青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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6.静けさの春を待って、夜を越える

 

 三月二十二日

 

 昨日の夜、目黒の実家から藤沢の家へ戻った。

 

 昼からはファミレスのバイトが入っている。

 

 シフトに間に合うように家を出ようと、玄関でスニーカーに足を入れたところで、ポケットの中のスマホが震えた。

 

 画面を確認する。

 

 通知の送り主は、LINEのグループチャット。

 

 《きっしー観察会》

 

 この名前を見るたびに思う。

 

 観察する側だったはずの俺が、どうして観察対象になっているんだろう。

 

 グループを開くと、卯月からメッセージが届いていた。

 

 《きっしー、のどか、二十五日は小田原駅に十時ね!》

 

 「……ほんとに見に行くんだな、桜」

 

 思わず、声に出していた。

 

 三月二十五日。

 

 桜を見るために、三人で出かける。

 

 俺とのどかが付き合い始めた記念だとか、春のお出かけだとか、卯月はいろいろ理由をつけていたけれど、要するに俺たちのデートへ堂々と同行するつもりらしい。

 

 すぐに、次のメッセージが届く。

 

 《目的地は、伊豆!》

 

 《伊豆かよ》

 

 てっきり横浜か鎌倉あたりだと思っていた。

 

 桜を見るだけにしては、ずいぶん遠い。

 

 少し遅れて、のどかが反応する。

 

 《卯月のお母さん、ほんとに車出してくれるんだ》

 

 《うん!》

 

 《お母さん曰くスキャンダル対策だって!》

 

 《……まあ、そりゃそうだよな》

 

 スイートバレットのメンバー二人と、一般人の男一人。

 

 電車で長時間移動して、観光地を歩き回る。

 

 誰かに写真を撮られれば、面倒な憶測を呼ぶ可能性は十分にある。

 

 特に今は、俺とのどかが付き合い始めたばかりだ。

 

 のどかとの交際も公表しているわけでもない以上、慎重になるに越したことはない。

 

 そんな俺の現実的な心配など知らないように、卯月はさらに続けた。

 

 《のどかときっしーの写真いっぱい撮るね!》

 

 《カップル成立記念!》

 

 《卯月!》

 

 間髪入れず、のどかのつっこみが入る。

 

 そのやり取りを見て、思わず口元が緩んだ。

 

 卯月は、いつも通りだった。

 

 少なくとも、LINEの上では。

 

 二月二十七日。

 

 俺は卯月を振った。

 

 卯月の気持ちを受け取った上で、それでも、のどかを選んだ。

 

 あの日の帰りには、親友第一号になるなんて宣言していたし、次の日には本当に俺のバイト先まで押しかけてきた。

 

 それでも、全く傷つかなかったはずがないことくらいは分かる。

 

 だからこうして、何事もなかったように俺とのどかを揶揄う卯月を見ると、少しだけ安心する。

 

 全部を乗り越えたとは思わない。

 

 でも。俺たちとの時間を、なかったことにするつもりはないらしい。

 

 そのことが嬉しかった。

 

 しばらく画面を眺めていると、今度はのどかからメッセージが届く。

 

 《あ、そうだ蓮真》

 

 《四月一日、横浜のホールでライブあるから来てね》

 

 《そうだったな》

 

 そう返してから。

 

 指が、画面の上で止まった。

 

 四月一日のライブ。

 

 その予定を、俺が初めて知ったのはいつだったか。

 

 少し考えて、思い出す。

 

 クリスマスイブの夜。

 

 俺と麻衣先輩以外の多くの人間が、同じような夢を見た。

 

 現実としか思えない不可思議な夢を。

 

 夢というより、予知。

 

 いや……

 

 可能性の世界を、寝ている間に覗いていた。

 

 赤城は、そんな仮説を立てていた。

 

 四月一日に横浜のホールでスイートバレットのライブがあることも、のどかと卯月がその夢の中で見た出来事の一つだった。

 

 そして二人から話を聞いて、俺も初めて知った。

 

 「……そういえば」

 

 (どうして結局、俺は夢を見なかったんだ……)

 

 その疑問は、以前からあった。

 

 けれど、ここ最近はまともに考えたことがほとんどない。

 

 のどかと卯月から告白されて。

 

 二人へ返事をして。

 

 のどかを選び、付き合い始めて。

 

 その後も、誕生日やデートや、次の約束が続いていた。

 

 考えることが多すぎた。

 

 いや。考えないための理由が、いくらでもあったのかもしれない。

 

 赤城が言っていた仮説自体は、筋が通っている。

 

 夢は、あり得たかもしれない未来。

 

 今とは少し異なる可能性の世界。

 

 そこにいる自分自身が見ている景色を、こちら側の人間が夢として認識する。

 

 そう考えれば、麻衣先輩が夢を見なかったことにも説明がつく。

 

 二月四日。

 

 辻堂で行われた一日警察署長のイベント。

 

 あの日、麻衣先輩は事故に巻き込まれかけた。

 

 咲太が間に合わなければ、助からなかった可能性もある。

 

 もし麻衣先輩が、咲太に救われなかった可能性の世界を夢として見ていたのだとしたら。

 

 その先で、麻衣先輩が死んでいたのだとしたら。

 

 夢を見る主体は、そこには存在しない。

 

 だから、夢を見ない。

 

 同じような話を、少し前にも聞いた。

 

 福山が北海道にいた頃の友人。

 

 その子は、一月に交通事故で亡くなったらしい。

 

 だから未来で命を失っている。

 

 未来で死んでいる人間は、夢を見る側ではない。

 

 少なくとも、今ある情報だけで考えるなら、その仮説はまだ崩れていない。

 

 だからこそ。

 

 「……俺が夢を見なかった理由って、結局なんなんだ?」

 

 玄関に立ったまま、呟く。

 

 考えられる仮説は、二つ。

 

 一つ目。

 

 俺もまた、どこかの可能性の世界で死んでいる。

 

 だから、その先の出来事を夢として見ることができなかった。

 

 もう一つ。

 

 そもそも、夢を見る人間と見ない人間を分ける条件が、俺には当てはまっていない。

 

 俺だけが、別の条件で動いている。

 

 前者は、実証のしようがない。

 

 咲太や赤城みたいに、可能性の世界なんて、簡単に行ける場所じゃない。

 

 仮にもし俺が行けたとしても、中学時代のように、同じ三月を繰り返す、閉じられた時間の中くらいだろう。

 

 けれど、あのループだって。

 

 本当に可能性の世界へ移動していたのかどうかは分からない。

 

 思春期症候群そのものが、強烈な不安や思い込みによって生じる幻覚だと言われれば、それまでだ。

 

 ループを経験する以前の俺も、そう思っていた。

 

 誰かの未来が見える。

 

 人の心の声が聞こえる。

 

 存在が他人から認識されなくなる。

 

 そんな話は、オカルトか、精神的に不安定な人間の思い込みだと思っていた。

 

 自分自身がループを経験したあとも、その考えを完全には捨てきれなかった。

 

 ループの最中に、精神科へ行ったことがある。

 

 医者は、俺の話を聞いたあと。

 

 “多感な時期の不安定な心が見せる思い込み”だと、あっさり片づけた。

 

 記録ノートには、詳細な感情は書けない。

 

 でも、事実を並べれば、そこにあった感情を、思い出すことはできた。

 

 授業より先の内容。まだ習わない英語構文。教科書の巻末にある統計資料。未来の出来事。

 

 そういった、冷たい事実だけが。

 

 それでも、あれが客観的な現象だったと証明することはできない。

 

 「……ある意味、俺は今も思春期症候群を本気では信じてないのかもな」

 

 だから中学時代。咲太が、「思春期症候群は本当にあるんだ!」と叫んだ時も、俺は関わろうとしなかった。

 

 自分も似た経験をしていたはずなのに。

 

 自分自身が中学一年の時に経験したあの春を思い出すのが、何より嫌だったから。

 

 だからこそ、ただ遠巻きに眺め、噂を聞き流すしかなかった。

 

 そして、あれを現実だと認めれば、自分の中で保っていた何かが崩れる気がしたから。

 

 では、二つ目の仮説はどうだ。

 

 俺だけが、夢を見る条件から外れている。

 

 俺だけが別のルールで動いている。

 

 どうして。なぜ、俺だけが特異点なのか。

 

 そう考えると、双葉の言葉を思い出す。

 

 以前、双葉は俺をトランプに例えた。

 

 「岸和田は最初からその山札に含まれていなかった。いわばジョーカー。だから彼女のシミュレーションには一度も現れなかったのに、現実では場に出てくる。それが“特異点”」

 

 「計算で辿れる未来の中に、岸和田が固定されてない」

 

 古賀の思春期症候群。

 

 未来をシミュレーションする現象。

 

 そのどの未来にも、俺は登場しなかった。

 

 なのに、現実では古賀と出会い、行動している。

 

 未来の計算から漏れている。

 

 世界の予測へ、あとから割り込んでくる存在。

 

 ジョーカー。

 

 「……特異点になったのは、やっぱり、あれが関係してるのか」

 

 中学時代。

 

 ループの中での、自殺未遂。

 

 生きることと、死ぬこと。

 

 その境界まで行った。

 

 一度、世界から観測されない状態に近づいた。

 

 もし、あの経験によって俺が未来の計算から外れたのだとしたら。

 

 俺が夢を見なかった理由にも、説明がつく。

 

 可能性の世界で死んでいるから、夢を見ない。

 

 生と死の境界を越えかけたことで、世界から固定されなくなった。

 

 二つの仮説は、完全に別ではない。

 

 むしろ、同じ場所で繋がっている。

 

 「……でも、これも証明のしようがない」

 

 結局、何も分からない。

 

 考えれば考えるほど、仮説だけが増えていく。

 

 証明する方法はない。観測することもできない。

 

 可能性の世界へ行くこともできない。

 

 いや……

 

 (本当に、できないのか……)

 

 そこまで考えたところで、スマホが立て続けに震えた。

 

 画面へ視線を戻す。

 

 《ちゃんと来てよ、蓮真》

 

 《そうだよ!きっしー!》

 

 のどかと卯月から、ほとんど同時に届いている。

 

 どうやら、考え込んでいる間に、二人のメッセージをしばらく放置していたらしい。

 

 《分かった。行くよ》

 

 そう返す。

 

 すぐに卯月から、桜のスタンプが届く。

 

 のどかからも、短く《よし》と返ってきた。

 

 それを見て、少しだけ息を吐く。

 

 考えても仕方のないことは、ひとまず置いておけばいい。

 

 三月二十五日は、伊豆。

 

 四月一日は、横浜でライブ。

 

 スマホをポケットへ戻そうとして、何気なく画面の上部を見る。

 

 表示された時刻を見て、息を呑んだ。

 

 「……まずい」

 

 思っていた以上に、LINEと考え事に時間を使っていた。

 

 このままだと、バイトのシフトに間に合うかどうか、かなり怪しい。

 

 玄関のドアを勢いよく開ける。

 

 鍵を閉め、階段を駆け下りる。

 

 さっきまで可能性の世界だの、生と死の境界だのと考えていたのが馬鹿らしくなるくらい、目の前の現実は切迫していた。

 

 今考えるべきなのは、自分がどの世界で死んでいるかではない。

 

 あと何分でファミレスへ着けるかだ。

 

 「……遅刻したら、店長に怒られるかもな」

 

 誰に言うでもなく呟き、俺は駅へ向かって走り出した。

 

 春の風が、頬を横切っていった。

 

 ファミレスに着いた時には、シフト開始まで三分を切っていた。

 

 裏口のドアを抜け、客席には出ず、そのまま休憩室へ駆け込む。

 

 スマホの時計を確認する。

 

 まだ間に合う。

 

 遅刻ではない。

 

 遅刻ではないが、余裕があるとも到底言えなかった。

 

 休憩室のドアを開けると、既に着替えを終えた咲太が、ロッカーの前で名札をつけていた。

 

 俺の顔を見るなり、眠たそうな目を少しだけ細める。

 

 「岸和田は重役出勤か?いい身分だな」

 

 「悪かったな、遅刻しかけて」

 

 鞄をロッカーへ放り込み、急いで制服を取り出す。

 

 咲太は壁にもたれたまま、わざとらしくこちらを見る。

 

 「どうせ豊浜と電話でもしてたんだろ」

 

 「してねえよ!」

 

 思わず、強めに否定する。

 

 その反応が気に入ったのか、咲太の口元が少しだけ上がった。

 

 「そんなに必死に否定すると怪しいな」

 

 「LINEだよ」

 

 「やっぱり豊浜じゃないか」

 

 「卯月もいた。グループチャットだ」

 

 「三人で何の相談だよ?」

 

 「二十五日に桜を見に行く話」

 

 シャツのボタンを留めながら答える。

 

 咲太は一度だけ瞬きをした。

 

 「三人で?」

 

 「ああ」

 

 「付き合い始めた直後のデートに、振ったづっきーが同行するのか」

 

 「言い方」

 

 事実だけ並べれば、その通りだった。

 

 だからこそ、妙に否定しづらい。

 

 「卯月が勝手についてくるって言い出したんだよ」

 

 「それを豊浜も許したと」

 

 「むしろ普通に話が進んでる」

 

 「ずいぶん愉快な関係だな」

 

 「俺もそう思う」

 

 エプロンを腰へ巻き、名札をつける。

 

 鏡を見ながら髪を軽く整えていると、咲太が何気ない調子で続けた。

 

 「で、どこへ行くんだ?」

 

 「伊豆」

 

 「桜を見るために?」

 

 「ああ」

 

 「ずいぶん本気だな」

 

 「卯月のお母さんが車を出してくれるらしい。スキャンダル対策だって」

 

 「なるほど」

 

 咲太は妙に納得した顔をした。

 

 麻衣先輩と付き合っているこいつなら、その辺りの面倒さはよく知っている。

 

 「豊浜もづっきーも、一応アイドルだからな」

 

 「一応って言うなよ」

 

 「豊浜に聞かれたら怒られそうだな」

 

 「俺じゃなくて、お前がな」

 

 咲太は特に気にした様子もなく、休憩室の時計へ視線を向けた。

 

 「あと一分だぞ」

 

 「分かってる」

 

 ロッカーを閉める。

 

 その時、さっきまで考えていたことが、頭の片隅へ戻ってきた。

 

 クリスマスイブの夢。

 

 可能性の世界。

 

 夢を見なかった俺と麻衣先輩。

 

 咲太なら、何か知っているかもしれない。

 

 少なくとも、麻衣先輩の件については、俺よりずっと近いところにいた。

 

 「……咲太」

 

 「なんだ?」

 

 休憩室を出ようとしていた咲太が振り返る。

 

 一瞬、訊こうか迷った。

 

 どうして俺は、あの夢を見なかったと思う。

 

 麻衣先輩が夢を見なかった理由について、他に何か心当たりはあるのか。

 

 可能性の世界で死んでいる人間は、夢を見ることができないのか。

 

 聞きたいことはいくつもあった。

 

 けれど、今ここで話し始めれば、間違いなくシフトに遅れる。

 

 それ以前に、数分で終わるような話でもない。

 

 「……いや、なんでもない」

 

 「そうか」

 

 咲太は特に追及しなかった。

 

 ただ、ドアを開けたところで一度だけ振り返る。

 

 「豊浜との惚気なら、休憩中に聞いてやるぞ」

 

 「だから違うって言ってるだろ」

 

 「残念だな」

 

 「何がだよ」

 

 「岸和田の初々しい恋愛相談は、今しか聞けないかもしれないからな」

 

 「お前にだけは相談しない」

 

 「麻衣さんとの交際歴なら、僕の方が先輩だぞ」

 

 「参考にならない先輩だな」

 

 「失礼な後輩だな」

 

 そんなことを言い合いながら、俺たちはホールへ向かう。

 

 客席側からは、食器の触れ合う音と、子どもの笑い声が聞こえていた。

 

 可能性の世界も、夢を見なかった理由も、今はまだ分からない。

 

 けれど、制服へ着替え、タイムカードを切れば、目の前にはいつもの現実がある。

 

 注文を取り、料理を運び、会計をする。

 

 そして、遅刻寸前の人間に対して容赦なく仕事を振ってくる咲太がいる。

 

 「岸和田、六番テーブルの下げもの」

 

 ホールへ出た瞬間、早速そう言われた。

 

 「お前、店長でもないだろ」

 

 「重役出勤した分、働け」

 

 「遅刻してないって言ってるだろ」

 

 言い返しながら、俺は空いた皿を下げに向かった。

 

 どの可能性の世界にいるとしても。

 

 少なくとも今この瞬間、俺はファミレスで働いていた。

 

 夕方になると、昼間の忙しさが嘘みたいに客足が落ち着いた。

 

 ランチの時間帯には家族連れや学生で埋まっていた客席も、今は半分以上が空いている。

 

 俺はドリンクバー周辺を軽く拭きながら、欠伸を噛み殺した。

 

 そんな時だった。

 

 入口のチャイムが鳴る。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 反射的に顔を上げる。

 

 入ってきた客を見て、少しだけ目を瞬かせた。

 

 「……赤城?」

 

 「こんにちは。岸和田くん」

 

 赤城郁実だった。

 

 大学へ行く時に使っているらしい鞄を肩に掛け、いつもの落ち着いた表情で立っている。

 

 「一人?」

 

 「うん。少し早いけど、夜ご飯にしようと思って」

 

 赤城はそう言ったあと、店内へ視線を向けた。

 

 それから、俺を見る。

 

 「それと、岸和田くんと梓川くんに話したいことがあって」

 

 「俺と咲太?」

 

 「うん」

 

 赤城が俺と咲太の二人に話したいこと。

 

 その組み合わせだと、普通の大学生活だけの話ではなさそうだった。

 

 「……とりあえず、席案内するよ」

 

 「お願い」

 

 赤城を窓際の席へ案内する。

 

 メニューを開いた赤城は、それほど迷うことなく顔を上げた。

 

 「濃厚カルボナーラで」

 

 「早いな」

 

 「前に食べたことあるから」

 

 「なるほど」

 

 端末へ注文を入力し、厨房へ送る。

 

 それから、俺は赤城を見る。

 

 「で、俺に話って」

 

 少し考えてから続ける。

 

 「多分、三十一日のボランティアの打ち合わせの話だろ?」

 

 赤城がわずかに目を丸くした。

 

 「覚えてたんだ」

 

 「前回の打ち合わせで決まってただろ」

 

 新しく入る学生の受け入れ方。

 

 学習支援に来ている子どもたちの状況共有。

 

 保護者への説明。それから、学校との距離感。

 

 来年度に向けて整理しなければならないことは、前回の時点である程度出ていた。

 

 「友部さんから、支援記録の様式案も見ておいてほしいって言われてたし」

 

 「うん。その確認も含めて、三十一日に一度ちゃんと話したいの」

 

 「分かった。予定は空いてる」

 

 「ありがとう」

 

 赤城は小さく頷いた。

 

 そこで少しだけ間を置く。

 

 「それと、もう一つ」

 

 「まだあるのか?」

 

 「来年度のこと」

 

 赤城は、テーブルの上で軽く指を組んだ。

 

 「私、二年になると福浦キャンパスでの授業が増えるから」

 

 「ああ」

 

 横浜市立大学の看護学科。

 

 二年以降は、医学部のある福浦キャンパスでの授業や実習が本格化する。

 

 「看護実習も増えるし、今までみたいに毎回来るのは難しくなると思う」

 

 「……そうだよな」

 

 分かっていたことではある。

 

 でも、本人の口から聞くと少しだけ実感が湧く。

 

 「だから友部さんから」

 

 赤城は俺を見た。

 

 「来年度からは、岸和田くんと友部さんを中心に場を回していけないかって言われてる」

 

 「ああ。そうだよな」

 

 「うん」

 

 「まぁ、俺もまだ一年しかやってないけど」

 

 「私も一年だよ」

 

 「赤城と俺を同列にするなよ」

 

 「どういう意味?」

 

 「そのままの意味」

 

 その時。

 

 「さすが優等生だな」

 

 横から声がした。

 

 見ると、料理を載せたトレーを持った咲太が立っていた。

 

 「濃厚カルボナーラです」

 

 赤城の前へ皿を置く。

 

 「ありがとう、梓川くん」

 

 「岸和田は来年度からボランティアのリーダーか」

 

 「違う」

 

 「子どもたちに蓮真先生と呼ばれる日も近いな」

 

 「もう呼ばれてるよ」

 

 「じゃあ、きっしー先生かもしれないな」

 

 「卯月を混ぜるな」

 

 咲太は満足そうだった。

 

 完全に遊ばれている。

 

 赤城はそんなやり取りを見て、少しだけ笑った。

 

 「友部さんと一緒に、だから」

 

 「それでも十分だろ」

 

 咲太が言う。

 

 「岸和田は、思ってるより人に頼られてるみたいだな」

 

 「余計な分析するな」

 

 俺が返すと、咲太は軽く肩をすくめた。

 

 その横で、赤城がフォークを手に取る。

 

 「それで、梓川くんにも話があるの」

 

 「僕に?」

 

 「うん」

 

 咲太の表情が、ほんの少しだけ変わった。

 

 赤城は一度だけ周囲を見る。

 

 客は少ない。近くの席にも人はいなかった。

 

 それを確認してから、声を少し落とす。

 

 「梓川くん。クリスマスイブの夢、覚えてる?」

 

 その言葉に、俺の意識が、一瞬で赤城へ向いた。

 

 「……ああ」

 

 咲太は静かに答える。

 

 「麻衣さんが横浜のステージで、自分が霧島透子だってカミングアウトしてな」

 

 少し間を置く。

 

 「そこに赤城もいたんだよな」

 

 「うん」

 

 赤城は頷いた。

 

 「夢の中で、梓川くんから急に電話がかかってきて」

 

 赤城は続ける。

 

 「横浜駅で会えないかって言われたの。私に頼みたいことがあるみたいだった」

 

 「でも」

 

 思わず、俺は口を挟んだ。

 

 「咲太はスマホ持ってないから、完全な正夢とも言えないもんな」

 

 赤城が俺を見る。

 

 「うん」

 

 そして、再び咲太へ視線を戻した。

 

 「だから今日、こうして梓川くんにお願いしに来たの」

 

 「僕にか?」

 

 「そう」

 

 赤城はまっすぐ咲太を見る。

 

 「梓川くん。四月一日に、桜島さんが出る音楽フェスに一緒に行かない?」

 

 咲太は少しだけ目を細めた。

 

 「わざわざ見に行くのは、いかにも赤城らしいな」

 

 「だって」

 

 赤城は当然のように言う。

 

 「もし夢と同じことになった時、私が側にいなくて困るのは梓川くんでしょ?」

 

 「……」

 

 「こっちの梓川くんはスマホ、持ってないし」

 

 確かに。

 

 夢の中と現実では、既に条件が違う。

 

 夢の中の咲太は赤城へスマホから電話をかけた。

 

 でも、今の咲太にはそれができない。

 

 「それに」

 

 赤城は少しだけ表情を和らげた。

 

 「梓川くんも、夢と同じにならないか心配ではあるでしょ?」

 

 咲太はすぐには答えなかった。

 

 「僕は麻衣さんから聞いてる」

 

 「何を?」

 

 「四月一日のステージで、『私は霧島透子ではありません』って否定するって」

 

 咲太は静かに言う。

 

 「だから、夢と同じにはならないと思う」

 

 「……うん」

 

 「でも」

 

 咲太は赤城を見る。

 

 「赤城が心配してくれるなら行くよ」

 

 赤城の表情が少しだけ明るくなる。

 

 「ありがとう。梓川くん」

 

 その会話を聞きながら。

 

 俺は、妙な感覚を覚えていた。

 

 霧島透子。

 

 その名前。

 

 麻衣先輩が、自分こそ霧島透子だと告白する未来。

 

 「……やっぱり違う」

 

 気づけば、小さく呟いていた。

 

 赤城と咲太がこちらを見る。

 

 「岸和田?」

 

 「いや」

 

 俺は首を横へ振る。

 

 「麻衣先輩は、霧島透子じゃない」

 

 「それは麻衣さん本人も言ってるぞ」

 

 「そういう意味じゃなくて」

 

 言葉が止まる。

 

 どう説明すればいいのか分からなかった。

 

 理由ならある。

 

 単純な理由。

 

 麻衣先輩とのどかは、一緒に暮らしている。

 

 もし麻衣先輩が霧島透子として曲を作り、歌い、ネットへ公開していたなら。

 

 のどかが何も気づかないとは思えない。

 

 歌声。

 

 生活時間。

 

 機材。

 

 何かしら違和感を覚えるはずだ。

 

 だから、麻衣先輩ではない。

 

 理屈としては、それで十分だった。

 

 でも違う。

 

 それだけじゃない。

 

 もっと根本的なところで。

 

 俺は知っている。

 

 麻衣先輩が霧島透子ではないことを。

 

 「……」

 

 胸の奥が、わずかにざわつく。

 

 「岸和田くん?」

 

 赤城の声で我に返る。

 

 「……悪い」

 

 「大丈夫?」

 

 「ああ」

 

 そう答える。

 

 けれど。

 

 胸の奥では、さっきの言葉がまだ残っていた。

 

 麻衣先輩は、霧島透子じゃない。

 

 俺はそれを知っている。

 

 理由は分からない。

 

 証明もできない。

 

 それでも。知っている。

 

 まるで……本物の霧島透子を、ずっと昔から知っているみたいに。

 

 三月二十五日

 

 朝の藤沢駅は、春休みに入った学生や通勤客で思った以上に混んでいた。

 

 改札前の柱にもたれながらスマホを確認すると、時刻は九時を少し過ぎたところだった。

 

 小田原駅での待ち合わせは十時。

 

 ここからなら、まだ余裕はある。

 

 画面には、少し前にのどかから届いたメッセージが残っている。

 

 《もうすぐ着くよ》

 

 その文字を見て顔を上げると、ちょうど人の流れの向こうから、のどかがこちらへ歩いてくるのが見えた。

 

 白いパーカーの上に薄手のジャケットを羽織り、顔の半分をマスクで隠している。帽子も深めに被っているせいで、一見しただけでは豊浜のどかだとは分かりにくい。

 

 それでも、俺にはすぐに分かった。

 

 「お待たせ」

 

 「今来たところ」

 

 「それ、デートの定番台詞じゃん」

 

 「本当に今来たんだよ」

 

 「はいはい」

 

 のどかは少し笑ってから、俺の隣へ並んだ。

 

 「卯月から連絡来てる?」

 

 「朝から三件くらい」

 

 スマホを見せる。

 

 《お母さん、もう準備できてるよ!》

 

 《お菓子も買った!》

 

 《カメラも持った!》

 

 のどかは画面を見て、呆れたように息を吐いた。

 

 「卯月、完全に遠足気分なんだけど」

 

 「張り切ってるな」

 

 「うん。昨日レッスン一緒だった時からずっと。どこで写真撮るとか、何食べるとか、車の中で何流すとか」

 

 「そこまで決めてるのかよ」

 

 「しかも、あたしと蓮真の写真をいっぱい撮るって」

 

 「それも言ってた」

 

 「ほんと余計なことばっかり」

 

 そう言うわりに、のどかの声は嫌そうではなかった。

 

 むしろ少し楽しそうに聞こえる。

 

 俺たちは改札を抜け、東海道線のホームへ向かった。

 

 電車が来るまで、あと数分。

 

 ホームの端には、春の朝らしい柔らかい光が差し込んでいた。

 

 「まあ、卯月があれだけ張り切るのも分かるけどね」

 

 のどかが言う。

 

 「久しぶりに三人で出かけるし」

 

 「久しぶりって言っても、そんなに経ってないだろ」

 

 「付き合い始めてからは初めてじゃん」

 

 「まあ、そうだけど」

 

 付き合い始めてから。

 

 その言葉を聞くと、今でも少しだけ意識してしまう。

 

 俺とのどかは恋人になった。

 

 卯月は、その場に親友として加わる。

 

 口にしてしまえば単純だけど、そこへ辿り着くまでには、単純ではない時間があった。

 

 電車がホームへ入ってくる。

 

 俺たちは空いていた車両へ乗り込み、並んで座った。

 

 ドアが閉まり、電車がゆっくり動き出す。

 

 藤沢の街並みが窓の外へ流れていく。

 

 のどかはスマホを取り出し、卯月から届いた新しいメッセージを見ていた。

 

 「また来た」

 

 「今度はなんだ?」

 

 「車の中で食べるお菓子、甘いのとしょっぱいの両方用意したって」

 

 「抜かりないな」

 

 「ほんと、張り切っちゃってる」

 

 のどかはそう言って、小さく笑った。

 

 その横顔を見ながら。

 

 俺は、さっきから胸の奥に引っかかっていたことを思い出していた。

 

 聞いていいのか。聞かない方がいいのか。

 

 せっかくの楽しい出かけの日に、わざわざ触れる必要のない話かもしれない。

 

 それでも。

 

 卯月が何事もなかったように笑っているたび、少し安心して。

 

 同時に、少しだけ不安になった。

 

 無理をしているんじゃないか。

 

 俺たちの前でだけ、平気なふりをしているんじゃないか。

 

 「……のどか」

 

 「何?」

 

 スマホから顔を上げる。

 

 「ちょっと聞いていいか」

 

 「何、その言い方」

 

 「いや」

 

 言葉を選ぶ。

 

 「卯月ってさ」

 

 そこで一度止まる。

 

 のどかは急かさず、俺の続きを待っていた。

 

 「なんで、あんなに普通にしてくれるんだろうな」

 

 「……」

 

 のどかの表情が、少しだけ変わる。

 

 俺は窓の外へ視線を向けた。

 

 「俺に振られたあとも、次の日にはバイト先へ来て。今度は三人で出かけようって言って」

 

 「うん」

 

 「俺とのどかのことも、普通に揶揄ってくるし」

 

 「普通すぎて逆に怖い?」

 

 「そこまでは言ってない」

 

 「でも、気になってるんでしょ」

 

 否定できなかった。

 

 「あいつ、無理してるんじゃないかって」

 

 のどかはすぐには答えなかった。

 

 窓の外を流れる景色を少し眺めてから、静かに口を開く。

 

 「卯月が全然傷ついてないわけじゃないと思うよ」

 

 「……やっぱりそうだよな」

 

 「当たり前じゃん。好きな人に振られたんだから」

 

 胸の奥が、少しだけ重くなる。

 

 それは分かっていた。

 

 分かっていたからこそ、聞かずにはいられなかった。

 

 「でもね」

 

 のどかは続ける。

 

 「あたしと卯月、約束してたの」

 

 「約束?」

 

 「うん」

 

 のどかは膝の上で手を組んだ。

 

 それから、少し照れくさそうに視線を逸らす。

 

 「どっちかが振られても、どっちかと付き合っても……あたしたちの関係は変えないこと、って」

 

 「……」

 

 思わず、のどかの顔を見る。

 

 「そんな約束してたのか」

 

 「してた」

 

 「いつ?」

 

 「蓮真には内緒」

 

 「なんでだよ」

 

 「女同士の話だから」

 

 「都合いいな」

 

 「そういうもんなの」

 

 のどかは少し笑った。

 

 けれど、その目は真剣だった。

 

 「あたしも卯月も、蓮真のことが好きだった」

 

 「……ああ」

 

 改めて言われると、どう反応していいか分からない。

 

 「だから、どっちかが選ばれたら、絶対何も変わらないなんて、最初から無理だったと思う」

 

 「じゃあ」

 

 「でも、変わることと、壊れることは違うでしょ」

 

 その言葉に、俺は黙った。

 

 電車の走る音だけが、しばらく耳に残る。

 

 「卯月は、あたしが蓮真と付き合ったからって、あたしを嫌いになりたくなかった」

 

 のどかは言う。

 

 「あたしも、卯月が蓮真を好きだったことを、なかったことにはしたくなかった」

 

 「……」

 

 「それに」

 

 のどかが俺を見る。

 

 「あたしたち三人でいた時間まで、全部気まずい思い出にしたくなかったんだと思う」

 

 胸の奥にあった重さが、少しだけ形を変えた。

 

 消えたわけではない。

 

 卯月を傷つけた事実がなくなるわけでもない。

 

 それでも。

 

 卯月が普通にしているのは、何も感じていないからではない。

 

 感じた上で、関係を残すことを選んでいる。

 

 俺たちとの時間を、捨てないと決めている。

 

 「……強いな、卯月」

 

 「強いよ」

 

 のどかは即答した。

 

 「でも、強いから何しても平気ってわけじゃないからね」

 

 「分かってる」

 

 「本当に?」

 

 「分かってるつもりだ」

 

 「その言い方、ちょっと不安」

 

 「じゃあ、分かってる」

 

 「よし」

 

 のどかは満足そうに頷いた。

 

 少しだけ沈黙が流れる。

 

 俺は、窓へ映る自分たちの姿を見た。

 

 隣にのどかがいる。小田原では卯月が待っている。

 

 三人の関係は、以前と同じではない。

 

 俺とのどかは恋人になった。

 

 卯月は俺に振られた。

 

 何も変わらなかったわけじゃない。

 

 それでも、終わらなかった。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「卯月のことばっかり考えてるの、ちょっと妬くんだけど」

 

 「そういう話じゃないだろ」

 

 「分かってるけど」

 

 のどかはそう言いながら、俺の袖を軽く掴んだ。

 

 「今日は、あたしとのデートでもあるんだから」

 

 「卯月もいるけどな」

 

 「それは言わなくていい」

 

 「事実だろ」

 

 「じゃあ、小田原に着くまでは二人きり」

 

 のどかは俺の手へ自分の手を重ねた。

 

 指先が触れる。

 

 そのまま、少しだけ絡む。

 

 「……人いるぞ」

 

 「手繋ぐくらい普通でしょ」

 

 「お前、一応アイドルだろ」

 

 「今は変装してるし」

 

 「変装って自分で言うのか」

 

 「いいから」

 

 のどかは少し強引に、俺の手を握った。

 

 「卯月に会ったら、どうせ写真係にされるんだから」

 

 「俺たちが撮られる側じゃないのか?」

 

 「それもある」

 

 「逃げ道ないな」

 

 「諦めなよ」

 

 そう言って、のどかは楽しそうに笑った。

 

 窓の外では、春の街が流れていく。

 

 変わったものもある。

 

 変わらずに残ったものもある。

 

 そして俺たちは、そのどちらも抱えたまま、小田原へ向かっていた。

 

 小田原駅へ着いたのは、十時の少し前だった。

 

 改札を出て、駅前のロータリーへ向かう。

 

 観光客らしい人の流れの向こうで、見覚えのあるミニバンが停まっていた。

 

 その横で、「きっしー! のどかー!」と、卯月が大きく手を振っていた。

 

 「声、大きい」

 

 隣でのどかが呆れたように言う。

 

 「変装してる意味なくならないか?」

 

 「卯月にその辺の慎重さを求めるのが間違い」

 

 「聞こえてるよー!」

 

 聞こえていたらしい。

 

 卯月は不満そうに頬を膨らませた。

 

 俺たちが近づくと、運転席の窓が開く。

 

 「おはよう、蓮真くん。のどかちゃん」

 

 卯月のお母さんが、いつもの柔らかい笑顔を見せた。

 

 「おはようございます。今日はありがとうございます」

 

 「おはようございます」

 

 俺とのどかが頭を下げる。

 

 卯月のお母さんは、今月初めのスイートバレットのライブでも会ったし、その少し前には、古賀と花楓ちゃんと行った新宿のライブでも顔を合わせている。

 

 のどかと卯月とのお出かけやライブ会場で何度か話しているうちに、向こうからはすっかり蓮真くんと呼ばれるようになっていた。

 

 「この前の新宿以来ね」

 

 「そうですね。あの時はお疲れさまでした」

 

 「蓮真くんも、わざわざ来てくれてありがとうね」

 

 「俺は普通にライブを見に行っただけなので」

 

 「その普通がありがたいのよ」

 

 卯月のお母さんはそう言って笑う。

 

 横で卯月が、得意そうに胸を張った。

 

 「きっしー、私のライブちゃんと来てくれるからね!」

 

 「お前だけを見に行ってるわけじゃないけどな」

 

 「そこは私を見に来たって言ってよ!」

 

 「のどかもいるだろ」

 

 「さすがきっしー、のどかファーストだね!」

 

 「なんだよそれ」

 

 俺が言うと、のどかが小さく笑った。

 

 「朝から面倒くさいね、卯月」

 

 「のどかひどい!」

 

 「はいはい。続きは車の中でね」

 

 卯月のお母さんに促され、俺たちはミニバンへ乗り込んだ。

 

 卯月は当然のように助手席へ座る。

 

 俺とのどかは、二列目の座席に並んで腰を下ろした。

 

 シートベルトを締めながら、俺は前を見る。

 

 「卯月が助手席なんだな」

 

 「案内係だから!」

 

 「道分かるのか?」

 

 「ナビが分かる!」

 

 「お前じゃないじゃないか」

 

 「細かいこと気にしない」

 

 卯月はそう言いながら、慣れた手つきでカーナビを操作する。

 

 目的地を入力すると、画面に経路が表示された。

 

 大室山。その麓にある、さくらの里。

 

 車がロータリーを離れ、小田原の街を走り始める。

 

 俺は前の座席へ声をかけた。

 

 「今日の目的地は、大室山のさくらの里なんだな」

 

 「そうだよ!」

 

 卯月が振り返る。

 

 「桜がいっぱい咲いてるんだって!」

 

 「伊豆まで行くくらいだから、相当すごいんだろうな」

 

 「すごいよ、たぶん!」

 

 「たぶんなのかよ」

 

 「写真で見たらすごかった!」

 

 卯月は自信満々に答える。

 

 その膝の上には、観光案内らしいパンフレットが何冊か重ねられていた。

 

 一番上に載っている写真を見て、俺は目を細める。

 

 温泉へ浸かる、丸い動物。

 

 「……なあ、卯月」

 

 「なに?」

 

 「そのパンフレット、なんだ?」

 

 「パンフレットだよ」

 

 「それは見れば分かる」

 

 表紙には、大きく『伊豆シャボテン動物公園』と書かれている。

 

 しかも中央を飾っているのは、気持ちよさそうに風呂へ入っているカピバラだった。

 

 「桜を見に行くんじゃなかったのか?」

 

 「見に行くよ?」

 

 「じゃあ、なんでカピバラがいる」

 

 「近くだから」

 

 「何が?」

 

 「伊豆シャボテン動物公園が」

 

 卯月は何でもないことのように答える。

 

 俺は少し考える。

 

 さくらの里。大室山。

 

 伊豆シャボテン動物公園。

 

 確かに、どれも近い。

 

 近いからこそ。

 

 「……まさか」

 

 「なに?」

 

 「伊豆になった理由って、卯月がカピバラ見たかっただけだろ」

 

 「違うよ!」

 

 「じゃあ、なんでパンフレットまで用意してるんだ」

 

 「下調べ!」

 

 「桜のパンフレットは?」

 

 「お母さんが持ってるよ!」

 

 運転席を見る。

 

 卯月のお母さんは、前を向いたまま笑っていた。

 

 「この間からずっと、カピバラのお風呂が見たいって言ってたのよ」

 

 「お母さん!」

 

 「やっぱりじゃないか!」

 

 思わず声を上げる。

 

 「また動物園かよ!」

 

 「動物公園だよ!」

 

 「そこはどうでもいい!」

 

 「カピバラかわいいじゃん」

 

 「桜を見る話だっただろ」

 

 「桜も見るよ」

 

 「カピバラのついでにだろ」

 

 「違うよ!」

 

 「じゃあ割合は?」

 

 「カピバラ七、桜三!」

 

 「完全に桜がついでじゃないか!」

 

 「でも三割は桜だよ!」

 

 「少ないだろ!」

 

 俺が呆れると、のどかが隣で肩を震わせている。

 

 「笑うなよ」

 

 「だって、蓮真すごい勢いでツッコむんだもん」

 

 「これはツッコむだろ」

 

 「でも」

 

 卯月がこちらへ振り返る。

 

 その顔には、分かりやすく面白がっている笑みが浮かんでいた。

 

 「きっしーも動物園好きじゃん」

 

 「嫌いとは言ってない」

 

 「前にも動物園デートしてたし」

 

 「……」

 

 一瞬、言葉に詰まる。

 

 隣から、のどかの視線を感じた。

 

 「上野動物園」

 

 卯月は楽しそうに続ける。

 

 「のどかと二人で行ったんだよね」

 

 「それは」

 

 「しかも、きっしーの誕生日に」

 

 「卯月」

 

 「なに?」

 

 「その話、今しなくていいだろ」

 

 「なんで?」

 

 「なんでも」

 

 隣で、のどかが顔を少し逸らしている。

 

 マスクをしていても、笑っていることは分かった。

 

 「のどかも何か言えよ」

 

 「何を?」

 

 「卯月を止めてくれ」

 

 「別に間違ったこと言ってないし」

 

 「お前まで」

 

 「上野動物園、楽しかったよね」

 

 「……まあ」

 

 「ほら」

 

 卯月が勝ち誇ったように言う。

 

 「きっしー、動物園デート好きなんじゃん」

 

 「一回行っただけで決めるな」

 

 「今日で二回目」

 

 「今日は三人だろ」

 

 「お母さんもいるから四人だよ」

 

 「そういう数え方の話じゃない」

 

 卯月のお母さんが、運転席から口を挟む。

 

 「私は邪魔しないようにするから、三人で楽しんできてね」

 

 「いや、別にそういう意味では」

 

 「お母さん、気を遣わなくていいよ」

 

 「あんたはちゃんと気を遣いなさい」

 

 「はーい」

 

 卯月が言う。

 

 「きっしーとのどか、私がいても普通にイチャイチャするから」

 

 「してない」

 

 「さっき電車で手繋いでたでしょ」

 

 「なんで知ってるんだよ」

 

 「のどかから聞いた」

 

 横を見る。

 

 のどかは窓の外を見ていた。

 

 「いつ報告したんだ」

 

 「小田原に着く直前」

 

 「早すぎるだろ」

 

 「きっしー観察会だからね」

 

 「俺の知らないところで活動するな」

 

 「蓮真くん、人気者ね」

 

 卯月のお母さんが笑う。

 

 「そういうことじゃないです」

 

 「そういうことだよ!」

 

 卯月が即座に否定を否定した。

 

 俺はため息をつく。

 

 車は小田原の市街地を抜け、海沿いへ向かって進んでいた。

 

 窓の外に、春の光を反射する海が見え始める。

 

 さっきまで卯月の失恋について考えていたのが嘘みたいに、本人はいつも通りだった。

 

 いや。

 

 いつも通りでいようとしているのかもしれない。

 

 それでも今は、その明るさを疑い続けるより、一緒に笑っていた方がいい気がした。

 

 「それで」

 

 俺は前の座席に置かれたパンフレットを見る。

 

 「カピバラ以外には何がいるんだ?」

 

 卯月の表情が一気に明るくなる。

 

 「リスザル!」

 

 「急に食いついたな」

 

 「放し飼いなんだって!あと、クジャクも歩いてるって」

 

 「逃げないのか?」

 

 「逃げないんじゃないの?」

 

 「そこは調べてないのかよ」

 

 「カピバラは調べた!」

 

 「やっぱりカピバラ目的じゃないか」

 

 「カピバラのお風呂、春でも見られるかな」

 

 「知らないよ」

 

 「見られるといいね、卯月」

 

 のどかが言う。

 

 「うん!」

 

 卯月は嬉しそうに頷いた。

 

 それから、ふと思い出したようにこちらを見る。

 

 「きっしーとのどかのカピバラとの写真も撮るからね」

 

 「なんで俺たちまで入るんだ」

 

 「カップルとカピバラ」

 

 「どういう組み合わせだよ」

 

 「かわいいもの同士」

 

 「俺は含まれてないだろ」

 

 「うん!」

 

 「おい」

 

 のどかが隣で吹き出す。

 

 「卯月、それはちょっと面白い」

 

 「彼氏を売るなよ」

 

 「でも蓮真、カピバラっぽいところあるよ」

 

 「どこが」

 

 「考え事して、ぼーっとしてるところ」

 

 「カピバラに失礼だろ」

 

 「蓮真にじゃなくて?」

 

 「どっちにもだよ」

 

 車内に笑い声が広がる。

 

 桜を見に行くはずだった。

 

 けれど、どうやら今日の主役は、桜だけではないらしい。

 

 カピバラ。

 

 卯月のカメラ。

 

 そして、俺とのどかを揶揄う時間。

 

 その全部が、卯月の中では同じくらい大切なのだろう。

 

 少なくとも。カピバラ七、桜三ではあるらしいけれど。

 

 「蓮真」

 

 隣から、小さく呼ばれる。

 

 「ん?」

 

 のどかが、前からは見えない位置で、そっと俺の手へ指を重ねてきた。

 

 「……また撮られるぞ」

 

 「今は卯月、前向いてるから」

 

 「聞こえてるよ!」

 

 即座に卯月の声が飛んでくる。

 

 「見てないだけで聞いてるからね!」

 

 「地獄耳だな」

 

 「じゃあ、写真撮ろうか?」

 

 「前向いてろ」

 

 「はーい」

 

 卯月は楽しそうに返事をする。

 

 それでも、のどかは手を離さなかった。

 

 俺も、その手を軽く握り返す。

 

 車は海沿いの道を、伊豆へ向かって走っていく。

 

 大室山の桜まで、まだ少し。

 

 カピバラまでは、そのもう少し先だった。

 

 大室山のさくらの里へ着いた頃には、昼を少し過ぎていた。

 

 駐車場へ入る前から、窓の外に淡い桜色が見えている。

 

 大室山の麓一帯へ、何本もの桜が広がっていた。

 

 車を降りると、海沿いとは違う、少し冷たい風が頬を撫でた。

 

 「桜ー!」

 

 卯月が真っ先に駆け出す。

 

 首から下げたカメラが、走るたびに胸元で揺れていた。

 

 「転ぶぞ」

 

 俺が声をかける。

 

 「大丈夫!」

 

 そう答えた直後、足元の段差に少しつまずく。

 

 「危なっ」

 

 「転んでないから大丈夫!」

 

 「判定が甘いな」

 

 卯月は何事もなかったように桜の方へ走っていった。

 

 その後ろ姿を見て、卯月のお母さんがため息交じりに笑う。

 

 「朝からずっとあの調子なのよ」

 

 「元気ですね」

 

 「元気なのはいいんだけど、周りが見えなくなるのよね」

 

 「それは知ってます」

 

 「蓮真くんものどかちゃんも苦労してるわよね」

 

 「お母さん、聞こえてるよー!」

 

 離れているはずなのに、卯月の声が返ってきた。

 

 「地獄耳だな」

 

 「自分の話だけ聞こえるんじゃない?」

 

 隣でのどかが言う。

 

 俺たちも卯月の後を追って、桜並木の方へ歩き出した。

 

 まだ満開ではない木もあったけれど、枝の多くには淡い花が広がっている。

 

 風が吹くたび、咲き始めた花びらがわずかに揺れた。

 

 遠くには、丸く盛り上がった大室山が見える。

 

 人工物の少ない、綺麗な円錐形。

 

 その麓に桜が重なる景色は、確かに伊豆まで来るだけのことはあった。

 

 「……思ってたよりすごいな」

 

 「でしょ!」

 

 いつの間にか戻ってきた卯月が、なぜか自分の手柄みたいに胸を張る。

 

 「たぶんって言ってただろ」

 

 「実物見て、今すごいって分かった!」

 

 「調べてきた人の感想じゃないな」

 

 「結果よければ全部よし!」

 

 卯月はまたカメラを持ち上げた。

 

 「はい、二人並んで!」

 

 「着いて早々それかよ」

 

 「桜、散っちゃうかもしれないから!」

 

 「今日中には散らないだろ」

 

 「でも風で形変わるよ」

 

 「桜の形はそんなに変わらない」

 

 「きっしー細かい!」

 

 卯月は俺の言葉を切り捨てると、のどかへ手招きした。

 

 「のどか、きっしーの横!」

 

 「分かってる」

 

 のどかは俺の隣へ並ぶ。

 

 少しだけ肩が触れた。

 

 「もっと近く!」

 

 「これで十分でしょ」

 

 「カップル感が足りない!」

 

 「桜の写真なんだろ?」

 

 「カップルと桜の写真!」

 

 「目的が増えてるじゃないか」

 

 卯月は俺の抗議を無視する。

 

 「のどか、きっしーの腕持って」

 

 「なんで卯月が指示するの」

 

 そう言いながらも、のどかは俺の腕へ手を回した。

 

 「……素直だな」

 

 「写真なんだからいいでしょ」

 

 「さっきまで文句言ってたのに」

 

 「蓮真は黙って笑って」

 

 「はい、こっち見てー!」

 

 卯月がシャッターを切る。

 

 一枚。二枚。三枚。

 

 「まだ撮るのか?」

 

 「目つぶった時の保険!」

 

 「今の全部、俺目開いてたぞ」

 

 「きっしーは目開いてても眠そうだから分かんない」

 

 「どういう意味だよ」

 

 卯月は満足するまで何枚か撮ると、今度は母親へカメラを渡した。

 

 「お母さん、三人で撮って!」

 

 「はいはい」

 

 「真ん中、きっしーね!」

 

 「なんでだよ」

 

 「観察対象だから」

 

 「その設定まだ生きてるのか」

 

 卯月が俺の左隣へ来る。のどかは右隣。

 

 俺を挟む形で三人が並ぶ。

 

 「もっとくっついて」

 

 卯月のお母さんが言う。

 

 「お母さんまで」

 

 「写真なんだから、そのくらい普通よ」

 

 「……おい」

 

 「なに?」

 

 「卯月、近い」

 

 「三人の写真だから」

 

 「それは分かるけど」

 

 「のどかももっと近づけばいいじゃん」

 

 「張り合ってないから」

 

 そう言いながら、のどかも少しだけ身体を寄せてくる。

 

 「二人とも近い」

 

 「贅沢言わない」

 

 のどかに切り捨てられた。

 

 「撮るわよー」

 

 卯月のお母さんの声がする。

 

 俺が諦めてカメラを見ると、卯月は満面の笑みを浮かべ、のどかも少し照れたように笑っていた。

 

 シャッター音が鳴る。

 

 「もう一枚」

 

 「まだ撮るの?」

 

 「今の、蓮真くんだけ困った顔してたから」

 

 「状況が状況なので」

 

 「きっしー、笑って!」

 

 「簡単に言うな」

 

 「カピバラ思い浮かべて!」

 

 「なんでそれで笑えるんだよ」

 

 隣でのどかが吹き出した。

 

 つられて、俺も少し笑う。

 

 その瞬間に、もう一度シャッター音が鳴った。

 

 「今のいい!」

 

 卯月が母親のところへ駆け寄り、撮った写真を確認する。

 

 「ほんとだ。きっしー笑ってる」

 

 「俺だって笑うことくらいある」

 

 「珍しいね」

 

 「珍獣みたいに言うな」

 

 「シャボテン公園に展示してもらう?」

 

 「されない」

 

 桜の下を歩きながら、俺たちは何度も立ち止まった。

 

 卯月は桜の木を撮り。

 

 のどかはスマホで景色を撮り。

 

 卯月のお母さんは、そんな三人を少し離れたところから見ていた。

 

 桜を一通り眺めた頃、卯月が大室山を見上げた。

 

 「ねえ」

 

 嫌な予感がした。

 

 「今度はなんだよ?」

 

 「せっかくだから、上まで行かない?」

 

 卯月が指差した先には、大室山登山リフトの乗り場が見える。

 

 山の斜面を、何台ものリフトがゆっくりと上っていた。

 

 「登山っていうか、リフトで上がるんだろ」

 

 「でも山に登るから登山!」

 

 「そこはどっちでもいいけど」

 

 のどかも山頂を見上げる。

 

 「せっかく来たし、行ってみたいかも」

 

 「のどかも?」

 

 「景色よさそうじゃん」

 

 「私も久しぶりに乗ろうかしら」

 

 卯月のお母さんまで乗り気だった。

 

 多数決を取るまでもない。

 

 「……分かったよ」

 

 「やった!」

 

 卯月が両手を上げる。

 

 「じゃあ三人で乗ろ!」

 

 「いや、二人乗りだぞ」

 

 俺はリフトを指差す。

 

 一台につき、座れるのは二人。

 

 見れば分かる。

 

 卯月もリフトを見る。それから少し考える。

 

 「じゃあ、のどかの上に座るね!」

 

 「卯月重いから嫌だ」

 

 のどかが即答した。

 

 「のどかよりは軽いよ!」

 

 「そういう問題じゃないっつうの!」

 

 のどかのツッコミが響く。

 

 近くにいた観光客が、少しだけこちらを見た。

 

 卯月は不思議そうに首を傾げる。

 

 「でも、二人分の席に三人で乗るなら、誰かが上に座らないと」

 

 「だから三人で乗らないんだよ」

 

 「じゃあ、きっしーの上?」

 

 「もっと駄目だ」

 

 「なんで?」

 

 「なんでだと思う?」

 

 「重いから?」

 

 「そういう問題でもない」

 

 「じゃあ軽かったらいいの?」

 

 「よくない」

 

 「きっしーの難問」

 

 卯月は本気で悩んでいる。

 

 「何が難しいんだよ」

 

 「誰の上に座ればいいか」

 

 「誰の上にも座るな」

 

 そのやり取りを聞いていた卯月のお母さんが、娘の肩を軽く叩いた。

 

 「あんたは私と一緒」

 

 「えー」

 

 「えー、じゃないの」

 

 「私、三人で乗りたかった」

 

 「リフトを壊す気?」

 

 「壊れないよ」

 

 「係員さんに止められるわよ」

 

 「じゃあ、乗ってから移動すれば」

 

 「しない」

 

 卯月のお母さんの声が少しだけ強くなる。

 

 卯月は口を尖らせた。

 

 「はーい」

 

 「最初からそうしろ」

 

 俺が言うと、卯月が振り返る。

 

 「じゃあ、きっしーとのどかが一緒?」

 

 「流れ的にはそうなるだろ」

 

 「二人きりだね!」

 

 「前後に人いるだろ」

 

 「でも座席は二人きり」

 

 「だから何だよ」

 

 「手繋げるよ」

 

 「お前はなんで毎回そこに持っていくんだ」

 

 「恋人だから?」

 

 「質問で返すな」

 

 のどかは顔を少し赤くしながら、卯月の肩を押した。

 

 「ほら、早く行くよ」

 

 「のどか照れてる?」

 

 「照れてない」

 

 「耳赤いよ」

 

 「風が冷たいから」

 

 「さっきのきっしーと同じ言い訳」

 

 「うるさい」

 

 卯月は楽しそうに笑いながら、母親と一緒にリフト乗り場へ向かっていく。

 

 俺とのどかは、その少し後ろを歩いた。

 

 「……卯月、元気だな」

 

 「今さら?」

 

 「いや」

 

 さっきまで電車の中で、あいつが無理をしているんじゃないかと考えていた。

 

 けれど、のどかの上へ座ろうと真剣に提案する姿を見ていると、少なくとも今は、いつもの卯月に見える。

 

 いつも通り。

 

 それは、何も傷ついていないということではない。

 

 それでも、今ここで笑えているのなら。

 

 その笑顔を、わざわざ疑う必要もないのかもしれない。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「何考えてるの」

 

 「別に」

 

 「また卯月のこと?」

 

 「……少しだけ」

 

 のどかが俺の腕を軽く小突いた。

 

 「やっぱり妬く」

 

 「仕方ないだろ。さっきの話もあったし」

 

 「分かってるけど」

 

 のどかは少し前を歩く卯月を見る。

 

 「今は普通に楽しめばいいんじゃない?」

 

 「そうだな」

 

 「卯月も、そのつもりで来てるんだろうし」

 

 前を見る。

 

 卯月は母親に何か話しながら、リフトを指差していた。

 

 たぶん、どちら側へ座るかでも相談しているのだろう。

 

 「それに」

 

 のどかが続ける。

 

 「今から蓮真は、あたしとのリフトデートだから」

 

 「リフト乗るだけだろ」

 

 「二人きりで」

 

 「前にも後ろにも人いるって」

 

 「そういうこと言わなくていいの」

 

 のどかが俺の手を取った。

 

 指が絡む。

 

 「乗る前から繋ぐのか?」

 

 「落としたら困るから」

 

 「俺は荷物か」

 

 「大事な荷物」

 

 「それ、褒めてるのか?」

 

 「たぶん」

 

 どこかで聞いたような返事だった。

 

 俺たちはそのまま、リフト乗り場の列へ並んだ。

 

 少し前には卯月と母親。

 

 順番が近づくと、卯月が何度も後ろを振り返る。

 

 「きっしー、のどか!離れないでね!」

 

 「リフトで離れるのはお前たちの方だろ」

 

 「山頂で会おうね!」

 

 「大げさだな」

 

 「もし別の山頂に着いたら連絡して!」

 

 「同じリフトで別の山頂には着かない」

 

 「念のため!」

 

 係員に促され、先に卯月と母親がリフトへ乗る。

 

 卯月は座った直後から振り返り、こちらへ手を振っていた。

 

 「卯月、危ないから前向きなさい!」

 

 「大丈夫ー!」

 

 その返事に、係員まで少し笑っていた。

 

 次のリフトが近づいてくる。

 

 「ほら、蓮真」

 

 のどかに腕を引かれ、俺たちは並んで腰を下ろした。

 

 リフトがゆっくりと地面を離れる。

 

 足元が、少しずつ遠くなっていく。

 

 「……思ったより高いな」

 

 「怖い?」

 

 「別に」

 

 「手、強く握ってるけど」

 

 「落とさないためだよ」

 

 「誰を?」

 

 「大事な荷物を」

 

 そう返すと、のどかは一瞬だけ目を丸くした。それから。

 

 「なにそれ」

 

 そう言いながら、少し嬉しそうに笑った。

 

 前のリフトでは、卯月がまた後ろを向いている。

 

 「きっしー! のどかー!」

 

 「前向けって!」

 

 「写真撮っていいー?」

 

 「リフトの上でカメラ出すな!」

 

 「スマホならいい?」

 

 「そういう問題じゃない!」

 

 大室山の斜面に、俺の声とのどかの笑い声が響いた。

 

 春の風が吹き抜ける。

 

 遠ざかる桜と、近づいていく空。

 

 そして少し前には、最後までこちらを観察し続ける卯月がいた。

 

 リフトが山頂駅へ近づくにつれて、視界の中から地面が消えていった。

 

 代わりに見えてきたのは、丸い火口跡を囲む稜線と、その向こうに広がる空だった。

 

 先に到着した卯月が、係員に促されながらリフトを降りる。

 

 「お母さん、早く!」

 

 「分かってるから、引っ張らないの」

 

 卯月のお母さんが娘をたしなめる声が、風に流されて届いてくる。

 

 俺とのどかの乗ったリフトも、ゆっくりと乗り場へ滑り込んだ。

 

 「足元に気をつけてください」

 

 係員の声に合わせて、二人で立ち上がる。

 

 リフトから降りた直後、のどかが俺の腕を掴んだ。

 

 「危なっ」

 

 「大丈夫か?」

 

 「ちょっとタイミングずれただけ」

 

 「怖くなかったんじゃないのか」

 

 「怖いなんて一言も言ってない」

 

 そう言いながらも、のどかはしばらく俺の腕を離さなかった。

 

 「きっしー、のどかー!」

 

 先の方で、卯月が両手を振っている。

 

 「早くー!」

 

 「着いたばっかりだろ」

 

 「山が逃げちゃうよ!」

 

 「逃げない」

 

 「噴火したら形変わるかも!」

 

 「縁起でもないこと言うな」

 

 俺たちは卯月たちのところへ向かった。

 

 山頂には、火口跡の周囲をぐるりと一周する遊歩道が延びている。

 

 外側から眺めれば綺麗な円錐形をした大室山も、上へ来ると中心が大きく窪んでいた。

 

 「山の中に穴が空いてる!」

 

 卯月が火口跡を覗き込みながら言う。

 

 「火口だからな」

 

 「落ちたらどうなるんだろ」

 

 「痛いと思う」

 

 「そういう感想?」

 

 「他に何を期待してたんだよ」

 

 のどかも隣から火口を覗く。

 

 「思ったより深いね」

 

 「のどか、落ちないでね」

 

 「卯月にだけは言われたくない」

 

 「私は落ちても上ってくるよ!」

 

 「どうやって」

 

 「気合い」

 

 「火山相手に精神論を持ち出すな」

 

 卯月は「行こー!」と、何事もなかったように歩き出した。

 

 俺たちは、火口を時計回りに回る東側の道へ進む。

 

 遊歩道は舗装されているものの、緩やかな上り下りが続いていた。

 

 右側には火口跡。左側には、伊東の街と相模湾が見える。

 

 雲はほとんどなく、海の色は水平線へ近づくにつれて薄くなっていた。

 

 「島ある!」

 

 卯月が遠くを指差す。

 

 海の上に、いくつもの島影が浮かんでいる。

 

 「伊豆諸島じゃないか?」

 

 「どれが何島?」

 

 「俺に聞くなよ」

 

 「きっしー、地理詳しそうなのに」

 

 「詳しそうだけで全部分かると思うな」

 

 卯月のお母さんが景色を見ながら言う。

 

 「大島は、あの一番大きく見える島じゃないかしら」

 

 「じゃあ、あれが大島!」

 

 卯月はすぐにカメラを構える。

 

 「大島撮った!」

 

 「合ってるか確認してから喜べよ」

 

 「写真は逃げないから、後で調べればいいの」

 

 「妙なところで合理的だな」

 

 「統計科学学部だからね!」

 

 「今の話に統計は関係ないだろ」

 

 風が強く吹き、卯月の黒髪が大きく揺れた。

 

 帽子が飛ばされそうになり、慌てて片手で押さえる。

 

 「あぶなーい!」

 

 「気をつけろよ」

 

 「きっしー、取って!」

 

 「飛んでから言うな」

 

 「飛ぶ前に取ったら、きっしーが帽子取った人になるよ?」

 

 「知らないよ」

 

 卯月は笑いながら再び歩き出す。

 

 少し先で、遊歩道の外側が大きく開けていた。

 

 視界を遮るものが何もない。

 

 伊豆半島の東側から、相模湾を越えて、そのさらに向こうまで見渡せる。

 

 「すご……」

 

 のどかが足を止めた。

 

 いつもなら何か一言つけ加えるのに、今はただ景色を見ている。

 

 俺も隣に並ぶ。

 

 手前には伊東の街。その向こうには海岸線が続き、霞の中に湘南や三浦半島らしい陸地が重なっている。

 

 さらに遠く。

 

 水平線の近くに、細い建物の影が並んでいた。

 

 「東京も見えるんじゃない?」

 

 のどかが目を細める。

 

 「天気いいから、見えてもおかしくないかもな」

 

 「どれが東京?」

 

 いつの間にか卯月も隣へ来ていた。

 

 「向こうの高い建物が並んでる辺りじゃないか」

 

 「小さすぎて分かんない」

 

 「距離あるからな」

 

 四人で同じ方向を眺める。

 

 しばらくして、「あ!」と、卯月が突然声を上げた。

 

 「何だよ」

 

 「スカイツリー!」

 

 卯月が、遠くの一点を指差している。

 

 その指の先。霞んだ街並みの中に、針みたいに細長い塔が伸びていた。

 

 隣の高層ビルより、明らかに高い。

 

 「……本当だ」

 

 のどかも気づいたらしい。

 

 「卯月、目いいな」

 

 俺が言うと。

 

 「ふふふ」

 

 卯月が、なぜか含みのある笑い声を漏らした。

 

 「なんだよ、その笑い方」

 

 「別にー?」

 

 「絶対なんかあるだろ」

 

 「スカイツリー、楽しかった?」

 

 「……」

 

 その一言で、何の話か分かった。

 

 誕生日。

 

 のどかと二人で東京スカイツリーへ行った日のこと。

 

 展望台から見下ろした東京の街。

 

 夕方から夜へ変わっていく空。

 

 今朝から卯月に何度も揶揄われている、あの日のデートだった。

 

 「急に何の話だよ」

 

 「きっしーの誕生日デート」

 

 「またその話か」

 

 「大室山からもスカイツリー見えるんだね」

 

 卯月は嬉しそうに言う。

 

 「じゃあ、スカイツリーからも大室山見えるかな?」

 

 「条件が良ければ見えるかもな」

 

 「じゃあ、あの日のきっしーとのどかも、ここ見てたかもしれないね!」

 

 「見てない」

 

 「なんで言い切れるの?」

 

 「大室山を探してないから」

 

 「のどかは?」

 

 卯月が反対側へ回り込み、のどかの顔を覗く。

 

 「覚えてない」

 

 「きっしーの顔ばっかり見てた?」

 

 「卯月」

 

 「なに?」

 

 「崖から落とそうか?」

 

 「のどか怖い!」

 

 卯月は笑いながら母親の後ろへ隠れた。

 

 「お母さん、のどかが怖い」

 

 「自業自得じゃない?」

 

 「お母さんまで!」

 

 「さっきから蓮真くんとのどかちゃんを揶揄ってるからでしょ」

 

 「楽しいんだもん」

 

 「本人たちは楽しくない」

 

 「俺を巻き込むなよ」

 

 のどかへ言うと、軽く睨まれた。

 

 「蓮真は否定しなくていいの」

 

 「なんでだよ」

 

 「楽しかったでしょ。スカイツリー」

 

 「……まあ」

 

 素直に答えると、のどかは満足そうに笑う。

 

 それを見て、卯月がまた。

 

 「ふふふ」

 

 と笑った。

 

 「その笑い方やめろ」

 

 「幸せそうでいいねぇ」

 

 「お前、年いくつだよ」

 

 「もうすぐ二十歳!」

 

 「知ってる」

 

 卯月は遠くのスカイツリーへカメラを向ける。

 

 さすがに距離がありすぎて、綺麗に写るとは思えない。

 

 それでも、何度かズームを調整しながらシャッターを切っていた。

 

 「あとで、きっしーとのどかに送るね」

 

 「何を?」

 

 「二人の思い出の場所を、二人のデートに同行した私が、大室山から撮った写真」

 

 「情報量が多いな」

 

 「タイトル長いよ卯月」

 

 「作品名みたいに言うな」

 

 再び歩き始める。

 

 東側を回り終える頃には、海側の景色から、伊豆半島の山並みが見える方向へ少しずつ変わっていった。

 

 火口跡を挟んだ反対側には、先ほど歩いていた遊歩道が細い線のように延びている。

 

 坂を上り切ったところで、今度はのどかが声を上げた。

 

 「あ、富士山!」

 

 ほとんど同時に。

 

 「富士山!」

 

 卯月も叫んだ。二人が揃って北西の方角へ駆けていく。

 

 「走るなよ」

 

 さっきと同じ言葉を投げる。

 

 でも二人とも聞いていない。

 

 遊歩道の向こうに、大きな富士山が見えていた。

 

 頂上付近には雪が残り、白い斜面が青空の下でくっきりと浮かんでいる。

 

 手前に連なる山々よりも、ひときわ高い。

 

 それでいて、不思議なくらい整った形をしていた。

 

 「すごい!」

 

 「綺麗!」

 

 のどかと卯月が並んで景色を見ている。

 

 さっきまでは俺を挟んで写真を撮っていた二人が、今は同じ方向へ身を乗り出していた。

 

 卯月のお母さんと俺は、少し離れたところからその姿を見守る。

 

 「二人とも、楽しそうね」

 

 「そうですね」

 

 「去年、河口湖へ行った時を思い出すわ」

 

 「麻衣先輩の貸別荘行った時のですか?」

 

 「そうそう。麻衣ちゃんや咲太くん、花楓ちゃんたちと一緒に」

 

 「なんか懐かしいですね」

 

 「あの時も、富士山を見てみんな騒いでたわね。卯月なんて、帰り道富士山が見えるたびに写真を撮ってたし」

 

 「ほんと、今と変わらないですね」

 

 「そうね。写真を整理するの、大変だったわ」

 

 「お母さん、聞こえてるよー!」

 

 富士山の方から、卯月の声が飛んでくる。

 

 「聞こえるように言ってるのよ」

 

 「ひどい!」

 

 卯月のお母さんは笑ってから、俺を見る。

 

 「蓮真くんは、富士山は見慣れてそうね」

 

 「まあ」

 

 俺も富士山へ視線を向ける。

 

 「父が静岡出身で。俺も、昔からよく静岡へ行くので」

 

 「そうだったの」

 

 「はい」

 

 何度も見た山だった。

 

 新幹線の窓から。東海道線の車内から。

 

 静岡の街から。

 

 父親の実家へ向かう途中から。

 

 だから、のどかや卯月ほどはしゃぐことはない。

 

 いつもそこにある景色。

 

 見慣れた形。そう思っていた。

 

 「……」

 

 けれど。

 

 大室山から見る富士山を眺めていると、胸の奥にわずかな違和感が生まれた。

 

 風の音が、少しだけ遠のく。

 

 目の前の景色へ、別の景色が重なる。

 

 青い空。遠くに浮かぶ富士山。

 

 その手前には、街と海。

 

 長く延びた海岸線。

 

 大室山ではない。

 

 もっと西にある場所。

 

 ——富士山、大きいね

 

 誰かの声がした。

 

 女の子の声。

 

 幼い声。すぐ近くにいる。

 

 けれど、顔が見えない。

 

 白い指が、富士山を指差している。

 

 風に揺れる髪。

 

 隣に並ぶ、小さな影。

 

 違う。

 

 今の俺は、大室山から富士山を見ている。

 

 それなのに。

 

 その記憶の中にいる俺も、どこか別の場所から、同じくらい離れた富士山を眺めている。

 

 家族と行った時の記憶かもしれない。

 

 もしかしたら、父親に連れられて行ってもらったのかもしれない。

 

 そう思おうとする。

 

 でも。

 

 胸の奥に残った感覚は、家族との思い出とは少し違っていた。

 

 誰かが隣にいた。

 

 俺と同じくらいの年齢の女の子。

 

 顔は見えない。名前も分からない。

 

 なのに、その子が笑っていたことだけは、なぜか分かる。

 

 ——いつか、一緒に富士山行こうね

 

 そんな声が。記憶の底から浮かびかける。

 

 「蓮真ー!」

 

 のどかの声が、現実を引き寄せた。

 

 目の前の富士山だけが残る。

 

 隣にいたはずの少女も。

 

 最初から何もなかったように消えていた。

 

 「きっしー、早くー!」

 

 卯月も手を振っている。

 

 二人は富士山を背景に写真を撮るつもりらしい。

 

 卯月がカメラを掲げ、のどかがこちらへ来いと手招きしている。

 

 「蓮真くん?」

 

 卯月のお母さんが、心配そうにこちらを見る。

 

 「どうかした?」

 

 「……いえ」

 

 俺は小さく首を振った。

 

 「少し、昔のことを思い出しただけです」

 

 自分で答えながら、その言葉に自信はなかった。

 

 昔のこと。それは間違いない。

 

 でも、誰との記憶だったのか。

 

 どうして今まで忘れていたのか。

 

 何一つ分からない。

 

 「蓮真、遅い!」

 

 のどかがもう一度呼ぶ。

 

 「きっしーがいないと、三人の写真撮れないよ!」

 

 「二人で撮ればいいだろ」

 

 歩きながら返す。

 

 「それじゃ三人の写真じゃないよ!」

 

 「当たり前だ」

 

 いつもの返事が、少し遅れて口から出た。

 

 卯月の隣へ着くと、腕を引かれる。

 

 「きっしー、真ん中!」

 

 「また俺が真ん中なのか」

 

 「観察対象だから」

 

 「便利な設定だな」

 

 右側にはのどか。左側には卯月。

 

 二人が肩を寄せてくる。

 

 卯月のお母さんが、俺たちからカメラを受け取った。

 

 「富士山も入れるわね」

 

 「お願い、お母さん!」

 

 「三人とも、もう少し近づいて」

 

 「さっきも言われたな、それ」

 

 「蓮真が離れようとするからでしょ」

 

 のどかが俺の腕を掴む。

 

 反対側では、卯月も同じように腕へ手を回してきた。

 

 「卯月!」

 

 「写真だから!」

 

 「それ、さっきも聞いた」

 

 「じゃあ笑って!」

 

 「急に言われても」

 

 「富士山思い浮かべて!」

 

 「目の前にあるだろ」

 

 のどかが吹き出す。

 

 卯月も笑う。

 

 その笑いにつられて、俺の口元も少しだけ緩んだ。

 

 シャッター音が鳴る。

 

 その瞬間。

 

 もう一度だけ、記憶の奥で誰かが笑った気がした。

 

 けれど、今度は振り返らなかった。

 

 今、俺の隣にいるのは、のどかと卯月だ。

 

 目の前には富士山がある。

 

 春の風が、大室山の稜線を吹き抜けていく。

 

 「今の、いい写真!」

 

 卯月が母親のもとへ駆け寄る。

 

 「ほんとだ。きっしー、ちゃんと笑ってる」

 

 「俺だって笑う」

 

 「今日はいっぱい笑ってるね」

 

 「お前が余計なことばかり言うからだよ」

 

 「じゃあ、私のおかげ!」

 

 「都合よく解釈するな」

 

 卯月は満足そうに笑った。

 

 その横で、のどかが俺の顔を覗き込む。

 

 「さっき、何考えてたの?」

 

 「……昔、静岡で富士山を見た時のこと」

 

 「誰と?」

 

 「分からない」

 

 「分からないって何」

 

 「そのままの意味」

 

 のどかは少し怪訝そうな顔をした。

 

 それでも、それ以上は聞いてこなかった。

 

 代わりに、俺の袖を軽く摘まむ。

 

 「置いてかないでよ」

 

 「置いてかれたのは俺の方だろ」

 

 「じゃあ、ちゃんとついてきて」

 

 「分かったよ」

 

 俺たちは再び、火口を囲む道を歩き始めた。

 

 前では卯月が、母親に撮った写真を見せながら騒いでいる。

 

 隣では、のどかが俺の歩幅に合わせている。

 

 背後には、富士山。

 

 そして記憶の中には、名前の分からない誰か。

 

 その輪郭は、まだ霧の向こうにあった。

 

 思い出そうとすればするほど、遠ざかっていく。

 

 だから今は。

 

 のどかと卯月の背中を追いかける。

 

 それだけでいい。

 

 「きっしー、次はシャボテン公園だよ!」

 

 先を歩く卯月が振り返る。

 

 「お前、本当にカピバラ七なんだな」

 

 「山頂で桜も見たから、今はカピバラ八!」

 

 「桜の割合が減ってるじゃないか!」

 

 大室山の上に、俺の声が響いた。

 

 卯月とのどかの笑い声が、そのあとを追いかけてきた。

 

 大室山を下りると、卯月の足は迷うことなく、隣接する伊豆シャボテン動物公園へ向かった。

 

 さくらの里を歩いていた時より、明らかに速い。

 

 「お前、急に元気になったな」

 

 「カピバラが待ってるから!」

 

 「向こうはお前を待ってないと思うぞ」

 

 「待ってるかもしれないよ?」

 

 「どうやって認識するんだよ」

 

 「カピバラの勘!」

 

 「便利だな、それ」

 

 卯月は入園口でもらった案内図を広げ、真剣な表情で現在地を確認していた。

 

 桜のパンフレットは母親任せだったくせに、動物公園の園内図にはいくつも印がついている。

 

 「カピバラがここで、リスザルがこっち。クジャクは園内を自由に歩いてるから、会えたらラッキーなんだって!」

 

 「ずいぶん調べてきたな」

 

 「カピバラ七だからね!」

 

 「さっき八に増えてただろ」

 

 「あれは山頂限定の割合!」

 

 「割合が場所によって変動するのかよ」

 

 「統計だから!」

 

 「絶対違う」

 

 隣で、のどかが小さく笑った。

 

 入園してしばらく歩くと、柵の向こうに丸い背中がいくつも見えてきた。

 

 「カピバラ!」

 

 卯月の声が一段高くなる。

 

 「いた!ほんとにいた!」

 

 「動物公園なんだから、いるだろ」

 

 「でも写真じゃなくて本物だよ!」

 

 「そりゃそうだ」

 

 卯月は柵の前へ駆け寄り、しゃがみ込んだ。

 

 カピバラたちは、そんな卯月の興奮など気にも留めず、地面へ伏せたり、干し草を食べたりしている。

 

 近くには餌を販売する小さな箱が置かれていた。

 

 「きっしー、餌買お!」

 

 「自分で買えよ」

 

 「小銭ない」

 

 「さっきお菓子買ってただろ」

 

 「あれはお母さんのお金!」

 

 「胸を張るな」

 

 仕方なく硬貨を入れ、餌を一つ取り出す。

 

 卯月は当然のように手を差し出してきた。

 

 「はい」

 

 「全部渡すと思うなよ」

 

 「じゃあ半分!」

 

 「最初からそれくらいの交渉をしろ」

 

 餌を分けると、卯月は嬉しそうにカピバラの前へ差し出した。

 

 一頭がゆっくりと近づいてくる。

 

 鼻先をひくひく動かし、卯月の手から餌を食べ始めた。

 

 「かわいい……」

 

 卯月の声が急に小さくなる。

 

 「口、もぐもぐしてる」

 

 「食べてるからな」

 

 「きっしーもあげて!」

 

 俺も手のひらへ餌を載せ、柵の内側へ差し出した。

 

 別の一頭が近づいてくる。

 

 警戒する様子もなく、淡々と餌を食べていった。

 

 その隣では、さっき卯月から餌をもらったカピバラが、まだ口を動かしている。

 

 卯月は二頭を交互に見てから、何かに気づいたように顔を上げた。

 

 「あっ」

 

 「今度はなんだ?」

 

 「カピバラ、お兄さんみたい!」

 

 「なんで咲太が出てくる」

 

 卯月は餌を食べ続けるカピバラを指差した。

 

 「何考えてるか分かんない顔で、ずっともぐもぐしてるところ」

 

 「咲太はいつも何か食べてるわけじゃないだろ」

 

 「でも、確かに咲太っぽいかも」

 

 のどかが真顔で同意した。

 

 「のどかまで」

 

 「眠そうな顔して、周りで何が起きてもあんまり動じなさそうなところ」

 

 「それなら分からなくもないけど」

 

 「あと、急に噛みつきそう」

 

 「カピバラはそんなことしないだろ」

 

 「お兄さんはするよ!」

 

 「ひどいな」

 

 その場にいない咲太の評価が、カピバラを基準に勝手に固められていく。

 

 少し申し訳なくなった。

 

 ほんの少しだけ。

 

 「ねえ、きっしー」

 

 「ん?」

 

 「私も入っていい?」

 

 卯月が指差した先には、湯気の立つカピバラの温泉があった。

 

 何頭かのカピバラが、目を細めて湯へ浸かっている。

 

 「駄目に決まってるだろ」

 

 「でも気持ちよさそう」

 

 「人間用じゃないから」

 

 「端っこなら空いてるよ?」

 

 「空席の問題じゃない」

 

 卯月は柵へ近づき、温泉を羨ましそうに眺める。

 

 「カピバラと一緒に入りたい」

 

 「絶対やめて」

 

 今度はのどかも本気の声で止めた。

 

 「ニュースになるから」

 

 「キャッチは『人気アイドル、カピバラ温泉へ』だね!」

 

 「見出しを考えるな」

 

 「バズるかも!」

 

 「悪い意味でね」

 

 「スイートバレットの知名度上がるよ?」

 

 「そんな上げ方いらない!」

 

 のどかが卯月の腕を掴み、温泉から引き離す。

 

 卯月は名残惜しそうに何度も振り返った。

 

 「またね、カピバラ」

 

 「二度と入ろうとするなよ」

 

 「次は水着持ってくる」

 

 「そういう意味じゃないっつうの!」

 

 のどかの声が園内に響いた。

 

 それからしばらく歩くと、園内の展示施設へ入った。

 

 少し薄暗い館内。

 

 その一角に、翼を畳み、長い嘴を前へ向けた大きな鳥の剥製が展示されていた。

 

 説明には、長年この動物公園で飼育されていたハシビロコウの名前が記されている。

 

 ビル。

 

 鋭い眼差しと、微動だにしない姿。

 

 剥製になっても、妙な存在感があった。

 

 「……きっしー」

 

 卯月が、ビルと俺を交互に見る。

 

 嫌な予感しかしない。

 

 「何だよ」

 

 「ハシビロコウみたい」

 

 「またかよ」

 

 「また?」

 

 「上野動物園で、のどかにも同じこと言われた」

 

 俺が答えると、のどかが改めてビルを見る。

 

 それから俺を見る。

 

 「やっぱそう見えるよね」

 

 「そこで意気投合するな」

 

 「じっとしてて、目つき悪くて、何考えてるか分かりにくいところ」

 

 「さっきの咲太とほとんど同じじゃないか」

 

 「咲太はカピバラ。蓮真はハシビロコウ」

 

 「分類された」

 

 卯月は展示の説明文を読んでいた。

 

 途中で「あれ?」と声を上げる。

 

 「どうした?」

 

 「このビルって、ずっと『長老』とか『ビルじいさん』って呼ばれてたんだって」

 

 「長生きしたからだろ」

 

 「でもね」

 

 卯月が説明板の一部を指差す。

 

 「死んだあとに調べたら、女の子だったんだって!」

 

 「女の子っていう年齢じゃないだろ」

 

 「じゃあ、ビルおばあさん?」

 

 「本人の気持ちは分からないけどな」

 

 卯月は再び、俺の顔をじっと見る。

 

 「……きっしー」

 

 「今度はなんだ」

 

 「きっしーって、もしかして女の子?」

 

 「何を根拠に」

 

 「ハシビロコウに似てるから」

 

 「似てる動物の性別が、そのまま人間へ適用されるわけないだろ」

 

 「でも、まだ解剖してないし」

 

 「するな」

 

 のどかが吹き出した。

 

 「卯月、それはさすがに失礼」

 

 「のどかは、きっしーが男の子だって確認したの?」

 

 「は?」

 

 のどかの笑顔が一瞬で固まった。

 

 俺も言葉を失う。

 

 卯月だけが、自分で何を言っているのか分からず、不思議そうに二人を見ている。

 

 「付き合ってても、確認する必要ないから!」

 

 「そうなの?」

 

 「そうなの!」

 

 「じゃあ、きっしーはまだビルの可能性があるんだ」

 

 「ない」

 

 即座に否定する。

 

 「残念」

 

 「何を期待してたんだよ」

 

 卯月はもう一度ビルの剥製へ向き直り、手を合わせた。

 

 「ビルおばあさん、きっしーに似てるって言ってごめんね」

 

 「謝る相手が逆だろ」

 

 「ビルに失礼だもん」

 

 「俺にも失礼だからな」

 

 館内を出る頃には、のどかはまだ少し笑っていた。

 

 「そんなに面白かったか?」

 

 「だって、蓮真が女の子かもしれないって」

 

 「お前まで乗るなよ」

 

 「大丈夫。蓮真がどっちでも、あたしは別に」

 

 「妙に理解のある彼女みたいな言い方するな」

 

 「いい彼女でしょ?」

 

 「自分で言うなよ」

 

 「否定しないんだ」

 

 のどかは満足そうに笑い、俺の腕へ軽く肩を寄せた。

 

 外へ出ると、園路のすぐそばをクジャクが歩いていた。

 

 鮮やかな青い首。

 

 地面へ長く垂れた尾羽。

 

 柵の中ではない。

 

 普通の来園者と同じように、園内をゆっくり歩いている。

 

 「クジャク!」

 

 卯月が声を上げる。

 

 「ほんとに放し飼いなんだ!」

 

 「追いかけるなよ」

 

 「追いかけてないよ。一緒に歩いてるだけ!」

 

 卯月はクジャクの横へ並び、歩く速度を合わせ始めた。

 

 クジャクは気にする様子もなく進んでいく。

 

 その少し後ろを、のどかまでついていった。

 

 「のどかまで何してるんだ」

 

 「近くで見ると綺麗なんだもん」

 

 「羽、広げないかな」

 

 卯月が期待するように言う。

 

 「卯月が変な踊りしたら、対抗して広げるかも」

 

 「ほんと?」

 

 「嘘に決まってるでしょ」

 

 のどかが即座に止めた。

 

 危うく園内で謎の求愛ダンスが始まるところだった。

 

 隣で、卯月のお母さんが苦笑する。

 

 「二人とも、今日は本当に楽しそう」

 

 「そうですね」

 

 俺たちは少し離れた場所から、クジャクを追う二人を見守った。

 

 こうして並んでいると、姉妹みたいにも見える。

 

 実際には、同じグループで長く過ごしてきた仲間だ。

 

 恋敵になって。

 

 それでも、こうして同じものを見て笑っている。

 

 「蓮真くん」

 

 「はい」

 

 「卯月のこと、これからもよろしくね」

 

 不意に言われて、返事に詰まった。

 

 「……俺にできる範囲なら」

 

 ようやく、そう答える。

 

 「それで十分よ」

 

 その言葉の意味を考えるより先に、卯月の声が飛んできた。

 

 「きっしー! リスザル!」

 

 見ると、木の枝や柵の上を、小さな猿たちが自由に動き回っていた。

 

 卯月のすぐ近くへ一頭が下りてくる。

 

 「近い!」

 

 「触るなよ」

 

 「触ってないよ!」

 

 「でも手を出してるだろ」

 

 「握手してくれるかも」

 

 「しないって」

 

 リスザルは卯月の差し出した手には興味を示さず、その横にいたのどかのバッグへ顔を近づけた。

 

 「ちょっと、何?」

 

 のどかが慌ててバッグを抱える。

 

 「お菓子入ってるからじゃない?」

 

 卯月が言う。

 

 「卯月が用意したやつでしょ」

 

 「甘いのとしょっぱいの両方!」

 

 「今それ関係ないから!」

 

 リスザルが離れていくと、のどかは胸を撫で下ろした。

 

 その様子を見て、卯月が楽しそうに笑う。

 

 「のどか、リスザルにモテてたね」

 

 「嬉しくない」

 

 「きっしー、妬いた?」

 

 「なんでリスザル相手に」

 

 「恋のライバルだよ」

 

 「範囲広すぎるだろ」

 

 「蓮真は、卯月には妬いてくれないもんね」

 

 のどかがぽつりと言った。

 

 明るい調子だった。けれど、少しだけ棘があった。

 

 「……え?」

 

 俺が顔を向けると、のどかはもうリスザルの方を見ている。

 

 卯月も一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 「のどか?」

 

 「何でもない」

 

 「何でもない言い方じゃなかったけど」

 

 「いいから、次行くよ」

 

 のどかは少し早足で歩き出した。

 

 卯月は俺を見る。

 

 「きっしー」

 

 「分かってる」

 

 小さく答え、のどかの後を追った。

 

 卯月もすぐについてくる。

 

 完全に怒っているわけではない。

 

 でも、何も感じていないわけでもない。

 

 それを分かりやすく示すように、のどかは俺の隣へ戻ってくると、いつもより少し強く腕を組んできた。

 

 「……歩きにくい」

 

 「我慢して」

 

 「はい」

 

 後ろから、卯月の楽しそうな笑い声が聞こえた。

 

 「きっしー、のどかに捕まったね!」

 

 「誰のせいだと思ってるんだ」

 

 「リスザル?」

 

 「お前だよ」

 

 園内を一通り歩いたあと、卯月が案内図を見ながら次の目的地を指差した。

 

 「あ、ボートある!」

 

 そこには、園内中央の池を巡る『アニマルボートツアーズ』の案内が載っていた。

 

 「乗ろう!」

 

 「お前、まだ元気なのか」

 

 「カピバラ八だから!」

 

 「もう桜の要素、ほとんど消えてるな」

 

 卯月は受付の方へ駆けていく。

 

 俺たちも、その後を追った。

 

 乗り場の先には、思っていたより大きな池が広がっていた。

 

 水面には大小いくつもの島が浮かび、木々の間を小さな影が動き回っている。

 

 池の周囲には、鮮やかな桃色をしたフラミンゴや、草地でじっとしているカピバラの姿も見えた。

 

 「島ある!」

 

 卯月が案内板へ駆け寄る。

 

 「一、二、三、四……」

 

 「九つって書いてあるぞ」

 

 「今数えてるところだったのに!」

 

 「答え書いてあるのに数える意味あるのか?」

 

 「合ってるか確認するため!」

 

 「何を疑ってるんだよ」

 

 案内板には、池に浮かぶ大小九つの島を巡りながら、リスザルやワオキツネザル、ブラウンキツネザル、ジェフロイクモザルなどを観察できると書かれていた。

 

 「サルいっぱい!」

 

 卯月が顔を輝かせる。

 

 「全部見つけたら何かもらえるかな?」

 

 「スタンプラリーじゃないぞ」

 

 「じゃあ、勝手に数えよ!」

 

 「何と戦ってるんだ」

 

 受付で次の便を確認すると、ちょうど二人分の席が残っているらしい。

 

 係員から説明を受けた卯月は、俺とのどかを交互に見た。

 

 「二人だけだって」

 

 「ああ」

 

 また、リフトの時のように三人で乗る方法でも考え始めるのかと思った。

 

 案の定、卯月は真剣な顔でボートを見つめる。

 

 「じゃあ……」

 

 少し考えてから。

 

 「きっしーとのどか、先に乗ってきて!」

 

 「俺たちが?」

 

 「うん!」

 

 卯月は当然のように頷いた。

 

 「なんでだよ」

 

 「だって、二人分空いてるから」

 

 「それは見れば分かる」

 

 「私とお母さんは二人だから、次のボートに乗れるでしょ?」

 

 「まあ、そうだけど」

 

 「きっしーとのどかも二人だから、今のボートに乗れる!」

 

 卯月は何か難しい問題を解いたみたいに胸を張った。

 

 「二足す二ができたね」

 

 のどかが言う。

 

 「統計科学学部だからね!」

 

 「それは算数だろ」

 

 卯月は俺の指摘を聞き流し、のどかの背中を押した。

 

 「ほら、早く!」

 

 「いいの?」

 

 のどかが尋ねる。

 

 「何が?」

 

 「卯月も乗りたかったんでしょ」

 

 「乗るよ?」

 

 「そうじゃなくて、今」

 

 「私は次に乗るから大丈夫!」

 

 卯月は何を確認されているのか分からないように首を傾げた。

 

 それから。

 

 「あ、でもカピバラいたら先に教えてね」

 

 「ボートに乗ってる俺たちがどうやって教えるんだよ」

 

 「大きい声で!」

 

 「池の反対側まで叫ばせる気か」

 

 「じゃあ、写真送って!」

 

 「最初からそう言えよ」

 

 のどかは、そんな卯月をしばらく見ていた。

 

 やがて小さく笑って、「……ありがと、卯月」、と言った。

 

 「どういたしまして?」

 

 卯月は、なぜ礼を言われたのか分かっていない顔で答えた。

 

 卯月のお母さんだけが、その横で穏やかに笑っていた。

 

 「ほら、蓮真くん。のどかちゃん。行ってらっしゃい」

 

 「ありがとうございます」

 

 のどかが少し照れたように答える。

 

 すると卯月が、ぱっと顔を上げた。

 

 「あ、これデートなんだ!」

 

 「今気づいたの?」

 

 「ボートだから探検だと思ってた」

 

 「両立するでしょ」

 

 「じゃあ、探検デート!」

 

 「名前つけなくていいから」

 

 俺とのどかは係員に促され、ボートへ乗り込んだ。

 

 横並びの座席へ腰を下ろす。

 

 ボートがわずかに左右へ揺れ、のどかが反射的に俺の腕を掴んだ。

 

 「危なっ」

 

 「大丈夫か?」

 

 「蓮真が揺らしたんでしょ」

 

 「船が揺れたんだよ」

 

 岸から、卯月の声が飛んでくる。

 

 「のどか、もうきっしー掴んでる!」

 

 「実況しなくていい!」

 

 「写真撮るね!」

 

 「撮らなくていい!」

 

 シャッター音が聞こえた。

 

 「もう撮ってるじゃない!」

 

 「出発前の記念写真!」

 

 「何の記念だよ」

 

 「初めて二人でボート乗った記念!」

 

 「細かすぎるだろ」

 

 「初めては一回しかないよ!」

 

 妙に正論だった。係員まで小さく笑っている。

 

 「仲のいいお友だちですね」

 

 「友だちというか……」

 

 のどかが言葉を濁す。

 

 俺が代わりに答えた。

 

 「一緒によく出かける仲間です」

 

 「恋人と親友第一号だよ!」

 

 岸から卯月が補足する。

 

 「卯月!」

 

 のどかの声が池に響いた。

 

 「間違ってないよ?」

 

 「間違ってなくても言わなくていいの!」

 

 「難しいね、恋愛って」

 

 「お前が難しくしてるんだよ」

 

 ボートが、ゆっくりと岸を離れ始める。

 

 卯月はまだ大きく手を振っていた。

 

 「きっしー、のどかー!カピバラ見つけてねー!」

 

 「目的変わってるぞ!」

 

 水面を切る音とともに、岸が少しずつ遠ざかっていく。

 

 園内のざわめきも薄くなり、代わりに鳥の声や、木々が風に揺れる音が近くなる。

 

 のどかは隣で、まだ少し頬を赤くしていた。

 

 「卯月、ほんと余計なことばっかり言うんだから」

 

 「今さらだろ」

 

 「蓮真は平気そうだよね」

 

 「毎回反応してたら疲れるからな」

 

 「慣れてるんだ」

 

 言い方に、ほんの少しだけ棘があった。

 

 俺は横を見る。

 

 のどかは池の景色を眺めたまま、こちらを見ようとしない。

 

 「……また妬いてるのか?」

 

 「またって言わないで」

 

 「じゃあ、今妬いてる?」

 

 「ちょっとだけ」

 

 否定はしなかった。

 

 「卯月と話してる時の蓮真、楽しそうだから」

 

 「実際、面白いからな」

 

 「正直すぎ」

 

 「のどかに嘘つくのは違うだろ」

 

 「そうだけど」

 

 のどかは唇を少し尖らせる。

 

 最初の島が近づいてくる。

 

 木々の枝を、小さなサルが素早く走り抜けた。

 

 「こちらの島には、リスザルが暮らしています」

 

 係員の説明が入る。

 

 「あ、いた!」

 

 のどかが身を乗り出す。

 

 「どこ?」

 

 「あそこ。細い枝の上」

 

 指差された先。

 

 小さな身体と長い尾が、枝から枝へ器用に移動している。

 

 「速いな」

 

 「撮れるかな」

 

 のどかがスマホを構える。

 

 シャッターを切ろうとした瞬間、リスザルは木の陰へ消えた。

 

 「あっ」

 

 「逃げられたな」

 

 「蓮真が喋るから」

 

 「俺の声が聞こえる距離じゃないだろ」

 

 「じゃあ、蓮真の気配」

 

 「随分影響力あるんだな、俺」

 

 少しして、別のリスザルが水際の枝へ下りてくる。

 

 のどかは今度こそ何枚か写真を撮った。

 

 「撮れた」

 

 「よかったな」

 

 「卯月に送ろ」

 

 「喜ぶだろうな」

 

 「……卯月のこと、よく分かってるね」

 

 また、少しだけ声が低くなる。

 

 「分かりやすいからな」

 

 「あたしは?」

 

 「何が?」

 

 「あたしも分かりやすい?」

 

 「妬いてる時は」

 

 のどかが俺の腕を軽く叩いた。

 

 「痛い」

 

 「もっと他にあるでしょ」

 

 「何がだよ」

 

 「そういうところ」

 

 「分からないな」

 

 「じゃあ、ちゃんと見て」

 

 のどかが言う。冗談っぽい口調ではなかった。

 

 「卯月ばっかり見てないで」

 

 「卯月ばっかり見てるわけじゃない」

 

 「でも、蓮真と卯月って二人だけで会話が成立してるじゃん」

 

 「主に俺がツッコんでるだけだろ」

 

 「それが楽しそうなの」

 

 「楽しくない顔でツッコめばいいのか?」

 

 「そういうことじゃない」

 

 のどかは少し困ったように眉を寄せる。

 

 「卯月が変なこと言って、蓮真がすぐ返して。それだけでずっと続くでしょ」

 

 「終わらないな」

 

 「そこに、あたしがいなくても」

 

 その一言で、ようやく分かった。

 

 のどかが気にしているのは、卯月と俺が楽しそうなことだけではない。

 

 二人の間に、自分が必要ないように見えること。

 

 そこへ嫉妬している。

 

 次の島が近づいてくる。

 

 岩の上に、白と黒の縞模様をした長い尾が見えた。

 

 「ワオキツネザルです」

 

 数頭が腕を広げるような姿勢で座り、日光を浴びている。

 

 のどかはそちらへ視線を向けたまま、俺の答えを待っていた。

 

 「でも」

 

 俺は言う。

 

 「卯月と二人で乗ってたら、こういう話はしてないと思う」

 

 「こういう話?」

 

 「妬いてるとか。寂しいとか」

 

 「寂しいとは言ってない」

 

 「違うのか?」

 

 「……少しは」

 

 小さな声だった。

 

 「俺がそういう話を聞きたいのは、のどかだから」

 

 のどかがこちらを見る。

 

 「それ、慰めてる?」

 

 「事実を言ってる」

 

 「卯月とは、楽しい話しかしないってこと?」

 

 「楽しい話というか、あいつが勝手に話を変な方向へ持っていく」

 

 「それが楽しいんでしょ」

 

 「まあ」

 

 「ほら」

 

 「……でも、のどかとは楽しいだけじゃなくていい」

 

 俺が言うと、のどかは少し黙った。

 

 「黙っててもいいし。嫌なことがあったら話してもいいし」

 

 「……」

 

 「こうやって、妬いたって言われてもいい」

 

 「面倒じゃないの?」

 

 「少しは」

 

 「そこは否定してよ」

 

 「でも」

 

 一度、言葉を切る。

 

 「その面倒なところまで知りたいと思ったから、のどかを選んだんだと思う」

 

 のどかの目が、少しだけ大きくなる。

 

 俺も、自分で言ってから恥ずかしくなった。

 

 だから、ワオキツネザルの島へ視線を逸らす。

 

 「……何それ」

 

 「俺に聞くなよ」

 

 「蓮真が言ったんでしょ」

 

 「今思ったことを言っただけ」

 

 「そういうの、急に言うのずるい」

 

 「さっき卯月にも似たようなこと言われたな」

 

 「そこで卯月出さないで」

 

 また軽く腕を叩かれる。

 

 今度はさっきより弱かった。

 

 次の島には、茶色い毛並みのブラウンキツネザルがいた。

 

 二頭が並んで枝へ座っている。

 

 「仲良し」

 

 のどかがスマホを向ける。

 

 「俺たちみたいだな」

 

 何となく言うと。

 

 「自分で言うんだ」

 

 「違ったか?」

 

 「……違わないけど」

 

 のどかは小さく笑った。

 

 さっきまでの棘は、少し薄くなっていた。

 

 さらにボートが進む。

 

 次に姿を見せたのは、手足と尾の長いジェフロイクモザルだった。

 

 枝へ腕一本でぶら下がり、大きく身体を揺らしている。

 

 「すごい!」

 

 のどかが声を上げる。

 

 「落ちないのかな」

 

 「卯月なら真似しそうだな」

 

 「する」

 

 二人の声が重なる。顔を見合わせる。

 

 のどかが先に吹き出した。

 

 「今、同じこと考えた」

 

 「卯月の行動は読みやすいからな」

 

 「さっき、空気読んでくれたけどね」

 

 「本人は二足す二の結果だと思ってたぞ」

 

 「あれ、本当に気を遣ったって分かってないのかな」

 

 「半分くらいは分かってないと思う」

 

 「卯月らしい」

 

 のどかは少し遠くを見る。

 

 「分かってないくせに、たまに欲しいことしてくれるんだよね」

 

 「そうだな」

 

 「だから嫌いになれない」

 

 「嫌いになりたいのか?」

 

 「そういう意味じゃない」

 

 少し考えてから続ける。

 

 「妬くけど、嫌いじゃないってこと」

 

 「複雑だな」

 

 「蓮真のせいでしょ」

 

 「俺だけのせいにするなよ」

 

 「だいたい蓮真のせい」

 

 ボートが島々を離れ、沿岸へ近づいていく。

 

 浅瀬には、鮮やかな桃色をしたフラミンゴが何羽も立っていた。

 

 「フラミンゴ!」

 

 のどかがまた声を上げる。

 

 片脚を上げたまま、ほとんど動かない個体もいる。

 

 「なんで片脚なんだろ」

 

 「両脚使うともったいないんじゃないか?」

 

 「何が?」

 

 「脚が」

 

 「卯月みたいなこと言わないで」

 

 「そこまで変なこと言ったか?」

 

 「結構」

 

 フラミンゴの姿が、水面へ薄く映っていた。

 

 その先の草地に、丸い背中が見える。

 

 「あ、カピバラ」

 

 「卯月が乗ってたら騒いでただろうな」

 

 のどかがスマホを構える。

 

 「写真送ってあげよ」

 

 「やっぱり咲太っぽいな」

 

 俺が言うと、のどかが笑った。

 

 「蓮真まで言うんだ」

 

 「見てたら、そう見えてきた」

 

 「お姉ちゃんに送ろうかな」

 

 「やめてやれよ」

 

 「『咲太っぽいのいた』って」

 

 「本人の写真みたいに言うな」

 

 のどかはカピバラを何枚か撮り、卯月へ送信した。

 

 すぐにスマホが震える。

 

 「早い」

 

 画面には。

 

 《カピバラ!!!》

 

 とだけ書かれていた。

 

 その下に、カピバラのスタンプが五つ続いている。

 

 「語彙なくなってるな」

 

 さらにメッセージが来た。

 

 《お兄さんいた?》

 

 「咲太じゃないって言ってやれよ」

 

 のどかが笑いながら返信する。

 

 《いたよ》

 

 「認めるのか」

 

 《草食べてた》

 

 「咲太の目撃情報みたいにするな」

 

 卯月からすぐに返信が届く。

 

 《元気そうで良かった!》

 

 「完全に咲太として認識してるな」

 

 「卯月だからね」

 

 のどかは楽しそうに笑っていた。

 

 それから、急にフロントカメラへ切り替える。

 

 「蓮真、こっち」

 

 「何するんだ?」

 

 「写真」

 

 「動物撮るツアーだろ」

 

 「あたしたちも動物でしょ」

 

 「随分広い括りだな」

 

 「いいから近づいて」

 

 のどかが俺の肩へ頭を寄せる。

 

 画面の隅に、遠くのカピバラが入っている。

 

 「カップルとカピバラ」

 

 「朝の卯月と同じこと言ってるぞ」

 

 「卯月に送るから」

 

 「俺は写らなくてもいいだろ」

 

 「駄目」

 

 少し身体を寄せる。

 

 シャッター音が鳴った。

 

 のどかは写真を確認し、そのまま卯月へ送る。

 

 「さっき妬いてたのに、卯月へ二人の写真送るんだな」

 

 「妬いてても、卯月は卯月だから」

 

 「分かるようで分からない」

 

 「分からなくていい」

 

 のどかはスマホをしまう。

 

 それから、俺の手へ自分の手を重ねた。

 

 「でも」

 

 「ん?」

 

 「卯月と二人で乗る時は、ちゃんと先に言って」

 

 「勝手に予定を作るな」

 

 「あるかもしれないでしょ」

 

 「その時は三人で乗れるやつを探す」

 

 「それならいい」

 

 「いいのかよ」

 

 「一人だけ置いてかれるのが嫌なの」

 

 のどかは、少しだけ指へ力を込めた。

 

 卯月を追い出したいわけではない。

 

 ただ、俺と卯月の間から、自分だけが消えるのが怖い。

 

 「置いてかないよ」

 

 「ほんとに?」

 

 「少なくとも、勝手には」

 

 「普通に約束して」

 

 「分かった。置いてかない」

 

 「よし」

 

 のどかは満足そうに頷いた。

 

 ボートが、乗り場へ向けて戻り始める。

 

 遠くの岸で、卯月がこちらへ大きく手を振っていた。

 

 「きっしー!のどかー!」

 

 池の中央まで、声が届く。

 

 「本当に声大きいな」

 

 「卯月だからね」

 

 のどかも手を振り返した。

 

 岸へ近づくと、卯月は乗り場の端まで来ていた。

 

 「どうだった?」

 

 「楽しかったよ」

 

 のどかが答える。

 

 「リスザルいた?」

 

 「いた」

 

 「ワオキツネザルは?」

 

 「いた」

 

 「茶色いのは?」

 

 「ブラウンキツネザル」

 

 「腕長いの!」

 

 「クモザルもいた」

 

 「カピバラ!」

 

 「写真送ったでしょ」

 

 「お兄さん元気だった?」

 

 「咲太じゃない」

 

 俺が言う。

 

 卯月は不思議そうに首を傾げた。

 

 「でも、さっききっしーも似てるって言ってたよね?」

 

 「似てるのと本人なのは違う」

 

 「難しいね」

 

 「何も難しくない」

 

 卯月は、今度はのどかを見る。

 

 「探検デート楽しかった?」

 

 「うん」

 

 のどかは少しだけ笑った。

 

 「ありがと、卯月」

 

 「何が?」

 

 「二人で乗らせてくれたこと」

 

 「だって二人分しか空いてなかったから」

 

 やはり、本人の中ではそれだけらしい。

 

 「次は私とお母さんが乗る番!」

 

 卯月は母親の腕を掴む。

 

 「お母さん、行こ!」

 

 「はいはい」

 

 「全部のサル見つけようね!」

 

 「全部見つけても何ももらえないわよ」

 

 「私が嬉しい!」

 

 「それならいいけど」

 

 二人が乗船列へ向かおうとする。

 

 その途中で、卯月がふと振り返った。

 

 「のどか!」

 

 「何?」

 

 「きっしー、ちゃんと楽しかった?」

 

 「なんであたしに聞くの」

 

 「きっしーに聞くと『まあ』って言うから」

 

 「確かに」

 

 のどかは俺をちらりと見てから答える。

 

 「楽しそうだったよ」

 

 「よかった!」

 

 卯月は満足そうに笑った。

 

 「じゃあ次、私も楽しんでくる!」

 

 「勝ち負けじゃないぞ」

 

 「きっしーより楽しむ!」

 

 「聞いてないな」

 

 卯月は母親を引っ張り、乗り場へ駆けていく。

 

 「走るなよ!」

 

 「大丈夫ー!」

 

 そう答えた直後、段差に少しつまずいた。

 

 「あぶなっ!」

 

 「転んでないから大丈夫!」

 

 「その判定、一日中変わらないな!」

 

 俺の声に、のどかが吹き出す。

 

 少し先では、卯月も笑っている。

 

 何も考えていないようで。

 

 時々、誰より自然に欲しいものを残していく。

 

 卯月は、たぶん自分が何をしたのか、半分も分かっていない。

 

 それでも。今、隣にいるのどかの表情は、さっきより少しだけ晴れていた。

 

 卯月と卯月のお母さんを乗せたボートが、ゆっくりと岸を離れていく。

 

 卯月は座席へ腰を下ろした直後から、こちらへ大きく手を振っていた。

 

 「きっしー!のどかー!」

 

 「まだ見えてる」

 

 俺が返す。

 

 「カピバラいた場所、教えてー!」

 

 「乗ってれば分かるだろ」

 

 「先に知りたい!」

 

 「楽しみを前借りするなよ」

 

 「じゃあ写真もう一回送って!」

 

 「今から見るんだろ」

 

 のどかが呆れたように言う。

 

 それでも卯月は楽しそうに笑い、母親に何か話しかけながら池の奥へ進んでいった。

 

 しばらくして、木々の陰にボートの姿が隠れる。

 

 乗り場には、俺とのどかだけが残った。

 

 正確には、次の便を待っている家族連れや係員もいる。

 

 でも。

 

 さっきまで卯月が騒いでいたせいか、急に静かになったように感じた。

 

 「……静かだな」

 

 俺が言う。

 

 「卯月一人いないだけでね」

 

 「一人分以上うるさいからな」

 

 「聞かれたらなんかうるさく言いそう」

 

 「聞こえないから大丈夫だろ」

 

 「卯月なら池の向こうでも聞こえそう」

 

 否定できなかった。

 

 俺たちは乗り場を離れ、園内の案内板を見ながら歩き出した。

 

 卯月たちが戻ってくるまで、少し時間がある。

 

 地図を見ると、入園口の近くに『富士山見晴し台』と書かれていた。

 

 「ここ、行ってみる?」

 

 のどかが指差す。

 

 「また富士山か」

 

 「嫌なの?」

 

 「嫌じゃないけど」

 

 大室山の山頂から見た富士山。

 

 その瞬間に浮かんだ、名前も顔も分からない少女。

 

 記憶なのか、ただの錯覚なのか。

 

 今になっても判断はつかなかった。

 

 「せっかく来たんだし」

 

 のどかが続ける。

 

 「卯月たちが戻ってきたら、四人で行こうよ」

 

 「そうだな」

 

 俺たちは園内を少し歩き、売店の前に置かれたベンチへ腰を下ろした。

 

 のどかはスマホを取り出し、さっき撮った写真を見返している。

 

 リスザル。

 

 ワオキツネザル。

 

 ブラウンキツネザル。

 

 フラミンゴ。

 

 カピバラ。

 

 そして俺とのツーショット。

 

 「それ、卯月に送ったやつか?」

 

 「うん」

 

 「よく撮れてた?」

 

 「蓮真がもう少し笑ってれば」

 

 「笑ってただろ」

 

 「ちょっとだけ」

 

 「俺なりには十分だよ」

 

 「じゃあ、次はもっと笑わせる」

 

 「何する気だ」

 

 「考え中」

 

 「怖いな」

 

 のどかは写真を拡大する。

 

 画面の中では、のどかが俺の肩へ頭を寄せている。

 

 遠くには、草を食べるカピバラ。

 

 「これ、結構好きかも」

 

 「カピバラが?」

 

 「そっちじゃない」

 

 「じゃあ何だよ」

 

 「分かってるくせに」

 

 分からないふりをしていると、のどかが俺の肩を軽く小突いた。

 

 「痛い」

 

 「嘘」

 

 「少し痛い」

 

 「じゃあ謝らない」

 

 「理不尽だな」

 

 そう言いながら、のどかはスマホをしまった。

 

 それから、さっきボートの中でしていたように、俺の手へ自分の手を重ねる。

 

 「……今度は何だ?」

 

 「別に」

 

 「別にで手を繋ぐのか」

 

 「恋人だから」

 

 卯月がいないせいか、言い方が少し素直だった。

 

 俺も指を絡める。

 

 のどかは何も言わなかった。

 

 ただ、少しだけ近くへ座り直した。

 

 しばらくすると、池の方から聞き覚えのある声が響いてきた。

 

 「カピバラー!」

 

 「戻ってきたな」

 

 「声で分かるね」

 

 乗り場の方を見ると、卯月を乗せたボートが岸へ近づいていた。

 

 卯月は身を乗り出すようにして、池の端を指差している。

 

 卯月のお母さんがその腕を掴み、座らせようとしていた。

 

 「お母さん!あそこにもいる!」

 

 「分かったから座ってなさい!」

 

 「でも今見ないと逃げる!」

 

 「カピバラはそんなに速く逃げないでしょ!」

 

 岸へ着く前から賑やかだった。

 

 ボートが乗り場へ横づけされる。

 

 卯月は係員に促されるより先に立とうとして、肩を押さえられていた。

 

 「まだ立たないの」

 

 「もう着いたよ?」

 

 「完全に止まってから」

 

 「止まってるように見える」

 

 「見えるじゃなくて、止まってから」

 

 「難しい」

 

 「何も難しくない」

 

 俺が言うと、卯月がこちらを見た。

 

 「きっしー!」

 

 「おかえり」

 

 「全部いた!」

 

 「何が?」

 

 「サル!」

 

 卯月はボートから降りるなり、指を折って数え始めた。

 

 「リスザル、ワオキツネザル、ブラウンキツネザル、クモザル、それから」

 

 「全部覚えてるのか?」

 

 「途中からお母さんに教えてもらった!」

 

 「自力じゃないのか」

 

 「二人で見つけたから共同研究!」

 

 「どこが研究なんだよ」

 

 「統計科学学部だから!」

 

 「便利に使いすぎだろ」

 

 卯月は満足そうに胸を張る。

 

 その横で、卯月のお母さんが少し疲れたように息を吐いていた。

 

 「すみません。お疲れさまでした」

 

 俺が言うと。

 

 「大丈夫よ。いつものことだから」

 

 卯月のお母さんは笑った。

 

 「でも、ボートの上ではもう少し静かにしてほしかったわね」

 

 「動物に聞こえるように話してたの!」

 

 「聞こえたら逃げるでしょ」

 

 「でもカピバラは逃げなかったよ」

 

 「それは卯月に興味がなかっただけじゃない?」

 

 のどかが言う。

 

 「そんな!」

 

 卯月は本気でショックを受けた顔をした。

 

 「私、カピバラに覚えてもらったと思ってた」

 

 「何を根拠に」

 

 「目が合った」

 

 「たぶん餌を持ってるか確認されただけだぞ」

 

 「じゃあ、次は餌持ってくる」

 

 「また来る気かよ」

 

 「来たい!」

 

 即答だった。

 

 卯月はまだ遊び足りないらしい。

 

 けれど時刻を確認すると、もう夕方に近づいていた。

 

 「そろそろ帰る時間ね」

 

 「えー」

 

 卯月が分かりやすく不満そうな声を出す。

 

 「まだ全部見てないよお母さん」

 

 「朝からずっと歩いてるでしょ」

 

 「あと一時間くらいなら歩ける」

 

 「帰りの車で寝る人が言わないの」

 

 「寝ないよ!」

 

 「絶対寝る」

 

 のどかが言う。

 

 「寝ない!」

 

 「じゃあ賭ける?」

 

 「何を?」

 

 「小田原まで起きていられるか」

 

 「起きていられる!」

 

 「負けたら?」

 

 「……何かする」

 

 「決めてから賭けなよ」

 

 「じゃあ、負けたらきっしーにジュース奢る!」

 

 「なんで俺が得するんだ」

 

 「きっしーなら公平だから」

 

 「判定役にするなよ」

 

 卯月は本気で勝つつもりらしい。

 

 その前に、俺たちは、のどかが見つけた富士山見晴し台へ向かうことにした。

 

 園内の端へ続く道を上っていく。

 

 緩やかな坂ではあるけれど、一日歩いた後の足には少し重い。

 

 さっきまで元気だった卯月も、途中から歩幅が小さくなっていた。

 

 「疲れたんじゃないか?」

 

 「疲れてない」

 

 「声に元気ないぞ」

 

 「体力温存してるの」

 

 「帰りの車で寝ないために?」

 

 「そう!」

 

 「もう負ける前提みたいになってるな」

 

 「違うよ!」

 

 卯月は無理に歩く速度を上げる。

 

 その直後。

 

 「まだ着かない?」

 

 「早いな」

 

 「見晴し台って高いところにあるから、遠いんだね」

 

 「今気づいたのか」

 

 少し先を歩いていたのどかが振り返る。

 

 「卯月、置いてくよ」

 

 「待って!」

 

 卯月は慌てて追いかける。

 

 「のどか、歩くの速い!」

 

 「卯月が遅いの」

 

 「きっしー、どっち?」

 

 「何が?」

 

 「速い方と遅い方」

 

 「普通」

 

 「きっしーずるい」

 

 「事実だよ」

 

 そんなことを言いながら歩いていると、木々の向こうが明るく開けた。

 

 石造りの門柱のようなものが左右に立ち、その間をまっすぐ進んだ先に、富士山が見えていた。

 

 「あ」

 

 卯月が足を止める。

 

 「富士山!」

 

 さっき大室山でも見たはずなのに、初めて見つけたみたいな声だった。

 

 「本日二回目だな」

 

 「場所が違うから別の富士山!」

 

 「富士山は同じだろ」

 

 「見え方が違うから、半分違う!」

 

 「半分なのか」

 

 正面の道の先。

 

 木々と石柱の間に、雪を残した富士山が収まっている。

 

 大室山の上から見た景色よりも、ずっと切り取られた構図だった。

 

 まるで、最初から富士山だけを見るために作られた道みたいだった。

 

 「綺麗ね」

 

 卯月のお母さんが言う。

 

 「ここ、写真撮るところだね!」

 

 卯月はすぐにカメラを構える。

 

 疲れていたはずなのに、写真となると動きが早い。

 

 「まず富士山だけ!」

 

 石柱の間へカメラを向け、何度かシャッターを切る。

 

 それから振り返った。

 

 「次、三人!」

 

 「またかよ」

 

 「今日の最後の集合写真!」

 

 「さっきも最後って言ってなかった?」

 

 のどかが言う。

 

 「富士山の前では最後!」

 

 「場所ごとに最後があるんだな」

 

 「いっぱい最後があった方が、いっぱい思い出になるよ」

 

 妙に納得しそうになる。

 

 卯月は母親へカメラを渡した。

 

 「お母さん、お願い!」

 

 「はいはい。並んで」

 

 俺たちは石柱の間へ立つ。

 

 いつものように、俺が真ん中。

 

 右にのどか。左に卯月。

 

 「また俺が真ん中なのか」

 

 「富士山の真下だから!」

 

 「理由になってないだろ」

 

 「きっしーがずれたら、富士山もずれて見えるよ」

 

 「俺は基準点なのか」

 

 「観察対象だからね!」

 

 結局そこへ戻るらしい。

 

 「もっと寄ってー」

 

 卯月のお母さんが言う。

 

 のどかが俺の腕へ手を回す。

 

 反対側では、卯月が肩を寄せてきた。

 

 「卯月、眠そうだな」

 

 「眠くない」

 

 「目、半分閉じてるぞ」

 

 「笑顔を溜めてる」

 

 「何だそれ」

 

 「撮るわよ」

 

 母親の声がする。

 

 卯月は急に目を開き、笑顔を作った。

 

 のどかも少しだけ身体を寄せる。

 

 俺もカメラを見る。シャッター音が鳴った。

 

 「もう一枚」

 

 「今のでいいだろ」

 

 「卯月が目をつぶってた」

 

 「溜めすぎたね」

 

 のどかが言う。

 

 「次は開ける!」

 

 「普通に開けろよ」

 

 もう一度並び直す。

 

 今度は卯月が目を見開きすぎていた。

 

 「卯月、怖い」

 

 「目開けてるの!」

 

 「開けすぎ」

 

 「じゃあ、どのくらい?」

 

 「普通」

 

 「普通って?」

 

 「いつもの顔でいいだろ」

 

 「きっしー、難しいこと言う」

 

 「一番簡単だよ」

 

 そんなやり取りをしているうちに、のどかが笑う。

 

 卯月もつられて笑った。

 

 俺も少しだけ口元が緩む。

 

 その瞬間、シャッター音が鳴った。

 

 「今のいいわね」

 

 卯月のお母さんが言う。

 

 「自然に笑ってる」

 

 「ほんと?」

 

 卯月がすぐに駆け寄る。

 

 俺とのどかも後ろから写真を覗き込んだ。

 

 富士山を背に、三人が並んでいる。

 

 卯月は楽しそうに笑っている。

 

 のどかも、少し照れたような顔で笑っている。

 

 俺も自分で思っていたより、普通に笑っていた。

 

 「いい写真じゃん」

 

 のどかが言う。

 

 「でしょ!」

 

 なぜか卯月が得意そうに答える。

 

 「撮ったのはお母さんだろ」

 

 「私が笑わせたから!」

 

 「半分はお前のせいかもな」

 

 「半分も!」

 

 卯月は嬉しそうだった。

 

 俺はもう一度、写真の中の富士山を見る。

 

 今度は、記憶の中の少女の声は聞こえなかった。

 

 ただ。胸の奥に、何か小さなものが引っかかったままだった。

 

 思い出せそうで。

 

 思い出せない。

 

 けれど今は、それ以上を追いかける気にはならなかった。

 

 写真の中には、のどかと卯月がいる。

 

 少なくとも今は、それでよかった。

 

 見晴し台を離れたあとは、園内のレストランへ入った。

 

 昼食と呼ぶには遅く、夕食と呼ぶには早い時間だった。

 

 一日歩き回ったせいで、全員かなり空腹だった。

 

 「何食べる?」

 

 卯月がメニューを広げる。

 

 「カピバラカレー!」

 

 「迷わないな」

 

 メニューには、カピバラの顔を模したご飯が載ったカレーの写真があった。

 

 耳の形をした具材までついている。

 

 「かわいい!」

 

 「食べるんだろ」

 

 「食べるよ」

 

 「迷いないな」

 

 「かわいいものは食べてもかわいいよ」

 

 「何言ってるか分からない」

 

 のどかは別のページを見ていた。

 

 「あたし、オムライスにしようかな」

 

 「俺もそれでいい」

 

 「真似しないでよ」

 

 「先に言われただけだろ」

 

 「じゃあ違うのにしなよ」

 

 「なんでだよ」

 

 「カップルで同じの頼むの、ちょっと恥ずかしい」

 

 「誰も気にしてないだろ」

 

 「自分が気にするの」

 

 「面倒だな」

 

 「さっき、その面倒なところまで知りたいって言ったよね」

 

 「そこで使うのかよ」

 

 のどかが勝ち誇ったように笑う。

 

 結局、俺はハンバーグを頼むことになった。

 

 卯月のお母さんは和風のパスタ。

 

 料理が届くと、卯月はカピバラの形をしたご飯をしばらく眺めていた。

 

 「食べないのか?」

 

 「どこから食べるか考えてる」

 

 「さっき迷わず食べるって言ってただろ」

 

 「耳からだとかわいそう」

 

 「どこからでも同じだ」

 

 「顔からもかわいそう」

 

 「じゃあカレーだけ食べれば?」

 

 「それだとご飯が残る」

 

 「最終的に食べるなら早くしろよ」

 

 卯月は真剣に悩んだ末、スプーンをカピバラの後頭部へ入れた。

 

 「そこなら見えないから大丈夫」

 

 「何が大丈夫なんだ」

 

 「カピバラに気づかれない」

 

 「もう食べ物だからな」

 

 「きっしー、現実的すぎる」

 

 そう言いながら、卯月は一口食べる。

 

 「おいしい!」

 

 「よかったな」

 

 「きっしーも食べる?」

 

 「いらない」

 

 「一口だけ」

 

 「自分で食べろよ」

 

 「じゃあ、のどか」

 

 「いらない」

 

 「二人とも冷たい!」

 

 「自分で選んだんでしょ」

 

 卯月は不満そうに頬を膨らませながらも、結局一人で完食した。

 

 食事を終える頃には、外の光が少しずつ弱くなっていた。

 

 売店で土産を見てから、俺たちは駐車場へ戻った。

 

 卯月はカピバラのぬいぐるみを抱えている。

 

 「それ、買ったのか」

 

 「お母さんに買ってもらった!」

 

 「今日ずっとお母さんのお金だな」

 

 「今度返すよ」

 

 「本当?」

 

 母親が言う。

 

 「たぶん!」

 

 「返す気ないな」

 

 「誕生日プレゼントの前借り!」

 

 「誕生日、まだ先でしょ」

 

 「じゃあ去年の分!」

 

 「去年もあげたわよ」

 

 「先の分!」

 

 「どこまで前借りするの」

 

 卯月は答えず、ぬいぐるみを抱きしめた。

 

 「この子、名前つける」

 

 「何にするんだ?」

 

 「お兄さん二号」

 

 「やめろ」

 

 のどかが吹き出す。

 

 「お姉ちゃんに写真送ろ」

 

 「咲太のぬいぐるみ買ったって?」

 

 「うん」

 

 「誤解されるぞ」

 

 「大丈夫。カピバラって書くから」

 

 「それなら余計に怒られるだろ」

 

 そんな会話をしながら、車へ乗り込む。

 

 来た時と同じように、卯月は助手席。

 

 俺とのどかは二列目へ並んで座った。

 

 車が駐車場を出る。

 

 窓の外では、大室山が少しずつ遠ざかっていった。

 

 「小田原まで寝ないからね」

 

 卯月が宣言する。

 

 「まだ賭け続いてたのか」

 

 「きっしー、判定お願い」

 

 「俺は寝てもいいか?」

 

 「駄目」

 

 「なんでだよ」

 

 「見てないと判定できないから」

 

 「面倒だな」

 

 「ジュースかかってるよ」

 

 「俺のジュースだろ」

 

 「だから大事!」

 

 卯月は助手席で背筋を伸ばした。

 

 けれど。海沿いの道へ出て、十分もしないうちに、会話が減っていった。

 

 「卯月」

 

 のどかが呼ぶ。

 

 「……起きてる」

 

 「まだ何も聞いてないけど」

 

 「寝てないから」

 

 「目閉じてるよ」

 

 「休ませてるだけ」

 

 「何を?」

 

 「目」

 

 「それを寝るって言うんじゃない?」

 

 「違う……」

 

 声がだんだん小さくなる。

 

 その数分後には、助手席から規則正しい寝息が聞こえていた。

 

 腕の中には、さっき買ったカピバラのぬいぐるみ。

 

 「負けたな」

 

 俺が言う。

 

 卯月は返事をしなかった。

 

 「ジュース決定ね」

 

 のどかが楽しそうに言う。

 

 「本人に聞こえてないぞ」

 

 「起きたら言う」

 

 「忘れてそうだな」

 

 「写真撮っとこ」

 

 のどかがスマホを取り出す。

 

 「寝顔撮るのかよ」

 

 「証拠」

 

 「アイドルの寝顔を勝手に撮るなよ」

 

 「同じメンバーだからいいの」

 

 「その理屈は危ないだろ」

 

 のどかは前の座席へスマホを向けた。

 

 けれど、シャッターを切る直前で手を止める。

 

 「……やっぱやめよ」

 

 「なんで?」

 

 「普通に疲れて寝てるだけだし」

 

 そう言って、スマホをしまった。

 

 卯月のお母さんは運転に集中している。

 

 時々、カーナビの音声だけが車内へ流れる。

 

 陽は傾き、海の上に橙色の光が伸びていた。

 

 朝からずっと喋り続けていた卯月が眠ると、車内は別の場所みたいに静かだった。

 

 「蓮真」

 

 隣から、小さく呼ばれる。

 

 「ん?」

 

 「今日、楽しかった?」

 

 「まあ」

 

 のどかがこちらを見る。

 

 「本当に『まあ』って言うんだ」

 

 「楽しかったよ」

 

 言い直す。

 

 「卯月が聞いたら喜ぶね」

 

 「起きてから言うか」

 

 「その時また『まあ』って言いそう」

 

 「じゃあ、のどかから伝えてくれ」

 

 「自分で言いなよ」

 

 「面倒だな」

 

 「そういうところ」

 

 のどかは少し笑った。

 

 それから、窓の外へ顔を向ける。

 

 海沿いの景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。

 

 「今日、いっぱい写真撮ったね」

 

 「ああ」

 

 「桜も。富士山も。カピバラも」

 

 「最後だけ割合が多かったけどな」

 

 「卯月だから」

 

 「結局、最後までカピバラ八だったな」

 

 「帰る頃には十くらいになってそう」

 

 小さく笑い合う。

 

 しばらくすると、のどかの返事も少しずつ遅くなった。

 

 朝から歩き回っていたのだから、当然だろう。

 

 「眠いなら寝ていいぞ」

 

 「寝ない」

 

 「卯月と同じこと言ってる」

 

 「あたしは本当に寝ないから」

 

 「そうか」

 

 「蓮真が先に寝ていいよ」

 

 「俺は眠くない」

 

 「じゃあ、二人とも起きてる」

 

 「分かった」

 

 それから五分も経たないうちに。

 

 のどかの頭が、俺の肩へ軽く触れた。

 

 最初は、車の揺れだと思った。

 

 けれど次の瞬間には、身体の重みが少しだけこちらへ預けられていた。

 

 横を見る。のどかは目を閉じていた。

 

 帽子の影に隠れた横顔は、起きている時より幼く見える。

 

 「……寝ないんじゃなかったのか」

 

 小さく言う。

 

 当然、返事はない。

 

 前を見る。

 

 卯月も眠っている。

 

 卯月のお母さんは、ハンドルを握ったまま前方を見ていた。

 

 車内で起きているのは、俺と運転している卯月のお母さんだけだった。

 

 いや。母親は運転へ集中している。

 

 実質的には、俺一人だった。

 

 車が緩やかなカーブを曲がる。

 

 揺れで、のどかの手が座席の上を少し滑った。

 

 指先が、俺の手へ触れる。

 

 偶然だった。

 

 けれど、そのまま離す気にはならなかった。

 

 俺は、のどかの手をそっと握る。

 

 起こさないように。

 

 力を入れすぎないように。

 

 のどかは眠ったままだった。

 

 それでも、しばらくすると。

 

 指先が、わずかに俺の手を握り返した。

 

 眠っているのか、起きているのかは分からない。

 

 「……置いてかないって言ったからな」

 

 聞こえないくらいの声で呟く。

 

 窓の外では、夕暮れの海が続いている。

 

 今日一日を思い返す。

 

 小田原で会った卯月。

 

 桜の下で撮った写真。

 

 大室山のリフト。

 

 富士山。

 

 名前の分からない少女の声。

 

 カピバラ。

 

 ハシビロコウ。

 

 リスザル。

 

 ボートの上で、のどかが言ったこと。

 

 卯月と俺の間から、自分だけが消えるのが嫌だと。

 

 置いてかないでほしいと。

 

 俺は置いていかないと答えた。

 

 その約束が、どこまで続くのかは分からない。

 

 来月、来年。

 

 その先。

 

 俺たちがずっと同じ関係でいられる保証なんて、どこにもない。

 

 のどかはアイドルで。

 

 俺は普通の大学生で。

 

 卯月も、いつまでも今のままではない。

 

 四月になれば、新しい生活が始まる。

 

 大学も二年になる。

 

 赤城は福浦キャンパスへ行くことが増える。

 

 ボランティアでの役割も変わる。

 

 麻衣先輩のステージ。

 

 霧島透子。

 

 可能性の世界。

 

 変わっていくものは、いくらでもある。

 

 未来は、何一つ固定されていない。

 

 それが普通だ。

 

 変化しない方がおかしい。

 

 分かっている。

 

 それでも……

 

 今日みたいな一日が。

 

 卯月が騒いで、のどかが隣で笑って。

 

 何でもないことで言い合って。

 

 帰りの車で、二人とも疲れて眠っている。

 

 そんな時間が、ずっと続けばいいと思った。

 

 何も変わらなくていいとは思わない。

 

 変わることと、壊れることは違う。

 

 のどかが言っていた。

 

 それでも、壊れずに続いてほしい。

 

 今ここにあるものが、なくならないでほしい。

 

 握った手へ、少しだけ力を込める。

 

 のどかの指も、またわずかに動いた。

 

 胸の奥が、静かに満たされていく。

 

 幸福。

 

 そんな言葉を、自分へ使うことはあまりない。

 

 でも、今はたぶん、そうだった。

 

 この瞬間が、この春が。

 

 このまま、いつまでも続けばいい。

 

 そう願った時だった。

 

 胸の奥で。

 

 何かが、かすかに軋んだ。

 

 ほんの一瞬の、聞き間違いみたいな感覚。

 

 車の振動かもしれない。

 

 疲れているだけかもしれない。

 

 俺は気にしなかった。

 

 窓の外を見る。

 

 同じ海岸線が、どこまでも続いている。

 

 夕暮れに染まる空に、道路脇を流れていく街灯。

 

 一定の間隔で繰り返される、白いガードレール。

 

 何度も見たことがあるような景色。

 

 いや、実際行きにも同じ道を通っている。

 

 だからそう感じるだけだ。

 

 そう思った。

 

 それでも。

 

 俺はなぜか。

 

 その先に、赤い看板があることを知っている気がした。

 

 車がカーブを曲がる。

 

 道路脇に、赤い看板が現れる。

 

 「……」

 

 偶然だ。

 

 行きに見たのを覚えていただけ。

 

 それ以上の意味はない。

 

 そう自分へ言い聞かせる。

 

 隣では、のどかが眠っている。

 

 俺の手を握ったまま。

 

 前では、卯月も眠っている。

 

 腕の中には、カピバラのぬいぐるみ。

 

 卯月のお母さんは、何も知らずに車を運転している。

 

 何も起きていない。

 

 今は、まだ。

 

 俺はのどかの手を離さなかった。

 

 離せなかった。

 

 この幸福が続いてほしい。

 

 さっきまで、そう願っていた。

 

 なのに……

 

 今はその願いが、別の意味を持ち始めていた。

 

 続く。

 

 変わらずに。

 

 終わらずに。

 

 同じ時間が、同じ春が。

 

 夕暮れの道を、車は走り続ける。

 

 俺は眠るのどかの手を握ったまま、窓の外を見ていた。

 

 次に現れる景色を、なぜか知っている気がしながら。

 

 三月三十一日

 

 赤城との打ち合わせを終えて、横浜市立大学を出たのは、十四時を回った頃だった。

 

 昼食を取るタイミングを完全に逃している。

 

 金沢八景から京急線に乗り、横浜で東海道線へ乗り換えた。

 

 通学定期が使える区間だから、交通費を余計に気にしなくて済む。

 

 藤沢まで帰ってから食べてもよかった。

 

 けれど、戸塚を過ぎた辺りで、腹が小さく鳴った。

 

 隣に座っていた人には、聞こえていないと思いたい。

 

 「……大船で降りるか」

 

 駅前なら、店はいくらでもある。

 

 遅めの昼飯を済ませてから帰ればいい。

 

 そう決めて、大船駅で電車を降りた。

 

 ホームから改札へ向かう人の流れに乗りながら、何を食べるか考える。

 

 ラーメン。蕎麦。定食。

 

 今なら、大抵のものは美味しく感じるだろう。

 

 改札を抜けたところで。

 

 「……岸和田くん?」

 

 背後から名前を呼ばれた。

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 振り返る。

 

 人の流れから少し外れた場所に、一人の女子大生が立っていた。

 

 やや明るくした髪をハーフアップにして、後ろで緩いお団子を作っている。

 

 左目の下には、印象的な泣きぼくろ。

 

 「美東さん?」

 

 「久しぶり」

 

 美東美織が、柔らかく笑った。

 

 同じ国際商学部の一年生。

 

 男子からの評判はいい。

 

 本人も、自分がそれなりに可愛いと思われていることを隠そうとしない。

 

 けれど、それを鼻にかけるわけでもなく、誰に対しても同じように人懐っこく接する。

 

 その一方で、一定以上は誰も踏み込ませない。

 

 そんな、少し掴みどころのない相手だった。

 

 「本当に久しぶりだな」

 

 「冬休みに入ってから、全然会ってなかったもんね」

 

 「連絡も取れなかったし」

 

 俺が言うと、美東さんは軽く肩をすくめる。

 

 「スマホないからね、わたし」

 

 「それは知ってる」

 

 「大学始まれば会えると思ってたんだけど、思ったより春休み長かった」

 

 「まだ始まってないけどな」

 

 「岸和田くんは細かいね」

 

 そう言って笑う。

 

 久しぶりなのに、以前と変わらない調子だった。

 

 俺が赤城の、#夢見るを使った人助けを手伝い、利き手を骨折した時も。

 

 講義のノートを代わりに取ってくれたり、課題の範囲を教えてくれたり。

 

 恩着せがましくすることもなく、自然に手を貸してくれた。

 

 だから俺は、美東さんにはかなり良い印象を持っている。

 

 「今日は何の用事?」

 

 「二俣川に行ってきたの」

 

 「免許センター?」

 

 「正解」

 

 嬉しそうに笑う。

 

 「今日、免許取ったんだ」

 

 「すごいな。おめでとう」

 

 「ありがと」

 

 美東さんは満足そうに頷いた。

 

 それから、何かを思い出したように続ける。

 

 「そうだ。今日、梓川くんも一緒だったよ」

 

 「咲太も?」

 

 「うん。免許センターで会った」

 

 意外な名前が出てきた。

 

 「咲太、今日免許取りにいってたのか?」

 

 「岸和田くんには言ってなかったんだ」

 

 「聞いてない」

 

 「梓川くんらしいね」

 

 「何が?」

 

 「わざわざ報告するほどのことじゃないと思ってそう」

 

 「それはありそうだな」

 

 咲太なら、免許を取る予定があったとしても、聞かれない限り自分から話さないだろう。

 

 「それで、咲太も受かったのか?」

 

 「うん。二人とも一発合格」

 

 美東さんは少し得意そうに言った。

 

 「梓川くん、試験終わったあとも、受かって当然みたいな顔してた」

 

 「実際には?」

 

 「発表の番号、結構真剣に探してた」

 

 「想像つくな」

 

 「自分の番号見つけたあと、少しだけ安心した顔してたよ」

 

 「それ本人に言ったか?」

 

 「『梓川くんが落ちてたら、気まずいなぁって思って』って言った」

 

 「なんて返された?」

 

 「『まあ、美東だけ落ちてたらかっこ悪いもんな』って」

 

 「咲太らしいな」

 

 「そうだね」

 

 美東さんは楽しそうに笑った。

 

 「梓川くん、免許証の写真は相変わらず目が死んでた」

 

 「普段から眠そうだからな」

 

 「岸和田くんも似たようなものだけど」

 

 「俺を巻き込むなよ」

 

 「写真映り悪そう」

 

 「決めつけるな」

 

 「でも、岸和田くんは証明写真でもずっと何か考えてそう」

 

 「証明写真で何を考えるんだよ」

 

 「ちゃんと写ってるかな、とか」

 

 「普通だろ」

 

 「そういう真面目なこと考えるところ」

 

 美東さんは笑ったまま、俺の顔を見た。

 

 それから、視線を少し下へ動かす。

 

 「岸和田くん、お腹空いてる?」

 

 「分かる?」

 

 「さっき鳴ってた」

 

 「聞こえてたのか」

 

 「結構しっかり」

 

 「忘れてくれ」

 

 「無理かな」

 

 楽しそうに言われる。

 

 俺は小さくため息をついた。

 

 「美東さんは、もう食べた?」

 

 「まだ」

 

 「二俣川から戻ってきたところ?」

 

 「そう。家に帰る前に何か食べようと思ってた」

 

 少し間を置いてから、美東さんは、思いついたように言った。

 

 「じゃあさ」

 

 「ん?」

 

 「免許取れたお祝いしてよ」

 

 「俺が?」

 

 「うん」

 

 「咲太にも頼めばよかっただろ」

 

 「梓川くんは先に帰ったから」

 

 「薄情だな」

 

 「でも、梓川くんにお願いしても、『美東も取ったんだから相殺だ』とか言われそう」

 

 「言いそうだな」

 

 「岸和田くんなら祝ってくれるかなって」

 

 「評価高いな、俺」

 

 「ノートも取ってあげたし」

 

 「それ、いつまで使うつもりだよ」

 

 「ちゃんと投資回収するまで」

 

 美東さんは悪びれずに笑う。

 

 「それに、今ここにいるの岸和田くんだし」

 

 「理由が適当だな」

 

 「偶然会ったクラスメイトに祝ってもらうのも、いいと思わない?」

 

 断る理由はなかった。

 

 俺もこれから昼飯を食べるつもりだった。

 

 冬休み以降、まったく会っていなかった美東さんと話すのも悪くない。

 

 「分かった」

 

 「ほんと?」

 

 「昼飯に付き合うくらいなら」

 

 「やった」

 

 美東さんは嬉しそうに笑った。

 

 「何食べる?」

 

 「お祝いだから、とんかつ」

 

 「免許と関係あるのか?」

 

 「試験に勝ったから」

 

 「もう終わったあとだけどな」

 

 「勝利の肉肉しいとんかつ」

 

 「言い換えただけだな」

 

 「今日は肉肉しいとんかつが食べたいの」

 

 「どういう意味だよ?」

 

 「肉肉しいってこと」

 

 「説明になってないな」

 

 「駅の近くに美味しい店あるよ」

 

 大船で一人暮らしをしている美東さんなら、この辺りの店には詳しいのだろう。

 

 「じゃあ、案内頼む」

 

 「では、ついてまいれ」

 

 美東さんが先に歩き出す。

 

 俺もその隣へ並んだ。

 

 駅前の商店街は、昼を過ぎた時間でもそれなりに人通りがあった。

 

 飲食店の看板や、店先へ並んだ商品を横目に見ながら歩いていく。

 

 「免許取ったなら、すぐ運転するのか?」

 

 「今すぐはしないかな。真奈美と行ったりはするかも」

 

 「そっか。まぁ実家の車とかで慣れるのもありかもな」

 

 「うん。そうだね」

 

 「大船で一人暮らしなら、普段は使わないしな」

 

 「駐車場も高いしね」

 

 「しばらくは身分証代わりか」

 

 「でも、免許持ってるとちょっと大人っぽくない?」

 

 「それが理由?」

 

 「半分くらい」

 

 「残り半分は?」

 

 美東さんは少しだけ笑い、前を向いた。

 

 「秘密」

 

 相変わらずだった。

 

 自然に話しているようで、少し踏み込むと柔らかくかわされる。

 

 ただ。

 

 以前とまったく同じかと言われると、わずかに違う気もした。

 

 並んで歩く距離が、前より少し遠い。

 

 俺が近づいたわけでもないのに、美東さんの方が半歩だけ外側を歩いている。

 

 それが意図的なのかは分からない。

 

 「ここです」

 

 美東さんに連れてこられたのは、大船駅の南口から少し歩いたところにある、通り沿いの商業ビルだった。

 

 その一階に、とんかつ屋の暖簾が出ている。

 

 ガラス越しに店内を覗くと、昔ながらの定食屋といった雰囲気だった。

 

 「せっかく岸和田くんがいるんだし、ひとりだと入りづらいお店にしようと思って」

 

 実に女子大学生らしい理由を述べた美東さんだったが、

 

 「ごめんくださ~い」

 

 と、フレンドリーに挨拶をしながら率先して店へ入っていく。

 

 「入りづらいんじゃなかったのか?」

 

 誰も答えてくれない疑問を口にしつつ、俺も美東さんに続いた。

 

 「梓川くんと前来たから平気」

 

 「聞こえてたのかよ」

 

 先を歩く美東さんが、振り返らずに答える。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 店員のおばさんが、明るい声で迎えてくれた。

 

 案内されたのは、店の奥にある四人掛けのテーブル席だった。

 

 俺と美東さんは向かい合って腰を下ろす。

 

 昼のピークを過ぎたばかりの店内には、スーツ姿の女性客が三人いるだけだった。

 

 営業帰りなのかもしれない。

 

 全員が同じテーブルに座って、食後のお茶を飲みながら話している。

 

 店内には油の香ばしい匂いが残っていた。

 

 腹が減っている時に嗅ぐには、少し暴力的な匂いだった。

 

 席に置かれていたメニューを開く。

 

 ロースかつ定食。

 

 ヒレかつ定食。

 

 かつ丼。

 

 カツカレー。

 

 定番らしい料理が一通り並んでいる。

 

 その中に、黒い文字で大きく書かれた名前を見つけた。

 

 ブラックカツカレー。

 

 「わたし、これにする」

 

 美東さんが、迷いなくメニューの一角を指差す。

 

 ブラックカツカレーだった。

 

 「ロースかつじゃないのか?」

 

 「今日は肉肉しいとんかつが食べたい気分」

 

 「カレーに埋まってるけどな」

 

 「ちゃんと存在感あるから大丈夫」

 

 「何が大丈夫なんだよ」

 

 「衣がさくさくで、中が厚くて、噛んだらちゃんと肉って感じの」

 

 「とんかつは大体そうだろ」

 

 「違うの」

 

 「何が?」

 

 「肉肉しさが」

 

 説明になっていなかった。

 

 けれど、美東さん本人は納得しているらしい。

 

 俺はもう一度メニューへ目を落とした。

 

 最初は、定番にして王道のロースかつ定食を頼むつもりだった。

 

 ただ、ブラックカツカレーという名前も気になる。

 

 写真を見る限り、カレーは濃い焦げ茶色をしていて、その上に厚めのロースかつが載っている。

 

 「……じゃあ、俺もそれで」

 

 「なんか真似された」

 

 美東さんが不満そうに言った。

 

 「別に真似してない」

 

 「最初、ロースかつ定食にしようとしてたでしょ」

 

 「気が変わっただけだ」

 

 「わたしが選んだから?」

 

 「ブラックって書いてあるから気になった」

 

 「それ、わたしが選ばなかったら気づいてなかったよね」

 

 「気づいてた」

 

 「ほんとに?」

 

 「たぶん」

 

 「じゃあ、やっぱり真似だ」

 

 「違う」

 

 「違わない」

 

 美東さんは楽しそうに笑いながら、卓上の呼び出しベルへ手を伸ばした。

 

 「でも、同じもの頼むなら味の感想を比べられるね」

 

 「同じもの食べて、違う感想が出るのか?」

 

 「岸和田くん、面倒なこと考えながら食べそうだから」

 

 「とんかつ食べるだけで何を考えるんだよ」

 

 「衣と肉の境界とか」

 

 「考えない」

 

 「カレーがどこまで染み込んでるかとか」

 

 「考えないって」

 

 「ほんとに?」

 

 「なんで疑うんだよ」

 

 呼び出しベルを押す前から、美東さんはすでに面白そうにしていた。

 

 呼び出しベルを押すと、すぐに店員のおばさんが注文を取りに来た。

 

 俺たちは揃ってブラックカツカレーを頼んだ。

 

 注文を復唱した店員が厨房へ戻っていく。

 

 すると、美東さんはテーブルの端に置いていた鞄を膝へ載せ、中を探り始めた。

 

 「う~ん」

 

 小さく唸る。

 

 取り出したのは、今日受け取ったばかりの運転免許証だった。

 

 美東さんはそれを両手で持ち、少し離して眺めている。

 

 「う~ん」

 

 もう一度、納得のいかない声を出した。

 

 「何か免許に不満でもあるのか?」

 

 「人生最高に、写真が酷いから」

 

 美東さんが先ほどから睨みつけているのは、免許証の顔写真だった。

 

 「そんなに?」

 

 「見てみる?」

 

 差し出された免許証を受け取る。

 

 当然ながら、そこに写っているのは美東さんだった。

 

 やや明るい髪に、左目の下の泣きぼくろ。

 

 顔立ちそのものは普段と変わらない。

 

 ただ、照明のせいなのか、肌が少し青白く見える。

 

 表情も硬く、普段の柔らかい雰囲気はどこかへ置いてきてしまったようだった。

 

 「確かに。顔色悪く見えちゃうな」

 

 「でしょ?」

 

 俺が免許証を返すと、美東さんは我が意を得たりという顔をした。

 

 「せっかくなら、もう少し可愛く撮ってほしかった」

 

 「免許センターに期待することじゃないだろ」

 

 「証明写真でも可愛く写る権利はあると思う」

 

 「撮り直しを要求すれば?」

 

 「免許を失う覚悟が必要そうだからやめとく」

 

 「そこまでのことじゃない」

 

 美東さんは再び免許証を眺める。

 

 「美東さんの、ちょっとミステリアスな感じがあんまり出てないな」

 

 「わたし、ミステリアス?」

 

 「自覚ないのか?」

 

 「どの辺が?」

 

 「聞いても答えないところ」

 

 「それは秘密」

 

 「今のところだよ」

 

 美東さんは楽しそうに笑った。

 

 免許証の写真とは、やはり別人に近い。

 

 「岸和田くんのは?」

 

 「俺のか?」

 

 断るほどのものでもない。

 

 財布を取り出し、カード入れから運転免許証を抜く。

 

 テーブルの上へ置くと、美東さんが身を乗り出してきた。

 

 「どれどれ」

 

 免許証を手に取り、写真を覗き込む。

 

 そのまま数秒、黙って眺めていた。

 

 「うわー」

 

 「何だよ」

 

 「なんか考え事してるわ~」

 

 「写真で分かるのか?」

 

 「分かるよ。『この写真は今後何年間使われるんだろう』とか考えてそう」

 

 「考えてない」

 

 「じゃあ、『もう少し顎を引いた方がよかったかな』とか」

 

 「それも考えてない」

 

 「でも、何も考えてない顔には見えない」

 

 「普段からそういう顔なんだろ」

 

 「自分で認めた」

 

 美東さんは面白そうに免許証を眺め続ける。

 

 「返せよ」

 

 「もう少し見る」

 

 「何を見るんだよ」

 

 「岸和田くんの個人情報」

 

 「堂々と悪用するな」

 

 ようやく返された免許証を財布へしまう。

 

 その間に、美東さんは自分の免許証と俺の写真を頭の中で比べているようだった。

 

 「でも、梓川くんの写真より全然ましだね」

 

 「咲太を基準にするなよ」

 

 「梓川くん、本当に目が死んでたから」

 

 「普段から半分くらい死んでる」

 

 「じゃあ、写真は八割くらい」

 

 人を踏み台にして、美東さんは勝手に元気になっていた。

 

 自分の免許証をもう一度見て、今度は少し満足そうに頷く。

 

 「わたしのも、梓川くんのも、岸和田くんのもかなり微妙だし」

 

 「勝手に俺まで微妙にするな」

 

 「証明写真でいい感じに写る人っているのかな」

 

 「いるんじゃないか?」

 

 「例えば?」

 

 少し考える。

 

 身近にいる、写真映りの良さそうな人物。

 

 「そうだ。豊浜さんと広川さんなら?」

 

 美東さんが、先に二人の名前を挙げた。

 

 「あの二人は免許持ってないよ」

 

 「そうなんだ」

 

 「のどかは仕事の移動もあるから、そのうち取るかもしれないけど」

 

 「広川さんは?」

 

 「運転席に座らせるのが怖い」

 

 「なんで?」

 

 「赤信号でも、まわりに流されて進みそうだから」

 

 「広川さんなら、『みんな進んでたから』って言いそう」

 

 「だろ」

 

 二人で想像して、同時に笑った。

 

 笑いが収まったところで、美東さんが何気ない調子で言う。

 

 「そういえば、岸和田くん」

 

 「何?」

 

 「二人とは進展あったの?」

 

 唐突に話の向きが変わった。

 

 「なんでその話が出てくる」

 

 「今、豊浜さんと広川さんの名前が出たから」

 

 「免許の話だっただろ」

 

 「それに、春休みの間にバレンタインデーとかホワイトデーとかあったし」

 

 「関係あるか?」

 

 「あるでしょ」

 

 美東さんは当然のように言った。

 

 以前から、俺とのどかと卯月の関係を、少し面白がっているところがある。

 

 同じ基礎ゼミを受けていたクラスメイトとしての好奇心なのか、単なる暇潰しなのかは分からない。

 

 ただ、目を輝かせている辺り、簡単には話を終わらせてくれそうになかった。

 

 「それで?」

 

 「それで、って?」

 

 「どっちかと何かあった?」

 

 「聞き方が雑だな」

 

 「二人とも?」

 

 「もっと雑になったな」

 

 美東さんは、笑いながら俺の返事を待っている。

 

 隠しておかなければならないことではない。

 

 大学が始まれば、いずれ分かる話でもある。

 

 けれど、改めて口にするとなると、少しだけ言いづらかった。

 

 「……まあ、少し」

 

 「少し?」

 

 美東さんが首を傾げる。

 

 「のどかと、付き合うことになった」

 

 一度、瞬きをした。それから、もう一度。

 

 「え?」

 

 「……だから、のどかと付き合ってる」

 

 「ほんとに?」

 

 「嘘をつく理由がないだろ」

 

 美東さんは、俺の顔をじっと見た。

 

 驚いたように目を丸くしたのは、ほんの一瞬だった。

 

 「……そっか」

 

 短い間があった。

 

 何かを考えたようにも見えた。

 

 けれど、それが何なのかは分からない。

 

 すぐにいつもの柔らかな笑みを浮かべる。

 

 「おめでとう」

 

 「ありがとう」

 

 「豊浜さんなんだ」

 

 「意外か?」

 

 「ううん」

 

 美東さんは小さく首を横へ振った。

 

 「似合ってると思う」

 

 「そうか?」

 

 「うん。岸和田くん、豊浜さんには結構甘そうだし」

 

 「そんなことない」

 

 「じゃあ、広川さんには?」

 

 「比較するなよ」

 

 「でも、広川さんは振られたってこと?」

 

 「その言い方はやめろ」

 

 「本人は大丈夫だった?」

 

 その問いだけは、先ほどまでより少し真面目だった。

 

 「卯月とは話した」

 

 「ちゃんと?」

 

 「ああ」

 

 「曖昧に誤魔化したりしないで」

 

 「してない。卯月も分かってくれた」

 

 「そっか」

 

 美東さんは安心したように頷いた。

 

 「じゃあ、バレンタインデーに告白されたの?」

 

 「教えない」

 

 「秘密が多いな〜」

 

 「そこまで言う必要あるか?」

 

 「あるよ」

 

 「ないだろ」

 

 「初デートは?」

 

 「なんで話が進むんだよ」

 

 「手は繋いだ?」

 

 「聞くな」

 

 「キスは?」

 

 「美東さん」

 

 名前を呼ぶと、美東さんは堪えきれなくなったように笑った。

 

 「ごめん。岸和田くんが困ってるの、ちょっと面白くて」

 

 「性格悪いな」

 

 「今さら?」

 

 否定しないらしい。

 

 「でも、よかったね」

 

 その言い方は、今度こそからかう調子ではなかった。

 

 「岸和田くん、前より少しだけ楽しそう」

 

 「そう見える?」

 

 「うん」

 

 自分ではよく分からない。

 

 ただ、のどかと付き合い始めてから、以前より考えなくて済む時間が増えた気はする。

 

 考えなくて済むというより、考えていることを隠さなくていい時間かもしれない。

 

 それを美東さんに説明するつもりはなかった。

 

 「麻衣先輩の免許なら、写真映りいいんじゃないか」

 

 強引に話を戻す。

 

 美東さんは、すぐに気づいた。

 

 「あ、話逸らした」

 

 「免許証の写真の話だっただろ」

 

 「今は岸和田くんの恋愛事情の話」

 

 「勝手に議題を変えるな」

 

 「じゃあ戻すけど、麻衣さんの免許証は絶対綺麗だと思う」

 

 「だろ」

 

 「普段から、撮られ慣れてる人は違うんだろうねぇ……」

 

 「美東さんも十分、写真と実物が違うけどな」

 

 「それ褒めてる?」

 

 「実物の方がいいって意味では」

 

 言ってから、少し余計だったかと思った。

 

 美東さんは目を丸くし、それから口元を緩める。

 

 「岸和田くん、彼女できたからって女の子の褒め方が上手くなった?」

 

 「そういう意味じゃない」

 

 「豊浜さんに報告しようかな」

 

 「連絡手段ないだろ」

 

 「大学で会った時に言う」

 

 「やめろ」

 

 「『岸和田くんに実物の方が可愛いって言われた』って」

 

 「言い方を変えるな」

 

 「変えてないよ」

 

 「主語と文脈が消えてる」

 

 「やっぱり面倒なこと考えてる」

 

 美東さんは楽しそうに笑う。

 

 その時、厨房の方からカレーの匂いが強くなった。

 

 ほどなくして、店員のおばさんが二枚の皿を運んでくる。

 

 濃い焦げ茶色のカレー。

 

 その上に、厚く切られたロースかつが載っていた。

 

 「お待たせしました。ブラックカツカレーです」

 

 目の前へ置かれた皿から、湯気が立ち上る。

 

 空腹だった腹が、改めて存在を主張した。

 

 「肉肉しい」

 

 美東さんが満足そうに言った。

 

 「まだ食べてないだろ」

 

 「見れば分かるよ」

 

 「写真映りと同じことにならなければいいけどな」

 

 「食べ物に失礼」

 

 美東さんはスプーンを手に取る。

 

 それから、思い出したように俺を見た。

 

 「岸和田くん」

 

 「何?」

 

 「今日は免許のお祝いだからね」

 

 「分かってるよ」

 

 「ごちそうさまです」

 

 「食べる前に言うな」

 

 「逃げられないように」

 

 「最初から払うつもりだよ」

 

 「さすが彼女持ち」

 

 「関係ないだろ」

 

 最後まで面白そうに笑ってから、美東さんはカツを一切れ口へ運んだ。

 

 数秒、真剣な顔で噛む。

 

 そして、大きく頷いた。

 

 「肉肉しい」

 

 結局、その感想に戻ってきた。

 

 「それしか言えないのか?」

 

 「だって、本当に肉肉しいから」

 

 「語彙が負けてるな」

 

 「岸和田くんは?」

 

 促されて、俺もカツを一切れ口へ運ぶ。

 

 衣はまださくさくしていた。

 

 厚めの肉は柔らかく、噛むと脂の甘さが広がる。

 

 そのあとから、黒いカレーの苦味と辛さが追いかけてきた。

 

 「どう?」

 

 美東さんが期待するような目を向けてくる。

 

 「……肉肉しい」

 

 「真似された」

 

 「他に適切な表現がなかった」

 

 「語彙が負けてるね」

 

 さっき俺が言った言葉を、そのまま返された。

 

 美東さんは満足そうにもう一口食べる。

 

 空腹だったこともあって、食べ始めると会話は自然に少なくなった。

 

 しばらくは、スプーンが皿に触れる音だけが続く。

 

 半分ほど食べたところで、美東さんが水の入ったグラスへ手を伸ばした。

 

 「そういえばさ」

 

 「何?」

 

 「麻衣さんで思い出したけど、いよいよ明日だよね」

 

 「ん?」

 

 「麻衣先輩が出る音楽フェスのことか?」

 

 「そう。岸和田くんも梓川くんと同じ話するんだ」

 

 「まだ何も話してないけどな」

 

 「流石兄弟」

 

 「誰が兄弟だ」

 

 俺が言うと、美東さんは楽しそうに首を傾げる。

 

 「だって、梓川くんと付き合っている麻衣さんの妹が豊浜さんでしょ?」

 

 「ああ」

 

 「その豊浜さんと付き合ってる岸和田くんは弟」

 

 「なんだよそれ」

 

 「違うの?」

 

 「違うだろ」

 

 そう返したものの、言われてみれば、完全に関係がないとも言い切れない。

 

 麻衣先輩がのどかの姉で、俺がのどかと付き合っている。

 

 家族ではないが、以前より近い立場になったことは確かだった。

 

 もし、このまま付き合いが続けば。

 

 そこまで考えたところで止める。

 

 「今、ちょっと納得したでしょ」

 

 「してない」

 

 「間があった」

 

 「カレーを食べてただけだ」

 

 「考え事してた顔だったけど」

 

 「写真だけじゃなく、食事中まで分かるのかよ」

 

 「岸和田くんは分かりやすいから」

 

 そう言って、美東さんはグラスの水を一口飲んだ。

 

 「一応、シークレットゲストって扱いだから、麻衣さんの名前、出演者の欄には載ってないっぽいけどね」

 

 「ああ。まあでも、もうみんな知ってるからな」

 

 「#夢見るのせいで?」

 

 「それもある」

 

 麻衣先輩が出演するという話は、正式には公表されていない。

 

 それでも、SNS上ではほとんど確定情報として扱われている。

 

 出演を示唆する投稿。現地での目撃情報。

 

 それらしい関係者の発言。

 

 いくつもの断片が集められ、勝手に一つの答えへ結びつけられていた。

 

 「SNSじゃ、カミングアウトも期待されてるもんね」

 

 「また再燃してるからな」

 

 「霧島透子の話?」

 

 「ああ。四月一日が近づくにつれて、特に」

 

 四月一日。

 

 麻衣先輩が、自分こそ霧島透子だと公表するのではないか。

 

 そんな憶測が、ここ数日で急速に増えていた。

 

 「原因は、一日警察署長の時の事件なんだろうけど」

 

 「あれって、サンタ事件?」

 

 美東さんが言う。

 

 「そんな名前になってるのか?」

 

 「SNSではそう呼ばれてるみたい」

 

 「雑だな」

 

 「分かりやすくはあるよ」

 

 確かに、あの日の光景を説明するには簡単だった。

 

 赤い服を着た女たち。

 

 自分こそが霧島透子だと名乗っていた者たち。

 

 その多くが、麻衣先輩の一日警察署長の現場へ集まった。

 

 そして、事件が終わったあと、自称『霧島透子』はほとんど姿を消した。

 

 「自称『霧島透子』は、あれでほぼ全滅したからな」

 

 「あんなことがあったら、名乗り続けるのも難しいよね」

 

 「そもそも、本物じゃなかったんだろ」

 

 「あれだけいたのに?」

 

 「あれだけいたからだよ」

 

 一人しかいないはずの人間が、大勢いる時点でおかしい。

 

 誰か一人が本物だった可能性はある。

 

 けれど、少なくとも全員が本物だったはずはない。

 

 あの事件のあと、自称『霧島透子』がいなくなったことで、候補もまたいなくなった。

 

 結果として、以前から名前の挙がっていた麻衣先輩への疑惑が、再び強くなった。

 

 特に、四月一日を目前にしたここ数日は。

 

 自称『霧島透子』を名乗っていた多くのサンタが、あの日、麻衣先輩のもとへ集まった。

 

 その事実も、SNS上の憶測に拍車をかけているのだろう。

 

 まるで、霧島透子を名乗る偽物たちが、本物のもとへ引き寄せられたように。

 

 筋の通った話ではない。

 

 それでも、筋が通っているように見える物語の方が、人は信じやすい。

 

 「だから麻衣さん、明日のフェスで改めて否定するんだって」

 

 「咲太から聞いた?」

 

 「うん。梓川くんが言ってた」

 

 「そっか」

 

 麻衣先輩が否定したところで、疑う人間は残るだろう。

 

 否定するほど怪しいと言い出す者もいる。

 

 何も言わなければ認めたことにされ、口を開けばその言葉まで材料にされる。

 

 有名人というのは、面倒な立場だ。

 

 俺は皿に残ったカレーをスプーンで集めながら、少し考えた。

 

 霧島透子。

 

 姿を見せない音楽家。

 

 新曲を発表するたびに、誰かの人生へ影響を与える存在。

 

 ネット上では正体について無数の説が飛び交っている。

 

 有名人。一般人。

 

 複数人による共同名義。AI。

 

 そもそも実在しない。

 

 どれも証明されていない。

 

 ただ、どれも違う。

 

 理屈ではなく、そう思った。

 

 「なあ、美東さん」

 

 「何?」

 

 美東さんはカツを切り分けながら顔を上げた。

 

 「霧島透子って、何者なんだと思う?」

 

 美東さんの手が止まった。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 スプーンの先が皿の上で静止する。

 

 けれど、すぐに何事もなかったように動き始めた。

 

 「岸和田くんは、どんな人だと思う?」

 

 質問が、そのまま返ってきた。

 

 「質問に質問で返すなよ」

 

 「先に聞きたいなと思って」

 

 「俺は聞かれた側なんだけど」

 

 「答えたくない?」

 

 「そういうわけじゃない」

 

 霧島透子について、はっきりと言えることはほとんどない。

 

 曲を作っている。

 

 姿を見せない。

 

 誰かの背中を押すような歌詞を書く。

 

 そして、なぜか麻衣先輩ではないと思う。

 

 「少なくとも、麻衣先輩じゃないと思う」

 

 「どうして?」

 

 「分からない」

 

 「分からないのに?」

 

 「ああ」

 

 「根拠は?」

 

 「ない」

 

 美東さんが、少しだけ目を細める。

 

 「じゃあ、どうしてそう思うの?」

 

 「なんとなく、そんな気がする」

 

 自分でも、説明になっていないと思う。

 

 麻衣先輩が霧島透子ではないという証拠はない。

 

 本人が否定していること以外には。

 

 けれど、SNSでどれだけもっともらしい説を見ても、納得できなかった。

 

 麻衣先輩ではない。

 

 それだけは、妙に確信に近かった。

 

 どこから来る感覚なのかは分からない。

 

 美東さんは、しばらく俺を見ていた。

 

 冗談を言うでもなく、質問を重ねるでもない。

 

 何かを確かめるような目だった。

 

 やがて、ふっと表情を緩める。

 

 「この人、また難しいこと考えてるわ~」

 

 「またって何だよ」

 

 「いつも考えてるでしょ」

 

 「今日会ったばかりだろ」

 

 「前からだよ」

 

 「そうだったか?」

 

 「そうだよ」

 

 美東さんは、当たり前のことを言うように答えた。

 

 基礎ゼミで一緒だった頃のことを言っているのだろう。

 

 俺が講義中に余計なことを考えていたのを、何度か見られていたのかもしれない。

 

 「で、美東さんはどう思うんだ?」

 

 「霧島透子?」

 

 「ああ」

 

 美東さんは皿へ視線を落とした。

 

 残っていたカツを一口分に切る。

 

 「どんな人なんだろうね」

 

 「それ、答えになってない」

 

 「わたしも分からないから」

 

 「本当に?」

 

 聞くと、美東さんは顔を上げた。

 

 柔らかな笑みを浮かべている。

 

 けれど、その笑顔の奥までは見えなかった。

 

 「どうして、わたしが知ってると思うの?」

 

 「なんとなく」

 

 「またそれ?」

 

 「悪いか?」

 

 「便利な言葉だね」

 

 美東さんは笑った。

 

 否定も肯定もしなかった。

 

 少し踏み込むと、柔らかくかわされる。

 

 駅からここまで歩いてきた時と同じだった。

 

 それ以上聞く理由もなかった。

 

 ただの思いつきだ。

 

 俺自身、なぜ美東さんへ尋ねたのか分かっていない。

 

 「でも」

 

 美東さんが続ける。

 

 「霧島透子が麻衣さんじゃないっていう岸和田くんの勘、当たってるといいね」

 

 「なんで?」

 

 「その方が、面白そうだから」

 

 「無責任だな」

 

 「正体不明のままの方が、夢があるでしょ?」

 

 「本人が困るだろ」

 

 「霧島透子が?」

 

 「麻衣先輩が」

 

 「ああ、そっち」

 

 美東さんは少し可笑しそうに笑う。

 

 そのまま最後のカツを口に運んだ。

 

 俺も残っていたカレーを食べる。

 

 会話はそこで途切れた。

 

 けれど、美東さんが一瞬だけ止めた手と、

 

 “また”という言葉だけが、なぜか頭の片隅に残った。

 

 ブラックカツカレーを食べ終えて、俺たちは店を出て、大船駅へ戻ってきていた。

 

 駅の階段を上り、改札口の方へ向かう。

 

 「美東さんも駅に何か用でもあるのか?」

 

 美東さんが住んでいるのは、この大船だ。

 

 だから俺と違って、電車へ乗る必要はない。

 

 「駅ビルの地下で、夕飯の買い物をしようと思って」

 

 そう言って、駅の方を指差した。

 

 「岸和田くんは、このあと帰るだけ?」

 

 「ああ。そのまま帰るつもり」

 

 「だったら、困ったことになったね」

 

 「困ったこと?」

 

 美東さんの視線を追う。

 

 改札の上にある電光掲示板には、大きく運行情報が表示されていた。

 

 東海道線 一部区間 運転見合わせ

 

 『運転見合わせ』の文字が右から左へ流れていく。

 

 止まっているのは、俺が藤沢まで乗って帰る予定だった電車だった。

 

 「……困ったな」

 

 「結構止まってるみたい」

 

 「人身かな」

 

 「さあ」

 

 駅員の案内放送が構内へ流れる。

 

 復旧時刻は未定。

 

 しばらく動きそうにはなかった。

 

 少し考える。

 

 「湘南モノレールで江の島まで出て、江ノ電で藤沢に戻るか……」

 

 「バスもあるよね?」

 

 「ああ。藤沢行きのバスも出てる」

 

 「さすが地元民」

 

 「地元とは違うけどな」

 

 苦笑する。

 

 「この辺って、結構バス走ってるから」

 

 「あー、それ、わたしも思った」

 

 美東さんが思い出したように笑う。

 

 「先月、湘南モノレールで片瀬山へ行ったんだけど」

 

 「片瀬山?」

 

 「あっちこっちから藤沢行きのバスが来るんだもん」

 

 「循環してるやつと、普通の路線がすれ違ったんじゃないか?」

 

 「そうなのかな」

 

 「たぶん」

 

 どちらにしても、不思議な光景ではある。

 

 「美東さん、片瀬山に何しに行ったんだ?」

 

 「あそこ、富士山がよく見えるって聞いて」

 

 「なるほど」

 

 静岡出身らしい理由だった。

 

 「まあ、美東さんは富士山好きそうだし」

 

 「岸和田くんも好きでしょ?」

 

 「藤沢から見える富士山は好きだな」

 

 「東京より?」

 

 「ああ」

 

 頷く。

 

 「東京から見るより大きいし、江の島も近い」

 

 「分かる」

 

 美東さんも頷いた。

 

 「麻衣さんも言ってたよ」

 

 「麻衣先輩が?」

 

 「東京から見るよりずっと大きいから、あの富士山を見ると藤沢へ帰ってきた感じがするって」

 

 「ちょっと分かるかもな」

 

 同じ富士山でも、見る場所で印象はずいぶん違う。

 

 それだけの話だった。

 

 「じゃあ」

 

 改札の前で立ち止まる。

 

 「また大学で」

 

 「うん」

 

 美東さんが手を振る。

 

 「またね、岸和田くん」

 

 「また」

 

 軽く手を上げて別れる。

 

 美東さんは駅ビルの方へ。

 

 俺はJRの改札を横切り、湘南モノレールの乗り場へ向かった。

 

 ホームへ上がると、ちょうど湘南江の島行きの列車が停車していた。

 

 ドアが開いたままだったので、そのまま乗り込む。

 

 向かい合わせになった四人掛けの座席へ腰を下ろした。

 

 ほどなくして発車ベルが鳴る。

 

 ドアが閉まり、懸垂式のモノレールはゆっくりと走り始めた。

 

 ガタン、と小さく揺れる。

 

 終点の湘南江の島駅までは十五分ほどだった。

 

 窓の外へ視線を向ける。

 

 住宅街の屋根が流れていく。

 

 少し高い場所へ出ると、遠くの空が開けた。

 

 霞の向こうに、富士山の輪郭が薄く浮かんでいる。

 

 「……富士山か」

 

 小さく呟く。

 

 美東さんとの会話を思い出す。

 

 霧島透子。

 

 麻衣先輩。

 

 明日の音楽フェス。

 

 結局、霧島透子が何者なのかは分からなかった。

 

 分からないままでも、ひとつだけ思う。

 

 麻衣先輩ではない。

 

 それだけは、妙に確信していた。

 

 どうしてそう思うのか。

 

 理由は説明できない。

 

 それでも、その感覚だけは揺らがなかった。

 

 モノレールは湘南江の島駅へ到着し、俺は江ノ電へ乗り換え、藤沢駅で降りて帰宅した。

 

 夕食と風呂を済ませ、自室のベッドへ横になる。

 

 スマートフォンを見る。

 

 画面には、

 

 三月三十一日 二十三時四十七分

 

 と表示されていた。

 

 あと少しで四月一日。

 

 麻衣先輩が出演する音楽フェス。

 

 そして、スイートバレットのライブ。

 

 麻衣先輩が自分が霧島透子だってカミングアウトすると言われている日。

 

 世間では、何かが起こると騒がれている。

 

 ……そう思っていた。

 

 スマートフォンを充電器へ繋ぎ、照明を消す。

 

 目を閉じる。

 

 ほどなくして、意識は静かに沈んでいった。

 

 

———————————————————————

 

 

 目が覚めた。

 

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。

 

 いつもの朝だった。

 

 枕元のスマートフォンを手に取る。

 

 時間を確認する。

 

 午前六時三十分。

 

 その下の日付を見て、思考が止まった。

 

 三月一日 水曜日

 

 「…………は?」

 

 寝起きとは思えないほど、頭が冴えた。

 

 ありえない。

 

 昨夜は、確かに三月三十一日だった。

 

 見間違えるはずがない。

 

 電源を入れ直す。

 

 変わらない。

 

 画面を何度見ても、三月一日のままだった。

 

 背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がっていく。

 

 「そんなはずはない……」

 

 ……終わったはずだ。

 

 中学一年の、あの三月で。

 

 けれど、その否定は、かつて何度も繰り返したものと同じくらい空しかった。

 

 俺はもう一度、スマートフォンの日付を見つめた。

 

 そこには何度見ても、三月一日とだけ表示されていた。

 




物語解説

今回は、伊豆旅行から三月三十一日までを通して、蓮真が「今ある幸せを失うことへの恐れ」と向き合う回でした。

大室山。伊豆シャボテン動物公園。そして、美東美織との再会。

のどかと付き合い始めた蓮真は、卯月と三人で伊豆を訪れます。

大室山から見渡す景色。動物園で過ごす穏やかな時間。カピバラやハシビロコウを前に交わされる、何気ない会話は、どれも派手な出来事ではありません。

けれど、その積み重ねが、蓮真にとっては今まで知らなかった「失いたくない日常」を形作っていきます。

一方で、その幸せな時間は、蓮真の中に眠っていた記憶も少しずつ揺り起こしていきます。

富士山を見た時に蘇る、「はすまくん」と呼ぶ幼い少女の声。

そして、その少女の記憶は、以前から蓮真の中に引っかかっていた霧島透子という存在と、少しずつ結び付き始めます。

蓮真自身は、その理由をまだ知りません。

また、今回の物語では、のどかとの関係にも少し変化が描かれました。

恋人になったことで得られた幸せと、その一方で、卯月を含めた三人の関係が変わってしまうことへの不安。

のどかは、自分がいなくても二人だけで笑い合えるのではないかという寂しさを抱えます。

だからこそ蓮真は、楽しい時間だけではなく、不安になるところも含めて知りたいと思ったから、のどかを選んだのだと伝えました。

付き合うということは、気持ちが通じ合った瞬間ではなく、お互いの弱さと向き合い始めることでもあります。

今回描きたかったのは、そんな二人の関係でした。

物語の終盤では、美東美織との再会も描きました。

免許証の写真。ブラックカツカレー。そして、霧島透子の話。

一見すると何気ない会話ですが、その中には小さな違和感がいくつも散りばめられています。

美織は何を知っているのか。

蓮真は、なぜ桜島麻衣が霧島透子ではないと確信しているのか。

その答えは、まだ語られていません。

そして、四月一日を迎える直前。

蓮真が目を覚ますと、日付は三月一日に戻っていました。

中学一年生の頃に経験した、三月のループ。

終わったはずの思春期症候群が、再び蓮真の前へ姿を現します。

今回描きたかったのは、「幸せだからこそ失うことが怖い」という蓮真の心の揺らぎでした。

そして、その願いが、皮肉にも「三月を終わらせない」という形で現実になってしまうところまでを描いています。

次回からは、再び始まった三月の中で、蓮真は思春期症候群ともう一度向き合うことになります。

引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
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