青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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7.消えかけたサンタを、取り戻す旅に出る

 

 二月三日

 

 節分。

 

 金沢八景駅東口は、平日の午後らしい穏やかな人の流れだった。改札を抜けたところで立ち止まり、俺は腕時計を見る。十四時五十七分。

 

 ほぼ同時に、改札の向こうから見慣れた顔が出てきた。

 

 「悪い、待ったか?」

 

 「いや、今来たとこだ」

 

 咲太は首から提げた黒のマフラーの位置を直しながら、いつもの調子で隣に並ぶ。特別急いでいる様子もないが、目の奥だけが少しだけ硬い。

 

 「一昨日な、美東と会った」

 

 歩き出してすぐ、咲太が言った。

 

 「……美東さんと?」

 

 思わず聞き返す。

 

 「同じ自動車学校に通ってたみたいでな。教習の待ち時間がやたら被るらしい」

 

 「へえ……」

 

 意外な接点だった。世界は狭いというより、勝手に交差していく。

 

 「で、そのときに見せられたんだよ」

 

 「何を?」

 

 「去年のミスコンの動画。霧島さんがピアノ弾き語りしてるやつ」

 

 足が一瞬だけ止まりかける。

 

 「……そんなの、あったのか」

 

 「ああ。検索すれば出る。タイトルは確か、“ミスYCUコンテスト特別披露【岩見沢寧々】”とかそんな感じ」

 

 俺はポケットからスマホを出す。画面に映る自分の顔が、少しだけ強張っているのがわかった。

 

 検索窓に指を置く。

 

 {ミスYCUコンテスト特別披露【岩見沢寧々】}

 

 予測変換が、勝手に続きを提示する。

 

 サムネイルが並ぶ。スポットライトの下、白いドレス姿でピアノの前に立つ女性。

 

 再生回数は二百万回。

 

 「これか」

 

 小さく呟いて、再生ボタンを押す。

 

 進行役の学生が「それでは、エントリーナンバー1、岩見沢寧々さんによる特技接露になります」と会場を盛り立てる。

 

 歓声と拍手の中、岩見沢先輩はステージに置かれたピアノの前に座った。

 

 深呼吸をひとつ。

 

 それに合わせて、歓声と拍手がすーっと鳴り止む。

 

 直後、鍵盤に下ろされた岩見沢先輩の指は、聞いたことのあるメロディを奏でた。

 

 「これって、霧島透子のSocial Worldだよな?」

 

 俺が顔を上げて咲太を見ると、咲太は無言で頷いた。

 

 長い前奏が終わる。

 

 岩見沢先輩が大きく息を吸い込んだ。

 

 次の瞬間、瞳を閉じた彼女の歌声が、会場の空気をやさしく震わせた。

 

 見えない歌の波が、体の前から後ろへと通り抜けていく。

 

 その体を撫でられるような感触に、感情が後から追いついてくる。足元から頭の方へと一気に高揚感が駆け上がっていった。

 

 まず観客たちは言葉を失っていた。

 

 きっと、ここに集まった誰もが、歓声を上げ、手拍子を送り、会場を盛り上げるつもりでいたはずなのに………

 

 自分たちも盛り上がるつもりでいたはずなのに……

 

 圧倒されて聞き入っていた。

 

 そうしてしまうだけの魅力的な歌声だった。

 

 俺も口を半開きにしたまま、最後まで映像の成り行きを見守ることになった。

 

 やがて、会場の心を鷲掴みにしたまま、岩見沢先輩は一曲を歌い終える。

 

 ピアノの音が遅れて止まった。

 

 それでもまだ会場は静まり返っている。

 

 岩見沢先輩が椅子から立ち上がってようやく、観客の感情は爆発した。興奮した雄叫びが上がる。

 

 「すげえ!」、「最高!」、「本物みたいじゃん!」と、次から次へと称賛の声が飛ぶ。誰かが指笛を鳴らしていた。

 

 拍手が鳴り止まない。

 

 興奮が収まらない。

 

 いつまでも続きそうな勢いだ。

 

 結局、動画の方が先に終わりを迎えた。

 

 熱狂のまま画面がブラックアウトする。

 

 「岸和田、コメントも見てみろ」

 

 咲太にそう促され、俺は画面を下にスクロールしていく。

 

 {まじでいい}

 

 {上手いじゃん、ほんと}

 

 {てか、霧島透子に似てませんか?}

 

 {歌声ほんとまんまに聞こえるねまさかの本物登場とか?}

 

 {誰か検証してよ}

 

 {どう考えても、これ霧島透子でしょ}

 

 「最後のコメントは、十ヵ月前の四月か」

 

 「ああ。多分この後、僕たち以外の人は、霧島さんを認識できなくなったんだろうな」

 

 流れはじめたのはミュージックビデオ。

 

 児童公園のブランコに、ブリキのトナカイが置かれた映像。

 

 そのトナカイには、見覚えがあった。

 

 「このトナカイって……」

 

 先日、岩見沢先輩と一緒に元町に行った際に、山手エリアのサンタの家で購入したものだ。

 

 それに気を取られていると、前奏を終えて歌が鼓膜を刺識した。

 

 最初の一声で、意識は歌声に持っていかれる。それだけ、さっき聞いたばかりの岩見沢寧々の歌声に似ていた。

 

 Aメロも、Bメロも、サビ前も、サビもまったく同じに聞こえる。違和感がない。

 

 何も知らなければ、何の疑いもなく同一人物の歌だと思うだろう。間違いなく思う。

 

 霧島透子本人なのではないかと、コメント欄が盛り上がる理由はよくわかった。

 

 だが、聴き比べる。

 

 ほんの僅か。

 

 霧島透子の歌は、どこか澄みすぎている。

 

 岩見沢寧々の歌は、透き通っていながら、ほんの少しだけ低い。

 

 地に足がついている。

 

 胸の奥が、わずかに軽くなった。

 

 同時に、どうしようもなく寂しくなる。

 

 (……やっぱり、岩見沢寧々は霧島透子じゃない)

 

 そう思った。咲太が続ける。

 

 「美東が言うには、岩見沢寧々のインスタにも質問のコメントがいっぱいあったらしい」

 

 「それに、霧島透子で検索すると普通に出てくる動画が沢山あって、どれも二百万回以上再生されてるけど、その動画も四月を境にコメントがぴたりと止まってるらしい」

 

 「……そうなのか。美東さん、随分細かく見てたんだな」

 

 「ああ。『わたしと梓川くんと岸和田くんにしか見えない人がいるって、こわすぎるでしょ』って言ってた」

 

 「それはごもっともだな」

 

 一通り動画を見終え、俺は咲太に尋ねた。

 

 「もしかして、この霧島透子を名乗っている人たちまで、見えなくなってるってことないよな?」

 

 咲太は一瞬だけ視線を落とす。

 

 「その可能性はある。現に、美東と教習所終わりに飯を食いに行ったとき、店員のおばさんに動画を見せても、画面も音も見えないし聞こえなかった」

 

 「……それは、参ったな……」

 

 「ああ」

 

 風が吹く。

 

 駅前のざわめきが戻る。

 

 動画の中では、彼女は確かに存在している。

 

 だが、観測できる人間は限られている。

 

 時間は四月で止まり、コメントは更新されない。

 

 俺たちだけが、まだ見ている。

 

 その事実が、妙に重かった。

 

 俺たちはこの後、駅から歩いて十分ほどの距離にある三階建ての小さなマンションに向かった。

 

 「ここでいいんだよな?」

 

 「俺に聞くなよ」

 

 電信柱の番地を見る限り、スマホにメモしてきた住所と一致している。

 

 階段を上がって、近くのドアから確認する。一番奥が201号室だった。

 

 表札は出ていない。

 

 無機質で、無口なドアが俺たちを出迎えただけ。だから、ここが誰の家なのかはわからない。

 

 インターホンを押したら、知らない誰かが出てくるかもしれない。

 

 それでも、知らない家のドアの前で長々と立ち尽くしていては、ただの不審者だ。

 

 俺たちは躊躇うのをやめて、インターホンを鳴らした。

 

 室内でベルが響いているのがわかる。間違いなく鳴っている。

 

 「鬼が出るか蛇が出るかって、こういうときに言うんだな」

 

 「まぁ、先行きは不透明だな」

 

 反応を待つ俺たちの耳に、ドアの向こうから足音が聞こえた。

 

 近づいてくる。それが目の前で止まったかと思うと、鍵を開ける固い音がして、静かにドアが開いた。

 

 隙間から見えたのは知っている顔。

 

 前回と同様に、ミニスカサンタの衣装を着ているのは岩見沢寧々だ。

 

 この場所に咲太と俺を呼び出した張本人。

 

 「言われた通りに来ましたけど?」

 

 「これ、下のゴミ置き場に捨ててきて」

 

 挨拶代わりに、ぱんぱんのゴミ袋をふたつも渡される。両方ともずしりと重い。

 

 「これ、なんですか?」

 

 「よろしくね」

 

 質問には答えてもらえず、ドアも閉められてしまう。

 

 「……一つ俺が持つよ」

 

 「悪いな、岸和田」

 

 ゴミ袋を提げたまま立ち尽くしているのもまた不審者だ。

 

 近隣の住人に目撃されて、通報でもされたらたまらない。

 

 岩見沢先輩が透明人間である以上、俺たちの無実を証明してくれる味方はいないのだから。

 

 仕方なく、俺たちは両手にゴミ袋を持ったまま、上がってきたばかりの階段を下りた。

 

 半透明のゴミ袋の中身は、どうやら殆どが衣類のようだ。

 

 量としてはかなりのもの。数年ぶりの大処分という感じ。

 

 断捨離というやつだろうか。

 

 そんなことを思いながら階段を下りる。

 

 マンションの敷地内に設置されたゴミ捨て用の金属製コンテナを見つけて、俺たちは蓋を開けた。

 

 大容量のゴミ袋をひとつずつ持ち上げて放り込む。

 

 すると、咲太が持っていたゴミ袋を投入した際に、ごんっと重たい音がした。

 

 「ん?」

 

 「なんか、変な音したな」

 

 何が入っているか把握していない俺たちとしては、さすがに気になる。

 

 一般ゴミに入れてはいけないものかもしれない。

 

 頼まれたゴミとは言え、投入した以上は、きちんと分別しておきたい。

 

 咲太は、入れたばかりのゴミ袋をコンテナから引っ張り出して、底の方を確認した。

 

 透明で光るものが見えた。音からして、プラスチックではなさそうだ。アクリルか、もしかしたらガラスかもしれない。

 

 確認するために、袋を開けてそれを取り出す。見てすぐに何かはわかった。

 

 「これ……ミスコンのトロフィーだよな」

 

 「だな……でもなんでこんな物が……」

 

 表面には、「ミスコングランプリ」の文字が刻まれていた。

 

 受賞者の名前は、もちろん「岩見沢寧々」だ。

 

 捨ててしまっていいものなのだろうか。

 

 もちろん、捨てていいものだから、ゴミ袋に入っていたのだろうが……

 

 少し迷った末に、咲太は衣類だけをコンテナの中に改めて放り込んだ。

 

 ここで、咲太がトロフィーを捨てると、まるで咲太が捨てたような気分になる。

 

 そんな気がしたのだろう。

 

 トロフィーに傷がついてないか確認しながら、俺たちは再び階段を上がり、部屋の前に戻った。

 

 インターホンをもう一度鳴らす。

 

 「遅かったね」

 

 ドアが開くなり、不満を含んだ言葉が飛んでくる。

 

 「普通、まずはお礼を言いませんか?」

 

 「ありがとう。助かった」

 

 「それと、これ捨てていいんですか?」

 

 咲太はトロフィーを岩見沢先輩に見せる。

 

 岩見沢先輩の目は、導かれるように咲太の手元を見た。トロフィーを見ていた。

 

 「君って、捨てちゃいけないものまでゴミ袋に入れるの?」

 

 「僕なら入れません」

 

 「よかった。わたしも同じだよ」

 

 「岩見沢寧々さんにとって、大切なものなんじゃないんですか?」

 

 トロフィーに刻まれた名前に視線を落とす。

 

 「それは誰?」

 

 返ってきたのは、自分には関係ないという反応。

 

 「あなたの本名です」

 

 「なにを言ってるの? わたしは霧島透子よ」

 

 岩見沢先輩はごく自然に咲太を見ていた。

 

 今、話をしている咲太を。

 

 もうトロフィーにはまったく興味を示さない。視線がそちらに向かない。

 

 無理をしているわけではない。本当に興味がないというか、他人事のようだった。

 

 だから、当然のように、岩見沢先輩からトロフィーに対する未練はまるで感じなかった。

 

 グランプリの獲得を報告していた岩見沢寧々のSNSでは、心からの喜びと、周りへの感謝を語っていたのに……

 

 その証であるトロフィーを、簡単に手放すことができるのだろうか。

 

 はっきりしすぎた岩見沢先輩の態度に、どうしても引っかかりを覚えてしまう。何か妙だと思った。

 

 気味が悪いと言ってもいい。

 

 先ほどの「それは誰?」の一言も、赤の他人に向けているように俺には聞こえた。

 

 一緒に元町に出向いた際にはなかった違和感。

 

 だが、俺たちを迷わせるものの正体がいまいち見えてこない。

 

 何か変だと感じながらも、何が変なのかがわからない。

 

 前から岩見沢先輩はこんな人物だったと言われれば、そうかもしれないとも思える。

 

 「いいから、上がって」

 

 ドアを広く開けて、岩見沢先輩が俺たちを部屋の中へと招き入れる。

 

 「お邪魔します」

 

 「失礼します」

 

 疑問は残っていたが、俺たちは促されるまま、とりあえず玄関の中に入った。

 

 わざわざ、大学もないのに金沢店駅までやってきて、ゴミ捨てだけして帰るわけにはいかない。

 

 「スリッパ、使って」

 

 クリスマスツリーをあしらった玄関マットの上に、トナカイ柄のスリッパが置かれる。ミニスカサンタと合わせて、世界観が統一されていた。

 

 それを、この時点では不思議に思わなかった。そういうセンスなんだと思っただけ。

 

 玄関を上がってすぐは三畳ほどの広さのキッチン。

 

 そこから室内に続くドアが三つ。ひとつはバスルームで、もうひとつはトイレだろう。

 

 岩見沢先輩が開けた奥のドアの先に部屋があるようだ。

 

 「遠慮しなくていいから」

 

 岩見沢先輩が部屋の中へと入っていく。

 

 「じゃあ、遠慮なく」

 

 「……失礼します」

 

 それに俺たちも続こうとした。

 

 だが、その足は、すぐに止まることになった。

 

 「………」

 

 入口から室内を見た瞬間に、全身を驚きが駆け抜けた。反射的に立ち止まっていた。

 

 理由は単純だ。

 

 案内された部屋の中の様子が、想像とかけ離れていたから。

 

 まず視線が向かったのは部屋の中央。金や銀のオーナメントが飾り付けられたクリスマスツ

リーがあった。

 

 それも、咲太より少し背が低い程度の大きなツリーだ。170cmはあるだろう。

 

 壁付けの収納棚には、松ぼっくりのリースやスノードーム、サンタクロースの人形が何体も並んでいる。

 

 その中には、先日、元町の店で購入したブリキのトナカイもいる。

 

 小さなソリにはたくさんのプレゼントの箱が積まれている。

 

 室内にある家具らしい家具は、ソファベッドとAppleのMacBookが置かれたワークデスクのみ。

 

 他はサンタクロースとクリスマスに埋め尽くされている。

 

 少なくとも、一般的な女子大学生の部屋には見えない。

 

 百歩譲ってクリスマスシーズンであればまだわかる。今日、友人を招待してパーティーをするならまだわかる。

 

 だが、今は二月。それも三日の節分だ。

 

 「ぼーっと突っ立ってないで、こっち来て」

 

 「個性的な部屋ですね」

 

 ある意味、ミニスカサンタが住んでいる家っぽくはあるが……

 

 話だけ聞けば、楽しいと思える部屋かもしれない。子供ならわくわくするかもしれない。けれど、実際この空間に身を置くと、怖さの方が勝っていた。

 

 改めて室内を見回す。サンタの人形と目が合う。つぶらな瞳で俺たちを見つめていた。

 

 「これ、組み立ててほしいの」

 

 俺たちの気分などお構いなしに、岩見沢先輩は部屋の隅に置かれていた折り畳み式の小さなテーブルを、ツリーの脇まで移動させてきた。

 

 テーブルの上には、LEGOがある。何かを作っている途中なのか、パーツが散乱していた。

 

 「男の子って、こういうの得意でしょ?」

 

 「……得意じゃない男子もいると思いますけど?」

 

 「君の場合は?」

 

 「……まあ、得意だと思います」

 

 俺は用意してもらった雪だるまのクッションに座って、とりあえず、LEGOの設計図に目を通した。

 

 完成すると、雪の積もった三角屋根と長い煙突が特徴的なロッジができ上がるようだ。家の住人と、サンタのミニフィグもついているので、サンタが家にやってきた場面を切り取ったものだとわかる。

 

 (よくできたセットだな…….)

 

 「とりあえず、組み立てるか……」

 

 まずはブロックを色分けしておく。

 

 灰色の煙突のパーツ、茶色のロッジの壁、白と青の屋根。

 

 それが終わると、俺は茶色の壁から、ぼちぼちとパーツをはめていった。

 

 その様子を、テーブルの真向かいに座った岩見沢先輩が見ている。

 

 俺はしばらく黙々と作業を進めた。

 

 その傍で、咲太が大事な話を切り出していた。

 

 「去年のクリスマスに、#夢見るが騒がれたじゃないですか?」

 

 「それが?」

 

 「霧島さんからクリスマスプレゼントをもらった多くの若者が、未来のことを夢に見たってやつです」

 

 「だから?」

 

 「そのことで、今、変な噂があるんですよ」

 

 「別に興味ない」

 

 あまりに素っ気ない態度。それに動じることなく、咲太は続きを言葉にしていた。

 

 「あの日、夢を見なかった人は、未来に存在しないから、夢を見なかったんじゃないかって噂。なんです」

 

 「それって……」

 

 ようやく岩見沢先輩が顔を上げる。疑問を宿した瞳を咲太に向けてきていた。

 

 「死んでるってことです」

 

 (……こればかりは、正しく伝わらなければ意味がないからな)

 

 「………」

 

 「霧島さん、夢を見てないって言ってましたよね?」

 

 「君の彼女と、君の友だちと一緒でね」

 

 岩見沢先輩は一瞬、俺に瞳を向けてきた。

 

 「しかも、SNS上の噂ってだけじゃなくて、本当に死んだ人がいるんですよ」

 

 「それは君の知り合い?」

 

 「霧島さんの知り合いです」

 

 一瞬の沈黙。

 

 「残念だけど、わたしの知り合いに亡くなった人なんていないよ」

 

 「中学のとき、東京から引っ越してきた男子がいましたよね?」

 

 「そんな人、知らない」

 

 「ほんとに?」

 

 「本当に」

 

 岩見沢先輩の声の調子は変わらない。知人が死んだと聞いても、眉ひとつ動かさない。

 

 わずかな驚きも、突然の訃報に悲しむ様子もない。

 

 伝えている内容に対して、反応が薄い。薄すぎる。

 

 「………」

 

 「なに?変な顔して」

 

 「福山が急いで北海道に帰ったのは、その人の式に出るためだったんです」

 

 「君はさっきから何を言ってるの?」

 

 「霧島さんの方こそ、なに言ってるんですか?」

 

 (やっぱり何かがおかしい……)

 

 今日、ここに来てからずっと俺たちと岩見沢先輩はずれている。間違いなく。

 

 だが、今になっても、その理由が俺にも咲太にもわからなかった。

 

 次の言葉に悩む俺たちを尻目に、岩見沢先輩の方が先に口を開いた。

 

 「まず、その福山って誰のこと?」

 

 突然の言葉だった。

 

 「は?」

 

 「……え?」

 

 違和感どころではない。ちょっとしたずれなどではない。

 

 岩見沢先輩の態度に、俺たちは文字通り固まった。耳を疑った。あり得ない言葉が聞こえたから………

 

 「福山拓海ですよ?あなたの恋人の」

 

 思わず俺は身を乗り出していた。

 

 「知らないよ、そんな人」

 

 逆に後ろに手を突いた透子が遠ざかる。

 

 きょとんとした顔で、俺たちを見ていた。

 

 咲太が続け様に問いかける。

 

 「北海道にいた頃から付き合ってる人ですよ!」

 

 「だから、知らないって」

 

 冗談が入り込む余地はどこにもない。

 

 「……本当にわからないんですか?」

 

 LEGOを組み立てる手は、もはや完全に止まっていた。

 

 「君が何を言っているのか、さっぱりわからない」

 

 面倒くさそうに、岩見沢先輩が俺の言葉を払いのける。

 

 「あなたが、岩見沢寧々が、付き合うことにした福山ですよ?」

 

 俺は真っ直ぐに、岩見沢先輩の目を見て訴えかける。

 

 「わかってる」、「知ってる」、「当たり前じゃない」そういう答えを、俺も咲太も期待していた。

 

 だが、結果は違った。

 

 この時点で、「わからない」と言われることは覚悟していた。

 

 そんな俺たちの覚悟を、岩見沢先輩は悠々超えていった。

 

 「また知らない名前」

 

 「え?」

 

 「誰?その岩見沢って?」

 

 単純な疑問が俺に投げかけられた。

 

 その瞳は純粋無垢。

 

 本当にわからないから、岩見沢先輩は俺に質問してきている。

 

 演技など、どこにも入り込む余地がない。

 

 背中が震える。心が一瞬で凍り付くほどの冷たさを感じた。

 

 もはや、クリスマスとサンタクロースに彩られた部屋の異質さなど気にならない。

 

 もっとおかしなことが、俺たちの前で起きている。

 

 「このトロフィーに見覚えは?」

 

 絞り出すように、咲太が岩見沢先輩に尋ねる。

 

 「ないよ。だから、捨てたのに。君が持って帰ってくるから」

 

 「本当にわからないんですか?」

 

 「わからないし、知らない」

 

 「ほんとのほんとに?」

 

 「知らないし、わからない」

 

 「………」

 

 間違っているのは俺たちの方なのだろうか。そう思いたくなるほどに、岩見沢先輩は一貫していた。

 

 ないものはない。そう言い切っている。

 

 「もういいよ。今日は帰って」

 

 うんざりした様子で、岩見沢先輩が立ち上がる。

 

 その目を見上げながら、咲太は最後のつもりで質問をぶつけた。

 

 「自分が岩見沢寧々だってことが、わからないんですか?」

 

 そんなはずはない。少なくとも数日前までは岩見沢寧々としての記憶が彼女にはあった。

 

 北海道にいた頃の福山との思い出を語っていた。馴れ初めを話していた。

 

 だから、全部忘れているなんて、記憶喪失にでもならなければあり得ない話だ。

 

 それでもそのあり得ないことが、今、俺たちの目の前では起きている。

 

 「わたしは岩見沢寧々なんて知らない。わからない。これで満足?」

 

 一音一音、俺たちに念を押して聞かせる岩見沢先輩の声に迷いはなかった。

 

 知らないのだから迷わない。わからないのだから迷う必要がない。

 

 本当に、『岩見沢寧々』だという自覚が欠落している。

 

 「わたしは霧島透子だって、何度も言ってるよね?」

 

 あるのは、自分は『霧島透子』だという自覚だけ。

 

 「………」

 

 返す言葉もなく、俺たちは無言で立ち上がった。

 

 「それ、捨てて帰ってね」

 

 咲太がテーブルに載せたトロフィーを、岩見沢先輩は何の感慨もなく見下ろしていた。

 

 もはや、彼女に届く言葉を俺たちは持ち合わせていない。

 

 言われるまま、咲太はトロフィーを掴んだ。

 

 「……今日は帰らせてもらいます。あとは、煙突を組み立てれば完成しますから」

 

 途中まで作ったLEGOに視線を落とす。

 

 「残りは自分でやってみる。ありがと」

 

 お礼の言葉がむなしく聞こえる。

 

 俺たちは何かできたのだろうか。

 

 そんなことを考えながら玄関に移動した。

 

 クリスマスツリーの玄関マットの上で、トナカイのスリッパを脱ぐ。

 

 靴を履くと、俺たちは振り向かずに玄関のドアを開けた。

 

 階段を下りていくとき、背中に視線を感じた。けれど、立ち止まることもなければ、振り返りもしなかった。

 

 咲太がようやく立ち止まったのは、ゴミ捨て場の前。

 

 視線を落とした手元には、透明なトロフィーがある。

 

 昨年度のミスコングランプリを揃えるトロフィー。

 

 そこには、「岩見沢寧々」の名前が刻印されている。存在の証がここにある。

 

 けれど、本人が「岩見沢寧々」である自覚を失ってしまった今、この名前にどれほどの意味があるのだろうか。

 

 このまま、彼女が忘れ続け、福山や他のみんなが認識できない存在であり続けるなら、「岩見沢寧々」は生きていると言えるのだろうか。

 

 「だから、夢を見なかったのかもな」

 

 自らの意識と、他人からの認識が存在を定義するのなら、「岩見沢寧々」はもう死んだも同然なのかもしれない。

 

 あとは俺が忘れ、咲太も忘れ、美東さんからも認識されなくなれば……本当に、彼女は死んでしまうのかもしれない。

 

 蓋を開けたゴミ捨て場のコンテナの中には、岩見沢先輩に頼まれて咲太が捨てたゴミ袋がふたつ入っている。

 

 「捨てたのは岩見沢寧々の人生ってわけか」

 

 咲太が握るトロフィーもまた岩見沢寧々のもの。

 

 霧島透子である彼女には必要ないもの。

 

 「だったら、せめて自分で捨ててくれ」

 

 苛立ちを覚えながら、コンテナの蓋を閉める。

 

 手にしたトロフィーはコートのポケットに突っ込んだ。

 

 その咲太の足は、もう駅の方へと歩き出していた。

 

 駅の方へ歩き出した咲太の背中を追いかけながら、俺はまだ部屋の中の匂いを引きずっていた。

 

 松ぼっくりのリース、スノードーム、サンタの人形。二月の空気の中に、季節外れの甘い飾りつけがこびりついて離れない。

 

 階段を下り切って外に出た瞬間、風が顔を撫でた。冷たくて、現実的で、ありがたい。

 

 咲太は歩きながら一度も振り返らない。俺もトロフィーの重みをポケットの中で確かめたまま、同じ方向に足を揃えた。

 

 金沢八景駅まで歩いてきたところで、咲太がふっと速度を落とした。

 

 「……岸和田」

 

 呼ばれて、俺も足を止める。

 

 咲太はしばらく無言で考え込むように視線を落としてから、顔を上げた。

 

 「双葉に電話したい」

 

 その言葉が、妙に救いに聞こえた。

 

 いま俺たちに足りないのは、感情じゃない。整理のための言語で、切り分けるための理屈だった。双葉の得意分野だ。

 

 「了解。じゃあ俺の貸す」

 

 ポケットからスマホを出して、ロックを解除する。画面の明るさが一瞬だけ目に刺さった。さっきまで見ていたのは、二百万回再生の動画と、止まったコメント欄だった。いま触っているのは、現実の端末だ。

 

 咲太に差し出す。

 

 「番号、わかるよな?」

 

 「ああ」

 

 咲太は慣れた手つきで連絡先を開いた。迷いがない。

 

 双葉という名前が、そこにあることを前提にしている動きだった。

 

 呼び出し音が鳴る。

 

 ……一回。

 

 ……二回。

 

 耳の奥で、さっきの歌声が残響みたいに蘇りかけて、俺は首を振って追い出した。

 

 三回目の呼び出しのあと、通話が繋がる。

 

 「……もしもし。僕、梓川」

 

 「梓川か……なんで岸和田の電話からかけてきてるの?」

 

 「岸和田と一緒にいるんだよ。今、ちょっといいか?」

 

 「このあと、姫路さんの授業だから手短にね」

 

 「了解。岸和田にも聞いてもらいたいから、スピーカーにしてもいいか?」

 

 「いいよ。好きにして」

 

 双葉に驚いた様子はない。返事も無駄がなく的確だった。

 

 その後ろから、別の声が聞こえてくる。

 

 「電話、咲太先生と蓮真先生ですか?だったら、少しくらい遅れてもいいですよ」

 

 この声としゃべり方は姫路さんだ。

 

 姫路さんと一緒にいるということは、ふたりともすでに塾にいるのだろう。フリースペースで、今後の授業の方針でも相談していたのかもしれない。

 

 「姫路さんの授業の邪魔をするわけにはいかないから、なるべく手短に話すよ」

 

 焦る気持ちを抑えながら、咲太は今日の出来事を双葉に語り出した。

 

 咲太の話を聞き終えた双葉の最初の反応は、声にならない長い吐息だった。

 

 そのあとで、「また随分とおかしなことになってるね」と、苦笑交じりの感想をもらした。

 

 「だから、双葉に相談してるんだよ」

 

 「だったら、まずサンタクロースの部屋のことだけど」

 

 「あれは、ぞっとする光景だった」

 

 「それ、霧島透子に関係があるみたいだよ」

 

 「みたいって?」

 

 「詳しくは彼女に聞いて」

 

 「彼女?」

 

 疑問の途中で、別の声が割り込んでくる。

 

 「あ、私です。咲太先生」

 

 「姫路さん、まだいたのか。盗み聞きはよくないぞ」

 

 「ちゃんと堂々と聞いてました」

 

 思春期症候群が治っても、盗み聞きする癖は治っていないのかもしれない。

 

 「可愛く言ってもだめだからな」

 

 「でも、私の話を聞いたら、先生、文句なんて言えなくなると思いますよ」

 

 姫路さんが自信満々にそんなことを言ってくる。

 

 「じゃあ、聞かせてもらおうか」

 

 「霧島透子の動画って、サンタとか、トナカイとか、ツリーとか、なんかクリスマスっぽいイテムが必ず映ってるんです。先生、知らなかったんですか?」

 

 こんなの常識だとばかりに、姫路さんは笑みを含んだ口調で意気場々と語ってくる。

 

 「……そういえば、この間お前の家に、のどかと卯月とお邪魔したときに聞いた “I need you”っていう曲のPVに、スノードームが映ってたな」

 

 「よく覚えるな、岸和田……」

 

 「でもそう言えば、前にとんかつ屋で美東と見た映像には、ブリキのトナカイが映ってたな」

 

 咲太はそう言うと、電話口の姫路さんに、事務的に感謝の念を伝えていた。

 

 「知らなかったよ。教えてくれてありがとう。双葉に代ってくれるか?」

 

 「もっとちゃんと褒めててくれないと嫌です」

 

 「また駅前のカフェに新作ドーナツが出たら、おごるよ」

 

 「本当ですか、やった! 理央先生に代わりますね」

 

 (いつの間にか理央先生になってるな……)

 

 浮かれた調子で、電話口から姫路さんの気配が消えた。

 

 「サンタの部屋に関しては、そういうことみたいだね」

 

 代わりに聞こえてきたのは、いつの間にか「理央先生」になっている双葉の落ち着いた声。

 

 「それってつまり、どういうことだと思う?」

 

 「梓川が考えている通り、動画の共通点に気づいた岩見沢寧々は、同じアイテムを集めたんじゃない?梓川も、岸和田と一緒に買い物に付き合ったって言ってたでしょ?」

 

 「そうだけど……何のために?」

 

 「もちろん、霧島透子になるために」

 

 咲太の問いかけに対して、あまりにも簡単に双葉は答えた。

 

 「最初、梓川から彼女の話を聞いたときは、ただ周囲から認識されなくなっているだけかと思ってたけど」

 

 「麻衣さんの前例があったからな。僕もそう思ってたよ」

 

 だが、実際は違っていた。同じではなかった。

 

 今日会ったら、彼女は自分が「岩見沢寧々」であることを忘れていたのだから……

 

 麻衣先輩のときは、そんなことにならなかったはずだから。

 

 「だから、『岩見沢寧々』は消えようとしたわけじゃない。『霧島透子』になろうとしていたって考えるのが妥当だと思う」

 

 「ちょっと待ってくれ。『霧島透子』の正体が『岩見沢寧々』だって言うなら、別に『岩見沢寧々』であることを消さなくてもいいだろ?どっちも自分で成立するはずだ」

 

 「梓川の友だち候補の言ったことが、きっと正解なんだよ」

 

 「………美東の理屈と、岸和田の直感が正しいってことか」

 

 「本物じゃないから、本物の『霧島透子』の動画の中に出てくるサンタやトナカイを集めていたってわけか?」

 

 「私はそう思う。自分が霧島透子なら、霧島透子の持ち物を持っていないと矛盾が生じるでしょ?」

 

 (なるほど……理屈は通ってるな……)

 

 「言ってることはわかるけど……」

 

 「そんなことってあるか?」

 

 形にならない感情を、咲太は疑問として吐き出していた。

 

 「私は彼女じゃないから、彼女の気持ちまではわからない。もしかしたら、彼女自身もわかってないかもしれないけど」

 

 「まあ、そうだな」

 

 「今、わかっているのは、『彼女はまだ霧島透子として、世の中に認識されていない』という

こと」

 

 「まあ、そうだな」

 

 「彼女があくまで霧島透子であることにこだわるのなら、桜島先輩は本当に危ないのかもしれないよ」

 

 突然出された名前に、咲太と俺の心臓が一度強く脈打った。

 

 (どういうことだよ……)

 

 「それはどういう意味だよ、双葉」

 

 「成人の日の報道で、メディアは追わなくなったけど……今もSNS上では、霧島透子の正体の最有力候補は桜島先輩のままでしょ?」

 

 「……そうみたいだな」

 

 双葉の言葉を聞いた瞬間、胸の奥に引っかかっていた感覚が少しだけ形を持った。

 

 (……その話か)

 

 その噂については俺も何度か目にしていた。

 

 霧島透子=桜島麻衣説。

 

 Xでも、Instagramでも、検索すればいくらでも出てくる。

 

 動画の歌声、スタイル、雰囲気。どれも麻衣先輩に似ているという理由で、半ば都市伝説みたいに広まっている話だ。

 

 ただ、本気で信じたことは一度もない。

 

 理由は単純だ。

 

 もし本当に麻衣先輩が霧島透子なら、真っ先に気づく人間がいる。

 

 妹だ。

 

 豊浜のどか。

 

 あいつは麻衣先輩のことを、誰よりも近くで見てきた。

 

 テレビの中でも、家の中でも、同じ人間として。

 

 そののどかが一言もそんなことを言っていない時点で、少なくともその可能性は限りなく低い。

 

 だから俺は、その噂を深く考えたことはなかった。

 

 ただのネットの憶測だと思っていた。

 

 けれど、それでも、霧島透子という存在について、完全に何も考えていなかったわけでもない。

 

 暇なときに、何度か動画を見返したこともあるし、SNSの噂を追ったこともある。

 

 そのたびに感じていたのは、同じ違和感だった。

 

 (違う)

 

 麻衣先輩でもない。

 

 そして、岩見沢先輩でもない。

 

 理屈じゃない。証拠もない。

 

 ただ、なんとなく。

 

 (霧島透子は、そのどちらでもない)

 

 そんな直感だけが、ずっと残っていた。

 

 俺が黙っていると、電話の向こうで双葉の声が続いた。

 

 「これが覆らない限り、彼女が霧島透子として世の中から認識されることはないんじゃない?」

 

 ようやく双葉が言いたいことがわかってきた。

 

 「つまり、岩見沢寧々が霧島透子になるには、麻衣さんが邪魔ってことか」

 

 「現状においてはね。梓川、明日の一日警察署長のイベントで、桜島先輩が事故に巻き込まれるって、前に言ってたよね?」

 

 「ああ、古賀の見た夢……というか、たぶん未来のシミュレーションでな」

 

 「考えすぎかもしれないけど、それに岩見沢寧々が絡んでるって可能性はない?」

 

 「………」

 

 「今の彼女は透明人間なんだから、ある意味、何でもできるでしょ?」

 

 「少なくとも、今日話した限り、そういう危険性は感じなかった」

 

 だけど、やはり、絶対にあり得ないかと聞かれると、彼女のことをまだよくわかっていない

 

 信用するほど相手を知らない。不審に思うほど知らないわけでもない。

 

 「一応、明日、私もイベントは見に行ってみる。彼女のことが見えない私に何かできるとも思えないけど」

 

 「明日は何が起こるかわかってるからいいとして………むしろ、問題は明日以降だよな?」

 

 たとえ、明日の危機を回避したとしても、状況は継続するだけだ。

 

 誰も彼女を認識できない。

 

 何か罪を犯したとしても、捕まえようがない。

 

 見えないのだから。

 

 「そうだね」

 

 「だったら、明日までに決着をつけるしかないってことか。そのためには………結局のところ、彼女の思春期症候群を治すしかない」

 

 (結論はそれしかないよな……)

 

 最初に出ていた答えが、最良の答えになっている。残された時間は少ない。

 

 明日の午後……麻衣先輩が一日警察署長のイベントに出るまで。今から数えると、すでに二十四時間を切っている。

 

 打つ手があるとすればひとつだけ。

 

 (やっぱり、福山に賭けるしかないよな……)

 

 俺たちの言葉は、彼女には届かないのだから。

 

 力ずくで彼女を止めたとしても、その場しのぎの解決にしかならないから………

 

 「なぁ、双葉」

 

 「なに?」

 

 「飛行機のチケットって当日でも買えるよ

な?」

 

 「私は買ったことないけど、買えるんじゃない?」

 

 その返事に続けるように、俺も口を挟む。

 

 「俺は買ったことないけど、買えはするよ。高いけどな」

 

 実際、羽田を何度か使ったことはある。

 

 当日券が存在することくらいは知っている。値段まで優しくはないことも。

 

 咲太は小さく「だよな」とだけ返した。

 

 その声音で、もう何を考えているのかはだいたいわかった。

 

 (福山のとこに、行くつもりか)

 

 他に方法がないわけじゃない。

 

 でも、今の俺たちが持っている札の中で、いちばん可能性があるのはそれだった。

 

 そんなやり取りを最後に、咲太は双葉との電話を切った。

 

 画面が暗くなる。

 

 咲太はスマホをすぐには返さず、数秒だけ手の中で持ったまま立っていた。

 

 それから、俺を見る。

 

 「岸和田」

 

 「ん?」

 

 「スマホ、もう少し貸してくれ」

 

 咲太の目は、もう迷っていなかった。

 

 「花楓と麻衣さん、それに福山に電話するから」

 

 「ああ、いいよ」

 

 俺は素直に頷いた。

 

 花楓ちゃんには家のことを。

 

 麻衣先輩には明日のことを。

 

 福山には北海道に今から行くことを。

 

 たぶん、そういう順番なんだろう。

 

 咲太は短く「悪い」と言って、再び連絡先を開く。

 

 駅前の風が、俺たちの間を抜けていった。

 

 明日まで、もう時間はない。

 

 それでも、まだ打てる手が残っている。

 

 そう思うしかなかった。

 

 顔を上げると、空は随分暗くなっていた。

 

 風も冷たくなっている。

 

 かじかむ手で、咲太は再び電話をかけた。

 

 先ほどとは違う番号。自宅の番号だ。

 

 「もしもし、花楓です」

 

 「花楓か?僕だけど?」

 

 「お兄ちゃん?なんで蓮真さんのスマホからかけてきてるの?」

 

 「悪い、色々あってな。今日帰れないから、なすのの面倒よろしくな」

 

 「はあ?なにそれ。どこか蓮真さんと行くの?」

 

 「北海道」

 

 「はあ?なにそれ」まったく同じ反応が返ってくる。

 

 「まあ、いいけど。お土産買ってきてね。てか、そうだ!麻衣さんご飯作りに来てくれてるのにいいの!! 今、代わるね。麻衣さん、お兄ちゃんが~!」

 

 返事を待たずに、花楓ちゃんの声が遠ざかっていく。

 

 二、三秒待っていると、「咲太?」と、電話から麻衣先輩の声が聞こえた。

 

 「ごめん、麻衣さん。今から福山に会いに北海道行ってくる。花楓のことお願い。明日のイベントまでには必ず帰るから」

 

 「わかった。今日は咲太の家に泊まるわね」

 

 「今すぐ帰りたくなってきたな」

 

 「咲太が帰ってくるなら、泊まらないわよ」

 

 「えー」

 

 「それじゃあ、気を付けてね。着いたら電話して」

 

 「はい、必ず。あ、そうだ、麻衣さん」

 

 「ん?」

 

 「大好きです」

 

 「ハンバーグが焦げちゃうから、花楓ちゃんに代わるわね」

 

 そこで終わるかと思った。

 

 だが、電話口の向こうで、麻衣先輩が何かを思い出したように「あ」と小さく声を漏らす。

 

 「あ、ちょっとその前に、蓮真くんに少し代わって」

 

 咲太が無言で俺にスマホを差し出してくる。

 

 「……俺?」

 

 「麻衣さんがそう言ってる」

 

 言われるまま、俺はスマホを受け取った。冷えた指先に端末の熱がわずかに移る。

 

 耳に当てる。

 

 「もしもし、代わりました」

 

 「蓮真くん?」

 

 「はい」

 

 麻衣先輩の声は、さっきまで咲太に向けていたものと同じようでいて、少しだけ温度が違った。

 

 落ち着いていて、静かで、でも芯がある。

 

 「蓮真くんも、咲太と一緒に北海道行くのよね?」

 

 「まぁ、そんな感じですね。行くならスマホで俺がチケット取った方がいいですし」

 

 「そうね」

 

 短く返ってきたあと、一拍だけ間が空いた。

 

 その沈黙が、ただの確認じゃないことを教えてくる。

 

 「蓮真くん」

 

 「何でしょうか?」

 

 駅前の風が、コートの隙間から入り込んでくる。

 

 俺は無意識に背筋を伸ばしていた。

 

 「咲太のこと、お願いね」

 

 その言葉は、重たくもなく、押しつけがましくもなかった。

 

 けれど、妙に真っ直ぐ胸に落ちてきた。

 

 麻衣先輩は、俺に任せると言ったのだ。

 

 咲太の隣に立つことを。

 

 「……分かりました」

 

 それだけは、迷わず返せた。

 

 電話口の向こうで、麻衣先輩がほんの少しだけ息を緩めた気がした。

 

 「ありがとう」

 

 「いえ」

 

 「じゃあ、本当に気をつけて。二人とも、無茶はしないで」

 

 「善処します」

 

 「それ、あまり信用できない返事ね」

 

 小さく笑う声。

 

 その響きが、逆に今の状況の切迫を際立たせた。

 

 「じゃあ、花楓ちゃんに代わるわ」

 

 「はい。失礼します」

 

 通話を終えて、俺はスマホを咲太に返した。

 

 咲太は俺の顔を一瞬だけ見た。

 

 「……なんて言われた?」

 

 「お前のこと頼むって」

 

 できるだけ軽く言ったつもりだった。

 

 だが、咲太は少しだけ目を伏せて、「そうか」とだけ返す。

 

 それ以上は何も言わなかった。

 

 俺たちの間を、夕方の風がまた吹き抜けていく。

 

 もう後戻りする時間はない。

 

 北海道へ飛んで、福山を連れて戻る。

 

 それが今の俺たちに残された、いちばん現実的な一手だった。

 

 その後電話口に花楓ちゃんが出て、そして、再度、咲太に文句を言い、土産を催促してから電話は切れた。

 

 その後、電話口に花楓ちゃんが戻ってきた。

 

 「お兄ちゃん?」

 

 「花楓か」

 

 「北海道とか急すぎるし、説明雑すぎるし、ほんとに意味わかんないんだけど」

 

 開口一番、文句だった。

 

 それでも声の調子に、本気で怒っているというより、呆れと心配が混ざっているのがわかる。

 

 「悪かったって。今度ちゃんと説明するから」

 

 「毎回そう言う」

 

 「今回は本当にする」

 

 「じゃあ、お土産」

 

 「そこは絶対なんだな」

 

 「絶対」

 

 即答だった。

 

 電話の向こうで、花楓ちゃんが少しだけ機嫌を直したような気配がする。

 

 「白い恋人でも、ロイズでも、じゃがポックルでもいいから」

 

 「欲張るな」

 

 「お兄ちゃんが急に北海道行くのが悪いんだよ」

 

 それはもっともだった。

 

 咲太も反論せずに、小さく息を吐く。

 

 「……わかった。なんか買って帰るよ」

 

 「約束だよ」

 

 「はいはい」

 

 「あと、ほんとに気をつけてね」

 

 最後の一言だけ、声が少し柔らかくなる。

 

 咲太も、その変化には気づいたのだろう。

 

 「わかってる」

 

 短く答えて、それで通話は切れた。

 

 咲太はスマホを手にしたまま、ほんの一瞬だけ黙り込む。

 

 それから、小さく息を吐いた。

 

 「……次は福山にも連絡しないとな」

 

 「だな」

 

 今から飛ぶなら、向こうにも事情を伝えておかないと話にならない。

 

 咲太が再び画面を操作しようとした、そのときだった。

 

 背中側から、女の子の声がかかった。

 

 「梓川くん、それに岸和田くんも?」

 

 少し驚きを感じながら、俺たちは同時に振り返る。

 

 そこに立っていたのは、疑問の表情を浮かべた赤城郁実だった。

 

 肩からトートバッグを提げていて、いつものどこか観察するような目をしている。

 

 「授業もないのに、何しているの?」

 

 咲太が先に口を開いた。

 

 「ちょっと野暮用で」

 

 俺が続ける。

 

 「ちょっと色々あってさ。赤城こそ、何でここに?」

 

 「私は、学習支援のボランティアで。今日節分だから」

 

 「ああ……そっか」

 

 そういえば、今日は節分だ。

 

 駅前に漂う空気が妙にざわついていたのも、そのせいかもしれない。

 

 「今日、ボランティアの日だったっけ。悪いな、行けなくて」

 

 「大丈夫」

 

 赤城は首を横に振った。

 

 それから少しだけ俺の方を見る。

 

 「岸和田くん、冬休みは実家に帰ってるから、来てもらうの大変かなぁって思ってたから」

 

 「あれ?」

 

 俺は思わず眉を上げる。

 

 「何で俺が実家帰ること知ってるんだ?」

 

 赤城の表情が、ほんの少しだけ揺れた。

 

 だが、すぐにいつもの落ち着いた調子に戻る。

 

 「えっとね……この間、豊浜さんから聞いて」

 

 「のどかから?」

 

 「うん。豊浜さん、この間ボランティア室に来てくれて。その時に、教職取ろうと思ってるから、実際に子供たちと学ぶ場所を経験したいって言って」

 

 そこまで聞いて、俺は納得する。

 

 「ああ、そういうことか」

 

 「その時に聞いたの」

 

 「なるほどな。真面目なのどからしい」

 

 赤城は少し意外そうに目を丸くした。

 

 「豊浜さんって真面目なんだね」

 

 「岸和田、豊浜も教職取るのか?」

 

 咲太が横から聞いてくる。

 

 「ああ。そう聞いてるけど、どうかしたか?」

 

 「いや、何でもない」

 

 咲太はそう言って視線を逸らした。

 

 でも、その返しが本当に何でもない時のものじゃないことくらい、俺にもわかった。

 

 咲太の中では、たぶん別の引っかかりができている。

 

 のどかが、姉の背中を追うだけじゃなく、自分で何かを選び始めていることに。

 

 あるいは、俺の知らないところで、のどかがちゃんと前へ進もうとしていることに。

 

 赤城はそんな俺たちの空気を読んだのか、少しだけ首を傾げた。

 

 「……二人とも、なんか慌ただしそうだね」

 

 その一言に、俺と咲太は一瞬だけ目を合わせた。

 

 隠しても仕方がない。

 

 ここで取り繕っても、赤城にはたぶん見抜かれる。それに、もう時間もない。

 

 咲太が小さく息を吐いてから、口を開いた。

 

 「……実はさ」

 

 そこから俺たちは、今日の出来事をかいつまんで赤城に話した。

 

 岩見沢先輩の部屋のこと。

 

 彼女が、岩見沢寧々としての自覚を失っていたこと。

 

 明日の麻衣先輩のイベントのこと。

 

 そして、福山に会いに北海道へ飛ぼうとしていることまで。

 

 駅前の風は冷たかったが、話している間だけは妙に空気が張りつめていた。

 

 途中で何度か、赤城の瞳がわずかに揺れた。

 

 だが、彼女は一度も話を遮らなかった。

 

 最後まで聞き終えたあと、赤城が最初に口にしたのは、驚きでも疑問でもなかった。

 

 「それなら、私も北海道まで一緒に行く」

 

 即答だった。

 

 俺は思わず聞き返す。

 

 「……は?」

 

 咲太も眉をひそめる。

 

 「いや、さすがにそれは」

 

 だが、赤城は引かなかった。

 

 「私、福山くんのことは知らない。でも、#夢見るのことも、霧島透子のことも、二人より少しは別の角度から見られると思う」

 

 「別の角度って?」

 

 「私、今の話を聞いてて、ひとつ気になったことがあるの」

 

 赤城はそう言って、俺たちを順番に見た。

 

 「岩見沢さんが岩見沢寧々を忘れてるのって、単純に記憶が消えたんじゃなくて、霧島透子として成立するために不要なものを切り捨ててるってことなんでしょ?」

 

 「双葉はそんな感じで見てたな」

 

 咲太が答える。

 

 「だったら、本人にとって都合の悪い観測が増えたら、崩れる可能性はあるよね」

 

 俺は赤城の言葉を頭の中でなぞる。

 

 都合の悪い観測。

 

 つまり、霧島透子ではいられなくなるような事実。

 

 「福山がその一番の可能性ってわけか」

 

 「うん。それに」

 

 赤城は少しだけ言い淀んでから続けた。

 

 「向こうの世界からのメッセージも関係してそうだし、私たぶん、そういう見え方のズレに巻き込まれるの、慣れてるから」

 

 その言葉に、俺と咲太は黙った。

 

 赤城郁実にとって、その手の話はただの比喩じゃない。

 

 可能性の世界の記憶を持っている彼女にとっては、現実の方がむしろ一枚岩じゃない。

 

 だからこそ、軽く聞き流せない説得力があった。

 

 咲太が少しだけ考え込むように視線を落とす。

 

 「……でも、急に北海道行くって、赤城の家とか大丈夫なのか?」

 

 「親には連絡する。今日はもうボランティア終わりだし、明日中に戻るなら何とかなる」

 

 「そんな簡単に言うなよ」

 

 「簡単じゃないよ」

 

 赤城は即座に返した。

 

 「でも、ここで何もしない方が、あとで嫌だから」

 

 その言い方が、妙に赤城らしかった。

 

 綺麗事じゃない。

 

 ただ、自分の後悔の形を知っている人間の言葉だ。

 

 俺は咲太を見た。

 

 咲太も同じタイミングで俺を見ていた。

 

 この短いやり取りだけで、たぶん互いに同じことを考えた。

 

 止める理由はある。

 

 でも、連れて行かない理由も、そこまで強くはない。

 

 「……どうする、咲太」

 

 「岸和田は?」

 

 「正直、いてくれると助かるとは思う」

 

 俺がそう言うと、咲太は少しだけ肩の力を抜いた。

 

 「……わかった。赤城、よろしく頼む」

 

 「うん」

 

 赤城は小さく頷いた。

 

 その顔には、ようやく少しだけ安堵が浮かんでいた。

 

 「じゃあ急ごう。便、調べるぞ」

 

 そこからは早かった。

 

 俺は自分のスマホで羽田発新千歳行きの便を検索し、咲太は赤城のスマホを借りて、福山に着信を飛ばし、赤城は親への連絡と最低限の荷物の段取りを済ませていく。

 

 駅前のベンチに立ったまま、三人で別々の画面を睨む姿は、たぶん傍から見れば妙な光景だったと思う。

 

 それでも、誰もそんなことを気にしていなかった。

 

 数十分後。

 

 なんとか当日便の座席を確保して、俺たちは金沢八景から羽田へ向かう電車に飛び乗った。

 

 乗り換えを挟むたび、時間だけが削られていく。

 

 ホームのアナウンスも、走り込む人影も、全部が妙に速く感じられた。

 

 ようやく腰を落ち着けられたのは、羽田空港に向かう車内だった。

 

 電車の中は空いていた。横長のシートひとつひとつに、一組の乗客が乗っている程度。時刻は午後八時過ぎ。利用者が少ないのも当然だ。

 

 その落ち着いた電車内で、咲太は赤城に借りたスマホを使い、俺は自分のスマホを使い、霧島透子の動画を見ていた。

 

 片っ端から。音を消したままで。

 

 姫路さんが言っていたことを確認するのが目的だった。

 

 ひとつ目の「Hilbert Space」にはサンタの人形。

 

 ふたつ目の「Silent Night」にはクリスマスツリー。

 

 三つ目の「I need you」にはスノードーム。

 

 それから、トナカイのソリ、プレゼントを入れる靴下、無数のオーナメントと……姫路さんが教えてくれた通り、どの動画にも確かにクリスマスを連想させる何かが映っていた。

 

 しかも、そのひとつひとつのアイテムに俺たちは見覚えがあった。

 

 「岩見沢先輩の部屋にあったものばっかりだ……」

 

 今、見ている「Some one」には、おもちゃのLEGOで作られた煙突のあるロッジが使われている。

 

 煙突からサンタのミニフィグがプレゼントを届けようとしている。

 

 これが、ただの偶然のわけがない。

 

 明らかに意図的なものだとわかる。

 

 そして、それがわかれば、動画の確認としては十分だった。

 

 「スマホ、助かったよ」

 

 画面を消すと、咲太は隣に座る赤城にスマホを返した。

 

 「もういいの?」

 

 「ああ」

 

 「そう」

 

 「それより、本当に赤城も一緒に来るのか?」

 

 俺たちが乗る電車は、京急蒲田駅を出て、すでに空港に向かう空港線内に入っている。

 

 本来、赤城が降りるべき横浜駅はとっくに通過していた。

 

 「向こうの世界からのメッセージが関係してるなら、私も気になるから」

 

 「赤城が責任を感じることじゃないけどな」

 

 「ごめん。こういう性格なの」

 

 「知ってるし、謝るところでもないけどな」

 

 「梓川くんはありがとうの方が好きだもんね」

 

 それは照れくさいという顔を赤城はしている。

 

 「それと、『がんばったね』と『大好き』が三大好きな言葉だって、教えてくれる人がいたんだよ」

 

 「………」

 

 咲太の意図に気づいた赤城が、わずかに目を伏せる。

 

 でも、そのあとで、「ありがとう。私のわがままを聞いてくれて。これならいい?」と言ってきた。

 

 「その方がずっといい」

 

 そう言った咲太の声を聞きながら、俺は窓の外に目を向けた。

 

 「ありがとう」

 

 「がんばったね」

 

 「大好き」

 

 赤城が言った言葉が、頭の中でゆっくり並び直した。

 

 (……大好き、か……)

 

 咲太はさっき、麻衣先輩に当たり前みたいにそれを言っていた。

 

 照れも、迷いもなく。

 

 ああいうのを見ると、やっぱり思う。

 

 俺は、どうなんだろうなって。

 

 もしも……

 

 のどかに言われたら。

 

 あるいは、卯月に言われたら。

 

 そのとき、俺はどう返すんだろう。

 

 「ありがとう」なのか。

 

 それとも、「俺も」なのか。

 

 ……いや、たぶん。

 

 どっちも違う気がする。

 

 頭の中に、二人の顔が浮かぶ。

 

 ライブのあとに笑う卯月と、少し不機嫌そうに目を細めるのどか。

 

 どっちの顔を思い浮かべても、胸の奥が妙にざわつく。

 

 ただ、ひとつだけ確かなのは、その言葉を、軽く返したくはないってことだった。

 

 「岸和田?」

 

 咲太の声で、思考が途切れる。

 

 顔を上げると、もうすぐ国内線ターミナル駅のアナウンスが流れていた。

 

 「……なんでもない」

 

 俺はそう答えて、窓の外から視線を外した。

 

 今はまだ、考える時間じゃない。

 

 明日を乗り切ることの方が、ずっと先だ。

 

 俺たちを乗せた新千歳空港行きの最終便は、定刻の午後九時三十分に羽田空港を飛び立った。

 

 夜の雲間を抜けて、ぐんぐん上昇していく。

 

 地上の光は遠ざかり、美しい夜景が広がる。

 

 やがて、高度は一万メートルに達し、時速は八百キロメートルに迫る。

 

 気圧の変化で耳がキーンとする。それが収まる頃に、シートベルト着用のランプも消えた。けれど、それと同時に、常に着用しておくことを促すアナウンスが流れた。

 

 機内がすっかり落ち着いたところで、ワゴンを押したCAのお姉さんがドリンクのサービスに席を回りはじめる。

 

 テーブルを出した俺は、温かいオニオンスープを入れてもらった。紙コップに描かれたクマの顔が咲太を見ている。

 

 隣に座る赤城も、クマの顔を見てちょっと微笑んでいた。

 

 「別に笑ってないから」

 

 「別に笑ってもいいと思うよ」

 

 午後十時過ぎという時間帯のせいか、機内は寝静まったように静かだ。

 

 薄くエンジン音が響き、時折、機体を揺らす風の音が聞こえるだけ。

 

 他の客は、スマホで映画鑑賞したり、毛布にくるまって眠っていたりする。

 

 俺は目的地までの距離と飛行速度を表示したモニターを見ながら、ずっと考え事をしてい

 

 霧島透子のこと。いや、岩見沢寧々のことを考えていた。

 

 俺たちと同じ大学に通う三年生。国際教養学部に在籍。

 

 北海道出身。誕生日は三月三十日。

 

 特技はピアノの弾き語り。

 

 高校生の頃から地元北海道で、モデルの仕事をしていた。

 

 大学進学を機に上京。

 

 東京のモデル事務所に所属して、本格的に活動を開始。

 

 大学二年の学祭では、見事ミスコングランプリを獲得した。大学内での知名度はうなぎのぼり。

 

 その頃から、SNSの投稿も活発になっていた。

 

 だが、翌年の春に、更新はぴたりと止まる。

 

 恐らく、その時期に、他人から認識されなくなったのだと思う。

 

 双葉の言葉を借りれば、『岩見沢寧々』であることをやめようとした。『霧島透子』になろうとした。

 

 『岩見沢寧々』としての自覚は、その頃から徐々に欠落していっていたのかもしれない。

 

 俺がわかっているのはこれだけ。

 

 彼女がどのような気持ちで上京してきたのかはわからない。

 

 どんな想いで、大学生活を送っていたのかは知る由もない。

 

 どうして消えることになったのかは想像もつかない。

 

 だから、考えても仕方のないことだ。

 

 何時間、何十時間考えを巡らせたところで、正しい結論が出るわけがない。

 

 俺は俺だ。岩見沢寧々ではないのだから。

 

 それがわかっていても、俺は考えるのをやめることはできなかった。

 

 薄暗い夜の機内の雰囲気が、俺にそうさせていた。

 

 俺が思考の堂々巡りを繰り返しているうちに、「本機はまもなく着陸態勢に入ります」とアナウンスが流れた。

 

 羽田を発って約一時間半。窓の下には北海道の夜の大地が見えていた。

 

 「またのご利用お待ちしています」

 

 丁年な挨拶で機内から送り出された俺たちは、他の乗客の流れに身を任せて、空港内の長い通路を無心で歩いていた。

 

 二十三時を過ぎた空港内は、人の気配も少なく不思議な緊張感に満たされていた。

 

 その中をひたすら無心で歩く。

 

 しばらく進むと、到着ロビーが見えてきた。

 

 ゲートの向こうには、誰かを迎えに来た人たちが、今か今かとこちらを見て待っている。三十人くらいはいるだろうか。

 

 息子の帰省を笑顔で迎えるおばさんもいれば、恋人の到着に頬が緩む男性もいた。

 

 そうした中に、俺はオレンジのマフラーをした人物を見つけた。

 

 福山拓海だ。

 

 すぐに向こうも俺たちに気づいて、軽く手をあげてくる。友人を出迎える笑顔。だが、その顔は「え?」という驚きに変わった。

 

 俺たちの斜め後ろ……赤城に気づいたからだ。

 

 口を半開きにした福山を視界に捉えたまま、到着ロビーに出る。

 

 「本当に来るとは思わなかった」

 

 「それに岸和田も一緒だなんてな」

 

 福山はあの日と同じ言葉で、あの日以上の苦笑いを浮かべた。

 

 「行くって言ったろ?」

 

 「普通、冗談だと思うって。それに……」

 

 「突然、来てすみません」

 

 視線を受けた赤城が丁寧に頭を下げる。

 

 「いや、それはいいんだけど、なんでだろうって思うよね?」

 

 そう話しながら、他の利用客の邪魔にならないように、俺たちは通路から脇に逸れた。

 

 「んで、このあと予定は?泊まるとこ決まってんの?」

 

 とりあえずは目先の相談からという雰囲気で、福山がベンチに腰を下ろす。

 

 「ごめん。先に、家に連絡入れてくるね」

 

 そう断って、赤城は俺たちと福山から少し離れていく。

 

 気を遣って三人にしてくれたのは明白だった。

 

 ならば、早々に本題に入った方がいい。そもそも、俺たちには時間がない。

 

 咲太はひとつ間を空けて、福山の隣に座り、俺は咲太の隣に座る。

 

 その際、コートのポケットからトロフィーの頭が押し出される。自然と、咲太と福山の視線はそこに向かう。

 

 「ポケットになに入れてんのよ?」

 

 「これだよ」

 

 トロフィーを引っ張り出して、咲太は福山に見せた。

 

 岩見沢先輩がミスコンクランプリを獲得した証である透明なトロフィー。

 

 「見覚えないか?」

 

 「………」

 

 福山の眉が寄る。そのままの表情で固まった。

 

 今の反応だけでは、どういう意味か読み取るのは難しい。

 

 驚いたのか。それとも、理解に苦しんでいるのか。どちらとも言える反応だった。

 

 ひとつ確かなのは、福山の目が今もトロフィーを見ているということ。じっと見つめたまま逸らそうとしない。

 

 しばらく待つと、何も言わない福山の手が伸びてきた。トロフィーに指先が触れる。そのまましっかりと掴んだ。

 

 ゆっくり咲太が手を離す。すると、福山は自分の体に引き寄せて、両手で大切そうにトロフ

ィーを包み込んだ。

 

 その指が、表面に刻まれた文字をなぞる。

 

 『岩見沢寧々』と彫られた部分をなぞった。

愛おしそうに、何度も何度もそれを繰り返した。

 

 福山の唇が何かを言おうとして、戦慄く。

 

 でも、言葉がなかなか出てこない。

 

 その様子を見ているうちに、俺は喉の奥がひどく乾いていくのを感じていた。

 

 さっきまで空港の冷たい空気の中を歩いていたはずなのに、今は妙に熱い。

 

 福山は、まだトロフィーから目を離さない。

 

 指先だけが、「岩見沢寧々」の文字をなぞり続けている。

 

 まるで、頭では辿り着けない何かに、手の感覚だけで触れようとしているみたいに。

 

 俺は、その横顔を見た。

 

 軽口を叩くときの福山じゃない。

 

 合コンの話で笑う福山でもない。

 

 もっと剥き出しの、どうしようもなく戸惑っている顔だった。

 

 だから、強くは呼べなかった。

 

 急かすのも違うと思った。

 

 それでも、何も言わずにいられるほど、今の俺は器用じゃない。

 

 「……福山」

 

 小さく名前を呼ぶ。

 

 福山の肩が、わずかに揺れた。

 

 けれど、視線はまだトロフィーに落ちたままだ。

 

 「……無理に、今すぐ思い出そうとしなくていい」

 

 自分でも、少し驚くような言葉だった。

 

 もっと、「わかるか?」とか、「誰のものだと思う?」とか、そういうことを聞くつもりだった気がする。

 

 でも、実際に目の前の福山を見たら、そんな言葉は出てこなかった。

 

 「ただ……それ、お前にとって、たぶん、どうでもいいものじゃない」

 

 福山の喉が、ごくりと動く。

 

 やっと、彼の目がトロフィーから少しだけ離れた。

 

 「梓川、岸和田……」

 

 ようやく福山が口にしたのは俺たちの名前。

 

 「福山、落ち着いて思い出せ」

 

 トロフィーが福山に何らかの切っ掛けを与えたのは間違いない。

 

 だが、咲太の言葉に、俺の言葉に、福山は首を横に振る。

 

 何度も、何度も、俺たちを否定するように首を振った。

 

 「違うんだ……」

 

 次に福山が発した声は震えていた。

 

 乾いてしわがれていた。

 

 「………福山?」

 

 「だって、なあ、これって」

 

 絞り出すように……

 

 「ほんと、喜んでたんだよ」

 

 想いを吐き出すように.....

 

 「グランプリに選ばれて、うれしそうに笑ってたんだよ、寧々は!」

 

 やっとの思いで、福山がその名を口にする。その目は涙で滲んでいた。

 

 ぼたっ、ぼたっ、と大粒の雫が落ちる。

 

 トロフィーの上にも落ちた。岩見沢寧々の名前の上にも落ちて濡らしていく。

 

 「俺、なんで今まで忘れてたんだ……!」

 

 じっと『岩見沢寧々』の文字を見つめる福山は、やさしい目をしていた。

 

 「北海道まで来たかいがあったよ」

 

 咲太は福山の背中に、ぽんっと手を置いた。

 

 (今ここで俺が何かを言うのは、たぶん違うよな……)

 

 福山がようやく辿り着いた名前は、俺が引きずり出したものじゃない。

 

 咲太と一緒にここまで来て、トロフィーを渡して、それでやっと福山自身の中から零れ落ちたものだ。

 

 だったら、その先もまずは福山自身の言葉で続くべきだと思った。

 

 到着ロビーのざわめきは、もうほとんど遠くに感じる。

 

 誰かの再会を喜ぶ声も、キャリーケースの車輪の音も、今は薄い膜の向こう側の出来事みたいだった。

 

 俺の耳には、福山の荒い息遣いと、時折堪えきれずに漏れる嗚咽だけが、やけにはっきり届いていた。

 

 咲太は何も急かさない。

 

 背中に置いた手も、そのままだ。

 

 慰めるでもなく、無責任に励ますでもなく、ただそこにいる。

 

 そういうやつだよな、と改めて思う。

 

 たぶん俺だったら、何か言葉で埋めようとしてしまう。

 

 沈黙が長くなるほど、落ち着かなくなって、余計なことまで口にしてしまうかもしれない。

 

 でも咲太は違う。

 

 必要になるまで、余計なことは言わない。

 

 だからこそ、今の福山の隣にいられるんだろう。

 

 福山はまだトロフィーを抱えたまま、涙で濡れた目を伏せていた。

 

 『岩見沢寧々』

 

 その五文字を、今度は確かめるんじゃなく、失わないように指先でなぞっている。

 

 何度も。何度も。

 

 まるで、自分の中からもう一度消えてしまわないように。

 

 その様子を見ているうちに、胸の奥で強張っていたものが少しだけ緩んだ。

 

 助かった、と思った。

 

 まだ全部じゃない。

 

 思春期症候群が解決したわけでもない。

 

 明日の危険が消えたわけでもない。

 

 けれど、それでも。

 

 少なくとも、ここまで来た意味はあった。

 

 福山は、もう「知らない」とは言わない。

 

 岩見沢寧々を、他人の名前のままにはしなかった。

 

 それだけで、今夜の空路には十分すぎる価値があった。

 

 少し離れた場所で家に連絡を終えたのか、赤城が静かに戻ってくる気配がした。

 

 けれど彼女も、今の空気を見てすぐには声をかけなかった。

 

 俺たちは、しばらく何も言わずに二人を見守った。

 

 無理に進めなくていい。

 

 ここから先は、福山が自分の足で思い出していく時間だ。

 

 泣いてもいい。

 

 取り乱してもいい。

 

 怒っても、悔しがってもいい。

 

 それでも最後に、もう一度、岩見沢寧々のところまで辿り着ければいい。

 

 そんなことを考えながら、俺は小さく息を吐いた。

 

 新千歳空港の夜は、東京よりずっと冷たいはずなのに、不思議とさっきまでみたいな寒さは感じなかった。




物語解説

今回の話は、「存在」と「記憶」が、静かに揺らいでいく回でした。

岩見沢寧々という名前は、確かにそこに刻まれていました。

けれど本人は、その名前を知らないと言う。

目の前に証拠があるのに、それが届かない。その奇妙さは、思春期症候群らしい異常の形だったと思います。

けれど同時に、この回で描きたかったのは、もっと静かなものでもあります。

誰かが自分のことを覚えていてくれること。

そして、忘れていたはずの名前を、もう一度口にすること。

それは派手な出来事ではありません。

けれど、その瞬間にだけ確かに世界は動きます。

トロフィーはただの物です。それでも、そこに刻まれた名前は、拓海にとって確かに意味のあるものでした。

記憶は、時々とても曖昧です。

忘れてしまうこともあるし、思い出せないままのこともあります。

それでも、誰かがその名前を呼び続ける限り、完全に消えてしまうことはないのかもしれません。

今回の章では、その“思い出す瞬間”を書いていました。

まだ問題が解決したわけではありません。

思春期症候群も、霧島透子の正体も、明日の出来事も、すべてはまだ途中です。

それでもひとつだけ、確かな変化があります。

福山が、もう一度その名前を口にしたこと。『岩見沢寧々』という名前を。

それが、この夜に起きた小さな前進でした。

次回以降、物語はさらに動き始めます。

霧島透子とは何者なのか。

そして彼女が、本当に望んでいるものは何なのか。

日常は変わらないように見えながら、少しずつ形を変えていきます。

次回も、ぜひお付き合いください。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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