青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

85 / 85

いつもお読みいただきありがとうございます。

本来であればもう少し早く更新する予定だったのですが、私生活の都合により、少し投稿間隔が空いてしまいました。

楽しみに待っていてくださった方がいましたら、申し訳ありません。

自分のペースにはなりますが、引き続き更新を続けていく予定です。

さて、今回はホワイトデーと、のどかの誕生日デート回になります。

ここまで積み重ねてきた人間関係への「返礼」と、これから先へ進むための「贈り物」がテーマになっています。

大きな事件が起こる回ではありませんが、その分だけ、登場人物たちの日常や距離感を丁寧に描ければと思いながら書きました。

少し長めのデート回になりますが、楽しんでいただければ幸いです。

それでは、本編をどうぞ。


3.返しきれない甘さは、春風に解ける

 

 三月九日

 

 横浜駅に着いた頃には、空は少しだけ白く霞んでいた。

 

 三月に入って一週間が過ぎたとはいえ、風にはまだ冬の名残がある。

 

 それでも、一月や二月の乾いた冷たさとは違った。

 

 季節が動いている。

 

 そのことだけは、街の空気を吸えば分かった。

 

 東口へ出て、ポルタを抜けて、横浜そごうへ向かう。

 

 休日ほどではないが、人は多い。

 

 買い物袋を提げた人。仕事帰りらしい人。卒業式帰りなのか、花束を持った高校生の姿も見える。

 

 その流れに混ざりながら、エスカレーターで地下二階へ下りた。

 

 目当ては、えの木てい。

 

 少し前まで、バレンタイン用の売り場だった場所が、今はホワイトデー仕様になっていた。

 

 焼き菓子の匂い。包装紙の色。並ぶ人たち。

 

 誰かに返すためのものを選ぶ空気は、バレンタインとは少し違う。受け取るより、考える側の時間だった。

 

 店頭に並ぶ商品を眺める。

 

 横濱レモン。横濱チェリー。

 

 クッキーの詰め合わせ。焼き菓子の缶。

 

 「……」

 

 まず手に取ったのは、横濱レモンだった。

 

 大津と浜松さん。

 

 二人分。

 

 黄色い箱を見ながら、少し考える。

 

 大津は、太陽みたいなやつだ。

 

 日焼けした肌。ショートカット。誰とでも距離を詰める。

 

 自由そうに見えるけど、案外ちゃんと考えていて、努力もする。

 

 大会だと言いながら、その裏では普通に勉強もやる。

 

 大学受験の勉強を教えた時も、理解が早かった。

 

 雑に見えて雑じゃない。そんな印象だ。

 

 浜松さんは逆だ。

 

 静かで、あまり自分から踏み込まない。

 

 でも、見ている。よく見ている。

 

 大津が無理してる時も、多分誰より先に気づいている。

 

 俺と話す時も、こちらの変化を細かく拾ってきてくれる。

 

 ビーチバレーのペアって、競技以上に関係性が重要なんだろうな、と二人を見ていると思う。

 

 だから、二人には横濱レモンがいいと思った。

 

 爽やかで、少し軽くて、でもちゃんと残るもの。それくらいがいい気がした。

 

 次に、横濱チェリーを手に取る。

 

 赤城と上里。

 

 咲太とかは、意外な組み合わせだと思っているかもしれない。

 

 でも、俺の中では不思議と近い位置にいる。

 

 赤城は静かな人間だ。

 

 誰かを助ける時も、自分を見せない。

 

 でも、ずっと背負っている。中学の頃から、ずっと。

 

 上里は現実側だ。

 

 理想より先に生活を見る。

 

 感情だけで動かないから、地に足がついている。

 

 そういう人間が支援活動に入るのは、たぶん悪くない。

 

 横濱チェリーは、甘いだけじゃなくて、少し酸味がある。

 

 現実寄りの二人には、それくらいが合う気がした。

 

 そして、最後に残った。

 

 (卯月の分、どうしよう……)

 

 売り場を一周する。二周する。

 

 少し迷う。

 

 卯月だけ、なかなか決まらなかった。

 

 義理じゃない。あれは、本命だった。

 

 しかも、そのあとにちゃんと言葉にした。

 

 俺は答えて、そして、のどかを選んだ。

 

 卯月を選ばなかった。

 

 でも……

 

 だからって、適当に返すのは違う。

 

 卯月がくれたものは、そんな軽いものじゃなかった。

 

 ふと、ジュエリーBOXクッキーが目に入る。

 

 小さな箱。少し華やかで、でも、アクセサリーほど重くない。

 

 見た目は綺麗で、食べれば残らない。

 

 「……これだな」

 

 手に取る。

 

 選ばなかった。けど、綺麗な時間だった。

 

 それくらいの距離感。

 

 会計を済ませる。

 

 紙袋が増えて、持ち手が少しだけ食い込む。

 

 誰かとの関係って、多分こういう重さなんだと思った。

 

 藤沢に戻り、改札を出たところで、声が飛んできた。

 

 「岸和田ー!」

 

 振り向くと、大津と、隣には浜松さんがいた。

 

 二人ともスポーツバッグを肩に提げている。

 

 髪は少し乱れていて、頬が赤い。

 

 練習終わりなのが分かった。

 

 「二人とも、練習帰りか?」

 

 「うん!」

 

 大津が元気よく頷く。

 

 「鹿児島あるし」

 

 浜松さんが補足した。

 

 「四月一日から全日本あるから」

 

 そう言ってスマホを出す。

 

 画面を見せられる。

 

 新ユニフォームだった。

 

 今までの青と白とは違う。

 

 赤が入っている。

 

 目立つ。熱量がある。

 

 「変えたんだな」

 

 「気合い入ってるでしょ?」

 

 大津が笑う。

 

 「次は勝ちに行くから」

 

 その顔が、少しだけ大学生っぽくなかった。

 

 競技者の顔だった。

 

 浜松さんが視線を下げる。

 

 「岸和田くん、それ何?」

 

 「ああ」

 

 少し持ち上げる。

 

 「バレンタインのお返し」

 

 大津が目を丸くした。

 

 「岸和田は律儀だなぁ」

 

 一秒。二秒。

 

 急に笑う。

 

 「そうだ、今ちょうだいよ」

 

 「は?」

 

 「疲れたんだよ。糖分ほしい」

 

 「雑だな」

 

 でも、嫌じゃなかった。

 

 袋を開ける。横濱レモンを渡す。

 

 大津は嬉しそうに受け取った。

 

 浜松さんも少し驚きながら受け取る。

 

 「ありがとう」

 

 「ありがとう、岸和田くん」

 

 大津が箱を見ながら笑う。

 

 「いいじゃんこれ」

 

 浜松さんが小さく言った。

 

 「帰ったら半分こしよう」

 

 自然だった。多分いつもそうなんだろう。

 

 大津が俺を見る。

 

 「そうだ。大会終わったらさ」

 

 「ん?」

 

 「輪行しようよ」

 

 「輪行?」

 

 「伊豆」

 

 笑う。

 

 「ロードバイクで」

 

 浜松さんも頷く。

 

 「海沿い走ってみたいから」

 

 少し考える。

 

 伊豆。悪くない。

 

 「……いいな」

 

 大津が笑う。

 

 「決まりね」

 

 二人は手を振って去っていった。

 

 赤いユニフォームが、少しだけ夕陽に近い色に見えた。

 

 家に帰るとスマホが鳴った。

 

 赤城だった。

 

 《岸和田くん、十二日って空いてる?》

 

 少し考える。

 

 ライブとデートの間だから、その日は空いている。

 

 《大丈夫》

 

 そう返すとすぐに返事が来た。

 

 支援記録。

 

 保護者向け説明。

 

 子どもたちの状況整理。

 

 学校との距離感。

 

 地雷ワード。

 

 心を開いたきっかけ。

 

 上里も協力。

 

 読み終わる。

 

 少しだけ笑った。

 

 観察。記録。整理。

 

 ずっと俺がやってきたことだった。

 

 違うのは。

 

 今度は、自分が壊れないためじゃない。

 

 誰かを繋ぐためだ。

 

 《ああ。頑張ってやってみるよ》

 

 送信する。既読。

 

 《ありがとう。よろしくね、岸和田くん》

 

 机を見る。

 

 ジュエリーBOXクッキー。

 

 まだ渡していない。

 

 返しきれないものはある。でも、返そうとすることだけは、できる。

 

 春は、そういう季節なのかもしれなかった。

 

 三月十一日

 

 六本木駅を出た頃には、空はゆっくり夜へ向かい始めていた。

 

 東京ミッドタウンへ向かう人の流れに混ざる。

 

 買い物帰りの人。友達同士で歩く学生。

 

 その中に、目立つ色が混ざっていた。

 

 黄色。豊浜のどかのメンバーカラー。

 

 黄色のTシャツ。黄色のタオル。名前入りのうちわ。

 

 「あ、どかちゃん推し?」

 

 「今日絶対ソロ曲あるって!」

 

 「最近マジで勢いあるよなー」

 

 そんな会話が、すれ違うたびに聞こえてくる。

 

 「……」

 

 自然と、少しだけ口元が緩む。

 

 (のどか、ほんと人気出てきたよな)

 

 スイートバレットの一番人気は、やっぱり卯月だ。

 

 リーダーでセンター。

 

 ソロデビューにモデル活動。

 

 ファッション雑誌でもよく見かけるし、女性ファンもかなり多い。

 

 憧れのアイドルとして見られている空気がある。

 

 でも、最近は違った。

 

 ライブの感想でも、SNSでも、豊浜のどかって名前を見かける回数が明らかに増えている。

 

 前までは、桜島麻衣の妹とか、元気なメンバーみたいな見られ方だったのに。今はちゃんと、のどか自身を見ている人間が増えている。

 

 卯月に迫るくらいの勢いだった。

 

 ミッドタウンのホールへ入る。キャパは千人規模。

 

 ロビーには既にかなり人が集まっていた。

 

 グッズ売り場。フラワースタンド。写真を撮るファン。

 

 独特の高揚感が、空気の中にある。

 

 その時だった。

 

 「蓮真さん!」

 

 聞き慣れた声が飛んでくる。

 

 振り向くと、花楓ちゃんが小さく手を振っていた。

 

 隣には鹿野さんもいる。

 

 「こんばんは」

 

 花楓ちゃんが少し嬉しそうに頭を下げる。

 

 「こんばんは、岸和田さん」

 

 鹿野さんも続けた。

 

 「二人とも来てたのか」

 

 「はい。のどかさんのバースデーライブですから」

 

 「最近勉強が忙しくてライブ映像とかを見てたんですけど、やっぱり実際来ると全然違いますね」

 

 鹿野さんが周囲を見ながら言う。

 

 「熱量がすごいです」

 

 「まあ、今日はバースデーだしな」

 

 そう返すと、花楓ちゃんが小さく頷いた。

 

 「のどかさん、最近すごく楽しそうです」

 

 その言い方が、妙に印象に残った。

 

 少しだけ話してから、二人と別れる。

 

 俺は指定された前方ブロックへ向かった。

 

 ステージがかなり近い。

 

 「……」

 

 席番号を確認しながら歩いていると、不意に視線が止まった。

 

 そこにいたのは、見覚えのある女性だった。

 

 少し吊り気味の目元。

 

 整った眉。

 

 柔らかい雰囲気というより、きちんとしている空気が先に来る顔立ち。

 

 年齢は四十代くらい。

 

 髪は後ろでまとめていて、落ち着いたベージュのコートを着ている。

 

 のどかと似ている。

 

 特に、真面目な時の目元が。

 

 豊浜のどかの母親だった。

 

 会うのは、一昨年のクリスマス以来だ。

 

 新宿であった、のどかのソロライブ。

 

 あの日、短い時間だけ話した。

 

 「……お久しぶりです」

 

 そう声をかけると、のどかの母親は少し目を細めた。

 

 「あら」

 

 それから、小さく笑う。

 

 「あなたも来ていたのね、きっしーさん」

 

 「……」

 

 一瞬だけ、時間が止まりそうになる。

 

 少しだけ、妙な実感が湧く。

 

 すると彼女はすぐに、小さく首を傾げた。

 

 「いいえ」

 

 「今は、蓮真さんって呼んだ方がいいかしら」

 

 「……どっちでも大丈夫です」

 

 そう返すと、彼女はふっと笑った。

 

 「そういうところ、変わらないんですね」

 

 「……そうですか?」

 

 「ええ」

 

 静かな声だった。

 

 でも、教師みたいな観察する目をしている。

 

 人を見る仕事をしてきた人間の目だと思った。

 

 隣に座る。少しだけ緊張する。

 

 のどかから、この人の話は何度か聞いていた。

 

 勉強のこと。アイドル活動のこと。進路のこと。

 

 あれやれ、これやれとうるさく干渉してくる。

 

 でも、本当はちゃんと自分を見てくれている。

 

 文句みたいに話しながらも、のどか自身はちゃんと分かっていた。

 

 それに。のどかが教師を目指している理由の一つが、この人だということも、俺は知っている。

 

 「最近、のどかからよく名前を聞くわ」

 

 不意に、そう言われた。

 

 「……」

 

 少しだけ視線を向ける。

 

 のどかの母親は、ステージを見たまま続けた。

 

 「前より、ずっと楽しそうに話すようになったの」

 

 「……そうですか」

 

 「ええ」

 

 小さく頷く。それから、少しだけ間を置いて。

 

 「蓮真さん」

 

 名前を呼ばれて、自然と姿勢が少しだけ正される。

 

 「のどかのこと、よろしくお願いします」

 

 「……」

 

 短い言葉だった。

 

 でも、その一言の重みは、ちゃんと分かった。

 

 アイドル。進路。将来。

 

 そして多分、その全部を含んでいる。

 

 「……はい」

 

 静かに、そう返す。

 

 それ以上、うまい言葉は出てこなかった。

 

 でも、それで十分だと思った。

 

 ちょうどその時だった。

 

 客席の照明が、ゆっくり落ちて、ざわめきが、一瞬で熱に変わる。

 

 歓声。ペンライトの光。暗転。

 

 そして、ステージ中央にスポットライトが落ちる。

 

 歓声が爆発した。

 

 「みんなーっ!!」

 

 最初に飛び出してきたのは卯月だった。

 

 両手を大きく振りながら、いつものように全力で客席を煽る。

 

 「いぇーーい!!」

 

 会場が揺れて、ペンライトの光が一斉に跳ねた。

 

 「盛り上がってるー!?」

 

 さらに歓声。

 

 「今日はなんとどかちゃんのバースデーライブに合わせて」

 

 卯月が人差し指を立てる。

 

 「新曲を披露しちゃうよー!!」

 

 どっと沸く客席。その横で、のどかが少し前へ出た。

 

 黄色のライトが、まるで吸い寄せられるみたいに集まる。

 

 「みんな、いつもありがとう!」

 

 マイク越しの声が、真っ直ぐ届く。

 

 「まだまだ成長途中なあたしたちを……」

 

 少しだけ照れたように笑う。

 

 「これからも応援してくれたら嬉しいです!」

 

 歓声。拍手。

 

 のどかは、その音を受け止めるように客席を見渡した。

 

 そして……

 

 「それじゃあ」

 

 小さく息を吸う。

 

 「聴いてください!」

 

 ステージの照明が変わる。イントロが流れた。

 

 会場の空気が、一気に弾ける。

 

 「君の心に Sweet Bullet!」

 

 五人の声が重なる。

 

 黄色。青。赤。オレンジ。紫。

 

 無数のペンライトが揺れていた。

 

 俺も自然とステージへ視線を向ける。

 

 その中心にいるのは、のどかだった。

 

 センター。スポットライトの真下。

 

 歌う。笑う。踊る。

 

 その全部が、やけに自然だった。

 

 (……人気出たよな)

 

 少し前までは違った。

 

 桜島麻衣の妹。ツッコミ役でしっかり者なメンバー。

 

 そういう紹介のされ方が多かった。

 

 でも今は違う。

 

 この会場にいる人たちは、ちゃんと豊浜のどかを見ている。

 

 アイドルとして、一人の人間として、応援している。

 

 そのことが、客席の熱だけで分かった。

 

 >いつからだろう 溢れるこの想い

 

 のどかのソロパート。

 

 歓声が上がる。その声に押されるみたいに、のどかが笑った。

 

 (……ああ、やっぱり)

 

 のどかには、ステージの上が似合う。

 

 そう思った。

 

 卯月もいる。安濃さんもいる。岡崎さんもいる。中郷さんもいる。

 

 みんな楽しそうだ。

 

 だけど……

 

 気付くと、俺の視線は、一人に戻っている。

 

 のどか。

 

 ただ、それだけだった。

 

 歌詞が流れる。

 

 >君の心に Sweet Bullet!

 

 >届けこの甘い気持ち

 

 思わず苦笑しそうになる。

 

 (今、こんな曲やるのかよ)

 

 少し前までなら、ただのアイドルソングだった。

 

 でも今は違う。 

 

 >くじけそうな時は 胸に手を当てて

 

 >思い返そう 積み重ねた想い

 

 この曲が歌っていることを、俺は知っている。

 

 届かなかったら終わるかもしれない。

 

 >あと一歩前に出て その手伸ばしたら

 

 >狙い定めてもう一度 打・ち・抜・く・の!

 

 それでも撃ち込む。好きだと伝える。

 

 そんな歌だ。

 

 そして……

 

 それをやった人間を、俺は二人知っている。

 

 だから余計に、胸の奥が少しだけくすぐったかった。

 

 大サビで、のどかが前へ出る。

 

 ペンライトが一斉に揺れる。

 

 その瞬間だった。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 のどかの視線が、客席を横切る。

 

 偶然かもしれない。勘違いかもしれない。

 

 でも一瞬だけ……

 

 本当に一瞬だけ……

 

 目が合った気がした。

 

 「……っ」

 

 心臓が跳ねる。

 

 のどかは何事もなかったみたいに次の振り付けへ入っていく。

 

 >君の心に Sweet Bullet!

 

 >届けこの大きな気持ち

 

 歌う。笑う。踊る。

 

 プロとして。アイドルとして。完璧に。

 

 でも……

 

 さっきの一瞬だけは。

 

 たぶん。気のせいじゃなかった。

 

 (……やばいな)

 

 小さく息を吐く。

 

 ライブを見に来たはずなのに。

 

 気付けば。

 

 豊浜のどかを見に来ていた。

 

 そんな当たり前の事実を、今さらみたいに思い知らされる。

 

 ステージの上では、まだ曲が続いている。

 

 歓声。光。音楽。

 

 その全部の真ん中で。

 

 のどかは、誰よりも楽しそうに笑っていた。

 

 ライブが終わっても、しばらくその場を離れられなかった。

 

 会場の照明が少しずつ戻っていく。

 

 周囲では、興奮したファンたちが口々に感想を言い合っていた。

 

 「新曲やばくなかった?」

 

 「どかちゃん、今日ほんとセンターだったよな」

 

 「目、合った気がしたんだけど!」

 

 その言葉に、少しだけ反応してしまう。

 

 同じことを考えている人間は、どうやら俺だけじゃないらしい。

 

 けれど、たぶん違う。

 

 俺が思っているそれは、ファンが言う「目が合った」とは少し違う。

 

 そう思いたいだけなのかもしれない。

 

 でも、そうじゃない気もした。

 

 会場を出る頃には、夜の六本木は完全に暗くなっていた。

 

 ミッドタウンの外へ出ると、冷たい風が頬に触れる。

 

 ポケットの中でスマホが震えた。

 

 画面を見る。

 

 のどかだった。

 

 《来てくれてありがと》

 

 たったそれだけなのに、少しだけ胸が軽くなる。

 

 すぐに返す。

 

 《お疲れ。すごく良かった》

 

 既読はすぐについた。少し間があってから、次のメッセージが届く。

 

 《ほんとに?》

 

 《ほんと》

 

 《どこが?》

 

 思わず、少しだけ笑ってしまう。

 

 こういうところは、意外と面倒くさい。

 

 でも、その面倒くささが嫌じゃなかった。

 

 《センター似合ってた》

 

 送ってから少しだけ迷って、もう一文を続けた。

 

 《あと、目が合った気がした》

 

 送信。既読。

 

 しばらく返事が来なかった。

 

 たぶん、向こうでのどかが画面を見て固まっている。

 

 そんな顔が、簡単に想像できた。

 

 やがて、短い返事が届く。

 

 《そうかもね》

 

 「……ずるいな」

 

 思わず口に出る。そのまま打つ。

 

 《ずるいな》

 

 今度はすぐに返ってきた。

 

 《何が?》

 

 《そういうところ》

 

 《蓮真こそ、そういうこと言うようになったじゃん》

 

 《誰のせいだよ》

 

 《あたしのせい?》

 

 《たぶん》

 

 送ったあと、画面の向こうでのどかが笑っている気がした。

 

 《デート、楽しみ》

 

 その一文が、不意に届く。

 

 さっきまでの軽いやり取りと違って、急にまっすぐだった。

 

 《俺も》

 

 短く返す。少し考えてから、もう一文。

 

 《水族館と江の島でいいよな?》

 

 《うん。楽しそう》

 

 《夕方は七里ヶ浜に行くから》

 

 《うん。蓮真、ちゃんと考えてる》

 

 《少しはな》

 

 《少しなんだ》

 

 そのやり取りが、普通に続く。

 

 普通に続くことが、少しだけ不思議だった。

 

 恋人になったからといって、急に何かが全部変わるわけじゃない。

 

 でも、同じ言葉のはずなのに、少しだけ意味が変わっている。それが、くすぐったかった。

 

 しばらくして、のどかからまたメッセージが来た。

 

 《あ、そうだ》

 

 《デートの日の夜なんだけど》

 

 《お姉ちゃんが家で誕生日会やってくれるんだって》

 

 《咲太と花楓ちゃんと卯月も来る》

 

 「……」

 

 画面を見たまま、少しだけ止まる。

 

 《その日、一日中空けてくれるわけじゃないんだな……》

 

 送ってから、自分で少しだけ情けないと思った。すると、すぐに返事が来る。

 

 《なに、拗ねてる?》

 

 《別に》

 

 《拗ねてるじゃん》

 

 《拗ねてない》

 

 《はいはい》

 

 そのあと、少し間を置いて。

 

 《だって、蓮真とも一緒にいたいけど》

 

 《お姉ちゃんとも一緒にいたいし》

 

 その文面を見て、思わず息が漏れた。

 

 のどからしい。本当に、相変わらずだ。

 

 恋人になっても、桜島麻衣の妹であることは変わらない。

 

 むしろ、そこが変わらないから、豊浜のどかなのだと思う。

 

 《相変わらずシスコンだな》

 

 《悪い?》

 

 《悪くない》

 

 《ならよし》

 

 その短いやり取りだけで、妙に納得してしまう。

 

 のどかは俺を選んでくれた。

 

 俺も、のどかを選んだ。

 

 けれど、それはのどかの世界から麻衣先輩が消えるという意味じゃない。

 

 卯月が消えるわけでもない。

 

 咲太や花楓ちゃんとの時間がなくなるわけでもない。

 

 俺は、その全部を含めたのどかを好きになったのだ。

 

 だったら、そこに拗ねるのは少し違う。

 

 《じゃあ昼はちゃんと付き合おう》

 

 少し迷ってから、そう送る。

 

 既読がつく。今度は少しだけ間が空いた。

 

 《そういうこと言うの、反則》

 

 《今さらだろ》

 

 《開き直った》

 

 続けて、もう一文。

 

 《楽しみにしてる》

 

 「……」

 

 画面を見ながら、ゆっくり息を吐く。

 

 夜の六本木の風はまだ冷たい。

 

 それでも、胸の奥だけが少しだけ暖かかった。

 

 デート。

 

 誕生日会。

 

 のどか。

 

 卯月。

 

 麻衣先輩。

 

 咲太。

 

 全部が同じ日に重なっている。

 

 それは少し騒がしくて、少し面倒で、たぶん少しだけ幸せな一日になる。

 

 そう思った瞬間。

 

 ほんの一瞬だけ、胸の奥で何かが引っかかった。

 

 ——幸せな一日。

 

 その言葉だけが、妙に輪郭を持って残る。

 

 「……」

 

 足を止める。

 

 けれど、その違和感はすぐに薄れていった。

 

 画面には、まだのどかとのトークが開かれている。

 

 《蓮真、帰り気をつけてね》

 

 その一文を見て、少しだけ笑う。

 

 《のどかもな》

 

 送信する。既読。

 

 《うん》

 

 それだけ返ってきた。

 

 たった一文字なのに、ちゃんとそこにのどかがいた。

 

 俺はスマホをポケットにしまう。

 

 夜のミッドタウンを背にして、駅へ向かって歩き出した。

 

 春は、もう近い。

 

 そんなことを思うには、まだ少し風が冷たかったけれど。

 

 それでも、確かに、季節は動いていた。

 

 三月十二日

 

 横浜市立大学のYCUスクエアは、昼前の光を受けて少しだけ明るく見えた。

 

 スチューデントオフィスの一角にある打ち合わせスペースには、俺と赤城、上里、それから友部さんが座っていた。

 

 来年度のボランティア活動に向けた打ち合わせ。

 

 新しく入る学生の受け入れ方。学習支援に来る子どもたちの状況共有。保護者への説明。学校との距離感。

 

 資料には、思っていたより現実的な項目が並んでいた。

 

 「支援する側が、子どもの問題を全部背負い込まないこと」

 

 友部さんがそう言った。

 

 「でも、見ないふりもしない。その線引きを、最初に確認しておきたいんです」

 

 赤城は静かに頷いていた。

 

 上里は、配られた資料に短くメモを取っている。

 

 俺もペンを動かす。

 

 観察。記録。整理。

 

 ずっとやってきたことだ。

 

 けれど、今ここで必要とされているそれは、自分が壊れないためのものとは少し違っていた。

 

 誰かと誰かを繋ぐための記録。

 

 誰かを孤立させないための整理。

 

 その違いが、妙に胸に残った。

 

 打ち合わせが終わったのは、一時間ほど後だった。

 

 友部さんが資料をまとめながら、「では、次回までに簡単な支援記録の様式案を見ておいてください」と言う。

 

 赤城が「はい」と答え、上里も「了解です」と頷いた。

 

 その流れが一段落したところで、俺は鞄の中に手を入れた。

 

 タイミングとしては、ここしかなかった。

 

 「……赤城、上里さん」

 

 声をかけると、二人がこちらを見る。

 

 「これ」

 

 紙袋から取り出した箱を、それぞれに差し出す。

 

 横濱チェリー。

 

 この間、横浜そごうで買ったものだ。

 

 「バレンタインのお返し」

 

 そう言うと、上里が少し目を丸くして、それからすぐに笑った。

 

 「岸和田くん、センスいいじゃん」

 

 「そうか?」

 

 「ちゃんと選んだ感じする」

 

 その言い方が、上里らしかった。

 

 適当に褒めるわけじゃなくて、ちゃんと見た上で言っている。

 

 赤城は、箱を両手で受け取って、少しだけ表情をやわらげた。

 

 「ありがとう、岸和田くん」

 

 「……どういたしまして」

 

 短く返す。

 

 赤城は、それ以上大げさなことは言わなかった。

 

 けれど、その一言だけで十分だった。

 

 YCUスクエアを出ると、昼過ぎの空気は思っていたより暖かかった。

 

 春が近づいている。そう思うには、まだ少し風は冷たい。

 

 でも、冬の冷たさとは違う。

 

 「岸和田くん、このあとどうすんの?」

 

 上里が聞いてきた。

 

 「横浜に行く」

 

 「また横浜?」

 

 「まあな」

 

 そう答えると、赤城が少しだけこちらを見る。

 

 「今日はこっちなんだ」

 

 「ん?」

 

 「実家帰り?」

 

 赤城に言われて、少しだけ首を振る。

 

 「いや、そういうわけじゃない」

 

 「プレゼント買いに行く」

 

 「プレゼント?」

 

 赤城が短く聞き返す。

 

 その目が、すぐに何かを察したように少しだけ動いた。

 

 「それって、豊浜さんの?」

 

 「……ああ」

 

 隠す理由もなかった。

 

 「そうだよ」

 

 赤城は、ほんの少しだけ黙った。

 

 それから、静かに頷いた。

 

 「そっか」

 

 それだけ。でも、そのあとに続いた言葉は、少しだけ違った。

 

 「よかったね」

 

 「……」

 

 一瞬、返す言葉が遅れる。

 

 赤城の声は、いつも通り淡々としていた。

 

 けれど、その中に含まれているものを、俺はたぶん分かってしまった。

 

 赤城は、俺に何かを求めているわけじゃない。

 

 もう、そういう場所には立っていない。でも、何もなかったわけでもない。

 

 だからこその、「よかったね」だった。

 

 「……ありがとう」

 

 ようやく、それだけ返す。

 

 赤城は小さく頷いて、それ以上は何も言わなかった。

 

 京急線に乗って、横浜へ向かう。

 

 赤城の実家は青葉台にあるから、途中までは同じ方向だった。

 

 車内は、昼過ぎらしく混みすぎてはいなかった。

 

 吊り革が揺れる。

 

 窓の外を、線路沿いの景色が流れていく。

 

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

 気まずいわけではない。

 

 でも、何かを無理に話す必要もなかった。

 

 こういう沈黙を成立させられるところが、赤城らしいと思う。

 

 横浜駅に着く。

 

 「じゃあ、私はこっちだから」

 

 赤城が短く言う。

 

 「ああ」

 

 「プレゼント、いいの見つかるといいね」

 

 「……そうだな」

 

 赤城は小さく手を振って、人の流れの中へ歩いていった。

 

 その背中を少しだけ見送る。

 

 胸の奥に、静かな余韻が残っていた。

 

 よかったね。

 

 たったそれだけの言葉なのに、妙に重かった。

 

 横浜からみなとみらい方面へ向かい、赤レンガ倉庫へ着いた頃には、空の色が少しだけ柔らかくなっていた。

 

 海からの風が、建物の間を抜けていく。

 

 赤レンガの壁は、昼と夕方の間みたいな光を受けて、少しだけ落ち着いた色をしていた。

 

 目当ての店は、Kardia。

 

 アクセサリーや雑貨が並ぶ店内に入ると、外の空気とは違う、少しだけ甘い匂いがした。

 

 ガラスケースの中には、リング、ネックレス、ピアス、イヤーカフ。

 

 小さな天然石がついたものも多い。

 

 「……」

 

 最初に目に入ったのは、リングだった。

 

 細くて、華奢で、のどかに似合いそうなものもある。

 

 けれど、すぐに候補から外した。

 

 重すぎる。今、指輪を渡すのは違う。

 

 ネックレスも同じだった。

 

 似合うとは思う。

 

 でも、首元に残るものは、少しだけ意味が強すぎる気がした。

 

 まだ、そこまで踏み込むのは早い。

 

 焦って形にしすぎると、たぶん違うものになる。

 

 そんなことを考えながら、店内を一周する。

 

 小さな棚の一角で、足が止まった。

 

 イヤーカフ。

 

 耳に引っかけるだけの、小さなアクセサリー。

 

 その中に、淡い黄色の石がついたものがあった。

 

 シトリン。

 

 明るすぎず、でもちゃんと光を持っている黄色。

 

 のどかのメンバーカラーに近い。

 

 でも、いかにも推し色です、という感じではない。

 

 普段使いできそうで、少しだけ特別。

 

 それくらいの距離感が、今の俺にはちょうどいい気がした。

 

 「……これだな」

 

 小さく呟く。

 

 店員に声をかけて、ケースから出してもらう。

 

 手のひらに乗せると、思っていたより軽かった。

 

 けれど、軽いだけではなかった。

 

 ちゃんと、渡す理由のある重さだった。

 

 会計を済ませる。

 

 小さな包みを受け取って、鞄の中にしまう。

 

 のどかがこれを見たら、どんな顔をするだろう。

 

 喜ぶだろうか。照れるだろうか。

 

 それとも、少しだけ意地悪そうに笑って、「蓮真、こういうの選ぶんだ」と言うだろうか。

 

 簡単に想像できた。

 

 それが、少しだけ嬉しかった。

 

 赤レンガ倉庫を出ると、海からの風が頬に当たった。

 

 まだ冷たい。でも、冬の終わりの冷たさだった。

 

 鞄の中には、シトリンのイヤーカフ。

 

 自宅の机の上に置いている、卯月へのジュエリーBOXクッキーとは、違う重さのもの。

 

 返すものと、贈るもの。

 

 終わった気持ちに向き合うものと、これから始まる時間に渡すもの。

 

 その二つの違いが、ようやく少しだけ分かった気がした。

 

 「……ちゃんと渡さないとな」

 

 小さく呟く。

 

 赤レンガの広場には、観光客の声が混ざっている。

 

 海の向こうには、みなとみらいのビル群が見える。

 

 その景色の中で、俺は鞄の持ち手を少しだけ握り直した。

 

 春は、もうすぐそこまで来ていた。

 

 三月十四日

 

 藤沢駅の南口に着くと、春の陽気を含んだ空気が流れ込んできた。

 

 今日はよく晴れていて、日差しも暖かい。

 

 二月の名残はもうほとんどなく、頬を撫でる風もどこかやわらかかった。

 

 今日は、のどかの誕生日だった。

 

 そして、デートの日でもある。

 

 「……」

 

 改札前で立ち止まり、スマホで時間を見る。

 

 約束の時間までは、まだ少しある。

 

 早く着きすぎた。

 

 自分でも分かっている。落ち着かないのだ。

 

 水族館に行って、江の島を歩いて、夕方には七里ヶ浜へ行く。

 

 予定だけなら、何も特別なことはない。

 

 観光地としては定番すぎるくらい定番だ。

 

 でも、今日だけは違う。

 

 誰と行くかで、景色の意味は変わる。

 

 そういうことを、今さらみたいに思う。

 

 鞄の中には、小さな包みが入っていた。

 

 赤レンガ倉庫で買った、シトリンのイヤーカフ。

 

 軽いはずなのに、妙に存在感がある。

 

 渡すタイミングはまだ決めていない。

 

 水族館のあとか。

 

 江の島を歩いている途中か。

 

 七里ヶ浜で夕陽を見る時か。

 

 考えれば考えるほど、どれも違う気がして、結局まだ決められていなかった。

 

 それともう一つ。

 

 ポケットには、新江ノ島水族館のチケットが入っている。

 

 この間、咲太経由で麻衣先輩からもらったものだった。

 

 “のどかのこと、よろしくね”と渡されたものだ。

 

 ありがたく使わせてもらうことにした。

 

 「……こういうとこだよな」

 

 小さく呟く。

 

 すると、その声に重なるように、少し離れたところから聞き慣れた声がした。

 

 「何が、こういうとこなの?」

 

 顔を上げる。

 

 のどかがいた。

 

 肩にかかるベージュの春物コート。

 

 その下から覗く白いブラウス。

 

 柔らかな水色のスカートが、春の日差しを受けて揺れている。

 

 完全に私服だった。

 

 アイドルの豊浜のどかではなく、今日これから一緒に歩く、豊浜のどか。

 

 そう思った瞬間、言葉が少し遅れた。

 

 「……いや、何でもない」

 

 「絶対何か考えてたでしょ」

 

 「考えてたけど、言うほどのことじゃない」

 

 「ふーん」

 

 のどかは少しだけ目を細める。

 

 疑っている顔だった。

 

 けれど、それ以上は追及してこない。

 

 その代わりに、少しだけ照れたように視線を逸らした。

 

 「……お待たせ」

 

 「いや、俺が早かっただけ」

 

 「そういうとこ、ほんと蓮真っぽい」

 

 「どういう意味だよ」

 

 「デートの日に早く来て、何でもない顔して待ってるところ」

 

 「……悪いかよ」

 

 「悪くない」

 

 のどかは短く言ってから、小さく笑った。

 

 その笑い方だけで、今日が始まった気がした。

 

 「じゃ、行こ」

 

 「江ノ電でいいよな?」

 

 「うん。水族館なら片瀬江ノ島でもいいけど、今日は江ノ電がいい」

 

 「なんで?」

 

 「デートっぽいから」

 

 あまりに自然に言われて、一瞬返事に詰まる。

 

 のどかはその反応を見て、少しだけ勝ち誇ったように笑った。

 

 「何?照れた?」

 

 「照れてない」

 

 「嘘」

 

 「嘘じゃない」

 

 「じゃあ、そういうことにしといてあげる」

 

 そう言って、のどかは先に歩き出した。

 

 その背中を見ながら、俺も少し遅れて歩き出す。

 

 藤沢駅から江ノ電のホームへ向かう。

 

 改札を抜けると、どこか旅行に出るような空気があった。

 

 短い路線なのに、江ノ電にはそういう力がある。

 

 普段の生活から、少しだけ外へ連れ出される感じ。

 

 ホームには、観光客らしい人たちが並んでいた。

 

 家族連れ。カップル。外国人観光客。

 

 その中に、俺とのどかも並ぶ。

 

 「……なんか、普通だね」

 

 のどかがぽつりと言った。

 

 「何が?」

 

 「こうやって並んで電車待ってるの」

 

 「普通だろ」

 

 「うん。普通」

 

 そこで一度区切ってから、のどかは少しだけ声を落とした。

 

 「でも、普通なのがいい」

 

 「……」

 

 返す言葉が少し遅れる。

 

 のどかは前を向いたまま続ける。

 

 「ライブとか、仕事とか、学校とか、そういうのも大事だけどさ」

 

 「こういう、何でもない時間って、意外と少ないじゃん」

 

 「……そうだな」

 

 短く返す。

 

 たしかに、そうだった。

 

 俺たちは、いろんな出来事の中で関わってきた。

 

 思春期症候群。

 

 ライブ。

 

 受験。

 

 誰かの悩み。

 

 誰かの告白。

 

 いつも、何かが起きていた。

 

 だから、ただ一緒に電車を待つだけの時間が、妙に貴重に思えた。

 

 江ノ電がホームに入ってくる。

 

 緑色の車体が、ゆっくりと近づいてきた。

 

 ドアが開く。乗り込むと、車内はほどよく混んでいた。

 

 座席は空いていない。俺とのどかは、ドアの近くに並んで立つ。

 

 電車が動き出す。ゆっくりと。

 

 街の中を、まるで遠慮するみたいな速度で進んでいく。

 

 住宅の壁が近い。踏切の音が鳴る。

 

 車窓の外には、生活の景色が流れていた。

 

 「江ノ電ってさ」

 

 のどかが窓の外を見ながら言う。

 

 「観光地って感じなのに、普通に生活の中も走ってるよね」

 

 「まあ、路面電車みたいな区間もあるしな」

 

 「そういうの、ちょっと好き」

 

 「分かる」

 

 そう返すと、のどかが少しだけこっちを見た。

 

 「分かるんだ」

 

 「分かるよ」

 

 「蓮真、こういうの好きそうだもんね」

 

 「歩くのは好きだからな」

 

 「じゃあ今日、ちゃんと案内してよ」

 

 「水族館と江の島に案内も何もないだろ」

 

 「あるでしょ。蓮真目線のやつ」

 

 「なんだそれ」

 

 「なんか、建物の位置とか、昔の地形とか、そういう話しそう」

 

 「……否定できないな」

 

 のどかがくすっと笑う。

 

 それだけで、車内の音が少し遠くなった気がした。

 

 鵠沼を過ぎる頃、少しずつ海の気配が近づいてきた。

 

 空の色が明るくなる。

 

 建物の間から、光が抜ける。

 

 電車がカーブを曲がるたびに、のどかの髪がほんの少し揺れた。

 

 その横顔を、つい見てしまう。

 

 昨日、ステージの上で見たのどかとは違う。

 

 けれど、同じ人間だった。

 

 ライトの下で笑っていた彼女も。

 

 今、江ノ電の窓の外を見ている彼女も。

 

 どちらも豊浜のどかで、どちらも俺が好きになった人だった。

 

 「……何?」

 

 のどかがこちらを見る。

 

 「いや」

 

 「見てたでしょ」

 

 「見てた」

 

 素直に認めると、のどかが少しだけ目を丸くした。

 

 「そこは誤魔化さないんだ」

 

 「誤魔化す方が変だろ」

 

 「……最近、そういうとこあるよね」

 

 「どういうとこだよ」

 

 「ちゃんと言うところ」

 

 のどかはそう言って、少しだけ視線を逸らした。

 

 照れているのが分かる。

 

 その反応が見えた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

 電車は江ノ島駅に着いた。

 

 観光客が一斉に降りる。

 

 俺たちも流れに乗ってホームへ降りた。

 

 駅を出ると、海の方から風が吹いてきた。

 

 暖かな風だった。

 

 潮の匂いを運びながら、春の訪れを感じさせる。

 

 「……海だ」

 

 のどかが小さく言う。

 

 「まだ見えてないけどな」

 

 「匂いで分かるからいいの」

 

 「犬みたいだな」

 

 「は?」

 

 「悪い」

 

 「今のは怒っていいやつ?」

 

 「怒っていい」

 

 「じゃああとで何か奢って」

 

 「怒り方が現金だな」

 

 「誕生日だし」

 

 「それ言われると弱いな」

 

 のどかは満足そうに笑った。

 

 駅前から、すばな通りへ向かう。

 

 店先には、しらす丼の看板や、海鮮せんべいの匂いが並んでいた。

 

 観光客の声が混ざる。

 

 江の島へ向かう人の流れとは逆に、俺たちはまず海沿いへ出る。

 

 新江ノ島水族館までは、少し歩く。

 

 「水族館、久しぶりかも」

 

 のどかが言う。

 

 「仕事では行かないのか?」

 

 「撮影とかならあるけど、普通に見るのとは違うじゃん」

 

 「まあ、そうか」

 

 「今日は普通に見たい」

 

 「普通に?」

 

 「うん」

 

 のどかは前を向いたまま、少しだけ笑った。

 

 「蓮真と」

 

 その一言で、少しだけ足が遅れそうになる。

 

 のどかは気づいているのかいないのか、すぐに歩調を戻した。

 

 いや、たぶん気づいている。

 

 こういうところは、意外とずるい。

 

 「……のどか」

 

 「ん?」

 

 「今日、誕生日おめでとう」

 

 言うタイミングを探していた言葉だった。

 

 少し遅いかもしれない。

 

 でも、直接会ってからちゃんと言いたかった。

 

 のどかは一瞬だけ黙った。

 

 それから、少しだけ照れたように笑う。

 

 「……ありがと」

 

 短い返事。

 

 でも、その声はちゃんと嬉しそうだった。

 

 「朝一で言うかと思ってた」

 

 「LINEでは言っただろ」

 

 「直接言うのとは違うじゃん」

 

 「だから今言った」

 

 「うん」

 

 のどかは少しだけ顔を逸らす。

 

 「……直接の方が、嬉しい」

 

 その言葉で、鞄の中の小さな包みの重さを思い出した。

 

 まだ早い。

 

 そう思う。

 

 渡すのは、もう少し後でいい。

 

 水族館の入口が見えてきた。

 

 青い看板。

 

 ガラス張りの建物。

 

 その向こうに、薄く海が見える。

 

 新江ノ島水族館。

 

 子ども連れやカップルが、入口前で写真を撮っている。

 

 のどかが、少しだけ立ち止まった。

 

 「……来たね」

 

 「来たな」

 

 「なんか、本当にデートっぽい」

 

 「デートだろ」

 

 そう言うと、のどかがこちらを見る。

 

 少し驚いた顔をして、それから、ゆっくり笑った。

 

 「……そっか」

 

 「うん」

 

 「デートだ」

 

 その言い方が、ひどく嬉しそうだった。

 

 チケットを取り出すと、のどかがちらりと見た。

 

 「そういえば、そのチケットどうしたの?」

 

 「この間、麻衣先輩からもらったんだよ。正確には咲太経由だけど」

 

 そう答えると、のどかが一瞬きょとんとして、それから少しだけ頬を赤くした。

 

 「お姉ちゃんってば……」

 

 呆れたような言い方だったが、どこか照れくさそうだった。

 

 「誕生日なら使ってってさ」

 

 「……ありがたく使わせてもらおうかな」

 

 のどかは小さく笑った。

 

 チケットを見せて、入口へ向かう。

 

 自動ドアの向こうから、ひんやりした空気が流れてきた。

 

 海の匂いとは違う、水族館独特の空気。

 

 少し暗くて、少し湿っていて、どこか静かな場所へ入っていく感じ。

 

 のどかが、隣で小さく息を吸った。

 

 「楽しみ」

 

 「そうだな」

 

 俺たちは並んで、中へ入った。

 

 外の春風が、背中側でゆっくり遠ざかっていった。

 

 水族館の中は、外とは別の時間が流れているみたいだった。

 

 照明は落とされていて、青い光が床や壁をゆっくり揺れている。

 

 人の声も自然と小さくなる。

 

 水槽の中を泳ぐ魚たちを眺めながら、俺とのどかは並んで歩いていた。

 

 相模湾大水槽では、大きなエイが頭上を横切り、イワシの群れが銀色の光になって渦を描いている。

 

 子どもたちの歓声が上がる。

 

 のどかも、水槽に顔を近づけながら楽しそうに見上げていた。

 

 ステージの上で見るアイドルの顔とは違う。

 

 今はただ、水族館を楽しんでいる普通の女の子だった。

 

 展示を順番に見ながら進んでいく。

 

 やがて、館内の奥にあるクラゲファンタジーホールへ辿り着いた。

 

 天井も壁も暗く、青白い光だけが浮かんでいる。

 

 透明なクラゲたちが、水の中をゆっくり漂っていた。

 

 傘を広げては閉じる。進んでいるようで、流されているようでもある。

 

 どこか現実感が薄かった。

 

 「綺麗……」

 

 のどかが小さく呟く。

 

 俺も隣で頷いた。

 

 クラゲの展示は昔から好きだった。

 

 何を考えているのか分からない。

 

 そもそも考えているのかも分からない。

 

 でも、不思議とずっと見ていられる。

 

 しばらく無言で眺めていると、のどかがふと口を開いた。

 

 「なんかさ」

 

 「ん?」

 

 「蓮真みたい」

 

 思わずクラゲを見る。それから、のどかを見る。

 

 「クラゲが?」

 

 「うん」

 

 「なんでだよ」

 

 のどかは真面目な顔のまま水槽を指差した。

 

 「静かじゃん」

 

 「まあ」

 

 「人のこと見てるし」

 

 「クラゲは見てないだろ」

 

 「雰囲気」

 

 言い切られた。のどからしい。

 

 理屈じゃなく感覚で話している。

 

 「あとさ」

 

 クラゲを見つめたまま続ける。

 

 「ふわふわしてそうなのに、意外とちゃんと生きてるところ」

 

 「褒めてるのか、それ」

 

 「褒めてる」

 

 少し考えてから、「たぶん」と付け足した。

 

 俺は思わず笑った。のどかも笑う。

 

 青白い光が、その横顔を淡く照らしていた。

 

 「でも」

 

 のどかは少しだけ声を落とす。

 

 「蓮真って、自分から前に出るタイプじゃないじゃん」

 

 「……そうかもな」

 

 「なのに、気付いたら人の近くにいる」

 

 「……」

 

 「お姉ちゃんも、咲太も、花楓ちゃんも、卯月も」

 

 そこで少しだけこちらを見る。

 

 「もちろん、あたしも」

 

 言われてみると、否定しづらかった。

 

 俺は何かを変えようとして動いてきたわけじゃない。

 

 ただ、気付いたらそこにいただけだ。

 

 のどかは小さく笑った。

 

 「だから、なんかクラゲっぽい」

 

 結局、最後までよく分からなかった。

 

 でも、その例えは嫌じゃなかった。

 

 クラゲの展示を抜けて、次に向かったのはペンギンエリアだった。

 

 ちょうど餌やりの時間だったらしく、飼育員の周りを何羽ものペンギンが忙しそうに動き回っている。

 

 鳴く。走る。飛び込む。また出てくる。

 

 落ち着きがない。

 

 「元気だな」

 

 俺が言う。

 

 「可愛いじゃん」

 

 のどかが反論する。

 

 「可愛いけど」

 

 しばらく見てから続けた。

 

 「のどかみたいだな」

 

 「は?」

 

 すぐに振り向かれる。予想通りだった。

 

 「どこが!?」

 

 「元気」

 

 「それだけ?」

 

 「よく喋る」

 

 「それだけ?」

 

 「目立つ」

 

 のどかは不満そうな顔をした。

 

 ちょうどその時、一羽のペンギンが他のペンギンとぶつかって少しよろけた。

 

 「今のは違うからね?」

 

 「似てたぞ」

 

 「似てない!」

 

 即答だった。

 

 そのやり取りに、近くの子どもが笑う。

 

 のどかは少しだけ恥ずかしそうに咳払いした。

 

 「……まあ、可愛いならいいけど」

 

 「認めるのかよ」

 

 「ペンギン可愛いし」

 

 そう言いながら、水槽越しにペンギンへ手を振っている。

 

 やっぱり少し似ている気がした。

 

 昼を過ぎた頃、イルカショースタジアムへ向かった。

 

 観客席はかなり埋まっている。

 

 海を背にしたステージの向こうには、湘南の空が広がっていた。

 

 ショーが始まる。

 

 トレーナーの合図に合わせて、イルカが水面を切る。

 

 大きく跳ぶ。回る。

 

 飛沫が太陽の光を受けて輝いた。

 

 客席から歓声が上がる。

 

 「すご……」

 

 隣で、のどかが思わず声を漏らした。

 

 本当に驚いた時の声だった。

 

 イルカが再びジャンプする。

 

 今度はさらに高く。客席がどっと沸く。

 

 のどかの目が、そのたびに少しずつ輝いていく。

 

 楽しそうだった。本当に。

 

 アイドルとしてステージに立つ人間なのに、今はただの観客として歓声を上げている。

 

 その姿が妙に新鮮だった。

 

 「のどか、楽しい?」

 

 聞いてみる。

 

 「うん」

 

 即答だった。それから少しだけ笑う。

 

 「なんか悔しいけど」

 

 「何が?」

 

 「ステージの気持ち分かる」

 

 そう言って前を見る。

 

 イルカが再び大きく跳び上がった。

 

 拍手が起こる。歓声が広がる。

 

 のどかはその光景を見ながら、小さく呟いた。

 

 「頑張ったら、ちゃんと拍手もらえるんだなって」

 

 その言葉が妙に耳に残った。

 

 のどかは、きっと誰よりもその重みを知っている。

 

 ステージの上で笑うこと。歌うこと。

 

 見てもらうこと。

 

 そして、応援してもらうこと。

 

 当たり前じゃないと知っているからだ。

 

 ショーが終わり、大きな拍手がスタジアムを包んだ。

 

 のどかも、少しだけ強く手を叩いていた。

 

 その横顔を見ながら思う。

 

 昨日のライブで見た豊浜のどか。

 

 今、イルカショーを見て拍手している豊浜のどか。

 

 どちらも同じ人間だった。

 

 そして、そのどちらも好きなんだろうな、と。そんなことを考えながら、俺たちはスタジアムを後にした。

 

 水族館を出ると、外の光は少しだけ傾きはじめていた。

 

 けれど、まだ夕方と呼ぶには早い。

 

 海沿いの道には観光客が多く、春休み前の平日とは思えないくらい、あちこちから楽しそうな声が聞こえてくる。

 

 「お腹空いた」

 

 のどかが、唐突に言った。

 

 「イルカ見てたら?」

 

 「違う。普通に歩いたから」

 

 「そういうことにしとくか」

 

 「何その言い方」

 

 少しだけ睨まれる。

 

 でも、その顔もどこか楽しそうだった。

 

 そのまま俺たちは江の島方面へ歩き、昼食を取ることにした。

 

 店先には、しらす丼の看板がいくつも並んでいる。

 

 釜揚げしらす。生しらす。二色丼。海鮮丼。

 

 のどかは看板を見比べながら、少し真剣な顔をしていた。

 

 「……生しらす、食べたい」

 

 「誕生日だもんな」

 

 「それ、今日一日使える?」

 

 「使いすぎると効力落ちると思うぞ」

 

 「じゃあ大事な時だけ使う」

 

 「今は大事なのか」

 

 「しらすは大事でしょ」

 

 言い切られた。

 

 そういうところが、妙にのどからしい。

 

 店に入り、俺たちは生しらす丼を頼んだ。

 

 少しして運ばれてきた丼には、透き通ったしらすがたっぷり乗っていた。

 

 醤油を少しかけ、箸を入れる。

 

 のどかが一口食べて、目を少し丸くした。

 

 「……美味しい」

 

 「だろ」

 

 「なんか、思ってたより甘い」

 

 「鮮度いいとそういう感じするよな」

 

 「蓮真、こういうの詳しいよね」

 

 「食べるのは好きだからな」

 

 「知ってる」

 

 のどかはそう言って、少しだけ笑った。

 

 その笑い方が自然で、さっきまで水族館にいた時間が、そのまま続いているような気がした。

 

 食事を終えると、のどかが店の外で伸びをする。

 

 「次、上行こ」

 

 「江島神社か?」

 

 「うん。あと、エスカー乗りたい」

 

 「歩かないのか」

 

 「乗ってみたいの」

 

 「理由が強いな」

 

 「でしょ」

 

 そう言って、のどかは得意げに笑った。

 

 江の島エスカーの乗り場へ向かう。

 

 何度か江の島には来たことがあるが、エスカーに乗るのは久しぶりだった。

 

 階段を上るかわりに、屋外のエスカレーターで少しずつ上へ運ばれていく。

 

 「なんか変な感じ」

 

 のどかが横で言う。

 

 「どんな感じ?」

 

 「楽してる感じ。でも楽しい」

 

 「ならいいかもな」

 

 「うん」

 

 のどかは少し前を見て、それからちらりとこちらを見た。

 

 「蓮真とこういうの乗るの、ちょっと面白い」

 

 「どういう意味だよ」

 

 「歩くの好きそうなのに、エスカー乗ってるから」

 

 「のどかが乗りたいって言ったんだろ」

 

 「だからいいの」

 

 よく分からない理屈だった。でも、嫌ではなかった。

 

 エスカーを降りて、江島神社を順に巡る。

 

 辺津宮、中津宮。朱色の社殿。石段。参拝する人たち。

 

 のどかは手を合わせたあと、少しだけ真面目な顔をしていた。

 

 「何お願いしたんだ?」

 

 「言ったら叶わなくなるやつ」

 

 「そういうの信じるんだな」

 

 「都合のいい時だけ信じる」

 

 「のどからしいな」

 

 「悪かったね」

 

 そのまま、江の島シーキャンドルへ向かう。

 

 展望台まで上がると、視界が一気に開けた。

 

 海が広い。湘南の海岸線が続き、その向こうに伊豆半島の影が見える。

 

 空気が澄んでいるおかげで、富士山もうっすらと見えていた。

 

 「……すご」

 

 のどかが小さく呟く。俺も自然と頷いた。

 

 「富士山、見えるな」

 

 「ほんとだ」

 

 のどかは手すりの方へ近づく。

 

 風で髪が揺れる。

 

 「こっちが伊豆半島?」

 

 「ああ。で、あっちの方に見えるのが伊豆大島」

 

 「へえ……」

 

 のどかは目を細めながら、遠くを見ていた。

 

 「良い景色だね」

 

 「そうだな」

 

 短く返す。でも、本当はそれだけじゃ足りなかった。

 

 富士山も、伊豆大島も、海も綺麗だった。

 

 けれど、隣でそれを見ているのどかの横顔まで含めて、今日の景色になっている。

 

 そんなことを考えて、少しだけ黙る。

 

 「……何?」

 

 「いや」

 

 「また見てた?」

 

 「見てた」

 

 のどかは少しだけ頬を赤くして、視線を海へ戻した。

 

 「……ほんと誤魔化さない」

 

 「誤魔化すと怒るだろ」

 

 「怒らないけど」

 

 「怒るだろ」

 

 「……ちょっとだけ」

 

 そう言って、のどかは小さく笑った。

 

 シーキャンドルを降りたあと、俺たちは島の奥へ進んだ。

 

 道は少しずつ細くなり、観光地の賑やかさが遠ざかっていく。

 

 階段を下り、岩場の方へ向かう。

 

 江の島岩屋。

 

 洞窟の中へ入ると、空気がひんやりしていた。

 

 外の春の明るさとは違う、薄暗く、湿った空気。

 

 足元の明かりを頼りに進んでいくと、のどかが少しだけ声を弾ませた。

 

 「なんか、冒険っぽい」

 

 「分かる」

 

 「蓮真、こういうの好きでしょ」

 

 「まあな」

 

 「やっぱり」

 

 暗い通路を進みながら、のどかは少し楽しそうだった。

 

 アイドルとしてステージに立つ時とは違う表情。

 

 水族館でイルカを見ていた時とも違う。

 

 少し子どもっぽくて、好奇心がそのまま顔に出ている。

 

 そういう顔も、俺は好きなんだと思った。

 

 岩屋を出ると、潮の匂いが一気に戻ってきた。

 

 稚児ヶ淵へ向かう。

 

 岩場に波が打ち寄せ、白く砕ける。海が近い。

 

 足元はごつごつしていて、場所によっては少し滑りやすかった。

 

 「気をつけろよ」

 

 「分かってるって」

 

 のどかはそう言いながら、慎重に歩いている。

 

 その様子が少しだけ危なっかしくて、自然と近くに寄った。

 

 稚児ヶ淵の岩場に立つと、目の前に広がる海が夕方の光を受けて少しずつ色を変えていた。

 

 「ここ、平らなんだね」

 

 のどかが足元を見ながら言う。

 

 「関東大震災の時に隆起したんだよ」

 

 「へえ」

 

 のどかが顔を上げる。

 

 「蓮真、物知りだね」

 

 「たまたま知ってただけ」

 

 「そういうの、毎回言うよね」

 

 「実際そうだし」

 

 「でも、そういう話してくれるの、けっこう好き」

 

 そう言われて、少しだけ言葉に詰まる。

 

 のどかは、何でもないみたいに海の方を見ていた。

 

 「……なら、また話すよ」

 

 「うん。聞く」

 

 その返事が、妙に自然だった。

 

 その時だった。のどかの足元が、わずかに滑った。

 

 「……っ」

 

 反射的に手が出た。

 

 のどかの手首を掴む。

 

 そのまま少し引き寄せると、のどかは俺の方へ半歩近づいた。

 

 「危ないだろ」

 

 「……うん」

 

 のどかは少しだけ目を瞬かせていた。

 

 それから、自分の手元を見る。

 

 俺の手が、のどかの手を握っている。

 

 慌てて離そうとした。

 

 「……悪い」

 

 そう言って手を解こうとした瞬間、のどかが小さく指に力を込めた。

 

 「いいじゃん」

 

 「……」

 

 「このままで」

 

 海の音が、少しだけ大きく聞こえた。

 

 のどかは顔を少し逸らしている。でも、手は離さない。

 

 「……いいのか」

 

 「いいって言ってるじゃん」

 

 「……そっか」

 

 「うん」

 

 それだけの会話だった。

 

 けれど、その短さが逆に照れくさかった。

 

 繋いだ手は、思っていたより温かかった。

 

 アイドルの手でも、特別な誰かの手でもなく。

 

 ただ、今ここで隣にいる、豊浜のどかの手だった。

 

 稚児ヶ淵の海は、少しずつ夕方に近づいている。

 

 波の音。遠くの船。

 

 岩場に落ちる光。

 

 その全部の中で、俺たちはしばらく手を繋いだまま立っていた。

 

 「そろそろ、七里ヶ浜行くか」

 

 「うん」

 

 のどかは頷く。

 

 けれど、手は離さなかった。俺も、離さなかった。

 

 島を戻る道は、来た時より少しだけ歩きにくかった。

 

 片手が塞がっているからだ。

 

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 

 むしろ、その不便ささえ、今日の一部みたいに思えた。

 

 一人なら自由に歩ける。

 

 でも今は、少し歩きにくいくらいがちょうどよかった。

 

 夕方が近づいている。

 

 七里ヶ浜へ向かう時間だった。

 

 俺たちは手を繋いだまま、江の島を後にした。

 

 江の島を出る頃には、空の色が少しずつ夕方へ傾きはじめていた。

 

 江ノ電の駅へ戻り、七里ヶ浜へ向かう。

 

 車内は行きよりも少しだけ静かだった。

 

 昼間の賑わいを通り過ぎた観光客たちが、窓の外を眺めたり、スマホで写真を見返したりしている。

 

 俺とのどかも、並んで立ったまま、あまり多くは話さなかった。

 

 ただ、繋いだ手だけはそのままだった。

 

 七里ヶ浜駅で降りる。

 

 駅を出ると、海からの風が一気に近づいてきた。

 

 道路を渡り、海沿いへ出る。

 

 目の前には、夕方の光を受けた海が広がっていた。

 

 波が寄せて、返していく。

 

 遠くには江の島。さらにその向こうには、薄く富士山の影が見える。

 

 「……綺麗」

 

 のどかが小さく言った。

 

 「だな」

 

 短く返す。

 

 のどかは海の向こうへ目を向けたまま、少しだけ目を細める。

 

 「なんかさ」

 

 「ん?」

 

 「すごく遠くまで見えるね」

 

 風が髪を揺らす。

 

 海と空の境界が、薄い線みたいに続いていた。

 

 「そうだな」

 

 俺も水平線を見る。

 

 それから、ふと思い出したように口を開いた。

 

 「ちなみに、人の目の高さから見える水平線までの距離って、だいたい四キロくらいらしいぞ」

 

 「え?」

 

 のどかが振り向く。

 

 「四キロ?」

 

 「正確には目線の高さで変わるけどな。砂浜に立ってる人間なら、そのくらい」

 

 「もっと遠いと思ってた」

 

 「俺も最初はそう思った」

 

 「へえ……」

 

 のどかは改めて水平線を見る。

 

 「なんか不思議」

 

 「だろ」

 

 「だって、世界の果てみたいに見えるのに」

 

 「実際は案外近い」

 

 「蓮真らしい話」

 

 少し笑われる。それから、のどかが首を傾げた。

 

 「そういうの、誰から聞いたの?」

 

 「……」

 

 一瞬だけ言葉が止まる。

 

 水平線を見る。夕方の海は静かだった。

 

 「昔」

 

 小さく息を吐く。

 

 「母さんが教えてくれた」

 

 「……そっか」

 

 のどかは、それ以上は聞かなかった。

 

 ただ、隣で同じように海を見ていた。

 

 波の音が、言葉の間を埋める。けれど、それだけでは足りない気がした。

 

 「ここさ」

 

 「うん?」

 

 「誰かと来れば、二人だけの世界にしてくれる気がするんだ」

 

 のどかがこちらを見る。

 

 俺は海を見たまま続けた。

 

 「それでさ、一人で来れば、自分だけの世界にしてくれる」

 

 「……」

 

 「だから、俺はこの場所が好きなんだと思う」

 

 言ってから、少しだけ息を吐く。

 

 「小さい頃、母さんに連れてきてもらった時から、ずっとそうだった気がする」

 

 波の音が、言葉の間を埋める。

 

 のどかは、すぐには何も言わなかった。

 

 ただ、隣で海を見ていた。それから、少しだけやわらかい声で言う。

 

 「……そっか」

 

 「うん」

 

 「蓮真にとって、大事な場所なんだね」

 

 「……たぶんな」

 

 「じゃあ」

 

 のどかは少しだけ笑った。

 

 「今日、蓮真と来てよかった」

 

 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

 うまく返せずにいると、のどかは急に靴へ視線を落とした。

 

 「……ねえ」

 

 「ん?」

 

 「砂浜、行っていい?」

 

 「靴、汚れるぞ」

 

 「脱ぐから平気」

 

 そう言うが早いか、のどかは海沿いの階段の近くで靴を脱ぎはじめた。

 

 白いブラウスの袖が風に揺れる。水色のスカートの裾を軽く押さえながら、片足ずつ砂浜へ下りる。

 

 裸足の足先が、砂に沈む。

 

 「冷たっ」

 

 のどかが小さく声を上げる。

 

 それでも、すぐに楽しそうに笑った。

 

 夕方の海を背に、のどかが振り返る。

 

 金色の髪が風に揺れる。

 

 白いブラウス。淡い水色のスカート。裸足の足。

 

 波打ち際の光が、彼女の輪郭を淡く照らしていた。

 

 「……」

 

 言葉が出なかった。

 

 ステージの上で光を浴びるのどかも綺麗だった。

 

 でも、今ののどかは、それとは違う。

 

 誰かに見せるための表情じゃない。

 

 ただ、ここにいる。

 

 俺の前で、楽しそうに笑っている。

 

 そのことに、どうしようもなく見惚れてしまった。

 

 「蓮真?」

 

 呼ばれて、少し遅れて反応する。

 

 「……なんでもない」

 

 「また見てたでしょ」

 

 「……見てたよ」

 

 「ほんと、隠さないね」

 

 のどかはそう言って、少しだけ照れたように笑った。

 

 その顔を見て、ふと思った。

 

 渡すなら、今かもしれない。

 

 鞄に手を入れる。小さな包みを取り出す。

 

 のどかが不思議そうに首を傾げた。

 

 「何?」

 

 「誕生日プレゼント」

 

 そう言って、包みを差し出す。

 

 「誕生日おめでとう、のどか」

 

 のどかは一瞬、目を丸くした。

 

 それから、ゆっくりと両手で受け取る。

 

 「……開けていい?」

 

 「もちろん」

 

 のどかは丁寧に包みを開いた。

 

 中から出てきたイヤーカフを見た瞬間、息を呑むように動きが止まる。

 

 淡い黄色の石。

 

 夕方の光を受けて、小さく光った。

 

 「……これ」

 

 「シトリン」

 

 「黄色……」

 

 「のどかの色に近いかなって」

 

 言ってから、少しだけ視線を逸らす。

 

 改めて口にすると、想像以上に照れくさかった。

 

 のどかは、イヤーカフを手のひらに乗せたまま、しばらく黙っていた。

 

 それから、少しだけ声を落とす。

 

 「……蓮真、こういうの選ぶんだ」

 

 想像していた通りの言葉だった。

 

 でも、その声は少し震えていた。

 

 「重すぎないやつにした」

 

 「……うん」

 

 「でも、ちゃんと残るものがよくて」

 

 「……うん」

 

 のどかは小さく頷く。

 

 その目元が、少しだけやわらかくなる。

 

 「ありがとう」

 

 短い言葉だった。

 

 けれど、その一言だけで十分だった。

 

 「すごく嬉しい」

 

 そう言って、のどかはイヤーカフを大事そうに握った。

 

 波が寄せる。夕方の光が、少しずつ赤みを帯びていく。

 

 このまま、もう少しここにいたいと思った。

 

 でも、時間は待ってくれない。

 

 「そろそろ行くか」

 

 「……うん」

 

 「十九時から、誕生日会なんだろ」

 

 「うん。お姉ちゃん、張り切ってると思う」

 

 「麻衣先輩が?」

 

 「うん。たぶん、あたしより張り切ってる」

 

 それは少し想像できた。

 

 のどかは名残惜しそうに海を見てから、砂浜を戻ってくる。

 

 階段のところで腰を下ろし、足についた砂を軽く払って、靴を履く。

 

 俺はその横で待っていた。

 

 そして、のどかが立ち上がったところで、少しだけ躊躇する。

 

 それでも、手を差し出した。

 

 「行こう、のどか」

 

 のどかは差し出された手を見る。

 

 それから、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

 「うん」

 

 指先が触れる。そのまま、自然に手を繋ぐ。

 

 七里ヶ浜駅へ向かって歩き出す。

 

 夕方の海は、さっきより少しだけ暗くなっていた。

 

 水平線の向こうに、沈みかけた光が残っている。

 

 この一日が、終わりに近づいている。

 

 水族館。

 

 江の島。

 

 稚児ヶ淵。

 

 七里ヶ浜。

 

 繋いだ手。

 

 渡したプレゼント。

 

 全部が、ちゃんと今日という日に収まっていく。

 

 そのことが、怖いくらいに幸せだった。

 

 ——この幸せが、ずっと続けばいいんだけどな。

 

 水平線を見ながら、ふと、そう思った。

 

 その瞬間。胸の奥で、ほんの小さく、何かが軋んだ気がした。

 

 でも、のどかの手は温かかった。

 

 だから俺は、その違和感に気づかないふりをして、七里ヶ浜駅へ向かって歩き続けた。




物語解説

今回は、ホワイトデーと誕生日デートを通して、岸和田蓮真が「返すもの」と「贈るもの」の違いを確認していく回でした。

横濱レモン、横濱チェリー、ジュエリーBOXクッキー、そしてシトリンのイヤーカフ。

それぞれの品物は、単なるプレゼントではありません。

美凪と夏帆には、日常の中で生まれた関係への返礼。郁実と沙希には、過去や現実を共有する相手への感謝。

卯月には、選ばなかった想いへの誠実な区切り。

そして、のどかには、これから続いてほしい時間への願い。

同じ「渡す」という行為でも、そこに込められた意味は少しずつ異なっています。

特にのどかとのデートでは、水族館、江の島、稚児ヶ淵、七里ヶ浜を巡ることで、蓮真にとっての「普通の幸せ」が具体的な形を持ち始めました。

誰かと歩くこと。手を繋ぐこと。大事な場所を共有すること。誕生日を祝うこと。

それらは特別な事件ではありません。

しかし、蓮真にとっては、その普通さこそが最も眩しいものでもあります。

一方で、物語の最後には小さな違和感を置いています。

「この幸せが、ずっと続けばいい」

そう願った瞬間に、胸の奥で何かが軋む。

幸福を望むこと自体が、蓮真にとっては安心ではなく、恐怖の入口にもなっています。

返しきれない甘さ。受け取ってしまった幸福。そして、それを失うことへの予感。

春は近づいています。けれど、蓮真の中ではまだ、完全には冬が終わっていません。

次回では、その幸せが何を引き起こすのかに踏み込んでいきます。

引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

一番星は消えない(作者:ディバル)(原作:推しの子)

▼児童養護施設で暮らす少年・天城彼方は、推しの星野アイと出会い、この世界が【推しの子】の物語だと知る。彼女に待つ残酷な未来を変えるため、彼は“運命”に抗う………一番星は、消えない。▼アニメ勢の方はネタバレ有りなので注意。▼新作▼「あかねちゃん………煙草買ってきてくれない?」▼:https://syosetu.org/novel/413237/▼よければ此方も…


総合評価:2474/評価:8.24/連載:82話/更新日時:2026年05月31日(日) 19:36 小説情報

なんでも一つ願いが叶うらしい(ただしその条件は鬼畜とする)(作者:イーサン・W)(原作:ソードアート・オンライン)

▼気づいたらSAOの世界に迷い込んでしまった主人公。▼目の前に浮かぶウインドウ。そこに書かれた内容は──▼ミッション▼ ▼ ▼・多くのプレイヤーの救済▼ ▼・主要キャラの死亡回避▼ ▼・ラスボスの討伐▼ ▼・ゲームクリアをすること▼どうやら主人公はこのミッションをSAO内でクリアすることで、なんでも願いが叶うらしい。▼だけど鬼畜みたいな難易度だ!▼元の世界に…


総合評価:5767/評価:8.52/連載:9話/更新日時:2026年05月04日(月) 00:06 小説情報

[悲報]虎杖成り代わり、縄文時代に立つ[言葉が分からん](作者:夕暮れの家)(原作:超かぐや姫!)

モジュロ虎杖悠仁に成り代わった男が、8000年のヤチヨの道中に付き合う話。善人であり、虎杖ほどイカれていない男が非常に強い力を持ってしまったことで、様々な後悔を抱えながら現代にたどり着くお話です。▼本編完結しました。気長に後日談でも書いていきたいと思います。▼


総合評価:17892/評価:9.1/完結:40話/更新日時:2026年06月01日(月) 21:06 小説情報

その転生者は見届ける(作者:街中@鈍感力)(原作:その着せ替え人形は恋をする)

『その着せ替え人形は恋をする』の二次創作です。▼ライトオタクな主人公が何故か着せ恋の世界に転生したお話。▼彼の目的はただ一つ、新菜と海夢の恋の行く末をリアルに見届けること!▼


総合評価:6576/評価:8.64/連載:70話/更新日時:2026年05月30日(土) 05:39 小説情報

影なき刃(作者:洟魔)(原作:進撃の巨人)

地下街――そこは陽の光が届かず、腐臭と暴力と飢えに支配された世界。▼そこで生き抜いてきた少年ルカにとって、「生きる」とはただ盗み、ただ奪い、ただ生き残ることだけを意味していた。▼ある日、立体機動装置を偶然手に入れたルカは、独学でその操縦を身につけ、地下街の憲兵をも欺く「影」となる。▼だが、彼を追い詰めたのはただ一人――人類最強の兵士、リヴァイ。▼同じ「匂い」…


総合評価:935/評価:8.26/連載:21話/更新日時:2026年05月27日(水) 20:24 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>