青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
1.形になりかけた甘さの前で、俺は立ち尽くす
二月六日
夜の目黒駅を出て、俺は湘南新宿ラインに揺られていた。
実家で夕飯を食べてからの帰り道。
窓の外には、黒くなった街が流れていく。
ガラスに薄く映る自分の顔は、思ったより疲れて見えた。
一昨日の頭の怪我の安静のため、咲太がファミレスのアルバイトを一週間休むことになった。
ついでに、木曜日に入っていた塾の授業も難しいらしい。
その穴埋めとして、俺は明日のファミレスのシフトと、木曜の塾の授業を代わりに引き受けることになった。
その連絡は、咲太本人ではなく、花楓ちゃんから一昨日の夜LINEで届いた。
《蓮真さん、もしよかったら、今週少しだけお兄ちゃんのシフト代わってもらえませんか?》
メッセージの最後には、いつものスタンプ。
たぶん、咲太本人が頼むより、花楓ちゃんの方が断られにくいと考えたのだろう。
それで、明日のファミレスのシフトをひとつ引き受けることになった。
咲太本人は「岸和田なら使い潰しても平気そうだから」と、いつもの調子で言っていそうだが、そういう問題じゃない。
(……まあ、断らなかった俺も俺だよな)
ここ数日で、北海道まで飛んで、辻堂で事故に巻き込まれて、病院まで付き添って、そのあとも予定がずれ込んだ。
疲れていないはずがない。
むしろ、こうして電車に座って、ようやく疲れを自覚したくらいだった。
(咲太のやつ、ほんと面倒ごとを置いていくよな)
ファミレスの方は、忙しい時間帯とはいえ、古賀も姫路さんもいるし、店長も事情はわかっている。
もうひとつは塾だ。
こっちは昨日、咲太から直接電話が来た。
「悪い岸和田。今週の木曜、塾の授業代わってくれないか」
理由は単純だった。
麻衣先輩に、「一週間ぐらいは安静にしてなさい」と、きっぱり言われたらしい。
咲太は「もう動ける」と言い張っていたが、あの人にそう言われたなら、たぶん無理はできない。
結局、木曜の授業も俺が引き受けることになった。
担当するのは三人。
吉和さん。
山田くん。
それに、加西くん。
この三人なら、まあ、何とかなるだろう。
俺は電車の窓に映る夜の街をぼんやり見ながら、それぞれの顔を思い浮かべた。
吉和さんは、大津と浜松さんのビーチバレーの後輩だ。
あの二人の後輩というだけで、なんとなく性格は想像がつく。
実際、集中力はあるし、勉強の姿勢も真面目だ。
成績も悪くない。
むしろ、安定している方だろう。
ただ、問題があるとすれば、勉強そのものじゃない。
山田くんの方だ。
吉和さんが、山田くんにひっそり好意を持っていることは、たぶん本人以外ほとんど気づいていない。
(まぁ咲太はさすがに気づいているだろうけど……)
一方の山田くんはというと、逆に不真面目だ。
やる気もあるのかないのか、よくわからない。
ただ、最近は成績が少しずつ上がってきているらしい。
夏に最初に会ったときは、一学期の成績がかなり悪いと聞いていた。
それを考えると、これはたぶん、咲太の教え方の影響だろう。
あいつの授業は、一見すると雑に見える。
けれど、実際には、生徒が「自分で理解した気になる」ポイントを作るのがうまい。
真似しようと思っても、簡単にはできないタイプの教え方だ。
俺が同じことをやる必要はない。
俺は俺のやり方でやればいい。
もうひとりは、加西くん。
彼は二人と違って、二年生だ。
だから授業の質を少し調整する必要がある。
ただ、集中力という意味では問題ない。
国見のバスケットボールの後輩で体力はある。
練習のあとでも普通に塾に来るあたり、根性はある方だろう。
それに、双葉に対して、恋愛感情があるらしい。
そして、その延長で、東工大に行きたいと思っているらしい。
双葉と同じ大学に。
動機としては単純だが、嫌いじゃない。
むしろ、高校生らしい理由だと思う。
だったら、それに合わせた問題を考えておく方がいい。
東工大を目指すなら、基礎だけでは足りない。
少し思考型の問題を混ぜておいた方がいいだろう。
(まあ、木曜までに少し考えておくか)
そこまで整理したところで、座席に深くもたれた。
車内は仕事帰りらしい大人たちと、部活帰りの高校生、それに買い物袋を抱えた家族連れで程よく埋まっている。
誰もが自分の日常に戻っていく途中だった。
俺もそのひとりだ。
少なくとも、そういうことになっている。
だが、心のどこかでは、まだ二月四日が終わっていない感覚が残っていた。
岩見沢先輩のことは、ひとまず決着した。
咲太の怪我も、大事には至らなかった。
表向きには、それで終わった話だ。
けれど、俺の中では終わっていなかった。
霧島透子。
#夢見る。
夢を見る者と、見ない者。
そして、俺だけが引っかかっている、説明できない違和感。
あれらは、何も解決していない。
むしろ、ひとつ表に出たことで、余計に輪郭を持ち始めている気さえした。
窓の外に、街の灯りが流れていく。
その明るさをぼんやり眺めながら、不意に別のことを思い出した。
のどかの声だ。
「今度、話したいことがあるの」
あのときの声音は、まだ耳に残っている。
冗談でもなく、勢いでもなく、ちゃんと決めて口にしていた声。
それを思い出すと、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
たぶん、何の話かはわかっている。
わかっているのに、自分の中でまだ名前をつけたくなかった。
名前をつけた瞬間に、何かが変わってしまう気がしたからだ。
それは、たぶん卯月の方も同じだった。
病院での電話口の、あの無邪気な明るさの向こう側に、今までと少し違う熱があることくらい、俺でもわかる。
気づいていないふりをしているのは、単に、それを今ここで整理できるほど自分の中が静かじゃないからだ。
(……まるで、先に進めって急かされてるみたいだな)
事件の不気味さも。
のどかの想いも。
卯月の想いも。
全部が、少しずつ、でも確実に、俺自身の方へ近づいてきている。
これまでは、誰かの問題を少し離れた場所から見て、必要なら手を貸すだけでよかった。
観察して、記録して、整理していれば済んだ。
けれど、もうそれだけではいられないところまで来ている気がした。
電車が藤沢に近づくにつれて、車内の人が少しずつ減っていく。
座席の揺れに身を任せながら、ゆっくり息を吐いた。
明日はファミレス。
木曜は塾。
やることはいくらでもある。
日常は、こっちの都合なんて待たずに進んでいく。
それはありがたいことでもあるし、厄介なことでもある。
ホームに滑り込む直前、窓に映った自分の顔をもう一度だけ見た。
疲れている。
でも、それだけじゃない。
何かを待っている顔をしていた。
藤沢駅に着くと、俺は立ち上がって電車を降りた。
夜風は思ったより冷たくて、肩が少しだけすくむ。
改札を抜け、自宅への道を歩きながら、コートのポケットに手を入れた。
その中で、スマホが静かに重みを持っている。
新しいメッセージは来ていない。
なのに、いつ鳴ってもおかしくない気がしていた。
そんな予感だけを連れて、俺は冬の藤沢の夜道を歩き出した。
家に帰ると、コートを椅子に掛けて、適当にお湯を沸かした。
夜の部屋は静かだった。
キッチンの換気扇の音だけが、小さく回っている。
スマホを取り出して、なんとなくスイートバレットの公式SNSを開く。
ライブの写真。告知。ファンのコメント。
スクロールしていると、ふと手が止まった。
『二月十八日 安濃八重バースデーライブ 池袋』
「あ……」
思い出す。
四日のライブが、結局行けなかったこと。
その代わりに、「十八日のライブは絶対来てね」と、のどかにも卯月にも、念を押されていたこと。
(……忘れてたら、普通に怒られるやつだな)
小さく息を吐いて、チケットサイトを開く。
まだ残っている。
迷う理由もない。
数分後、購入完了の画面が表示された。
それを確認してから、スマホをグループチャットに切り替える。
《きっしー観察会》
いまだに、なぜそんな名前なのかはよく分からない。
とりあえず、メッセージを打つ。
《十八日の安濃さんバースデーライブ、チケット取った》
送信。
既読がつくまで、三秒もかからなかった。まず反応したのは卯月だった。
《はや!!!!》
すぐにもう一つ。
《えらい!!!!》
続いて、のどか。
《よかったー。ちゃんと四日の分も来てね》
《怒られる前に取った》
《あたしと卯月で怒るよ??》
《それは怖い》
既読の点がまた増える。
《ねぇきっしー!どこの席??》
チケット画面を見て、番号を送る。
《後ろの方》
数秒の沈黙。そのあと、同時にメッセージが飛んできた。
《後ろ!?!?》
《後ろなの??》
思わず苦笑する。
《取れただけマシだろ。安濃さんサブリーダーだから人気だし》
《でもでもでも!ちゃんと見える??》
《多分》
《双眼鏡いるね》
《私貸すよ!!》
《なんでお前が持ってる》
《アイドルだから》
《意味が分からない》
少し間があって、のどかが送ってくる。
《でも、来てくれるならいいかな》
その一行だけ、少しだけ空気が変わる。
続けて、卯月。
《うん》
《ちゃんと来てね、きっしー》
画面を見ながら、少しだけ息を吐く。
《行くよ》
送信すると、二人ともすぐ既読になった。
それから、しばらく雑談が続く。
ライブの話。
安濃さんの新しい髪色。
リハーサルがどうとか、衣装がどうとか。
卯月のテンションは相変わらず高くて、のどかはそれを時々ツッコみながら、会話を回している。
そんな流れの中で、卯月がふと思い出したように言った。
《ねぇきっしー》
《そういえば十二日のバレンタインライブは来れる?》
指が少し止まる。
十二日。
頭の中で予定を確認するまでもなかった。
《その日は無理》
送ると、すぐ既読がつく。
《え、なんで?》
《なんかあるの?》
のどかと卯月が、ほとんど同時に聞いてくる。
少しだけ迷う。
どう言えばいいのか、一瞬だけ考えた。
でも、隠すようなことでもない気がした。
《親戚の集まりだよ。毎年あるやつ》
送る。
少し間が空いたあと、卯月からメッセージが来る。
《何の集まり?》
その問いを見た瞬間、胸の奥がわずかに沈む。
別に聞かれて困ることじゃない。
困ることじゃないのに、少しだけ呼吸が浅くなる。
《母親の誕生日》
《もういないけど、その日は毎年親戚で集まることになってる》
送信してから、画面を見つめる。
既読は、すぐについた。
けれど、今度は返事が来るまで少し時間があった。
さっきまでぽんぽん続いていたやり取りが、そこで一度だけ止まる。
スマホの明かりが、静かな部屋の中でやけに白く見えた。
最初に返ってきたのは、のどかだった。
《……そっか》
短い一言。
でも、その三文字だけで、向こうが何を飲み込もうとしたのか、なんとなくわかった。
続いて、卯月。
《ごめんねきっしー、変なこと聞いちゃった》
珍しく、空気を読んだ勢いのない文面だった。
それを見て、少しだけ肩の力が抜ける。
《いや、別に変じゃないよ、片親って話しかしてなかったし》
そう送る。
すると、のどかからまた返事が来た。
《知らなかった》
《ごめん》
卯月も続く。
《きっしー、ちゃんと行ってきてね》
《うん》
それだけ返す。
画面の向こうの二人が、今どんな顔をしているのかはわからない。
でも、さっきまでとは少し違う静けさが、三人の間にある気がした。
幸せな日の話をしていたはずなのに、気づけば、俺の中ではいつも不在の誰かに触れてしまう。
その空気を変えたのは、少ししてから来た卯月の次の一文だった。
《でも十八日は絶対来てね》
思わず、小さく笑ってしまう。
《それは行くって、さっき言っただろ》
《念押し!!》
《あたしも念押ししとく》
《来てよね》
その二人らしい戻り方に、少しだけ救われる。
重くなりかけた空気を、完全には壊さず、でも沈み切らせない。
そういう優しさを、二人ともちゃんと持っているのだと思った。
やがて……
《そろそろ寝るー》
《あたしも。明日朝早いから》
《きっしーも寝なよ》
《はいはい》
《おやすみ!!》
《おやすみ》
通知が止まる。
スマホの画面が静かになる。
部屋の中には、また換気扇の音だけが戻ってきた。
ふと、思い出す。
中郷さんのバースデーライブのあと。
控室で、安濃さんに言われた言葉。
——きっしーくん、いつになったら二人の気持ちにちゃんと応えんのかなぁ。
天井を見上げる。
さっきまで軽かったはずの胸が、少しだけ重くなっていた。
(……そろそろ、か)
スマホを机に置く。
画面にはまだ、《きっしー観察会》のトークが開いたままだった。
二月七日
約束通り、俺はファミレスのシフトに入っていた。
夕方の時間帯のホールは、古賀と姫路さん、それに俺の三人で回している。
平日とはいえ、夕時の店内はそこそこ忙しい。
注文を運び、下げ、会計をして、厨房に声をかけて。
そんな一連の流れをこなしていると、入口のドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませー」
古賀の明るい声が先に出る。
俺はトレーを持ったまま、ちらっと入口の方を見た。
そこに立っていたのは、見覚えのある二人だった。
「……あ」
思わず声が漏れる。
向こうもすぐ気づいたらしい。
短く切った髪の方が、軽く手を上げる。
「お、岸和田」
大津美凪。
その隣には、浜松夏帆。
二人ともジャージ姿で、肩からスポーツバッグを下げている。
どうやら、ビーチバレーの練習帰りらしい。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
反射的に店員モードで言うと、大津が笑った。
「二人だよ。あと“いらっしゃいませ”はちょっと面白いな」
「仕事中だからな」
適当な席に案内すると、二人はどさっと椅子に座った。
浜松さんがメニューを開きながら言う。
「練習帰りって、お腹空くんだよね」
「今日は走り込み多かったもんね」
大津はそう言って、水を一口飲んでから俺を見る。
「そういえばさ」
「ん?」
「梓川、この前事故にあったって聞いたけど」
一瞬だけ手が止まる。
「ああ」
トレーを軽く持ち直して答える。
「大丈夫だよ。頭打ったけど、大事にはならなかった」
「そっか」
大津は少し安心したように頷いた。
「でも、なんで知ってるんだ?」
そう聞くと、浜松さんが「えっとね」と笑った。
「この前の警察署長イベント、桜島さんのやつ」
大津が続ける。
「あれ、私たちも行ってたんだよ」
「……マジで?」
「うん。まあ、理由は単純」
大津は少しだけ肩をすくめた。
「私、桜島先輩の隠れファンだから」
思わず笑う。
「隠れてない気がするけどな」
「あとは、練習場所からも近かったもんね」
浜松さんが補足する。
「平塚の練習の帰りだったから」
なるほど、と頷く。
注文を取って厨房に伝えてから、もう一度テーブルに戻る。
少しだけ雑談になる。
最近の練習の話とか、大学のこととか。
そんな流れの中で、大津がふと思い出したように言った。
「そういえばさ」
「ん?」
「前に言ってたじゃん」
「湘南平ヒルクライム」
「ああ」
確かに、そんな話をした覚えがある。
「今月の後半とかどう?」
浜松さんが続ける。
「ちょっと走り込みが落ち着くから。どうかな、岸和田くん?」
少し考える。
スケジュールを頭の中でざっと確認する。
「十九日なら空いてる」
「じゃあその日で」
大津は即決だった。
「決まり」
浜松さんも笑って頷く。
「やっとヒルクライムできるね」
料理を運び終えてから、俺は軽く手を振って席を離れた。
カウンターに戻ると、古賀がにやっと笑う。
「きっしー先輩」
「ん?」
「大津先輩とも仲良かったんだ」
「まあな」
すると、横で姫路さんが少し首を傾げた。
「あのお二人って、どなたなんですか?」
俺は水を補充しながら答える。
「大津美凪と浜松夏帆。ビーチバレーのユースオリンピック選手で、大浜ペアって呼ばれてる」
姫路さんの目が少し丸くなる。
「有名な方なんですか?」
「結構有名だな」
俺は頷いた。
「大津は去年まで峰ヶ原高校だった」
「だから、麻衣先輩の次くらいには有名人だったな」
「ああ」
姫路さんは納得したように頷いた。
「じゃあ、私が入学したときに入れ違いだったんですね」
「そういうことになる」
その会話を聞きながら、古賀がぽつりと言う。
「きっしー先輩ってさ」
「人脈、地味に広いよね」
「地味ってなんだ」
「なんとなく」
そんな軽口を交わしながら、俺たちはまたホールに戻った。
夜のファミレスは、相変わらず忙しかった。
結局、ピークが落ち着いたのは二十一時近くになってからだった。
最後のテーブルを片づけて、レジの締めを確認して、エプロンを外す。
「お疲れさまでしたー」
姫路さんの明るい声が店の奥に響く。
「おつかれさま、姫路さん」
古賀も軽く手を上げる。
「蓮真先生、今日は助かりました」
「こっちも助かったよ。二人いたから回ったし」
そう返すと、古賀は少しだけ得意そうに鼻を鳴らした。
「まあ、あたしと姫路さんだから」
「自分で言うなよ」
「いいじゃないですか、本当のことなんで」
その横で、姫路さんがにこにこしながら頷く。
「今日はほんと、連携ばっちりでしたね」
「姫路さんが途中でデザート伝票飛ばしかけたけどな」
「それは言わない約束です!」
すぐに大きな声で抗議されて、思わず笑った。
そんな軽いやり取りをしてから、俺は先に店を出た。
外はもう、ただの夜を通り越して、光を拒絶するような濃密な闇に支配されていた。
夕時の忙しさの熱がまだ少し体に残っている。
コートのポケットに手を入れて、駅までの道を歩く。
ファミレス帰りのこの時間帯は、街の空気が少しだけ緩んでいる。
俺もその中のひとりだった。
そう思いながら歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。
取り出す。
画面には、赤城の名前。
《岸和田くん、今ちょっと大丈夫?》
立ち止まるほどでもない短いメッセージだったけれど、なんとなく足が少し緩む。
《大丈夫。どうした?》
送ると、少ししてすぐ返信が来た。
《来週の学習支援のボランティアなんだけど》
《午前中だけでも来てもらえないかな》
《バレンタインの日のやつ》
赤城が関わっている、学習支援のボランティア。
放課後や休日に、勉強を見る形の小さな支援活動だ。
《人足りない?》
そう返すと、赤城からは少し間を置いて返事が来た。
《足りないっていうより、いてくれると助かる》
《数学見られる人が少ないから》
いかにも赤城らしい言い方だった。
遠慮しているようで、必要なことはちゃんと伝える。
《午前中なら行けるよ》
そう打って送る。
既読はすぐについた。
《ありがとう》
《助かる》
その短いやり取りだけで、少しだけ昔を思い出す。
中学の頃も、赤城はこういうふうに誰かを巻き込むのがうまかった。
強引じゃないのに、断りづらい。
いや、正確には、断る理由があまり見つからない、という方が近いかもしれない。
《時間と場所、あとで送って》
そう返すと、
《うん》
《あとでまとめて送る》
と返ってきた。
やり取りはそれで終わる。
画面が暗くなる。
けれど、スマホをしまう前に、少しだけその黒い画面を見つめた。
来週の予定が、またひとつ埋まった。
ファミレスの代打。
塾の振替。
安濃さんのバースデーライブ。
それに、学習支援のボランティア。
「誰かに頼まれて、誰かのために行く予定ばかりだな」
そう、ぼんやり思う。
けれど嫌じゃない。
むしろ、そういうふうに呼ばれることに、俺はたぶん慣れすぎている。
必要とされる場所に行く方が、自分でどこかへ踏み出すより、ずっと簡単だからかもしれない。
駅前の信号が青に変わる。
人の流れに合わせて歩き出しながら、小さく息を吐いた。
「来週はバレンタインか……」
そんな、どこか浮ついた響きのある日にも、俺は結局、誰かの勉強を見る側にいるらしい。
それは少しだけ、自分らしい気もしたし、少しだけ、違う気もした。
二月九日
木曜の夕方、俺は咲太の代打として塾に入っていた。
時間は午後五時ちょうど。
最初の授業の相手は、加西くんだった。
教室のブースに入ると、加西くんはすでに席についていて、参考書とノートを広げていた。
部活帰りなのか、制服の上に薄手のウィンドブレーカーを羽織っている。髪は少しだけ汗で崩れていたが、表情は意外としゃきっとしていた。
「こんにちは、岸和田先生」
「こんにちは。今日は俺が担当だ。梓川先生の代打ってことで」
「はい、それは聞いてます」
加西くんは素直に頷いた。
机の上に置かれた課題プリントを軽く見下ろす。
数学の二次関数と図形の融合問題。確かに、今の時期としては少し骨がある。
「梓川先生からの課題、どこまでやった?」
「途中までは解けました。でも、最後の誘導が急に見えなくなって」
「どれ」
プリントを引き寄せて、加西くんのノートも一緒に見る。
途中式は思ったより丁寧だった。雑に見えて、必要なところはちゃんと押さえている。
「ここまでは悪くないな」
「ほんとですか?」
「ほんと。だいぶ良いと思う」
そう言うと、加西くんは少しだけ照れくさそうに笑った。
「それ、梓川先生にも言われました」
「じゃあ本当なんだろ」
「岸和田先生も、そういう言い方するんですね」
「どういう意味だよ」
「いや、もっと真面目な感じかと思ってました」
「真面目だよ、十分」
「梓川先生に比べたら、ですか?」
「それは比べる相手が悪い」
加西くんが小さく笑う。
少しだけ空気が和らいだところで、俺はペン先で問題文の一箇所を示した。
「で、見えなくなったのはこの先だろ?」
「あ、はい」
「ここ、式変形の問題に見えて、実際は条件整理の問題なんだよ」
「条件整理?」
「加西くん、東工大行きたいんだろ」
そう言うと、加西くんは一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに真面目な顔になった。
「……はい」
「だったら、こういう“解き方を覚えてるか”じゃなくて、“何が条件かを見抜けるか”って問題には慣れといた方がいい」
「東工大って、やっぱそういう感じなんですか」
「双葉を見てる限りはな」
その名前を出した途端、加西くんの表情がほんの少しだけ引き締まる。
わかりやすいな、と思う。
「じゃあ、今の問題も、先に式をいじるんじゃなくて、“この放物線の上を動く点が何を意味してるか”から考えてみて」
「あ……」
「気づいたか?」
「はい。これ、座標をそのまま置いていいやつじゃなくて、媒介変数で見た方が早いですか?」
「そう。それでようやく見通しが立つ」
加西くんはすぐにノートへ向き直って、式を書き直しはじめた。
ペンの動きには迷いがない。
やっぱり、集中力はある。
体力がある子は、こういう踏ん張る時間が長いのかもしれない。
しばらくして、一問解き終えたところで、加西くんがふっと息をついた。
「……やっぱり、梓川先生とちょっと違いますね」
「何が」
「教え方です」
「そりゃあ違うだろ」
「梓川先生は、もっとこう……ギリギリまで何も言わないで、こっちが引っかかるの待ってる感じがあるんですけど」
「ああ、それはそうだろうな」
「あれ、地味に焦るんですよ」
「わかる」
思わず頷くと、加西くんは少し笑った。
「岸和田先生は、そこまで放置しない感じですね」
「放置って言うなよ」
「でも、今のも“どこを見るか”は先に教えてくれたじゃないですか」
「加西くんの場合、たぶん今はその方がいい」
「なるほど……」
加西くんはそこで少し考えるような顔をしたあと、不意に聞いてきた。
「双葉先生から、梓川先生に担当が変わってから、自分ってどうなんですか?」
「どうって?」
「前より、ちゃんと伸びてますか?」
その聞き方に、少しだけ本気が滲んでいた。
ただ好きな人と同じ大学に行きたい、というだけじゃない。行きたいからこそ、自分が本当にそこへ届くのかを知りたいのだろう。
俺はノートを見下ろしながら答えた。
「前よりは確実に伸びてるんじゃないか?」
「ほんとですか」
「ほんとだよ。ただ、東工大を目指すならまだ足りない」
加西くんは真顔で頷く。
「ですよね」
「でも、それは悪い意味じゃない」
ペンを置いて、加西くんの方を見る。
「前は“できるかできないか”でやってたけど、今は“できるようになるには何が足りないか”を見ようとしてる」
「……」
「そこは大きいと思う」
加西くんは少しだけ黙って、それから「それも、梓川先生のおかげですか」と聞いてきた。
「半分はそうだろうな」
「半分?」
「もう半分は、加西くんが双葉を追いかけてるからだろ」
言うと、加西くんは今度こそはっきり照れた。
「……そういうの、先生ってほんと普通に言いますよね」
「事実だからな」
「梓川先生にも似たようなこと言われました」
「じゃあ、やっぱり本当なんだろ」
また同じ返しになって、今度は二人とも少し笑った。
そのあと、次の問題に入ろうとしたところで、加西くんが今度は少し言いづらそうに口を開いた。
「岸和田先生」
「ん?」
「最近、紗良の様子ってどうですか?」
その問いに、ほんの少しだけ目を上げる。
姫路さんじゃなくて紗良。
そこに、幼馴染としての距離が出ていた。
「どうって、普通だよ」
「普通……」
「少なくとも、前よりは落ち着いてる」
そう答えると、加西くんは少しだけ安堵したような顔をした。
「そっか」
「気になるのか?」
「まあ……気にはなります」
そこで言葉を切るあたりが、かえって本音っぽい。
以前なら、周りも本人たちも、そのうち付き合うんじゃないか、みたいな空気で見ていた二人だったのだろう。
けれど加西くんに双葉という存在ができて、姫路さんの方も思春期症候群を越えて、関係の置き場所が少しずつ変わった。
その途中にいる今だからこそ、こういう聞き方になるんだろう。
「最近、姫路さんからは咲太の名前と一緒に、俺の名前もよく出るし」
「え」
「だから、気になったんだろ?」
加西くんは少しだけ気まずそうに笑った。
「……まあ、はい」
「別に変な意味じゃないと思うぞ」
「そうですか?」
「少なくとも、塾での様子を見る限りはな」
そう言いながら、少し考える。
「前より、人の話をちゃんと聞くようになったし、空気も見えてる。あとは……」
「なんですか?」
「ちゃんと周りとやり直そうとしてる感じがある」
加西くんは、その言葉を少しだけ噛みしめるように黙った。
それから、小さく息をつく。
「それなら、よかったです」
その声音に、少しだけほっとしたものが混ざっている。
恋愛の相手じゃなくなったとしても、大事じゃなくなるわけじゃない。たぶん、そういうことなんだろう。
授業の残り時間で、もう二問ほど問題を解かせた。
ひとつは典型、もうひとつは少し重め。
後者ではまた途中で詰まりかけたが、今度は自分で条件を戻って見直せていた。
終了時間が近づいたところで、俺はプリントをまとめながら言った。
「今日の感じなら悪くないよ」
「ありがとうございます」
「ただ、双葉は手強いと思うけど、頑張って」
言うと、加西くんは一瞬きょとんとしたあと、苦笑した。
「それ、梓川先生からも言われました」
「だろうな」
「二人とも同じこと言うんですね」
「そこは事実だから仕方ない」
加西くんは、少しだけ背筋を伸ばして頷いた。
「……頑張ります」
その返事は、問題を解くときよりもずっと素直だった。
加西くんを見送って、次の授業までの数分で軽く机の上を整える。
時計は六時半を少し回ったところだった。
次は二人同時の授業。
吉和さんと山田くんだ。
ブースに入ってきたのは、先に吉和さんだった。
いつも通り姿勢が良くて、鞄を置く動作まで無駄がない。
「岸和田先生、今日はよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げられて、俺も軽く頷く。
「よろしく。梓川先生の代打だけど、いつも通りやろう」
そのすぐあとに、少し遅れて山田くんが入ってきた。
椅子を引きながら、俺の顔を見るなり、わかりやすく眉を上げる。
「え、今日は岸和田先生かよ」
「そうだけど」
「なんか厳しそう」
「第一声がそれか?」
そう返すと、山田くんは悪びれもせずに笑った。
「だってさ、咲太先生ってなんだかんだ甘いじゃん」
「それは山田くんが甘やかされてるだけだろ」
横で、吉和さんが小さく息を吐く。
「授業始まる前からうるさい」
「ひどくね?」
この二人のこういうやり取りも、最初の頃よりずっと自然になっている。
山田くんはわざとらしく肩をすくめていたが、吉和さんの反応にいちいち傷ついている様子はない。むしろ、少し嬉しそうにすら見える。
(……微笑ましいな)
そう思いながら、俺は二人の前に今日のプリントを置いた。
「はい、じゃあ今日は最初に図形の証明問題やる」
「うわ、出た」
山田くんが露骨に嫌そうな顔をする。
「証明、嫌いなんだよなぁ……」
「山田くんは嫌いじゃなくて、途中で面倒になるだけだろ」
「それを嫌いって言うんだよ」
「言わない」
横から、また吉和さんが切る。
山田くんが「吉和、今日ちょっと冷たくない?」とぼやいたが、吉和さんはもう問題用紙に目を落としていた。
「二人とも、まず一問目見て」
そう言って、図形の相似と角度の関係を使う証明問題を指差す。
吉和さんはすぐに問題文を追い始めた。山田くんは最初こそ嫌そうにしていたが、それでもちゃんと図を見ているあたり、前よりはずっとましだ。
少ししてから、山田くんが顔を上げた。
「そういえばさ」
「ん?」
「咲太先生、大丈夫なん?」
吉和さんも、そこで手を止めてこちらを見た。
「私も少し気になってました」
「ああ」
二人とも咲太の怪我のことは聞いていたらしい。
「頭打ったけど、大事にはならなかったよ。今は安静にしてる」
「よかった……」
吉和さんが、小さく安心したように息をつく。
山田くんは、そこからさらに身を乗り出してきた。
「なんで怪我したんだっけ?」
「警察署長のイベント」
「は?」
「麻衣先…… 桜島麻衣が一日警察署長やってたイベントで、ちょっと事故みたいなのが起きてな」
「え、桜島麻衣の?」
「そう」
山田くんの目が一気に開く。
「マジかよ、俺も行きたかったなぁ……」
「だからうるさい」
吉和さんが、今度はさっきより少し強めに言った。
「なんでだよ」
「さっきからそこじゃない」
「いや、でも桜島麻衣だぞ?」
「だから?」
「吉和は桜島麻衣のイベントとか興味ねぇの?」
そう聞かれて、吉和さんは少しだけ視線を逸らした。
「……その日は無理だったし」
「なんで?」
「前の日、誕生日だったから」
そこで、ほんの少しだけ間が空く。
山田くんが、意外そうな顔をした。
「え、吉和、この間誕生日だったんだ」
吉和さんは、問題用紙から目を外さないまま、小さく頷く。
「……うん」
「おめでと」
山田くんが、思ったよりずっと自然にそう言った。
吉和さんは、その一言に少しだけ反応が遅れてから、
「……ありがと」
と、ぼそっと返した。
ほんの一瞬だけ、空気が柔らかくなる。
山田くんは気にした様子もなく、また図を見下ろしている。けれど、吉和さんの方は、耳が少しだけ赤くなっていた。
(……やっぱり、そういう感じなんだな)
吉和さんの片想いっぽさは、前からなんとなく見えていた。
でも最近は、山田くんの方もまるで気づいていないわけじゃない気がする。
まだ名前のつかない、曖昧な距離。
けれど、前より少しだけお互いを意識している。
そういう空気が、この二人の間にはちゃんとあった。
「で、岸和田先生さ」
ふいに山田くんが、今度はにやっとした顔で言ってきた。
「何だよ」
「やっぱ咲太先生と仲良いよな〜」
「何だよ急に」
「だって、桜島麻衣とも知り合いだし」
「まあ……知り合いではあるな」
「すげえよなぁ」
「別に、すごくはないだろ」
「いや、すごいって」
そこで吉和さんが、静かに口を挟む。
「でも、岸和田先生って、そういう人脈多そうですね」
「なんで」
「なんとなくです」
昨日の古賀と同じようなことを言われて、少しだけ苦笑する。
「なんとなくで納得されるの、地味に困るな」
「でも、そういう感じします」
吉和さんは真顔で言うので、冗談なのか本気なのか少しわからない。
山田くんも「わかる」と頷いていた。
「はいはい、雑談はそこまで」
話を切って、もう一度プリントを指で叩く。
「一問目、そろそろ手を動かせ」
「はーい」
「はい」
二人の返事は対照的だった。
山田くんは相変わらず気の抜けた声で、吉和さんはちゃんとした返事。
けれど、そのあと問題に向かった二人は、どちらも思ったより真面目だった。
山田くんは途中で「これって、ここ補助線いる?」と聞いてきて、吉和さんは「いや、角度から先にいけると思う」と先に答える。
山田くんが「マジ?」と図を見直して、少し遅れて「あ、ほんとだ」と納得する。
そんなやり取りを見ながら、俺は内心で少しだけ笑っていた。
やっぱり、この二人も悪くない。
競っているようで、ちゃんと相手の存在を意識している。
だから授業も進む。
「山田くん、結論飛ばしすぎだぞ」
「えー、わかるだろ」
「証明で“わかるだろ”は通らない」
「ほら、岸和田先生にも言われた」
「吉和、いちいち乗っかるなよ」
「乗っかってない」
そんなふうにやり取りを続けながら、六時半の授業は思ったより穏やかに進んでいった。
終了時刻が近づいたところで、俺は二人のプリントを回収して軽く目を通す。
吉和さんはやはり安定していた。証明の書き方も丁寧で、途中の飛躍が少ない。
山田くんは相変わらず雑なところがあるが、それでも以前みたいに最初から投げ出す感じはもうない。詰まりながらでも、最後まで手を動かしている。
「よし、今日はここまで」
そう言うと、山田くんが大きく伸びをした。
「つかれたー」
「図形の証明でそこまで疲れるのもどうなんだ」
「いや、ほんと証明って精神削られるんだって」
「山田くんは、考える前に面倒がってるだけだろ」
「それも含めて精神なんだよ」
まったく反省の色がない。
横で吉和さんが、少しだけ呆れたように息を吐いた。
「でも、今日はちゃんと最後までやってたじゃん」
その一言に、山田くんが一瞬だけきょとんとする。
「……なに、珍しく褒めてくれる感じ?」
「別に褒めてない」
「絶対今ちょっと褒めてたじゃん」
「気のせい」
即答だった。
けれど、吉和さんの声はいつもより少しだけやわらかかった。
俺は苦笑しながら、プリントをまとめる。
「はい、じゃあ二人とも気をつけて帰れよ」
鞄を持って立ち上がった山田くんに、ついでに一言付け加える。
「山田くんは寄り道しないで帰れよ」
「なんで俺だけ名指しなんだよ?」
「しそうだから」
「偏見だろ」
「実績がある」
そう返すと、山田くんは言い返しかけてから、「……まあ、今日はまっすぐ帰ります」と、少しだけ気まずそうに笑った。
その横で、吉和さんが鞄の紐を持ち直してから、こちらを見た。
「岸和田先生」
「ん?」
「また、岸和田先生の授業、受けてみたいです」
思いがけない言葉に、少しだけ目を瞬かせる。
「……そっか」
短くそう返すと、吉和さんは小さく頷いた。
「はい。今日、わかりやすかったので」
山田くんがすぐ横から茶々を入れる。
「え、なにそれ。俺は?」
「山田は、まず今日の復習ちゃんとして」
「急に厳しっ」
その反応まで含めて、やっぱりこの二人は悪くない。
「じゃあ、おつかれさまでした」
「おつかれー」
そうして二人を見送る。
ブースの外へ並んで出ていく背中を眺めながら、俺は少しだけ息をついた。
咲太の代打として入った授業だったが、思ったよりちゃんと回せた気がする。
もちろん、咲太みたいにはいかない。
あいつの教え方は、独特だ。
生徒のぎりぎりまで待って、本人に気づかせるやり方は、たぶん俺には真似しきれない。
でも、俺には俺のやり方がある。
今日みたいに、少し先を照らしてやる方が合う生徒もいるのだろう。
そんなことを考えながら、俺は席に戻って日報用の端末を開いた。
加西くん。
吉和さん。
山田くん。
それぞれの理解度、躓いた点、出した課題、次回の注意点。
咲太の代わりに、なるべく抜けがないように打ち込んでいく。
加西くんには、条件整理と媒介変数の見方を復習する課題。
加えて、東工大レベルを意識した少し重めの問題を一問。
吉和さんには、今日の証明問題の別解をひとつ考えてくること。
山田くんには、証明の結論を飛ばさずに書き切る練習として、類題を二問。
入力を終えて保存すると、ちょうど閉館時刻が近づいていた。
塾を出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。
駅へ向かう途中、ポケットからスマホを取り出す。
少し迷ってから、咲太の家に電話をかけた。
コール音が二回鳴ったあと、出たのは咲太本人だった。
「もしもし」
少し低めの、気の抜けた声。
たぶん家で寝転がっていたのだろう。
「咲太。今大丈夫か?」
「別に平気だけど。どうした?」
「今日の引き継ぎ」
そう言うと、電話の向こうで少しだけ間があった。
「ああ、律儀だな」
「お前が適当なんだよ」
少しだけ笑いそうになりながら、俺は歩く速度を落とした。
「加西くんは、二次関数と図形の融合。条件整理で一回詰まったけど、媒介変数の見方は掴んだ」
「前より伸びてると思う。東工大はまだ遠いけど、少なくとも自分に何が足りないかは見ようとしてる」
「ふーん、ちゃんと見てるな」
「あと、双葉は手強いから頑張れって言っといた」
すると、電話の向こうで咲太が少しだけ笑った。
「それ、僕も言った」
「だろうな」
それから続ける。
「吉和さんと山田くんは、図形の証明をやった。吉和さんは安定。山田くんはまだ雑だけど、最後までやる気は前より出てる」
「珍しいな、山田くんが最後までやるなんて」
「吉和さんが横にいるからだろ」
「なるほどな」
その返事に、少しだけ“わかってるな”という響きがあった。
「二人には類題を出した。吉和さんは別解ひとつ、山田くんは結論飛ばさない練習で二問」
「了解」
「日報にも入れといたから、今度見とけよ」
「岸和田、お前ほんと真面目だな」
「誰かさんの代打だからな」
「助かるよ」
その一言は、いつもの軽口より少しだけ素直だった。
俺は信号待ちの足を止めて、夜の駅前を見た。
「頭はどうだ?」
聞くと、咲太は少しだけ間を置いてから答えた。
「まあ、大丈夫。麻衣さんがうるさいけど」
「それは仕方ないだろ」
「岸和田までそっち側かよ」
「そりゃそうだ」
言ってから、少しだけ笑う。
「じゃあ、引き継ぎはこんなもんだ」
「ああ、助かった。ありがとな」
「ちゃんと安静にしとけよ」
「善処するよ」
「それはしないやつの言い方だろ」
「ばれたか」
そんな軽口を最後に、電話を切った。
画面が暗くなる。
その黒い画面を少しだけ見つめてから、ポケットにしまった。
今日の代打は、これで終わりだ。
誰かの代わりとして入ったはずなのに、終わってみれば、ちゃんと自分の時間として残っている気がした。
駅の改札に上がる階段を見上げる。
夜はまだ続いている。
けれど、少なくとも今日のやるべきことは、きちんとやり切った。
それだけで少しだけ、胸の中が静かになっていた。
二月十一日
明日の親戚の集まりは、田園調布に住む祖母の家で行われることになっていた。
だから俺は、目黒へ戻る前に、横浜駅前の高島屋に立ち寄っていた。
八階の特設会場では、バレンタインに合わせたショコラの催事が開かれている。
フロア全体が甘い匂いに包まれていて、人も多い。
色とりどりの箱。期間限定のポップ。試食を勧める店員の声。
カップルに、母娘連れに、友だち同士の女子高生。
どこを見ても、この時期特有の浮ついた空気があった。
(……場違いなところに来た気もするな)
そんなことを思いながら、祖母の家に持っていく手土産を探していた。
あまり派手すぎず、でも年配の親戚が集まる席に持っていっても無難すぎないもの。
その条件で見て回っていると、白い箱が目に入った。
上品な長方形の箱に、きちんと仕切られたチョコレートが並んでいる。
トリュフに細長いガナッシュ、ナッツをまとった粒のチョコ。落ち着いていて、見栄えもいい。
(これならいいか)
そう思って手に取ろうとした、そのときだった。
「……あれ? 蓮真さん?」
聞き覚えのある声に顔を上げる。
振り向くと、花楓ちゃんと鹿野さんが立っていた。
「花楓ちゃん、鹿野さん」
思わず、少しだけ目を丸くする。
二人とも私服姿で、買い物帰りらしい紙袋を手にしていた。
「すごい偶然ですね」
花楓ちゃんが、少し嬉しそうに笑う。
その隣で、鹿野さんも軽く会釈した。
「こんにちは、岸和田さん。こんなところで会うんですね」
「こっちの台詞だよ。二人もチョコ買いに来たのか?」
そう聞くと、鹿野さんが「あ、はい」と答えた。
「このあと、みなとみらいの方に行く予定があって。そのついでに、十四日に渡すチョコを見に来ました」
「十四日?」
「お兄さんにです」
鹿野さんは少しだけはにかんでから続ける。
「日頃お世話になってるので」
なるほど、と頷く。
鹿野さんらしいと言えば、鹿野さんらしい。
恋愛というより、ちゃんと感謝を形にするタイプの贈り物だ。
「花楓ちゃんは?」
「私は自分で作ります」
きっぱりした返事だった。
「お兄ちゃんにも、麻衣さんにも、あと……」
そこまで言ってから、花楓ちゃんは少しだけ言葉を濁す。
「まあ、いろいろです」
「最後、雑だな」
そう返すと、花楓ちゃんはちょっとだけ困ったように笑った。
その横で、鹿野さんが「私はこれにしようかな」と、近くの棚から一箱取る。
選んだのは、小ぶりのタブレットチョコの詰め合わせだった。
深いブラウンの箱の中に、抹茶みたいな緑、いちごみたいな淡いピンク、ミルクとビターの茶色が並んでいる。
ナッツやドライフルーツがのっていて、見た目も華やかだ。
「あ、かわいいね、こみちゃん」
花楓ちゃんが覗き込む。
「うん。ちゃんと美味しそうだし、重すぎなくていいかなって」
「鹿野さんっぽいな」
俺がそう言うと、鹿野さんは少しだけ目を丸くした。
「そうですか?」
「うん。ちゃんとしてるけど、可愛さもある感じ」
すると、鹿野さんは少し照れたように笑った。
「それ、褒めてますか?」
「たぶん」
そんな話をしながら、俺はさっき目を付けていた白い箱のアソートを店員に渡した。
花楓ちゃんがそれを見る。
「蓮真さんは、それにするんですね」
「明日の手土産だからな。親戚向け」
「田園調布の方でしたっけ」
「そう。祖母の家」
会計を待ちながら、三人で少しだけ他愛のない話をする。
明日の天気とか、東横線の混み具合とか、みなとみらいならどこへ行くのかとか。
その流れの中で、花楓ちゃんがふと思い出したように聞いてきた。
「そういえば、蓮真さん」
「ん?」
「明日のバレンタインライブ、来ないんですか?」
やっぱりそこを聞かれるか、と思う。
「行けないな。親戚の集まりがあるから」
「そっか……」
花楓ちゃんは少しだけ残念そうにした。
鹿野さんも、「ライブですよね」と小さく頷いている。
「まあ、十八日は行くことになってるから」
「安濃さんのバースデーですよね」
鹿野さんがすぐに反応するあたり、やっぱりライブ会場で何度も顔を合わせているだけはある。
「そうそう。そっちはちゃんと押さえた」
すると、花楓ちゃんが少しだけ楽しそうな顔になった。
「じゃあ、よかったです」
会計を済ませて、紙袋を受け取る。
そのタイミングで、二人も買い物を終えたらしく、三人で催事場の外へ出た。
少しだけ人の少ない通路まで来たところで、別れ際みたいな空気になる。
そのとき、花楓ちゃんがふいに言った。
「蓮真さんも、チョコもらえたらいいですね」
あまりにも自然に言われて、少しだけ間が空いた。
「……俺にくれる子なんて、いるのかな」
半分冗談でそう返す。
すると、花楓ちゃんは不思議そうな顔をした。
「え?」
「卯月さんとか、のどかさんとか」
あまりにも具体的な名前が出てきて、今度は本当に言葉が止まる。
「いや……」
思わず視線を逸らす。
「とはいえ、去年は受験で忙しくて、そういうのもらえてないしな」
そう言うと、花楓ちゃんと鹿野さんが、ほんの一瞬だけ顔を見合わせた。
その空気の変化に、少しだけ嫌な予感がする。
「……なに」
聞くと、花楓ちゃんが少し声を潜めた。
「ここだけの話なんですけど」
「うん?」
「二人とも、この前、チョコ買ってました」
「……は?」
間の抜けた声が出た。
花楓ちゃんはそこで少し慌てる。
「いや、でも、絶対ってわけじゃないですよ? たまたま見ただけかもしれないし、その、誰に渡すかまでは聞いてないですし……」
「いや、そこまで言ったら十分だろ」
思わずそう返すと、鹿野さんが困ったように笑った。
「かえちゃん、それ、ほとんど言っちゃってるよ」
「だって……」
花楓ちゃんは少しだけしゅんとしてから、でも小さく言い足した。
「蓮真さん、知らないままだと本当に気づかなそうだったので」
その言葉に、何も返せなくなる。
胸の奥が、さっきまでとは別の意味でざわついていた。
バレンタイン。
チョコ。
自分に向けられているかもしれない好意。
そんなものを、ここで急に現実味をもって差し出されるとは思っていなかった。
(……勘弁してくれ)
心の中でそう思う。
嫌なわけじゃない。
むしろ、たぶん、その逆だ。
だから困る。
「……まあ、期待しすぎないようにしとくよ」
なんとかそう言うと、花楓ちゃんは少しだけ複雑そうな顔をした。
「それはそれで、なんか違う気もします」
「どっちだよ」
「ちゃんと、受け取ってあげてください」
それは、いつもの柔らかい花楓ちゃんの口調なのに、少しだけ真面目だった。
その言葉が、妙に胸に残る。
「……わかった」
短くそう返すのが精一杯だった。
そこで今度こそ、本当に別れた。
花楓ちゃんと鹿野さんは、みなとみらいの方へ向かうらしく、JRの改札の方へ歩いていく。
その後ろ姿を見送ってから、俺は紙袋を持ち直した。
高島屋の外に出ると、夕方の冷たい空気が頬に触れる。
横浜駅前の雑踏は相変わらず賑やかで、どこか浮ついていた。
俺はその流れの中を、東急線の改札へ向かって歩く。
目黒に戻るためだ。
明日は田園調布。
親戚の集まり。
そして十四日は、たぶん、世間一般で言うバレンタインの余韻。
階段を下りてホームへ向かいながら、ふとポケットのスマホに触れる。
のどかと卯月。
二人の名前が、意識しなくても浮かんでくる。
——二人とも、この前、チョコ買ってました。
花楓ちゃんのその言葉が、頭の中で何度も反響していた。
(ほんとに、そろそろなのかもな)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
嬉しいとか、怖いとか、そういう簡単な言葉では片づけられない。
ただ、今まで曖昧にしてきたものが、確実に形を持ち始めている。
それだけは、もう見ないふりができなかった。
東横線のホームに滑り込んできた電車の風が、コートの裾を揺らした。
俺はそのまま車内に乗り込み、ドアの横に立つ。
窓に映る自分の顔は、少しだけ困ったように見えた。
でも、その奥に、ほんの少しだけ期待している顔も混ざっていた。
登場人物紹介
名前 加西虎之介『かさいとらのすけ』
身長 190cm
誕生日 5月6日(※オリジナル設定)
咲太が講師を務めている塾に通う生徒のひとりで、190センチ近い長身でバスケットボール部に所属しており、国見佑真の後輩でもあります。
姫路紗良とはひとつ年上の幼馴染で、以前は周囲から恋人同士のように見られていた関係でもありました。
しかし現在、彼自身は、塾講師である双葉理央に想いを寄せています。
これまでに一度、理央へ告白していますが、「生徒とは付き合えない」という理由で断られています。
その際に咲太から助言を受け、自身の志望校である東京工業大学に合格した後に、改めて再考してほしいという形で区切りをつけています。
部活、勉強、恋愛、人間関係のどれに対しても真摯に向き合う、実直で真面目な性格の持ち主で、体格の大きさから頼りがいのある印象を持たれることも多いですが、内面は不器用でまっすぐな努力家でもあります。
蓮真とは、彼が高校三年生の体育祭の際に初めて顔を合わせています。それ以前から国見佑真を通じて「頼れるバスケ部の後輩」として話を聞いていたこともあり、蓮真は虎之介の誠実な人柄に好感を抱いています。
現在は、東工大合格という目標と理央への想い、その両方を胸に努力を続けている等身大の高校生と言えます。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月