青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
せっかくなので、作品の聖地でもあるテラスモール湘南へ。
私は『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』から本格的に青ブタシリーズへ入った人間なので、『ゆめみる少女』を映画館で観る機会はありませんでした。
だからこそ、今回こうしてスクリーンで観られたことには、少し特別な意味があります。
実際に観終わったあとも、しばらく席を立てませんでした。
何度も語られてきた作品ですが、やはり『ゆめみる少女』は青ブタという物語の大きな転換点であり、今見ても胸に残る作品だと思います。
そして本編上映前には、『青春ブタ野郎はディアフレンドの夢を見ない』の新しい予告編も上映されました。
テレビアニメから始まり、映画を重ね、大学生編まで描かれてきた青ブタシリーズ。「桜島麻衣と梓川咲太の物語」が本当に終わりへ向かっていることを実感させられました。
嬉しさと寂しさが同時にあります。
だからこそ、今こうして自分なりの青ブタを書いている時間も、大切にしたいと思っています。
今回の物語も、そんな気持ちを込めて書きました。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
三月十四日
七里ヶ浜から江ノ電に乗って藤沢へ戻る頃には、外はすっかり夜の色になっていた。
窓に映るのどかは、少し眠そうで、それでも機嫌はよさそうだった。
繋いでいた手は、駅に着く少し前に離した。
別にやましいことがあるわけじゃない。
でも、このあと麻衣先輩の家で誕生日会があると思うと、なんとなく、切り替える時間が必要な気がした。
藤沢駅のホームに降りる。
北口へ向かう人の流れに混ざろうとした、その時だった。
「あーっ!のどか!きっしー!」
やたら通る声が、後ろから飛んできた。
振り向くまでもない、卯月だった。
大きめのバッグを肩にかけ、もう片方の手には紙袋を持っている。いつものようににこにこしているが、バッグだけが妙に存在感を放っていた。
というか、膨らみ方がおかしい。
「卯月?」
のどかが目を丸くする。卯月は満面の笑みで手を振った。
「やっほー!のどか!」
そして、そのまま勢いよく駆け寄ってくる。
「誕生日おめでとう!」
言うなり、両手を広げる。
のどかは一瞬だけ呆気に取られたが、
「うわっ」
そのまま軽く抱きつかれた。
「ちょ、卯月!」
「えへへ」
卯月は嬉しそうに笑う。
「十九歳だよ!十九歳!」
「分かってるって」
「すごいねぇ」
「何がよ」
「なんか大人!」
「昨日まで十八歳だったんだけど」
「でも今日から十九歳!」
卯月は大真面目に言い切った。
のどかが額に手を当てる。
「相変わらずだなぁ……」
「でも、本当におめでとう」
今度は少しだけ声の調子が変わった。
その言葉に、のどかは少しだけ目を瞬かせる。それから小さく笑った。
「……ありがと」
「どういたしまして!」
卯月は満足そうに頷いた。
そして俺とのどかを交互に見る。その笑顔が、一瞬だけ意味ありげになる。
「ふたりともデート帰り?」
「……まあ」
答えると、卯月はすぐに頷いた。
「だよねー」
にやにやしている。のどかが少しだけ視線を逸らした。
「なによ」
「いやー?」
卯月はわざとらしく首を傾げる。
「のどか、なんか機嫌良さそうだなーって」
「普通だけど」
「そうかなぁ?」
卯月はそう言いながら、ちらりと俺を見る。
その視線は一瞬だけだった。本当に一瞬だけ。
でも、その奥にあるものを俺は知っている。
卯月は笑っている。いつも通りに。
だけど、本当に何もなかったわけじゃない。
あの日、俺は卯月を選ばなかった。
それは変わらない事実だった。
卯月はすぐにいつもの調子へ戻る。
ぱんぱんに膨らんだバッグを叩いた。
「そうだ!」
「ん?」
「今日、私、麻衣さんハウスにお泊まりするね!」
「はぁ!?」
のどかのツッコミが飛ぶ。卯月はきょとんとしていた。
「なに?」
「そういうことは早めに言ってって!」
「え?」
「え?じゃない!」
「でも今言ったよ?」
「今じゃ遅いの!」
「まだ泊まってないからセーフ!」
「アウト!」
完全にいつもの二人だった。
俺は思わず笑ってしまう。のどかは額を押さえた。
「……まあ、いいけど」
「やったー!」
卯月が両手を上げる。
そして少しだけ得意そうに言った。
「だって明日オフなんだもん」
「だからって」
「それに久しぶりにみんなでお泊まりしたいじゃん」
その言葉に、のどかの表情が少しだけやわらぐ。結局、そういうところなのだ。
卯月は昔から変わらない。だから怒りきれない。
「……卯月」
俺は鞄の中へ手を入れた。
「ん?」
紙袋を取り出す。卯月が不思議そうに首を傾げた。
「これ」
差し出す。
数秒。卯月は動かなかった。
それから、小さく目を見開く。
「私?」
「ああ」
少しだけ間を置く。
「バレンタインのお返し」
その瞬間だった。
卯月の表情が、ほんの少しだけ止まった。
笑顔でもなく。驚きでもなく。
どこか遠くを見るような顔。
でも、それは本当に一瞬だった。
次の瞬間には、いつもの卯月に戻る。
「わーっ!」
嬉しそうに紙袋を受け取る。
「なにこれ!」
箱を取り出す。ジュエリーBOXクッキー。
卯月は目を輝かせた。
「かわいい!」
両手で持ちながら眺める。
それから、ふっと笑った。
「きっしー、こういうの選ぶんだね」
「変か?」
「ううん」
卯月は首を横に振る。
少しだけ。本当に少しだけ。
寂しそうに笑った。
「きっしーっぽい」
そして箱を見つめたまま続ける。
「ちゃんと返してくれるところとか」
「……」
言葉が出なかった。卯月は視線を落としたまま、小さく笑う。
「嬉しい」
それから少しだけ間を置く。
「なんかさ」
「ん?」
「ちゃんとお返し貰うと、終わったんだなーって感じするね」
夜風が吹く。
一瞬だけ。誰も何も言わなかった。
卯月自身が、その沈黙を壊す。
「でも!」
ぱっと顔を上げる。
「私、今でもきっしー好きだからね!」
「卯月!」
のどかが即座に止める。
卯月はけらけら笑った。
「冗談だよ!」
「絶対半分本気でしょ!」
「さあどうでしょう!」
その笑顔は明るかった。
だけど、ほんの少しだけ。
いつもより無理をしているようにも見えた。
それでも卯月は笑う。前を向いている。
だから俺も、それ以上は何も言わなかった。
夜の藤沢駅前。
俺。
のどか。
そして卯月。
三人の距離は少しだけ変わった。
でも、完全には離れていない。
春の夜風が、そんな三人の間を静かに吹き抜けていった。
マンションのエントランスが見えてきた頃だった。
前方から、見覚えのある男が歩いてくる。
袋を片手に提げた梓川咲太だった。
「お、豊浜、づっきー、岸和田」
咲太がこちらを見る。
そして俺とのどかを交互に見た。
「ようやく帰ってきたか」
「……どういう意味だよ」
「決まってるだろ。誕生日デート」
「……」
「……」
のどかが視線を逸らした。
咲太はそれを見てさらに面白そうな顔になる。
「よかったな、豊浜」
「なにが」
「岸和田とデートできて」
「余計なお世話だっつうの!」
即答だった。咲太は肩をすくめる。
そのままエントランスへ向かおうとし「そうだ岸和田」と、思い出したように振り返った。
「今日バイトだったんだけどな」
嫌な予感がした。
「古賀と姫路さんが嘆いてたぞ」
「何を」
「岸和田からまだシュークリーム貰ってないって」
「……あ」
止まる。完全に忘れていた。
古賀と姫路さんにはバレンタインのお返しとして、駅前のシュークリームを奢る約束をしていた。
のどかがこちらを見る。
「シュークリーム?」
「あー……」
頭を掻く。
「古賀と姫路さんにな」
「バレンタインのお返しで、駅前のシュークリーム買う約束してて」
「忘れてたの?」
「……忘れてた」
のどかが呆れた顔をする。
「蓮真」
「はい」
「最低」
「すみません」
即答だった。
「きっしー!」
「なんだよ」
「浮気はダメだよ!」
「だから違うからな」
「ほんとかなー?」
「ほんとだ」
「怪しいなー」
「怪しくない」
咲太が横から口を挟む。
「大変だな、きっしー」
「余計なお世話だ!」
即座に返す。
卯月がけらけら笑い、のどかも少しだけ笑っていた。
四人でエレベーターに乗り、上階へ向かう。
目的のフロアへ着き、廊下を進む。
そして玄関の前へ辿り着いた。
インターホンを押そうとした瞬間、ガチャと、先に扉が開いた。
「いらっしゃい」
そこにいたのは桜島麻衣だった。
エプロン姿だった。
料理をしていたのだろう、少しだけ髪をまとめている。
まず、のどかと咲太を見る。
「おかえりなさい、二人とも」
「ただいま、お姉ちゃん!」
「ただいま、麻衣さん」
自然な口調だった。続いて俺と卯月を見る。
「いらっしゃい、蓮真くん。広川さんも」
「こんばんはー!麻衣さん!」
卯月が元気よく手を振る。俺も軽く頭を下げた。
「お邪魔します。麻衣先輩」
リビングへ入る。すると奥から足音が聞こえた。
「……あ」
顔を出したのは花楓ちゃんだった。
どうやら最後の準備を終えたばかりらしい。
「卯月さん、蓮真さん、こんばんは」
「こんばんは」
「こんばんはー!花楓ちゃん!」
花楓ちゃんは笑顔で頷く。それから咲太を見る。
「お兄ちゃん、遅いよ」
そして最後にのどかへ向き直る。
少し嬉しそうに。
「のどかさん」
「何、花楓ちゃん?」
「お誕生日おめでとうございます」
一瞬だけ。
のどかが照れたような顔をした。
「……ありがと、花楓ちゃん」
席へ着く。リビングのテーブルには料理が並んでいた。
ローストビーフ。チキンソテー。
ほうれん草とベーコンのキッシュ。
鯛のカルパッチョ。ポテトサラダ。
どれも明らかに手間がかかっている。
「麻衣先輩……」
思わず呟く。
「張り切りすぎじゃないですか」
「のどかの誕生日だから」
麻衣先輩は当然のように答えた。
「ハッピーバースデー、のどか」
その一言に全てが詰まっていた。
ふと部屋を見回す。
カーテンは閉じられ、窓際には黄色いバルーンが並んでいる。
テーブルの中央には、“HAPPY BIRTHDAY NODOKA”の文字。
まるでアイドルの生誕祭みたいだった。
いや、実際にアイドルの生誕祭なのかもしれない。
のどかはしばらくその光景を見ていた。
それから小さく笑う。少し照れくさそうに。
少し嬉しそうに、そして本当に幸せそうに。
「……お姉ちゃん、ありがとう!」
「のどか、誕生日おめでとー!」
午後七時。
卯月の合図でクラッカーが、
パンッ、パンッ、パンッ、パンッ、パンッ。
五連続で鳴り響いた。
鳴らしたのは、卯月、咲太、麻衣先輩、花楓ちゃん、そして俺の五人。
「のどか、おめでとう」
「のどかさん、おめでとうございます」
「豊浜、おめでと」
「みんな、ありがとー!」
紙吹雪の中心で、のどかが満面の笑みを浮かべる。
さっきまで照れていたくせに、こういう時だけ素直だ。
「誕生日おめでとう、のどか」
最後にそう言うと、のどかが少しだけこちらを見た。
「……ありがと」
ほんの少しだけ照れた顔だった。
卯月がそれを見逃さない。
「おー」
「何よ」
「いやー?」
にやにやしている。
「きっしーにだけ、反応違うなーって」
「違わない」
「違わない」
俺とのどかの返事が重なった。
一拍。
卯月が吹き出した。
「あはは!」
「何笑ってんのよ!」
卯月は腹を抱えている。
咲太も面白そうに眺めていた。
「息ぴったりだな」
「違うから」
「違うからな」
また重なった。
今度は花楓ちゃんまで小さく笑う。
「本当に仲良しですね」
「花楓ちゃん!?」
のどかが頭を抱えた。
そんなやり取りを見ながら、麻衣先輩がテーブルへ料理を並べていく。
「冷める前に食べましょう。さ、どんどん食べてね」
その一言で全員が席についた。
改めて並んだ料理を見る。
ローストビーフ。
チキンソテー。
ほうれん草とベーコンのキッシュ。
鯛のカルパッチョ。
ポテトサラダ。
どれも店で出てきてもおかしくない出来だった。
「麻衣先輩、本当に全部作ったんですか」
「そうよ」
当然のような返事だった。
「すごいですね……」
各々料理に手を伸ばす。テーブルを囲んで、自然と談笑がはじまった。
「麻衣さん、僕の誕生日より、料理に気合入ってない?」
「今日一日オフだったから、準備する時間がたっぷりあったのよ」
「お姉ちゃん、このローストビーフ、美味しすぎる!」
「チキンも激ウマだよ、のどか!」
咀嚼しながら、次のチキンを卯月はもうフォークに刺していた。
「キッシュなんて、どうやって作るんだろうな」
咲太がつぶやく。
「だよなぁ」
少なくとも俺は作ったことがない。作ろうと思ったことがない。
「さすが、お姉ちゃん、全部美味しい!」
そう嬉しそうに言うのどかの様子を見ていると、自然と笑いが漏れた。
こうしてみんなで騒いでいる時間が、なんだか妙に心地良かった。
春の夜。
のどかの十九歳の誕生日会は、賑やかな笑い声とともに始まった。
「豊浜はひとつ大人になったんだし、この機会に麻衣さんの家から出て、いい加減独り立ちしたらどうだ?」
次々に料理を頬張るのどかに、咲太は呆れながら告げた。
「ちゃんと生活費は入れてるっての」
即、のどかが反論する。
「飯は?」
「時々、自分で作ってる」
「洗濯は?」
「時々、自分でやってる」
「ほんとか?」
「この一年くらいで、のどかもちゃんとやるようになったわよ」
横からのどかに助け船を出したのは麻衣先輩だった。
「だいたい、お姉ちゃんの料理の方が美味しいんだから仕方ないじゃん。お姉ちゃんには美味しいものを食べてほしいし」
自信満々にのどかはおかしな理屈をぶつけてくる。咲太の視線の隅で、花楓ちゃんだけが静かに頷いていた。
「ま、僕の麻衣さんに、どかちゃんの変な料理を食べさせるわけにいかないのは確かだな」
「どかちゃん言うな!てか、別に変な料理なんて作ってないし」
「豊浜って、ロールキャベツ作るって言ったくせに、キャベツと肉そぼろのコンソメスープ仕立てを出してきそうだしな」
「あれ、美味しかったわよ」
「お姉ちゃん!」
咲太はたとえ話のつもりだったのだろうが、実際にそんな出来事があったらしい。
「今日は豊浜の誕生日だし、意外とちゃんとやってることにしておくか」
咲太がそう言ってローストビーフを口へ運ぶ。
そのまま何気ない口調で続けた。
「ま、岸和田と共同作業で覚えればいいしな」
危うく飲み込んでいた水を吹きそうになった。
「共同作業言うな」
即座に突っ込む。隣ではのどかも顔をしかめていた。
咲太はそんな反応を見て面白そうに肩をすくめる。
「じゃあ何だよ、岸和田」
「普通に料理だろ」
「同じことじゃないか」
「違う」
何が違うのかと聞かれると説明に困るが、とにかく違う。
その時だった。ふと、思ったことを口にする。
「まあ、一回くらいは食べてみたいかな」
一瞬だけ。
のどかの動きが止まった。フォークを持ったまま固まる。
「蓮真。それほんと?」
予想外に真面目な声だった。
「まあ」
俺は肩をすくめる。
「食べたことないしな」
「……」
のどかは何も言わない。
ただ少しだけ視線を逸らした。
耳がほんのり赤い気がする。何か変なことを言っただろうか。
首を傾げかけたところで、横から声が飛んできた。
「なるほど」
咲太だった。嫌な予感しかしない。
「何がだよ」
「初めての共同作業が料理なんだな」
「は?」
即座に返したが、咲太は意に介していない。
むしろ楽しそうだった。
「どかちゃん、きっしー」
「だからどかちゃん言うな!」
のどかが即座に反論する。俺も続ける。
「だからきっしー言うな」
「息ぴったりだな」
「違うっつうの!」
「違うからな」
また同時だった。
しまったと思った時にはもう遅い。
テーブルの空気が一瞬だけ止まる。
花楓ちゃんがぱちぱちと瞬きをした。
それから、ふわりと微笑む。
「二人とも息ぴったりですね」
「花楓ちゃんまで!?」
のどかが頭を抱えた。
その隣では卯月が完全に限界だった。
肩を震わせながら笑いを堪えていたが、ついに耐えきれなくなったらしい。
「だめだー!」
テーブルへ突っ伏す。
「あはははっ!」
「何がそんなに面白いんだよ」
「だって!」
卯月は顔を上げる。目尻には涙まで浮かんでいた。
「もう完全にカップルだよー!」
「うるさい!」
「うるさくないって!」
「うるさい!」
「仲良いな」
咲太がぼそりと言う。
「誰のせいだと思ってる」
俺が睨むように返すと、
「豊浜の誕生日だから今日は許してやる」
咲太は悪びれもなくそう言った。
「なんで上からなんだよ」
呆れながら返す。
それでも、リビングには笑い声が絶えなかった。
窓の外はすっかり夜になっていたが、この部屋の中だけは春の日差しが残っているみたいに暖かかった。
のどかもまた、照れ臭そうに笑いながら、その輪の中にいた。
「ここで、皆さんに発表があります!」
突然、卯月が勢いよく立ち上がった。
右手を真っ直ぐ上へ突き上げる。
何事かと思い、自然と全員の視線が卯月へ集まった。
卯月は一度だけ咳払いをして、そして胸を張った。
「四月三十日に、私のソロライブが決定しました!」
一瞬の静寂。
次の瞬間。パンッと、のどかが慌ててクラッカーを鳴らした。
「づっきー、おめでとう!」
「おめでとうございます!」
「広川さん、おめでとう」
花楓ちゃん、麻衣先輩、咲太が続く。
卯月は満面の笑みだった。
「えへへー」
照れくさそうに頭を掻いている。
俺も拍手しながら言った。
「ソロライブか」
前回を思い出す。
「十一月以来だな」
「あ、覚えててくれた」
「そりゃな」
実際、印象に残っている。
アイドルグループとしてではなく、広川卯月個人として立つステージだった。
だからこそ、ふと疑問が浮かぶ。
「でも、なんで今なんだ?」
すると卯月は当然のように答えた。
「だって、みんなにも来てほしいから!」
そう言って、人差し指をこちらへ向ける。
「この間はきっしーしか来てくれなかったし!」
「それ言うなよ」
「事実だもん!」
卯月はけらけら笑ったその時だった。
「その日って、卯月さんの誕生日ですよね?」
確認するように口を挟んだのは花楓ちゃんだった。
卯月がぱっと振り向く。
「おー!さすが花楓ちゃん!」
嬉しそうに指を差す。
「さすが、づっきーファン、よく知ってるな」
咲太が感心したように言う。
「プロフィールに書いてあるじゃん」
なんで知らないんだという目で、花楓ちゃんが咲太を見る。
「みんな、ぜひ遊びに来てね!」
「はい、絶対に行きます!」
ファンの顔で、花楓ちゃんが力強く頷く。
「きっしーもね!」
逃がさないと言わんばかりの目だった。
俺は苦笑する。
「分かったよ」
「ほんと?」
「行く」
そう答えると、「よし!」と、卯月は満足そうにガッツポーズを作った。
その笑顔を見ながら思う。
失恋したとか、振られたとか、そんなことが全部なかったことになるわけじゃない。
でも卯月はちゃんと前を向いている。
だからこそ、そのソロライブはきっと、前より少しだけ大きなステージになるんだろうなと思った。
そんなやりとりの途中、咲太が何気なく言った。
「その頃、花楓はもう受験生だな」
花楓ちゃんは四月からは高校三年生になる。
つまり、受験生だ。
最も、大学進学を心に決めて、すでに受験勉強を開始しているらしいし、四月を待たなくても、もう受験生なのかもしれないが……
「お兄ちゃん、嫌なこと言わないでよ」
「そっかー、花楓ちゃん、三年生になるんだったね」
そう口にしたのどかは、どこか感慨深げだった。
高校受験のときには勉強を見ていたと聞いている。
だから余計にそう感じるのかもしれない。
花楓ちゃんが高校生になること自体、つい最近のことみたいに思えているのだろう。
「花楓ちゃん、どこ受けるの?」
純粋な興味だけを乗せた視線で、卯月が尋ねた。
俺は一瞬だけ花楓ちゃんを見る。
その答えを、実は知っていた。
以前、中郷さんのバースデーライブの時、たまたまそんな話になったことがある。
花楓ちゃんは、俺たちと同じ大学を目指している。
ただ、それをここで俺が言うことじゃない。
花楓ちゃん自身の口から話すべきことだと思った。
だから黙っている。
花楓ちゃんは少しだけ迷ったあと、「同じ……大学です」と、そう答えた。
「え?あたしたちと?」
驚きと喜びの混ざった顔で、のどかが確認の言葉をかける。
「はい」
花楓ちゃんは恥ずかしそうに、小さな声で返事をしていた。
「だったら、予備校の先生がやってるあの授業がいいよ!」
「どの授業だよ、づっきー」
「これ、ですか?」
花楓ちゃんが卯月にスマホを見せる。
「そう、それ!理系科目はこっちの先生がわかりやすかった」
同じ通信制高校に通っていた卯月から、その後も次々にアドバイスが飛ぶ。
それを聞き漏らすまいと、花楓ちゃんは慌ててメモを取っていた。
「卯月、意外とちゃんとしてるじゃん」
のどかが感心したように言う。
卯月は口を尖らせる。
「私だって大学生だよ?」
「それは知ってる」
「じゃあもっと敬って!」
「それは無理」
即答だった。
卯月が不満そうな顔をする。
その様子を見ながら、麻衣先輩が小さく笑った。
「来年は花楓ちゃんも大学生かもしれないのね」
その言葉に、一瞬だけ全員が未来を想像した。
大学生になった花楓ちゃん。
今より少し大人になった花楓ちゃん。
そんな未来は、案外すぐそこまで来ているのかもしれなかった。
花楓ちゃんの大学進学の話で、少しだけ場が未来の方へ向いた。
卯月のソロライブ。花楓ちゃんの受験。のどかの十九歳。来年の今頃、誰がどこにいるのか。
そんな話をしていると、少しだけ時間が先へ進んだような気がした。
けれど、今は三月十四日で、のどかの誕生日だった。
未来の話も悪くない。でも、今日渡すべきものもある。
咲太がふと思い出したように立ち上がった。
「さてと」
「なに?」
のどかが顔を上げる。
咲太はキッチンの方へ向かいながら、いつもの調子で言った。
「未来の話もいいけど、その前にデザートだな」
卯月の目が一瞬で輝いた。
「デザート!」
「反応が早いな、づっきー」
「甘いものは大事だから!」
「それは分かる」
俺が頷くと、のどかがこちらを見る。
「蓮真もそこは同意するんだ」
「甘いものは大事だろ」
「まあ、今日のあたしには大事」
「誕生日だからな」
そう返すと、のどかは少しだけ嬉しそうに笑った。
その横で、咲太が皿を持って戻ってくる。
甘い匂いがした。
焼き菓子の匂い。さつまいもの匂い。
「デザートにまずは僕から。先月のお返しも兼ねてな」
咲太がスイートポテトをテーブルに置く。
「咲太ってお菓子も作れるんだ」
驚いたような、うんざりしたような顔でのどかがスイートポテトを口に運ぶ。
隣の卯月は、ひとつを一口で食べていた。おかげで口の中はぱんぱんだ。
「ほひいさん、もいひい!」
恐らく、「お兄さん、美味しい」と言ったのだろう。
「ほんと、お店のやつみたいじゃん」
のどかもそう感想をもらす。
「あと、花楓からも豊浜にプレゼントがあるってさ」
「え、なに?」
「今、持ってきます」
冷蔵庫に向かった花楓ちゃんが、ドーナツの形をしたシルバーの型を持って戻ってくる。
中身はババロアだった。
テーブルの真ん中に、ババロアを載せるための大きな皿を麻衣先輩が用意し、「なになに?」と興味津々に、のどかと卯月が身を乗り出す。
注目を浴びる花楓ちゃんを咲太が手伝って、咲太はドーナツ状の型を皿から少し浮かせて逆さまにした。
花楓ちゃんが下から覗き込むようにして、型の内側にスプーンを慎重に差し込む。
「……あれ?落ちない」
花楓ちゃんが不安そうに呟いた直後、型に張り付いていたババロアは、空気の隙間ではがれて、皿の上にぷるんっと落ちてきた。
牛乳をベースとした白い表面に、イチゴの赤と、溶け出した果汁のピンクが綺麗なマーブル模様を作っている。
見た目はかわいらしく、美味しそうに仕上がっていた。
「なにこれ、かわいい!美味しそう!」
真っ先にのどかが感激して声を上げる。
「小さい頃に、お母さんが作ってくれてたババロアです」
麻衣先輩にナイフを手渡された花楓ちゃんが、ババロアを切り分けていく。
ひとり分ずつを皿に載せて全員に配ると、のどかが最初の一口を食べた。
「ん〜、美味しい!」
すぐに喜びの声が上がる。
「本当ですか?」
「ほんと美味しいよ。花楓ちゃん、ありがとう!」
一旦、皿とスプーンをテーブルに置いたのどかが、花楓に抱き着く。
「本当に美味しいわよ、花楓ちゃん」
のどかに抱き着かれて困惑する花楓に、麻衣先輩はやさしく微笑みかけていた。
「花楓ちゃん、おかわり!」
誰よりも早く食べ終えた卯月が、空の皿を花楓ちゃんに差し出す。
「あたしのために作ってくれたんだってば」
のどかも残りを食べて、花楓におかわりを要求する。
この様子だと、ババロアはすぐになくなりそうだった。
ババロアの皿が、次々と空になっていく。
甘いものは別腹、という言葉をそのまま形にしたような勢いだった。
特に卯月は、スイートポテトを食べたあとだというのに、二杯目のババロアにも何の迷いもなく手を伸ばしている。
「づっきー、よく入るな」
咲太が呆れたように言う。
「甘いものは元気の素だから!」
「便利な理屈だな」
「便利じゃないよ。真理だよ」
卯月は大真面目だった。
そんなやり取りを聞きながら、のどかは花楓ちゃんのババロアを大事そうに食べていた。
その顔は、さっきまでの騒がしさとは違って、少しだけやわらかい。
十九歳の誕生日。
姉が料理を作り、友人が祝って、花楓ちゃんが思い出のデザートを作る。
それだけで、十分すぎるくらい特別な夜だった。
「そういえば」
咲太がスプーンを置いて、こちらを見た。
嫌な予感がした。
「岸和田は豊浜に何かプレゼント渡してないのか?」
「……」
やっぱりだった。
のどかが一瞬だけこちらを見る。
「渡してるよ」
短く答えると、卯月がすぐに身を乗り出した。
「なになに?」
「食いつき早いな」
「だって気になるじゃん!」
花楓ちゃんも、控えめながら少しだけこちらを見ている。
麻衣先輩も何も言わないが、興味はありそうだった。
「……イヤーカフを」
そう答えた瞬間、のどかが声を上げた。
「蓮真!」
抗議の声だった。
「……別に隠すことじゃないだろ」
「そうだけど!」
「イヤーカフ!」
卯月の目が一気に輝いた。
「のどか、付けてるとこ見せて!」
「え、今?」
「今!のどか、見せてよー」
卯月が身を乗り出す。
のどかは明らかに困っていた。その視線がこちらへ向く。
助けを求めているような、そうでもないような顔だった。
「俺は、のどかさえ良ければ別にいいよ」
そう言うと、のどかはますます逃げ場を失ったような顔をした。
「蓮真まで……」
「嫌ならいい」
「嫌じゃないけど」
声が少し小さくなる。
その反応を見て、卯月がにやにやした。
「じゃあ決まり!」
「勝手に決めないで!」
そう言いながらも、のどかは鞄へ手を伸ばした。
小さな包みから取り出されたイヤーカフは、淡い黄色の石が付いたものだった。
シトリン。
七里ヶ浜の夕方の光の中で見た時よりも、室内の灯りの下では少しだけ柔らかく見える。
のどかは少し恥ずかしそうにしながら、耳元へそれを付けた。
金色の髪の隙間に、淡い黄色が小さく光る。
一瞬、部屋の空気が静かになった。
「……どう?」
のどかが小さく聞く。最初に反応したのは卯月だった。
「のどか、かわいい!」
勢いがすごかった。
「めっちゃ似合ってる!」
「声がでかいって!」
「だってかわいいもん!」
卯月は満面の笑みでこちらを見る。
「きっしー、やりますなぁ」
「何がだよ」
「プレゼント選び!」
「たまたまだ」
「たまたまでそれは強いよー」
花楓ちゃんも、少し頬を緩めながら頷いた。
「のどかさん、すごく似合ってます」
「ありがと、花楓ちゃん」
のどかは照れ臭そうに笑う。麻衣先輩も静かに微笑んだ。
「似合ってるわよ、のどか」
「……ありがと、お姉ちゃん」
その声は、さっきよりもずっと小さかった。
嬉しいのを隠しきれていない声だった。
咲太だけが、いつもの調子でスイートポテトを口に運びながら言った。
「馬子にも衣装だな」
「はぁ!?」
のどかが即座に振り向く。
「今なんて言った!?」
「褒めた」
「褒めてない!」
「似合ってるって意味だろ」
「絶対違う!」
そのやり取りに、またリビングが笑いに包まれる。
俺はその中で、イヤーカフを付けたのどかをもう一度見た。
淡い黄色。のどかの色。
ちゃんと似合っている。
そのことが、思っていたよりずっと嬉しかった。
「……何?」
視線に気づいたのどかが、こちらを見る。
「いや」
少しだけ間を置く。
「似合ってる」
その瞬間、のどかは一瞬だけ黙った。
それから、耳元のイヤーカフに軽く触れて、視線を逸らす。
「……知ってる」
強がるような返事だった。
でも、その横顔はちゃんと嬉しそうだった。
その後は、スイートバレットのライブ映像をTVで流したり、麻衣先輩の主演映画を見たりしているうちに、楽しい時間は過ぎ去っていく。
映画のエンドロールがはじまったところで時計を見ると、夜の十時だった。
「づっきー、帰らなくていいのか?」
「ふっふっふっ、今日はお泊まりなのだよ、お兄さん」
卯月が自慢げに、パンパンに膨らんだバッグを抱き締める。
そんな卯月の隣から、「そうだ。花楓ちゃんも泊まっていきなよ」と、いいことを思いついた顔でのどかが言ってきた。
「え?」
「いいよね?お姉ちゃん」
「勝手に話を進めないの。花楓ちゃん、驚いてるでしょ」
「あ、ごめん。花楓ちゃん」
「い、いえ」
「花楓ちゃんがよければ、遠慮なく泊まっていってね」
改めて、麻衣先輩が誘いの手を差し伸べる。
話の中心に置かれた花楓ちゃんは、横目で咲太を見ていた。
「花楓が泊まらないなら、僕が泊まろうかな」
「咲太は帰りなさい」
「えー」
「なすのがかわいそうでしょ」
「そういや、十時頃には帰るって言ってきたんだった」
咲太は思い出したようにそう言って時間を確認する。
「なら帰りなさい」
麻衣先輩は即答だった。
「麻衣さん、冷たいですよ」
「なすのを寂しがらせる方が冷たいでしょ」
「それはそうですけど」
咲太はあっさり納得した。
そのまま立ち上がりかけて、ふとこちらを見る。
嫌な予感がした。
「そういえば、岸和田は泊まっていかないのか?」
「泊まらねえよ!」
思わず即答した。
のどかが変な声を出しかけて、咳払いで誤魔化す。
卯月は案の定、目を輝かせていた。
「えー、きっしーも泊まればいいのに」
「泊まらない」
「なんで?」
「なんでもだよ」
「のどかもいるよ?」
「だからだろ!」
口にしてから、しまったと思った。
リビングの空気が一瞬だけ止まる。
のどかの顔がみるみる赤くなった。
「蓮真!」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「どういう意味よ!」
咲太が楽しそうに口を挟む。
「なるほど。岸和田にも理性はあるんだな」
「お前にだけは言われたくない!」
「意外だな」
「何が意外だ」
卯月は腹を抱えて笑っている。
花楓ちゃんは意味を理解したのかしていないのか、少し困ったように笑っていた。
「で、花楓はどうする?」
咲太の発言で、再びみんなの視線が花楓ちゃんに向かう。
花楓ちゃんの答えを待っている。そうした緊張に晒されながらも、「と、泊まっていいですか?」と、花楓ちゃんは自分の気持ちを口にした。
「もちろん、大歓迎よ」
麻衣先輩がやさしく花楓ちゃんの言葉を受け止める。
「やったー!」と、卯月が万歳をして、「花楓ちゃん、いっぱいおしゃべりしようね」と、のどかが花楓ちゃんに横から抱き着いた。
反対側からは卯月も抱き着いて、ふたりに挟まれている。
「じゃあ、僕は一旦帰って、花楓の着替えでも取ってくるか」
「自分で行くって!」
帰ろうとする咲太に、花楓ちゃんが慌ててついていく。
玄関の扉が閉まると、リビングには少しだけ静けさが残った。
さっきまで笑い声でいっぱいだった部屋が、急に広くなったように感じる。
「じゃあ、俺もそろそろ帰ります」
立ち上がると、のどかが少しだけこちらを見た。
「もう帰るの?」
「泊まらないって言っただろ」
「それは分かってるけど」
のどかは小さく口を尖らせる。その反応に、卯月がぴんと顔を上げた。
「じゃあさ!」
嫌な予感というより、騒がしい予感がした。
「のどか!きっしー、駅まで送っていこ!」
「え?」
「ほら、夜だし!」
「蓮真の家、駅の南口の方でしょ?」
のどかがこちらを見る。
「まあ、そうだけど」
「じゃあ駅まで!」
卯月はすでに立ち上がっていた。
「麻衣さん!ちょっときっしー送ってくるね!」
「気をつけてね」
麻衣先輩はそれだけ言って、静かに微笑んだ。
玄関を出ると、夜の空気が少し冷たかった。
マンションの廊下を抜け、エレベーターで下へ降りる。
外へ出ると、藤沢の夜はまだ人通りがあった。
駅へ向かう道を、俺とのどかと卯月の三人で歩く。
けれど、藤沢駅で会った時とも、少しだけ空気が違っていた。
「ねえ、きっしー。のどか」
卯月が不意に声を上げる。
「二人とも、今月空いてる日ってある?」
「今月?」
のどかが聞き返す。
「何かあるのか?」
「ある!」
卯月は大きく頷いた。
「のどかの誕生日と、きっしーの誕生日をまとめてお祝いしよう!」
「俺の?」
「三月二十日でしょ?」
「……覚えてたのか」
「覚えてるよー!」
卯月は当然のように言い、それから少し得意げに胸を張った。
「だから、みんなで出かけよ!」
「みんなって?」
「私とのどかときっしー!」
「それ、みんなっていうか三人だろ」
「三人もいたら、みんな!」
卯月は大真面目だった。
のどかが小さく笑う。
「今月末なら、あたしは二十七日から三十一日あたりは空いてると思う」
「俺もそのあたりなら大丈夫だと思う」
「やった!」
卯月が両手を上げる。
「じゃあ、どこかで桜見に行こう!」
「桜か」
悪くない。三月末なら、場所によってはちょうど見頃だろう。
「でも、どこ行くの?」
のどかが聞くと、卯月は待ってましたとばかりに笑った。
「お母さんに車出してもらう!」
「また急に」
「車ならいろいろ行けるじゃん!」
「卯月のお母さん、いいって言うの?」
「たぶん!」
「たぶんかよ」
俺は呆れたように言う。
けれど、卯月はもう完全にその気だった。
「桜見て、美味しいもの食べて、ついでに写真撮って!」
「ついでが多いな」
「楽しい予定は多い方がいいから!」
卯月らしい理屈だった。
駅前の明かりが近づいてくる。
藤沢駅の南口へ向かう人の流れが見えた。
そこで、卯月がふいに立ち止まる。
「じゃあ、私はちょっと飲み物買ってくる!」
「急だな」
「喉乾いた!」
そう言って、卯月は近くのコンビニへ駆けていった。
残された俺とのどかの間に、夜の静けさが降りてくる。
駅前のざわめきはあるのに、少しだけ二人きりになったような感じがした。
「蓮真」
のどかが俺を呼ぶ。
「ん?」
「二十日って、空いてる?」
「空いてる」
ほとんど反射で答えた。
のどかは少しだけ迷うように視線を落とす。それから、俺の服の裾を小さく掴んだ。
「……デート、またしない?」
声は小さかった、でも、ちゃんと聞こえた。
「いいのか?」
「うん」
のどかは頷く。
耳元では、さっき付けたイヤーカフが小さく光っていた。
「蓮真の誕生日だし」
「……」
言葉が少し遅れた。
誕生日。
自分の誕生日なんて、あのループの時はほとんど意識していなかった。
ただ日付が変わるだけの日。
そう思っていた。
でも、今、のどかがそう言うと、少しだけ違うものに聞こえる。
「じゃあ、また場所考えるな」
「うん」
のどかは安心したように笑った。
「楽しみにしてる」
「まだ何も決めてないけどな」
「蓮真なら、ちゃんと考えてくれるでしょ」
「買い被りすぎだろ」
「そうかな」
のどかは少しだけ得意げに笑う。
その顔を見ると、否定する気が少し失せた。
「今日はありがとう」
不意に、のどかが言った。
「水族館も、江の島も、七里ヶ浜も」
少しだけ照れたように、耳元のイヤーカフへ触れる。
「プレゼントも」
「……どういたしまして」
それだけ返すのが精一杯だった。
のどかは俺を見て、小さく笑う。
「蓮真、照れてる?」
「照れてない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ、そういうことにしといてあげる」
昼間にも聞いたような台詞だった。
そのことに気づいて、少しだけ笑ってしまう。
「何?」
「いや」
「また何でもないって言うやつ?」
「そういうやつ」
のどかは少しだけ不満そうにしたが、すぐに笑った。
そこへ、飲み物の袋を提げた卯月が戻ってくる。
「お待たせー!」
「早いな」
「迷わなかったから!」
卯月は俺とのどかを交互に見て、そしてにやっと笑った。
「二人とも、何話してたの?」
「別に」
「別に」
また重なった。卯月は満足そうに頷く。
「はいはい。仲良し仲良し」
「うるさい」
「うるさいって」
のどかと俺の声がまた重なった。
もう、何を言っても無駄だった。
駅前で、俺たちは立ち止まる。
南口へ向かう俺と、麻衣先輩の家へ戻る二人。
ここで一度、道が分かれる。
「じゃあ、またな」
そう言うと、卯月が大きく手を振った。
「きっしー、またね!」
「ああ」
のどかも少しだけ手を上げる。
「蓮真」
「ん?」
「今日はありがとう」
もう一度、そう言われた。
さっきよりも真っ直ぐな声だった。
「……俺も、楽しかった」
少し照れた。
でも、言わない方が変だと思った。
のどかは一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「うん」
その一文字だけで、十分だった。
俺は二人に背を向けて、南口へ向かって歩き出す。
背後から、卯月の明るい声とのどかのツッコミが聞こえた。
その声が少しずつ遠ざかっていく。
今日一日が、ようやく終わろうとしていた。
水族館。
江の島。
七里ヶ浜。
誕生日会。
イヤーカフ。
そして、次の約束。
胸の奥が、少しだけ温かかった。
怖いくらいに。
だから俺は、その温かさを確かめるように、夜の藤沢を一人で歩いた。
三月十六日
夕方、ファミレスのバイトに入ると、休憩室には古賀と姫路さんがいた。
その顔を見た瞬間、思い出す。
シュークリーム。完全に忘れていた。
「あ」
思わず声が漏れる。古賀がすぐに反応した。
「あ、おはようございます。きっしー先輩」
にやっと笑う。嫌な予感しかしなかった。
隣では姫路さんもこちらを見ている。
「おはようございます。蓮真先生」
静かなお辞儀。その分、余計に申し訳ない。
「……悪い」
俺は素直に頭を下げた。
「バレンタインのお返し、まだだった」
古賀は腕を組んだ。
「まだだった、じゃないよ」
「返す言葉もない」
「先輩から聞いたよ?」
「咲太か」
「うん」
古賀は頷く。
「きっしー先輩がシュークリーム忘れてるって」
完全に告げ口されていた。隣から姫路さんが静かに口を開く。
「すみません」
改めて頭を下げる。
「今日の帰り、ちゃんと奢る」
その瞬間、古賀の目が輝いた。
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ二個」
「なんで増える」
「慰謝料」
「何のだよ」
「待たされた分」
理不尽だった。姫路さんが小さく笑う。
「私は一つで大丈夫です」
「姫路さんは優しいな」
そう言うと、姫路さんは少しだけ首を傾げた。
「そうですか?」
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「でも、蓮真先生がお返しを忘れるくらい忙しかった理由は、少し気になります」
「おい」
古賀が即座に乗っかる。
「そう!」
「そう!じゃない」
「豊浜さん?」
「違う」
「デート?」
「違う」
「江ノ島?」
「なんで知ってる」
言った瞬間にしまったと思った。古賀が吹き出した。
「あっ!自白した!」
「いや違う」
姫路さんが勢いよく振り向く。
「真相解明ですね!」
姫路さんは真面目な顔で頷いた。
「これは有罪ですね」
「おいおい……」
思わず声が大きくなる。
すると姫路さんは少しだけ困ったように微笑んだ。
「冗談です」
そう言ったあと、
「でも、楽しそうでよかったです」と静かに続けた。
一瞬だけ言葉に詰まる。
古賀はそんな空気など気にせず、「で、シュークリーム二個ね」と言った。
「一個だ」
「えー」
「一個だ」
「きっしー先輩のケチ」
「忘れたのは悪かったけど、それとこれとは別だ」
古賀がぶーぶー文句を言い始める。
その横で姫路さんは小さく笑っていた。
どうやら今日は、二人とも完全に俺で遊ぶ気らしかった。
夜のピークが過ぎた頃には、店内の空気も少しだけ落ち着いていた。
さっきまで鳴り続けていた呼び出しベルも止まり、キッチンから聞こえる音も少しずつ穏やかになる。
俺はホールで皿を下げながら、ようやく一息ついた。
「きっしー先輩」
レジ横で伝票を整理していた古賀が、こちらに声をかけてくる。
「なんだ?」
「この間の日曜日、奈々ちゃんとディズニー行ってきたんだ」
「米山さんと?」
「うん」
古賀は少し得意げに頷いた。
「大学合格と高校卒業記念」
「米山さん、合格したんだな」
米山さんは、俺と同じ横浜市立大学の国際商学部に進学する。
改めて思うと、世間は狭い。
「すごいよね。だからお祝いってことで」
古賀は嬉しそうだった。
「混んでなかったのか?」
「混んでた。でも楽しかった」
「それはよかったな」
「うん。やっぱディズニーは特別だよ」
古賀がそう言うと、姫路さんがほんの少しだけ身を乗り出した。
「朋絵先輩、いいなぁ」
「え?」
「今度は私と一緒に行きましょう」
にこり。
綺麗な笑顔だった。古賀の肩が、ほんの少しだけ固まる。
「ま、まあ……うん。そうだね」
明らかに歯切れが悪い。
姫路さんはそれに気づいているのかいないのか、楽しそうに微笑んでいた。
いや、多分気づいている。
「きっしー先輩もさ」
古賀が話題を変えるようにこちらを見た。
「豊浜さんと一緒にディズニー行ったら?」
「なんでここでのどかが出てくる」
「だって、きっしー先輩の誕生日もうすぐじゃん」
「……」
古賀はにやっと笑う。
「どうせデートするんでしょ」
「お前よく覚えてるな、そんなこと」
「友だちとか知り合いの誕生日はみんな覚えてるって、前も言ったじゃん!」
「そういえばそうだったな」
古賀はそういうところが妙に律儀だ。
人との距離感が近いというか、覚えている情報の量が多いというか。
ディズニー。悪くはない、悪くはないが、いきなりそこへ行くのは少しハードルが高い気がした。
のどかの誕生日デートの直後に、俺の誕生日でディズニー。
それはそれで楽しそうではある。
でも……なんとなく、もっと特別な時に取っておきたい気もした。
「さすがにディズニーは重くないか」
「えー、そう?」
「楽しいけどな」
「じゃあ」
そこで姫路さんが、少し考えるように指先を顎へ添えた。
「動物園とか行けばいいんじゃないですか?」
「動物園?」
「はい」
姫路さんは頷く。
「私、この間、友だちとパンダを見に行きましたよ」
「なんでパンダなんだよ」
そう聞くと、姫路さんは少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「この間のバレンタインに、花楓先輩からパンダのチョコをもらったので」
「それで見に行きたくなったのか」
「はい」
理由としては単純だった。
でも、悪くない。
この間は水族館だった。なら、次は動物園。
そう考えると、意外と収まりがいい。
「それに」
姫路さんが続ける。
「動物園は、私もちゃんと下見しておきたいので」
「下見?」
「はい」
姫路さんは、何でもないことのように微笑んだ。
「いずれ咲太先生とのデートで行きたいので」
「……」
「……え?」
古賀が固まった。
「先輩と?」
「はい」
姫路さんは涼しい顔で頷く。
「いけませんか?」
「い、いけないとかじゃないけど」
古賀の声が、わずかに上ずった。
姫路さんはその反応を見て、少しだけ目を細める。
「もしかして朋絵先輩、咲太先生のこと……」
含みのある笑みだった。古賀の顔が一気に赤くなる。
「いや、違うから!」
「そうなんですか?」
「別に先輩と動物園行ってみたいなぁなんて、思ってないんだからね!」
言い切った瞬間バックヤードの空気が止まった。
俺は何も言わなかった。
姫路さんも一拍置いてから、にこっと笑った。
「朋絵先輩、わかりやすい」
「姫路さんバリむか!」
古賀が叫び、姫路さんは楽しそうに笑っていた。
どうやら、動物園の話は俺への助言であると同時に、古賀を揺さぶるための罠でもあったらしい。
恐ろしい後輩だ。
「まあ、動物園はありだな」
俺が話を戻すと、古賀がまだ赤い顔のままこちらを見た。
「いいじゃん。豊浜さんと行けば?」
「だから、なんで若干怒ってるんだよ」
「怒ってないし」
「怒ってるだろ」
「怒ってない!」
姫路さんが横から静かに言う。
「朋絵先輩、やっぱりわかりやすいです」
「もう!」
古賀が伝票をぺしっと整える。
その様子を見ながら、俺は少しだけ笑ってしまった。
「で、動物園のあとですけど」
姫路さんが何事もなかったように話を進める。
「せっかくなら、追加で色々行けばいいと思います」
「追加?」
「浅草とか」
「スカイツリーとか!」
古賀もすぐに乗ってきた。切り替えが早い。
「動物園行って、浅草行って、スカイツリー見て帰るとか」
「詰め込みすぎじゃないか?」
「デートなんだから、それくらいでいいんだよ」
「経験者みたいに言うな」
「この間ディズニー行ったし」
「それは米山さんとの卒業祝いだろ」
「似たようなものじゃん」
「全然違う」
とはいえ、浅草もスカイツリーも悪くない。
スカイツリーは、この間上里が国見と一緒に行ったらしい。
浅草は最近、外国人観光客が多くて混みそうではある。
でも、賑やかな場所が嫌いなわけではない。
むしろ、のどかとなら。
そう思ったところで、少しだけ自分に驚いた。
自然に、のどかと行くことを前提に考えていた。
「……まあ、候補には入れておく」
古賀がにやにやする。
「きっしー先輩、本気で考えてる」
「考えろって言ったのはお前だろ」
「うん。でも本気で考えてるきっしー先輩、やっぱ面白い」
「何がだよ」
「豊浜さんのこと、大事なんだなーって」
「……」
否定しようとして、言葉が詰まった。
姫路さんがその隙を見逃さない。
「蓮真先生」
「なんだ」
「動物園なら、歩きやすい靴の方がいいと思います」
「急に実用的だな」
「あと、浅草は人が多いので、はぐれないようにした方がいいです」
「それも実用的だな」
「手を繋ぐ理由にもなります」
「実用的じゃなくなったな」
姫路さんは涼しい顔をしている。
「私は真面目に助言しただけです」
「絶対違うだろ」
「違いません」
そう言いながら、姫路さんは少しだけ楽しそうだった。
完全に遊ばれている。今日のバイトは、どうにも分が悪い。
けれど、頭の中にはもう、いくつかの景色が浮かんでいた。
上野の動物園。
パンダ。
浅草の人混み。
隅田川。
スカイツリー。
そこに、のどかがいる。
それを想像してしまった時点で、もう候補から外す理由はあまり残っていなかった。
その後、夜九時までのバイトは、思ったよりも慌ただしく過ぎていった。
夕飯時のピークが落ち着いたと思ったら、今度は食後のデザート目当ての客が続き、結局ゆっくりする暇はなかった。
それでも、古賀と姫路さんは妙に機嫌がよかった。
理由は分かっている。シュークリームだ。
「きっしー先輩、九時だよ!」
退勤の打刻を終えた瞬間、古賀がこちらを振り向いた。
「分かってる」
「閉店、九時半までだよね?」
「たぶんな」
「たぶんじゃ困る!」
古賀はロッカーから鞄を引っ掴むと、すでに走る気満々だった。
隣では姫路さんも、いつもの落ち着いた様子でエプロンを畳んでいる。
ただ、その手つきは少しだけ早い。
「蓮真先生」
「なんだ」
「急ぎましょう」
「姫路さんまでかよ」
「シュークリームは、時間との勝負なので」
妙に真剣だった。
店を出ると、夜の空気が肌に触れた。
銀座通りの明かりはまだ賑やかだったが、昼間とは違う、閉店前特有のせわしなさがある。
「行くよ、姫路さん!」
「はい、朋絵先輩」
二人は言うが早いか、駅の方へ向かって走り出した。
「おい、待て!」
俺も慌てて後を追う。
制服から私服に着替えたばかりだというのに、なぜ仕事終わりに全力疾走しなければならないのか。
全部、俺がシュークリームを忘れたせいだった。
「きっしー先輩、遅い!」
「お前らが速いんだよ!」
「蓮真先生、閉店してしまいます」
「姫路さん、意外と本気だな!」
「はい。甘いものは大事です」
どこかで聞いたような理屈だった。
息を切らしながら駅前の店に着くと、ショーケースの中には、まだシュークリームが残っていた。
古賀が両手を合わせる。
「間に合った!」
「よかったですね」
姫路さんも小さく息を吐いた。
俺は財布を取り出しながら、店員に向き直る。
「シュークリーム、三つください」
「え、きっしー先輩も食べるの?」
「ここまで走らされて食べない理由がないだろ」
「じゃあ私、やっぱ二個」
「増やすな」
「えぇー」
古賀が不満そうに口を尖らせる。
姫路さんは隣でくすりと笑っていた。
店先の小さなベンチに三人で並ぶ。
古賀は袋を受け取るなり、すぐにシュークリームを取り出した。
「いただきます!」
「早いな」
「待たされたからね」
「まだ言うか」
一口かじった古賀の表情が、ぱっと明るくなる。
「んー!美味しい!」
その横で、姫路さんも丁寧にシュークリームを手に取った。
「いただきます」
小さくかじって、少しだけ目を細める。
「……美味しいです」
「それはよかった」
ようやく少しだけ肩の荷が下りた気がした。
古賀がクリームを口元につけたまま、こちらを見る。
「きっしー先輩」
「なんだ」
「今回は許してあげる」
「それはどうも」
「でも次忘れたら、二個だからね」
「次がある前提にするな」
姫路さんが、そこで静かに口を挟んだ。
「蓮真先生なら、次は忘れないと思います」
「姫路さん……」
「ただし、彼女さんとの予定が入っていなければ」
「結局そこに戻すのかよ」
古賀が楽しそうに笑う。
「まあまあ。豊浜さんとのデートプラン、ちゃんと考えなよ?」
「分かってる」
そう答えると、二人が少しだけ意外そうにこちらを見た。
「……何だよ」
「いや」
古賀がにやにやする。
「否定しないんだなって」
「うるさい」
「蓮真先生、素直ですね」
「姫路さんまで」
二人に挟まれて、俺はシュークリームをかじる。
甘いクリームが口の中に広がる。
仕事終わりに走らされて、奢らされて、いじられて。
普通なら散々なはずなのに、不思議と悪い気はしなかった。
夜の駅前で、古賀と姫路さんが楽しそうにシュークリームを食べている。
それを見ていると、忘れていたお返しを、ようやくちゃんと返せた気がした。
シュークリームを食べ終える頃には、駅前の人通りも少しだけ減っていた。
古賀は満足そうに袋を畳み、姫路さんは紙ナプキンで口元を丁寧に拭いている。
「じゃあ、きっしー先輩」
「なんだ」
「豊浜さんとのデート、ちゃんと頑張ってね」
「だからなんでお前が仕切ってるんだよ」
「だって、面白いから」
即答だった。姫路さんも小さく頷く。
「蓮真先生、動物園、いいと思いますよ」
「分かった。候補に入れる」
「浅草もです」
「それも入れる」
「手を繋ぐのもです」
「それは入れない」
「えー」
なぜ古賀が不満そうなのか分からない。
そんなやり取りをしながら二人と別れ、俺は藤沢駅へ向かった。
家に向かっている途中も、頭の中ではさっきの話がぐるぐる回っていた。
動物園。浅草。スカイツリー。
のどかと行く場所。
考えてみれば、誰かのために予定を組むことは嫌いじゃない。
ただ、それがのどか相手になるだけで、妙に緊張する。
家に着いて、鞄を置く。
スマホを取り出すと、のどかとのトーク画面を開いた。
何度か文字を打って、消す。
それから、ようやく送信した。
《二十日のことだけど》
すぐに既読がついた。
《うん》
早い。
思わず少しだけ笑ってしまう。
《上野の動物園行って、そのあと浅草の方まで行くのはどうかと思ってる》
少し間が空いた。その数秒が、妙に長く感じた。
《動物園?》
《この間は水族館だったから、今度は動物園もいいかなって》
《いいじゃん》
短い返事だった。
けれど、そのあとすぐに続けてメッセージが届く。
《上野なら前に行ったことあるよ》
《そうなのか》
《お姉ちゃんと、花楓ちゃんと、咲太と一緒に》
その組み合わせを想像して、少しだけ納得する。
麻衣先輩と咲太がいて、花楓ちゃんがいて、のどかがいる。
それだけで、なんとなく賑やかそうだった。
《パンダ見た?》
《見た》
すぐに返事が来る。
《撮ろうと思ったんだけど》
《けど?》
《ずっとそっぽ向かれてた》
思わず笑ってしまった。
《それは残念だったな》
《ほんと。せっかく撮ろうと思ったのに、全然こっち向いてくれないし》
《じゃあリベンジするか》
送ってから、少しだけ照れた。
リベンジ。つまり、今度は俺とのどかで行くということだ。
既読がつく。少し間が空く。
《うん》
それから、もう一つ。
《今度はちゃんと撮りたい》
《パンダがこっち向いてくれるといいな》
《向かせる》
《どうやって》
《気合い》
《無理だろ》
《蓮真、そういうとこ冷静だよね》
《現実的と言ってくれ》
《じゃあ現実的な蓮真に任せる》
《パンダを?》
《デートプランを》
画面越しなのに、のどかが少し笑っているのが分かった気がした。
《浅草も行くの?》
《時間と体力次第だな。混んでそうだし》
《蓮真がちゃんと考えてくれてる》
《そりゃ考えるだろ》
《誕生日だもんね》
《俺のな》
《うん。蓮真の》
画面越しなのに、のどかの声が聞こえた気がした。
少し照れくさくなって、俺はスマホを持ったまま天井を見る。
数秒迷ってから、また文字を打つ。
《じゃあ二十日はそれで》
すぐに返事が来た。
《うん》
そして、少し遅れてもう一つ。
《楽しみにしてる》
その文字を見て、俺はしばらく画面を見つめていた。
たったそれだけのやり取りなのに、妙に落ち着かない。
でも、不快ではなかった。
むしろ、その逆だ。
嬉しかった。
《俺も》
そう送るまでに、少し時間がかかった。
既読がつく。
のどかから、最後にスタンプが送られてきた。
少し照れた顔の、黄色いキャラクターのスタンプだった。
のどからしい。
俺はスマホを伏せて、息を吐く。
三月二十日。
ただ過ぎていくだけだった日。
その日が、少しだけ特別な予定に変わっていた。
そしてその中心に、のどかがいる。
それを認めるのは、まだ少し照れくさい。
でも、もう否定する方が難しかった。
ふと。どこか遠くの記憶が引っかかった。
動物園。春の日差し。柵の向こうで動く動物たち。
誰かの笑い声。
それから、風に乗って流れてきた青い匂い
草でもなく、花でもなく。
少し苦くて、少し甘い。どこか懐かしい匂いだった。
——はすまくん。
不意に、そんな声が聞こえた気がした。
女の子の声だった。
明るくて。楽しそうで。
すぐ近くにいた気がするのに、顔だけが思い出せない。
「……誰だ」
独り言が漏れる。
当然、答える人はいない。
思い出そうとした瞬間、その景色は波にさらわれる砂の絵みたいに崩れていった。
動物園。春の空。青い匂い。
そして……はすまくん、という呼び声だけを残して。
昔。あの長いループが始まる前。
母さんが亡くなる前。もっとずっと前。
誕生日を祝われた記憶が、たしかにあった気がする。
けれど、その続きを思い出すことはできなかった。
俺は首を振り、スマホを机に置く。
今は三月二十日の予定を考えればいい。
上野動物園。パンダのリベンジ。
そして、のどかとの約束。
それだけで十分だった。
物語解説
今回は、三月十四日の誕生日会と、三月十六日のバイト後のやり取りを通して、蓮真が「特別になっていく日常」を受け入れ始める回でした。
のどかの誕生日会。卯月へのお返し。古賀と姫路さんへのシュークリーム。そして、三月二十日のデートの約束。
蓮真にとっては、その何気ない日常こそが特別な意味を持っています。
卯月に渡したジュエリーBOXクッキーは、選ばなかった想いへの返礼であり、区切りでもあります。朋絵と紗良へのシュークリームは、軽いやり取りの中にある、日常的な信頼の確認。
そして、のどかとの次の約束は、ただの予定ではなく、蓮真自身の誕生日を「誰かと過ごす日」に変えていくものです。
蓮真にとって、誕生日はただ過ぎていくだけの日でした。けれど、のどかと出会い、のどかが「蓮真の誕生日だし」と言ったことで、その日は少しずつ意味を持ち始めます。
上野動物園。パンダのリベンジ。浅草。スカイツリー。
行き先を考えること自体が、蓮真にとっては、のどかとの未来を想像する行為になっています。
一方で、物語の最後には、蓮真自身も思い出せない過去の気配を置いています。
春の動物園。風に乗る青い匂い。そして、「はすまくん」と呼ぶ誰かの声。
それは、ループによって欠落した記憶の断片であり、蓮真がまだ取り戻せていない過去でもあります。
今の幸福が、忘れていた記憶を呼び起こす。
のどかとの約束が、かつて誰かと交わしたかもしれない約束へとつながっていく。
春は、蓮真に新しい幸せを運んでくる季節であると同時に、置き去りにしてきたものを思い出させる季節でもあります。
次回では、三月二十日。
蓮真の誕生日と、のどかとの二度目のデートに踏み込んでいきます。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。