」

 

 戻れた。その言葉が、静かに刺さる。

 

 俺は、自分がどれだけ“戻らないまま”の人間かを、そこで突きつけられた。

 

 「……浜松さん」

 

 呼ぶと、彼女は首を傾げた。

 

 「俺さ」

 

 言葉が、喉で一度止まる。

 

 「誰かに好かれるのが、怖いんだと思う」

 

 告白じゃない。言い訳でもない。ただの事実だった。

 

 浜松さんは、驚いた顔をしなかった。

 

 「……うん」

 

 「傷つけたくないって言いながら、距離を保とうとしてる。でも、それって結局、俺が楽なだけで」

 

 言葉にした瞬間、逃げ道が一つ潰れた気がした。

 

 「浜松さんには、それをしたくなかった」

 

 だから断った。だから、今も目を逸らさない。

 

 浜松さんは、少し考えてから言った。

 

 「それ、誠実だと思う」

 

 その一言は、肯定でも慰めでもなかった。

 

 「少なくとも、私は……そう思うかな」

 

 それで十分だった。

 

 「じゃあ、またな」

 

 「……うん」

 

 浜松さんは軽く会釈して、歩き出しかけて、一歩、足を止めた。

 

 「あ」

 

 振り返って、少しだけ照れたように言う。

 

 「そうだ。岸和田くん」

 

 「ん?」

 

 「骨折、ちゃんと治ったらさ」

 

 言葉を選ぶみたいに、ほんの一瞬だけ間が空く。

 

 「今度こそ……三人で一緒に、湘南平ヒルクライムしようね」

 

 三人。

 

 その言い方に、余計な意味は含まれていない。だからこそ、胸の奥に、まっすぐ届いた。

 

 「……ああ」

 

 俺は、はっきり頷いた。

 

 「約束な」

 

 浜松さんは、安心したみたいに笑う。

 

 「うん。約束」

 

 それだけ言って、今度こそ歩き出した。

 

 背中は軽くて、振り返らない。

 

 俺はその後ろ姿を見送りながら、深く息を吐いた。

 

 逃げなかった。少なくとも、今日は。

 

 そして、気づく。

 

 (……同じことを、卯月とのどかにも、できるのか?)

 

 楽しい予定。共有された時間。当たり前みたいに近づいてくる距離。

 

 それを受け取りながら、答えを先延ばしにするのは、さっきの俺が一番否定した行為だった。

 

 浜松さんには、できた。誠実に、線を引くことが。

 

 じゃあ、線を引かない相手には?答えは、もう見えている。

 

 逃げるか。向き合うか。

 

 どちらも、今のままでは選べない。

 

 でも、少なくとも一つだけ、決まった。

 

 このまま曖昧な場所に立ち続けるのは、もうやめる。

 

 卯月とのどかに向き合う方法は、この先で見つけるしかない。

 

 けれど、その覚悟だけは、紅芋タルトの紙袋の重さと、「三人で」という約束と一緒に、今日、置いていかれた気がした。

 

 十二月二十四日

 

 目覚ましが鳴るより少し早く、目が覚めた。

 

 カーテン越しの光はまだ弱くて、冬の朝らしい静けさが部屋に残っている。

 

 スマホを手に取って、時刻を確認する。

 

 まだ早い。

 

 でも、二度寝する気にはならなかった。

 

 ベッドに腰を下ろしたまま、しばらく天井を見上げる。胸の奥にあるのは、楽しみよりも、落ち着かなさだった。

 

 (……今日だ)

 

 まず、のどか。そして、明日は卯月。

 

 どちらも“会う”だけのはずなのに、意味を持たせているのは俺だ。

 

 それが、はっきり分かっているから、なおさら逃げ場がない。

 

 スマホを操作して、グループチャットを開く。

 

 《きっしー観察会》

 

 名前を付けたのは確か卯月だった。

 

 のどかが止めるでもなく、なんとなく定着したまま、今日まで続いている。

 

 指先が、一瞬だけ止まる。

 

 軽くでいい。変に重くしない。

 

 そう自分に言い聞かせて、メッセージを送った。

 

 《おはよう。二人とも、ライブ頑張って》

 

 送信。既読が付くまで、ほんの数秒。

 

 先に返ってきたのは、卯月だった。

 

 《おはよー!ありがとう!》

 

 《今日は気合い入ってる!》

 

 《きっしーも無理しないでねー!》

 

 いつも通りのテンポ。いつも通りすぎて、逆に胸に引っかかる。

 

 少し遅れて、のどか。

 

 《おはよう》

 

 《ありがとう。頑張るね》

 

 《蓮真も、寒いから気をつけて》

 

 短いけど、ちゃんと温度がある。言葉の選び方が、のどからしい。

 

 スマホを伏せて、深く息を吐く。

 

 今日、まず向き合うのは、のどか。

 

 ライブのあと。藤沢駅で、ほんの少しだけ時間をもらう。

 

 プレゼントを渡して、何を言うのか。どこまで踏み込むのか。

 

 (……逃げない)

 

 そう決めているのに、具体的な言葉はまだ浮かばない。

 

 そして、明日。

 

 卯月。

 

 横浜。午前中。卯月にとっては、ただ楽しいお出かけの延長だ。

 

 だからこそ、厄介だ。

 

 卯月は、重たい空気を作らない。察しないふりをするわけでもなく、そもそも疑問に思わない。

 

 「会うだけでしょ?」

 

 あの一言が、まだ耳に残っている。

 

 のどかには、ちゃんと向き合わなきゃいけない。

 

 卯月には、向き合う形を間違えたら、余計に傷つける。

 

 どちらも、同じじゃない。

 

 同じにしようとしてきた自分が、一番ずるい。

 

 クローゼットから上着を取り出す。ポケットの中身を確認して、鞄に手を伸ばす。

 

 小さなプレゼントの袋。

 

 指先で触れると、紙の感触がはっきり分かる。

 

 今日、渡す。

 

 その事実が、ようやく現実味を帯びてくる。

 

 スマホをもう一度手に取る。

 

 《きっしー観察会》に、新しい通知は来ていない。

 

 たぶん今ごろ、二人とも準備で忙しい。

 

 その背中を、今日は見送る側だ。

 

 「……よし」

 

 小さく声に出して、玄関に向かう。

 

 クリスマスイブは、まだ始まったばかりだ。

 

 そして今日は、逃げない一日になる。

 

 鞄の中で、小さなプレゼントの袋がかすかに揺れた。

 

 藤沢駅に向かう道中は、いつもより人が多い。

 

 イブの昼間は、どこか浮ついた空気が漂っていた。

 

 赤と緑の紙袋。マフラーを巻いたカップル。イヤホン越しに、たぶんクリスマスソング。

 

 視界に入るもの全部が、今日は特別だと主張してくる。

 

 緊張しているわけじゃない。浮かれてもいない。ただ、覚悟だけが静かに居座っている。

 

 藤沢駅に着く。

 

 南口についた瞬間、空気が一段冷たく感じられた。

 

 小さなプレゼントの袋を下げた男性。少し背伸びした服を着た女性。

 

 誰もが、待っている。誰かを。

 

 その中に、自分も混ざる。

 

 時計を見る。

 

 「蓮真くん」

 

 聞き覚えのある声が、背後からした。

 

 振り向くと、そこにいたのは、キャップを深く被った麻衣先輩だった。

 

 髪は二本のおさげにして前に垂らし、伊達メガネ。

 

 ダウンジャケットの中にはニット。下はデニムっぽいパンツで、足元は歩きやすそうなスニーカー。

 

 全体をカジュアルにまとめた姿は、街に溶け込んでいるはずなのに、やっぱり目を引く。

 

 「……これからライブ行くのね」

 

 そう言って、麻衣先輩は小さく笑った。

 

 「やっぱり来たんですね、麻衣先輩」

 

 思ったまま口にすると、麻衣先輩は肩をすくめる。

 

 「ええ。私も咲太と一緒に行くから」

 

 即答だった。

 

 「……麻衣先輩らしいです」

 

 そう返すと、麻衣先輩は満足そうに頷く。

 

 「そうかしら?」

 

 麻衣先輩は、そう言ってから一度だけ周囲を見回した。

 

 人混みの中にいても、探す動きがやけに自然で、慣れている感じがした。

 

 麻衣先輩が言う。

 

 「蓮真くん、もう行くの?」

 

 「はい。少し早めにいきたいので」

 

 俺が答えると、麻衣先輩は小さく頷いた。

 

 「そう」

 

 それから、何でもないみたいに続ける。

 

 「今日は私、車で来てるの。南口の近くの駐車場に停めてあるから」

 

 言い方は軽いのに、行動だけは完全に段取りができている。

 

 (……やっぱり)

 

 この人は、「念のため」を本気でやる。

 

 麻衣先輩はポケットに手を入れたまま、少しだけ笑った。

 

 「蓮真くん、ライブ楽しんできてね」

 

 その言葉に、胸の奥が少しだけほどける。

 

 「ありがとうございます」

 

 言ってから、思わず付け足した。

 

 「麻衣先輩も……気をつけてください」

 

 何に、とは言わなかった。

 

 でも、麻衣先輩は一瞬で理解したみたいに、目を細める。

 

 「ありがとう」

 

 笑うだけで、返事の代わりになる。

 

 「大丈夫よ」

 

 麻衣先輩は小さく手を振って、連絡通路の方へ向き直った。

 

 人波の中に紛れていく背中が、やけに頼もしい。

 

 俺はその背中を見送ってから、鞄の中のプレゼントの感触を確かめるように、指先で軽く押した。

 

 (……俺も、逃げない)

 

 そう思って、改札へ向かって歩き出す。

 

 クリスマスイブの街は、今日の俺にだけ、やたらと眩しかった。

 




物語解説

今回は、「向き合う準備が整ってしまった回」でした。

蓮真はこれまで、危険を察知し、構造を理解し、最悪の事態を回避する役割を担ってきました。

誰かが踏み込みすぎないように距離を測り、傷が深くならないように立ち位置を調整する。その慎重さは、間違いなく優しさです。

しかし今回は、その優しさが「選ばない」という形で露わになります。

夏帆とのやり取りでは、線を引くことができた。相手の気持ちを受け止めたうえで、曖昧にせず、関係を整理することができた。

一方で、のどかと卯月に対しては、それができない。

のどかの静かな気遣い。卯月の屈託のない「分かった!」。どちらも責める言葉ではありません。だからこそ、蓮真は立ち止まってしまう。

姫路紗良の千里眼は、その中で「問い」を突きつける役割を果たしています。

見えてしまう彼女は、選択を恐れない。好意も欲望も、自分の中で整理し、利用することさえ厭わない。

対して蓮真は、見えているのに動けない。正解が分かっているからこそ、選ぶことの重さを引き受けられない。

また、麻衣の介入によって、この物語は「当事者だけの問題」ではなくなりました。

大人として、先を知る者として、「このままではいけない」と分かったうえで、あえて踏み込んでくる存在。それは救いでもあり、逃げ場を塞ぐ行為でもあります。

優しさは、選ばない理由にならない。曖昧さは、時間が経つほど誰かを傷つける。

その事実を、蓮真自身がはっきり自覚し始めたこと。それが、この章で最も大きな変化でした。

クリスマスイブは、まだ始まったばかりです。
けれど、この日を境に、蓮真はもう同じ場所には戻れません。

引き続き、彼がどんな覚悟を選ぶのか、見守っていただけたら嬉しいです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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