青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
二月十二日
目黒線を降りて、田園調布の駅前に出ると、冬の空気は思ったよりも澄んでいた。
駅前の整った街並みは、昔とほとんど変わっていないように見える。
いや、変わっていないのは街の方で、変わったのはたぶん、こっちだ。
紙袋を持ち直して、俺は祖母の家へ向かって歩き出した。
横浜で買った手土産の重みが、指先にじんわり残っている。
今日は、母の誕生日だ。
もう、この世にはいない人の誕生日。
それでも毎年、母方の親戚が集まる。
子どもの頃は、それを不思議だとも思わなかった。
大人たちが集まって、食事をして、母の話を少しだけして、帰る。
そういう日なのだと、ただ受け止めていた。
けれど、大学生になってからこの集まりに来るのは、今日が初めてだった。
高校に入ってからは、なんだかんだ理由をつけて外してきたこともあったし、向こうも無理に呼ばなかった。
昔ほど呼ばれなくなった、という方が正確かもしれない。
祖母の家の前で、一度だけ足を止める。
見慣れた門扉。
手入れの行き届いた庭木。
玄関先に置かれた鉢植え。
子どもの頃と変わらない景色のはずなのに、今日は妙によそよそしく見えた。
インターホンを押す。
少しして、祖母が出てきた。
「蓮真」
驚いたような、でもどこかほっとしたような声だった。
「いらっしゃい」
「久しぶり」
「よく来たね」
その一言に、少しだけ肩の力が抜ける。
玄関に上がって、靴を脱ぐ。
家の中には、すでに何人か親戚が集まっているらしかった。
廊下の奥から、食器の触れ合う音と、低い話し声が聞こえる。
祖母に促されて居間へ入ると、何人かの視線がこちらに向いた。
叔母、叔父。その奥に、従姉妹の姿も見える。
久しぶり、という言葉は一応交わされる。
けれど、そこには手放しの歓迎みたいなものはなかった。
俺が来たこと自体を拒まれているわけではない。
でも、そこに自然に溶け込めるほど柔らかい空気でもない。
「これ、手土産」
そう言って紙袋を差し出すと、祖母が受け取った。
「気を遣わなくてよかったのに」
「そういうわけにもいかないだろ」
「そうだね」
祖母だけが、昔と同じ調子で笑ってくれた。
居間のテーブルには、すでに料理が並び始めていた。
煮物に、焼き魚に、取り皿が人数分。
昔から変わらない、母方の家の食卓だった。
ただ、一人分だけ、最初から欠けている席があるような気がしてしまう。
「お父さんは?」
誰かが、悪気なく聞いた。
たぶん叔母だったと思う。
その瞬間、部屋の空気が、ほんの少しだけ止まる。
「来ないよ」
俺がそう答えると、短い沈黙が落ちた。
誰も露骨な顔はしない。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
(ああ、やっぱりそうなんだな……)
そう思う。
父は、今日も来ない。
そして、そのことを自然なこととして受け取れるほど、この場はもう丸く収まっていない。
母が倒れたあの日、父は出張で家にいなかった。
それ自体は、父のせいではない。
理屈では、そうだ。
けれど理屈とは別のところで、母方の親戚はずっと父にわだかまりを持ち続けている。
もっと早く帰れなかったのか。
もっと家庭を見ていなかったのか。
もっと、何かできたんじゃないか。
そういう「もしも」が、数年以上たった今でも、この家のどこかに残っている。
そしてその空気の中に、俺もいる。
それでも、俺と父の関係は縁が切れているわけじゃない。
今も生活費は送られてくるし、学費だって問題なく払ってくれた。
少なくとも、金銭的に困らされたことは一度もない。
そこに関しては、感謝している。
(……たぶん、父さんなりの責任の取り方なんだよな)
あの日、家にいなかったこと。
その後も、うまく俺を支えられなかったこと。
それら全部に対する。
だから、責める気はもうない。
責めたところで、何かが戻るわけでもないし。
戻らないものを前提にして、生きていくしかないことも、もうわかっている。
中学に入って、環境に馴染めなくなって。
家にも、学校にも居場所がなくなって。
それでも生活は続いていく。
父は忙しかったし、母方の親戚とは距離があった。
結果として、俺は一人でいる時間が増えていった。
それが決定的になったのは、あの時だった気がする。
——死のうとした日。
やり方も、場所も、今はもうはっきり思い出せない。
ただ、机の上に広げていたノートを閉じて、深く息を吐いた瞬間に、妙に静かな気持ちになったのだけは覚えている。
怖さも、不安も、後悔も。
全部が一度、遠くに行ったみたいに消えて。
その代わりに残ったのは、
——ああ、もういいか。
という、諦めに近い感覚だった。
死ねなかった、というより。
死ななかった、の方が近い。
それで何かが解決したわけじゃない。
でも、その日を境に、少しだけ踏ん切りはついた。
期待しすぎないこと。
失ったものを、取り戻そうとしないこと。
戻らない前提で、生きていくこと。
そういう線引きが、自分の中にできた。
だから、今の父との関係も、そこまで悪くはない。
近くもないけど、遠すぎもしない。
必要な分だけ繋がっている、という感じだ。
それでいいと思っている。
席について、出されたお茶に口をつける。
少しぬるかった。
ふと、卓上の小さな花瓶が目に入る。
白い花が活けてある。
花の名前まではわからない。
でも、その白さを見た瞬間、胸の奥にひっかかるものがあった。
母がいた頃、この家はもう少し明るかった気がする。
笑い声が、もう少し自然に混じっていた気がする。
そう思ったところで、不意に別の記憶が浮かぶ。
三月二十日。
俺の誕生日。
小学五年生だった、あの年。
あの日の夕方、家にはちゃんと父も母もいた。
大きなケーキがあって、部屋の明かりを少し落として、母が笑いながらろうそくに火をつけていた。
父も、その日は珍しく早く帰ってきていて、写真まで撮っていた。
プレゼントが何だったかは、もう曖昧だ。
でも、母が「蓮真、おめでとう」と笑った顔だけは、今でもはっきり思い出せる。
あの日が、たぶん最後だった。
家族三人で、ちゃんと幸せだった記憶。
その十日あまり後、四月一日。
春休みの終わり。
母は俺の目の前で倒れた。
あまりにも唐突だった。
何が起きたのか理解できないまま、名前を呼んで、肩を揺らして、でも返事はなくて。
救急車の音も、大人たちの声も、白い天井も、全部が切れ切れの記憶になっている。
急性心臓病だったと知ったのは、そのあとだ。
助けられなかった、という事実だけが、遅れて現実になった。
「蓮真?」
祖母の声で、意識が戻る。
気づけば、湯呑みを持つ手に少し力が入っていた。
「……ごめん」
「疲れてる?」
「いや、平気」
そう答えると、祖母はそれ以上は聞かなかった。
その優しさが、ありがたいようで、少しだけつらい。
食事が始まってからも、会話はどこかぎこちなかった。
従姉妹が就職の話をして、叔母が最近の仕事の話をして、祖母がそれに相槌を打つ。
話題は一応流れていく。
けれど、どこかで全員が、触れないようにしているものがあるのがわかる。
俺も、その一部だった。
「蓮真は、今は横浜なんだっけ」
従姉妹が言う。
「うん」
「大学、横市だって聞いたよ」
「まあ、一応」
「立派になったわね」
叔母がそう言った。
その言葉に、どう返せばいいのか一瞬わからなかった。
立派。
その言葉は、今の俺には少しだけ遠い。
大学に行って、一人暮らしをして。
たしかに、外から見ればそれなりにまっすぐ生きてきたように見えるのかもしれない。
けれど、その途中は、そんなにきれいなものじゃなかった。
名門中学に受かったことだって、当時は周りから褒められた。
母が生きていた頃から頑張ってきた結果だ、と。
でも入ってみれば、俺は全然馴染めなかった。
周りは普通にできることが、自分にはうまくできない。
空気の読み方も、距離の取り方も、何を話せばいいのかもわからない。
少しずつ学校から遠ざかっていって、不登校気味になった。
父は仕事でいっぱいいっぱいだった。
母方の親戚に頼れる空気でもなかった。
そしてある時、父は言った。
「……一度、自分の力で立ち直ってみないか」
あれは、突き放したかったわけじゃない。
たぶん父なりに、俺が楽になる道を考えたのだと思う。
でも当時の俺には、それがひどく心細く聞こえた。
母はいない。
父も余裕がない。
親戚も遠い。
学校にも居場所がない。
その上で一人になれと言われたとき、心のどこかで何かが決定的に軋んだ。
あの頃からだ。
選ばなかった可能性のことばかり考えるようになったのは。
あの時こうしていれば。
違う中学に行っていれば。
母があの日倒れなければ。
父が家にいれば。
俺がもっと何かできていれば。
そんな「もしも」が、際限なく頭の中に増えていった。
今ならわかる。
あれが、思春期症候群の始まりだったんだと思う。
けれど、それをこの場で言葉にするつもりはなかった。
そんなものを説明したところで、誰にも届かない気がしたし、届いたところで、余計に何かがずれるだけな気がした。
食事が一段落した頃、祖母が小さなケーキを出してきた。
母の誕生日だから、と毎年用意しているものだ。
派手ではない、シンプルなショートケーキだった。
その白さを見た瞬間、また胸の奥がざわつく。
三月二十日のケーキ。
母の笑顔。
そのあとに来た四月一日。
幸せだった記憶と、喪失の記憶が、頭の中で分けられないまま重なっていく。
俺はフォークを持ったまま、一瞬だけ動けなくなった。
——幸せな時間は、壊れる前触れだ。
言葉にならない形で、そんな感覚だけが胸の内に広がる。
「蓮真?」
また祖母の声がする。
「……大丈夫」
小さくそう返して、ようやくケーキを口に運んだ。
甘かった。
でも、その甘さは少しだけ遠かった。
帰り際、祖母が玄関まで見送りに来た。
「今日は来てくれてよかった」
「うん」
「また、顔出しなさい」
その言葉に、すぐには返事ができなかった。
でも、少しだけ間を置いてから、
「……考えとく」
とだけ答えた。
外に出ると、夜の空気は冷たかった。
田園調布の静かな住宅街には、駅前のような喧騒はない。
整いすぎた静けさの中を、一人で駅へ向かって歩く。
ポケットの中でスマホが触れる。
十四日まで、あと二日。
のどかと卯月。
二人の名前を思い浮かべたところで、胸の奥にまたあの感覚が戻ってきた。
期待と、恐れ。
嬉しさと、嫌な予感。
どちらかひとつじゃないからこそ、余計に厄介だった。
手を伸ばしたい気持ちは、ちゃんとある。
でも、手に入れたものはいつか失うと、俺はもう知ってしまっている。
だから最初から触れない方がましだと、どこかの自分が、今でも小さく囁いてくる。
そうやって選ばずに、選べずに残したものが、あとから何度も現実に追いついてくることも。
その時、ポケットの中で、スマホが震えた。
取り出して画面を見ると、《きっしー観察会》の通知が表示されている。
(……来たか)
そんな感覚が、どこかにあった。
開く。
最初に表示されたのは、卯月のメッセージだった。
《きっしー!十四日って藤沢にいる?》
指が止まる。
ほんの一瞬だけ、画面を見たまま動けなくなる。
頭の中で予定をなぞる。
明日は夕方からファミレスのバイト。
だから一度藤沢に戻る。
十四日は午前中、大学でボランティアの手伝い。
終わるのは昼過ぎ。
だから夕方からなら、空いている。
そう確認した瞬間、自分で自分の逃げ道を塞いだ気がした。
《夕方からならいる》
短く打って送る。
すぐに既読がついた。
間を置かず、次のメッセージが届く。
のどかだった。
《夜ご飯、咲太の家で食べるからさ》
《蓮真も来なよ》
一行、空いて。
《チョコ、渡したいし》
指先が、ほんの少しだけ止まる。
視線が、画面から外れそうになる。
けれど、そのまま戻す。
既読はついたままだ。
逃げるには、遅い。
さらに卯月のメッセージが重なる。
《私も行くよ!》
《その日お父さんとお母さんの結婚記念日だから、邪魔しちゃ悪いし、麻衣さん家にお邪魔しまーす!》
(……空気を読んでるのか、読んでないんだか)
いや、たぶん読んだ上で、こうなんだ。
卯月はそういうやつだ。
少しだけ息を吐く。
《わかった、行くよ》
それだけ送る。
送信ボタンを押したあとで、気づく。
これはただの約束じゃない。
ただの食事でもない。
十四日。
バレンタイン。
そして、あの二人。
「逃げ場は、もうないな……」
そう思った瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
高校の頃も、大学に入ってからも、ここまで立ち止まることはなかった。
人と関わること自体が、はじめから怖かったわけじゃない。
そして、誰かのために動くこと自体は、もう難しくない。
少なくとも、今の俺にとっては。
最初から、そうだったわけじゃないけど。
中学のときだ。
不登校が明けて、あのループも終わった直後。
転校先で、最初に話しかけてきたのが赤城だった。
あいつに引っ張られるみたいに、生徒会に入って、仕事を覚えて、一緒に動くようになった。
あの頃の俺は、誰かのために動いていた……というよりただ必死だった。
ちゃんと馴染まなきゃいけない。
浮いちゃいけない。
ひとりになっちゃいけない。
そんなことばかり考えていた。
だからたぶん、赤城のことも、ちゃんと見えていなかったんだと思う。
向けられていたものに、気づく余裕がなかった。
高校に入ってからは、少しだけ落ち着いた。
無理に誰かに合わせなくても、静かにしていれば、日常は続いていく。
そう思えるくらいには。
でも……あの日、バニーガール姿の麻衣先輩を見かけてから、また変わった。
避けていたはずの思春期症候群と、もう一度関わることになった。
最初は、ただの介添え人だった。
必要なときに隣にいて、見て、記録して、少しだけ手を貸す。
それだけのはずだったのに。
気づけば、咲太に古賀、双葉や国見と関わって。
そして、のどかと卯月と出会って。
見ている側にいることが、当たり前になっていた。
高三になる頃には、もっとはっきりしていた。
浜松さんや米山さんの件でも、自然と動いていた。
どこかで、咲太のやり方をなぞるみたいに。
同じことができているわけじゃないまま、それでも、自分から関わって、解いて、終わらせる側に立っていた。
大学に入ってからは、それがもっと広がった。
思春期症候群とか関係なく、ボランティアで子どもを見るようになって。
ただ“必要だから動く”っていうことに、抵抗がなくなっていった。
だから、誰かのために動くこと自体は、もう大丈夫なんだと思う。
頼まれれば動けるし、必要なら自分から手を伸ばすこともできる。
それは、ちゃんとできる。
……でも。
(自分のことになると、別なんだよな)
心の中で、ひとつだけ言葉が落ちる。
誰かのためなら、迷わずに動けるのに。
自分が何を選ぶか、そういう話になると、途端に足が止まる。
自分でも、少し過剰だとは思う。
でも、ここだけは昔からうまく扱えない。
手を伸ばした先にあるものが、いつか失われる未来まで、見えてしまうから。
気づけば、電車はもうホームに入っていた。
横浜行きの電車のドアが開く音が、やけに大きく響いた。
二月十三日
午前中、机の上に、ノートとプリントを広げていた。
窓の外はよく晴れていた。
冬の光は強いのに、空気は冷たくて、部屋の中との温度差がどこか現実感をぼやかす。
ペンを持ったまま、一度だけ手を止める。
(……やるか)
小さく息を吐いて、視線をプリントに落とした。
明日の学習支援ボランティア。
普段と同じようで、少しだけ違う。
今朝、赤城から連絡が来ていた。
《明日のボランティア、友部さんも来るって》
それだけじゃなく、続けてもう一文。
《今後のやり方について、話したいらしくて》
(……やり方、ね)
ボランティアの内容自体は変わらない。
不登校になった中学生や、地元の子供達の勉強を見るだけの、シンプルなものだ。
けれど、やり方となると話は別だ。
誰が中心になるのか。
どこまで関わるのか。
どこまで責任を持つのか。
そういう話になる可能性がある。
ノートに軽く目を通しながら、赤城のもう一つのメッセージを思い出す。
《あとね、私、来年度から福浦キャンパスになるから》
八景島シーパラダイスの近く。
横浜市大の理系キャンパス。
(ああ、そういう時期か)
学年が上がれば、環境は変わる。
場所も、時間も、人も。
当たり前のことだ。
それでも、少しずつ、離れていくんだなと、どこかで思う。
赤城と顔を合わせる機会も、今よりは減るだろう。
ボランティアのやり方も、変わるかもしれない。
今までと同じ距離でいられる保証は、どこにもない。
ペン先が、紙の上で止まる。
(変わるのは、当たり前だ)
頭では理解している。
むしろ、変わらない方がおかしい。
それでも、変わらなかったら、って思う自分もいる。
その感覚に、少しだけ既視感があった。
選ばなかった可能性。
変わらなかった未来。
もしも、という前提。
(またか……)
小さく苦笑する。
こういう思考は、意識しなくても入り込んでくる。
ノートを閉じて、もう一度深く息を吐く。
明日のことを考える。
友部さんは花楓ちゃんの中学時代のスクールカウンセラーで、今でもたまにファミレスに花楓ちゃんの容姿を見にきてくれる。
俺たちの学習支援ボランティアも偶に手助けしてくれる、赤城よりも一歩外側から全体を見ている人だ。
(話し合い、ね)
単なる確認で終わる気もするし、
何かを決める場になる可能性もある。
どちらにせよ、今のままでいられる時間が、そう長くないのは確かだから。
ボランティアの準備が一通り終わった後、俺はファミレスのシフトに向かった。
夕方、いつもより少しだけ早めに店に入ると、厨房の奥から聞き慣れた声がした。
「あ、きっしー先輩」
顔を出した古賀が、軽く手を振る。
その隣で、姫路さんがエプロンの紐を結びながらこちらを見た。
「おはようございます、蓮真先生」
「……ファミレスのバイト中に先生はやめてくれ」
「じゃあ、蓮真先輩?」
「それもなんか違うな……」
そんなやり取りをしながら、ロッカーに荷物を置く。
いつもの制服に着替えて、ホールに出ると、店内はまだ落ち着いていた。
夕食のピークには少し早い時間帯。
窓際の席に数組の客がいるくらいで、静かなものだ。
「はい、これ」
バックヤードに戻ったところで、古賀が小さな箱を差し出してきた。
「ん?」
「バレンタイン。義理だけど」
「ああ、そうか」
今日は十三日。
明日は俺は、シフトに入っていない。
「ありがと」
受け取ると、すぐ横からもう一つ差し出される。
「私からもです」
姫路さんだった。
「え、いいのか?」
「もちろんです。お返し、期待してますので」
「対照的だな……」
古賀は肩をすくめる。
「あたしはいいよ別に。気にしなくていいから」
「いや、そういうわけにもいかないだろ」
少し考えてから、「駅前のシュークリームでいいか?」と言うと、二人とも一瞬だけ顔を見合わせて、「いいね、それ」、「嬉しいです」と、素直に頷いた。
(ああ、この感じ)
特別でもなんでもない、ただのやり取り。
でも、こういう時間があることに、どこか安心する。
そのままホールに出て、注文を取って、料理を運ぶ。
いつもと変わらない流れ。
いつもと同じ動き。
それなのに、頭のどこかで別のことを考えている自分がいる。
十四日。
のどかと卯月。
あのメッセージ。
(……まあ、考えても仕方ないか)
今は仕事中だ。
そう割り切って、目の前の注文票に意識を戻す。
ピークに差し掛かる頃、入口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
反射的に声を出して顔を上げると、見覚えのある二人組が立っていた。
「あれ、岸和田じゃん」
大津だった。
その隣には浜松さんの姿もある。
「また来たのか。来るのはいいけど、ちゃんと客として来いよ」
「来てるじゃん、客として」
そう言いながら、二人は適当な席に座る。
注文を取りに行くと、浜松さんがにやっと笑った。
「岸和田くん、これ貰ってくれる?」
「はい岸和田、私からも」
差し出されたのは、小さなチョコの袋だった。
「……お前らまでか」
「バレンタインだから」
「義理だけど」
「わざわざ言うな」
受け取りながらため息をつく。
今日だけで四つ目。
別に困るわけじゃないけど、なんとなく落ち着かない。
「モテるねぇ、岸和田」
「やめろ」
適当に返して、そのまま注文を確認する。
これ以上突っ込まれる前に、さっさとその場を離れた。
閉店時間が近づいて、店内も落ち着いてきた。
最後の片付けを終えて、バックヤードの椅子に腰を下ろす。
ようやく一息つける時間だった。
「お疲れ様です」
姫路さんが隣に座る。
少し遅れて、古賀も向かいに腰を下ろした。
「きっしー先輩」
古賀がニヤっとする。
「なんだよ」
「明日、楽しみじゃないの?」
「楽しみって、何が?」
わかっていないわけじゃない。
でも、あえて聞き返す。
古賀はわざとらしく肩をすくめた。
「だってさ、豊浜さんとづっきーからチョコもらえるかもじゃん」
「……」
言葉が一瞬止まる。
姫路さんがすかさず乗っかる。
「そうですよ、蓮真先生」
「だから先生はやめろって」
「いいじゃないですか。そういう雰囲気ですし」
「どういう雰囲気だよ」
姫路さんがくすっと笑う。
「周りから見たら、そう見えるってことですよ」
「……」
その言葉に、何も返せなかった。
(やっぱり、そう見えるよな)
のどかと卯月。
あの距離感。
あの関係。
第三者から見れば、どう見えるかなんて、考えるまでもない。
でも……
(……それでいいのか)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
楽しみか、と聞かれれば、嘘ではない。
嬉しいか、と聞かれれば、それも嘘ではない。
でも同時に、逃げ出したくなるような感覚も、確かにある。
「……まあ」
小さく息を吐いて、「楽しみじゃない、って言ったら嘘になるな」と答えると、古賀が「でしょ?」と満足そうに笑った。
姫路さんも、どこか納得したように頷く。
その光景を見ながら、「逃げ場、ほんとにないな……」と、心の中で呟く。
でも、もういいか、とも思う。
選ばないままでいるよりは、選ぶしかない場所に立たされている方が、
まだましなのかもしれない。
休憩室の時計が、静かに秒を刻んでいた。
二月十四日
朝の空気は、昨日より少しだけやわらかかった。
大学へ向かう道を歩きながら、ポケットの中のスマホが妙に気になった。
まだ朝だというのに、今日は一日が最初から落ち着かない。
のどかと卯月に会うのは夕方から。
それまでは、いつも通りでいればいい。
そう思っても、胸の奥のざわつきまでは、うまく静かになってくれなかった。
ボランティアの会場は、大学のYCUスクエアのスチューデントオフィスだ。
放課後や休日に、不登校で勉強が遅れがちな子どもたちを見るための、簡単な学習支援。
扉を開けると、先に来ていた赤城がこちらに気づいて「おはよう、岸和田くん」と言ってくる
「おはよう」
その隣には、上里もいた。
「おはよ、岸和田くん」
「おはよう、上里さん」
机の上には、すでに教材や筆記用具が並べられている。
奥では、友部さんが資料を整理していた。
落ち着いた色のカーディガンを羽織りながら。
いつ見ても、声を荒げるところが想像できない人だった。
「おはようございます、岸和田くん」
「おはようございます、友部さん」
軽く会釈を返すと、友部さんは穏やかに微笑んだ。
「今日は少し人数が多いかもしれません。地元の小学生も来るそうなので」
「了解です」
そう返しながら鞄を下ろす。
少しして、いつもの中学生たちがやって来た。
男子が二人、女子が一人。何度か顔を合わせているからか、最初の頃みたいなぎこちなさはもうない。
「うわ、蓮真先生今日もいる」
「いたら悪いのかよ」
「いや、数学聞けるから助かる」
そんな軽口を叩きながら席に着く。
さらに少し遅れて、小学生も入ってきた。
赤城が「こっちの席どうぞ」とやさしく案内している。
上里もすぐ隣で「筆箱ある?」「わかんないとこあったら言って」と、自然に声をかけていた。
その様子を見て、やっぱり二人ともこういう場に向いてるんだろうな、と思った。
全員が揃ったところで、赤城が小さく手を叩く。
「じゃあ、今日もはじめようか」
それぞれが教材を開いて、部屋の中に紙をめくる音と鉛筆の音が広がっていく。
そんな流れの中で、赤城が「あ、そうだ」と思い出したように声を上げた。
「岸和田くん、これ」
小さな包みを差し出してくる。
「ん?」
「バレンタイン」
その隣で、上里も少し笑いながら包みを出した。
「はい、岸和田くん。私からも」
見ると、二人とも包みは小さいけれど、形が微妙に違っていた。
赤城の方はいかにも手作りっぽい不揃いなチョコで、上里の方は少しだけ整っている。
「……ありがとう」
受け取りながら言うと、赤城が肩をすくめる。
「種類ばらばらになっちゃったんだけどね」
「郁実、途中から味見しすぎだって」
上里があっさり言って、赤城が「沙希、それは言わないでよ」と返す。
思わず少し笑った。
「でも、ありがとな。助かる」
「何が助かるなの?」
赤城が怪訝そうな顔をする。
「いや、今日これでゼロじゃなくなったから」
そう言うと、赤城も上里も一瞬きょとんとしてから、「なにそれ」と笑った。
午前中の時間は、思ったより慌ただしく過ぎた。
中学生の男子の片方が英語の並べ替えで詰まり、もう片方が数学の一次関数で止まり、小学生は算数の文章題で首を傾げる。
机を移動して、順番に見る。
「これ、何を聞かれてると思う?」
「……えっと、りんごが何個残るか?」
「そう。じゃあ足すのか引くのか、どっちだ?」
そんなふうに、一つずつほどいていく。
教えるというより、少し先を照らす感じに近い。
自分でも、塾で代打をした時と似た感覚だなと思った。
赤城は女の子に国語を見ていて、上里は小学生の横で「これ、式は合ってるよ」「惜しい、あと一歩」とテンポよく声をかけていた。
友部さんは、全体を見ながら、ときどき自然なタイミングで口を挟む。
直接答えを言わずに、その子がどこで止まっているのかを見抜いて、そこだけ整えていく。
さすが、という感じだった。
休憩を挟んだあと、子どもたちが少し雑談モードに入った頃、友部さんが俺のところへ来た。
「岸和田くん、少しいいですか」
「はい」
窓際の方へ移動すると、友部さんは子どもたちの様子を目で追いながら、静かな声で言った。
「来年度のことなんですが」
やっぱりその話か、と思う。
「赤城さんも上里さんも、四月から福浦キャンパスになりますよね」
「はい」
「そうすると、今みたいな形で毎回こちらに来るのは難しくなると思います」
友部さんの言葉はやわらかいのに、曖昧ではなかった。
「なので、もし岸和田くんがよければ、来年度からは私と岸和田くんを中心に、この場を回していけないかと思っているんです」
一瞬だけ、言葉が止まる。
思っていたより、ちゃんと頼られている言い方だったからだ。
「……俺でいいんですか」
聞き返すと、友部さんは少しだけ笑った。
「岸和田くんがいいと思うんです」
「子どもたちへの距離の取り方も、勉強の見方も、落ち着いていますから」
「赤城さんのような柔らかさとは少し違いますけど、岸和田くんには岸和田くんの良さがあります」
正面からそう言われると、少しだけ困る。
まだ自分の中で、そこまで確信を持てていないからだ。
けれど、断る理由もなかった。
「……わかりました。やってみます」
そう答えると、友部さんは小さく頷いた。
「ありがとうございます。助かります」
その会話が終わる頃には、赤城もこちらを見ていた。
何となく事情を察したらしい。
「岸和田くん、引き受けてくれた?」
「まあ、そんな感じだな」
そう返すと、赤城は少しだけほっとしたように笑った。
上里も「それなら安心かな」と、自然に言った。
片付けもだいたい終わって、机の上の教材をまとめていた時だった。
友部さんが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば岸和田くん」
「はい」
「この間、花楓さんから聞いたんですけど……咲太くん、怪我をしたんですって?」
一瞬だけ、手が止まる。
「ああ」
プリントを揃えながら、軽く頷いた。
「頭を少し打っただけで、大事にはならなかったですよ」
「そうでしたか」
友部さんは、ほっとしたように息をついた。
「花楓さん、あまり詳しくは言わなかったけど、少し心配していたから」
その声を聞いて、赤城が顔を上げる。
「梓川くん、今は大丈夫なの?」
「たぶん、もう普通に動けるよ」
そう答えてから、少しだけ考える。
今日の咲太は、たしか夕方からファミレスのシフトに入るとシフト表には書いてあったはずだ。
「……それなら」
自然に、口が動いていた。
「このあと、あいつのバイト先行きますか?」
赤城がきょとんとする。
「え?」
「咲太、今日なら十五時くらいからファミレスのシフトに入ってるはずなんで」
「ああ、そっか」
赤城は納得したように頷いた。
「それなら顔見られるね」
その声音には、ちょっとした安心が混じっていた。
やっぱり赤城も、咲太のことは気にしていたのだろう。
友部さんも「それはいいかもしれませんね」と、穏やかに微笑む。
その横で、上里が腕時計に目を落とした。
「あ、ごめん。私はこのあと予定あるんだ」
「予定?」
赤城が聞くと、上里は少しだけ肩をすくめた。
「千春と明日香と出かける約束してて」
その名前に、少しだけ記憶を探る。
千春さんと明日香さん。
前に、俺も合コンで顔を合わせたことがある二人だ。
「ああ……」
小さく頷く。
上里はそれ以上詳しくは言わず、鞄を肩にかけ直した。
「だから、私はここで抜けるね」
「そっか。じゃあ、またね沙希」
赤城が手を振ると、上里も軽く振り返す。
「うん。またね郁実」
それから俺の方を見て、
「岸和田くんも、頑張って」
と、少しだけ意味深に笑った。
「何をだよ」
そう返しても、上里は答えずに、そのまま部屋を出ていく。
閉まった扉を見ながら、内心でひとつだけ思う。
(……まあ、上里は咲太と仲悪いしな)
いや、仲が悪いというより、あいつ相手だと妙に温度が低いというか、相性が微妙なんだろう。
少なくとも、上里はわざわざ顔を見に行こうという側ではない。
それはそれで、上里らしい気もした。
俺たちも片付けを終えて、外に出る。
冬の午後の光は、午前中より少しだけやわらかくなっていた。
「じゃあ、梓川くんのところ行こっか」
赤城が言う。
「そうだな」
頷きながら、ポケットの中のスマホに少しだけ触れる。
今日の本番は、まだ先だ。
けれどその前に、こうして誰かの顔を見に行く予定がひとつ挟まるだけで、少しだけ呼吸がしやすくなる気がした。
赤城と友部さんと並んで、駅の方へ向かう。
咲太のいるファミレスへ。
午後の街は、夕方に向かう途中の少し曖昧な明るさをしていた。
改札へ向かう途中、駅前の人波の中に見覚えのある二人がいた。
先に気づいたのは赤城だった。
「あれ……福山くん?」
視線の先を見ると、福山と、その隣に岩見沢先輩が並んで歩いていた。
(……ちゃんと、岩見沢先輩見えてるな)
一瞬だけ、そんなことを思う。
以前なら、あの人はそこにいるのにいない側だった。
でも今は、普通に福山の隣に立っている。
それが、ほんの少しだけ安心だった。
「あ、赤城さん。それに岸和田も」
福山が気づいて、軽く手を上げる。
「この間はありがとう。北海道の件」
「あ……いえ、私は別に」
赤城は少し驚いたように目を瞬かせてから、いつもより少しだけ控えめに笑った。
その横で、岩見沢先輩が俺たちの並びを見て、小さく首を傾げる。
赤城が、思い出したように口を開いた。
「福山くん、岩見沢さん。こちら、友部さん。私たちのボランティア活動を手伝ってくれてる臨床心理士の先生」
「どうも」
軽く頭を下げると、友部さんも穏やかに会釈した。
「はじめまして。友部です」
「福山です」
福山が短く返して、岩見沢先輩もやわらかく笑う。
「はじめまして、岩見沢です」
初対面らしい、少しだけよそ行きの空気がそこにできる。
でも、それは長くは続かなかった。
福山が、俺の方を見たからだ。
「……で、なんで岸和田が赤城さんと一緒にいるんだ?」
その言い方は妙にまっすぐで、余計な含みがないぶん逆に返しづらい。
「一緒に、っていうか」
俺が言葉を探すより先に、赤城が答えた。
「ボランティア活動。一緒にやってるから」
「ああ、なるほど」
福山は一応納得したように頷いた。
でも、その視線が俺の手元に落ちる。
正確には、さっき赤城と上里からもらった小さな包み、チョコの入った袋に。
一拍置いてから、福山が言った。
「岸和田」
「なんだよ」
「豊浜さんと広川さんがいるのに、浮気か?」
「は?」
一瞬、意味がわからなくて聞き返す。
その横で岩見沢先輩が、くすっと笑った。
「拓海並みに罪な男ね、岸和田くん」
「いや、ちょっと待ってください」
思わず即座に否定が出る。
「これ、ただの義理ですから」
「そういうのが一番危ないのよ」
「そういうのじゃないです。普通にボランティアの帰りで……」
「ますます言い訳っぽく聞こえるな」
福山が真顔で言うので、余計に困る。
「お前、ほんとにそういうとこ不器用だよな」
「褒めてないだろ、それ」
「褒めてない」
即答だった。
岩見沢先輩はそんな俺たちのやり取りを見て、楽しそうに目を細めている。
「でも、岸和田くんって、そういうふうに周りの子を変にその気にさせそうではあるわよね」
「やめてくださいよ、風評被害がすごいんで」
「風評で済めばいいけど」
友部さんだけが、少し困ったように、それでもどこか面白がっているような表情で成り行きを見守っている。
「それで?」
岩見沢先輩が話を戻すように尋ねた。
「みんなでこれからどこへ?」
「梓川くんのバイト先に。顔を見に」
赤城が答える。
「ああ、そういうこと」
岩見沢先輩が納得したように頷く。
福山も、「俺もあとで梓川に電話してやるか」と少しだけ真面目な顔に戻った。
「そっちは?」
俺が聞くと、岩見沢先輩がちらっと福山を見る。
「私たちは、八景島シーパラダイス」
「デートですか」
「そうよ」
まったく隠す気のない返答だった。
その自然さに、俺は少しだけ言葉に詰まる。
「まあ、そういうこった」
「なによ、その歯切れの悪さ」
「悪い悪い」
岩見沢先輩が笑う。
その空気は軽くて、でもちゃんと親密だった。
福山と岩見沢先輩と別れたあと、俺たちは改札を抜けて、そのまま咲太のバイト先へ向かった。
藤沢駅に着く頃には、冬の午後は、夕方に変わりかける手前の、少しだけ輪郭の曖昧な明るさをしていた。
駅前を歩きながら、赤城がふっと息を吐く。
「なんか、すごいね」
「何が?」
「ううん……福山くんたち。普通に“デートです”って感じだったから」
「まあ、そうだな」
短く返しながらも、さっき見た二人の距離感が頭に残っていた。
ああいうのを、自然だと思えるのは、たぶん簡単なことじゃない。
友部さんは、そんな俺たちの間を歩きながら、少しだけ微笑んでいた。
「みなさん、ちゃんと前に進んでいるんですね」
その言い方は、誰かを羨む響きではなく、ただ静かに確かめるような声だった。
店の看板が見えてくる。
ガラス張りの入口の向こうには、いつものファミレスの光があった。
「あ」
赤城が小さく声を漏らす。
入口の近く、レジの奥で、見慣れた後ろ姿が動いていた。
黒いエプロンをつけた咲太だ。
自動ドアが開いて、店内に入る。
少し遅れて、咲太がこちらに気づいた。
ほんの一瞬だけ、目が細くなる。
それから営業用の顔に戻って、口を開いた。
「いらっしゃいませ」
そして、俺たち三人を見て、少しだけ首を傾げる。
「……珍しいですね」
意外な組み合わせというわけではないが、三人揃ってこの場に来るイメージを持っていなかったのだろう。率直な感想だった。
友部さんが、やわらかく言う。
「学習支援ボランティアの帰りなの。今後のことについても、赤城さんと岸和田くんとちょっと話しておきたくて」
答えてくれたのは友部さんだ。
俺たちは、窓際の席に案内され、「お決まりになりましたら、お知らせください」と、決まり文句を口にされ、咲太は一旦テーブルを離れた。
隣のテーブルでオーダーを取り、その隣のテーブルの食器を片付ける。
俺たちは、季節限定のいちごのパフェとこれまた季節限定のいちごのパンケーキ。あとドリンクバーのオーダーを頼む。
咲太がオーダーをうちに来てくれる。
「ご注文は以上でよろしいですか?」
咲太の確認に友部さんが「ええ」とやわらかく頷く。
「あと、三十分もしたら、花楓も来るので、会っていってあげてください」
端末を閉じてエプロンのポケットにしまいながら、咲太は友部さんにそう伝える。
「そうさせてもらうわね」
今度もやわらかく友部さんが微笑む。
俺の正面に座る赤城は、静かな視線を咲太に送っていた。
友部さんとやり取りをしている間ずっと、赤城の視線は咲太の横顔に注がれていた。
「学習支援のボランティアって、今日も大学でやってたのか?」
「そうだけど?」
咲太が突然話しかけても、赤城に驚いた様子はない。淡々と言葉を返してきた。
(赤城、咲太の前だとクールだよな……)
「そのあと、わざわざ藤沢まで来て、また赤城は横浜に帰るんだよな?」
「そうだね」
「面倒じゃないか?」
「咲太くん、今月のはじめに救急車で運ばれたでしょ?」
「その話、友部さんにも伝わっているんですね」
「私も気になっていたから、一緒に様子を見に来たのよ」
「なるほど」
「梓川くんが元気そうでよかった」
「心配かけて悪かったな。あの日も病院まで付き添ってくれて助かったよ」
「私は何もしてないよ」
そう言って、赤城が視線を逸らす。その直後その流れのまま、咲太がちらっと俺を見る。
「……ところで岸和田」
「なんだよ」
「僕のシフト、勝手に漏らすなよ」
「別に漏らしてないだろ」
即答だった。
「“この時間にいるはず”って言った時点で漏れてるんだよ」
そんなやりとりをしていると、「あ、そうだ」と、赤城が思い出したように呟く。
鞄に手を入れて、何かを取り出す。
出てきたのは小さな巾着袋。
「これ、梓川くんにあげる」
「今日、生徒のみんなに渡した余りだけど、もらって」
受け取ってしまったものを返却するのも変なので、「んじゃ、ありがたく」と、咲太はエプロンのポケットにしまった。
「来月、お礼とかはいいから」
「それ、くれって意味に聞こえるぞ?」
友部さんも同じように解釈したのか、笑いを堪えていた。
咲太が視線を少し下げる。
俺の手元、テーブルの端に置いたままの小さな袋に向けて。
「岸和田ももらったのか?」
「まあな」
「へえ」
興味なさそうな声のわりに、目だけは少しだけ細くなる。
「お前、どうせ今日、豊浜と広川さんからもらえるんだろ」
「……」
「だったら、ほどほどにしとけよ」
「お前に言われたくない」
即答だった。
咲太が、ほんの少しだけ肩をすくめる。
「僕は別に数で勝負してないからな」
「余計たち悪いだろ、それ」
軽く言い返してから、ふと思い出す。
「……そういえば」
「なんだよ」
「今日、俺、お前の家にお邪魔することになってるけど、いいのか?」
一瞬、咲太の動きが止まる。
「……は?」
「僕、そんな話聞いてないぞ。誰から聞いたんだよ?」
「のどか」
短く答える。
その瞬間、咲太が小さくため息をついた。
「あいつには、アイドルの自覚があるのかよ……」
「……それは確かに疑問だな」
呆れたように言ってから、少しだけ視線を外す。
「……まあ、いいけど。その代わり」
「なんだよ」
「僕と麻衣さんのディナーデートの邪魔はするなよ」
「何がディナーデートだ」
思わず即座に返す。
咲太はそれ以上何も言わず、軽く肩をすくめながら、「ま、ごゆっくり」と言い、フロアの仕事に戻った。
その背中を見送ってから、赤城が小さく息を吐く。
「……相変わらずだね、梓川くん」
「どのへんが?」
「全部」
短い返答だった。
友部さんが、くすっと笑う。
「でも、咲太くん元気そうでよかったです」
「それはそうですね」
俺も頷く。
大げさな怪我ではなかったとはいえ、こうして普通に働いている姿を見ると、やっぱり少し安心する。
ドリンクバーの氷が、グラスの中で小さく鳴った。
窓の外は、少しずつ夕方の色に寄っていく。
ファミレスの店内は昼と夜のあいだみたいな時間帯で、まだどこか落ち着いていた。
しばらくすると、入口の自動ドアが開いた。
見慣れた姿が店の中に入ってくる。
花楓ちゃんだった。
少しだけ店内を見回してから、窓際の俺たちに気づく。
「あ……」
ぱっと表情がやわらいだ。
「美和子先生」
花楓ちゃんは、まず友部さんのところへ来て、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
「こんにちは、花楓さん」
友部さんも穏やかに微笑む。
「元気そうでよかったです」
「はい。美和子先生も、お元気そうでよかったです」
そのやり取りは、久しぶりなのに変にぎこちなくなくて、ちゃんと時間が続いている感じがした。
友部さんに挨拶を終えると、花楓ちゃんは今度は赤城の方を向いた。
「あの……赤城さん」
「この間は、お兄ちゃ……」
一瞬だけ言い淀んでから、言い直す。
「兄の手当をしてくれて、ありがとうございます」
赤城は、少しだけ目を丸くしたあとで、静かに首を横に振った。
「ううん。梓川くんが無事でよかった」
それだけだったけど、花楓ちゃんにはちゃんと伝わったみたいで、ほっとしたように小さく笑った。
それから、花楓ちゃんがふいに俺を見る。
「そういえば、蓮真さん」
「ん?」
「今朝、のどかさんから聞いたんですけど……今日、ご飯食べに来るんですよね?」
思わず一瞬だけ言葉が止まる。
「……ああ、まあ」
曖昧に頷くと、花楓ちゃんは続けた。
「私、二十時までシフトなんです」
「そのあと、のどかさんと卯月さんと駅で待ち合わせて、一緒に行くので……」
少しだけ遠慮がちに、でもちゃんと誘う声で言う。
「蓮真さんも、一緒に行きませんか?」
その申し出は、ありがたいような、逃げ道がまたひとつ消えたような、なんとも言えない気分にさせた。
でも、ここで断る理由もない。
「……そうだな。一緒に行くよ」
そう答えると、花楓ちゃんは「はい」と嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、二十時に駅の方で」
「わかった」
そのやり取りを見ている赤城の横顔には、どこか静かなものが差していた。
うまくいってほしいと願っているようにも見えるし、少しだけ、自分だけがその場に取り残されていくのを見ているようにも見えた。
友部さんは何も言わず、でもやわらかい目でこちらを見ていた。
花楓ちゃんはもう一度軽く頭を下げてから、バックヤードの方へ向かっていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺はグラスに手を伸ばした。
冷えた飲み物が、喉をゆっくり落ちていく。
二十時。
またひとつ、時間が具体的になった。
のどかと卯月に会うまでの猶予が、数字を持って迫ってくる。
さっきまで少しだけ落ち着いていた胸の内が、またじわりと騒がしくなりはじめていた。
物語解説
今回は、二月十二日から十四日にかけての数日を通して、蓮真の内側にある「前へ進めなさ」を、はっきり描く回でした。
田園調布での親戚の集まりでは、母の不在と、そこから続いている父との距離、そして蓮真自身の思春期症候群の原点に触れています。
今の蓮真が、ただ優柔不断だから立ち止まっているのではなく、「手に入れたものは、いつか失う」という実感をすでに知ってしまっているからこそ、自分の幸せを選ぶ場面で足が止まる。今回はその感覚を書きたかった回でした。
一方で、後半はファミレスや学習支援ボランティア、郁実や花楓たちとのやり取りを通して、蓮真が日常の中ではちゃんと人に必要とされ、前に進めていることも描いています。
誰かのために動くことはできるのに、自分のことになると止まってしまう。そういう蓮真の歪さが、少しでも伝わっていれば嬉しいです。
そして、のどかと卯月。
周囲から見てももう十分特別に見えている関係なのに、当人だけがまだ曖昧なまま立ち尽くしている。その空気を、今回の終盤ではかなり意識して書きました。
バレンタイン前夜らしい甘さはあるはずなのに、蓮真の側にはまだそれを素直に受け取れない怖さがある。だからこそ、次の場面で何が起きるのか、自分でも楽しみにしています。
次回はいよいよ、二十時以降。
逃げ場がなくなった蓮真が、のどかと卯月にどう向き合うのかを書いていきます。
次回も、ぜひお付き合いください。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月