青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
十月一日
昼休み。学校裏の片隅で弁当を広げながら、スマホを開くと速報が飛び込んできた。
——桜島麻衣 記者会見 生配信
そうか、あのスキャンダル報道のあとに、ついに麻衣先輩も動いたのか。
タップすると、見慣れた姿が映し出される。芸能人・桜島麻衣としての顔。その横にはフラッシュが絶え間なく光っていた。
「この度はお騒がせして本当に申し訳ありませんでした」
主演映画の制作発表会に合わせて行われている記者会見、そこで深々と頭を下げる麻衣先輩。
けれど次の瞬間、彼女はしっかりと顔を上げ、言葉を紡いだ。
「彼は同じ高校に通う年下の男の子です。全校生徒の前で告白されて。その……」
少し照れたように視線を伏せ、再び前を向く。
「彼は、私が芸能活動を再開するきっかけをくれた人です。彼と出会わなければ、こうしてまたカメラの前に立たせていただく機会は来なかったと思っています」
言い切ると、彼女は立ち上がり、真っ直ぐに報道陣を見渡した。
「私一人のプライベートは構いません。ですが、彼は芸能界とは無縁の一般の男の子です。プライバシーまで侵すような行為は、どうか控えていただけないでしょうか」
画面越しでも伝わる、強い意志。それは大女優の言葉ではなく、ただ一人の“彼女”としての訴えだった。
(……麻衣先輩らしいな)
思わず小さく笑った。
誰よりも強く見えて、誰よりもまっすぐ。
あの日、俺を“証人”に選んだときと同じ
目をしている。
(咲太、お前も大変だろうな……でも、こういう人を選んだ時点で、覚悟はできてるんだろう)
そう胸の中で呟きながら、スマホを閉じた。
そして、自然に心の奥で言葉が浮かんだ。
(俺も“証人”でいよう。麻衣先輩にとっても、咲太にとっても。誰より静かに、それを覚えている役目として)
教室のざわめきが遠のいた気がした。
その瞬間、自分の立ち位置を改めて意識したのだった。
同じ頃、物理実験室には、麻衣の記者会見をテレビで見ようと咲太と双葉が集まっていた。
モニター越しの会見はすでに終わり、部屋には紙コップのコーヒーの香りだけが残っていた。
「つまり、桜島先輩の妹さんは、桜島先輩の肉体の設計図だけを自分のものにして、自ら観測することで桜島先輩の体を得たんじゃないかと、私は思ってる」
双葉が静かに口にした仮説に、咲太はしばらく言葉を失った。
「………」
「納得しろとは言わないけどね。正直、私も信じられないし」
咲太の反応など意に介さず、双葉は満足そうにコーヒーをすすった。
「いや、でも、その仮説って大きな穴がないか?」
「桜島先輩のこと?」
双葉の返しは予想済みだった。
「そうだよ。なんで麻衣さんの姿まで豊浜になる?」
「そうでないと、世界の辻褄が合わないからだろうね」
「は?」
「妹さんだけ姿が変わったら、この世界には『桜島麻衣』がふたり存在していることになる。本来はひとりしかいないはずなのに」
「だから?」
「だから、整合性を保つために、桜島先輩は妹さんの姿になる」
「……それ、夏休みにふたりになった双葉が言うのかよ」
「私のときは、辻褄は合ってたよ」
「そうか?」
「結局、梓川は私をふたり同時に見ることはなかったでしょ?」
「まあな」
一方を目の前にしながら、もう一方と電話で話をしたのが限界。確かに横に並べて見たことはなかった。
「保存則は物理の世界では基礎の考え方のひとつ。一方が増えたら、一方は減る。一方が減ったら、一方は増える。そういうルールで世界は動いていると考えれば、妹さんが桜島先輩の姿になった時点で、桜島先輩は妹さんの姿になるしかないと私は思う」
「………」
「これで納得できないなら、桜島先輩自身にも、妹さんを羨ましいと思う気持ちが少なからずどこかにあったって考えたらいいんじゃないの?」
「……その方が、まだしっくり来るな」
完全に納得したわけではない。けれど、これ以上量子云々の話をされても理解できないのは確かだ。咲太は「ゴリラにもわかる量子力学」と題された本を双葉の方へ押し戻した。
そのとき、チャイムが鳴った。
あと五分で昼休みは終わり、午後の授業が始まる。
双葉は飲みかけのコーヒーを机に置きながら、ふと思いついたように言った。
「ちなみにこの仮説、今度岸和田にも話してみてもいい?」
「……」
咲太は一瞬黙り込み、少し考えてから肩をすくめた。
「まあ、好きにしてくれ」
そう答えつつも、ふと疑問が口をついた。
「というかさ。なんで双葉は僕と違って、岸和田には色々自分から喋るんだ?」
双葉は小さく笑い、答える。
「まあ、“特異点”として興味があるからね。それに……岸和田の観察記録は、思春期症候群を考察する上でいい資料だと思うし」
「……なるほどな」
咲太はそれ以上追及せず、納得したようにうなずいた。
双葉の視線の先には、誰もいない黒板。けれどそこに、彼女なりの“次の実験対象”が浮かんでいるのだろう。
十月三日
昼休み、教室でタブレットに指を走らせていると、廊下から声が飛んできた。
「ちょっといい?」
振り返ると双葉が立っていた。
「この間、岸和田がまとめてくれた桜島先輩の挙動記録。声の抑揚や目線の向きについて、追加で話したいことがある」
俺は指を止め、彼女の目を見る。
「……追加?」
双葉は小さく頷き、眼鏡を押し上げてから淡々と続けた。
「実は……桜島先輩、妹さんと“見た目が入れ替わっていた”んだ」
「……入れ替わり、か」
その言葉に、九月二日、あの時の咲太の言葉が蘇る。
——「仮に……人が入れ替わったりしても、気づかないフリできるタイプだよな」
(……なるほど。あの言葉の意味はこのことだったのか……)
妙に腑に落ちる。けれど同時に、頭の中には別の疑問が浮かんでいた。
「……でも、原理はなんなんだ?どうやって姿まで完全に一致するんだ?」
俺が問いかけると、双葉はしばらく沈黙したあと、量子力学の本を差し出しながら言った。
「量子テレポーテーションの一種と捉えるのが妥当かな。妹さんは、桜島先輩の“肉体の設計図”だけを自分のものにして……その上で“観測”することで、先輩の姿を得たんじゃないかな。」
「設計図……をコピーして、観測……」
自分の口で繰り返すと、ぞくりとするほど筋が通っていた。
双葉は落ち着いた調子でまとめる。
「観測っていうのは、量子力学的には“状態を確定させる”こと。妹さんはその力を、自分の望む姿、つまり桜島先輩の姿へと固定していたのかもしれない」
俺は小さく息を吐いた。
「……流石は双葉だな」
タブレットにメモを取りながら、そう口にしていた。
(俺の観察眼なんかより、はるかに奥まで切り込んでいる)
——ただの違和感を拾い集めるだけで終わる俺と、そこから原理を仮説立てまでできる双葉。
その差を改めて思い知らされた気がした。
タブレットに指を走らせながら、ふと自分の立場を自覚する。
「……じゃあ俺は、違和感を記録し続ける。原理を解き明かすのは、双葉の役目だな」
双葉は驚いたように目を瞬かせ、やがて小さく笑った。
「それ……いい役割分担かもね」
窓から射し込む秋の光が、彼女のレン反射して 一瞬だけきらめいた。
観察する者と、解析する者。
それぞれの立場が確かに分かれた気がして、俺は再びタブレットに文字を刻んだ。
十月五日
「これより、峰ヶ原高校体育祭を開催いたします!」
実行委員の宜言を合図に、グラウンドは一瞬にして歓喜に包まれた。秋晴れの校庭に、応援団の声と笛の音が響く。
グラウンドに集まっているのは、峰ヶ原高校の全生徒だ。各学年それぞれに九クラスあって、全部を足すと約千人になる。それが、赤、青、黄の三つのカラーに分かれて、グラウンドに三色の塊を作っていた
黄組の列に混じりながら、俺は所在なさげに立っていた。
同じ組に知り合いはひとりもいない。体育は得意じゃないし、盛り上がる気分でもない。
そして、ふと視線を巡らせても、あの人の姿はなかった。
麻衣先輩は、この場にいない。
——まあ、そうだろう。
つい先日までスキャンダルが世間を騒がせていて、会見で火消しをしたばかりだ。
注目が冷めきらないこのタイミングで人前に出るのは、さすがに避けたんだろう。
おそらくは学校側も、その判断を支持したはずだ。
自粛という形を選んだのは、きっと世間のためでもあり、そして咲太のためでもあるのだろう。
俺は喧噪から少し距離を置くように深呼吸し、笛の音を聞き流した。
移動式玉入れでは、青組の輪の中で咲太が目についた。
咲太は、カゴを持つ古賀を守りながら、無数の玉を全身で受けていた。
……あいつは、勝手に巻き込まれて、本人はそう思っていなくても側から見たら楽しめているタイプだ。
借り物競走では、咲太は双葉と、見慣れない金髪の女子と一緒に走っていた。
その子は、派手な金髪に濃いメイクをしているのに着ていたのは制服で、そのギャップがやたら目を引いた。
けれど本当に視線を集めているのは、隣にいるのが咲太だからだろう。
病院送り事件も麻衣先輩との交際も今や周知の事実。そんな咲太のそばにいれば、自然と隣にいる女子のことまで気になってしまう。二人はいったいどういう関係なのか……と。
拍手が起きる中、俺はただ遠くから眺める。そして、その金髪の女子をどこかで見たような気がして、胸の奥にひっかかりだけが残った。
昼ご飯の時間になった。
黄組には気軽に声をかけられる友人もおらず、青組のところに行くと、咲太も国見も、双葉も古賀もどこかへ行ってしまっていた。
結果、俺は仕方なく一人で昼飯を食べることになった。
傍から見れば、友達のいない哀れな奴にしか見えないかもしれない。けれど、俺にとっては必ずしも悪いことじゃない。
孤独は、観察と記録に集中できる時には逆に居心地がよく感じられるからだ。
周囲の笑い声や仕草を遠目に拾い、黙々とタブレットに書き留めていく。
午後の玉転がし。咲太と古賀、そして国見が出場していた。
学年を越えた男女ペアで競う種目らしく、国見は一年の女子と組んでいる。
スタートの合図とともに、転がす玉は左右に揺れながらもスピードを増していった。
国見はパートナーに合わせるのがうまく、次第に黄組のペアを追い抜いていく。
最後の直線では一気に加速し、そのまま一位でゴールテープを切った。
さすがはバスケ部。体力も瞬発力も、こういう場面で自然に生きている。
俺は思わず、タブレットの片隅に「国見=バスケ部らしい勝負強さ」と書き留めていた。
そして二人三脚のリレー、咲太の相手はビーチバレーのユース選手、大津美凪。
去年は同じクラスだったが、正直ほとんど接点はなかった。
大津はユースオリンピックの代表にも選ばれており、学校内では麻衣先輩の次に名前が知られている人物だ。
体育が苦手な俺にとっては、遠い世界の人間のように感じる存在で、結局特に話をすることもなく、一年間が過ぎていった。
息を合わせて走る二人に歓声が飛び、シャッター音まで響く。咲太は苦笑いしつつも、楽しそうに駆け抜けていった。
体育祭の最終種目はリレーだった。そして青組の第三走者として大津の姿があった。
バトンを受け取ったとき、青組は最下位。
それでも彼女は迷いなく砂を蹴り、赤組を抜き、黄組さえも追い抜いていく。
観客席からは大きな歓声が上がり、熱気が一気に膨れあがった。
やがて大津は一位でアンカーにバトンを託し、そのリードを青組が守り切る。
ゴールテープを最初に切ったのは青組。その結果、総合得点でも赤組と黄組を抑え、青組が一位に輝いた。
——黄組は、接戦ながら総合得点でリードしていた。
だからこそ、最後に逆転を許したとき、体育が苦手な俺ですら、ほんの少し悔しさを覚えていた。
自分でも意外な感情に、思わず胸の奥がざわついた。
体育祭が終わり、青組の歓声がまだグラウンドに響いていた。
俺は黄組のテントの隅に腰を下ろし、キャップを外して水を飲む。
「……まあ、今日は観察に徹したからいいか」
自分にそう言い聞かせると、周囲の賑やかな声が少しだけ遠くに感じられた。
汗ばむ体に、夕方の海風がひんやりと心地よく抜けていく。
勝ち負けの熱狂の中で、ただ静かに余韻を味わう。
——それが俺にとっての体育祭の終わり方だった。
十月十日
この間、双葉と実験室で話した「量子テレポーテーションによる入れ替わり仮説」がまだ頭に残っていた。
妹が姉の“設計図”をコピーし、観測することで姿を得る。
もしそんな理屈が本当なら、あの日覚えた違和感にも説明がつくのかもしれない。
放課後の昇降口は、部活に向かう生徒と帰宅する生徒が入り混じり、ざわついていた。
そんな折、スマホに一通のメッセージが届いた。
《久しぶりね、岸和田くん》
麻衣先輩からの連絡だった。少し胸がざわつく。
また介添え人を頼まれるのかと思った、だがそれは考えにくい。
あの記者会見で交際相手がいることを正式に公表した以上、これからは堂々と咲太に頼ることができるはずだ。わざわざ俺に声をかける理由は別にある、そう感じた。
指が自然に動き、返信を打つ。
《お久しぶりです、麻衣先輩。何かありましたか?》
すぐに二通目が届いた。
《明日の昼、藤沢駅前のカフェに来てくれる?妹を紹介するわ》
麻衣先輩に会えば、双葉の言っていた“量子テレポーテーションによる入れ替わり仮説”を確かめられるかもしれない。
けれど同時に、自分のためにも、踏み込みすぎないようにしておこう。観察者である以上、境界を越えれば、自分自身が揺らいでしまう。
明日は土曜日。もともとは東京の実家に帰るつもりだった。
けれど、他ならぬ麻衣先輩からの呼び出しであること、そして以前から気になっていた“妹さん”の存在を知る機会であることが頭をよぎる。さらに、新宿副都心店のバイトも入っていない。
ならば予定を変更する理由は十分すぎる。俺はすぐに「行きます」と返信を打った。
十月十一日
土曜日の昼。いつもなら東京の実家に帰るはずだった予定を変更し、俺は藤沢の街を歩いていた。
昨日、麻衣先輩から届いた「妹を紹介する」というメッセージが、ずっと頭に残っている。
麻衣先輩の妹さん。夏休みに少しだけ話を聞いたことはあったが、実際に会うのは初めてだ。
そして双葉から聞いた“量子テレポーテーションによる入れ替わり仮説”。
もしあの違和感が本当に現実の干渉だったとしたら……
その答えは、今日わかるかもしれない
もっとも、確かめに行くのはあくまで“観察”のためだ。踏み込みすぎれば、自分自身が揺らいでしまう。
だから境界を守ること。そう自分に言い聞かせながら、駅前のカフェのドアを押した。
カフェに入ると、窓際の席に麻衣先輩が先にいた。
麻衣先輩はグラスを置き、俺を手招きする。
「久しぶりね、岸和田くん。悪いわね、急に呼び出しちゃって」
「いえ。まぁ、慣れてますから」
「麻衣先輩と会うの……ちょうど一か月ぶりですね」
そう口にしたのは、ただの挨拶じゃない。
——双葉から聞いた“量子テレポーテーションによる入れ替わり”の仮説。
あの日、図書室で麻衣先輩に声をかけてから、ちょうど一か月。
もしあの図書室での違和感が本当に“入れ替わり”だったのなら、この問いかけで麻衣先輩の反応から確かめられるはずだ。
すると麻衣先輩は一瞬だけ目を細め、グラスの氷を軽く揺らした。
「そうね。ここ最近は仕事が詰まっていたから」
淡々とした口ぶり。けれど、その言葉の裏に、“入れ替わり”のことをぼかしている気配が滲んでいた。
麻衣先輩の視線がわずかに鋭さを帯びる。
「……やっぱり、岸和田くん。私じゃなかった時に、会ってる?」
グラスを指先で回しながら、探るように問いかけてきた。
一瞬、呼吸が止まる。俺はただ黙った。
麻衣先輩はそんな俺の反応を見て、ふっと小さく笑った。
「安心して。責めるつもりはないわ」
そう言って、彼女はグラスを口に運ぶ。
「むしろ助かったのよ。岸和田くんがあの子 だと察しても態度を変えなかったから。……少し安心したわ」
「のどかから聞いたの。図書室であなたと話したって」
「……のどか?」
思わず聞き返すと、麻衣先輩はグラスの氷を軽く揺らしながら頷いた。
「私の妹の名前。豊浜のどか。母親が違う、異母姉妹よ。……のどかは今アイドルをしてるの。スイートバレットっていうグループのメンバー」
その声音には、姉としての柔らかさと、芸能人・桜島麻衣としての冷静さが混ざっていた。
俺はただ「そうなんですね」とだけ返し、視線を逸らした。
——やっぱり、そうだったのか。
一ヶ月前の図書室で感じた“微妙な違和感”。言葉の端に混じるツンとした輪郭、妙に早い言い切り、探られたくない視線。
あれは麻衣先輩じゃなく、“豊浜のどか”が彼女の姿をしていたから。
その確信は、胸の奥に冷たい衝撃を落とすと同時に、不思議な安堵も連れてきた。
双葉の仮説が正しかったという解析者への畏怖と、観察者としての自分が間違っていなかったという安堵だった。
俺は一度言葉を飲み込み、それでも気になって口を開いた。
「……どうして、その妹さん…… 豊浜さんを、俺に紹介しようと思ったんですか?」
麻衣先輩は氷を揺らし、少しだけ視線を落とす。
「……図書室であなたに会ったあと、のどか、少し不安だったらしいの」
麻衣先輩はグラスを軽く揺らし、言葉を続ける。
「……自分の入れ替わりに気づかれたんじゃないかって」
そこで一度言葉を切り、わずかに口元を緩める。
「だから、ちゃんと紹介しておいた方がいいと思ったの。あなたなら大丈夫だって、あの子にわかってほしいし、のどかにとっても安心できるでしょ。あなたが“証人”として側にいてくれるなら」
「俺が……安心、ですか」
「ええ。私や咲太には言えないことも、あなたになら話せるかもしれない。そういう相手がいるって、大事だから。あの子、人前では強がるけど、本当は繊細だから。」
その後、豊浜のどかがやってきた。
「ごめん、お姉ちゃん。引っ越しの準備してたら時間かかっちゃって……」
「岸和田くん、妹ののどかよ」
「……初めまして、豊浜のどかです」
小さく会釈。思ったより控えめな声。その雰囲気に、俺は一瞬デジャブを覚えた。
——いや、デジャブじゃない。
体育祭の借り物競走。咲太と並んで走っていた、あの金髪の女子。
観客の視線を集めていたその姿と、今ここにいる彼女の輪郭が、すっと重なった。
つまり俺は、見た目が麻衣先輩の“豊浜のどか”のみならず、“豊浜のどか”本人ともすでに会っていたのだ。
だからこそ俺は、何事もなかったように「初めまして」と口にするしかなかった。
その言葉の奥で、図書室の静寂と、体育祭の喧騒がふとよみがえった。
………この人が、お姉ちゃんから聞いた“介添え人”みたいな男子
話し方は落ち着いてるけど、目の奥はけっこう鋭い。
少しの沈黙を挟んで、のどかが口を開く。
「……この前、学校の図書室で会ったことありますよね?」
「さあ、どうかな」
「……やっぱそうだ」
小さく笑う。その笑顔にはまだ警戒心が混じっている。
それから、麻衣先輩が席を外した数分。好きな音楽や本の話、ライブの裏話……短い会話を交わすうちに、のどかの表情から少しずつ硬さが取れていった。
——なんだろ。
お姉ちゃんみたいに全部背中で見せつけて圧倒してくるわけでもないし、咲太みたいにド直球で、なんでも受け止めてくれるわけでもない。
ずっと「お姉ちゃんみたいにならなきゃ」って背伸びしてきたけど、ここじゃそんなのしなくてもいい気がする。
……こんな自然体でいられるのって、けっこう新鮮かも。
別れ際、麻衣先輩がふと口を開いた。
「……今日、岸和田くんを紹介したのは正解だったわね」
「正解……ですか」
思わず問い返す。
「ええ。のどかにとっても、あなたにとっても」
麻衣先輩は少しだけ柔らかく笑った。
「私や咲太とは違う距離感で接してくれる人がいるってこと……あの子にとっては大きいはずよ」
そして、ほんの一瞬声を落として、付け加える。
「……のどかが、少しでも楽になれるようにね」
のどかには届かない小さな声。その言葉は、蓮真の胸にだけ残った。
俺はただ静かな日常を望んでいたはずなのに。
気づけば、“介添え人”として支える対象は、麻衣先輩だけじゃなくなっていた。
——結局、俺の手からはもう“静けさ”なんてとっくに零れ落ちていたんだろう。
のどかが、くるりと振り返る。
「……今度ライブあるんだ。よかったら来てみて」
「招待してくれるのか?」
「べ、別にタダでとは言ってないし。……お姉ちゃんの“介添え人”としてね」
口調はツンと尖っているのに、その目はどこか期待を含んでいた。
——ああ、この距離感。少しずつ縮まっていくんだろうな。
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語れない 眠れない トロイメライ
あなたの見てる正体
誰も読めないカルテ
不可思議 知りたいだけ
今日もひとりごと
なんにも無理をしないで
愛されたい
有耶無耶 さよなら 軽い眩暈
あなたのいない現象界
誰も読めないカルテ
自意識 溢れ出して
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次回
『青春ブタ野郎は寄り添いキャンパスの夢を見ない』
桜島麻衣
『さすが岸和田くん、ブタ野郎ね』
この章をもって、『青春ブタ野郎は介添えパーソンの夢を見ない』の物語は一区切りを迎えます。
時系列でいえば、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』から、『青春ブタ野郎はシスコンアイドルの夢を見ない』までのお話しです。
さらに、特典小説『青春ブタ野郎はビーチクイーンの夢を見ない』を補完する形で、岸和田蓮真の視点を差し込んだお話になっています。
そして今日、アニメ第二期もいよいよ最終回を迎えます。
ここまで積み重ねられた青ブタの物語がひとまず一区切りを迎えるのは寂しさもありますが、同時に、これからの青ブタシリーズの展開に大きな期待を抱かずにはいられません。
この小説も、アニメの時系列に追いつけるように描き続け、特に熱心なファンの方ほど「あの場面の裏側はこうなっていたのか」といった形で、アニメ原作、両方の場面を拾いつつ、楽しんでいただけるような作品にしていきたいと思っています。
青春の余白を、もう一人の主人公”岸和田蓮真”の視点から、照らす試みとして、これからもお付き合いいただければ嬉しいです。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月