青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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4.選ばないまま、揺れる時間を奪い続ける

 

 一月九日

 

 成人の日のトレンドワードは、『桜島麻衣』で決まりだった。

 

 この日は、朝から全チャンネルのTV局が藤沢市に集結した。お目当てはもちろん振袖姿の桜島麻衣。

 

 一生に一度のその瞬間をカメラに収めること。

 

 「はたちのつどい」の式典が行われる藤沢市民会館の周辺には、多くの報道陣が詰めかけ、その注目度の高さ自体がひとつのニュースになっていた。

 

 その一連の様子を、俺はTVを通して見ていた。

 

 無数のカメラに狙われる中、麻衣先輩は二十歳の代表者として壇上に立ち、堂々と挨拶の言葉を述べていく。終わったときには、大きな拍手が会場に響いていた。

 

 無事に大役を果たした麻衣先輩だったが、この日の本番はむしろこのあとにある。

 

 式典が終わると、麻衣先輩は会場のロビーで、多くの報道陣に立ったまま囲まれていた。

 

 取材記者からの最初の質問は、二十歳になっての感想。「大人になった実感はありますか?」、「お酒はもう飲まれましたか?」など、定番の質問が次々に飛ぶ。

 

 麻衣先輩は、それらひとつひとつに笑顔で丁寧に答えていた。本題とも言っていい質問が投げかけられたのは、各局の質疑応答が一巡したあと。取材の一番はじめに、麻衣先輩に質問をした女性レポーターから発せられた。

 

 「最近、SNS上では麻衣さんが、ネットシンガーの『霧島透子』ではないか……なんて噂が広まっていますが、真相はどうなんですか?」

 

 麻衣先輩に無数のマイクが向けられる。

 

 「そうだったら、面白いですよね。でも、残念ですが、私は霧島透子さんではありません。ご期待に添えずごめんなさい」

 

 一度、にっこり笑んでから、麻衣先輩はやわらかい口調ではっきり否定する。

 

 「#夢見るについては、ご存知ですよね?」

別の記者が食らいつく。

 

 「はい。噂になっているので、知ってはいます」

 

 「そこには、麻衣さんが霧島透子だと語る投稿が多数あるわけですが?」

 

 「マネージャーさんにお願いして、私のスケジュールをお見せしましょうか?とてもじゃないですけど、アーティスト活動までしている余裕、絶対にないですから」

 

 冗談のように話す麻衣先輩の言葉に、集まった取材陣から笑い声が上がる。彼らの視線は、脇に控えていた麻衣先輩のマネージャーに向かっていた。

 

 「ちょっと、上に確認しないと、見せられません」

 

 慌てた様子のマネージャーが、両手をクロスさせて×マークを作る。それでまた笑いが起こった。

 

 そうした和やかなムードのまま、そのあとも麻衣先輩に対する質問は続いていた。

 

 正体のことは抜きにしても、「霧島透子さんをどう思いますか?」、「夢が本当になるって信じてますか?」など、噂に関連する内容が次々に飛び交った。

 

 その画面がしばらく続いたあとで、「次を最後の質問とさせてください」と、マネージャーが取材のまとめに入った。

 

 誤解を解くだけの説明はできたと判断したのだろう。

 

 真っ先に手を挙げたのは、さっきの女性レポーターだった。マネージャーに「どうぞ」と促されると、「その後、彼氏さんとの交際は順調ですか?」と、別の角度からの質問を麻衣先輩にぶつけていた。

 

 (このレポーター、意地悪だなぁ…)

 

 それに、麻衣先輩の口元が笑う。

 

 「ご想像にお任せします」

 

 笑顔でそう返すと、麻衣先輩はそれとなく右手を胸元に添える。

 

 指がきらりと光る。そこには、咲太が麻衣先輩の誕生日にプレゼントしたという指輪がはめられている。

 

 バシャ、バシャ、バシャとけたたましくシャッターが最後に切られた。

 

 それは、フラッシュの光で麻衣先輩の姿が見えなくなるほどだった。

 

 その中でも、麻衣先輩はぺこりと丁寧に取材陣に頭を下げる。

 

 「今日は、お越しいただき、ありがとうございました」

 

 お礼の言葉を残して、マネージャーに促されるまま麻衣先輩は退場していった。

 

 その映像は、昼のニュース番組や、昼下がりのワイドショーで大々的に報じられ、夕方の二ユースでも、夜のニュースでも、何度も何度も繰り返し流された。

 

 チャンネルを変えるたび、少し別の角度から狙った振袖姿の麻衣先輩が映し出されていた。

 

 これに加え、「桜島麻衣」の公式Instagramでも、噂を否定するコメントが掲載された。

 

 麻衣先輩が用意したふたつの作戦は、狙い通りの効果を発揮したのだろう。

 

 だから翌日以降、ニュースやワイドショーが「桜島麻衣』の噂について触れることはぴたりとなくなった。

 

 ただし、個人のSNS、Xなどには……

 

 {今さら否定もしても遅すぎ}

 

 {事務所が必死に火消ししてるよ}

 

 {もう認めちゃえばいいのに。なにこの茶番}

 

 などの書き込みも当然のようにあった。

 

 (噂を根っこから断ち切るには、本物に登場してもらう以外に道はないのかなもな……)

 

 スマホの画面を親指でなぞっていると、不意に指が止まった。

 

 軽く滑らせているだけのはずなのに、画面の向こう側から、妙な重さが指先に伝わってきていた。

 

 一月十一日

 

 試験期間が終わるまで、残り二日。

 

 そう意識した瞬間、胸の奥に居座っていた何かが、わずかに姿勢を変えた。

 

 解放感、というほど大げさなものじゃない。

 

 ただ、「終わりがある」という事実が、今日という一日を現実の側に引き戻してくれる。

 

 この日は国際商学部の試験が一つ残っていた。

 

 朝、大学へ向かう足取りは、先週よりも少しだけ軽い。

 

 改札を抜け、いつもの電車に乗る。

 

 車内には試験期間特有の空気が流れていた。

 

 ノートを睨む人、イヤホンで外界を遮断する人、目を閉じてじっと時間をやり過ごす人。

 

 俺は窓の外を眺めながら、右腕のシーネを軽く動かした。

 

 まだ完全に自由じゃない。でも、もう「守られている」感じもしない。

 

 (今日で外すんだよな)

 

 それだけで、今日がひとつの区切りになる気がした。

 

 キャンパスに着くと、年明け特有の静けさが広がっていた。

 

 講義棟の前を歩く学生の数も、普段より少ない。

 

 試験教室に入ると、すでに何人かが着席している。その中に、美東さんの姿があった。

 

 一瞬、視線が交わる。

 

 彼女は軽く会釈をして、すぐにノートへ目を落とした。

 

 それだけだった。

 

 年末までは、授業前になると自然に言葉を交わしていた。

 

 「この辺、出そうだよね〜」とか、「あの小テスト、地味にいじわるだった〜」とか。

 

 意味のない会話。

 

 でも、意味がないからこそ、距離を測る必要のないやり取り。

 

 今は、それがない。

 

 (……やっぱり、距離あるな)

 

 避けられている、というほど露骨じゃない。

 

 冷たくされたわけでもない。

 

 ただ、近づかない。

 

 それだけ。

 

 理由がわからないから、余計に気になる。

 

 「何かした」という確信も、「何もしていない」という自信も、どちらも持てない中途半端さ。

 

 試験が始まると、思考は自然と問題用紙へ向かう。

 

 準備はしてきた。時間配分も悪くない。

 

 それでも、ふとした隙間に、美東さんのことが入り込む。

 

 (俺、何か言ったかな)

 

 思い返しても、特別な会話はない。

 

 むしろ、「何も踏み込まなかった」ことが、原因なのかもしれなかった。

 

 答案を書き終え、提出する。

 

 教室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じられた。

 

 これで、残る試験はあとわずか。

 

 少なくとも、学業に関しては前に進んでいる。

 

 問題は、それ以外の部分だ。

 

 キャンパスを出て、金沢八景駅へ向かう。

 

 京急線に乗り、途中で東海道線へ乗り換える。

 

 車内では、吊り革を掴みながら、右腕のシーネを眺めていた。

 

 骨折した瞬間のことを、また思い出す。

 

 一瞬の浮遊感と、次の瞬間に走った鈍い衝撃。

 

 骨折という言葉が、こんなにも日常を変えるとは思っていなかった。

 

 (でも……今日で終わりか)

 

 藤沢市民病院に着くと、消毒液の匂いが鼻を突いた。受付を済ませ、待合室の椅子に座る。

 

 テレビでは昼のワイドショーが流れている。

 

 画面に映っているのは、また麻衣先輩だった。

 

 振袖姿。何度見ても、非現実的な存在感。

 

 (……別の世界の人だよな)

 

 俺はただの視聴者として、それを眺める。

 

 名前を呼ばれ、診察室へ入る。

 

 医師はレントゲンを確認しながら、淡々と告げた。

 

 「骨、ちゃんとくっついてますね。今日でシーネ外しましょう」

 

 その一言で、肩の奥に溜まっていた緊張が、すっと抜けた。

 

 シーネを外してもらい、腕を動かす。違和感はあるが、痛みはほとんどない。

 

 「急に無理しないように」

 

 そう言われて、診察室を出た。

 

 病院の外に出ると、空気が少し冷たい。でも、腕が軽い。

 

 それだけで、気分が変わる。

 

 藤沢駅に戻り、駅の近くのスーパーで買い物をする。

 

 日用品と、適当に選んだ間食。レジを済ませ、外に出たところで、声をかけられた。

 

 「岸和田」

 

 「岸和田くん」

 

 振り向くと、大津と浜松さんがいた。

 

 二人とも大学帰りらしく、どこかリラックスした雰囲気だ。

 

 「骨折、どう?」

 

 「さっき外してもらった」

 

 そう答えると、大津が少し大げさに驚く。

 

 「マジ?早くない?」

 

 「経過良かったらしい」

 

 浜松さんは俺の右腕をちらっと見て、ほっとしたように笑った。

 

 「よかったね、岸和田くん」

 

 その一言が、妙に沁みた。

 

 大津が、思い出したように続ける。

 

 「そういえばさ、二月の後半、試合もないし、湘南平ヒルクライムしない?」

 

 一瞬、頭の中で予定を確認する。

 

 試験は終わっている。バイトも調整できる。

 

 「……ああ、いいよ」

 

 そう答えると、二人とも嬉しそうに笑った。

 

 「やった」

 

 「久しぶりだね」

 

 怪我が治って、予定が入る。

 

 日常は、こうやって少しずつ戻ってくる。

 

 それでも。

 

 美東さんとの距離だけは、まだ埋まらないままだった。

 

 治るものと、治らないもの。前に進むものと、立ち止まったままのもの。

 

 その差が、今日はやけにくっきりと見えていた。

 

 一月十三日

 

 大学の試験がすべて終わって、その足でファミレスのバイトに入った。

 

 試験期間が終わった日のシフトは、いつもより少しだけ気分が軽い。解放感というほどじゃないけど、頭の中に張りついていた「やらなきゃいけないこと」のリストが、ようやく白紙に戻った感じがする。

 

 今日のシフトは三人。

 

 花楓ちゃん、姫路さん、そして俺。

 

 休憩室でエプロンを着けていると、花楓ちゃんが俺の右腕に気づいて、ぱっと表情を明るくした。

 

 「あ、蓮真さん。シーネ、外れたんですか?」

 

 「ああ。一昨日、病院で」

 

 「よかったですね」

 

 その言葉は、いつも通りの柔らかい声だった。

 

 隣でタイムカードをまとめていた姫路さんが、すかさず口を挟む。

 

 「よーし、これでホール蓮真先生にも回ってもらえますね」

 

 「先生って言うな」

 

 「だって、ホールもキッチンも、全部把握してるじゃないですか」

 

 「把握してるだけで、得意とは限らない」

 

 軽口を叩きながら、店内に出る準備をする。

 

 その途中、花楓ちゃんがビールサーバーの前で立ち止まった。

 

 「紗良さん、今日はビールのタンクの補充の仕方、教えますね」

 

 「はい。ありがとうございます、花楓先輩!」

 

 その一言に、花楓ちゃんが一瞬だけ固まる。

 

 「……花楓先輩って言われるの、なんか照れるなあ」

 

 照れたように笑うその横顔を見て、俺は内心で少しだけ感慨深くなる。

 

 (そうか、花楓ちゃんも、もう先輩なんだな)

 

 後輩だった彼女が、バイトで教える立場になっている。

 

 時間はちゃんと進んでいる。

 

 俺の腕の骨が治ったみたいに。

 

 店内に出ると、平日の夜にしては落ち着いた入りだった。ピークを過ぎた時間帯で、客席にはほどよく余裕がある。

 

 オーダーを取り、料理を運び、レジを回す。

 

 その合間に、少しだけ手が空いたタイミングができた。

 

 ドリンクバーの補充をしながら、花楓ちゃんに声をかける。

 

 「そういえばさ」

 

 「はい?」

 

 「明後日の中郷さんのバースデーライブ、行くの?」

 

 花楓ちゃんは一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく頷いた。

 

 「はい。行きます」

 

 「そっか」

 

 「蓮真さんも、行くんですよね?」

 

 「ああ、まあな」

 

 言い方が少し曖昧になったのは、自覚している。

 

 行く理由を説明しようとすると、どうしても余計なものが混ざる気がしたからだ。

 

 花楓ちゃんはそれ以上踏み込まず、「楽しみですね」とだけ言った。

 

 その距離感が、ちょうどよかった。

 

 しばらくして、入口のチャイムが鳴る。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 反射的に声を出しながら振り向くと、そこに立っていたのは見覚えのある顔だった。

 

 「……あ」

 

 米山奈々。

 

 少しだけ目を丸くしてから、彼女は軽く会釈する。

 

 「あ、岸和田先輩。お久しぶりです」

 

 「久しぶりだね。今日は……古賀と一緒?」

 

 名前を出してから、ほんの一瞬、間が空いた。

 

 「いえ。今日は朋絵ちゃんと一緒じゃなくて」

 

 言葉を選ぶような間のあと、米山さんは続ける。

 

 「ちょっと、別の人と待ち合わせで」

 

 「ああ、そっか」

 

 「じゃあ、案内するね」

 

 そう言って、二人用の席へ案内する。

 

 席に着いた彼女は、スマホをテーブルに伏せて置いて、軽く息を吐いた。

 

 「お仕事、頑張ってますね」

 

 「まあ、いつも通りだよ」

 

 メニューを渡して、その場を離れる。

 

 その背中を追う視線を、俺は感じなかった。

 

 代わりに感じたのは、もう一人が来るまでの、静かな待ち時間だった。

 

 それから十数分後。

 

 入口のチャイムが、もう一度鳴る。

 

 今度は、姫路さんが対応に向かった。

 

 ちらりと見えたのは、爽やかで、親しみやすそうな男子。

 

 背はそこまで高くない、俺と同じくらいだろうか。制服姿からすると、高校生くらいだろう。

 

 姫路さんに案内されながら、彼は迷いなく店内を見回し、すぐに声を上げた。

 

 「奈々、悪いな。待たせて」

 

 その声は、よく通る。

 

 席に近づくと、米山さんが顔を上げて、柔らかく笑った。

 

 「ううん。逸海くん、学校遠いもんね」

 

 そのやりとりを、俺は配膳の途中で聞いた。

 

 (……ああ、あの子が、米山さんの彼氏か)

 

 納得は、妙にすんなりいった。

 

 古賀の隣にいた頃の彼女とは、少し雰囲気が違う。肩の力が抜けていて、言葉も自然だ。

 

 観察するまでもなく、関係性が見えた。

 

 そのとき、一瞬だけ、男子と目が合った。

 

 ほんの一瞬。値踏みでも、敵意でもない。

 

 「ここにいる人間」を確認するみたいな、素直な視線。

 

 次の瞬間、彼はもう興味を失ったように視線を外していた。

 

 そして、少し大きめの声で言う。

 

 「すみませーん!お姉さん、注文お願いしま〜す!」

 

 呼ばれたのは、花楓ちゃんだった。

 

 「はーい」

 

 明るく返事をして、花楓ちゃんがメモを手に向かう。

 

 その背中を見ながら、俺は少しだけ考える。

 

 (若いな)

 

 悪い意味じゃない。

 

 自分がもう持っていない種類の軽さ、迷いのなさ。

 

 花楓ちゃんが接客している間、姫路さんが小声で言った。

 

 「……なんか、爽やかですね」

 

 「ああ、高校生くらいかな」

 

 それだけ言って、俺は次のテーブルへ向かった。

 

 気にする必要はない。

 

 観察はするけど、踏み込まない。それが、今の俺の立ち位置だ。

 

 花楓ちゃんがオーダーを取り終えて戻ってくる。

 

 「感じのいい人でした」

 

 「そっか」

 

 それ以上、話は続かなかった。

 

 ファミレスの夜は、そうやって静かに流れていく。

 

 誰かの関係が始まっていて、誰かの距離が変わっていて、それでも店内は同じように明るい。

 

 治った骨。進む時間。変わる人間関係。

 

 全部、ちゃんと前に進んでいる。

 

 俺だけが、少し遅れて歩いているみたいに感じながらも、エプロンの紐を締め直して、次の仕事に向かった。

 

 今はそれでいい。

 

 そう思えるくらいには、夜は穏やかだった。

 

 一月十五日

 

 鶯谷駅から少し歩いたところにある東京キネマ倶楽部は、開場前から人の波で膨らんでいた。

 

 休日の夕方にしては、やけに整った列だった。騒がしさよりも、静かな高揚感が先に立っている。

 

 誰かの誕生日を祝うために集まった人たちの空気は、どこか柔らかい。

 

 入口脇に並ぶフラワースタンドに、自然と目が向く。

 

 「Sweet Bullet Ranko Birthday Special LIVE」

 

 そう記されたパネルの前には、すでに何人かが立ち止まって写真を撮っていた。

 

 色合いは派手すぎず、それでいて埋もれない。主張の仕方が控えめで、でも芯がある大人っぽさ。

 

 「……中郷さんっぽいですね」

 

 花楓ちゃんが、俺の視線を追うように言った。

 

 「うん。前に出すぎないのに、ちゃんと見える」

 

 それは、フラスタだけの話じゃなかった。

 

 会場に集まる人たちの年齢層は幅広い。学生らしき人もいれば、仕事帰りの社会人もいる。

 

 誰かに連れられてきた、というより、それぞれが自分の意思でここに立っているように見えた。

 

 列が少しずつ動き出す。

 

 その流れに身を任せながら、俺は口を開いた。

 

 「そういえば……今日は鹿野さん、いないんだね」

 

 「こみちゃん、今日は塾があるみたいで」

 

 「ああ……受験、来年だもんな」

 

 そう言うと、花楓ちゃんは小さく頷いた。

 

 「はい。だから、私も頑張らないと、って思ってます」

 

 その言い方は、焦りよりも自覚に近かった。

 

 「花楓ちゃんは、行きたい大学とかあるの?」

 

 少し迷ってから聞くと、彼女は一瞬だけ視線を泳がせて、それから正直に答えた。

 

 「私は……麻衣さんと、卯月さん、のどかさんが通ってる大学に行きたいです」

 

 「……俺たちの大学か」

 

 口に出すと、不思議と現実味が増す。

 

 「こみちゃんも、第一志望らしくて」

 

 「いいんじゃないか。環境としては、悪くない。少なくとも、無理に背伸びしなくていい」

 

 そう付け足すと、花楓ちゃんは少しだけ安心したように笑った。

 

 「勉強で困ったら、いつでも見るよ」

 

 「……ありがとうございます」

 

 その声は小さかったけど、ちゃんと届いていた。

 

 列が進み、会場の入口が近づいてくる。

 

 少しだけ人の間隔が詰まった、そのタイミングで、俺は思い出したように聞いた。

 

 「……そういえばさ」

 

 「はい?」

 

 「クリスマスイブ、夢は見た?」

 

 花楓ちゃんの足が、ほんの一瞬だけ止まる。

 

 「……はい。見ました」

 

 「どんな夢?」

 

 数秒の沈黙。

 

 ライブ前のざわめきが、逆にその沈黙を際立たせた。

 

 「……もう一人の、私に戻ってる夢でした」

 

 「もう一人の?」

 

 「はい。中学のとき、解離性障害で、記憶がない時期があって」

 

 言葉は淡々としていた。でも、その淡々さが、かえって重い。

 

 「そのときの……記憶がない頃の私に、戻ってる夢でした」

 

 俺は一瞬、返す言葉を失った。

 

 双葉や、のどかから、断片的には聞いていた。でも、それはあくまで“知識”でしかなかった。

 

 本人の口から語られるそれは、重さの種類が違う。

 

 「……ごめん」

 

 反射的に、そう言った。

 

 「余計なこと、聞いちゃったな」

 

 花楓ちゃんは、首を横に振る。

 

 「いえ。麻衣さんも、のどかさんも、卯月さんも、知ってることなので」

 

 その言葉に、彼女が「隠す段階」を越えていることが滲んでいた。

 

 ちょうどそのとき。

 

 後ろから、聞き覚えのある声がした。

 

 「蓮真くん、花楓ちゃん。見に来てたんだ」

 

 振り向くと、卯月のお母さんが立っていた。

 

 「お久しぶりです」

 

 花楓ちゃんが、すぐに頭を下げる。

 

 「うん、久しぶり」

 

 それから、少しだけ申し訳なさそうに笑った。

 

 「いつもうちの卯月が、振り回してばっかでごめんね」

 

 「いえ。卯月さんといるの、すごく楽しいので」

 

 迷いのない返事だった。

 

 卯月のお母さんは、その様子を見て、少しだけ表情を緩める。

 

 「今日はね、このあと卯月のソロライブの打ち合わせがあって。マネージャーとして付き合う予定なの」

 

 「そうなんですね」

 

 「終わったら、また顔出すね」

 

 そう言って、彼女はスタッフの方へ向かっていった。

 

 ほどなくして、開場のアナウンスが流れる。

 

 中に入ると、独特の空気が肌に触れた。

 

 天井の高いホール、歴史を感じさせる内装、ステージとの距離の近さ。

 

 花楓ちゃんは、少し緊張した様子で周囲を見回している。

 

 「こういうライブハウス、初めてです」

 

 「音、近いからな」

 

 「はい……ちょっと、ドキドキします」

 

 ライブが始まると、その“近さ”はすぐに意味を変えた。

 

 中郷さんの声は、思っていた以上に真っ直ぐだった。

 

 上手いとか、迫力があるとか、そういう言葉よりも先に、

 

 “ ここに立ち続けてきた人の声”だと感じさせる。

 

 花楓ちゃんは、いつの間にか、身動きもせずにステージを見つめていた。

 

 アンコールまで終わり、拍手が少しずつ落ち着いた頃。

 

 卯月のお母さんが、俺たちの方へ戻ってきた。

 

 「蓮真くん、花楓ちゃん。せっかくだから、控室、顔出していく?」

 

 花楓ちゃんが、少し驚いた顔で俺を見る。

 

 「あ、はい。行きます」

 

 「俺も……顔出せるなら」

 

 そう答えると、卯月のお母さんは頷いた。

 

 「じゃあ、こっちね」

 

 関係者通路へ向かう途中、まだステージの熱が残っている。

 

 この先で、のどかと卯月に会う。

 

 そして、もしかしたら……今の自分の立ち位置を、もう一度突きつけられることになる。

 

 そんな予感だけが、静かに胸の奥で鳴っていた。

 

 控室の扉を開けると、甘い香りと、熱の残りがいっぺんに流れ込んできた。

 

 ステージの照明が落ちても、ここはまだ、ライブの続きみたいな空気だ。

 

 「あ、蓮真。花楓ちゃん来てくれたんだ」

 

 最初に気づいたのはのどかだった。メイクの上からでも分かるくらい、頬がまだ少し赤い。

 

 隣で卯月が、勢いのままに手を振る。

 

 「きっしー!花楓ちゃんありがとう、来てくれて!」

 

 「お疲れさま。……すごかったよ」

 

 そう返すと、すぐに別の声も重なった。

 

 「きっしーくん、わざわざ来てくれてありがとうね〜」

 

 中郷さんが、タオルを首にかけたまま笑う。

 

 岡崎さんも安濃さんも、同じように声をかけてくれて、花楓ちゃんは慌てて頭を下げた。

 

 「い、いえっ……こちらこそ、すごく……!」

 

 控室の会話は、どれも明るい。でも、俺の目は、勝手に違うところに引っかかる。

 

 のどかの手元。

 

 彼女が何気なく握り直したハンドクリーム。

 

 それが、俺が渡したやつだと分かった瞬間、胸の奥がほんの少しだけ詰まる。

 

 花楓ちゃんが、それに気づいたのはもっと早かった。

 

 「それ、蓮真さんからのプレゼントですか?」

 

 真っ直ぐすぎる質問に、のどかが一瞬きょとんとして、それから顔をぱっと明るくする。

 

 「そうそう!最近乾燥してるし、来週野外ライブもあるから、超助かってる。ありがと、蓮真」

 

 言い方が、あまりに生活だった。

 

 特別な告白みたいじゃなくて、日常の延長で、当たり前みたいに言う。だからこそ、刺さる。

 

 「役に立ってるならよかった」

 

 それだけ言うのに、声が少しだけ固くなるのを自分で感じた。

 

 「……ねえ、花楓ちゃんもあとで塗る? 乾燥やばいよね」

 

 「え、いいんですか?」

 

 二人の会話が自然に続いていく。

 

 俺はその横で、余計な表情をしないように気をつけた。

 

 そのとき、卯月がスマホを手に立ち上がった。

 

 「じゃ、私そろそろ打ち合わせ行ってくる!」

 

 ソロライブの件だ。お母さんに呼ばれたらしい。

 

 出口へ向かう途中で卯月は、耳に手を当てる。

 

 カービィのイヤーマフ。

 

 俺が前に渡したやつ。

 

 わざと見せるみたいに、卯月は指先でふわっと撫でて、それから俺の方を見た。

 

 「ありがとう、きっしー!また大学でね!」

 

 “また”は、ただの挨拶のはずなのに、卯月が言うと、妙に意味が増える。

 

 逃げ道のない、軽い約束みたいに。

 

 「……ああ。お疲れ」

 

 卯月が出て行くと、控室の空気がほんの少し落ち着いた。

 

 「あたしも、このあとお姉ちゃん迎えに行くんだ。盛岡の撮影から戻ってくるって」

 

 のどかがそう言って、荷物をまとめ始める。

 

 「花楓ちゃんも一緒に帰ろ」

 

 「あ、はい。ぜひ」

 

 花楓ちゃんは素直に頷いた。

 

 のどかが自然に花楓ちゃんの腕を取るのを見て、俺は一瞬だけ息を止める。それから、のどかが俺を見る。

 

 「蓮真も、一緒に来なよ」

 

 その言葉は軽い。軽いのに、俺の中で重い。

 

 「いや、俺はいいよ。今日は目黒の実家に泊まって、明日朝イチで大学行くつもりだったから」

 

 嘘じゃない。予定としては成立してる。でも、本音は別にある。

 

 (麻衣先輩があれだけ注目を浴びてる中で、“男”が一緒に写ったら、変な切り取りされかねない)

 

 (俺が原因で、麻衣先輩や咲太に余計な火種を増やすのは最悪だ)

 

 のどかは一瞬だけ口を開きかけて、

 

 それでも「そっか」と笑って、何も言わなかった。

 

 その“何も言わない”が、逆に胸に残る。

 

 岡崎さんが中郷さんの腕に絡むように笑う。

 

 「らんらん〜今日はアキバまで一緒に帰ろ! らんらん、つくばエクスプレスでしょ?」

 

 「はーい。ちょっと待っててね、ほたるん」

 

 二人は先に控室を出ていった。

 

 のどかと花楓ちゃんも、挨拶をして帰る準備を進める。

 

 気づけば、残ったのは、俺と安濃さんだけだった。

 

 控室のざわめきが遠のくと、空気の“温度”だけが急にリアルになる。

 

 安濃さんは、鏡越しに俺を見た。

 

 スイートバレットのサブリーダーの目。つまり、中の人の目だ。

 

 「きっしーくん。卯月とのどかに、プレゼント渡したんでしょ」

 

 「……そうだけど」

 

 胸がきゅっと縮むのが分かった。

 

 「なんかまずかったかな」

 

 「ううん。まずくはないよ」

 

 即答。それから、少しだけ間を置いて、安濃さんは続けた。

 

 「でもさ」

 

 「……でも?」

 

 安濃さんは椅子に腰を下ろして、タオルで髪を軽く押さえながら言う。

 

 「きっしーくん、いつになったら、二人の気持ちにちゃんと応えんのかなぁって」

 

 言葉は柔らかいのに、刃がある。

 

 「それは……」

 

 返せない。返した瞬間に、現実になってしまう。

 

 安濃さんは、感情じゃなく、観測の形で話してくる。

 

 「プレゼントもらってからね、二人ともライブでの動きが前よりさらに良くなってる」

 

 「……」

 

 「休憩中に話してても、必ずきっしーくんの話になる。私がいない時もね」

 

 そう言われた瞬間、胃の奥が冷える。

 

 (そんなに……?)

 

 安濃さんは、俺の表情を見て、少しだけ笑った。

 

 「私はさ、きっしーくんには感謝してるよ」

 

 「……感謝?」

 

 「うん。私たちが見てないところで、卯月ものどかもちゃんと見守って、大切にしてくれてるから」

 

 褒め言葉のはずなのに、“だからこそ逃げられない”と言われている気がした。

 

 安濃さんは、最後に静かに言う。

 

 「でも、もうそろそろ二人の気持ちに応えてあげたらいいのになぁ、って思う」

 

 「……分かってる」

 

 絞り出すような声になった。

 

 「でも、言えないんでしょ?」

 

 安濃さんは、俺の心をそのまま口にする。

 

 「どっちかを傷つけるって分かってるから」

 

 沈黙。その沈黙を、安濃さんはわざと崩さない。

 

 「ほんと、罪な男子だよね、きっしーくん」

 

 軽い言い方。でも、視線は軽くない。

 

 「……まあ」

 

 笑えない。

 

 「まぁ、どっちか泣かせたら、サブリの私が許さないけど」

 

 「……どっちにしたって詰みじゃないか」

 

 自嘲が混ざった。

 

 「そうかもね」

 

 安濃さんは、そこで一度、息を吐いた。

 

 「でも、ちゃんと応えてあげなよ。多分二人とも、そろそろ自分の気持ちを伝えたいって思ってるから」

 

 (やっぱり、いつかは選ばなくちゃいけない)

 

 (そして、その“いつか”は、思ってるよりずっと近い)

 

 喉の奥が、痛い。

 

 (ほんとに……苦しいな)

 

 安濃さんの言葉が、控室に残ったまま、なかなか消えなかった。

 

 「……そろそろ、か」

 

 俺がそう呟くと、安濃さんはすぐには返事をしなかった。鏡越しに、少しだけ表情を緩める。

 

 「今すぐじゃなくてもいいよ。でも、考えないままは、もう無理な段階かな」

 

 その言い方は、責めるというより、現状確認だった。

 

 「卯月もね、最近ちょっと変わったんだよ」

 

 「……変わった?」

 

 「前はさ、ライブ前なんて『今日も頑張る!』ってずっと喋ってたのに、今は本番前になると、急に静かになる」

 

 安濃さんは、ライブ前の控室の光景を思い出すみたいに、目を伏せた。

 

 「イヤーマフもいつも触ってるよ。ステージに出る直前まで」

 

 胸の奥が、きゅっと締まる。

 

 「のどかは?」

 

 「のどかは……逆に、無理して明るくなってる」

 

 その言葉は、柔らかいけど鋭かった。

 

 「“大丈夫”って言葉、最近ちょっと多すぎる」

 

 俺は何も言えなかった。それは、俺も気づいていたことだったから。

 

 「二人とも、きっしーくんのこと待ってる」

 

 安濃さんは、そこで初めて俺の方をしっかり見た。

 

 待ってるという言葉が、重く落ちる。

 

 「……待たせるの、俺は得意なんだ」

 

 冗談みたいに言ったつもりだったけど、声は全然軽くなかった。

 

 「知ってる」

 

 「でも恋愛って、壊れないようにするものじゃなくて、壊れても一緒に直すものなんだと思うんだよね」

 

 「ま、私も恋愛したことないから、本当のところはわかんないんだけど」

 

 それは、サブリーダーじゃなくて、一人の人間としての言葉だった。

 

 「……それができる自信がない」

 

 正直な気持ちが、ぽろっと出た。

 

 「自分が壊れたら、二人も巻き込むかもしれないって思う」

 

 安濃さんは、少し驚いた顔をしてから、ゆっくり息を吐いた。

 

 「なるほどね」

 

 「……笑うとこじゃないだろ」

 

 「ううん。きっしーくんらしいなって思って」

 

 そう言って、安濃さんは肩をすくめた。

 

 「でもさ、それでも好きなんでしょ?」

 

 答えない。答えなくても、分かる問いだった

 

 「だったら、もう逃げ道は一個しかないよ」

 

 「……なに?」

 

 「ちゃんと悩み続けること」

 

 一瞬、拍子抜けする。

 

 「中途半端に距離を取らない。中途半端に優しくしない。逃げない」

 

 安濃さんは、真っ直ぐに言った。

 

 「それができるなら、私は味方する」

 

 その“私は”が、スイートバレット全体を背負っている気がして、背筋が伸びた。

 

 「……ありがとう」

 

 絞り出すように言うと、安濃さんは「どういたしまして」と軽く手を振った。

 

 「じゃ、私はこのあとスタッフと合流するね」

 

 控室を出る前に、安濃さんは振り返る。

 

 「きっしーくん」

 

 「ん?」

 

 「選ぶってさ、未来を固定することじゃなくて、“今の自分を認める”ことだと思うよ」

 

 それだけ言って、扉が閉まった。

 

 一人残された控室は、急に静かだった。

 

 さっきまでの熱気が嘘みたいに、暖房の音だけが耳に入る。

 

 俺は椅子に腰を下ろして、天井を見上げた。

 

 (のどかのハンドクリーム、卯月のイヤーマフ)

 

 どちらも、俺が「踏み込みすぎない範囲」で選んだものだった。

 

 でも、その“ちょうどいい距離”が、もう通用しなくなっている。

 

 スマホを取り出す。画面には、特に新しい通知はない。

 

 それでも、指は無意識に、のどかの名前と、卯月の名前を行き来する。

 

 (どっちかを選ぶって、どっちかを失う、ってことだと思ってた)

 

 でも、本当は。

 

 (選ばないまま時間を奪い続ける方が、ずっと残酷なんじゃないか)

 

 胸の奥が、じわっと痛む。

 

 立ち上がって、控室を出る。

 

 関係者通路を歩きながら、さっきの光景を思い返す。

 

 卯月の「また」

 

 のどかの「そっか」

 

 どちらも、まだ優しい。でも、その優しさが続く期限は、もう近い。

 

 (いつかじゃなくて、“次”かもしれないな)

 

 そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。

 

 苦しい。それでも。

 

 逃げないって、決めたら一歩だけ、前に進める気がした。

 

 一月十六日

 

 月曜日。ここまで来ると、後期の日程も残りわずかだ。

 

 一月最後の一週間は補講期間となっているため、実際、授業が組まれているのは今週いっぱい。金曜日まで授業に出れば、その先はもう長い春休みとなる。

 

 大学が再開されるのは、二ヵ月以上先の四月。そのとき、俺は二年生だ。

 

 中にはすでに春休みモードになっている学生もいて、キャンパス内は年末にも似た不思議な空気が漂っていた。

 

 消化試合をこなしているような雰囲気。どこか気持ちが緩んでいると言ってもいい。

 

 講義棟へ向かう道すがら、すれ違う会話も軽い。

 

 「レポート終わった?」とか、「春休みどこ行く?」とか。

 

 そんな雑音の中で、俺はひとつだけ、やけに現実的なことを考えていた。

 

 #夢見る。

 

 麻衣先輩の成人式取材で、一度は鎮火したはずの噂。

 

 でも、火が消えたんじゃなくて、ただニュースの表面から追い出されただけだ。

 

 根っこは、土の中でまだ熱い。

 

 (本物が出てこないと、終わらない……か)

 

 指先に残っていた、あの妙な重さを思い出しかけた瞬間。

 

 俺は人の気配を、隣に感じた。

 

 「はじめまして、岸和田くん」

 

 声は、驚くほど普通だった。

 

 慌てて横を見る。

 

 意外な人物が、そこにいた。

 

 霧島透子・岩見沢寧々。

 

 ブーツにスカート、ハイネックのセーター、その上にコート。周囲に溶け込む女子大学生らしい服装。派手でも地味でもない、ちょうど“紛れる格好。

 

 けれど、紛れているはずなのに、視線が吸い寄せられる。

 

 理由は簡単だった。

 

 俺にだけ見える、という一点が、すでに非日常だからだ。

 

 (……本当に、いた)

 

 写真や動画で見たことはある。でも、それは画面越しの距離だった。

 

 目の前の彼女は、息遣いがある。

 

 まつ毛の影も、肌の温度も、季節の乾燥で少しだけ荒れた唇の感じも。

 

 そういう生がある。

 

 それなのに。

 

 俺の中で、直感がひとつ、すっと形になった。

 

 (……やっぱり、この人は霧島透子じゃない)

 

 根拠はない。証拠もない。ただ、違う。

 

 彼女から漂う匂いが違う。

 

 霧島透子という名前に、人々が勝手に貼り付けている幻想の輪郭。

 

 それと、目の前の岩見沢寧々の輪郭は、重なっていない。

 

 何より。

 

 (この人は、隠すんじゃなくて、開き直ってる)

 

 そこが決定的だった。

 

 俺が言葉を探していると、彼女は少しだけ首をかしげた。

 

 「……何?」

 

 「いえ。……あの」

 

 口に出そうとして、やめた。

 

 「あなたが霧島透子ですか」と言うのは簡単だ。

 

 でも、答えがそうだったとき、俺はそれをどこまで受け止める覚悟があるのか。

 

 「……あなたが、霧島透子……なんですか」

 

 結局、言ってしまった。岩見沢先輩は、ほんの少しだけ口角を上げる。

 

 「そう。よろしくね、岸和田くん」

 

 「……よろしくお願いします」

 

 視線が合う。

 

 すぐに逸らしたくなるくらい、彼女の目はまっすぐだった。

 

 透明人間。

 

 そう言われると、どうしても幽霊みたいなイメージが先に来る。

 

 けれど目の前の彼女は、幽霊じゃない。生きている人間の目をしている。

 

 「……今日は朝から大学に何の用ですか?霧島……岩見沢先輩」

 

 「君はそうやって、わたしのこと呼ぶのね」

 

 揶揄でもない、ただの確認みたいな口調。

 

 「授業に出るのよ」

 

 当たり前のことを聞くな、と言いたげだ。

 

 「透明人間なのにですか?」

 

 「学費は払ってるんだから、もったいないじゃない」

 

 ごもっともな意見が返ってくる。

 

 それがあまりに普通で、俺は逆に息を詰めた。

 

 (……普通に、大学に通ってるのか)

 

 普通に講義を受けて、普通に課題を出して、普通に単位を取って。周りに認識されないまま。

 

 それは、想像しただけで気が遠くなる孤独だ。

 

 「もしかして……今までも、毎日授業に出てたんですか」

 

 「なに、その質問」

 

 岩見沢先輩は軽く眉を上げる。

 

 「当たり前じゃない」

 

 「……誰にも、見られないのにですか?」

 

 言ってから、自分で嫌になる。失礼だ。

 

 「見られないから何?」

 

 岩見沢先輩の声は、少しだけ温度が下がった。

 

 「わたしは、わたしの時間を生きてるだけ」

 

 その言葉が、胸の奥に沈む。

 

 俺が普段、観察だの記録だの言って距離を保っているのとは、種類が違う。

 

 この人は、距離を保っているんじゃなくて、距離を奪われたまま歩いてる。

 

 「……すみません」

 

 「別に。謝られても困る」

 

 そう言いながらも、岩見沢先輩は少しだけ表情を緩めた。

 

 「でもまあ……君がそう思うのも分かる。普通じゃないもの」

 

 普通じゃない。

 

 その言葉が、俺の中の別の疑問に繋がる。

 

 (じゃあ、霧島透子って……何なんだ)

 

 思春期症候群が絡んでいる。噂の拡散も、夢が現実になるという性質も。

 

 それでも、“本人”が見えない。

 

 (岩見沢先輩は見える。でも、霧島透子は……)

 

 考えが深くなる前に、岩見沢先輩が不意に言った。

 

 「そうだ、岸和田くん」

 

 「……なんですか」

 

 「一月三十日は空けておいて」

 

 言い方が、命令に近い。俺は反射的に、予定を頭の中で探す。

 

 「……一月三十日?」

 

 「そう」

 

 「何かあるんですか」

 

 「あるに決まってるでしょ。デート」

 

 「……は?」

 

 言葉が、間抜けな音になって出た。

 

 岩見沢先輩は、何でもないことみたいに続ける。

 

 「梓川くんと一緒に、デートしてあげる」

 

 「……いや、まず、意味が分かりません」

 

 「意味はあるでしょ。わたしが見えるようになった記念」

 

 「記念って……」

 

 「そういうの、好きでしょ?君たち」

 

 君たちの括りが雑すぎて、俺は思わず顔をしかめた。

 

 「……咲太は、知ってるんですか」

 

 「まだ。これから言う」

 

 さらっと言う。さらっと言いすぎる。

 

 (咲太、胃に穴空くぞ)

 

 「いや、ていうか……俺、関係なくないですか」

 

 「関係ある。だって、わたしが見えたんでしょ?」

 

 「……まあ、見えましたけど」

 

 「じゃあ、関係ある」

 

 論理が雑だ。

 

 でも、彼女はそれを押し通すだけの圧を、平然と持っている。

 

 「そもそも、『デートしてあげる』って何ですか」

 

 「言葉通り」

 

 「……上から目線すぎませんか?」

 

 「上からでいいじゃない。わたし、透明人間なんだから」

 

 意味が分からない理屈で殴ってくる。

 

 俺はもう、笑うしかない。

 

 「……いや、困ります」

 

 「困らせてるの。わざと」

 

 「……」

 

 この人、本当に容赦がない。

 

 けれど、その容赦のなさの裏に、変に湿ったものがない。

 

 だから余計に、振り回される。

 

 「予定があるかもしれないです」

 

 「ないでしょ」

 

 即答だった。

 

 「いや、ありますよ。バイトとか……」

 

 「調整しなさい」

 

 「……俺に拒否権は?」

 

 「あるよ?」

 

 少しだけ、彼女の口元が笑う。

 

 「でも、拒否したら君のこと、もっと困らせる」

 

 脅しじゃない。確信だ。

 

 (この人、絶対やるタイプだ)

 

 俺は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

 「……ちなみに、どこ行くとか決まってるんですか」

 

 仕方なく聞くと、岩見沢先輩は少しだけ楽しそうに言った。

 

 「まだ。わたしが当日考えるから」

 

 「は?」

 

 「デートコース。あと車運転してもらうから、そのつもりで」

 

 「いやいや、なんで俺が……」

 

 「だって君、免許持ってるんでしょ?」

 

 どこまで見られているんだ。

 

 俺が黙ると、岩見沢先輩は一歩だけ近づいてきた。

 

 距離が詰まる。香りは、甘すぎない柔軟剤みたいな匂い。

 

 それが妙に生々しくて、俺は反射的に体を引いた。

 

 「……そんなに怖がらなくてもいいじゃない」

 

 「怖がってません」

 

 「嘘。今、目が泳いだ」

 

 「……」

 

 図星だった。

 

 「安心して。君が思ってるような意味じゃないから」

 

 その一言が、逆に引っかかった。

 

 (思ってるような意味……?)

 

 俺が何を想像してると思ってるんだ。

 

 いや、想像してない……と言い切れるほど、俺の心は綺麗でもなかった。

 

 「じゃ、決まりね」

 

 岩見沢先輩は結論を勝手に置く。

 

 「楽しみにしといて、岸和田くん」

 

 そう言って、彼女は研究棟の方へ歩き出す。

 

 「ちょ、待ってください」

 

 呼び止めようとした俺の声は、途中で空気に溶けた。

 

 彼女は振り返りもしない。ただ、歩いていく。

 

 その後ろ姿は、キャンパス内の風景によく馴染んでいた。

 

 他の学生には見えてないことを除けば、いたって普通の大学生がそこにはいた。

 

 (……岩見沢寧々)

 

 名前を頭の中で転がす。

 

 でも、目の前の彼女を見た今、確信は強くなる。

 

 (やっぱり違う)

 

 霧島透子は、もっと遠く感じる。

 

 この人は遠くない。

 

 近い。触れそうで、触れられない。そういう近さだ。

 

 スマホを取り出す。

 

 予定表を見る。

 

 一月三十日は、今のところ空欄だった。

 

 空欄なだけで、埋めたいわけじゃない。

 

 (咲太に言うべきか……いや、言ったら絶対面倒くさい)

 

 でも、言わない方がもっと面倒になる未来も見える。

 

 そして、もう一つ。

 

 (デートって何だよ)

 

 岩見沢寧々に振り回されるのは、まだいい。

 

 問題は……

 

 (#夢見るの核心に、俺が勝手に引きずり込まれていく感じがする)

 

 胸の奥の重さが、また少しだけ姿勢を変えた。

 

 嫌な予感は、たいてい当たる。そういう世界で、俺は生きてきたのだから。

 

 その後。お昼時の学食は、春休み前特有のゆるい空気に包まれていた。

 

 いつもなら三人で座ることの多いテーブルに、今日は二人分のトレーしか並んでいない。

 

 卯月は今日もソロライブの打ち合わせで大学に来ていないらしい。

 

 「卯月、忙しいな」

 

 俺が何気なく言うと、のどかはストローをくわえたまま頷いた。

 

 「うん。最近ほぼ毎日だよ。帰りも遅いし」

 

 その言い方は、心配と誇らしさが半分ずつ混ざっている。

 

 「そっか」

 

 俺はそれ以上言わなかった。

 

 のどかが俺を見る。

 

 「ねえ、あたし、四限までいるけど、蓮真は?」

 

 「俺?俺も四限まで国際商学部の授業あるけど」

 

 「じゃあさ、一緒に帰らない?」

 

 軽い調子だった。でも、その軽さが逆に意識を引き寄せる。

 

 「ああ、いいよ」

 

 そう答えると、のどかは小さく笑った。それだけで、胸の奥がわずかに揺れる。

 

 四限までの時間は、妙に長く感じた。

 

 講義の内容は頭に入っているはずなのに、意識はどこか上滑りしている。

 

 「待ってる」

 

 昨日、安濃さんに言われた言葉が、何度も浮かんでは沈んだ。

 

 授業が終わり、キャンパスを出る。

 

 金沢八景駅へ向かう道は、夕方の光に包まれていた。

 

 少し冷たい風が吹く。

 

 「ねえ、蓮真」

 

 のどかが、歩幅を少しだけ合わせながら言った。

 

 「ん?」

 

 「あたし、教職取ろうと思うんだ」

 

 思わず足が止まりそうになる。

 

 「……のどかが?」

 

 「うん」

 

 迷いはない。

 

 「のどかって、卯月みたいにずっとアイドル続けたいのかと思ってた」

 

 率直な感想だった。

 

 のどかは少しだけ笑う。

 

 「卯月みたいにソロデビューしたり、雑誌で表紙飾ったりしてるわけじゃないし」

 

 「……」

 

 「お母さんからも勧められてるしね。うちのお母さん、先生だったから」

 

 「それに?」

 

 のどかは一瞬だけ視線を落とした。

 

 「……もしスイートバレットが解散しても、大丈夫なように」

 

 風が、ほんの少し強く吹いた。

 

 「それは、ファンとしてはあってほしくないけどな」

 

 俺は、冗談めかして言う。のどかは肩をすくめる。

 

 「わかってる。でもさ、現実的でしょ、あたし」

 

 その笑顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。

 

 金沢八景駅のホームに降りる。

 

 夕方の電車待ちの時間帯で、人は多い。でも、奥のベンチは空いていた。

 

 二人で腰を下ろす。少しだけ距離が近い。

 

 「そうだ、蓮真」

 

 のどかが、ふと思い出したように言う。

 

 「今度のライブで歌う、『最終バスと砂時計』の音源、聴いてくれない?」

 

 「いいけど……なんで俺なんだ?」

 

 のどかは、いたずらっぽく笑う。

 

 「だって蓮真、歌得意でしょ」

 

 「……それは関係あるのか」

 

 「あるの」

 

 断言だった。

 

 のどかはワイヤレスイヤホンをケースから取り出し、片方を俺に差し出す。それは卯月がCMに出ているメーカーのものだった。

 

 「右、いい?」

 

 「どっちでも」

 

 「じゃあ、右」

 

 指先が、ほんの少し触れる。それだけで、鼓動が一拍、早くなる。

 

 音楽が流れ出す。最初のギターの音が、やわらかく耳に入る。

 

 >最終バス 走ってゆく いつもの道

 

 ホームの向こう側を、ちょうど電車が通過していく。

 

 タイミングが悪いのか、良いのか分からない。

 

 >いつもと同じ場所で 待っててね

 

 その歌詞が、真っ直ぐに刺さる。待っててね。

 

 昨日、安濃さんに言われた。

 

 「二人とも、待ってる」

 

 >あなたの瞳に映る わたしを見てた

 

 イヤホンの向こうで歌うのは、まだレコーディングの仮音源の声。

 

 でも、その歌詞を歌うのは、目の前に座っているのどかだ。

 

 俺は横目で彼女を見る。

 

 のどかは、前を向いたまま、ほんの少しだけ緊張した顔をしている。

 

 >倒れた砂時計は そのままにしとこうよ

 

 時間を、直さない。倒れたままにしておく。

 

 俺の胸の奥に、ずっと倒れたままの砂時計がある。

 

 あのループの時間。選ばなかった可能性。止まったままの記憶。

 

 >ふたり何年先もこうやって愛を歌おう

 

 歌詞が進むたびに、逃げ道が消えていく。

 

 >描いた未来と違ったって良い

 

 未来。

 

 教職を取ると言った、さっきののどかの言葉が重なる。

 

 >ふたりなら 大丈夫さ!

 

 大丈夫。

 

 その言葉を、俺は何度、自分に言い聞かせてきただろう。

 

 >笑い飛ばす勇気 あなたが教えてくれた

 

 のどかは、俺に何を教わったつもりなんだ。俺は、まだ何も選んでいないのに。

 

 >こうして二人は一つになるのよベイベー

 

 そのフレーズで、呼吸が一瞬止まる。

 

 二人は一つになる。そんな未来を、のどかは、当たり前みたいに歌う。

 

 イヤホン越しの音が、妙に近い。

 

 のどかの肩が、ほんの少しだけ触れている。

 

 >聞いてほしい話がたくさんあるの 驚かないで

 

 胸が締め付けられる。

 

 聞いてほしい話。それは俺にも、ある。

 

 でも、言えない。

 

 >少しずつ近づいてくこの距離

 

 物理的な距離と、感情の距離が、同時に縮んでいく。

 

 逃げたい、と思うのに、逃げたくない。

 

 曲が終わる。

 

 イヤホンの中に、わずかな余韻だけが残る。

 

 ホームの奥のベンチ。

 

 のどかのイヤホンの片耳を返して、俺はまだ余韻の中にいた。

 

 刺さった歌詞が、喉の奥にひっかかっている。言葉にすると壊れそうで、黙って飲み込むしかなかった。

 

 そこへ、足音が近づく。咲太だった。

 

 咲太が、何も言わずに隣に座った。

 

 (……来た)

 

 咲太がのどかを見る。

 

 同じ身内でも、咲太に向ける顔と、俺に向ける顔は違う。

 

 咲太には、遠慮のない乱暴さがある。義理の兄みたいな距離。

 

 俺には、どこか間がある。軽いのに、慎重な間。

 

 それが嬉しいのか、怖いのか、今は判別できない。

 

 「なあ、豊浜、岸和田」

 

 咲太が低い声で呼ぶ。

 

 「音楽聴いてたの、見てわかんない?」

 

 文句を言いながらものどかはイヤホンを外して、咲太の方を向いた。

 

 俺は何も言わず、ただ目線だけを二人に向ける。

 

 聞く役に徹する。いつも通り。たぶん。

 

 「で、なに?」

 

 「もし、明日から、今一番人気のあるアイドルが、うちの大学に通い出したらどう思う?」

 

 のどかは肩をすくめる。

 

 「そんなの、そんときになってみないとわかんない」

 

 なんとものどからしい答えだ。

 

 「ま、そうだよな」

 

 「とりあえず、うれしくはないんじゃない」

 

 のどかの声が、少しだけ乾く。

 

 「あたしが気にしなくても、周りは『アイドル』ってくくりで、あたしと比べるだろうし」

 

 「心の中では半笑いしながら、豊浜のことをかわいそうって目で見るよな」

 

 「喧嘩売ってんの?」

 

 「大丈夫、豊浜にもいいところあるって」

 

 「勝手に仮定の話持ち出して、慰めんな!」

 

 一瞬でのどかが燃える。でも、その火は長く続かない。

 

 「はぁ」

 

 疲れたみたいに息を落として、のどかはふっと目線を逸らした。

 

 「今のって、お姉ちゃんの話?」

 

 「豊浜、よくわかったな」

 

 「咲太って基本お姉ちゃんじゃん」

 

 向かいのホームを見たまま、のどかが瞬きをする。長いまつ毛が、いつもよりゆっくり動く。

 

 「まあ、そうだな」

 

 「で、なに?お姉ちゃんが悪いみたいな話がしたいわけ?」

 

 横目でじろり。

 

 咲太に向けるこの刺さる視線は、俺に向けられたことがない。それが、分かってしまう。

 

 「そんな話、僕がすると思うか?」

 

 「そういう風にも聞こえたんだけど?」

 

 不機嫌。隠してない。咲太は少し考えてから、言葉を選ぶみたいに続けた。

 

 「麻衣さんって、まあ、バカみたいな言い方をすると、やっぱり特別だろ?みんなから知られてて、人気もあって、いるだけで周りに影響があるっていうか」

 

 「………」

 

 のどかが、少し驚いた顔をした。目をぱちくりさせて、咲太を見る。

 

 「豊浜、その顔はなんだ?」

 

 「咲太もお姉ちゃんのこと、ちゃんと特別だと思ってたんだ。平気な顔して付き合ってるから、全然気づいてないんだと思ってた」

 

 「もちろん、僕にとって麻衣さんは特別な人だよ」

 

 「そういうウザいのはいい」

 

 のどかがばっさり切る。視線が正面に戻る。

 

 向かいのホームに、学生が少し増えていた。

 

 俺は、彼らの誰もこの会話を知らないことに、妙な安心を覚えてしまう。

 

 「でも、咲太の言いたいことはだいたいわかった」

 

 「ほんとか?」

 

 「そういう子、大学に入りたての頃、何人か見かけたし」

 

 「どういう子だよ」

 

 「高校までは、たぶん学校で一番の美人だった子。でも、大学に入ったらお姉ちゃんがいて、自分のキャラとか、立ち位置とか、価値とか、全部わかんなくなって自分を見失ってる子」

 

 咲太が説明したわけでもないのに、のどかは核心を掴む。

 

 それが、アイドルという評価の世界に長くいる人間の解像度なんだろう。

 

 「なんで、意外って顔してんの?」

 

 「そりゃあ、意外だから」

 

 「キャラとか、立ち位置とか、そういうのが集まった世界にあたしはいんの。アイドルなめんな」

 

 のどかが軽く咲太を蹴る。

 

 「アイドルがファンを蹴るな」

 

 「蓮真と違って、ろくにライブこないくせにファンを名乗んな」

 

 「武道館が決まったら見に行くよ」

 

 「咲太は招待しないから、チケットは自分で買ってね」

 

 「いいよ、づっきーに頼むから」

 

 その返しで、空気が一段冷える。

 

 隣から、はっきりイラっが伝わってきた。

 

 のどかは立ち上がり、ためらいなくローキック。

 

 「あだっ!」

 

 パンッ、といい音。蹴りが綺麗すぎて怖い。

 

 「どこで覚えたその見事な蹴り………」

 

 「今、体力づくりで、キックボクシング習ってんの」

 

 のどかが見せつけるように構える。様になっている。

 

 (……俺には向けないでくれよ)

 

 心の中で祈ったけど、口にはしない。

 

 こういう冗談は、咲太に任せておけばいい。

 

 「豊浜が言う、『そういう子』って、今はどうしてるんだ?」

 

 咲太が脹脛をさすりながら、話を戻す。

 

 「一年も経つし、もう落ち着いてるんじゃない?」

 

 興味なさそうにのどかはベンチに座り直す。

 

 「まあ、そうだよな」

 

 「乗り越えたのか、諦めたのか、新しい価値観が見つかったのかは知らないけどさ」

 

 一年近い時間があれば、人は形だけでも折り合いをつける。

 

 「豊浜は?」

 

 「あたし?」

 

 「麻衣さん被害者の会の会長だろ?」

 

 「変な会、作んな」

 

 肩にパンチ。

 

 事件を起こす前に、キックボクシングはやめさせた方がいいかもしれない。

 

 「豊浜こそ、麻衣さんの影響受けまくったひとりだろ?」

 

 高校二年の秋。

 

 麻衣先輩の存在が引き金になって、のどかは最初の思春期症候群に落ちた。

 

 のどかの唇が、いったん止まる。それから、ゆっくり開いた。

 

 「お姉ちゃんは遠いなって思ってる」

 

 向かいのホームを真っ直ぐ見ながら、独り言みたいに呟く。

 

 「全力でがんばっても、全然追いつかなくて。お姉ちゃんがどんな景色を見てるのか、あたしには今もわかんない。主演したドラマとか、映画とか、ヒットするのは当たり前で、コケたら全部お姉ちゃんのせいにされて、それでも文句のひとつも言わないんだよ?それって、どんな気持ちなのか、あたしにはやっぱりわかりっこない」

 

 遠い、というのは、背中の大きさのことじゃない。

 

 見ている景色が違う、ということだ。

 

 (……のどかの遠いは、俺の刺さったままの歌詞と同じ場所にあるのかな)

 

 言葉にしないまま、俺はただ、息をする。

 

 「だからさ、咲太」

 

 のどかが最後に、咲太を見る。真っ直ぐで、真剣な目。

 

 「ん?」

 

 「咲太はお姉ちゃんの味方でいてよ」

 

 たぶん、咲太の質問の答えじゃない。でも、咲太に必要な言葉だ。

 

 ホームに電車が入ってくる。羽田空港行きの急行。

 

 俺たちが横浜まで乗るやつ。

 

 「わかってる」

 

 咲太が立ち上がる。

 

 その瞬間、のどかの視線が、ほんの一拍だけ俺に流れた。

 

 何か言いたいのか、言いたくないのか分からない目。

 

 俺は結局、何も言わない。

 

 言葉を出したら、さっき聴いた曲みたいに、全部“現実”になってしまう気がしたから。

 

 ただ、胸の奥でひとつだけ思う。

 

 (咲太は義理の兄みたいなもんで、俺は……)

 

 続きの言葉が、出てこない。

 

 俺は少し離れたところで、咲太を見送る。

 

 片耳イヤホンが残した熱だけが、まだ耳の奥に残っていた。

 

 咲太は、電車のドアが開くタイミングで一歩前に出た。

 

 そのまま乗り込むかと思ったのに、ふと振り返って、俺の方を見た。

 

 「……悪いな、岸和田。邪魔して」

 

 邪魔、という言い方は雑だ。でも咲太なりに、空気を読んだ言葉なんだろう。

 

 「大丈夫だよ」

 

 短く返すと、咲太は小さく頷いた。

 

 「明日、話したいことがある。学食、どうだ?」

 

 (……岩見沢寧々のことだろうな)

 

 口には出さない。出したら、また面倒が増える。

 

 「分かった」

 

 それだけ言うと、咲太はようやく電車に乗り込んだ。

 

 ドアが閉まる直前、咲太はもう一度だけこっちを見た気がした。

 

 そして電車は、何事もなかったみたいに走り出す。

 

 ホームに残ったのは、俺とのどかだけだった。

 

 さっきまでの会話の熱が、レールの向こうに置き去りにされて、代わりに冷たい空気が戻ってくる。

 

 のどかは、俺の方を見て、少しだけ眉を下げた。

 

 「……さっきの、やりすぎたかな?」

 

 ローキックのことだろう。

 

 「いや、全然」

 

 俺が即答すると、のどかはほっとしたみたいに息を吐いて、視線を落とした。

 

 「……あいつ、痛そうだったし」

 

 「あれは咲太が悪い」

 

 「それはそうだな」

 

 のどかは小さく笑って、でもすぐ真顔に戻る。

 

 それが、アイドルの顔じゃなくて、いつもの普通の女の子の顔だった。

 

 俺は、胸の奥で小さく思ってしまう。

 

 (やっぱり、咲太と俺で態度が違う)

 

 咲太には、噛みついてもいい距離感。

 

 俺には、ひと呼吸置く距離感。

 

 それが、のどかにとって俺は……に繋がりそうで、俺はそこで考えるのをやめた。

 

 のどかが、ワイヤレスイヤホンのケースを握り直す。そして俺の方を見て、ゆっくり口を開いた。

 

 「……ねえ、蓮真」

 

 「ん?」

 

 俺は冗談めかしたつもりで、でも、声は少しだけ本気で言った。

 

 「俺にはローキックしないでくれよ」

 

 のどかは一瞬だけきょとんとして、それから呆れたみたいに目を細める。

 

 「分かってる」

 

 即答。それから、少しだけ声を落として、言い直すみたいに続けた。

 

 「……蓮真にはしないよ」

 

 その言い方が、妙に優しい。

 

 胸の奥が、きゅっと鳴る。

 

 (そういうのが、ずるいんだよ)

 

 言えないから、俺は目線を向かいのホームに逃がした。

 

 帰りの電車を待つ学生が、さっきより増えている。

 

 誰も俺たちの会話なんて聞いていない。

 

 でも、俺だけはこの時間をちゃんと現実として覚えてしまう。

 

 のどかが、ゆっくり口を開いた。

 

 「あのさ、蓮真」

 

 「何?」

 

 「……あたしさ、さっき、咲太はお姉ちゃんの味方でいてよって言ったじゃん」

 

 「ああ」

 

 のどかは、少しだけ唇を噛んだ。

 

 迷っている。言葉を選んでいる。

 

 「でも咲太ってさ、お姉ちゃんのためなら、自分を投げ出しそうじゃん」

 

 「そうだな」

 

 咲太は、そういうところがある。

 

 自分が傷つくことを、どこか当たり前みたいに引き受ける。

 

 だから麻衣先輩は、咲太のそういうところに救われて、同時に苦しむ。

 

 のどかは、そこまで言葉にしない。でも、分かっている顔だった。

 

 のどかが、俺の方を見た。

 

 視線が、逃げない。まっすぐで、怖いくらいまっすぐ。

 

 「だからさ、蓮真はさ」

 

 言いかけて、のどかは一度だけ息を吸った。

 

 「蓮真は、お姉ちゃんと咲太の味方でいてよ」

 

 その言葉は、お願いというより、祈りに近かった。

 

 俺は、すぐに答えた。

 

 「ああ、分かってるよ」  

 

 分かってる。味方でいる。

 

 その言葉は、俺の得意分野のはずだった。

 

 誰かのために、横に立って、見守る。

 

 踏み込みすぎず、離れすぎず、壊さない距離で。

 

 でも。のどかがそこで終わらなかった。

 

 ほんの数秒。電車の風切り音だけが、ホームの空白を埋めた。

 

 のどかは、俺の袖のあたりを、指先でちょん、と触れる。

 

 触れたというより、“確かめたい”みたいな動き。

 

 「あのさ、蓮真」

 

 「ん?」

 

 のどかは、言葉を探している。

 

 顔が少しだけ赤い。寒さのせいじゃない赤さ。

 

 「あたし……」

 

 その一言が落ちた瞬間、心臓が一拍だけ跳ねた。

 

 (来る)

 

 分かる。今、のどかが言おうとしている言葉を、俺は分かってしまう。

 

 分かってしまうから、怖い。のどかの喉が、小さく動く。

 

 「……」

 

 でも、続かない。

 

 のどかは目線を逸らして、笑ってしまう。

 

 誤魔化す笑い。自分を守る笑い。

 

 「……ううん、なんでもない」

 

 言い終えて、のどかはワイヤレスイヤホンのケースをぎゅっと握った。

 

 さっきまでの強さじゃなくて、逃げるための強さ。

 

 俺は、何も言えなかった。

 

 「なんでもない」の後に、言える言葉が見つからなかった。

 

 「言って」も、言えない。

 

 「言わなくていい」も、言えない。

 

 のどかが引っ込めたものを、俺が勝手に引っ張り出す権利はない。

 

 でも、引っ込めさせたままにするのは、もっと残酷な気がした。

 

 ホームに、次の電車が入ってくるアナウンスが流れる。

 

 のどかは、何もなかったみたいに立ち上がる。

 

 「……帰ろ」

 

 「……ああ」

 

 並んで歩き出す。

 

 距離は近いのに、触れられない。触れたら、全部現実になってしまう。

 

 さっき聴いた歌詞みたいに。

 

 倒れた砂時計を、そのままにして。

 

 “待っててね”を、聞こえなかったことにして。

 

 俺は、胸の奥で一つだけ思う。

 

 (俺は、味方でいられるのか)

 

 麻衣先輩と咲太の味方で。

 

 そして……のどかの味方で。

 

 どれも守ろうとして、結局どれも守れない未来が、いちばん怖かった。

 




物語解説

この章では、「選ばないこと」の居心地の良さと、その残酷さを描きました。

倒れた砂時計をそのままにしておけば、時間は止まったままのように見えます。

けれど、本当に止まっているのは時間ではなく、自分の覚悟なのかもしれません。

のどかの「待っててね」。

卯月の「また」。

岩見沢寧々の「デートしてあげる」。

どの言葉も軽やかに響きます。

でも、その奥には確かな重さがあります。

蓮真は、まだ選んでいません。

けれど、選ばないままでいられる時間は、もう長くない。

少しずつ、足音が近づいています。

その気配を、読んでくださった皆さんにも感じてもらえていたら嬉しいです。

次回も、ぜひお楽しみください。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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