青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
三月十八日
三月二十日まで、あと二日。
レッスンを終えて帰宅したのどかは、自室のベッドの上へ服を並べながら頭を抱えていた。
白いブラウス。
淡い黄色のワンピース。
黒のスカート。
ベージュのカーディガン。
どれも気に入っている服だった。
だから余計に決まらない。
鏡の前で合わせてみては首を傾げ、ベッドへ戻して、また別の組み合わせを試す。
そんな作業を三十分以上続けていた。
結局、答えは出ない。
「うーん……」
のどかはベッドへ倒れ込んだ。
スマホを見る。
画面には蓮真とのトーク履歴が表示されていた。
上野動物園。
浅草。
パンダのリベンジ。
三月二十日の予定。
読み返すだけで少しだけ嬉しくなる。
けれど。同時に妙に緊張もしていた。
先日のデートが楽しかったからだ。
楽しかったからこそ、今度も失敗したくない。
そんな気持ちが服選びまで面倒にしている。
「何やってるんだろ、あたし……」
小さく呟いた時だった。
リビングから麻衣の声が聞こえた。
「のどか」
「んー?何、お姉ちゃん?」
「紅茶淹れたけど飲む?」
「飲むー」
リビングへ行くと、テーブルには紅茶とクッキーが用意されていた。
のどかはソファへ腰を下ろす。
麻衣は自然な動作で紅茶を差し出した。
「服、決まった?」
「決まらない」
即答だった。
麻衣が少し笑う。
「まだ悩んでるのね」
「だって動物園なんだよ?」
「そうね」
「でも、そのあと浅草行くかもしれないんだよ?」
「そうね」
「だから難しいの!」
のどかは真剣だった。
動物園なら歩きやすさが必要だ。
でも浅草へ行くなら少しくらいおしゃれもしたい。
かといって気合いを入れすぎるのも違う。
結局、何を着ればいいのか分からなくなる。
「蓮真くん、そんなに服を見るタイプ?」
麻衣が訊ねる。
「見ない」
即答だった。
「じゃあいいじゃない」
「よくないの!」
のどかは反射的に反論した。
そのあと、自分で言った言葉に少しだけ照れる。
麻衣は見逃さなかった。
「そう」
少し楽しそうだった。
「ちゃんと見てほしいのね」
「そういう意味じゃないよ!」
慌てて否定する。しかし否定が弱かった。
麻衣はそれ以上何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた。
のどかは紅茶を飲みながら窓の外を見る。
夕暮れだった。
空は少しずつ夜へ変わり始めている。
ふと。あることが頭に浮かんだ。
先日の誕生日会。
そして、その帰り道。
藤沢駅で交わした会話。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに?」
のどかは少しだけ迷った。
うまく言葉にできない。
でも、ずっと引っかかっていた。
「蓮真ってさ」
「うん」
「誕生日、あんまり好きじゃないのかな」
麻衣は少し考えた。そして静かに首を横へ振る。
「好きじゃないんじゃなくて、慣れてないのかもしれないわね」
その答えは、のどかの中にすんなり落ちた。
好きじゃないわけじゃない。
むしろ嬉しそうだった。
でも。どこか戸惑っていた。
「慣れてない……か」
十四日のことを思い出す。
自分が、「蓮真の誕生日だし」と、そう言った時。
蓮真は少し驚いた顔をしていた。
まるで……自分の誕生日を誰かが気にしていること自体が予想外だったみたいに。
「去年だって卯月に祝われてたし」
のどかは呟く。
「あの時も普通に嬉しそうだったと思う」
麻衣は頷く。
「だから、祝われたことがないわけじゃないのよね」
「うん」
「でも、蓮真くんって」
麻衣は少し考える。
「誰かのためなら頑張れる人なんじゃないかしら」
のどかは顔を上げた。
「自分のことよりも、相手を喜ばせる方が先」
その言葉に、のどかは思わず苦笑した。
確かにそうだ。
自分のことになると雑なのに、他人のことになると急に真面目になる。
誕生日プレゼントもそうだった。
イヤーカフだってそうだ。
でも。自分の誕生日になると、急に扱い方が分からなくなる。
そんな印象があった。
「そういうところ」
麻衣がふっと笑った。
「咲太に少し似てるのよね」
のどかが目を瞬かせる。
「え?」
意外だった。
「どこが?」
麻衣は少しだけ困ったように笑う。
「説明が難しいけど」
「誰かのためなら無茶するところとか」
「自分のことは後回しなところとか」
「困っている人を見たら放っておけないところとか」
ひとつずつ挙げていく。
のどかは黙って聞いていた。
言われてみれば、思い当たることはいくらでもある。
自分の時。卯月の時。
蓮真は、自分から首を突っ込んでいた。
頼まれたわけでもないのに。
「確かに……でも咲太ほどひねくれてない」
思わず呟く。
「それはそうね」
麻衣は即答した。のどかは吹き出した。
「即答なんだ」
「だって事実だもの」
そこには迷いがなかった。
「蓮真くんって」
麻衣は少し視線を遠くへ向ける。
「咲太みたいに、自分が傷つくことに慣れてるわけじゃなさそうなのよ」
のどかは黙る。
その言葉には少し重みがあった。
「だから」
「頑張れるけど、無理はできない」
「……」
「優しいけど、そんなに強い子じゃない」
静かな声だった。
のどかはカップへ視線を落とす。
分かる気がした。
蓮真は強そうに見えるし、実際、強い部分もある。
でも……
咲太みたいに、全部背負って平気な顔をするタイプではない。
傷つけばちゃんと傷つく。
苦しければちゃんと苦しい。
だからこそ、あの笑顔を見ていると、少しだけ安心するのだ。
「それに」
麻衣が続ける。
「一人っ子なんでしょう?」
「うん」
「お母さんもいないって聞いたわ」
のどかは静かに頷いた。
詳しいことは知らないし、聞いたこともない。
でも。家族の話題になると、蓮真が少しだけ静かになることは知っていた。
「祝われた経験が少ないとは思わないわ」
麻衣は言う。
「広川さんもいるし」
「大学の友だちもいるし」
「咲太たちもいる」
のどかも頷く。それは確かだ。
蓮真はひとりじゃない。
だけど……
「なんかさ」
のどかはぽつりと呟く。
「誰かに祝われるより、誰かを祝う方が慣れてそうなんだよね」
麻衣は小さく微笑んだ。
「そうかもしれないわね」
否定しなかった。
その答えが妙にしっくりきた。
三月二十日。去年も誕生日はあった。
その前も。そのまた前も。
でも……
今年だけは少し違う日にしたい。
そう思った。
祝われることに慣れていないなら、少しくらい驚かせてもいい。
少しくらい困らせてもいい。
ちゃんと嬉しいと思わせたい。
そんなことを考えている自分に気づいて、のどかは少しだけ頬を赤くした。
「どうしたの?」
麻衣が訊ねる。
「なんでもない」
慌てて顔を逸らす。
けれど、心の中ではもう決まっていた。
三月二十日。
動物園でも、浅草でも、どこでもいい。
ただ、蓮真にとって、
少しだけ特別な誕生日にしたい、そう思った。
——同じ時間の、藤沢駅前。
その頃、俺は藤沢駅の南口を出て、家へ向かって歩いていた。
塾のバイト帰りだった。
夜風はまだ少し冷たい。けれど、真冬のそれとは違う。春の手前にある、どこか湿った冷たさだった。
三月二十日まで、あと二日。
のどかとのデートの日。
俺の誕生日。
そう考えると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
嫌なわけじゃない。
むしろ、楽しみだと思っている。
上野動物園。パンダのリベンジ。浅草。時間があればスカイツリー。
予定はちゃんとある。
のどかも楽しみにしていると言っていた。
それなのに……
誕生日、という言葉だけが、どこかうまく自分の中に馴染まなかった。
誰かを祝うことなら、まだ分かる。
のどかの誕生日。卯月のソロライブ。花楓ちゃんの受験。古賀の卒業。
そういうものには、ちゃんと意味がある気がする。
けれど、自分の誕生日となると、急に扱い方が分からなくなる。
ただ日付が変わるだけの日。
ずっと、そう思ってきたからかもしれない。
「……」
駅前の明かりを抜ける。
ポケットの中でスマホが震えた気がして取り出したが、通知はなかった。
気のせいだった。
そう思って画面を消そうとした時、ふと、のどかとのトーク履歴が目に入る。
三月二十日。
動物園。
楽しみにしてる。
その文字を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
けれど、その温かさに触れた瞬間、別の何かが揺れた。
——はすまくん。
声がした気がした。
明るくて、楽しそうな女の子の声。
聞き覚えがあるはずなのに、誰の声なのか分からない。
動物園。
春の日差し。
柵の向こうで動く動物たち。
風に乗って流れてくる、青い匂い。
草でもなく、花でもなく。
少し苦くて、少し甘い、どこか懐かしい匂い。
「……またかよ」
小さく呟く。
最近、この感覚が増えている。
思い出せそうで、思い出せない。
手を伸ばせば届きそうなのに、触れた瞬間に崩れてしまう。
まるで、記録には残っているのに、そこにあった感情だけが抜け落ちているみたいだった。
霧島透子。
その名前も、同じだった。
どうして、あんなにも気になるのか分からない。
曲を聴いた時。名前を見た時。
誰かが彼女について話した時。
胸の奥に、説明できない引っかかりが残る。
俺は霧島透子を知らない。
少なくとも、そう思っている。
なのに……どこかで、知っている気がする。
知っているというより、忘れてはいけないものを忘れている気がする。
「……霧島、透子」
声に出してみる。
夜道に、その名前だけが落ちる。
当然、何も起きない。
けれど、その名前を口にした瞬間、別の顔が脳裏をよぎった。
七里ヶ浜の海。古賀の卒業式の日。
峰ヶ原高校の校門前で古賀たちの写真を撮ったあと、砂浜へ下りた時に見かけた少女。
家族と一緒に、波打ち際で笑っていた女の子。
高校生くらいの年齢で、春の光の中に立っていた。
どこかで見たことがある気がした。
いや、違う……見たことがある、というより。
見てはいけないものを見てしまったような感覚だった。
「……あの子」
名前は知らない。
声をかけたわけでもない。
ただ、すれ違っただけだ。
それなのに、あの瞬間のことだけが、妙に鮮明に残っている。
砂浜。波音。春の光。
両親らしき二人と笑っていた少女。
そして、沖縄という言葉。
「……」
(なんで、今それを思い出すんだ)
霧島透子の名前を口にしただけなのに。
関係があるはずがない。
霧島透子。七里ヶ浜で見た少女。
はすまくん、と呼ぶ誰かの声。
全部、別々の断片のはずだった。
なのに、頭の奥では、その三つが同じ場所に集まり始めている。
理由は分からない。
けれど、胸の奥がざわついていた。
心臓のあたりが、ほんの少しだけ痛むような気がした。
「……なんだよ、これ」
手のひらを胸に当てる。
鼓動は普通だった。
少し早い気もするが、走ったわけでもない。
ただ歩いているだけだ。
なのに、そこだけが妙に熱を持っている。
まるで、自分のものではない記憶が、身体の内側から何かを伝えようとしているみたいだった。
あり得ない。
そう思う。
でも、思春期症候群に関わってきた人間が、あり得ないという言葉で片づけられることなんて、どれほどあるだろう。
俺は立ち止まった。
駅前の雑踏が、少し遠くなる。
あの少女は誰だったのか。
どうして、霧島透子の名前を口にした瞬間に思い出したのか。
そして……どうして俺は、あの少女を見た時、声をかけてはいけないと思ったのか。
「……」
思い出そうとすると、頭の奥が白く霞む。
その奥に、誰かの笑い声がある。
春の動物園。青い匂い。
はすまくん。
そして、七里ヶ浜で見た少女の横顔。
全部が重なりそうになる。
けれど、あと一歩のところで届かない。
触れようとすると、砂に描いた絵みたいに崩れていく。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
(怖いのか……)
分からないことが怖いのではない。
分かってしまった時に、今の幸せが壊れる気がして怖かった。
三月二十日。
のどかとの約束。
それだけを楽しみにしていればいい。
今は、それでいいはずだった。
けれど、世界はいつも、そういう時に限って余計なものを見せてくる。
霧島透子。七里ヶ浜の少女。
はすまくん。
そのどれもが、俺の知らない場所で繋がっている。
そんな予感だけが、胸の奥に残った。
俺はスマホをポケットに戻し、もう一度歩き出した。
家へ向かう道は、いつもと同じだった。
街灯も、コンビニの明かりも、通り過ぎる人の声も、何も変わらない。
それなのに。
夜の藤沢だけが、少しだけ違う世界に見えた。
まるで、選ばなかった可能性の匂いが、春風に混ざり始めているみたいに。
三月二十日
藤沢駅の改札前に着いたのは、約束の九時の十五分前だった。
早すぎる。自分でもそう思う。
けれど、家にいても落ち着かなかった。
今日は俺の誕生日で、のどかとの二度目のデートの日だった。
上野動物園。パンダのリベンジ。浅草。
それから、時間があればスカイツリー。
予定は決まっている。
だから落ち着けばいいだけなのに、どうにも心臓の辺りが少し騒がしかった。
改札前の人の流れを眺めていると、見慣れた金色が視界に入った。
けれど、一瞬だけ、それがのどかだと分からなかった。
いつもの編み込みサイドポニーテールではない。
今日は髪を下ろしていた。
柔らかく流した金髪が、肩のあたりで揺れている。
チェック柄のジャケットに、同じ柄のスカート。
黒のインナー。足元は黒いブーツ。
首元にはヘッドホン。
いつものアイドルらしい明るさとは少し違う。
少し大人っぽくて、でもちゃんとのどからしい。
「……」
言葉が出るまでに、少し時間がかかった。
のどかはそれに気づいたのか、少しだけ得意げに笑った。
「どうしたの?」
「いや」
「見てたでしょ」
「見てた」
正直に答えると、のどかは一瞬だけ目を丸くして、それから頬を赤くした。
「そこは誤魔化してよ」
「誤魔化した方がいいのか?」
「……別に、いいけど」
小さな声だった。
のどかは照れ隠しみたいに髪の先を指で触る。
「今日、髪下ろしてるんだな」
「うん」
「珍しい」
「お姉ちゃんがさ」
そこで少しだけ視線を逸らす。
「たまには髪下ろして行ったら、って」
「麻衣先輩が?」
「うん。『いつもと違う方が、蓮真くんも驚くんじゃない』って」
「……」
完全に見透かされている。
のどかは少しだけ不満そうに続けた。
「お姉ちゃん、そういうところだけ鋭いから」
「いや、全部鋭いだろ」
「それはそう」
即答だった。
ふと、前にも似たことがあったのを思い出す。
「そういえば、横須賀行った時も髪下ろしてたよな」
「あ、覚えてたんだ」
「覚えてるよ」
そう返すと、のどかは少しだけ嬉しそうに笑った。
「そっか」
たったそれだけの返事だった。
でも、その顔を見ると、覚えていてよかったと思った。
「似合ってる」
自然と口から出た。
のどかは一瞬だけ固まる。
それから、耳まで赤くして視線を逸らした。
「……ありがと」
小さな声だった。
駅のざわめきの中で、その一言だけが妙にはっきり聞こえた。
「じゃあ、行くか」
「うん」
俺たちは東海道線のホームへ向かった。
普通車でも上野までは行ける。
けれど、今日はグリーン車に乗ることにしていた。
理由は一応ある。
のどかはアイドルだ。
髪型や服装を変えていても、気づく人間は気づく。
普通車で移動するより、グリーン車で少し距離を取った方がいい。
そう説明すると、のどかは少しだけ笑った。
「蓮真、ちゃんと考えてる」
「スキャンダル対策な」
「それ、言い方」
「でも事実だろ」
「まあ、そうだけど」
のどかは少しだけ肩をすくめる。
「でも、グリーン車ってちょっと特別感あるよね」
「誕生日だからな」
「蓮真のね」
「……そうだった」
「忘れないでよ」
のどかが呆れたように言う。
けれど、その目は少し笑っていた。
ホームに電車が入ってくる。
俺たちはグリーン車の二階席へ上がり、並んで席に座った。
窓の外に街が見える。
電車がゆっくり動き出す。
のどかは窓の外を見ながら、小さく言った。
「蓮真、誕生日おめでとう」
その言葉に、少しだけ呼吸が止まった。
真正面から言われると、やっぱり慣れない。
「……ありがとう」
どうにか返す。
のどかは、そんな俺を見て少しだけ笑った。
「今日はちゃんと祝うから」
「ほどほどで頼む」
「やだ」
即答だった。
「今日は蓮真の誕生日なんだから」
窓の外では、街が流れていく。
その隣で、髪を下ろしたのどかが楽しそうに笑っている。
それだけで、三月二十日はもう、ただ過ぎていくだけの日ではなくなっていた。
上野駅で電車を降りる。
公園口を出ると、春休み前とは思えないほど人が多かった。
観光客らしい家族連れ。外国人のグループ。制服姿の学生。休日らしい賑わいが駅前いっぱいに広がっている。
「蓮真って、上野よく来るの?」
歩きながら、のどかが何気なく聞いてきた。
「昔はよく来てたよ」
そう答えると、のどかが少し意外そうな顔をする。
「動物園?」
「いや、どっちかっていうと国立科学博物館だな」
「あー、やっぱり」
納得したように頷く。
「蓮真、科学館好きだもんね」
「そうか?」
「この前だって、お台場で科学未来館行ってたじゃん」
言われてみれば、その通りだった。
新しい展示が始まると、つい足を運びたくなる。
子どもの頃から変わらない癖みたいなものだ。
「今日は動物園だけどね」
「今日はちゃんと付き合うよ」
そう返すと、のどかが小さく笑った。
公園の中へ入ると、人の流れはさらに増えていく。
動物園の正門前には長い列ができていた。
「すごい人……」
のどかが少し驚いたように呟く。
「今日は無料だからな」
「無料?」
「三月二十日は開園記念日なんだよ」
「へぇ……」
少しだけ感心したように入口を見上げる。
そして何か思いついたように俺を見た。
「じゃあ、蓮真と誕生日一緒なんだ」
その言葉に思わず笑ってしまう。
「そうなるな」
「なんかシンパシー感じる」
「動物園に?」
「蓮真に」
さらっと言われて、一瞬だけ返事に困る。
「……そっか」
照れ隠しみたいにそう返すと、のどかは少しだけ満足そうに笑った。
列は思ったより早く進み、ほどなくして園内へ入る。
入口を抜けると、すぐ目の前に見慣れた建物があった。
白黒のパンダのイラスト。
その横には大きく、『ジャイアントパンダ』と書かれている。
「まずはここ!」
のどかは迷わず歩き出した。
俺もそのあとを追う。
ガラス越しの展示場には、丸くなったパンダが一頭。
こちらに背中を向けたまま、のんびりと竹を食べている。
「こっち向いてー」
のどかが小さく声をかける。
もちろん届くわけがない。
「サービス精神ないな」
「アイドルと比べちゃだめでしょ」
「そうか」
「そうだよ」
二人で苦笑する。
それでも少し待っていると、不意にパンダが顔を上げた。
ゆっくりとこちらを向く。
「あっ!」
のどかが俺の腕を軽く叩いた。
「蓮真!今!」
慌ててスマホを構える。
ちょうどこちらを向いた瞬間を収めることができた。
「撮れた」
画面を見せると、のどかの表情がぱっと明るくなる。
「かわいい!」
子どもみたいな笑顔だった。
その笑顔を見ていると、不思議なくらい胸が温かくなる。
パンダが振り向いたことよりも。
その一瞬を、本気で嬉しそうに笑うのどかを見られたことの方が、ずっと嬉しかった。
来てよかった。
そんな当たり前のことを、改めて思った。
パンダ舎を出ると、俺たちは人の流れに任せるように園路を歩き始めた。
順路に従って進んでいくと、小さな展示が続いている。
色鮮やかなキジが地面を歩き回り、その隣ではカワウソが忙しなく泳ぎ回っていた。
のどかは一つ一つの展示で足を止め、そのたびに「あっ」とか「かわいい」とか声を漏らしている。
その反応を見るだけでも、一緒にきた甲斐がある。
フクロウやタカのエリアを抜ける頃には、周囲の木々が少しずつ深くなっていた。
園路はゆるやかに曲がり、頭上を覆う枝葉のせいか、さっきまでの開けた景色とは雰囲気が変わる。
まるで森の奥へ迷い込んでいくみたいだった。
次はどんな動物が待っているんだろう。
そんな期待を自然に抱かせるような造りになっている。
「あ、バクだ」
のどかに言われて視線を向ける。
水辺では、鼻先の長い一頭のバクがのんびり歩いていた。
茶色とも灰色ともつかない毛並み。
ゆっくり水を飲み、またゆっくり歩き出す。
穏やかというより、どこか眠そうな顔をしている。
「やっぱバクって、咲太に似てる」
「そうか?」
「なんか眠たそうな顔してるじゃん」
「……まぁ、確かに」
少なくとも否定はできなかった。
「本人に言ったら、『僕の方が眠たそうだよな?』とか言って、張り合いそうだけど」
「確かに」
俺たちは笑いながら次の展示へ向かう。
森のような木立を抜けると、今度は一気に視界が開けた。
その先の檻の中を、大きな影が悠然と歩いている。
スマトラトラだった。
金色の毛並みに黒い縞模様。
堂々とした足取りで檻の中を歩く姿は、周囲の空気まで支配しているようだった。
「あ、トラだ」
のどかが少しだけ複雑そうな声を漏らす。
「怖い?」
「ううん。そうじゃなくて」
少し苦笑しながら続ける。
「前に咲太から『トラって豊浜によく似てるな』って言われたことあるから」
「どこが似てるんだよ?」
「色だって」
そう言われて改めて見比べる。
トラの金色の毛並み。
隣で揺れる、のどかの金色の髪。
「……まぁ、確かに」
「同意しないでよ!」
そのタイミングを見計らったみたいに、トラがこちらへ歩いてきた。
檻越しとはいえ、その迫力はさすが百獣の王だ。
のどかは一歩だけ俺の後ろへ隠れるようにして笑う。
「蓮真、食べられないようにね」
「食べられねぇよ」
「分かんないじゃん」
「ガラスあるだろ」
「夢がないなぁ」
「夢で済まないからな」
そんなやり取りをしているうちに、トラは興味を失ったように向きを変え、再び悠々と歩き始めた。
「そうだ、蓮真に見せたい動物いるんだ!」
トラの展示を離れたところで、のどかが急にそんなことを言い出した。
「なんだよそれ」
「いいから、こっちこっち」
返事を待たずに、のどかが俺の手を取る。
不意打ちだった。
指先が触れた、と思った次の瞬間には、もうしっかり握られている。
「のどか、歩くの速いって」
「大丈夫。迷わないから」
「それは道の心配じゃない」
そんな抗議は聞き流され、俺はのどかに手を引かれるまま歩くことになった。
東側のエリアを抜け、園内の案内に従って、西側へ向かう。
途中、道路をまたぐように架かる橋に出た。
いそっぷ橋。
その下には、不忍池が広がっている。
春の光を受けた水面は、少しだけ眩しい。
風が吹くと、のどかの下ろした髪がふわりと揺れた。
その横顔を見ていると、動物園に来たはずなのに、どこを歩いているのか一瞬分からなくなる。
「ほら、こっち」
のどかは迷いなく進んでいく。
西側のエリアに入って、少し歩いたところで、のどかが足を止めた。
「いた」
視線の先にあったのは、大きな鳥の展示だった。
ケージの中に、一羽の鳥が立っている。
灰色の羽。胴体に比べて妙に大きな頭。そして、鋭い目つき。
動かない。
本当に、動かない。
まるで世界のすべてを疑っているみたいな顔で、こちらをじっと見ている。
「ハシビロコウだ」
のどかが満足そうに言う。
「これを見せたかったのか?」
「うん」
「なんで?」
のどかは、ハシビロコウと俺を交互に見た。
それから、少し楽しそうに言う。
「蓮真と似てるから」
「どこがだよ」
即座に返す。
のどかは指を一本立てて、得意げに言った。
「名前の響き」
「はで始まるとこだけだろ!」
思わず声が出た。
のどかはけらけら笑っている。
「でも、なんか似てるじゃん」
「似てない」
「静かそうなところとか」
「それはまだ分かる」
「じっと見てくるところとか」
「見てないだろ」
「蓮真、けっこう人のこと見るじゃん」
何気ない言葉だった。
なのに、少しだけ返事に詰まる。
観察している。
そう言われれば、否定はできない。
俺はハシビロコウへ視線を戻した。
相変わらず動かない。
その太々しい佇まいには、妙な貫禄がある。
俺は内心で思う。
(いや、俺はハシビロコウほど太々しくはない……)
少なくとも、あんな堂々と世界を睨みつける度胸はない。
「蓮真、今ちょっと納得したでしょ」
「してない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ写真撮る?」
「なんで俺とハシビロコウを並べようとしてるんだよ」
「記念」
「何の」
「蓮真の誕生日と、蓮真に似てる動物発見記念」
「勝手に発見するな」
そう言いながらも、のどかが楽しそうなので、それ以上は強く言えなかった。
ハシビロコウは、そんな俺たちのやり取りを知ってか知らずか、微動だにしない。
ただ、じっとこちらを見ている。
その視線が少しだけ、本当に自分に似ている気がして。
俺は、ほんの少しだけ目を逸らした。
次に俺たちを出迎えてくれたのは、アフリカを代表する動物たちだった。
最初に姿を見せたのは、オカピ。
顔はキリンに似ているのに、体つきは栗毛の馬みたいで、後ろ脚にはシマウマのような縞模様がある。
「オカピって、はじめて見るかもな」
「なんか色んな動物をちょっとずつ混ぜたみたい」
のどかの感想は雑だったが、否定はできなかった。
大きさはサラブレッドより少し小さいくらいだろうか。
オカピは俺たちの視線など気にする様子もなく、草を食べたり、水を飲んだりしながら、のんびりと過ごしていた。
穏やかな動物だ。
その隣では、キリンがゆっくり歩いていた。
自然と視線が上がる。
長い首の先にある小さな頭を見上げていると、隣でのどかも同じように首を反らしていた。
「首、長っ」
「見たまんまだな」
「だって長いんだもん」
そう言われると、それ以上返す言葉はない。
こうして見比べると、確かにオカピはキリン顔をしている。
近くの説明板にも、オカピはキリンの仲間だと書かれていた。
「へぇ、ほんとにキリンの仲間なんだ」
のどかが感心したように呟く。
「見た目って意外と正しいんだな」
「じゃあ、蓮真とハシビロコウもやっぱり……」
「その話はもう終わった」
釘を刺すと、のどかは楽しそうに笑った。
さらに奥へ進むと、今度はサイがいた。
太い脚で地面を踏みしめ、ゆっくりと歩いている。
硬そうな皮膚。頭から伸びた立派な角。
シルエットだけ見れば、ほとんど恐竜だった。
けれど、当の本人はそんな迫力を少しも気にしていないように、ただ穏やかに散歩しているだけだった。
「強そうなのに、なんか平和だね」
「動物園のサイだからな」
「野生だったら?」
「多分、近づいたら終わる」
「蓮真、そういう現実的なことすぐ言う」
「命に関わるからな」
そんな会話をしながら、次の展示へ向かう。
水辺にはカバがいた。
ほとんど岩みたいな体が、水面からぬっと出ている。
しばらく見ていると、そのカバが大きく口を開けた。
俺の百倍くらいはありそうな口だった。
「うわ、でかっ」
のどかが素直に声を上げる。
カバはそのまま豪快にあくびをして、また何事もなかったように水の中へ沈んでいった。
「動物園って、眠そうな生き物多いな」
「蓮真も眠そうな顔してる時あるよ」
「また俺かよ」
「今日の主役だから」
そう言われると、妙に反論しづらかった。
俺たちはそうした動物たちを、三十分くらいかけてゆっくり眺めて回った。
急ぐ理由はない。
どの動物も、こちらの都合とは関係なく、食べたり、歩いたり、眠そうにしたりしている。
その時間の流れ方が、少しだけ心地よかった。
「次、レッサーパンダいるから行こ!」
のどかが案内板を見つけて、また俺の手を取る。
今日二度目の不意打ちだった。
「また手を引くのかよ」
「迷子になると困るでしょ」
「俺が?」
「うん」
「子ども扱いするなよ」
「誕生日だから、今日だけ特別」
何が特別なのかよく分からない。
けれど、のどかが楽しそうなので、結局そのまま引かれることにした。
案内板を見る限り、この先にレッサーパンダが待っているらしい。
のどかの手は、思っていたより温かかった。
しばらく歩いていくと、緑の木々が生い茂る空間が見えてきた。
ぱっと見ただけでは、どこにレッサーパンダがいるのか分からない。
枝と葉の間に視線を走らせる。
二人で目を凝らしていると、隣でのどかが小さく声を上げた。
「あ、いた」
のどかが木の上を指差す。
その先に、茶色い毛並みの小さな動物がいた。
ふさふさした縞々の尻尾。丸い顔。愛くるしい目。
レッサーパンダは枝の上に座り込んで、器用に笹を口へ運んでいた。
「レッサーパンダも笹食べるんだな」
少し意外だった。
パンダと名前がつくくらいだから当然なのかもしれないが、実際に見ると妙に新鮮だった。
「ほんとだ。かわいい」
のどかはすぐにスマホを構える。
俺も周囲を見回して、もう一匹いることに気づいた。
「もう一匹、木の陰にいるな」
「あ、ほんとだ」
俺の指摘に、のどかがそちらへスマホを向ける。
もう一匹のレッサーパンダは、木陰の近くでオレンジ色の野菜スティックを両前足で器用に掴み、少しずつ口へ運んでいた。
「ニンジンも食べるんだな」
「ニンジン、すっごい食べてる」
のどかの視線は、笹を食べる一匹と、ニンジンを食べるもう一匹の間を忙しそうに行ったり来たりしていた。
けれど、その目は忙しさ以上に楽しそうだった。
「レッサーパンダは、やっぱり小さいなぁ」
「まぁ、レッサーだからな」
それは、何も考えずに出た言葉だった。
本当に、ただの感想だった。
けれど、口にした直後、胸の奥がわずかにざわついた。
レッサー。
小さい方。
そんな何気ない言葉に、記憶の底が反応した気がした。
春の日差し。木の匂い。
動物園の坂道。
そして、隣を歩く誰かの声。
——はすまくん、こっち。
幼い女の子の声だった。
明るくて、少し得意げで、こちらの返事を待たずに先へ行ってしまう声。
俺は瞬きをする。
目の前には、木の上で笹を食べるレッサーパンダ。
隣には、スマホを構えたのどか。
ここは上野動物園だ。
それなのに、一瞬だけ別の場所の景色が重なった。
もっと坂が多くて。もっと空が広くて。
遠くに、街と海が見えるような場所。
「……日本平」
気づいた時には、小さく呟いていた。
「え?」
のどかがこちらを見る。
「今、なんか言った?」
「いや」
慌てて首を振る。
「気のせいだ」
自分に言い聞かせるようにそう言った。
気のせい。
そういうことにしておきたかった。
けれど、胸の奥のざわつきは消えない。
笹を食べるレッサーパンダ。
その小さな口元を見ていると、遠い昔、同じように隣で誰かが笑っていた気がする。
——かわいいね、はすまくん。
名前を呼ばれた感覚だけが残っている。
でも顔は見えない。
声も、輪郭がぼやけている。
ただ、その子が俺のことを「はすまくん」と呼んでいたことだけは、妙に確かだった。
「蓮真?」
のどかの声で、現実に戻る。
「大丈夫?」
「……ああ。大丈夫」
俺は笑ってみせる。
うまく笑えていたかは分からない。
のどかは少しだけ不思議そうに俺を見たが、深くは聞いてこなかった。
その代わり、スマホの画面をこちらへ向ける。
「見て。撮れた」
画面の中では、レッサーパンダが笹を持ったまま、ちょうどこちらを見ていた。
丸い顔。小さな体。縞々の尻尾。
たしかに、かわいい。
「いい写真だな」
そう言うと、のどかは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、胸のざわつきが少しだけ薄れる。
今ここにいるのは、のどかだ。
俺の隣で、俺の誕生日を楽しませようとしてくれている子だ。
それだけは、間違いない。
だから俺は、記憶の奥で揺れる誰かの声を、いったん胸の奥へ押し込めた。
気のせい。そう思うことにした。
「ねえ、あっちにお土産いっぱい売ってるみたいだよ?見に行こ、蓮真」
のどかがギフトショップを指差した。
「せっかくだし、なんか買って帰るか?」
俺がそう聞くと、のどかは迷わず頷いた。
「うん、買って帰ろ」
そう言って、なぜか俺の背中を押してくる。
「レッツゴー、蓮真」
「急に押すなって」
背中を押されるまま、俺はギフトショップの方へ舵を取られる。
中へ入ると、そこはほとんどパンダの国だった。
ぬいぐるみ。カレンダー。メモ帳。シャーペン。キーホルダー。タオル。
右を見てもパンダ。左を見てもパンダ。
パンダ、パンダ、パンダだ。
もちろん、白黒のジャイアントパンダの方。
圧倒的な人気だった。
さっき見たレッサーパンダのグッズも少しだけ置かれていたが、売り場の主役は完全にジャイアントパンダだった。
その一方で、意外と存在感を放っていたのがハシビロコウだった。
棚の端の方に、妙に目つきの悪い鳥のグッズが並んでいる。
クリアファイル、マグカップ、メモ帳、そしてノートに挟める小さなクリップ。
密かな人気を博しているらしい。
「こんなにあると、どれにするか迷うな」
俺が棚を眺めながら言うと、のどかは当然みたいな顔で言った。
「蓮真はハシビロコウでしょ」
「なんでそうなる」
「だって蓮真だし」
「理由になってない」
そう返しながらも、結局俺の手はハシビロコウのクリップへ伸びていた。
ノートの端に挟めるタイプの小さな文具だ。
大学の講義で使うノートにでも付けておけば、意外と便利かもしれない。
少なくとも、ぬいぐるみよりは実用的だ。
「それ買うの?」
「まあ、ノートに使えそうだし」
「やっぱりハシビロコウじゃん」
「お前が言ったからだろ」
「蓮真が選んだんだよ」
そう言われると、反論が少し難しい。
俺はクリップを手に持ったまま、のどかの方を見る。
「のどかは買わないのか?」
「あたしは前に買ったから」
「何買ったんだ?」
「ライオンのマグカップ」
「ライオンと似てるの、嫌じゃなかったのかよ?」
「でも、かわいかったし」
その答えを聞いて、ふと記憶が繋がった。
バレンタインの時に麻衣先輩の家にお邪魔した時。
テーブルに出されていたマグカップ。
あれが、たぶんそのライオンのマグカップだった。
「ああ……あの時使ってたやつか」
俺がそう呟くと、のどかがこちらを見た。
少しだけ、得意げな顔。
「やっぱり蓮真、見てるじゃん」
「……」
否定できなかった。
確かに見ている。意識していないつもりでも、覚えている。
そういうところを、のどかは逃がしてくれない。
「じゃあ、これも」
のどかが棚から何かを取ってくる。
差し出されたのは、ハシビロコウのマグカップだった。
灰色の大きな鳥が、例の険しい目つきでこちらを睨んでいる。
「おいおい、いつ使うんだよ……」
「使えばいいじゃん」
「大学に持ってくわけにもいかないだろ」
「家で使えばいいでしょ」
のどかはマグカップを俺の手に押しつけるように渡してくる。
そして、少しだけ照れたように笑った。
「だって、これでお揃いでしょ?」
その一言で、返す言葉が少し遅れた。
ライオンとのお揃い。
正確には動物は違う。
でも、同じ動物園のマグカップで、同じ棚に並んでいたもの。
そういう意味では、たしかにお揃いだった。
「……そっか」
俺は小さく頷いた。のどかは満足そうに笑う。
「前に来た時はね、花楓ちゃんがパンダのマグカップ買ってた」
「花楓ちゃんっぽいな」
「お姉ちゃんはウサギ」
「麻衣先輩も、それっぽい」
「咲太は狸」
「それもそれっぽいな」
思わず納得してしまった。
咲太が狸のマグカップを使っている光景は、なんとなく想像できる。
「じゃあ、卯月は何かな」
のどかが棚を見回しながら言う。
「卯月か」
少し考える。
明るくて、よく動いて、でもたまにこちらの予想を超えてくる。
「アザラシかな?」
のどかが先に言った。
「……そうかもな」
丸くて、愛嬌があって、人懐っこい感じがする。
卯月に似ていると言われれば、確かに分かる。
「じゃあ、卯月にもお土産で買ってこ!」
のどかはそう言って、アザラシのマグカップを手に取った。
「そうだな」
俺も頷く。
三人で遊びに行った時のことを思い出す。
のどかと卯月。
今も、どちらかだけではなく、二人とも今の俺の近くにいる。
そのことを、こういう何気ない買い物の中で実感する。
俺は財布を出そうとした。
ハシビロコウのクリップ。
ハシビロコウのマグカップ。
それから、卯月へのアザラシのマグカップ。
全部まとめて自分で払うつもりだった。
けれど、のどかが俺の手元を見て、すぐに首を横へ振った。
「蓮真の誕生日だし、あたし出すから」
「いいのか?」
「うん!」
即答だった。迷いがない。
そのまっすぐさに、また少しだけ戸惑う。
祝われることに慣れていない。
もし、麻衣先輩や咲太にそう言われたら、たぶん否定できない。
でも、のどかはそんな俺の戸惑いごと、今日を特別にしようとしてくれている。
「……じゃあ、お願いする」
俺がそう言うと、のどかは嬉しそうに笑った。
「任せて」
その笑顔を見ていると、胸の奥が少し温かくなる。
ギフトショップの中は相変わらずパンダだらけで、人も多くて、少し騒がしい。
それでも、ハシビロコウのマグカップを手に持ったまま、俺は思った。
今日のことは、たぶん忘れない。
誕生日に、動物園で、のどかに背中を押されて買った、妙に目つきの悪い鳥のマグカップ。
そんなくだらないものが、案外ずっと残るのかもしれない。
ギフトショップを出たあと、俺たちは園内の売店に立ち寄った。
軽食やドリンクを売っている、ファストフード風の店だった。
昼にはまだ少し早い時間だったので、ちゃんと食事をするほどではない。
のどかが「これかわいい」と言って選んだのは、パンダを模した小さな団子だった。
白と黒の丸い見た目は、さっきまで見ていたパンダそのものだった。
「食べるの、ちょっとかわいそう」
「じゃあ食べないのか?」
「食べる」
即答だった。
紙皿に乗ったパンダ団子を二人で分ける。
甘さは控えめで、思っていたよりちゃんとしていた。
「かわいいし、おいしい」
「パンダは何になっても強いな」
「人気者だからね」
のどかはそう言って笑った。
そのあとも少しだけ園内を歩き、気づけば時刻は十三時近くになっていた。
そろそろ昼を食べる時間だ。
「お昼、予約してあるんだ」
動物園を出たところで、のどかがそう言った。
「予約?」
「うん。お姉ちゃんにおすすめされたお店」
「麻衣先輩に?」
「前にドラマの収録で行ったことがあるんだって。落ち着いてて、料理もおいしいって」
のどかは少しだけ得意げだった。
上野から湯島方面へ歩く。
動物園のざわめきから少し離れると、街の空気が変わる。
観光地の賑やかさが薄れて、ビルの影と落ち着いた通りが増えていく。
目的の店は、湯島寄りのビルの七階と八階に入っていた。
エレベーターで上がり、扉が開くと、そこにはさっきまでの動物園とはまったく違う空気が広がっていた。
開放感のある、すっきりとしたモダンな内装。
余計な装飾は少ないのに、冷たさはない。
明るい窓際の席。落ち着いた照明。きれいに並べられたテーブル。
少し背筋を伸ばしたくなるような店だった。
「……急に大人っぽいな」
思わず呟くと、のどかが少し照れたように笑った。
「でしょ?」
案内された席に座る。
窓からは街が見えた。
動物園で歩き回ったあとだからか、椅子に腰を下ろした瞬間、体が少しだけ休まる。
メニューを開くと、昔ながらの洋食が並んでいた。
ハンバーグ、オムライス、ビーフシチュー、カニクリームコロッケ。
名前だけ見れば馴染みのある料理ばかりなのに、どれも丁寧に作られているのが伝わってくる。
多くのメニューにハーフサイズがあるのも、少し面白かった。
「色々頼んで分けられそうだな」
「そうそう。お姉ちゃんも、そこがいいって言ってた」
のどかはメニューを見ながら真剣に悩んでいる。
さっき服を選んでいた時も、こんな顔をしていたのかもしれない。
「蓮真は?」
「俺はハンバーグかな」
「やっぱり」
「やっぱりってなんだよ」
「なんか蓮真、ハンバーグ好きそう」
「まあ、好きだけど」
否定できない。
俺は丁寧に作られたデミグラスソースのハンバーグを選ぶことにした。
のどかは少し迷った末に、綺麗なフォルムのオムライスを頼んだ。
料理が運ばれてくるまでの間、二人で水を飲みながら少し黙る。
動物園ではずっと歩いて、見て、話していた。
だからこうして静かに座っている時間が、逆に新鮮だった。
「今日、楽しい?」
のどかが少しだけ不安そうに聞いてきた。
「楽しいよ」
すぐに答えた。
それは本当だった。
「動物園も、店も、ちゃんと考えてくれてるの分かるし」
言ってから、少し照れくさくなる。
のどかは一瞬だけ目を丸くして、それから視線を落とした。
「……そっか」
小さな声だった。
けれど、嬉しそうだった。
しばらくして料理が運ばれてくる。
俺の前には、艶のあるデミグラスソースがかかったハンバーグ。
ナイフを入れると、柔らかく沈む。
口に運ぶと、ソースの濃さと肉の旨味がちょうどよかった。
のどかの前には、形のきれいなオムライス。
卵の表面はなめらかで、スプーンを入れるのが少しもったいないくらいだった。
「綺麗……」
のどかが素直に呟く。
「食べるの、ちょっとかわいそうか?」
「これは食べる」
「パンダ団子と同じじゃないか」
そう言うと、のどかは笑った。
俺たちはハンバーグとオムライスを少しずつ分け合いながら食べた。
大人っぽい店なのに、やっていることは思ったより普通だった。
でも、その普通が妙に楽しい。
動物園で手を引かれて、ハシビロコウのマグカップを買わされて、今は洋食店でオムライスを分けてもらっている。
誕生日らしいかと聞かれれば、よく分からない。
けれど、少なくとも、ただ日付が変わるだけの日では、もうなかった。
食事を終えた俺たちは、上野から銀座線に乗って浅草へ向かった。
昼過ぎの銀座線はそれなりに混んでいた。動物園帰りの家族連れ、観光客、スーツ姿の人。いろんな人が同じ車内に詰め込まれている。
浅草駅で降りると、空気が一気に観光地のそれに変わった。
地上へ出た瞬間、聞こえてくる言葉の種類が増える。日本語だけじゃない。英語、中国語、韓国語。いろんな国の言葉が、雷門へ向かう人の流れの中で混ざり合っていた。
「すごい人だな」
「浅草だもんね」
のどかは少し楽しそうに言う。
雷門へ近づくにつれて、人の密度はさらに増していった。
大きな提灯の前では、写真を撮る人たちが列のようになっている。誰かがスマホを掲げ、誰かがポーズを取り、その横を別の観光客がすり抜けていく。
「逸れそうだな」
俺がそう呟くと、のどかがこちらを見る。
「じゃあ、仕方ないね」
そう言って、自然な動作で俺の手を取った。
「……仕方ないのか」
「迷子になったら困るし」
「俺が?」
「うん」
けれど、今度は反論しなかった。
人混みの中で、のどかの手の温度だけが妙にはっきりしていた。
仲見世通りは、想像以上に賑わっていた。
人形焼、せんべい、雷おこし、扇子、和柄の小物。
左右に並ぶ店から、甘い匂いや香ばしい匂いが流れてくる。
のどかはあちこちに視線を向けながらも、手は離さなかった。
そのことに気づくたび、少しだけ落ち着かなくなる。
途中、浅草寺の境内へ向かう途中で、外国人観光客らしい男性に声をかけられた。
地図アプリを開いたスマホをこちらに見せながら、少し困った顔をしている。
「Excuse me. How can I get to Shibuya?」
俺が一瞬言葉に詰まるより早く、のどかが前に出た。
「Shibuya? You can take the Ginza Line from Asakusa, and transfer at Ginza or Akasaka-mitsuke to the Ginza Line bound for Shibuya. Actually, if you stay on the Ginza Line, it goes directly to Shibuya. It takes about thirty-five minutes.」
発音が思ったより自然だった。
のどかは相手のスマホ画面を見ながら、路線名と乗り場の方向を指で示している。
男性は安心したように何度も頷いた。
「Thank you so much!」
「You’re welcome. Have a nice trip.」
男性が人混みの中へ戻っていく。
俺は少し感心して、のどかを見た。
「さすが、国際教養学部」
「でしょ?」
のどかは少し得意げに笑う。
「でも、今のは簡単な案内だし」
「いや、普通にすごいだろ」
「蓮真にそう言われると、ちょっと嬉しい」
そう言って、のどかはまた俺の手を軽く引いた。
「ほら、参拝しよ」
浅草寺の本堂へ向かう。
煙を浴びる人たちの間を抜けて、賽銭箱の前に並ぶ。
小銭を入れ、手を合わせる。
何を願うか、一瞬迷った。
誕生日。
のどか。
思い出せない声。
色んなものが頭をよぎる。
結局、俺はひとつだけ願った。
今日が、ちゃんと終わりますように。
目を開けると、隣でのどかも手を合わせていた。
その横顔は、さっきまでより少しだけ真剣だった。
何を願ったのかは聞かなかった。
聞かない方がいい気がした。
参拝を終えると、のどかがこちらを見て笑う。
「蓮真、何お願いした?」
「秘密」
「えー」
「願い事って、言ったら叶わないんだろ」
「そういうところだけ信じるんだ」
「都合よくな」
そう返すと、のどかは呆れたように笑った。
浅草の空は、春らしく少しだけ白く霞んでいた。
人混みのざわめきの中で、俺たちはまだ手を繋いだままだった。
参拝を終えて、仲見世通りへ戻る。
人の流れは相変わらず多い。さっきより増えている気さえした。
のどかは繋いだ手をそのままに、少し得意げな顔で俺を見る。
「さっきの話だけどさ」
「英語の話?」
「うん。蓮真も英語はできるでしょ?」
「できないわけじゃないけど、さっきほど自然な発音じゃできない」
「あ、そうなんだ」
「読むとか書くとかならまだしも、咄嗟にああいう案内をするのは慣れがいるだろ」
そう言うと、のどかは少しだけ照れたように笑った。
「でも、お姉ちゃんはもっと上手いから」
「まぁ確かに、麻衣先輩も上手いよな」
麻衣先輩とは、後期の英会話の授業で一緒だった。
授業中の受け答えも、発音も、妙に自然だったのを覚えている。
本人は特別なことをしているつもりもなさそうだったが、ああいうところで地力の差が出る。
その時、ふと別の顔が頭に浮かんだ。
(そういえば、美東さんも発音が上手かったな……)
英語の音を、日本語に寄せすぎずに出すのがうまい。あれも単なる勉強量だけでは説明しづらいものがあった。
「歌が上手い人って、英会話もうまいのかもな」
「え?」
のどかが目を瞬かせる。
「のどかも麻衣先輩も上手いし、発音きれいだし」
「あー、あるかも」
のどかは少し考えるように頷いた。
「音を聞いて真似するの、得意な人は得意だもんね」
「言語って、結局音でもあるしな」
「蓮真もそっち側じゃん」
「……まあ、音程を取るのは苦手じゃないけど」
「ほら」
のどかはなぜか勝ち誇ったような顔をした。
「蓮真、歌うまいもん」
「それを本人の前で言うな」
「いいじゃん。ほんとのことだし」
さらっと言われると、反応に困る。
俺は視線を少しだけ逸らした。
「人前で歌うのが好きなわけじゃない」
「でも上手い」
「そこは別だろ」
「別じゃないよ」
のどかは楽しそうに笑う。
「卯月も発音上手だよ」
「卯月が?」
「うん。卯月、後期でスペイン語取ってたって言ってたじゃん」
「ああ、言ってたな」
「歌うのすごい上手いし、スペイン語の発音も上手だった」
「卯月らしいな」
耳がいいのだろう。
音を掴むのが早い。そういう意味では、歌も語学も近いところがあるのかもしれない。
「じゃあ、のどか、麻衣先輩、卯月は確定か」
「そこに蓮真も入るでしょ」
「俺は除外でいい」
「なんでよ」
「自分で自分をその並びに入れるの、嫌だろ」
「蓮真ってそういうとこあるよね」
「どういうとこだよ」
「できるのに、できるって言わないところ」
何気ない一言だった。
けれど、少しだけ胸に引っかかった。
否定しようとして、言葉が出ない。
のどかはそれ以上追及せず、繋いだ手を軽く引いた。
「でも、あたしは知ってるから」
「何を」
「蓮真が歌うまいこと」
「……それ、そんなに大事か?」
「大事」
即答だった。
「だって、蓮真の声、落ち着くし」
不意にそんなことを言われて、返事に困った。
浅草の人混みの中で、繋いだ手の温度だけが妙に強くなる。
「……それは、どうも」
「照れてる?」
「照れてない」
「嘘」
のどかは楽しそうに笑う。
俺は反論する代わりに、少しだけ手を握り直した。
逸れないように。ただ、それだけの理由で。
浅草寺を出たあと、俺たちは押上方面へ向かった。
「次、どこ行くの?」
のどかが隣で訊ねてくる。
「まあ、近いところ」
「なにそれ」
「着けば分かる」
そう答えると、のどかは少しだけ不満そうに俺を見る。
「蓮真、たまにそういう含ませ方するよね」
「そうか?」
「する」
断言された。
浅草から少し移動し、地上へ出る。
人の流れの先に、空へ向かって伸びる巨大な塔が見えた。
東京スカイツリー。
春の白っぽい空を突き刺すみたいに、まっすぐ立っている。
のどかが目を丸くした。
「え、スカイツリー行くの?」
「時間あればって言っただろ」
「言ってたけど、ほんとに行くと思ってなかった」
「一応、チケット買ってある」
「えっ、いつの間に?」
「混むだろ。今日、祝日だし」
そう言うと、のどかは少し呆れたように笑った。
「蓮真、そういうところはちゃんとしてるよね」
「そういうところは、ってなんだよ」
「褒めてる」
「雑だな」
それでも、のどかは嬉しそうだった。
ソラマチの中は、予想通り人で溢れていた。
家族連れ、カップル、外国人観光客。上野や浅草とはまた違う賑わいがある。
受付へ向かい、事前に買っておいたチケットを見せる。
エレベーターへ案内されるまでの間、のどかは落ち着かなそうに周囲を見回していた。
「スカイツリー、久しぶりかも」
「仕事では来たりしないのか?」
「街ぶらロケで近くまではあるけど、上るのはあんまりないかな」
「そういうもんか」
「蓮真は?」
「俺も上るのは久しぶり」
そう言ったところで、エレベーターの扉が開いた。
中へ入ると、扉が閉まり、足元からふわりと浮くような感覚がする。
のどかが少しだけ俺の袖を掴んだ。
「高いところ、苦手?」
「苦手じゃないけど、急に上がる感じはちょっとする」
「分かる」
短い会話の間にも、表示される数字はどんどん上がっていく。
そして、扉が開いた。
展望デッキへ出た瞬間、視界が一気に広がった。
東京が、下にあった。
ビルも道路も川も、さっき歩いていた浅草の人混みも、全部が小さく見える。
隅田川が光を反射しながら曲がり、その向こうにビル群が続いている。
「すご……」
のどかが小さく呟いた。
言葉が少ない分、本当に驚いているのが分かった。
俺たちは窓際へ歩く。
のどかはガラスに近づきすぎない程度の距離で、じっと景色を眺めていた。
「さっきまで、あの辺にいたんだよね」
「たぶん浅草はあっちだな」
「上から見ると、全部近く見える」
「歩くと遠いけどな」
「現実的」
のどかが笑う。
その横顔を見て、俺も少し笑った。
朝は藤沢にいて、上野でパンダを見て、浅草で手を合わせて、今は東京の上にいる。
誕生日の一日としては、かなり忙しい。
でも、不思議と疲れてはいなかった。
むしろ、この一日が少しずつ積み重なっていく感じがした。
展望デッキを一周するように歩いていると、人だかりができている場所があった。
床の一部が透明になっている。
ガラス床だった。
「うわ、あれ怖いやつだ」
のどかが足を止める。
「怖いのか?」
「怖くないけど、怖いやつ」
「どっちだよ」
近づくと、真下の景色がそのまま見えた。
小さくなった地上。道路。動いている車。人の姿までは分からないが、そこに確かに地面がある。
ガラス一枚を挟んで、その上に立つ。
理屈では安全だと分かっている。
分かっているが、足の裏が少しだけ変な感覚になる。
「蓮真、先に乗って」
「なんで俺が」
「誕生日だから」
「その理屈、便利に使いすぎだろ」
そう言いながらも、俺は一歩踏み出した。
ガラス床の上に立つ。
下を見た瞬間、体が少しだけ浮くような感覚になった。
「……これは、なかなかだな」
「え、やっぱ怖い?」
「怖いっていうか、脳が拒否する」
「分かる」
のどかはそう言いながら、恐る恐る俺の隣に足を乗せた。
すぐに俺の腕を掴む。
「ちょ、待って、思ったより下見える」
「そりゃガラスだからな」
「そういう冷静なこと言わないで」
「じゃあ、見ない方がいい」
「でも見たい」
のどかは俺の腕を掴んだまま、ゆっくり下を覗き込んだ。
その表情は怖がっているのに、少し楽しそうでもあった。
「すごい……」
「落ちないからな」
「分かってるよ」
「なら離してもいいんじゃないか?」
「無理」
即答だった。
その短さに、思わず笑ってしまう。
「笑わないでよ」
「いや、悪い」
俺たちはしばらくガラス床の上に立っていた。
足元にはソラマチ。
隣には、俺の腕を掴んだまま下を見ているのどか。
その光景は、普通に考えれば少しおかしい。
でも今日の中では、妙に自然だった。
ガラス床を離れたあと、のどかはほっとしたように息を吐いた。
「寿命縮んだかも」
「そんなにか」
「でも楽しかった」
「ならよかった」
「蓮真は?」
「まあ、面白かった」
「素直じゃない」
「面白かったって言っただろ」
「もっと楽しそうに言って」
「注文が多いな」
そう言うと、のどかは満足そうに笑った。
そのあと、俺たちは天望回廊へ向かうことにした。
「上、まだあるんだよね?」
のどかが案内表示を見上げる。
「あるな」
「行ける?」
「チケット、そっちも買ってある」
「え、ほんとに?」
「せっかくだし」
そう答えると、のどかは少しだけ黙った。
それから、嬉しそうに笑った。
「蓮真、今日かなり本気じゃん」
「誕生日だからな」
「蓮真のね」
「……そうだった」
「また忘れてる」
のどかに呆れられながら、俺たちは天望回廊行きのエレベーターへ乗った。
さっきよりさらに上へ向かう。
耳の奥が少し詰まるような感覚がして、思わず唾を飲み込む。
扉が開くと、そこにはゆるやかに続くガラス張りの回廊があった。
天望デッキよりも、さらに高い。
視界が、さっきより遠くまで抜けている。
地上の細かい輪郭は薄れ、街全体が一枚の地図みたいに広がっていた。
「うわ……」
のどかの声が、さっきより小さくなる。
高すぎると、逆に言葉が減るのかもしれない。
俺たちはゆっくりと回廊を歩いた。
足元はゆるやかな坂になっていて、歩くたびに少しずつ高さが変わっていく。
窓の外には、東京がどこまでも続いていた。
ビルの群れ。
川の線。
道路の網目。
遠くの空は霞んでいて、街の果てがどこなのか分からない。
「東京って、こんなに広いんだね」
のどかが呟く。
「住んでると、あんまり分からないよな」
「うん。お母さんの実家いた時も、電車で移動してると、駅と駅でしか見なかったし」
「上から見ると、全部繋がってる」
「なんか、変な感じ」
その言葉には、少しだけ実感がこもっていた。
俺も同じだった。
上野も浅草も、藤沢も、七里ヶ浜も、日本平も。
普段は別々の場所として頭の中にある。
けれど、こうして高いところにいると、全部がどこかで繋がっているように思えてくる。
場所も。
記憶も。
人も。
「蓮真?」
また、のどかの声がした。
俺は少しだけ遅れて返事をする。
「悪い。ちょっとぼーっとしてた」
「疲れた?」
「いや、大丈夫」
のどかは俺をじっと見る。
でも、やっぱり深くは聞いてこない。
その代わり、窓の外を指差した。
「ねえ、あっち海見える?」
「たぶん、東京湾だな」
「江ノ島は?」
「さすがに見えないだろ」
「そっか」
少し残念そうに言う。
「でも、藤沢もどこかにはあるんだよね」
「まあ、方角としてはあっちかな」
俺が曖昧に指差すと、のどかも同じ方向を見る。
「今日、朝はあっちから来たんだね」
「そうだな」
「で、今ここにいる」
「そうだな」
「変なの」
「変か?」
「うん。でも、いい変」
のどかはそう言って笑った。
その笑顔が、ガラス越しの光に少しだけ溶ける。
回廊の一番高いところまで来ると、周囲の人たちも足を止めて写真を撮っていた。
のどかもスマホを取り出す。
「写真撮ろ」
「景色?」
「蓮真も」
「俺もかよ」
「誕生日でしょ」
またそれだった。
けれど、今日はもう反論する気もあまり起きなかった。
のどかがスマホを構え、俺は少しだけ身を寄せる。
背後には東京の街。
画面の中に、俺とのどかが並んで映る。
シャッター音が鳴った。
「撮れた」
のどかが画面を確認する。
「どう?」
「いい感じ」
そう言って見せてくれた写真には、少しぎこちない俺と、楽しそうなのどかが写っていた。
たぶん、今日の俺はずっとこんな顔をしている。
戸惑って、照れて、でも楽しくて。
それを隠しきれていない顔。
「送るね」
「ありがとう」
のどかがスマホを操作する。
少しして、ポケットの中で俺のスマホが震えた。
画面を見ると、写真が届いていた。
スカイツリーの天望回廊で撮った、二人の写真。
その画像を見ていると、胸の奥がまた少し温かくなる。
同時に、少しだけ怖くもなる。
写真は残る。
今日も残る。
でも、今日そのものは終わっていく。
そんな当たり前のことが、なぜかうまく飲み込めなかった。
終わってほしくない。
言葉にしないまま、胸の奥でそれが膨らむ。
その瞬間、窓の外の景色が、ほんのわずかに揺れた気がした。
いや、違う。
揺れたのは景色じゃない。
俺の中の何かだった。
「蓮真」
のどかが俺の名前を呼ぶ。
「うん?」
「今日は来てよかったね」
何気ない一言だった。
でも、それが妙に深く刺さった。
「……そうだな」
俺は窓の外を見ながら答える。
「来てよかった」
その言葉は、自分で思っていたよりも本音だった。
天望回廊のガラスに、俺とのどかの姿が薄く映っている。
その向こうには、夕方へ向かう東京の街。
三月二十日。
俺の誕生日。
ただ過ぎていくだけだったはずの日。
それが、少しずつ形を持ち始めている。
だからこそ、怖いのかもしれない。
こんな日が終わることを。
こんな時間が、明日には思い出になってしまうことを。
俺は窓に映る自分の顔を見た。
隣には、髪を下ろしたのどかの姿が映っている。
その二人分の影が、夕方へ向かう東京の空に重なっていた。
スカイツリーを出る頃には、空はすっかり夕方の色を失い始めていた。
ソラマチの明かりが足元に広がり、見上げれば、さっきまで俺たちがいた塔が夜の空へ溶け込むように立っている。
「すごかったね」
のどかが隣で言った。
「高かったな」
「感想、小学生?」
「じゃあ、東京が広かった」
「それも小学生」
のどかは笑った。
押上から半蔵門線に乗り、大手町へ向かう。
俺はそこで三田線に乗り換えて、目黒の実家へ帰るつもりだった。
のどかはそのまま藤沢へ戻る。
今日一日、ずっと一緒にいたのに、別れるとなると急に時間が短く感じる。
大手町で電車を降りる。
人の流れに乗りながら歩いていると、のどかがふと足を止めた。
「ねえ」
「ん?」
「せっかくだから、東京駅も行こ」
「東京駅?」
「うん。丸の内駅舎、夜に見ると綺麗だし」
少しだけ考える。
三田線への乗り換え口は近い。
でも、ここで別れる理由も、今すぐ急ぐ理由もなかった。
「いいよ」
そう答えると、のどかは嬉しそうに笑った。
地下通路を抜け、丸の内側へ出る。
夜の東京駅は、昼間とは別の顔をしていた。
赤レンガの駅舎がライトアップされ、暗い空の下で静かに浮かび上がっている。
周囲の高層ビルの明かりと、駅舎の温かい光。
広場を歩く人たちの足音。
さっきまでいた浅草やスカイツリーとは違う、少し大人びた夜だった。
「綺麗……」
のどかが小さく呟く。
「だな」
俺たちは駅舎を正面に見ながら、少しだけ立ち止まった。
今日一日を締めくくるには、妙にぴったりな場所だった。
その時、のどかがバッグの中を探り始めた。
「蓮真」
「ん?」
「はい」
差し出されたのは、小さな包みだった。
落ち着いた色の包装紙に、細いリボンがかけられている。
「誕生日プレゼント」
そう言われて、一瞬、言葉が出なかった。
「……今日、もう十分もらった気がするけど」
「それはそれ。これはこれ」
のどかは少し照れたように笑う。
「開けていい?」
「うん」
リボンを解き、包装紙を丁寧に外す。
中に入っていたのは、薄型のフラグメントケースだった。
カードが数枚入って、小銭も少しだけ入れられるタイプ。
無駄のない形で、色も落ち着いている。
「……これ」
「蓮真、財布ちょっと大きいなって思って」
「見てたのか」
「見てるよ」
のどかは少しだけ得意げに言った。
「大学とかバイトとか、ちょっと出かける時に使えるかなって」
手の中のケースを見る。
確かに、俺が普段使いしそうなものだった。
派手すぎず、でもちゃんと選ばれている。
「ありがとう」
言葉にすると、胸の奥が少し詰まった。
「すごく嬉しい」
のどかは一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し頬を赤くして笑う。
「よかった」
夜の丸の内駅舎を背に、のどかがそう言った。
その声が、春の夜風に混ざる。
今日が終わっていく。そのことが、また少しだけ怖かった。
でも、手の中にはフラグメントケースがある。
形として残るもの。
今日を思い出せるもの。
俺はそれを、そっと握りしめた。
「のどか」
「なに?」
「今日、ありがとう」
「うん」
のどかは笑った。
「誕生日、おめでとう。蓮真」
その言葉は、朝に聞いた時よりも、ずっと自然に胸の中へ落ちてきた。
東京駅のホームで、のどかを見送った。
東海道線の車内に乗り込んだのどかは、窓越しにこちらを見つけると、小さく手を振った。
俺も手を振り返す。
発車メロディが鳴り、扉が閉まる。
電車はゆっくりと動き出し、やがてホームの先へ消えていった。
その姿が見えなくなるまで、俺はその場に立っていた。
「……帰るか」
小さく呟いて、山手線のホームへ向かう。
電車に乗り込むと、車内は夜の東京らしく、仕事帰りの人や観光客でほどほどに混んでいた。
窓の外に、駅の明かりが流れていく。
上野動物園。
パンダ。
ハシビロコウ。
浅草寺。
スカイツリー。
丸の内駅舎。
そして、のどかからもらったフラグメントケース。
ポケットの中に手を入れると、その薄い感触が指先に触れた。
今日一日が、そこにちゃんと残っている気がした。
楽しかった。
間違いなく、楽しかった。
俺は今、幸せなんだと思う。
そう思った瞬間だった。
胸の奥で、何かがわずかに軋んだ。
——でも、この幸せは、本当にずっと続くのか。
その問いが、頭の中に落ちてきた。
望んだわけじゃないし、考えたかったわけでもない。
それでも、一度浮かんでしまった疑問は、簡単には消えてくれなかった。
断片的に、景色が浮かぶ。
母親の声。
明るい部屋。
普通に学校へ通っていた自分。
未来を、まだ怖がっていなかった自分。
母が亡くなったのは、小学六年生になる春だった。
四月一日。
それから少しずつ、家族も、親戚も、俺の周りの空気も変わっていった。
置いていかれないように中学受験を頑張って、進学校に入った。
けれど、そこにも馴染めなかった。
学校へ行けない日が増えていく中で、神奈川で一人暮らしをしてみないかと言われた。
その時、思った。
こんなはずじゃなかった、と。
そこから、俺の思春期症候群は始まった。
選べなかった未来。選ばなかった世界。
そういうものが現実に干渉して、同じ時間を繰り返す。
俺は必死に、自分が本当は選びたかった世界へ辿り着こうとした。
そして、ようやく母が生きている世界に辿り着いた。
でも、それすらループの中の一つでしかなかった。
また最初からになる。
全部なかったことになる。
そう分かった瞬間、もう限界だった。
幸福を失うことが、怖かった。
やっと手に入れた世界が消えるくらいなら、もう全部終わらせてしまいたかった。
けれど。
死ねなかった。
いや、たぶん違う。
死ななかった。
それで何かが解決したわけじゃない。
ただ、その日を境に、自分の中に線を引いた。
期待しすぎないこと。
失ったものを取り戻そうとしないこと。
戻らないものを前提に、生きていくこと。
そういう線引きが、自分の中にできた。
だから、今日みたいな日は困る。
楽しくて。温かくて。
誰かが自分の誕生日を覚えていてくれて。
手を引かれて。笑われて。
プレゼントまで渡されて。
そういうものを一度知ってしまうと、また失うのが怖くなる。
山手線が有楽町を出る。
窓に映る自分の顔が、少しぼやけて見えた。
その隣に、いるはずのない誰かの影が重なる。
金色の髪ではない。
のどかではない。
幼い頃、俺の隣で笑っていた誰か。
——はすまくん。
声がした。
今度は、さっきより近かった。
俺はポケットの中で、フラグメントケースを握りしめる。
今日を失いたくない。
(この幸せを、終わらせたくない……)
その感情が、胸の奥で静かに形を持ち始めていた。
電車は夜の東京を走っていく。
何事もなかったみたいに。
けれど俺の中では、何かが確かに、また動き出していた。
物語解説
今回は、三月二十日の誕生日デートを通して、蓮真が「幸せな時間を失うことへの恐れ」と向き合い始める回でした。
上野動物園。浅草。スカイツリー。そして、夜の東京駅。
のどかは蓮真の誕生日を「特別な一日」にしようと、一つ一つの予定を丁寧に準備していました。
髪を下ろして待ち合わせに来たこと。ハシビロコウのマグカップを勧めたこと。レストランを予約していたこと。そして、最後にフラグメントケースを贈ったことは、どれも派手な出来事ではありません。
けれど、その積み重ねが、蓮真にとっては今まで知らなかった「誰かに祝われる誕生日」を形作っていきます。
一方で、この幸せな一日は、蓮真の中に眠っていた記憶も少しずつ揺り起こしていきます。
レッサーパンダを見た時に蘇る、日本平動物園の景色。「はすまくん」と呼ぶ幼い少女の声。
そして、七里ヶ浜で見かけた少女と、霧島透子という名前が、説明のつかない形で結び付き始めます。
蓮真自身は、その理由をまだ知りません。
物語の終盤では、蓮真の過去も改めて描かれました。
母を亡くし、家族や環境が大きく変わり、中学時代には居場所を失い、思春期症候群のループの中で、ようやく辿り着いた「母が生きている世界」さえも失うことになった蓮真。
その経験は、「幸せはいつか失われるもの」という考えを、彼の中へ深く刻み込みました。
だからこそ、のどかと過ごした今日という一日は、嬉しいからこそ怖い。誰かに祝われることを知ってしまったからこそ、また失うことを恐れてしまう。
今回描きたかったのは、そんな蓮真の心の揺らぎでした。
次回からは、蓮真の中で動き始めた記憶の断片が、少しずつ一つの物語として繋がり始めます。
「はすまくん」と呼ぶ少女は誰なのか。
そして、蓮真が忘れてしまったものとは何だったのか。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。