青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
私事でバタつく時間が続いていて、なかなか腰を据えて書くことができず、結果的にお待たせしてしまいました。すみません。
ようやく落ち着いて、また青ブタの世界に戻ってくることができたので、続きをお届けします。無理のないペースにはなりますが、これからまた書いていけたらと思います。
ここまで待ってくださった方、ありがとうございます。
それでは、続きをご覧ください。
十二月二十八日
クリスマスが終わると、街からはサンタクロースとトナカイ、それにツリーの飾りが消えて、代わりにどこか落ち着かない年末特有の空気が寒波とともに押し寄せてきた。
街も、人も、年内にやり残したことを探すように、そわそわしている。寒さに身を縮めながら、誰もが足早に行き交っている。何かに追いかけられているかのような焦燥感が漂っていた。
ただ、例年とひとつだけ違うのは、今年になって生まれた「#夢見る」という言葉を見聞きする機会が増えたということ。
SNSの接続障害のニュースで華々しく地上波デビューを飾った#夢見るは、その後、活躍の場をワイドショーに移して、連日のように取材対象にされていた。
夢が本当になったという女子高生の体験談が語られ、スタジオではそのオカルト話にコメンテーターが真面目な顔をして持論を展開する。
俺の周囲でも、#夢見るは存在感を示し、毎日のように誰かしらから、夢の話を聞かされる年の瀬となった。
その存在感を、はっきりと自覚したのは、昨日の夜のことだった。
十二月二十七日。
二十二日に受け取ったお土産の感想を、ようやく二人に送ったのが、すべての始まりだった。
《この前はお土産ありがとう。ちんすこう、思ってたより香ばしくて普通にうまかった。紅芋タルトも甘さ控えめで、これは止まらないやつだな》
送信。
すぐに既読が二つ並ぶ。
最初に返ってきたのは、大津だった。
《よかった。沖縄行ったらとりあえずちんすこう買っとけ、みたいなノリで選んだから》
いかにも彼女らしい、軽い返し。
少し遅れて、浜松さん。
《よかった、紅芋タルト、岸和田くんの口にあったみたいで》
短いけれど、きちんと気遣いのある文面だった。
そこで終わるはずのやり取りが、途切れなかった。
《そういえば、岸和田も夢見た?》
ほぼ同時に、浜松さんからも。
《最近の #夢見る の話、見た?》
俺は、スマホを持ったまま少し考えてから返す。
《俺は見てない。何も》
その返事に対して、二人の反応は早かった。
《私は見た》
《……私も》
嫌な一致。
《どんな夢?》
そう聞くと、大津が先に打ってきた。
《四月一日。鹿児島》
少し間を置いて、浜松さん。
《鹿児島のビーチだったよ》
嫌な予感が、静かに形を持つ。
《大会?》
《うん、ビーチバレーの。全国大会みたいな雰囲気》
俺は、思わず眉を寄せる。
ビーチバレー。それ自体は、二人にとって何も不思議じゃない。
大津も、浜松さんも、現役のビーチバレー選手なのだから。
《それって、ただの願望夢じゃないのか》
そう返したつもりだった。
でも、大津はすぐ否定した。
《それがさ》
《もう大会、決まってるんだよ》
続けて、浜松さん。
《四月上旬、鹿児島で全日本の大会があって、日程も……四月一日からなの》
一瞬、指が止まった。
偶然だと言うには、条件が揃いすぎている。
《夢の内容も》と、大津が続ける。
《試合の組み合わせとか、コートの配置とか、変に具体的で》
《起きてから調べたら、あ、これ四月の大会と同じじゃんってなって》
浜松さんも、少し言葉を選ぶように。
《私も、夢の中で履いていたユニフォームが、来年使う予定のものと同じで》
《まだ正式発表前なのに》
正夢。
その言葉が、頭の中をよぎる。
ただの、当たりそうな未来を夢見ただけじゃない。
もう決まっている現実を、先に覗いてしまった感覚。
《それ、正夢っぽくないか》
俺がそう送ると、大津はすぐ返してきた。
《でしょ》
《だから、ちょっと気持ち悪い》
浜松さんも、同意するように。
《夢っていうより……予習みたいで》
《結果までは見えなかったけど》
そこが、妙に引っかかった。
未来の途中だけが、切り取られている。
《他にも夢見てる人、周りにいる?》
俺が聞くと、大津。
《結構いるよ。クラブ内でも》
《同じ日付とか、同じ場所の話してる人もいた》
浜松さん。
《見てない人の方が少数派だと思う》
俺は、スマホを伏せて、しばらく天井を見た。
卯月の四月一日のライブの夢。
麻衣先輩へのフェスのオファー。
赤城と咲太の、電話の夢。
そして今度は、鹿児島のビーチバレー大会。
四月一日。
同じ日付に、別々の場所で、別々の人間の未来が重なっている。
《……俺だけ、見てないんだな》
ぽつりと打つと、大津が返した。
《それ、逆に怖くない?》
《だよな》
浜松さんも、短く。
《外側にいる、って感じがするね》
外側。
その言葉が、やけにしっくりきた。
夢を見ていないから、巻き込まれていないようで。でも実際は、誰よりも近くで、全部を見ている。
《四月一日、何も起きないといいんだけど》
浜松さんのその一文に、俺はすぐ返せなかった。
何も起きない、なんて。もう、言える段階じゃない気がしていたから。
《起きる前提で、備えとくしかないな》
そう返すと、大津が軽く笑うスタンプを送ってきた。
《岸和田らしい》
浜松さんも。
《そうだね》
その言葉を見て、俺は小さく息を吐いた。
頼りにされる理由が、分からないままなのに。
スマホを置いて、窓の外を見る。
年末の街は相変わらず落ち着きがなく、人も車も忙しなく動いている。
けれど、そのざわめきの奥で。
四月一日に向かって、現実の方が、確実に歩を進めている。
夢を見た人たちは、もう知っている。
俺だけが、知らないふりをしている。
それが一番、逃げ場のない立場だということを、薄々感じながら。
俺は、年末の冷たい空気の中に、静かに身を置いていた。
その後、俺は年内最後となる塾講師のバイトに向かった。
考えても答えは出ない。だからいつも通りに塾へ向かった。
そしてそこでも、#夢見るの話題が上がった。
年内最後の授業日ということもあって、塾内はどこか落ち着かない空気だった。
生徒の数は普段より少なく、廊下に貼られた時間割表の余白がやけに目につく。
教室に入る前、コピー機の前でプリントを揃えていると、背後から控えめな声がした。
「……岸和田先生」
振り返ると、吉和さんが立っていた。
いつもより少し距離が近く、視線が定まっていない。
「どうした吉和さん?」
一瞬、言葉を探すように唇を噛んでから、彼女は小さく息を吸った。
「あの……今日だけでいいので、私を担当してもらえませんか?」
思わず眉をひそめる。
「そんな急に言われても……」
時間割表を思い浮かべながら言う。
「吉和さん、梓川先生……咲太の授業で、何かあった?」
「いえ……授業自体は、何も」
そこで一拍、間が空く。
「……ただ」
「ただ?」
「顔を合わせるのが、少し……辛くて」
ようやく視線が合った。
「山田くんと、です」
なるほど、と思うと同時に、嫌な予感もした。
「ケンカした、とか?」
「いえ……そうじゃなくて」
声が小さくなる。
「クリスマスイブに……夢を見たんです」
その言葉で、すべてが繋がった。
「……#夢見る?」
吉和さんは、ゆっくり頷いた。
「江の島で、山田くんとデートしている夢で……」
言い終わる前に、耳まで赤くなっている。
「夢の中では、すごく自然で……」
「起きたら?」
「……現実の方が、追いついてなくて」
気まずさ、というより、居場所のなさ。
未来を先に見てしまった後の、現在のぎこちなさ。
「……要するに」
言葉を選びながら言う。
「今、顔を見ると、色々考えちゃうってことか」
「はい……」
小さく、でもはっきりした返事。
俺は時間割を確認してから、首を横に振った。
「悪いけど、今日は俺も担当が詰まってて」
「そうですよね……」
すぐに引き下がるあたりが、吉和さんらしい。
「いきなり無理なお願いして、すみませんでした」
「いや、気にしないでいいよ」
そう言いながらも、胸の奥に残るものがあった。
誰かの未来を知ってしまうことが、こんな形で日常を歪ませるなんて。
「……夢って、便利なようで厄介だな」
ぽつりと漏らすと、吉和さんは少し困ったように笑った。
「ですよね」
それ以上、言葉は続かなかった。
吉和さんが教室に戻っていく背中を見送りながら、俺は思う。
派手な予言じゃなくても。世界を揺るがす未来じゃなくても。
#夢見るは、確実に人の日常を侵食し始めている。
年末の静かな塾の中で、その実感だけが、じわじわと重なっていった。
十二月二十九日
昼過ぎに目黒の実家へ戻ると、家の中はすでに年末の空気に切り替わっていた。
廊下には掃除機の音が残っていて、玄関にはまとめられた古紙と段ボールが立てかけられている。
リビングに顔を出すと、父はテレビをつけたまま、新聞を畳んでいた。
「おかえり」
「ただいま」
それ以上でもそれ以下でもない、いつものやり取り。
コートを脱ぎながら、何気なく聞く。
「年末年始、どうするの?」
父は新聞を脇に置いて、少し考える素振りを見せてから言った。
「例年通りだな。明後日に静岡に戻る」
静岡の祖母の家。
父にとっては帰る場所で、俺にとっては親戚に会う場所。
「お前も来るか?」
一瞬、間が空いた。
「……いや、今回はいいや」
父の視線がこちらに向く。
「初詣、友だちと行く約束してて。そのあと、家に招くし」
言ってから、少しだけ言葉を選び損ねた気がした。
父は眉をわずかに上げる。
「友だち?」
「うん」
「……彼女か?」
即座に否定の言葉が出た。
「違うよ」
我ながら、反射的すぎたと思う。
父はしばらく黙って俺を見ていたが、深くは追及してこなかった。
ただ、含みのある視線だけを残す。
「まあ、誰でもいいが」
そう前置きしてから、少し声の調子を落とす。
「変なことはするなよ」
「……しないって」
「本当にか?」
「本当に」
短いやり取り。
でも、その一言に含まれる意味は、俺にも分かっていた。
信用と警戒が、半々。
父はそれ以上何も言わず、またテレビに視線を戻した。画面では、年末恒例の特番が流れている。
俺は自分の部屋に戻りながら、さっきのやり取りを反芻していた。
彼女じゃない。そう答えたのは嘘じゃない。
でも、完全に本当かと言われると、胸の奥で引っかかる。
のどかと卯月。どちらの顔も、自然と浮かぶ。
誰かを家に招くこと自体は、特別なことじゃない。でも、正月に、実家に、という条件が揃うと、話は別だ。
部屋の窓から見える冬の空は、澄んでいて、やけに遠い。
四月一日のことも、#夢見るのことも、今はまだ、父に話すつもりはなかった。
年末年始くらいは、せめて普通の息子でいたかったから。
十二月三十一日
窓の外は、夕方に向かって少しずつ色を失っていくところだった。
空は澄んでいるのに、どこか落ち着かない。年末特有の、理由のない焦燥感。
俺はベッドに腰掛けたまま、スマホを手に取る。
やることは、毎年ほとんど変わらない。
去年も、一昨年も、同じように送った「来年もよろしく」のメッセージ。
形式的と言えば形式的だけど、これを送らないと一年が終わらない気がしている。
最初に送ったのは、のどかと卯月。
次に、麻衣先輩。
《今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします》
すぐに既読がついて、少し遅れて返事。
《こちらこそ。蓮真くん、風邪ひかないようにね》
短いけど、麻衣先輩らしい。気遣いがあって、距離は崩さない。
大津、浜松さん、古賀、花楓ちゃん、双葉、国見、赤城、福山。
それぞれに、それぞれらしい返事が返ってくる。
スタンプだったり、雑な一言だったり。
でも、どれも、来年も続く関係を前提にしている。
それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
その流れで、例のグループチャット《きっしー観察会》を開く。
《明日、一日。目黒駅に十時でいいか?》
送信。数秒で既読が二つ並ぶ。
《はーい!!》
卯月。無駄に感嘆符が多い。
《了解、蓮真》
のどか。余計な言葉はない。
対照的すぎて、逆にバランスが取れている。
そのままスマホを閉じようとして、ふと思い出した。
クリスマスの日のこと。
《そういえばさ》
《のどか、クリスマスの日、夢見た?》
少し間が空いた。考えているというより、言葉を選んでいる間の沈黙。
《見たよ》
すぐに続く。
《横浜のホールでライブしてる夢》
嫌なほど、すんなりと腑に落ちた。
《ていうか》
《スイートバレットのメンバー全員、同じ会場でライブしてる夢を見てた》
指が止まる。
《まぁ、四月一日にそこでライブする予定は、もう入ってるし》
《みんな、そんなに驚いてなかったけど》
予定があるから、驚かない。予定があるから、夢と現実の区別が曖昧になる。
《卯月も、同じ夢見てたよな》
そう送ると、今度は卯月が割り込んできた。
《うん!》
《やっぱり私たち、運命で結ばれてるんだよ!》
いつも通りの、少し大げさな言い方。
《らしいな》
短く返す。
卯月からはハートのスタンプが飛び、のどかは《不思議だよね》と返す。
その反応の差に、変な安心感を覚える自分がいる。
スマホを置こうとした、そのとき。
通知音が、もう一度鳴った。
姫路紗良。
一瞬、画面を二度見する。
《蓮真先生、今年はお世話になりました》
《来年も、よろしくお願いします》
こういう時は丁寧すぎる文面だ。
《ああ、よろしく》
事務的に返すと、間を置かずに次が来る。
《年明け、楽しみにしててくださいね》
嫌な予感しかしない。
《なんの話だよ?》
少し警戒して送る。返事は、すぐだった。
《蓮真先生には、まだ内緒です》
それきり、会話は終わった。
スマホを伏せて、天井を見る。
姫路紗良は、こういう言い方をする。
相手が気になると分かっていて、あえて言葉を濁す。
思春期症候群が治っても、人を揶揄う癖だけは、むしろ洗練された気がする。
窓の外から、遠くで花火の音が聞こえた。フライング気味の年越し花火。
まだ年は変わっていないのに、街だけが先走っている。
何も起きていない。少なくとも、今この瞬間は。
でも、確実に何かが積み重なっている。
夢を見た人たち。夢を見ていない俺。
四月一日という日付だけが、異様な存在感を持って、あちこちで重なっていく。
来年もよろしく。その言葉の裏に、誰もが同じ未来をなんとなく想定している。
でも、その未来が本当に同じ形をしているのかは、誰にも分からない。
俺は深く息を吐いて、スマホを机に置いた。
年は、もうすぐ変わる。
変わるけれど、この流れだけは、きっと、変わらないまま続いていく。
そんな予感を、否定する気にもなれないまま、俺は静かに年末の夜をやり過ごしていた。
一月一日
目黒の朝は、正月になると少しだけ静かになる。
いつもなら通勤や買い物で人の途切れない通りも、この時間帯はまだ眠そうで、代わりに厚着をした人たちが、目的地を同じくして歩いている。
大鳥神社。俺にとっては、物心ついた頃から何度も足を運んできた場所だ。
「ここなんだ」
鳥居をくぐりながら、卯月がきょろきょろと辺りを見回す。
「目黒って、もっと都会のイメージだったけど」
「場所による。ここは昔からの神社だからな」
少し遅れて、のどかが鳥居を見上げた。
「雰囲気、落ち着いてるね」
「正月以外は、もっと静かだぞ」
参道にはすでにそれなりの列ができていて、家族連れやカップル、近所の人らしき年配の人たちが、ゆっくり前へ進んでいる。
空気は冷たいが、どこか柔らかい。
その中で、卯月は一人だけ妙に元気だった。
「ねえねえ、きっしー」
嫌な予感がする呼び方。
「ここってさ、何の神様?」
「商売繁盛とか、厄除けとか、その辺だな」
「へえ〜。じゃあ私たち、もっと売れちゃうかも!」
軽い。
「最近十分調子いいだろ」
「えー、欲張ってもいいじゃん!」
その会話を聞いていたのどかが、少しだけ笑いながら口を挟む。
「卯月、お願い事は一個にした方がいいって言うよ」
「えっ、そうなの?」
「欲張りすぎると、神様も困るって」
「そっか……じゃあ、どうしよ」
本気で悩み始めるのが、卯月らしい。
列に並びながら、ふと、のどかが俺を見る。
「そういえば、蓮真」
「ん?」
「前に話してくれたよね」
ああ、と思い出す。
「大凶引いた話のことか?」
「うん」
その瞬間、卯月の耳がぴくっと動いた。
「えっ!?なにそれ!」
反応が早すぎる。
「きっしー、大凶引いたことあるの!?」
「……ある」
「うそ!」
「本当だ」
のどかが、少し申し訳なさそうに、でも楽しそうに続ける。
「小学生くらいのときだったかな」
「お正月に来て、御神籤引いたら大凶で」
「その場で、すごい泣いたって」
「……余計なこと言うな」
だが、時すでに遅し。
卯月は一拍置いてから、にやっと笑った。
「きっしー、かわいい〜」
「やめろ」
「えー、だって想像したらさ、大凶見て泣いてるんでしょ?」
勝手に想像を膨らませるな。
「卯月」
のどかが、今度ははっきりした声で言う。
「からかいすぎ」
「えっ、からかってないよ?」
「してる」
即答だった。
卯月は一瞬きょとんとしてから、俺を見る。
「……嫌だった?」
「……まあ」
少し言葉を濁すと、卯月は慌てて手を振った。
「あ、ごめん!ごめんねきっしー!」
「つい楽しくて……」
「悪気ないのは分かってる」
俺がそう言うと、のどかがほっとしたように息を吐いた。
「ほら、卯月」
「ごめんなさいは、ちゃんとでしょ」
「ごめんなさい!」
素直すぎる謝罪。
それで、場の空気がふっと緩む。
境内へ続く石畳を歩きながら、卯月がきょろきょろと周囲を見回す。
「ねえねえ、ここってさ。思ったより古い感じするよね」
「目黒の中じゃ、かなり古い方だよ」
俺がそう言うと、卯月が即座に食いついた。
「えっ、どれくらい?」
「目黒区で一番古い神社」
「いちばん!?」
声が一段上がる。
「すごっ。じゃあパワースポットじゃん!」
「まあ、そう言われることも多いな」
俺は鳥居の先を見ながら、記憶を辿る。
「日本武尊が東征の途中で、この辺りに立ち寄ったって話が残っててさ」
「へえ〜」
卯月は完全に観光モードだ。
「そのとき、部下の一人が目の病気にかかってたらしい」
「目?」
「そう。視力を失いかけてて、戦に出られない状態だったらしいんだけど」
少しだけ間を置く。
「日本武尊が、この地でその回復を祈願したら、無事に治ったって言われてる」
のどかが、小さく息を呑む。
「……本当に?」
「史実かどうかは別として、そういう伝承が残ってる」
卯月が首を傾げる。
「それで?」
「その人が盲神(めくらがみ)として祀られるようになった」
「めくら?」
卯月が、その言葉をそのまま口にしてから、はっとした顔になる。
「あ、今はあんまり言わないやつだ!」
「昔の呼び方だからな」
俺は続ける。
「それがだんだん訛っていって、めぐろになったって説がある」
「……えっ」
卯月が目を丸くする。
「じゃあ、目黒って地名、そこから?」
「そう。目が治った場所だから、目黒」
のどかが、少し考え込むように言った。
「見えなかったものが、見えるようになった場所、ってこと?」
その言い方が、妙に胸に残った。
「そういう解釈もできるな」
卯月は、なぜか俺の顔をじっと見てくる。
「きっしーさ」
「なに」
「やたら詳しいよね、こういうの」
「地元だから」
「それだけ?」
「それだけだ」
即答すると、卯月はにやっと笑った。
「ふーん」
何か言いたそうな顔。
「卯月、変な勘ぐりしないの」
のどかが、静かに釘を刺す。
「えー?だってさあ」
「だってじゃない」
そのやり取りを聞きながら、俺は拝殿の方を見た。
見えなかったものが、見えるようになる。
それは、祝福なのか、それとも。
#夢見る。
未来が見えてしまう現象。
それが本当に救いなのかどうかは、まだ分からない。
「……まあ」
俺は、少しだけ声を落として言った。
「ここは、見ることに縁のある場所だってのは確かだな」
卯月が、急に神妙な顔をして、手を合わせる。
「じゃあさ」
「今年も、ちゃんと見えるようにしてください、ってお願いしよっと!」
勢いが良すぎる。
のどかが笑った。
俺は、その二人を横目に見ながら、心の中でだけ思った。
見えるようになることが、必ずしも幸せとは限らない。
でも。
見えないまま、立ち止まり続けるよりは。
少しずつでも、前に進める場所なのかもしれない。
そういう意味では。
ここは、今の俺たちには、やけに相応しい神社だった。
列が進み、拝殿の前に立ち、それぞれ、軽く会釈をして、賽銭を入れる。
柏手を打つ音が、澄んだ冬の空気に響いた。
俺は、具体的な願い事はしなかった。ただ、今年も、変な方向に転ばないように。そんな曖昧な願いだけを胸の中で呟く。
参拝を終えて、次は御神籤。
「引こ引こ!」
卯月が率先して箱を振る。
「これ、運命だよね!」
「そういうのは、引いてから言え」
まず、のどか。
静かに紙を開く。
「……吉」
「いいじゃん」
「うん。悪くないね」
控えめだけど、納得した顔。
次は、卯月。
勢いよく広げる。
「……!」
一瞬の沈黙のあと。
「大吉!!」
声が大きい。
「やったー!!」
周囲の視線が集まる。
「卯月、声」
のどかがすぐ注意する。
「あ、ごめん」
と言いながら、全然反省してない。
「ほら見て、きっしー!」
「今年、絶対いいことあるよ!」
「……そうだな」
そして、最後に俺。
嫌な予感は、だいたい当たる。
紙を開いた瞬間。
「……凶」
「……げ」
思わず声が漏れた。
卯月が、すぐに覗き込んでくる。
「えっ!?」
「きっしー、また!?」
「またって言うな」
「え、でもさ」
「大凶じゃないから、成長してるよ!」
謎のフォロー。
「卯月」
のどかが、今度は少し強めに言う。
「そういうときは、あんまりはしゃがないの」
「……あ」
卯月はようやく空気を察した。
「……大丈夫?」
小さく、俺に聞く。
「大丈夫だよ」
そう答えると、卯月は少し安心したように頷いた。
「じゃあさ」
「私の大吉、半分あげる!」
「いらん」
即答すると、のどかがくすっと笑う。
「でも、凶って」
「気をつけろってことだよね」
「そうだな」
御神籤を結びながら、俺は思う。
大吉も、吉も、凶も。
誰かと一緒に引くと、不思議と重さが変わる。
卯月は無邪気に前を向いて、のどかはその背中をさりげなく支える。
そして俺は、その二人の間に立っている。
今年も、たぶん平穏じゃない。
でも、少なくとも今は。
この距離感だけは、悪くないと思えた。
結び所の前で、俺はもう一度だけ、御神籤を見下ろした。
凶。
その文字の下に、小さく書かれている一文。
{待人 おそけれど来る}
……来る、のか。
遅いけど。
すぐじゃないけど。
それでも、来る。
紙を握る指先に、わずかに力が入った。
顔を上げると、少し先で卯月がのどかに何か話していて、身振り手振りがやたら大きい。
「だからさ〜、私の大吉、分けてあげればよかったんじゃない?」
「分けるものじゃないと思うけど」
「えー!」
そんなやり取りをしながら、二人とも笑っている。
卯月は、感情がそのまま前に出る。
のどかは、一歩引いたところから全体を見る。
性格も、距離感も、まるで違うのに。
なぜか、同じ場所に並んでいる。
待人。
その言葉が、勝手に二人の輪郭と重なった。
誰か一人、という感じじゃない。
でも、どちらでもないとも言い切れない。
まだ来ていない。
今、ここにいるのに。
なのに“待つ”という言葉が当てはまってしまう、その矛盾。
「きっしー?」
卯月が振り返る。
「どうしたの?」
「……いや」
「なんか、ぼーっとしてた」
「もしかして凶、効いてる?」
からかうような声。
でも、そのすぐ横で、のどかが俺を見る。
言葉はない。
ただ、少しだけ心配そうな視線。
俺は御神籤を結びながら、ゆっくり息を吐いた。
待つ、か。
待っているつもりはない。選ばないようにしているだけだ。
それでも、御神籤は、まるで全部分かっているみたいに書いてあった。
おそけれど来る。
遅れて。形を変えて。あるいは、選ばされる形で。
今年も、きっと、簡単には済まない。そう思いながら、俺は結び目をきつく締めた。
視界の端で、卯月が手を振っている。
その隣で、のどかが静かに待っている。
どちらか、なんて。今はまだ、考えない。
考えないこと自体が、たぶん、“待っている”ってことなんだろうから。
神社の賑わいを抜けると、道はすぐに住宅街に入る。
参道の熱と人の声が遠のいて、代わりに、正月の冷気と静けさが戻ってくる。
卯月が頬に息を吐きながら言った。
「なんか、急に……寒い……」
「正月だぞ。寒いのが仕事だ」
「なにそれ」
のどかが小さく笑う。笑い方が控えめなのに、ちゃんと温度がある。
歩道の端には、しめ縄を飾った家が点々と並んでいる。門松が立っている家もあれば、玄関にだけ小さく正月飾りを下げている家もある。どれも目黒のいつもの住宅街なのに、今日は少しだけ違って見えた。
三人で歩いているからだろう。
卯月が先に出て、のどかがその少し後ろ。俺は自然と二人の間か、半歩後ろになる。
卯月が、唐突に俺の横へ寄ってきた。
「きっしーの家って、近いの?」
「歩いて十分ちょい」
「え、近っ。じゃあ今日、ほんとに地元デートじゃん!」
「デートじゃない」
「えー、こういうのをデートって言うんだよ」
「言わない」
のどかが、卯月の勢いを受け流すみたいに言う。
「卯月、はしゃぎすぎ」
「えっ、だってさぁ」
卯月は一瞬きょとんとしたあと、にやっと笑った。
やり取りがいつも通りで、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
角を曲がると、見慣れた並びの中に実家の一軒家が見えてくる。特別大きいわけでも、綺麗なわけでもない、ただの家。
「着いた」
「うわ、ほんとに一軒家だ」
卯月が、妙に感心した声を出す。
「わ、あったか……」
卯月がコートの前をぱたぱたさせながら、遠慮なく感想を口にする。
「とりあえず、上がってくれ。スリッパそこにあるから」
「はーい!」
返事だけは誰よりもいい。のどかは一拍遅れて靴を揃え、視線を家の奥へ滑らせた。
「……一軒家って、やっぱ落ち着くよね」
「そうだな」
そう言いながら、俺はキッチンの棚から紙皿と箸を取り出す。母親がいない家の正月は、必要なことだけ淡々とやる、みたいな空気になる。別に寂しいわけじゃない。昔からこうだ。
テーブルの上には、年末のうちに父が用意していったおせちのパックがある。重箱じゃないところが、妙にうちっぽい。
「おせち!」
卯月の目が輝く。
「すごい。ちゃんとしてる」
「ちゃんとしてるのは買ったやつな」
「それでもすごいよ。私、正月ってだいたいお雑煮だけで終わっちゃう」
のどかが箸を取って、黒豆を一つつまむ。
「……甘い。ちゃんと正月の味する」
テレビでは、年始の特番が流れていた。司会がやたらテンション高く笑って、テロップが大きく踊って、芸能人が豪華な料理を食べている。画面の中だけが別の国みたいだ。
「こういうの、観る?」
卯月が聞いてくる。
「家だとついてるからな。見てるっていうか、流してる」
「うんうん!無音だと逆に寂しいもんね」
卯月は伊達巻を一口かじって、幸せそうに頬をゆるめた。
「おいしい。きっしーんち、勝ち組じゃん」
「勝ち負けの基準が雑すぎる」
のどかが笑う。
「でも、こういうの、ちょっといい感じ。三人で正月っぽいことしてる」
その言葉に、俺は一瞬だけ箸を止めた。
三人で。
自然にそう言える距離が、今の俺たちの関係の答えみたいで、どこか怖い。
「……で」
俺は話題を変える。
「六日からだろ。大学の基礎ゼミの試験」
卯月が箸をぴたりと止めた。
「やめて!」
即答だった。
「正月だよ!?きっしー!」
「正月だからこそ現実見ろ」
「えー……」
卯月が唇を尖らせる。そういう顔をすると、年齢より幼く見える。
「のどかは?」
「……あたしもちょっと不安かな」
のどかは言い切った。
「基礎ゼミってさ、先生によって色あるし。答案っていうより、コメントで殺しにくる人いるじゃん」
「言い方」
「事実じゃん」
のどかは昆布巻きを一つ食べて、少しだけ息を吐く。
「……でも、レポート形式だし、ノートも参考文献も持ち込めるから、ちゃんとやれば、大丈夫な感じするかな」
のどかが横目で見る。
「……卯月、勉強の計画、ちゃんと立ててる?」
「立ててる!……たぶん!」
「たぶん、は立ててないやつ」
「えー!」
卯月が抗議して、のどかが軽くため息をつく。その流れがいつもの二人で、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
テレビの中では、占いコーナーが始まっていた。画面に十二星座が並んで、今年の運勢を派手に語っている。
「お、占い」
卯月が身を乗り出す。
「私、こういうの好き。今日大吉だったし!」
「さっきまで勉強の話で死んでたじゃん」
「大吉の人は強いの!」
のどかが小さく笑った。
「……卯月単純」
「人生は単純な方が幸せだよ?」
卯月が言い切って、俺を見る。
「ね、きっしーもそう思うでしょ?」
「……さあな」
俺が曖昧に返すと、のどかが箸の先で軽く俺を指した。
「蓮真は単純にすると、勝手に複雑にするタイプかもね」
「当たってるかもな……」
そんなやり取りをしているうちに、おせちのパックは半分くらい空になっていた。正月のテーブルは、食べることより、喋ることが主役になる。
「……あ」
卯月が急に思い出した顔をする。
「ねえ、きっしー」
嫌な予感がする呼び方、二回目。
「なに」
「きっしーの部屋、見てみたい!」
言い方が、遠足の小学生だ。
「いや、だめだ」
即答しておく。
「えー!なんで!」
「散らかってる」
「散らかっててもいいよ!」
「よくない」
卯月が身を乗り出して、両手を合わせる。
「お願いお願い!ちょっとだけ!」
のどかがその様子を見て、肩をすくめた。
「……あたしも」
「え?」
「ちょっと見てみたいかも」
のどかまで。
「なんで」
「なんとなく」
言い方がずるい。
卯月がそれを勝ち筋だと思ったのか、さらに畳みかける。
「ほらぁ!どかちゃんも見たいって!」
「卯月、勝手に圧かけないの。てかどかちゃん言うな!」
窘める声は静かだけど、ちゃんと刺さっている。
「え、圧かけてないよ?私は純粋に興味が……」
「それが圧だって」
のどかが即答して、卯月が「えー」と笑う。本人は怒られてる感覚があまりないのが、厄介だ。
俺は一度、天井を見た。見られたくない。
別に汚いとかじゃない。もっと単純に、ドラえもんグッズが、びっしり置いてあるからだ。
俺がドラえもん好きなのは、二人とも知っている。知っているけど、知っていると目撃するは違う。
「……五分だけ」
妥協した瞬間、卯月が両手を上げた。
「やったー!」
のどかが小さく笑う。
「蓮真、やっぱ押しに弱いね」
「うるさい」
階段を上がる。二階の廊下は、一階より空気が少し冷たい。俺の部屋の前で立ち止まって、鍵はかけてないのに、なぜか鍵を開けるみたいな気持ちになる。
「どうぞ」
扉を開けた瞬間、卯月が目を輝かせた。
「うわ……!」
声が大きい。
「卯月、声」
「ごめん!でもさ、これ……!」
卯月は遠慮なく部屋に入り、棚に並ぶ青い丸い顔たちに吸い寄せられていく。
ドラえもんのフィギュア、ぬいぐるみ、マグカップ、限定グッズ。壁の一角にはカレンダーまである。
「すご……」
のどかが、少し驚いたように言った。
「へぇ、結構集めてんじゃん」
「……昔からな」
言い訳みたいに聞こえるのが嫌だった。
卯月は棚の前で立ち止まり、ひとつひとつ指さしていく。
「これ、見たことない!限定?ねえこれ、どこで買ったの?」
「……一々覚えてねえよ」
「えー!きっしー、推し活の記憶が薄いのはダメだよ!」
「推し活じゃないって」
「推し活だよ!」
卯月が断言する。
のどかが、俺の机の上に置かれた小物を見て言った。
「これ、ドラえもんの鈴……?」
「映画のやつ」
「へぇ。趣味がちゃんと一貫してる」
卯月が振り返って、にやにやする。
「ねえねえ、のどか。きっしー、かわいいよね?」
「確かに、かわいいかも」
卯月は今度はベッドの端に腰を下ろし、部屋全体を見回した。
「でも、きっしーの部屋って、きっしーだね」
「なんだよそれ」
「なんか……静かで、でも好きなものがちゃんとある感じ」
卯月にしては、珍しく言葉がまともだった。のどかも小さく頷く。
「……うん。確かに分かる」
そのとき、のどかの視線が、一瞬だけ部屋の隅に止まった。
天井近く。梁のあたり。
俺は、気づいた。
気づいてしまった。
そこには、ほんの微かな跡がある。薄い痕。塗装の剥げ方が、そこだけ違う。
薄くなっている理由を考えるのが、嫌になるくらいには。
でも言わなければ分からない程度。普通は、気にもしない。
でも、彼女の視線は、ほんの一拍だけそこに留まり、それから何事もなかったように戻った。
(……蓮真にかぎって、ないよね)
そんなふうに、自分に言い聞かせるみたいに。
見過ごした。
見過ごしてくれた。
俺は喉の奥が少しだけ詰まる感じがして、息を吸い直した。
「五分、そろそろ終わり」
自分から切り上げると、卯月が不満そうに唇を尖らせた。
「えー、もっと見たい」
「だめ」
「じゃあ次は、きっしーが私の部屋見に来て!」
「行かないって」
「きっしー即答!」
のどかが笑う。
「ほら、卯月。帰るよ。駅まで送ってもらうんでしょ」
「はーい……」
名残惜しそうにしながらも、卯月は素直に立ち上がる。最後に棚のドラえもんたちに手を振った。
「またね、ドラちゃんたち!」
俺は「勝手に挨拶すんな」と言いかけて、やめた。
玄関で靴を履かせて、外に出る。正月の空気は冷たいが、さっきまでの室内のぬくもりがまだ指先に残っていた。
目黒駅までの道を、三人で並んで歩く。
卯月は相変わらず喋り続けている。のどかは時々相槌を打ちつつ、要所で卯月の勢いをなだめる。
駅が見えてきたところで、卯月が急に立ち止まった。
「今日、楽しかった!」
まっすぐな声。飾りがない。
「……俺も」
短く返すと、卯月は満足そうに頷いた。
のどかは、少しだけ間を置いてから言う。
「あたしも、楽しかったよ」
声音はいつも通り落ち着いてる。でも、ちゃんと届く。
「また、六日に大学でな」
俺が言うと、卯月が元気よく手を上げる。
「うん!六日!基礎ゼミ、がんばろうね!」
「卯月、急に現実に戻るよね」
のどかが苦笑して、卯月が「えへへ」と笑う。
改札前で、二人が振り返る。
卯月は大きく手を振り、のどかは小さく手を上げた。
その違いが、妙に胸に残った。
俺はそのまま、二人の背中が人混みに溶けていくのを見送った。
正月の駅は、いつもより少しだけ騒がしい。
でも、その騒がしさの中で。
今日の部屋の空気と、梁に残る痕と、のどかの一瞬の視線だけが、静かに俺の中に残り続けていた。
改札を抜けて、二人の姿が完全に見えなくなってから、俺はゆっくりと踵を返した。
駅前の賑わいを抜けると、道はすぐに住宅街に入る。年始の目黒は、昼間でもどこか静かだ。車の数も少なく、聞こえるのは遠くの生活音と、舗装された道を歩く自分の足音くらい。
正月らしく、門松が置かれた家もあれば、玄関先にしめ縄だけが控えめに飾られている家もある。どれも見慣れた風景なのに、今日は少しだけ違って見えた。
さっきまで、誰かと並んで歩いていたからだろう。
三人で歩くときの歩幅。卯月が前に出て、のどかと俺がその後ろにいる配置。
今は、一人。
それだけで、やけに道が広く感じる。
信号のない交差点を渡り、昔からある公園の前を通り過ぎる。ブランコは誰も使っていなくて、砂場もきれいに均されている。子どもの声がしない正月の公園は、少しだけ現実感が薄い。
(楽しかったな)
卯月の声が頭に浮かぶ。「きっしー!」と何度も呼ばれたこと。部屋でドラえもんを見つけて、目を輝かせていた顔。
(……のどかも)
ちゃんと空気を見て、ちゃんと場を保ってくれる。部屋で、あの梁を一瞬だけ見たときの視線。
気づいたのか、気づかなかったのか。気づいたけど、見なかったことにしたのか。
どれにしても、俺は何も聞かれなかった。
それが、ありがたくもあり、少しだけ怖くもあった。
住宅街の奥へ進むにつれて、人の気配はさらに減っていく。窓越しにテレビの音が漏れてくる家もある。きっと、どこも同じように年始の特番を流しながら、家族で時間を潰しているんだろう。
うちも、さっきまではそうだった。
一人になると、家はまた元の静けさに戻る。
角を曲がると、見慣れた家の並びが現れる。その中に、うちの実家もある。特別大きいわけでも、新しいわけでもない、一軒家。
ただいま、と言う相手はいない。
でも。
今日は、誰かを連れて帰って、誰かを見送った。
それだけで、この家は少しだけ違う場所になった気がした。
玄関の前で立ち止まり、ポケットから鍵を取り出す。
六日から、また大学が始まる。
基礎ゼミの試験も、#夢見るのことも、四月一日のことも、何一つ解決していない。
それでも。
今日という日は、ちゃんと「楽しかった」と言える。
鍵を回し、扉を開ける。
静かな家の中に、一歩踏み込んだ。
外の冷たい空気が、ゆっくりと背中から離れていった。
一月五日
この日、俺は十七時からファミレスのバイトを入れていた。
少し早めに着いた俺は、冬の寒さに身を縮めながら、ドアを開けて店内に入る。
「いらっしゃいませー!」
カランコロン、というベルの音に続いて、明るく元気な声が響く。
声の主は小柄なウェイトレス、見慣れない制服姿なのに、見慣れすぎた顔だった。
「……姫路さん?」
去年までは、ここで見かけることのなかった女子高生。
でも、俺のよく知る相手。
姫路紗良は、胸元に「研修中」のバッジをつけて、満面の笑みで小さくお辞儀した。
「……どうしてここに?」
「バイト始めたんです。今日から。よろしくお願いします、蓮真先生!」
反射で言ってから、すぐに思い出す。
大晦日の、あのメッセージ。
《年明け、楽しみにしててくださいね》
「……あれ、このことだったのか」
姫路さんは、得意げに片目を細める。
「はい♪ちゃんと楽しみにしてくれてました?」
「楽しみにしてた覚えはない」
「でも驚いてますよね」
「驚いてる」
即答すると、姫路さんは満足そうに頷いた。
「ちなみに、このあと咲太先生も驚かそうと思います」
「……健闘を祈ってるよ」
「はいっ。全力でいきます」
全力で悪戯を宣言する女子高生、というのも大概だ。
バックヤードに入ると、店長がこちらに気づいて手を上げた。
「岸和田くん、来たね。今日からは皿洗いとレジね。復帰したばっかだし、しばらくは無理しなくて良いからね」
「了解です」
いきなりホールに出されるより、皿洗いとレジの方が助かる。人の目線を受け続ける仕事は、体力より別のところが削れる。
エプロンをつけながら、ふと姫路さんの方を見る。
彼女は研修中の名札を指でなぞりながら、わざとらしく首を傾げた。
「蓮真先生、今日も観察しますか?」
「ちゃんと仕事しなよ、姫路さん」
「はーい♪」
返事だけはやたら良い。
その直後、入口のベルがもう一度鳴った。
「いらっしゃいませ!」と姫路さんの声が飛ぶ。
「僕は客じゃないから、『おはようございます』だな」
ドアの隙間から入ってきた冷気と一緒に、梓川咲太が店内に入ってくる。コートを脱ぎながら、いつもの調子で。
「先生はまず驚いてください。『なんで、ここに?』とか、『どうしたんだ、急に?』とか、普通はあるじゃないですか?」
拗ねたような顔で、姫路さんが咲太に抗議の意思を伝えてくる。
「バイトをはじめたんだろ?見ればわかるよ」
「もう、つまんないです」
咲太から思い通りの反応が得られず、姫路さんは不満いっぱいだ。
それを適当に聞き流して、咲太は店の奥に入った。「おはようございます」と、挨拶をしながらキッチンの前を通り抜けて、休憩室に入る。
その後ろからは、姫路さんがぴったりついてきている。
俺も一旦、姫路さんと一緒に咲太のあとをついて行くことにした。
理由は単純だ。新年の挨拶を、直接言うため。
「あ、そうだ咲太先生」
裏口へ向かう咲太の背中に、姫路さんが少し早足で声をかける。
「……あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
わざわざ立ち止まって、きちんと頭を下げる。
その仕草が妙にきちんとしていた。
俺も姫路さんにつられて「あけましておめでとう、咲太」と言った。
咲太は軽く手を上げながら、「よろしくな、岸和田」と返してきた。
咲太がロッカーの陰に入って、ウェイターの制服に着替え始める。
その背中を見送りながら、姫路さんが一歩、咲太の方に寄る。
「先生、この制服、可愛いくないですか?」
「よく似合ってるよ」
咲太は振り向かずにそう言葉を返す。
「本当ですか?やった!」
それでも、姫路さんは手を叩いて喜んでいた。
「あ、そういや、姫路さん」
「なんですか?」
「イブの夜、夢って見た?」
その問いかけに、俺は一瞬だけ息を止めた。
それ、俺も気になってたからだ。
「見ましたよ」
「どんな夢?」
「友だちと江の島に遊びに行ってる夢でした」
「江の島、ね」
「まさか、山田くんを見かけたりしなかったよな?」
「見かけましたよ。吉和さんとデートしてるとこ。私のこと好きだったくせに、山田くん酷いですよね」
「姫路さんに線を引かれたから、気持ちを切り替えたんだろ」
ベルトを締めて、エプロンを結ぶと咲太はロッカーの陰から出てきた。
「山田くんから聞いたんですね。私が咲先生に振られた日のこと」
わざとらしい言い回しで、姫路さんが唇を尖らせる。
「へ?」
そこに、割り込んできたのは裏返った声。出したのは咲太でも、姫路さんでもない。
休憩室の入口には、ウェイトレス姿の古賀が立っていた。
タイミング的に、恐らく「振られた」の部分を聞いて、古賀は素っ頓狂な声を上げたのだ。
「どうした、古賀?」
「あ、うん。姫路さんにレジ打ち教えようと思ったのに、フロアにいないから」
「じゃあ、それ、咲太先生に教えてもらいます」
わざわざ咲太の隣にやってきた姫路さんが、咲太の肘のあたりを掴んでくる。
古賀の視線は、咲太を掴んだ姫路さんの右手に向かっていた。
「先輩、なにしたの?」
じろりと古賀が咲太を睨む。
どこか不機嫌で、不貞腐れたような顔をして。
「あ、朋絵先輩、もしかして焼きもちですか?」
咲太が答えるより先に、姫路さんが揶揄うような口調で言葉を返した。
「そ、そんなわけないでしょ!」
「でも、焦ってるじゃないですか?咲太先生と先輩って、前になんかあったりして?」
明らかに姫路さんはわかった上で、しゃべっている。
つい先日まで、姫路さんは人の心の中を選くことができたのだ。咲太と古賀の断片的な思考を繋いでいけば、自ずと二人の関係には気づけるはずだ。
「何もありません。ほら、レジ打ちに行くよ」
ぴしゃりと話を区切って、古賀はフロアに戻ろうとする。
「あ、ちょっと待ってください。ひとつだけ、咲太先生に話しておきたいことがあるんです」
そう言いながら、すでに姫路さんはポケットからスマホを出して、何やら操作していた。
「これ、なんですけど……咲太先生、知ってました?」
姫路さんがスマホの画面を咲太に見せる。
表示されていたのはX。#夢見る、を付けた書き込みだった。
{桜島麻衣が霧島透子だとカミングアウト。四月一日。赤レンガ倉庫音楽フェス。#夢見る}
{バンドのゲストボーカルで、桜島麻衣が霧島透子の曲を歌ってた。しかも、自分が霧島透子だって発表!#夢見る}
{なんか同じ夢を見てる人、結構いるな。俺も見た。音楽フェスで桜島麻衣が霧島透子だって言うやつ。#夢見る}
{これ、確定でしょ。霧島透子の正体は桜島麻衣。#夢見る}
そんな書き込みが延々と続いている。
画面を十数回スクロールさせた程度では終わりが見えてこない。それもそのはずだった。
「こんなのが五千件以上、あるんですけど……」
どこか不気味なものを感じているのか、姫路さんの声には、咲太の様子を伺うような慎重さが含まれている。
ただの偶然では片付けられない。ただ事ではないという感情が、真剣な姫路さんの表情には表れていた。
「とりあえず、五千件は確かに多すぎるな」
それが咲太の率直な感想だった。
姫路さんが咲太にスマホを見せている横で、俺もポケットのスマホを取り出した。
反射みたいなものだ。咲太が見せられたものを、もう一度、自分の目で確かめないと落ち着かない。
Xを開く。検索窓に「#」を打っただけで、候補がずらりと並ぶ。
{#夢見る}{#夢見る 赤レンガ}{#夢見る 霧島透子}{#夢見る 桜島麻衣}
嫌な並びだった。指が勝手に動く。
タップした瞬間、画面が埋まった。
同じ単語。似た文面。言い回しだけが微妙に違う。
「確定」
「鳥肌」
「やっぱり」
「俺も見た」
温度の違う言葉が、同じ一点に吸い寄せられている。
スクロールしても、スクロールしても終わらない。
たまに、妙に具体的な投稿が混ざる。
{ステージ袖のライトが一瞬だけ落ちて、歓声が遅れてくるやつ。あれ、夢なのに音までリアルだった #夢見る}
{桜島麻衣が、『私が霧島透子なんです』って言ってた。やけにリアルだったな #夢見る}
夢のはずなのに、現場の空気だけが一致している。
俺は画面を閉じかけて、やめた。
閉じたところで、なかったことにはならないけれど。
この日のバイト中は、姫路さんが教えてくれた五千件を超える書き込みのことが頭から離れなかった。
音楽フェスの夢を見たという話。
観客として参加していたという話。
その誰もが、麻衣先輩がステージ上で、自分が霧島透子だとカミングアウトしたと語っている。そういう夢。
咲太と赤城が見たという夢の内容と一致している。
つまり、書き込みのひとつひとつは、あの場にいた観客ひとりひとりのもの……ということになるのだろうか。
咲太と赤城が同じタイミングの夢を見たように、五千人以上があの瞬間の未来を同時に夢で見ていたことになる。
ここまで来ると、不思議という言葉だけで表現する以上に、気味が悪いというのが俺の本音だった。
夜の九時には、高校生の古賀と姫路さんが上がり、フロアは俺と咲太と店長で回すことになった。
今日がバイトの初日だった姫路さんは、「お先に失礼します。咲太先生、蓮真先生」と笑顔で手を振って帰っていった。
それからすぐに一時間が経過して、俺たちも上がりの時間を迎えた。今夜の客足は少ない方だったので、店長から「時間になったら上がって」と九時半の段階で言われた。
言われた通り、十時ぴったりに「お先に失礼します」と挨拶をして、エプロンを外しながら、俺たちは店の奥に引っ込んだ。
着替えるため、ロッカーの置かれた休憩室に入る。すると、誰もいないと思っていた室内に、女子高生がひとりぽつんと残っていた。
スマホを見ているのは古賀だ。
「古賀、まだいたのか?」
「あ、先輩、きっしー先輩も」
「スマホばっかり見てないで早く帰れよ」
「先輩に話しておきたいことあるから、待ってたんじゃん」
スマホから顔を上げた古賀がそんなことを言ってくる。
「なんだ?僕に苦情でもあるのか?」
「先輩、#夢見るの書き込み気にしてたみたいだから。あたしが見た夢のこと、伝えておこうと思って」
じっと咲太を見据える古賀の目は真剣だ。
わざわざ、咲太のバイトが終わるのを待っていたのも気になる。恐らく、バイト中にさらっと話せる内容ではないから、終わるまで黙っていたのだろう。そうなると、場所を変えた方がいいかもしれない。
「すぐ着替えるから、ちょっと待っててくれ。ここじゃあアレだし、帰りながら聞く」
「わかった」
短く返して、咲太はロッカーの方へ向かう。
その背中を見送ってから、俺は古賀に視線を戻した。
「……古賀」
「なに、きっしー先輩」
呼び方だけはいつも通り軽いのに、目はまだ真剣だった。
俺は一拍置いてから言う。
「俺も、その話。詳しく聞かせてもらってもいいか?」
咲太にだけ話すつもりだったなら、俺が割って入るのは筋違いかもしれない。けど、今日の#夢見るを見てしまったあとだ。知らないままにしておく方が、むしろ怖い。
古賀は一瞬だけ目を瞬かせて、それから小さく息を吐いた。
「……いいけど」
スマホを握る指先に、少し力が入る。
「……ちょっと長くなるかもよ?」
その言い方が、妙に現実味を持って胸に落ちた。
短い夢の話じゃない。
#夢見るで起きた何かの話だ。
「構わないよ」
俺が即答すると、古賀は口の端を少しだけ上げた。
「きっしー先輩って、こういうときだけ判断早いよね」
「うるさい」
ちょうどそのとき、ロッカーの陰から布擦れの音がして、咲太が着替えながらこちらを覗いた。
「……お前ら、何の相談会してんだ」
「相談会じゃないってば!」
古賀がわざとらしく言って、スマホの画面を伏せる。
「ただ、きっしー先輩に話しておきたいことがあるだけ」
店を出ると、俺たちは藤沢駅の方へ足を向けた。
「古賀も、イブの夜に夢を見たんだな」
「なんか、みんな見てるよ。奈々ちゃんも、クラスの友達も……見てないって言ってる人いたかな?いなかった気がする」
「……見てないのは、本当に少数派なんだな」
俺がそう呟くと、古賀は歩きながらちらりとこちらを見た。
「きっしー先輩は見てないの?」
「……ああ、見てないよ」
言った瞬間、古賀の眉がわずかに上がる。
咲太の隣で黙って聞いているだけだった俺が、ここに来てまたしても“外側”の人間として分類されたみたいな目だった。
同世代に限った話にはなるが、俺が知っている中で「見てない」と言ったのは、今のところ俺と麻衣先輩だけだ。
古賀の周りにもいないとなると、やはり見ていないのはレアケースということになる。
駅前を通り抜けて、駅の東側に歩みを進める。徐々に人通りが減ってきたところで、古賀は本題を切り出した。
「んで、古賀も、麻衣さんのカミングアウトの夢でも見たのか?」
「それは見てない」
「じゃあ、なんだ?」
「あたしが見たのは、四月一日よりもっと前の日の夢で」
「どんくらい?」
「二月四日」
随分、明確な日付が出てきた。
今のところ、俺の頭の中に引っ掛かる要素はない。節分の次の日……ぐらいの情報は特になかった。
「その日がどうしたんだ?」
「桜島先輩が、藤沢警察署のイベントで、一日警察署長をするんだけど」
「そうなのか?」
「イベント中の事故で、意識不明の重体になったってニュース、夢の中で見たの」
(もしそれが正夢になったら、のどかがめちゃくちゃ心配するやつじゃないか……)
麻衣先輩のことは、のどかにとってもただの有名人じゃない。身内だ。
まして重体なんて単語が現実に落ちたら、平静でいられるはずがない。
「本当か?」
「こんなことで、嘘吐くわけないじゃん」
「それもそうだな」
「倒れてきた機材の下敷きになって病院に運ばれたって、ニュースでは言ってた」
あくまで夢の話。それを、古賀は本当に見てきたことのように、深刻なテンションで語っている。表情も真剣そのものだ。
一日警察署長の話も、機材の下敷きになる話も、さっき調べた#夢見るにはなかった情報。
麻衣先輩に関する書き込みは、四月一日の音楽フェスでのカミングアウトに集中している。
咲太が見た夢もおそらくそうだ。赤城が見た夢も、同じ日の似たような時間帯しかない。
「病院に運ばれた麻衣さんが、その後どうなったかはわからないよな?」
「少なくとも、四月九日までは、意識が戻ったっていう発表はなかったよ」
「……は?」
思わず、間抜けな声が咲太からもれる。
今、古賀はなんと言っただろうか。
「だから、四月九日までは、なんの発表もなかったの」
「先輩に聞いても、詳しくは教えてくれなかったし」
夢の中の出来事に対して、古賀が今ここにいる咲太に不満をぶつけてくる。
しかしそれ以前に色々とおかしい。
一体、古賀は何の話をしているのだろうか。
咲太が見たという夢や#夢見るに書かれた話とは、具体性とボリュームが違いすぎる。大きくかけ離れている。
挙句、夢の中で、意思を持って咲太に連絡を取ろうとしている。まるで、夢の中で普通に生きているみたいに……
「なあ、古賀」
「なに?」
「そんな何日も、夢の中で体験したのか?」
似たような経験は、俺も前にしている。
中学一年生の春。同じ三月が何度か繰り返された思い出したくもない思い出。
「何日もっていうか……」
そっぽを向いた古賀は、それ以上言いたくない顔をしている。だから、咲太はぴんと来たのだろう。
「まさか、イブの夜から四月九日まで、全部見たのか?」
「そうだったら、なに?」
ふてくされた古賀の口は、咲太の言葉を認めている。
以前、古賀が発症したという思春期症候群。未来のシミュレーションの再来と言えたからだ。
「別に、今回は何度も同じ日を繰り返したわけじゃないし」
「さては、もうすぐ高校も卒業だし、『大学で友達できるか、心配』......とか不安になってたんだろ?」
「うるさいなぁ」
図星を指された古賀が頬を膨らませる。
「先輩はどうなの?」
「ん?」
「大学で友だち増えた?」
古賀が無理やり話を変えてくる。
「岸和田は兎も角、まあ、よく話すのは、ひとりかふたりだな」
「でも、なんか高校のときとは、ちょっと感覚が違うかも」
「どう違うの?」
「国見とか、双葉とか岸和田ほど、相手のことをよく知らないまま、なんとなく付き合ってる」
確かに、高校時代はみんなの活動エリアが重なっていたから、その分、人間関係の密度も今より高かった気がする。誰がどの辺に住んでいるのかとか、そんな情報も、知らず知らずのうちに自然と入ってきた。そういう近さは確かにあった。
だが、大学に入ってからは、活動エリアが一気に広がり、ひとりひとりの重なる部分が殆どなくなったといえる。
俺でさえ、のどかや卯月のことですら、キャンパスを出たら、何をしているかなんてまるでわからない。
そうした距離の遠さが、そのまま大学生における人間関係の薄さにも繋がっている。
それがいいとか、悪いとかではない。ただ、環境がそうなったというだけの話。
その中で、みんな手ごろな距離を保ち、お互い傷つかないよう上手にやっているのだ。
「ふーん。そうなんだ」
咲太の言葉を素直に聞いていた古賀だったが、その返事にはいまいち実感がこもっていない。まだわからないという感じなのだろう。
「古賀の場合は、また焦って、苦手なグループに入らないようにしないとな」
「そのときは、毎日先輩に愚痴を聞いてもらうからね」
「週一くらいにしてくれ」
「あ、もう、ここでいいよ」
T字路に差し掛かったところで、古賀は一旦足を止めた。左は古賀の帰り道で、右は咲太の帰り道らしい。
「古賀、今日はあんがとな。めちゃくちゃ助かった」
「じゃあ、今度、賞味期限が二時間のモンブランおごってね」
「十個でいいか?」
「一個でいい!」
「遠慮するなよ」
「もう、お礼する気があるなら普通にしてよ」
「僕ってシャイだからな」
「はいはい、それじゃあ、またね、先輩」
呆れた顔で手を振って、古賀が帰り道を歩き出す。しばらくその背中を見守っていると、困った表情で古賀が振り向いた。
「帰りにくい」
そう言って、咲太も帰るようにと、反対の道を指差す。
「ほんと、古賀は見てて飽きないな」
独り言をつぶやいて、咲太は古賀とは反対の帰り道を歩き出す
……その背中を見送ってから、俺は小さく息を吐いた。
このまま帰していいのか、というより、帰してから後悔するやつだ。
「古賀」
呼び止めると、古賀は数歩先で足を止めて、振り返った。
「なに?きっしー先輩」
軽い声。だけど、目の奥はまだ真剣のままだった。
俺は少しだけ言葉を選ぶ。
「さっき見たって言う夢の中に、咲太や麻衣先輩は出てきたんだよな?」
「うん。そうだよ」
即答。
「米山さんとか姫路さんとか、香芝さんとかも出てきたんだよな?」
「うん、そりゃあまぁそうだけど」
古賀は不思議そうに首を傾げる。
俺は、さっきまでの話を頭の中でもう一度なぞった。
双葉に初めて会ったとき言われた言葉を思い出す。
古賀の未来シミュレーションによるループ。その中で、俺は、出てこなかった。
“いないはずなのに、現実では役割を持っている特異点”。
だから、確かめたいことがあった。
「その夢の中にさ……俺って出てきたか?」
古賀は一瞬だけ目を瞬かせて、それから、思い出すように視線を上げた。
「……そういえば」
言葉が、少し遅れて出る。
「きっしー先輩は出てきてないかも」
胸の奥で、嫌な一致が起きた。
「でもどうして?」
古賀の問いは素直だった。
俺は肩をすくめる。
「……いや、何でもないよ」
言ってしまえば、今ここで話しても古賀を余計に不安にさせるだけだ。
話題を戻すように、俺は続けた。
「それにしても、麻衣先輩が意識不明の重体になるなんて話、物騒な話だな」
古賀の表情が少しだけ曇る。
「うん……先輩もだけど、豊浜さんとかも聞いたらちょっとショック受けるかもね」
(だろうな)
のどかにとって麻衣先輩は遠い芸能人じゃない。身内だ。
重体、なんて単語が現実に落ちたら、平静でいられるはずがない。
「なるほど……だから、俺たちに話すのを少し躊躇ってた感じか」
「まぁね。でも、ちゃんと伝えとかなきゃって思ったから」
古賀はそこで小さく笑った。笑ってるのに、背伸びみたいにも見える。
「ありがとうな古賀、色々と」
「じゃあきっしー先輩も、今度また駅前のシュークリーム奢ってね」
「……ああ分かったよ」
古賀は満足そうに頷いて、今度こそ帰り道へ向き直る。
「じゃ、またね」
「おう」
古賀の背中が小さくなっていくのを見送りながら、ふと、別の声が頭の中で蘇る。
「外側にいる、って感じがするね」
浜松さんに言われた、あの言葉。
(やっぱり、中学の時のループを無理やり治したせいなのか。俺が古賀の未来シミュレーションに出てこないっていうのは)
双葉は以前、俺を“特異点”と言った。
いないはずなのに、現実では役割を持っている。
(それが、もし俺の思春期症候群がまだ抑え込まれているからそうなっているんだとしたら……)
考えたところで、答えは出ない。
でもいずれは話さなくちゃいけないのかもしれない。
咲太にも、双葉にも……そして、のどかや卯月にも。
俺の思春期症候群のことを。
それをどうやって乗り越えたのか、抑え込んだのかも。
……それに、それだけじゃない。
気がかりなことはもうひとつある。
赤城の掌にあったもうひとつのメッセージ。
——霧島透子を探せ
まだ、ピースが全く組み合わさっていない。
咲太が見たという夢の中で、どうして麻衣先輩は自らを霧島透子だと語ったのか。
それだってわからないままだ。
一体、何と何が関係していて、何と何が関係していないのか。
考えるだけで頭がこんがらかってくる。
「本当に、年始から課題が山積みだな……」
無自覚にこぼれた独り言は、あまりにも俺の心境を語っていた。
物語解説
今回は、「夢を見る世界」が、日常の奥まで入り込んでしまった回でした。
#夢見るは、もはや特別な体験ではなく、当たり前の前提として人の会話に混ざり始めています。
見た、見ていない、という区別すら曖昧になり、夢の内容が具体的な日付や場所、事件として共有されていく。その静かな異常が、この章の空気です。
朋絵の語る夢は、未来の断片というより、ひとつの時間を生きた記憶でした。
数日分の出来事を体験し、感情を持ち、関係性を築いたうえで現実に戻ってくる。その感覚は、もはや夢という言葉では収まりきりません。
一方で、蓮真は夢を見ていない。
見ていないからこそ、冷静でいられる。見ていないからこそ、話を聞く側に回れる。けれど同時に、夢の中に存在しないという形で、はっきりと線を引かれている。
出てこない。いない。それなのに、現実では確かに役割を持っている。
その歪みが、この章で最も静かな違和感でした。
初詣の道中や、実家での時間は、そんな歪みの中に残された、ほんの短い平穏です。卯月の無邪気さ、のどかの距離感、三人で歩く住宅街。
特別なことは何も起きていないのに、どこか、これが最後かもしれない、という気配だけが漂っています。
基礎ゼミの試験や、バイトの復帰といった現実的な話題も、この回では重要な意味を持っています。
未来が語られるほど、現在は些細なことで形を保とうとする。日常が、必死に日常であろうとしている段階です。
終盤で浮かび上がるのは、蓮真の観察者という立場の孤独でした。
踏み込まない。語らない。選ばない。
その選択が、果たして守りなのか、それとも先送りなのか。まだ、この時点では答えは出ません。
ただひとつ確かなのは、夢を見る世界は、もう蓮真を外側に置いてはくれない、ということです。
次は、年始の静けさが少しずつ剥がれ、日常と未来が同じ地平に並び始めます。
四月一日という日付が、さらに輪郭を持ち、夢の内容が、回避できるものなのか、通過するものなのかが問われていきます。
夢を見ないまま、観察し続ける蓮真が、いつまでその位置にいられるのか。
次回も、ぜひ見届けてください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月