青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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7.同じ日々を繰り返した先で、足跡を見つける

 

 三月一日

 

 何度見直しても、スマホの日付は変わらなかった。

 

 午前六時三十四分。

 

 水曜日。

 

 時計だけが、何事も起きていないように一秒ずつ進んでいる。

 

 「……どうしてだ」

 

 声に出してみても、答える人はいない。

 

 昨夜は、確かに三月三十一日だった。

 

 横浜市立大学で赤城との打ち合わせを終え、大船で美東さんとブラックカツカレーを食べた。

 

 東海道線が止まっていたから、湘南モノレールと江ノ電を乗り継いで藤沢へ帰った。

 

 夕食を食べ、風呂に入り、明日の音楽フェスと、スイートバレットのライブのことを考えながら眠った。

 

 そのはずだった。

 

 昨日だけではない。

 

 三月一日から三月三十一日までの一か月を、俺は確かに過ごしている。

 

 のどかの誕生日。

 

 俺の誕生日。

 

 卯月と卯月のお母さんを含めた四人での外出。

 

 赤城との打ち合わせ。

 

 明日に迫っていた麻衣先輩のフェスとスイートバレットのライブ。

 

 思い返そうとすれば、細かな会話まで浮かんでくる。

 

 夢だったとは思えない。

 

 それなのに、時間だけが一か月前へ戻っていた。

 

 「……落ち着け」

 

 自分に言い聞かせる。

 

 心臓は、さっきから早鐘を打っていた。

 

 手のひらにも、じっとりと汗が滲んでいる。

 

 けれど、慌てても何も分からない。

 

 まず確認するべきことがある。

 

 こういう時、何を調べればいいのか。

 

 俺は一度、経験していた。

 

 ベッドから起き上がり、机の椅子へ腰を下ろす。

 

 スマホを操作する。

 

 メッセージ。

 

 通話履歴。

 

 写真。

 

 カレンダー。

 

 大学関係の連絡。

 

 表示されているものは、どれも三月一日時点の内容だった。

 

 のどかの誕生日に撮った写真はない。

 

 卯月とLINEをした履歴もない。

 

 三月二十日の予定も最初から存在していなかったかのように消えていた。

 

 「……全部、戻ってるのか」

 

 俺の記憶には残っている。

 

 けれど、この世界には何も残されていない。

 

 その感覚には、覚えがあった。

 

 中学一年の、あの三月。

 

 あの時も、目を覚ますたびに同じ日付へ戻った。

 

 ただし、繰り返される世界は、毎回まったく同じではなかった。

 

 廊下の向こうから聞こえる、母の呼ぶ声。

 

 朝日が差し込む、温かなリビング。

 

 制服を着て、当たり前のように学校へ向かう自分。

 

 明日のことを考えても、胸が苦しくならなかった頃の自分。

 

 あのループでは、現実にならなかった可能性が、少しずつ形を変えて俺の前へ現れていた。

 

 母が亡くなったのは、小学六年生になる直前だった。

 

 四月一日。

 

 あの日を境に、家の中にあったものが、一つずつ変わっていった。

 

 父との関係。親戚の態度。家に帰った時の空気。

 

 それまで当たり前だったものが、同じ形では残らなくなった。

 

 取り残されたくなくて、中学受験の勉強にしがみついた。

 

 進学校へ入れば、何かが元に戻るような気がしていた。

 

 けれど、新しい学校にも馴染めなかった。

 

 授業についていけないわけではない。

 

 誰かに露骨に嫌われたわけでもない。

 

 それでも、教室へ行くことが少しずつ苦しくなった。

 

 欠席する日が増えていく中で、神奈川へ移り、一人で暮らしてみないかと勧められた。

 

 その話を聞いた時、最初に浮かんだのは不安でも期待でもなかった。

 

 こんな未来を選びたかったわけじゃない。

 

 そんな思いだった。

 

 そこから、俺の思春期症候群は始まった。

 

 選ぶことのできなかった人生。

 

 選択肢にすらならなかった未来。

 

 自分が手放したつもりの世界が、今いる現実へ重なり、同じ三月を何度も作り直した。

 

 俺はその中で、自分が望んでいたはずの未来を探し続けた。

 

 そして、何度目かの三月で、母が生きている世界に辿り着いた。

 

 朝、目を覚ませば、台所から包丁の音が聞こえた。

 

 リビングへ行けば、母がいつもの場所に立っていた。

 

 食卓には三人分の朝食が用意されていて、学校へ向かう俺に、母は当たり前のように「行ってらっしゃい」と言った。

 

 失ったものが、何も失われていない世界だった。

 

 ずっと戻りたいと思っていた日常だった。

 

 あのまま続いてくれるなら、他に何も要らないと思った。

 

 けれど、その世界も特別ではなかった。

 

 一日が終わる。

 

 眠りにつく。

 

 次に目を覚ませば、また同じ三月の始まりへ戻される。

 

 母と交わした言葉も。三人で囲んだ食卓も。

 

 何事もなく学校へ通えた一日も。

 

 次の世界には引き継がれない。

 

 どれほど望んでも、朝が来るたびに消えてしまう。

 

 あの三月は、そういう場所だった。

 

 だから、今回も時間だけが巻き戻ったとは限らない。

 

 同じ三月一日でも、以前のループでは、世界の中身が少しずつ違っていた。

 

 住んでいる場所。

 

 通っている学校。

 

 家族の状況。

 

 周囲の人間関係。

 

 過去に自分が選んだこと。

 

 始まりは同じに見えても、どこか一つが変わっていて、その違いが別の未来を作っていた。

 

 なら、今いる三月も、昨日まで過ごしていた三月とは違う可能性がある。

 

 俺が選ばなかった何か。選べなかった何か。

 

 それが再び、現実へ干渉しているのかもしれない。

 

 「まずは……違いを探すか」

 

 理由を考えるのは、そのあとでいい。

 

 今の時点では、情報が少なすぎる。

 

 スマホのカレンダーを開く。

 

 三月一日。

 

 登録されている予定は、一つだけだった。

 

 十八時三十分。

 

 塾講師のアルバイト。

 

 咲太も一緒で、山田くんと吉和さんがいる。

 

 それは記憶と一致している。

 

 最初にこの三月一日を過ごした時も、夕方から塾へ向かった。

 

 担当する生徒も、授業で扱う範囲も覚えている。

 

 少なくとも、今日の俺は大学へ行く予定ではない春休み中だ。

 

 時計を見る。

 

 バイトまでは、まだ十二時間近くある。

 

 確認する時間は十分にあった。

 

 部屋の中を見回す。

 

 家具の位置。

 

 机の上に積まれた教科書。

 

 本棚に並んだ本。

 

 脱ぎっぱなしにしていた上着。

 

 見える範囲では、昨日までと変わっていない。

 

 財布を開く。

 

 現金。

 

 通学定期。

 

 学生証。

 

 運転免許証。

 

 どれも記憶にあるものと同じだった。

 

 けれど、それだけでは判断できない。

 

 以前のループでも、自分の部屋は変わらないまま、家族だけが別の状況になっていたことがある。

 

 俺自身の生活が同じだからといって、世界全体まで同じとは限らない。

 

 確かめるべき場所があった。

 

 目黒の実家。

 

 そこへ行けば、少なくとも家族に関する違いは分かる。

 

 父がどうしているのか。

 

 家の中に変化がないか。

 

 そして。

 

 母が、生きているのか。

 

 その可能性を考えた瞬間、喉が詰まった。

 

 呼吸が浅くなる。

 

 期待するな。

 

 頭の中で、すぐにそう言い聞かせる。

 

 母がいるかもしれないと考えた途端、冷静な判断ができなくなる。

 

 (以前の三月で経験しただろ……)

 

 居心地の良い世界を見つけて、今度こそ本物であってほしいと願った。

 

 今度こそ、朝が来ても消えないでほしいと思った。

 

 けれど、どの世界も終わった。

 

 期待した分だけ、失った時の痛みは大きくなった。

 

 分かっている。

 

 それでも、確かめないという選択はできなかった。

 

 スマホを手にしたまま、しばらく動けずにいた。

 

 電話をかける方法もある。

 

 実家の固定電話。

 

 父の携帯電話。

 

 母が生きているなら、誰かが応答するかもしれない。

 

 けれど、連絡先を開いたところで、指が止まった。

 

 電話越しの声だけでは、今いる世界の違いを確かめきれない。

 

 もし母が出たら、俺は何を言えばいい。

 

 もし父が出たら、朝から電話をかけた理由をどう説明する。

 

 何より、母が出なかった時に、一人で平静を保てる自信がなかった。

 

 「……直接行こう」

 

 その方がいい。

 

 家の外観。

 

 表札。

 

 郵便受け。

 

 玄関に並んだ靴。

 

 家の中に残っている物。

 

 実際に行けば、電話より多くのことを確かめられる。

 

 俺は椅子から立ち上がった。

 

 まだ朝食も取っていない。

 

 洗面所へ行き、顔を洗う。

 

 鏡の中の自分は、思っていたよりも青ざめていた。

 

 目の下には、薄く隈が浮かんでいる。

 

 一か月分の記憶だけが残っているせいなのか。

 

 それとも、昨日までの疲れまで身体に残っているのか。

 

 分からない。

 

 「昨日までの三月との差を探すしかない」

 

 鏡の中の自分へ、もう一度言い聞かせる。

 

 今いるのが、ただ時間だけを巻き戻された世界なのか。

 

 それとも、別の可能性から作られた世界なのか。

 

 決めつけるには早い。

 

 怖がるのも、何かを期待するのも、確認してからでいい。

 

 着替えを済ませ、鞄へ財布とスマホを入れる。

 

 塾で使う教材は、実家から戻ってきてから準備しても間に合う。

 

 十八時半までに帰宅する。

 

 何も変わっていなければ、予定通り塾へ行く。

 

 もし何かが変わっていたら。

 

 そこから先は、まだ考えないことにした。

 

 玄関で靴を履く。

 

 ドアノブへ手をかける前に、もう一度だけスマホを見る。

 

 三月一日。水曜日。

 

 表示は変わらない。

 

 「行ってくる」

 

 誰もいない部屋へ、小さく告げた。

 

 ドアを開ける。

 

 外には、三月初めの冷たい空気が待っていた。

 

 俺は目黒の実家へ向かうため、駅へ歩き出した。

 

 東海道線と山手線で目黒に向かった俺は、目黒駅を出て、見慣れた道を歩いた。

 

 住宅街は静かだった。

 

 通勤や通学へ向かう人と何度かすれ違う。

 

 その中を歩きながら、俺は何度も自分へ言い聞かせた。

 

 期待するな。

 

 ここへ来たのは、確認するためだ。

 

 母に会うためじゃない。

 

 今いる世界が、昨日までの世界と同じなのか。

 

 それを確かめるために来ただけだ。

 

 そう考えているうちに、実家が見えてきた。

 

 足が止まる。

 

 外から見る限り、何も変わっていなかった。

 

 門。

 

 植木。

 

 郵便受け。

 

 玄関脇に置かれた傘立て。

 

 全部、記憶にあるままだった。

 

 表札にも、見慣れた名字だけがある。

 

 以前のループでは、ここへ来る前から違いが分かることもあった。

 

 その世界で自分がどんな人生を送ってきたのか、ある程度は想像できた。

 

 けれど、今回は違う。

 

 見える範囲では、何一つ変わっていない。

 

 鞄から鍵を取り出した。

 

 鍵穴へ差し込む。

 

 回る。

 

 それも同じだった。

 

 玄関を開ける。

 

 「……ただいま」

 

 返事はない。

 

 家の中へ入る。

 

 玄関に並んだ靴に、廊下に置かれた小さな棚。壁に掛けられた時計。

 

 見慣れたものばかりだった。

 

 母の靴はない。

 

 それを確認してしまった自分に、少し嫌気が差した。

 

 分かっていたはずなのに。

 

 それでも、どこかで期待していた。

 

 靴を脱いで、家の奥へ進む。

 

 最初に向かったのは、母が使っていた部屋だった。

 

 扉を開ける。

 

 そこにも、変化はなかった。

 

 部屋の奥には、小さな仏壇が置かれている。

 

 写真の中で、母が笑っていた。

 

 俺の記憶にあるものと同じ写真。

 

 同じ花立て。同じ香炉。

 

 母が生きている世界ではなかった。

 

 「……そっか」

 

 声にすると、思っていたより平坦だった。

 

 悲しいというより、確認が終わったという感覚に近かった。

 

 そう思おうとしているだけかもしれない。

 

 しばらく母の写真を見てから、部屋を出る。

 

 次に、自分が昔使っていた部屋へ向かった。

 

 扉を開ける。

 

 机。本棚。ベッド。

 

 家具の位置も、ほとんど変わっていない。

 

 昔の参考書や学校の教科書が、まだ何冊か残っている。

 

 俺は部屋の中央まで歩き、何となく天井を見上げた。

 

 視線が、一か所で止まった。

 

 天井近くの梁の辺り。

 

 そこに、ほんの微かな跡が残っている。

 

 薄い痕。

 

 塗装の剥げ方が、そこだけ少し違う。

 

 知らない人が見れば、気にも留めない程度のものだろう。

 

 けれど、俺には分かる。

 

 どうしてそこだけ色が違うのか。

 

 何があったのか。

 

 考えるのが嫌になるくらいには。

 

 「……」

 

 目を逸らした。

 

 胸の奥が、わずかに重くなる。

 

 あれも消えていない。

 

 母が亡くなったことも。

 

 学校へ行けなくなったことも。

 

 あの三月で、自分がやったことも。

 

 全部、この世界に残っている。

 

 以前のループなら、違っていた。

 

 母が生きている世界では、当然、この痕跡もなかった。

 

 学校へ普通に通っていた世界では、この部屋に残っているものも違っていた。

 

 過去が変われば、その結果も変わる。

 

 それが、あの時の三月だった。

 

 けれど今回は……

 

 「……変わってない」

 

 小さく呟く。

 

 母は亡くなっている。

 

 仏壇もある。

 

 この部屋にも、あの時の痕跡が残っている。

 

 少なくとも、俺が確認した範囲では、昨日までの人生と違うところがない。

 

 スマホを取り出す。

 

 三月一日。

 

 水曜日。

 

 日付だけが、一か月前へ戻っている。

 

 「前とは……違うのか?」

 

 以前は、選ばなかった可能性が現実へ干渉していた。

 

 そのせいで、同じ三月でも世界の中身が少しずつ変わった。

 

 なら、今回は何だ。

 

 世界は変わっていない。

 

 過去も変わっていない。

 

 変わったのは、日付だけ。

 

 いや、まだ決めつけるのは早い。

 

 ここが同じだからといって、すべてが同じとは限らない。

 

 俺の知らないところで、何かが変わっている可能性はある。

 

 のどか。

 

 卯月。

 

 咲太。

 

 麻衣先輩。

 

 美東さん。

 

 赤城。

 

 誰か一人だけが、昨日までと違う人生を送っているかもしれない。

 

 あるいは。

 

 俺自身がまだ気づいていないだけかもしれない。

 

 時計を見る。

 

 まだ昼前だった。

 

 塾のバイトは十八時半。

 

 時間はある。

 

 そこで咲太にも会える。

 

 山田くんと吉和さんもいる。

 

 まずは、予定通り一日を過ごしてみる。

 

 その中で、昨日までの三月との差を探す。

 

 今できるのは、それくらいだった。

 

 もう一度だけ、梁の辺りへ視線を向ける。

 

 薄い痕は、そのまま残っている。

 

 あの三月は、なかったことにはなっていない。

 

 少なくとも、それだけは分かった。

 

 なのに、時間だけが戻っている。

 

 「……なんなんだよ」

 

 答えは、やはり返ってこなかった。

 

 夕方。俺は予定通り、塾へ向かった。

 

 目黒の実家から藤沢へ戻ったあと、一度部屋へ帰った。

 

 塾で使う教材を鞄へ入れ、少し早めに家を出た。

 

 実家では、結局何も変わっていなかった。

 

 母の仏壇。

 

 昔使っていた自分の部屋。

 

 そして、天井近くの梁に残った、あの薄い痕。

 

 どれも昨日までの記憶と一致していた。

 

 少なくとも、以前の三月のように、家族の過去そのものが別の可能性へ置き換わっているようには見えなかった。

 

 だからこそ、余計に分からない。

 

 世界が変わっていないのなら。

 

 なぜ、時間だけが戻った。

 

 「……」

 

 考えても答えは出ない。

 

 塾が入っているビルへ着く。

 

 エレベーターに乗り、五階のボタンを押した。

 

 上昇する数字を見ながら、ふと思う。

 

 このあと何が起こるのか。

 

 俺は知っている。

 

 三月一日を、すでに一度経験しているからだ。

 

 エレベーターが止まる。

 

 ドアが開いた。

 

 「お疲れ様です」

 

 受付の先生が声をかけてくる。

 

 「お疲れ様です」

 

 返しながら、奥を見る。

 

 カウンターに咲太がいた。

 

 プリントを二つの束に分けている。

 

 端を揃える。机へ軽く当てる。もう一度重ねる。

 

 そこまで見て、足が止まりそうになった。

 

 覚えている。

 

 次に咲太が言う言葉も。

 

 「岸和田か。早いな」

 

 「……」

 

 そのままだった。

 

 一字一句まで同じかは分からない。

 

 でも、俺の記憶にある三月一日と、ほとんど同じだった。

 

 「……それはこっちのセリフだ」

 

 前と同じように返す。

 

 咲太が少しだけ顔を上げる。

 

 「今日はな」

 

 「何だよその言い方」

 

 「別に」

 

 視線がプリントへ戻る。

 

 机の上。二つの束。

 

 どちらの名前が書かれているかも、分かっていた。

 

 「吉和さんと山田くんか」

 

 「ああ」

 

 咲太が頷く。

 

 「期末近いからな」

 

 「……峰ヶ原、来週からだもんな」

 

 口から出してから、妙な気分になる。

 

 自分で喋っているのに、台本を読み上げているようだった。

 

 咲太は気づかない。

 

 当然だ。

 

 こいつにとっては、これが初めての会話なのだから。

 

 しばらく、いつも通りの授業の話をする。

 

 山田くんの数学。

 

 最近、以前より勉強するようになったこと。

 

 咲太の教え方。

 

 記憶とほとんど変わらない話題が流れていく。

 

 その間、俺は咲太の顔を何度か盗み見た。

 

 違和感はない。困惑もない。

 

 三月一日であることを不自然に感じている様子もない。

 

 もしこいつも三月三十一日までの記憶を持っているなら。

 

 俺と同じように、何かしら態度に出るはずだ。

 

 少なくとも、俺が来た瞬間に何かを聞いてくる。

 

 それがない。

 

 (……咲太は覚えてないのか)

 

 その可能性が高くなっていく。

 

 「……で?」

 

 咲太が言った。

 

 その一言に、俺は顔を上げる。

 

 これも覚えているから。

 

 「何がだよ」

 

 「豊浜と広川さん」

 

 やっぱり。

 

 「どうだった?」

 

 胸の奥が、すっと冷える。

 

 俺はこの会話をした。

 

 一か月前に。

 

 いや……

 

 俺の感覚では一か月前なのに、今の咲太にとっては初めてだ。

 

 「……わざわざ言わなくても、お前知ってるだろ」

 

 「まあな」

 

 前と同じ返事。

 

 「でも、聞くだけならタダだからな」

 

 「性格悪いな」

 

 「そうかもな」

 

 ここまで来ると、偶然とは思えなかった。

 

 会話の流れ。言葉。

 

 咲太の手の動き。

 

 全部が、記憶の中にある。

 

 「……のどかと、ちゃんと話した」

 

 「そっか」

 

 咲太はそれ以上聞かない。

 

 そして。机の端へ手を伸ばした。

 

 俺は、その先にあるものを知っていた。

 

 白い封筒。

 

 「ほら」

 

 差し出され、受け取る。

 

 開けなくても、中身は分かる。

 

 新江ノ島水族館のチケット。

 

 麻衣先輩から。

 

 のどかとの交際祝い。

 

 「……」

 

 封筒を持ったまま動けなくなる。

 

 「どうした?」

 

 咲太が怪訝そうに俺を見る。

 

 「いや」

 

 慌てて封を開ける。

 

 予想通りだった。

 

 新江ノ島水族館のチケットが二枚。

 

 「……チケット?」

 

 あえて、前と同じ言葉を口にする。

 

 「新江ノ島水族館」

 

 「……なんで」

 

 「お祝いだとさ」

 

 やっぱり同じだ。

 

 「麻衣さんから」

 

 続く言葉も分かる。

 

 「伝言も預かってる」

 

 来る。

 

 「……なんて?」

 

 咲太が一拍置いた。

 

 「『のどかのこと、よろしくね』」

 

 「……」

 

 ぞくりとした。

 

 嬉しい言葉のはずだった。

 

 一度目は確かに嬉しかった。

 

 麻衣先輩から、のどかを任されたような気がした。

 

 なのに今は、その言葉が恐ろしい。

 

 同じ言葉。同じ声。

 

 同じタイミング。

 

 「もう一個あるぞ」

 

 「……まだあんのかよ」

 

 「『ちゃんと周りには気をつけるのよ』」

 

 「……」

 

 「スキャンダル防止な」

 

 同じだ。

 

 間違いなく、この会話を俺は知っている。

 

 「岸和田?」

 

 「……ん?」

 

 「さっきから変だぞ」

 

 咲太が少しだけ眉を寄せていた。

 

 「寝不足」

 

 すぐに答える。

 

 「そうか?」

 

 「ああ」

 

 それだけ言って、封筒へ視線を落とす。

 

 聞くなら、今かもしれない。

 

 お前は、昨日何をしていた。

 

 三月三十一日の記憶はあるか。

 

 明日が四月一日だったことを覚えているか。

 

 喉まで言葉が上がってきた。

 

 「咲太」

 

 「ん?」

 

 咲太が顔を上げる。

 

 「……」

 

 そこで止まった。

 

 もし、咲太が覚えていなかったら。

 

 突然俺が、「昨日は三月三十一日だった」なんて言い出すことになる。

 

 思春期症候群を何度も経験してきた咲太なら、頭ごなしに否定はしないだろう。

 

 双葉へ相談することもできる。

 

 それでもまだ早い。

 

 実家には変化がなかった。

 

 この塾も同じ。

 

 咲太も、少なくとも今のところは同じ。

 

 だったら、もう少し確認したい。

 

 今回の三月が、どの程度まで前回と一致しているのか。

 

 それを知らないまま誰かを巻き込めば、俺自身が状況を見誤るかもしれない。

 

 それに。以前の俺は、一度、自分の経験を妄想だと言われている。

 

 その記憶が、ほんの少しだけ足を引っ張った。

 

 「……いや」

 

 言葉を飲み込む。

 

 「なんでもない」

 

 咲太は数秒俺を見ていた。

 

 「変なやつだな、お前」

 

 「お前にだけは言われたくない」

 

 反射で返す。

 

 前にも、同じことを言った。

 

 それがまた気味悪かった。

 

 やがて、教室の入口から声が聞こえてくる。

 

 「こんばんはー」

 

 (来たか……)

 

 振り返る。

 

 山田くん。

 

 気の抜けた姿勢。

 

 片手を軽く上げる。

 

 「こんばんはー、岸和田先生」

 

 「……こんばんは」

 

 「咲太先生、今日、数学からですよね?」

 

 「そうだな」

 

 「まじかー……」

 

 ここも同じ。

 

 山田くんは覚えていない。

 

 少なくとも、俺を見る限りでは。

 

 そして、山田くんの視線が机の上へ落ちる。

 

 白い封筒。

 

 (来る)

 

 分かってしまった。

 

 「あれ?」

 

 「……」

 

 「それ、なんすか?」

 

 「別に」

 

 「いいじゃないすか、減るもんじゃないし」

 

 勝手に覗く。

 

 「あ、水族館?」

 

 「……」

 

 「あー……なるほどね」

 

 にやっとする。

 

 「岸和田先生」

 

 次の台詞まで知っている。

 

 「彼女でもできたんすか?」

 

 「……まあ、そうだけど」

 

 山田くんの目が輝く。

 

 「マジで!? どんな人なんすか?」

 

 ここから先も。

 

 見た目は派手。

 

 でもちゃんとしている。

 

 真面目で、自分の考えを持っている。

 

 少し自信がないところがあって、ツンが強い時もある。

 

 俺にはちゃんと向き合ってくれる。

 

 一度目と同じ説明をする。

 

 山田くんも、一度目と同じように感心する。

 

 そして。

 

 「で」

 

 来る。嫌な意味で。

 

 「おっぱいデカいんすか?」

 

 「……」

 

 一度目より、反応が一拍遅れた。

 

 分かっていたせいだ。

 

 「岸和田先生?」

 

 「……お前、ほんと変わらないな」

 

 「え?」

 

 山田くんが首を傾げる。

 

 「いや。なんでもない」

 

 「何すかそれ」

 

 「答えるわけないだろ」

 

 「えー」

 

 「えーじゃねえよ」

 

 「山田」

 

 今度は後ろから声。

 

 吉和さんだった。

 

 鞄を持ち、山田くんへ冷たい視線を向けている。

 

 「何、岸和田先生に話してるの?」

 

 ここから始まるやり取りも。

 

 同じだった。

 

 恋バナ。

 

 授業前にする話じゃない。

 

 男子的には。

 

 知らない。

 

 怒ってない。

 

 怖。

 

 予習。

 

 俺は会話にはほとんど入らず、二人を見ていた。

 

 吉和さんにも変化はない。

 

 山田くんを見る目も。

 

 その癖も。

 

 一度目の三月一日と同じだった。

 

 そして。

 

 二人とも、俺がすでにこのやり取りを知っていることを知らない。

 

 (……俺だけか)

 

 今のところ。

 

 この一か月を覚えているのは、俺だけだった。

 

 チャイムが鳴る。

 

 授業が始まった。

 

 俺も教室へ入る。

 

 問題を説明する。

 

 生徒の答案を見る。

 

 間違いを指摘する。

 

 いつも通り。

 

 いや。

 

 一度経験したいつも通りが、そのまま再現されている。

 

 そこが異常だった。

 

 授業が終わったあとも、山田くんと吉和さんは前回と似たような軽口を交わしていた。

 

 「山田、ちゃんとやりなよ」

 

 「分かってるって」

 

 「毎回それ言ってる」

 

 「今回は本気」

 

 「それも毎回言ってる」

 

 「吉和、記憶力よすぎない?」

 

 「山田が同じことしか言わないだけ」

 

 俺には、その言葉が妙に引っかかった。

 

 記憶力がいい。

 

 違う。

 

 吉和さんは覚えていない。

 

 山田くんも。

 

 咲太も。

 

 覚えているのは俺だけだ。

 

 やがて二人が帰っていく。

 

 ドアが閉まる。

 

 「……青春だな」

 

 咲太が呟く。これも同じだ。

 

 「お前が言うと胡散臭いな」

 

 「岸和田にだけは言われたくないな」

 

 「俺は別に」

 

 「お前も十分そっち側だろ」

 

 「……うるせえよ」

 

 会話が終わる。

 

 俺は鞄へ教材をしまう。

 

 机の上には、麻衣先輩から渡された新江ノ島水族館のチケット。

 

 前回と同じ二枚。

 

 同じ封筒。

 

 同じ未来を示している。

 

 なのにその未来を、俺はもう一度知っている。

 

 「……咲太」

 

 「なんだ?」

 

 もう一度、呼んだ。

 

 聞いてみようか。

 

 ——三月三十一日を覚えているか。

 

 今度こそ、そう言いかける。

 

 でも。咲太の顔を見る。

 

 いつも通りだった。

 

 何の疑問もなく三月一日を過ごしている。

 

 少なくとも、こいつ自身は今日を異常だと思っていない。

 

 「……いや」

 

 俺は鞄を閉じた。

 

 「なんでもない」

 

 「今日はそれ多いな」

 

 「そうか?」

 

 「二回目だ」

 

 「よく数えてるな」

 

 「岸和田が変だからな」

 

 咲太はそれ以上追及しなかった。

 

 それで助かった。

 

 まだ。もう少しだけ、自分で確かめたい。

 

 目黒の実家。

 

 塾。

 

 咲太。

 

 山田くん。

 

 吉和さん。

 

 ここまでは、前回の三月とほとんど変わっていない。

 

 以前の思春期症候群とは違う。

 

 選ばなかった可能性が、現実を作り変えているようには見えない。

 

 なら。今回戻った理由は、別にある。

 

 鞄を肩へ掛ける。

 

 ポケットの中には、もう一度渡された水族館のチケットがある。

 

 一度目の三月では、未来への予定だった。

 

 今は違う。

 

 俺だけが、その先に何があったのかを知っている。

 

 のどかの誕生日。

 

 俺の誕生日。

 

 卯月との時間。

 

 美東さんとの再会。

 

 四月一日を待ちながら眠った夜。

 

 全部が俺の中にはある。

 

 でも。この世界の誰にとっても、まだ起きていない。

 

 その事実が、ようやく実感として胸へ落ちてきた。

 

 俺は、この三月を、もう一度過ごすことになったらしい。

 

 問題は。

 

 どうして、もう一度なのか。

 

 その答えだけが、どこにもなかった。

 

 帰り道。夜の空気は、昼間より少し冷たかった。

 

 けれど、二月の終わりほどではない。

 

 三月の夜。

 

 一度目にも、そう思いながらこの道を歩いた。

 

 駅へ向かいながら、ポケットの中へ手を入れる。

 

 指先に、紙の感触が触れた。

 

 白い封筒。新江ノ島水族館のチケット。

 

 麻衣先輩からの、のどかとの交際祝い。

 

 同じものを、一度受け取っている。

 

 同じ封筒。

 

 同じ二枚のチケット。

 

 そして咲太から伝えられた麻衣先輩からの伝言。

 

 「のどかのこと、よろしくね」、という同じ言葉。

 

 「……」

 

 一度目は、嬉しかった。

 

 今も、嬉しくないわけじゃない。

 

 ただ。それ以上に、気味が悪かった。

 

 咲太も覚えていない。

 

 山田くんも。吉和さんも。

 

 みんな、三月一日を初めて過ごしていた。

 

 なら麻衣先輩は。

 

 そこまで考えて、足が少しだけ遅くなる。

 

 確かめる方法は簡単だった。

 

 一度目と同じように、メッセージを送ればいい。

 

 同じ返事が返ってくるとは限らない。

 

 俺自身が少し違うことをすれば、会話も変わる。

 

 それは今日、咲太たちを見ていても分かっていた。

 

 でも。少なくとも、麻衣先輩が三月三十一日までを覚えているなら。

 

 俺からチケットの礼なんて届いた時点で、何かしら反応するはずだった。

 

 家に着いたのは、二十一時前だった。

 

 部屋に入り、鞄を床へ置く。

 

 上着を脱ぐ前に、封筒を机の上へ置いた。

 

 白い紙が、部屋の照明を反射する。

 

 前にも見た光景だった。

 

 「……」

 

 スマホを取り出す。

 

 画面を開く。

 

 連絡先から、麻衣先輩の名前を探した。

 

 一度目の三月では、この時、“今はもう麻衣さんと呼ぶべきなのかもしれない”なんてことを考えていた。

 

 湘南台の図書館で初めて会った時から、ずっと麻衣先輩だった。

 

 だから結局、呼び方は変えなかった。

 

 その考えまで思い出せる。

 

 少し嫌になる。

 

 自分が次に何を考えるかまで、以前の記憶が先回りしてくる。

 

 メッセージ欄を開く。

 

 一度目と同じ文章を打った。

 

 《麻衣先輩、チケットありがとうございました》

 

 指が止まる。

 

 前は、このあと何を送るか少し迷った。

 

 でも今は、迷う必要がない。

 

 何を送ったか知っている。

 

 《のどかと行ってきます》

 

 《周りには気をつけます》

 

 送信する。

 

 画面を見つめた。

 

 すぐには既読にならない。

 

 ここも同じ。

 

 仕事中か。移動中か。

 

 一度目の俺も、そう考えた。

 

 数十秒。

 

 画面が変わる。

 

 既読。

 

 胸の奥が小さくざわついた。

 

 来る。そんな予感がした。

 

 《どういたしまして》

 

 「……」

 

 もう一通。

 

 《楽しんできなさい》

 

 (同じだ……)

 

 ほとんど、一字一句。

 

 スマホを持つ手に、少しだけ力が入る。

 

 まだ偶然だ。

 

 礼を言われれば、同じ人間なら似た返事をする。

 

 そう考えることもできる。

 

 けれど。俺は次に来る言葉まで知っていた。

 

 数秒後。通知が増える。

 

 《それと、ちゃんと手は繋いであげるのよ》

 

 「……」

 

 画面を見たまま、動けなくなった。

 

 これも同じ。

 

 一度目は、不意を突かれて固まった。

 

 何を言っているんだ、この人は。

 

 半分冗談で、半分本気なんだろう。

 

 そんなことを考えた。

 

 今は違う。

 

 驚かなかった。

 

 ただ、冷たいものが胸の奥へ沈んでいった。

 

 麻衣先輩も、覚えていない。

 

 少なくとも、三月三十一日までを覚えている人間の返事じゃない。

 

 もし覚えているなら。

 

 「またチケットをもらったの?」とか。

 

 「どうして三月一日に戻ってるの?」とか。

 

 何かあるはずだ。

 

 なのに麻衣先輩は、初めて俺へこのチケットを贈ったつもりでいる。

 

 また通知がくる。

 

 《咲太には言わなくていいから》

 

 「……やっぱりか」

 

 小さく呟いた。

 

 前回なら、(もう遅いですよ、麻衣先輩……)と少し笑えた。

 

 今は、笑えなかった。

 

 咲太も覚えていない。

 

 麻衣先輩も覚えていない。

 

 さっきまで頭の中にあった仮説が、また一つ現実味を増した。

 

 この三月を二度目として生きているのは。

 

 俺だけ。

 

 返信欄を開く。

 

 前回は、《努力します》と返した。

 

 指がそこまで打ちかけて、止まった。

 

 消す。別の文章を打つ。

 

 《麻衣先輩》

 

 そこまで。

 

 「……」

 

 聞くか。

 

 昨日。何をしていましたか。

 

 三月三十一日を覚えていますか。

 

 明日が四月一日だったことを覚えていますか。

 

 全部。聞けばいい。

 

 麻衣先輩なら、変なことを言っても、簡単に笑い飛ばしたりはしないだろう。

 

 咲太と同じだ。

 

 思春期症候群について、俺なんかよりずっと多くのことを経験している。

 

 「……」

 

 それでも。送れなかった。

 

 入力した《麻衣先輩》の文字を消す。

 

 今ここで話せば、咲太にも伝わるだろう。

 

 双葉にも。

 

 そして、また俺の経験を誰かに説明することになる。

 

 中学一年の三月。

 

 何度も同じ時間を繰り返したこと。

 

 選ばなかった可能性が現実へ入り込んだこと。

 

 母が生きている世界を探したこと。

 

 それでも終わらなかったこと。

 

 そこまで話すことになるかもしれない。

 

 まだ。もう少しだけ、自分で確かめたかった。

 

 結局。前と同じ文章を打つ。

 

 《努力します》

 

 すぐに既読。そして。

 

 《そこは努力じゃなくて実行でしょ》

 

 「……」

 

 分かっていた。

 

 次も。

 

 《善処します》

 

 《政治家みたいな返事しない》

 

 前回は、ここで笑った。

 

 今も少しだけ口元が動いた。

 

 でも。

 

 同じようには笑えなかった。

 

 次に何が来るか知っている会話は、どこか空虚だった。

 

 相手にとっては初めてでも。

 

 俺にとっては、二度目。

 

 それでも。麻衣先輩とのやり取りそのものが偽物になったわけじゃない。

 

 今、画面の向こうにいる麻衣先輩は、ちゃんと俺とのどかのことを気にしてくれている。

 

 その気持ちまで否定する理由はなかった。

 

 少し考えてから、

 

 《ちゃんと行ってきます》と送る。

 

 前回と同じ。

 

 返信まで、少し間があった。

 

 俺は待つ。何が来るか知りながら。

 

 通知。

 

 《ええ》

 

 そして、もう一通。

 

 《のどかをよろしくね、蓮真くん》

 

 「……」

 

 目を閉じた。

 

 やっぱり同じだった。

 

 麻衣先輩も、この三月を覚えていない。

 

 その事実が、ようやくはっきりした形で胸へ落ちてきた。

 

 咲太だけじゃない。

 

 麻衣先輩も。

 

 俺が一か月かけて過ごした時間を、知らない。

 

 のどかの誕生日も。

 

 俺の誕生日も。

 

 卯月と四人で出かけたことも。

 

 美東さんと大船で食事をしたことも。

 

 まだ誰にとっても、起きていない。

 

 「……のどかも、か」

 

 自然と名前が漏れた。

 

 スマホを握ったまま、しばらく動けない。

 

 のどかは。

 

 三月三十一日までのことを、覚えていない。

 

 まだ確認していない。

 

 でも。ここまで同じなら、その可能性は高かった。

 

 俺にとってはもう、大切な思い出になっている。

 

 でものどかにとっては。

 

 水族館も。誕生日も。

 

 東京で過ごした俺の誕生日も。

 

 まだ、これから起きる未来でしかない。

 

 机を見る。

 

 新江ノ島水族館のチケット。

 

 一度目の三月では、これから始まるデートの予定だった。

 

 今の俺にとっては違う。

 

 もう一度、同じ未来へ向かうための切符に見えた。

 

 「……」

 

 でも。本当に、同じでいいのか。

 

 同じ場所へ行って。

 

 同じものを見て。

 

 同じ言葉を交わして。

 

 それで、一度目と同じ未来になるのか。

 

 分からない。

 

 むしろ。

 

 俺が一度目を知っている時点で、まったく同じにはならない。

 

 それでも。のどかと水族館へ行きたいと思った。

 

 江の島へ行って。

 

 七里ヶ浜へ行って。

 

 また、のどかが笑うところを見たい。

 

 その気持ちだけは、一度目と変わらなかった。

 

 「……もう一回、か」

 

 スマホを充電器へ繋ぐ。

 

 机の上のチケットを見る。

 

 一度目には、未来だった二枚。

 

 二度目には、過去を知っている俺だけが持つ、未来への予定。

 

 その白さが。今夜は、一度目よりもずっと眩しく見えた。

 

 三月二日

 

 夕方。俺は予定通り、ファミレスのシフトに入っていた。

 

 昨日と同じように、今日も一日をなるべく以前の三月と同じように過ごした。

 

 正確には、同じように過ごそうとしたわけじゃない。

 

 ただ、何が変わっていて、何が変わっていないのかを確かめていた。

 

 朝起きた時間。

 

 スマホに届いている通知。

 

 街を走っている電車。

 

 店に並んでいる商品。

 

 どれも、俺の記憶にある三月二日と大きな違いはなかった。

 

 昨日、目黒の実家で確認したことも同じだ。

 

 母は亡くなっている。

 

 父も変わっていない。

 

 あの部屋も。あの梁に残った痕も。

 

 何も消えていない。

 

 そして昨日の塾では、咲太も、山田くんも、吉和さんも、一度目の三月を覚えていなかった。

 

 なのに、会話はほとんど同じように進んだ。

 

 今日もそうなるのか。

 

 それを確かめるためでもあった。

 

 外にはまだ夕方の明るさが残っている。

 

 けれど店内は、すでに夜の照明へ切り替わっていた。

 

 ガラス越しに、駅へ急ぐ人の流れが見える。

 

 「おはようございます」

 

 休憩室のドアを開ける。

 

 ロッカーの金属音。遠くから聞こえる食器の音。

 

 その間に、別のドアが開く音が重なった。

 

 覚えている。

 

 次に入ってくるのは。

 

 「あ、蓮真先生。おはようございます」

 

 やっぱり、姫路さんだった。

 

 前回と同じ、少しだけ距離を詰めてくる。

 

 そして……

 

 「蓮真先生、この間はごめんなさい」

 

 ここも同じだった。

 

 俺は一瞬、返事をしなかった。

 

 前回なら、ここで、「何の話だ?」と聞いた。

 

 すると姫路さんが、チョコをもらえたか聞いたことを謝った。

 

 「……」

 

 試してみるか。

 

 「バレンタインのこと?」

 

 俺が先に言うと、姫路さんが目を瞬かせた。

 

 「あ、はい」

 

 一瞬だけ間が生まれた。前回にはなかった間だった。

 

 「覚えてたんですね」

 

 「ああ」

 

 「ならよかったです」

 

 少しだけ笑う。

 

 会話が変わった。

 

 ほんのわずかに。

 

 それだけなのに、胸の奥がざわつく。

 

 昨日は、俺自身もほとんど同じ返事をした。

 

 だから周囲も同じように返した。

 

 でも、俺が違うことを言えば、当然相手の返事も変わる。

 

 当たり前のことだった。

 

 なのに、今はその当たり前が妙に重要に思えた。

 

 これは記録された三月を再生しているわけじゃない。

 

 時間が同じ地点へ戻っただけで、今この瞬間はもう一度新しく進んでいる。

 

 少なくとも、そう見える。

 

 「でも」

 

 姫路さんがこちらを見る。

 

 「もう大丈夫そうですね」

 

 「何が?」

 

 「バレンタインのこと」

 

 口元が少しだけ緩む。嫌な予感がした。

 

 「蓮真先生、本当に彼女できたんですね」

 

 結局、そこへ戻るらしい。

 

 「……山田くんから聞いた?」

 

 先に聞く。

 

 今度こそ、姫路さんがはっきり目を丸くした。

 

 「え?」

 

 「違った?」

 

 「いえ、今日山田くんから聞きましたけど……」

 

 姫路さんが怪訝そうに俺を見る。

 

 「なんで分かったんですか?」

 

 「同じクラスだろ」

 

 「そうですけど」

 

 少しだけ首を傾げる。

 

 「蓮真先生、山田くんのこと分かりすぎじゃないですか?」

 

 「分かりやすいからな」

 

 適当にごまかす。

 

 実際は、一度聞いた話だから知っていただけだ。

 

 「まあ、蓮真先生が幸せならOKです!」

 

 その言葉は同じだった。

 

 前回とほとんど同じ笑顔。

 

 「……そうか」

 

 「はい。だから」

 

 姫路さんが一歩前へ出る。

 

 ここも知っている。

 

 「蓮真先生も、応援してくださいね」

 

 「第一志望に受かって、咲太に告白する件?」

 

 「……」

 

 今度は完全に止まった。

 

 「蓮真先生」

 

 「ん?」

 

 「今日、なんか変じゃないですか?」

 

 「そう?」

 

 「私が言おうとしてること、先回りしてません?」

 

 鋭い。

 

 「姫路さんが分かりやすいだけだよ」

 

 「……」

 

 じっと見られる。

 

 誤魔化せた気はしない。

 

 けれど、姫路さんはそれ以上追及しなかった。

 

 「じゃあ、ちゃんと応援してください」

 

 「出来る範囲でな」

 

 「また逃げの返事ですね」

 

 そこは前回と同じだった。

 

 俺はロッカーを開けて、荷物を入れる。

 

 その時。休憩室のドアが開いた。

 

 「あ、朋絵先輩。おはようございます」

 

 姫路さんの声。

 

 俺は振り返る前から分かっていた。

 

 「おはよう、姫路さん。きっしー先輩も」

 

 古賀が入ってくる。

 

 少し乱れた髪。わずかに上がった息。

 

 ここも同じ。

 

 「古賀。今日は珍しく遅かったな」

 

 「いやさ、明日卒業式じゃん?」

 

 やっぱり。

 

 「奈々ちゃんとかとちょっと話しててさ。気づいたらこの時間」

 

 「ああ」

 

 何度目かの既視感。

 

 でも昨日とは違う。

 

 今はもう、既視感なんかじゃない。

 

 俺はこの会話を知っている。

 

 「そっか、明日が峰ヶ原の卒業式か」

 

 「そうなの!」

 

 古賀の表情がぱっと明るくなる。

 

 「いやぁ長かったけどさ、なんだかんだ楽しかったなぁ、高校生活」

 

 その言葉も覚えていた。

 

 姫路さんが古賀を見る。

 

 「……朋絵先輩と学校で会えなくなるの、寂しいです」

 

 「……そ、そうだね」

 

 同じだ。古賀が少しだけ困った顔をするところまで。

 

 「私も、高校卒業したら、朋絵先輩と同じ大学に通おうかなぁ」

 

 「……え?」

 

 「そうすれば、またいつでも会えますし」

 

 「……あー、うん。そうだね」

 

 その微妙な距離感まで変わらない。

 

 俺は二人の会話を横で聞いていた。

 

 姫路さんは、古賀との距離が近いと思っている。

 

 古賀は、そこまで近いとは思っていない。

 

 前回感じたものと同じだった。

 

 「そういえば、私も去年の今頃、峰ヶ原に行ったんですよね」

 

 姫路さんが続ける。

 

 新入生向け説明会。

 

 物品購入。

 

 今年は卒業式直後。

 

 担任が嘆いていた。

 

 話題は、俺の記憶通りに流れていく。

 

 「でもさ」

 

 古賀が笑う。

 

 「そういうの聞くと、ほんとに卒業なんだなって思うよね」

 

 その一言だけ、ほんの少し静かになる。

 

 俺は古賀を見た。

 

 明日、卒業する。

 

 一度しかない卒業式。

 

 少なくとも、古賀本人はそう思っている。

 

 当たり前だ。

 

 この三月が二度目だと知っているのは、俺だけなのだから。

 

 「そういえば、朋絵先輩」

 

 姫路さんが言った。

 

 「蓮真先生、彼女できたんですって」

 

 「え!?」

 

 古賀の声が大きくなる。

 

 「きっしー先輩まで!?」

 

 ここも同じ。

 

 「……そうだけど」

 

 「ねえねえ、どっち?」

 

 「またその二択かよ」

 

 言ってから気づく。

 

 (まずい……)

 

 古賀が首を傾げた。

 

 「また?」

 

 「あ」

 

 姫路さんもこちらを見る。

 

 「……いや」

 

 一瞬で言葉を探す。

 

 「お前なら、その二人を候補にすると思っただけ」

 

 「なにそれ」

 

 古賀は少し怪訝そうにしたものの、すぐに興味が勝ったらしい。

 

 「で、づっきー?豊浜さん?」

 

 やっぱり同じ二択だった。

 

 「……のどかだよ」

 

 今回は遠回しにせず答えた。

 

 古賀が一度瞬きをする。

 

 「あー……」

 

 そして、納得したように笑った。

 

 「そっか。そうだよね」

 

 前回と同じ反応。

 

 「良かったですね、蓮真先生」

 

 姫路さんも笑う。

 

 「……ありがとう」

 

 「豊浜さん、美人だしさ」

 

 古賀が言った。

 

 「良かったね、きっしー先輩」

 

 「……まあ」

 

 否定はしない。

 

 そんなことを話していると、店長の声が飛んできた。

 

 「岸和田くん、古賀さん、姫路さん。もうシフトの時間だよ」

 

 ここも同じだった。

 

 「あ、すみません!」

 

 三人で返事をする。

 

 ホールへ出る。

 

 客の入り。注文。

 

 厨房から聞こえる声。

 

 食器の音。

 

 すべて、記憶にある三月二日とよく似ていた。

 

 けれど、完全には同じじゃない。

 

 俺が姫路さんの言葉を先回りした。

 

 それだけで、会話は少し変わった。

 

 客の座る席も、注文する内容も、一度目とは微妙に違っていた。

 

 子どもがジュースをこぼした時間も違った。

 

 つまり、これは決められた映像じゃない。

 

 同じ条件から始まった、もう一度の三月だ。

 

 だったら。

 

 俺が違う選択をすれば、先も変わる。

 

 その事実に安心したのか。

 

 それとも、余計に怖くなったのか。

 

 自分でも分からなかった。

 

 ピークを過ぎたのは、二十時半を少し回った頃だった。

 

 「姫路さん、今日はここまでで大丈夫だよ」

 

 店長に言われ、姫路さんが頭を下げる。

 

 「はい。お先に失礼します」

 

 ここから先も知っている。

 

 「宿題?」

 

 俺が先に聞いてしまった。

 

 姫路さんが振り返る。

 

 「……どうして分かったんですか?」

 

 「前に双葉から出されてるって言ってただろ」

 

 適当に答える。本当に以前聞いている。

 

 ただし、それは一度目の三月二日だ。

 

 「そうでしたっけ?」

 

 「たぶん」

 

 「蓮真先生、今日ずっとそんな感じですね」

 

 「気のせい」

 

 「怪しいです」

 

 姫路さんは納得していない顔だったが、

 

 「進路と受験計画の整理、ちゃんとやらないといけないので」

 

 と言って鞄を持つ。

 

 「蓮真先生も、ちゃんと応援してくださいね」

 

 「出来る範囲でな」

 

 「それ、逃げの返事ですよ」

 

 そこまで同じだった。

 

 姫路さんが帰る。

 

 休憩室には、俺と古賀だけが残った。

 

 厨房から片付けの音が聞こえる。

 

 少しだけ静かだった。

 

 俺は古賀を見る。

 

 ループ。

 

 その言葉が浮かんだ。

 

 古賀も経験している。

 

 同じ日を繰り返すという、普通ならありえない現象を。

 

 だったら。こいつなら。

 

 「古賀」

 

 「ん?」

 

 ロッカーを整理していた古賀が振り返る。

 

 「……」

 

 聞いてみるか。

 

 もし今日が二度目だと言ったら。

 

 もし俺だけが三月三十一日までを覚えていると言ったら。

 

 古賀なら、少なくとも笑い飛ばしはしないかもしれない。

 

 咲太よりも、ある意味では近い経験をしている。

 

 同じ時間を何度も繰り返した人間。

 

 「きっしー先輩?」

 

 「……」

 

 でも。

 

 そこで言葉が止まった。

 

 古賀は、俺が中学一年の時に経験した三月について、詳しく知らない。

 

 思春期症候群らしいものを経験したことがある。

 

 その程度しか話していない。

 

 母が亡くなったこと。

 

 選ばなかった可能性が現実へ干渉したこと。

 

 母が生きている世界を探し続けたこと。

 

 そして。最後には、自分で全部を終わらせようとしたこと。

 

 そこまで古賀には話していない。

 

 今、「またループしてるみたいなんだ」、と口にすれば。

 

 当然、「また?」と聞かれる。

 

 そこから先を説明する必要が出てくる。

 

 それが嫌だった。

 

 いや……

 

 嫌というより。

 

 まだ、そこまで話す覚悟がなかった。

 

 古賀を信用していないわけじゃない。

 

 ただ。自分からあの三月を言葉にして、誰かへ差し出すことに、まだ抵抗があった。

 

 「……何?」

 

 古賀が不思議そうにこちらを見る。

 

 「いや」

 

 結局。昨日、咲太にしたのと同じことをする。

 

 「なんでもない」

 

 「なにそれ」

 

 古賀が眉を寄せる。

 

 「きっしー先輩、今日ちょっと変じゃない?」

 

 「そうか?」

 

 「なんか、あたしが言うこと先に知ってるみたいな時あるし」

 

 「気のせいだろ」

 

 「ほんと?」

 

 「ほんとだよ」

 

 古賀はまだ少し疑っているようだった。

 

 けれど。すぐに表情を変えた。

 

 「そうだ、きっしー先輩」

 

 来る。俺は知っている。

 

 「明日って暇?」

 

 やっぱり。

 

 「……別に予定ないけど」

 

 古賀の顔が明るくなる。

 

 「ほんと!?」

 

 「卒業式のカメラマン?」

 

 「そう!卒業式のカメラ……」

 

 古賀が止まった。

 

 「……え?」

 

 しまった。

 

 「なんで知ってんの?」

 

 「……」

 

 完全に先回りした。

 

 「あたし、まだ何も言ってないよね?」

 

 「……」

 

 考える。

 

 誤魔化し方。

 

 「明日卒業式って話してただろ」

 

 「うん」

 

 「古賀なら写真撮りたいって言うと思った」

 

 「でもカメラマンって」

 

 「文化祭の写真のこと、前に褒めてただろ」

 

 「……そうだっけ?」

 

 古賀が首を傾げる。危ない。

 

 「まあ、いいや」

 

 「そう!カメラマンやってよ!」

 

 結局そこへ戻る。

 

 「奈々ちゃんとかクラスの子とも撮りたいし、先生たちとも撮りたいし」

 

 「自分で撮ればいいんじゃないか?」

 

 「自分が写れないじゃん」

 

 「誰かに頼めばいい」

 

 「だから、きっしー先輩に頼んでるんじゃん!」

 

 言葉が少し違っても。古賀が俺へ頼む理由も。

 

 その顔も。変わらない。

 

 「……分かった」

 

 今回は、すぐに答えた。

 

 「え?」

 

 「行くよ」

 

 古賀が目を丸くする。

 

 一度目は、もう少し渋った。

 

 「行けたら行く」と言って。

 

 古賀に、「それ来ない人の言い方!」と突っ込まれた。

 

 でも。もう、そのやり取りを繰り返す気にはならなかった。

 

 「ほんと?」

 

 「ああ」

 

 「やった!」

 

 ぱっと笑う。

 

 その笑顔を見て。

 

 少しだけ胸が軽くなる。

 

 違う。

 

 一度目とは。

 

 俺が選べば、少しずつ変わる。

 

 「じゃあ卒業式終わったあと、校門とか中庭とかで撮るから!」

 

 「分かった」

 

 「ちゃんと綺麗に撮ってよ?」

 

 「努力する」

 

 「一生に一回なんだから」

 

 その言葉に。

 

 呼吸が、一瞬だけ止まった。

 

 ここは。同じだった。

 

 「一生に一回だから」

 

 一度目にも、古賀はそう言った。

 

 俺はその言葉を聞いて、中学の三月を思い出した。

 

 本来なら、一度しかない時間。

 

 誕生日。修了式。

 

 春休み。

 

 それを何度も繰り返した。

 

 そして今。

 

 古賀の卒業式まで。

 

 俺にとっては二度目になろうとしている。

 

 「……きっしー先輩?」

 

 「ん?」

 

 「また固まってる」

 

 「……悪い」

 

 「寝不足?」

 

 「そんなところ」

 

 昨日と同じ言い訳。

 

 古賀は少し不思議そうな顔をした。

 

 「まあいいけど」

 

 それから笑う。

 

 「明日、よろしくね」

 

 「ああ」

 

 今度は迷わず答えた。

 

 「ちゃんと撮るよ」

 

 「ありがと、きっしー先輩」

 

 古賀が満足そうに頷く。

 

 厨房から店長の声が飛んでくる。

 

 「古賀さん、岸和田くん。そろそろ片付けお願い」

 

 「はーい!」

 

 古賀がホールへ戻っていく。

 

 俺も、その後を追おうとして。

 

 一度だけ立ち止まった。

 

 今日、分かったことがある。

 

 この三月は、映像の再生じゃない。

 

 俺が違うことを言えば。違うことを選べば。

 

 その分だけ、未来も少し変わる。

 

 でも。姫路さんは、同じことを考えていた。

 

 古賀も、同じように卒業式の写真を頼んできた。

 

 大きな流れは、変わっていない。

 

 そして。古賀も、覚えていなかった。

 

 一度目の三月を。

 

 昨日の咲太たちと同じ。

 

 少なくとも今のところ、この一か月を覚えているのは俺だけだ。

 

 「……」

 

 ポケットからスマホを取り出す。

 

 三月二日。

 

 木曜日。

 

 明日は三月三日。

 

 古賀朋絵の卒業式。

 

 一度目にも見た日が。

 

 もう一度、やってくる。

 

 ただ。同じ日になるとは限らない。

 

 俺がもう、一度目と同じ俺ではないから。

 

 画面を消す。

 

 「……今度は、ちゃんと覚えておこう」

 

 誰にも聞こえない声で呟く。

 

 何を。

 

 どうしてそんな言葉が出たのか。

 

 自分でも、まだ分からなかった。

 

 ただ、一度しかないはずだった古賀の卒業式を。

 

 俺だけが二度目に迎えようとしていた。

 

 三月三日

 

 昼過ぎ。

 

 俺は江ノ電を七里ヶ浜駅で降りた。

 

 駅のすぐ隣にある峰ヶ原高校。

 

 校門前に集まる卒業生たち。

 

 そこまで、一度目と同じだった。

 

 「きっしー先輩!」

 

 大きく手を振る古賀。その隣に米山さん。

 

 古賀が卒業証書の筒を抱えているところまで、覚えている。

 

 「本当に来てくれた!」

 

 「頼んだのお前だろ」

 

 「でも、来てくれるかちょっと不安だったし」

 

 「来るって言っただろ」

 

 「きっしー先輩、たまに面倒くさがるじゃん」

 

 「否定はしない」

 

 前にも交わした会話だった。

 

 今回は、あえて変えなかった。

 

 三月二日。

 

 俺が違う言葉を選べば、会話も変化することは分かった。

 

 なら今日は逆に。

 

 俺が一度目と同じように行動した時、本当に同じ一日になるのか。

 

 それを見ておきたかった。

 

 古賀からスマホを渡される。

 

 校門前。米山さんと並ぶ古賀。

 

 そのあと香芝さんたちも加わる。

 

 「古賀、動きすぎ」

 

 「えー、写真って難しい」

 

 「撮られる側が言うな」

 

 シャッターを切る。

 

 一枚。

 

 二枚。

 

 三枚。

 

 画面の中で、前にも見た笑顔が残っていく。

 

 米山さんとは進路の話をした。

 

 横浜市立大学。国際商学部。

 

 三月十日の合格発表。

 

 俺は、「受かったら、取りやすい単位とか授業とか教えるよ」と言った。

 

 米山さんは、「本当ですか?」と嬉しそうに笑った。

 

 それも同じだった。

 

 古賀は先生たちとも写真を撮った。

 

 帰り際には、「ちゃんと豊浜さんと水族館行きなよ?」と言われた。

 

 そこまで全部。

 

 一度目とほとんど変わらなかった。

 

 「じゃあ、きっしー先輩。またね!」

 

 古賀が手を振る。

 

 「ああ」

 

 俺も軽く手を上げる。

 

 古賀は米山さんたちの方へ走っていった。

 

 卒業証書の筒を持った背中。

 

 一度目にも見た。

 

 同じ三月三日。

 

 同じ卒業式。同じ写真。

 

 昨日古賀は、一生に一回だと言った。

 

 俺にとっては二回目だったけれど、古賀にとっては、やっぱり今日が最初で最後の卒業式だった。

 

 「……」

 

 そこまで確認して。

 

 俺は峰ヶ原高校をあとにした。

 

 この先も、一度目と同じ行動を取ってみることにした。

 

 のどかとのデートの下見。

 

 国道一三四号線を渡り、七里ヶ浜へ下りる。

 

 春にはまだ早い海風が吹いていた。

 

 波の音。砂を踏む感触。

 

 遠くを走る車の音。

 

 それも、記憶にある三月三日と変わらない。

 

 「……」

 

 のどかと来たら。

 

 そんなことを考える。

 

 髪を押さえながら、寒いと言うだろうか。

 

 それでも海を見て笑って。

 

 俺が何か言えば、照れ隠しみたいに睨んでくるかもしれない。

 

 一度目にも、そんな想像をした。

 

 違うのは。今の俺には、その先まで記憶があることだった。

 

 実際にのどかと過ごした時間。

 

 三月十四日の、のどかの誕生日。

 

 三月二十日の、俺の誕生日。

 

 俺にとっては思い出なのに。

 

 のどかにとっては、まだ未来。

 

 「……」

 

 波打ち際を歩く。

 

 しばらくして、ふと足が止まった。

 

 「……あれ?」

 

 周囲を見る。

 

 家族連れ。

 

 散歩をしている老夫婦。

 

 犬を連れた人。

 

 海を撮っている観光客。

 

 何かが足りない。

 

 最初は、そうとしか思えなかった。

 

 でも。数秒して、その正体に気づく。

 

 「……いない」

 

 一度目。

 

 この辺りだった。

 

 道路へ戻ろうとして、階段の下ですれ違った。

 

 三十代後半くらいの夫婦。

 

 その二人の間にいた少女。

 

 沖縄から久しぶりに来た、と話していた。

 

 そして俺が、高校二年の頃から何度か見かけた少女。

 

 奇妙な夢にも現れた。

 

 あの子が、いない。

 

 「……」

 

 時計を見る。

 

 時間は、一度目と大きく変わらない。

 

 峰ヶ原を出た時間も。砂浜へ下りた場所も。

 

 ここまで歩いてきた速度も。

 

 もちろん数分程度なら違っている。

 

 それだけなら、すれ違わなくても不思議ではない。

 

 家族連れが予定を変えることだってある。

 

 今日は海へ来なかった。ただ、それだけ。

 

 「……そうだよな」

 

 口にする。

 

 昨日分かったばかりだ。

 

 この三月は録画映像じゃない。

 

 細かな出来事は変わる。

 

 俺が変えなくても、偶然の範囲で変化することくらいある。

 

 だから、あの少女がいないことに、意味があるとは限らない。

 

 そう思った。

 

 なのに……

 

 俺はその場から動けなかった。

 

 胸の奥で、何かが引っかかっている。

 

 昨日とは違う。

 

 姫路さんとの会話が変わったのは、俺が先回りしたからだ。

 

 古賀との会話が少し変わったのも、俺が違う返事をしたから。

 

 原因が分かっている。

 

 でも今日は。

 

 卒業式からここまで。

 

 できるだけ一度目と同じように動いた。

 

 それでも、あの少女だけがいない。

 

 「……」

 

 一度、海の方を見る。

 

 いない。

 

 階段の周辺にも。波打ち際にも。

 

 あの三人家族の姿はなかった。

 

 普通ならここで帰ればいい。

 

 そもそも知り合いですらない。

 

 何度か見かけただけの少女。

 

 探す理由なんてない。

 

 「……なんで俺、気にしてるんだ」

 

 自分でも分からなかった。

 

 ただ、この一か月が繰り返されたあとで、前回いたはずの人間が、一人だけいない。

 

 そのことを、偶然で片付けるには、俺はもう、思春期症候群というものを知りすぎていた。

 

 砂浜を少し歩く。

 

 見つからない。

 

 それなら、七里ヶ浜駅へ戻るより、海沿いを鎌倉高校前まで歩いてみることにした。

 

 どうせ江ノ電に乗るなら、一駅先でも構わない。

 

 そんな理由を、自分に与えた。

 

 本当は少女を探していた。

 

 国道一三四号線沿いを歩く。

 

 左には海。右には江ノ電の線路。

 

 車が途切れるたびに、波の音が大きくなる。

 

 一度。二度。

 

 江ノ電が横を通り過ぎていった。

 

 緑とクリーム色の車体。

 

 窓の向こうに乗客の顔が流れていく。

 

 「……」

 

 何をしているんだろうと思う。

 

 (見つけたところでどうする……)

 

 声をかけるのか。

 

 「前の三月三日に、七里ヶ浜にいましたよね」

 

 そんなことを聞くのか。

 

 完全に不審者だった。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 鎌倉高校前駅が近づく。

 

 海沿いの小さな駅。

 

 その先に、有名な踏切が見えてくる。

 

 観光客が何人か立っていた。

 

 写真を撮っている人。

 

 海を背にする人。

 

 江ノ電が来るのを待っている人。

 

 踏切が鳴り始める。

 

 カン、カン、カン。

 

 遮断機が下りていく。

 

 俺も足を止めた。

 

 そして……

 

 「……」

 

 踏切の向こう。

 

 一人の少女が立っていた。

 

 峰ヶ原高校の制服。

 

 紺色のスカート。

 

 鞄を両手で持っている。

 

 黒に近い、長い髪。

 

 海風に毛先が揺れていた。

 

 その顔は、忘れるはずがない。

 

 「……いた」

 

 声が漏れる。

 

 七里ヶ浜にいなかった少女。

 

 文化祭の日。

 

 春のファミレスへ向かう途中。

 

 そして、大晦日のあの夢。

 

 何度も現れては、名前すら残さず消えていった少女。

 

 その子が、鎌倉高校前の踏切に立っていた。

 

 江ノ電が、俺たちの間を横切る。

 

 ガタン、ガタン、と車輪の音が響く。

 

 少女の姿が、一両ごとに隠れては現れる。

 

 俺は動けなかった。

 

 偶然。そう考えようとした。

 

 七里ヶ浜にいなかった。

 

 代わりに一駅先にいた。

 

 それだけ。

 

 それだけのはずなのに。

 

 胸の奥が、妙にざわついている。

 

 江ノ電の最後尾が通り過ぎる。

 

 音が遠ざかっていく。

 

 遮断機は、まだ上がらない。

 

 少女が、こちらを見た。

 

 「……」

 

 目が合う。

 

 一秒。二秒。

 

 少女の青い瞳が、少しだけ大きくなった。

 

 驚いたように見えた。

 

 俺を見つけたことに。

 

 いや違う。

 

 その顔は。

 

 見知らぬ人間を見た顔じゃなかった。

 

 少女の口元が、ほんの少し緩む。

 

 そして、踏切の警報音の向こうで。

 

 少女の唇が動いた。

 

 声は聞こえない。

 

 けれど、そう言ったように見えた。

 

 ——やっぱり。

 

 「……え?」

 

 遮断機が上がる。

 

 観光客が一斉に歩き出す。

 

 俺だけが、その場に立ち尽くしていた。

 

 少女も動かない。

 

 逃げるでもなく。俺を待つように。

 

 踏切の向こうに立っている。

 

 「……」

 

 おかしい。

 

 俺は。この少女を探してここまで来た。

 

 でも今。初めて思った。

 

 もしかすると探していたのは、俺だけじゃないのかもしれないと。

 




物語解説

今回は、三月一日に戻ってしまった蓮真が、「二度目の三月」と向き合い始める回でした。

目黒の実家。塾。ファミレス。そして、古賀の卒業式。

中学一年生の頃にも三月を繰り返した蓮真ですが、今回は以前とは違い、母親の死も、過去の出来事も変わっていません。

一方で、咲太や麻衣たちは三月三十一日までの記憶を持っておらず、一度目とほとんど同じ会話を繰り返します。

けれど、三月二日に蓮真が違う言葉を選ぶと、相手の反応も変わりました。

つまり、この三月は過去の再生ではなく、同じ地点からもう一度進んでいる時間です。

そして三月三日。朋絵にとって「一生に一回」の卒業式を、蓮真だけが二度目として見届けます。

その後、一度目と同じように七里ヶ浜へ向かいますが、前回そこにいた少女だけがいません。

少女を探して鎌倉高校前まで歩いた蓮真は、踏切の向こうで彼女を見つけます。

この三月を覚えているのは、本当に蓮真だけなのか。

繰り返された時間と、少女。

ここから、二度目の三月に隠された違いが少しずつ明らかになっていきます。

次回も、ぜひお付き合いください。
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