青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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3.言えない気持ちを、言葉にして歩き続ける

 

 一月六日

 

 昨日で冬休みは終わり、俺は三限の基礎ゼミの試験に間に合うように家を出た。

 

 藤沢駅からまずは東海道線に乗って横浜駅に。そこから京急線に乗り換えて、金沢八景駅に降り立つ。

 

 家を出てから約一時間の、いつもの通学ルートだ。

 

 正月明けの電車は、思っていたより静かだった。学生の数も、通勤客も、どこかエンジンがかかり切っていない。みんな、まだ現実に戻り切れていない顔をしている。

 

 俺もその一人だろう。

 

 改札を抜け、キャンパスへ向かう坂を上る。冬の朝の空気は冷たいが、空はやけに澄んでいた。

 

 試験前特有の緊張感はあるが、焦りはない。基礎ゼミは内容よりも、書き方と姿勢を見るタイプの試験だ。やることは決まっている。

 

 少し早く着きすぎた。

 

 時計を見ると、まだ二限が終わったばかりの時間だ。

 

 「……学食、行くか」

 

 自然と足が向いたのは、シーガルセンターにある学食だった。昼時には混み合うが、この時間帯はまだ余裕がある。

 

 自動ドアをくぐると、温かい空気と一緒に、カレーと揚げ物の匂いが鼻をついた。朝と昼の境目みたいな時間帯で、利用しているのは数えるほどの学生だけだ。

 

 トレーを取って、軽めに定食を選ぶ。がっつり食べる気分でもない。試験前に胃を重くするのは、あまり好きじゃなかった。

 

 席を探しながら、ふと、見覚えのある後ろ姿が視界に入る。

 

 「あ」

 

 奥の方のテーブル。窓際。

 

 梓川咲太と、その向かいに福山拓海が座っていた。

 

 咲太はいつも通り、気だるそうな姿勢でトレーを前に置き、福山はスマホを片手に、片手で箸を動かしている。

 

 いかにも、気心の知れた男同士、という空気。

 

 俺はトレーを持ったまま、そちらへ向かった。

 

 「早いな、お前ら」

 

 声をかけると、先に反応したのは福山だった。

 

 「あけましておめでとう、岸和田」

 

 「ああ。今年もよろしく、福山」

 

 軽い挨拶を交わしながら、俺は二人の向かいの席に腰を下ろした。咲太は箸を動かしたまま、ちらりとこちらを見る。

 

 「お前も早いな、岸和田」

 

 「少し早く着きすぎた」

 

 「試験前の余裕ってやつか」

 

 「余裕というより、時間調整」

 

 そんなやり取りをしていると、福山がふと思い出したように、箸を止めた。

 

 「そういえばさ、岸和田」

 

 「ん?」

 

 「岸和田も、クリスマスイブに夢って見た?」

 

 一瞬、箸が止まる。

 

 「……いや、俺は見てないよ」

 

 そう答えると、福山は意外そうに眉を上げた。

 

 「へえ、珍しいな。これ、巷じゃ集団未来視とか言われてて、見た夢が本当になるって話題なのに」

 

 「そういう福山は見たのか?」

 

 俺がそう返すと、福山は少し考えるように視線を上に向けてから言った。

 

 「俺は、なんか北海道に帰ってた」

 

 「ああ、もしかして実家か?」

 

 「そうそう」

 

 その一言で、記憶が繋がる。

 

 福山が北海道出身だと知ったのは、ハロウィンの時の合コンだった。

 

 自己紹介の流れで、さらっと「北海道から来ました」って言ってて、場の誰よりもさらっとしていたのが逆に印象に残っている。

 

 地元の話も、観光地というより、生活圏の話が多くて、妙にリアルだった。

 

 俺は、前から北海道には一人旅行で行ってみたいと思っていたから、そのとき福山が話していた話は、意外と参考になった。

 

 「今度のGWにでも北海道行きたいからさ」

 

 当時、そんなことを言ったのを覚えている。

 

 「また色々教えてくれよ」

 

 「いいぜ。岸和田、旅行好きだもんな」

 

 そんな、何気ないやり取り。

 

 今になって、その記憶がふっと浮かぶ。

 

 (そういえば……)

 

 (霧島透子・岩見沢寧々も、北海道出身って、インスタに書いてあったな)

 

 思考がそこまで飛んだところで、福山が再び箸を動かし始める。

 

 「まあ、夢の内容も、ただの帰省って感じだったけどな」 

 

 「未来視ってほどでもないか」

 

 「だな」

 

 三人で、黙々と学食を食べ進める。

 

 そのときだった。

 

 (視線を感じる……)

 

 はっきりと誰かが見ている、というより、空間全体の意識が、ひとつの点に集まっている感じ。

 

 気づけば、周囲の何人かの学生の視線が、断続的にこちらへ向いていた。

 

 正確には。咲太に、だ。

 

 その目は、その意識は、無言で問いかけてくる。

 

 桜島麻衣が、霧島透子なのか?と。

 

 (……まあ、無理もないよな)

 

 俺は内心でそう思う。

 

 同じ夢。同じ未来。それを一番近くで見ている存在が、咲太なのだから。

 

 咲太も、さすがに気づいたのだろう。小さく息を吐いてから、福山に視線を向ける。

 

 「今朝、福山が言ってた話、みんな知ってんだな」

 

 「まあ、そうなんじゃない」

 

 福山はあっさり答えた。

 

 確かに、麻衣先輩=霧島透子説が広まっているのは事実だ。

 

 ただの噂だったはずのものが、いつの間にか、事実に近い前提として受け取られている。

 

 咲太に向けられる、十分すぎるほどの注目の浴び方を見れば、それは明らかだった。

 

 「今日、麻衣さん、休みでよかったよ」

 

 咲太のその一言に、俺は心の中で頷く。

 

 (さすがの麻衣先輩も、この状況にはうんざりしてるだろうな……)

 

 嘘が、事実の顔をして蔓延する空気。

 

 それを真正面から浴びるのは、誰だって消耗する。

 

 その沈黙を、妙なタイミングで破ったのは福山だった。

 

 「あ、そうだ。梓川、岸和田」

 

 「カレー、口についてるぞ」

 

 福山は口元を拭いてから、少し眉をひそめて続けた。

 

 「俺、今月の三十日が誕生日だから」

 

 聞いてもいない情報を、さも当然のように放り込んでくる。

 

 「そりゃあ、おめでとう」

 

 「おめでとう、福山」

 

 「ありがと」

 

 満足そうに頷いてから、福山はにやっと笑った。

 

 「だから、その日までに北海道女子の紹介よろしく、梓川」

 

 「善処はするよ」

 

 即答する咲太に、福山は満足そうにカレーを口に運ぶ。

 

 その様子を見ながら、俺は思う。

 

 こうやって、いつも通りの会話をしているこの時間が、今はやけに貴重だ。

 

 夢と現実が曖昧になっていく中で。

 

 まだ、日常の顔をしていられる場所が、ここには残っている。少なくとも、今この瞬間は。

 

 そのあとの三限の基礎ゼミの時間。この時間は試験が行われていた。

 

席に着くと、すでに前の方に見慣れた二人の姿があった。

 

 のどかと、卯月だ。

 

 二人ともノートを広げていて、試験前らしく珍しく真面目そうな顔をしている……と思ったのも束の間、俺に気づいた卯月が、勢いよく手を振ってきた。

 

 「きっしー!」

 

 その声はいつも教室中に通る。

 

 「早いじゃん、蓮真」

 

 「お前らもな」

 

 そう返しながら近づくと、のどかが小さく笑って口を開いた。

 

 「蓮真ってさ、記録取るの得意だし」

 

 「うん」

 

 「小論文書くのも、自信ありそうだよね」

 

 何気ない調子だけど、妙に的確な評価だ。

 

 「まあ……慣れてはいる」

 

 そう答えた瞬間、今度は卯月が身を乗り出してきた。

 

 「ねえねえ、きっしー!」

 

 嫌な予感がする。

 

 「今から試験で出そうなとこ、教えて!」

 

 「……参考文献とノート、あるだろ」

 

 「……あ、そうだった!」

 

 元気よく言い切られて、思わず息が抜ける。

 

 その様子を見て、のどかがくすっと笑った。

 

 正直、このまま三人で並んで受けてもいい気はした。

 

 けど。

 

 (……集中できる気、しないな)

 

 特に、卯月が隣にいる状態で。

 

 それに、今日の学食で見た、咲太に集まっていた視線のことも、頭のどこかに引っかかっている。

 

 余計な注目は、なるべく避けたい。

 

 「悪い。別の席、探すわ」

 

 そう言うと、卯月がすぐに不満そうな顔をした。

 

 「えー!きっしー、一緒に受けてくれないの?」

 

 「お前、絶対騒がしいだろ」

 

 即答すると、「ひどい!」と、間髪入れずに返ってくる。

 

 その横で、のどかが肩をすくめた。

 

 「……確かに、わかる」

 

 「のどかまで!」

 

 軽く手を振って二人から離れ、空いている席を探す。

 

 視線を走らせていると、ふと、ひとつだけ空いている席が目に入った。

 

 美東美織の隣だ。

 

 (……そういえば。美東さんには、まだちゃんと挨拶してなかったな)

 

 少しだけ間を置いてから、近づく。

 

 「……ここ、いい?」

 

 声をかけると、美東さんは一瞬だけ、ほんの一瞬、言葉を失ったように動きを止めた。

 

 それから、ふっと力を抜いたように笑う。

 

 「……あ、岸和田くん。あけおめ〜」

 

 「ああ、あけましておめでとう」

 

 挨拶を返し、席に腰を下ろす。

 

 すると、美東さんが、ノートから目を離さずに、ぽつりと呟いた。

 

 「……やっぱ岸和田くんは、変わんないね」

 

 「どういう意味だよ?」

 

 思わずそう聞くと、美東さんは少しだけ考える素振りをしてから、

 

 「だって、お正月明けだし」と、はぐらかすように言った。

 

 それ以上、踏み込む気はなさそうだ。

 

 (……相変わらずだな)

 

 そのやり取りを最後に、教室の空気が少しずつ締まっていく。

 

 試験開始の時間が近い。

 

 やがて、教授が入ってきて、短い説明が始まる。

 

 三限の基礎ゼミの試験。一般教養の授業は、レポート課題で終わることが多い。

 

 けれど、このゼミは違う。試験という形で、小論文を書き上げなければならない。

 

 ノートと参考文献の持ち込みは可。スマホの使用は不可。高校の頃にはなかったルールだ。

 

 配られた問題用紙を前に、俺は一度だけ深く息を吸う。

 

 (書くことは、決まっている….…)

 

 あとは、それを、どう言葉にするかだけだ。

 

 教室が、静かに試験の顔になる。その中で、俺はペンを取った。

 

 開始から四十分が経過した教室内には、シャーペンを走らせる音だけが聞こえていた。

 

 適度な緊張感を伴った静けさが続いている。

 

 その空気が試験終了まで続くものだと思っていたが、今日に限ってはそうならなかった。

 

 突然、ガラッと大きな音が割り込んできたのだ。誰かが教室の後ろのドアを勢いよく開けた音。それでも、試験中の教室内では誰も振り返らない。約三十人の学生は、小論文を書き上げることに集中している。

 

 俺も気にせずにシャーペンを走らせた。

 

 大方、遅刻した学生が今頃やってきたのだろう。

 

 ……そう思った。けど、ドアの開け方が、遅刻のそれじゃなかった。

 

 踵を鳴らした足音が近づいてきた。

 

 その人物を見て、俺は思わず息を呑んだ。

 

 視界に入ったのは、ひとりの女子大学生。

 

 霧島透子、本名は岩見沢寧々。

 

 そう。咲太にしか見えていなかったはずの、あのミニスカサンタだった。

 

 一瞬、現実感が遠のく。けれど、今は試験中だ。ずっとそちらに意識を引きずられているわけにもいかない。そう自分に言い聞かせ、俺は強引に問題用紙へと視線を戻した。

 

 そのとき、ほんの一瞬だけ、美東さんの視線も、同じ方向へと流れた気がした。

 

 ミニスカサンタの立っている方角だ。

 

 (……いや、気のせいだろう)

 

 そう思い直し、俺はペン先に意識を集中させる。

 

 霧島透子は、咲太の横で足を止めていた。

 

 真正面から彼の目を見て、何かを伝えるように、はっきりと口を動かす。

 

 「話があるの」

 

 咲太の目を見て、彼女がはっきりそう口にする。

 

 その声は、距離的には教室中に届いていてもおかしくないはずだった。

 

 それでも、誰一人として反応しない。

 

 三十人ほどいる学生たちも、教室の端で暇つぶしに本を読んでいる白髪の教授も、まるで何も起きていないかのように、それぞれの時間を続けている。

 

 決して、全員が試験に集中しているからではない。答案を書き終え、ただ終了の時間を待っている学生も何人かいる。試験開始から一時間が経てば、終えた者から退出していいルールだから、その時刻を待っているだけなのだろう。

 

 それでも、試験中に誰かが突然話し始めれば、普通は何人かが顔を上げる。教授だって、さすがに注意しないわけがない。

 

 このおかしな光景が成立している理由は、ひとつしか考えられなかった。

 

 俺と咲太を除いて、霧島透子の姿が見えていない。

 

 彼女は、「じゃあ、終わるまでここで待ってる」と言って、咲太に向かって短く言葉を添えたあと、その場に留まった。

 

 それを合図にしたかのように、咲太が席を立つ。

 

 「すみません。お腹が痛いのでトイレに行ってきます」

 

 そう申告し、少し前かがみになって片手で腹部を押さえる。その様子は、どう見ても演技だった。しかも、あまり上手いとは言えない。

 

 麻衣先輩に見られていたら、間違いなく笑われているだろう。

 

 それでも、教授は何も言わなかった。ただ無言で、ドアの方を指し示す。

 

 行ってよし、という意思表示。

 

 俺はその一連の流れを、ペンを動かしながら横目で観察していた。

 

 (咲太が戻ってきたら、話を聞かなきゃな……)

 

 そう、静かに思いながら。

 

 咲太が席を立つと、満足した顔で霧島透子も席を立った。

 

 椅子が音を鳴らすが、やはり誰も反応しない。

 

 でもその際、福山のマフラーが床に落ちていることに彼女が気づいた。

 

 身を屈めて拾い上げる。ほこりを払うようにしてから、そっと福山の机の上に戻した。

 

 「………」

 

 無反応の福山を、彼女はじっと見据える。

 

 お礼でも期待しているのだろうか。だが、当然のように福山は彼女の存在に気づかない。

 

 「ふんっ」

 

 彼女は自分を認識しない福山を鼻で笑うと、教室の後ろにすたすたと歩き出した。咲太もそれについていく。一応、お腹が痛そうに……

 

 一時間が経過し、試験終了の合図がかかった。

 

 教室の空気が一斉に緩む。シャーペンを置く音、椅子を引く音、ため息混じりの吐息。終わった者から答案を手に立ち上がり、続々と前へ向かっていく。

 

 前の方を見ると、のどかと卯月も、すでに書き終えたらしい。二人並んで答案を提出しに行っていた。

 

 戻ってきたのどかが、こちらを見つけて声をかけてくる。

 

 「蓮真、どうだった?」

 

 「まあ、それなりに書けたよ」

 

 そう答えると、のどかは少し肩の力を抜いたように笑った。

 

 「あたしも、何とか書けた。小論文って、やっぱ難しいよね」

 

 その横から、卯月が勢いよく割り込んでくる。

 

 「きっしー!私もたくさん書いたよ!」

 

 「たくさん書けばいいってもんじゃないだろ……」

 

 「でもさ、下手な何とかも数打ちゃ当たるって言うし!」

 

 「下手な鉄砲、な」

 

 訂正すると、卯月は「それそれ!」と満足そうに頷いた。そこへ、声がかかる。

 

 「お疲れ、岸和田。豊浜さんと広川さんも」

 

 振り返ると、福山が答案を片手に立っていた。

 

 「お疲れ。福山はどうだった?」

 

 「俺?全然。途中から何書いてるかわけわかんなくなってた」

 

 「まあ、落単しないことを祈っとくよ」

 

 「優等生が言うとムカつくなあ」

 

 苦笑しながら、福山はふと思い出したように言った。

 

 「そうだ。これから新年会兼、試験お疲れ様会あるけど、来るか?豊浜さんと広川さんもどう?」

 

 その誘いに、俺は首を横に振る。

 

 「悪い。俺は咲太に用事があるから」

 

 のどかも続けて、

 

 「あたしも。これから卯月とレッスンあるから。ごめんね、福山くん」

 

 「そっか。それじゃあ、しょうがないか」

 

 福山は納得したように頷き、ふと教室を見回した。

 

 「てか梓川、早く戻ってこいよ。答案どうすんだよ」

 

 「確かに。咲太、試験放っといて何やってんのよ」

 

 のどかが腕を組んで言うと、「きっとお兄さん、麻衣さんに会いに行ったんだよ!」と、いつもの調子で卯月が口を挟む。

 

 それに、のどかがすぐ否定した。

 

 「お姉ちゃん、今週は京都で撮影だから。それはない」

 

 「まあ……色々あるんだろ」

 

 俺はそう言って、福山に向き直る。

 

 「福山、咲太の答案は俺が出しに行くから。先に行っていいぞ」

 

 「ああ、わかった。ありがとな、岸和田」

 

 そう言って福山は手を振り、のどかと卯月も帰り支度を始める。

 

 「じゃあね、蓮真」

 

 「じゃあね、きっしー!」

 

 その直前、のどかが思い出したように振り返った。

 

 「あ、そうだ。今度の十五日、蘭子のバースデーライブあるから、蓮真も来てね」

 

 「……ああそういえば、中郷さんって一月生まれか」

 

 「そうそう!」

 

 卯月も被せるように言う。

 

 「きっしー、来てね!」

 

 「そういえばさ」

 

 ふと気になって、俺は口にする。

 

 「スイートバレットのメンバーって、みんな誕生月近いよな。中郷さんが一月で、安濃さんが二月、のどかが三月、卯月が四月……で、岡崎さんが六月か」

 

 「ああ、それね」

 

 のどかが頷いた。

 

 「結成する時のメンバー選考で、あえてそうしたんだって。卒業した愛花は五月、茉莉は七月生まれだったし」

 

 「なるほど……豆知識的なやつだな」

 

 「きっしー、もっとスイートバレットのこと知ってなきゃダメだよ!」

 

 「割と知ってるだろ」

 

 そんなやり取りを残して、三人は教室を出ていった。

 

 静かになった教室で、俺は咲太の答案を手に取り、前へ向かう。

 

 提出を済ませて戻ると、そこに残っていたのは、美東さんと俺だけだった。

 

 「……美東さんは、新年会行かないのか?」

 

 そう聞くと、美東さんは少し困ったように笑う。

 

 「うん。飲み会に行くと、わたし、モテるからなぁ」

 

 冗談めかした口調のあと、少し間を置いて続けた。

 

 「それに……梓川くんに聞きたいことあるから」

 

 「なら、俺も同じだな」

 

 「……ふーん」

 

 それから、話題を変えるように問いかけてくる。

 

 「岸和田くんは、年末年始、何してたの?」

 

 「俺?スイートバレットのライブ行ったり、のどかと卯月と初詣行ったりしてたけど」

 

 「……相変わらず、二人と仲いいよね」

 

 「そういう美東さんは?」

 

 少し間を置いて、彼女は答えた。

 

 「わたしは……実家に帰ってたよ」

 

 「そうなんだ」

 

 それ以上、踏み込むことはしなかった。

 

 美東美織は何かを思い出したかのように。でもそれをそっと胸の内にしまい込むように。今はまだ、言うべきじゃないと判断したかのように。口を噤んだ。

 

 静まり返った教室で、俺たちはそれ以上、何も話さなかった。

 

 (……今日の美東さん、どこか少しだけ距離が遠い気がする)

 

 年末までは、もっと近かった。 

 

 国際商学部の授業で俺が骨折していた時も、さりげなくノートを取る手を止めずに「これ、手伝う?」と差し出してくれた。

 

 「放っておけないから」と。

 

 あれは冗談でも、気まぐれでもなくて、ちゃんとした優しさだったと思う。

 

 なのに今日は、視線も言葉も、俺の手前で一度止まる。

 

 踏み込みそうで踏み込まない。

 

 (……俺、何かしたか?)

 

 問いは浮かぶのに、答えは出ない。

 

 ただ彼女の中で、何かが変わった感触だけが残っていた。

 

 とはいえ、沈黙のまま時間が止まってくれるほど、現実は優しくない。

 

 廊下の向こうから、足音が近づいてきた。さっきまでの慌ただしさとは違う、やけに堂々とした歩き方。

 

 教室の後ろ扉が、今度は普通に開く。

 

 入ってきたのは、梓川咲太だった。

 

 何事もなかった顔をしているのに、どこか妙に疲れた顔。

 

 そして、その背後には、さっき見たミニスカサンタの気配はない。

 

 その瞬間、俺の中で一つの予感が形になりかけた。

 

 と、その予感を確信に変えるように、美東さんが口を開いた。

 

 「おかえり、ゲリピー君」

 

 咲太が眉をひそめる。

 

 「来年はじまる朝ドラのタイトルか?」

 

 「さすがに朝ドラは無理じゃない」

 

 咲太の返事に、美東さんが楽しそうに笑う。

 

 (……今の言い方)

 

 ゲリピー君。つまり、さっきの「お腹が痛い」芝居を、彼女は見ていたということだ。

 

 俺は、喉の奥で小さく息を飲んだ。

 

 (やっぱり……そういうことなのか)

 

 さっき一瞬だけ、美東さんの視線があの方向へ流れた気がした。

 

 気のせいじゃなかった。

 

 (美東美織も見えている……)

 

 「基礎ゼミのみんなは、新年会あーんど、試験お疲れ様会ということで、さっさと出て行きましたとさ」

 

 がらんとした教室を見回しながら、美東さんは咲太にそう教える。

 

 「美東も岸和田も行かなかったのか?」

 

 「飲み会に行くと、わたし、モテるからなぁ」

 

 これが嫌味に聞こえないのが、美東美織のすごいところだ。

 

 「俺は、お前に聞いておきたいことがあったし」

 

 俺が言うと、美東さんも続ける。

 

 「というか、わたしも梓川くんに聞きたいことがあって」

 

 「僕のタイプか?もちろん、麻衣さんだよ」

 

 「じゃあ、さっき一緒に出ていった女の人は誰ですか?」

 

 「……」

 

 「試験の最中に逢引とは、やりますね」

 

 咲太の思考が止まったのが、目に見えて分かった。

 

 俺も、横で聞きながら背筋がぞくっとした。

 

 美東さんは、軽口のテンションで、確信の地雷を踏みにいく。

 

 「あの人、時々、サンタの格好してるよね?ミニスカートの」

 

 戸惑う咲太に構わず、美東さんは平然と続けた。

 

 咲太が、ゆっくりと息を吐く。

 

 「……美東、見えてたのか?」

 

 「あんなに堂々としてたら、そりゃあ目に入るでしょ」

 

 「じゃなくて……見えてたんだな?」

 

 「その、見えてるってなに?」

 

 美東さんが、文字通り首を傾げる。

 

 表情には、「何言ってるかわからない」という困惑が、綺麗に貼り付いていた。

 

 咲太が言葉を選ぶ間もなく、俺は内心で整理する。

 

 (見えてる。でも、見えてることの意味を理解してない)

 

 あのとき俺と咲太以外に、ミニスカサンタを見えていたのは、美東さんだけだった。

 

 「さっき一緒に出て行った女の人は、僕と美東と岸和田以外には見えてないんだよ」

 

 咲太がそう言った瞬間、美東さんの表情が固まった。

 

 さっきまでの余裕が、ぴたりと止まる。

 

 きっと、思考も止まっている。

 

 意味が分からない、という顔。

 

 瞬きだけが、ばちばちと機械みたいに繰り返される。

 

 「………」

 

 「………」

 

 沈黙が、教室に落ちる。

 

 長い、長い沈黙。

 

 四限のチャイムが鳴って、ようやく時間が動き出したみたいに、美東さんの唇が再び動いた。

 

 「ねえ、梓川くん」

 

 「なんだ?」

 

 「頭、大丈夫?」

 

 たっぷり考えた末に、美東さんが放ったのは、シンプルな言葉。

 

 この状況に、最も相応しい言葉だった。

 

 咲太は口を開きかけて、結局、閉じた。

 

 代わりに、俺の方をちらりと見る。

 

 (お前も、見えてたんだろ?)

 

 そうとでも言いたげに。

 

 俺は小さく頷いて、視線だけで答えた。

 

 (……ここから先は、日常の顔じゃ済まない)

 

 そんな予感だけが、教室の冷たい空気の中で、じわじわと濃くなっていった。

 

 本校舎の一階に移動して、霧島透子について咲太が説明している間、美東さんは概ね神妙な面持ちだった。

 

 時折、「胡散臭い話だなぁ」という顔もしていた。だが、途中で余計な口は挟まずに、まず話を最後まで聞いていた。

 

 ある日、咲太がミニスカサンタと出会ったこと。

 

 彼女が咲太にしか認識できていなかったこと。霧島透子と名乗ったこと。俺には当初声だけが聞こえていたこと。そして途中から俺も認識できるようになったこと……

 

 「#夢見る」に関係していることや、どうも思春期症候群を誘発しているらしい……という点については、ひとまず割愛していた。

 

 ちゃんと説明するには、卯月や赤城の話までしないといけなくなる上に、内容が多すぎて単純に日が暮れてしまうと思ったのだろう。

 

 美東さんにも我慢の限界はあるだろう。だから、彼女がしびれを切らす前に、咲太は簡潔に話を納めることにした。

 

 「とりあえず、僕がわかってることは、こんなところだな」

 

 「質問いいですか?」

 

 待っていましたとばかりに、美東さんが元気よく手を挙げる。

 

 「はい、どうぞ」

 

 「なんで、わたしと梓川くんと岸和田くんにしか見えないんですか?」

 

 美東さんは当然の疑問をぶつけてくる。まずそれが気になる。当たり前の反応だった。

 

 「それは僕が知りたい」

 

 「俺もわからないな」

 

 できれば彼女に理由を教えてあげたいが、生憎、俺も咲太もわかっていない。

 

 「知りたい」というのは、まさに俺たちの本音だった。

 

 どうして、俺と咲太には見えるのか。

 

 そして、どうして美東さんにも見えるのか。

 

 「こわっ」

 

 美東さんが感情をそのまま口に出す。

 

 冷静に考えると確かにこわい。いや、冷静に考えなくてもこわい。どう考えても異常事態に違いないのだから。

 

 美東さんのおかげで、自分達の状況を客観的に捉えることができた。

 

 捉えたところで、不安が増すだけではあるが……

 

 「でも、そっか」

 

 そんな咲太を気にせずに、美東さんが何か納得したように天井を見上げた。

 

 「だから、前に『サンタがいる』って真奈美に言ったら、変な顔されたんだ」

 

 「てか、あの人、生きてるんだよね?幽霊とかじゃなくて」

 

 再び、神妙な顔つきになった美東さんが投げかけてくる。

 

 「とりあえず、さっき、握手はできたな」

 

 「感触は?」

 

 「ちゃんとあたたかかった」

 

 「んじゃあ、幽霊じゃないかな」

 

 今のやり取りで納得するのもおかしい気はしたが、俺たちはあえて突っ込まなかった。

 

 元々、おかしい話をしているのだ。おかしくて当たり前なのだから。

 

 でも。“幽霊”という単語を、美東さんが当たり前みたいに口にした瞬間、胸の奥がほんの少しだけざわついた。

 

 例えとしては妥当だ。今起きているのは、普通の説明ができない現象で、だからこそ人は“幽霊”みたいな言葉に逃げる。

 

 でも、美東美織がその言葉を選ぶと、ただの比喩に聞こえない。

 

 冗談っぽい顔で言っているのに、言葉の置き方が妙にリアルで、妙に慣れている。

 

 (……昔、何かあったのか?)

 

 そんな疑問が、頭の片隅に小さく引っかかった。

 

 「実際は、見えないっていうより、僕と美東と岸和田以外には、認識されていないって感じだな」

 

 咲太がそう言うと、「わかるような……」そう言いかけた美東さんだったが、途中で大きく首を捻ると、「やっぱり、さっぱりわからない」と、言い直した。

 

 美東さんの困惑は本物に見えた。

 

 だから余計に、彼女が見える側にいる理由が不気味だった。

 

 「本人だけじゃなくて、例えば、ミスコンのHPなんかは、『岩見沢寧々』のページだけ福山には見えてなかったんだよ」

 

 つまり、彼女の存在に関わる情報を認識できてないのだ。

 

 認識できるのは、個人を特定できないYouTubeでの遠くからのシルエット。

 

 それと、本人を特定できない歌声だけ。

 

 「ミスコンのHPねぇ。それ、わたしは見えるのかな?」

 

 「見てもらえば、すぐにわかるけど……岸和田にもそうやって確認してもらったし」

 

 「そういや、美東ってスマホ持ってないんだったな」  

 

 「うわー、梓川くんにだけは言われたくなーい」 

 

 文句を言いながらも、美東さんはトートバッグに手を伸ばす。

 

 中から引っ張り出したのは、四角くて平べったいダークグレーの物体。AppleのMacBookだ。

 

 「それ、毎日、持ち歩いてるのか?」

 

 薄型、小型とは言い難い美東さんのMacBookは、それなりの重量がありそうだ。

 

 「今日は、三限までなので、課題レポートをやろうと思って持ってきたのです」

 

 勝ち誇った表情で、美織は「ふふん」とご機嫌に鼻を鳴らしてMacBookを開く。 

 

 すぐに電源をオンにし、咲太が横から画面を覗 き込もうとすると、美東さんは半分閉じて見えないよう、それとなくガードした。

 

 「乙女のデスクトップはのぞき見禁止」

 

 「さては、いかがわしいファイルがあるんだな」

 

 「そりゃあ、あるでしょ」

 

 「ますます気になるな」

 

 そう言いながらも、咲太は身を引いた。

 

 起動したMacBookを美東さんが慣れた手つきで操作する。

 

 「あ、これかな。ミスコンのHP。去年のグランプリで、当時は国際教養学部の二年生。北海道出身。誕生日は三月三十日。身長は161センチ」

 

 「それだな」

 

 「インスタもやってるんだね。写真いっぱいの」

 

 美東さんが画面を軽く咲太の方に傾けてくる。今度は見てもいいようだ。

 

 画面いっぱいに、岩見沢寧々のInstagramが表示されている。

 

 モデルの仕事のこと、大学生活のこと、今日のファッションのこと……それらが写真とともに、短いコメントで語られていた。

 

 きらきらと輝いた日々の活動報告。

 

 全体の印象を一言で表すとすれば、それは「充実した大学生活」だ。

 

 誰もが憧れるような、そうなりたいと思うような……明るくて、エネルギーに満ちた彼女の日々がそこにはあった。

 

 「美東から見てさ。彼女に消えたくなるような事情があると思うか?」

 

 「四月に更新が止まってるから、四月に何かあったんじゃない?」 

 

 質間に答えながら美東さんは顔を上げた。咲太の反応を確認するように、ばちくりと瞬きを二回する。

 

 「何かって例えば?」

 

 「休学明けの麻衣さんが大学に現れた、とか。その麻衣さんがみんなからの注目を一瞬で奪っていった、とか」

 

 ある種の意図を持って、美東さんはその名前をさらりと口にした。

 

 「なるほど……」

 

 美東さんは鋭いところを突いていると思う。

 

 彼女の推理は、軽口の形をしているのに、芯だけが正確に刺さってくる。

 

 納得させられるのが悔しい、というより、納得できてしまうのが怖かった。

 

 でも、こういう言葉は、ただ頭が切れるだけじゃ出てこない。

 

 どこかで似た痛みを見たことがある人間の言葉だ。

 

 「この人、モデルをして、ミスコンのグランプリで………それまで、大学内ではさぞ目立ってたんだろうし。ちやほやされたりしてね」

 

 「まあ、想像はできるな」

 

 SNSの投稿からは、そういうオーラを感じる。

 

 「麻衣さんが現れるまで、このキャンパスは岩見沢寧々というお姫様の国だったんじゃないかな?」

 

 「でも、そこに、麻衣先輩という女王様が現れたわけだな」

 

 「うん。相手が麻衣さんじゃ、そりゃあ、一瞬で滅亡するよね」

 

 一般的な大学生と比べれば、岩見沢寧々には一国を支配する素質があったのかもしれない。

 

 学生のうちからモデルの仕事をして、ミスコンという場でも人目を引きつけていた。

 

 自分に自信もあっただろう。他の学生とは違うという自負も芽生えていたはずだ。その事実は、彼女に優越感を与えていたのかもしれない。

 

 周りの学生とは違う特別な自分。何かになっている自分を誇っていた。

 

 だが、そこに『桜島麻衣』が襲来した。

 

 子役から活躍し続けている国民的知名度の有名人。

 

 ドラマ、映画、CM、モデル……幅広く活動し、今や至る所でその名前と姿を、目と耳にする。

 

 知名度も、経歴も、『岩見沢寧々」とは比べ物にならない。

 

 当然のように、勝負にもならず、あっさり大学内ナンバー1の座を奪われた。

 

 「綺麗なティアラとドレスを取り上げられて、一般人に格下げって感じだったのかも。二番目の有名人って感じにもなれなかっただろうし」

 

 「まあ、麻衣さんの次を名乗るには、戦闘力が足りないかもな」

 

 麻衣先輩は、スケールとか、ステージとか……要は、格が違う。

 

 卯月やのどかも、麻衣先輩に続く有名人という扱いにはなっていない。

 

 「それだけ、突然大学に現れた芸能人『桜島麻衣』のインパクトは大きかったわけだ」

 

 岩見沢寧々が築き上げてきた誇らしい自分が、一瞬でその価値を失うほどに………

 

 「だから、岩見沢寧々は消えた。自分の価値を認めてもらえなくなって」

 

 今まですれ違いざまに向けられていた異性からの好意的な視線や、同性からの妬みの視線が届かなくなった。

 

 周囲からの評価が変わってしまった。

 

 特別ではなくなった。

 

 特別とは『桜島麻衣』を指す言葉だから。

 

 「うーん、それはちょっと違うんじゃない?」

 

 わかったつもりになっていた俺たちに、美東さんが異を唱える。

 

 「どう違うんだ?」

 

 美東さんの言いたいことがわからず、咲太は素直に聞き返した。

 

 「麻衣さんが現れて、みんなの視線を全部奪われて、特別じゃなくなって、みんなと同じ一般人になって……そんな自分のことを、いつも周りにいた自称お友だちたちが笑っているのがわかったから、惨めになって隠れたんじゃないでしょーか」

 

 閉じたMacBookの上に両手を揃え、いつもと変わらないトーンで、的確な言葉で、美東さんは思ったことを語った。

 

 すぐに返す言葉が浮かばない。

 

 美東さんの発言は、岩見沢寧々の立場や心境を、正しく捉えていると思えたから。

 

 「今まで他人にマウントを取ってた人が負けるのって、やっぱり『ざまぁ』って思うでしょ?」

 

 「ま、そうだな」

 

 「自称傷ついた人たちって、自分は誰も傷つけてないと思ってるからさ」

 

 「それか、自分は傷つけてもいいと思ってるかだな」

 

 「それが弱者の特権、みたいなね」

 

 冗談っぽく美東さんは声に出して笑う。洒落のように言ってはいるが、その発言はやはり芯を食っている。

 

 そのギャップがおかしくて、咲太は息がもれるように笑っていた。

 

 自然と会話が途切れる。

 

 「………」

 

 「………」

 

 ただ、笑いの雰囲気だけは残っていた。

 

 沈黙の間、美東さんは笑いの余韻を残したまま、俺の向かい側で無意識にトートバッグの紐を指でいじっていた。

 

 俺から目を逸らすでもなく、合わせるでもない。

 

 近づきすぎない位置を、きっちり守っている。

 

 まるで、何かを思い出してしまった人みたいに。

 

 「美東さんってさ、昔なんかあったのか?」

 

 「……何かって何?岸和田くん?」

 

 「なんかさ……経験者は語るって感じだったから」

 

 「……そりゃあ、わたしにも昔のひとつやふたつあるよ」

 

 いつも通り、適当にはぐらかされる。

 

 「でもさ、美東」

 

 「んー?何梓川くん?」

 

 「彼女は霧島透子なんだぞ?」

 

 咲太は、さっきまで岩見沢寧々のSNSを表示していた美東さんのMacBookに視線を落とす。

 

 「霧島透子の知名度があれば、麻衣さんとも戦えるんじゃないか?それこそ、自称お友達たちの笑い声なんか気にならないくらいに」

 

 「消えてないで、『私が霧島透子です』って、好きなだけマウントを取り返せばいい」

 

 「だったら、彼女は霧島透子じゃないんじゃない?」

 

 「………は?」

 

 一瞬、何を言われたのか理解できず、咲太の反応は露骨に遅れた。

 

 「言ったの梓川くんだよね。霧島透子なら消える必要ないって。なのに、消えてるなら、霧島透子じゃないってことになるんじゃないでしょーか」

 

 美東さんの意外な指摘は、本当に筋としては通っている。

 

 言葉としての理屈が、しっかりと成立していた。

 

 「わたし、変なこと言った?」

 

 「いや……」

 

 「でも、梓川くん、変な顔してるよ?」

 

 「それは元からだ」

 

 咲太の返事に、今日一番の大きな声で美東さんは笑った。

 

 「じゃ、わたし課題レポートやるから」

 

 本校舎一階の談話スペースを出るとき、美東さんはいつもの軽さで手をひらひら振った。

 

 「お疲れ、美東さん」

 

 「お二人も、お疲れ様でーす。変な話、ほどほどにねー」

 

 冗談めかして言い残し、彼女はMacBookの入ったトートバッグを肩にかけて、さっさと廊下の向こうへ消えていった。

 

 背中は軽い。歩幅も軽い。

 

 ……なのに、さっきまでの会話の余韻が、彼女の背中にだけ薄い影を貼り付けているように見える。

 

 俺は一度だけ、彼女の背中を目で追ってから、隣の咲太に視線を戻した。

 

 「で」

 

 俺は、咲太の顔を見て言う。

 

 「教室出たあと、霧島透子……岩見沢寧々と、何話してたんだ?」

 

 咲太は、少しだけ息を整えてから答える。

 

 「麻衣さんが霧島透子って名乗ってるのを、否定しろって言われた」

 

 「……否定しろ?」

 

 「ああ。『梓川咲太が否定すれば噂は引っ込む』みたいな言い方だった」

 

 俺は眉を寄せる。

 

 (そんな単純な話じゃないだろ)

 

 一度広まった噂と誤解は、否定した瞬間に別の形で増殖する。否定されるほど「やっぱり怪しい」と思う人間もいる。

 

 「でも、一度広まった噂と誤解なんて、否定するなら麻衣先輩本人にやってもらうしかないよな」

 

 「……ああ。まあな」

 

 咲太もそれは分かっているらしい。わざわざ言い返す気力もない顔で、視線だけを前に固定していた。

 

 少し間を置いてから、咲太が続ける。

 

 「それと、霧島透子も、夢を見なかったらしい」

 

 「……は?」

 

 「お前や麻衣さんと同じで」

 

 その一言で、胸の奥の何かが、小さく引っかかった。

 

 夢を見る人。見ない人。

 

 俺は見ていない。麻衣先輩も見ていない。そして霧島透子も。

 

 「夢を見る人と見ない人の差って……なんなんだろうな」

 

 俺がぽつりと言うと、咲太は肩をすくめた。

 

 「知らねえよ」

 

 「……まあ、そうだよな」

 

 銀杏並木を歩きながら、さっきの美東さんの言葉が頭の中で反芻される。

 

 「だったら、彼女は霧島透子じゃないんじゃない?」

 

 理屈としては通っていた。むしろ、筋は良かった。

 

 「さっき美東さんが言ってた、岩見沢寧々と霧島透子は別人かもしれないって仮説」

 

 俺が口にすると、咲太がちらりとこちらを見た。

 

 「……あれ、妙に説得力あったよな」

 

 「ああ。検証の余地、あると思う」

 

 納得できる。理屈も成立している。

 

 「僕、明日双葉に相談してみる」

 

 「明日、塾講師のバイトだっけ」

 

 「そう。ちょうど会うしな」

 

 その流れで言うと、俺は少し考えるように顎に手を当てた。

 

 「そっか。それなら俺も一緒に行っていいか?」

 

 「岸和田が?」

 

 「俺もミニスカサンタが見えるようになったわけだし。情報は共有しといた方がいい」

 

 「……ああ。その方がいいかもな」

 

 咲太が頷くと、俺は少しだけ表情を緩める。

 

 「双葉には俺が連絡しておくよ」

 

 「頼む、岸和田」

 

 「了解」

 

 校門を出てから、俺たちは別れた。

 

 歩きながら、さっきまでの会話を頭の中で整理する。

 

 ……いや、整理しようとしているのに、どこかで引っかかり続ける部分がある。

 

 (でも、なんで俺は、咲太や美東さんと違って、途中から見えるようになったんだろう……)

 

 最初は声だけだった。姿は見えなかった。

 

 それがいつの間にか、見える側に回った。

 

 (梓川咲太と美東美織。二人の観測者がいたから見えるようになったから、だよな?)

 

 そう考えるのが普通だろう。

 

 観測者が増えることで、現象が固定される。ありえない話じゃない。むしろ、思春期症候群ならそれっぽい。

 

 でも。釈然としない。

 

 説明としては納得できるのに、感覚がついてこない。

 

 そして、もう一つ。

 

 美東さんの言っていた、岩見沢寧々と霧島透子は同一人物じゃない、って説。

 

 確かに説得力はある。

 

 理屈も通っている。なのに俺は……

 

 理屈とは別のところで、もっと早い段階で「そうだ」と思ってしまった。

 

 (……なんでだろう)

 

 根拠はない。証拠もない。

 

 ただ、胸の奥のどこかが、わけもなく納得してしまう。

 

 岩見沢寧々は霧島透子じゃない、と。

 

 (直感か……?)

 

 そう片付けようとしても、妙に生々しい感覚が残る。

 

 理屈じゃない。もっと、古い記憶に触れるみたいな。

 

 忘れていたはずの輪郭が、ぼんやり浮かび上がってくるような……

 

 (……いや)

 

 俺は足を止めずに、首を振った。

 

 今はまだ、形にしない。形にした瞬間、戻れなくなる気がした。

 

 代わりに、明日、双葉に会う。理屈の世界に引きずり込んで、言葉にして、検証する。

 

 そうやってしか、俺は前に進めない。

 

 冬の冷たい空気の中で、俺はポケットの中のスマホを握り直した。

 

 一月七日

 

 「梓川と岸和田の友だちは、面白いこと言うね」

 

 俺たちは塾講師のバイトがはじまる前に、昨日、美東さんに言われたことを双葉に話した。昼食を取りながら。

 

 ふたりがいるのは、藤沢駅の南口。百貨店の裏手。飲食店が集まるエリアの二階にある寿司ダイニングの店内だ。四人掛けのテーブル席に三人で座っている。

 

 「まだ友だち候補って言われてるけどな」

 

 「そういうところは面倒くさいね」

 

 「まあ、双葉といい勝負だな」

 

 「………」

 

 咲太の言葉を無視した双葉は、金目鯛の塩焼きを口に運んでいる。

 

 「んで、双葉はどう思う?」

 

 「梓川の友だち候補の言ってることも、ひとつの考え方ではあると思う」

 

 「だよな」

 

 だから、俺たちは困っているのだ。

 

 自らを霧島透子と名乗るミニスカサンタと出会い、彼女を霧島透子だと信じて、昨日までは過ごしていた。

 

 だが、もしかしたら、違うかもしれないという可能性が突然示唆された。

 

 咲太と同じく、霧島透子のことが見えていた美東美織の何気ない一言によって………

 

 「でも、その話の出発点……つまり、霧島透子が透明人間になった理由に関しては、あくまで梓川とその子の憶測にすぎないわけでしょ?」

 

 「うちの大学が岩見沢寧々というお姫様の国だった……っていうのは、まあそうだな」

 

 SNSなどから勝手にそう解釈しただけ。

 

 モデル、ミスコングランプリという単語から、安易に連想した人物像に過ぎない。

 

 そんな彼女が、大学内での地位を麻衣先輩に一瞬で奪われた。

 

 特別だった自分が特別ではなくなった。惨めな自分を周囲の友だちは笑っていた。馬鹿にしていた。されていた。

 

 昨日までの存在価値を失い、彼女は消えた……認識されない透明人間になった……

 

 「だとしたら、あまり深く考えても仕方がないんじゃない?前提が違ってくれば、当然答えも変わるよ」

 

 「それはそうなんだけどさ」

 

 「今は、桜島先輩に対する例の誤解の方が、私は気になるけど。うちの大学じゃあ、もう本当のことみたいに言われてるから」

 

 双葉が通っているのは、大岡山の東工大。

 

 理系だろうが、文系だろうが、あまり関係なく噂は広がっているようだ。

 

 「こっちもそんな感じだよ」

 

 「まあ、でも、麻衣さんの噂に関しては、明後日には解決すると思う」

 

 「成人の日?」

 

 「麻衣さんって、今年二十歳になった一番の有名人だろ?」

 

 それに、「そっか」と、納得した様子で聞いた双葉は、「取材に来たたくさんのカメラの前で、桜島先輩自ら贈を否定するわけだ」と、正しい推測を披露する。

 

 「今なら、当然、記者から霧島透子のことを聞かれるだろうしな」

 

 「さすがだね」

 

 「同時に、SNSにも公式コメントを出すってさ」

 

 「じゃあ、今朝のSNSの更新って、そのことだったんだ」

 

 「ん?」

 

 咲太が疑問を返すと、双葉は無言でスマホを操作して、「これ」というジェスチャーで画面

を見せてくる。

 

 表示されていたのは、Instagramの画面。

 

 のどかから聞いたことがある、事務所と一緒に更新している『桜島麻衣』の公式アカウント。

 

 ドラマ撮影の休憩中を捉えた麻衣先輩のオフショットとともに、「九日に大事な発表があります」と、短いコメントが載せられていた。

 

 「ほんと、さすが麻衣さんだな」

 

 「さすがは麻衣先輩だな」

 

 麻衣先輩はやることに抜かりない。

 

 最も効果的に情報を広く伝達させる方法をわかっている。

 

 「問題があるとすれば、そこまでやっても噂が収まらなかったときだね」

 

 定食に付いている茶碗蒸しを食べながら、双葉がぽつりともらす。それは、咲太も気にしていることだろう。

 

 「一度、信じられた嘘を、『嘘だった』って信じてもらうのは案外難しいもんな」

 

 他人の認識や意見の方が正しいなんて、人は簡単に思わない。思えない。

 

 そういうことを麻衣先輩や、麻衣先輩の事務所の人たちもわかっているから、今回のような仕掛けをしたのだろう。

 

 念には念を入れて準備をしている。

 

 「実際、僕と同じ夢を見た連中は、自分の見た夢の方を信じるだろうし」

 

 麻衣先輩が自ら霧島透子だとカミングアウトする夢。

 

 咲太も、咲太と同じ夢を見た人も、それがリアルな記憶として残っているのだろう。

 

 「本物に名乗り出てもらうのが一番楽なんだけどな」

 

 (確かにこれ以上の解決策は他にない……けど、今はそれができない)

 

 「相手が透明人間じゃあ、仕方ないね。まずは、普通の人間に戻ってもらわないと」

 

 双葉の言う通りだ。

 

 「そのために、僕は僕でやれることをやってるよ」

 

 「でもさあ、双葉」

 

 「なに?」

 

 口元に上げていた湯飲みを双葉がテーブルに下ろす。

 

 「もし、岩見沢寧々が霧島透子じゃなかったら、僕はどうすればいいんだ?」

 

 おかしな噂を、彼女本人に否定してもらいたいのに、彼女が偽物だったら話にならない。

 

 「それならそれで、この際、霧島透子になってもらったら?」

 

 双葉から返ってきたのは、双葉が言い出すにしては大胆な作戦だった。

 

 「どっちかと言うと、梓川が思いつきそうなことだと思うけど」

 

 一瞬困惑した咲太に、双葉がそう言葉を添えてくる。

 

 「麻衣さんの変な誤解が解けるなら、確かにそれもありだな」

 

 岩見沢寧々にどんな事情があるのかは知らないが、今のところ殆ど他人の彼女のことまで構ってもいられない。

 

 それが俺たちの心情だった。

 

 「そういえばさ」

 

 双葉が箸を置いて、何でもない調子で言った。

 

 「なんで岸和田も、霧島透子が見えるようになったの?」

 

 「……あ」

 

 言われて、俺は一瞬言葉に詰まる。

 

 隣で咲太も同時に首を傾げた。

 

 「確かに。僕と一緒にいたから、ってわけでもないよな」

 

 「だよな」

 

 俺は少し考えてから、正直に口を開いた。

 

 「多分だけどさ」

 

 「うん」

 

 「咲太の友だち候補。美東さんって言うんだけど」

 

 「……その美東さんと、咲太。二人とも霧島透子が見える側だっただろ?」

 

 「まあ、そうだな」

 

 「だから、その二人の観測者が同時にいたことで、俺にも見えるように確定したんじゃないかって思ってる」

 

 「直感だけど」

 

 双葉が、ふっと小さく頷いた。

 

 「なるほどね」  

 

 「やっぱ、双葉もそう思うか?」

 

 「多分、岸和田の直感は合ってると思うよ」

 

 「そう……なのか?」

 

 「物理学的に言うなら、デコヒーレンスの不可逆的進行、かな」

 

 「……なんだよそれ?」

 

 咲太が即座に眉をひそめる。

 

 「量子もつれが、環境との相互作用によって干渉性を失って、確定状態へと移行していく過程のこと」

 

 「いっちょんわからん」

 

 間髪入れずに咲太が切り捨てた。

 

 「だと思った」

 

 双葉は平然としている。

 

 「じゃあ、噛み砕いて言うけど」

 

 「頼む」

 

 「……それってつまりさ」

 

 俺は少し考えながら、双葉の方を見る。

 

 「美東さんっていう、見える相手がいるっていう環境が追加されたことで、俺にも霧島透子……岩見沢寧々の姿が見えるように確定していったってことだよな?」

 

 「そういうこと」

 

 双葉は即答した。

 

 「多分だけど、霧島透子……岩見沢寧々だっけ?」

 

 「その人は、今、量子的に曖昧な状態にある」

 

 「曖昧?」

 

 「例えばね」

 

 双葉は指を一本立てる。

 

 「箱の中に猫がいるとするけど、それは“生きてる”か“死んでる”かは、わからない。両方の可能性が同時にある状態」

 

 「ああ」

 

 咲太が少し考えてから言った。

 

 「それってシュレディンガーの猫ってやつか」

 

 「そう」

 

 双葉は少し意外そうに目を瞬かせた。

 

 「梓川、よく覚えてたね」

 

 「昔、双葉に散々聞かされたからな」

 

 「でね」

 

 双葉はそのまま話を続ける。

 

 「シュレディンガーの猫のとき、猫の状態はまだ重ね合わせ。生きても死んでもいない」

 

 「でも、箱の外の空気とか、光とか、周りのものと少しでも触れ合うと……」

 

 「猫の情報が外に漏れ出して、環境全体に広がる」

 

 「空気分子一つ一つが、“猫は生きてる情報”か、“死んでる情報”を持つようになる」

 

 「一度こうなると、もう元に戻せない」

 

 「なんでだ?」

 

 俺が聞くと、双葉は少しだけ間を置いた。

 

 「環境は、ものすごく広くて複雑で、無数の分子が関わってる」

 

 「漏れた情報を全部集めて、ぴったり元通りに戻すなんて、現実的に不可能」

 

 「……例えとして合ってるかわかんないけど」

 

 俺は自分なりに言葉を探す。

 

 「卵を割ってスクランブルエッグにしたあとで、元の卵に戻せって言ってるようなものか?」

 

 「そう。さすが岸和田だね」

 

 双葉が小さく笑った。

 

 「それが、デコヒーレンスの不可逆的進行」

 

 「重ね合わせの曖昧さが、環境に情報が散らばることで見かけ上消えて、どっちかに確定した現実になる」

 

 「そして、一度確定したら、もう曖昧な量子状態には戻れない」

 

 少しの沈黙。

 

 俺は、ゆっくりと息を吐いた。

 

 「……なるほどな」

 

 「だから」

 

 双葉は俺を見る。

 

 「岸和田の直感は、合ってると思うよ」

 

 「そうか」

 

 俺は素直に頷いた。

 

 「ありがとう。ちゃんと紐解いてくれて」

 

 「どういたしまして」

 

 双葉はそう言って、何事もなかったように箸を取り直した。

 

 けれど、その説明が意味することの重さは、俺と咲太の胸の中に、確かに残り続けていた。

 

 おいしい定食を食べ終えた俺たちが、会計を済ませて店を出たのは、ランチタイムが終了する午後二時だった。

 

 このあと、塾講師のバイトがある俺たちの足は、自然と駅の北口を向く。

 

 「そういや、双葉はイブの夜、どんな夢を見たんだ?」

 

 咲太がそう尋ねると「国見と付き合ってる夢」と、あまりにもさらっと双葉が答える。

 

 「は?」

 

 思わず、咲太は驚きの声を上げていた。

 

 「ふたりで食事してた。デートだったんだと思う」

 

 前を向いたまま、双葉は淡々と語る。

 

 「まじで?」

 

 双葉の確認の言葉には、静かな頷きが返ってきた。視線は前を向いたままで……

 

 「でも、ありえないよ。国見に限って」

 

 それは俺も同意見だ。

 

 双葉がどうこうではない。理由はすべて国見にある。

 

 「国見はあの狂暴な彼女とラブラブみたいだしな」

 

 「確かに。この間も上里、クリスマス会が終わった後に、国見とデートに行ってたしな」

 

 仮に、今すぐ国見と上里の関係がこじれて、それこそ別れることになったとしても、国見の性格上、春までに双葉とそういう間柄になるとは到底思えない。

 

 「だから、あの夢は、未来なんかじゃないと私は思ってる」

 

 真っ直ぐ前を見据える双葉の横顔から、細かい心情は読み取れない。

 

 表面上は何も感じていないように見える。だが、夢を見て目覚めた朝は、当然のように動揺したはずだ。

 

 それが今は、いつもの双葉に見える。少なくとも、俺たちにはそう見えた。

 

 「双葉が言うなら、そうかもな」

 

 「………」

 

 すんなり納得した咲太に、双葉が疑問の視線を向けてきた。

 

 世間ではあの日に見た夢は、未来の出来事だと肩じられている。

 

 咲太も夢が現実になるのを経験している。

 

 それを双葉は知っているからこそ、疑問に思ったのだろう。

 

 意外だったのだろう、自身の言葉を、咲太があっさり受け入れたことが………

 

 その証拠に、双葉の目は咲太に答えを求めていた。

 

 「赤城が言ってたんだよ。あの夢は、未来を見てたんじゃなくて、もうひとつの可能性の世界を覗いていたんじゃないかって」

 

 去年の十二月二十五日。クリスマス会の片付けをしながらの電話で、赤城はそう言っていた。

 

 その見解を聞かされたとき、咲太も俺も一瞬驚いた。想定していない言葉だったから。

 

 だが、同時に、言われてみるとそうかもしれないとも思えた。

 

 もし、赤城の言う通りなら、夢の中で咲太がスマホを持っていた、ということにも説明がつく。

 

 以前、咲太が訪れたという、もうひとつの可能性の世界……その世界の咲太は、スマホを持っていたらしいのだから。

 

 「半年以上、別の可能性の世界にいる自分と入れ替わっていた彼女が言うなら、本当にそうかもしれないね」

 

 「まあ、だからって、今のところそれがどうしたって話なんだけどな。仮に、夢の正体が本当に別の可能性の世界だったとしても、こっちの世界で同じことが起こらない保証はないんだ

し」

 

 「そうだな。未来だろうと、可能性の世界だろうと……結局、その日が来るまでわからないしな」

 

 「まったく、迷惑な夢だよな」

 

 ただ一方的に、俺たちは振り回されている。

 

 「ほんとにね」

 

 視線を前に戻した双葉は少し寂しそうに呟く。

 

 それは、実感のこもった呟きだった。

 

 「加西くんのことがあって、ひとつだけわかった」

 

 ぽつりと双葉が呟く。

 

 「ん?」

 

 「想いに応えられないっていうのも、息苦しいんだね。国見もこんな気持ちだったのかな」

 

 双葉の口元には微かな笑みが浮かんでいた。

 

 俺は返事をしなかった。できなかった。

 

 わかる、と口にした瞬間に、余計なものまで溢れてしまいそうだったからだ。

 

 息苦しい。

 

 その言葉が、胸の奥に沈んでいく。

 

 国見のことを想像したのは、双葉の方だったはずなのに。俺の中では、違う二人の顔が、同時に浮かんでいた。

 

 のどかと、卯月。

 

 いつも隣で笑っているのどか。

 

 大げさなくらい大きく手を振ってくる卯月。

 

 俺は、気づいている。

 

 気づいていないふりをして、やり過ごせるほど鈍感じゃない。

 

 のどかが、俺の言葉の端っこにまで気を配っていること。卯月が、軽口みたいに距離を詰めながら、何かを確かめていること。

 

 気づいているくせに、応えられない。応えることが、怖い。

 

 どっちかに応えてしまうことは、どっちかを振ることと同じだ。

 

 どっちも傷つけたくない。どっちも、失いたくない。

 

 そんなの、都合がいいだけだ。

 

 頭ではわかってる。

 

 でも、だからって、簡単に割り切れるものでもない。

 

 いつかは選ばなくちゃいけない。いつかは、どっちかを泣かせる。

 

 その「いつか」が、たぶん思ってるよりずっと近いことも、わかってる。

 

 「……岸和田、どうした?」

 

 咲太が、横から覗き込むみたいに声をかけてくる。

  

 俺は首を振って、曖昧に笑った。

 

 「なんでもない」

 

 嘘じゃない。

 

 全部がなんでもないわけじゃないだけで。

 

 藤沢駅へ向かう足音の中で、俺は、クリスマスイブの夜と、クリスマスの昼を思い出していた。

 

 あの時だって、俺は、ちゃんと気づいていた。

 

 だからこそ、伝えたんだ。

 

 のどかには、ああ言った。

 

 「のどかに、すごく会いたかった。理由は……ちゃんと言葉にできないんだけど、のどかの前だとさ、“考える前に会いたい”って、思ったんだ」

 

 理屈の前に動く感情。手を伸ばす方が先に来る衝動。それを言葉にしたのは、逃げじゃない。

 

 少なくとも、俺の中ではそうだった。

 

 卯月には、こう言った。

 

 「卯月といると、無理しなくていい気がして、楽しくて、居心地がよくて。それだけでいいって、思えてるよ」

 

 未来とか、答えとか、選択とか。そういう重たいものを一回全部置いて、ただ笑っていられる場所。

 

 それを、卯月がくれる。

 

 両方、嘘じゃない。両方、本物だ。

 

 だからこそ、余計に厄介で。だからこそ、息苦しい。

 

 俺は、今の俺にできる範囲でしか言えない。

 

 「好きだ」とも、「付き合おう」とも言えない

 

 でも、「どうでもいい」とも言いたくない。

 

 今の俺が言える正直を、俺なりの形で渡した。

 

 それだけは、誤魔化したくなかった。

 

 双葉の横顔は、まだどこか遠かった。

 

 国見を思っているのか、自分を思っているのか、それとも……

 

 咲太は、相変わらず面倒くさそうな顔をして、でも、ちゃんと横にいる。

 

 そんな二人を見ながら、俺は小さく息を吸った。

 

 息苦しいのは、悪いことじゃない。

 

 苦しいってことは、ちゃんと誰かを大事にしてるってことだ。

 

 そう言い聞かせるみたいに、俺は心の中で繰り返す。

 

 まだ、選べない。

 

 でも、選ばないまま逃げ続けるのも、違う。

 

 だからせめて。今この瞬間だけは、嘘をつかない。

 

 選べないことの弱さを抱えたままでも、大事だと思ってる気持ちだけは、置いていかない。

 

 冬の空気が冷たくて、肺の奥が少し痛んだ。

 

 それでも、俺は塾まで続く道を歩き続けた。

 




物語解説

今回の話は、目に見える“異常”と、目に見えない“息苦しさ”が、並んで進んでいく回でした。

ミニスカサンタの不可視は、説明できないのに、確かにそこにある。

それと同じくらい、誰かの気持ちに気づいてしまったのに、答えを返せない息苦しさもまた、説明できないのに確かに胸に残ります。

双葉の言葉の、「想いに応えられない」ということは、応える側にとっても苦しい。

それは優しさの形をしているのに、時々、その輪郭は臆病さと区別がつかなくなってしまう。

蓮真は、まだ選べません。

けれど、選べないなりに、嘘をつかない言葉だけは渡しました。

完全な答えではないし、誰も救わないかもしれない。それでも、その不完全さこそが、今の彼の等身大だと思っています。

次回以降は、#夢見るの噂が“現実”として動き始めます。

九日の麻衣の発表。そして、霧島透子が誰で、何を望んでいるのか。

日常は日常の顔をしたまま、少しずつ形を変えていくはずです。

次回も、ぜひお楽しみください。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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