青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
一月三十日
「サンタのプレゼントって、元町で調達するんですね」
ブーツの踵を鳴らしながら、俺たちの前をミニスカサンタが歩いている。
横浜元町の商店街。
横浜開港によって、近くの山下エリア、山手エリアが外国人居留地となったことで発展してきた街。
そうした背景から、当時の西洋文化を反映した建物が今でも数多く残されている。
土日は賑わう人気の街も、さすがに平日の昼間とあって人通りはまばらだ。
その中を歩くミニスカサンタは、明らかに異彩を放っていた。
だが、当然のことのように誰も岩見沢先輩を気にしない。彼女の存在に気づいていない。
今さら、その事実に動揺することもなく、彼女は気になる店を見つけると、構わずに足を踏み入れた。
最初に入ったのは、雑貨も扱うカジュアルウェアのショップ。
次は、ラコステのショップ。アメカジショップを二店舗挟んだあとには、紳士服の店が三軒続いた。
どの店舗でも、彼女はあるものを丹念に見ていた。
メンズのマフラーだ。
時には俺や咲太をマネキン代わりにして感じを確かめたり、洋服の色と合わせたりを繰り返す。
その表情はどこか楽しげで、ともすれば浮かれているようにも見えた。まるで、恋人の贈り物を選んでいるような雰囲気。
一時間半ほど店を回ったあと、岩見沢先輩は最終的に途中で寄ったアメカジショップに戻り、オレンジ色が眩しいカラフルなマフラーを手に取った。
「これ、買ってきて」
丁寧に畳んだマフラーを俺に手渡してくる。
「これでトナカイのお役目は終わりですか?」
「このあと、もう一か所行きたいところあるから早くして」
そう急かされて、俺はマフラーを受け取った。
「プレゼント用に包んでもらうように、お願いしときますか?」
「お願い」
そう返事をした岩見沢先輩は、もう俺たちに背中を向けていた。
マフラーを購入した俺たちが店を出ると、岩見沢先輩は通りのベンチに足を組んで座っていた。
冬の空気と元町の雰囲気は、サンタクロースと妙にマッチしている。
「どうぞ」
買ってきたマフラーを岩見沢先輩に渡す。
「ありがと」
受け取ると同時に岩見沢先輩が立ち上がる。
「じゃあ、次ね」
短くそれだけ言って、すたすたと歩き出す。
商店街の一本裏に入り、霧笛楼の前を通り過ぎる。
そのまま歩いていくと、TVなどでもよく紹介されているウチキパンのショップが見えてきた。
その先を左に曲がれば、商店街の表通りに戻る。
だが、岩見沢先輩の足は右を向いた。坂道が多い山手エリアに足を踏み入れていく。
緩い階段を進み、外国人墓地の敷地に沿って、徐々に坂を上っていく。横浜地方気象台の前を通り、さらにその先に。この辺は、西洋風の建物が多く見られる。
「どこに行くんですか?」
咲太が、岩見沢先輩に尋ねる。
「もうすぐ着く」
「とか言いながら、十分近く歩いているんですけど」
「まだ七、八分」
「だいたい十分ですよ」
「ほら、着いた」
振り向いた岩見沢先輩が、目の前に立つ白い洋館を咲太に「ここよ」と見せる。
建物は店舗のような構えに改装され、色合いや雰囲気はなんだかクリスマスっぽい。隣の庭には、白い大きな犬がいた。さすがにトナカイはいない。
「サンタが住んでいそうな家ですね」
まさにそういう印象の建物だ。入口のドアの脇には、クリスマスまでのカウントダウンを記したボードが吊るされている。
「それ、半分は正解かもね」
岩見沢先輩がドアを開けて洋館の中に入っていく。店舗のような、ではなく、実際に店舗のようだ。
連れてこられた理由もわからないまま、俺たちは岩見沢先輩に続いた。
一歩足を踏み入れる。
それだけで、きっと誰もが同じ感想を持つだろう。
洋館の中は、クリスマスの世界だった。
サンタクロースの人形に、トナカイのぬいぐるみ。クリスマスツリーを表現したスノードーム。
サンタの服を着た雪だるま。壁にはクリスマスカードが並べられ……右を見ても、左を見ても、天井から床まで、全部がクリスマスで埋め尽くされている。
この空間にいると、ミニスカサンタの岩見沢先輩の方が正しい服装をしているように思えてくる。
俺たちの方が場違いだ。
「ブリキのトナカイを探して。手のひらサイズの」
「この中から?」
だが、咲太の戸惑いの声に、岩見沢先輩は応じてくれない。真剣にトナカイを探している。
「トナカイ、トナカイ……ブリキのトナカイね」
咲太がぶつぶつ言いながら店内を埋め尽くすクリスマスグッズに目を凝らす。
「何かお探しですか?」
そう声をかけてきたのは、店の奥から出てきた店員のおじさんだ。
咲太に代わって俺が応じる。
「ブリキのトナカイってあります?」
「ああ、たぶん、あれかな」
意外なことに、すぐにぴんと来たのか、店員のおじさんが俺たちを手招きする。
「最近、これを買いに来る人が何人かいてね」
「これ、流行ってるんですか?」
「流行ってるんじゃないの?」
逆におじさんから質問されてしまう。
おかげで変な空気が流れる。
俺たちはとりあえず、岩見沢先輩にプリキのトナカイを見せた。
すると、岩見沢先輩が「それ」と頷く。
「あ、じゃあ、これください」
「はい、お会計はこちらでね」
岩見沢先輩を残してレジの前に移動する。
お金を払って、ブリキのトナカイを包んでもらった。これもサンタクロースからのプレゼントになるのだろうか。
「はい、また遊びに来てね」
店員のおじさんの笑顔に見送られて店を出る。
「トナカイ、どうぞ」
買ったばかりの紙袋を、咲太は岩見沢先輩に差し出す。
岩見沢先輩は素直に受け取ると、代わりとばかりにマフラーが入った紙袋を咲太に突き出した。
「僕にくれるんですか?」
「拓海に渡しておいて」
「だったら、今から一緒に渡しに行きませんか?」
「………」
一瞬、岩見沢先輩の動きが止まる。
「今日って、福山の誕生日ですよね?」
(やっぱり、そうだよな)
「………」
「だから、わざわざ、今日呼び出したんですよね?」
「行っても無駄だよ。拓海にはわたしが見えない」
「今日は見えるかもしれない」
「何度話しかけてもダメだった」
「今日は上手くいくかもしれない」
「君には関係ない」
声に苛立ちが乗っている。
「ありますよ。きっちり付き合わされてるんですから」
「それは君が望んだことだよ」
岩見沢先輩の目は、咲太を拒絶していた。
それでも咲太は引かずに、「さっさと透明人間をやめて、『わたしが霧島透子です』って名乗り出てほしいんですよ、僕は」と、咲太は少し感情的になって言葉をぶつけた。
「それは彼女のため?」
「まだ麻衣さんを『霧島透子』だって思ってる人がいるのは、知ってますよね?」
「それこそ、なんで君と君の彼女のために、わたしが何かしないといけないの?」
「霧島透子でいることが、あなたの一番の願いだからです」
「………」
「それに、なんで岸和田も呼んだんですか?」
岩見沢先輩の視線が、わずかに揺れる。
「岸和田っていう、霧島さんを途中から認識できるようになった相手がいたなら、もしかしたら福山も見えるようになるんじゃないかって、期待してるからじゃないんですか?」
空気が、一瞬だけ止まった。
(……やっぱり、そういう意図か)
胸の奥が、わずかに重くなる。
今日呼ばれた理由ら、サンタの手伝いでも、トナカイ役でもなく。媒介として。
可能性の、実験材料みたいな立場。
分かっていた。薄々は。
でも、咲太に言語化されると、逃げ場がなくなる。
岩見沢先輩は何も言わない。否定しないということは、図星なのだろう。
(……やっぱり咲太は、踏み込むやつだな)
必要なところに、ためらいなく足を入れる。
相手が嫌がっても、構わない。核心に届くまで、止まらない。
俺はどうだ。
違和感には気づく、意図も察する。
でも、口には出さない。
傷つけるかもしれないと思えば、躊躇する。
境界線の手前で、止まる。
それが優しさなのか、臆病なのか、分からない。
咲太の横顔を見て、ほんの少しだけ、胸の奥にざらついたものが残る。
コンプレックス、と言えばそうかもしれない。
同じ場所に立っているはずなのに、一歩の深さが、違う。
岩見沢先輩は、俺を見た。一瞬だけ。
その目は、拒絶でも、期待でもなく、揺れていた。
俺は、視線を逸らさなかった。
踏み込めなくても、逃げはしない。それくらいは、できる。
それが、今の俺だから。
「僕たちの目的は一致してるんですよ」
岩見沢先輩が口をきつく結ぶ。当然、返事はない。それは彼女が迷っている話だ。まだ何も諦めていない証拠。
「期待しているから、福山にプレゼントを買ったんじゃないんですか?」
「………」
「今、福山が使ってるマフラーも、たぶん、霧島さんのプレゼントですよね?」
今日買ったマフラーと色味が似ている。
「付き合って最初の誕生日にね。もうボロボロだし、別の買えばいいのに」
「恋人にもらったものだから、大事にしてるんでしょ」
「わたしのこと見えないのに?」
「文句なら直接本人に言ってください」
「岸和田。スマホ、貸してくれ。福山の連絡先、入ってるだろ?」
「……ああ、了解」
咲太はスマホを載せる手を差し出した。
岩見沢先輩の目は咲太の手のひらの、俺のスマホを見ていた。
瞳はまだ迷っている。揺らいでいる。もしかしたら、と期待する気持ちと、その期待が裏切られたときのことを天秤にかけている。そんな表情だ。
たっぷり三十秒は固まっていたと思う。
「………好きにして」
殆ど聞き取れない小さな声。
咲太がスマホを開く。
「福山」で登録されていた番号に電話をかけた。耳に当てると、発信音が聞こえてくる。
「………」
二回目のコールでも福山は出ない。
「………」
じっと咲太を見つめる岩見沢先輩の瞳からは、期待と 緊張が伝わってきた。
電話口に変化があったのは、三回目のコールが終わったとき。向こうからざわめきが聞こえてきだ。それから少し遅れて、「もしもし、岸和田か?」と、怪訝そうな福山の声がする。
「あ、福山?僕だけど、梓川」
「えっ?はぁ?なんで梓川?」
なんで咲太が、俺のスマホから電話をかけてきたのか。
そういった疑問が福山の中で渦巻いているのが手に取るようにわかる。
だが、それを説明していたら本題に入る前に日が暮れる。
「まあ、それはいいから」
「いや、よくないけどぉ!」
「福山、今って外か?なんか後ろがざわついているけど」
「蒲田駅のホーム、京急の」
丁度そのタイミングで、次に来る泉岳寺行きのアナウンスが聞こえてきた。
「なんでまた蒲田?」
「羽田行きに乗り換えて空港に向かう途中だからよ?」
「もしかして、北海道に帰省か?」
「そういうこと。ちょっとごたごたあってさ」
言葉を濁した福山の声に、いつもの陽気さはない。
「んで、梓川は何の用?」
ごたごたの理由を聞く前に、咲太の方が聞かれてしまった。
「時間って、まだあるか?」
「早めに出てきたから、予約した便まであと一時間以上あるけど?」
「だったら、空港で待っててくれ。渡したいものがある」
「は?なに言ってんの?急に、こわいんだけど!」
「福山、今日が誕生日って言ってたろ」
「言ったけどさ」
「……もしかして、岸和田も一緒か?」
「もちろんだ」
「……なんだよそれ」
電話越しの福山は、明らかに戸惑っている。
(まぁそりゃあ困るよなぁ)
その気持ちはわからないでもない。立場が逆なら、俺も怪訝に思うことだろう。
「僕は意外と律儀な人間なんだよ。プレゼントも用意したから」
「まあ、わかった。空港の出発ロビーで待っとく。第二ターミナルね」
「すぐ行く。じゃあ、あとでな」
「羽田空港に行くぞ、岸和田」
「ああ、了解」
咲太が俺にそう告げると、岩見沢先輩も小さく頷いた。
山下料金所から湾岸線に入った車の中は無言だった。
「…....…」
「………」
俺も咲太も岩見沢先輩もしばらく口を開かず、薄く張られた緊張感に支配されている。
正直なところ、福山に会いに行くのは、大きな賭けだ。
結果がどちらに転ぶか、今の段階では皆目見当もつかない。
誕生日プレゼントのマフラーを切っ掛けに、福山が岩見沢先輩を認識できるようになればいい。
その逆の可能性も当然あって、やっぱり認識できないまま終わるかもしれない。
前者であればもちろん何の問題もない。
後者だった場合、ようやく見つけた解決の糸口を失うことになるかもしれない。
それは咲太にとっても、岩見沢先輩にとっても期待を裏切られる形になる。
それが岩見沢先輩にどんな影響を与えるかは正直わからない。
何も変わらないかもしれないし、状況がもっと悪くなるかもしれない。
リスクはある。
それでも、俺たちは福山に賭けるしかないと思っていた。
俺たちには岩見沢先輩を救う術がないから。
全校生徒の前で麻衣先輩に咲太が告白をしたときとは状況が違う。
岩見沢寧々に対しては、梓川咲太も、岸和田蓮真もまだ当事者になれていない。今も殆ど他人のままだ。
彼女の存在を確定させるだけの力が俺たちにはない。
岩見沢先輩に対して、その特別な力を発揮できる人物がいるとすれば、それは福山だ。
だから、福山に賭けるしかなかった。
俺はそう思いながら、車を快調に飛ばしていた。
「福山のことですけど」
「なに?」
「どっちから告白したんですか?」
咲太は横を走る車を目で追いながら、隣にいる岩見沢先輩に、そう尋ねていた。
「拓海が全然言ってこないから、わたしがそう仕向けたの」
「どうやって?」
「三年の先輩に告白されたんだけどって、発破をかけて」
「福山の焦りが目に浮かぶなぁ」
「それでも、なかなか言ってこなかったけど」
「それだけ、本気だったんじゃないですか?」
「そういうもの?」
「僕ならすぐ言いますけど」
「キャンパス内でも、彼女に好き好き言ってるものね」
「僕がよく言っているのは大好きですよ」
「君って変わってる」
「福山とは高校で知り合ったんですか?」
「中学から一緒だったよ」
「その頃から福山のこと意識してました?」
「好意を向けられているのは意識してた」
「福山のどこが好きですか?」
「さっきから質問ばっかり」
「僕が思うのは、気を遣わなくていいことに、ちゃんと気を遣わないのが、福山のいいところです」
「それって例えば?」
「大学入って、麻衣さんと付き合ってるのが本当かって、最初に聞いてきたのが福山なんですよ」
(そういえば、咲太そんなこと言ってたな……)
入学当初、咲太は『桜島麻衣』の恋人らしい………ということで、当然のように周囲の学生たちから興味の目を向けられた。
けれど、誰も面と向かって聞いてはこれなかったはずだ。
ある種の腫れ物のような扱いだったのだろう。
それは、違う学部だった俺から見てもそうだった。
そんな中、そうした空気を無視して、福山はあっさりその言葉を口にしたのだろう。
(福山らしいな……)
「なかなか告白はできないくせに、昔からそういうことはできるんだよね」
「それって例えば?」
「中学の頃、東京から引っ越してきた男子がいたの。転校生。その子、しばらく学校に行けてなかったみたいで、先にそういう噂がクラスに流れてて……誰かが話しかけるのを、みんなが待ってた」
(福山が言っていた東京からの転校生って、その子のことか……)
「でも、そんなこと少しも気にしてない様子で、最初に話しかけたのが拓海だった」
「それはちょっとかっこいいですね」
「あの転校生のおかげかな。それで、拓海を意識するようになったから」
「最近は、合コンばっか行ってるんで、ちゃんと怒った方がいいですよ」
「拓海にわたしが見えたらそうする」
車内に、短い沈黙が落ちる。
福山の話を聞きながら、俺はぼんやりとフロントガラス越しの景色を見ていた。
(……もし)
もし、あの頃。俺が学校に行けなくなって、教室の空気が怖くて、誰とも目を合わせられなかったあの時期に。
福山みたいなやつが、ひとりでもいたら。
噂とか、空気とか、周囲の視線とか、そんなものを無視して、「おい、岸和田」って、普通に声をかけてくれるやつがいたら。
(俺も、少しは違ったのかもな……)
全部が変わるとは思わない。
母さんがいなくなった事実も、あのループも、消えはしない。
でも。「ひとりじゃない」と思えたかもしれない。
あの時、俺は、世界から切り離された側だった。
誰も悪くない。ただ、誰も踏み込まなかった。
俺も、助けを求めなかった。
(福山みたいなやつが、あの時にいたらな……)
そう思った瞬間、少しだけ胸の奥が温かくなって、それと同時に、かすかな痛みも残った。
だからかもしれない。
岩見沢先輩の見えないを、他人事のままにしておけないのは。
あのときの自分と、どこか重なるから。
ハンドルを握る手に、ほんの少しだけ力が入る。
今は、俺が踏み込む番だ。
福山に賭けるのも、きっとその延長だ。
あの頃の自分に、届かなかった声の代わりに。今、誰かに届けばいい。
「でも、まさか、福山が年上だったとはな」
今日、誕生日を迎えた福山は二十一歳ということになる。俺たちより二歳年上。
「今後は敬語を使わないと」
「拓海、絶対に嫌がるよ」
(それはやめてやれ……)
「大事な彼女のことを忘れるような男には、それくらいの罰を与えた方がいいんですよ」
「ほんと、君は変わってる」
「全然普通です」
ナビを見ると、羽田空港までの残りの距離が三キロメートルを出ていた。
なんとか飛行機が飛び立つ前に、福山を捕まえられそうだ。
ただ、搭乗手続きや手荷物検査にかかる時間を考慮すると、決して余裕があるわけではない。
会えても五分から十分程度。
たっぷり時間があるわけではない。限られた時間の中で、『岩見沢寧々』の存在を取り戻せるかは未知数なまま。
その認識が、車内の緊張感を一段と高めていた。
巨大な空港の建物は、もう視界に入っている。
飛び立った飛行機は、空高く舞い上がっていく。
大型の立体駐車場に車を入れるのに多少手間取りはしたものの、ナビが示した到着時刻より
も幾分早く、俺たちは羽田空港にたどり着いた。
エンジンを切る。
静かになった車内に、自分の鼓動だけがやけに大きく響いた。
俺はポケットから車の鍵を取り出す。
少しだけ迷ってから、後部座席に座る岩見沢先輩へ振り返った。
「これ」
鍵を差し出す。
岩見沢先輩が、ゆっくりと視線を上げた。
「……なに?」
「帰りは、運転してくださいね」
できるだけ軽い調子で言う。
「……」
数秒の沈黙。
俺の手の中の鍵を見つめたまま、岩見沢先輩は動かない。
それから、小さく息を吐いた。
「……拓海に見えるようになったらね」
冗談の形をした、本音。
その言葉に、胸の奥がきゅっと締まる。
「……俺も、そうなってほしいです」
俺は無理やり笑って、鍵を助手席のドリンクホルダーに置いた。
「ありがと」
短い返事。
でも、その声はほんの少しだけ震えていた。
「行くぞ、岸和田」
咲太の声で、現実に引き戻される。
ドアを開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
だが、まだ空港に来ただけ。
ここは国内屈指の広さを誇る空の玄関口。車を降りてからも、福山が待つ第二ターミナルに
向かうには時間がかかる。
向かうには時間がかかる。
エレベーターに急ぐ俺たちの足には焦りがあった。
「福山が言ってた第二ターミナルって」
「そのエレベーターで下りられるんじゃないか?」
「詳しいな、岸和田」
「何回か来たことあるからな」
羽田空港には、旅行やら、JALやANAの工場見学やらで何度か足を運んだことがある。
巨大な格納庫に並ぶ機体を見上げたときの、あの非日常の匂い。
滑走路に並ぶ飛行機の尾翼の列。
(前に来たのは……大津と浜松さんのカタール遠征を見送りに来たときか)
あのときは、出発ロビーが妙に騒がしくて、でも二人は海外遠征なのか、気合が入っていて。
見送る側の俺のほうが、どこか置いていかれるみたいな気持ちになった。
それと。
吉和さんと、初めてちゃんと話したのも、この空港だった。
「……なんか、みんな同じ空の下で繋がってる感じがして」
そんなことを言っていた気がする。
(……空港って、いつも誰かとの繋がりに行く場所だな)
出発と、見送りと、再会と。
何かが始まる場所で、何かが終わる場所。
今日も、俺たちは福山を見送る側のはずだった。
なのに今は、逆に追いかけている。
足を止めたら、また誰かを取り逃がす気がして。
「岸和田?」
咲太に呼ばれて、意識を引き戻す。
「いや、なんでもない。こっちだ」
エレベーターのドアが開く。
俺たちは、第二ターミナルへ向かって駆け出した。
音もなくエレベーターが下りていく。
乗っているのは俺たちだけだ。
「………」
「………」
お互い何も言葉を発しなかった。静けさがエレベーター内を満たす。たった数秒間が妙に長く感じた。
ようやく到着のベルが鳴る。
ドアが開くのを我慢して待って外に出る。そこはもう出発ロビーだった。
航空会社の手続きカウンター。チェックイン用の機械が礼儀正しく並んでいる。その横には保安検査場の入口。
それらと向かい合うように、土産物や空弁を扱う売店や自販機が用意されている。
単なる平日ということで、利用客はそれほど多いわけではなかったが、この広さの中でたったひとりの人間を当てもなく探すのはさすがに無謀だ。
「LINEで福山に連絡するよ」
「ああ、頼む」
俺がそう咲太に声をかけると、岩見沢先輩は咲太の後方を見ていた。
「いた。あそこ」
岩見沢先輩の視線が示したのは、『2』の数字が付けられた時計のすぐ側。
ベンチに座っている若者は、確かに福山だった。
デニムのパンツに、厚手のコート。首には使い込んだマフラーをぐるぐる巻きにして、手にしたスマホを見ている。
ひとつ深呼吸を落としてから、俺たちは近づいていった。
「福山」
そう呼びかけると、福山は驚いた様子で顔を上げた。
「ほんとに来たよ。それに岸和田まで」
「行くって言ったろ」
「悪いな、急に」
「急すぎて、なんかの冗談かと思うでしょ」
呆れたような苦笑い。福山らしい笑い方だった。
ひとまず、無事、福山とは合流できた。
ただ、問題はここからだ。
この瞬間になっても、俺たちは福山にどう切り出すべきか、明確な答えを見つけられずにいた。
『岩見沢寧々』をのことを、ありのままを全部話したところで、理解してもらえるとは到底思えない。
福山にとっては見えない存在。認識できなくなっている存在。それはすなわち、存在しない存在だ。
その迷いから、咲太の視線は岩見沢先輩に向いていた。
咲太の斜め後ろで立ち止まっていた岩見沢先輩に。
一歩前に出た岩見沢先輩の唇がゆっくりと開く。
「拓海」
口からこぼれたのは大切な恋人の名前。
「んで、来てもらって悪いけど、あんま時間ないのよ」
だが、福山の目は俺たちに向けられたまま。
一ミリも岩見沢先輩の方へは動かない。話しかける相手も俺たちだ。
プレゼントを持った岩見沢先輩の手に力が入るのがわかった。
「聞いて、拓海。こっちを見て」
岩見沢先輩が訴えかけても、福山はその声に反応しない。
「そろそろ手荷物検査しないと、さすがにまずいからさ」
やり取りになっていないやり取り。
それが、咲太の口を開かせた。
「なあ、福山」
「ん?」
「そのマフラーさぁ」
「これ?」
首から前に垂らした尻尾を福山が掴む。
「誰にもらったか覚えてるか?」
「誰にって……ん?あれ?」
軽い調子で答えようとした福山の言葉が途中で行き詰まる。
「………」
すぐに、福山の表情は奇妙な疑問に埋め尽くされた。
どうしてわからないのか、眉根を寄せて悩んでいる。その不快感に口元を歪めていた。
「まじで、どうしたんだっけ………」
福山の疑問は自分自身に向けられている。
だが、しばらく考えても答えにたどり着くことはない。どんなに考えても答えは出ない。
「福山は大事な人のことを忘れてるんだよ」
「………なに?どういうこと?」
福山はますますわからないという顔をする。
「そのマフラーをくれたのは、福山が高校時代から付き合ってる彼女なんだ」
「いやいや、それはないって!」
冗談だと思った福山が大げさに笑う。
「….……」
けれど、咲太は真顔のままだ。にこりとも、くすりともしない。
「ほんとに、福山が彼女からもらったものなんだよ」
もう一度、咲太が事実を告げる。
今度は、無言で福山が受け止める。
表情に残っていた笑みは、時間とともに消えていった。
「....…悪い。梓川が言ってる意味がまじでわからない」
たっぷり十秒は考えてから、福山はようやくそう口にした。
「福山は忘れてるんだ。正確には、認識できなくなってるんだけど」
「………」
福山の視線が、ゆっくりと俺に向く。
「……岸和田も、同じこと言いに来たのか?」
疑いと、困惑と、ほんの少しの苛立ちが混じった声。
俺は一瞬だけ息を吸った。
逃げ道はいくらでもある。
「咲太の暴走に巻き込まれただけだ」とか、「詳しいことは俺もわからない」とか。
そう言えば、今まで通り踏み込まない側でいられる。
でも。
(今は、俺が踏み込む番だ)
「……ああ」
短く、はっきりと答えた。
福山の眉がぴくりと動く。
「本気で言ってるのか?」
「本気だ」
喉が少しだけ乾く。
それでも視線は逸らさなかった。
「福山、お前は忘れてる。けど、そのマフラーをくれた人は、ちゃんといる」
俺の言葉に、福山の表情がさらに強張る。
冗談を言っている相手を見る顔じゃない。
本気で、理解できないものを見る顔だ。
「……岸和田までそんな顔して言うなよ」
半分笑い、半分戸惑い。
「二人してドッキリか?」
「違う」
今度は即答だった。
「俺は、お前をからかうために、咲太と一緒に空港まで来てない」
福山の視線が、わずかに揺れる。
いつもの軽口が、少しだけ弱まる。
「……まじで、なんなんだよ」
その言葉は、怒りというより、不安に近かった。
俺は横目で、岩見沢先輩を見た。
プレゼントの紙袋を握りしめたまま、立っている。
福山の目は、やはり彼女を捉えていない。
でも。今、俺は逃げなかった。
咲太の後ろに隠れなかった。
「福山」
もう一度、名前を呼ぶ。
「俺も、同じことを言いに来た」
「……だって、そのマフラーをくれた相手のこと、思い出せないんだろ?」
「………それは、そうだけど」
「………」
俺と福山のやり取りを、岩見沢先輩は口を真っ直ぐ横に結んで見守っていた。
「本当に、福山には高校から付き合ってる彼女がいる」
「………」
福山の表情に変化はない。疑問と困惑で固まっている。
「中学から一緒で、高二の夏に福山から告白して」
「………」
何を言っても、福山は俺をじっと見据えているだけだ。
どれだけ真剣に聞いても俺や咲太の言葉がわからない。
それでも、わけがわからないこの状況に戸惑いながらも、耳は傾けてくれていた。
「名前は岩見沢寧々」
その名を口にすると、岩見沢先輩が息を呑むのがわかった。
だが、福山からの返答は、「……ごめん。まじでわからない」だった。
岩見沢先輩の表情が凍り付く。
瞳からは感情が失われていくのを感じた。
「ほんとに俺が付き合ってたの?」
「そのマフラーが証拠だ」
垂らしたマフラーを福山が改めて確認する。
「………」
見つめたまま動かない。表情も変わらない。
沈黙に息が詰まる。
「岸和田、梓川悪いけどさ……」
「俺、わかんないわ」
この状況に、心底弱ったという表情だった。
力なく福山が笑う。理解できない話をいきなりされながらも、この場をなんとか収めようとする笑み。
「もう一度、よく考えてくれないか」
俺がそう言葉にする前に、空港のグラウンドスタッフの声が出発ロビーに響いた。
「新千歳空港行き555便にご搭乗予定のお客様は、手荷物検査をお急ぎください」
「あ、やば。俺、もう行かないと」
ベンチから鞄を持って福山が立ち上がる。
咲太が声をかける。
「待ってくれ、福山」
「話はまた今度落ち着いてできるときにな。悪い、今回は急いでんだ」
保安機査場に向かいながら、咲太は最後まで食い下がった。
「信じられないかもしれないけど、僕は嘘なんて吐いてない!」
「梓川がそういうやつだってことはわかってるつもりだって」
「ほんとなんだ!」
「わかってるから」
そこで時間切れだった。
福山はスマホの画面を入場ゲートにかざして、保安検査場に入っていく。チケットを持っていない俺たちはこれ以上先には進めない。
中に入って振り向いた福山が軽く手をあげる。
それに俺たちも軽く手をあげて答えた。
「見送り、サンキュ」
「岸和田も、わざわざありがとな」
福山はそんな言葉を残して、金属探知機のゲートの向こうに消えていった。
こうなっては俺たちにはどうにもできない。
こうなる可能性も考えてはいた。
こうならない可能性に期待する気持ちがあった。
落胆していないと言えば嘘になる。
それは、俺たちよりも岩見沢先輩の方が大きいはず。
「霧島さん......?」
「岩見沢先輩……?」
福山を見送った咲太は、先ほどまで話をしていたベンチの方を振り向いた。
いるはずの人物がいない。
いればすぐに目に留まるミニスカサンタが見当たらない。
目に入ったのは、見覚えのあるプレゼントの包み。
さっきまで岩見沢先輩がいた場所に、サンタクロースからの贈り物がぽつんと置き去りにされていた。
俺たちはしばらく、その場から動けなかった。
ベンチの上に置き去りにされたプレゼントの包みが、妙に現実味を持ってそこにある。
さっきまで確かに、あのミニスカサンタがそこに立っていたはずなのに。
咲太が一歩近づいて、包みを見下ろす。
俺も同じように、視線を落とした。
紙袋の持ち手が、弱々しく揺れている。誰かが触れたわけでもないのに、空調の風で。
「……行くか」
咲太がぽつりと言った。
「……ああ」
俺は頷いた。置いていかれたプレゼントを拾い上げるかどうか、一瞬迷った。
そこにあるのは、贈り物じゃない。
残り香みたいなものだから。
俺たちは出発ロビーから離れて、エスカレーターを下りた。人の流れは淡々としていて、誰もが自分の用事だけを抱えて歩いている。
さっきの出来事が、ここだけ別の層で起きていたみたいに思えた。
京急の改札に向かう途中、咲太は何度か後ろを振り返った。
当然、そこには誰もいない。
改札を抜けて、ホームに降りる。
電車が来るまでの数分が、やけに長かった。
やがて、赤い車体が滑り込んできて、扉が開く。
俺たちは無言で乗り込んだ。
昼間の車内はそこまで混んでいない。座席もいくらか空いていて、俺たちは並んで腰を下ろした。
ふっと息を吐いた瞬間、ようやく身体の緊張が自覚できた。
「……弱ったな」
咲太が、空気に溶けるみたいな声で言った。
「……ああ」
俺も同じことを思っていた。
どうしようもない。
頑張った、とか、手を尽くした、とか、そういう言葉で片づけられる種類の無力じゃない。
ただ、そこに穴が空いていて、何を投げ込んでも落ちていくだけの感じ。
俺は窓の外を見た。羽田空港が遠ざかっていく。
「……悪いな」
咲太の横顔に向けて言った。
「力になれなくて」
咲太が、少しだけ眉を動かした。
「岸和田のせいじゃないだろ」
即答だった。
「気にすんな」
短い言葉なのに、俺の胸の奥に引っかかっていたものが、少しだけほどける。
でも、完全にはほどけない。
「……でもさ」
俺は続けた。
「麻衣先輩が一日警察署長やる予定の四日まで、時間ないだろ」
言った瞬間、咲太の視線がわずかに揺れた。
ほんの一拍、呼吸が止まったみたいに見えた。
「……お前が麻衣さんのこと気にかけるなんて」
咲太が、いつもの軽口に寄せた声で言う。
「……やっぱり、豊浜を心配させたくないからか?」
俺はすぐに頷いた。
「そりゃそうだろ」
声が少しだけ硬くなる。
「麻衣先輩になんかあったら、のどかが悲しむだろ……」
電車がカーブを曲がる。車輪の音が、会話の隙間を埋める。
咲太は前を向いたまま、ぽつりと返した。
「……それはそうだな」
その声が、妙に低かった。
いつもみたいに軽く笑って流す感じじゃない。
言葉の奥に、別のものが沈んでいる。
咲太の瞳が、窓の外じゃなく、もっと遠いどこかを見ているように見えた。
(何か、思い出してる……)
直感でそう分かった。
咲太の中で、別のもしもが揺れていた。
麻衣が交通事故に遭って、亡くなった世界。
のどかが泣いていた姿。
「ほんとにお姉ちゃんなの!?」
「間違いだよね……間違いだって……間違いだって言ってよぉぉぉ!」
顔をくしゃくしゃにして、涙でぐしゃぐしゃになって。
床に座り込んで、立っている力も残っていなくて。
「なんで、咲太がお姉ちゃんを守ってあげなかったんだよ!」
「なんで、お姉ちゃんを幸せにしてあげなかったんだよ!」
咲太の膝に手をついて、崩れそうな身体を支えながら。
「なんで……なんで……なんでよ」
その声が、咲太の中で今も鳴っていた。
俺は、咲太の横顔を見た。
「咲太」
名前を呼ぶ。
「……どうした?」
咲太は、ほんの一瞬だけ俺の方を見て、それからすぐに視線を逸らした。
「いや……なんでもない」
言い方が、いつもより短い。
それ以上踏み込めなくて、俺も黙った。
俺が踏み込む番だ、とさっき思ったばかりなのに、結局、踏み込めない場所はまだある。
電車は淡々と進む。
数駅過ぎたところで、咲太がふっと息を吐いて、今度は俺の方を見た。
「……岸和田」
「ん?」
「自分のこと、ちゃんと話せよ」
真面目な声だった。
「豊浜と……広川さんに」
俺は一瞬、言葉が出なかった。
心臓の奥を、指で軽く押されたみたいな感覚。
「二人が大事なら」
咲太は、俺の逃げ道を用意しない言い方をする。
必要なことだけを、必要な温度で突いてくる。
「……ああ」
俺は頷いた。
「わかってるよ」
嘘じゃない。
でも、“わかってる”と“できる”の間には、いつも薄い膜がある。
京急蒲田が近づいて、車内アナウンスが流れた。
俺は立ち上がる準備をする。
「ここで降りる」
「岸和田、蒲田で降りるのか?」
咲太が少し驚いた顔をした。
「ああ。藤沢戻るより、実家の方が近いからな」
「そういや、実家ってどこなんだ?」
「目黒だよ」
咲太の眉が上がる。
「岸和田、シティーボーイだな」
「それ、福山にも言われたよ」
俺が軽口で返すと、咲太も少しだけ笑った。
その笑いが、今の俺にはありがたかった。
電車が京急蒲田に滑り込む。
扉が開く。
ホームの冷たい空気が、熱を奪っていく。
俺は一歩外に出て、振り返った。
「岸和田」
咲太が言った。
「また、なんかあったら連絡する」
「ああ」
俺も頷く。
「咲太も気をつけろよ」
「……ああ」
咲太は短く返して、少しだけ間を置いてから言った。
「ありがとうな、岸和田」
その言葉は、さっきまでの“弱ったな”の延長にあった。
どうにもできなかった日の、せめてもの確認みたいに。
俺は手を上げて、軽く返した。
「……じゃあな」
「おう」
扉が閉まる。
電車が動き出して、咲太の姿が遠ざかっていく。
俺はホームに残ったまま、しばらくその背中を見送った。
まだ終わってない。
そう思った。
終わってないからこそ、きつい。
でも、終わってないからこそ、まだ踏み込める。まだ、やれることがある。
俺は品川方面の電車に乗り換えるために、階段を下った。
品川方面の電車のホームに立つと、風が思ったより冷たい。羽田で吸い込んだ空気と同じ匂いがするのに、どこかだけ違う。空港の明るさが消えて、いつもの街の景色が戻ってくる。
車内に乗り込んで座ると、ようやく肩の力が抜けた。抜けた分だけ、胸の奥の重さが目立つ。
岩見沢先輩は消えた。
福山は飛んでいった。
俺たちは、何も変えられなかった。
窓に映る自分の顔は、思った以上に疲れていた。目の下が薄く落ちている。笑えるほどじゃない。泣けるほどでもない。いちばん厄介な、何も言えない顔。
目黒の実家に着いたのは、夕方を過ぎた頃だった。
鍵を開けて玄関に入ると、家の中は静かだった。暖房の残り香と、少しだけ湿った空気。生活の匂いが、ちゃんとある。
コートを脱いで、洗面台で手を洗う。冷たい水が指先を刺して、現実に戻される。
そのまま自室に入り、ベッドに腰を落とした。
スマホをテーブルに放り投げる。画面は暗いままなのに、さっきから手のひらだけが勝手に鳴っている気がする。
福山の声。岩見沢先輩の震え。咲太の「話せよ」。
しばらく、何もしない時間を作った。
何もしないと、何も忘れられないのがわかった。
天井を見上げたまま、息を吐く。
四日。
麻衣先輩が一日警察署長をする日。
そして、もしもが現実になる可能性がある日。
言葉にした瞬間、喉が苦くなる。何かを吐き出したいのに、吐き出す言葉がない。
そんなときだった。
テーブルの上で、スマホが震えた。
画面には、グループチャットの通知。
《きっしー観察会》
(……このタイミングで来るの、ずるいだろ)
指先で画面を開くと、最初に飛び込んできたのは卯月のメッセージだった。
《きっしー!四日にライブがあるんだけど、来れる?》
息が止まりそうになる。
四日。同じ日付が、文字として並んでいるだけなのに、心臓がぎゅっと縮む。
俺は少しだけ迷ってから、打った。
《その日は、ちょっと用事があって、行けそうにないな》
送信。既読がつくのが早い。すぐに、のどかの返信が来た。
《もしかして、お姉ちゃんの一日警察署長のイベント行くの?》
「……鋭いな」
のどかは、こういうとき外さない。
《ああ、そうだよ》
短く返す。余計な言い訳をつけると、逆に怪しまれる。
次のメッセージは、のどか。
《蓮真が、お姉ちゃんのイベント行くなんて珍しいね》
指が止まった。
言えない。
麻衣先輩がその日、意識不明の重体になるかもしれない、なんて。
そんなことを言った瞬間、のどかの心は壊れる。
俺は、画面の明るさを少し落としてから、冗談の形に逃げた。
《咲太にせがまれたんだよ。警察署長の麻衣さん最高だぞ。とか言われてさ》
送信してすぐ、のどかの《……》が出た。
その三点リーダーが、妙に重い。
少し遅れて、のどかが続ける。
《蓮真。お姉ちゃんをエロい目でみんな!って咲太に伝えといて》
(……お前、それ本人に言え)
喉の奥が、笑いとため息の中間みたいに鳴った。
《了解》
短く返して、そこで会話を切ろうとした矢先、卯月がまた割り込んできた。
《きっしー!四日のライブ来れないなら、十八日の八重のバースデーライブは来てね!》
十八日。
未来の日付。
今の俺にとって、その「未来」が眩しすぎた。
四日を越えられたら、そこに行ける。
越えられなかったら、未来の話は、ただの嘘になる。
俺は、画面を見つめたまま、少しだけ呼吸を整えた。そして、打った。
《ああ、わかったよ》
送信。
既読がつく。
そこからしばらく、チャットは静かになった。
スマホを伏せて、俺はベッドに仰向けになった。
天井の白が、昼より少し黄ばんで見える。照明のせいか、気分のせいか。
卯月の「来てね」は、ただの誘いのはずだった。
のどかの「珍しいね」も、ただの感想のはずだった。
なのに今の俺にはその全部が、釘みたいに刺さる。
俺は、目を閉じた。
胸の奥に、言葉にならないものが渦を巻く。
いつか話さなきゃいけない。
俺が経験してきたループのこと。
そして、その奥にある、あのこと。
喉元まで上がってきて、結局、飲み込んできたもの。
黙っていることで守れているものと、黙っているせいで壊しているものが、もう釣り合わなくなってきている。
(二人に、いつ話すんだ……)
答えはまだ出ない。
でも、きっと。その「いつか」は、遠くない。
俺は、そう思いながら、暗い部屋の天井を見つめ続けた。
——同じ時間の、スイートバレットのレッスン室。
レッスンを終えたばかりの床は、まだ足の裏に熱を残していた。鏡の前に置かれたペットボトルの水滴が、照明を反射してきらきら光っている。
八重とほたると蘭子は、いつも通りのテンポで「おつかれ〜」と言い合って先に出ていった。ドアが閉まると、室内に残った音は、エアコンの風と、衣装袋の擦れる音だけになる。
のどかはタオルで首元を拭きながら、呼吸の余韻を整えていた。
隣で卯月は、髪をおろしてから自分のバッグを探している。いつもなら、ここからは他愛のない話に流れる。今日もそうなるはずだった。
「ねえ、のどか」
卯月が、靴紐を結びながら顔を上げた。
「ん?」
「バレンタインさ〜。きっしーに、チョコ渡す?」
のどかの手が一瞬止まる。タオルの端を握ったまま、視線だけが宙を泳いだ。
「……うん。渡そうと思う」
言い切った声は平静を装っていたのに、胸の奥だけが勝手に早くなる。
「いいね、それ!」
卯月は、いつもの調子で笑った。軽いのに、どこか嬉しそうな笑い方。
「きっしー喜んでくれるかな?」
「……そうだね」
のどかは笑おうとして、笑いきれなかった。
ほんの一拍だけ、言葉に余白が落ちる。卯月はそれに気づいたのか、珍しく次の言葉を急がなかった。
鏡の中で、のどかの目が自分自身を見ている。逃げられない目だ。
「……あのさ、卯月」
声のトーンが変わった。レッスン後のふわふわした空気じゃない。芯のある、まっすぐな音。
「なに?のどか?」
卯月も自然に背筋を伸ばす。空気が、ほんの少しだけ改まった。
のどかは一度だけ息を吸って、吐いて、それから言った。
「……あたし。蓮真に、告白しようと思う」
言った瞬間、胸の奥が痛いくらいに熱くなった。
言葉にしたら終わる。今までの曖昧なままの関係が、もう戻れなくなるかもしれない。分かっているのに、止められなかった。
卯月は、すぐに笑わなかった。冗談にもしなかった。驚いた顔のまま、でもちゃんと、のどかの目を見ている。
「……うん」
短く返して、続きを促すみたいに頷く。
のどかは、その頷きに背中を押される形で言葉を続けた。
「この間ね……言いかけたんだ。ほんとに、もう少しで」
指先がタオルの縫い目をなぞる。無意識に、逃げ道を探してしまう癖が出る。
「でも、卯月もいるし」
喉の奥が詰まる。言い訳みたいに聞こえるのが嫌だった。でも、事実だった。
「卯月とも、蓮真とも……今までの関係、壊したくなくて。怖くて、言えなかった」
卯月は黙って聞いている。空気が読めない、じゃなくて、空気を壊さない。
今の卯月は、そういう静けさを選んでいた。
のどかは、最後の言葉を選ぶみたいに、ほんの少しだけ間を置いた。
「でもさ……あたし、そろそろちゃんと伝えたいんだ」
顔を上げる。鏡じゃなく、卯月を見る。
「自分の気持ちに、逃げたくないから」
「……のどか」
卯月の声は柔らかかった。なのに、その柔らかさが、なぜか強かった。
のどかが「だから……」と言いかけた、その瞬間だった。
卯月が、すっと手を上げた。珍しい仕草。遮るというより、先に立つみたいな動き。
それから、卯月は迷いなく言った。
「じゃあ私も、きっしーに告白する。好き!って」
のどかの思考が一拍止まった。
「え……」
卯月は、いつもの笑顔に戻りかけて、でも戻りきらない。笑っているのに、目が真剣だった。
「だって、のどか」
卯月は指を一本立てた。約束を数えるみたいに。
「前に約束したじゃん。どっちかが振られても、どっちかと付き合っても……私たちの関係は変えないって」
のどかの胸が、ぎゅっと締まる。嬉しいのに、怖い。守られているのに、試されている。
「だから、私も頑張る!」
卯月は拳を小さく握って見せた。いつもの元気のジェスチャー。でも、今日のそれは軽さじゃない。
「のどかも、頑張る!」
のどかは、笑っていいのか分からなくて、泣いていいのかも分からなかった。
でも、逃げないって言ったのは、自分だ。
「……うん」
のどかは頷いた。声が少しだけ震えて、それを隠すみたいにもう一度頷く。
「頑張る」
卯月が「うん!」と明るく言って、二人でバッグを持つ。ドアに向かう足音が、少しだけ揃っているのが不思議だった。
レッスン室を出る直前、のどかは一度だけ振り返った。鏡の中に映る自分は、汗で少し乱れていて、それでも目だけは前を向いていた。
壊れるかもしれない。
でも、壊れるのが怖いからって、何も言わないまま終わるのは、もっと嫌だった。
廊下の蛍光灯が、二人の影を長く伸ばす。
レッスン室を出る直前、卯月がふっと足を止めた。
ドアノブに手をかけたまま、のどかのほうを振り返る。いつものみたいに大きな笑顔じゃない。けど、逃げない目だった。
「のどか」
呼び方が、少しだけ丁寧に聞こえた。
「私さ、空気読めないってよく言われるじゃん?」
自分で言って、卯月は小さく笑う。笑ってるのに、声は真面目だった。
「でもね……のどかがいま“怖い”って顔してるのだけは、わかっちゃった」
のどかの喉が、きゅっと鳴った。
卯月は、もう一歩だけ近づく。距離を詰めるというより、隣に立つみたいに。
「きっしーに“好き!”って言うの、たぶん、すごく怖いよね。結果も、分かんないし」
一拍、息を置いて。
「だからさ」
卯月は、のどかの目を見たまま言い切った。
「どっちの結果でも、のどかのこと、置いてかない」
のどかの目が揺れる。
卯月は照れ隠しみたいに、少しだけ明るい声に戻した。
「約束、だよ。ね?」
のどかの目が揺れる。
卯月は慌てて明るい顔を作るみたいに、いつものテンポに戻した。
「だから、ふたりで、ちゃんと“好き!”って言お!」
軽く拳を握って見せる。
のどかは、笑うしかなかった。笑った瞬間、胸の奥の怖さが少しだけ薄くなる。
「……うん」
「よし!」
卯月がドアを押し開ける。廊下の冷たい空気が流れ込んできて、のどかの頬の熱を少しだけ冷ました。
二人は並んで外に出る。
その歩幅は、さっきよりほんの少しだけ揃っていた。
二月一日
昼の光が、カーテン越しに部屋の床へ伸びていた。
俺は実家の自室で、特に何をするでもなくベッドに寝転がっていた。
大学の課題は片付いているし、急ぎの用事もない。
TVもつけず、スマホも伏せたまま、ただ天井を眺めているだけの時間。
こういう「何も起きない時間」は、最近妙に貴重だ。
岩見沢先輩のことも、四日のことも、頭の片隅にはある。
でも、今この瞬間だけは、考えないふりができる。
静かな家の中に、遠くで車の走る音がかすかに響く。
そのとき、テーブルの上でスマホが震えた。
画面を見ると、“福山”の文字。
(……珍しいな)
空港の日以来、直接連絡を取ってはいない。
少しだけ間を置いてから、通話ボタンを押した。
「もしもし、岸和田か?」
「福山か……どうした?」
「ああ。ちょっと岸和田に聞きたいことと、伝えたいことがあって」
「そっか……何だよ聞きたいことと伝えたいからことって?」
「まあ、まずはこないだ空港では悪かった」
「いや。あれは俺たちの方こそ……急に突拍子もない話をして悪かった」
「でもちゃんと話を聞けなかったろ?結局、岸和田と梓川が何を言いたいのか、わからなかったしさ」
「いいよ。気にしてない」
気にしているとしたら岩見沢先輩の方だ。
あの日からどうしているのか、俺たちは知らない。
「でさ、聞きたいことなんだけど」
「ん?」
「梓川の電話番号、教えてくれないか?」
思わず身体を起こした。
「……咲太の?」
「ああ。直接、ちょっと話したくて」
冗談めいた調子はない。
軽口もない。
「空港のときの話、ちゃんと聞いてなかっただろ、俺」
福山は、少しだけ言い淀んでから続けた。
「……正直、あれからずっと気になっててさ」
胸の奥が、わずかにざわつく。
「梓川があんな顔で言うの、見たことなかったし」
「……」
「岸和田も、本気だったろ?」
問いかけというより、確認に近い声。
俺は一瞬だけ迷ってから、答えた。
「ああ。本気だ」
福山が小さく息を吐く。
「だよな」
それから、少しだけ間を置いて。
「だから、ちゃんと聞きたい。あのときの続き」
何も動いていなかったはずの時間が、また静かに動き出す。
俺はスマホを耳に当てたまま、ゆっくりと言った。
「……わかった。番号、後で送るよ」
「福山の方こそ、あの日、なんかごたごたしてるって言ってたけど、そっちは大丈夫だったのか?」
「んー、まあ、その話もしようと思って」
あの日と同様に、福山のテンションがわずかに下がる。
口調も少しゆっくりになった気がする。それは恐らく気のせいではない。
再度口を開く前に、福山は無意識に息を長く吐いていた。
「あのときさ、北海道から連絡あって」
「もしかして、あんまりよくない話か?」
「んー、そういう話………中学の頃のクラスメイトが交通事故で死んだって連絡」
どこか遠くに聞かせるように……だけど、独り言のように福山は語った。
「仲の良かった子か?」
「高校は別々だったから、卒業してから会ってなかったけど……中学の頃は、結構話してたかな。二年のときに東京から引っ越してきたやつで」
(岩見沢先輩が、福山を意識する切っ掛けになった子か……)
「葬式には出たかったから。余裕なくて悪かった」
「……そんな日に……こっちこそ悪かった」
「まあ、でも、急いで帰って正解だったよ。葬式って生きてる人間のためにやるって、ほんとだな」
どこかしんみりした福山の声は、空に向けて紡がれているように聞こえる。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに軋んだ。
(……葬式は、生きてる人間のため)
俺は、あのときのことを思い出していた。
黒い服。焼香の匂い。泣き疲れた親戚の顔。
淡々と進む式の流れの中で、現実だけが取り残されたみたいに浮いていた感覚。
あのとき、俺はちゃんと泣けていただろうか。
それとも、ただ立っているだけだったか。
思い出そうとすると、音が少し遠くなる。
(あれが……)
あの日が、最初だった。
どうにかできたはずだ、って。
もし、もう少し早ければ、とか。
もし、あのとき俺が、とか。
そんな“もしも”を、初めて本気で掴もうとした日。
やり直したい、と思った日。
胸の奥に、あのときと同じ鈍い重さが戻ってくる。
でも、それを口に出すことはしなかった。
福山の話の途中で、自分の過去に逃げるのは違う。
「じゃあ、ちゃんとお別れはできたわけだ」
「してきたよ。途中でボロボロ泣いて。昔のクラスメイトにめっちゃ笑われたわ」
自分を元気づけるように、福山が小さく笑う。
でも、話していると込み上げるものがあるのか、軽く鼻をすすっていた。
「わざわざ、それを言うために、俺に電話してきてくれたのか?」
「いや、それもあったんだけど……集まった同級生たちから変な話を聞いてさ」
「変な話?」
「#夢見るのことで」
「北海道では今も流行ってるのか?」
「ああ。まだ流行ってる。合コンなんて、だいたいまずその話よ??」
「ありそうだな、それは」
「岸和田は合コンと縁がないもんな」
「まぁそうだな。でも、この間の合コンは意外と楽しかったよ」
「それで、#夢見るがどうしたんだよ?」
「事故で死んだ俺の友だちさ。イブの夜に夢を見てなかったんだよ」
「……そうなのか?」
いわゆる大人たちは、#夢見るで語られている現実みたいな夢を見ていない。
同世代の中にも、麻衣先輩のように見ていない人はいる。岩見沢先輩も見ていないと言っていた。
「あれ、未来を見てるって、信じられてるよな?」
「一般的にはそうだな」
そうではない可能性もあると、咲太や赤城の仮説で、俺は思ってはいるが。
「だから、夢を見なかったのは、『未来で死んでるから』なんじゃないかって………俺の同級生たちの間では噂されてたんだよ」
「………」
今まで考えもしなかった説だ。
未来に自分が存在していなければ、確かに未来の自分を夢に見ることはできない。
当たり前で簡単な方程式。
理屈は通っている。
「そんなわけないと思うけど……前に、岸和田が夢を見てないって話、俺、聞いた気がして」
つまり、これこそが電話の理由。
「俺もそう思うけど……教えてくれてありがとな」
福山の話にはまだ何の確証もない。
だが、福山のおかげでばらばらだったピースがいくつか繋がった気がする。
古賀が見た夢。
俺と麻衣先輩が夢を見なかった理由。
もし、本当に麻衣先輩が一日警察署長をやっている際に、意識不明の重体になるのなら……その状態が、咲太やみんなが夢に見た四月一日まで続くのなら、麻衣先輩が夢を見なかった理由には納得がいく。
ただ、矛盾する部分もある。俺以外の大勢が見た夢。
麻衣先輩が自らを「霧島透子」だと名乗った夢とは結びつかない。
だとすれば、赤城と咲太の話が真実を捉えているのだろうか。
夢は未来ではなく、別の可能性の世界。それを覗いていたにすぎない。
夢を見なかったのは、夢を見ていない当事者が思春期症候群に罹っているから。
真実の天秤は、それらに傾きかけている。けれど、まだ決めつけるのは危険だ。
福山の話によって、新しく見えてきたものがあるのは確かだ。
だが、まだ見えていないものの方が大きい気がする。
「まぁ無いと思うけどさ。岸和田も気をつけろよ」
「……ああ」
「じゃあな。番号、あとで頼む」
「わかった」
通話が切れる。
部屋に、さっきまでよりも濃い静寂が落ちた。
スマホの画面が暗くなる。
俺はそのまま、しばらく動かなかった。
(未来で死んでるから、夢を見ない)
福山の言葉が、頭の奥で何度も反響する。
そんなわけない。
ただの噂だ。
根拠もない、与太話。
理屈としては通るけど、だからといって真実とは限らない。
わかっている。わかっているのに。
もし。
もし、本当にそうだとしたら。
俺は、夢を見ていない。
麻衣先輩も、見ていない。
それは偶然か。それとも……
胸の奥が、ひやりと冷える。
(まさか……)
一瞬だけ、最悪の像が浮かんだ。
自分の思春期症候群が、再発して。誰かを巻き込んで。
その連鎖を止めるために、俺が……
そこまで考えたところで、胃の奥が強く縮んだ。
込み上げるものに、思わず口を押さえる。
「……っ」
吐き気だ。
考えただけで、身体が拒否する。
そんな未来を、自分で選ぶ?
そんな結末を、俺が?
ありえない。
ありえないはずだ。
でも、絶対にないと言い切れない自分がいる。
それが、いちばん気持ち悪い。
俺はゆっくりと深呼吸をした。
一回。
二回。
空気を吸って、吐く。
大丈夫だ。
まだ何も決まっていない。
四日は来ていない。
未来は、確定していない。
(考えすぎだ)
そう自分に言い聞かせる。
でも、胸の奥に残った冷たい感触は、すぐには消えなかった。
俺はスマホを握り直して、咲太の連絡先を福山に送る。
送信完了の表示が出る。
それだけで、少しだけ現実に戻れた気がした。
未来がどうであれ。
今はまだ、ここにいる。
それだけは、確かだから。
二月二日
翌日。昨日とは違い、俺は目黒区民センターの図書館にいた。
窓際の席で、開いたままの本を前にしている。
文字は追っているが、頭の奥では別のことを考えている。
四日。
霧島透子。
#夢見る。
どれもまだ形にならないまま、曖昧に浮かんでいる。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見る。
咲太の家電だ。
俺は一度だけ息を吐いて、席を立った。
図書館の外へ出て、隣の屋内プールの入口付近まで歩く。
人の声と水の音が遠くに混ざる場所で、通話に出た。
「もしもし」
「岸和田か」
「どうした」
「昨日、霧島さんから連絡があった」
胸が、わずかに強張る。
「神奈川県横浜市金沢区洲崎町23-18の201号室。明日の午後三時半に来てくれってさ。手伝ってほしいことがあるらしい」
「……わかった。行く」
「じゃあ、金沢八景駅東口に、十五時集合でいいか?」
「ああ。あとそれと」
咲太の声が、少しだけ低くなる。
「岸和田、お前、福山に電話番号教えただろ?」
「ああ。ごめん、まずかったか?」
「いや。いいけど」
間。
「それより、福山から#夢見るの話は聞いたか?」
「ああ。夢を見てない奴は未来で死んでるかもしれないってやつだろ」
「そうだ」
少し沈黙が流れる。
「麻衣さんもそうだけど、岸和田も夢を見てないだろ。だから、ちゃんと知ってんのかって思ってな」
俺は一瞬だけ目を閉じる。
「……俺は大丈夫だよ。それよりお前は、麻衣先輩を心配しろよ」
「麻衣さんは僕が必ず守るよ」
即答だった。
「でも、ありがとな。岸和田」
「礼を言われることじゃない」
「それと、気になったことがあってな」
「なんだよ」
「岸和田って、古賀の夢。未来シミュレーションには出てきたのか?」
「……いや。この間古賀に直接聞いたけど、出てきてないらしい」
自分で言っていて、どこか空白を感じる。
「俺も、それが分かれば、#夢見るの真実や、夢を見る人と見ない人の違いに気づけると思ったんだけどな」
「そうか」
咲太は続ける。
「岸和田は、僕と古賀が高二の夏にループしたことは知ってるんだろ?」
「ああ。断片的にはな」
「その時も、お前は出てきてないって話はしたよな。僕がループしていた時、麻衣さんがお前に介添え人を頼むことがなかったこと」
「ああ。でもそれは、古賀がループしていた時に、麻衣先輩とお前がまだ正式な恋人じゃなかったからだろ?だから俺は介添え人にならなかっただけだ」
「そうだけどさ。でも、古賀のシミュレーションに出てこない特異点ってことに変わりはないだろ?」
……特異点。
その言葉が、妙に重く落ちる。
「……まぁ、そうだな」
「だから、何かの特異点になっている人は夢を見ないって可能性もあるのかなって思ってな」
俺は苦笑する。
「……咲太。もしかして、俺を安心させてくれてるのか」
「まあ。そう思っとけ」
短い沈黙のあと。
「ありがとな。気にかけてくれて」
「まぁ、お前になんかあったら、豊浜と広川さんが悲しむからな」
「それ、今言うなよ」
少しだけ笑いが混ざる。
でも、その言葉は、思っていたより深く胸に刺さった。
「じゃあ、明日な」
「ああ」
通話が切れる。
俺はしばらく、プールの入口の自動ドアを眺めていた。
特異点。
夢に出てこない存在。
未来に確定しない存在。
……それが俺だとしたら。
吐き気まではいかない。
でも、胸の奥に冷たい影が残る。
それでも。
明日、俺は行く。
岩見沢先輩に会いに。
麻衣先輩を守るために。
それが今の、俺の選択だ。
——同じ時間の、咲太の家。
電話を切ったあと、咲太はしばらく固定電話を見つめていた。
(そういえば、牧之原さんも……)
高二のあのループ。
彼女も、出てこなかった。
(もし、牧之原さんも特異点で、夢を見てないなら……)
翔子が夢を見ていないことを確認できれば、自分の仮説は、成立する。
だが。沖縄の空の下で笑う彼女の顔が浮かぶ。
あの笑顔に、不安を持ち込むのは違う。
「牧之原さんには幸せになってほしい」
彼女が安心して前を向けることの方が、大事だ。
それに。
以前、理央が言っていた。
岸和田蓮真は、牧之原翔子と量子もつれを起こした可能性がある
もしそれが事実なら。
これ以上、彼女を巻き込むのは違う。
(明日、また霧島さんに会う)
麻衣を守るために。
そして。岸和田蓮真を、守るためにも。
登場人物紹介
名前 福山拓海『ふくやまたくみ』
身長 174cm
誕生日 1月30日
岸和田蓮真、梓川咲太と同じ大学の統計科学学部に在籍する一年生です。
学内では咲太と行動を共にすることが多く、軽快な語り口と距離感の近さで場の空気を動かすタイプの人物です。
初対面でも臆することなく踏み込み、人と打ち解けるのが得意で、気づけば会話の中心にいるような存在感を持っています。
大学内で「桜島麻衣の恋人」という理由から一種の腫れ物のように扱われていた咲太に対し、最初に真正面から踏み込んだのも彼でした。
その態度は、噂と距離だけで構成されていた咲太の立ち位置を確実に変えます。
遠巻きに観察される存在から、いじられ、突っ込まれ、普通に話しかけられる存在へ。福山の無遠慮さは、結果的に咲太を孤立から引き戻す役割を果たしました。
周囲には明かしていませんが、彼は二浪しているため咲太より二歳年上で、年齢差を意識しているのか、その事実を自ら話題にすることはありません。
しかし、時折見せる落ち着きや、場をまとめる間の取り方には、同学年よりも少し長く足踏みしてきた時間の影が滲みます。
出身は北海道。高校では岩見沢寧々の同級生であり、高校二年生の夏から寧々と交際していました。
寧々を追って同じ大学を受験し、二浪の末にようやく合格します。しかしその直後、寧々が「霧島透子」として振る舞うようになったことで、周囲と同様に彼女を岩見沢寧々として認識できなくなります。
大学の志望動機、二浪した理由、恋人だったという記憶。彼女に関するあらゆる個人的な動機が、まるで最初から存在しなかったかのように欠落していました。それでも、説明のつかない違和感だけは残り続けています。
岸和田蓮真との関係は、咲太ほど密接ではありませんが、単なる学友以上の距離感にあります。空港でのやり取りのように、本気かどうかを確かめ合える相手であり、軽口の奥にある真剣さを見抜くことができる存在です。
福山拓海は、人と打ち解けることで世界を広げていく人物でありながら、同時に、自分だけが思い出せない大切な何かの周縁を、今日も無自覚のまま歩いている存在といえます。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月