青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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『青春ブタ野郎はディアフレンドの夢を見ない』の公開日が、10月16日に決まりました。

シリーズを追い続けてきた身としては、一つの区切りがはっきりと見えてきたように感じています。

物語には必ず終わりがあるものですが、それが具体的な日付として提示されると、どうしても意識せざるを得ません。

青ブタという作品がどのように締めくくられるのか。そして、自分たちが見てきた時間が、どのように一つの形になるのか。

楽しみであると同時に、少しだけ寂しさもあります。

だからこそ、というわけではありませんが、この物語では、自分なりのもう一つの青ブタを、最後まで描き切りたいと思っています。

原作が辿る結末とは別の場所で、同じ時間を生きていたかもしれない人物たちの選択や関係を、丁寧に積み上げていく。

その積み重ねが、原作とは違う形の「答え」になればと考えています。

本編が終わりに向かう中で、もう一つの可能性としての青ブタを、引き続き見届けていただけたら嬉しいです。



4.選ばない優しさは、ステージを歪める

 

 二月十五日

 

 俺は東海道線の揺れに身体を預けながら、吊り革を握ったまま、窓の外をぼんやり見ていた。

 

 都内へ向かっている。目黒の実家に戻って、十八日の池袋での安濃さんのバースデーライブに行く準備と、十九日の湘南平ヒルクライムの装備を買うためだ。

 

 理由だけ並べれば、ただの予定の消化だ。

 

 いつもなら、それで十分なはずだった。

 

 なのに。

 

 「……全然、頭切り替わらねえな」

 

 小さく呟く。

 

 電車は一定のリズムで揺れているのに、こっちの中だけが落ち着かない。

 

 窓に映る自分の顔を見る。

 

 変わっているようには見えない。目の下にクマがあるわけでもないし、表情が崩れているわけでもない。

 

 それでも、どこか違う気がした。

 

 「……戻れねえな」

 

 口に出してみて、ようやく実感が追いつく。

 

 もう、昨日までには戻れない。

 

 告白の余韻が、まだ抜けていない。

 

 頭の中で、何度も同じ場面が繰り返される。

 

 卯月の笑い方。

 

 呼び方が変わった瞬間。

 

 「普通に好き」と言われた時の距離感。

 

 のどかの視線。

 

 逃がさないまま、でも押しつけないあの言い方。

 

 「それでも好きになった」と言われた時の、あの重さ。

 

 苦笑が漏れる。

 

 軽い意味じゃない。

 

 ちゃんと受け取らなきゃいけない種類の重さだ。

 

 麻衣先輩の声も、咲太の顔も、一緒に浮かぶ。

 

 曖昧に優しくするのが、一番だめ。

 

 ちゃんと答えろよ。

 

 わかってる。わかってるから、余計に厄介なんだ。

 

 視線を窓の外に戻す。

 

 流れていく景色は、どこまでも普通だった。

 

 住宅街。冬の乾いた空。線路沿いの建物。電柱と電線。

 

 何も変わらない。

 

 変わってるのは、こっちだけだ。

 

 「……何でこうなったか、くらいは分かってる」

 

 ぼそっと、独り言みたいに漏れる。

 

 分からないわけじゃない。

 

 偶然でもない。

 

 全部、自分の選択の積み重ねだ。

 

 「……結局、俺のせいだろ」

 

 短く吐く。

 

 曖昧に関わってきた。

 

 距離を詰めすぎず、でも離れすぎず。

 

 踏み込まないくせに、見てはいた。

 

 助ける時は、手を伸ばした。

 

 でも、選ぶ段階になると止まる。

 

 その繰り返し。

 

 「……曖昧に優しくしてきた結果、か」

 

 それ以上でも、それ以下でもない。

 

 思い返せば、前からそうだった。

 

 のどかの声が出なくなった時も。

 

 あの時、俺は近くにいた。

 

 手を伸ばして、ライブ中に名前を呼んで、引き戻した。

 

 でも、その先には踏み込まなかった。

 

 卯月の時も。

 

 空気を読みすぎて、自分を失いかけていたあいつを、「空気は読むんじゃなくて吸うんだろ」と言って、元に戻した。

 

 でも、それもやっぱり、そこまでだった。

 

 「……同じこと、やってるな」

 

 小さく呟く。

 

 助けることはできる。関わることもできる。

 

 でも……選ぶところで止まる。

 

 「……楽なんだよな、それが」

 

 誰にも聞かせる気のない声で言う。

 

 傷つけなくて済む距離。

 

 壊さなくて済む位置。

 

 そこにいれば、責任は曖昧なままで済む。でも……今回は、それが通用しない。

 

 そして、ここからが厄介だった。

 

 相手は、二人ともアイドルだ。

 

 「……俺の都合で、あいつらのステージ歪めたら、終わりだろ」

 

 言葉にすると、妙に現実味が出る。

 

 もしどちらかと付き合えば、もう一人はどうするのか。

 

 同じスイートバレットで、同じステージに立つ関係で。

 

 何も変わらずにいられるのか。

 

 ライブの空気は?関係性は?夢の続きは?

 

 ステージの立ち位置も、目線も、呼吸も。

 

 のどかも卯月も、全部合わせて立ってるのに。

 

 そこに俺が入った時点で、もうズレるだろ。

 

 「……無理だろ、普通に考えて」

 

 吐き出す。

 

 考えれば考えるほど、軽く選べる話じゃなくなる。

 

 傷つけたくない。

 

 それは本当だ。

 

 でも。

 

 「……それ、言い訳にもしてるよな」

 

 自分で言って、自分で少しだけ顔をしかめる。

 

 考えるのを先延ばしにするための理由。

 

 逃げるための理由。

 

 たぶん、両方混ざってる。

 

 ……でも。

 

 「……それだけでも、ないか」

 

 ぽつりと漏れる。

 

 頭の中で、もう一つの声が続く。

 

 今ここで答えるのは、誠実に見えて、たぶん一番雑だ。

 

 気持ちが揺れたまま選ぶのは、選ぶってことじゃない。

 

 押された方へ倒れるだけだ。

 

 しかも相手は、同じグループで、同じステージに立ってる二人だ。

 

 俺ひとりの感情で、簡単に結論を出していい話じゃない。

 

 「……ちゃんと考えてから、答えるべきだろ」

 

 小さく呟く。

 

 それが、誠実だと思っていた。

 

 少なくとも昨日までは。

 

 「……」

 

 息が、少しだけ詰まる。

 

 正しいはずの考えが、どこかで引っかかっている。自分で言って、自分で少しだけ顔をしかめる。

 

 麻衣先輩の言葉が、また引っかかる。

 

 曖昧に優しくするのが、一番だめ。

 

 「……正論すぎるんですよ、麻衣先輩……」

 

 吐き捨てるみたいに言う。

 

 正しいから、逃げられない。

 

 吊り革を握る手に、少しだけ力が入る。

 

 その感覚で、ふと、別の記憶がよぎる。

 

 三月三十一日。

 

 同じ日を、何度も繰り返していた頃。

 

 選ばなかった可能性が、現実に干渉してくる感覚。

 

 どれを選んでも、どこかが違って、やり直して。

 

 「……あの時も、結局決めきれなかったんだよな」

 

 低く呟く。

 

 選ぶことから逃げ続けて、最後に全部投げた。

 

 あの静けさ。

 

 あの諦め。

 

 「……また同じことやるのかよ」

 

 思わず、自嘲が漏れる。

 

 違うはずだ。

 

 あの時とは、状況も、関係も、全部。

 

 それでも……

 

 「……怖いのは、同じか」

 

 選ぶこと。誰かを選んで、誰かを選ばないこと。

 

 それが怖い。

 

 傷つけることが怖い。

 

 でも……それ以上に、何も選ばないまま時間だけ進むことの方が、たぶんもっとまずい。

 

 「……」

 

 少しだけ目を閉じる。

 

 電車の揺れが、身体に伝わる。

 

 その中で、ゆっくり息を吐く。

 

 (歌にすれば、整理できる)

 

 そう思った瞬間、すぐに打ち消す。

 

 「……それ、いつもの俺のやり方じゃないだろ」

 

 ふと、頭の奥で音が鳴る。

 

 静かな、冬の曲。

 

 —— Silent Night。

 

 (……違う)

 

 そのまま繋がりそうになるのを、意識して止める。

 

 別のフレーズが浮かぶ。

 

 ——最終バスと砂時計

 

 「……やめろって」

 

 小さく吐き捨てる。

 

 思い出すと、決まって同じ顔が浮かぶ。

 

 (……分かってる)

 

 だから、余計に使いたくなかった。

 

 (……逃げる理由はいくらでもある)

 

 (でも、今回はそれで終わらせたら、たぶん一番だめだ)

 

 そして、小さく。

 

 でも、はっきりと。

 

 「……逃げるんなよ、俺」

 

 声に出す。

 

 誰にも聞こえないくらいの声で。

 

 それでも、自分にはちゃんと届く。

 

 「……ちゃんとやれよ、岸和田蓮真」

 

 続けて言う。

 

 言い聞かせるみたいに。

 

 どちらを選ぶか。そこにはまだ踏み込めていない。

 

 でも……もう一つだけ、はっきりしていることがある。

 

 「……戻れないんだぞ、もう」

 

 卯月に好きだと言われたことも。

 

 のどかに待つと言われたことも。

 

 自分が「答える」と言ったことも。

 

 全部、もう手の中にある。

 

 なかったことにはできない。

 

 答えはまだ出ていない。

 

 でも、戻る場所はもうない。

 

 電車が減速する。

 

 次の駅に滑り込んでいく。

 

 扉が開いて、人が乗り降りする。

 

 その流れの中にいるのに、どこかだけ取り残されているみたいな感覚があった。

 

 それでも。

 

 時間は止まらない。

 

 十八日のライブも。十九日のヒルクライムも。

 

 その先の返事も。

 

 全部、こっちに向かって来る。

 

 「……考えるしかねえか」

 

 小さく呟く。

 

 今はまだ、受け止めるので精一杯だ。

 

 それでも。考えることだけは、やめなかった。

 

 二月十七日

 

 有栖川宮記念公園の坂を下りながら、俺はゆっくりと息を吐いた。

 

 都心の真ん中にあるくせに、ここだけ少し空気が違う。

 

 人はいるのに、騒がしくない。水の音と、風で揺れる木の葉の音だけが、妙に残る。

 

 「……こういうとこ、好きだったな」

 

 小さく呟く。

 

 ここに来た理由は、ちゃんとある。

 

 前に、のどかと卯月と勉強した場所だから。

 それもある。

 

 でも、それだけじゃない。

 

 (……ここ、逃げ場だったんだよな)

 

 中学の頃。

 

 受かった学校にうまく馴染めなくて、結局、転校した。

 

 その間で、唯一、どこにも属さない場所だったのが、ここだった。

 

 だから今も、来る。考える時、ここに来る。

 

 スマホが震える。

 

 ポケットから取り出して画面を見る。

 

 《きっしー観察会》

 

 通知が二つ。

 

 《明日のライブ、ちゃんと来てねきっしー!》

 

 《絶対だよ蓮真?》

 

 ほぼ同時に送られてきている。

 

 「……ほんと、こういうとこは変わんねえな」

 

 苦笑が漏れる。

 

 だからこそ厄介だ。

 

 (……普通にしてる)

 

 この間、あれだけのことを言っておいて。

 

 何もなかったみたいに、いつも通りでいる。

 

 俺は、できてない。

 

 「……」

 

 スマホをポケットに戻す。

 

 そのまま、池の縁のベンチに腰を下ろした。

 

 水面に映る空が、少し揺れている。

 

 しばらく、そのまま何もせずにいると、「……岸和田くん?」と声がした。

 

 顔を上げる。見覚えのあるボブカットの女子がそこに立っていた。

 

 「……赤城?」

 

 「うん」

 

 少しだけ驚いた顔をしていたが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻る。

 

 「偶然だね」

 

 「だな」

 

 短く返す。

 

 赤城はそのまま、少し距離を空けてベンチに座った。

 

 少しだけ間があってから、赤城が口を開く。

 

 「岸和田くん、どうしてここに?」

 

 「……ああ」

 

 少しだけ視線を水面に落とす。

 

 「実家、この辺なんだよ」

 

 「目黒の方」

 

 「それに」

 

 言いかけて、少しだけ間を置く。

 

 「昔、通ってた中学がすぐ近くでさ」

 

 「……なんとなく来ることある」

 

 嘘ではない。でも全部でもない。

 

 赤城は、少しだけ頷く。

 

 「そうだったんだ」

 

 それだけ。

 

 それ以上は聞かない。

 

 聞かないまま、理解した顔をする。

 

 その距離感が、赤城らしいと思う。

 

 (……赤城のこういうところ、助かるな)

 

 踏み込まれないことに、少しだけ息が抜ける。

 

 同時に、逃げてるのもバレてる気がする。

 

 赤城はそのまま、水面の方を見た。

 

 会話は自然に途切れる。

 

 でも、不自然じゃない。

 

 ここでは、これくらいがちょうどいい。

 

 「赤城こそどうしてここに?……バイト帰りか?」

 

 「うん。日赤の」

 

 あっさり言う。

 

 「日本赤十字医療センター」

 

 「……あそこか」

 

 広尾のあたりにある病院。

 

 「横浜から通ってるのか?」

 

 「うん」

 

 間を置かずに頷く。

 

 「将来、あそこで働きたいから」

 

 それだけ。

 

 理由としては、十分すぎるくらいシンプルだった。

 

 「……真面目だな、お前」

 

 思わず言うと、赤城は少しだけ首を傾げた。

 

 「そうかな?別に、普通だと思うけど」

 

 たぶん、本気でそう思ってる。

 

 そういうやつだ。

 

 「災害の現場とか」

 

 「人の命に関わる場所で」

 

 「何もできないの、嫌だから」

 

 淡々と続ける。

 

 感情を乗せるわけでもなく。

 

 ただ、自分の基準を言うだけ。

 

 (……ああ)

 

 ふと、思い出す。

 

 前に、上里と三人でやった応急救護の訓練。

 

 あの時、赤城が動きが迷ってなかった理由。

 

 「……納得だな」

 

 小さく呟く。赤城は特に反応しない。

 

 ただ、水面の方を見ている。

 

 少し間が空いてから、「岸和田くん、来週時間ある?」と唐突に言われる。

 

 「来週?」

 

 「うん。土曜なんだけど」

 

 少し考える。

 

 「ああ、ボランティアの日か」

 

 「そう」

 

 赤城が頷く。

 

 「その前に、研修あるんだけど」

 

 「来る?」

 

 「……研修?」

 

 「中央区のNPOでやってるやつ」

 

 「学習支援のスタートアップ研修があって」

 

 「沙希も来るよ」

 

 「……上里もか」

 

 「うん」

 

 それだけは、少し納得する。

 

 上里はそういうタイプだ。

 

 「岸和田くんも、来た方がいいと思う」

 

 赤城はそう言った。

 

 押すわけでもなく、ただ、事実みたいに。

 

 「……まあ、興味はあるな」

 

 正直に答える。

 

 「なら、いいと思う」

 

 それで会話は終わる。

 

 本当にそれだけ。

 

 普通なら、そこで終わるはずだった。

 

 でも。

 

 「……」

 

 赤城が、ふとこちらを見る。

 

 少しだけ、間があってから。

 

 「岸和田くん」

 

 「ん?」

 

 「中途半端なのって」

 

 区切る。

 

 言葉を探しているわけじゃない。

 

 ただ、順番に置いてるだけだ。

 

 「あとで困るよね」

 

 「……」

 

 返せない。

 

 責められてるわけじゃない。

 

 でも、逃げ場がない。

 

 「どっちでもいいと思うけど」

 

 「やるならやる」

 

 「やらないならやらない方が楽」

 

 淡々と続く。水面を見るみたいに、静かに。

 

 「その間が、一番疲れる」

 

 そこで、視線が合う。

 

 逸らさない。

 

 「……岸和田くん、今、そういう顔してる」

 

 「……」

 

 言葉が出ない。

 

 図星、ってこういうことを言うんだろうなと思う。

 

 (……ああ)

 

 やっぱり。

 

 のどかと卯月から逃げてるのは、バレている。

 

 赤城には、特に。

 

 「……悪いな」

 

 小さく言う。

 

 何に対してかは、自分でもよく分かっていない。

 

 赤城は首を振る。

 

 「謝らなくていいよ」

 

 「……関係ない、とは思ってる」

 

 そこで少しだけ間が空く。

 

 「でも、見てて分かることはあるから」

 

 「疲れると思う」

 

 それだけ言って、視線を外す。

 

 会話は、終わりだった。

 

 それ以上は踏み込まない。

 

 踏み込まないのに、ちゃんと残る。

 

 (……中途半端が、一番疲れる)

 

 頭の中で、繰り返す。

 

 昨日からずっと回ってる言葉に、新しく一本、線が引かれる。

 

 麻衣先輩の言葉。咲太の一言。

 

 そこに、赤城のこれが加わる。

 

 「……」

 

 息を吐く。

 

 逃げる理由は、いくらでもある。

 

 でも。

 

 (……それで楽なのは、今だけか)

 

 少なくとも。

 

 ずっとじゃない。

 

 「……岸和田くん。来てね、研修」

 

 ぽつりと、言う。

 

 赤城が少しだけこっちを見る。

 

 「そう」

 

 それだけ。

 

 でも、ほんの少しだけ頷いた。

 

 それで十分だった。

 

 ベンチから立ち上がる。

 

 水面は相変わらず揺れている。

 

 でも、さっきよりは少しだけ、見え方がはっきりしていた。

 

 二月十八日

 

 池袋西口公園に設置された特設ステージは、普段よりも少しだけ華やいで見えた。

 

 ステージの左右にはフラワースタンドが並び、その中でもひときわ大きく目立つ一つに、視線が止まる。

 

 「Sweet Bullet Yae Birthday Special LIVE」

 

 色とりどりの花に囲まれたその文字は、今日の主役が誰かをはっきりと示していた。

 

 (……安濃さんの回、か)

 

 観客のざわめきが、少しずつ熱を帯びていく。

 

 サイリウムの光が揺れて、ステージ前の空気がゆっくりと色づいていく。

 

 やがて、音が入る。

 

 イントロが流れた瞬間、歓声が一段上がった。

 

 ステージに五人が並ぶ。

 

 センターは安濃さん。その傍に、のどかと卯月。

 

 さらに外側を、岡崎さんと中郷さんが固める。

 

 曲は、「ミューズになっちゃう」

 

 > 元気ないじゃん ほらだんだん

 

 > ミューズになっちゃう Da Da Da Da Dance!

 

 軽快なリズムに乗せて、ひとりずつ振り返る。

 

 センターに立つ安濃さんが、サビのアレンジから曲を引き上げる。

 

 声はよく通る。少しだけ無邪気で、でも芯がある。

 

 (……安濃さん、やっぱり上手いな)

 

 間奏に入ると、客席から声が飛ぶ。

 

 コールは入るが、邪魔にはならない。

 

 Aメロに入ると同時に、サイリウムが揃って揺れ始める。

 

 自然と、ステージを支える側に回る。

 

 その流れに乗って、安濃さんが歌い出す。

 

 音の取り方が正確だ。

 

 一音一音を外さない。パフォーマンスも、無駄がない。

 

 よく動いているのに、ぶれない。

 

 その周りを、四人が支える。

 

 寄り添うように。

 

 でも、ただの補助じゃない。

 

 五人で一つの形を作っている。

 

 (……いいな)

 

 声が重なる。音が揃う。

 

 ダンスも、きれいにシンクロしている。

 

 背の高い中郷さんから、小柄な岡崎さんまで、動きの線が揃っている。

 

 いつも通りの完成された形。

 

 そのはずだった。

 

 視線が、ふと上がる。

 

 のどかと、目が合う。

 

 一瞬だけ。

 

 それだけのはずなのに。

 

 すぐ横で、卯月とも視線がぶつかる。

 

 その瞬間だった。

 

 (……あれ?)

 

 ほんのわずかに、違和感が走る。

 

 気のせいだと思うくらいの、ズレ。

 

 でも……次の動きで、それがはっきりした。

 

 のどかが右へ抜けるはずのステップを、ほんの一拍だけ遅らせた。

 

 その分、卯月の踏み込みと進路が重なる。

 

 肩が触れそうになる。

 

 卯月が、ほんのわずかに外へ逃がす。

 

 その遅れを、安濃さんが前へ出る角度を変えて埋める。

 

 岡崎さんが間を詰める。

 

 中郷さんがタイミングを合わせる。

 

 何事もなかったように、流れる。

 

 でも……

 

 (……今の)

 

 完全にズレていた。

 

 しかも。

 

 (……俺のせいだろ)

 

 理解が早すぎる。

 

 のどかも、卯月も。

 

 こっちを意識した。

 

 その一瞬で、ズレた。

 

 (……やばい)

 

 喉が、少しだけ乾く。

 

 曲は続く。

 

 観客は気づかない。

 

 気づいても、流す。

 

 ステージは成立している。

 

 成立してしまっている。

 

 だからこそ……余計に分かる。

 

 (……完全じゃない)

 

 ほんの少し。でも確実に、綻びが入った。

 

 その原因が、自分だと分かる。

 

 (……これ)

 

 頭の奥で、三日前の言葉が浮かぶ。

 

 ——俺の都合で、あいつらのステージ歪めたら、終わりだろ

 

 「……」

 

 目を逸らしかけて、止める。

 

 逸らしたら、もっとダメだと思った。

 

 ステージを見る。

 

 のどかは、もう立て直している。

 

 卯月も、笑っている。

 

 何もなかったみたいに。

 

 でも、ほんの一瞬だけ。

 

 視線が揺れる。

 

 それが、逆に痛い。

 

 (……もう出てるじゃねえか)

 

 歪みは、もう出ている。

 

 俺が関わった時点で。

 

 選ばないまま、ここにいる時点で。

 

 「……」

 

 呼吸が浅くなる。

 

 でも、目は逸らさない。

 

 逸らしたら、ただの逃げになる。

 

 (……考える時間が必要?)

 

 自分で思って、自分で否定する。

 

 (……違うだろ)

 

 時間の問題じゃない。

 

 選ばないことが、もう影響を出している。

 

 それが、今ここで起きている。

 

 音が上がる。ラストのサビに入る。

 

 五人の動きは、また揃っている。

 

 さっきのズレが嘘みたいに。でも……

 

 「……」

 

 知ってしまった以上、もう同じには見えない。

 

 (……戻れない)

 

 昨日、電車の中で思ったことが、現実になる。

 

 戻れない。戻せない。

 

 なかったことにもできない。

 

 拍手が起きる。曲が終わる。歓声が上がる。

 

 ステージは成功している。

 

 誰も失敗なんて思っていない。

 

 でも……

 

 (……俺だけは、分かってる)

 

 あの一瞬。

 

 確実に崩れた。

 

 そして、それは偶然じゃない。

 

 「……」

 

 拳を、わずかに握る。

 

 痛みはない。

 

 でも、力は入っている。

 

 (……もう、猶予ねえな)

 

 はっきりと、そう思った。

 

 逃げるための理由は、いくらでもある。

 

 でも、それを選んだままここに立てば、また同じことが起きる。

 

 もっと大きく。そしてもっと取り返しがつかない形で。

 

 ステージの上で笑っている二人を見ながら、

 

 俺は、初めてはっきりと理解した。

 

 選ばないことも、選択だなんて、

 

 そんなことは、誰も傷つけない選択なんかじゃない。

 

 ライブが終わって、しばらくその場に残っていた。

 

 観客はゆっくりと散っていく。

 

 さっきまでの熱が、少しずつ外に逃げていくみたいに。

 

 ステージの上は、もう片付けが始まっている。

 

 さっきまでそこにいた五人の姿は、もうない。

 

 「……」

 

 立ったまま、しばらく動かなかった。

 

 何かを考えているわけじゃない。

 

 でも、何も考えていないわけでもない。

 

 ただ、さっきの一瞬が、頭の中で何度も繰り返されている。

 

 のどかと卯月の、ほんのわずかなズレ。

 

 それを、他の三人が埋めた動き。

 

 そして

 

 (……俺のせいだ)

 

 結論だけは、もう動かない。

 

 ポケットの中で、スマホが震える。

 

 「……」

 

 取り出す。

 

 画面を見る。

 

 《きっしー観察会》

 

 通知が二つ。

 

 《ライブどうだった?きっしー!》

 

 《ちゃんと見てたよね蓮真?》

 

 「……」

 

 一瞬、言葉が出ない。

 

 さっきまで、あんなことがあったのに。

 

 まるで、何もなかったみたいな文面。

 

 いや。

 

 (……違うな)

 

 何もなかった、ふりだ。

 

 分かる。分かってしまう。

 

 あの二人が、何も感じていないわけがない。

 

 それでも、こうやって送ってくる。

 

 「……」

 

 画面を見たまま、少しだけ息を吐く。

 

 卯月が先だ。

 

 文面が軽い。

 

 いつも通り。

 

 絵文字も、テンションも変わらない。

 

 でも。

 

 (……早すぎるだろ)

 

 ライブ終わって、ほとんど間を置いてない。

 

 落ち着く前に、送ってきている。

 

 たぶん。

 

 考える前に、送ってる。

 

 その方が、いつも通りでいられるから。

 

 のどかの方は、少しだけ違う。

 

 文は短い。絵文字もない。

 

 でも、言ってることは同じだ。

 

 ——ちゃんと見てたよね

 

 確認。逃がさない問い。

 

 「……」

 

 親指が、少しだけ止まる。

 

 返す言葉はいくらでも浮かぶ。

 

 「良かった」とか。

 

 「いつも通りだった」とか。

 

 当たり障りのない言葉。

 

 でも。

 

 (……それ、違うだろ)

 

 それを打った瞬間、全部嘘になる気がした。

 

 画面を閉じる。また開く。

 

 その繰り返し。

 

 「……」

 

 結局、短く打つ。

 

 《見てたよ》

 

 それだけやを送信。

 

 すぐに既読がつく。ほぼ同時に。

 

 (……待ってたな)

 

 少しだけ、苦笑が漏れる。

 

 間を置かずに、返ってくる。

 

 《でしょ!今日めっちゃよくなかった!?》

 

 《今日の八重、いつも以上に良かったでしょ》

 

 「………」

 

 やっぱり、普通だ。

 

 いつも通りの会話。

 

 ライブの感想。テンション。

 

 何も変わってない。

 

 (……いや)

 

 変わってないように、してる。

 

 それが分かる。

 

 分かってしまう。

 

 さっきのズレを、二人とも分かっているはずなのに。

 

 それを、一切触れない。

 

 触れないまま、進める。

 

 「……きついな」

 

 小さく呟く。

 

 どっちがきついのか、自分でもよく分からない。

 

 ズレたことか。

 

 それをなかったことにしているこのやり取りか。

 

 たぶん、両方だ。

 

 もう一度、画面を見る。

 

 返さないといけない。会話は続いている。

 

 止めるわけにはいかない。

 

 でも。

 

 (……いつも通りに、今は返すしかないよな……)

 

 でも曖昧に優しくして、何も選ばないまま進む。

 

 そしてまた、どこかでズレる。

 

 「……」

 

 親指が止まる。

 

 昨日、公園で言われた言葉が浮かぶ。

 

 ——中途半端なのって、あとで困るよね

 

 麻衣先輩の声も重なる。

 

 ——曖昧に優しくするのが、一番だめ

 

 咲太の顔も浮かぶ。

 

 ——ちゃんと答えろよ

 

 「………」

 

 親指が、画面の上で止まる。

 

 本当は、別の言葉を打つべきだと分かっている。

 

 ここで逃げたら、また同じことになるって。

 

 分かっているのに。

 

 「……くそ」

 

 小さく吐き捨てて、指を動かす。

 

 《ああ、良かったよ。とても》

 

 送信。

 

 それだけだった。

 

 本当は、もっと言うべきことがあったはずなのに。

 

 それを全部、飲み込んだまま。

 

 ——同じ時間の、スイートバレットの控室。

 

 スイートバレットの控室は、隣接する東京芸術劇場の楽屋エリアに用意されていた。

 

 ステージを降りたあとも、身体の奥にまだ音が残っていた。

 

 照明の熱。歓声の残響。足裏に残る振動。

 

 控室へ戻る通路を歩きながら、のどかは一度だけ深く息を吐いた。

 

 「……ふぅ」

 

 それだけ。

 

 隣では卯月が、いつも通りのテンションで話し続けている。

 

 「ねえねえ!今日さ、サビのとこめっちゃ気持ちよくなかった!?」

 

 「……うん、まあね」

 

 のどかが短く返す。

 

 声は普通。

 

 タイミングもズレてない。

 

 でも

 

 (……ちょっと遅い)

 

 前なら、もう半拍早く返してた。

 

 自分でもわかるくらいの、ほんの僅かな遅れ。

 

 卯月は気づいていない。

 

 いや、気づいてない、ふり” をしているのかもしれない。

 

 「八重もさ、今日すごくよかったよね!」

 

 「うん、安定してた」

 

 また少しだけ間が空く。

 

 卯月はその間を埋めるように、すぐに言葉を重ねる。

 

 「でしょでしょ!」

 

 テンポを落とさない。

 

 落とさないようにしている。

 

 (……卯月も)

 

 同じだ。

 

 いつもより、少しだけ喋りすぎている。

 

 テンションが高いんじゃない。

 

 高く保っている。すると、八重が二人に短く言う。

 

 「お疲れ。のどか、卯月」

 

 その声は、いつも通り落ち着いている。

 

 でも視線だけが、一瞬だけ二人をなぞった。

 

 のどかと卯月を。

 

 「お疲れ様八重!」

 

 卯月が元気に返す。

 

 「お疲れ八重」

 

 のどかも続く。

 

 そこだけ見れば、何も問題はない。

 

 ただ。

 

 八重は一歩だけ近づいて、軽く腕を組んだ。

 

 「……今日さ」

 

 一拍。

 

 「二人とも、珍しくズレてたね」

 

 空気が、ほんの一瞬だけ止まる。

 

 卯月が先に反応する。

 

 「ごめん!ちょっとミスっちゃった!」

 

 軽い。すぐに笑う。

 

 「あたしも、やっちゃったなーって思った」

 

 その横で、のどかも肩をすくめる。

 

 「まあ、たまにはあるよね」

 

 どちらも、普通の失敗として処理する。

 

 完璧な対応。

 

 アイドルとしては正解。

 

 「でもさ。のどか、卯月」

 

 「……そういうズレじゃないよ」

 

 八重が静かに言う。

 

 声のトーンは変わらない。

 

 でも、言葉だけが少しだけ踏み込む。

 

 「タイミングじゃなくて、意識の方」

 

 卯月の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まる。

 

 のどかの視線が、わずかに逸れる。

 

 ほたると蘭子が「あー……」と小さく声を漏らした。

 

 「……なんかあった?」

 

 八重の問いはシンプルだった。

 

 責めてない。

 

 ただ確認している。その分だけ、逃げにくい。

 

 「別に?」

 

 のどかが先に言う。

 

 間を置かない即答。

 

 「普通にライブやってただけだって」

 

 卯月もすぐに乗る。

 

 「うん!ちょっと集中ズレただけ!」

 

 「次はちゃんとやるから!」

 

 笑顔。

 

 いつも通り。

 

 でも。

 

 (……噛み合ってない)

 

 八重が小さく目を細める。

 

 普段なら、この二人はもっと自然に揃う。

 

 言葉も、空気も。

 

 今はそれが、わずかにズレている。

 

 外から見れば、誤差レベル。

 

 でも、同じステージに立ってる側からすると、はっきり分かる。

 

 「……そっか」

 

 八重はそれ以上追わなかった。

 

 追わない代わりに、短く言う。

 

 「じゃあいいや」

 

 その一言で、会話は切れる。

 

 責めない。

 

 でも見逃してもいない。

 

 「次、もっと揃えてよ」

 

 「了解!」

 

 卯月が即答する。

 

 「……うん」

 

 のどかも頷く。

 

 それで、表向きは終わり。

 

 完全にいつも通りに戻る。

 

 でも。八重が視線を外したあと、ほんの一瞬だけ、卯月とのどかの視線がぶつかる。

 

 すぐに逸らす。

 

 同時に。

 

 (……バレてる)

 

 (……バレてるね)

 

 言葉にはしない。

 

 でも、同じことを思っているのが分かる。

 

 そのまま、それぞれ別の方向へ動く。

 

 距離は変わらない。

 

 でも。

 

 ほんの少しだけ、前と違う位置に立っている感覚だけが、残っていた。

 

 八重はそれを、何も言わずに見ていた。

 

 責めるつもりはない。

 

 今ここで無理に聞き出したところで、たぶん意味はない。

 

 のどかも卯月も、自分で整理できていない顔をしていたからだ。

 

 ただ、このままにしていい話でもない、とも思う。

 

 グループのサブリーダーとしてというより、今日のライブを一緒に立った人間として、そう感じた。

 

 八重は控室の隅へ移動すると、スマホを取り出した。

 

 連絡先を開く。

 

 少しだけ迷ってから、卯月の母親のトーク画面を開いた。

 

 仕事の連絡で何度かやり取りしたことがある。

 

 文章を打ちかけて、一度消す。

 

 踏み込みすぎる言い方は違う。

 

 でも、何も聞かないのも違う。

 

 短く、でも失礼にならない言葉を選ぶ。

 

 やがて、指が止まった。

 

 《お疲れ様です。八重です》

 

 《突然すみません》

 

 《きっしーくん……岸和田くんの連絡先、もしご存じでしたら教えていただけますか?》

 

 《少し確認したいことがあって》

 

 送信する。

 

 既読はまだつかない。

 

 八重はスマホを伏せて、小さく息を吐いた。

 

 すぐに答えが返ってくるとは思っていない。

 

 それでも、何もしないよりはいい。

 

 視線を上げる。

 

 控室の向こうでは、卯月がほたるに向かって大きく手を振っていた。

 

 のどかはその隣で、笑っている。

 

 ちゃんと笑えている。

 

 でも、その笑顔の下にあるものを、八重はさっきのステージの一瞬で見てしまっていた。

 

 「……ちゃんと確認しないとね」

 

 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

 

 それはダンスのことだけじゃなかった。

 

 控室のざわめきが少しずつ落ち着いてきた頃。

 

 衣装を着替え終えたメンバーが、それぞれ椅子に座ったり、軽く談笑したりしている。

 

 さっきまでの緊張感は、もう表には出ていない。

 

 出ていない、だけだ。

 

 八重は壁際に寄りかかりながら、スマホを手に取った。

 

 画面が、静かに点灯する。

 

 既読。そのすぐ下に、新しいメッセージが表示されていた。

 

 少しだけ、目を細める。

 

 開く。

 

 《了解。八重ちゃん》

 

 《きっと、卯月とのどかちゃんのことでしょ?》

 

 (……やっぱり、分かるか)

 

 苦笑に近い息が、ほんの少しだけ漏れる。

 

 続けて表示される。

 

 《連絡先送るね》

 

 《三人には内緒にしといてね》

 

 短い。

 

 でも、それで十分だった。

 

 余計なことは聞かない。理由も詮索しない。

 

 でも、状況は理解している。

 

 その上で、必要な分だけ手を貸す。

 

 (……大人だな。卯月のお母さん)

 

 素直にそう思う。

 

 数秒後、別の通知。

 

 連絡先の共有。

 

 『岸和田蓮真』

 

 名前を一度だけ確認する。

 

 それ以上は見ない。

 

 スマホを閉じる。

 

 「……」

 

 視線を上げる。

 

 控室の向こう。

 

 卯月が蘭子に何かを話して笑っている。

 

 のどかは、その隣でスマホを見ている。

 

 表情は、いつも通り。でも……

 

 (……ここからだな)

 

 さっきのズレは、もうなかったことにはならない。

 

 ステージの上で出たものは、必ずどこかに残る。

 

 それが小さいうちに、整えないといけない。

 

 「……」

 

 もう一度だけ、スマホを開く。

 

 新しく追加された連絡先を表示する。

 

 タップしかけて、止める。

 

 (今じゃない……)

 

 ここで動くのは、違う。

 

 タイミングは、間違えたくない。

 

 ゆっくりと、指を離す。

 

 「……次の前に、かな」

 

 小さく呟く。

 

 誰にも聞こえないくらいの声で。

 

 それだけ決めて、スマホをポケットに戻した。

 

 そして、何もなかった顔で、いつもの場所へ戻っていく。

 

 まだ、何も起きていないみたいに。

 

 でも確実に、何かは動き始めていた。

 

 二月十九日

 

 朝の空気は、まだしっかり冬だった。

 

 吐いた息が白く滲む。

 

 ハンドルを握る指先が、グローブ越しでも少しだけ冷たい。

 

 待ち合わせ場所に着くと、先に来ていた大津が大きく手を振った。

 

 「おっ、岸和田。今日は遅くないじゃん」

 

 「五分前着で偉そうに言うなよ」

 

 「十分前に来てる人間に言われたくないね」

 

 そう言いながら、大津は自分のロードを軽く叩いた。

 

 GIANTのTCR。マットブラックのフレームに青のラインが入っていて、朝の光の中だと妙に締まって見える。軽さと剛さをそのまま形にしたような車体だった。

 

 少し遅れて、浜松さんもやってくる。

 

 「おはよう」

 

 「おはよう」

 

 浜松さんの愛車はCANNONDALEのCAAD13。

 

 ホワイトベースのフレームにシルバーのパーツがよく映えていて、派手ではないのにきれいだった。変に飾らないところが、本人に似ている。

 

 「今日、風そこまで強くなさそうでよかったね」

 

 浜松さんがそう言う。

 

 「だね。湘南平で横風強いと普通にだるいし」

 

 大津がすぐに返す。

 

 その会話を聞きながら、俺は自分のBianchi、VIA NIRONE 7のサドルを軽く押して感触を確かめた。

 

 いつも通りのはずだった。

 

 ロードバイク。朝の集合。軽口。走る前の空気。

 

 なのに、うまくその中に入れない。

 

 「……岸和田?」

 

 大津が顔を覗き込んでくる。

 

 「ん?」

 

 「なんか今日、静かじゃない?」

 

 「朝だからだろ」

 

 「いや、岸和田はいつももう少し喋る」

 

 余計なお世話だ、と言い返しかけてやめる。

 

 図星だった。

 

 浜松さんも、少しだけこっちを見る。

 

 ただ、それ以上は何も言わない。

 

 「じゃ、行こっか」

 

 その一言で、三人は走り出した。

 

 最初のうちは、大津がほとんど一人で喋っていた。

 

 この前見たレース動画の話。

 

 最近気になってるホイールの話。

 

 それから、春になったらどこまで走りに行くか。

 

 話題は尽きない。

 

 浜松さんはいつも通り、必要な時にだけ短く返していた。

 

 俺も返事はしていたはずだけど、自分でもわかるくらい上の空だった。

 

 ペダルを回す。呼吸を整える。

 

 身体はちゃんと動いている。

 

 でも頭の中だけが、まるで別の場所を走っていた。

 

 卯月の声が浮かぶ。

 

 ——私、蓮真くんのこと好きだよ

 

 のどかの声が重なる。

 

 ——待たせるのが当たり前だとは思わないでね

 

 その上に、麻衣先輩の声。

 

 ——曖昧に優しくするのが、一番だめよ

 

 「……」

 

 脚に少しだけ力を入れる。

 

 坂に入る。

 

 湘南平へ向かう登りは、会話を減らしてくれるから助かる。

 

 きつい時に、無理に喋る必要はない。

 

 その分だけ、自分の中の声が大きくなる。

 

 昨日のライブ。

 

 のどかと卯月の、ほんの一瞬のズレ。

 

 安濃さんたちが埋めた綻び。

 

 そして、何もなかったふりをして届いたLINE。

 

 《ライブどうだった?きっしー!》

 

 《ちゃんと見てたよね蓮真?》

 

 《ああ、良かったよ。とても》

 

 自分で打った文章が、今さらみたいに重い。

 

 (……あれ、完全に逃げだろ)

 

 考える時間が必要。

 

 ちゃんと答えたい。

 

 中途半端にしたくない。

 

 言い訳はいくらでも浮かぶ。

 

 でも、それを並べている間にも、相手は待たされる。

 

 それを分かっていて、まだ動かない。

 

 (……結局、俺が楽したいだけなんじゃねえのか)

 

 息が上がる。太ももが重くなる。

 

 でも、そっちはまだ分かりやすい。

 

 脚がきついなら、踏めばいい。

 

 苦しいなら、耐えればいい。

 

 恋愛はそうじゃない。

 

 「っ……」

 

 少しだけギアを落とす。

 

 前を走っていた大津が振り返る。

 

 「岸和田、大丈夫?」

 

 「脚は平気だよ」

 

 そう返すと、大津は「脚は、ってなんだよ」と笑った。

 

 その言い方が妙に引っかかる。

 

 脚は平気。

 

 じゃあ、平気じゃないのは何だ。

 

 そんなの、分かりきっていた。

 

 湘南平の頂上に着いた頃には、身体の芯まで熱くなっていた。

 

 自販機の前で止まって、ヘルメットを少しだけ浮かせる。

 

 冬なのに、額に汗が滲んでいる。

 

 「うわー、しんど」

 

 大津が大げさに言って、自販機の前にしゃがみ込む。

 

 「お前それ、毎回言ってるな」

 

 「でも毎回しんどいから仕方ないじゃん」

 

 そう言いながら、大津はスポーツドリンクを買った。

 

 「なんか固形物も欲しいな……あ、売店の方行ってくるね」

 

 「行ってらっしゃい、美凪ちゃん」

 

 浜松さんが答える。

 

 大津は「夏帆も岸和田も、なんかいる?」と聞いてきたが、二人とも首を振った。

 

 「じゃ、適当に見てくる」

 

 そう言って、ひとりで少し離れていく。

 

 残されたのは、俺と浜松さんだけだった。

 

 風が吹く。

 

 登ってきた熱を、少しずつ持っていかれる。

 

 浜松さんはベンチに軽く腰掛けて、ボトルの水を一口飲んだ。

 

 それから、こっちを見ずに言う。

 

 「なんか今日、岸和田くんしんどそうだね」

 

 少し間を置いて、「脚じゃなくてね」と続いた。

 

 「……」

 

 すぐには返せなかった。

 

 その沈黙を、浜松さんは急かさない。

 

 「……そう見える?」

 

 ようやくそれだけ返す。

 

 「見えるよ」

 

 浜松さんはあっさり言った。

 

 「今日はずっと、考えながら走ってる顔してたよ」

 

 苦笑が漏れる。

 

 隠せてるつもりだったわけじゃない。

 

 でも、見抜かれるとやっぱり少しだけきつい。

 

 「……前にさ」

 

 自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。

 

 「浜松さんに言ったことあるよな」

 

 浜松さんは、静かに頷く。

 

 「うん……あるね」

 

 「あの時、俺さ」

 

 喉が少し乾く。

 

 でも、言う。

 

 「誰かに好かれるのが、怖いんだと思う、って」

 

 「……うん」

 

 「傷つけたくないって言いながら、距離を保とうとしてる。でも、それって結局、俺が楽なだけで」

 

 風が、また少し吹く。視線を足元に落とす。

 

 「……浜松さんには、それをしたくなかった」

 

 言い終えてから、少しだけ間が空いた。

 

 浜松さんは、すぐには何も言わなかった。

 

 責めるわけでもなく、慰めるわけでもなく、ただちゃんと受け取っている沈黙だった。

 

 「私はね、岸和田くん」

 

 やがて、浜松さんが口を開く。

 

 「ちゃんと振られたから、今ここにいるんだと思う」

 

 「……」

 

 「傷つかなかったわけじゃないよ」

 

 少しだけ笑う。

 

 でも、それは軽く流すための笑いじゃなかった。

 

 「普通に、しんどかったし」

 

 「しばらくは、会いたくないなって思ったこともあった」

 

 そこまで言ってから、浜松さんはこっちを見る。

 

 「でも、中途半端に優しくされるより、ずっとよかった」

 

 「……」

 

 胸の奥に、重く落ちる。

 

 分かっていたことを、別の人の言葉で言われるのはきつい。

 

 しかも、それが自分に好意を向けてくれた相手なら、なおさらだ。

 

 浜松さんは責めない。

 

 でも、逃がしもしない。

 

 「だから」

 

 声は静かだった。

 

 「今の岸和田くんが誰かにしてることって、たぶん岸和田くんも、自分が一番嫌いなやり方なんじゃないかな」

 

 「……っ」

 

 息が詰まる。

 

 否定できない。

 

 できるわけがない。

 

 昨日からずっと頭の中を回っていたことを、浜松さんがそのままの形で置いていった。

 

 「私は、あの時ちゃんと向き合ってくれたの、嬉しかったよ」

 

 浜松さんは続ける。

 

 「結果はだめでも、ちゃんと終われたから、今こうして普通に友だちに戻れてる」

 

 「でも」

 

 一拍。

 

 「今回は、それじゃ済まない相手なんでしょ」

 

 その言葉で、目の前の景色が少しだけ変わった気がした。

 

 浜松さんとは、終わったから戻れた。

 

 傷つけた。傷つけたけど、終わらせた。

 

 だから、今ここにいる。

 

 でも、のどかと卯月は違う。

 

 まだ終わっていない。

 

 どちらにも何も返していない。

 

 それなのに、自分だけが、考えてる途中の場所にいる。

 

 (……終わることすら、決めてない)

 

 その事実が、急に重さを持つ。

 

 今までは、保留しているつもりだった。

 

 でも違う。

 

 保留じゃない。

 

 相手を待たせたまま、自分だけ決めずにいる状態だ。

 

 それは優しさじゃない。

 

 ただ、自分が傷つきたくないだけかもしれない。

 

 「……俺さ」

 

 自分でも、声が少し低くなっているのがわかった。

 

 「誠実でいたいつもりではいたんだよ」

 

 「うん」

 

 「ちゃんと答えようとは思ってる」

 

 「うん」

 

 浜松さんは否定しない。

 

 だから余計に、続けるしかなくなる。

 

 「でも、今の俺」

 

 少しだけ笑う。自嘲に近い形で。

 

 「全然、誠実じゃないんだよ……」

 

 浜松さんは、それにもすぐには返さなかった。

 

 少しだけ視線を空に向けてから、静かに言う。

 

 「気づけたなら、まだ大丈夫なんじゃない?」

 

 慰めじゃない。

 

 甘やかしでもない。

 

 ただ、事実として置いてくれる言い方だった。

 

 その時、遠くから大津の声が飛んでくる。

 

 「おーい二人とも、パン買ったよ!」

 

 見ると、片手にあんパン、もう片方に缶コーヒーを持って、こっちへ歩いてきていた。

 

 「お前、ほんとに買ってきたのか」

 

 「疲れた後のあんパンは正義だから!」

 

 浜松さんが少しだけ笑う。

 

 その笑い方は、さっきまでより少しやわらかかった。

 

 「岸和田くん」

 

 「ん?」

 

 「ちゃんと決めてね」

 

 それだけ言う。

 

 短い。

 

 でも、十分だった。

 

 「……うん」

 

 ようやく、そう返す。

 

 大津が戻ってきて、また空気が少し軽くなる。

 

 でも、さっき置かれた言葉はそのまま残っていた。

 

 誰かに好かれるのが怖い。

 

 傷つけたくないと言いながら、距離を取る。

 

 それって結局、自分が楽なだけ。

 

 前に自分で言った言葉が、そっくりそのまま今の自分に返ってきている。

 

 しかも今度は、のどかと卯月に対して。

 

 ボトルの水を飲みながら、俺は静かに息を吐いた。

 

 答えはまだ出ていない。

 

 でも一つだけ、もう誤魔化せないことがある。

 

 今のままは、自分が一番嫌っていたやり方だ。

 

 それだけは、もうはっきりしていた。

 

 家に戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。

 

 ロードを玄関先に入れて、ヘルメットを外す。

 

 身体の疲れはある。脚も張っている。

 

 でも、それ以上に頭の中の方がうるさかった。

 

 誰かに好かれるのが怖い。

 

 傷つけたくないと言いながら、距離を取る。

 

 それって結局、自分が楽なだけ。

 

 浜松さんに返された言葉が、まだそのまま残っている。

 

 しかも、何より厄介なのは、自分でもそれを否定できないことだった。

 

 「……」

 

 ベッドに腰を下ろす。

 

 冷蔵庫から水を出して一口飲む。

 

 喉を通る冷たさだけが、少しだけ現実的だった。

 

 スマホが震えたのは、その時だった。

 

 ポケットから取り出して、画面を見る。

 

 表示された名前に、一瞬だけ目が止まる。

 

 『安濃八重』

 

 「……え」

 

 小さく息が漏れる。

 

 開く。

 

 《こんばんは、きっしーくん》

 

 《突然ごめんね。きっしーくん、今週平日で空いている日はある?》

 

 「……やっぱりか」

 

 思わず、そう呟いていた。

 

 どうして安濃さんが俺の連絡先を知っているのか。

 

 その疑問は、数秒で答えがついた。

 

 卯月のお母さんか、麻衣先輩経由か。

 

 たぶん、そのあたりだろう。

 

 でも、そこは本質じゃない。

 

 問題は、何のために連絡してきたかだ。

 

 そんなの、考えるまでもなかった。

 

 のどかと卯月のことだ。

 

 頭の奥に、前に言われた言葉がそのまま蘇る。

 

 ——まあ、どっちか泣かせたら、サブリの私が許さないけど。

 

 ——ちゃんと応えてあげなよ。多分二人とも、そろそろ自分の気持ちを伝えたいって思ってるから。  

 

 ——ちゃんと悩み続けること。

 

 ——中途半端に距離を取らない。中途半端に優しくしない。逃げない。

 

 ——それができるなら、私は味方する。

 

 「………」

 

 スマホを持つ手に、少しだけ力が入る。

 

 浜松さんに言われたことと、ほとんど同じだった。

 

 違う言葉で。

 

 でも、同じ場所を刺してくる。

 

 外側から見れば、やっぱりそうなんだろう。

 

 俺は今、逃げている。

 

 答えを出していないこと自体が、もう一つの答えみたいになり始めている。

 

 カレンダーアプリを開く。

 

 平日の予定をざっと確認する。

 

 二十三日なら、動ける。

 

 《こんばんは安濃さん》

 

 《二十三日なら空いてるよ》

 

 送信して、少しだけ待つ。

 

 既読はすぐについた。

 

 そして、今度は向こうから間を置かずに返ってくる。

 

 《了解》

 

 《じゃあ渋谷の109で待ち合わせでいい?》

 

 「……109か」

 

 思わず口に出る。

 

 安濃さんらしい、のかもしれない。

 

 芸能の仕事帰りでも、買い物でも、あのあたりは慣れていそうだし、待ち合わせ場所としてもわかりやすい。

 

 ただ、俺にとってはあまり馴染みのある場所じゃない。

 

 だからこそ少しだけ、身構える。

 

 でも、今さら場所くらいで躊躇うのも違う。

 

 《わかった。時間は合わせるよ》

 

 そう返してから、スマホを机に置く。

 

 部屋の中は静かだった。

 

 なのに、何かが少しずつ動き出している感じだけがあった。

 

 二十三日。渋谷109。

 

 たぶん、その日また何かが変わる。

 

 変わらないままじゃいられない。

 

 そう思いながら、俺はもう一度だけ深く息を吐いた。

 




物語解説

今回の章では、答えを出さないまま進み続けることが、どのような形で現実に影を落とすのかを描きました。

卯月との告白、のどかの言葉。

どちらも受け取ったまま、蓮真はまだ選ばずにいます。

その状態は一見、時間をかけて考えているだけのようにも見えます。

しかし実際には、「待たせている」という形で関係を変化させていきます。

今回、その歪みははっきりと表に現れました。

ステージの上で起きた、ほんの一瞬のズレ。

誰も気づかない程度の違和感ですが、当事者と、その場にいる人間には確実に伝わるものです。

同時に、周囲の視点も加わります。

郁実の「中途半端が一番疲れる」という言葉。

夏帆の「それは自分が一番嫌いなやり方ではないか」という指摘。

そして八重の「逃げないこと」という基準。

それぞれが違う立場から、同じ一点を示しています。

選ばないままでいることは、優しさではない。

その認識が、蓮真の中でようやく形を持ち始めました。

一方で、この章では「戻れなさ」も同時に描いています。

告白を受け取った時点で、関係はすでに変わっている。なかったことにはできず、元の距離にも戻れない。

それでも答えはまだ出ていない。

その宙ぶらりんな状態こそが、本章の中心にあるテーマです。

日常の延長に見える時間の中で、確実に進んでしまう関係と選択。それを自覚したとき、人はどのように向き合うのか。

今回の物語は、その「気づき」の段階を描く章になりました。

次回からは八重が動き出したことで、外側からの圧力と提示も加わります。

二十三日、渋谷での対話が、蓮真に何を突きつけるのか。そして、彼がどのように答えを出すのか。

次回も、ぜひ見届けていただけたら嬉しいです。

蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?

  • 豊浜のどか
  • 広川卯月
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