青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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8.ファーストサイトを見つめて、イブの夜に誓う

 

 十二月二十四日

 

 東海道線で横浜に向かう車内は、暖房が効いているはずなのに、窓際だけが冷えた。

 

 座席に背中を預けても落ち着かない。

 

 俺がやろうとしているのは、先回りじゃない。覗き見でもない。

 

 姫路さんの千里眼を、こちらでも観測する。

ただそれだけ。

 

 目を閉じる。意識を、遠くに飛ばす。

 

 もつれた意識の糸を、暗闇の中で探り当てる。自分のものじゃない感覚だ。手触りが違う。温度がない。なのに、確かにそこにある。

 

 見つけて、意識の手を伸ばして。

 

 そして、しっかりと捕まえる。

 

 姫路さんの焦点に、指を掛けるみたいに。

 

 その瞬間、視界の裏側が、ふっと開いた。

 

 見えていないはずのものが見えた。車の中だった。

 

 走っている。窓の外が流れていく。道路の白線と、信号の赤。そして七里ヶ浜。

 

 運転席には、麻衣先輩。

 

 伊達メガネ。髪は二本のおさげにして前に垂らしている。

 

 ばれない格好のはずなのに、横顔だけで分かるのが麻衣先輩だ。

 

 ハンドルを握る指先が、やけに落ち着いている。

 

 助手席には、咲太。

 

 そして、後部座席の窓側に、姫路さん。

 

 シートベルトをきっちり締めている。外を見ているようで、たぶん見ていない。

 

 見える。というより、視線の先が、もう決まっている。

 

 その光景を見た瞬間、胸の奥で答えが静かに落ちた。

 

 (……やっぱり、麻衣先輩)

 

 俺は心の中でだけ、息を吐く。

 

 (咲太と姫路さんのデートに、付き合うんだな)

 

 麻衣先輩はやっぱり、念のため、を本気でやる人だ。

 

 咲太のことなら、最後まで同じ速度で走る人だ。

 

 視界は、車内の空気ごと伝わってくる。

 

 狭い。でも、落ち着いている。

 

 運転席で麻衣先輩が、ハンドルを握っている。

 

 ——テレビで見るより、ずっと綺麗な人

 

 姫路さんの内心が、言葉になる前の感覚として流れ込んでくる。

 

 ——近くで見ると、余計に分かっちゃう。隙がないのに、でも柔らかくて

 

 信号待ちのわずかな間、麻衣先輩がペットボトルを手に取る。

 

 「咲太の一口ちょうだい」

 

 残った一本のキャップを外して、咲太がそれを差し出す。

 

 ——あ……

 

 一瞬の姫路さんのためらい。

 

 肩のラインを気にしながら、麻衣先輩が一口だけ飲む。

 

 「ありがと」

 

 そう言って、自然に咲太へ返す。

 

 キャップがはめられ、ペットボトルはドリンクホルダーに戻される。

 

 その一連の動作に、迷いがない。

 

 姫路さんの視線が、そこから離れない。当たり前みたいに、触れる、ふたりの距離に。

 

 ——いいなあ、車も運転できて、大人っぽくて

 

 ——それでいて、咲太先生の隣が、あんなに自然で

 

 後部座席。姫路さんは、ずっと前を見ている。でも、見ているのはフロントガラスじゃない。

 

 二人の関係性だ。

 

 ——話しかけたいなあ

 

 ——でも、何を言えばいいのか分からない

 

 ——邪魔できない。でも、存在は消したくない

 

 信号が青に変わる。車は、また海沿いの道を走り出す。

 

 峰ヶ原高校の校舎が、一瞬だけ見える。

 

 「クリスマスも部活やってんだな」

 

 咲太の何気ない一言。

 

 ——今なら、いけるかも

 

 姫路さんの意識が、前に傾く。

 

 「部活で思い出しましたけど……咲太先生、今週、吉和さんに会いましたか?」

 

 ——やっと、話題見つけた

 

 (姫路さん、少しだけ、安心したな)

 

 「昨日、会ったよ。振り替えの授業をしたから」

 

 「ビーチバレーの大会、準決勝で負けちゃったんだってな」

 

 「しっかり、日焼けしてましたね」

 

 「気温が高くて、水着のユニフォームでプレーするチームが多かったって言ってたな」

 

 姫路さんは、必死に、一生懸命に、咲太に話題を振っていた。

 

 ——私、何やってるんだろ

 

 ——自分でも分かっている。いつもならどうでもいい話のはずなのに。

 

 「何の話?」

 

 麻衣先輩が、ミラー越しに二人を見る。

 

 「その吉和さんって、ある男子に片思いしてるんです」

 

 「でも、その男子は……私のことが好きで」

 

 「だから、咲太先生、振り向かせるために、とんでもないアドバイスをしたんです」

 

 ——私と咲太先生しか知らないこと。麻衣さんはどんな反応するかなあ

 

 「どうせ、水着の日焼け跡でも見せればいいって言ったんでしょ?」

 

 麻衣先輩の声は、あまりにもあっさりしていた。

 

 「すごい……正解です……」

 

 ——どうして、当てられるの……

 

 ——なんで、わかるの……

 

 「さすが、麻衣さん。僕のことよく分かってる」

 

 「咲太が言いそうなことだしね。でも、言う相手は選びなさいよ?」

 

 「……お二人は、本当の恋人同士なんですね」

 

 姫路さんの背中が、シートに沈む。

 

 「嘘だと思ってた?」

 

 「いえ、その……すごく仲がいいなって意味で」

 

 ——本当に……なんで……

 

 「咲太先生、塾では見せない顔してますし」

 

 「そうか?」

 

 「ずっとデレデレしてます」

 

 「咲太、私のこと大好きだもんね」

 

 (麻衣先輩、わざと、分かってて言ってるな)

 

 楽しそうに。姫路さんの心を、少しずつ引きはがしていく。

 

 (……この二人の間に、入る余地なんて、最初からないんだぞ、姫路さん……)

 

 そこで意識を一旦電車の中に戻す。

 

 遠く離れた東海道線の中で、俺は見ていた。

 

 少し吐き気がした。自分が一番嫌いなやり方を、いま自分がやっていたから。

 

 見えてしまった。

 

 見てしまったから、もう言い訳はできない。

 

 (……麻衣先輩)

 

 (やっぱり、この人は)

 

 (最後まで一緒にいる側の人間だ)

 

 そして俺は、同時にもう一つのことを思う。

 

 (姫路紗良は、この敗北を、ちゃんと受け入れることができるのか?自分が好きすぎるあまりに……)

 

 「……だからこそ、姫路さんの千里眼は、危ういんだよ」

 

 小さく呟いた瞬間、意識を強く引き戻した。

 

 電車の揺れが、遅れて現実感を取り戻させる。

 

 レールの継ぎ目を越える振動。車内アナウンスの少し籠もった声。窓際から伝わる、変わらない冷え。

 

 額の奥が、じんと痛む。

 

 俺は軽く目を開けて、息を吐いた。

 

 でも、見なかったことにはできない。

 

 東海道線は、そのまま何事もなかったみたいに横浜へ向かう。

 

 駅に近づくにつれて、車内の空気が少しずつ変わっていく。

 

 買い物帰りらしい紙袋を持った家族連れ。少し背伸びした洋服を着た女性。

 

 今日がイブで、今日が特別な日だということを、全員が当然のように受け入れている。

 

 横浜駅で東海道線を降り、人の流れに逆らわないように歩く。

 

 そのまま京浜東北線へ乗り換えて、ホームに入った瞬間、空気が少しだけ変わる。

 

 観光地に向かう人の割合が増えて、どこか浮ついた匂いが混ざる。

 

 電車はすぐに動き出し、あっという間に桜木町に着いた。

 

 改札を出ると、視界が一気に開ける。

 

 高い建物。広い歩道。そして、駅のすぐ隣にそびえるロープウェイの桜木町駅。

 

 白くて新しい支柱が、太陽の光を反射している。

 

 その前で、二人はもう待っていた。

 

 「蓮真さん!」

 

 先に気づいたのは花楓ちゃんだった。

 

 小さく手を振る動きが、相変わらず控えめで、でも分かりやすい。

 

 「お疲れさまです」

 

 隣に立つ鹿野さんが、軽く会釈する。

 

 「早かったですね」

 

 「乗り換え、うまくいったから」

 

 そう答えながら、三人で並ぶ。

 

 ロープウェイを見上げると、ゴンドラがゆっくりと空を横切っていく。

 

 (この辺り、受験生の時にのどかと卯月と一緒に勉強会した時通ったな)

 

 「ここ、初めてですか?」

 

 花楓ちゃんが聞いてくる。

 

 「いや。でも久しぶりだな」

 

 「夜になると、もっときれいですよね」

 

 その言い方は、誰かに教えてもらった知識じゃなくて、ちゃんと見たことのある人のものだった。

 

 少しだけ、間が空く。

 

 でも、気まずさはない。

 

 それぞれが、これから向かう場所を意識している。

 

 スイートバレットのライブ会場。今日という日。そして、それぞれの立ち位置。

 

 「じゃあ、行きましょうか」

 

 鹿野さんの一言で、全員が歩き出す。

 

 ロープウェイの駅を背にして、山下埠頭の方角へ。

 

 街のざわめきが、少しずつライブの音に近づいていく。

 

 (……もう、逃げ道はないな)

 

 そんなことを思いながら、俺は横浜の街を歩いた。

 

 スイートバレットのクリスマスライブ。

 

 八景島のライブ以降、明らかに増えたファンの熱量が、そのまま街に溢れている。

 

 今日の会場があるのは山下埠頭。

 

 四千人規模で決して巨大じゃない。でも、埋まれば十分すぎるほどの圧が生まれるサイズだ。

 

 山下埠頭方面へ歩く途中、花楓ちゃんが何気ない調子で言う。

 

 「……あの、卯月さんと、のどかさんへのプレゼント、もう買いました?」

 

 一瞬だけ、言葉に詰まる。

 

 でも、隠す必要はない。

 

 「ああ。花楓ちゃんのアドバイス通りに」

 

 そう言って、鞄の中を軽く叩く。

 

 「卯月にはカービィのイヤーマフを、のどかにはハンドクリームを買ったよ」

 

 花楓ちゃんの目が、ぱっと明るくなった。

 

 「え、絶対いいと思います!」

 

 即答だった。

 

 「可愛いし、実用的だし、ちゃんと考えて選んだ感じがします」

 

 (……やっぱり、卯月のことになると、この子は鋭いな)

 

 「蓮真さん、そういうところ、卯月さんも、のどかさんも、ちゃんと見てると思いますよ」

 

 その言葉が、胸の奥に静かに刺さる。

 

 考えて選ぶ。

 

 選ぶ、という行為そのものを、俺はずっと先延ばしにしてきた。

 

 ライブ会場が見えてくる。

 

 ステージの前には、すでに長い列。

 

 期待と高揚と、少しの緊張が混ざった、独特の空気。

 

 遠くから聞こえるリハーサルの音が、現実を強く引き寄せる。

 

 (……もう、始まるな)

 

 千里眼で見た車内。麻衣先輩の背中。姫路さんの、引いていく視線。

 

 それらを胸の奥にしまい込んで、俺は会場の方へ足を進めた。

 

 今日は、逃げないと決めた日だ。

 

 その覚悟を、音と光と、人の熱に紛れさせないように。

 

 スイートバレットのクリスマスライブは、もうすぐ始まる。

 

 ライブ会場までの列は、思っていたよりもゆっくり進んでいた。

 

 前に並ぶ人の背中を見ながら、俺は一度、深く息を吐く。

 

 さっき見た光景が、頭から離れなかった。

 

 麻衣先輩の背中。咲太との絆。

 

 そして、少しずつ引いていった、姫路さんの視線。

 

 あれで終わりだ、と言い切れるほど、綺麗な形じゃなかった。

 

 負けた瞬間は見えた。でも、その先は、まだ何も分からない。

 

 未処理のまま、胸の奥に引っかかっている感覚。

 

 (……ちゃんと、受け止められてるのか?)

 

 姫路さんは、自分の感情を強く信じる人間だ。それが長所でもあり、危うさでもある。

 

 自分が傷ついたとき、それを「負け」として飲み込めるのか。

 

 それとも、別の形にねじ曲げてしまうのか。

 

 千里眼を持つ人間であれば、心の折れ方は分かりにくい。

 

 だから、もう一度だけ。

 

 確認する必要があった。

 

 俺は、列の中で立ち止まったまま、目を閉じる。

 

 意識を、ほんの少しだけ遠くへ伸ばす。

 

 覗きたいわけじゃない。知りたいわけでもない。

 

 壊れていないか。それだけを、確かめるために。

 

 未処理の敗北を、そのまま抱え込んでいないか。

 

 自分を守るために、誰かを傷つける側に回っていないか。

 

 それが分かれば、もう十分だ。

 

 これ以上、踏み込むつもりはない。

 

 俺は、静かに意識の焦点を合わせた。

 

 今度は、答えを探すためじゃない。

 

 大丈夫だと、思える理由を探すために。

 

 意識を伸ばす。暗闇の中で、さっき掴んだ糸の残り香を辿る。

 

 焦点が合う。音が、匂いが、冬の空気が、遅れて流れ込んできた。

 

 参道を歩いている。

 

 先を行くのは麻衣先輩。その後ろを、同じ速度で姫路さんがついて行く。

 

 真っ直ぐ進めば鶴岡八幡宮に辿り着く、鎌倉の目抜き通り、若宮大路。

 

 冬の空の下に朱色が映える二の鳥居が、数十メートル先に見えている。

 

 けれど姫路さんの視線は、鳥居を見ていなかった。

 

 歩き出してからずっと、麻衣先輩の背中だけを見ている。

 

 ——私、なにやってるんだろ....

 

 姫路さんの思考が聞こえる。

 

 ——今頃、咲太先生と鎌倉にいるはずだったのに

 

 ——小町通りで着物レンタルして

 

 ——かわいいって絶対に言わせて

 

 ——写真撮ってもらって

 

 ——一緒にも撮って

 

 ——お団子食べて 

 

 ——さくら貝のアクセサリーを見に行って

 

 ——咲太先生に選んでもらって

 

 ——お土産に買ってもらって

 

 ——それから、竹のお寺でお茶して.....

 

 ——いっぱい予定考えてきたのに、全部台無し

 

 ——これじゃあ、全然こっち見てもらえない

 

 ——この人がいるから

 

 怒りというより、悔しさ。悔しさというより、届かなさ。

  

 その全部が、視線になって麻衣先輩の背中に刺さっている。

 

 麻衣先輩は気づかない。いや、気づいていて、気づかないふりをしている、たぶん、そういう人だ。

 

 そういうことが全部わかった上で、麻衣先輩は今日、咲太と姫路さんのデートにやってきたのだろうから。

 

 ——でも、いいなぁ

 

 嫉妬と同じ速度で、羨望が混ざる。

 

 ——背、高くて

 

 ——髪ツヤツヤで

 

 ——顔小さくて

 

 ——肌なんて透き通ってて

 

 ——足長くて

 

 ——スタイルよくて

 

 ——綺麗で

 

 ——かっこよくて

 

 ——どうして、こんな人が、咲太先生と付き合ってるんだろう

 

 麻衣先輩のことばかりと思ったら、咲太も連鎖的に巻き込まれていた。

 

 でも、咲太にとっても、麻衣先輩にとっても、こんなのはいつものことなのだろう。

 

 未だに、一緒にふたりと大学にいるときに、俺ですらそういう意図の視線を感じるのだから。

 

 そして、その姫路さんの言葉の裏には、答えの出ない絶望があった。

 

 「紗良さんは、鎌倉のお土産、何が好き?」

 

 「え?あ、クルミッ子は、私も好きです。箱と包みもかわいくて」

 

 「私も差し入れによく買うの」

 

 ——そうじゃない。そうじゃなくて……

 

 姫路さんが、足を止めた。

 

 「……あの、ひとつ聞いてもいいですか?」

 

 「ひとつじゃなくてもいいわよ」

 

 「どうして、咲太先生なんですか?」

 

 ——これ、聞いても大丈夫だよね?

 

 自分に言い聞かせるみたいな不安が、伝わってくる。

 

 麻衣先輩も立ち止まって振り向いた。

 

 「どうしてって、どうして?」

 

 ——それは……

 

 「咲太先生と麻衣さんじゃ、釣り合ってないと思うからです」

 

 「私じゃあ、咲太先生の恋人に相応しくない?」

 

 「もちろん逆です。麻衣さんは、もっとかっこいい俳優さんとか、人気のアイドルとかと付き合えますよね?」

 

 ——きっと、みんなが麻衣さんと付き合いたいって思ってる

 

 「紗良さんは、かっこいい俳優さんや、人気のアイドルと付き合いたいんだ?」

 

 ——麻衣さんは違うの……

 

 「みんな、そう思ってますよ」

 

 「付き合ってどうするの?」

 

 ——え?

 

 「………」

 

 ——どうするってなに……?

 

 「友だちに自慢するとか?」

 

 先に答えを導き出したのは麻衣先輩の方だ。

 

 ——そうだよ。するよ。自慢。だって……

 

 「……いけませんか?」

 

 「いいんじゃない?自慢の恋人なんだし、ちょっとくらい自慢したって」

 

 「………」

 

 許された瞬間なのに、姫路さんの胸がざわつく。

 

 ——いいの?

 

 ——でも、いいって言われたのに、どうしてだろう、この感じ

 

 無意識のうちに、姫路さんは胸に手を当てていた。

 

 ——どうして、嫌な気持ちになるんだろう

 

 「『いけない』と思っているのは、紗良さんの方なんじゃない?」

 

 鋭い。優しい顔をして、逃げ道だけを塞いでくる。

 

 後ろめたさがあるから、「いけませんか?」と聞いてしまった、自分の中の不安をはき出してしまった姫路さんの退路を断つように。

 

 「紗良さんはどうして咲太を先生に選んだの?」

 

 「それは…………」

 

 「『桜島麻衣』の恋人だから、ちょっとからかってみようと思った?」

 

 「………」

 

 姫路さんの頭の中は今真っ白になっているだろう。びっくりして、思考が全部飛んでいるはずだ。

 

 「どう?咲太の気は引けそう?」

 

 何も言い返せない姫路さんは、じっと麻衣先輩を見つめている。目を逸らせずにいた。

 

 ——ほんと、綺麗な顔

 

 ——こんな恋人がいるんじゃあ、仕方ないよね

 

 「それ、無理だと思って聞いてますよね?」

 

 ——なのに、どうして……?

 

 「そうね」

 

 あっさりと麻衣先輩は認めた。

 

 「でも、これまでに目を付けた人は、みんな私のことを好きになってくれました。彼女がいる人でも」

 

 ——こんなに、むきになってるの?

 

 「だけど、その人の恋人は、私じゃなかったでしょ?」

 

 麻衣先輩の態度は揺るがない。まったくぶれない。

 

 「………」

 

 「その人は咲太じゃなかったでしょ?」

 

 言葉が積み上がるたびに、姫路さんの中の何かが削れていく。

 

 「.....でも、わからないじゃないですか」

 

 ——もういいよ、私。もう、やめよう。やめて……

 

 「そうかもしれないわね。決めるのは咲太なんだし」

 

 ——わかったから、もうやめて………これ以上は、私が私じゃなくなる……!

 

 悲鳴にも聞こえる姫路さんの心の声が、痛みを伴って響いてくる。

 

 限界の音がした。

 

 でも、そこで麻衣先輩は一歩引いた。

 

 「ごめん。話が逸れたわね」

 

 「聞かれたのは、どうして咲太なのか……だったわね」

 

 「はい……」

 

 絞り出した声は、ほとんど音になっていない。

 

 「咲太って、私のわがままをなんでも聞いてくれるのよ。ちゃんと文句を言いながら。芸能の仕事をしていると、急な予定の変更があったり、ふたりで堂々と表を歩けないこともあったりするから、そういう咲太の態度には助けられてる。気楽でいられるの」

 

 なんでもないことのように、麻衣先輩が語り出す。

 

 「それが、理由ですか?」

 

 姫路さんの中で、納得できない何かが暴れている。

 

 それもそのはずだ。

 

 恐らく、麻衣先輩の話には続きがある。まだまだ長い続きが……今のは枕詞のようなものに過ぎない。

 

 「あとは、私の料理をいつも美味しいって言ってくれるから。一緒に料理をするのも楽しいから。それをふたりで食べてる時間も好きだから」

 

 「『好き』ってちゃんと言葉にしてくれるから。ちょっと言い過ぎなときもあるけど」

 

 何かを思い出すように、麻衣先輩がくすっと笑う。

 

 ——わかんない。全然、わかんない

 

 「理由なら他にもたくさんあるわよ。たぶん、数えきれないくらい。『ありがとう』と『ごめん』をちゃんと言えるとか、助けてくれる友だちがいるとか、友だち想いだとか。妹の花楓ちゃんを大事にしてるとか。猫のなすのを可愛がっているとか。それから、塾の生徒を心配してるとか、ね」

 

 「それ、私のことですか?」

 

 「咲太の心の中を覗けるならわかるでしょ?今日、ずっと紗良さんのことばかり気にかけてた。私を差し置いてね」

 

 「………」

 

 ——そうだ。ずっと心配してた。心配してくれてた。咲太先生は……

 

 「そうやって、誰かのために一生懸命になれる人だから。それを自分のためだって、言い張る人だから。そういうひねくれたところも……面倒くさいって思うことはあるけど、嫌いじゃないんだと思う」

 

 晴れやかに麻衣先輩が微笑む。あたたかい眼差しがそこにはあった。

 

 ——でも、私は心配してほしいんじゃない。私がしてほしいのは……

 

 「今ので少しは答えになったかしら?」

 

 「………」

 

 姫路さんは答えない。

 

 答えたら、終わってしまう気がしたのかもしれない。

 

 「この手の気持ちを、全部言葉で説明するのって難しいわね。何のために付き合っているかなら、今は簡単に言えるのに」

 

 姫路さんが顔を上げる。

 

 その目が、答えを欲しがっていた。

 

 「……それはどうしてですか?」

 

 姫路さんの質問に麻衣先輩の表情が緩む。やさしい目をしていた。

 

 誤魔化しや躊躇いからではない。

 

 簡単に言えるから。

 

 もう答えは、麻衣先輩として出ているからだ。

 

 麻衣先輩の表情が、ふっと緩む。

 

 「私が咲太と付き合っているのはね」

 

 「ふたりで幸せになるためよ」

 

 想いを噛み締めるように、麻衣先輩はゆっくりそう告げて微笑んだ。

 

 そのあとで、「そう思えるたったひとりの人だから、咲太を選んだのかもしれないわね」と、今、思いついたことのように、自然とそう付け足した。それは、曖昧だった感情の答えになっているように思えた。

 

 「………」

 

 姫路さんが言葉を失う。

 

 ——なに、これ

 

 ——こんなの知らない

 

 ——こんなの……

 

 ——全然、知らないよ

 

 「まあ、今でも十分幸せなんだけど」

 

 穏やかに麻衣先輩が笑う。それはまさに幸せを感じさせる微笑みだった。

 

 その微笑みが、決定的だった。

 

 「………」

 

 姫路さんの言葉は出ない。感情が形にならない。

 

 ——無理......

 

 ——こんなの無理.....

 

 「嘘だと思うなら、確かめてみる?」

 

 「……え?」

 

 「私の心を覗いて」

 

 握手でも求めるように、麻衣先輩がすっと手を姫路さんに差し伸べる。

 

 「そうすれば、全部わかってもらえるんじゃないかしら?」

 

 反射的に、姫路さんは手を出して応えようとした。でも、自分からそれ以上距離を縮めようとはしない。

 

 ——どうしよう.....

 

 姫路さんの指先は震えていた。明らかに迷っている。

 

 ——どうしたらいいの....?

 

 誰にともなく答えを求める。

 

 けれど、誰も答えなどくれない。

 

 答えはいつも自分で導き出すしかない。

 

 誰かの出した答えは、その誰かの答えでしかないから。

 

 麻衣先輩が姫路さんに手を伸ばす。

 

 ——待って

 

 ふたりの指先が触れるまであと五センチ。

 

 ——待ってよ

 

 ——待ってって

 

 ——だから……

 

 「いやです………!」

 

 声とともに、幾度か手を胸元まで引っ込めた。それを、もう一方の手で大事そうにぎゅっと握り締める。それは、大切な何かを守ろうとしているように見えた。

 

 声が割れる。

 

 壊れたくない自分を、守るみたいに。

 

 ——知りたくない!

 

 姫路さんの激しい拒絶が俺の頭の中に響く。

 

 感情の棘が胸を突き刺してきた。

 

 ——勝てるわけないよ......こんな人に、勝てるわけない……!

 

 直後、見えていた映像が見えなくなった。聞こえていた声が聞こえなくなった。

 

 それまで張りつめていた何かが、音もなくほどけていく。

 

 千里眼の焦点が、ゆっくりとずれていくのが分かった。

 

 引き剥がされる、というより。

 

 役目を終えた糸が、自然に手から滑り落ちていくような感覚。

 

 ——もう、見なくていい。

 

 ——見なくても、分かるから。

 

 そんな意思が、言葉になる前に伝わってくる。

 

 (……?)

 

 俺は、そこで違和感を覚えた。

 

 拒絶されたから切れた、という感触とは違う。

 

 感情が暴発して遮断されたわけでもない。

 

 むしろ、静かすぎた。

 

 千里眼が、役割を終えたみたいに、淡々と閉じていく。

 

 ぶつっと、回線が切れる。

 

 映像も、声も、思考も、きれいに消えた。

 

 (……逃げられた、か)

 

 俺はそう解釈した。

 

 自分にとって都合のいい答えを、無意識に選んだのだと思う。

 

 まさか、この瞬間に。姫路紗良の思春期症候群が、終わったなんて。

 

 その可能性に、その時の俺は辿り着かなかった。

 

 気づけなかった。

 

 千里眼が繋がらなくなった理由を拒絶されたから、壊れる寸前だったから、そうやって、納得してしまった。

 

 でも、あれは遮断じゃない。逃避でも、暴走でもない。受け入れた瞬間だったことに。

 

 勝てないと知ったからではない。負けを、負けとして認めたから。

 

 だから、千里眼は必要なくなったことに。

 

 ただ、それに気づけるほど、その時の俺はまだ近くにいなかった。

 

 「はい、次の方……チケットをお願いします」

 

 係員が俺を見ている。

 

 その笑顔を見て、ぼんやりしていた意識がようやく戻ってきた。

 

 係員にチケットを渡し、ゆっくりと歩き出しながら、俺は胸の奥で小さく息を吐いた。

 

 (……逃げてるのは、俺も同じだ)

 

 姫路さんは、知りたくないから手を引いた。

 

 壊れないために、回線を切った。

 

 それを「弱さ」だと切り捨てる資格は、俺にはまだない。

 

 のどかにも、卯月にも。

 

 俺はずっと、同じことをしてきた。

 

 向き合わなければいけない瞬間を、まだ決めなくていい、今は大事にしたいだけ、そんな言葉で先延ばしにしてきた。

 

 誰かを傷つけたくない、と言いながら。

 

 実際には、自分が傷つくのが怖かっただけだ。

 

 (……ほんと、似てるな)

 

 姫路さんと。

 

 自分の気持ちを信じすぎて、でも、壊れる瞬間だけは、必死に避けるところまで。

 

 ふと、さっき見た麻衣先輩の顔が脳裏に浮かぶ。

 

 (麻衣先輩……)

 

 あの人は、容赦がなかった。

 

 姫路さんの逃げ道を、ひとつずつ丁寧に潰していく。

 

 怒鳴らない。否定しない。でも、嘘も与えない。

 

 「ふたりで幸せになるため」

 

 その一言を、あんなにも迷いなく言える強さ。

 

 (……咲太のことになると、本当に容赦ないな)

 

 誰かの気持ちを守るためなら、誰かを傷つける覚悟も、ちゃんと引き受ける。

 

 だからこそ、あの人は最後まで一緒にいる側に立てるんだ。

 

 俺は、そこまで踏み込めていない。

 

 「ふたりで幸せになるため」

 

 その言葉が、胸の奥で静かに反響する。

 

 (……俺も、そうなのかもしれない)

 

 のどかといる時間。

 

 卯月と笑っている時間。

 

 何も考えなくていい瞬間。

 

 答えを出さなくても許される空気。

 

 それは、たしかに幸せだ。

 

 (……幸せ、なんだ)

 

 でも。

 

 その幸せに、ずっと甘えていたら。

 

 誰も選ばず、誰も失わないまま、「やさしい自分」でい続けたら。

 

 いつか、必ず誰かを壊す。

 

 それが、今日、姫路さんを通して見えた未来だった。

 

 (……それは、嫌だ)

 

 俺は、ふたりといることが幸せなのかもしれない。

 

 けれど、その幸せを理由に、逃げ続けたくはない。

 

 選ぶことから逃げない。答えを先延ばしにしない。

 

 少なくとも、誰かの“未処理の敗北”を、増やす側にはならない。

 

 そう決めて、俺は一歩、前に進んだ。

 

 ライブ会場の中から、歓声が波のように押し寄せてくる。

 

 今日という日は、まだ終わらない。

 

 でももう、戻る場所はない。

 

 係員に促されるまま、俺は通路を抜けて客席に入った。熱だけが先に満ちている。

 

 四千人。数字としては分かっていたのに、実物は違う。ざわめきの層が厚い。息の匂いがする。冬の外気を連れてきた服が、少しずつ会場の温度に馴染んでいく。

 

 ステージはまだ無人だ。

 

 でも、そこにいる気配だけが先に見えた。

 

 花楓ちゃんと鹿野さんの横に並んで、俺は座る。

 

 手のひらを膝に置いた瞬間、さっきまで胸の奥に残っていた鎌倉の残像が、ようやく薄れていった。

 

 (……ここからは、現実だ)

 

 照明が落ちる。

 

 歓声が爆ぜて、次の瞬間、音が刺さる。

 

 センターに立っていたのはのどかと卯月だった。

 

 今日はダブルセンターらしい。

 

 見慣れたはずなのに、今日ののどかと卯月は違って見える。

 

 サブリーダーの安濃さんが横を固めて、卯月の天然が外に漏れそうになるたびに、ほんの数歩で支えているのが分かる。

 

 のんびり屋で最年長の中郷さんは余裕の笑みで客席を溶かし、岡崎さんは最年少らしい軽さで空気を跳ねさせる。

 

 この五人で、今のスイートバレットなんだ。

 

 照明が落ちる。

 

 歓声が弾けて、次の瞬間、ステージが光に切り裂かれた。

 

 音が鳴る。

 

 最初の曲は、スイートバレットライブ定番の 「BABY!」

 

 >I wanna kiss you,love me baby!!

 

 >I wanna kiss you,love me baby!!

 

 会場が一気に跳ねる。

 

 >ねぇ わたし朝から思考回路が大渋滞です

 

 >前みたいに気の抜けた顔なんてしないわ

 

 (……大渋滞、か)

 

 笑えないくらい、今の俺だ。

 

 >偶然を装うための計算をして、君にかける言葉 必死に探してる

 

 必死に探してるくせに、結局、俺は言わない。

 

 >上手に話せる自信なんて これっぽっちも無いくせにね

 

 それでも、話さなきゃ始まらないのに。

 

 >君にKiss you,love me baby!!

 

 >始まったばかりのストーリー

 

 >予習もなにも できてないけど

 

 >新しいわたしに出会うよ

 

 (新しい、か……)

 

 俺はまだ、古いままだ。

 

 >叶わないから美しいなんて

 

 >そんな言い訳したくないから

 

 >今日も鏡の前で深呼吸するの

 

 (……言い訳ばっかり、してきたな)

 

 曲が終わるころには、胸の奥が少しだけ熱くなっていた。

 

 次の曲。

 

 空気が変わる。

 

 八景島のライブで一躍知られることになった 「超音波のメロディ」

 

 >聴こえないメロディ響かせて

 

 >私たちは巡り合ってきた

 

 聴こえないふりをしてきたものが、今ははっきり刺さる。

 

 >Whoo la la la

 

 >何も知らないままのほうが

 

 >毎日きっとずっと少し楽なのに

 

 (……その通りだ)

 

 知らなければ、楽だった。

 

 >ラジオみたいに流されて

 

 >そのまま忘れてゆけばいいのに

 

 でも、俺は流されなかった。

 

 >耳を澄まさなきゃ通り過ぎる

 

 >でも君には 君には伝えたかったの

 

 >聴こえないふりが下手だよね。

 

 (……俺のことだ)

 

 聴こえないふりが、下手だった。

 

 >私の鼓動 君と重なっては

 

 >明日のこと迷いながら 今

 

 俺は、明日のことを迷っているくせに、今日だけは大事にしていた。まるで、逃げるみたいに。

 

 続いて、新曲 「最終バスと砂時計」

 

 >最終バス 走ってゆく いつもの道

 

 >いつもと同じ場所で待っててね

 

 最終、という言葉が、やけに重い。

 

 >倒れた砂時計はそのままにしとこうよ

 

 (……ひっくり返さない、か)

 

 なかったことにしない。

 

 >ふたり何年先もこうやって愛を歌おう

 

 >描いた未来と違ったって良い

 

 >ふたりなら 大丈夫さ!

 

 咲太と麻衣先輩の顔が、勝手に浮かぶ。

 

 >笑い飛ばす勇気 あなたが教えてくれた

 

 (……俺は、教えられてない)

 

 まだ。

 

 >出会った日から変わり続ける

 

 >わたしの心はあなたを吸い込んで

 

 >こうして二人は一つになるのよベイベー

 

 二人は一つになる。その言葉が、少し怖かった。

 

 次は 「スノウドロップ」

 

 照明が白く、静かになる。

 

 >空を仰いでる

 

 >転がった秒針と

 

 >孤独に埋もれた部屋に響くインターホン

 

 (……転がったままの時間)

 

 俺の中にも、ある。

 

 >このままじゃダメだとして

 

 >でもこのままで居られるように

 

 >止ることをやめないで 開く

 

 >掴みたい幸せだって

 

 >一瞬香った花のように枯れないもの

 

 >探して 彷徨って 生きる

 

 (……彷徨ってるのは、俺だ)

 

 最後の曲。

 

 クリスマスライブの定番、 「君のせい」

 

 >君のせい 君のせい 君のせいで私

 

 >臆病でかっこつかない

 

 >君のせいだよ

 

 (……ほんとに)

 

 >忘れられない事ばっか

 

 >増えていって困るなぁ

 

 忘れられなくなったのは、今日のことだ。

 

 >君のせい 君のせい 君のせいで今ね

 

 >私は綺麗になるの

 

 その一文で、胸が締め付けられる。

 

 傷ついて、それでも前に進もうとしている。誰かのせいで。

 

 >ハートのマシンガン構えて

 

 >余裕ぶっこいてる君に狙い撃ちするのさ

 

 曲が終わる。

 

 歓声が、割れる。

 

 センターでのどかと卯月が、息を切らしながら笑っている。

 

 (……逃げてる場合じゃないな)

 

 音楽は、誤魔化してくれなかった。

 

 歌は、正直だった。

 

 だから俺も、そろそろ正直にならないといけない。

 

 今日という夜は、そのために用意されたみたいに、眩しかった。

 

 十七時過ぎ。

 

 アンコールの余韻が会場の空気から抜けきらないまま、客席はゆっくり出口へ流れていった。

 

 会場を出ると、冬の冷気が頬を刺す。

 

 さっきまで熱で満ちていた身体が、一気に現実へ引き戻される感覚。

 

 隣で花楓ちゃんが、胸の前で手をきゅっと握りしめたまま、ほうっと息を吐いた。

 

 「……すごかったです」

 

 鹿野さんも、静かに頷く。

 

 「会場が一つになってましたね。新曲、特に」

 

 俺も頷き返した。うまく言葉にできないけど、胸の奥に残ってるものは確かにある。

 

 ただの良かったじゃ片づかない熱。

 

 それが、まだ抜けない。

 

 山下埠頭から桜木町へ戻る道のりは、来るときよりも少し静かだった。

 

 人の群れはあるのに、みんなそれぞれ余韻を抱えていて、口数が少ない。

 

 桜木町駅前まで来たところで、ふたりが足を止める。

 

 「私、今日は藤沢には戻らなくて……小机の実家で両親と過ごすんです」

 

 花楓ちゃんが、申し訳なさそうに言う。

 

 「うん。クリスマスだし、それがいい」

 

 「鹿野さんも?」

 

 「はい。私も実家で……家族が待ってるので」

 

 鹿野さんはいつも通りの落ち着いた声で、でも少しだけ柔らかく言った。

 

 改札前。人が途切れず流れている。

 

 この時間の桜木町は、ふだんより帰る場所の匂いが濃い。

 

 「今日は、ありがとうございました。蓮真さん」

 

 花楓ちゃんが小さく頭を下げた。

 

 「こちらこそ。一緒に行ってくれて助かった」

 

 嘘じゃない。もし一人だったら、俺はあの熱を、またどこかにしまい込んで終わらせていた気がする。

 

 「気をつけて帰ってね。またライブ一緒に行こう」

 

 そう言うと、花楓ちゃんはぱっと笑って、「はい」と頷いた。

 

 鹿野さんも軽く会釈して、「お疲れさまでした」とだけ言う。

 

 ふたりはそれぞれのホームへ向かい、俺は京浜東北線の案内表示に従って歩いた。

 

 改札を抜けた瞬間、背中が少しだけ軽くなる。

 

 ここからは、また一人だ。

 

 ホームに上がると、冷えた風が吹き抜ける。

 

 電車が入ってきて、扉が開き、俺は流れに乗って乗り込んだ。

 

 桜木町から大船までの時間。

 

 座席に背中を預けた瞬間、スマホを取り出す。

 

 送る相手は決まっていた。

 

 グループチャット《きっしー観察会》。

 

 画面の中には、見慣れたアイコンが並んでいる。

 

 のどか。卯月。俺。

 

 打って、消して、また打つ。

 

 そして、送信。

 

 《のどか、卯月。今日はお疲れ様。全部良かった。特に新曲の「最終バスと砂時計」、めちゃくちゃ良かったよ》

 

 送った直後、胸の奥が少しだけ落ち着く。

 

 言えた。ちゃんと言えた。

 

 それだけで、ほんの少し救われた気がした。

 

 大船で乗り換え、東海道線。

 

 藤沢方面行きの電車は、買い物袋を持った人や、カップルで埋まっていた。

 

 空いている席に座ると、窓に映った自分の顔が、どこか熱を残している。

 

 (……まだ、終わってないな)

 

 ライブも、今日も。

 

 スマホが震えた。

 

 まずはグループチャット。

 

 《きっしー!!見てた!?いた!?いたよね!?》

 

 《最終バスと砂時計、すっごく練習したんだ!!》

 

 いつもの勢いに、少し笑いそうになる。

 

 続けて、のどか。

 

 《ありがとう。……嬉しい》

 

 《最終バスと砂時計、あれ、今日、ちゃんと歌えてよかった!》

 

 「ちゃんと」という言葉が、心に刺さった。

 

 あの曲の最後、のどかがほんの少しだけ息を吸って、視線を客席のどこかに置いた瞬間。

 

 あれは、たぶん俺が見ていたものと同じだ。

 

 言わないといけない。

 

 そう思わせる何か。

 

 画面を閉じようとしたタイミングで、もう一度スマホが震える。

 

 今度は、個別LINE。

 

 のどかからだった。

 

 《蓮真、今日二十一時ぐらいに藤沢に着くことになりそうだけど、大丈夫?》

 

 一瞬だけ、心臓が跳ねた。

 

 大丈夫?という短い言葉の裏に、色んなものが詰まっているのが分かる。

 

 “待っててくれる?”

 

 そういう言葉を、のどかは、いつも控えめに送ってくる。

 

 俺は迷わず打った。

 

 《大丈夫だよ。待ってるから》

 

 送信。

 

 それだけで、車内のざわめきが少し遠くなる。

 

 窓の外、夜の街が流れていく。

 

 (……待ってる)

 

 その言葉を、俺は今日、初めて逃げるためじゃなく使った気がした。

 

 東海道線は藤沢へ向かう。

 

 俺の心も、同じ方向へ向かっていた。

 

 のどかが藤沢に着くまで、まだ少し時間がある。

 

 俺は駅前をうろついたあと、結局、足が勝手にあのカフェに向いていた。

 

 姫路さんと、以前入った店だ。

 

 派手でも有名でもない。駅から歩いて二、三分。細い路地の途中にある小さな喫茶店。

 

 木の扉を開けると、空気が一段階、過去に戻る。

 

 暖色の照明が、夜の冷えを少しだけ和らげてくれる。

 

 窓際の席に座り、コーヒーを頼む。

 

 カップから立ち上る湯気を眺めながら、さっきの千里眼の感触を思い出していた。

 

 (あれは、拒絶じゃなかった)

 

 そう思い始めている自分が、少し遅すぎて笑えない。

 

 霧島透子。

 

 姫路さんがぶつけると言っていた名前。

 

 結局、どうなったんだろうな、と考えて、スマホを取り出す。

 

 迷ってから、メッセージを打った。

 

 《こんばんは。姫路さん、霧島透子に思春期症候群はぶつけられた?》

 

 ……送信した直後、少ししてから、既読がついた。

 

 返事は、思っていたよりも早かった。

 

 《蓮真先生、肝心な時はデリカシーないですよね》

 

 苦笑いが漏れる。

 

 《ごめん……何かあった?》

 

 しばらくして、通知。

 

 《私の思春期症候群、治っちゃいました》

 

 《咲太先生と、麻衣さんのおかげで》

 

 画面を見たまま、息を止める。

 

 (……ああ)

 

 さっき、千里眼が切れた理由。

 

 逃げられたんじゃない。壊れたわけでもない。

 

 終わったんだ。

 

 《そっか。姫路さんは、それで大丈夫だった?》

 

 間が空く。

 

 カップを持ち上げ、口をつける。少し苦い。

 

 《私、てっきり私にも霧島透子が見えてると思ってました》

 

 《でも結局は、見たものを、咲太先生が見ていたから見えただけでした》

 

 《さっき大学行っても、霧島透子は見えなかったので》

 

 《そっか……》

 

 それ以上、うまい言葉が見つからない。

 

 《なんか、ほんとバカみたいですよね》

 

 画面越しに、自嘲の笑いが浮かぶ。

 

 《いや、でも姫路さんは、咲太の役に立ちたかったんだろ?》

 

 《その気持ちは、大事だと思うよ》

 

 少し間を置いて。

 

 《……蓮真先生って、咲太先生に負けず劣らず、ずるいですね》

 

 《おいおい……》

 

 《まぁ、やる気満々でがっかりするよりは良かったですけど》

 

 そう続いたあと、少しだけ間があって。

 

 《それに、咲太先生に、ケーキ買ってもらいましたし》

 

 思わず、口元が緩む。

 

 《そっか》

 

 《姫路さん、思春期症候群、治って良かった?》

 

 《俺が聞くのもだけどさ》

 

 しばらく、返事は来なかった。

 

 コーヒーが、もう半分も残っていない。

 

 ようやく届いたメッセージ。

 

 《全然です》

 

 《でも私》

 

 《もっとちゃんと、咲太先生を好きになればよかったって思いました》

 

 胸の奥が、少しだけ痛む。

 

 《だから、私、第一志望に合格したら》

 

 《改めて、咲太先生に告白します》

 

 画面を見つめたまま、息を吐く。

 

 《そっか、姫路さんは、強いな》

 

 すぐ返ってくる。

 

 《皮肉ですか、蓮真先生?》

 

 《違うよ》

 

 《頑張って、応援してるよ》

 

 また少し間が空いて。

 

 《じゃあ蓮真先生》

 

 《そのためにも、私の勉強に、たまにお付き合いしてくださいね》

 

 《俺の担当生徒にでもなるか?》

 

 即答だった。

 

 《それは遠慮しときます》

 

 《なんか、私が解かれそうですし》

 

 《おいおい》

 

 《まぁでも、頼りにしてます、蓮真先生》

 

 そして、最後に。

 

 《蓮真先生も、お二人には、きちんと今の気持ちを伝えてくださいね》

 

 少しだけ、画面から目を離す。

 

 窓の外。藤沢の夜は、クリスマスの飾りでやけに明るい。

 

 《ありがとよ、姫路さん》

 

 送信して、スマホを伏せた。

 

 姫路紗良は、前に進こうとしている。

 

 勝てない恋だと知ったうえで、それでも、もう一度、自分の足で立つ選択をした。

 

 それは、負けじゃない。

 

 むしろ、ちゃんと終わらせた人間の強さだ。

 

 (……ほんと、姫路さんにも敵わないな)

 

 カップの底に残ったコーヒーを飲み干す。

 

 スマホを伏せたまま、しばらく動けずにいると、また画面が震えた。

 

 姫路さんからだ。

 

 《あと、せっかくなので、霧島透子の生配信の歌、送りますね》

 

 《クリスマスイブっぽくて、いい感じなので》

 

 YouTubeのリンクが一つ、添付されている。

 

 タイトルは短かった。

 

 「Silent Night」

 

 俺は、鞄の中からワイヤレスイヤホンを取り出す。

 

 卯月が、少し前に「CM撮影の時全色貰ったからあげる!」って譲ってくれたやつだ。

 

 耳に着けて、再生する。

 

 映っていたのは、庭園にあるような池。その池にかかる小さな橋。

 

 それと、橋の上に立つミニスカサンタの遠い背中だ。

 

 殆ど、シルエットしか見えていない。

 

 (これ、本校舎の中庭だな……)

 

 最初は、音が静かすぎて、環境音に溶けそうになる。

 

 でも、すぐに歌声が輪郭を持った。

 

 >きらめいたものばかり かき集めた今夜に

 

 >ほんの冗談みたいに誘っちゃった「ここに来てよ」

 

 (……冗談、か)

 

 冗談にしてしまえば、傷つかない。断られても、笑って引っ込められる。

 

 >叶わないことばかり ひとつふたつみっつ

 

 >増えてもつい夢見てしまった

 

 叶わないと分かっていても、夢を見る。それをやめられないのが、人だ。

 

 >光のツリー 白い吐息

 

 >恋が行き交う底で永遠みたい Silent Night

 

 >君がいない Christmas Night あの記憶もいま喧騒も

 

 >私ひとり取り残して 永遠みたい Silent Night

 

 (……取り残して、か)

 

 俺は今、誰の隣にいるんだろう。

 

 >君がいない Christmas Night あの記憶も いま喧騒も

 

 >私 ひとり 取り残して永遠みたい

 

 >Silent Night

 

 耳元で、吐息みたいな声が揺れる。

 

 >君がいない Christmas Night この街に

 

 >あふれてる歌

 

 >いくら声振り絞っても 届かないかな

 

 (……届かない、か)

 

 届かないと思うから、声を出さない。出さなかったから、届かない。

 

 その循環に、俺はずっといた。

 

 >「どうせひとり 君もひとり」って茶化し合う方が楽で

 

 >ずっとそのまま傷つくこと 素直なことすべてがかけがえないことも

 

 茶化す方が、楽だ。冗談にすれば、気持ちは濁る。

 

 >いまさら…あぁ それでも綺麗 透き通ってて

 

 >君にも見せたい夜景 ため息にも Silent Night

 

 (……見せたい、か)

 

 >いますぐにでも

 

 >手のひらの中の Blue Light 本音の鼓動

 

 >君に伝えればいいのに ため息にも Silent Night

 

 Blue Light。スマホの画面。LINE。

 

 今、俺の手の中にあるものみたいだ。

 

 >手のひらの中の Blue Light この街は もう明る過ぎて

 

 >どれだけ目を凝らしたって

 

 >星は見えない

 

 明るすぎるから、見えない。選択肢が多すぎるから、選べない。

 

 >意地っ張りなんてもう 早く辞めたいや

 

 >心から込み上げてくること 好きな歌のこと

 

 >ちょっと聞いてみたい ただそれだけなのにな 光に埋もれて

 

 >黙って今日も透明人間のまま

 

 透明人間。

 

 見えていないわけじゃない。でも、触れない場所にいる。

 

 >永遠みたい Silent Night 君がいない Christmas Night

 

 >あの記憶もいま喧騒も私ひとり取り残して

 

 >永遠みたい Silent Night 君がいない Christmas Night

 

 >この街にあふれてる歌

 

 >いくら声振り絞っても

 

 >届かないかな 君にだけ

 

 >届いたらな

 

 歌が終わる。

 

 イヤホンを外しても、しばらく耳の奥で余韻が残っていた。

 

 (……姫路さん)

 

 この歌を「いい感じ」って言葉で送ってくるあたり、あの子らしい。

 

 負けた恋を、ちゃんと自分のものとして受け取って。

 

 でも、それを恨みにもしない。

 

 静かで、優しくて、痛い歌。

 

 俺は、スマホをもう一度手に取る。

 

 のどかとのLINE画面が、まだ開いたままだった。

 

 《大丈夫だよ。待ってるから》

 

 さっき送ったその一文が、Blue Lightの中で静かに光っている。

 

 (……届くといいな)

 

 ため息じゃなくて、ちゃんとした言葉で。

 

 黙って透明人間のままでいる夜は、今日で終わりにしたい。

 

 時計を見ると、もうすぐ二十一時だ。

 

 そろそろ、のどかが来る。

 

 俺は席を立ち、コートを羽織った。

 

 逃げる時間は、もう終わった。

 

 今度は、待つ番だ。

 

 ちゃんと、向き合うために。

 

 藤沢駅。

 

 改札前は、相変わらず人が多い。

 

 クリスマスイブの夜だから、いつもより少しだけ浮ついた空気が混じっている。

 

 スマホをしまって、顔を上げた瞬間だった。

 

 (見つけた)

 

 人の流れの向こう。改札を抜けてきた、その中に。

 

 千里眼じゃない。意識を伸ばしてもいない。ただ、俺の目で見ただけだ。

 

 それなのに、胸の奥が一瞬で熱くなる。

 

 コートの襟を少し立てて、肩にかかるサイドテールの髪を手で押さえながら歩いてくる。

 

 周囲をきょろきょろ見渡して、少し遅れたことを気にしている顔。

 

 のどかだった。

 

 (……ああ)

 

 これだ、と直感で分かる。

 

 考える前に会いたい、って感覚。理由も、順序も、全部抜きで。

 

 人混みの中で、目が合う。

 

 一瞬だけ、のどかの表情が固まって。次の瞬間、ぱっとほどけた。

 

 小さく手を振りながら、早足になる。

 

 「……蓮真」

 

 目の前まで来て、少し息を整えてから。

 

 「待たせてごめんね」

 

 その一言が、やけに胸に残った。

 

 「いや、全然」

 

 本当に、嘘じゃなかった。

 

 待っている時間が、苦じゃなかったわけじゃない。でも、今この瞬間を見たら、全部どうでもよくなる。

 

 改札前の雑踏。人の声。アナウンス。

 

 それらが、少しだけ遠くなる。

 

 短い沈黙。

 

 言うなら今だ、と分かっているのに、すぐには言葉が出てこない。

 

 のどかが、不安そうに視線を上げる。

 

 「……どうしたの?」

 

 俺は、小さく息を吸って、鞄に手を伸ばした。

 

 「……あのさ、これ」

 

 取り出した、小さな箱。

 

 派手でも、高価でもない。ハンドクリームのセット。

 

 のどかが、一瞬だけ目を瞬かせる。

 

 「え……?」

 

 「クリスマスだから」

 

 それ以上、余計な説明はしない。

 

 のどかは、ゆっくり箱を受け取って、両手で持った。

 

 「……ありがとう」

 

 すぐには開けない。

 

 ただ、確かめるみたいに指で縁をなぞっている。

 

 その仕草を見て、胸の奥が、静かに締まった。

 

 ここで、逃げたら終わりだ。

 

 俺は視線を逸らさずに、続ける。

 

 「今日さ、俺さ」

 

 言葉を探す。でも、探しすぎないように。

 

 「のどかに、すごく会いたかった」

 

 のどかが、顔を上げる。

 

 驚いたような、でもどこか納得したような目。

 

 「理由は……ちゃんと言葉にできないんだけど」

 

 一度、間を置く。

 

 頭で整理する前に、口が動く。

 

 「でも、のどかの前だとさ」

 

 「“考える前に会いたい”って、思ったんだ」

 

 言い切った。

 

 誤魔化しでもない、俺の今できる精一杯の言葉で。

 

 のどかは、すぐには何も言わなかった。

 

 プレゼントの箱を胸に抱えたまま、少し俯く。

 

 人の流れが、二人の横をすり抜けていく。

 

 「……そっか」

 

 小さな声。

 

 でも、その一言に、ちゃんと温度があった。

 

 「なんか……それ、蓮真っぽいね」

 

 苦笑いにも、照れにも聞こえる声。

 

 「逃げてない感じ」

 

 胸の奥で、何かが静かに落ち着く。

 

 「……うん」

 

 それだけ答える。

 

 逃げない。選ばないままでいることから、目を逸らさない。

 

 まだ答えは出ていない。でも、もう透明人間ではいない。

 

 改札前の時計が、静かに時を刻む。

 

 藤沢の夜は、思っていたよりもあたたかかった。

 

 イブの夜に、俺は確かに誓った。

 

 千里眼じゃない、この目で見た最初の視線”を、裏切らないって。

 

 少しだけ、間が空いた。

 

 改札前の喧騒が戻ってきたみたいに、人の声が耳に入る。

 

 それでも、俺たちの間には、さっきまでとは違う静けさがあった。

 

 俺は思い出したように、ポケットに手を入れる。

 

 「……あのさ」

 

 のどかが顔を上げる。

 

 「さっきさ、この曲、聴いてたんだ」

 

 スマホを取り出して、画面を見せる。

 

 「Silent Night」

 

 のどかが、少し意外そうに目を丸くした。

 

 「え、霧島透子の新曲?」

 

 「そう」

 

 俺は、卯月から譲ってもらったワイヤレスイヤホンを片方外して、のどかに差し出す。

 

 「一緒に聴く?」

 

 一瞬だけ、迷う素振り。

 

 でも、のどかは小さく頷いて、受け取った。

 

 「……うん」

 

 イヤホンを耳に着ける仕草が、やけに近く感じる。

 

 再生。

 

 静かなイントロが、二人の間に落ちてくる。

 

 >きらめいたものばかり かき集めた今夜に

 

 音量は大きくない。

 

 でも、不思議と、外の音よりもはっきり聞こえた。

 

 のどかは、何も言わずに聴いている。

 

 時々、歌詞に合わせて、ほんの少しだけ表情が動く。

 

 >君がいない Christmas Night

 

 >私ひとり取り残して

 

 そのフレーズのところで、のどかが、ほんの一瞬だけ視線を落とした。

 

 俺は何も言わない。

 

 言葉を挟まない方がいい気がした。

 

 歌が終わる。

 

 イヤホンを外して、俺はそれを受け取る。

 

 少しの沈黙。

 

 のどかが、先に口を開いた。

 

 「……いい曲だね」

 

 「ああ」

 

 それだけで、十分だった。

 

 少し間を置いて。

 

 のどかが、俺の方を見て、照れたみたいに笑う。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「メリークリスマス」

 

 一瞬、胸の奥が詰まる。

 

 でも、ちゃんと返す。

 

 「メリークリスマス、のどか」

 

 言葉にしただけなのに、世界が少しだけ柔らかくなる。

 

 それから、俺は思い切って聞いた。

 

 「……なあ、のどか」

 

 「年末年始って、予定、空いてる?」

 

 のどかは、少し考えてから答える。

 

 「お母さんの家には帰るけど……空いてるよ」

 

 その言い方が、なんだか嬉しかった。

 

 「じゃあさ」

 

 頭の中に、前の景色が浮かぶ。

 

 桜が咲き誇る目黒川沿い。

 

 春の空気。

 

 あのときの並んだ距離。

 

 「前に一緒に目黒川に行った時にさ、寄った神社あっただろ」

 

 「……うん」

 

 「初詣、行かないか?」

 

 のどかが、少しだけ首を傾げる。

 

 「……卯月も誘う?」

 

 その一言に、胸の奥が静かに温かくなる。

 

 「ああ」

 

 「三人で行こう」

 

 間を置かずに、続けた。

 

 「そのあとさ、俺の実家で」

 

 「お節でも食べてさ」

 

 のどかの目が、少しだけ大きくなる。

 

 でも、すぐに、やわらかく笑った。

 

 「……うん」

 

 短く、でもはっきり。

 

 「約束ね」

 

 その一言で、未来が一つ、確定した気がした。

 

 逃げないで、同じ方向を見る約束。

 

 (……明日は卯月にも、同じくらいちゃんと伝える。逃げないって決めたんだから)

 

 藤沢駅の明かりの下。

 

 俺たちは並んで歩き出す。

 

 イブの夜は、まだ終わらない。

 

 そのまま、のどかをマンションまで送る。

 

 フロントの前。のどかはプレゼントの小箱を胸に抱いたまま、少しだけ名残惜しそうに立っている。

 

 名残惜しそうに、のどかがこちらを振り返る。

 

 「じゃあ……また連絡するね」

 

 「うん」

 

 のどかは一歩、フロントの中に入ってから、振り返る。

 

 「……蓮真、今日はほんとに、ありがとう」

 

 俺は息を吸って、ちゃんと返した。

 

 「のどか、今日はありがとう」

 

 「ううん、こっちこそありがとう、蓮真」と、のどかは微笑んだ。

 

 そこには、幸せがあった。

 

 ここには、幸せがある。

 

 その夜。

 

 のどかのマンションから家までの道を、ひとりで歩いた。

 

 人通りはまだあるのに、不思議と騒がしく感じない。

 

 アパートの階段を上り、鍵を回す。

 

 玄関の明かりを点けた瞬間、ようやく今日が終わる実感が湧いてきた。

 

 コートを脱いで、鞄を置く。

  

 スマホを裏返したまま机に置いて、浴室へ向かった。

 

 シャワーをひねると、すぐに湯気が立ち上る。

 

 冷え切っていた指先が、少しずつ感覚を取り戻していく。

 

 熱いお湯を肩に浴びながら、俺はぼんやりと目を閉じた。

 

 藤沢駅の改札。

 

 人混みの向こうで、ふいに視線が重なった瞬間。

 

 千里眼じゃない。意識を伸ばしたわけでもない。

 

 ただ、肉眼で見ただけの、あの最初の視線。

 

 考える前に、会いたいと思った。理由を並べる前に、誓っていた。

 

 逃げない、と。

 

 “最初に見つけた人”を、言い訳で失わないって。

 

 シャワーを止め、タオルで髪を拭く。

 

 鏡に映る自分の顔は、思っていたより落ち着いていた。

 

 歯を磨いて、部屋の灯りを落とす。

 

 ベッドに潜り込み、天井を見上げる。

 

 さっきまで鳴り止まなかった音楽も、言葉も、全部静かになっている。

 

 それなのに、胸の奥は不思議とあたたかいままだ。

 

 怖くなかった。

 

 答えを出していないのに。何も確定していないのに。

 

 それでも、逃げなかったことだけは確かだった。

 

 その夜。

 

 現実としか思えない不可思議な夢を、数多くの若者が似たような夢を見た。

 

 俺と同じ大学に通う学生も夢を見た。

 

 峰ヶ原高校の生徒も夢を見た。

 

 豊浜のどかも。

 

 広川卯月も。

 

 古賀朋絵も。

 

 双葉理央も。

 

 梓川花楓も。

 

 大津美凪も。

 

 浜松夏帆も。

 

 米山奈々も。

 

 赤城郁実も。

 

 上里沙希も。

 

 国見佑真も。

 

 福山拓海も。

 

 姫路紗良も、山田健人も、吉和樹里も、加西虎之介も。

 

 そして、梓川咲太も、夢を見ていた。

 

 でも朝、目が覚めるまで、桜島麻衣だけが夢を見なかった。

 

 そして、もう一人。

 

 岸和田蓮真もまた、夢を見なかった。

 

 

————————

 

 

君は今どこにいるの 

 

誰といるの 何を思っているの

 

僕は今家にひとり 

 

猫とふたり 君のことを考えて

 

でも寂しくない 悲しくない 泣けてもこない

 

胸が苦しくない 痛くもない 

 

締め付けられない 

 

だから……

 

聞かせてよ 聞きたくない あなたの好きな人

 

知りたいよ 知りたくない 私の好きな人

 

相変わらず眠くなんないや 夢なんか見ない 

 

つまらないって知ってる

 

この先もずっとひとり 君はきらい? 

 

いやな質問だよね

 

まだ寂しくない 悲しくない 泣けてもこない

 

別にときめかない 切なくない 

 

抱きしめなくていい

 

……ごめん

 

どこか行って ここまで来て 

 

もう忘れられない人

 

忘れてよ 忘れないで もう忘れたくない人

 

僕はいつまで Ah いじっぱりを演るの

 

もっとありのまま 大人になれればな

 

大好きだよ そばにいてね 

 

君だけがほしいんだ

 

話してよ 寝落ちちゃうまで 

 

君だけがほしいんだ

 

聞かせてよ 聞きたくない あなたの好きな人

 

知りたいよ 知りたくない 私の好きな人

 

 

————————

 

 

次回

『青春ブタ野郎はピューバティーギフトの夢を見ない』

 

姫路紗良

『さすが蓮真先生、ブタ野郎ですね』

 




この章をもって、『青春ブタ野郎はアウトオブサイトの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。

時系列でいえば、『青春ブタ野郎はマイスチューデントの夢を見ない』のお話しです。

今章で物語の中心に置いたテーマは、姫路紗良の視点を通して描く「人を好きになること」とは何か、です。   

好き、という感情は、きれいなものだけじゃない。憧れ、優越感、負けたくなさ、手に入れたい欲、誰かの隣を奪いたい衝動。そういう感情が混ざってしまうことは、よくあります。

でも紗良は、最後の最後でそこから一歩だけ降りました。

「見たい」「知りたい」という千里眼の欲求の先に、本当に欲しかったものが何だったのか、その問いに、逃げずに触れた。だからこそ、千里眼は遮断されたんじゃなく、必要なくなった。

勝てないから手を引いたんじゃなくて、負けを負けとして認めたから、終わらせられた。

この章で描きたかったのは、紗良のその強さでした。

そして同時に、紗良は、蓮真にとって鏡でもありました。

蓮真が今までやってきたことは、優しい言葉で曖昧に包み、誰も傷つけないように見える距離で寄り添い続けること。

それは確かに誰かを救う一方で、自分の本音に触れないための逃げにもなる。紗良の「いやです……!」は、好きの痛みから逃げる叫びであり、蓮真にとっては「このままじゃ、いつか誰かを壊す」という未来の警告でもありました。

のどかと卯月という大切な二人に対して、曖昧なまま寄り添うだけでは届かない瞬間が、必ず来る。

それを、イブの夜に蓮真は、自分の目で自覚する。

「考える前に会いたい」と、のどかに言えたことは、答えを出したからじゃなく、答えから逃げない側に立ったから。そういう一歩として描いています。

この章は、蓮真が逃げない好きを学んでいく入口であり、同時に「ここから先は、ちゃんと向き合わなければならない」という予感を置くための話でした。

次章『青春ブタ野郎はピューバティーギフトの夢を見ない』は、岩見沢寧々を主役に据えた物語になります。 

時間軸としては、原作大学生編『青春ブタ野郎はサンタクロースの夢を見ない』と重なる季節となります。

クリスマスを過ぎたあとの、静かな冬の中で、思春期症候群が人を救うのか、縛るのか、そんなテーマにも触れながら、霧島透子の正体に少しずつ迫っていく章として描く予定です。

感想や考察など、一言でもいただけたら、次章を書くうえで大きな励みになります。

これからも、岸和田蓮真の視点が照らす青春に、どうぞお付き合いいただければ幸いです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月

使用楽曲コード:22974121,24153397,32818246,72417986

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