青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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青春ブタ野郎はソアリングメモリーの夢を見ない『岸和田蓮真編』
1.零れそうな春を、誰にも触れず掬った


 

 三月一日

 

 水曜の夕方、俺は塾のバイトに入っていた。

 

 時間は午後六時半からだが、今日は少し早めに家を出た。

 

 特別な理由があるわけじゃない。ただ、部屋にいても落ち着かなかった。

 

 考えることは一応まとまっているはずなのに、どこかだけ、まだ定着していない感じがあった。

 

 駅から塾までの道を歩く。

 

 夕方の空気は少しだけ冷たくて、でも冬の終わりの匂いが混じっている。

 

 (……三月、か)

 

 当たり前のことを、改めて思う。

 

 季節は進んでいる。それに合わせるみたいに、状況も動いている。

 

 自分だけがその変化に遅れている、なんてことはない。

 

 「……」

 

 そう考えて、少しだけ息を吐く。

 

 ビルに入って、エレベーターの五階のボタンを押す

 

 ドアが開く。

 

 「お疲れ様です」

 

 受付の先生の声に軽く返す。

 

 奥の方へ目をやると、カウンターに咲太の姿があった。

 

 机の上にプリントを広げて、丁寧に束ねている。

 

 端を揃えて、軽く叩いて、また重ねる。

 

 そういう細かい作業を、妙に雑に見えて、実はきっちりやるタイプだ。

 

 「岸和田か。早いな」

 

 顔も上げずに言う。

 

 「……それはこっちのセリフだ」

 

 反射で返す。咲太が少しだけ目線を上げた。

 

 「今日はな」

 

 「何だよその言い方」

 

 「別に」

 

 そのまま視線をプリントに戻す。

 

 机の上を見る。分かれている束は二つ。

 

 「ああ……」

 

 自然と口に出る。

 

 「吉和さんと山田くんか」

 

 「ああ」

 

 咲太はあっさり頷く。

 

 「期末近いからな」

 

 「……峰ヶ原、来週からだもんな」

 

 小さく呟く。

 

 咲太も、俺も、去年まであそこに通っていた。

 

 試験の時期は体で覚えている。この時期の空気も。

 

 「このタイミングで落とすやつは、そのままズルズルいくからな」

 

 「特に数学な」

 

 「山田くんだな」

 

 「山田くんだな」

 

 短く一致する。

 

 そのまま少しだけ沈黙が落ちる。

 

 頭の中に、二人の顔が浮かぶ。

 

 吉和さんは、静かなタイプだ。

 

 授業中に騒ぐこともないし、必要以上に前に出てくることもない。

 

 ただ、問題に向き合う時の姿勢が安定している。

 

 分からないところがあっても、投げずに一度は自分で考えようとする。

 

 ああいうタイプは、急激には伸びないが、崩れもしない。

 

 (……基礎がちゃんとしてる子だよな)

 

 そんな印象だ。

 

 一方で、山田くん。

 

 彼は真逆だ。

 

 集中力に波があるし、やる時はやるが、やらない時は徹底してやらない。

 

 「分かんないっす」と言う時の軽さも、どこまで本気か分からない。

 

 ただ……

 

 (……最近、ちょっと変わってきてる)

 

 夏に最初に会った時より、明らかに点数が上がっている。

 

 理解の仕方も、少しずつ筋が通ってきている。

 

 あれは、偶然じゃない。

 

 「……お前の教え方だろ」

 

 思ったまま口に出す。

 

 咲太は、ほんの少しだけ肩をすくめた。

 

 「どうだろうな」

 

 「自覚ないのかよ」

 

 「別に、やる気出したのは山田くんだろ」

 

 「きっかけ作ったのはお前だろ」

 

 「そんな大したことしてねえよ」

 

 そう言いながらも、手は止めない。

 

 そのやり方が、いかにもこいつらしい。

 

 あいつの授業は、一見すると適当だ。

 

 説明も長くないし、無駄な補足もしない。

 

 でも、気づくと生徒が“分かった気になる地点”に連れていかれている。

 

 理解した、と思わせるポイントの作り方がうまい。

 

 (……真似できるタイプじゃない)

 

 そういう教え方だった。

 

 「……で?」

 

 不意に、咲太が言う。

 

 「何がだよ」

 

 「豊浜と広川さん」

 

 「……」

 

 一拍。

 

 「どうだった?」

 

 軽い声。でも逃がす気はない聞き方だった。

 

 俺は小さく息を吐く。

 

 「……わざわざ言わなくても、お前知ってるだろ」

 

 「まあな」

 

 あっさり認める。

 

 「でも、聞くだけならタダだからな」

 

 「性格悪いな」

 

 「そうかもな」

 

 間髪入れず返してくる。

 

 「……のどかと、ちゃんと話した」

 

 結局、それだけ言う。

 

 咲太は、ほんの一瞬だけ手を止めて、それからまた動かした。

 

 「そっか」

 

 それ以上は聞いてこない。

 

 代わりに、机の端に置いてあった封筒を一つ持ち上げる。

 

 「ほら」

 

 「……なんだよ」

 

 受け取る。中を見る。

 

 「……チケット?」

 

 「新江ノ島水族館」

 

 「……なんで」

 

 「お祝いだとさ」

 

 「……」

 

 顔を上げる。咲太は、少しだけ口元を緩めた。

 

 「麻衣さんから」

 

 「……」

 

 言葉が止まる。

 

 「伝言も預かってる」

 

 「……なんて?」

 

 一拍。

 

 「『のどかのこと、よろしくね』」

 

 静かに言う。それだけで十分だった。

 

 余計な説明はいらない。全部分かっている言い方だった。

 

 「……もう一個あるぞ」

 

 「まだあんのかよ」

 

 「『ちゃんと周りには気をつけるのよ』」

 

 「……」

 

 「スキャンダル防止な」

 

 「……言い方」

 

 思わずため息が出る。でも、言ってることは正しい。

 

 「ありがたく受け取っておけ」

 

 「……そうする」

 

 封筒を軽く握る。

 

 ただの紙なのに、妙に重い。

 

 祝われていること。見られていること。

 

 両方が、同時に乗っている感じがした。

 

 「咲太」

 

 「ん?」

 

 「……ありがとな」

 

 小さく言う。咲太は、視線も上げずに返した。

 

 「僕じゃないだろ」

 

 「分かってる」

 

 「ならいい」

 

 それで会話は終わる。

 

 はずだった。

 

 「……岸和田」

 

 「……なんだよ」

 

 「ちゃんと、選んだんだろ」

 

 「……」

 

 確認だけ。答えは分かっている前提の。

 

 「……ああ」

 

 短く返す。

 

 「ならいい」

 

 それだけ。それ以上、何も言わない。

 

 その距離感が、ちょうどよかった。

 

 「……」

 

 静かな時間が流れる。

 

 プリントの音。外の車の音。日常の音。

 

 その中で……

 

 「……?」

 

 ふと、違和感が走る。

 

 何かを見落としたような。

 

 ほんの一瞬だけ、現実のピントがずれたような感覚。

 

 「……どうした」

 

 咲太が気づく。

 

 「……いや」

 

 首を振る。

 

 「なんでもない」

 

 違和感は、すぐに消えた。最初からなかったみたいに。

 

 「変なやつだな、お前」

 

 「お前にだけは言われたくねえよ」

 

 反射で返す。でも、ほんの少しだけ遅れた。

 

 (……なんだ、今の)

 

 頭の奥にだけ、微かに残る。

 

 昨日の帰り道で感じたものと、同じ感覚。

 

 「……」

 

 ポケットの中のスマホが重い。

 

 のどかとの約束。決めたはずの未来。

 

 全部、ちゃんとある……はずなのに。

 

 「岸和田」

 

 「……ん?」

 

 「顔、ちょっと変だぞ」

 

 「……寝不足だろ」

 

 適当に返す。

 

 「昨日一昨日と、いろいろあったしな」

 

 「まあ、それはそうか」

 

 咲太はそれ以上追及しなかった。

 

 体は普通に動く。思考も問題ない。

 

 ただ……

 

 (……なんか、ズレてる、のか……)

 

 ほんのわずかに。

 

 日常の輪郭が、正確に重なっていない気がした。

 

 チャイムが鳴る。授業が始まる。

 

 いつも通りの時間が流れ始める。

 

 その“いつも通り”の中に、ほんの小さな異物だけが、静かに紛れ込んでいることを知らずに。

 

 そんなことを考えていると、後ろから間延びした声がした。

 

 「こんばんはー」

 

 「……山田くんか」

 

 顔を上げると、いつも通り少し気の抜けた姿勢で山田くんが立っていた。

 

 「こんばんはー、岸和田先生」

 

 片手を上げる。

 

 「咲太先生、今日、数学からですよね?」

 

 「そうだな」

 

 「まじかー……」

 

 露骨に嫌そうな顔をする。

 

 「その顔はやめろ」

 

 「いやだって数学むずいじゃないすか」

 

 いつも通りの、咲太と山田くんの軽口だった。

 

 「やらないから難しいんだろ」

 

 「岸和田先生。それ言っちゃうと全部終わるんでやめてもらっていいすか」

 

 「終わってんのは山田くんの一学期だろ」

 

 「それはもう忘れてくださいよ」

 

 軽口が一通り流れる。

 

 山田くんはそのままカウンターに寄ってきて、ふと俺の手元に目を落とした。

 

 封筒。さっき受け取ったまま、まだ机の端に置いてある。

 

 「……あれ?」

 

 「ん?」

 

 「それ、なんすか?」

 

 「……別に」

 

 適当に流そうとしたが、山田くんはすでに手を伸ばしていた。

 

 「ちょ、勝手に触るな」

 

 「いいじゃないすか、減るもんじゃないし」

 

 中をちらっと覗く。

 

 「あ、水族館?」

 

 「……」

 

 「新江ノ島水族館じゃん。いいなー」

 

 軽く口笛でも吹きそうな顔になる。それから、ニヤッとした。

 

 「あー……なるほどね」

 

 「何がだよ」

 

 「岸和田先生」

 

 少しだけ声を落として、わざとらしく言う。

 

 「彼女でもできたんすか?」

 

 「……」

 

 一拍。

 

 (……まあ、そうなるか)

 

 否定しても面倒だし、かといって詳しく言うわけにもいかない。

 

 「……まあ、そうだけど」

 

 短く返す。山田くんの目が一気に輝く。

 

 「マジで!?どんな人なんすか?」

 

 食いつきが速い。興味が露骨すぎる。

 

 「別に、普通だよ」

 

 「絶対普通じゃないでしょ。水族館デートっすよ?」

 

 「……」

 

 少しだけ考える。ここで見た目の話は出せない。

 

 出す理由もない。

 

 「……見た目は派手だけど」

 

 「おお」

 

 「ちゃんとしてるやつだよ」

 

 「ちゃんとしてる?」

 

 「真面目だし、自分の考えも持ってるし」

 

 言葉を選びながら続ける。

 

 「……ちょっと自信ないとこあるのか、ツンが強い時もあるけど」

 

 「ツンデレっすか」

 

 「違う」

 

 即否定する。

 

 「ただ……」

 

 少しだけ言葉を止める。

 

 「俺には、ちゃんと向き合ってくれる」

 

 「……」

 

 山田くんが一瞬だけ黙る。さっきまでの軽さが、ほんの少しだけ引いた。

 

 「……ふーん。いいじゃないすか」

 

 ニヤニヤしながら頷く。

 

 「で」

 

 嫌な予感しかしない。

 

 「おっぱいデカいんすか?」

 

 「は??」

 

 反射で声が出る。

 

 「お前はなに言ってんだよ」

 

 「いや、重要じゃないすか」

 

 「重要じゃねえよ」

 

 「えー、でも男的には大事でしょ」

 

 「山田くんの中ではな」

 

 呆れて返す。

 

 ……のに。

 

 (……いや、まあ)

 

 頭の中に一瞬だけ浮かぶ。

 

 健康的で、バランスのいいスタイル。

 

 細いだけじゃなくて、ちゃんと芯のある身体。

 

 金髪が光を受けて揺れて、青い瞳がまっすぐこっちを見て……

 

 「……」

 

 (……何考えてんだ俺)

 

 自分で少しだけ引く。明らかに無粋だ。

 

 らしくない。

 

 「で、どうなんすか?」

 

 山田くんがしつこく聞いてくる。

 

 「答えるわけないだろ」

 

 「えー」

 

 「えーじゃねえよ」

 

 その時だった。

 

 「山田」

 

 静かな声が入る。

 

 振り返ると、吉和さんが立っていた。

 

 鞄を持ったまま、こちらを見ている。

 

 その目が、ゆっくり山田くんに向いた。

 

 「何、岸和田先生に話してるの?」

 

 声は落ち着いている。でも、視線は完全に冷えている。

 

 「え、いや」

 

 山田くんが一瞬だけ言葉に詰まる。

 

 「ちょっと恋バナを」

 

 「……は?」

 

 吉和さんの眉がわずかに動く。

 

 「授業前にする話?」

 

 「いや、だって気になるじゃん」

 

 「何が」

 

 「岸和田先生に彼女できたって言うから」

 

 「だからって聞く内容がおかしいでしょ」

 

 「どこが?」

 

 「全部」

 

 即答。山田くんが「厳し」と小さく呟く。

 

 「普通に気になるでしょ、どんな人かとか」

 

 「それと、どこ見てるかは別でしょ」

 

 「いやでも男子的には……」

 

 「知らない」

 

 食い気味で切る。

 

 空気がピシッと締まる。

 

 「……なんでそんな怒ってんの?」

 

 山田くんが不満そうに言う。

 

 「怒ってない」

 

 「いや怒ってるでしょ」

 

 「怒ってない」

 

 「怖」

 

 ぼそっと言う。その瞬間、吉和さんの視線がさらに冷える。

 

 「山田」

 

 「はい」

 

 「授業、始めるよ」

 

 「まだ時間ありますけど」

 

 「予習」

 

 「うわ出た真面目」

 

 「やらないと落ちるよ」

 

 「それは言わないでください」

 

 「事実でしょ」

 

 「事実だけど」

 

 小さく言い合いが続く。完全にいつものやつだ。

 

 「……」

 

 それを見ながら、少しだけ息を抜く。

 

 さっきまでの妙な違和感は、どこかに引っ込んでいた。

 

 ただの、いつもの時間。

 

 騒がしくて、少しだけうるさくて。

 

 でも……

 

 (……こういうの、嫌いじゃない)

 

 咲太が軽く手を叩く。視線を二人に向ける

 

 「ほら、二人とも席つけ」

 

 「はーい」

 

 山田くんがだらっと動く。

 

 吉和さんはその後ろを、何も言わずに歩いていく。

 

 でも、一瞬だけ、山田くんを見た。

 

 ほんの少しだけ、何かを確かめるみたいな目で。

 

 「……」

 

 その視線の意味を考える前に、チャイムが鳴った。

 

 授業が始まる。日常が、また動き出す。

 

 何事もなかったみたいに。

 

 授業は、いつも通りに進んだ。

 

 山田くんは途中で何度か集中を切らしかけ、そのたびに咲太に短く釘を刺されていた。

 

 「山田くん、そこ今見るとこじゃないぞ」

 

 「え、バレました?」

 

 「手が止まってたからな」

 

 「厳しいなあ」

 

 「期末前だからな」

 

 「それ言われると何も返せないっす」

 

 そんなやり取りを横目に、吉和さんは黙々と問題を解いていた。

 

 ただ、時々だけ、山田くんの方へ視線が動く。

 

 気にしていないふりをして、ちゃんと気にしている。

 

 それが隣の教室からでも分かるくらいには、もう見慣れた光景だった。

 

 授業が終わる頃には、外はすっかり夜になっていた。

 

 「はい、今日はここまで」

 

 咲太がプリントを回収しながら言う。

 

 「山田くん、次までに今日間違えた問題、もう一回解いてこいよ」

 

 「えー岸和田先生、助けてください」

 

 「無理だな。俺も同意見」

 

 「裏切られた」

 

 「最初から味方じゃない」

 

 山田くんが大げさに肩を落とす。

 

 その横で、吉和さんが小さくため息をついた。

 

 「山田、ちゃんとやりなよ」

 

 「分かってるって」

 

 「毎回それ言ってる」

 

 「今回は本気」

 

 「それも毎回言ってる」

 

 「吉和、記憶力よすぎない?」

 

 「山田が同じことしか言わないだけ」

 

 また始まった。

 

 咲太は若干呆れた顔をしながら、二人の間にプリントを差し出す。

 

 「はいはい。続きは帰り道でやれ」

 

 「梓川先生。痴話喧嘩じゃないですから」

 

 吉和さんが即座に返す。

 

 「まだ何も言ってないだろ」

 

 「顔が言ってました」

 

 「よく見てるな」

 

 咲太が淡々と返すと、吉和さんは少しだけ口を閉じた。

 

 山田くんが横でニヤついた瞬間、吉和さんの目がまた冷える。

 

 「……山田」

 

 「はい」

 

 「帰るよ」

 

 「はい」

 

 妙に素直だった。二人が塾を出ていく。

 

 ドアが閉まる音がして、少しだけ静かになる。

 

 「……青春だな」

 

 咲太がぽつりと言った。

 

 「お前が言うと胡散臭いな」

 

 「岸和田にだけは言われたくないな」

 

 「俺は別に」

 

 言いかけて、止まる。咲太がこちらを見る。

 

 「……なんだよ」

 

 「いや」

 

 少しだけ口元を緩める。

 

 「お前も、十分そっち側だろ」

 

 「……うるせえよ」

 

 それだけ返して、荷物をまとめた。

 

 帰り道。

 

 夜の空気は、昼間より少し冷たかった。

 

 けれど、二月の終わりほどではない。三月の夜だった。

 

 駅まで歩きながら、ポケットの中の封筒を指先で確かめる。

 

 新江ノ島水族館のチケット。

 

 麻衣先輩からの、お祝い。

 

 その言葉を思い出すだけで、少しだけ落ち着かなくなる。

 

 祝われている。見守られている。

 

 同時に、ちゃんと気をつけろとも言われている。

 

 全部、あの人らしい。

 

 家に着いたのは、二十一時前だった。

 

 部屋に入り、鞄を下ろす。上着を脱ぐ前に、封筒を机の上に置いた。

 

 「……」

 

 スマホを取り出す。

 

 画面を開く。

 

 連絡先から、麻衣先輩の名前を探す。

 

 今はもう“麻衣さん”と呼ぶべきなのかもしれない。

 

 でも、文字を打とうとすると、どうしても“麻衣先輩”の方が先に出る。

 

 湘南台の図書館で初めて会って、介添え人をし始めた時から、ずっとそう呼んできた。

 

 そんな簡単に変わるものでもないし、今はまだ、変えるつもりもない。

 

 少しだけ内容に迷ってから、メッセージを打つ。

 

 《麻衣先輩、チケットありがとうございました》

 

 そこで一度止まる。続きに悩む。

 

 ただ礼だけ送ればいい。

 

 でも、それだけだと何か足りない気がした。

 

 もう一度、指を動かす。

 

 《のどかと行ってきます》

 

 《周りには気をつけます》

 

 送信。すぐには既読はつかなかった。

 

 当然だ。

 

 仕事中かもしれないし、移動中かもしれない。

 

 そう思ってスマホを置こうとしたところで、画面が光った。

 

 既読。少し遅れて、返信が来る。

 

 《どういたしまして》

 

 《楽しんできなさい》

 

 短い。けれど、十分だった。

 

 さらに続けて、もう一通。

 

 《それと、ちゃんと手は繋いであげるのよ》

 

 「……」

 

 思わず固まる。

 

 数秒だけ画面を見たまま動けなかった。

 

 何を言ってるんだ、あの人は。

 

 いや、たぶん冗談だ。半分くらいは。

 

 残り半分は、本気で言っている気がする。

 

 どう返すべきか悩んでいると、さらに通知が来た。

 

 《咲太には言わなくていいから》

 

 「……いや」

 

 (もう遅いですよ、麻衣先輩……)

 

 少し考えてから、短く返す。

 

 《努力します》

 

 すぐに既読がつく。

 

 《そこは努力じゃなくて実行でしょ》

 

 「……」

 

 逃げ場がない。

 

 メッセージなのに、声が聞こえる気がした。

 

 小さく息を吐いて、もう一度打つ。

 

 《善処します》

 

 《政治家みたいな返事しない》

 

 思わず笑ってしまった。

 

 その瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

 いろんなことがあった。

 

 選んで、傷つけて、受け取って、進むことになった。

 

 それでも、こうしてくだらないやり取りができる。

 

 その事実が、妙にありがたかった。

 

 最後に、もう一度だけ打つ。

 

 《ちゃんと行ってきます》

 

 今度の返信は、少しだけ間が空いた。

 

 《ええ》

 

 《のどかをよろしくね、蓮真くん》

 

 「……」

 

 画面を見たまま、しばらく動けなかった。

 

 麻衣先輩は、いつもそうだ。

 

 突き放すでもなく、甘やかすでもなく。

 

 でも、必要なところではちゃんと逃がさない。

 

 スマホを伏せる。

 

 机の上の封筒を見る。

 

 そこには、確かに予定があった。

 

 のどかと行く場所。これからの時間。

 

 選んだ先にある、普通のデート。

 

 「……」

 

 それなのに。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 また、頭の奥が揺れた。

 

 ——この時間が、ちゃんと続くとは限らない。

 

 そんな言葉が、どこからか浮かんだ気がした。

 

 「……」

 

 すぐに消える。何もなかったみたいに。

 

 けれど、消えたあとにも、感触だけが残った。

 

 昨日の帰り道に感じた違和感。

 

 そして、今。

 

 少しずつ、同じ場所をなぞっている。

 

 「……気のせいだろ」

 

 声に出して言う。

 

 言葉にすれば、ただの疲れになる気がした。

 

 スマホを充電器に繋ぐ。

 

 上着を脱ぐ。デートのことを考える。

 

 新江ノ島水族館。

 

 江の島。

 

 七里ヶ浜。

 

 のどかが笑うところを想像する。

 

 それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

 だから、大丈夫だと思った。

 

 大丈夫なはずだと、思った。

 

 けれど……机の上のチケットだけが、夜の部屋で妙に白く見えていた。

 

 三月二日

 

 夕方。ファミレスのシフト。

 

 外はまだ明るさを残しているが、店内はすでに夜の照明に切り替わっていた。

 

 ガラス越しに見える通りの人の流れが、少しだけ速くなっている。

 

 「おはようございます」

 

 休憩室のドアを開ける。

 

 ロッカーの金属音と、遠くから聞こえる食器のぶつかる音。その間に、もう一つドアが開く音が重なった。

 

 「あ、蓮真先生。おはようございます」

 

 振り向くと、姫路さんがちょうど入ってきたところだった。

 

 「おはよう」

 

 軽く返す。

 

 姫路さんは、少しだけ距離を詰めてきてから、ふっと表情を整えた。

 

 「蓮真先生、この間はごめんなさい」

 

 「……何の話だ?」

 

 「チョコ、もらえたか聞いちゃったことです」

 

 「ああ」

 

 短く思い出す。

 

 「あれならもう終わったから大丈夫だよ。おかげさまで」

 

 そう言うと、姫路さんの目が少しだけ細くなる。

 

 「やっぱり」

 

 予想通り、という顔だった。

 

 「蓮真先生、本当に彼女できたんですね」

 

 「……なんでそこまで知ってる」

 

 「今日、山田くんから聞きました」

 

 「……」

 

 (あいつ……)

 

 そういえば、二人は同じクラスだったな、と今さら思い出す。

 

 余計なことを言った自覚が、じわじわ追いついてきて、ため息が出そうになるのを、かろうじて飲み込む。

 

 「まぁ、蓮真先生が幸せならOKです!」

 

 妙にあっさりしている。

 

 「……そうか」

 

 「はい。だから」

 

 少しだけ前に出る。

 

 「蓮真先生も、応援してくださいね」

 

 「何を?」

 

 聞き返すと、間髪入れず返ってくる。

 

 「私が第一志望に合格して、咲太先生に告白できるように、です」

 

 「……」

 

 (いや、それは普通に止める側だろ)

 

 そう思うが、口には出さない。

 

 姫路さんは、止めても止まるタイプじゃない。

 

 それに、その真っ直ぐさを、否定する理由もない。

 

 「……まぁ、出来る範囲でな」

 

 そう答えると、姫路さんは満足そうに頷いた。

 

 ロッカーに荷物を入れていると、ドアがもう一度開く。

 

 「あ、朋絵先輩。おはようございます」

 

 「おはよう、姫路さん。きっしー先輩も」

 

 古賀が入ってくる。

 

 髪が少しだけ乱れていて、息もわずかに上がっている。

 

 「古賀。今日は珍しく遅かったな」

 

 「いやさ、明日卒業式じゃん?」

 

 靴を履き替えながら言う。

 

 「奈々ちゃんとかとさ、ちょっと話しててさ」

 

 「気づいたらこの時間」

 

 「ああ……」

 

 「そっか、明日が峰ヶ原の卒業式か」

 

 「そうなの!」

 

 ぱっと表情が明るくなる。

 

 「いやぁ長かったけどさ、なんだかんだ楽しかったなぁ高校生活」

 

 その言葉に、姫路さんが静かに反応する。

 

 「……朋絵先輩と学校で会えなくなるの、寂しいです」

 

 「……そ、そうだね」

 

 古賀の返しが、少しだけ引っかかる。

 

 距離があるのが、そのまま言葉に出ていた。

 

 「私も、高校卒業したら、朋絵先輩と同じ大学に通おうかなぁ」

 

 「……え?」

 

 古賀が一瞬止まる。姫路さんは気にした様子もなく、さらっと続ける。

 

 「そうすれば、またいつでも会えますし」

 

 「……あー、うん、そうだね」

 

 古賀が曖昧に返す。空気が少しだけズレる。そのズレを、姫路さんは気にしない。

 

 古賀は、少しだけ気にしている。

 

 その差が、そのまま二人の距離だった。

 

 「そういえば、私も去年の今頃、峰ヶ原に行ったんですよね」

 

 姫路さんがふと思い出したように言う。

 

 「峰ヶ原の新入生向け説明会。あと、物品も買わなきゃいけなくて」

 

 「へえ」

 

 俺が返すと、古賀がロッカーを閉めながら言った。

 

 「なんか今年は、その説明会、卒業式のすぐ後にやるんだって」

 

 「卒業式の後?」

 

 「うん。担任の先生が嘆いてたよ。『卒業式終わっても全然帰れない』って」

 

 「……教師も大変だな」

 

 「ほんとそれ」

 

 古賀が苦笑する。

 

 「でもさ、そういうの聞くと、ほんとに卒業なんだなって思うよね」

 

 その言葉だけ、少しだけ静かだった。

 

 姫路さんが古賀を見る。

 

 「朋絵先輩、本当に卒業しちゃうんですね」

 

 「まあね」

 

 「寂しいです」

 

 「……そ、そう」

 

 やっぱり古賀は、少しだけ返しに困っていた。

 

 「そういえば、朋絵先輩」

 

 嫌な予感がした。

 

 「蓮真先生、彼女できたんですって」

 

 「おい、ここで言うな」

 

 即座に止めるが、もう遅かった。

 

 「え!?きっしー先輩まで!?」

 

 古賀の声が一段上がる。

 

 「……そうだけど」

 

 ここで誤魔化しても面倒だと判断する。

 

 古賀の目が一気に輝いた。

 

 「ねえねえ、どっち?」

 

 「は?」

 

 「づっきー?それとも豊浜さん?」

 

 「なんでその二択なんだよ」

 

 「だって!」

 

 食い気味だった。

 

 「きっしー先輩が付き合いそうな人って言ったら、その二人しかいないじゃん!」

 

 「……」

 

 反論が難しいのが厄介だ。

 

 少しだけ視線を逸らす。

 

 「……のどかと、話したよ」

 

 短く言う。古賀は一瞬だけ止まって、「あー……」と、納得したように頷いた。

 

 「そっか。そうだよね」

 

 この前の卯月の発言もある。繋がったんだろう。

 

 「良かったですね、蓮真先生」

 

 姫路さんが、柔らかく言う。

 

 「……どうも」

 

 「豊浜さん、美人だしさ」

 

 古賀が軽く笑う。

 

 「良かったね、きっしー先輩」

 

 「おいおい……」

 

 苦笑で返す。

 

 (まぁ……)

 

 内心で少しだけ思う。

 

 (古賀、ちょっと影響受けてるよな)

 

 髪を伸ばし始めたのもそうだろうし。

 

 完全に真似じゃないにしても、憧れはあるんだろう。

 

 そんなことを考えていると、「岸和田くん、古賀さん、姫路さん」と、店長の声が飛んできた。

 

 「もうシフトの時間だよ」

 

 「あ、すみません!」

 

 三人でほぼ同時に返す。

 

 慌ててホールに出る。

 

 「いらっしゃいませー!」

 

 声を揃える。

 

 さっきまでの空気が、一瞬で仕事に切り替わる。

 

 皿の音、注文の声、厨房の呼び出し。

 

 全部が重なって、店のリズムになる。

 

 「きっしー先輩、テーブル4お願い」

 

 「了解」

 

 伝票を取り、客席に向かう。

 

 家族連れ。子どもがメニューを覗き込んでいる。

 

 注文を取りながら、ふと頭の片隅で思う。

 

 (……こういうの、普通だな)

 

 特別でも何でもない時間。

 

 でも、ちゃんと積み重なっていくもの。

 

 キッチンに戻ると、姫路さんがトレーを持っていた。

 

 「蓮真先生、これ運んでください」

 

 「はいはい」

 

 受け取る。

 

 その横で、古賀が別のテーブルに水を置いている。

 

 ピークが過ぎたのは、二十時半を少し回った頃だった。

 

 家族連れが帰り、学生のグループも少しずつ減っていく。

 

 店内の音が、さっきより一段落ち着く。

 

 「姫路さん、今日はここまでで大丈夫だよ」

 

 店長に言われて、姫路さんが小さく頭を下げた。

 

 「はい。お先に失礼します」

 

 「もう上がり?」

 

 俺が聞くと、姫路さんは頷いた。

 

 「はい。理央先生から出された宿題があるので」

 

 「宿題?」

 

 「はい。進路と受験計画の整理です」

 

 「……双葉らしいな」

 

 姫路さんは鞄を持つと、こちらを見る。

 

 「蓮真先生も、ちゃんと応援してくださいね」

 

 「……出来る範囲でな」

 

 「それ、逃げの返事ですよ」

 

 「厳しいな」

 

 「私、本気なので」

 

 そう言って、姫路さんは少しだけ笑う。

 

 「では、お先に失礼します」

 

 休憩室のドアが閉まる。

 

 残ったのは、俺と古賀と、厨房から聞こえる片付けの音だけだった。

 

 少しだけ静かになる。

 

 「ねえ、きっしー先輩」

 

 古賀が不意に声をかけてきた。

 

 「ん?」

 

 「明日って暇?」

 

 「……別に予定はないけど」

 

 答えた瞬間、古賀の顔がぱっと明るくなる。

 

 「ほんと!?」

 

 「嫌な予感しかしないな」

 

 「じゃあさ」

 

 一拍置いて、古賀が両手を合わせる。

 

 「卒業式のカメラマンやってよ!」

 

 「は?」

 

 思わず聞き返す。

 

 「なんで俺が」

 

 「だって、きっしー先輩、写真撮るの上手いし」

 

 「別に上手くはないだろ」

 

 「上手いよ。前に文化祭で展示されてたやつ、普通によかったもん」

 

 そう言われると、少しだけ返しに困る。

 

 「姫路さんあたりに頼めばいいじゃないか? 明日参列してるだろ」

 

 「まあ、そうなんだけど」

 

 古賀は少しだけ視線を逸らす。

 

 「きっしー先輩の方が頼みやすいから」

 

 「……」

 

 その言い方は、いつもの軽さより少しだけ素直だった。

 

 「それにさ」

 

 古賀はロッカーにもたれながら続ける。

 

 「奈々ちゃんとか、クラスの子とも撮りたいし。先生たちとも撮りたいし」

 

 「自分で撮ればいいだろ」

 

 「自分が写れないじゃん」

 

 「誰かに頼めばいい」

 

 「だから頼んでるんじゃん」

 

 「……」

 

 少しだけ息を吐く。

 

 「……何時からだよ」

 

 「来てくれるの!?」

 

 「まだ行くとは言ってない」

 

 「それ聞く時点でほぼ来るじゃん」

 

 「勝手に決めるな」

 

 古賀は嬉しそうに笑った。

 

 「卒業式は午前中。終わったあと、たぶん校門とか中庭とかで写真撮るから、そのへんにいてくれればいいよ」

 

 「不審者じゃねえか」

 

 「大丈夫。きっしー先輩、顔は現役生っぽいし」

 

 「どういう意味だよ」

 

 「なんか、高校生でも違和感ない」

 

 「褒めてないだろそれ」

 

 「褒めてるよ」

 

 適当すぎる。

 

 でも、古賀が少し浮き足立っているのは分かった。

 

 明日で高校生活が終わる。

 

 それを楽しみにしているようで、少しだけ名残惜しそうでもある。

 

 「……まあ、行けたら行くよ」

 

 「それ来ない人の言い方!」

 

 「じゃあ行くよ」

 

 「やった!」

 

 古賀がぱっと笑う。その笑顔は、高校生らしくて、でも明日で高校生ではなくなる子の顔でもあった。

 

 「ありがと、きっしー先輩」

 

 「はいはい」

 

 「ちゃんと綺麗に撮ってよ?」

 

 「注文多いな」

 

 「一生に一回だから」

 

 その言葉に、少しだけ黙る。

 

 一生に一回。

 

 確かにそうだ。

 

 卒業式は、繰り返せない。

 

 同じ場所に戻ることはできても、その日の自分には戻れない。

 

 「……」

 

 そう思った瞬間、胸の奥がほんの少しだけ冷えた。

 

 繰り返せない。

 

 普通は、そうだ。

 

 でも、俺は知っている。

 

 あの時。中学一年の春。

 

 三月の終わり。

 

 誕生日も、修了式も、春休みの入り口も。

 

 本来なら一度しか来ないはずの日々を、俺は何度も繰り返した。

 

 同じ朝。同じ教室。同じ言葉。

 

 同じように過ぎていくはずの時間。

 

 なのに、俺だけがその中に取り残されていた。

 

 卒業式ではなかった。

 

 けれど、あれも確かに、一度しかないはずの時間だった。

 

 それを、俺は壊れるくらいに繰り返した。

 

 「……分かったよ」

 

 短く返す。

 

 声が、少しだけ遅れた気がした。

 

 「ちゃんと撮る」

 

 古賀は満足そうに頷いた。

 

 「うん。ありがとう、きっしー先輩」

 

 その瞬間、なぜか少しだけ胸の奥が引っかかった。

 

 明日。卒業式。

 

 写真。残すこと。残せないこと。

 

 「……?」

 

 一瞬だけ、何かが頭の奥をかすめる。

 

 でもすぐに、厨房から店長の声が飛んできた。

 

 「古賀さん、岸和田くん、そろそろ片付けお願い」

 

 「あ、はい!」

 

 古賀が返事をして、ぱたぱたとホールへ戻っていく。

 

 俺もその後を追う。

 

 考えかけた違和感は、そのまま仕事の音に紛れて消えた。でも、完全には消えなかった。

 

 明日の予定が、ひとつ増えた。

 

 それだけのはずなのに。

 

 どこかで、また何かが重なりかけている気がした。

 

 三月三日

 

 昼過ぎ。卒業式が終わったであろう時間を見計らって、俺は江ノ電に乗っていた。

 

 七里ヶ浜駅で降りると、潮の匂いがした。

 

 駅のすぐ隣にある、見慣れた校舎。

 

 峰ヶ原高校。

 

 去年まで自分が通っていた場所なのに、卒業してから来ると、少しだけよそよそしく見える。

 

 校門前には、卒業生たちが集まっていた。

 

 制服姿のまま、卒業証書を持って、友だち同士で写真を撮っている。

 

 笑い声と、スマホのシャッター音。

 

 その中に、見慣れた顔を見つけた。

 

 「きっしー先輩!」

 

 古賀が大きく手を振ってくる。隣には、米山さんもいた。

 

 「本当に来てくれた!」

 

 「頼んだのお前だろ」

 

 「でも、来てくれるかちょっと不安だったし」

 

 「来るって言っただろ」

 

 「きっしー先輩、たまに面倒くさがるじゃん」

 

 「否定はしない」

 

 そう返すと、古賀は卒業証書の筒を抱えたまま笑った。

 

 米山さんが、控えめに頭を下げる。

 

 「岸和田先輩、わざわざすみません。ありがとうございます」

 

 「いや、いいよ」

 

 俺は二人を見る。

 

 いつもの制服なのに、今日は少しだけ違って見えた。

 

 「二人とも、卒業おめでとう」

 

 そう言うと、古賀はぱっと笑う。

 

 「ありがと!」

 

 米山さんも、柔らかく頷いた。

 

 「ありがとうございます」

 

 そのあと、古賀にスマホを渡される。

 

 「じゃあまず、奈々ちゃんと!」

 

 「はいはい」

 

 校門の前で二人が並ぶ。

 

 卒業証書を持って、少し照れたように笑う米山さんと、いつも通り元気に笑う古賀。

 

 何枚か撮る。

 

 「もうちょっと寄って」

 

 「こう?」

 

 「そう。古賀、動きすぎ」

 

 「えー、写真って難しい」

 

 「撮られる側が言うな」

 

 何枚か撮ったあと、古賀の友だちも集まってきた。

 

 米山さん以外にも、同じクラスだった子たち。

 

 その中に、香芝玲奈さんの姿もあった。

 

 茶色の長い髪に、柔らかい目元。

 

 けれど、立ち方や視線の投げ方には、少しだけ刺のある今どきの空気が残っている。

 

 高一の頃、古賀がいたグループの中心に近かった子。

 

 高二の時には、米山さんの思春期症候群の件で、少しだけ衝突しかけた相手でもある。

 

 「……」

 

 だから、その場に普通にいることに、少しだけ安心した。

 

 香芝さんは俺に気づくと、軽く頭を下げる。

 

 「岸和田先輩、お願いします」

 

 「了解」

 

 スマホを構える。

 

 古賀、米山さん、香芝さん。

 

 他の友だちも入って、校門前に並ぶ。

 

 「撮るぞ」

 

 「はーい!」

 

 シャッターを切る。

 

 一枚。二枚。三枚。

 

 画面の中で、みんなが笑っている。

 

 これが、卒業式なんだろう。

 

 一回きりの時間。

 

 戻れない時間。

 

 けれど、こうして写真に残すことで、少しだけ後ろに置いていける時間。

 

 写真を撮り終えると、古賀たちは画面を覗き込んで騒ぎ始めた。

 

 「これいい!めっちゃ盛れてる」

 

 「え、ほんと?」

 

 「玲奈ちゃんもかわいい!」

 

 「朋絵、声大きいよ」

 

 そのやり取りを少し離れて見ていると、米山さんがこちらに歩いてきた。

 

 「岸和田先輩、本当にありがとうございます」

 

 「いや、こっちこそ呼んでくれてよかったよ」

 

 「朋絵ちゃん、朝から言ってました。『きっしー先輩来てくれるかな』って」

 

 「それは初耳だな」

 

 少し笑う。

 

 「そういえば、米山さんは進路の方、どうなってるの?」

 

 聞くと、米山さんは少しだけ表情を整えた。

 

 「いくつか大学から合格は貰ってるんですけど、本命がまだで」

 

 「それって、横市か?」

 

 「はい。十日が合格発表なので」

 

 「ああ……米山さん、二年の時からオープンキャンパスとか行ってたもんな」

 

 そう言いながら、思い出す。

 

 俺もあの日、横市のオープンキャンパスに行っていた。

 

 のどかと、卯月と一緒に。

 

 そこで、偶然米山さんと鉢合わせた。

 

 「学部はどこなの?」

 

 「国際商学部です」

 

 「じゃあ合格したら、俺の後輩になるわけか」

 

 「そうなりますね」

 

 米山さんは、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

 でも、その奥に別の理由があることを、なんとなく感じる。

 

 彼女が横市にこだわる理由。

 

 たぶん、それは学部や立地だけじゃない何か。

 

 ただ、米山さんはそれを口にはしない。

 

 だから俺も、聞かない。

 

 「もし受かったら、取りやすい単位とか授業とか教えるよ」

 

 「本当ですか?」

 

 「もちろん。合格、祈ってる」

 

 「ありがとうございます。岸和田先輩」

 

 米山さんは、少しだけ深く頭を下げた。

 

 その横で、古賀がまた手を振っている。

 

 「きっしー先輩!次、先生たちとも撮る!」

 

 「はいはい」

 

 スマホを持ち直す。

 

 校門の向こうで、風が吹いた。

 

 卒業証書の筒を抱えた古賀が、少しだけ眩しそうに笑っている。

 

 その瞬間。

 

 また、頭の奥に何かが触れた。

 

 写真。卒業。横市。

 

 十日の合格発表。

 

 これから先に続いていくはずの時間。

 

 「……」

 

 古賀の声が、それを現実に引き戻す。

 

 「早くー!」

 

 「分かってる」

 

 俺は短く返して、カメラを向けた。

 

 写真を一通り撮り終えた頃には、校門前の人だかりも少しずつ薄くなっていた。

 

 卒業証書の筒を抱えた生徒たちが、友だち同士で名残惜しそうに話している。

 

 泣いているやつもいれば、笑っているやつもいる。

 

 何度も同じ場所で写真を撮り直しているグループもあった。

 

 「きっしー先輩、今日はほんとありがと!」

 

 古賀がスマホを受け取りながら言う。

 

 「ちゃんと送っとけよ」

 

 「送る送る。ていうか、きっしー先輩にも送るね」

 

 「俺に送ってどうするんだよ」

 

 「記念?」

 

 「雑だな」

 

 そう返すと、古賀はいつものように笑った。

 

 その横で、米山さんも小さく頭を下げる。

 

 「岸和田先輩、本当にありがとうございました」

 

 「いいよ。改めて、卒業おめでとう」

 

 「ありがとうございます」

 

 米山さんは、少しだけ照れたように笑う。

 

 古賀は、卒業証書の筒を軽く持ち上げた。

 

 「じゃあ、あたしたち、まだ先生たちに挨拶してくるから」

 

 「ああ」

 

 「きっしー先輩も、ちゃんと豊浜さんと水族館行きなよ?」

 

 「余計なお世話だ」

 

 「えへへ」

 

 そう笑って、古賀は米山さんたちの方へ駆けていく。

 

 その背中は、まだ高校生のままで。

 

 でも、もう高校生ではなくなる人間の背中でもあった。

 

 「……」

 

 校門の前に、少しだけ立ち止まる。

 

 峰ヶ原高校。去年まで自分がいた場所。

 

 ここを卒業した日も、確かにあった。

 

 けれど今は、自分のものではなくなった場所のように見える。それでいいのだと思った。

 

 卒業とは、たぶんそういうものだ。

 

 その場所から追い出されることではなく、自分から少しずつ離れていけるようになること。

 

 「……行くか」

 

 このあと、特に予定はない。

 

 せっかく七里ヶ浜まで来たのだから、のどかとのデートの下見も兼ねて、海まで行ってみることにした。

 

 学校に背中を向ける。

 

 目の前には、海へ向かって緩やかに下る坂道。

 

 春にはまだ少し早い風が、制服姿の卒業生たちの声を背中へ流していく。

 

 坂を下る。

 

 なかなか青にならない国道134号線の信号の前で、足を止める。

 

 車が横切っていくたび、海の音が少しだけ遠くなる。

 

 信号が変わる。

 

 道路を渡り、反対側へ出る。

 

 そこから砂浜に下りた。

 

 靴底が砂に沈み、歩きにくい。

 

 けれど、それが妙に懐かしかった。

 

 波打ち際へ向かって、ゆっくり歩いていく。

 

 春の海風は、まだ冷たい。

 

 力強い波の音が、周囲の喧騒を消してくれる。

 

 まばらに人はいる。

 

 けれど、この音の中にいると、不思議と自分だけが切り離されたような気がした。

 

 誰かと来れば、二人だけの世界にしてくれる。

 

 一人で来れば、自分だけの世界にしてくれる。

 

 だから、俺はこの場所が好きだった。

 

 小さい頃、母親に連れてきてもらった時から、ずっとそうだった気がする。

 

 「……」

 

 のどかとここに来たら、どんな顔をするだろう。

 

 少し寒いと言いながらも、海を見て笑うだろうか。

 

 髪が風に流されて、邪魔そうに押さえるだろうか。

 

 それとも、照れ隠しみたいに文句を言うだろうか。

 

 想像すると、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

 その温かさが、今は少し怖かった。

 

 幸せだと思う。でも、そう思えること自体が、怖い。

 

 「……また、それか」

 

 小さく呟く。

 

 波の音に消える。

 

 しばらく砂浜を歩いたあと、帰ろうと思って道路へ上がる階段の方へ向かった。

 

 その途中だった。

 

 階段の下で、一組の家族連れとすれ違った。

 

 三十代後半くらいの、仲のよさそうな両親。

 

 そのふたりの間に、高校生くらいの少女がいた。

 

 峰ヶ原に入学する予定の新入生だろうか。

 

 にこにこと楽しそうに話している。

 

 眩しいくらいの笑顔だった。

 

 「まだ寒いから、少しだけだよ」

 

 波打ち際の方へ駆け出そうとする娘に、父親が声をかける。

 

 「そうよ。沖縄と違うんだから」

 

 母親も、やわらかく言葉を重ねた。

 

 「だって、久しぶりに来れて嬉しくて」

 

 振り返った少女は、笑顔で手を振っていた。

 

 その顔を見た瞬間。

 

 足が、止まった。

 

 「……」

 

 胸の奥が、ざわつく。

 

 見覚えがある。

 

 いや。ある、なんて曖昧なものじゃない。

 

 俺は、その顔を知っている。

 

 高二の文化祭の日。

 

 階段で助けた少女。

 

 高二の春。

 

 ファミレスへ行く途中に会った少女。

 

 それから、高二の大晦日に見た、あの奇妙な夢。

 

 夢、と呼ぶしかない出来事。

 

 けれど、俺にとっては夢とは思えない、確かな現実の感触を持った時間。

 

 ほかの誰にも記憶が存在していない。

 

 高校時代、よく記録していたタブレットにも、きちんと記録されていなかった。

 

 だから俺は、それを自分の思春期症候群の後遺症だと思っていた。

 

 あのループ。

 

 選ばなかった可能性が現実に干渉して、時を繰り返す世界。

 

 そこでは、記録しても、客観しか残らなかった。未来へ持ち出せるのは、出来事としての事実だけ。

 

 心の温度は、どうやっても残らない。

 

 主観は剥がれ落ち、記憶も、時々あやふやになる。

 

 実際、今でも、小学校の頃の友だちや同級生の名前を、卒業アルバムを見ないと思い出せないことがある。

 

 その頃に流行っていたニュースや音楽や映画も、ところどころ抜け落ちている。思い出せるはずの共有されている記憶が、自分の中だけうまく繋がらない。

 

 だからこそ、ループを抜けた後は、必死にみんなと同じ道に戻ろうとした。

 

 周りと同じ時間を、同じ順番でなぞること。それが、何より優先だった。

 

 けれど……みんなの気持ちを知りたくても、そこに踏み込むことはできなかった。

 

 ただ、少し離れた場所から見ていることしかできなかった。

 

 いつも通りに見えるように振る舞いながら、どこかで一歩引いたまま。

 

 だから、あの奇妙な夢も、その延長だと思っていた。

 

 壊れた記憶が見せた、残響のようなもの。

 

 そう整理していた。

 

 なのに……

 

 「……」

 

 目の前にいる少女は、その夢に現れた少女と、あまりにもよく似ていた。

 

 似ている、どころではない。

 

 同じ顔に見えた。

 

 声をかけようと、口が動きかける。

 

 ——君は

 

 そこまで出かけて、止まった。

 

 喉の奥で、言葉が凍る。嫌な予感がした。

 

 理屈ではない。けれど、身体の奥が警告している。

 

 これ以上近づくな。

 

 これ以上、重ねるな。

 

 そう言われているような感覚。

 

 常識的に考えても、見ず知らずの女子高生に突然声をかけるのはおかしい。

 

 それも、家族といる相手に。

 

 だから俺は、何も言わなかった。

 

 少女は、こちらには気づいていない。

 

 両親と笑いながら、波打ち際へ向かっていく。

 

 その後ろ姿を、俺は数秒だけ見ていた。

 

 「……まさかな」

 

 声に出したつもりだった。

 

 けれど、波の音に消えて、自分でも聞こえなかった。

 

 階段を上がり、国道の方へ戻る。

 

 七里ヶ浜駅へ向かって歩き出す。

 

 一度だけ、振り返った。

 

 砂浜の向こうで、少女が笑っている。

 

 波の白さと、春前の薄い光の中で。

 

 その姿は、あまりにも幸福そうだった。

 

 だからこそ、胸の奥が冷えた。

 

 「……」

 

 (まさかな……)

 

 もう一度、心の中で繰り返す。

 

 その言葉は、否定というより祈りに近かった。

 

 駅へ向かう足取りは、さっきより少しだけ重かった。

 

 江ノ電の踏切の音が、遠くで鳴っている。

 

 日常は、ちゃんと続いている。

 

 卒業式も終わった。写真も撮った。

 

 のどかとのデートの予定もある。

 

 何もおかしいことはない。

 

 何も、起きていない。

 

 それなのに……

 

 「……」

 

 頭の奥で、何かがゆっくりと軋んでいた。

 

 ずっと閉じていたはずの扉に、外側から指がかかったような感覚。

 

 それが何なのか、まだ分からない。

 

 分かりたくもなかった。

 

 七里ヶ浜駅のホームに立つ。

 

 海風が吹き抜ける。

 

 ポケットの中で、スマホが小さく震えた気がした。

 

 取り出す。

 

 通知はなかった。

 

 「……」

 

 気のせい。

 

 そう思うことにした。

 

 江ノ電が近づいてくる音がする。

 

 俺はもう一度だけ、海の方を見た。

 

 波は、何も知らないみたいに寄せては返していた。

 

 そして俺は、その音を聞きながら、電車に乗った。




登場人物紹介

名前 山田健人『やまだけんと』
身長 165cm
誕生日 7月5日(※オリジナル設定)

咲太が講師を務めている塾に通う生徒のひとりで、彼の教え子でもあります。

成績は全体的に低く、親の勧めで半ば強制的に塾へ通っており、授業中の態度もどこか気の抜けたものが目立ちます。

女子の同級生の前でも平然と下ネタを口にするなど、デリカシーに欠ける一面を持ち、周囲からは軽い性格として見られることも少なくありません。

姫路紗良とは同じクラスに所属しており、以前は彼女に対して好意を匂わせるような言動を見せていましたが、クリスマスイブにて、紗良の思春期症候群が解消され、またその夜、「#夢見る」によって吉和樹里とデートをしている夢を見たことをきっかけに、彼女の存在を強く意識するようになります。

それ以降、樹里に対する態度には変化が見られ、軽口を叩きながらもどこか距離を測るような言動が増えており、二人の間では小さな言い合い、いわゆる痴話喧嘩のようなやり取りも目立つようになっています。

樹里からも好意を向けられており、関係性は曖昧ながらも確実に変化しつつあります。

蓮真とは塾を通じて関わりがあり、そのふざけた言動や不真面目な態度に対して、やや呆れられている節がありますが、同時に学習面での変化や内面の成長については一定の評価も受けています。

表面的には軽薄で不真面目に見える一方で、環境やきっかけ次第で変わり得る余地を持った、未成熟で等身大の高校生と言えます。
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