青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
二月四日
新千歳空港の中にある温泉施設の館内は、すっかり寝静まっていた。
時刻は深夜一時過ぎ。
俺たちは始発便まで時間を潰すため、深夜も営業している新千歳空港温泉に、朝まで滞在することにした。
広々とした大浴場に、同じく広々とした露天風呂。岩盤浴、食事処に休憩所など豊富な設備が整っている。
ひとまず温泉に入ってゆっくりした俺たちは、館内用の甚平に着替えて、今はリラックスルームのリクライニングシートに身を預けていた。
するとその時、スマホが震えた。
画面を見ると、赤城からメッセージが届いている。
《岸和田くん、飛行機取れたよ。七時半発で、羽田に九時十分に着く便》
始発の便だ。
これなら、麻衣先輩のイベントにも十分間に合う。
《了解。ありがとう。二人にそう伝えとく》
そう返して送信する。
すぐに既読がついたが、返信は来なかった。
隣の女性専用リラックスルームで休むと言っていたし、もう寝る準備でもしているのかもしれない。
そう思ってスマホをテーブルに置こうとしたところで、もう一度震えた。
赤城からの追加メッセージだった。
《そういえば、リラックスルームの本棚に漫画がいっぱいあったよ》
《時間あるなら見てみたら?》
言われて顔を上げる。
リラックスルームの壁際には、本棚が並んでいた。雑誌や漫画の単行本がぎっしり詰まっている。
時間はまだある。
始発便まで、あと六時間ほど。
リクライニングシートから立ち上がり、俺は本棚の前まで歩いていった。
背表紙を眺めながら、適当に手を伸ばす。
少年漫画、青年漫画、昔の作品まで混ざっている。
その中で、水色の背表紙が目に入った。
「……ドラえもんか」
なんとなく手に取る。
ぱらぱらとページをめくりながら、リクライニングシートに戻った。
読んでいるうちに、ふと、昔読んだエピソードを思い出した。
スネ夫が、金曜日の夕方に急にサッポロラーメンが食べたくなって、飛行機で北海道までひとっ飛びする話だ。
のび太たちに自慢するためだったか、そんな理由だった気がする。
子どもの頃は、「そんな無茶な」と笑って読んでいた。
けれど、今の状況を考えると、妙に現実味があった。
(……まるで今の俺たちだな)
昨日の夕方までは、普通に大学の近くにいた。
それが今は、新千歳空港の温泉で甚平を着て、始発便を待っている。
きっかけは、トロフィーひとつ。
そして、思い出された名前ひとつ。
漫画の中のスネ夫ほど軽い理由じゃないが、行動だけ見れば似たようなものかもしれない。
そんなことを思いながら、ページをもう一枚めくった。
しばらくひとりで過ごしていると、隣のリクライニングシートに咲太と福山がやってきた。
俺と同じ灰色の甚平を着ている。
「咲太、福山。赤城から伝言。明日の朝一の便が取れたってよ」
「七時半発で、羽田に九時十分着だ」
「赤城は?」
「隣の女性専用リラックスルームで休んでるってさ」
「お礼、言っといてくれ」
「自分で言えよ」
閉じた漫画本は脇に置いてスマホを見る。
「チケット、ありがとな。咲太より」と、LINEを打って送った。
直後に「既読」が付いて、「どういたしまして」と、固い返事が戻ってきた。
いかにも赤城らしい。
「なあ、梓川」
「んー?」
「赤城さんも一緒なの、桜島さんは知ってんの?」
「ここ入る前に、電話して話しておいたよ」
「なんて?」
「なんか赤城も一緒に行くことになったって」
「そしたらなんて?」
「ふーんって言われた」
咲太の返事に、福山が口を半開きにして固まる。
「それ、めちゃくちゃ怒ってない?」
口元だけ引きつったように笑って、福山は聞いてきた。
「全部、福山と岸和田のせいにするから大丈夫」
「おい、なんで俺まで巻き込まれてんだよ」
思わず突っ込む。
「事実だから仕方ないだろ」
「いや、事実ではないだろ」
「似たようなもんだろ」
「雑すぎるだろ」
そのやり取りを見ていた福山が、呆れたように笑った。
「お前ら仲いいな」
「仲よくない」
「否定が早いな」
「咲太と同類扱いされたくないだけだ」
「ひどい言われようだな、梓川」
「自覚あるだろ」
「まあ多少は」
「あるんじゃないか」
「あるな」
「あるのかよ」
福山が苦笑する。
「ていうか、俺も大丈夫じゃなくない?」
「それは本当に事実だから仕方ない」
「はあ、だよなぁ」
諦めたように、福山が背中をシートに預ける。
そこで、一度会話は途切れた。
「………」
「………」
「………」
三人の間に沈黙が落ちる。
ただ、何かを待っているかのように口を閉ざしていた。
福山が再び話しかけてきたのは、一分ほどの長い間があったあと。
「あのさ、梓川、岸和田」
「なんだ?」
「どうした?」
「このままだと、寧々はどうなると思う?」
これを聞くために、福山には長い沈黙が必要だったようだ。
「今、彼女の中に、岩見沢寧々はもういない。僕と福山と岸和田が忘れたら、本当に存在していないことになるかもしれない」
「そうだな。福山が思い出して良かったとはいえな……」
「俺はどうすればいいと思う?」
「彼女を救えるのは、福山の愛の力だけだよ」
「一年近くも忘れてた俺に、愛を語る資格があるかね?」
「福山になかったら、たぶん誰にもない。だから、しゃんとしろ」
「ああ。そのために、俺たちは今日一緒に岩見沢先輩の元に行くんだから」
咲太も俺も、前を向いたまま、福山に言うべきことを言った。
一瞬、驚いたような間が福山にはあった。
けれど、すぐに、「あははっ、久々に叱られたわ」と、声を上げて笑った。
「早く彼女を取り戻して、死ぬほど叱られればいい」
「寧々、怒るとこわいんだよな」
(まぁ確かにそんな感じはするな……)
でも、言葉とは裏腹に、福山の表情にはあたたかさがある。彼女を想うあたたかさが………
福山と岩見沢先輩。ふたりが一緒に過ごしてきた時間がそうさせている。
「告白したときも、返事の前に『遅い』って、怒られたのよ」
「大学に落ちたときは?」
「現役のときは、『なんで』って泣かれた。二度目は『無理しなくていいから』ってやさしく
されたな」
「それは、キツイな……」
「三度目の正直は?」
「『よかった』って、ぼろぼろ泣かれたよ。ほんと安心したって感じでさ」
「………」
「今、思えば、あの頃から寧々は色々抱えて、悩んでたんだろうな」
「地元じゃあ、ほんと有名人だったんだよ。時々、東京に呼ばれて、モデルとして仕事をしさ。そんなやつ、俺らの周りには寧々しかいなかったから……近所の高校まで名前が知られてて、わざわざ他校から見に来るやつらもいて………まあ、梓川と岸和田にしたら、たいした話に聞こえないかもしんないけど」
福山の苦笑いは、暗に麻衣先輩の存在を示唆している。
有名人というカテゴリーで語れば、確かに麻衣先輩の存在感に勝る人物はそうそういない。
街の有名人どころか、国民的な知名度を誇っているのだから……
それに……
(たぶん、のどかと卯月のことも言ってるんだろうな……)
そんなふうに思う。
確かに、のどかも卯月も最近は売れてきて、アイドルとしての知名度もだいぶ上がってきている。
けれど、麻衣先輩ほどの国民的な知名度があるわけじゃない。
だから、福山が言ったことは半分正しくて、半分は違う。
多分、俺には言わないだけだ。
のどかも卯月も、きっと岩見沢先輩みたいに色々抱えていることはあるんだと思う。
アイドルだって、モデルだって、人に見られる仕事だ。
楽なはずがない。
でも、そう考えると。むしろ、そんな人たちとちゃんと向き合って付き合っている咲太と福山は、立派なんじゃないかと思う。
俺だったら、きっともっと気後れしてしまう。
街の有名人やアイドルどころか、国民的な知名度を誇っているのだから……
「だけど、上京してからは、思ったように仕事が増えなかったみたいで……寧々もその辺のことあんま話したがらなかったんだよな」
「ミスコンはグランプリに選ばれてたろ?」
「だから、珍しく喜んでたよ。特技の歌が話題になってさ。歌うと反応がもらえるから、そういう動画を撮るようになっていったんだよ。認めてもらえて。楽しんでもらえて。霧島透子に似てるとか、本物みたいとか言われて、まあ、寧々も楽しそうにしてたかな」
「それって、彼女がやりたいことだったのか?」
「俺が聞いてた目標は、東京のTV局でアナウンサーになることだったな。だから、登竜門的なミスコンのグランプリも、あんなに喜んでたんだし。カラオケで歌が上手いのは知ってたけ
ど」
「それが今は、自分が霧島透子だって言ってるし、本人はそう信じてるわけか」
「色々掛け違ったのかもな」
「ちょっと掛け違っただけだろ。福山とも。だから、まだなんとでもなる」
(小さなボタンの掛け違いが、しだいに大きなシワになる……そういうもんだからな)
「………」
無言で福山が視線を向けてくる。
それに、咲太は応じなかった。
「そうかもな」
ぽつりと福山が納得する。
「そうだよ」
咲太は前を向いたまま頷いた。
「なあ、梓川、岸和田」
視線を正面に戻しながら、福山が呼び掛けてくる。
「俺、寧々のことが好きだわ」
何を言うのかと思えば、唐突な告白だった。いや、福山にとっては唐突でもなかったのかもしれない。
彼女のことを語っているうちに、心の中で膨らんでいった気持ちがあったはず。
思い出した思い出の数々があったはずだから……
「俺、寧々のこと好きだわ」
もう一度福山が言う。
「それは、明日、彼女に言ってくれ」
「……そうだな、岩見沢先輩本人に、直接な」
俺たちはリクライニングシートから身を起こした。立ち上がって、リラックスルームから出て行こうとする。
「どこ行くのよ?」
「トイレ」
「いっといれ」
「福山は明日に備えて少しは寝ておけよ」
「寝られると思う?」
「寝られなくても、体は休めとけよ」
俺は苦笑を浮かべる福山に返事をして、咲太と一緒に、リラックスルームを後にした。
宣言通りトイレに寄ったあと、俺たちは福山のもとには戻らずに、温泉施設の下の階に向かった。
ひとつ下は温泉のフロア。ふたつ下がロビーと食事処になっている。
すでに営業時間を過ぎた食事処は、無料のドリンクサーバーの近くに電気が灯っているだ
けで、あとは薄明りだ。
喉を潤すために、ドリンクサーバーであたたかいほうじ茶を淹れる。
すると、背後から名前を呼ばれた。
「梓川くん、岸和田くん」
振り返ると、座敷の段差のところに浴衣姿の女性が座っているのが見えた。
赤城だ。
俺たち同様、ドリンクサーバー目当てで来たのか、手には湯飲みを持っている。
その隣に、俺たちは少し間を空けて座った。
「帰りのチケットの予約、ありがとな」
「それはさっき、岸和田くんから聞いたよ」
「赤城がいてくれて助かった」
「それは、はじめて聞いた」
「こういう場所があるのも、事前に調べておいてくれたろ」
温泉施設で時間が潰せると教えてくれたのは赤城だ。
羽田を発つ前、「到着時刻も遅いし、最低限の着替えはこっちで準備していった方がいいんじゃない?」と助言してくれたのも赤城だった。
「それは、私も困るから」
「でも、助かった」
「うん」
赤城が居心地悪そうに再びほうじ茶を飲む。
人の助けにはなろうとするくせに、相変わらずお礼を言われるのは苦手なようだ。
(まぁ咲太と話すのは、まだちょっと気まずいんだろうな……)
「………」
「………」
「赤城はさあ」
「なに?」
「福山の彼女のこと聞いて、どう思った?」
この問を口にするのは簡単だ。
けれど、正しく答えようとすると難しい。
非常に難しい問題だと思う。
それでも、予想に反して、赤城が考え込むことはなかった。困った顔も見せなかった。
「私は、よくあることなんだと思った」
あまりに迷いがなさ過ぎて、「そうか?」
と、咲太は疑問を被せるようにして聞き返していた。
「梓川くんにはなかった?自分が見つからなかったり、自分を見失ったりしたこと」
「私はあるよ。色々上手くいかなくて、周りの出来事にただ流されて………気が付いたら、もうひとつの可能性の世界に逃げ込んでた」
赤城の言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、昔の空気が蘇った。
母親が亡くなった直後の、あのどうしようもなく薄い日々。
周りのみんなが普通に笑って、普通に話して、普通に次の時間割のことを気にしているのに、自分だけどこか別の場所に取り残されているような感じがあった。
それが怖かった。
みんなと違う存在でいたくなかった。孤立したくなかった。
だから、中学受験に専念した。
勉強して、先のことを考えて、ちゃんと前に進んでいるふりをしていた。
そうして入った中学でも、結局はうまく馴染めなかった。
人と話していても、どこか自分だけ半歩ずれている感じが抜けなかった。
その先にあったのが、あのループだ。
選ばなかった可能性が現実に干渉して、同じ時間を何度も繰り返した中学一年の三月。
気づけば、湯飲みを持つ指先に力が入っていた。
これを腑に落ちるというのだろうか。
赤城のおかげで、ずっと正体を掴めずにいた『岩見沢寧々』という人間のことが、急にわかった気がした。身近にも思えてきた。
「福山の彼女の場合、流れ着いた先が『霧島透子』だったってだけか」
上京してから人生が上手くいかなくなって、今までの自分を否定されたような気分になって、その上、麻衣先輩まで目の前に現れた。
それに悩んで、足掻いて、もがいて……それでも何も変わらなくて、彼女は自分を見失ってしまった。自分が何者かわからなくなってしまった。
すべてを失った彼女が頼ったのが、ある言葉。
「本物の霧島透子かもしれないって言われたことは、自分を見失った彼女にとって、大きな意味があったのかもな」
「私は今でも覚えている。幼稚園に通っていた頃に、友だちのお母さんから『郁実ちゃんはいい子だね』って言われたことを」
「………」
「私はそれがうれしくて、また褒めてもらいたくて『いい子』でいようとしてた」
「赤城らしい話だな」
「おかげで、中学に上がった頃には、みんなから真面目過ぎるって笑われたけど」
「そうだったな」
「そんな感じだったな、今もあるけど」
「岸和田くんはともかく、梓川くんは覚えてないでしょ?」
「思い出したって言う方が正しいけどな。赤城は誰よりも綺麗に黒板を消してたろ? 黒板消しも新品みたいにして。チョークの粉を吸わせるクリーナーまで掃除してるやつって、僕は赤城しか知らないよ」
「黒板ばっかり」
赤城の声は呆れたように笑っている。
咲太を笑っているのではない。そんな過去の自分を懐かしんで笑っている。
「でも、私はそれを自分らしさだと思えたから、あの頃は生きづらさなんて感じたことはなかった」
「そのはじまりが、たった一言の『いい子だ』か」
「うん」
「岩見沢寧々にとっては、『霧島透子みたい』って言われたことが、見失っていた自分を取り戻す切っ掛けになったのかもな」
少なくとも一種の希望にはなった。
それを道しるべだと勘違いした。
「梓川くんは、そういう経験ない?」
「ある人に、『やさしくなれる』って言われて、その気になったことはあったな」
その言葉を聞いた瞬間、不意に別の記憶が浮かんだ。
高校二年の三月。
ファミレスのシフトに遅れそうで、急いでいたときだ。
角を曲がったところで、ひとりの女の子とぶつかりかけた。
あのとき、たしか彼女は言った。
「いつか、やさしい人になれますね」
立ち止まりかける。
胸の奥で、何かがかすかに軋む。
(……多分、同じ子のことだよな?たしか……牧之原翔子さん、だったっけ)
そう思った瞬間、現実から半歩だけずれた場所に自分が立っているような感覚に捉われた。
床に座っているはずなのに、重力だけがわずかにずれたような違和感。
視界の輪郭が一瞬だけ薄くなる。
(まただ……なんで……)
けれど、その揺らぎはすぐに収まった。
「今も、それを信じてるんだね」
赤城の声で、意識がこちらに引き戻される。
「そう考えると、ほんと赤城の言った通りだな」
「ん?」
「どこにでもある、よくある話」
『霧島透子』の歌を歌うことで、岩見沢寧々はようやく注目を浴びることができた。
それは彼女がずっと求めていた自分。ずっと望んでいた自分。ずっと欲していた自分の姿。
理想的な自分がそこにいた。
居心地のいい場所がそこにあった。
岩見沢先輩にとって、それが『霧島透子』だったというだけの話。
『岩見沢寧々』でいることよりも、注目を浴びる誰かでいることの方が大切だった。
「岸和田くんも、そういう経験ない?」
赤城に聞かれて、俺は少しだけ息をついた。
「俺もあるよ」
「それこそ、赤城と中二の時に生徒会の仕事を手伝ったのなんか、まさにそうだった」
赤城がわずかに目を見開く。
「私と?」
「ああ」
赤城は、俺が東京から転校してきたときに、最初に声をかけてくれた相手だ。
赤城のおかげで、俺は転校先の中学に馴染むことができた。
でも同時に、焦っていたのも事実だった。
ちゃんと馴染まなきゃいけない。浮いちゃいけない。ひとりになっちゃいけない。
そう思ってた。
だから、赤城の好意にも、当時は全く気づけなかった。
中三でクラスが赤城と分かれてからは、高校受験もあって、次第に話さなくなって、高校に入ってからは疎遠になってしまった。
「だから、#夢見るを使って赤城が人助けをしてた時、俺は手伝った」
「………」
「……昔の返事を、遅れてしようとしてたのかもな」
ただの手伝いじゃなかった。
昔、見過ごしたものに、遅れて返事をしようとしていたんだ。
赤城は、しばらく何も言わなかった。
それから、湯飲みを両手で持ち直して、静かに言った。
「私は気にしてないから、大丈夫」
その声は、慰めるでもなく、責めるでもなく、ただ事実を置くようにやさしかった。
「そういうとこだよな、赤城は」
咲太が、少しだけ感心したように言う。
「なにが?」
「人を許すの、早いとこ」
「別に、許してるわけじゃないよ」
赤城は小さく笑った。
「ただ、岸和田くんがそういうふうに思ってたことを、今知っただけ」
「それで十分だろ」
俺がそう言うと、赤城はまた少しだけ居心地悪そうに視線を落とした。
ほうじ茶の湯気が、三人の間をゆっくり昇っていく。
深夜の空港の温泉施設は、しんとしていた。
けれどその静けさの中で、俺たちはたしかに、それぞれの「見失ったこと」と「見つけ直したこと」を少しずつ言葉にしていた。
「改めて、赤城がいてくれてよかったよ」
咲太は、空になった湯飲みを置いて、座敷に仰向けに倒れる。
温泉施設の高い天井が咲太を見下ろしていた。
「寝るなら、上に戻った方がいいよ。岸和田くんも」
「そうだな」
返事をしたときには、咲太はもう目を瞑っていた。
翌朝、新千歳空港には、天気予報の予測を上回る大雪が降った。
目が覚めて外をはじめて見たときには、飛行機の欠航を疑ったほど。
(仮に今から函館まで出て新幹線乗っても、間に合わないぞ……)
「これくらいなら大丈夫よ。少し遅れるかもしれないけどさ」
絶望的な気持ちで外を見ていた俺たちに陽気な声をかけたのは、北海道出身で雪に慣れている福山だ。
「お前のその“これくらい”は、道民基準だからな」
「東京のやつら、雪に弱すぎんのよ」
「弱いんじゃなくて、想定してないんだよ」
咲太が眠たそうな声で返す。
空港内は朝早くから慌ただしかった。
出発ロビーへ向かう客の足取りは速く、案内板の前には人だかりができている。館内放送もいつもより少しだけ多い気がした。
俺たちも搭乗手続きを終えて、出発口の近くのベンチに並んで座った。
そのとき、スマホが震えた。
画面を見ると、のどかからの着信だった。
「……のどか?」
思わず小さく呟く。
「出ろよ」
隣の咲太が、缶コーヒーのプルタブを開けながら言う。
言われるまま通話ボタンを押して、俺は少しだけ席を立った。
「もしもし」
「あ、蓮真?」
聞き慣れた声だった。
少しだけ早口で、でも無理に平静を装っている感じがある。
「どうした?」
「今日さ、X見てたら、お姉ちゃんが警察署長のイベントで事故に遭うかもっていう#夢見るのポストがあって」
(……やっぱり来たか)
「なんか嫌な感じがして、心配になって」
「ポスト、どんなのだ?」
「ちょっと待って、今送る」
通話を繋いだまま、すぐにメッセージが飛んでくる。
Xの画面を開く。
そこには、
{今日行く予定の桜島麻衣のイベントで、桜島麻衣が事故に遭う夢見た。怖いなぁ #夢見る}
{今日行く予定の辻堂駅のイベント、桜島麻衣が出るみたいだけど事故が起こる夢見た。ドラマだけにしてくれよそんな展開 #夢見る}
といった投稿が、いくつも並んでいた。
昨夜のうちから拡散されていたのか、すでにそれなりの数のいいねも付いている。
ざわ、と胸の奥が冷える。
「……見た」
「でしょ? やばくない?」
「やばいな」
「蓮真、今日咲太と一緒にイベント見に行くんでしょ?」
(まぁ、そういうことになってるよな)
北海道にいることは、のどかにはまだ話していない。
いま説明して余計に心配させるよりは、そのままにしておいた方がいい。
「……ああ」
短く答える。
電話の向こうで、のどかが少しだけ黙った。
それから、静かに言った。
「お姉ちゃんになんかあっても、咲太と蓮真なら、守ってくれるよね?」
その言い方は、俺たちを信じているというより、自分にそう言い聞かせているみたいだった。
「……ああ」
今度は迷わず答えた。
「こっちはなんとかするから。のどかも、今日のライブ頑張れよ」
「……うん、分かった」
少しだけ、声が柔らかくなる。
それで終わってもよかったのに、なんとなく、そのまま切る気になれなかった。
「そうだ」
「なに?」
「こんど、お土産でも渡すよ」
「お土産?なんのこと?」
「秘密だよ」
「何それ」
呆れたような、でも少しだけ笑っている声だった。
「じゃあ、気をつけてね」
「そっちも」
そこで通話は切れた。
画面が暗くなる。
ほんの数十秒の会話だったはずなのに、やけに長く感じた。
席に戻ると、咲太がこちらを見上げてきた。
「岸和田、誰からだ?」
「のどかからだよ」
そう答えると、咲太は「ふうん」とだけ返した。
けれど、その短い相槌の奥に、「豊浜も気づいたか」という理解があるのがわかった。
赤城は自販機で買ったココアを片手に、俺たちの顔を見比べている。
「岸和田くん、なにかあった?」
「#夢見るのポストが、表に出てる」
「……早いね」
「しかも、麻衣先輩のイベントが名指しだ」
俺がスマホの画面を見せると、福山は「うわあ」と嫌そうな声を漏らした。
「これ、普通に洒落になんねえな」
「だから、間に合わせるんだよ」
咲太がそう言って、座ったまま背もたれに頭を預ける。
眠そうな顔のままなのに、目だけは起きていた。
出発ロビーの窓の向こうでは、除雪車が何度も雪を押しのけている。
白く霞んだ滑走路の先に、俺たちが乗る飛行機が小さく見えた。
その後、滑走路の除雪に多少時間はかかったものの、福山の予言通り、飛行機は一時間遅れで飛ぶことになった。
俺たちが新千歳空港から飛び立ったのは、午前八時半。
約一時間半のフライトを終えて、羽田空港に到着したのは午前十時過ぎ。
バスで到着ロビーに運ばれ、足早に京急線の改札口を通り抜けたときには、もう十時半を回っていた。
横浜方面に向かう急行電車に四人で乗り込んで並んで座る。
降りたのは、俺たちにとっては馴染みの駅。
大学がある金沢八景駅だった。
駅のロータリーでタクシーを捕まえて、岩見沢先輩が住むマンションの住所を伝える。
金沢八景駅から徒歩で十分程度の距離。
だから、タクシーは五分とかからずに俺たちを目的地まで運んでくれた。
窓の外に、岩見沢先輩が暮らす三階建てのマンションが見える。
俺たちにとっては、昨日以来。
「三人は先に行って。お金は払っておくから」
赤城の言葉に送り出されて、俺たちはドアが開くと急いで飛び出した。
マンションの階段を駆け上がる。
目指したのは二階。部屋は201号室。
駆けつけた勢いそのままに、咲太はインターホンを押した。
部屋の中から、呼び出しのベルが響いてくる。
けれど、待っていても反応はない。誰も出てこない。
ドアの向こうに、人の気配も感じられなかった。
「梓川、そこどいて」
ポケットに手を突っ込んでいた福山が肩で咲太を押してくる。
咲太がドアの前を福山に譲ると、その手には銀色の細長い金属が握られていた。
「合鍵持ってたのか」
「そりゃあ、彼氏ですから」
「羨ましいな」
「言ってる場合か」
「何を言ってんだよ……」
鍵を開けて、福山がドアを開く。
「寧々、俺だけど、入っていいよな~?」
一応断りをいれてから、福山が岩見沢先輩の部屋に足を踏み入れる。
やはり、人の気配はない。音がしない。電気もついていなかった。
「寧々?いないのか~?」
呼びかけながら、福山がキッチンから部屋へと続くドアを開ける。
「は?え?」
その瞬間、素っ頓狂な驚きが聞こえてきた。
ドアを開けたまま、部屋の入口に福山は立ち尽くしている。
信じられないという顔で、室内を観察していた。
クリスマスに染まった部屋のデコレーションに圧倒されているのだ。
俺はじめて見たときはさすがに驚いた。
だが、今は時間が惜しい。
「本人も、ミニスカサンタの格好してるから、会ってもビビるなよ」
事前に咲太は岩見沢先輩の格好を伝えていた。
「それは、楽しみにしてる」
「その意気だ」
(変態ども……)
そんな会話を交わしながら、部屋の様子を伺う。脇に置かれた折り畳みのテーブルの上には、完成したLEGOのロッジがあった。途中までは俺が組み立てたもの。
「俺が前に来たときは、もちろん、こんな部屋じゃなかったのよ?」
机の上に置かれた小さなツリーを福山が持ち上げる。
「トロフィーもここに飾ってあって」
一番の特等席に、福山はミスコンのトロフィーを置いた。
その際、コートの袖口が開かれたままのMacBookに当たった。
モニターがわずかに揺れて、目を覚ます。
ファンが小さな音で回り出し、画面には明かりががった。
「梓川、岸和田、これ」
福山が指を差したのはMacBookのディスプレイ。
映っていたのは、藤沢市が公式に運営するX。
本日『桜島麻衣』が一日警察署長を務めるイベントに関する案内が載っている。
開催場所は辻堂にあるショッピングモールの屋外イベントスペース。日時は今日、午後二時スタート。
「双葉の言ってた通りか」
「寧々のやつ、まさか本気で桜島さんに何かするつもりじゃないよな?」
「それがわからないから、捜すんだよ」
「じゃあ、もうイベント会場で張り込むしかないぞ?」
「とにかく、岩見沢先輩がどこに行ったか、突き止めないと」
できればここで捕まえたかったが仕方がない。
飛行機が遅れなければと考えながら、部屋を出ようと俺たちは玄関に向かった。
キッチンの流し台にふと目が行く。水切りにマグカップがあった。しかも、まだ少し濡れている。
自然と俺は、コンロの脇にある電気ケトルを見ていた。蓋を開ける。
わずかに残ったお湯は湯気を立てていた。
「これって」
「まだ、この辺にいるかもしれない」
俺の言葉に福山は「ああ」と力強く頷き、「辻堂に行くなら、向かったのは駅だよな?」と、聞いてくる。
「前に、元町に行ったときは車を借りた。もしかしたら、そっちかもしれない」
「駅前のタイムズカーか!」
「確かに、寧々なら車かも!」
靴を履いて、急いで部屋を出る。階段を駆け下りると、気づいた赤城が視線で「どうだった」と聞いてくる。
けれど、俺たちの目は、道の先の赤信号で止まっていた先ほどのタクシーに向いた。
「もう一度、乗せてください!」
両手を振って追いかける。信号は青に変わった。
タクシーはウィンカーを出して、止まって待ってくれていた。
赤城への説明もそこそこに、再びタクシーに乗り込んだ俺たちは、「駅前の立体駐車場に行ってください」と、運転手のおじさんに告げた。
走り出したタクシーは、来た道を戻る形で駅前を通過する。
「立体駐車場って、アレのことかな?」
後ろの俺たちに尋ねるように、前方に見えてきた五、六階建ての建物をおじさんが指差す。
「そうです。そこの前で、止めてください」
俺の指示通りに運転手のおじさんがゆっくりと車を止める。
「赤城、あとで払うから頼んだ」
「わかってる」
赤城の返事の途中で、俺たちは外に出た。
一緒に立体駐車場に駆け込むと、エレベーターのボタンを押して乗り込んだ。
最上階の屋上を目指して、エレベーターは上昇していく。
福山が咲太に尋ねる。
「元町行ったのって、俺の誕生日だよな?」
「プレゼント買うの付き合わされたんだよ」
「妬けちゃうね」
「今度は自分で行ってくれ」
「そうだな」
何かを決意するように福山が呟く。
その直後、到着のベルが鳴った。
外に出て見えたのは、屋上の駐車エリア。
タイムズカーの車が、四、五台並んでいる。
その中の一台のランプが一瞬だけ光った。
見覚えのあるコンパクトカー。あの日に岩見沢先輩が借りたのと同じ車だ。
エンジンがかかり、駐車スペースからゆっくり動き出す。運転席には、ミニスカサンタの衣装を着た岩見沢寧々の姿が見えた。
「いた!」
だが、車は駐車場から出て行こうとすでに走り出している。一歩遅かった。間に合わなかった。
後ろ向きな言葉が頭を過った瞬間、咲太の隣から福山が一気に駆け出した。
名前を呼びながら、下の階に下りて行こうとする車を追いかける。
「寧々!」
何度も呼びながら、徐行する車に追いついて……ついには、追い越した。
「待ってくれ、寧々!」
止まらない車の前に、福山が飛び出す。
両手を広げて立ち塞がった。
「福山!」
「馬鹿、福山!」
危険だと思ったら、叫んでいた。
衝突を覚悟して、わずかに視線を逸らした。
それと同時に、車のブレーキランプが赤く始る。
ぶつかる寸前……残り数センチを残して車は止まった。
肝が冷える。勘弁してほしい。
そんな俺たちの気など知りもせず、福山は今なお両手を広げて車の前に立ち塞がっている。
「寧々、話を聞いてくれ」
運転席に向けて、何かを謝るように声をかけていた。
すると、車のドアがゆっくりと開く。
バンっと音を立てて車のドアが閉められる。
その脇を通って、咲太が俺と咲太の側まで行くと、岩見沢先輩からは「また君たち?」という面倒くさそうな視線を向けられた。
けれど、それはほんと一瞬のこと。
岩見沢先輩の視線はすぐに福山へと戻される。
「驚いた。君にも、わたしが見えてるんだ」
「君じゃなくて、俺だよ! 拓海だ!」
「誰?」
無感動な岩見沢先輩の表情。
その態度に、福山の頬が引きつる。
瞳は驚き、困惑していた。
状況は俺と咲太が事前に伝えた通り。心の準備はしていたはず。
だが、いざ目の当たりにすると、心に来るものはある。衝撃は受ける。
もしかしたら、自分のことは覚えているかもしれない。
そんな甘い考えが多少なりと頭にはあったはずだ。期待があったはず。だが、裏切られた。
「……ほんとにわからないんだな」
岩見沢先輩を見る福山の目は、寂しそうだ。
「君の知り合いは何を言っているの?」
助けを求めるように、岩見沢先輩が俺に尋ねる。
「彼は福山拓海です。岩見沢寧々さんの恋人の」
「君たちの話は、なにひとつわからないんだけど?彼のことは知らないし」
「それと、何度も言うけど岩見沢寧々って誰?わたしは、霧島透子よ」
態度と言葉に付け入る隙はない。
本人が「違う」、「知らない」という話を、どう受け入れてもらえばいいのだろうか。
俺にとっても、多分咲太にとってもはじめてのケースで、福山にも、岩見沢先輩にも、かける言葉が思いつかなかった。
そんな中、最初に口を開いたのは福山だった。
「………わかったよ」
そう絞り出す。一体、何がわかったというのだろうか。
「寧々がそう言うなら、そうなんだろうな。信じるよ」
俯きかけた顔を福山が上げる。
真っ直ぐに岩見沢先輩の目を見ていた。
福山を福山として認識してくれない岩見沢先輩の瞳から逃げずに向き合っていた。
「………」
その福山の意外な態度に、岩見沢先輩は少なからず戸惑っているように見えた。
「ちょっとでいいから、俺に時間をくれない?」
いつもの調子で福山が話しかける。
「あまり時間ないんだけど」
「あんがと」
肯定と受け取った福山が小さくお礼の言葉を口にする。
そのあとで、首に巻いていたマフラーの尻尾に触れた。
「このマフラー、寧々がくれたものなんだよ。付き合ってからはじめての誕生日に」
「ぼろぼろだけど?」
「今年で五度目の冬だからなあ」
「物持ちがいいんだ」
会話は成立している。だが、温度は随分違っている。
気持ちを込めて語りかける福山に対して、岩見沢先輩の反応はあくまで淡白だ。
「俺にとっては、寧々からもらった大事なものなんだよ。なんかお守りみたいに思ってるから手放せなくて。受験のときもこれ巻いていったし」
「ご利益はあった?」
「現役のときは失敗した。一年浪人して挑んだ二度目も失敗した」
苦い思い出を苦い笑顔で福山は語っている。
「そしたら、寧々分のやつ縁起が悪いから、もう捨てろって言い出してさ。付き合ってはじめて大喧嘩になった」
「そう」
「っていう、思い出話も、やっぱりわからないんだな」
「だって、それは君の彼女の話でしょ?」
福山を見据える岩見沢先輩の表情は動かない。感情が動かない。
「受験でこっち来てた数日間、寧々の部屋に泊めてもらったことも?」
「わからない」
「朝起きたら、勝手にマフラーを寧々がゴミ箱に捨ててたことも?」
「わからない」
「俺がゴミ箱から引っ張り出したら、また喧嘩になったことも?」
「わからない」
何度伝えても、何を伝えても、音声メッセージのように岩見沢先輩は同じ言葉を無感動に繰り返すだけ。
わからない。わからない。わからない。顔にも、眉にも、岩見沢寧々の感情は現れない。
彼女の中に、岩見沢寧々はいない。それを痛感させられる。
胸が、少し痛んだ。
気持ちを込めて話しても届かない。
必死に訴えても、なかったことにされる。
俺は、それを知っている。
ループの中で、父さんに話したことがある。
学校の大人にも訴えた。
ネットに書き込んで、知らない誰かに縋ろうとしたことだってあった。
でも、何も変わらなかった。
明日が来ない世界では、言葉に意味がなかった。
届かないんじゃない。最初から、届いたことにならない。
福山が今ぶつかっているのは、あのときの俺が味わったのと同じ種類の絶望だ。
それでも、福山は話しかけるのをやめなかった。
「三度目の受験のときも、寧々に黙ってマフラーをしていったこともわからないんだな」
「その結果は?」
「合格したよ」
「おめでとう」
それは、俺がこれまでに聞いてきた中で、もっと無感動な祝福。
福山の口元が歪む。こんな状況にいる自分を失笑している。
「梓川と岸和田に聞いたよ」
「何を?」
「新しいマフラー買ってくれたって」
「わたしは知らない」
「空港まで渡しに来てくれたのに、気づけなくてごめん」
「………」
「だから、俺のことわからなくていいよ。寧々のこと、一年近くも忘れてたんだもんな。俺も忘れられて当然だと思う」
「………」
「けど、もう忘れない。寧々が俺のことわかってくれるまで諦めない。何年かかっても」
「それで?」
真っ直ぐ自分を見つめる福山に、岩見沢先輩が疑問を返す。
最初から何も変わらない無感動な表情。
「え?」
思わず、福山が聞き返した気持ちもわかる。
「さっきからこれは何の話?」
岩見沢先輩が退屈そうにスマホを確認する。
「悪いけど、もう時間だから」
体は車の方を向いた。
「簡単な話だよ」
呼び止めようとする福山に構わず、岩見沢先輩がドアに手をかける。
「俺、福山拓海は、岩見沢寧々が好きだって話だ」
車のドアを開けたところで、岩見沢先輩の動きは止まった。
「一年近くも忘れてたから、俺ってもう寧々に振られてるのかな?だったら、もう一度、付き合ってください」
「………」
岩見沢先輩の返事はない。
ドアを掴んだままの姿勢で固まっている。
「まだ振られてないんなら、これからも付き合ってくれませんか?」
「………」
最初の反応は沈黙。
「………」
次は、無言で福山を見た。
その唇が小さく動く。
「なんで……」
消えそうな囁き。
「なんで……」
二度目は、もう少しはっきりした声。でも、まだ小さい。
「寧々のことが好きだから」
ゆっくり、そして、静かに、あたたかい口調で福山は想いを言葉にする。
自分自身で、その想いを確認しているかのような言い方だった。
「嘘、言わないで………」
俯いた岩見沢先輩の声は、震えているように聞こえた。
「嘘じゃない」
「そんなわけないじゃない……!」
今度は間違いなく震えていた。
声が、肩が………そして、たぶん心も。
「ほんとだよ!」
必死に福山が食い下がる。
「こんなみっともない!私のどこが好きだって言えるのよ!」
突然、岩見沢先輩の口から吐き出されたのは苛烈な感情だった。
深い嘆きの声が、屋上に響き渡る。
胸の奥を鷲掴みにされるような慟哭だった。
「自信満々で上京してきて!でも、仕事は全然増えなくて!事務所に所属しているだけの名ばかりのモデルで!」
「………」
真っ直ぐに感情をぶつけられた福山は、今なお言葉を失っている。
俺も咲太も同じだった。
岩見沢先輩を包む暗澹たる空気に、上から押さえつけられているような気分だった。
先ほどまでとは、別人に見えた。
同じ顔だけど、見たことのない顔をミニスカサンタはしていた。
「私ならできると思ってた!何かになれると思ってた……!でも、見てよ。結局はこの有様。負け犬の私がなれたのは、せいぜい霧島透子のまがいもの………!」
「………寧々、なんだな?」
福山がようやくその名を呼んだ。
「寧々!」
もう一度呼ぶと、寧々は薄く笑って顔を上げる。
「私のこと笑ってよ……。何者でもなかった私を笑って!」
「笑えるわけないだろ!」
福山の声には真剣な怒りがあった。
もちろん、岩見沢先輩に対する怒りではない。
何もできなかった自分と、ここまで岩見沢先輩を追い詰めた何かに対する苛立ちだ。
「………これ以上、構わないで」
「寧々を笑ってるやつらの方が笑えるよ。そうだろ?」
「ごめん、拓海。岩見沢寧々には何もない。霧島透子になるしか、私にはないの」
「俺は寧々を好きになったんだ。寧々のままの寧々を!」
「私のままの私ってなに!?」
「………」
突然の質問に、福山が一瞬躊躇う。
「そんな立派な自分らしさがわかってたら苦労しない!」
「でも!」
感情だけで福山が食い下がろうとする。
その福山を睨みつけた岩見沢先輩は、「それでも、私は人より恵まれてるって思いたい!どんなにみっともなくても、何者かであるって思いたいの!」と、吐き捨てた。
「………」
今度こそ、福山が言葉を失う。
重い、どこまでも重い沈黙。
福山のまっすぐな想いは本物だ。けれど、それだけでは届かない場所がある。
岩見沢先輩が今立っているのは、たぶん、そういう場所だった。
だから、次に何を言えばいいのか、俺にはわからなかった。
福山にも、きっとわからなかったはずだ。
けれど、さほど長くは続かなかった。
「ちゃんとわかってるじゃないですか」
不意に、咲太が口を挟んだ。
(……咲太?)
思わず、そちらを見る。
今の流れなら、流石の咲太もしばらく黙っていると思っていた。
福山の言葉を見届けるつもりでいると思っていた。
けれど咲太は、まるでそこが口を挟むべき境目だと最初からわかっていたみたいに、まっすぐ岩見沢先輩を見ていた。
「自分のこと、わかってるじゃないですか」
「………」
「今のが岩見沢寧々さんらしさですよ。何者かになりたいなら、これから勝手になればいい。アナウンサーでもなんでも」
「言いたいことはそれだけ?」
冷たい瞳が咲太を見ている。
「いえ、まだあります」
「……」
岩見沢先輩が眉根を寄せる。その目は、「この雰囲気の中でよくそれが言えるわね」と語っている。
それに気づかないふりをして、咲太は話を続けていた。
「さっき言ってた『自分には何もない』っていうのは、さすがに思い上がりなんじゃないですか?」
咲太の言葉に、隣にいる福山も戸惑っている様子だった。
「………何が言いたいの?」
岩見沢先輩は咲太に、露骨に苛立ちの感情をぶつけていた。
(思い上がりとまで言われたらな……)
「岩見沢さんには、福山がいるじゃないですか」
岩見沢先輩の目を見て、咲太は語りかけた。
「自分を大切に思ってくれる自分の大切な人がいるじゃないですか」
咲太は最後まで目を逸らさなかった。
岩見沢先輩も目を逸らさなかった。
咲太の言葉を否定してもこない。文句を言ってもこない。ただ聞いていた。
「そういう人を負け犬なんて言わないでしょ。愛されてるんですから」
咲太の言葉のあと、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。
「……俺もそう思います」
自分でも驚くくらい自然に、口から言葉が出ていた。
咲太と岩見沢先輩の視線が、同時にこっちへ向く。
「思い上がりって言い方は、さすがにきついと思いますけど」
肩をすくめてから、続ける。
「でも、『自分には何もない』っていうのは違いますよ」
岩見沢先輩の眉が、わずかに動いた。
「去年、横市のオープンキャンパスに来たことがあって」
ふと、そのときのことを思い出す。
掲示板の前で、のどかと卯月が騒いでいた。
「ねぇ、見てこれ。学祭のミスコンのポスター」
卯月が指差した先、掲示板には何枚かポスターが貼られていた。
中央に写っていたのは、笑顔の女子大生。
名前を見た瞬間、手が止まった。
「岩見沢……寧々?」
「知ってる人?」とのどかが首をかしげる。
「いや、名前だけ聞いたことがある。この大学じゃけっこう有名らしい」
「へぇ〜、確かに美人さんだね」
「さすが横市って感じだな」
卯月はスマホでポスターを撮り、のどかも隣でシャッターを切っていた。
俺は横で、その名前をタブレットにメモした。
ポスターの端には公式インスタのQRコードがあって、ついでにフォローもしておいた。
習慣みたいなものだ。
記録癖のせいで、名前を残していただけ。
でも……
「だから」
現実に意識を戻す。
「少なくとも、岩見沢先輩を見てた人はいましたよ。霧島透子になる前から」
ゆっくり言う。
「その一番の象徴が、福山です」
ほんの少しだけ間を置く。
「……まあ」
肩をすくめる。
「咲太に、愛されてるって言われるのは、ちょっと癪だとは思いますけど」
俺と咲太がはっきり答えると、岩見沢先輩は少し俯いて肩を震わせていた。
怒りを堪えているわけではない。込み上げる笑いを堪えていた。
でも、結局堪え切れずに、笑い声を上げた。
「本当そうよ。その顔で、それ言う?愛されてるって」
手を叩き、お腹を押さえて岩見沢先輩が笑い続ける。
おかしなツボに入ったらしい。
それを前にして、福山は困ったような作り笑いを浮かべていた。
「梓川くんに言われるのは、はっきり言って癪だけど」
ようやく、笑いが止まった岩見沢先輩が咲太を鼻で笑う。
「確かに、岸和田の言うように、梓川に言われるのは癖だな」
福山は苦々しい顔をしていた。
「でも、そうね。そういう考え方ができれば、人生ってもう少し楽しいのかもしれない」
誰に聞かせるわけでもない。自分の気持ちと向き合うように、岩見沢先輩は静かに呟く。
「だから、とりあえず、今は拓海で我慢する」
それも殆ど独り言だった。
だけど、俺の耳にも聞こえた。
もちろん、咲太にも福山の耳にも届いた。
「よかった~」
心底安心した様子で、福山がその場にしゃがみ込む。
「ほら、立って」
福山の前に進み出た岩見沢先輩が両手を差し出す。
そこに、福山が手を重ねると、岩見沢先輩が引っ張り上げていた。
「上手くいったんだ?」
気が付くと、俺と咲太の隣には赤城がいた。
「赤城、いつの間に」
「赤城にも見えるのか?」
咲太が尋ねる。
「見えるよ。笑ってるミニスカートのサンタクロースが」
「じゃあ、これで一件落着だな」
その言葉に、心は思いのほか安堵した。
これで麻衣先輩の危険は回避されたはず。
そのために北海道まで行った苦労は報われた。めでたしめでたし。
そう思った、のもつかの間、「待って」と、岩見沢先輩が真剣な顔で振り向いた。
「たぶん、まだ終わりじゃない」
「それって、どういう?」
霧島透子を名乗っていた岩見沢寧々の問題は、たった今、解決した。
これ以上、何があるというのだろうか。
「ひとりじゃないのよ」
「え?」
「霧島透子は私の他にもいる」
岩見沢先輩が口にしたのは、予想外の言葉だった。
言葉としては理解できる。
だが、すぐには意味が飲み込めない。
その瞬間、ふいに昨日の会話が頭に浮かんだ。
咲太が、美東さんと一緒に立てていた仮説。
霧島透子で検索すると、動画がいくつも出てくる。
どれも二百万回以上再生されている。
それなのに……
四月を境に、コメントがぴたりと止まっている。まるで、誰もそれを見なくなったみたいに。
いや、違う。
見えていない。
(もし、あの仮説が正しいなら……)
岩見沢先輩と同じように、霧島透子を名乗る人たちがいて、その人たちまで、世界から見えなくなっている。
そういうことなんじゃないか。
背中に、ぞくりと冷たいものが走った。
その時にはもう、咲太は動き出していた。
「梓川、急になに!」
後ろで福山が叫ぶ。
「悪い、急ぎだ!」
「どこ行くのよ!」
「麻衣さんのとこ!」
「だったら乗れ!送ってく!」
咲太の足が止まる。
後ろを向くと、岩見沢先輩が運転席に乗り込んでいるのが見えた。
福山は助手席に体の半分を突っ込んでいる。
「助かる!」
すぐさま咲太は引き返して、後部座席のドアを開けた。
「岸和田と赤城も来てくれ」
車の反対側で躊躇っていた俺と赤城にそう声をかけながら車に乗り込む。
「ああ、了解」
「わかった」
わずかに遅れて、俺と赤城も乗る。
ドアを閉めたのはほぼ同じタイミング。シートベルトの金具をはめたときには、車は走り出していた。
「辻堂でいいんだよね?」
「はい」
咲太がそう告げると、ナビはすでに目的地までの道案内を開始していた。
藤沢駅のひとつ隣、辻堂駅前に車が差し掛かると、車内からでもわかるほど、大勢の人の気配を外に感じた。
「さすが、すごい人気」
ハンドルを握る岩見沢先輩が自嘲気味に笑う。
「ぎりぎり間に合ったかな?」
そう呟いたのは福山だ。
車内の時計は、午後一時五十五分を示している。
「私と拓海は駐車場探すから、ここで降りて」
岩見沢先輩が車をバス停の凹みに一時的に停める。
「ありがとうございます」
お礼を言って、俺と咲太と赤城は、一緒に先に車を降りた。
目指すべきショッピングモールは道路の反対側。
まずは向こう側に渡る必要がある。
横断歩道は近くにない。無理に渡るには交通量が多すぎる。
だから、俺たちは迷うことなく、駅とショッピングモールを繋ぐ立体歩道の階段を駆け上がった。
駅の改札の方からは、多くの人が流れてきていた。
家族連れにカップル、女子高生のふたり組……
客層は様々だ。
そうした中からは、「今日、桜島麻衣が来るんだって」という声も聞こえた。
人と人の間をすり抜けるようにして、先を急ぐ。
赤城も後ろからついてくる。
すでに『一日警察署長』のイベントはスタートしているらしく、近づくにつれてスピーカーを通した女性のアナウンスがはっきりと聞こえてきた。
「どうぞ、周りの方とは譲り合ってご観覧ください。また、写真、動画の撮影はご遠慮いただいています。お見かけした場合は、巡回の警察官がお声掛けさせていただきます」
(さすが、警察のイベントだ。警備しているのは、本物の警察官とはな……)
そんなことを思っているうちに道路を渡り切った俺たちは、駅の北口に出た。
ショッピングモールの大きな建物が三人を出迎える。
その入口に繋がる立体歩道の上では、多くの人が足を止めていた。
立体歩道の縁……欄干に隙間なく人が並んでいる。
誰もが身を乗り出すようにして、下を見ていた。
お目当ては、ショッピングモールとロータリーの間のちょっとした広場に設けられたイベントステージ。
その前には、大勢の人が集まっている。
数百人では利かない。千人はいるだろうか。
立体歩道の上も合わせると、その倍近い人数になりそうだ。
「ほんと、さすがの人気だね」
「流石は麻衣先輩だ……な……」
直後、俺と咲太はステージ前の人だかりに目を奪われていた。意識を持っていかれた。
信じられないものが、俺と咲太には見えていたから。
人だかりの中に、ぽつぽつと赤い帽子を被った人たちがいる。
五人や六人ではない。十人や二十人でもない。もっといる。
「なんだ、これ」
咲太の感情がそのまま言葉になっていた。
「なんだ、このサンタクロースは……」
俺も同じ感情を言葉にする。
「梓川くん、岸和田くん?大丈夫?」
異変を感じたのか、赤城が咲太の肩に触れる。
「赤城には見えないのか?」
「見えないって?」
「ステージの前、サンタクロースがいっぱいいるだろ?」
「え?どこ?」
咲太の問いかけへのその反応と発言こそが、見えていない証になった。
「あそこにも、あそこにも、あっちにも、そこにもいる」
普通の観客の中に、当然の顔をして並んでいる。
ステージの最前列に五、六人。その後ろの人だかりの中にも、また五、六人。そして、その後ろにもまた十人………
顔を上げると、立体歩道の上にも、ちらほらサンタクロースの格好をした若者がいた。
男性もいれば、女性もいる。年齢は二十前後が多いだろうか。
特におかしな行動を取っているわけではない。
ただ、じっとステージの方を見ている。
興味を持って見ていた。
それはまさしく異様な光景だった。異常な光景だった。
「岸和田くんにも見えてるの?」
「ああ……」
正確な数はわからない。
「たぶん、百人はいるぞ……」
「………」
赤城が驚きに目を見開く。
改めて赤城は周囲を見ていたが、自分には見えないことに戸惑っていた。
「まさか、その全員が!!」
赤城の驚きにアナウンスが重なってくる。
「皆さん、お待たせいたしました。まもなく、こちらに到着すると連絡がありました」
ステージに立つ進行役の女性警察官がそう告げる。会場の期待が高まる。
「あ、いらっしゃいましたね」
彼女が見ていたのは、ステージから見て右側のロータリー。そこに、黒い車に先導されたパトカーが入ってきた。広場に横づけするように停車する。
ひとりの男性警察官が駆け寄り、パトカーの後部座席のドアを開けた。
出てきたのは、制服姿の女性警察官……
『一日警察署長』のタスキをかけた桜島麻衣だった。
自然と大きな拍手が沸き起こる。
麻衣先輩は笑顔を見せながら、先行する警察官に続いてステージに上がった。
「ご紹介はもはや不要かと思います。本日、一日警察署長を務めていただきます、女優の桜島麻衣さんです」
より一層、大きな拍手で集まった人々が麻衣先輩を歓迎する。
サンタクロースたちも一般客と同じように手を叩いていた。
やはり、おかしな行動は見受けられない。
それが逆に、恐ろしいものに見えてくる。
俺たちの焦りは募るばかりだった。
何が起こるかわからない。何ができるかもわからない。
相手は百人ものサンタクロースだ。
口の中がカラカラに乾いていく。喉が渇いていく。
「それでは、『桜島署長』に、ご挨拶をいただいてもよろしいでしょうか?」
「はい!」
綺麗な声で返事をした麻衣先輩がステージ中央に歩み出る。スタンドマイクの前に立つと、小さく深呼吸をしてから挨拶の言葉を述べはじめた。
「この度、交通安全の今一度の周知のため、一日警察署長を務めさせていただくことになりました桜島麻衣です」
麻衣先輩が話し出すと、集まった人たちは静かにその言葉に耳を傾けた。サンタクロースたちも大人しく話を聞いている。
「昨年、私自身も運転免許を取得したことで、ひとりひとりの道路交通の安全意識、そして事故防止の重要性を強く感じています」
「下に下りよう岸和田、赤城」
「ああ」
「うん」
小さな声で咲太が俺と赤城に告げて、俺たちは下りのエスカレーターに乗った。
何が起こるにしても、ここにいては何もできない。
麻衣先輩の側にいなければ、麻衣先輩を守れないのだから。
「今日のこの機会を、日ごろ忘れてしまいがちな、当たり前の交通ルールの大切さを、改めて考え直す切っ掛けにしていただければ大変光栄に思います」
ステージの裏手を流れるエスカレーターで、立体歩道から一階の地上に下りる。
そのときにはもう、目の前の景色は見過ごせないものに変わっていた。
集まった観客たちが、もっと近くで麻衣先輩の姿を見ようと、少しずつ前に詰めようとしているせいだ。
サンタクロースが見えない人にとっては、そこが隙間になっているように見えているせいだった。
「前詰めろ」、「詰めろ」と、後ろからどんどん人が前に出ようとしている。
一般客とサンタクロースが密集したステージ前は、今にも決壊しそうだった。
「まずい。このままじゃ群衆雪崩になるぞ!」
後ろから押された最前列のサンタクロースが、金属製の柵をステージ側に押し込んだ。
けれど、正面に立つ警備の警察官はそれでも異変に気づかない。
ギギッと地面を擦り、柵がステージの方にじわじわとずれていく。
ようやく気づいたひとりの警察官が、「ストップ」とばかりに手のひらを客席に向ける。
緊迫感はまるでない。それも仕方がないことだった。
サンタクロースが見えていなければ、客席にはまだまだ隙間がある。危ないと感じる要素は何もない。
だが、俺と咲太の目に映る光景には、もはや一刻の猶予もなかった。
「また、事故のない社会を作る努力はとても大切ですが、不幸にも事故に遭ってしまった際、助けを必要としている誰かのドナーとなれる道があることについても、皆さんと考えていきたいと思っています」
もう決壊する。それ以外の未来を想像できない。
「この言葉をもちまして、私からの挨拶とさせていただきます」
拍手が起こる。
観客たちのその行動が、最悪な事態への合図になった。
「やめろっ、押すな!」
誰かが緊迫した声で叫んだ。
直後、がしゃんと大きな音がする。
ステージと観客を隔てていた柵が倒れたのだ。
そこから、一般客がステージの方へ溢れ出す。
サンタクロースたちも溢れ出した。その数は合わせて、三、四十人。
押された勢いは止まらず、転びながら、躓きながら、ステージに雪崩れ込もうとしている。
「麻衣さん!」
そう叫びながら、咲太はステージに駆け込んでいた。
俺も反射的にそのあとを追う。
けれど、前にはすでに逃げ惑う人たちと、押し出されるように倒れ込んできた観客たちがいて、真っ直ぐには進めなかった。
「っ……!」
肩がぶつかる。腕が当たる。誰かの悲鳴が耳をかすめる。
咲太の方が背はある。
だから余計に、人の波に引っかかりやすい。
だったら……
「すみません! どいて!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
普段なら、こんなふうに人を押しのけるような真似はしない。
けれど、そんなことを言っている場合じゃなかった。
人の隙間に体をねじ込むようにして前へ出る。
肩ひとつ分、腕一本分でも空けば十分だ。
小柄な自分の体を無理やり人波の間に滑り込ませて、進路をこじ開ける。
「すみません、通してください!」
半ば叫ぶように言いながら、前へ、前へと押し入る。
後ろから咲太がついてくる気配がした。
「岸和田!」
「早くいけ、咲太!」
振り返らずに怒鳴る。
空いたわずかな動線に、咲太が迷わず飛び込んでくる。
そのまま俺の横を抜けて、一直線にステージへ駆けていった。
人を掻き分けて進む背中は、こういう時の咲太らしく、ためらいがなかった。
咲太は誰かを守る時、迷わない。
だから、迷わず行ける場所までは俺が作るしかない。
そう必死に思った。
その時だった。
押し出されたサンタクロースが、ステージの脇に置かれた大型のスピーカーに転がるようにぶつかった。
その勢いで、スピーカーが麻衣先輩の方へと倒れていく。
その瞬間、咲太はありったけの力で走り、麻衣先輩の前に飛び出していた。
勢いよく倒れてくる大型のスピーカーを両手で受け止める。
だけど……受け止めきれず、勢いを残したまま頭部を直撃した。
「咲太!」
「咲太!」
俺と麻衣先輩が同時に咲太の名前を叫ぶ。
ガシャンと大きな音がする。
咲太がどうなったのか、すぐにはわからなかった。
目を開いて最初に見えたのは、咲太の横で添い寝するようにして倒れたスピーカー。
そして、俺の横で驚いた顔をする大勢の一般客がいた。
口を開けて立ち尽くしている。同じように立ち尽くす大勢のサンタクロースがいた。
だけど、咲太は何事もなかったかのように立ち上がった。
「大丈夫です。皆さん、落ち着いてください」
集まった一般客に向けて、そう言っていた。
「大丈夫です」
集まったサンタクロースたちに向けて、そう言っていた。
会場は静まり返ったままだった。
みんな咲太を見ていた。
サンタクロースたちもを見ていた。
今にも悲鳴を上げそうな顔をして、誰もが咲太を見ていた。
そう。咲太の顔の半分が、真っ赤に染まっていたのだから。
「咲太、動かないで」
麻衣先輩の心配する声がする。
咲太の頭がぐらつく。
ぺたんと尻餅をつき、そのまま、座っていることもできず、咲太は硬くて冷たい地面に倒れていく。
「咲太!」
叫んだときには、もう体が動いていた。
ステージの縁に手をかけて、半ばよじ登るようにして上がる。
警察官の制止も、周囲のざわめきも、耳には入らなかった。
ただ、咲太の頭を打たせるわけにはいかない、という思いだけで体が前に出ていた。
けれども、地面の硬さも、冷たさも、咲太が感じることはなかった。
ふわっとやわらかいものが咲太を抱き留めていた。
倒れる前に、麻衣先輩が咲太を抱き留めてくれていた。
「救急車をお願いします!」
一日警察署長らしい凛とした麻衣先輩の指示が飛ぶ。
「なんで、サンタがこんなに……」
「今日って、サンタのイベント?」
「サンタがいっぱい……なにこれ?」
俄かにざわつきはじめた会場。
そんな声を他所に、俺はすぐに咲太のそばへ駆け寄った。
頭からの出血は、まだ止まっていない。
「咲太、大丈夫か? わかるか?」
声をかけながら、以前、赤城と上里と一緒に参加した応急救護のボランティアを思い出していた。
まずは落ち着け。傷口を確認して、圧迫止血だ。
麻衣先輩が警察官用の手袋を差し出してくる。
「蓮真くん、これ使って」
「ありがとうございます」
受け取って手にはめる。
そこへ赤城と、救急用の資材を持った警察官たちが駆けてきた。
「岸和田くん、ガーゼ」
赤城は滅菌ガーゼを取り出すと、迷いなく手のひらで押さえる動きを見せた。
「ああ」
俺もすぐに手を添える。
圧迫して、止血する。出血を抑えることだけに意識を集中した。
警察官が包帯や固定具を手渡してくれる。
赤城は落ち着いた手つきで固定し、俺は咲太の反応を見ながら声をかけ続けた。
「咲太、聞こえるか? 大丈夫だ。もうすぐ救急車が来る」
やがて出血は少しずつ落ち着いてきた。
そのあと、俺たちは咲太を横向きに寝かせ、救急車の到着を待った。
しばらくして、ステージ脇から双葉が駆けてきた。
「桜島先輩、大丈夫ですか?」
「私は大丈夫よ。ありがとう、双葉さん」
麻衣先輩が答える。
双葉はすぐに俺たちの方へ視線を向けた。
「岸和田。梓川は、大丈夫そうなの?」
「圧迫止血はしたし、出血も落ち着いてきたから、大丈夫だと思います」
俺が答えるより先に、赤城がそう言った。
双葉が赤城を見る。
「……もしかして、あなたが赤城さん?」
「はい」
短く頷く赤城に、双葉は一瞬だけ納得したような顔を見せた。
そのとき、ようやく救急車が到着した。
救急隊員たちが手早く咲太の状態を確認し、ストレッチャーへ移す。
「早期の応急処置、ありがとうございます」
そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。
救急車には、俺と双葉と赤城が同乗することになった。
麻衣先輩は警察の人と話をする必要があり、その場に残る。
「蓮真くん、双葉さん、赤城さん。咲太をお願い。私は警察の人に話を聞いたら、すぐ病院に向かうわ」
「わかりました。何かあったらすぐ連絡します」
そう答えると、麻衣先輩は小さく頷いた。
「ありがとう、蓮真くん。よろしくね」
救急車に乗り込んだ、そのときだった。
運転席の方から、聞き慣れた声がした。
「……双葉に蓮真じゃないか」
思わず顔を上げる。
「国見?」
制服越しでもすぐにわかった。消防士として働く国見佑真だった。
そのあと、運ばれた咲太を見て、国見は目を見開く。
「咲太じゃないか。何があったんだよ」
「倒れてきたスピーカーから麻衣先輩を守ろうとしたら、頭を思いっきりぶつけて」
「とにかく、早く病院まで頼む」
俺がそう言うと、国見は真剣な声で短く返した。
「ああ、任せろ」
そうして救急車は、藤沢市民病院へ向かって走り出した。
しばらくすると、咲太の意識が戻った。
「気づいたみたいです」
最初に気づいた双葉が、救急救命士の男性に話しかける。
「たぶん、脳震盪だと思います。大事はないように見えますが、頭なので病院に着いたら詳しく検査してもらった方がいいですね」
救急救命士の男性は、症状を解説しながら、てきぱきと咲太の瞳孔をチェックし、脈を計る。
「なんで、双葉がいるんだ?」
意識が戻った咲太が双葉に尋ねる。
「私も一日警察署長のイベントは見に行くって、言わなかった?」
「ああ、そういや聞いたな」
「咲太、大丈夫か?」
俺が聞くと、咲太は重たそうにまぶたを動かしながら、短く、「ああ」と答えた。
その一言で、胸の奥に張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
「麻衣さんは?」
「大丈夫。無事だから」
「なんか、変な組み合わせだな」
「だったら、もうひとりいるよ」
双葉の視線が向かったのは前方。救急車の運転席。
「咲太、あんまひやひやさせるなよ?」
寝ている咲太からは見えないが、声としゃべり方で国見だとはわかるはずだ。
「まさか、こんなに早く国見の世話になるとは思わなかった」
「二度目はなしにしてくれ」
笑ってはいるが、言っていることは本気という雰囲気だ。
「気を付ける」
「頼むぞ、ほんと」
一度停まった車がウィンカーを出して右に曲がる。
「サンタクロースたちはどうなった?」
咲太はまず俺を見て、赤城と双葉を見た。
「警察の方で、ひとりずつ事情聴取するみたい」
答えたのは双葉だ。
「麻衣先輩は、その辺のこと警察に少し聞いてから、病院に来るから」
俺がそう補足する。
「そっか。今日は警察署長だしな」
「もうすぐ着きます。降車準備」
国見の頼もしい声を響かせながら、救急車は藤沢市民病院に到着した。
その後咲太は、真っ先に診察室に連れて行かれ、傷の手当てとCTスキャンを受けることになった。
俺は待合室の椅子に腰を下ろすと、すぐに麻衣先輩へLINEを送る。
《藤沢市民病院に着きました。今、咲太は傷の手当てとCTスキャンを受けています》
送信して、ほどなく既読がついた。
返ってきたのは、短いメッセージだった。
《ありがとう、蓮真くん。終わったらすぐ向かうわ》
その文面を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
待合室には、双葉と赤城もいた。
しばらくして、廊下の向こうから聞き覚えのある声がした。
「岸和田」
顔を上げると、福山と岩見沢先輩がこっちへ歩いてきていた。
「福山、岩見沢先輩」
「梓川は大丈夫そうなの?」
不安を隠しきれない顔で、福山が聞いてくる。
「ああ。意識は戻ってるし、応急処置もしたから、大丈夫だと思う」
そう答えると、福山は目に見えて息を吐いた。
「ほんと、ひやひやしたぜ……」
その隣で、岩見沢先輩も固い表情のまま黙っている。
あの場で何が起きたのかを、まだ整理しきれていないようにも見えた。
そして、辻堂駅の前で別れたあとに着替えたのか、岩見沢先輩の服装は、ミニスカサンタではなくなっていた。
そんな中、診察室の方の扉が開く。
咲太が戻ってきた。
真っ先に福山が咲太に尋ねる。
「お、梓川、大丈夫なのか?」
「あまり、大丈夫そうには見えないけど?」
隣にいる岩見沢先輩の視線は、咲太の頭部に向いている。
大げさに巻かれた包帯を見ているのだ。
「詳しい結果はこのあと聞くけど、CT撮ってくれた先生は『まあ、大丈夫でしょう』って言ってたよ」
「無事なら、邪魔になるし、帰るね」
岩見沢先輩がそう言って福山を促す。
「え?来たばっかりなのに?」
「ここ病院なんだから」
問答無用という態度で岩見沢先輩が歩き出す。
「まあ、そうだな。じゃあ、梓川、また大学で」
「おう」
軽く咲太が手をあげて福山と岩見沢先輩を見送る。
(大丈夫そうだな、咲太)
そう心の中で安堵していると、ふたりの姿は廊下の角を曲がってすぐに見えなくなった。
「私も行くね。このあと、塾で授業する予定あるから」
咲太に話しかけていたのは双葉だ。
「ああ、悪い。助かったよ。そういや、国見は?」
「次の現場に呼ばれて、とっくに出て行った」
それだけ告げて、双葉は立ち去っていく。
残ったのは咲太と俺だけ。
「赤城も、これ以上は付き合わなくていいぞ」
「ひとりで平気?」
「平気じゃないか?妹、来たし」
廊下の角で双葉と花楓ちゃんが鉢合わせている。
双葉に「あっち」と教えてもらっていた。
その花楓ちゃんと遠巻きに目が合う。
すると、半分怒ったような顔をして、足早に咲太の側までやってきた。
「もう、お兄ちゃん、なにやってんの」
不満を溜め込んだ唇は、への字に曲がっている。
「心配かけて悪かった」
「ほんとだよ、もう」
だが、花楓ちゃんの不満は収まらない。
「とりあえず、問題なさそうだから、安心してくれ」
「病院に運ばれてる時点で、問題大ありだから」
花楓ちゃんの正論に、赤城は背中を向けて笑いを堪えていた。
そんな赤城の様子にも気づかず、花楓ちゃんはまだ少し不満げな顔で咲太を見ている。
けれど、不意にその視線が俺の方に向いた。
「あの……ごめんなさい、蓮真さん。お兄ちゃんが迷惑かけたみたいで」
思いがけない言葉に、少しだけ面食らう。
「いや」
首を横に振った。
「咲太が無事なら、それでいいよ」
そう答えると、花楓ちゃんはほんの少しだけ安心したように表情を緩めた。
そのあと、咲太が詳しい検査結果を聞くために再び診察室へ呼ばれたのは、それから十分ほど経ってからだった。
「じゃあ、私はそろそろ帰るね」
そのタイミングで、赤城が静かに立ち上がる。
「本当に大丈夫そうだし」
気を遣わせないようにするためなのだろう。そう言い残して、赤城は軽く手を振った。
「今日は助かった」
俺が言うと、赤城は少しだけ困ったように笑った。
「岸和田くんも、ちゃんと休んでね」
そうして、赤城も病院を後にした。
診察室の前に残ったのは、俺と花楓ちゃんだけだった。
「岸和田、お前も帰っていいぞ」
咲太が何でもないことみたいに言う。
けれど、俺は首を横に振った。
「多分このあと、警察から聞き取りとかあるかもだろ。俺も一緒にいた方がいい」
「ああ……それもそうだな」
咲太は特に深く追及せず、素直に頷いた。
その反応に少しだけ救われる。
けれど、本当は違う。
(お前を放っておくなんてできねえよ)
(麻衣先輩から頼まれてんだから)
いや、それだけじゃない。
目の前であんなふうに倒れるところを見てしまった以上、もう帰れるわけがなかった。
目の前で誰かが倒れる瞬間を、俺はたぶん人より怖がっている。
助けを呼んでも、声をかけても、もう間に合わないかもしれないと思ってしまう。
あのときみたいに。
だから、咲太をここに置いて帰るなんて、できるわけがなかった。
検査の結果は「一緒に聞きたい」という花楓ちゃんも同席しにいった。
しばらく診察室の前で待っていると、ふたりの警察官がやってきた。咲太に聞き取りに来たのだろう。
「梓川さん、いらっしゃいますか? 聞き取りをしたいのですが」
「はい。今、診察を受けています」
「わかりました」
警察官が頷く。
そのタイミングで、俺はひとつ息をついてから口を開いた。
「もし可能なら、自分も同席していいですか? すぐ隣にいましたし、状況も見ています」
警察官は俺の顔を見てから、穏やかに答えた。
「ええ、構いませんよ」
しばらくして、扉の向こうから咲太の声がして、再び姿を見せる。
その顔を見た瞬間、ひとまず大事はなさそうだとわかった。
その後、俺と咲太は、警察官の聞き取りを受けた。
約三十分間。他の患者や医療スタッフの邪魔にならないよう、自販機と簡易的なソファが置かれた休憩スペースに移動して行われた。
要点をまとめると、「観客が溢れ出して、麻衣先輩が危ないと思い、とっさに咲太が飛び出した」という程度の話しかできなかったのだが……
質問自体は、今日の俺たちの足取りから、イベントスペースへの到着時刻、咲太が『桜島麻衣』の交際相手であり、俺はその二人の友人であること。
いろんな角度から色々なことを聞かれた。
警察官のひとりは俺たちの文言を時折メモしていたが、調書に残すような言葉があったかは、正直、わからなかった。
むしろ、俺たちの方があの「サンタクロースたち」が何だったのかを知りたいくらいだ。
だから、話の最後に、「あのサンタクロースの人たちって、なんだったんですか?」と、咲太の方から警察官に質問していた。
ふたりは顔を見合わせ、困った顔をする。
「今、それを調べているんだ。ケガをしている中、ご協力感謝します」
ぺこりと軽く頭を下げて、ふたりの警察官は帰っていった。
窓の外を見るとすでに空は暗い。
休憩スペースの時計は午後五時半になろうとしている。
北海道から帰ってきたのが今朝。なんとも長い一日だ。
「お兄ちゃん、終わったの?」
少し離れて待っていた花楓ちゃんが、恐る恐る声をかけてくる。
別に悪いことをしたわけではないが、兄が警察官にみっちり話を聞かれるというのは、妹として心配だったのだろう。
「終わった。何の問題もない。まあ、警察官に事情を聞かれている時点で問題かもしれないけど」
「ほんと、そうだから」
「あ、いた!咲太先生!それに蓮真先生も」
そこに、背後から病院に似つかわしくない明るい女子の声がする。
振り向くと、こちらへ小走りにやってくる姫路さんの姿が見える。
「……なんで姫路さんがいるんだ?」
思わずそう聞くと、姫路さんはきょとんとした顔をしたあと、すぐに胸を張った。
「もちろん、咲太先生のお見舞いです」
それから、ちらっと俺の方を見る。
「蓮真先生こそ、どうしているんですか?」
「そりゃあ、今日一日ずっと咲太と一緒だったし」
そう答えると、姫路さんはにやっと意味ありげに笑った。
「蓮真先生、咲太先生と仲良しですね」
「余計なお世話だよ」
そう返すと、咲太が小さく肩をすくめた。
「もう帰るところだったけど……なんで知ってるんだ?」
「それは朋絵先輩に聞いてください」
そう言いながら、姫路さんが廊下の方を振り返る。
その視線の先にいたのは、どこか居心地悪そうに立っている古賀だった。
「古賀はなんで?」
咲太がそう聞くと、古賀は少しだけ視線を逸らしてから答えた。
「花楓ちゃんに話を聞いたの。それを姫路さんに話したら、休憩時間に病院に行くって言い出したから」
「なるほど」
そこで、俺はふたりの格好に気づいた。
よく見れば、コートの下にはウェイトレスの制服が覗いている。
バイトの途中で来たのだと、ひと目でわかった。
「お兄ちゃん、朋絵さんに感謝してよ? 私、バイトだったの、急に替わってもらったんだから」
花楓ちゃんが少し呆れたように言う。
「どーせ、暇してましたから」
咲太が何か言うより先に、古賀が頬を膨らませた。
「そりゃあ、迷惑かけたな」
「先生、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。てか、古賀と姫路さんこそ、時間は大丈夫か?休憩って一時間だろ?」
このあとは、ディナータイムに突入する。ファミレスが最も忙しい時間帯。
ウェイトレスのふたりが戻らないとフロアは回らなくなる。
「あ、やばっ!姫路さん、急いで戻るよ」
「えー、もうですか?」
「顔を見るだけでいいって言ってたでしょ」
「それは朋絵先輩が言ったやつです」
「あたしが言ったのは、それくらいしか時間ないよって話。先輩、違うから!」
古賀がびしっと強気に言い切って、粘ろうとする姫路さんを引っ張っていく。
なんとも頼もしい姿だ。
その途中で、古賀がふと振り返った。
「きっしー先輩も、じゃあね」
「おう。古賀も戻る途中、気をつけろよ」
「そこまで遠くないですし」
そう言いながらも、古賀は少しだけ得意そうに鼻を鳴らしてから、今度こそ姫路さんを連れて行った。
そんなふたりを、俺は少しだけ笑いながら見送った。
「んじゃ、僕らも帰るか」
咲太がそう言った、そのときだった。
ポケットの中でスマホが震える。
取り出して画面を見ると、麻衣先輩からLINEが届いていた。
《蓮真くん、まだ病院にいる? いたら今車でそっちに向かってるって、咲太に伝えてくれるかしら?》
思わず、小さく息をつく。
さっきまで警察の人に対応して、そのあとも色々あったはずなのに、麻衣先輩はちゃんとこっちのことを気にかけているらしい。
《お疲れ様です、麻衣先輩。まだ病院にいるので、そう伝えます》
そう返して送信すると、すぐに既読がついた。
「咲太」
「ん?」
「麻衣先輩、今こっちに車で向かってるって」
それを聞いた瞬間、咲太の足が止まる。
「なら、ここで待ってた方がいいか」
「じゃあ、私は帰るね。横浜の家に戻って、お父さんとお母さんに、大丈夫って伝えに行くから」
「何から何まで悪いな。心配ないって言っておいてくれ」
「ちゃんとあとで、お兄ちゃんも連絡入れてよ」
「わかってる」
それから花楓ちゃんは、俺の方を向いた。
「あの、蓮真さん」
「ん?」
「麻衣さんが来るまで、お兄ちゃんのことよろしくお願いします」
まっすぐにそう言われて、一瞬だけ言葉に詰まる。
けれど、すぐに頷いた。
「ああ。任せて」
それを聞いて、花楓ちゃんは少しだけ安心したように表情を緩める。
「じゃあね」
花楓ちゃんが帰っていく。
その後ろ姿を、咲太はどこか微笑ましそうに見送っていた。
麻衣先輩が病院にやってきたのは、花楓ちゃんと別れて約二十分後。
病院のロビーで待っていると、私服に着替えた麻衣先輩が入ってきた。
「傷、痛む?」
視線は咲太の頭部に向かう。
「だいぶ、よくなった」
「顔、真っ赤になってて、びっくりしたんだから」
「麻衣さんが抱き留めてくれたから。地面にまで頭を打たずに済んでよかった」
「守ってあげるって言ったでしょ?」
そう言ってから、麻衣先輩は俺の方を見た。
「ありがとう、蓮真くん。咲太の手当てをしてくれて」
思いがけない言葉に、一瞬だけ返事が遅れる。
「……いや、俺だけじゃないですよ。赤城もいましたし」
「それでもよ」
麻衣先輩はやわらかく、でもはっきり言った。
「あの場で、すぐに蓮真くんが動いてくれたから助かったの」
「俺は……なんも、できてないです」
そう言ってから、自分で少し違うと思う。
何もしていないわけじゃない。実際には手を動かした。止血もした。声もかけ続けた。
でも、それで咲太が傷ついた事実が消えるわけじゃない。
「できることを、やっただけです」
そう言い直すと、麻衣先輩は小さく頷いた。
「ええ。それをちゃんと感謝してるの」
うまく返す言葉が見つからなくて、俺は小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
すると、隣で咲太が小さく笑った。
「岸和田、そういうの弱いよな」
「お前に言われたくない」
そう言い返すと、麻衣先輩は少しだけおかしそうに笑った。
「警察の制服着た麻衣さん、かっこよかったなぁ」
私服姿を少しだけ恨めしそうに咲太が見つめる。
「冗談が言えるなら、もう大丈夫ね」
麻衣先輩がそう言った、そのときだった。
俺のスマホが震える。
画面を見ると、のどかからの着信だった。
「……のどかだ」
小さく呟いて通話ボタンを押す。
「もしもし」
「あ、蓮真? ニュースで見たんだけどお姉ちゃんのイベントの事故。良かった、無事で」
のどかの声は、いつもより少しだけ固かった。
平静を装ってはいるが、本当に気を張っていたのがわかる。
「ああ。心配させて悪かったな」
そう返すと、電話の向こうで小さく息を吐く気配がした。
「……うん。ほんとだし」
それから、少し間を置いて、のどかが言う。
「咲太、近くにいる? 言いたいことあるんだけど」
「いるよ」
そう答えて、俺は咲太にスマホを差し出した。
「のどかだってさ」
「なんだよ」
咲太が受け取って耳に当てた、次の瞬間だった。
「お姉ちゃんに心配かけんな」
開口一番、のどかの文句が飛んできたらしい。
咲太が少しだけ顔をしかめる。
「豊浜は心配してくれなかったのか?」
「もう、心配したよ、お兄さん」
返ってきたのは、のどかではない別の声だった。
咲太を「お兄さん」と呼ぶのは、卯月しかいない。
思わず、俺は麻衣先輩と顔を見合わせる。
「心配で、心配で、ライブ前におにぎり三つしか食べられなかったんだから」
「三つも食べれば十分だろ、づっきー」
咲太が呆れたように言う。
しかも、電話口からは、もぐもぐという音が微かに聞こえてきた。
たぶん今も、何か食べている。
「とりあえず、お姉ちゃんを守ってくれてありがと」
今度は、ちゃんとのどかの声だった。
ぶっきらぼうだけど、感謝しているのは伝わってくる。
そのあとで、咲太が「ほら」と言って、スマホを俺に戻してくる。
「のどか、咲太にもう少し優しくしてやれよ……」
俺が苦笑しながら言うと、すぐに返事があった。
「別に感謝はしてるし」
少しだけ拗ねたような声だった。
(……もう少し素直になってやれって)
そう思ったところで、横から勢いよく別の声が割り込んできた。
「きっしー! 大丈夫?」
「卯月、俺は大丈夫だって。ていうか何食べてるんだよ?」
聞くと、卯月は待ってましたとばかりに明るい声を上げた。
「マカロン!! おいしいうまぁ」
「おいおい……」
思わずそう返すと、電話の向こうで卯月がけらけら笑った。
その無邪気な笑い声を聞いているうちに、張り詰めていたものが少しだけほどけていくのを感じた。
それから少しだけ、俺たちは他愛のない話をした。
今日のライブはどうだったとか、のどかが珍しく緊張していたとか、卯月が本番前におにぎりを三つ食べて、終わったあとにはマカロンにドーナツにティラミスまで手を出しているとか。
「卯月、それ絶対すぐ太るやつだろ」
「だいじょーぶ!ライブでいっぱい動いたから!」
「卯月、そういう問題じゃないでしょ」
のどかの呆れた声が重なる。
けれど、そのやり取り自体はいつも通りで、だからこそ安心した。
少なくとも、電話の向こうの日常は、ちゃんと続いている。
「じゃあ、そろそろ切るね」
ひとしきり話したあと、のどかがそう言った。
「ああ。今日はそっちもお疲れ」
「うん」
そこで、通話が終わるかと思った。
けれど、のどかは少しだけ間を置いてから、改めて俺の名前を呼んだ。
「あのさ、蓮真」
「ん?」
「今度、話したいことがあるの」
その声音は、さっきまでとは少しだけ違っていた。
冗談でも、軽口でもない。
ちゃんと決めて、口にしている声だった。
胸の奥が、わずかに鳴る。
(……もしかして)
そう思う。
けれど、その先を自分の中ではっきり言葉にするのは、なんとなく違う気がした。
まだ、今は。
「……分かったよ」
そう答えると、電話の向こうでのどかが小さく息をついた。
「うん。またね」
「またな」
通話が切れる。
画面が暗くなったスマホを見つめたまま、俺は少しだけ黙っていた。
「豊浜、なんだって?」
隣で咲太が何気ない調子で聞いてくる。
「別に何もねえよ」
そう答えると、咲太は「ふうん」とだけ返した。
けれど、その短い相槌の中には、いつものように余計なことまで察していそうな響きがあった。
「なによ、その顔」
麻衣先輩が咲太を見る。
「別になんでもないですよ」
「別に、じゃないでしょ」
そんなやり取りをしながら、咲太は立ち上がった。
「じゃあ、僕らも帰るか」
「ええ」
麻衣先輩も小さく頷く。
ふたりは並んで歩き出す。
ひとりは頭に大げさな包帯を巻いていて、もうひとりはそれを当然みたいに隣で見ている。
傍から見れば妙な組み合わせなのに、不思議としっくりくる。
「蓮真くん、今日は本当にありがとう」
歩き出す前に、麻衣先輩がもう一度だけ振り返って言った。
「いや……俺の方こそ」
言いかけて、少しだけ笑う。
「咲太が無茶するの、ちゃんと止めてくださいよ」
「それは難しいわね」
即答したのは、麻衣先輩だった。
「だって、咲太がそういう人だって知ってるもの」
そう言って麻衣先輩は、どこか楽しそうに微笑んだ。
その隣で、咲太も呆れたように肩をすくめる。
「じゃあな、岸和田」
「ああ。気をつけて帰れよ」
そうして、ふたりは並んで病院の出口へ向かっていった。
その背中を見送りながら、俺は静かに息を吐く。
長い一日だった。
けれど、その終わりに残ったのは、悪い疲れだけじゃなかった。
麻衣先輩が無事でよかった。
咲太も、こうして自分の足で帰っていく。
そして、電話の向こうには、まだ続いていく日常の気配があった。
それだけで、今日一日の意味は、十分にあった気がした。
俺は昨日今日、北海道まで飛んで、岩見沢先輩を追いかけて、辻堂にきて、麻衣先輩のイベントで事故が起きて、咲太が倒れて、病院まで付き添った。
疲れていないはずがない。
なのに、頭の中は妙に冴えていた。
むしろ、冴えすぎているくらいだった。
今日一日で起こったことを順番に並べていく。
まず、岩見沢寧々は霧島透子ではなかった。
いや、正確には、本人は霧島透子だと思い込んでいたが、それは「本物」ではなかった。
実際、同じように霧島透子を名乗る存在が複数いた。
辻堂のイベント会場にいた、あの大量のサンタクロースたちも、多分そうだ。
岩見沢先輩だけが特別だったわけじゃない。
霧島透子という名前に引き寄せられるように、自分をその何かに重ねてしまった人間が、あれだけいたということになる。
だとすれば、霧島透子というのは最初から「ひとりの誰か」ではなかった可能性がある。
誰か固有の存在というより、もっと曖昧で、もっと多人数に開かれた何か。
人が自分を見失った時に、そこへ流れ着いてしまう名前。
そう考えた方が、今日見た光景の説明はつく。
けれど、それでも説明のつかないことが残る。
ひとつは、俺がクリスマスイブの夢を見ていないことだ。
赤城は前に、あの夢は可能性の世界を覗いていたんじゃないかと言っていた。
その仮説自体は筋が通っている。
実際、麻衣先輩が夢を見なかったことについては、今日の件を踏まえると説明がつく。
もし麻衣先輩が、咲太が自分を助けられなかった可能性の世界を夢として見ていたのだとしたら。
そして、その先で死んでいたのだとしたら、夢を見ない側にいたことも理解できる。
福山の友だちの件も同じだ。
未来で死んでいる人間は、夢を見る側ではない。
少なくとも、今ある情報だけで考えるなら、その仮説はまだ生きている。
だからこそ、俺は引っかかる。
(もしその法則が正しいなら、どうして俺は夢を見なかった?)
考えられる可能性はいくつかある。
ひとつは、俺もまた、どこかの可能性の世界で死んでいるということ。
たとえば今日だ。
別の可能性では、スピーカーを受け止めたのが咲太じゃなく俺だったかもしれない。
あるいは、群衆雪崩に巻き込まれて、もっと悪い結果になっていたかもしれない。
そういう世界があって、そこにいる俺が死んでいるなら、夢を見なかった説明にはなる。
でも、その仮説は気味が悪すぎる。
しかも、立証のしようがない。
もうひとつは、俺だけ別の条件で動いている可能性だ。
夢を見る見ないの条件そのものが、俺には当てはまっていない。
もしそうだとしたら、それはそれで不自然だ。
どうして俺だけ違う“特異点”なのか。どうしてそうなったのかという、新しい疑問が増えるだけだからだ。
結局、現時点では断定できない。
俺が夢を見なかった理由は、まだわからないままだ。
そして、もうひとつ。
こっちの方が、たぶん厄介だった。
岩見沢先輩が霧島透子ではなかった。
あの場にいたサンタクロースたちも、おそらく違う。
理屈で考えるなら、そう判断する根拠は十分にある。
だが、俺の中には、理屈と別の場所で確信している感覚があった。
あの中に、本物はいない。
そう思える。
いや、思えてしまう。
問題は、その理由を自分で説明できないことだった。
人数が多すぎたからじゃない。
岩見沢先輩が取り戻されたからでもない。
サンタクロースたちが異様だったからでもない。
そんな表面的なことじゃなくて、もっと手前の感覚で、最初から違うとわかっていた気がする。
まるで、俺の中に基準だけがあって、肝心の記憶や情報は抜け落ちているみたいに。
知らないはずなのに、違うことだけはわかる。
会ったことがないはずなのに、本人じゃないと判断できる。
それは直感と呼ぶには、あまりに輪郭がありすぎていた。
なのに、根拠にしようとすると何も掴めない。
気持ちが悪い。
自分の頭の中に、覚えていない前提が置かれているみたいだった。
考えれば考えるほど、背筋の奥が冷えていく。
今日、問題はひとつ片付いた。
岩見沢先輩は戻ってきたし、麻衣先輩も無事だった。
咲太も、自分の足で帰っていった。
それは間違いなく、よかったことだ。
でも同時に、今日見たものは、たぶん入口に過ぎない。
霧島透子という名前の向こう側に、まだ何かある。
俺が夢を見なかった理由も、俺が「本物じゃない」と思えてしまう理由も、多分そこで繋がっている。
そんな気がする。
気がするだけで、まだ証拠は何もない。
ないのに、嫌な確信だけが残っている。
長い一日は終わったはずだった。
けれど、本当に厄介なのは、たぶんここからなんだろうから。
————————
なりたいよ なれないよ
なりたいわたしに なれないわたし
なれないよ なりたいよ
なれないわたしは なりたいわたし
ぐるぐる回るよ 眩暈の迷い子
鏡に聞くのは あなたはだぁれ
答えはいつでも あなたはだぁれ
知っているのは 名もなき何者
何なんだろ 何かだろ
何でもいいものに なりたくないし
何なんだろ 何かだろ
何でもいいならば 選ばれたくない
わたしは泣けない 無力なみどりご
呪いをかけてた あなたはだぁれ
それを解いてゆく あなたはだぁれ
聞こえてきたよ わたしだけの声
これがわたしに見えるのなら
それでもういいかなって思ってた
代わりがいるなら 代わろう
なんでもいいけれど
消えないんだ 今 まだ あなたが
鏡に聞くのは あなたはだぁれ
答えはいつでも あなたはだぁれ
知っているのは 名もなき あなた
ねぇ わたしだったんだね
呪いをかけてた あなたはだぁれ
それを解いてゆく あなたはだぁれ
刺さってますか? わたしの歌は
消さないで わたしだけの声
————————
次回
『青春ブタ野郎はハピネスフォビアの夢を見ない』
岩見沢寧々
『さすが岸和田くん、ブタ野郎だね』
この章をもって、『青春ブタ野郎はピューバティーギフトの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。
時系列でいえば、『青春ブタ野郎はサンタクロースの夢を見ない』のお話しです。
原作では咲太と麻衣、寧々、拓海を中心に描かれていたこの時期に、蓮真は何を見て、何を知り、どこまで関わっていたのか。今回はその裏側を、「#夢見る」や霧島透子の異変を軸に描いてきました。
この章で書きたかったのは、単に「見えない誰か」の事件ではなく、自分ではない何かになりたくなる瞬間と、それでも自分の名前で呼ばれ直すことの重さです。
岩見沢寧々は、決して特別に弱い人間ではなく、むしろ努力して、期待されて、夢を持って上京してきた側の人間です。
だからこそ、うまくいかなかったときに「別の何者か」へ寄りかかってしまう流れには、蓮真もどこか他人事ではいられませんでした。
そして蓮真自身もまた、この章でかなりはっきりと揺れています。
郁実との会話で、中学時代の自分や、見過ごしたものへの遅すぎる返事を意識し直したこと。
咲太が倒れた場面で、助ける側に回りながらも、自分の中にある“間に合わなかった記憶”に引っ張られていたこと。
さらに終盤では、霧島透子という存在そのものに対して、理屈では説明しきれない違和感を抱き始めています。
このあたりは、蓮真がただの観察者や記録者ではいられなくなってきた、ひとつの転換点でもあります。
一方で、物語としてはまだ何も終わっていません。
むしろ、ここから先です。
「#夢見る」は何なのか。
夢を見る者と見ない者の違いは何なのか。
霧島透子は“誰か”なのか、それとも“何か”なのか。
そして、なぜ蓮真だけが、理屈の外側で引っかかるものを抱えているのか。
今回の章では、あえて答えを出し切っていません。
岩見沢寧々の問題はひとまず解けても、その背後にある構造は、まだ不気味なまま残っています。
次回『青春ブタ野郎はハピネスフォビアの夢を見ない』では、その不気味さが、もっと蓮真自身の側へ近づいてきます。
幸せを望むこと。未来を想像すること。誰かを選ぶこと。
それらが救いであると同時に、もし恐怖にもなりうるなら、蓮真はどこまで、自分の明日を引き受けられるのか。
そんなオリジナルストーリーになっていく予定です。
感想や考察など、一言でもいただけたら、次章を書くうえで大きな励みになります。
これからも、岸和田蓮真の視点が照らす青春に、どうぞお付き合いいただければ幸いです。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月