青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
一月十七日
二限の英語の授業が終わった瞬間、教室の空気が一斉に緩んだ。
後期最後の通常授業。
来週は補講期間だが、実質、今日が一区切りだ。
椅子を引く音。鞄のファスナーの音。「春休みどうする?」という浮ついた声。
終わる、という感覚はいつだって少し怖い。
終わったあとに残るものの方が、たいてい重いからだ。
廊下に出ると、壁にもたれている男がいた。
「遅かったな岸和田」
「二限終わったばっかだろ」
「腹減ったな。学食行くか」
「ああ」
梓川咲太。
いつも通りの顔。でも、目だけが少し真面目だった。
学食は昼のピークを過ぎたところで、ほどよい混雑だった。
トレーを持って並ぶ間も、咲太は特に話を振らない。
席に着いて、箸を割る音がやけに響いた。
そして、何気ない口調で言う。
「お前、昨日霧島さんに会ったんだろ?」
逃がさない目だった。
「ああ、会ったよ」
「何言われた」
「一月三十日、デートしろって」
咲太の動きが止まる。
「……僕もいるのに?」
「梓川くんと一緒に、だと」
「で、受けたんだろ?」
「しょうがないだろ。拒否したら、もっと面倒くさい未来が見えた」
岩見沢寧々の目を思い出す。
あれは拒否という選択肢を最初から想定していない目だ。
咲太は小さく息を吐いた。
「本当、岸和田真面目だな」
「そういう咲太は素直に返事したんだろ?麻衣先輩がいるのに」
「それ、お前が言うか?」
一拍の間。
「……のどかと卯月のことだろ?」
言葉にした瞬間、胸の奥がひりつく。
「お前、漸く自覚したのかよ」
「……自覚もなにもねぇよ」
「麻衣さんと花楓から聞いたけど、お前、二人にプレゼント買ったんだろ?」
「……その話はもういい」
「モテ男だなあ岸和田は」
「うるさいな」
軽口で終わるはずだった。でも、咲太は箸を置いた。真顔になる。
「クリスマスイブの夢の話、覚えてるか?」
空気が変わる。
「ああ」
「僕は見た」
「……」
「でも、麻衣さんは見てない」
咲太は視線を落とす。重い。
「俺も見てない」
自然に出た。咲太は頷く。
「そうだ。岸和田も見てない」
学食の喧騒が遠くなる。
「岸和田、一つ仮説があるんだ。聞いてもらっていいか?」
「……何だよ仮説って?」
「夢を見なかった人間は、思春期症候群を発症している可能性がある」
俺は黙る。
「根拠は?」
「霧島透子は、今、周りから見えなくなっているわけだし、発症しているだろ」
「そうだな」
「それと、二月四日、麻衣さんが一日警察署長をやる」
「ああ、麻衣先輩のインスタとホームページで見たよ」
「……その日に合わせて、#夢見るの投稿がまた増えてる」
なるほど。そこまでは分かる。だが咲太は続けた。
「……無いとは思うけど」
一瞬だけ躊躇。
「もし麻衣さんが、本当に霧島透子だったら?」
心臓が跳ねる。
「思春期症候群に罹っていて、自覚していないって可能性もゼロじゃない」
俺は即座に否定する。
「それは違う」
「根拠は?」
根拠。言葉が詰まる。
論理ではない。もっと、別のところだ。
記憶の底で、何かが引っかかる。
あの感触。あの匂い。あの空気。
でも思い出せない、掴めない。ただ分かる。
「……分からん。でも違う」
咲太は目を細める。
「直感か?」
「多分な」
岩見沢寧々の笑い方。
声の温度は、どこか、薄い。
違和感がある。
あれは霧島透子じゃない。
俺は理由を言えない。でも、体が拒絶している。
「麻衣先輩が霧島透子なわけない」
咲太は少しだけ笑う。
「僕もそう思う。麻衣さんは嘘をつくなら、あんな曖昧な否定はしない」
成人式での立ち姿を思い出す。あれは逃げではなかった。
「確かにな。でも」
俺は咲太の仮説を補足するように続ける。
「自覚していないなら、否定も本心になる。だから麻衣先輩が夢を見てないことが、引っかかるんだろ、咲太は」
「ああ、そうだ」
「それでも違うとは思う」
違う。
俺は“本物”を、どこかで知っている。
自覚はない、覚えてもいない。
でも。
今、霧島透子を名乗っている岩見沢寧々を、俺は直感的に偽物だと思っている。
理由は分からない。ただ、違う。
咲太は黙る。そして、咲太の視線が刺さる。
「岸和田」
「なんだよ」
「お前もさ、何かあるんだろ」
逃げられない。
喉が乾く。
話せば、観察者ではいられなくなる。
のどかにも卯月にも話していない。
言葉にした瞬間、過去が確定する。
でも、ここで黙るのは、卑怯だ。
咲太は、踏み込んでくる。
俺は、いつも一歩引いてきた。
でも、今は。
「……咲太」
「俺、中学の時にループを経験した」
空気が止まる。
「選ばなかった行動が、後の現実に干渉する。しかも、自分だけがそれを知っている状態でな」
「……それってタイムループってやつか?」
冗談半分。でも目は笑っていない。
「簡単に言えばな。でも実際はもっと厄介だ」
喉が苦しい。あの三月、終わらない三十一日。
終わらない繰り返しに、息が詰まる。
「例えば一回目でBを選んだとする。でも二回目でAを選ぶと、Bの世界の俺が、Aの世界の俺の判断を乱しにくる」
「可能性同士がぶつかるってことか?」
「そうだ。干渉して、安定できなくて、また同じ月を繰り返す」
あの息苦しさ。出口のない感覚。
「何度も?」
「ああ」
「……どうやって止まったんだ?」
「選ばなかった過去を、受け入れた」
自殺未遂のことは言わない。
嘘ではない。でも全部でもない。
「後悔は消えなかった。でも干渉は止まった。ただ、思春期症候群を部分的に抱えたままになった」
「無理やり抑え込んだ後遺症か」
「ああ」
沈黙。咲太は腕を組む。
「……だからか」
「何が」
「岸和田は、他人の思春期症候群を感知できるんだろ?」
心臓が跳ねる。
「……」
「広川さんや赤城、姫路さんの違和感、そして霧島透子の異常。お前、最初に気づくこと多いだろ」
図星だ。
「ああ……多分、自分が抱えてるから、波長が分かるんだと思う」
咲太はしばらく黙っていた。やがて、小さく笑う。
「……そりゃあ、黙ってたくなるよな」
「信じるのか?」
「お前が冗談で言う顔じゃない」
即答だった。
「豊浜と広川さんには?」
「話してない」
「なんでだ?」
「……余計な心配かけたくない」
咲太は頷く。
「それって二人とも大切だからか?」
「そりゃあそうだろ」
「お前、そっくりだな」
「誰に」
「豊浜と広川さんに」
咲太は続ける。
「豊浜は広川さんと喧嘩した時、お前に心配かけたくないって言って、僕に相談してきた」
胸が重い。
「広川さんも、武道館の夢を諦めかけた時、お前には中々話そうとしなかった」
俺は言葉を失う。
「守る側のつもりで抱え込む。みんな同じだな」
咲太は静かに言う。
「岸和田」
「……なんだ」
「お前まだ、自分が観察者だと思ってんのか?」
観察者。横に立つ人間。記録する人間。
でも。
のどかの「なんでもない」。
卯月のイヤーマフ。
安濃さんの「待ってる」。
それを知っていて。俺はまだ外側にいるのか?
胸の奥で何かが音を立てる。
「……確かに」
息が重い。
「俺も当事者だもんな」
言葉にすると、逃げ場が消える。咲太は頷く。
「そうだな」
学食のざわめきが戻る。
でも俺の中では、はっきりした。
夢を見なかった。それは偶然じゃない。
俺も。麻衣先輩も。霧島透子も。
揺れている。
そして俺は、観察者ではなく。選ぶ側に立っている。
逃げ続けることは、もうできない。咲太が最後に言った。
「岸和田」
「なんだよ」
「お前が当事者なら、僕は味方でいるよ」
軽い口調だった。でも、それだけで十分だった。
俺は小さく笑った。
「……悪いな」
「今さらだろ、介添え人」
窓から冬の光が差し込む。
俺はもう、観察者ではいられない。
当事者として、前に進むしかない。
そして心のどこかで、分かっている。
本物の霧島透子を、俺は知っている。
覚えていないのに。
だからこそ、今そこにいる“霧島透子”が違うと、分かる。
それが、俺の後遺症なのかもしれない。
一月十九日
三限の中国語の教室は、冬の午後にしては妙に明るかった。
窓から入る光が白くて、机の上のノートの罫線だけがやけにくっきり見える。暖房は効いているはずなのに、足先だけが冷たい。そういう中途半端な季節の境目みたいな空気。
俺はいつも通り、教室の後ろ寄りの席に座った。
少し遅れて、隣の列に福山が入ってくる。視線が合って、軽く顎を上げるだけの挨拶。
授業が始まると、先生は容赦なく発音を当ててくる。
「次、岸和田くん」
「……はい」
口を開いた瞬間、舌の位置がどこかずれてる気がして、変な音が出た。自分でも分かるくらいに情けない発音。
笑い声が起こる、ほどじゃない。みんな、春休み目前で、他人の発音に興味がない。
救われたような、置いていかれたような。
授業はそのまま、淡々と進んだ。
単語、例文、板書、復唱。
言語の授業は、感情を挟む余地が少ない。だからたまに、安心する。
授業が終わる。
椅子が引かれる音が重なって、教室の空気が一気に崩れる。みんな、スマホを見ながら立ち上がっていく。
福山が、隣の列から俺の方へ寄ってきた。
「なあ、岸和田」
「ん?」
「春休み、何するんだ?」
唐突な質問だった。でも、妙に春休みらしい問いでもある。
「特に決まってないよ。まぁ藤沢でゆっくり過ごしてもいいし、東京の実家に戻るでもいいかもな」
福山は「なるほどな」と頷いてから、すぐに別の疑問を投げてくる。
「ていうか、なんで実家が東京にあるのに藤沢住んでるんだっけ? 梓川とも同じ高校だし、いつから住んでるんだ?」
聞き方が雑で、でも悪意はない。
福山はこういう時、遠慮を挟まない。そこが楽でもあるし、たまに怖くもある。
「高校の時からだよ」
「結構前からだな。理由は?」
俺は、一瞬だけ言葉を選んだ。
昔色々あって、は便利な言い方だ。便利すぎて、本当のところを自分で見失いそうになる。
「昔色々あってさ。東京より、海が近くて落ち着く藤沢、湘南の方が落ち着くんだよ」
福山は「へえ」と言って、少しだけ目を細めた。
「俺の中学の友達にもいたなあ、東京からの転校生」
「へえ、そうなのか」
言葉は軽いのに、胸の奥に小さい引っ掛かりが残る。
転校。
選ばなかった可能性。
選び直した時間。
そんな単語が、最近やけに刺さる。
福山は俺の反応を気にした様子もなく、肩を回してから続けた。
「そういえばさ」
「ん?」
「福山って北海道出身だろ? なんで横浜の大学選んだんだ?」
首都圏に出てくるなら、他にも選択肢はいくらでもある。
わざわざ横浜市内にある市立大学を選んだのには、明確な理由があってもおかしくない。
福山は「あー……」と声を伸ばしながら、顎に手を当てた。
そのまま、数秒黙る。
冗談で溜めてるのかと思ったけど、顔が違った。
笑う前の顔じゃない。
眉根を寄せて、どこか遠くを見るみたいに考え込んでいる。
「……そういや、俺ってなんでこの大学を受験したんだっけ?」
「は?」
声が間抜けに出た。
冗談だと思って福山の顔を見たら、本当に困っていた。困ってるというより、“探してる”に近い。
「なあ、福山」
「ん?」
「大丈夫か?」
福山は一度まばたきをして、苦笑いみたいな表情になる。
「ああ。なんか、前も同じこと梓川から聞かれてさ」
その一言で、背中に冷たいものが走った。
「……咲太に?」
「そう。『なんでうちの大学選んだんだ?』って」
福山は軽く笑って誤魔化す。でも、その笑いがうまくない。
「そのときも答えられなかったのか?」
「ああ……答えられるはず、なんだけどな」
福山はそう言って、後頭部を掻いた。
誤魔化す仕草のはずなのに、指先の動きが妙に遅い。掻けば掻くほど、引っかかりが深くなるみたいに。
「北海道から出てきた理由なんて、普通は一発で言えるだろ」と福山は笑おうとする。
「寒いの飽きた、とか、都会に憧れた、とかさ」
「……それが出てこない?」
「いや、出てきそうで出てこない。喉まで来てるのに、引っかかって落ちていく感じ」
喉の奥が、俺も少し痛くなった。
それは、記憶がないというより、記憶に手を伸ばした瞬間に、指の間から砂がこぼれていく感覚に近い。
「最近、寝不足とかはあんのか?」
俺がなるべく現実的な理由に逃げようとすると、福山は「いやー」と首を振った。
「寝てる。割と。なのに抜けてるんだよ」
理由だけ。
言い方が、嫌に具体的だった。
「……咲太に言ったのか?」
「言った。そしたら、あいつ、変な顔してさ。『頭、大丈夫か?』って」
「まぁそうだよな」
俺はそこで言葉を切り、福山の顔を覗き込む。
「まあいいや」と福山は話を終わらせるみたいに手を叩いた。「とりあえず帰るわ。春休み明け、また授業一緒にとろうぜ。課題も見せてくれよ」
「お前、見せてくれって言い方やめろ」
「いいだろ、同じ北海道出身に免じて」
「俺は北海道じゃねえだろ」
「岸和田シティーボーイだもんな」
福山は軽く笑って、教室を出ていった。
その背中は、いつもの福山だった。
いつも通りに見える、というのが、いちばん怖い。
俺は少し遅れて教室を出た。
廊下の窓から差し込む光は、さっきより白い。夕方へ向かう途中の冬の光は、妙に現実味が薄い。
階段を下りて、キャンパスの外へ出る。冷たい空気が肺に入り、そこでようやく、さっきまでの教室の暖かさが作り物だったみたいに思える。
藤沢までの帰り道。
駅へ向かう人の波に混じりながら、俺は頭の中で会話を反芻していた。
「なんでこの大学を受験したんだっけ?」
冗談で言うには、福山の目が真剣すぎた。
思い出せない、じゃない。思い出そうとすると霧がかかる。
その表現も、嫌に一致している。
霧。
#夢見る。
霧島透子。
夢を見なかった人間は、発症している可能性がある。
咲太の仮説が、また胸の奥で鳴る。
名前がついた瞬間、現象は“現実”になる。
俺はそれを知っている。何度も、何度も。
足を止めかけて、俺はふいに、別の記憶を浮かべた。
この間の基礎ゼミの試験。
教室の机。消しゴムの匂い。
試験中、福山が試験用紙と睨めっこしていた時、福山がいつも巻いてる、少し毛羽立った濃い色のマフラー。
咲太と話していた岩見沢寧々は、床に落ちていたマフラーを、まるで“当然のこと”みたいに手に取り、軽く払って、福山の机の上に置いた。
今、あの場面だけが、やけに鮮明に浮かぶ。
岩見沢寧々の手つき。拾い上げる角度。
置くときの迷いのなさ。そして、言葉の温度。
ただの親切にしては、少しだけ、距離が近い。
そこまで考えて、俺は自分で自分の思考が嫌になった。
疑うな。勝手に繋げるな。
でも、引っかかりがある。
福山は北海道出身。
岩見沢寧々も、北海道出身。
今このタイミングで“北海道”が二重に重なるのは、嫌な臭いがする。
俺は歩きながら、息を吸って、吐いた。
(まさかな……)
でも、“まさか”って言葉は、思春期症候群の前では一番無力だ。
駅前の雑踏。自転車のベル。
信号が変わる音。全部が普通なのに、俺だけが水面の下に潜っているみたいだった。
福山の「抜け方」は、ただの物忘れじゃない。
そして岩見沢寧々は、誰かの落とし物を拾うみたいに、当たり前に、誰かの欠落にも手を伸ばせる人間かもしれない。
そう思いながら、俺はホームに立った。
冬の風が、マフラーのない首元を刺す。
その冷たさが、さっきの記憶を現実に引き戻した。
一月二十日
今期最後の授業が終わると、キャンパスの空気が明らかに緩んだ。
廊下の向こうで「春休みだー!」と叫ぶ声。教授の「レポートは忘れるなよー」という弱い制止。
のどかは一昨日までに単位を取り終えている。
今日は、いない。それを、少しだけ意識している自分がいる。
キャンパスを出た瞬間、背後から勢いよく声が飛んできた。
「きっしーーー!!」
振り向いた瞬間、ぶつかりそうな距離で止まる。
広川卯月。
イヤーマフがずれている。髪も少し跳ねている。全力で走ってきた顔。
「なんでそんなに元気なんだよ」
「だって終わったもん!今期!」
「いや、お前補講あるだろ」
卯月は胸を張る。
「うん!私、来週麻衣さんと補講受けるんだ!」
「それ自信満々で言うことじゃないからな」
「だってソロデビューで忙しかったんだもん!」
悪びれない。本当に悪びれていない。
卯月は両手を広げる。
「忙しいアイドルなんだよ?ほら、ほめて」
「はいはい、すごいな」
「棒読み!」
卯月は頬を膨らませる。三秒で戻る。
「きっしーは? 春休みどうするの?」
「特に決まってない。藤沢でゆっくりするなり、目黒に帰るなり、自由気ままに過ごすよ」
「え、目黒帰るの?」
「たまにはな」
「へえー」
卯月は少し考える顔をしてから、ぱっと明るくなる。
「じゃあ遊びに行くね!」
「は?」
「目黒でも藤沢でも!きっしーの春休み、空いてるとこ全部予約!」
「予約制じゃねえよ」
「えー、きっしーって春休み、基本ヒマでしょ?」
「お前な」
卯月は笑う。本当に、屈託がない。
のどかがいない今日、卯月はいつもより距離が近い気がした。
駅へ向かう途中、他愛ない話を続ける。
ライブの話、ソロデビューの緊張。
のどかがいない今日、卯月は遠慮がない。
距離が、ほんの少し近い。
歩きながら、卯月は補講の話をする。
「麻衣さんってさ、補講なのにオーラあるんだよ。黒板が映画セットみたいになるの」
「お前の例えは雑だな」
「ほんとだって!教室が舞台みたいになるの!」
くるくる表情が変わる。
笑って、真剣になって、また笑う。
人の流れが少し途切れたところで、卯月が立ち止まる。
「ねえきっしー」
「ん?」
「春休みってさ」
「ああ」
「急に会えなくなる感じ、あるよね」
言いながら、卯月は空を見上げる。自覚はない。
でも、どこか寂しそうだ。
「別に消えるわけじゃないだろ」
「そうだけどさ」
次の瞬間。背中に柔らかい衝撃。
「っ!?」
本気で心臓が跳ねた。後ろから、卯月に抱きつかれている。
「お、おい……」
声がわずかに上擦る。卯月は気にしていない。
「ちょっとだけ」
「ここ外だぞ」
「だからちょっとだけ」
腕が回る。思ったよりしっかり。
体温が、近い。鼓動がうるさい。
「きっしーってさ」
「……なんだよ」
「なんか、ちゃんとしてるよね」
「意味分からん」
「だからさ」
少しだけ、顔が背中に押し付けられる。
「こうやって、ちゃんと捕まえてないと、どっか行っちゃうかなぁって」
呼吸が一瞬止まる。
「行かねえよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
卯月は数秒、そのまま黙る。
それから、急に明るく言う。
「じゃあ春休み中もちゃんと捕まえに行く!」
「捕まえるな」
やっと腕が離れる。でも、すぐ正面に回り込んでくる。
距離が近い。近すぎる。
「ねえ」
「……なんだ」
「きっしーって、私のことどう思ってる?」
心臓が跳ねる。
「急に何だよ」
「なんとなく!」
軽い口調。でも目は、少しだけ真面目。
「どうって」
「うん」
「……楽だな」
「褒めてる?」
「無理しなくていい」
卯月は一瞬止まる。
それから、にこっと笑う。
「そっか」
ほんの一瞬だけ、目が柔らかくなる。
「じゃあさ」
「ん?」
「春休み、ちゃんと私にも、楽な時間ちょうだい!」
誤魔化すように言う。
でも言い終わったあと、少しだけ視線を逸らす。
自覚はない。でも甘えている。
改札が鳴る。
「じゃ、行くね!」
階段を駆け降りる。
途中で振り返る。
「きっしー!」
「なんだよ」
少し迷う。ほんの一瞬だけ、卯月の笑顔が止まった。
取り落としたみたいに、声が小さくなる。
「……ちゃんと、いるよね?」
小さく言う。すぐに笑顔に戻る。
「いなかったら探すから!」
電車に乗り込む卯月。ドアが閉まり、電車は走り出す。
電車が視界から消えるまで、俺はその場に立っていた。
潮風でもないのに、首元がやけに冷たい。
背中には、まだ卯月の体温が残っている。
あれは、無意識だ。
寂しいと分かっていてやっているわけじゃない。でも、確実に繋ぎ止めに来ている。
「ちゃんと、いるよね?」
あの声が、やけに静かに耳に残る。
いる。ここにいる。
でも。俺は、ちゃんと“ここにいる”人間なんだろうか。
胸の奥が、鈍く疼く。
卯月にも。のどかにも。俺はまだ、何も話していない。
中学のあのループのこと。
選ばなかった未来が干渉してきたこと。
自分だけが覚えている時間があったこと。
そして、今も少しだけ残っている“後遺症”。
夢を見なかったことが、偶然じゃない可能性。
霧島透子に対する、理由のない確信。
全部、言葉にすれば、軽くなるのかもしれない。
でも同時に、二人の世界にまでその歪みを持ち込むことになる。
のどかは、距離を測る。
静かに、ちゃんと、相手の呼吸に合わせる。
だからこそ、あの子に話せば、きっと受け止める。
受け止めて、背負おうとする。
それが分かるから、言えない。
卯月は、距離を飛び越える。
迷わず踏み込んでくる。
だからこそ、話せば全力で抱え込む。
笑いながら、「大丈夫だよ!」って言って。
その笑顔の裏で、きっと傷つく。
それも分かるから、言えない。
守るつもりで、抱え込む。
でもそれは、本当に守っていることになるのか。ただ逃げているだけじゃないのか。
俺はまだ立ち尽くしている。
二人の気持ちにも、まだ答えを出せない。
のどかの静かなまっすぐさ。卯月の無邪気な真っ直ぐさ。
どちらも、嘘じゃない。
どちらも、大切だ。
でも、俺の中の何かが、まだ決めさせない。
決めた瞬間に、失うものがあると知っているから。
それに、自分がちゃんと未来に固定されている人間なのか、まだ確信が持てない。
特異点。
双葉が言った言葉が、脳裏をよぎる。
もし俺が、本当に“特異点”なら。
誰かの隣に立つ資格があるのか。
卯月の「ちゃんといるよね?」に、胸を張って頷けるのか。
のどかの隣に、当たり前みたいに並んでいいのか。
答えは出ない。出せない。
でも、出さなければいけない時が来るのも分かっている。
冬の空は、どこまでも青くて冷たい。
俺は、ポケットの中で拳を握った。
逃げ続けることはできない。
でも、まだ。
今は、まだ。決められない。
決められないまま、二人の前に立ち続けるのも、卑怯だと分かっている。
だったら、せめて自分の中だけでも整理しろ。
胸の奥で、もう一人の自分が言う。
卯月に話せない。
のどかにも、まだ話せない。
あの子たちは、感情で受け止める。
受け止めて、背負ってしまう。
それが優しさだと分かっているからこそ、今は渡せない。
でも、双葉なら、理屈で分解してくれるかもしれない。
感情ではなく、構造で捉える。
俺の思春期症候群を、現象として整理してくれるかもしれない。
特異点。
夢を見ない欠落。
霧島透子への違和感。
それが全部、どう繋がっているのか。
俺自身が理解していないまま、誰かの隣に立つのは、違う。
いずれ話す。
のどかにも、卯月にも。
でもその前に、俺が自分の言葉で説明できるようにならないといけない。
説明できないものを、共有する資格はない。
駅のホームに電車が滑り込む音が聞こえる。
その音が、決断の区切りみたいに響いた。
(週明け、塾のバイトで双葉に話そう)
あいつなら、余計な同情はしない。
でも、逃げもしない。
理屈で殴ってくるだろうけど、それでいい。
まずは、構造を知る。
俺が何者なのか、どこに立っているのか。
それを理解してからじゃないと、誰の手も取れない。
のどかの隣に立つなら、静かに。
卯月の隣に立つなら、揺れずに。
その覚悟が必要だ。
電車が止まり、ドアが開く。
冷たい風が流れ込む。
俺は一歩、前に出た。
決めるのは、まだ先だ。
でも。逃げないと決めることくらいは、今できる。
一月二十五日
塾の空気は、いつも同じ匂いがする。
乾いたマーカーのインクと、コピー用紙と、冬のコートが持ち込んだ外気。教室の暖房が効いているはずなのに、足元だけ妙に冷えていて、椅子に座る生徒の貧乏ゆすりが床を伝ってくる。
俺は受付の前で出欠表を確認して、担当の教室に向かうはずだった。
はずだったのに。
「蓮真先生」
背後から、きっぱりした声。
振り向くと、姫路紗良が立っていた。今日も髪は整っていて、制服の着方も完璧で、目だけがやけに落ち着いている。落ち着きすぎて、たまにこちらが不安になる。
「……どうした」
「双葉先生から、宿題が出ました」
「それは俺に言うことじゃないだろ。担当、双葉だろ」
「はい。だから今から、その宿題の予習をします」
いや、だから俺に言うことじゃ、と口を開きかけて、姫路さんが一歩近づいた。
「蓮真先生には、私が志望校に無事合格して、咲太先生に告白できるように手伝ってもらいますから」
あまりにも真っ直ぐに言われて、言葉が喉で引っかかった。
「……姫路さん、本気だったのか」
「そりゃ本気ですよ」
本気。本気って言い方が、もう勝ち筋まで見えてる人間のそれだ。
俺はため息をついて、廊下の時計を見る。まだ自分の担当の開始まで少し時間がある。少し、というのが問題だが。
「やれやれ……」
「やってくれるんですね」
断る選択肢が最初から存在してない目をされると、人は弱い。最近、そういう目に弱くなってる気がするのが、余計に腹立たしい。
「少しだけだぞ。双葉の宿題って、だいたい嫌がらせだろうからな」
「はい。嫌がらせだと思います」
(認めるのか……)
空いている自習スペースに移動して、姫路さんがノートを開く。
双葉の字は相変わらず容赦がない。式が詰め込まれていて、途中で急に矢印が飛び、最後に「この仮定が成立しない場合を考えよ」と書いてある。
「……ほんとに嫌がらせだな」
「でも、必要です。私、双葉先生の授業は好きです」
「好きと課題量は反比例しない」
姫路さんは小さく笑った。笑い方が控えめなのが逆に怖い。余裕の笑いだ。
「ここ、分かりますか?」
姫路さんが指差したのは、確率論の導入みたいな部分だった。双葉が“高校数学”の顔をして、大学の匂いを混ぜてくる時のやつ。
「……この仮定の置き方が雑だな」
「双葉先生が雑?」
「雑っていうか、敢えて雑にしてる。考えさせるために」
俺はペンを取って、条件の整理から書き直す。
「これ、最初に“何が既知で何が未知か”を分けないと、途中で詰む。双葉は詰ませたいんだろうけど」
「詰ませたい……」
姫路さんが、なぜか少し嬉しそうに呟く。
「なんで嬉しそうなんだよ」
「双葉先生らしいからです」
言い返せない。
俺は途中まで導きだけ残して、最後は姫路さんにやらせる。
「ここから先は自分でやってくれよ。今のは道筋な」
「はい、蓮真先生」
姫路さんは迷いなく計算を進めた。ペン先が止まる瞬間が少ない。要するに、地力がある。
こういう子は、放っておいても伸びる。
なのに、わざわざ俺を捕まえてくる。
それが姫路さんの怖さであり、強さだ。
「……できました」
「早いな」
「合格して告白するためです」
「だからその文脈やめろって」
俺がペンを置いたタイミングで、廊下の方から足音が近づく。規則正しい、早歩き。
「何してんの岸和田」
声だけで分かる。双葉理央。
現れた双葉は、いかにも講師の顔をしていた。塾の制服の袖を少し捲って、目だけがやたら鋭い。
「何って……見りゃ分かるだろ」
「分かるから聞いてる。私の生徒に勉強教えてるでしょ」
姫路さんがさらっと顔を上げる。
「あ、双葉先生。蓮真先生に、双葉先生から出された宿題、手伝ってもらってたんです」
「『手伝ってもらってた』じゃないでしょ姫路さん」
双葉の視線が俺に刺さる。
「岸和田、暇なの?」
「お前の宿題が暇じゃないと無理な量なんだよ」
「言い訳が雑だね」
「お前に言われたくない」
姫路さんが、二人のやり取りを見て満足そうに頷く。
「やっぱり、お二人は相性がいいです」
「よくない」
双葉が即答した。
俺も同時に「よくない」と言って、姫路さんが少しだけ目を細める。
「息が合ってます」
「合ってない」
「合ってない」
また被った。
姫路さんが笑った。ほんの少し、声が弾む。
「じゃあ続きは自力でやります。ありがとうございました、蓮真先生」
「ああ」
姫路さんが立ち上がり、鞄を肩にかける。去り際に、こちらを振り返って言った。
「合格したら、報告しますね」
「……二年も先の話だろ」
姫路さんが出ていくと、自習スペースに残ったのは俺と双葉だけになった。
双葉は腕を組み、ため息をつく。
「……で?何の用?」
「……用っていうか、ちょっと話したいことがある」
双葉の眉がわずかに動く。興味と警戒が同時に出る顔。
「ここじゃ無理でしょ」
「だな」
俺は時計を見る。授業の合間は短い。塾の終業まで耐えたあと、話す場所を変えるしかない。
「藤沢駅前、行けるか?」
「……わかった。次のコマ終わったら行く」
双葉は一瞬だけ逡巡してから、淡々と言った。
塾が終わって、外に出ると、冬の夜気がいきなり肺を刺した。
駅前のカフェは、塾帰りの学生と、仕事帰りの社会人でほどよく混んでいた。店内の明かりがやけに温かく見えるのは、外が冷たいからだろう。
奥の席に座ると、双葉がコートを脱ぎながら言った。
「で?話って何」
俺は、まず順番に話した。
一月十七日。咲太と学食で話したこと。
クリスマスイブに夢を見なかった人間は、思春期症候群を発症している可能性がある、という仮説。
麻衣先輩が二月四日に一日警察署長をやること。
その日に合わせて、#夢見る の投稿が増えていること。
そして、霧島透子の話。
双葉は黙って聞いていた。頷きもしない。表情を動かさない。その代わり、目だけが少しずつ鋭くなる。
話し終えると、双葉がコーヒーを一口飲んでから言った。
「……岸和田が梓川の仮説を後押しするなんて、どういう吹き回し?」
その言い方は、驚きじゃない。
“ありえないことが起きた”という確認だ。
俺は視線を落とした。
「……後押しってほどじゃない。ただ、俺も夢を見てない」
「知ってる」
「で、岸和田。ここから先は、梓川の仮説じゃない。岸和田の話なんでしょ」
逃げ道がない言い方だった。
咲太には話した。なら双葉にも話すべきだ。そう思ってここに来たのは俺だ。
なのに、口が重い。
話した瞬間に、自分の中で“確定”する気がした。
もう戻れない、って。
俺は息を吸って、吐いた。
「俺、中学の時に思春期症候群を経験した」
双葉の表情が、ほんの少しだけ動いた。
驚きじゃない。納得の方だ。
「……やっぱりね」
「選ばなかった行動が、後の現実に干渉するタイプだった。簡単に言えばループだ」
「古賀さんのとは違う?」
「違う。古賀のは未来を避けるための計算だろ。俺のは、選ばなかった未来が、選んだ未来を壊しにくる」
双葉は、しばらく黙ってから言った。
「なるほどね。だから岸和田は“特異点”だったわけね」
その言葉に、背中が冷たくなる。
「特異点……それ、俺が古賀の未来シミュレーションには出てこなかったっていう話と、やっぱり繋がってるのか?」
「そう」
双葉は、淡々と説明を始めた。
「古賀さんの未来予測によるループは、彼女にとって、“自分が望む未来が出るまで”世界の物理情報の計算を繰り返す行為。世界の物質すべてを、条件付きで何度も再計算する」
双葉は、指先でテーブルを軽く叩く。
「トランプに例えるなら、“未来シミュレーション”は、トランプの山札をシャッフルして何度も引き直すようなもの。結果は変わっても、引けるカードはデッキにある五十二枚だけ」
「……」
「でも、岸和田は最初からその山札に含まれていなかった。いわばジョーカー。だから彼女のシミュレーションには一度も現れなかったのに、現実では場に出てくる。それが“特異点”」
喉が乾く。
「つまり……俺は、時間軸上に存在しないってことか?」
双葉は首を傾げた。
「言い方は極端だけど、近い。少なくとも、計算で辿れる未来の中に、岸和田が固定されてない」
胸の奥が、嫌な方向にざわつく。
固定されてない。存在が揺らいでる。
夢を見ない、という欠落と、どこかで繋がってしまう。
双葉は、そこで言った。
「岸和田。本当は、どうやって脱出したの?」
来た。
俺は視線を逸らし、窓の外の暗い通りを見る。
「それは……」
言えない。言えば、終わるから。
「……選ばなかった過去を、受け入れた。後悔は消えなかったけど、干渉は止まった」
嘘じゃない。でも、全部じゃない。
双葉は少しだけ黙った。たぶん、その“全部じゃない”を聞き分けてる。
そして、ため息のように言った。
「……まぁ、いいけど」
「いいけど」の中に、いろんなものが詰まっていた。
追及しない優しさと、察してしまった居心地の悪さと、ほんの少しの怒り。
双葉は話題を切り替えるように、カップを置いた。
「そのこと、桜島先輩の妹さん……豊浜さんだっけ?と、そのアイドル仲間の広川さんには、ちゃんと話してるの?」
「まだ」
即答してしまった。
双葉は「だろうね」と小さく笑った。笑い方が、少しだけ苦い。
「まぁ、話しにくいだろうね」
「……」
「私も、もう一人の私が現れた時のことは、国見には話せてないから」
俺は双葉を見た。
双葉は視線を外さないまま、淡々と言った。
「好きな相手に限って、弱いところを見せたくない。見せたら、何かが壊れる気がするから」
それは、まるで自分に言い聞かせるみたいだった。
俺も、同じだ。
のどかに話せば、余計な痛みを渡してしまう気がする。
卯月に話せば、無邪気に抱え込ませてしまう気がする。
結局、“守る側”のふりをして、逃げてるだけなのかもしれない。
双葉は、カップの底に残ったコーヒーを見つめてから、ふっと息を吐いた。
「でも、梓川には話したんでしょ?」
「ああ」
「なら、少しずつでいい。逃げるなとは言わないけど、でも、逃げ続けるのは違うから」
双葉らしい言い方だった。冷たいようで、ちゃんと手を伸ばしてくる。
店を出ると、藤沢の夜は冷え切っていた。
駅前の人波が、どこか遠い。俺と双葉だけが、同じ速度で歩いている感じがする。
「四日の桜島先輩の一日警察署長のイベント、私も見に行くよ」
双葉が、何でもないことみたいに言った。
「……お前、そういうの行くのか」
「行く。状況確認」
「言い方」
双葉は肩をすくめる。
「それに、もし何か起きるなら……“現場”を見ておいた方がいいでしょ。梓川も、岸和田も行くなら」
その言い方が、咲太の「味方でいるよ」と重なった。
俺は、小さく息を吐いて、頷く。
「……悪いな」
「今さら」
双葉はそう言って、いつもの調子で少しだけ口角を上げた。
冬の風が、頬を刺す。
でも、さっきよりは冷たくなかった。
たぶん、俺の中で、ひとつだけ“確定”したからだ。
観察者のままではいられない。でも当事者として、少しずつ前に出る。
一月二十八日
集合場所の体育館は、冬の朝の匂いがした。
乾いた床のワックスと、段ボールと、毛布。
空調は効いているはずなのに、入口付近だけ外気が残っていて、吐く息がうっすら白い気がする。
災害時支援ボランティア、といっても、実災害じゃない。
自治体と大学が連携してやっている訓練だ。避難所運営の流れを一通り回して、応急救護の基本を学ぶ。
俺は受付で名札を受け取ってから、会場を見渡す。
段ボールベッドのサンプル。給水ポイントの案内板。掲示板に貼られた「体調不良」「要配慮者」「情報提供」の文字。
いつも通りの備えの空気の中に、いつ来るか分からないものの影が混じっている。
「岸和田くん」
呼ばれて振り向くと、赤城郁実が手を挙げていた。隣には上里沙希。さらにその後ろに、見慣れた中学生三人組が固まって立っている。
いつもの、だ。
「岸和田くんも来たんだ」
上里が言った。いつもより声が落ち着いている。こういう場だと、余計なテンションが抜けるのかもしれない。
「赤城も、上里さんも早いな」
「看護学科を舐めないで」
上里はさらっと言って、腕時計を見る。時間で動く人間の仕草だった。
赤城が俺に尋ねる。
「今日は救護班、回れる?」
「回る。……教えてくれ。俺、こういうの初めてだから」
俺がそう言うと、赤城と上里が一瞬だけ視線を交わした。
その表情が、ほんの少しだけやさしい。
「じゃあ、最初にこれ」
上里が救護セットの袋を指差す。中には三角巾、包帯、滅菌ガーゼ、テーピング、手袋、簡易マスク。
「まずは手袋。素手で触らない。体液がある可能性もあるし、感染予防」
「了解」
俺が手袋をはめると、上里が続ける。
「次に、声かけ。意識確認。『大丈夫ですか?』って。返事がなければ呼吸確認」
赤城が、俺の横に立って補足する。
「呼吸がないならAED。場所を叫んで、人を動かす。救護は自分だけで完結しないから」
言い方が淡々としているのに、内容は重い。
でもそれが、現場の言葉なんだと思う。
「で、意識があるなら出血の確認。圧迫止血。こう」
赤城はガーゼを取り出して、手のひらで押さえる動きを見せる。迷いがない。速い。
「圧迫して、固定。包帯はこう回す。強すぎない。指先の色を見る。冷たくなったら締めすぎ」
上里が横から、指先のチェックの仕方を示す。二人とも、手が“仕事”の手だ。
その横で、いつもの中学生三人組が固まって見ている。
ひとりが小声で言った。
「……なんか、すげぇな。医療ドラマみたい」
赤城が首だけで振り向いた。
「ドラマみたいに格好よくはないよ。現場は泥くさいから」
その言い方が、妙にリアルだった。
俺は視線を落として、包帯を手に取る。
段ボールの匂い、毛布の匂い、汗の匂い。
いろんな“生活”の匂いが混ざる中で、手だけが落ち着いていく。
「やってみて」
上里が言う。
俺は模擬の腕にガーゼを当て、手のひらで圧迫する。包帯を回す。固定する。
「……こんな感じか」
赤城が頷く。
「合格。だけど、声かけ忘れてる」
「……あ」
やってしまうと、手順より“手”が先に動く。俺の悪い癖だ。
「声かけは、相手の安心にもなるから」
上里が言う。
「大丈夫ですか、って言うだけで、落ち着く人もいる。救護って、処置だけじゃないから」
その言葉が、胸の奥に残った。
処置だけじゃない。
俺がずっとやってきた“介添え”も、それに似ている。
誰かの痛みを消すんじゃなくて、痛みの横に立つ。
「じゃあ次、避難所の受付も回ろう」
上里が言って、名札を指で弾いた。
「情報班と連携する練習」
受付の机には、避難者カードが並んでいた。名前、年齢、持病、アレルギー、同伴者、連絡先。
そこに、模擬の避難者役が来る。
「すみません……足、捻りました」
上里がすぐに立ち上がる。
「椅子に座ってください。痛みはどのくらいですか?歩けます?」
赤城は同時に、周囲に指示を飛ばす。
「岸和田くん、冷却材ある? 固定用のテープ。あと、避難者カードに“要観察”って書いてもらえる?」
速い。迷いがない。
俺は言われた通り、カードの欄に記入しようとして、一瞬手が止まった。
“要観察”。
その文字が、妙に俺の中の何かと重なる。
観察者、当事者。
この間咲太に言われた言葉を思い出しそうになって、俺は軽く首を振った。
今は、目の前だ。
「岸和田くん」
上里が俺を呼ぶ。
「これ、覚えて。足首は、腫れ具合と皮膚の色。あと痺れ。痛みの場所」
「了解」
俺は膝をついて、模擬の足首を見る。
皮膚の色、腫れ、痛みの訴え。触る前に声かけ。
「触ります。痛かったら言ってください」
そう言うと、相手が少し息を吐いて頷いた。
それだけで、空気が落ち着く。上里が隣で小さく言った。
「ね。声かけ、大事でしょ」
俺は頷きながら、ふと思う。
声かけで、現実の輪郭が戻る。
のどかの声が戻った時のことを、勝手に重ねそうになってまた、飲み込む。
訓練は続く。
物資配布の導線。掲示板の更新。要配慮者への声かけ。子どもの迷子対応。
中学生三人組は、最初こそ見てるだけだったが、途中から自然に動き始めた。
水を運ぶ。段ボールを畳む。案内板を貼る。
そういう手を動かすことが、場の中に居場所を作る。
赤城が、その様子を見て小さく言った。
「……みんな、優しいね」
「そうだな」
上里が俺の横に来て、低い声で言う。
「岸和田くんさ」
「ん?」
「こういうの、向いてると思う。変に落ち着いてる」
「褒めてんのか、それ」
「褒めてる。……たぶん」
たぶん、が上里らしい。
訓練の終盤、救護班のまとめに入る。
赤城が手早く、今日のポイントを整理していく。
「優先順位。安全確保。声かけ。連携。記録。記録は、あとから人を救うから」
記録。
その単語だけが、俺の耳に残った。
観察ノート。タブレット。#夢見る。夢を見ない欠落。
俺は無意識に、名札の端を指でなぞっていた。
赤城が、俺の手元を一瞬だけ見て、何も言わない。
でも、その沈黙が「分かってる」みたいで、少しだけ怖かった。
解散前、体育館の出口で中学生三人組が先に外へ出ていく。冬の光が白い。
赤城と上里がその背中を見送ってから、赤城が小さく言った。
「岸和田くん」
「ん?」
「今日の“声かけ”、忘れないでね。救護だけじゃなくて、全部で」
言い方は淡々としているのに、刺さった。
俺は短く頷く。
「……分かった」
体育館の外は冷たかった。
でも、手袋を外した指先は、さっきより少しだけ温かい。
たぶん、それは誰かのために動いたという温度だ。
そして、その温度は、二月四日の“現場”でも、必要になる。
そういう予感だけが、静かに胸に残っていた。
体育館を出ると、冬の光が白くて、指先の感覚だけが妙に残っていた。
手袋を外したばかりの指はまだ温かい。たぶん、誰かのために動いた温度だ。
駅へ向かう途中、スマホが震えた。
表示された名前に、足が一瞬だけ止まる。
咲太の家電からだった。
(早くスマホ持てよな……)
そんなことを思いながら通話を取る。
「もしもし」
「岸和田、今いいか?」
咲太の声。いつもより少し早い。
「どうした」
「霧島さんから連絡が来た」
胸の奥が、冷える。
「……岩見沢寧々か?」
「ああ。三十日、金沢八景駅の近く。琵琶島神社に十時に来て、だと」
琵琶島神社。金沢八景。
やけに具体的で、逃げ道のない指定。
喉が乾く。断れば面倒くさい未来が見える。受ければ、もっと面倒くさい現在が来る。
でも、ここまで来たら、選ばされるのは分かっていた。
「了解」
言い切ると、咲太が一拍だけ黙った。
「……相変わらず即答だな」
笑いに見せかけた、確認の声。
「お前が伝えてきたってことは、行くしかないって分かってるんだろ」
「まあな。それに、麻衣さんに関わっていることだしな」
「ありがとな、連絡」
「いや。……岸和田、気をつけろよ」
咲太のその言葉だけが、妙に真面目だった。
「咲太もな」
軽口。いつもの調子。でも、その裏側にあるものが透ける。
通話が切れる。画面が暗くなって、冬の雑踏の音が戻ってくる。
俺はポケットにスマホをしまって、息を吐いた。
声かけは、現実の輪郭を戻す。
今日、上里が言っていた言葉が、今になって効く。
なら、三十日は。
俺が、誰かに声をかける側になるのか。それとも、俺自身が声をかけられる側になるのか。
冬の風が首元を刺した。
琵琶島神社。十時。逃げ続けることは、もうできない。
一月三十日
冷え込みの厳しい朝から出かける準備をした俺は、授業もないのに大学の最寄りの金沢八景駅に来ていた。
一週間前までは多くの学生が乗り降りしていた駅のホームだが、今は春休みモードとなり、閑散としている。
自分の足音が聞こえるくらいに静かだ。
歩きやすいホームを歩き、誰にも邪魔されずに階段を上り、誰の後ろに並ぶこともなく俺は改札口を出た。
駅舎の屋根から出ると、咲太がいた。
グレーのコートに黒のマフラー。ポケットに手を突っ込んだまま、壁にもたれている。
俺を見るなり、片眉を上げた。
「遅いな、岸和田」
「集合時間十分前だぞ」
「十分前に来るタイプか。真面目だな」
「そっちが早いだけだ」
咲太は肩をすくめる。
「まあ、デートだしな」
「誰がだよ」
「お前と霧島さん」
「やめろ」
軽口を交わしながらも、視線は自然と周囲を確認している。
金沢八景の朝は、思ったより普通だ。通勤の人、買い物袋を下げた高齢者、ジョギングの学生。
異常は、まだ見えない。
「東口だよな」
「ああ」
俺たちは並んで歩き出す。
海の匂いが、わずかに混じる。金沢八景特有の、湿った冷気。
咲太が小さく言う。
「琵琶島神社って、やけにピンポイントだな」
「観光地でもないしな。でも海に浮かぶ小島の神社。境界線っぽい場所ではある」
境界。夢と現実。観測と未観測。選択と未選択。
国道16号線の信号を二回待って海の方へと足を進めると、視界の先に小さな鳥居が見えてくる。
海に向かって伸びる参道。潮風が強くなる。
「……いるな」
咲太が呟く。
鳥居の向こう、手すりにもたれる影。
白いニットに、やけに短い赤いスカート。この季節に、その格好。
ミニスカサンタ。
岩見沢寧々。
俺たちをこの場所に呼び出した張本人。
真っ直ぐ海の方を見据えている。
俺たちが砂利を踏み締めながら近づいていくと、「この神社、北条政子が創建したんだって」と、岩見沢先輩が言葉を発した。
「鎌倉時代って八百年とか前よね。今も残ってるなんて不思議じゃない?」
「霧島さんの歌も、この先、何年も残っていくんじゃないですか?」
「音楽はそんなに残るかな?」
懐疑的な声が返ってくる。
「……ものによっては残るんじゃないですか?クラシックとかは、今から三百年・四百年前ですし」
「こんな話をするために、僕たちをここに呼び出したんですか?」
「もちろん違う。車出すのに近いから」
ようやく岩見沢先輩が俺たちを見た。でも、それも一瞬のこと。
「ついてきて。今日はサンタクロースの手伝いをさせてあげる」
そう言って、岩見沢先輩はひとり参道を引き返していく。
「先に教えてくれたら、トナカイの衣装を用意したんですけど」
咲太がそう背中に声をかけながら、俺たちは岩見沢先輩についていった。
鳥居をくぐり直し、砂利道を戻る。
潮風の匂いが、さっきより強い。
岩見沢先輩は振り返らない。赤いスカートだけが視界の中で揺れている。
「どこ行くんですか」
俺が聞くと、岩見沢先輩は軽い調子で言った。
「だから、サンタクロースのお手伝い。プレゼント配り」
「一月三十日にですか?」
咲太が横から挟む。
「旧暦か何かですか?」
「細かいこと気にしないの」
即答だった。
住宅街を抜け、コインパーキングの奥にあるカーシェアのステーションに辿り着く。
黄色の看板。無機質な駐車スペース。タイムズカーシェアのロゴ。
岩見沢先輩がスマホを操作する。
「予約してあるから」
「抜かりないですね」
「だってデートでしょ?」
「誰がですか」
車のロックが解除される音が鳴る。
岩見沢先輩は当然のように後部座席側へ回った。
「じゃあ運転よろしくね、岸和田くん」
「……俺、こういう当然で命令してくる人、ちょっと苦手なんですよ」
「苦手でもやるんでしょ?」
その言い方が、答えだった。
(……やっぱり、この人は霧島透子じゃない)
鍵を渡される。
「……これじゃあまるでトナカイですね」
「自覚あるのね」
岩見沢先輩はドアを開けながら、にこっと笑う。
「料金は払うから安心して」
「そうでなきゃ困ります」
俺が運転席に乗り込むと、咲太も後部座席に回る。
ドアが閉まる音。
車内に、三人分の空気が閉じ込められる。
エンジンをかけると、静かな振動が伝わる。
「で、どこへ?」
「まずは横浜の元町の方へ。ナビ入れてね」
「……わかりました」
俺はウインカーを出し、ゆっくりと車を発進させる。
バックミラー越しに、咲太の視線と一瞬だけ合う。
“気をつけろ”という無言のサイン。
岩見沢先輩は窓の外を見ている。
海沿いの道路に出ると、陽光が水面で反射して、車内に揺れる光を落とす。
「サンタクロースって、トナカイのソリで移動するんじゃないんですね」
(そのトナカイを、俺はやらされてるけどな……)
「梓川くん、免許は?」
「明後日から、教習所に通う予定です」
岩見沢先輩にそう答えながら、咲太は対向車を気にしていた。
「さっきから何を見てるの?」
「今のこの状況って、外からはどう見えるのかと思って」
「桜島麻衣の恋人が、別の女性と密会しているように見えてるんじゃない?」
意地の悪い笑みを浮かべた岩見沢先輩は楽しそうだ。
「霧島さんのことが見えてれば、そうかもしれないですね」
「そういや、霧島さんの方はどうなんですか?」
「どうって、何が?」
「僕とふたりで会ってていいんですか?付き合ってる人いないんですか?」
「いないように見える?」
「いるように見えます」
咲太は素直に思うままを返していた。
俺も出会った当初から、俺に対する岩見沢寧々の態度の中に、そういう相手の存在を感じていた。
異性である俺や咲太に対して、意識らしい意識が見受けられなかった。慣れている距離感だったからだ。
「残念だけど不正解。いたのは春まで」
「別れたんですか?」
「知っての通り、彼氏からも認識されなくなったの」
「その人とは、いつから付き合ってたんですか?」
「高二の夏」
「ってことは、まだ北海道にいた頃ですよね?」
大学進学を機に、岩見沢寧々が首都圏に出てきたことを咲太も俺も、もう知っている。
「そう」
「つまり、岩見沢寧々さんが、霧島透子を名乗る前?」
「………」
それに岩見沢先輩は答えない。
バックミラー越しに見る彼女の表情からは、感情らしい感情も顔には出ていなかった。
「相手が北海道の人だと、高校を卒業したあとは遠距離恋愛だったんですか?」
「一緒にうちの大学受けて、向こうは落ちたからね」
「心臓に悪い話だなぁ」
それは、咲太や俺にもあったかもしれない未来だから。
「しかも、二年連続で」
「その人、今は?」
少なくとも、春までは彼氏彼女の間柄だったことを、先ほどの岩見沢先輩の言葉が認めている。
「三度目の正直で受かって、春に入学してきた」
信号が青に変わり、前の車に合わせて走らせる。
「せっかく受かったのに、霧島さんのこと認識できなくなったんですか?」
「そうなるね」
岩見沢先輩の受け答えは淡々としている。
「僕が彼氏の立場だったら、全力でイチャイチャするのに。三年越しでようやく一緒の大学に通えるようになったんだから」
「………」
「合格の報告を受けたときはうれしかったですか?」
「うれしいって言うか、ほっとした。こっちに出てくるって決めたのはわたしで……彼は合わせてくれただけだから」
「その人、学部は?」
「統計科学」
咲太や卯月と同じだ。
「もしかして、僕の知ってる人?」
咲太は視線を岩見沢先輩の横顔に向ける。
北海道出身者にはひとりだけ心当たりがある。
「………」
岩見沢先輩の返事はない。違うともそうだとも言ってこない。だが、それこそが咲太に対する彼女からの答えだった。
「福山なんですね」
(やっぱりな……)
咲太の簡単なはずの確認の言葉はわずかに上擦っていた。
突然、意外な事実が判明して、少なからず興奮していたのだろう。
「………」
そんな咲太をよそに、岩見沢先輩は何を言わない。質問にも答えない。
「福山は、霧島透子の正体が岩見沢寧々だって、知っているんですか?」
「知らないよ」
「なんで黙ってたんですか?」
「君も、彼女から仕事の話を全部聞いているわけじゃないでしょ?」
「それは、まあ、そうですね」
(でも、高校二年の夏から付き合っていて、福山がまったく気づかないなんてことがあるか?)
(岩見沢先輩が何も話さずにいることができるのか?)
岩見沢先輩は、モデルやミスコンの話は誇らしげにSNSで語っている。
「いいね」の声とフォロワーを集めている。
そんな彼女が霧島透子であることを、ずっと黙っていられるだろうか。
恋人にまで黙っておく必要があるだろうか。
(やっぱり、矛盾してるよな……)
「福山は『霧島透子』のことは認識してます」
「そうみたいね」
「なのに、なんで霧島さんのことが見えないんですか?」
「わたしが霧島透子だって知らないからでしょ」
霧島透子と岩見沢寧々がイコールで結ばれているなら、福山は岩見沢先輩を認識できたはず。
ネットシンガー『霧島透子』のことは知っているのだから。
その理屈はわかる。だが、本当にそれだけだろうか。
「福山にとって、あなたは「岩見沢寧々」だからなんじゃないですか?」
「それがなんだって言うの?」
「あなたは本当に霧島透子なんですか?」
「わたしは霧島透子よ」
岩見沢先輩からの答えは当たり前のように告げられた。
迷いのない言葉。迷う必要がない言葉。
なぜなら、それが事実だから。
そう感じさせる自然な態度と声音だった。
岩見沢寧々は嘘を言っていない。
そして、自らの言葉を証明するように、透子は歌を歌いはじめた。
クリスマスイブに生配信したクリスマスソング、「Silent Night」
姫路さんに教えてもらい、のどかと一緒に聞いたあの曲。
>きらめいたものばかり かき集めた今夜に
>ほんの冗談みたいに誘っちゃった「ここに来てよ」
車内に美しく響く歌声は、彼女が霧島透子であることをこの上なく証明している。
この瞬間、確かに咲太はそう思った。そう感じた。それなのに、気持ちは靄がかかったような気分だった。
霧の中に、まだ見ぬ真実が隠れている。そう思ってしまう自分に咲太は気づいていた。
そして俺も、気持ちは少しも晴れない気分だった。
岩見沢先輩の歌は、完璧だった。
音程も、声量も、呼吸の置き方も。
車内の空気が、彼女の声に支配される。
理屈では、否定できない。
この声を知っている。
動画で聞いた。のどかと一緒に。
同じだ。同じ、はずなのに。
(……違う)
胸の奥で、何かが拒否している。
(霧島透子は、もっと……静かだった気がする)
でもこの人は、どこか、“見せようとしている”。
(霧島透子は、見せる人だったか?)
いや、俺が覚えていないだけかもしれない。
それでも、ハンドルを握る手の震えは止まらない。
もし本当に、この人が霧島透子なら。
俺の直感が間違っていることになる。
でも、もし違うなら。
(霧島透子は、どこにいる?)
車のナビが「まもなく目的地です」と教えてくれる。
液晶の地図を見ると、横浜の元町エリアを車は走っていた。
横浜の街並みが広がる。普通の景色だ。
なのに、車内だけが別の層にいる。
福山は、霧島透子を認識している。でも岩見沢寧々を認識できない。
俺の後遺症は、他人の思春期症候群の歪みに反応する。
だから分かる。
今、どこかで、何かがズレている。
俺はもう、観察者じゃない。
この歪みの中心に、俺も立っているのだから。
登場人物紹介
名前 岩見沢寧々『いわみざわねね』
身長 161cm
誕生日 3月30日
岸和田蓮真、梓川咲太と同じ大学の国際教養学部に在籍する三年生で、肩より長いセミロングヘアが印象的な女性です。
蓮真の入学前年に行われたミスコンでグランプリを受賞しており、学内でも知名度の高い存在でした。
北海道出身で、高校二年生の頃から地元でモデル活動を行い、関東で本格的に仕事をするため神奈川県の大学へ進学します。
東京のモデル事務所に所属し、ファッション雑誌を中心に活動。SNSには増えていく仕事や実績が誇らしげに綴られていましたが、やがて思うようにいかない状況が続き、焦りを抱えるようになります。
そんな中、ネットに投稿した歌唱動画が「霧島透子に似ている」と評され、その言葉は次第に彼女にとっての拠り所となり、やがて自らも「霧島透子」として振る舞うようになります。
そしてついには、その虚像を強く信じることで、周囲から岩見沢寧々として認識されにくくなるという異変へと至ります。
咲太、美織らの推測によれば、桜島麻衣が復学し大学内で再び注目を集め始めた時期と重なり、自身の存在感が薄れていく中で、「霧島透子に似ている」という評価が彼女の救いとなり、その境界を越えてしまったのではないかと考えられています。
福山拓海とは高校二年生の夏から交際しており、大学進学後は遠距離恋愛を続けていました。三度目の受験で拓海が同じ大学に合格し、ようやく同じ場所に立てたはずの春、彼は彼女を認識できなくなります。
それは皮肉にも、彼女が「霧島透子」として確立されていく過程と重なっていました。
一見すると余裕に満ち、周囲を翻弄する女王様的な気質を持ちます。
人をからかい、主導権を握り、場の空気を自分のリズムに引き込むことを自然に行える人物です。しかしその強さは、承認を失うことへの恐れの裏返しでもあります。
蓮真からは早い段階で「彼女は霧島透子ではない」と看破されています。歌声が同じであっても、その在り方や静けさの質が違うと直感的に見抜かれており、彼女の振る舞いにある見せようとする意志こそが決定的な差異だと感じ取られています。
また、その他者を支配するような女王様的気質は、観察者であり続けようとしてきた蓮真にとって、最も苦手とするタイプでもあります。
霧島透子としての自分と、岩見沢寧々としての自分。その境界の上で揺れ続けながらも、彼女は今日も微笑み、主役であろうとする人物といえます。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月