青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
おかげさまで、本作のUAが2万を超えました。
ここまで続けてこられたのは、間違いなく読んでくださっている皆さんのおかげです。
感想や評価、しおりやお気に入り一つ一つが、更新を続ける大きな支えになっています。本当にありがとうございます。
今回は、少し流れを変えて、これまでの時間を辿る回になっています。
派手な展開ではありませんが、この先の選択に向けて必要な整理の章です。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
二月二十一日
藤沢駅の通路を抜けて、北口へ向かう人の流れに乗る。
夕方の時間帯。仕事帰りと学生が混ざって、ホームからの階段はいつもより少しだけ混んでいた。
人の流れに押されるようにして外へ出る。
そのまま北口へ向かうはずだった。
「……」
足が、ほんの一瞬だけ止まる。
視線が、無意識に南口の方へ向いた。
俺はこの時、少し前に考えていたことを思い返していた。
ブランコと鉄棒があるだけの、何でもない場所。
江ノ電の石上駅の近く。自宅のすぐそばにある公園。
(……別に、ここで何かあったわけじゃないのに)
なのに、引っかかる。でも、理由は分かっている。
「……一週間、か」
小さく呟く。
告白されてから、一週間。
場所は違う。
あの時いたのは、別の公園だ。
でも……
(……こういう場所、だったよな)
夜。人もいなくて、逃げ場もなくて。
言葉だけが残る場所。
卯月の声が浮かぶ。
——私、蓮真くんのこと好きだよ
のどかの声が重なる。
——待たせるのが当たり前だとは思わないでね
どっちも、まだそのまま残っている。
消えていない。
「……」
息を吐く。
(……何も、返してねえな)
分かっている。
分かっていて、何もしていない。
時間だけが過ぎている。視線を公園から外す。
ここに立っていても、何も変わらない。
(……むしろ、進んでるからまずいんだろ)
十八日のライブ。
あの一瞬のズレ。
全部、止まっていない証拠だ。
それなのに、自分だけが決めきれていない。
「……」
少しだけ、目を閉じる。
(……で、明後日か)
頭の中に、別の予定が浮かぶ。
二月二十三日。
渋谷109。安濃八重。
何を話されるかなんて、考えるまでもない。
「……だよな」
小さく呟く。
のどかと卯月のこと。
それ以外、あり得ない。
しかも、逃げ場のない形で来る。
安濃さんはそういうタイプだ。
(……何を話すか、じゃねえな……何を聞かれるか、だ)
苦笑が漏れる。想像はつく。
でも、答えはまだない。それが一番厄介だった。
「……」
そのまま、視線を切る。
南口じゃない。今行くべきは、北口だ。
仕事がある。考えないで済む時間がある。
それだけでも、今は十分だった。
雑居ビルへ向かって歩き出す。
見慣れた道。見慣れた景色。
でも、どこかだけ距離がある。
ビルに入って、エレベーターの五階のボタンを押す
ドアが開く。
「お疲れ様です」
受付の先生の声に軽く返す。
教室の方へ目をやる。
(……あ)
少しだけ、肩の力が抜けた。
「……今日は梓川先生いないんですか?」
思わず口に出る。
「今日は、梓川くんはお休みですね」
受付の先生が答える。
「……そうですか」
それだけ返して、自分の教室へ向かう。
(……いない、か)
ほんの少しだけ、安堵している自分がいる。
あいつに見られたら、たぶん一発でバレる。
何も言わなくても。そういうやつだから。
「……」
鞄を置いて、教材を取り出す。
授業の準備をする。
手を動かしている間だけ、余計なことを考えなくて済む。
(……とりあえず、今はこれでいいか)
完全な逃げだと分かっている。
でも、今はそれでいい。
もうすぐ授業が始まる。時間も進む。
その中にいれば、少なくとも立ち止まらなくて済む。
「……」
教壇に立って、軽く息を吐く。
(……あとで考えればいい)
そう思った時点で、それが「あと回し」だと分かっていた。
それでも。今はまだ、その選択しかできなかった。
授業が始まったのは十八時で、終わったのは十九時二十分過ぎだった。
廊下に出た瞬間、さっきまでの集中が一気にほどけた。
生徒のざわめき。隣の教室から漏れる声。コピー機の音。
全部、いつも通りだ。
(……いつも通り、のはずなんだけどな)
その中に立っている自分だけが、少し浮いている気がした。
すると、隣の教室から声をかけられた。
「あ、蓮真先生」
顔を上げると、見慣れた女子生徒がこちらを見ていた。
「姫路さん」
「お疲れ様です」
軽く頭を下げてくる。いつも通りの距離感。
そのまま、少しだけいたずらっぽく笑って。
「そういえば蓮真先生。お二人からチョコは貰えたんですか?」
「……」
一瞬、思考が止まる。
軽口だと分かっている。
この時期、この年頃なら、別に珍しくもない話題だ。
でも。
(……タイミング悪すぎだろ)
喉の奥で、言葉が引っかかる。
返せるはずの軽い返答が、うまく出てこない。
その沈黙を見て、姫路さんが少しだけ首を傾げた。
「……あれ?」
その一瞬で、空気がわずかに変わる。
「……姫路さんさ」
自分でも少しだけ声が固いのが分かった。
「まさか……まだ千里眼の思春期症候群が治ってないってわけじゃ、ないんだよな?」
言ってから、ほんの少しだけ間が空く。
廊下の音が、やけに遠く聞こえた。
姫路さんの表情が、一瞬だけ固まる。
「……ごめんなさい」
すぐに言う。
「そういうつもりじゃなくて」
視線が、少しだけ下がる。
でも完全に逸らさない。
そのまま、こちらを一度だけ見て。
「……ちょっと、言い方悪かったですね」
静かに続ける。
軽く流すわけでもなく、過剰に謝るわけでもない。ただ、少しだけ距離を取るみたいに。
そのやり取りの横で、「……岸和田」と、いつの間にか出てきていた双葉が、小さく呼ぶ。
そしてすぐに、姫路さんの方へ視線を向ける。
「姫路さん、大丈夫?」
声音は落ち着いている。
でも、ほんの少しだけ柔らかい。
「大丈夫ですよ。気にしないでください、理央先生」
姫路さんは小さく頷く。
双葉は一拍置いてから、自然な流れで言葉を重ねた。
「そういえば、そろそろお母さん迎えに来る時間じゃないの?」
「あ……」
「連絡してあげたら?」
押し付けない言い方。
でも、ちゃんと背中を押す。
「……はい、連絡してきます」
「ありがとうございます。理央先生」
「蓮真先生も、また今度」
姫路さんはスマホを取り出しながら、小さく会釈する。
去り際、もう一度だけこちらを見て、何か言いかけてやめたのが分かった。
そのまま、廊下の奥へ歩いていく。
足音が、ざわめきに紛れて消える。
「……」
残されたのは、俺と双葉だけだった。
双葉は一度だけ姫路さんの背中を確認してから、ゆっくりとこちらを見る。
「岸和田」
双葉が呼ぶ。
「……何だよ」
「今の、ちょっと強かったよ」
淡々とした指摘。責めるでもなく、事実を置くだけ。
「……分かってる」
短く返す。
双葉は少しだけ肩をすくめる。
「まあ、姫路さんも悪気あったわけじゃないだろうけどね」
「そうだろうな」
「むしろ、何も知らないからああいうこと言えるんだと思う」
その言い方が、妙に引っかかる。
「……何も知らない、か」
「そう」
双葉はあっさり頷く。
「岸和田が今、どれくらい面倒な状況にいるかなんて、普通の人には分からないでしょ」
「……」
否定できない。
むしろ、そう見えてるならまだマシな方かもしれない。
双葉は少しだけ間を置いてから、続ける。
「でも」
視線が、こっちに向く。逸らさない。
「私は、逃げようとしてるのは分かる」
「……」
言葉が詰まる。
図星だった。
「……桜島先輩の妹さんと、そのアイドル仲間」
「豊浜さんと広川さん、でしょ」
名前を出される。
「……」
息を吐く。
図星を重ねてくるタイプだとは分かっている。
でも、今はそれがきつい。
双葉はそれ以上は踏み込まない。
でも、少しだけ視線を外してから、ぽつりと言う。
「私もさ、最近、似たようなことあったから」
「……加西くんか」
双葉が小さく頷く。
「そう」
「でも、私は断った」
「生徒とは付き合えないし」
「……それに」
ほんの一瞬だけ、言葉が止まる。
「私は……国見のこと、まだ整理できてないから」
それだけ。それ以上は言わない。
でも、それで十分だった。
「……だから、担当も、咲太と変えたのか」
「そう。梓川に相談して、姫路さんと交換してもらった」
「気まずいまま続けるよりは、そっちの方がいいと思ったから」
双葉らしい判断だった。
合理的で、でも逃げじゃない。
ちゃんと「やめる」を選んでいる。
「……」
沈黙が少しだけ落ちる。
双葉は、もう一度だけこちらを見る。
「岸和田はさ、青春ニブ野郎だけど」
「……悪口だよな、それ」
「事実でしょ」
即答。
少しだけ口元が緩む。そのまま、続ける。
「でも。私は分からないでもないよ」
「……」
その一言が、思ったより重かった。
双葉が「分かる」と言うのは、安易な共感じゃない。
理解した上で言っている。
「私も、私なりに、どこかで答えは出したいと思ってる」
「岸和田も頑張りなよ」
淡々としている。
でも、突き放してはいない。
「……まあ」
ほんの少しだけ間を置いて、
「相手はアイドルだし、そんな簡単じゃないと思うけど」
肩をすくめる。
現実的すぎる一言だった。
「……だな」
短く返す。
それ以上の言葉は、出てこなかった。
双葉はそれで十分だと思ったのか、それ以上は何も言わなかった。
「じゃ、私は日報あるから」
「ああ」
双葉はそのまま教室に戻っていく。
足音が、廊下のざわめきに紛れて消える。
「……」
一人、残る。
さっきと同じ場所。同じ時間。同じ空気。
でも。
(……逃げてるのは、間違いないか)
自分で思って、苦笑が漏れる。
否定できない。
できるわけがない。
「……めんどくせえな、俺」
小さく呟く。
でも、その言葉の中身は、もうはっきりしていた。
面倒なのは、状況じゃない。決めきれない自分だ。
そのまま、ゆっくりと歩き出す。
授業はまだある。時間も、止まらない。
考えるしかない。
もう、それしか残っていなかった。
二月二十三日
正午前の渋谷は、朝と夜の間の顔をしていた。
人は多い。でも、まだピークじゃない。
スクランブル交差点を渡る人の流れも、夕方ほどの圧はない。
(……この時間、こんなもんだったな)
センター街の入口を横目に見ながら、歩く。
渋谷に来ること自体は珍しくない。
目黒の実家からも近いし、買い物や用事で来ることもある。
でも……
(……109は、あんまり来ねえんだよな)
視線の先に、あの建物が見える。
白い外壁。大きく掲げられた「109」の数字。
若い女の子たちが出入りする流れ。
どこかだけ、自分の動線から外れている場所。
(……俺は、どっちかっていうと)
足は自然と、別の方向を思い出す。
スペイン坂の上。渋谷PARCOの方。
それか、桜丘口。コスモプラネタリウム渋谷のあるあたり。
あっちの方が、落ち着く。
人はいるけど、騒がしすぎない。時間がゆっくり流れる場所。
「………」
足が、ほんの少しだけ止まりかける。
(……そっち行く理由、今日はないだろ)
頭の中で、自分でツッコミを入れる。
今日は、109だ。
安濃さんとの待ち合わせ。
場所は決まっている。逸れる理由はない。
それでも。
(……あそこ、だったよな)
ふと、思い出す。
プラネタリウムのある建物の中。
図書館の静かなスペース。
三人で座っていた机。
ノートを広げて、問題を解いて、時々雑談して。
あの時は、ただの受験勉強だった。
でも。
(……違うか)
今なら分かる。
あれは、ただの勉強じゃなかった。
同じ時間を共有して、同じ方向を見ていた時間だ。
卯月の声が、浮かぶ。
——私たち、武道館目指してるから!
あの時は、笑っていた。
少しだけ大げさで、でも本気で言っているのが分かる声だった。
のどかは横で、「卯月って、たまにリーダーっぽいこと言うよね」って流しながらも、否定はしなかった。
「……」
視線が、少しだけ下がる。
(……今も、だよな)
あの時だけの話じゃない。
あいつらは、今も同じことを言っている。同じ場所を見ている。
それは、続いている。
過去じゃない。現在だ。
「……」
喉の奥が、少しだけ詰まる。
(……そこに、俺が入ってる)
自分で思って、嫌になる。
関わってしまっている。
距離を取っているつもりでも、もう外側にはいない。
「……そんな夢を」
小さく、声が漏れる。
「俺のせいで台無しにしたら、終わりだろ……」
誰にも聞こえないくらいの声。でも、耳には残る。
「……」
顔を上げる。視線の先に、109がある。
現実が、そこにある。逃げ場のない形で。
(……で、今日はその話、か)
考えるまでもない。
安濃さんが俺を呼び出した理由。
のどかと卯月。
そして、俺との関係。
「……だよな」
小さく呟く。
笑いは出ない。
ただ、分かっているだけだ。
(……何を話すか、じゃない。……何を言わされるか、だ)
あの子は、回りくどいことをしない。
核心を、そのまま持ってくるタイプのはずだ。
逃げ道は、用意されていない。
「………」
ポケットの中のスマホに、無意識に触れる。
連絡は来ていない。時間も、まだ少しある。
それでも……
(……もう、行くしかねえか)
ゆっくりと、歩き出す。
人の流れに紛れて、109の前へ向かう。
一歩ごとに、距離が縮まる。
それと同時に、逃げ場も消えていく。
建物の前に着く。人が多い。
待ち合わせをしている人たち。
スマホを見ている人。笑っている声。
全部、いつも通りだ。
でも……
(……ここで、変わる)
そう思った。
今日、この後の会話で、何かは、確実に変わる。
戻れない形で。
「……」
小さく息を吐く。
覚悟なんて、できていない。でも、来てしまった。
それだけは、事実だった。
視線を上げる。
109の前。人の流れの中に、見慣れた姿があるかどうかを探す。
その瞬間。ほんの少しだけ、心臓の音が強くなった。
人の流れの中に、見慣れた姿を見つける。
「あ」
向こうも気づいたらしい。
軽く手を上げてくる。
「お、きっしーくん」
「……どうも」
少しだけ距離を詰める。
実際に会うのは、一月の中郷さんのバースデーライブの時以来だ。
ステージの上じゃない分、距離感が少し違う。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たとこ」
定型文みたいなやり取り。
でも、それでちょうどいい。
「ほんと?ならよかった」
安濃さんは軽く笑う。
ステージの上と同じ顔。でも、少しだけ力が抜けている。
「きっしーくん、迷わないで来てくれたし、渋谷詳しそうだね」
歩き出しながら、そんなことを言う。
「まあ……慣れてはいるかな」
「へえ」
少しだけ興味ありげに覗き込まれる。
「この辺住んでるの?」
「いや、目黒」
「あ、そうなんだ」
少しだけ目を丸くしてから、笑う。
「きっしーくん、都会っ子だねぇ」
「そういう安濃さんは?」
「私は和光市」
あっさり返ってくる。
「……なるほど」
自然と頷く。
「だからこの前のライブも池袋だったのか」
「あー、まあそれもあるかもね。副都心線一本で来れるし」
「今日もそのまま渋谷って感じ」
「……効率いいな」
「でしょ?」
少しだけ得意げに笑う。
そのまま、二人で並んで歩く。
109の横を抜けて、すぐの通りへ。
「ここでいいかな」
安濃さんが足を止める。
視線の先にあるのは、落ち着いた外観の喫茶店。
珈琲茶館 集 プレミアム渋谷駅前店
「……ここか」
思わず、口に出る。
「知ってる?」
「まあ、何回か」
ドアを押して中に入る。
外のざわめきが、一気に遠くなる。
照明は落ち着いていて、空気が静かだ。
クラシックな内装。重厚なソファ。低めのテーブル。
高級ホテルのラウンジみたいな雰囲気。
「……安濃さん、こういう場所好きなんだな」
席に着きながら、そう言う。
少しだけ意外だった。
もっと、明るくて流行りのカフェみたいな場所を選ぶと思っていたから。
安濃さんは、メニューを軽く閉じてからこっちを見る。
「意外だった?」
「……まあ」
正直に頷く。
「もっと、最近のトレンドっぽいとこかなって思ってた」
「映えとか?」
「そういうの」
「ふーん」
少しだけ笑う。そのまま、視線をテーブルに落として。「ここさ……」と、一拍置く。
「前に一回来たことあるんだよね」
「……」
少しだけ、言葉の重さが変わる。
軽い雑談の流れのはずなのに、どこか引っかかる。
「のどかがさ」
その名前が出た瞬間、空気がほんの少しだけ締まる。
「初めてシングルでセンターやるって決まったライブのあと」
「みんなで来たんだ」
「お祝いで」
「……」
言葉が、静かに落ちる。
騒がしくない店内だからこそ、余計に残る。
「その時も、ここだった」
「……そうなんだ」
短く返す。
それ以上の言葉は、すぐには出てこない。
(……ここか)
店内を、ほんの一瞬だけ見回す。
重厚なソファ。落ち着いた照明。静かな空気。
(……あいつら、ここで笑ってたのか)
その光景が、勝手に浮かぶ。
のどかが少しだけ照れた顔をして。
卯月がいつも通り騒いで。
安濃さんがそれをまとめて。
岡崎さんや中郷さんもいて。
(……同じ場所、なんだな)
ただの店じゃない。
あいつらの時間が積み重なってる場所だ。
「……」
喉の奥が、少しだけ詰まる。
(……そこに、今俺が座ってる)
その事実が、妙に重い。
安濃さんは、それ以上説明しない。
ただ一度だけ、こっちを見る。
「でさ」
軽く言葉を繋ぐ。
でも、さっきまでとは明らかに違うトーンで。
「今日はさ……真面目な話だから」
「……」
そこで、雑談が終わる。完全に。
さっきまでの空気が、静かに切り替わる。
「……」
ウェイターが来て、水を置く。
注文を軽く済ませる。
コーヒー。それだけ。
無駄なものはいらない。
「……」
注文が終わると、少しだけ間が落ちる。
さっきまでの雑談が、そこで一度切れる。
(……来るな)
そう思う。
ここから先は、たぶん軽くない。
雑談は終わり。ここを選んだ理由も、もうはっきりしている。
ただ落ち着いた場所だからじゃない。
逃げにくい場所。誤魔化せない場所。
それに加えて……
(……あいつらの場所、か)
余計に、逃げられない。
「……」
安濃さんは、まだ何も言わない。
でも、視線は外さない。こっちを見ている。
「……」
視線を受け止める。逸らさない。
逸らしたら、その時点で終わる気がした。
店内の静けさが、少しだけ重くなる。
外の渋谷とは、まるで別の場所みたいだった。
(……逃げ場、ねえな)
心の中で、小さく呟く。
来る前から分かっていたこと。
でも、今ここに座ると、それがはっきり形になる。
コーヒーが運ばれてくる。
カップがテーブルに置かれる音が、やけに小さく響いた。
湯気が、ゆっくりと立ち上る。
その向こうで。安濃八重が、ようやく口を開いた。
「……岸和田くんさ」
その呼び方が、最初に引っかかった。
さっきまでの「きっしーくん」じゃない。
たったそれだけなのに、空気が変わる。
雑談の終わりが、はっきりと形になった。
「この間のバレンタインデーに、何があったの?」
まっすぐだった。遠回しじゃない。
問いそのものは短いのに、逃げ道がない。
「……」
一瞬だけ、息が詰まる。
でも、ここで誤魔化したら終わる。そう分かっていた。
「……告白された」
短く、そう答える。
安濃さんは何も言わない。
ただ、続きを待つようにこっちを見ている。
「のどかと……卯月に」
そこでようやく、安濃さんが小さく頷いた。
驚いた顔はしない。予想通り、という顔でもない。
ただ、確認しただけみたいに。
「返事はしたの?」
「……いや」
少しだけ間を置いてから、
「まだだよ……」
そう言うと、安濃さんは小さく息を吐いた。
「やっぱりね」
責める口調じゃない。でも、優しくもない。
事実を事実として置くような言い方だった。
「岸和田くんが悩んでるのは、まあ分かるよ」
「でもさ」
一拍置く。その一拍が、妙に長く感じた。
「さすがに、待たせすぎなんじゃない?」
「……」
言葉が出ない。
正論だ。正論だから、余計にきつい。
「二人のこと、嫌いなわけじゃないでしょ?」
「……それは」
否定できるはずがなかった。
好きとか嫌いとか、そういう単純な言葉でまとめられる段階ではないにしても。
少なくとも、向けられた気持ちを軽く見ていないことだけは確かだ。
「……当たり前だよ」
ようやく、それだけ言う。
安濃さんは頷く。
「だよね」
「じゃあ、なんで返事しないの?」
そこでもう一度、核心に戻される。視線を落とす。
コーヒーの湯気が、ゆっくりと上がっている。
「……」
隠しても仕方がない。
ここまで来て、綺麗な言い方だけで済ませるのも違う。
「……怖いんだよ」
ぽつりと漏らすように言う。
「どっちかを選ぶことで」
「今までの関係が壊れるかもしれない」
「それだけじゃなくて」
言葉を探す。でも、探しても綺麗にはならない。
「……スイートバレットの夢まで、台無しにしないかって」
「そういうのが、ずっと頭にある」
「のどかも卯月も、同じステージに立ってて」
「同じ方向見てて」
「そこに俺が入って、何かズレたら」
喉の奥が少しだけ詰まる。
「……終わりだろ、って」
ようやく言い切る。
店の中は静かだった。
だから、自分の声だけがやけに残った。
安濃さんは、すぐには答えなかった。
少しだけ視線を外して、それから戻す。
その表情が、ほんの少しだけ硬くなっているのが分かった。
「……岸和田くん」
声は静かだった。
でも、そこにあった温度は、さっきまでと違った。
「私たちのこと、バカにしてるの?」
「……は?」
思わず、顔を上げる。
予想していなかった角度だった。
「そんなことじゃ、私たちの夢はなくならないよ」
安濃さんは続ける。
「のどかと卯月の関係だって、そんな簡単に壊れない」
「少なくとも、岸和田くんが思ってるほど、やわじゃない」
その言い方には、少しだけ苛立ちが混じっていた。
でも、感情だけじゃない。ちゃんと当事者として言っている声だった。
「むしろさ」
安濃さんの視線が、まっすぐこっちに向く。
「岸和田くんが、ちゃんと返事しないことの方が迷惑」
「……」
「何より」
一拍。
「のどかと卯月が、可哀想だよ」
その一言が、いちばん重かった。
夢とか、グループとか、そういう大きな話じゃない。
ただ二人の気持ちの話として、真ん中を刺された。
「……」
言葉が出ない。
安濃さんは、そのまま続ける。
「私、前に言ったよね」
「中途半端に距離を取らない」
「中途半端に優しくしない」
「逃げない」
区切りながら、ひとつずつ置いていく。
「それができるなら、私は味方するって」
「……」
「でも今の岸和田くんじゃ」
少しだけ、目を細める。
怒っているというより、失望に近い顔だった。
「私は、味方なんかできない」
その瞬間だった。
何かが、切れた。
「……そんなこと」
「そんなこと、わかってるよ!」
自分でも驚くくらい、強い声が出た。
店の静けさに、声がぶつかる。
カップの湯気が、まだ上がっている。
それだけが妙に現実的だった。
「……」
言ったあとで、空気が止まる。
安濃さんは、動じなかった。
驚いた顔もしない。ただ、そのままこっちを見ている。
「……わかってるよ」
安濃さんが、静かに言う。
「わかってるのに、できてないんでしょ」
「……っ」
息が詰まる。
そこまで言われた瞬間、さっきの言葉が全部そのまま自分に返ってくる。
わかっている。
待たせすぎていることも。
中途半端なままなのも。
可哀想なのも。
全部、わかっている。
わかっていて、それでも決められていない。
その事実だけが、急に剥き出しになる。
「……」
視線が落ちる。
拳が、膝の上で少しだけ震えていた。
怒っているのか。
追い詰められているのか。
自分でも、よく分からない。
ただひとつだけ分かるのは。
今の声は、安濃さんにぶつけたものじゃない。
ずっと前から、自分の中に溜まっていたものが、そのまま漏れただけだということだった。
「……悪い」
ようやく、それだけ言う。
声はもう、さっきみたいな強さを失っていた。
安濃さんは少しだけ息を吐く。
それでも、表情は崩さない。
「別に、謝ってほしいわけじゃないよ」
「でもさ」
「ちゃんとしなよ」
「……」
逃げ道のない言い方だった。
でも、それ以上に。
それが、もう誰か一人の意見じゃないことが分かってしまった。
赤城。
浜松さん。
双葉。
麻衣先輩。
咲太。
そして今、安濃八重。
言葉は違っても、みんな同じ場所を指している。
「……」
店内は静かだった。
外の渋谷はきっと、相変わらず騒がしいままだろう。
でも今の俺には、このテーブルの上だけが現実だった。
逃げ場のない、現実だった。
「………」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
コーヒーの湯気だけが、ゆっくりと立ち上っていく。
店の中は静かで、隣のテーブルの話し声も遠い。
その静けさの中で、安濃さんが少しだけ息を吐いた。
さっきまでより、ほんの少しだけトーンを落として。
「……で、岸和田くんはどうしたいの?」
その問いは、さっきまでとは違った。
責めるためじゃない。逃がさないまま、それでも最後に自分で言わせるための問いだった。
「……」
すぐには答えられない。
視線を落とす。
コーヒーの黒い水面が、少しだけ揺れていた。
どうしたいのか。
そんなの、考えていなかったわけじゃない。
ずっと考えていた。
考えて、考えて、それでも決めきれなくて、ここまで来た。
「……傷つけたく、ない」
ようやく、それだけ言う。声が少し掠れていた。
「どっちも」
「……」
安濃さんは黙って聞いている。だから、続けるしかなかった。
「できるならさ……傷つけない選び方をしたい」
「のどかにも、卯月にも」
「……そして、二人にちゃんと誠実でいたい」
言ってから、自分で少しだけ息を呑む。
綺麗すぎる言い方だと思った。
でも、嘘じゃない。
少なくとも、今の自分の中では一番本音に近かった。
安濃さんは、その言葉をすぐには否定しなかった。
ただ、小さく頷いてから、「それが分かってるならさ」と、静かに言った。
「前も言ったけど」
視線が、まっすぐ向く。
「恋愛って、壊れないようにするものじゃなくて」
一拍。
「壊れても、一緒に直すものなんだと思うんだよね」
「……」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
反論できない。
でも、すぐに納得もできない。
壊れることを前提にする言い方。
それを、怖いと思う自分が確かにいる。
安濃さんは、そのまま続ける。
「きっしーくんってさ」
呼び方が戻る。
それだけで、ほんの少しだけ空気がやわらぐ。
「壊れないように、壊れないようにって、ずっと先回りしてるけど」
「それで今、逆に壊しかけてるじゃん」
「……」
何も言えない。
言えないこと自体が、答えみたいだった。
「だからさ」
安濃さんは肩をすくめる。
「きっしーくんは、ちゃんと選びなよ」
「たとえ、そこでちょっと壊れたとしても」
「それを直すところまで、ちゃんと向き合えばいいんだからさ」
言い方は軽い。でも、軽く流しているわけじゃない。
その軽さの中に、当事者としての強さがある。
「……」
視線が自然と落ちる。
膝の上の拳は、さっきより少しだけ力が抜けていた。
「どっちか泣かせたら、サブリの私は許さないけどさ」
安濃さんは、少しだけ笑う。でも、その目は笑っていない。冗談めかしていても、本気で言っているのが分かる。
「でも」
そのあとに続いた声は、思ったよりもずっとやわらかかった。
「私たちのこと」
「スイートバレットのこと」
「そして、二人のこと」
区切りながら置いていく。
「ちゃんと信じてあげてよ」
「……」
その一言が、一番深く刺さった。
信じていないつもりはなかった。
でも、壊れる前提でしか見られていなかったのだとしたら。
それは、信じているとは言えないのかもしれない。
「……」
長く、息を吐く。店の空気は変わらない。
静かで、落ち着いていて、逃げ場がないまま。
でも、さっきまでとは少し違っていた。
責められているだけじゃない。
選べと言われている。
逃げるなと言われている。
その上で、壊れても直せる側を信じろと、そう言われている。
「……」
視線を上げる。
安濃さんは、もう何も言わない。
言うべきことは全部言い切った、という顔だった。
「……わかった」
小さく、そう言う。
それが何を意味するのか、自分でもまだ全部は分からない。
でも、少なくとも。
このまま止まり続けるわけにはいかないことだけは、もうはっきりしていた。
「ちゃんと、考える」
「……いや」
一度、言いかけて止まる。
それじゃ足りない。
考えるだけじゃ、ここまでと同じだ。
「ちゃんと、選ぶよ」
言い直す。
その言葉が、自分の口から出た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
怖いからだ。
分かっている。
たぶん、自分はまだ、自分の幸せを手に入れること自体が怖い。
手を伸ばして、それを失う未来まで先に見てしまうから。
それでも。
「……」
もう一度だけ、息を吐く。
たとえ怖くても。たとえ壊れるかもしれなくても。
そこから逃げないことが、たぶん今の自分に必要なことなんだろう。
安濃さんは、それを聞いて、小さく頷いた。
「うん」
それだけだった。
でも、その一言で十分だった。
ただ、そこで話を終わらせるつもりはなかったらしい。
安濃さんはコーヒーカップに指先を添えたまま、少しだけ現実的な声に戻った。
「あとさ」
「……?」
「今週の土日は、ライブないんだ」
「スイートバレットのみんなで、日曜日横浜に遊びに行く予定あるから」
「その時、二人の様子は私が見ておく」
「……」
一瞬、言葉の意味を測る。安濃さんは続ける。
「もちろん、私がどうこうできる話じゃないよ」
「でも、きっしーくんが返事を引き延ばしてる間に、二人が変に無理してないかとか、そのくらいは見とけるから」
そこまで言ってから、少しだけ肩をすくめる。
「サブリだしね、私」
冗談っぽい言い方だった。
でも、やっていることは完全に本気だった。
「……そこまでしてくれるのか」
思わず、そう漏れる。
すると安濃さんは、少しだけ呆れたように笑った。
「そこまでっていうか、こっちだって無関係じゃないし」
「のどかも卯月も、同じグループの大事なメンバーだから」
「それに」
一拍。
「きっしーくんが中途半端なままいると、周りも普通に気を遣うんだよ」
「……」
返せない。
それもまた、正しいからだ。
安濃さんはそのまま、今度はもっとはっきりと言った。
「だから、ちゃんと期限決めなよ」
「次のライブ、来月またあるから」
「それまでには、絶対に答え出して」
店の静けさの中で、その言葉だけが妙にはっきり残った。
来月。次のライブ。
曖昧ないつかじゃない、具体的な、逃げられない期限。
「……」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
でも同時に、それでよかったとも思った。
今までの俺は、考えると言いながら、時間の形を持たないまま止まっていた。
だから、どこまでも先延ばしにできた。
でも、今は違う。
次のライブまで。
そこが線になる。
「……わかった」
今度は、さっきよりもはっきりと言う。
「来月のライブまでには、ちゃんと答え出す」
安濃さんは、じっとこっちを見ていた。
その目は、確認している目だった。
言葉だけで終わらせるな、と。そういう目だった。
「うん」
やがて、小さく頷く。
「それでいいんだよ。きっしーくん」
そこで初めて、少しだけ空気が緩んだ。
テーブルの上のコーヒーは、少しずつ湯気を失っていた。
外ではきっと、渋谷のざわめきが変わらず続いている。
でも、今の俺にはもう、その音は遠かった。
代わりに残っていたのは、選ばなきゃいけない、という重さと。
次のライブまでに、必ず答えを出すという、さっきよりもずっと具体的な輪郭だった。
二月二十五日
中央区新川。
土曜の昼過ぎなこともあり、少しだけ人の流れがゆるやかだった。
オフィス街の端にあるビルの一室。そこに、今日の会場がある。
「……ここで合ってるよな」
入口の案内板を確認する。
『学習支援スタートアップ研修』
間違っていない。
ガラス扉の向こうを覗くと、すでに何人か集まっているのが見えた。
「岸和田くん」
後ろから声がかかる。振り返ると、赤城が立っていた。
「……赤城」
「早いね」
「そっちもな」
短い会話。それで十分だった。
赤城はそのまま隣に並ぶ。
特に急かすでもなく、自然に一緒に中へ入る流れになる。
受付で名前を書いて、資料を受け取る。
その時だった。赤城が、ほんの一瞬だけこちらを見る。
「……岸和田くん」
「ん?」
「前より、迷いがなくなった顔してるね」
「………」
一瞬だけ、言葉が止まる。
その言い方は、前みたいに踏み込むものじゃない。
ただ、見えたものをそのまま言っただけ。
それでも。
「……そう見えるか」
「うん」
それだけで、会話は終わる。
赤城はそれ以上何も言わない。追いかけないし、確認もしない。
ただ、そう見えた、という事実だけを置く。
「……」
少しだけ息を吐く。
(……分かるやつには、分かるか)
自分ではまだ整理しきれていない。
それでも、何かは変わっているらしい。その実感だけが、少しだけ残る。
その時だった。
「あ、郁実、岸和田くん」
今度は別の声。振り向くと、上里が手を軽く上げていた。
「上里さんか……」
距離を詰める。
上里はいつも、まっすぐで、地に足がついている感じがする。
「郁実はともかく、岸和田くんも、こういうの来るんだね」
上里が少しだけ意外そうに言う。
「まあ、誘われたからな」
「もしかして郁実に?」
「そうだよ」
横で赤城が小さく頷く。
「ふーん」
それ以上は深掘りしない。そこが上里らしい。
「私もさ、ちょっと興味あって」
「将来のこと考えると、こういう経験あった方がいいかなって」
「……看護師、なるんだもんな」
「そう。だからさ、現場出るなら、こういうの知っておいた方がいいし」
言い方は軽い。でも、中身は現実的だった。
(……変わってねえな)
上里はいつだって理想だけじゃなくて、ちゃんと現実で考えるやつだ。
「そういえば」
上里がふと思い出したみたいに言う。
「このあと、佑真と待ち合わせなんだ」
「……」
ほんの一瞬だけ、間ができる。
「……へえ」
どうにか、それだけ返す。
上里は気にした様子もなく続ける。
「最近さ、冬だから火事多いらしくて。ずっと忙しいみたいで」
「……国見、消防士だもんな」
「そうそう」
軽く頷く。
「今日も本当は来れるかわかんなかったんだけど」
一拍。
「藤沢から、こっち来てくれるって」
その言い方は、特別なものじゃない。
少しだけ嬉しそうで、でも大げさじゃない。
当たり前みたいに受け取っている声だった。
「……そうなんだ」
それだけ返す。それ以上、言葉は続かない。
「岸和田くんは?」
上里が軽く聞いてくる。
「……何が?」
「こういうの終わったあと、予定とかあんの?」
「……別に。特にないよ……」
短く返す。それ以上は言わない。
言えることも、特にない。
「そっか」
上里はそれ以上追わなかった。
そのまま、「じゃあ席座ろっか、沙希、岸和くん」と赤城が自然に話を切り替えてくれる。
会話は、それで終わりだった。
特別なことは何もない。
ただの、日常の一コマ。
「……」
席に座りながら、少しだけ息を吐く。
(……普通、か)
さっきのやり取りを思い返す。
上里にとっては、あれが普通なんだろう。
誰かと付き合っていて。その人と会う約束があって。
しかも、不規則で忙しい相手でも、それを前提にしている。
「……」
視線を前に向ける。
スクリーンの準備が進んでいる。
参加者のざわめき。資料をめくる音。
全部、現実の音だ。
(……できるやつは、できるんだよな)
条件が揃ってるからじゃない。むしろ、揃ってなくても続けている。
そういう関係が、目の前にある。
「……」
胸の奥に、少しだけ引っかかるものが残る。
羨ましい、とは少し違う。でも、遠くないとも思う。
手が届かないわけじゃない。ただ、まだ掴んでいないだけだ。
「……」
赤城が隣で資料をめくる。
上里はその反対側で、メモを取り始めている。
二人とも、もう前を見ている。
ここに来た理由に、ちゃんと向き合っている。
(……俺も、だな)
ゆっくりと、息を吐く。
ここは逃げ場じゃない。でも、閉じた場所でもない。
少しだけ、外に向ける場所だ。
講師が前に立つ。研修が、始まる。
その中で、俺は一度だけ目を閉じてから、ゆっくりと開いた。
止まったままじゃいられない。もう、それだけは分かっていた。
研修が終わったのは、十六時を少し回った頃だった。
椅子を引く音と、資料をまとめる音が重なる。
参加者が少しずつ立ち上がり、出口へ向かっていく。
「……」
ペンを置いて、ゆっくりと息を吐く。
頭は使ったはずなのに、どこか現実感が薄い。
(……ちゃんと聞いてはいたんだけどな)
内容は覚えている。
でも、それ以上に別のことが頭の中に残り続けていた。
「岸和田くん」
横から声がかかる。
「終わったね」
赤城だった。
「ああ」、と短く返す。
上里も立ち上がって、鞄を肩にかけている。
「じゃあ、そろそろ行こっか」
その言葉に、自然と三人で外に出る流れになる。
ビルを出ると、空気が少しだけ冷たかった。
日が傾きかけている。オフィス街の影が、少しずつ長く伸びていた。
「佑真、もう来てるって」
上里がスマホを見ながら言う。
「……早いな」
「今日、時間作ってくれたみたいで」
軽く笑う。
特別な言い方じゃない。
でも、その一言に含まれているものは、ちゃんと伝わる。
「新川公園だって」
「じゃあ、すぐそこだな」
歩き出す。ビルの並びを抜けて、少し開けた場所に出る。
川の匂いが、微かに混じる。
新川公園。
隅田川沿いに、視界が一気に開ける。
永代橋の鉄骨が、夕方の光を受けて鈍く光っていた。
その奥に、中央大橋。さらに先には、佃のタワーマンション群が並んでいる。
川の上を、屋形船がゆっくりと流れていく。
「……」
足が、少しだけ止まる。
(……こういう場所、か)
閉じた場所じゃない。
でも、逃げ場があるわけでもない。
ただ、少しだけ視界が広いだけの場所。
「佑真!」
上里が手を振る。視線の先に、見覚えのある姿があった。
「……国見」
あいつも気づいたらしい。
軽く手を上げてくる。
「おつかれ、上里。それに蓮真も」
距離を詰める。
最後に会ったのは、二月四日。咲太が頭を怪我したあの時以来だ。
「……久しぶりだな」
「そうでもないだろ」
軽く笑う。そのまま、ふと視線をずらして。
「……赤城さんも、久しぶりだね」
「あ、うん。久しぶり」
赤城が軽く会釈する。
赤城は、そのまま少しだけ表情を整えて、「この間の梓川くんの件、ありがとうございました」とお礼を言った。
国見は小さく首を振る。
「いや……俺が着いた時には、もう応急手当て済んでいたし」
「蓮真と一緒にすぐ対応してくれてたの、助かったよ」
「……」
赤城は少しだけ視線を落としてから、「そっか。なら、よかった」とだけ言う。
それ以上は言わない。
でも、その一言で十分だった。
「………」
ほんの一瞬、沈黙が落ちる。
その中で、俺は小さく息を吸った。
(……もしかしたら)
頭の中に浮かぶ。
(……国見なら)
理由ははっきりしない。
でも、こいつなら、と思った。
責めるわけでもなく、誤魔化すわけでもなく。たぶん、一番近い場所から、言葉をくれる。
「……」
一歩だけ、踏み出す。
「……上里さん」
声をかける。
「何?岸和田くん」
上里がこちらを見る。
「悪いんだけどさ」
一瞬だけ言葉を区切る。
「ちょっと、国見と話す時間もらっていいか?」
「………」
上里は少しだけ目を細める。でも、すぐに表情を戻して、
「いいよ。でも、なるべく短くしてよ」
あっさりと頷いた。
「私、先に行ってるから」
「郁実、行こ」
「うん」
そのまま二人は歩き出す。去り際、上里が振り返る。
「佑真、岸和田くんと話すんなら、なるべく早くしてよ。このあとスカイツリーなんだから」
「……わかったよ、上里」
いつもの呼び方で返す。
「………」
二人の背中が、少しずつ遠くなり、やがて人の流れに紛れて、見えなくなる。
残ったのは、俺と国見だけだった。
少しだけ、間が落ちる。
川の音と、遠くの車の音。屋形船のエンジン音が、ゆっくりと流れていく。
「……で」
国見が、先に口を開く。
「なんか話あるんだろ?」
「……」
少しだけ、視線を落とす。言い出すまでの間が、妙に長く感じる。
「……ああ」
短く返す。
「ちょっと、相談したいことあって」
「蓮真が珍しいな」
「まあな」
軽く笑う。でも、それ以上は続かない。
「……」
言葉を選ぶ。
選んでも、綺麗にはならないのは分かってる。
それでも、少しは整えないと、出せない。
「……仲良い女友だちが、二人いてさ」
「ああ」
国見は、遮らない。ただ、聞いている。
「ずっと普通に遊んだりしてたんだけど」
「最近、その二人から……告白されて」
「……」
国見が、少しだけ目を細める。
でも、驚いた顔はしない。
「二人とも、同じグループでアイドルやってて」
「……」
「しかも、その二人……親友なんだよ」
言いながら、自分で状況を整理している感覚があった。
「……で、返事してないのか」
「……ああ」
短く答える。
「できてない」
「なんでだ?」
その問いは、シンプルだった。
責めるでもなく、ただ聞いてくる。
「……」
一瞬だけ、息が詰まる。でも、ここで誤魔化しても意味がない。
「……壊れるかもしれないから」
「今までの関係も、その二人の、やってることも」
「……」
国見は黙って聞いている。だから、続けるしかなかった。
「俺がどっちか選んだら、その瞬間に、三人の関係が変わる」
「それだけじゃなくて」
「……その二人の仕事にも、影響が出るかもしれない」
「……」
言葉が、少しずつ形になる。
「だから……返事できなくて、そのまま、時間だけ過ぎてる」
「……」
しばらく、沈黙が落ちる。
川の音が、少しだけ強く聞こえた。
そのあとで、「……俺もさ」と、国見が、ぽつりと口を開く。
「似たようなこと、あったな」
「……」
顔を上げる。国見は、川の方を見たままだった。
「高二の夏に、双葉から告白された」
「……」
少しだけ知っている話ではある。
でも、こうして本人の口から聞くと、少しだけ重みが違う。
「でも、俺にはもう上里がいたし」
「双葉も、『返事はいらない』って言ってきてくれてさ」
「……」
「だから、今も、そのまま友だちのままでいられてる」
「……」
「でもな、気づいてなかったわけじゃないんだ」
少しだけ、苦笑する。
「高一の時から、なんとなくは分かってたし」
「でも、気づかないふりをしてた」
「……」
その言い方が、妙に刺さる。
「俺も、壊したくなかったからな、そのままの関係を」
「……」
言葉が、重なる。
ほぼそのまま、今の自分だった。
国見は、少しだけ間を置いてから続ける。
「でもさ、この前のクリスマスイブ」
「……#夢見る、か」
「ああ」
頷く。
「俺、双葉とデートしてる夢見たんだよ」
「……」
「だからさ」
少しだけ、笑う。自嘲に近い笑い方だった。
「たぶん俺も、どっかで心残りあんだろうなって」
「……」
何も言えない。国見は、そのまま続ける。
「だから俺もさ」
「双葉の優しさに、甘えてるだけなのかもしれない」
「……まあ、うまく言えねえけどさ」
「返事しなくて済む形に、俺も乗っかってたのかもな」
「……」
その言葉が、そのまま自分にも刺さる。
「でも」
一拍。そこで、国見がこっちを見る。
「俺はさ」
ほんの少しだけ、言い淀んでから。
「……上里……沙希が、好きだけどな」
「……」
その一瞬だった。
言い直したのは、たぶん無意識だ。
でも。
(……今の)
初めて聞いた。
国見が、上里を下の名前で呼ぶのを。
普段はずっと「上里」だったはずなのに。
「……」
その違和感は、小さくて。でも、はっきりとしたものだった。
「言ったら、自分が損するかもしれないし誤解されるかもしれない」
「それでも」
少しだけ、視線を川の方に戻す。
「誰かのために、ちゃんと地に足つけて頑張れるところとか」
「……そういうところが、俺は好きだな」
「……」
それだけ言って、肩をすくめる。
(……まあ、確かに)
頭の中で、少しだけ整理する。
上里は、歯に衣着せぬ言い方はする。
でも、それだけじゃない。
堅実で。必要なところで迷いがなくて。しんどい場面でも、逃げずに手を動かすタイプだ。
(……そういえば)
ふと、思い出す。双葉から聞いた話。
——病院で働いている国見のお母さんの話を聞いて、自分も看護師を目指すって決めたらしいし
(……ああ)
妙に、腑に落ちる。
言葉だけじゃなくて、ちゃんと現実を見て決めてるやつだ。
「………」
そこまで考えて、止める。
言葉にしきるには、少しだけ足りないと思ったから。
「まあ、普通の理由だろ?」
「……」
普通。たぶん、そうなんだろう。
「……そう、だよな」
やっとの思いでそう答えた、胸の奥が、少しだけざわつく。
心残りがあってもいい。
全部綺麗に整理できてなくてもいい。
それでも、選んでいい。
「……」
国見は、それ以上は何も言わなかった。
答えを押し付けることも、急かすこともない。
ただ、自分の話を置いただけ。
「……ありがとな」
ようやく、それだけ言う。
「別に。気にすんな」
軽く返される。
国見はポケットからスマホを取り出す。画面を見てから、通話ボタンを押す。
「……あ、もしもし上里?」
少しだけ間を置く。
「今終わった」
「……ああ、八丁堀の方?」
軽く頷くような間。
「じゃあ、そのまま来てくれよ」
「ああ。わかった」
短く言って、通話を切る。
「……赤城さん、駅まで送ってたらしい」
「……なるほど」
自然と頷く。
(……上里らしいな)
誰かを途中まで送る。
わざわざ言うほどのことじゃないけど、やらないやつはやらない。
そういうところだ。
「……」
少しだけ間が落ちる。
さっきまでの会話が、まだ残っている。
でも、それを引きずる感じじゃない。
言うことは、もう言い終わっている。
「じゃ、俺はもう行くわ」
「……ああ」
短く返す。
そのタイミングで。「佑真ー」と、少し離れた方から、声がかかる。
振り向くと、上里がこちらに歩いてくるのが見えた。
「お待たせ」
「いや、そうでもない」
国見は軽く手を上げる。そのまま、自然に並ぶ。
「じゃあな、蓮真」
「ああ」
短く頷く。
二人はそのまま、川沿いを離れて歩き出す。
水天宮前駅の方へ。
「……」
その背中を、少しだけ見送る。
さっきと同じ二人のはずなのに。少しだけ、見え方が変わっている気がした。
「……」
息を吐く。
(……選べる、か)
怖いのは変わらない。
でも。選ばないまま止まっている方が、もう無理だ。
「……」
視線を上げる。少しだけ、前を見る。
止まったままじゃいられない。それだけは、もう分かっていた。
隅田川は、さっきと変わらない速さで流れている。
屋形船の灯りが、夕方の水面に細く揺れていた。
「……」
小さく息を吐いてから、ようやく歩き出す。
新川公園を離れ、八丁堀駅へ向かう。改札を抜けて、日比谷線のホームへ下りる。
電車が来るまでの数分が、妙に長く感じた。
(……選んで、いいのか……)
心残りがあってもいい。
全部綺麗に整理できてなくてもいい。それでも、選んでいい。
「……」
電車が滑り込んでくる。開いたドアから乗り込んで、空いていた端の席に腰を下ろした。
車内の揺れに身体を預ける。
銀座。霞ヶ関。六本木。
駅名のアナウンスが流れるたびに、都心を縫って帰っている実感だけが薄く積み重なっていく。
けれど頭の中は、さっきの会話と、その前からずっと抱えたままの言葉でいっぱいだった。
——壊れても、一緒に直すものなんだと思うんだよね。
——俺はさ、上里……沙希が、好きだけどな。
「……」
目を閉じる。
電車の揺れが、一定の速さで身体を揺らす。でも、心の中だけがまだ少し遅れている感じがした。
中目黒に着いたのは、十八時を少し回った頃だった。
ホームから上がって改札を抜ける。
駅の外へ出ると、少し冷えた夜の空気が頬に当たった。
そのまま何となく視線を上げる。
駅のすぐそばから見える、目黒川。
川沿いの灯りが水面に落ちて、黒い流れの上でかすかに揺れていた。
「……」
足が、少しだけ止まる。
(……ここ)
思い出す。
一昨年の三月。
のどかと二人で、目黒川に桜を見に来た日。
まだ少し肌寒い時期で、川沿いは人が多かった。
桜を見上げながら、のどかが「じゃあ今日は案内お願い」と、楽しそうに笑っていたこと。
風が吹くたびに花びらが揺れて、そのたびに立ち止まっていたこと。
「……」
それだけじゃない。
去年の三月。
中目黒駅から少し歩いた先にある、小さなレストラン。窓際の席。
俺の誕生日と、大学祝いを兼ねて、のどかと卯月が祝ってくれた夜。
卯月がメニューを見ながら「ピンクペッパーだよ!春限定!これは頼むしかないっ!」って場違いなくらい明るく言って。
のどかが「卯月って本当に自由だよね」と呆れながらも、どこか嬉しそうにしていた。
運ばれてきたプレートを見て、卯月が「見て見て!湯気の角度が完璧〜!」と、はしゃぎながら写真を撮ろうとしていたことまで、妙にはっきり思い出せた。
「……」
川を見る。
ただの夜の目黒川だ。桜はまだ咲いていない。
人も、あの時ほど多くない。
それでも、そこには確かに、あの二つの時間が重なって見えた。
のどかと二人で来た春。のどかと卯月と三人で笑った夜。
「……」
喉の奥が、少しだけ詰まる。
どっちも大事だった。どっちも、嘘じゃなかった。
だからこそ、余計に苦しいんだろうと思う。
「……明日」
小さく呟く。誰に聞かせるでもない声で。
「明日、回ってみるか」
自然と、そう口に出ていた。
のどかと一緒に行った場所。
卯月と一緒にいた場所。
三人でいた場所。
そういうところを、もう一度、自分の足で辿ってみる。
頭の中だけで考えていても、たぶんもう整理しきれない。
だったら、記憶が残ってる場所に行って、自分が何を見て、何を思い出すのかを確かめた方がいい。
「……それで、整理できるかは分かんねえけど」
苦笑が漏れる。でも、何もしないよりはいい。
少なくとも、今のまま立ち止まってるだけよりは。
もう一度だけ、目黒川を見る。
黒い水面の向こうに、街の灯りが滲んでいた。
「……ちゃんと、見ないとな」
小さく言ってから、今度こそ歩き出す。
実家のある方へ。
明日、自分が何を見ることになるのかは分からない。
それでも。もう、見ないふりだけはできなかった。
二月二十六日
目黒駅の改札を抜けたのは、朝の九時前だった。
休日にしては、人はそこまで多くない。山手線のホームへ向かう。
(……ここから、か)
自然と、そう思う。
昨日の夜、目黒川を見て決めた。
だったら、始まりもここからでいい。
電車が来る。乗り込んで、ドアの近くに立つ。
車内は静かだった。
(……鎌倉)
頭の中で、順番をなぞる。
鎌倉。葉山。横須賀。そして横浜。
全部、自分が歩いた場所。全部、残っている場所。
「……」
品川で横須賀線に乗り換える。
ホームの空気が少し変わる。
長距離の匂い。
ボックス席に座り、電車が動き出す。
(……戻るってより、……辿る、か)
その方がしっくりきた。
鎌倉に着いたのは、十時半前だった。
東口を出て、小町通りの入口を横目に見て、そのまま八幡宮の方へ歩く。
「……」
足は迷わない。
去年の七月、三人で来た日。
浴衣を借りた店の前で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
(……のどかの浴衣)
水色と黄色。
明度差があるのに、喧嘩していなかった、ひまわり柄。
(……あいつ、そのまんまだな)
明るくて、でもちゃんとまとまってる。
卯月は違った。
赤地に橙の花柄。目を引く。
立ってるだけで、場の空気が少し変わる。
「……」
鶴岡八幡宮に向かう道すがら、足を止める。
屋台の匂い。
卯月が「これ食べよ!」って引っ張って、のどかが「食べ過ぎでしょ」って言いながらも付き合っていた。
「……」
そのまま、由比ヶ浜へ向かう。
昼の海。花火はない。
でも……
(……三人で、見てたな)
夜の音と光。何も考えなくていい時間。
「……三人、か」
その言葉が、少しだけ重く残った。
鎌倉からJRとバスで葉山へ向かう。
森戸海岸。空気が少し柔らかい。
「……ここも」
去年の六月。梅雨の時期に、三人で来た場所。
「……」
砂浜を歩く。
少し湿った空気にぼやけた光。
そのまま、葉山しおさい公園へ。
紫陽花の季節じゃない。
近代美術館の前で、足を止める。
静かで、時間が少しだけ遅い。
(……三人でいるって)
特別なことじゃないのに、確かに、あの時はそこにあった。
「……」
それを壊すかもしれない選択を、自分はしようとしている。
その実感が、少しだけ強くなる。
葉山から横須賀へ。
駅を出た瞬間、空気が変わる。
「……ここは」
一昨年の十一月に、のどかと二人で来た場所。
「……」
足が少しだけ遅くなる。
三人じゃない、二人の記憶。
海軍クルーズの受付。
「……あの時」
のどかは髪を下ろしていた。
珍しい髪型。柔らかく波打つ金髪。
「……」
船の上。
隊員が手を振って、それに手を振り返して。
——こういうの見てるとさ……みんな頑張ってる感じがして落ち着くんだ
「……」
その言葉が、今も残っている。
(……あいつは)
派手に見えるけど、ちゃんと、そういうところを見てる。
「……」
胸の奥が、少しだけ静かになる。
騒がしくない。ただ、落ち着く。
「……」
それが何かは、もう分かっていた。
横須賀から京急とシーサイドラインで、八景島へ向かう。
「……ここ、か」
去年の九月に、卯月と二人で来た場所。
「……」
潮風が少し強い。
あいつはずっと笑っていた。
水族館で、子供みたいにテンション上がって。
「見て!ペアで泳いでる!」って。
でも……
——今日みたいに“何も起こらない時間”が、ちょっと嬉しい
「……」
思い出す。
少しだけ赤くなっていた頬。無邪気じゃない顔。
「……」
ただ楽しいだけじゃない。
あいつも、ちゃんと抱えていた。
その一部を、俺にだけ見せていた。
「……」
だからこそ、重い。
夕方、横浜へ戻り、ランドマークタワーへ向かう。
「……」
去年のクリスマス。卯月と秘密のデートをした、同じ場所。
スカイガーデンまで上がる。
横浜の街並みが広がる。
「……」
夜に近い光。
街が、少しずつ灯る。
——横浜ってさ、上から見るとおもちゃの街みたい!
あいつはそう言って、そのあと。
——……今日、会えて嬉しい
「……」
同じ景色を見る。でも、今は一人だ。
「……のどかも、卯月も」
小さく呟く。
「もしかしたら、今日横浜に来てるかもしれないんだよな……」
安濃さんの言葉が浮かぶ。
「……」
視線を少しだけ動かす。
人は多い。でも、見つかるはずはない。
それでも。
(……いるかもしれない)
そう思ってしまう。
「……」
息を吐く。
ここまで来て、分かる。
三人の時間。
のどかとの時間。
卯月との時間。
全部違って、全部、大事だった。
「……」
だから……選ばないまま、持ち続けることはできない。
「……ちゃんと、決めるか」
小さく言う。
その言葉は、もう逃げじゃなかった。
横浜の夜景が広がる。光が、遠くまで続いている。
その中で、俺は静かに立っていた。
もう、見ないふりだけはできなかった。
ランドマークタワーを出て、俺はそのまま、横浜駅に向かって歩いていた。
みなとみらいの夜は明るい。観覧車の光も、ビルの窓も、海側の照明も、全部が水面の上に薄く滲んでいる。
でも、不思議と騒がしくはなかった。
ただ、静かに華やかだ。
「……帰るか」
小さく呟いて、横浜駅の方へ向かう。
横浜駅へ向かう道には、白と青の光がまっすぐ伸びていた。
ヨコハマミライト。
イルミネーションが、足元から頭上まで連なっている。通路の先まで、途切れずに光が続いていて、歩いているだけで、どこか現実感が薄くなる。
その途中、はまみらいウォークの上で、足が止まった。
ガラス越しに見える、みなとみらいの夜景。
「……」
少し前まで、自分もあの中にいた。
卯月と来た場所、のどかと来た場所、三人でいた場所の延長みたいな景色が、確かにあった。
それなのに今は、一人で見ている。
その差だけが、妙にはっきりしていた。
「……やっぱり、簡単じゃねえな」
思わず、そう漏れる。
気持ちは整理しようとしている。逃げないとも決めた。
でも、決めることそのものが簡単になるわけじゃない。
その時だった。
「蓮真くんじゃない?」
不意に、後ろから声がかかる。振り返る。
「……麻衣先輩」
そこにいたのは、桜島麻衣と、梓川咲太。
そして。
「……」
二人は、手を繋いでいた。自然に、当たり前みたいに。
「こんなところで何してるの?」
麻衣先輩が、少しだけ首を傾げる。
「……ちょっと、いろいろあって」
短く返す。それだけで、十分だった。
麻衣先輩は、一度だけこちらを見て。
何かを言いかけて、やめた。
「……そう」
小さく、それだけ。
咲太が隣で、少しだけこちらを見る。
その視線に、ほんの少しだけ、間が落ちる。
夜景の光が、ガラスに反射して揺れていた。
「……」
言葉は、続かなかった。
でも。ここで終わるわけがない、ということだけは、分かっていた。
ゆっくりと息を吐く。
逃げない、と決めた。選ぶ、と決めた。
その先にある会話が、もう目の前にある。
横浜の夜景が、静かに広がっている。
その中で、俺は二人と向き合った。
物語解説
今回は、これまでの時間を辿る回でした。
鎌倉、葉山、横須賀、そして横浜。場所を巡ることで、岸和田蓮真が自分の中に残してきたものを確認していく構成になっています。
ただ、今回の変化は決して一人で生まれたものではありません。
まず、双葉理央。彼女は「逃げている」という事実を、感情ではなく構造として指摘する役割を担っています。
さらに、自身の経験、佑真との関係を踏まえて「選ぶ」という行為の現実的な重さを提示しました。
次に、安濃八重。彼女は当事者側の視点から、「中途半端でいること自体が他者を傷つける」という厳しい現実を突きつけます。
同時に、「壊れても直すもの」という価値観を提示し、蓮真の前提そのものを崩す役割を果たしました。
そして、国見佑真。彼は答えを押し付けるのではなく、自分の選択を言葉にすることで、「心残りがあっても選んでいい」という許容を与えています。理屈ではなく、実例としての答えです。
この三人の立場はそれぞれ異なります。
観測者、当事者、そして実践者。
その全てが揃ったことで、蓮真はようやく「選ぶ」地点に立たされました。
そして最後に描いた、麻衣と咲太。
迷いのない関係性の象徴として、あの形で登場させています。
過去を辿り、他者の言葉を受け取り、それでも最終的に決めるのは自分。
その一歩手前まで来たのが、今回の章です。
次章では、いよいよ選択そのものに踏み込みます。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
蓮真は最終的にどちらを選ぶと思いますか?
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豊浜のどか
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広川卯月