青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
二月十四日
部屋に戻ると、外の冷たい空気が嘘みたいに、室内は静かだった。
ドアを閉めた音だけが、やけに大きく響く。
しばらく、その場に立ったまま動かなかった。
手に持っていた紙袋の存在に気づいて、ようやくコートを脱ぐ。
椅子の背にかけて、テーブルの上にそれを置いた。
その隣に、小さな包みを並べる。
赤城と上里からもらったチョコ。
視線が、自然とそこに落ちる。
少しだけ迷ってから、手に取った。
軽い。でも、軽いだけじゃない重さがある。
包装は簡素で、けれど雑ではない。
どこか不揃いで、それでも丁寧に整えようとした跡が残っている。
赤城らしいな、と思う。
上里の方は、少しだけ形が整っていて、でも完全に綺麗なわけでもない。
その中間みたいなところが、あいつらしい。
(……こういうの、ちゃんとやるんだよな)
小さく息を吐く。
そのままキッチンに向かって、冷蔵庫を開ける。
ひんやりとした空気が、顔に触れる。
中はほとんど空だった。
ペットボトルの水と、昨日の残り物。
生活感の薄い空間。
そこに、チョコをそっと置く。
少しだけ位置を整えてから、扉を閉めた。
軽い音がして、それだけでまた部屋は静かになる。
戻ってきて、ベッドに腰を下ろす。
そのまま、倒れるように背中を預けた。
天井が、白く広がっている。
視界に何もないのに、頭の中は静かじゃない。
今日一日の出来事が、遅れて浮かび上がってくる。
ボランティアのこと。
友部さんの言葉。
赤城と上里のやり取り。
咲太のいつも通りの顔。
花楓ちゃんの少しだけ遠慮がちな誘い。
そして……のどかと、卯月。
スマホを取り出して、時間を見る。
まだ二十時までは少しある。
それなのに、落ち着かない。
胸の奥が、ずっとざわついている。
楽しみと、不安。
嬉しさと、嫌な予感。
どちらか一方に寄ってくれれば楽なのに、どちらも同じくらいの重さで残っている。
目を閉じる。
暗闇の中で、浮かぶものがある。
のどかの横顔。
卯月の無邪気な笑い方。
二人とも、近い。
手を伸ばせば、届く距離にいる。
それが、怖い。
(……なんでだよ)
心の中で、誰に向けるでもなく呟く。
嬉しいはずなのに。
求めていたはずなのに。
それでも、どこかで足が止まる。
その理由は、もうわかっている。
わかっているからこそ、余計に厄介だった。
ゆっくりと目を開ける。
天井は変わらない。
でも、視線だけが、自然と部屋の隅に向く。
机。その引き出し。
普段は、ほとんど触らない場所。
意識して、見ないようにしていた場所。
しばらく、そのまま動かなかった。
行かなくてもいい理由はいくらでも浮かぶ。
今さら見返したところで、何かが変わるわけじゃない。
むしろ、余計なものを引きずり出すだけかもしれない。
今日という日に、わざわざそれをやる必要があるのか。
そうやって、言い訳はいくらでも並ぶ。
それでも。
(……このまま行く方が、たぶん違うよな)
ゆっくりと体を起こす。
ベッドから降りて、机の前に立つ。
引き出しに手をかける。
指先が、わずかに止まる。
そのまま、引いた。
中には、何冊かのノートが重なっている。
どれも同じような無地の表紙。
見分けがつかないくらい、似ている。
その一番上にある一冊を、手に取る。
軽い。
なのに、妙に手に残る。
ベッドに戻って、腰を下ろす。
ノートを開く。
最初のページ。
日付と、短い記述。
次のページも、その次も。
同じような構成で、淡々と続いている。
ただ、
同じ日付が、何度も繰り返されている。
三月三十一日。
三月三十一日。
三月三十一日。
書き方は少しずつ違う。
でも、内容は似ている。
選択。
分岐。
結果。
やり直し。
ページをめくる。
文字の密度が、少しずつ変わっていく。
最初の方は整っている。
後ろにいくほど、崩れていく。
線が重なっていたり、書き直した跡があったり。
言葉が途中で途切れているところもある。
さらにめくる。
文章ですらなくなっているページ。
単語だけが並んでいる。
{戻らないと}
{こんなの違う}
{選ばないし選べない}
{やり直したい}
{ここじゃない}
その下に、何度も引き直された線。
筆圧が、明らかに強くなっている。
そこで、手が止まる。
それ以上は、見なくてもわかる。
ノートを、静かに閉じた。
思い出す必要はなかった。
見れば、勝手に戻ってくる。
あの時の感覚も。
選ばなかった可能性が、現実に干渉してくる感覚も。
終わらない繰り返しも。
そして、最後に、全部を手放そうとしたあの瞬間も。
机の上にノートを置くことはせず、そのまま手に持ったまま俯く。
(……あの時)
あの時、俺は何を考えていたのか。
何を選ぼうとしたのか。
思い出そうとすると、輪郭だけが浮かんで、細部はぼやける。
ただ、
ああ、もういいか、と思ったあの感覚だけは、はっきり残っている。
全部を手放すことに、妙な納得があった。
それが、怖かった。
今の自分は、あの頃とは違う。
あのループは終わった。
少なくとも、そう思っていた。
でも……
(……本当に、終わってるのか)
頭のどこかで、声がする。
のどかと卯月。
二人の存在。
手を伸ばしたくなる距離。
そして、失う未来まで見えてしまう感覚。
あの頃と、完全に切り離せているわけじゃない。
むしろ、繋がっている。
だからこそ。
ノートを持つ手に、少しだけ力が入る。
これを隠したまま。
何もなかったことにしたまま。
二人の言葉だけ受け取るのは、違う。
返事をするにしても。
逃げるにしても。
先に話すべきことがある。
そう思った。
いや、
たぶん、ずっと前からわかっていた。
見ないようにしていただけで。
向き合わないようにしていただけで。
ノートを、ゆっくりと閉じる。
今度は、机の上に置く。
手を離しても、そこにある感覚だけが残る。
「……話すか」
小さく呟く。
声は静かだった。
でも、はっきりしていた。
逃げるための言葉じゃない。
選ぶための言葉だった。
スマホを手に取る。
画面は暗い。
まだ時間はある。
でも、その時間の使い方は、もう決まっている。
ベッドに座り直して、背中を壁に預ける。
さっきまであったざわつきが、少しだけ形を変えている。
不安は消えていない。
むしろ、ちゃんと残っている。
でも、それはもう、逃げるためのものじゃなかった。
目を閉じる。
呼吸を整える。
二十時まで、あと少し。
その時間が、ただ過ぎるのを待つんじゃなくて、
自分の中を整えるためのものになっていた。
そう思えた時点で、ほんの少しだけ、足が前に出ている気がした。
自宅を出ると、夜の空気は思っていたよりやわらかかった。
昼間の冷たさが、少しだけ抜けている。
それでも、頬に触れる風にはまだ冬の名残があった。
ポケットに手を入れたまま、歩き出す。
住宅街は静かだった。
窓の明かりが点々と続いていて、どこか生活の気配だけが残っている。
人の声はほとんど聞こえない。
その静けさの中で、足音だけが一定のリズムで響く。
少し歩くと、視界が開ける。
住宅街を抜けて、大通りに出た。
車の音が一気に増える。
信号の光が、規則正しく色を変えている。
さっきまでの静けさが、嘘みたいに遠ざかる。
そのまま歩道に沿って、藤沢駅の方へ向かう。
街灯の光に照らされた道は、昼間よりも輪郭がはっきりして見えた。
すれ違う人の数も、少しずつ増えてくる。
帰宅途中らしいスーツ姿。
買い物帰りの家族連れ。
スマホを見ながら歩く学生。
それぞれが、それぞれの場所へ向かっている。
その流れの中に、自分も混ざっている。
ただそれだけのことなのに、今日は少しだけ違って見えた。
やがて、右手に大きな建物が見えてくる。
藤沢市民会館だ。
昼間に見るよりも、夜の方が静かにそこにある。
広い敷地と、少しだけ引いた位置に建てられた建物。
街の喧騒から、ほんの少しだけ距離を置いているみたいに見える。
その前を通り過ぎる。
特に何かがあるわけじゃない。
でも、歩く速度がほんの少しだけ落ちた。
理由ははっきりしない。
ただ、少しだけ呼吸が整う。
そのまま、また歩き出す。
信号を渡る。
向こう側に渡ると、空気がまた変わる。
駅に近づいている。
人の流れが、はっきりと同じ方向を向き始める。
光も、少しだけ強くなる。
店の明かり。
看板。
自動販売機の白い光。
視界の情報量が増えていく。
遠くに、藤沢駅の建物が見える。
南口の方だ。
人の流れが、自然とそちらに吸い寄せられていく。
その流れに乗る。
足取りは変わらない。
でも、胸の奥だけが少しだけざわついている。
理由はわかっている。
この先に、二人がいる。
のどかと、卯月。
あと数分で、会う。
それだけのことなのに、
それだけじゃ済まないことも、わかっている。
駅前に差し掛かる。
人の数が一気に増える。
音も、光も、全部が少しだけ近くなる。
その中で、一度だけ立ち止まりそうになる。
でも、止まらない。
そのまま、南口の階段へ向かう。
上に上がれば、デッキに出る。
そこで、二人と合流する。
もう、引き返す理由はない。
いや、最初から、なかったのかもしれない。
階段を上りながら、小さく息を吐く。
それだけで、ほんの少しだけ身体が軽くなる気がした。
連絡通路を抜けて視界が開ける。
藤沢駅北のデッキ。
夜の空気の中に、人の流れと光が広がっていた。
そしてその中に、探さなくても、見つかる二人がいた。
のどかは、少しだけ周囲を気にするように立っていて、卯月はその隣で、落ち着きなくスマホをいじっていた。
こっちに気づいたのは、卯月の方が先だった。
「あ、きっしー!」
ぱっと顔を上げて、大きく手を振る。
その声に反応して、のどかもこちらを見る。
一瞬だけ、目が合う。
すぐに、少しだけ視線を逸らされた。
「……蓮真、来てくれたんだ」
「行くって言っただろ」
そう返すと、のどかは「まあね」と小さく笑った。
卯月はそのまま距離を詰めてくる。
「きっしー遅いよ?待ったんだよ!」
「まだ約束の時間前だろ」
「でも待ったの!」
「はいはい」
軽く流すと、卯月は満足そうに「よし」と頷く。
その隣で、のどかが小さく息を整える。
少しだけ、空気が変わる。
「……はい、これ」
先に差し出してきたのは、のどかだった。
シンプルな包装。
でも、どこか丁寧に選ばれた感じがする。
「チョコレート。バレンタインの」
「……ありがとう」
受け取ると、ほんの少しだけ手が触れた。
すぐに離れる。
卯月がそれを見て、にやっとする。
「じゃあ次、私!」
テンポを崩さないまま、もう一つ差し出してくる。
「はい、きっしー!これ!」
「お前、テンションそのままだな」
「いいじゃん、こういうのは勢いでしょ!」
受け取る。
卯月のは、少しだけラフで、でもちゃんとそれっぽい。
「ありがとな」
「どういたしまして!」
満足げに笑う。
そこで、一瞬だけ沈黙が落ちた。
人の流れは変わらない。
駅のアナウンスが遠くで流れている。
でも、この三人の間だけ、少しだけ切り取られたみたいに静かだった。
のどかが、息を吸う。
「……ねえ、蓮真」
来る。
そう思った瞬間、体が先に動いた。
「……その前に、いいか」
言葉が、被る。
のどかの言葉を、途中で止める形になる。
一瞬だけ、二人の視線がこちらに集まる。
卯月が「え?」と小さく声を漏らす。
のどかは、何も言わない。
ただ、じっと見てくる。
逃げるなら、今だった。
でも、もう遅い。
「……話しておきたいことがある」
言葉にする。
その瞬間、空気が少しだけ変わった。
卯月が首を傾げる。
「なに?きっしー?」
「……ちょっと、長くなる」
「……いいよ、聞くよ」
即答だった。
のどかも、黙って頷く。
その反応に、少しだけ救われる。
言葉を探す。
でも、綺麗にまとめる気はなかった。
まとめたら、嘘になる気がしたから。
「……俺、中学のとき、同じ日を何回も繰り返してた」
最初の一言は、それだった。
卯月が一瞬固まる。
「え……?」
「三月三十一日。ずっと同じ日だった」
のどかの表情が、ほんの少しだけ変わる。
「……それって」
短く区切って、言葉を選ぶようにしてから、
「思春期症候群?」
静かに、そう言った。
「……まあ、そういう分類でいいと思う」
そう答えると、のどかは小さく頷く。
卯月はまだ完全には飲み込めていない顔のまま、でも視線だけは外さない。
「選択で、結果が変わる」
「選ばなかった方が、現実に出てくる」
「そういう……症状だった」
断片だけを置いていく。
説明にはしない。
でも、嘘にもならない形で。
のどかが、少しだけ間を置いてから聞く。
「……それ、どうやって止めたの?」
まっすぐな問いだった。
逃げ道を残さない聞き方。
ほんの一瞬だけ、息が詰まる。
でも、逸らさない。
「……最後、全部投げた」
短く、そう答える。
のどかの眉が、わずかに寄る。
「全部って……」
言葉が、そこまで来る。
その先を、求める問いだった。
「………」
口を開く。
言おうとする。
あの時のことを。
ノートを閉じた瞬間のことを。
あの静けさを。
死のうとしたことを。
「………それは」
言いかけて、止まる。
言葉にするには、あまりにもそのままだった。
その時だった。
「……いい」
小さく、のどかが言った。
遮るわけでもなく、ただ、そこに線を引くみたいに。
「……無理に言わなくていい」
視線は、逸らさないまま。
でも、それ以上踏み込まない距離で。
「……」
一瞬だけ、言葉が出なくなる。
助かった、と思ったのか。
見抜かれた、と思ったのか。
自分でもよくわからなかった。
卯月が、少しだけ戸惑った顔で二人を見る。
「え、なに?」
「どういうこと?」
「……いいの」
のどかが、短く言う。
それ以上は説明しない。
でも、それで十分だった。
卯月は完全には理解していない。
でも、「……そっか」と、それだけ言って、黙る。
その沈黙は、さっきまでとは少し違った。
踏み込まないための沈黙。
でも、離れない沈黙。
「……だから」
俺が、もう一度口を開く。
今度は、さっきよりも少しだけまっすぐに。
「選ぶのが、怖い」
その一言だけ、はっきりと出た。
のどかが、すぐに返す。
「……それでも」
少しだけ、間を置いて。
「今は違うでしょ?」
卯月も、続く。
「そうだよ」
「それってさ、昔の話でしょ?」
「今のきっしーは、ちゃんと選べるんでしょ?」
軽いのに、逃げられない言い方。
言葉が、返せない。
「……だから」
のどかが、一歩だけ踏み出す。
距離が、少しだけ縮まる。
「ちゃんと、聞いてほしい」
卯月も、同じように少し前に出る。
「私も」
空気が、もう一段階だけ変わる。
逃げ場が消える。
そのまま、のどかが口を開こうとした、その時だった。
「あれ?」
少し離れたところから、聞き覚えのある声がした。
三人同時に振り向く。
人混みの向こうから、小走りで近づいてくる姿。
「蓮真さん?」
花楓ちゃんだった。
手を振りながら、こちらへ来る。
「やっぱり先に着いてたんですね」
息を少しだけ弾ませながら、笑う。
そのまま三人の輪に入ってくる。
「のどかさん、卯月さんも、こんばんは」
「あ、花楓ちゃん!」
卯月が普通に返す。
のどかも「花楓ちゃん、こんばんは」と自然に答える。
その瞬間だった。
ほんのわずかに、空気がずれる。
さっきまでの張り詰めた感じが、途切れる。
ほどけた。というより、切られた。
花楓ちゃんが、その違和感に気づく。
言葉のあとに、ほんの一拍、間があった。
視線が、三人のあいだを静かに行き来する。
「……あの」
少しだけ、声のトーンが落ちる。
「もしかして……」
言葉を選ぶように、ほんの少しだけ間を置いてから、
「私、お邪魔でしたか?」
その言い方は、遠慮がちで。
でも、ちゃんと踏み込んでいた。
一歩だけ、後ろに下がろうとする。
「……」
その動きを、先に止めたのはのどかだった。
「え、なに言ってんの?」
軽い調子で言いながら、腕を軽く引く。
「全然邪魔じゃないよ」
間髪入れずに、卯月も続く。
「大丈夫だよ、花楓ちゃん!」
「ちょうど、今からお兄さんの家に行くとこだったし!」
その一言で、線が引き直される。
花楓ちゃんが、ほんの少しだけ目を瞬かせる。
それから、小さく頷いた。
「……そうですか」
完全に納得したわけじゃない。
でも、それ以上は踏み込まない。
その距離感を、自分で選んでいる。
「じゃあ、このまま行きましょうか」
少しだけ明るさを戻して、言う。
「お兄ちゃん、もう帰ってると思うので」
「……ああ」
短く返す。
それ以上、何も言えなかった。
四人で歩き出す。
駅前の雑踏の中へ、また溶けていく。
隣にいる二人の気配が、さっきより近いのに、少しだけ遠い。
花楓ちゃんは、何も言わない。
でも、何も気づいていないわけでもない。
その距離の取り方だけが、静かに残る。
さっきの続きは、終わっていない。
ただ、止まっただけだ。
それが、はっきりわかっていた。
四人で歩いたまま、咲太の家へ向かう。
駅前の喧騒を抜けて、住宅街へ入る頃には、さっきまでの空気は少しだけ薄まっていた。
けれど、消えたわけじゃない。
のどかも卯月も、普段通りに話しているようでいて、どこかほんの少しだけ言葉を選んでいた。
花楓ちゃんも、必要以上には踏み込まない。
その距離感が、かえってさっきの続きがまだ終わっていないことをはっきりさせていた。
咲太の家に着く。
「ただいまー」と花楓ちゃんが鍵を開けて、先に中へ入った。
そのあとに、のどかと卯月が、「お邪魔します」「お邪魔しまーす!」と、あとに続く。
俺は一瞬だけ玄関先で足を止めたが、ここまで来て引くのも不自然だと思い直して、そのまま中に入った。
「お邪魔します」
靴を脱いで顔を上げると、リビングの方から麻衣先輩がこちらを見た。
「あら。蓮真くん、いらっしゃい」
穏やかな、でもどこか事情を半分くらい察していそうな声だった。
その隣で、咲太が少しだけ目を細める。
「……岸和田、本当に来たのか」
「来ちゃ悪かったか?」
そう返すと、咲太は小さく肩をすくめた。
「いや、別に」
いかにもあいつらしい、そっけない返事だった。
けれど、その直後だった。
咲太の視線が、俺の手元に落ちる。
正確には、のどかと卯月から受け取ったチョコの入った袋に。
少し遅れて、麻衣先輩の目線もそこに向いた。
ほんの一瞬だけ、二人の間で何かが通る。
(……ああ)
たぶん、察したんだと思う。
ちゃんと来たことも。
ちゃんと二人から受け取ったことも。
そして、その先がまだ終わっていないことも。
けれど二人とも、それ以上は何も言わなかった。
そこをわざわざ口にしないあたりが、この二人らしい。
「花楓ちゃん、おかえり」と、それとなく椅子を元の位置に戻した麻衣先輩が、花楓ちゃんをやさしく出迎える。
「は、はい。ただいま、です」
「お兄さん、なに食べてるの? 美味しそう!」
真っ先にガトーショコラを覗き込んできたのは卯月だ。
「麻衣さんが僕のために作ってくれたものだからあげないぞ」
「みんなの分もあるから、座って」
咲太と正反対のことを麻衣先輩が言う。
「えー」
「ひとりじゃ食べ切れないでしょ」
咲太の不満の声はさらっと流して、麻衣先輩がキッチンに向かう。自分の家のように食器棚を開けて、人数分の皿とフォークを取り出していく。
「咲太はお茶を用意してあげて」
渋々咲太が立ち上がると、「あたし、紅茶がいい」と、のどかからオーダーが飛んできた。
「づっきーは?」
「おしるこ!」
「ないから、花楓と一緒でココアだな」
咲太がこっちをちらっと見る。
「……岸和田」
「ん?」
「お前は、豊浜と一緒で紅茶でいいか?」
一瞬だけ、言葉の意味を考える。
のどかの横を見る。
ちょうど同じタイミングで、視線がぶつかった。
すぐに逸らされる。
「……ああ、ありがとう」
短くそう返す。
咲太はそれ以上何も言わず、キッチンに向かった。
パンダのマグカップと来客用のマグカップにココアの粉を入れてお湯を注ぐ。
ライオンのマグカップにはティーバッグを入れてお湯を注いだ。
その隣で、もう一つの来客用のマグカップにも紅茶が注がれる。
卯月のと同じ形のカップだった。
俺の前にも、それが置かれる。
何気ない動きの中に、わずかな意図が混じっている気がした。
それらを持って咲太がダイニングテーブルに戻ると、麻衣先輩がガトーショコラを切り分けて、綺麗に皿に載せていた。
「麻衣さん、いただきます!」
元気に卯月が両手を合わせる。
「いただきます」、「いただきます」と、花楓ちゃんとのどかも続いた。
ほんの一拍遅れて、
「……いただきます」
俺も小さく手を合わせる。
ほぼ同時にフォークで刺し、口に運ぶ。そのあとは、「美味しい!」の声の連続だった。
俺もフォークを取る。
ガトーショコラを一口分、切り分けて口に運ぶ。
濃厚な甘さと、少しだけ苦味のある後味が広がる。
「……美味いな」
思わず小さく呟く。
その一言に、麻衣先輩がほんの少しだけ微笑んだ気がした。
「バニラアイスを添えると、もっと美味しく食べられるんだって」
麻衣先輩が付け加える。
「カップのアイスならあります!」
「僕が買ってきたやつだけどな」
席を立った花楓ちゃんがキッチンの冷蔵庫に向かう。戻って来たときには、カップのバニラアイスとスプーンを持っていた。
蓋を開けて、全員の皿にアイスを取り分けていく。
アイスを付けて食べた花楓ちゃん、卯月、のどかの口からは「美味しいです!」、「美味しすぎる!」、「お姉ちゃん、天才!」と声が上がっていた。
俺も、ガトーショコラの端に少しだけアイスを乗せて、一緒に口に運ぶ。
さっきよりも甘さがやわらいで、代わりに濃さだけが、よりはっきり残る。
冷たさと温度のない濃厚さが、不思議なくらいちゃんと噛み合っていた。
「……ほんとだ」
小さく呟く。
「これ、かなり美味いですね」
そう言うと、麻衣先輩が少しだけ得意そうに微笑んだ。
「でしょ?」
その横で、咲太がどこか面白くなさそうにフォークを動かしていた。
六人で食べれば、ホールのケーキもすぐになくなってしまう。
「僕のガトーショコラだったのにな……」
「これ、あたしと卯月から、みんなにね」
ケーキの箱を片付けたテーブルのスペースに、今度はのどかが何かを広げた。
棒の付いた丸くて平べったいチョコレート。
包装紙の表面には、のどかや卯月、スイートバレットの他のメンバー、安濃さん、岡崎さん、中郷さんの顔写真がひとつひとつに付いている。
裏面には「大好き」と手書きのメッセージがあった。
全体としては、アイドルのファンがライブに持っていくうちわを小さくしたようなデザイン。色もメンバーカラー、卯月の青、のどかの黄色、安濃さんの赤、岡崎さんのオレンジ、中郷さんの紫になっている。
「日曜のライブで、ファンに配ったやつなんだけど」
「残ったから在庫処分か?」
「これは、スタッフ用のやつ!」
「へえ~」
納得したような声を咲太は出しながら、卯月のチョコを手に取って包装を剥がしていた。
俺も手に取り口に入れると、イチゴの風味を感じた。続けて、安濃さんのチョコも食べてみる。
隣では、花楓ちゃんがのどかのチョコをもらって食べていた。
「味は同じなんだな」
「そこは、予算の関係だよ、お兄さん!」
内情を卯月が明るく暴露してくる。
安濃さんのチョコを食べるのどかの視線は、テーブルの隅に向いていた。チョコの袋や箱がいくつも並んでいる。
「パンダのチョコは花楓ちゃんから?」
気づいた卯月がそう尋ねる。
「はい、そうです」
花楓ちゃんが少しだけ照れたように頷く。
「昨日の夜、作りました」
「え、手作り?」
卯月が目を丸くする。
「すごい、花楓ちゃん!」
「そんなに難しいものじゃないですよ」
そう言いながらも、声は少しだけ嬉しそうだった。
のどかもパンダのチョコを覗き込む。
「可愛い。ちゃんと顔になってるし」
「型に流しただけですけど……」
「それでもすごいよ」
花楓ちゃんがそう言われて、少しだけ視線を伏せる。
照れているのがわかる。
俺はテーブルの端に置かれたパンダのチョコに目を向けた。
丸い耳と、小さな目がついた、いかにも花楓ちゃんらしい見た目だった。
「……それ、蓮真さんも食べますか?」
花楓ちゃんが、ひとつ持ち上げてこっちを見る。
「え?」
「よかったら」
少しだけ遠慮がちに差し出される。
今日だけで、いくつチョコを受け取ったのか、もう数えるのもやめていた。
でも、これは少しだけ種類が違った。
のどかや卯月のものとは別の、もっとやわらかい重さだった。
「……じゃあ、ひとつもらう」
そう言うと、花楓ちゃんは少しだけほっとしたように頷いた。
「はい」
受け取って、包装を開く。
口に入れると、見た目のかわいさに反して、味はかなりしっかりしていた。
甘さもちゃんとあるし、くどくない。
「……これ、美味いな」
小さくそう言うと、花楓ちゃんの表情がぱっと明るくなる。
「ほんとですか?」
「うん。ちゃんと美味い」
その一言で、花楓ちゃんは目に見えて安心したようだった。
「よかった……」
その反応を見て、卯月がすぐ横から口を挟む。
「きっしー!花楓ちゃんのやつだけ感想ちゃんとしてる!」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないよ!」
卯月がわざとらしく唇を尖らせる。
その隣で、のどかも少しだけ面白がるようにこっちを見ていた。
「蓮真、今日ほんとチョコに恵まれてるじゃん」
「……そうだな」
短く返しながら、テーブルの上を見渡す。
並んだチョコの数だけ、誰かの気持ちがある。
それを、今さらみたいに思った。
その時だった。
テーブルの上に並んだ包みを見比べていたのどかが、花楓ちゃんのパンダのチョコにもう一度視線を戻す。
「花楓ちゃん、咲太にチョコあげたりするんだね」
意外そうにのどかが感想をもらす。
「お兄ちゃんとお父さんには、毎年、お母さんと一緒にあげてましたけど……家族で、しないですか?」
「ウチはしなかったなぁ」
少し居心地が悪そうにのどかが答える。
「まあ、豊浜と麻衣さんのところは複雑だしな」
ふたりは母親違いの姉妹。つまり、父親は同じなので、この話題においては文字通り複雑な関係になってしまう。
「あ、ごめんなさい!」
気づいた花楓ちゃんが慌てて謝る。
「いいのよ、花楓ちゃん。私ものどかも気にしてないから」
「そうそう!」
「づっきーのところはどうなんだ?」話が停滞しないように、咲太は卯月に振った。
「今日はお父さんとお母さんの結婚記念日だから、今頃イチャイチャしてるんじゃないかなあ」
返って来たのは咲太が聞いたこととは別の答え。
ただ、一応、家族の話題ではあったし、バレンタインの話題ではあった。
「だから、邪魔しちゃいけないので、今日は麻衣さんの家にお泊まりに来ました!」
「づっきーがここにいる理由が判明してよかったよ」
「お兄ちゃん、来月、お返し大変だね」
花楓ちゃんのその一言に、俺は何となく咲太の方を見た。
「咲太、お前今日何個チョコもらったんだよ?」
軽い気持ちで聞いたつもりだった。
けれど、咲太は少しも困った様子を見せず、フォークを置きながら普通に数え始める。
「まず麻衣さんだろ」
「それから、花楓だろ」
「鹿野さん、美東に赤城に姫路さんに古賀、豊浜にづっきー、あと沖縄の知り合いから」
淡々と並べられた名前に、思わず眉が上がる。
「……お前、もらいすぎだろ」
そう言うと、咲太がゆっくりこっちを見る。
「岸和田が言うのか、それ?」
その視線が、そのまま俺の手元に落ちる。
さっきからテーブルの端に置きっぱなしになっている、のどかと卯月からもらったチョコの袋。
それを見た瞬間、のどかと卯月がほぼ同時に声を上げた。
「咲太!」
「お兄さん!」
二人とも、咎めるような声なのに、少しだけ照れが混じっている。
咲太はまったく悪びれず、小さく肩をすくめた。
「いや、事実だろ」
「事実でも言わなくていいっつうの!」
のどかがすぐに返す。
卯月も負けじと身を乗り出した。
「そうだよ!あと、きっしーは今、そういうの数えなくていいから!」
「そういうのってなんだよ」
思わずそう返すと、卯月は一瞬だけ詰まって、それから勢いで押し切るように言う。
「そういうのはそういうの!」
「雑だな……」
俺が呟くと、花楓ちゃんが小さく笑った。
麻衣先輩も、どこか面白そうに目を細めている。
「蓮真くん、返す言葉に困ってるじゃない」
「……困りますよ、そりゃ」
正直にそう言うと、咲太がすぐ横から口を挟む。
「だったら最初から聞くなよ」
「お前が異常なんだよ」
「岸和田ほどじゃないと思うけどな」
「どこがだよ」
「今日のテーブル見てから言えよ」
言われて、思わず視線がテーブルに落ちる。
チョコの箱、包み、食べかけの棒付きチョコ、パンダのチョコの残り。
確かに、見た目だけならかなりひどい。
その沈黙を拾うように、卯月が得意げに言う。
「ほらー!」
「ほらー、じゃないだろ」
「でも事実だし」
のどかまで小さく笑いながらそう言うから、余計に返しに困る。
「……今日はそういう日なんだろ」
苦し紛れにそう言うと、咲太が呆れたように息を吐いた。
「便利な言葉だな、それ」
「うるさいな」
短く返す。
そのやり取りのあと、テーブルの空気は少しだけ軽くなっていた。
さっきまで引っかかっていたものが全部なくなったわけじゃない。
でも、少なくとも今は、こうして笑える余地が残っている。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
そんな空気のまま、咲太がテーブルの上のチョコの包みを見渡して、小さく肩をすくめる。
「……でもこれ、来月の僕が死ぬやつだな」
「大げさだよ、お兄さん」
卯月がけらけら笑う。
のどかも、まだ少し笑いの残った顔で咲太を見る。
「まあ、ちゃんと返してくれればいいんじゃない?」
「そのちゃんとが一番面倒なのよ」
咲太が面倒くさそうに言うと、麻衣先輩がすかさず口を挟んだ。
「まあ、来月の僕がなんとかするだろ」
「そんなこと言ってると、あっという間に一ヵ月が経つわよ」
麻衣先輩から咲太にありがたい忠告がまた飛んできた。
「三月十四日って、あたしの誕生日だから、お返しはケーキでよろしく」
笑顔で注文を付けてきたのはのどかだ。
「みんなでホワイトバースデーパーティーだね!」
卯月が楽しそうに話に乗っかる。
それらすべてを一旦棚に上げて、咲太は皿に残ったガトーショコラをフォークで刺していた。
咲太が最後の一口を頬張ると、「麻衣さんの愛情が詰まった手作りのチョコは美味いなぁ」と、今だけは甘いひと時に浸っていた。
「そろそろ晩ごはんにしましょうか?」
麻衣先輩がそう言って立ち上がる。
時計を見ると、もういい時間だった。
テーブルの上のチョコや皿を片付けながら、花楓ちゃんが「あ、私、お皿持っていきます」と立ち上がる。
卯月もすぐに「じゃあ私も!」と続いたが、持ち方が危なっかしくて、のどかに「卯月、それ二枚いっぺんに持たないで」と止められていた。
そのやり取りを見ながら、俺も空いた皿を重ねる。
「蓮真くん、それお願いしていい?」
「わかりました」
麻衣先輩に言われて、皿をキッチンへ運ぶ。
その横で咲太は、コンロの上に置いていた鍋の蓋を開けていた。
ふわっと湯気が立つ。
甘さの抜けた、食欲を引く匂いが広がった。
「今日の晩飯はカレーだ」
卯月がすぐに反応する。
「やった!お兄さんのカレー!」
「別に大したもんじゃないけどな。昨日の残りだし」
咲太はそう言いながらも、少しだけ慣れた手つきで鍋を混ぜる。
その隣には、麻衣先輩が買ってきたらしい惣菜のパックも並んでいた。
コロッケに、サラダ、それから小さめの唐揚げ。
いかにも、家の夜ごはんという感じの並びだった。
「麻衣さん、仕事帰りに買ってきてくれたんだ」
咲太が言うと、麻衣先輩は「咲太が珍しく昨日のうちにカレーを作っておいてくれたから、少しだけ楽できたの」と返した。
「珍しくってひどくない、麻衣さん」
「事実でしょ?」
「反論できないのがつらいな……」
そんなやり取りの間にも、食卓の準備は進んでいく。
花楓ちゃんがごはんをよそって、のどかがスプーンを並べて、卯月が何か手伝おうとしては微妙に役に立たず、結局のどかに「卯月は座ってて」と言われていた。
「ひどいよ、のどか」
「それ以上動かれる方が大変だから」
「さすがアイドル、息ぴったりだな」
咲太が何気なく言うと、のどかは一瞬だけこっちを見て、「うるさい!」と小さく返し、卯月は「でしょ!」とよくわからない方向で胸を張った。
全員が席につく。
湯気の立つカレーが皿に盛られ、惣菜も取り分けられていく。
「いただきます」
今度は六人で声が揃った。
スプーンでカレーをすくって口に運ぶ。
最初に来るのは、ごく普通の家庭のカレーらしいやわらかい甘さだった。
けれど、そのあとに少しだけ残る風味に覚えがある。
俺はもう一口食べて、やっぱり、と思った。
「……咲太」
「なんだよ」
「お前これ、餡子入れただろ?」
一瞬だけ、食卓の動きが止まる。
卯月が「え、あんこ?」と素直に首を傾げ、花楓ちゃんも少し意外そうに咲太を見る。
咲太は一拍だけ間を置いてから、あっさり頷いた。
「ああ」
「お前のレシピ、参考にさせてもらった」
その返事に、思わず少しだけ笑う。
「やっぱりな」
「やっぱり。わかるものね」
麻衣先輩が少し面白そうに言う。
「前に一回、カレー作るの手伝った時と、味が似てましたから」
そう言いながら、もう一口食べる。
前に作った時より、少しだけまとまりがいい。
甘さの出し方もやわらかくて、全体の馴染み方が自然だった。
「でも美味いな、これ」
「岸和田に褒められても、あんまり嬉しくないな」
「なんでだよ」
「どうせこのあと一言あるだろ」
「まぁ、あるけど」
「あるのかよ」
思った通りの反応が返ってきて、少しだけ笑ってしまう。
「餡子入れるなら、もう少し後半で味見しろ。ちょっとだけ甘さが先に立ってる」
「そこまで言うなら最初から褒めるなよ」
「褒めてから直す方が伸びるだろ」
「教師みたいなこと言うな」
「今日の昼も似たようなことしてたんだよ」
俺がそう返すと、咲太は呆れたように息を吐く。
でも、口元は少しだけ緩んでいた。
「……まあ、次はもう少し上手くやるよ」
「それでいい」
そのやり取りを聞いていた麻衣先輩が、小さく笑う。
「ふたりとも、なんだかんだ仲いいのね」
「よくないですよ、麻衣先輩」
「よくないです、麻衣さん」
ほぼ同時に返したのに、タイミングが揃ってしまって、今度はのどかと卯月が同時に笑った。
「息ぴったりですね」
花楓ちゃんが面白そうに言う。
「うん!漫才コンビみたい!」
卯月までけらけらと笑っている。
「別に合わせたわけじゃない」
「そういうところが余計それっぽい」
のどかにまで言われて、返す言葉に少しだけ詰まる。
咲太がその隙を逃さず言った。
「岸和田、今日はやたら押され気味だな」
「お前の家だからだろ」
「人の家を言い訳にするな」
「お前がホーム戦すぎるんだよ」
「意味わかんねえよ」
軽口がそのまま続く。
それはいつものやり取りに近いはずなのに、今日は少しだけ違って感じた。
食卓の向こうには、麻衣先輩がいて、花楓ちゃんがいて、のどかと卯月がいて。
笑い声が混じって、湯気が立って、皿とスプーンの触れ合う小さな音が続いている。
ただの晩ごはんだ。
それだけなのに、少しだけ、眩しかった。
のどかがカレーを口に運びながら、ふと俺の方を見る。
「でも、ほんとにちょっと似てるかも」
「ん?」
「これ。蓮真が前に作ったやつ」
「そう?」
卯月も興味を持ったようにスプーンを止める。
「きっしーのカレーって、こんな感じなんだ?」
「いや、別に俺のカレーってわけじゃないけど」
「でもレシピ参考にしたって言ってたじゃん、お兄さん」
花楓ちゃんが素直に言う。
咲太は少しだけ面倒くさそうな顔をしながら、水を飲んだ。
「一回言われると、意外と残るもんなんだよ」
その言い方が、少しだけ本音っぽくて、俺は何も返さなかった。
代わりにカレーをもう一口食べる。
甘さの奥に残るわずかな癖が、妙に懐かしかった。
「……まあ、悪くないよ」
小さくそう言うと、咲太が一瞬だけこっちを見る。
「上からだな」
「褒めてるだろ」
「わかりにくいんだよ」
「お互い様だろ」
また、少しだけ笑いが起きる。
その笑いの中にいながら、俺は一瞬だけ思った。
こんなふうに、誰かと同じ食卓を囲むことに、昔はもっと遠さを感じていた気がする。
でも今は、ここに座っている。
落ち着かないものも、まだ全部消えてはいない。
この先に答えを出さなきゃいけないことも、ちゃんと残っている。
それでも、今だけは。
この湯気の立つ食卓の中にいることを、少しだけありがたいと思っていた。
食事が一段落すると、テーブルの上には空になった皿やマグカップが並んでいた。
花楓ちゃんが「お皿、下げますね」と立ち上がり、のどかも「じゃあ、あたしも」と続く。
卯月も勢いよく椅子を引いた。
「私もやる!」
「卯月はまず自分のコップ倒さないようにして」
「のどか、ひどい!」
「ひどくない」
そんなやり取りを横で聞きながら、俺も自分の皿を持って立ち上がる。
その時だった。
「蓮真くん、ちょっと手伝って」
麻衣先輩にそう声をかけられる。
「あ、はい」
自然に返して、皿を持ったままキッチンの方へ向かう。
後ろでは、咲太が「岸和田、皿落とすなよ」と余計なことを言ってきた。
「お前じゃあるまいし」
そう返すと、「僕をなんだと思ってるんだ」と、呆れたような声が返ってくる。
その軽口を背中で聞きながら、キッチンに入る。
流し台に皿を置く。
麻衣先輩はその横で、残った惣菜のパックにラップをかけていた。
少しだけ狭いキッチンの中は、さっきまでの食卓とは違う静けさがあった。
リビングの方からは、卯月の明るい声とのどかの返事、それに花楓ちゃんのやわらかい声が遠くに混ざって聞こえてくる。
「それ、水で軽く流しておいてくれる?」
「はい」
言われた通り、皿を一枚ずつ水に通す。
しばらくは、本当にそれだけだった。
食器に水が当たる音だけが、やけに近い。
でも。
たぶん、これだけで終わる呼び方じゃないんだろうな、とは思っていた。
案の定、少し間を置いてから、麻衣先輩が口を開く。
「……ちゃんともらったのね」
手を止めずに言われたその一言に、一瞬だけ指先が止まりかける。
「何をですか」
わかっていて、あえて聞き返す。
麻衣先輩は、少しだけ呆れたみたいに小さく息をついた。
「そういうところ、咲太に似なくていいのに」
「似たくて似てるわけじゃないですよ」
そう返しながらも、否定しきれないのが微妙に嫌だった。
麻衣先輩はラップを押さえてから、ようやくこっちを見る。
「のどかと広川さんから、ちゃんとチョコもらったんでしょ」
今度は、疑問形じゃなかった。
見ていたんだから、当たり前だ。
「……はい」
素直に認める。
麻衣先輩はそれ以上すぐには何も言わなかった。
その沈黙のせいで、次に来る言葉の輪郭だけが先に伝わってくる。
「だったら」
やわらかい声のまま、でも少しだけ温度が下がる。
「返事は、しっかりしなさい」
水の音が、妙に遠く聞こえた。
俺は皿を持ったまま、少しだけ俯く。
「……はい」
短くそう返すしかない。
わかっている。
そんなことは、もうずっと前から。
逃げたまま曖昧にしていい話じゃないことも。
受け取った時点で、もう、知らないふりはできないことも。
でも。
そのわかっているを、こうして他人の口から言われると、思っていた以上に重かった。
「曖昧に優しくするのが、一番だめよ」
麻衣先輩が静かに続ける。
「期待を持たせたまま、選ばないのは、優しさじゃないから」
「……」
返す言葉が見つからない。
それは責められているというより、見抜かれている感覚に近かった。
たぶん、この人は最初からわかっていたんだと思う。
俺が今まで、誰かを助ける側には回れても、自分で選ぶ側になると途端に鈍ることを。
そして、その鈍さが誰かを傷つける形にもなり得ることを。
皿の水を止める。
蛇口をひねる小さな音がして、キッチンの中が少しだけ静かになった。
その静けさの中で、麻衣先輩がもう一度言った。
「のどかと広川さん、泣かせたら」
一拍。
ほんの短い間。でも、それで十分だった。
「私は許さないから」
声は静かだった。
怒鳴っているわけでもない。
脅しているわけでもない。
なのに、その一言だけで、妙に背筋が伸びる。
麻衣先輩は本気だった。
姉として、先輩として、たぶん両方の立場で。
「……怖いこと言いますね」
なんとかそれだけ返すと、麻衣先輩は少しだけ目を細めた。
「怖がらせるために言ってるの」
「正直ですね」
「私はいつも正直よ」
そう言ってから、ほんの少しだけ表情をやわらげる。
「でも、ちゃんと向き合うなら、応援はするから」
「……」
その言葉の方が、さっきの釘よりも少しだけ胸に残った。
許さない、と言われたことよりも。
応援する、と言われたことの方が、かえって逃げにくかった。
「……ちゃんと、返事します」
自分でも驚くくらい、素直にそう言っていた。
麻衣先輩は、少しだけ頷く。
「ならいいわ」
それで話は終わり、という顔だった。
ちょうどその時、リビングの方から卯月の声が飛んでくる。
「麻衣さーん!お皿これどこ置けばいいー?」
「卯月、それあたしがさっき言ったとこでしょ!」
「え、どこだっけ!」
「ほらもう!」
のどかの声も重なる。
その騒がしさに、麻衣先輩が小さく笑った。
「行ってあげたら?」
「俺がですか」
「蓮真くんが行った方が、少しは収まるんじゃない?」
「それ、どういう意味ですか」
「そのままの意味よ」
完全に否定できないのが、また微妙だった。
軽く息を吐いて、濡れた手を拭く。
キッチンを出る前に、一度だけ振り返ると、麻衣先輩はもう普通の顔に戻っていた。
さっきのやり取りが、まるでなかったみたいに。
でも、なかったことにはならない。
リビングへ戻る。
そこにはいつも通りみたいな賑やかさがあって、その中にのどかと卯月もいる。
麻衣先輩に刺された言葉だけが、まだ胸の奥に残っていた。
曖昧に優しくするのが、一番だめ。
その通りなんだと思う。
思うからこそ、少しだけ痛かった。
リビングに戻ると、さっきと同じような賑やかさがそこにあった。
卯月がまだ皿の置き場所で迷っていて、のどかが半分呆れながら教えている。
花楓ちゃんはその横で、タオルを畳んでいた。
咲太はソファに浅く座って、何となくテレビの方を眺めている。
いつもの光景。
でも、さっきまでとは少しだけ違って見える。
胸の奥に残っている言葉のせいだ。
曖昧に優しくするのが、一番だめ。
それが、まだ消えない。
「終わったー!」
卯月が両手を上げて、勢いよく振り返る。
「ねえきっしー、このあと帰るんでしょ?」
「……そのつもりだけど」
そう答えると、卯月がすぐにのどかの方を見る。
のどかは一拍だけ黙ってから、こっちを見た。
「……じゃあ、途中まで送る」
短く、でも迷いなく。
卯月もすぐに乗っかる。
「私も行く!」
「別にそこまでしなくても……」
言いかけたところで、のどかの視線がまっすぐ刺さる。
さっきよりも、少しだけはっきりした目だった。
「……まだ、終わってないでしょ」
それだけで、十分だった。
否定できるはずがない。
「……ああ」
短く頷くと、卯月が満足そうに「よし」と笑う。
そのままくるっと振り返って、
「麻衣さーん!のどかと一緒にきっしー送ってくるね!」
キッチンの方へ声を飛ばす。
「わかったわ広川さん。のどかもよろしくね」
すぐに麻衣先輩の声が返ってきた。
続けて、のどかが自然な調子で言う。
「お姉ちゃん、先にお風呂入れとくね」
「ありがとう、のどか。タオルは洗面所にあるから」
「はーい」
やり取りはそれだけ。
でも、そこに含まれている意味は十分すぎるほど伝わる。
時間を作るための言葉だった。
「じゃ、行こ」
卯月が軽く手を振る。
のどかはもう玄関の方へ向かって歩き出している。
その後ろを追う形で、俺も動く。
靴を履きながら、一度だけ振り返る。
その時、咲太がこっちを見ていた。
「岸和田」
「なんだよ」
咲太は、さっきまでの軽い空気を少しだけ引っ込めた顔で言った。
「……ちゃんと答えろよ」
一瞬だけ、返す言葉が止まる。
場所の話じゃない。
帰り道の話でもない。
何に対してかなんて、言われなくてもわかる。
「……わかってる」
そう返すと、咲太は小さく肩をすくめた。
「ならいい」
それ以上は言わない。
あいつらしい、短い釘だった。
外に出る。
夜の空気が、頬に触れる。
さっき家に入る前よりも、少しだけ冷たく感じた。
玄関の灯りが背中で閉じられて、住宅街の静けさが戻ってくる。
三人で並んで歩き出す。
最初は、誰も何も言わなかった。
足音だけが一定の間隔で続く。
少しして、卯月がぽつりと口を開く。
「ねえ、きっしー」
「ん?」
「さっきの続き、するんでしょ?」
軽い調子だった。
でも、逃げ道は残さない言い方だった。
「……するつもりだ」
そう答えると、卯月は小さく頷く。
「うん。よかった」
その隣で、のどかは黙ったまま前を向いて歩いている。
けれど、意識が完全にこっちへ向いているのはわかった。
「どこまで送ればいい?」
卯月が聞く。
「駅まででいいよ」
そう答えたあとも、足は止まらなかった。
卯月が少しだけ首を傾げる。
「駅まで、ねえ」
その言い方は、納得したような、していないような、微妙な響きだった。
隣で、のどかが小さく息を吐く。
「……駅まで行ったら、人多いでしょ」
「そうだな」
「じゃあ、その手前でいいじゃん」
短く、でも自然に言う。
それに卯月もすぐ頷いた。
「うん、それがいい!」
三人の足取りが、少しだけゆるやかになる。
住宅街の夜道は静かだった。
遠くで車の音がするくらいで、さっきまでの駅前の喧騒はもう届かない。
街灯の下を通るたびに、影の形だけが少しずつ変わる。
少し先に、小さな公園の脇道があった。
土の地面がむき出しのまま残っていて、端には古い鉄棒と、輪をつなげた遊具が置かれている。
夜は子どもの声もなく、色のついた遊具だけが妙に静かに見えた。
片隅には物置みたいな小さな小屋があって、その向こうに住宅街の灯りが少しだけ覗いている。
駅前の喧騒から少し離れただけなのに、ここだけ時間が一段落ちたみたいに静かだった。
のどかが足を止める。
卯月も、その隣で自然に止まった。
「……ここでいいんじゃない?」
のどかが言う。
俺も立ち止まる。
それで、ようやく三人の会話の続きを逃げずに始める場所ができた。
少しの沈黙が落ちる。
さっきまでと違って、今度は誰もその沈黙を急いで埋めなかった。
卯月が先に口を開く。
「きっしー」
いつもの明るい声をより、ほんの少しだけ抑えた声。
でも、どこか軽さは残っていた。
「さっき、選ぶのが怖いって言ったよね」
「……ああ」
「それ、嘘じゃないのわかるよ」
そこで、卯月は普通に笑った。
空気を気遣った笑いじゃない。
いつも通りに近い、あの無邪気な笑い方だった。
「きっしーってさ、変なとこでビビるよね」
「変なとこってなんだよ」
「人のことは平気で助けるのに」
「自分のことになると、めっちゃ慎重になるとこ」
言い方が軽いのに、言ってることは刺さる。
卯月は一歩、距離を詰める。
でも、深刻さは作らない。
「私ね」
区切りも軽い。
「きっしーといると、普通に楽しい」
「適当でも成立するし」
「たぶん、きっしーがちゃんとしてるからか」
自分で言って、自分で納得して頷く。
空気が少しだけ崩れる。
でも、そのまま続ける。
「最初は、それでよかったんだけどさ」
「だんだん、『あ、これちょっと違うな』ってなって」
「会えないと、普通に寂しいし」
「なんかあったら、きっしーに話したくなるし」
「他の人といる時と、ちょっと違うんだよね」
少しだけ、視線がまっすぐになる。
でも、まだ軽さは残っている。
「あとね」
急に、少しだけズレる。
「今日チョコ渡すとき、ちょっと緊張した!」
「……いや、それは普通かな?」
ひとりで納得する。
でも、その流れのまま。
ふっと、空気が変わる。
「だからさ」
今度は、迷わない。
「蓮真くん」
呼び方が変わる。
その変化が、そのまま意味になる。
「私、蓮真くんのこと好きだよ」
間を置かない。
「男の子として、普通に好き」
軽いのに、逃げ場がない。
言い終わったあと、卯月は一瞬だけじっと見る。
それから、いつもの調子に戻る。
「……あー、言っちゃった」
少しだけ笑う。
「なんかすっきり!」
肩の力を抜くみたいに。
「でもこれで、きっしー逃がさない!」
最後だけ、ちょっとだけ意地悪に笑った。
卯月がそこまで言ったところで、のどかが小さく息を吸った。
横を見ると、のどかはずっと黙っていた分だけ、目が少し熱を帯びていた。
卯月みたいにやわらかくはない。
でも、それがのどからしかった。
「……あたしも」
短く、そう言う。
それだけで空気が変わる。
のどかは、少し俯いてから、でもすぐに顔を上げた。
「さっき、ちゃんと聞いてほしいって言ったの、あれそのままだから」
「蓮真が怖いのも、選びにくいのも、わかった」
「わかったけど……だからって、なかったことにはしたくない」
声は震えていない。
ちゃんと自分で整えて、ここまで持ってきた声だった。
「蓮真ってさ、ほんとずるいんだよ」
「人のことばっか見てて、助ける時は平気な顔してるくせに」
「自分のことになると、急に一歩引こうとするし」
「そういうとこ、たぶん昔からそうなんだろうけど」
少しだけ眉を寄せる。
怒っているわけじゃない。
でも、簡単には許さない気持ちも混ざっていた。
「それでも、あたしは蓮真のそういうとこまで見てきたつもり」
「………」
「見てて、ずっと思ってた」
「ちゃんとしようとしてるのも、変に抱え込むのも、優しくしようとして逆に鈍るのも」
そこまで言って、のどかは一度だけ目を伏せる。
次の言葉を出すための、ほんの短い間だった。
「……それでもあたしは好きになったの」
胸の奥が、はっきり鳴る。
卯月の告白とは別の重さだった。
もっと近くて、もっと深いところに触れてくる言葉だった。
のどかはそのまま続ける。
「会いたいって思ったし」
「一緒にいると落ち着くし」
「他の誰かといる時とは違うって、自分でもわかってた」
「お姉ちゃんの妹とか、アイドルとか、そういうの抜きで」
「蓮真の前にいる時、蓮真はあたしを、ちゃんと見てくれてる気がしたから」
そこまで言って、ほんの少しだけ笑う。
強がりじゃない、でも泣きそうにも見える微妙な笑い方だった。
「……あたし、蓮真のことが好き」
「ちゃんと、異性として好き」
告白は、まっすぐだった。
卯月みたいに軽やかではない。
でも、そのぶんだけ逃げ場がない。
受け取った瞬間に、もう曖昧にできない種類の言葉だった。
三人のあいだに、また沈黙が落ちる。
さっきまでと違う沈黙。
もう、言うべきことは言われてしまった後の沈黙だった。
俺は息を吸う。
でも、すぐには言葉がまとまらない。
言い訳も、先延ばしも、ここではもう格好がつかない。
のどかが先に口を開く。
「……蓮真」
少しだけ困ったように笑いながら。
「これはさすがに、『今日はそういう日だから』じゃ済まないからね?」
さっきの食卓のやり取りを引っ張ってきたその一言に、思わず少しだけ息が漏れる。
卯月も、小さく笑った。
「ほんとそう!」
その笑いで、張りつめていた空気がほんの少しだけやわらぐ。
でも、核心はやわらがない。
俺は二人を見る。
卯月は、まっすぐに。
のどかも、逃がさない目で。
「……ちゃんと答える」
ようやく、それだけ言う。
「今すぐ、綺麗に言える自信はまだない」
「でも、逃げない」
「曖昧なままにもしない」
自分で言いながら、胸の奥が少しずつ痛くなる。
痛いのに、変にすっきりもしていた。
のどかが、じっと俺を見る。
「……いつ?」
短い問いだった。
逃げ道を塞ぐための言葉じゃない。
本気で待つからこそ、曖昧にさせないための確認だった。
「近いうちに、必ず」
そう答える。
卯月が、少しだけ息を吐いた。
「うん」
それは納得半分、不安半分の返事だった。
のどかも、すぐには何も言わない。
けれど最後には、小さく頷く。
「わかった」
それで、この場の告白は終わった。
終わったというより、もう後戻りできないところまで来た、が近い。
夜の公園に、また静けさが戻る。
でも、さっきまでの沈黙とは違う。
今度の沈黙は、ちゃんと前に進んだあとに残る沈黙だった。
三人で、もう一度歩き出す。
駅の方へ向かう足取りは、来た時より少しだけ重くて、少しだけ確かだった。
さっきまで聞こえていた自分たちの声が途切れると、夜の音が戻ってくる。
遠くを走る車の音。
住宅街のどこかから漏れるテレビの音。
風が木の枝を揺らす、かすかな音。
その全部の中に、自分たちの足音だけが混ざっていた。
誰も、すぐには何も言わなかった。
言うことがなくなったわけじゃない。
むしろ、言葉にしきれないものの方が増えていた。
卯月は、さっきまでより少しだけ静かだった。
けれど、気まずそうにしているわけじゃない。
時々、小さく鼻歌みたいに息を吐いて、でも途中でやめる。
たぶん、自分でも落ち着かないんだと思う。
のどかは前を向いたまま歩いていた。
横顔は見えるのに、今はあまり表情が読めない。
でも、黙っていること自体が、さっき言った言葉の本気さをそのまま残していた。
駅が近づくにつれて、少しずつ光が増えていく。
遠くに見える看板の明かり。
コンビニの白い照明。
人通りも、また少しずつ戻ってくる。
その境目に差しかかったあたりで、卯月がふいに口を開いた。
「……なんかさ」
「ん?」
「思ってたより、ちゃんと言えたかも」
言ってから、自分で少しだけ笑う。
「もっと変になると思った」
「十分変だったけどな」
反射みたいにそう返すと、卯月がすぐにこっちを見る。
「えー、どこが?」
「途中で一回、自分で納得してただろ」
「あれ大事だよ?」
「何に対してだよ」
「気持ちの整理」
妙に堂々と言い切るから、少しだけ息が漏れる。
そのやり取りを聞いて、のどかが小さく笑った。
ほんの少しだけだったけど、それで肩の力が少し抜ける。
「でも、すごく卯月らしいよ」
「でしょ、のどか!」
卯月は嬉しそうに頷く。
それから、何気ない顔で続けた。
「でも、ちゃんと緊張してたよ」
「見てたらわかるよ」
のどかが言う。
「え、ほんと?」
「わかるよ。卯月、ほんとに緊張するとちょっとだけ喋りすぎるし」
「うわ、そっか!」
「自覚なかったのかよ」
「なかった!」
即答だった。
そのあまりの卯月らしさに、今度は三人とも少しだけ笑う。
さっきまでの告白の空気が消えたわけじゃない。
でも、重さだけで固まらないのが、この三人らしかった。
駅前の明かりが、もうすぐそこまで来ていた。
人通りが増える。
さっきまで自分たちだけの場所みたいだった空気が、少しずつほどけて、街の流れの中に混ざっていく。
のどかが歩く速度をほんの少しだけ落とした。
「……このへんでいいでしょ」
駅までは、もうほんの少しだった。
でも、そこまで行ってしまうと、今度は本当にただの別れになる。
だからこそ、ここで止まるのが自然だった。
三人で足を止める。
すぐ近くを、何人かの人が通り過ぎていく。
その中で、自分たちだけが少しだけ立ち止まっていた。
卯月が、手に持っていたバッグの紐を握り直す。
さっきよりは落ち着いている。
でも、完全にいつも通りでもない。
「じゃあ、今日はここまでだね」
軽く言う。
けれど、その声の奥には、ちゃんと続きがある前提が残っていた。
「……そうだな」
俺が頷くと、卯月は少しだけ唇を引き結んでから、またすぐに笑った。
「ちゃんと待ってる!」
さらっとした言い方だった。
でも、軽く受け流していい言葉じゃなかった。
「うん」
それだけ返す。
それ以上うまく言えないのが、今はむしろ正直だった。
のどかは、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「蓮真」
「ん」
「……あたしも、待つけど」
そこで一度区切る。
目は逸らさないまま。
「待たせるのが当たり前だとは思わないでね」
まっすぐだった。
責めているわけじゃない。
でも、甘やかしもしない。
のどからしい言い方だった。
「ちゃんと考える」
そう返すと、のどかは小さく頷く。
「ならいいよ」
短い。
でも、それで十分だった。
風が少しだけ吹く。
卯月の髪が揺れて、のどかが無意識みたいにそれを目で追う。
そんな小さな動きまで、今は妙にはっきり見えた。
「……じゃあ、きっしー」
卯月が、今度はいつもの呼び方に戻して言う。
「今日はちゃんと寝てね」
「なんだよ、それ」
「だって絶対いろいろ考えすぎるでしょ」
「……否定はしない」
「ほら」
得意げに言ってから、少しだけいたずらっぽく笑う。
「あと、夢で勝手に答え出さないでね」
「どういう忠告だよ」
「なんとなく!」
雑だった。
でも、卯月が言うとそれで成立してしまう。
のどかが小さく息を吐く。
「ほんとにもう……」
呆れているようで、その実、少し助かっている声だった。
重くなりすぎる直前で、卯月が空気をずらしてくれる。
その素直さが、今はありがたかった。
「じゃ、行こっか」
卯月がのどかを見る。
のどかも頷く。
ふたりが並んで、麻衣先輩の家の方へ戻ろうとする。
そこで、のどかが一度だけ振り返った。
「……蓮真」
「ん?」
「おやすみ」
その一言が、さっきまでの告白よりずっと静かなのに、妙に胸に残る。
卯月もすぐに続いた。
「おやすみ、きっしー」
それから一拍置いて、少しだけ笑う。
「……おやすみ、蓮真くん」
わざとだ。わざとそうしたのがわかる。
でも、その呼び方にさっきの告白の続きが残っていて、うまく笑えない。
「……おやすみ」
ようやく、それだけ返す。
ふたりは背を向けて歩き出す。
並んだまま、少しずつ遠ざかっていく。
卯月が何かを言って、のどかが短く返す。
そのやり取りの細かい言葉までは、もう聞こえない。
でも、ふたりが同じ方向へ歩いていく姿だけは、街灯の下でしばらく見えていた。
俺は、その場に少しだけ立ち尽くす。
胸の奥が静かじゃない。
告白を受けたことも。
答えを預かったことも。
待つと言われたことも。
全部が、そのまま残っている。
それでも。
さっきまでみたいな、ただ逃げたくなるだけのざわつきじゃなかった。
重い。
痛い。
でも、それはもう、向き合うべきものの重さだった。
夜の駅前の光が、少し先で滲んで見える。
ポケットの中で、手を握る。
もう、なかったことにはできない。
しちゃいけない。
そう思いながら、俺もまた一人で歩き出した。
物語解説
今回の話は、「選ぶこと」についての回でした。
これまでの蓮真は、人の問題には踏み込めても、自分のことになると一歩引いてしまう場面が多かったと思います。
それは優しさでもあり、同時に曖昧さでもありました。
今回、麻衣に言わせた「曖昧に優しくするのが一番だめ」という言葉は、この章全体の軸になっています。
誰かを傷つけないようにすることと、何も選ばないことは、同じではない。
むしろ後者の方が、結果的に深く傷つけてしまうこともある。
その上で、のどかと卯月の告白は、どちらも性質の違うまっすぐさとして描きました。
軽やかに距離を詰めてくる卯月と、踏み込みながらも逃がさないのどか。
この二人の違いが、そのまま蓮真に選択を突きつける形になっています。
また、中学時代のループの話をここで出したのは、「選ばなかった可能性」に縛られてきた過去と、「これから選ばなければならない現在」を繋げるためです。
過去を知っているからこそ選べないのか、それでもなお選ぶのか。その分岐点が、今回のラストになります。
答えはまだ出ていません。ただ、少なくとも逃げないという選択だけは、ここで確定しました。
次回以降、その答えがどういう形になるのか。
ちゃんと向き合った結果として描ければと思います。
この先の答えまで、見届けていただけたら嬉しいです。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
-
豊浜のどか
-
広川卯月