青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
三月三日
踏切を渡る人の流れが、少しずつ途切れていく。
俺はまだ、その場から動けずにいた。
少女も同じだった。
鞄の持ち手を両手で揃えるようにして、踏切の向こうからこちらを見ている。
海風が吹き、長い髪がその風にさらわれるように揺れた。
「……」
何を言えばいい。
俺は、この少女を探してここまで歩いてきた。
でも、どうして探したのか。何を確かめたかったのか。
自分でも、うまく説明できない。
まして。目の前の少女が俺を知っているような顔をしている理由なんて、もっと分からなかった。
そんな俺を見て。
少女が、ほんの少しだけ笑った。
困ったような。でも、どこか安心したような笑顔だった。
そして……
「……また、会いましたね」
「……」
胸の奥が、大きく鳴った。
また。
確かに……俺たちは以前にも会っている。
高校二年の春。
ファミレスへ向かう途中。
文化祭の日。
そして、大晦日に見た、あの奇妙な夢。
それだけなら、“また”という言葉に、おかしなところはない。
でも……今の俺にはどうしても、それだけの意味には聞こえなかった。
「……俺のこと、覚えてる?」
ようやく、それだけ聞く。
少女は一度だけ瞬きをした。
「はい」
迷いのない返事だった。
「前にも、何度かお会いしていますから」
「……そうなんだな」
少なくとも。俺の記憶だけがおかしいわけではない。
そう思った瞬間。少女の少し後ろから、声がした。
「翔子?」
女性の声だった。
少女が振り返り、俺も、その先を見る。
少し離れたところに、男女が立っていた。
見覚えがある。
一度目の三月三日に、七里ヶ浜で、この少女と一緒にいた夫婦。
たぶん、両親だ。
母親らしい女性がこちらを少し不思議そうに見ていて、父親も、その隣から様子を見ていた。
当然だ。娘が知らない男と踏切の前で話していたら、気にもなる。
俺は反射的に一歩下がった。
それを見た少女が、すぐに両親の方へ身体を向ける。
「お母さん、大丈夫」
それから俺を見て。
「前に何度かお会いしたことがある人で。咲太さんの知り合いだから」
「……」
説明が早い。
俺が何か言う必要すらなかった。
母親は少し驚いたあと、表情を和らげた。
「そうだったのね」
俺へ軽く頭を下げる。
「梓川さんのお知り合いなのね。娘がお世話になったことがあるそうで」
「いえ」
慌てて頭を下げる。
「俺は、大したことはしてないので」
実際。文化祭の日に、階段で少し助けたくらいだ。
それを「お世話になった」と言われると、むしろ申し訳なくなる。
父親も軽く会釈した。
少女は両親へ、「少しだけお話ししてもいい?」と聞く。
「いいけど、遠くには行かないでね」
「うん」
母親がそう答える。
二人は少しだけ離れた場所へ移動した。
完全に二人きりになるわけではない。
少し声を張れば聞こえる距離。
むしろ、その方が俺もありがたかった。
少女がこちらへ向き直る。
「すみません」
「いや」
「お父さんとお母さん、少し心配性なので」
「それが普通だろ」
「そうですか?」
「娘が知らない大学生と喋ってたら、普通は気にする」
「蓮真さんは、知らない人ではありませんけど」
「……」
さらっと言われ、そこでまた気づく。
「ちょっと待って」
「はい?」
「今、俺の名前」
俺はまだ名乗っていない。
それなのに。少女は、ごく自然に俺を“蓮真さん”と呼んだ。
「あ」
少女が小さく声を漏らし、少しだけ目を伏せる。
言ってから気づいたらしい。
「……やっぱり、知ってるんだな」
「はい」
今度は誤魔化さなかった。
それどころか、少しだけ笑った。
「でも、そういえば」
少女は鞄の持ち手を握り直す。
「わたしから、ちゃんと自己紹介したことはありませんでしたね」
「……そうだな」
何度か会っている。
なのに。名前を本人から聞いたことはなかった。
少女は姿勢を少し整えて、俺を真っ直ぐ見る。
「わたしは牧之原翔子です」
そして、少しだけ楽しそうに続けた。
「牧之原SAの牧之原に、大空を翔ける子の翔子」
「……牧之原、翔子」
その名前を聞いた瞬間、頭の中で、いくつかの記憶が繋がった。
牧之原翔子。名前自体は知っている。
咲太から、何度か聞いたことがあった。
以前、咲太のところに届いた手紙でも、その名前を見ている。
差出人。文末に添えられた名前。
牧之原翔子。
俺の中ではずっと。咲太の過去にいる、顔を知らない少女の名前だった。
それが今、目の前の少女の顔と、ようやく繋がった。
「……牧之原翔子」
もう一度、名前を口にする。
「はい」
牧之原さんが笑う。
「覚えやすいでしょ?」
「サービスエリアで覚えさせる自己紹介も珍しいと思うけど」
「でも、覚えてもらえます」
「まあ……確かに」
牧之原SA。大空を翔ける子。
忘れようとしても、たぶん忘れない。
牧之原さんは、それを聞いて満足そうに笑った。
「なら、成功ですね」
「何の?」
「自己紹介のです」
「採点してたのか」
「ちょっとだけです」
穏やかな笑顔。
でも、その笑顔を見ていても、頭の中では別のことが回っていた。
咲太から聞いていた牧之原翔子。
何度か目にした、その名前。
そして、高校二年の頃から、俺の前に何度も現れていた少女。
その二つが、今までどうしても繋がらなかった。
「牧之原さん」
名前で呼ぶ。初めて……
牧之原さんが少しだけ目を細めた。
「はい」
その返事が、ほんの少し、嬉しそうに聞こえた。
「咲太から、名前は聞いてた」
「そうなんですね」
「手紙でも見たことがある」
「……手紙」
一瞬だけ。
牧之原さんの表情が変わった気がした。
でも。すぐに、いつもの柔らかな笑顔へ戻る。
「咲太さん、いつも読んでくれてるんですね」
「たぶんな」
俺が見たのは、全部じゃない。
当然、内容を勝手に読んだわけでもない。
ただ。牧之原翔子という名前だけは、何度か目に入った。
「だから」
俺は牧之原さんを見る。
「名前は知ってた。でも、まさか君だとは思わなかった」
「そうでしたか」
「……牧之原さんは?」
「はい?」
「俺のこと、どこまで知ってる?」
牧之原さんの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。
困ったような。答えを選んでいるような。
「文化祭の時も」
俺は続ける。
「その前にも会ってる」
「はい」
「大晦日にも」
その瞬間。牧之原さんの目が、ほんの少しだけ揺れた。
見間違いかもしれない。
けれど。反応した。
「……あれも、知ってる?」
「……」
牧之原さんは、すぐには答えなかった。
海を見る。
青い海。
その上を風が走っていく。
遠くで江ノ電の音がした。
「蓮真さん」
「何?」
「今ここで、全部をお話しすると」
少しだけ間を置く。
「たぶん、長くなってしまいます」
「……」
否定はしなかった。
それだけで、十分だった。
「それに」
牧之原さんが、両親の方を見る。
母親は少し離れたところで待っている。
父親も一緒だ。
「お父さんとお母さんも待っていますから」
「それは……まあ、そうだな」
俺だって、両親の立場なら、娘が知らない男と何十分も話していたら気になる。
「なので」
牧之原さんが鞄を開けた。
中を少し探して、小さく折り畳まれた紙を取り出す。
「これを」
俺へ差し出した。
「……?」
受け取る。
白い紙。
折り目を開く。
そこには、手書きの電話番号。
その下に小さく、『牧之原翔子』と書かれていた。
「……連絡先?」
「はい」
牧之原さんが頷く。
「また会えるように」
「……」
また。
今日。
何度、その言葉に引っかかっただろう。
「これ」
紙を見る。
「俺に渡すために持ってたの?」
「はい」
返事はすぐだった。
「……今日、俺に会えると思ってた?」
「いいえ」
牧之原さんは首を横に振る。
「会えるかどうかは、わかりませんでした」
「だったら、なんで」
言いかける。
牧之原さんは、ほんの少し笑った。
「会えた時に、渡せなかったら困りますから」
「……」
会えるかどうかは分からない。
でも、会った時のために、連絡先を準備していた。
一度目の三月三日。
牧之原さんは七里ヶ浜にいた。
両親と一緒に。
俺とすれ違った。
でも、その時は、こちらに気づかなかった。
少なくとも、俺には、そう見えた。
今回は七里ヶ浜にいなかった。
代わりに、鎌倉高校前の踏切にいた。
そして……
俺へ渡すための連絡先を持っていた。
「……牧之原さん」
「はい」
「今日、七里ヶ浜には行った?」
少しだけ踏み込んでみる。
牧之原さんの瞳が。
ほんの一瞬、止まった。
「……いいえ」
「……」
「今日は、行っていません」
今日。
その言い方が引っかかった。
でもまだ、確定じゃない。
「どうして?」
「今日は」
牧之原さんは少し考えて。
「こっちへ来てみたかったからです」
「鎌倉高校前に?」
「はい」
「……」
理由としては成立している。
観光客も多い。
海も綺麗だ。
江ノ電も見える。
親子で来ることに、おかしなところはない。
なのに、何かがずっと引っかかっている。
牧之原さんが俺を見る。
「蓮真さん」
「ん?」
「そんなに難しい顔をしなくても大丈夫ですよ」
「……大丈夫って」
「今すぐ、全部わからなくてもいいと思います」
「……」
「わからないことがあったら」
牧之原さんは少しだけ笑う。
「また会って、お話しすればいいですから」
「……牧之原さんは、それでいいの?」
「はい」
迷わなかった。
「わたしは、また蓮真さんとお話ししたいです」
「……」
どうして、その言葉がこんなにも自然に聞こえる。
初対面に近いはずなのに。
何度も会っているような、ずっと前から知っているような。
そんな錯覚があった。
「翔子」
少し離れたところから、母親が呼ぶ。
「そろそろ行きましょう」
「あ、はい」
牧之原さんが返事をする。
それから、俺へ向き直った。
「では」
「ああ」
「連絡、待っていますね」
「俺が連絡するとは限らないけど」
「そうですね」
あっさり頷く。
「でも」
牧之原さんは笑った。
「待つだけなら、わたしの自由ですから」
「……」
言い返せない。
ずるい言い方だと思う。
でも、嫌な感じはしなかった。
「じゃあ」
牧之原さんが軽く頭を下げる。
「また」
「ああ」
少しだけ遅れて。
「……また」
自分でも、その言葉を返したことに驚いた。
牧之原さんは、少し嬉しそうに笑った。
そして、両親のところへ戻っていく。
母親が俺へ軽く会釈した。
父親も同じように頭を下げる。
俺も慌てて返した。
三人で歩き始める。
牧之原さんは、その間に入った。
数歩。
十歩。
そのくらい進んだところで。
牧之原さんだけが振り返り、目が合った。
小さく手を振る。
「……」
俺も反射的に手を上げた。
それを見ると、牧之原さんは満足したように笑って。
また前を向いた。
三人の姿が、少しずつ遠ざかっていく。
俺は、その場からしばらく動けなかった。
手元を見る。
小さな紙。
電話番号。
その下に書かれた名前。『牧之原翔子』
名前自体は、前から知っていた。
咲太から。手紙から。
何度も見ていた。
でも今日。初めて。
その名前に顔がついた。
高校二年の春。
文化祭。大晦日。
現れては消えていた少女。
自分の記憶の残響かもしれないと思っていた存在。
その少女が初めて、自分から俺のいる世界へ、消えないものを残した。
「……牧之原さん」
名前を口にする。
紙を見る。
電話番号は、まだそこにある。
名前も消えない。
少なくとも、今は。
紙を丁寧に折り直す。
ポケットへ入れる。
指先で、その存在を確かめる。
俺は、牧之原さんを探して。
七里ヶ浜からここまで歩いてきた。
牧之原さんも、俺に渡すための連絡先を持っていた。
偶然会った、それだけなら。
まだ説明はできる。
でも、俺は一度目の三月三日にいた牧之原さんを探していた。
そして、今回の牧之原さんは、一度目とは違う場所にいた。
その上、俺と会った時のための準備までしていた。
「……」
踏切が鳴り始める。
カン。
カン。
カン。
遮断機が下りていく。
江ノ電が近づいてくる。
俺はポケットの上から。
牧之原さんにもらった紙へ触れた。
三月一日から。
この一か月を覚えているのは、俺だけだと思っていた。
でももし……そうじゃないのだとしたら。
「……牧之原さんも?」
小さく呟く。
答える人はいない。
江ノ電が目の前を通り過ぎる。
その向こうに、もう牧之原さんの姿はなかった。
ただ今度は違う。
名前がある。
連絡先がある。
また会う方法がある。
そして何より……
俺だけが二度目の三月を生きている。
その前提に、初めて小さな亀裂が入っていた。
家に帰った頃には、外はすっかり暗くなっていた。
上着を脱ぎ、鞄を床へ置く。
ポケットへ手を入れると、指先に小さな紙の感触が触れ、取り出す。
何度見ても、そこには手書きの電話番号と名前がある。
『牧之原翔子』
「……」
机の上へ置く。
その隣には、一昨日咲太から受け取った白い封筒。
新江ノ島水族館のチケットが二枚。
一度目の三月にも、同じ場所に置いた。
同じ二枚。同じ白い封筒。
けれど、その隣にある小さな紙だけは、一度目にはなかった。
「……牧之原さん」
名前を口にする。
七里ヶ浜にはいなかった。
代わりに鎌倉高校前にいた。
俺の名前を知っていた。
俺と会えるかどうか分からないのに、連絡先まで用意していた。
そして。
——やっぱり。
踏切の向こうで動いた唇を思い出す。
もし、牧之原さんも、俺と同じように一度目の三月を覚えているのだとしたら。
「……」
そこまで考えた時だった。
机の上へ置いたスマホが震えた。
表示された名前を見る。
『豊浜のどか』
「……」
胸の奥が、ほんの少しだけ強く鳴った。
一度目にも。
この日の夜、のどかから電話がかかってきた。
時刻も、ほとんど同じだった。
数秒、画面を見つめて、それから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、出た」
「……」
その一言で、胸の奥がざわついた。
一度目の三月三日。
あの夜も、のどかは最初にそう言った。
——あ、出た。
少し弾んだ声まで、よく似ている。
「どうした?」
記憶をなぞるように聞く。
「どうしたって。別に用がないとかけちゃダメなの?」
「……」
次も同じだった。
分かっていたはずなのに、息が少しだけ詰まる。
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ならいいじゃん」
少しだけ拗ねたような声。
けれど、機嫌が悪いわけではない。
電話の向こうには、車の音。人の声。駅前のざわめき。
それも覚えていた。
「今、外か?」
「うん。ライブの練習帰り」
やっぱり……
「遅くまで大変だな」
「まあね。日曜日ライブあるし」
そう言ってから、のどかは少しだけ間を空けた。
次に何を言うのか、俺は知っている。
「……来るよね?」
「……」
一度目と同じ。
言葉だけじゃない、声の高さも。少しだけ確認するような聞き方も。
全部……
「日曜日のやつ?」
「そう」
「行くよ。卯月からチケットもらった」
「知ってる」
「……知ってるのかよ」
「卯月が、蓮真に押しつけたって言ってた」
そこまで聞いて、背中に薄く冷たいものが走る。
(同じだ。また……)
「押しつけた自覚あるんだな、あいつ」
「あるんじゃない?悪気はなさそうだったけど」
「そこが一番厄介なんだよ」
電話の向こうで、のどかが小さく笑った。
その声を聞く。
一度目にも聞いた。
その時は、ただ嬉しかった。
今も、嬉しくないわけじゃない。
それなのに、同時にどうしようもなく寂しかった。
俺にとって、この会話はもう思い出だ。
のどかにとっては、たぶん、今この瞬間が初めてなのだから。
「あと、古賀さんも来るんでしょ?」
「……それも知ってるのか」
「知ってる。卯月から聞いた」
「情報網が完全に卯月だな」
「卯月、言わなくていいことも普通に言うから」
「否定できない」
「でも、古賀さん来るんだ」
声の調子が、ほんの少しだけ変わった。
ここも前と同じだった。
不満というほどじゃない。
でも、何も思っていないわけでもない声。
「……まあ、流れでな」
「ふーん」
「何だよ、その声」
「別に」
そう言う時の別には、大抵別にではない。
それも、知っている。
「のどか」
「なに」
「ちゃんと見るよ」
電話の向こうが、ほんの少しだけ静かになる。
「日曜日も。来週の土曜日も」
「……来週の土曜日、バースデーライブだろ」
「……チケット、持ってるの?」
「買ってある」
「ほんとに?」
「嘘ついてどうするんだよ」
「いや……別に疑ってないけど」
声が少しだけ柔らかくなる。
「そっか。来るんだ」
同じ。また同じだった。
「行くよ。必ず」
言ってから、一度目とは違う意味で、その言葉が胸に残った。
必ず。
俺は一度、この約束を守っている。
その日のライブへ行った。
のどかを見た。
同じ時間を過ごした。
けれど今、その約束は、もう一度未来へ戻っている。
「……ありがと」
小さな声。それも、覚えていた。
「誕生日ライブだしな」
「うん」
「ちゃんと見に行く」
「……うん」
そこで会話が途切れた。
沈黙。けれど、嫌な沈黙ではない。
一度目も、そう思った。
電話の向こうで、のどかが歩いている音がする。
たぶん、家までの道を歩いている。
金色の髪を揺らして。少し疲れた顔で、それでもスマホを耳に当てているのどか。
一度目にも、同じ姿を想像した。
「それでさ」
「ん?」
のどかの声が、少しだけ硬くなる。
俺は次に来る言葉を知っていた。
「デートだけど」
「……ああ」
視線が机へ向く。
新江ノ島水族館のチケット。
「十四日」
「……十四日?」
「うん」
少しだけ間が空く。
「あたし、一日空けてあるから」
「……」
言葉が止まった。
知っていた。この言葉も。
それでも、一度目と同じように胸が鳴った。
三月十四日。
のどかの誕生日。
俺にとっては、もう一度過ごした日。
のどかにとっては、まだ、十一日先にある未来。
「……いいのか?」
「何が」
「誕生日だろ」
「だからでしょ」
少しだけ強がるように言う。
その言い方も、覚えていた。
「誕生日だから、空けてあるの」
「……」
「別に、無理にとは言ってないけど」
その声は、全然、無理にとは言ってない声ではなかった。
ここから先も知っている。
俺は、行くと言う。
のどかは、本当に、と聞く。
一日か、と確認する。
バイトは。塾は。
卯月に呼ばれても。
そして俺は。
全部断って、のどかといると言う。
「行くよ」
「……ほんとに?」
「十四日、空けておく」
「一日?」
「一日」
「途中でバイトとか入れない?」
「入れない」
「塾も?」
「入れない」
「卯月に呼ばれても?」
「行くわけないだろ」
「……ふーん」
少しだけ満足そうな声。
「なんだよ」
「別に」
今度の別には、少しだけ嬉しそうだった。
そこまで、何一つ違わなかった。
電話を持つ手に、少しだけ力が入る。
さっきまでは、牧之原さんと話していた。
一度目と違う場所にいた少女。
俺の名前を知っていた少女。
会えた時のために、連絡先まで持っていた少女。
もしかしたら、俺以外にも、この三月を二度目として生きている人がいる。
そう思ったばかりだった。
だったら……
(……のどかは?)
心臓が、強く鳴った。
考えるより早く、口が動きそうになる。
「……のどか」
「ん?」
名前を呼ぶ。
そのまま、喉まで言葉が上がってきた。
——これ、二回目だよな?
——俺たち。前にも、この電話をしたよな。
——三月十四日に、水族館へ行ったよな。
——誕生日を一緒に過ごしたよな。俺の誕生日も。
——東京で、一日一緒にいたよな。
——覚えてるよな。
「……」
けれど、言えなかった。
電話の向こうから聞こえる、のどかの呼吸。
何も知らずに。俺の次の言葉を待っている。
もし……「何が二回目なの?」と返されたら。
そこで終わる。
少なくとも、今ののどかは、一度目の三月を覚えていない。
俺だけが覚えている。
その事実を、本人の声で確かめることになる。
「蓮真?」
「……」
それが怖かった。
牧之原さんの存在によって生まれたばかりの、小さな期待。
もしかしたら、のどかも。
どこかに、覚えているものがあるかもしれない。
そんな都合のいい可能性を、自分の手で潰すのが、怖かった。
それだけじゃない。
もし、本当に覚えていなかったら。
今、この電話をしているのどかへ、俺だけが知っている一か月分の思い出を、突然背負わせることになる。
水族館も。
誕生日も。
手を繋いだことも。
笑ったことも。
全部……
まだ彼女にとって起きていない出来事を……
「……いや」
結局飲み込む。
「なんでもない」
「なにそれ」
少しだけ、不満そうな声。
一度目にはなかった返事。
その違いに、今は少しだけ安心した。
俺が違う言葉を選んだ。
だから、のどかも違う言葉を返した。
今この瞬間は、ちゃんと、二度目の新しい時間だった。
「ちょっと、ぼーっとしてただけ」
「疲れてる?」
「少しだけな」
「ちゃんと寝なよ」
「のどかもな。練習帰りだろ」
「あたしは大丈夫」
「そう言うやつほど大丈夫じゃない」
「それ、蓮真に言われたくないんだけど」
「お互い様だな」
電話の向こうで、のどかが小さく笑う。
その笑い方を聞いて、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
同じだ。
でも。完全に同じじゃない。
俺が知っているのどかと。
今、電話の向こうにいるのどか。
どちらも、豊浜のどかだった。
「じゃあ、十四日」
「ああ」
「あたしの誕生日、ちゃんと空けといてね」
「分かった」
「忘れたら怒るから」
「……忘れないよ」
言った瞬間。一度目の自分の声が、頭の奥で重なった。
——忘れるわけないだろ。
あの時は、そう答えた。
これから迎える誕生日を忘れるはずがない。
ただ、それだけの意味だった。
今は違う。
“忘れない”
もう俺は、一度覚えている。
水族館も。
江の島も。
七里ヶ浜も。
のどかが笑ったことも。
全部、忘れられないくらいに。
「……そっか」
のどかは、少しだけ嬉しそうに答えた。
俺の言葉の意味が、一度目とは少し変わっていることなんて。
当然、知らない。
それでいい。
今度こそ、何も言わなかった。
「じゃあ、日曜日」
「ああ。ライブ、楽しみにしてる」
「ちゃんと見ててよ」
「見てる」
「あたしのこと」
「……見るよ」
少しだけ間が空いた。
「……うん」
電話の向こうで、照れたように息を吐く。
「じゃあね、蓮真」
「ああ。気をつけて帰れよ、のどか」
通話が切れて、画面が暗くなる。
部屋の中が、急に静かになった。
「……」
しばらく、スマホを手放せなかった。
聞けなかった。
——これ、二回目だよな?
その一言を。
咲太にも聞けなかった。
麻衣先輩にも。
古賀にも。
でものどかには。
それとは少し違う理由で、聞けなかった。
咲太たちには、まだ情報が足りないから。
あの三月について、自分から説明する覚悟がなかったから。
だから、話さなかった。
でものどかには。
答えを知るのが怖かった。
「……情けないな」
小さく呟いて、机を見る。
二枚の水族館のチケット。
その隣には、牧之原さんからもらった連絡先。
一方は、一度目とまったく同じ未来へ続く切符。
もう一方は、一度目にはなかった、新しい未来へ続く紙。
「……」
指先で、二つを順番に触れる。
同じ三月。
同じ会話。
同じ約束。
でも、牧之原翔子だけが一度目とは違う足跡を残している。
そして、俺自身も。
今、一つだけ違う言葉を選んだ。
——忘れないよ。
それだけだった。
それだけなのに。
今夜の電話は、一度目と完全に同じではなくなった。
「……二回目、か」
誰にも聞かせるつもりのない声で呟く。
十四日。
のどかの誕生日。
俺はその日を、もう一度迎える。
もう一度、水族館へ行く。
もう一度、のどかと過ごす。
けれど、同じ日になるとは限らない。
俺がもう、一度目と同じ俺ではないから。
そして、もしかすると……俺以外にも、一度目と同じではない誰かがいる。
机の上。
『牧之原翔子』と書かれた、小さな紙だけが、その可能性を静かに証明するみたいに残っていた。
三月五日
日曜日。
古賀と花楓ちゃんと一緒に、新宿へ向かった。
一度目と同じだった。
小田急線の中で、古賀が新宿駅をダンジョン扱いして、花楓ちゃんが真剣に同意する。
歌舞伎町へ入れば、花楓ちゃんが少しだけ俺との距離を詰めた。
「……この辺、ちょっと怖いですね」
その言葉まで、覚えていた。
「まあ、歌舞伎町だからな」
前と同じように答える。
古賀も花楓ちゃんも、何も気づかない。
当然だった。
二人にとって今日は、初めての三月五日なのだから。
Zepp Shinjukuへ着くと、卯月のお母さんとも会った。
俺が卯月のことを気にして言葉に詰まり、「そんな気にしなくていいのに」と笑われる。
そのあと、「のどかちゃん、大事にするのよ?」と言われた。
ここも同じ。
「……はい」
俺も、同じように答えた。
ライブが始まる。
ステージの上には五人のスイートバレット。
センターの卯月。
安濃さん。岡崎さん。中郷さん。
そして、のどか。
俺の視線は、気づけば一人へ戻っていた。
金色の髪。ライトの中で笑う顔。
曲の合間、卯月が、「ねえねえ、今日どかちゃんさー」と余計なことを言い始めて、安濃さんとのどかに止められ、中郷さんが誤魔化す。
ここも、一度目とほとんど同じだった。
卯月は俺の名前を出しかける。
悪気はない、いつもの卯月だった。
ライブのあと、控室にも顔を出した。
古賀は卯月にテンション高く話しかけられ、花楓ちゃんは少し緊張しながらメンバーへ挨拶する。
のどかと卯月のお母さんは卯月へ釘を刺し。
安濃さんは、俺に言った。
「ちゃんとのどかを大事にするんだよ」
その声にも、俺を見ている目にも、既視感はあった。
でも、それだけだった。
卯月も。
安濃さんも、卯月のお母さんも。
古賀も、花楓ちゃんも。
中郷さんも、岡崎さんも。
誰一人、この日を二度目だとは思っていない。
「……分かってる」
そう答える。
少なくとも、この日は一度目の三月と大きな違いはなかった。
三月七日
夕方五時からの授業に間に合うように、塾へ入った。
受付の奥は、いつもより少しだけ慌ただしい。
電話を取る先生。
パソコンの画面を見ながら、何かを書き留めている先生。
受験結果の連絡が重なる時期だった。
ちょうど一年前。俺も横浜市立大学の合格発表を見た。
新宿のカフェ。向かいには、のどかがいた。
俺より緊張した顔で画面を覗き込んで、合格を確認した瞬間には、俺より先に喜んでいた。
そのあと、なぜか通信制高校の制服を着た卯月が現れて、
「受かった!」と自分の結果まで見せてきた。
あれから、一年。
普通なら。あと一か月もすれば、俺たちは大学二年生になる。
「……普通なら、か」
小さく呟く。
今の俺には、四月一日が本当に来るのかすら、分からなかった。
「岸和田」
声をかけられ、顔を上げる。
双葉だった。
鞄を肩にかけたまま、少し怪訝そうにこちらを見ている。
「ぼーっとしてるけど、授業前じゃないの」
「……ああ」
時計を見る。
まだ少し時間がある。
その顔を見て、ふと、一度目の三月七日を思い出した。
あの日、俺は双葉へ声をかけた。
——授業終わったあと、時間あるか?
——霧島透子のことを、少し整理したい。
そして、授業が終わってからファミレスへ行った。
霧島透子とは何者なのか。
なぜ俺は、その名前に引っかかるのか。
中学一年の三月。
あの頃使っていた記録ノート。
何度も世界が変わる中で、出来事は残せても、そこにあった感情までは残せなかったこと。
俺が話したことも、双葉が返したことも、覚えている。
だから。今回も双葉に話せばいい。
俺一人で考えるより、双葉なら、少なくとも論理的には整理してくれる。
「双葉」
「なに?」
口を開く。
——授業終わったあと、時間あるか?
そこまで言いかけて、やめた。
「……いや」
「なに」
「なんでもない」
双葉が眉を寄せ、肩をすくめた。
そのまま教室へ向かっていく。
俺は、少しだけその背中を見送った。
双葉も、覚えていない。
一度目の三月七日に、俺とファミレスで話したことを。
今声をかければ。
きっと、また同じように付き合ってくれる。
同じように水を飲みながら。
同じように、俺の話を聞いて。
可能性の収束だとか、主観情報が落ちているのかもしれないとか。
それらしい仮説を出してくれるのだろう。
でも、その答えは、もう知っている。
そして今。一度目にはなかった情報がある。
牧之原翔子。
鎌倉高校前。
——やっぱり。
俺の名前を知っていたこと。
そして。
——また会えるように。
そう言って渡された、小さな紙。
「……」
そこで、昔の記録ノートが頭に浮かんだ。
中学一年の三月。
次の世界へ何かを残すために、俺が必死になって文字を書いていたノート。
感情は残らない。
残せたのは、出来事として確定したものばかり。
薄曇り。授業の範囲。誰と会った。何を言われた。
冷たい事実だけ。
だからこそ、それを読み返して。
そこにあったはずの気持ちを、自分で拾い直していた。
「……紙、か」
無意識に財布へ手を伸ばす。
中には、牧之原さんから渡されたメモが入っている。
取り出す。
手書きの電話番号。
『牧之原翔子』
一度目の三月には存在しなかったもの。
俺が書いた記録ではない。他人が、俺へ渡すために書いた記録。
「……」
指先で、紙の端をなぞる。
もし、この三月も、また三月一日へ戻ったら。
これはどうなる。
消えるのか……残るのか……
もし残ったとして、文字だけが残るのか。
それとも、この紙を渡された時の記憶まで、俺の中に残るのか。
中学時代のノートと、今、手元にある牧之原さんのメモ。
どちらも文字だ。
でも。
同じものには思えなかった。
昔のノートは、俺が未来の自分へ残したものだった。
この紙は、牧之原さんが、今の俺へ残したものだ。
「……」
双葉へ話すなら、これも話さなければならない。
牧之原さんのこと。
一度目の三月三日には七里ヶ浜にいて。
二度目には鎌倉高校前にいたこと。
俺の名前を知っていたこと。
俺に会えるか分からないのに、連絡先を用意していたこと。
そして、俺だけが三月三十一日までを覚えているらしいこと。
そこまで話して、初めて双葉は今の状況を整理できる。
でもまだ早い。
俺自身が。
牧之原さんが何を知っているのか、確認できていない。
一度目を覚えているのかすら、まだ、決定的な言葉は聞いていない。
だったら今、双葉へ材料だけ並べても、また仮説が増えるだけだ。
「……先に、牧之原さんか」
小さく呟く。
まず本人に聞けばいい。
渡された連絡先は、そのためにある。
今すぐ全部分からなくてもいい。
分からないことがあったら、また会って話せばいい。
牧之原さん自身が、そう言っていた。
スマホを見る。
まだ連絡先は登録していない。
「……」
今日連絡するか、それとも、もう少し待つか。
そこまでは決められなかった。
でも一つだけ、順番は決まった気がした。
双葉に整理してもらう前に、まず、自分で確かめる。
牧之原翔子が、どうして二度目の三月で、一度目とは違う行動をしているのか。
その答えを……
メモを丁寧に折り直して、財布へ戻す。
「岸和田先生」
教室から呼ばれる。
「ああ。今行く」
立ち上がる。
双葉へ相談するのは、そのあとでも遅くない。
一度目の三月七日とは、ここでは少しだけ、違う道を選んだ。
三月九日
横浜そごうへ行った。
ホワイトデーのお返しを買うためだった。
大津と浜松さんには横濱レモン。
赤城と上里さんには横濱チェリー。
卯月には少し迷って、ジュエリーBOXクッキーを選んだ。
一度目にも、俺は同じ場所で、同じように迷った。
卯月からもらったものは、本命だった。
だから、選ばなかったからといって、雑に返すのは違う。
「……これでいいか」
手に取った箱も、前と同じだった。
藤沢へ戻ると、大津と浜松さんに会った。
新しいユニフォーム。
鹿児島の大会。
伊豆への輪行の約束。
会話は多少違っても、二人は一度目と同じ未来を見ていた。
俺だけが、その会話を一度聞いている。
大津はそんなことを知らずに笑った。
「大会終わったら輪行しようよ」
「ああ」
今度は少し早く答えた。
「行こう」
二人が去ったあと。
赤城から十二日の打ち合わせについて連絡が来た。
それも、覚えていた。
誰もまだ、二度目には気づいていなかった。
三月十一日
六本木での、のどかのバースデーライブ。
会場へ向かう途中から、黄色が目についた。
のどかのメンバーカラー。
Tシャツ。タオル。うちわ。
一度目にも見た光景だった。
花楓ちゃんと鹿野さんに会った。
のどかのお母さんとも会った。
「蓮真さん」
そう呼ばれて。
「のどかのこと、よろしくお願いします」と言われる。
「……はい」
俺も同じように答えた。
この人も、今日が二度目だとは知らない。
ライブが始まる。
センターに立つのどか。
歌う。踊る。笑う。
気づけば、また目で追っていた。
大サビで、ほんの一瞬だけ、目が合った気がした。
一度目にも、そう思った。
ライブ後、のどかからメッセージが届く。
《来てくれてありがと》
《お疲れ。すごく良かった》
やり取りも、ほとんど同じ。
《あと、目が合った気がした》
送る。
《そうかもね》
返ってくる、その一文まで同じだった。
「……」
けれど、一度目よりも、少しだけ胸が痛かった。
のどかにとって、このやり取りは初めてだから。
十四日のデート。
その夜の誕生日会。
麻衣先輩。
咲太。
花楓ちゃん。
卯月。
予定が一つずつ決まっていく。
全部、俺はもう知っている。
それでも、《デート、楽しみ》と送られてくると、やっぱり嬉しかった。
《俺も》
そう返す。
二度目でも、その気持ちは、嘘にはならなかった。
三月十二日
横浜市立大学で、赤城たちとの打ち合わせがあった。
友部さん。
上里。
赤城。
子どもたちへの学習支援。
保護者への説明。
学校との距離。
支援する側が全部を背負わないための線引き。
一度目にも聞いた話だった。
でも、俺は前より少しだけ、内容を理解して聞けた。
一度目には気づかなかった言葉を拾う。
同じ時間でも、同じ経験にはならない。
それを実感する。
打ち合わせのあと、赤城と上里へ、ホワイトデーのお返しを渡した。
「ありがとう、岸和田くん」
赤城が言うその表情も、前とほとんど同じ。
「どういたしまして」
でも、俺の返事は少しだけ早かった。
赤城は知らない。
上里も知らない。
友部さんも。
この日が、俺にとって二度目であることを。
横浜へ向かう途中。
赤城に、のどかへの誕生日プレゼントを買うことを話した。
「そっか」
少しだけ間を置いて。
「よかったね」
その言葉も、前に聞いた。
でも今度は、その意味を少しだけ考えてから、「……ありがとう」と返した。
赤レンガ倉庫へ向かう。
Kardia。
リング。
ネックレス。
どれも違う。
重すぎる。
最後に目へ留まったのは、シトリンのイヤーカフ。
「……やっぱり、これか」
一度目にも選んだ。
だからといって、機械的に手に取ったわけではなかった。
もう一度ちゃんと店内を見て、もう一度考えた。
それでも同じものを選んだ。
淡い黄色。のどかの色。
普段使いできて、でも少しだけ特別。
「……」
会計を済ませる。
小さな包みを鞄へ入れた。
同じ場所で、同じものを選んだ。
けれど、選んだ理由まで、同じとは限らない。
今の俺は、一度目の三月十四日を知っている。
のどかがどんな顔で受け取ったのかも。
そのあと、どんな一日になったのかも。
全部。
それでも、もう一度、渡したいと思った。
「……十四日、か」
赤レンガ倉庫を出る。
海からの風が吹いていた。
三月十四日まで、あと二日。
一度目とほとんど同じ道を歩いて。
同じ人たちに会った。
誰も、二度目だとは気づいていない。
のどかも。
卯月も。
咲太も。
麻衣先輩も。
古賀も。
双葉も。
赤城も。
みんな。
その中で一人だけ。一度目にはなかった言葉を残した人がいる。
——また会えるように。
牧之原翔子。
鞄の中には、のどかへのプレゼント。
財布の中には、牧之原さんからもらった小さな紙。
知っている未来へ向かうものと、まだ知らない何かへ繋がるもの。
二つを持ったまま、俺は二度目の三月十四日を迎えようとしていた。
三月十四日
藤沢駅の南口に着くと、春の陽気を含んだ空気が流れ込んできた。よく晴れていた。日差しも暖かい。頬を撫でる風も、二月の終わりよりずっとやわらかい。
「……」
スマホを見る。三月十四日。午後十時四十二分。待ち合わせまでは、まだ少しある。
三月三日。俺は電話越しに、のどかから言われた。
——あたし、一日空けてあるから。
その言葉を、俺は二度聞いている。そして今日という日も。本当なら、二度目だった。
新江ノ島水族館。江の島。稚児ヶ淵。七里ヶ浜。
どこへ行くのかも知っている。どんなものを見るのかも。のどかがどこで笑って、どこで少し照れて、どんな顔で誕生日プレゼントを受け取るのかも。全部。
「……同じか」
鞄の中には、小さな包み。シトリンのイヤーカフ。一度目と同じ店で、もう一度、同じものを選んだ。
ポケットには、新江ノ島水族館のチケット。これも同じだった。麻衣先輩から。咲太を通して渡された二枚。
違うのは、俺だけだった。
「何が、同じなの?」
「……」
顔を上げる。そこに、のどかがいた。
ベージュの春物コート。白いブラウス。柔らかな水色のスカート。金色の髪。一度目と同じ格好だった。
「……蓮真?」
「いや」
少し遅れて答える。
「なんでもない」
「絶対なんか考えてたでしょ」
「まあ……ちょっとな」
「ふーん」
のどかが疑うように目を細める。そして、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……お待たせ」
その言葉も。表情も。覚えている。
なのに、胸の奥が、ちゃんと鳴った。
「いや。俺が早かっただけ」
「そういうとこ、ほんと蓮真っぽい」
「どういう意味だよ」
「デートの日に早く来て、何でもない顔して待ってるところ」
「……悪いかよ」
「悪くない」
のどかが笑う。その笑顔を見た瞬間、思った。
ああ。また、この日が始まるんだと。
嬉しかった。どうしようもなく。同時に、ほんの少しだけ、苦しかった。
のどかにとって、今日は初めてだから。
「じゃ、行こ」
「江ノ電でいいよな?」
「うん。今日は江ノ電がいい」
「なんで?」
答えも知っていた。
「デートっぽいから」
それでも、一度目と同じように返事が遅れる。
のどかが笑った。
「何? 照れた?」
「……照れてない」
「今、間あったじゃん」
「気のせい」
「絶対嘘」
「じゃあ、それでいいよ」
「何それ」
笑いながら、のどかが先へ歩いていく。俺も、そのあとを追った。
江ノ電。新江ノ島水族館。相模湾大水槽。クラゲ。ペンギン。イルカショー。
一度目にも見たものばかりだった。
それでも、目の前で見るのどかは、記憶の中ののどかではなかった。
クラゲを見て、「綺麗……」と呟く。
俺を見て、「なんか蓮真みたい」と言う。
ペンギンを見れば、俺がのどかに似ていると言って怒られる。イルカが跳べば、のどかは、子どもみたいに目を輝かせた。
「すご……」
一度目と同じ声。けれど、今、隣で聞こえた声だった。
「……」
何度か、言いそうになった。
——この前も
そう言いそうになる。
この前も、ここでクラゲを見た。この前も、同じペンギンを見て笑った。この前も、ここでイルカへ拍手した。
でも、言えるわけがなかった。
のどかは楽しそうだった。本当に。今日という日を、初めてのデートとして楽しんでいた。
その顔を見ていると、「これは二回目なんだ」なんて、どうしても言えなかった。
それを言えば、俺にとっては思い出でも、のどかにとってはまだ存在していない、一度目の三月を今日の上に重ねることになる。
それが正しいのか。分からなかった。
そして、もっと単純な理由もあった。
「蓮真」
「ん?」
「楽しい?」
イルカショーが終わったあと。のどかが聞いてきた。
「……楽しいよ」
今度は、迷わず答えた。
「そっか」
嬉しそうに笑う。
その顔を見て、胸の奥が、ゆっくり温かくなる。
俺だって、もう一度、のどかと一緒にいられることが嬉しかった。
二度目だからって、その気持ちまで二度目になるわけじゃなかった。
江の島へ渡った。生しらす丼を食べた。
のどかは一口食べて、「……美味しい」と、前と同じように目を丸くした。
「誕生日だもんな」
「それ、今日一日使える?」
「使いすぎると効力落ちると思うぞ」
「じゃあ大事な時だけ使う」
「しらすは大事なのか」
「大事でしょ」
「……そうか」
笑う。俺も笑った。
江島神社。エスカー。シーキャンドル。富士山。伊豆大島。
一度目に話したことを、また話した。けれど、完全に同じではなかった。
のどかが少し違う場所を見れば、俺も違う説明をした。俺が違う言葉を返せば、のどかも違う言葉を返した。
それだけで、今日がちゃんと今日になっていく。
「良い景色だね」
展望台で。のどかが言った。
「……そうだな」
海を見る。それから、のどかを見る。
風に揺れる金色の髪。遠くを見る横顔。
前にも見た。それでも、また見ていた。
「……何?」
「見てた」
「まだ何も言ってないんだけど」
「どうせ言うだろ」
「……そうだけど」
のどかが少し赤くなる。
「ほんと、最近誤魔化さないよね」
「誤魔化しても仕方ないからな」
「……ふーん」
少しだけ嬉しそうだった。その顔も、やっぱり、嬉しかった。
江の島岩屋を出て、稚児ヶ淵へ向かった。
潮の匂いが強くなる。波が岩へ打ちつけて、白く砕けている。足元は、ごつごつしていた。
「気をつけろよ」
「分かってるって」
のどかが答える。
このやり取りも知っている。
一度目。ここで、のどかは足を滑らせた。俺が手首を掴んだ。そのあと、手を繋いだ。
「……」
その記憶が先に浮かんだ。だから、逆に、意識が今から少しだけ離れた。
一度目は。ここだった。この少し先。岩の色。波。のどかの立っていた位置。
同じなのか。また転びそうになるのか。
そんなことを考えてしまった。
「ここ、平らなんだね」
「……ああ」
返事が少し遅れる。
「蓮真?」
「関東大震災の時に隆起したんだよ」
「へえ」
のどかが振り返る。
「蓮真、物知りだね」
「……たまたま知ってただけ」
「そういうの、毎回言うよね」
毎回、その言葉に、一瞬だけ胸が跳ねる。
もちろん、のどかに深い意味はない。普段から、という意味だ。
分かっている。
「でも」
のどかは海を見ながら続ける。
「そういう話してくれるの、けっこう好き」
「……」
一度目にも聞いた。知っていた。
それなのに、嬉しかった。
「……なら、また話すよ」
「うん。聞く」
のどかが笑う。その顔へ、一瞬だけ見惚れた。
そして、次の瞬間。
「……っ!」
靴底が岩の表面を滑った。
「のどか!」
一度目より、反応が遅れた。
伸ばした手が、手首を掴むには間に合わない。のどかの身体が、こちらへ崩れてくる。
俺は咄嗟に一歩踏み込んだ。右腕を背中へ回す。もう片方の手で、肩口を抱える。
「っ……!」
勢いのまま、のどかの身体が、真正面から胸へぶつかった。
鈍い衝撃。俺も一歩後ろへ持っていかれる。靴底で岩を踏みしめる。腰を落として、なんとか止まった。
「……」
のどかの身体を、ほとんど抱きしめる形になっていた。
胸元に、のどかの額。肩に頬が触れそうなほど近い。
腕の中には、背中と腰の感触。身体同士が、隙間なく触れている。
コート越しなのに、体温が分かった。のどかの息が、首元の近くへ触れる。
「……」
何も言えなかった。
波の音が聞こえる。風も吹いている。周囲には観光客もいる。
なのに、ほんの一瞬だけ、それらが遠くなった気がした。
腕の中にある体温と、自分の胸の鼓動だけが、妙にはっきりしていた。
どっちの鼓動なのか。一瞬、分からなくなるくらいに。
「……のどか」
ようやく名前を呼ぶ。
「……うん」
小さな声。
のどかも動かない。いや。動けないのかもしれない。
俺の服を、片手で掴んでいた。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「どこか打った?」
「打ってない」
「足は?」
「平気」
そこで、少しだけ間が空く。
「……蓮真」
「ん?」
「近い」
「……」
言われて、ようやく、自分たちがどういう状態なのかを改めて認識する。
「悪い」
慌てて身体を離そうとする。
すると、のどかの手が、俺の服を掴んだまま、一瞬だけ離れなかった。
「……」
目が合う。近い。思っていたよりずっと。
のどかの頬が赤かった。俺も、たぶん同じだった。
「……もう平気だから」
「そ、そうか」
腕を緩める。のどかがゆっくり離れる。
離れた瞬間、さっきまで触れていた場所だけ、妙に温度が残った。
「……」
のどかも、自分の腕を何となく擦っていた。
「ほんとに大丈夫?」
もう一度聞く。
「大丈夫だって」
「ならいいけど」
「……ありがと」
小さく言う。
「助けてくれて」
「いや」
返しながら、胸の奥がざわついた。
一度目と違った。
前は、もっと早く気づいた。手首を掴んだ。
今回は、俺が余計なことを考えていたせいで、反応が遅れた。だから、抱き止めることになった。
同じ場所。同じ出来事。
でも、結果は少し変わった。
「……蓮真」
「ん?」
のどかが、少しだけ気まずそうに俺を見る。それから、手を差し出した。
「……今度は、ちゃんと」
「何が?」
「転ばないように」
「……」
意味は分かった。
俺も手を伸ばす。指先が触れる。そのまま、のどかの手を握った。
「これなら大丈夫だろ」
「……うん」
手は、前より少しだけ強く握られていた。
手を繋いだまま、江の島を戻った。
一度目にも、同じように歩いた。
でも、今の手の温かさは、記憶じゃない。
今、俺が感じているものだった。
「……」
のどかが嬉しそうにしている。
それを見るたびに、言えなくなる。
今日が二度目だということを。
一度目にも同じ場所へ来た。一度目にも手を繋いだ。一度目にも、君は同じように笑っていた。
そんなことを、今、言えるわけがなかった。
(それを言って、何になる……)
少なくとも、今日ののどかにとって、この手を繋いだ瞬間は、初めてだ。
この嬉しそうな顔も、今の彼女が、今、感じているものだ。
それを、俺の記憶だけで、“二度目”にしてしまいたくなかった。
そして、俺自身も、この時間をただの繰り返しだとは思えなくなっていた。
「蓮真」
「ん?」
「さっきから静かだけど」
「そうか?」
「うん」
のどかが少しだけこちらを見る。
「楽しくない?」
「……」
その質問だけは、すぐに答えられた。
「楽しいよ」
「ほんと?」
「ああ」
手を、少しだけ握り直す。
「のどかと一緒にいられて、嬉しいよ」
「……」
のどかが止まりそうになる。
「何」
「いや」
頬が、分かりやすく赤くなっていく。
「急にそういうこと言うの、ずるくない?」
「聞いたの、のどかだろ」
「そうだけど」
「じゃあいいだろ」
「……よくない」
そう言いながら、のどかは笑っていた。
その顔を見て、俺も少しだけ笑った。
七里ヶ浜。夕方。水平線。
ここも、一度目と同じだった。
「……綺麗」
「だな」
のどかと並んで海を見る。
人の目の高さから見える水平線までの距離は四キロくらい。昔、母から教えてもらったこと。
今日も、同じ話をした。
でも、のどかがそれを聞くのは初めてだった。だから、俺も初めて話すみたいに、ちゃんと話した。
「ここさ」
海を見ながら言う。
「誰かと来れば、二人だけの世界にしてくれる気がするんだ」
「……」
「一人で来れば、自分だけの世界にしてくれる」
のどかが、静かに聞いている。
「だから、俺はこの場所が好きなんだと思う」
「……そっか」
少しだけ間を置いて。
「蓮真にとって、大事な場所なんだね」
「たぶんな」
「じゃあ」
のどかが笑う。
「今日、蓮真と来てよかった」
「……」
一度目にも、同じことを言われた。
でも、今、また嬉しかった。
「俺も」
初めて、そう返した。
のどかが、少しだけ目を丸くする。
「俺も、のどかと来てよかった」
「……そっか」
笑う。
それだけで、今日がまた一つ、一度目とは違う日になった。
砂浜へ下りたのどか。裸足。水色のスカート。金色の髪。夕陽。
一度目と同じ光景。
なのに、また見惚れた。
「……また見てる」
「見てる」
「ほんと隠さないね」
「二回見ても綺麗なものは綺麗だからな」
「……え?」
「……」
言ったあと、心臓が跳ねた。
「二回?」
のどかが首を傾げる。
「いや」
すぐに誤魔化す。
「ステージと今で二回」
「……何それ」
「別に間違ってないだろ」
のどかは少し怪訝そうだったが、すぐに、照れたように顔を逸らした。
「……まあいいけど」
(危なかったな……)
鞄へ手を入れる。包みを取り出す。
「のどか」
「ん?」
「誕生日プレゼント」
「……」
差し出す。一度目と、同じもの。
「誕生日おめでとう」
のどかが目を丸くする。ゆっくり受け取る。包みを開く。イヤーカフを見る。
そして……
「……これ」
声が少し震える。
「シトリン」
「黄色……」
「のどかの色に近いかなって」
また、頬が熱くなる。
この言葉まで、二度目なのに。
「……蓮真、こういうの選ぶんだ」
「重すぎないやつにした」
「……うん」
「でも、ちゃんと残るものがよくて」
「……うん」
のどかが、大事そうにイヤーカフを見る。
そして、笑った。
「ありがとう」
「……」
「すごく嬉しい」
その顔を、俺は知っていた。知っているはずだった。
なのに、また、胸がいっぱいになった。
同じものを渡して。同じように喜んでもらって。それでも、嬉しかった。
二度目だから、薄くなるわけじゃなかった。
むしろ、一度目に失ったからこそ、今ここにあることが、前よりも、ずっと大切に思えた。
「……のどか」
「何?」
聞こうと思えば、今でも聞けた。
——この日を覚えてる?
——俺たち、一度ここに来たことがあるんだ。
でも、イヤーカフを握って、嬉しそうに俺を見ているのどかへ、どうしても言えなかった。
「……いや」
少しだけ笑う。
「改めて、誕生日おめでとう」
「……うん」
のどかも笑った。
「ありがと。蓮真」
それで、今はよかった。
七里ヶ浜駅へ向かう。
手は、繋いだままだった。
水族館。江の島。稚児ヶ淵。七里ヶ浜。プレゼント。
一度目と、ほとんど同じ一日。
でも、同じじゃなかった。
稚児ヶ淵で、今度は手首だけではなく、のどかの身体ごと抱き止めた。何度か、違う言葉を選んだ。
そして今、俺が感じている気持ちも、記憶の再生じゃなかった。
のどかと一緒にいられて、嬉しい。
それだけは、間違いなかった。
「蓮真」
「ん?」
「今日、楽しかった」
「……俺も」
「また来ようね」
「……」
その言葉に、少しだけ胸が詰まる。
また。今の俺にとって、少しだけ重い言葉。
それでも……
「ああ」
答えた。
「また来よう」
のどかが笑う。
その手を、少しだけ強く握る。
この日が二度目であることを、まだ言えない。
でも、今の俺は、この二度目の三月十四日も、失いたくないと思っていた。
同じ日を繰り返しているはずなのに。同じ幸せを、もう一度手にしたはずなのに。
また、終わってほしくないと思っている。
「……」
夕方の海を見る。
水平線。その向こうへ、日は少しずつ沈んでいく。
時間は、ちゃんと進んでいた。
俺とのどかを乗せたまま、この一日も終わりへ近づいている。
それが、今は、ほんの少しだけ怖かった。
物語解説
今回は、二度目の三月を過ごす蓮真が、「同じ時間」と「今ここにある時間」の違いを確かめていく回でした。
牧之原翔子から渡された連絡先。のどかとの電話。ライブ。ホワイトデー。そして、二度目の誕生日デート。
一度目とよく似た出来事が続く一方で、完全に同じではありません。
翔子は一度目とは違う場所に現れ、「また会えるように」と連絡先を残しました。
そして蓮真自身も、少しずつ違う言葉を選び始めます。
同じ景色を見ても、同じものを選んでも、その時に生まれる気持ちまで同じとは限らない。
三月十四日のデートでは、それがよりはっきりと形になります。
水族館。江の島。稚児ヶ淵。七里ヶ浜。そして、シトリンのイヤーカフ。
どれも一度目に経験したものです。
それでも、目の前で笑うのどかは、記憶の中ののどかではありません。今この瞬間を生きている、豊浜のどかです。
二度目でも、嬉しさは薄くならない。むしろ、一度失った時間だからこそ、今ここにある幸せを前より大切に感じる。
一方で蓮真は、その幸せを感じるほど、この日が二度目であることをのどかへ話せなくなっていきます。
そして最後には、もう一つの感情が残ります。
同じ幸せをもう一度手にしたはずなのに、それでも終わってほしくないと思ってしまう。
牧之原翔子が残した「また」の意味と、蓮真自身がまだ気づいていないその感情。
次回では、その二つへさらに踏み込んでいきます。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。