青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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9.二度目の春に、初めての未来を待ちわびる

 

 三月十四日

 

 七里ヶ浜から江ノ電に乗って藤沢へ戻る頃には、外はすっかり夜の色になっていた。

 

 窓に映るのどかは、少し眠そうで、それでも機嫌はよさそうだった。

 

 俺たちは、まだ手を繋いでいた。

 

 一度目は、藤沢へ着く前に離した。

 

 このあと麻衣先輩の家で誕生日会があるから。なんとなく、デートの時間を切り替えた方がいいような気がした。

 

 でも今回は、離す理由が特に思いつかなかった。

 

 のどかも何も言わない。

 

 そのまま藤沢駅のホームへ降り、北口へ向かおうとした時だった。

 

 「あーっ! のどか! きっしー!」

 

 振り向くまでもない。

 

 卯月だった。

 

 大きなバッグを肩にかけ、紙袋を持って駆け寄ってくる。

 

 「やっほー! のどか!」

 

 その途中、卯月の視線が、一度だけ下へ落ちた。

 

 俺とのどかの、繋いだ手へ。

 

 ほんの一瞬。笑顔の奥に、少しだけ寂しそうなものが見えた。

 

 でも、すぐにいつもの卯月へ戻る。

 

 「誕生日おめでとう!」

 

 「うわっ、ちょ、卯月!」

 

 のどかの手が離れ、そのまま卯月に抱きつかれる。

 

 「十九歳だよ! 十九歳!」

 

 「分かってるって」

 

 「なんか大人!」

 

 「昨日まで十八歳だったんだけど」

 

 「でも今日から十九歳!」

 

 「相変わらずだなぁ……」

 

 呆れながらも、のどかは笑っていた。

 

 卯月も笑う。

 

 「でも、本当におめでとう」

 

 「……ありがと」

 

 それから卯月は、俺とのどかを交互に見る。

 

 「ふたりともデート帰り?」

 

 「……まあ」

 

 「だよねー。のどか、なんか機嫌いいもん」

 

 「普通だけど」

 

 「そうかなぁ?」

 

 にやにやしている。

 

 ただ、その視線が俺へ向いた時。

 

 もう一度だけ、ほんの少し寂しそうに見えた。

 

 俺は何も言わなかった。

 

 卯月がそう感じることも。

 

 俺がのどかを好きなことも。

 

 「そうだ!」

 

 卯月が大きなバッグを叩く。

 

 「今日、私、麻衣さんハウスにお泊まりするね!」

 

 「はぁ!?」

 

 のどかの声が響いた。

 

 「そういうことは早めに言ってって!」

 

 「でも今言ったよ?」

 

 「今じゃ遅いの!」

 

 「まだ泊まってないからセーフ!」

 

 「アウト!」

 

 いつもの二人だった。

 

 「……卯月」

 

 俺は鞄から紙袋を取り出した。

 

 「ん?」

 

 「これ」

 

 「私?」

 

 「ああ。バレンタインのお返し」

 

 卯月の表情が、一瞬だけ止まった。

 

 それから紙袋を受け取り、中の箱を取り出す。

 

 「わーっ!かわいい!」

 

 ジュエリーBOXクッキーを眺めながら笑う。

 

 「きっしー、こういうの選ぶんだね」

 

 「変か?」

 

 「ううん。きっしーっぽい」

 

 少しだけ目を伏せる。

 

 「ちゃんと返してくれるところとか」

 

 「……」

 

 「嬉しい」

 

 それから、小さく笑った。

 

 「なんか、ちゃんとお返し貰うと、終わったんだなーって感じするね」

 

 一瞬だけ、夜風の音だけが残った。

 

 でも卯月は、すぐに顔を上げる。

 

 「でも!私、今でもきっしー好きだからね!」

 

 「卯月!」

 

 「あはは!冗談だよ!」

 

 「絶対半分本気でしょ!」

 

 「さあどうでしょう!」

 

 卯月が笑う。

 

 俺も、それ以上は何も言わなかった。

 

 謝るのも。気を遣って距離を取るのも。

 

 たぶん違う。

 

 三人の距離は、もう一度目とは違う。

 

 でも、違ったままでも一緒に歩ける。

 

 今は、それでいいと思った。

 

 マンションの前まで来ると、袋を提げた咲太と鉢合わせた。

 

 「お、豊浜、づっきー、岸和田。ようやく帰ってきたか」

 

 「……どういう意味だよ」

 

 「誕生日デート」

 

 のどかが視線を逸らす。

 

 咲太は面白そうに笑った。

 

 「よかったな、豊浜」

 

 「余計なお世話だっつうの!」

 

 そして、思い出したように俺を見る。

 

 「そうだ岸和田。古賀と姫路さんが嘆いてたぞ」

 

 「何を」

 

 「シュークリーム」

 

 「……あ」

 

 本当に忘れていた。

 

 のどかが呆れた顔をする。

 

 「蓮真」

 

 「はい」

 

 「最低」

 

 「すみません」

 

 「きっしー!浮気はダメだよ!」

 

 「だから違うからな」

 

 卯月が笑い、のどかもつられて笑った。

 

 四人でマンションへ入り、上階へ向かう。

 

 玄関の前まで来ると、インターホンを押すより先に扉が開いた。

 

 「いらっしゃい」

 

 エプロン姿の麻衣先輩だった。

 

 「おかえりなさい、二人とも」

 

 「ただいま、お姉ちゃん」

 

 「ただいま、麻衣さん」

 

 「いらっしゃい、蓮真くん。広川さんも」

 

 「こんばんはー! 麻衣さん!」

 

 リビングへ入ると、花楓ちゃんも顔を出した。

 

 「のどかさん、お誕生日おめでとうございます」

 

 「……ありがと、花楓ちゃん」

 

 テーブルには、ローストビーフやキッシュ、カルパッチョ。

 

 窓際には黄色いバルーン。

 

 “HAPPY BIRTHDAY NODOKA”の文字。

 

 「麻衣先輩、張り切りすぎじゃないですか」

 

 「のどかの誕生日だから」

 

 麻衣先輩は当然のように答える。

 

 「ハッピーバースデー、のどか」

 

 のどかは少し照れたあと、本当に嬉しそうに笑った。

 

 「……お姉ちゃん、ありがとう!」

 

 午後七時。

 

 「のどか、誕生日おめでとー!」

 

 卯月の声を合図に、五つのクラッカーが鳴る。

 

 紙吹雪の中心で、のどかが笑った。

 

 「誕生日おめでとう、のどか」

 

 俺が言うと、のどかは少しだけ照れて。

 

 「……ありがと」

 

 卯月がすぐに反応した。

 

 「おー。きっしーにだけ反応違う」

 

 「違わない」

 

 「違わない」

 

 俺とのどかの声が重なる。

 

 一拍。

 

 「あはは!」

 

 卯月が吹き出した。

 

 「息ぴったり!」

 

 「違うから!」

 

 「違うからな」

 

 また重なる。

 

 今度は咲太も花楓ちゃんも笑った。

 

 その中で、卯月も笑っている。

 

 藤沢駅で見せた、ほんの少しの寂しさも消えたわけじゃない。

 

 それでも。

 

 のどかが笑っていて。

 

 卯月も笑っていて。

 

 俺も、その中にいる。

 

 一度目とよく似た夜。

 

 でもこれは、ちゃんと今の俺たちの時間だった。

 

 のどかの十九歳の誕生日会は、賑やかな笑い声とともに始まった。

 

 誕生日会が始まってからしばらくは、一度目とよく似た時間が続いた。

 

 咲太が、十九歳になったのだからそろそろ麻衣先輩の家から独り立ちしたらどうだ、と余計なことを言う。

 

 のどかが生活費は入れていると反論し、料理も洗濯も「時々」自分でやっていると言い張る。

 

 麻衣先輩が、この一年でちゃんとやるようになったと助け船を出して。

 

 その流れで咲太が、「まあ、岸和田と共同作業で覚えればいいしな」なんてことを言う。

 

 「共同作業言うな」

 

 俺が突っ込む。

 

 のどかも隣で顔をしかめていた。

 

 「でも、一回くらいは食べてみたいかな」

 

 何気なくそう言うと。

 

 「……蓮真、それほんと?」

 

 のどかだけが妙に真面目な声になった。

 

 そこも、一度目と同じだった。

 

 耳を赤くするところまで。

 

 (……やっぱり、ここも同じか)

 

 そう思う。

 

 でも、今度はその反応を知っているからこそ、前より少しだけ可愛く見えてしまった。

 

 その後、卯月から四月三十日にソロライブをやることが発表され。

 

 花楓ちゃんが、俺たちと同じ大学を第一志望にしていることも明かされた。

 

 咲太は「その頃には受験生だな」と余計な現実を突きつけて花楓ちゃんに嫌がられ、卯月は自分が使っていた予備校の授業を次々に勧めていた。

 

 未来の話が、当たり前みたいに並んでいく。

 

 四月三十日。

 

 大学二年生。

 

 花楓ちゃんの大学受験。

 

 来年。

 

 再来年。

 

 その言葉を聞くたび、胸の奥がわずかにざわついた。

 

 俺だけが、この三月の先に本当に四月が来るのかを知らない。

 

 なのに、みんなは疑いもせず、その先の話をしている。

 

 「未来の話もいいけど、デザートだな」

 

 咲太の一言で、空気が切り替わった。

 

 スイートポテト。

 

 花楓ちゃんが作った、母親直伝だという苺のババロア。

 

 それを見た卯月が真っ先におかわりを要求して、のどかに「あたしの誕生日なんだけど」と怒られる。

 

 笑い声が上がる。

 

 その光景も覚えていた。

 

 でも、今日は記憶を眺めているわけじゃない。

 

 目の前で、もう一度起きている。

 

 「そういえば」

 

 ババロアを食べ終えた咲太が、こちらを見る。

 

 その瞬間。

 

 (……来た)

 

 何を言うかまで分かった。

 

 「岸和田は豊浜にプレゼント渡してないのか?」

 

 「渡したよ」

 

 前より早く答える。

 

 「なになに?」

 

 卯月が即座に食いついた。

 

 ここも同じだった。

 

 「イヤーカフ」

 

 「蓮真!」

 

 のどかが抗議する。

 

 「別に隠すことじゃないだろ」

 

 「そうだけど!」

 

 「イヤーカフ!?」

 

 卯月の目が輝く。

 

 「のどか、見せて!」

 

 「今?」

 

 「今!」

 

 前にも見たやり取りだった。

 

 卯月に押され、のどかが困ったように俺を見る。

 

 「……蓮真は?」

 

 「俺?」

 

 「見たい?」

 

 一度目には、そんな聞き方はされなかった。

 

 ほんの少しだけ、胸が鳴る。

 

 「……見たいよ」

 

 今度は、そう答えた。

 

 のどかが一瞬黙る。

 

 それから、少しだけ照れたように鞄へ手を伸ばした。

 

 七里ヶ浜で渡した小さな包み。

 

 中から取り出したのは、淡い黄色のシトリンが付いたイヤーカフ。

 

 のどかは金色の髪を指で耳に掛けて、慎重にそれを付ける。

 

 室内の暖かな灯りを受けて。

 

 黄色い石が、髪の間で小さく光った。

 

 「……どう?」

 

 その姿も。

 

 俺は、一度見ている。

 

 前の三月十四日に。

 

 同じ部屋で。

 

 同じイヤーカフを付けた、同じのどかを。

 

 それなのに。また、見惚れた。

 

 「似合ってる」

 

 まず、前と同じ言葉が出た。

 

 のどかが少しだけ頬を緩める。

 

 でも……今度は、そこで止まらなかった。

 

 「……やっぱり、それ選んでよかった」

 

 「え?」

 

 のどかが目を瞬かせる。

 

 俺も、自分がその先まで言うとは思っていなかった。

 

 けれど、口はもう止まらなかった。

 

 「……そのイヤーカフつけてるのどか、いいな」

 

 「……」

 

 一瞬、リビングが完全に静かになった。

 

 「あ……」

 

 言ってから。

 

 ようやく、自分が何を口にしたのか理解した。

 

 のどかは固まっていた。

 

 イヤーカフへ触れた指も、そのまま。

 

 頬がみるみる赤くなっていく。

 

 そして……

 

 「おぉ〜……」

 

 最初に声を出したのは卯月だった。

 

 妙に感心したような声。

 

 「おぉ」

 

 咲太まで乗った。

 

 「……蓮真さん、すごいです」

 

 花楓ちゃんが小さく目を丸くしている。

 

 麻衣先輩は何も言わず、ただ少しだけ楽しそうに微笑んでいた。

 

 「……なんだよ」

 

 居心地が悪くなって、思わず周りを見る。

 

 卯月がにやにやしている。

 

 「きっしー、今のもう一回言って!」

 

 「言わない」

 

 「なんで!」

 

 「一回で十分だろ」

 

 「のどか、録音した!?」

 

 「してるわけないでしょ!」

 

 のどかがようやく復活した。

 

 でも、顔はまだ真っ赤だった。

 

 「……蓮真」

 

 「何」

 

 「そういうの……急に言うのやめて」

 

 「悪い」

 

 「別に、嫌って意味じゃないけど……」

 

 声がどんどん小さくなる。

 

 卯月がまた、「おぉ〜」と面白がる。

 

 「卯月!」

 

 「だって今日のどか誕生日だし! いいじゃん!」

 

 「そういう問題じゃない!」

 

 咲太がスイートポテトを食べながら、平然と言った。

 

 「岸和田も少しは成長したんだな」

 

 「何がだよ」

 

 「いつもの岸和田なら『似合ってる』で逃げてただろ」

 

 「……」

 

 言い返せなかった。

 

 その通りだったから。

 

 俺はもう一度、のどかを見る。

 

 のどかも、こちらを見ていた。

 

 目が合う。

 

 一度目にも見た、イヤーカフを付けた姿。

 

 なのに。今、目の前にいるのどかは、あの時の記憶じゃない。

 

 少し恥ずかしそうにして。

 

 少し嬉しそうにして。

 

 俺が言った言葉を、今初めて受け取ったのどかだった。

 

 「……でも」

 

 のどかがイヤーカフへそっと触れる。

 

 「ありがと」

 

 小さく笑う。

 

 「大事にする」

 

 「……ああ」

 

 一度目にも聞いたような言葉。

 

 でも、今度は……その言葉が、前よりずっと胸に残った。

 

 その後は、スイートバレットのライブ映像を流したり、麻衣先輩の映画を見たりしているうちに、夜はあっという間に過ぎていった。

 

 卯月は予定通り泊まり。

 

 のどかに誘われた花楓ちゃんも、少し迷ったあとで泊まることになった。

 

 咲太はなすのを放っておけないと帰ることになり。

 

 ついでのように、俺へ言った。

 

 「岸和田は泊まっていかないのか?」

 

 「泊まらねえよ」

 

 即答する。

 

 「えー、きっしーも泊まればいいのに」

 

 卯月が面白がる。

 

 「のどかもいるよ?」

 

 「だからだろ」

 

 口にしてから、また空気が止まった。

 

 「蓮真!」

 

 のどかの顔が赤くなる。

 

 「いや、そういう意味じゃなくて」

 

 「どういう意味よ!」

 

 「岸和田にも理性はあったんだな」

 

 「咲太、お前は黙ってろ」

 

 また笑い声が上がる。

 

 前にもあった夜。

 

 よく似た会話。

 

 よく似た笑い声。

 

 でも今日の俺は、一度目より少しだけ言葉を隠さなかった。

 

 その分だけ、のどかの顔も。

 

 周りの反応も。

 

 一度目とは違っていた。

 

 同じ三月十四日を繰り返している。

 

 それでも。

 

 こうして少しずつ、今日だけの時間になっていく。

 

 そして俺は。その違いが、嬉しかった。

 

 玄関を出ると、夜の空気が少し冷たかった。

 

 マンションの廊下を抜け、エレベーターで下へ降りる。

 

 外へ出ると、藤沢の夜はまだ人通りが多い。

 

 駅へ向かう道を、俺とのどかと卯月の三人で歩く。

 

 誕生日会の余韻がまだ残っているのか、卯月はいつも以上に機嫌がよさそうだった。

 

 「ねえ、きっしー。のどか」

 

 不意に声を上げる。

 

 「二人とも、今月空いてる日ってある?」

 

 「今月?」

 

 のどかが聞き返す。

 

 「何かあるのか?」

 

 「ある!」

 

 卯月は大きく頷いた。

 

 「のどかの誕生日と、きっしーの誕生日をまとめてお祝いしよう!」

 

 「俺の?」

 

 「三月二十日でしょ?」

 

 「……覚えてたのか」

 

 「覚えてるよー!」

 

 当然のように言う。

 

 そのやり取りも、一度目と同じだった。

 

 でも今は。自分の誕生日を覚えてもらっていることが、前より少しだけ嬉しかった。

 

 「だから、みんなでお出かけしよ!」

 

 「みんなって?」

 

 「私とのどかときっしー!」

 

 「三人だろ」

 

 「三人もいたら、みんな!」

 

 卯月は大真面目だった。

 

 のどかが小さく笑う。

 

 「今月末なら、あたしは二十七日から三十一日あたりは空いてると思う」

 

 「俺も、その辺なら大丈夫だと思う」

 

 「やった!」

 

 卯月が両手を上げる。

 

 「じゃあ、桜見に行こう!」

 

 「桜か」

 

 「三月末なら、ちょうどよさそうじゃない?」

 

 のどかが言う。

 

 「でも、どこ行くの?」

 

 「ふっふっふっ」

 

 卯月は待ってましたとばかりに胸を張った。

 

 「お母さんに車出してもらう!」

 

 「また急だな」

 

 「車ならいろいろ行けるじゃん!」

 

 「卯月のお母さん、いいって言ってるの?」

 

 「まだ聞いてない!」

 

 「先に聞けよ」

 

 「大丈夫だよー。たぶん!」

 

 「たぶんじゃん」

 

 のどかが呆れたように笑う。

 

 卯月はそんなことを気にする様子もなく予定を膨らませている。

 

 「桜見て、美味しいもの食べて、写真もいっぱい撮って!」

 

 「予定多くない?」

 

 「楽しい予定は多い方がいいから!」

 

 「卯月らしいな」

 

 そう言うと、「でしょ?」と卯月は満足そうに笑った。

 

 三人で桜を見に行く。

 

 一度目にもした約束だった。

 

 そのあと、本当に三人で出かけた。

 

 桜を見た。

 

 写真を撮った。

 

 のどかも卯月も笑っていた。

 

 その時間を、俺はもう知っている。

 

 でも……

 

 「じゃあ、日程はあとでグループに送るね!」

 

 「ああ」

 

 「分かった」

 

 俺とのどかが答える。

 

 今度の約束まで、記憶の再生だとは思わなかった。

 

 まだ起きていない、今三人で決めた未来だった。

 

 駅前の明かりが近づいてくる。

 

 そこで卯月が、ふいに立ち止まった。

 

 「あ、私ちょっと飲み物買ってくる!」

 

 「急だな」

 

 「喉乾いた!」

 

 そう言って、卯月は近くのコンビニへ駆けていった。

 

 残された俺とのどかの間に、少しだけ静かな時間が落ちてくる。

 

 駅前には人がいる。

 

 車の音も聞こえる。

 

 それなのに、急に二人きりになったような感じがした。

 

 「蓮真」

 

 「のどか」

 

 声が重なった。

 

 「……」

 

 「……」

 

 二人とも、少しだけ黙る。

 

 のどかが先に小さく笑った。

 

 「なに?」

 

 「いや。のどかからでいいよ」

 

 「蓮真から呼んだんでしょ」

 

 「同時だっただろ」

 

 「じゃあ、蓮真から」

 

 譲る気はないらしい。

 

 「……分かったよ」

 

 少しだけ息を吐く。

 

 一度目ならこのあと、のどかから聞かれた。

 

 ——二十日って、空いてる?

 

 そして……

 

 ——デート、またしない?

 

 俺はそれを知っている。

 

 でも。その言葉を待つのは、なんとなく違うと思った。

 

 今日水族館へ行った。

 

 江の島を歩いた。

 

 手を繋いだ。

 

 七里ヶ浜で夕陽を見た。

 

 誕生日を祝った。

 

 一度目にも過ごした一日。

 

 それでも……今の俺は、またのどかと一緒にいたいと思っていた。

 

 だったら……

 

 「二十日」

 

 「二十日」

 

 また、声が重なった。

 

 「……え?」

 

 のどかが目を丸くする。

 

 「今、二十日って言った?」

 

 「蓮真も言ったじゃん」

 

 「……言ったな」

 

 のどかが少しだけ頬を緩める。

 

 「何?」

 

 「いや」

 

 「何よ」

 

 「同じこと考えてたのかなって」

 

 「……」

 

 のどかが少しだけ視線を逸らす。

 

 耳元では、さっき付けたシトリンのイヤーカフが、駅前の明かりを受けて小さく光っていた。

 

 「のどか」

 

 「うん」

 

 今度こそ、先に言う。

 

 「二十日、空いてる?」

 

 のどかが一度だけ瞬きをする。

 

 「……空いてる」

 

 返事はすぐだった。

 

 「じゃあ」

 

 少しだけ間が空く。

 

 知っている未来をなぞるんじゃない。

 

 今、俺が言いたいから言う。

 

 「また、デートしないか?」

 

 「……」

 

 のどかが完全に止まった。

 

 「あれ」

 

 予想外の反応に、少し不安になる。

 

 「……嫌だった?」

 

 「違う!」

 

 即答だった。

 

 声も少し大きい。

 

 「嫌じゃない」

 

 「……そうか」

 

 「ていうか」

 

 のどかが少しだけ唇を尖らせる。

 

 「それ、あたしが言おうとしてた」

 

 「……やっぱり?」

 

 「やっぱりって何」

 

 「二十日って重なったから」

 

 「そうだけど……」

 

 のどかは耳元のイヤーカフへ触れる。

 

 頬が少しずつ赤くなっていた。

 

 「あたしも、蓮真に聞こうと思ってた」

 

 「何を?」

 

 「だから」

 

 少しむっとする。

 

 「二十日、デートしないって」

 

 「……」

 

 胸の奥が、大きく鳴った。

 

 一度目にも、よく似た言葉を聞いている。

 

 でも今回は違った。

 

 俺が誘おうとして。

 

 のどかも、同じように俺を誘おうとしていた。

 

 どちらかが相手に合わせたわけじゃない。

 

 同じ日に。同じ相手と。

 

 また一緒にいたいと思った。

 

 「じゃあ」

 

 少しだけ笑う。

 

 「決まりだな」

 

 「うん」

 

 のどかも笑った。

 

 「二十日、デートね」

 

 「ああ」

 

 「蓮真の誕生日だし」

 

 その言葉に、胸の奥がほんの少しだけ揺れた。

 

 誕生日。

 

 昔は。ただ日付が変わるだけの日だった。

 

 中学一年の三月。

 

 繰り返す時間の中で、自分が生まれた日だからといって、何かが特別になるわけでもなかった。

 

 祝われることを期待することも、いつの間にかなくなった。

 

 でも今は、のどかが覚えている。

 

 その日を空けている。

 

 俺と一緒に過ごそうとしている。

 

 それだけで、三月二十日という日が、少しだけ違うものに思えた。

 

 「場所、どうする?」

 

 のどかが聞く。

 

 「……俺が考えていい?」

 

 「もちろん」

 

 すぐに頷く。

 

 「でも、蓮真の誕生日なんだけど」

 

 「だからだよ」

 

 「何それ」

 

 「今日はのどかの誕生日だっただろ」

 

 「うん」

 

 「次は俺の誕生日だから」

 

 そこまで言って、一度だけ考える。

 

 それから。

 

 「俺が、のどかと行きたいところを考えたい」

 

 「……」

 

 のどかが黙った。

 

 また何か変なことを言っただろうか。

 

 「何?」

 

 「今日の蓮真、なんかずるい」

 

 「何が」

 

 「そういうこと普通に言うから」

 

 「……変だった?」

 

 「変じゃない」

 

 すぐに否定された。

 

 「むしろ」

 

 少しだけ声が小さくなる。

 

 「……嬉しいけど」

 

 今度は俺の方が少しだけ照れくさくなった。

 

 「じゃあ、考えとく」

 

 「うん」

 

 「期待しすぎるなよ」

 

 「無理」

 

 「即答かよ」

 

 「だって今日、楽しかったし」

 

 のどかは耳元のイヤーカフに触れながら笑う。

 

 「水族館も。江の島も。七里ヶ浜も」

 

 少し間を置く。

 

 「プレゼントも」

 

 「……どういたしまして」

 

 「だから次も期待する」

 

 「プレッシャーかけるなよ」

 

 「蓮真ならちゃんと考えてくれるでしょ」

 

 「買い被りすぎだろ」

 

 「そうかな」

 

 少しだけ得意げに笑う。

 

 その顔を見ると、否定する気もなくなった。

 

 「……でも」

 

 俺は続ける。

 

 「今日、俺も楽しかったよ」

 

 「……」

 

 「だから、またデートしたいって思った」

 

 言ってから、さすがに少し恥ずかしくなった。

 

 のどかは何も言わない。

 

 ただ、頬を赤くしたまま俺を見ていた。

 

 「……蓮真」

 

 「何」

 

 「ほんと今日どうしたの?」

 

 「俺にも分からない」

 

 「何それ」

 

 のどかが吹き出す。

 

 俺も少しだけ笑った。

 

 でもたぶん、分からないわけじゃない。

 

 一度失った。

 

 もう一度会えた。

 

 今日という日が、記憶を再生しているだけじゃないと分かった。

 

 だから俺は、前より少しだけ。

 

 欲しい時間を、欲しいと言えるようになっているのかもしれない。

 

 そこへ、「お待たせー!」と、コンビニの袋を提げた卯月が戻ってきた。

 

 「早いな」

 

 「迷わなかったから!」

 

 卯月は俺とのどかを交互に見る。

 

 そしてすぐに、にやっと笑った。

 

 「何話してたの?」

 

 「別に」

 

 「別に」

 

 また重なった。

 

 卯月が満足そうに何度も頷く。

 

 「はいはい。仲良し仲良し」

 

 「うるさい」

 

 「うるさいって」

 

 また重なる。

 

 「ほらー!」

 

 卯月が笑った。

 

 もう、何を言っても無駄だった。

 

 駅前で、俺たちは立ち止まる。

 

 南口へ向かう俺と、麻衣先輩の家へ戻る、のどかと卯月。

 

 ここで一度、道が分かれる。

 

 「じゃあ、またな」

 

 卯月が大きく手を振る。

 

 「きっしー、またね!」

 

 「ああ」

 

 「桜の予定、あとで送るからね!」

 

 「分かった」

 

 「絶対空けてね!」

 

 「まだ日付決まってないだろ」

 

 「だから全部空けといて!」

 

 「無茶言うなよ」

 

 卯月が笑い、のどかも少しだけ手を上げた。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「二十日」

 

 「……ああ」

 

 「楽しみにしてる」

 

 さっき聞いたばかりの言葉。

 

 それでも、前より少しだけ胸に残った。

 

 「俺も」

 

 そう返す。

 

 のどかが一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。

 

 「うん」

 

 その一文字だけで、十分だった。

 

 俺は二人に背を向けて、南口へ向かって歩き出す。

 

 背後から卯月の明るい声と、それに返すのどかのツッコミが聞こえる。

 

 その声が少しずつ遠ざかっていく。

 

 三人で見る桜。

 

 二十日のデート。

 

 一度目にもあった未来。

 

 一度目には、俺から作らなかった未来。

 

 どちらも今もう一度、自分たちの言葉で約束した。

 

 胸の奥が、少しだけ温かかった。

 

 怖いくらいに……

 

 それでも今は、その温かさを、もう少しだけ大事にしていたかった。

 

 三月十六日

 

 ファミレスのバイトへ向かう途中、藤沢駅前で俺は足を止めた。

 

 時計を見る。出勤までは、まだ少し余裕がある。

 

 一度目なら、このまま何も考えず店へ向かっていた。そして休憩室で古賀と姫路さんの顔を見た瞬間になって、ようやく思い出す。

 

 シュークリーム。

 

 バレンタインのお返しを完全に忘れていた。

 

 「……危なかった」

 

 今回は忘れていない。

 

 駅前の洋菓子店へ寄り、ショーケースに並んでいたシュークリームを三つ買う。古賀と姫路さんの分。それから、どうせなら自分の分も。

 

 一度目は仕事が終わってから三人でここまで走った。閉店時間を気にしながら、古賀と姫路さんに急かされて。

 

 でも今日は違う。

 

 一度目を知っているから、失敗する前に動ける。それだけのことなのに、紙袋を手に店へ向かいながら、不思議と少しだけ気分がよかった。

 

 前と違うことをするたびに、この三月が記憶の中の三月から離れていく。

 

 今のところ、それは悪いことには思えなかった。

 

 休憩室へ入ると、古賀と姫路さんがいた。

 

 「あ、おはようございます。きっしー先輩」

 

 「おはようございます。蓮真先生」

 

 そこまでは一度目と同じだった。

 

 古賀が俺の手元を見る。

 

 「……何それ?」

 

 「これ」

 

 紙袋をテーブルへ置く。

 

 「バレンタインのお返し」

 

 「え?」

 

 古賀が目を丸くする。姫路さんも少しだけ驚いた顔をした。

 

 「シュークリーム?」

 

 「ああ。二日遅れだけど」

 

 「きっしー先輩が、忘れずに?」

 

 「そこまで意外そうにするな」

 

 古賀は紙袋を覗き込んでから、すぐににやっと笑った。

 

 「じゃあ二個」

 

 「なんで増える」

 

 反射的に答えてから、少しだけ可笑しくなる。

 

 一度目にも同じやり取りをした。

 

 ——じゃあ二個。

 

 ——なんで増える。

 

 ただ今回は、俺が忘れていたわけではない。

 

 「慰謝料」

 

 「何のだよ」

 

 「二日待たされた分」

 

 「一個で我慢しろ」

 

 「ケチ」

 

 姫路さんが横で小さく笑う。

 

 「私は一つで大丈夫です」

 

 「姫路さんは優しいな」

 

 「そうですか?」

 

 少しだけ首を傾げたあと、姫路さんは俺を見る。

 

 「でも、今日はずいぶん準備がいいですね」

 

 「……そうか?」

 

 「はい。何かいいことでもありましたか?」

 

 十四日のことが、一瞬で頭に浮かんだ。

 

 水族館。江の島。七里ヶ浜。繋いだ手。イヤーカフを付けたのどか。そして、俺から誘った二十日のデート。

 

 「まあ」

 

 少しだけ視線を逸らす。

 

 「のどかの誕生日だったから」

 

 古賀がすぐに食いついた。

 

 「ほら!」

 

 「何が」

 

 「豊浜さん!」

 

 「だから何だよ」

 

 「デートしたんだ!」

 

 一度目なら、たぶんもう少し誤魔化していた。

 

 でも今は。

 

 「……まあな」

 

 一瞬、古賀の動きが止まった。

 

 姫路さんも一度だけ瞬きをする。

 

 「……え?」

 

 「何だよ」

 

 「きっしー先輩が否定しない!」

 

 「そこかよ」

 

 「蓮真先生」

 

 姫路さんが妙に真面目な顔をする。

 

 「素直ですね」

 

 「姫路さんまで何なんだ」

 

 二人が笑う。

 

 一度目より、少しだけ違う休憩室。

 

 それも悪くなかった。

 

 夜のピークが落ち着いた頃、レジ横で伝票を整理していた古賀がこちらを見る。

 

 「そうだ、きっしー先輩。この間の日曜日、奈々ちゃんとディズニー行ってきたんだ」

 

 知っている話だった。

 

 米山さんの大学合格と、高校卒業のお祝い。

 

 それでも俺は、初めて聞くように聞き返す。

 

 「楽しかった?」

 

 「うん。混んでたけど、やっぱディズニーは特別だよ」

 

 古賀は嬉しそうだった。

 

 隣にいた姫路さんが少しだけ身を乗り出す。

 

 「朋絵先輩、いいなぁ」

 

 「え?」

 

 「今度は私と一緒に行きましょう」

 

 姫路さんがにこりと笑い、古賀の肩がわずかに固まった。

 

 「ま、まあ……いいけど」

 

 「ありがとうございます」

 

 姫路さんは楽しそうだった。

 

 古賀は話題を変えるように俺を見る。

 

 「きっしー先輩も豊浜さんとディズニー行けば?」

 

 「いや」

 

 今回は答えがすぐに出た。

 

 「二十日は上野動物園にしようと思ってる」

 

 「……え?」

 

 古賀が目を丸くする。

 

 「もう決めてるの?」

 

 「大体は」

 

 この間は水族館だった。なら、今度は動物園でもいい。

 

 一度目は、ここで姫路さんからその案を出されて、そこから浅草やスカイツリーまで話が広がった。

 

 でも今回は、もう考えていた。

 

 俺が、のどかと行きたい場所を。

 

 「動物園行って、そのあと浅草。それからスカイツリーまで行こうと思ってる」

 

 古賀がさらに驚いた顔をする。

 

 「きっしー先輩、めっちゃ本気じゃん」

 

 「俺の誕生日だからな」

 

 口にしたあとで、自分でも少し驚いた。

 

 自分の誕生日だから。

 

 そんな理由を、前の俺ならわざわざ口にしただろうか。

 

 古賀がにやにやする。

 

 「豊浜さんのこと、大事なんだね」

 

 「……」

 

 否定しようとは思った。でも言葉が出てこなかった。

 

 その沈黙を、姫路さんは見逃さない。

 

 「蓮真先生」

 

 「何?」

 

 「動物園なら、歩きやすい靴の方がいいと思います」

 

 「……分かってる」

 

 一度聞いた、と言いそうになって飲み込む。

 

 危なかった。

 

 姫路さんは不思議そうにこちらを見たものの、それ以上は気にしなかった。

 

 「浅草は人も多いですから、はぐれないようにしてくださいね」

 

 「気をつける」

 

 「手を繋ぐ理由にもなります」

 

 「それは別の話だろ」

 

 古賀が笑う。

 

 「別じゃないじゃん」

 

 「別だ」

 

 「この間も繋いだ?」

 

 「……」

 

 「あ、繋いだんだ!」

 

 「何も言ってないだろ」

 

 「顔に出てる」

 

 「うるさい」

 

 姫路さんまで楽しそうに笑っている。

 

 今日も完全に遊ばれていた。

 

 そこで姫路さんが、ふと思い出したように続ける。

 

 「そういえば私も、動物園はちゃんと下見しておきたいです」

 

 古賀の顔が固まった。

 

 俺は心の中で少しだけ身構える。

 

 「いずれ咲太先生とのデートで行きたいので」

 

 「……え?」

 

 古賀が振り向いた。

 

 「先輩と?」

 

 「はい」

 

 姫路さんは涼しい顔で頷く。

 

 「いけませんか?」

 

 「い、いけないとかじゃないけど……」

 

 姫路さんが少しだけ目を細める。

 

 「もしかして朋絵先輩、咲太先生のこと……」

 

 「いや、違うから!」

 

 古賀の顔が一気に赤くなる。

 

 「そうなんですか?」

 

 「別に先輩と動物園行ってみたいなぁなんて、思ってないんだからね!」

 

 「朋絵先輩、わかりやすい」

 

 姫路さんが笑った。

 

 「姫路さんバリむか!」

 

 古賀が叫ぶ。

 

 俺も思わず笑ってしまった。

 

 少しくらい未来が変わっても、変わらないものもあるらしい。

 

 仕事が終わる頃には、二人ともシュークリームのことをすっかり楽しみにしていた。

 

 ロッカーから鞄を出していると、古賀がこちらを見る。

 

 「きっしー先輩、シュークリーム!」

 

 「分かってる」

 

 「忘れてない?」

 

 「今日は最初から持ってきただろ」

 

 「念のため」

 

 「信用ないな」

 

 「二日遅れだからね」

 

 隣で姫路さんがエプロンを畳みながら小さく笑う。

 

 「蓮真先生なら、次は忘れないと思います」

 

 「姫路さん……」

 

 「彼女さんとの予定に夢中になっていなければ」

 

 「結局そこに戻すのかよ」

 

 三人で店を出て、近くのベンチに座る。

 

 今日は駅前まで走らなくていい。閉店時間も気にしなくていい。

 

 古賀が袋を開ける。

 

 「いただきます!」

 

 「早いな」

 

 「二日待ったから」

 

 「まだ言うか」

 

 一口食べると、古賀の顔が緩んだ。

 

 「んー! 美味しい!」

 

 姫路さんも丁寧にシュークリームを手に取り、小さくかじる。

 

 「……美味しいです」

 

 「それはよかった」

 

 俺も自分の分を食べる。

 

 一度目にも食べた味。

 

 でも今日は、仕事終わりに走っていない。忘れてもいない。

 

 同じシュークリームなのに、少しだけ違って感じた。

 

 「きっしー先輩」

 

 「何?」

 

 「豊浜さんとのデート、ちゃんと頑張ってね」

 

 「頑張るものなのか?」

 

 「頑張るものだよ」

 

 姫路さんも小さく頷く。

 

 「スカイツリーは夕方に行くと綺麗だと思います」

 

 「……そうだな」

 

 一度目も、夕方頃に向かった。

 

 でも今回は、もう少しちゃんと時間を考えてみてもいい。

 

 そんなことを思った。

 

 古賀がまだにやにやしている。

 

 「きっしー先輩、本気で楽しみにしてるでしょ」

 

 「何を」

 

 「二十日」

 

 「……まあ」

 

 今度も否定しなかった。

 

 古賀が一瞬驚いたあと、嬉しそうに笑う。

 

 「そっか」

 

 姫路さんも柔らかく笑った。

 

 「楽しんできてください、蓮真先生」

 

 「ああ」

 

 そう答える。

 

 それだけなのに、少しだけ胸が温かかった。

 

 家へ戻り、シャワーを浴びてからベッドへ腰を下ろす。

 

 スマホを手に取ると、のどかとのトーク画面を開いた。

 

 《二十日のことだけど》

 

 ほとんど間を置かず、既読になる。

 

 《うん》

 

 返信が早くて、思わず少しだけ笑ってしまう。

 

 《上野動物園行って、そのあと浅草》

 

 一度指を止める。

 

 でも今回は、最初からその先まで伝えることにした。

 

 《それからスカイツリーまで行こうと思ってる》

 

 少しして返事が来る。

 

 《結構行くね》

 

 《疲れたら途中で変える》

 

 《蓮真そういうとこ現実的》

 

 《褒めてる?》

 

 《たぶん》

 

 《たぶんなのか》

 

 少し照れた黄色いキャラクターのスタンプが返ってくる。

 

 それから。

 

 《上野なら前に行ったことあるよ》

 

 《誰と?》

 

 《お姉ちゃんと花楓ちゃんと咲太》

 

 一度目にも聞いた。

 

 それでも、その四人を想像すると少しだけ賑やかな光景が浮かんだ。

 

 《パンダ見た?》

 

 《見た》

 

 《写真は?》

 

 少し間が空く。

 

 《ずっとそっぽ向かれてた》

 

 思わず笑ってしまった。

 

 《じゃあリベンジするか》

 

 既読がつく。

 

 《うん》

 

 続けて。

 

 《今度はちゃんと撮りたい》

 

 《パンダがこっち向いてくれるといいな》

 

 《向かせる》

 

 《どうやって》

 

 《気合い》

 

 《無理だろ》

 

 《蓮真そういうとこ冷静だよね》

 

 《現実的と言ってくれ》

 

 《じゃあ現実的な蓮真に任せる》

 

 《パンダを?》

 

 《デートプランを》

 

 画面越しなのに、のどかが笑っているような気がした。

 

 《スカイツリーも楽しみ》

 

 《ああ》

 

 そう返しながら、俺はスマホのブラウザを開いた。

 

 三月二十日の日没時刻。

 

 上野から浅草。浅草から東京スカイツリー。移動時間と滞在時間を一つずつ確認する。

 

 一度目は、夕方に向かえばいいくらいにしか考えていなかった。

 

 でも今回は、狙う時間があった。

 

 昼と夜の境目。

 

 夕陽が沈んで、空の色が青から紫へ変わっていく短い時間。街の灯りが、一つずつ浮かび上がり始める。

 

 マジックアワー。

 

 その景色を、のどかと見たいと思った。

 

 だから、時間だけはまだ言わない。

 

 少しくらい驚かせてもいい。

 

 そんなことを考えている自分が、妙に可笑しかった。

 

 一度目の俺は、ここまで考えていただろうか。

 

 誰かと行きたい場所を考えて。相手に見せたい景色を選んで。そのために時間まで逆算して。

 

 今の俺は、ちゃんと、のどかとの一日を楽しみにしていた。

 

 《何時くらいにスカイツリー行くの?》

 

 タイミングよく、のどかからメッセージが来て数秒考える。

 

 《秘密だよ》

 

 すぐに返事が来た。

 

 《は?》

 

 笑ってしまう。

 

 《当日の楽しみってこと》

 

 《蓮真のくせに生意気》

 

 《俺のくせにって何だよ》

 

 《じゃあ楽しみにしとく》

 

 胸の奥が少しだけくすぐったい。

 

 《期待しすぎるなよ》

 

 《無理》

 

 《即答かよ》

 

 《だって蓮真が秘密とか言うから》

 

 《俺が悪いのか》

 

 《うん》

 

 《理不尽だな》

 

 またスタンプが返ってくる。そして。

 

 《でも楽しみ》

 

 その文字をしばらく見つめた。

 

 《俺も》

 

 一度目より、ほとんど迷わず送ることができた。

 

 既読がつく。

 

 スマホを伏せて、俺はベッドへ体を預けた。

 

 三月二十日。

 

 上野動物園。

 

 浅草。

 

 スカイツリー。

 

 夕暮れ。

 

 のどか。

 

 頭の中で、その順番をもう一度なぞる。

 

 そこで、何かが引っかかった。

 

 「……」

 

 動物園。

 

 春の日差し。

 

 柵の向こうを動く動物たち。

 

 風。

 

 誰かの笑い声。

 

 ぼんやりとした景色が、頭の奥に浮かぶ。

 

 前にも感じた、どこか遠い記憶。

 

 その中には、俺以外に誰かがいた。

 

 女の子だった気がする。

 

 顔は見えない。

 

 ただ、楽しそうに笑っていた。

 

 風に乗って、青い匂いが流れてくる。

 

 草とも違う、花とも違う。

 

 少し苦くて、それなのにどこか甘い。

 

 妙に懐かしい匂い。

 

 ——はすまくん。

 

 「……」

 

 胸の奥が、不意に痛んだ。

 

 明るい声だった。

 

 楽しそうだった。

 

 俺も、たぶん楽しかった。

 

 何かを見て、何かを話して。

 

 笑っていた。

 

 それだけは分かる。

 

 なのに……その先を思い出そうとすると、胸の奥に冷たいものが広がった。

 

 何かが終わったような。

 

 誰かがいなくなったような。

 

 もう二度と、同じ春には戻れないような。

 

 「……誰だ」

 

 思わず声が漏れる。

 

 当然、答えはない。

 

 もう一度その声を思い出そうとする。

 

 ——はすまくん。

 

 そこまでは聞こえる。

 

 でも名前が出てこない。

 

 顔も見えない。

 

 景色の続きを掴もうとすると、波にさらわれる砂みたいに輪郭が崩れていく。

 

 最後に残ったのは。

 

 春の日差し。

 

 青い匂い。

 

 女の子の笑い声。

 

 それから、どうしようもなく寂しい感覚だけだった。

 

 「……」

 

 楽しかった。

 

 幸せだった。

 

 たぶん、また次があると思っていた。

 

 なのになぜか、その続きを考えることが怖かった。

 

 幸せな時間が続くほど。

 

 次の約束が増えるほど。

 

 それが終わることを想像してしまう。

 

 昔から、そうだった気がする。

 

 どうしてなのかは、まだ分からない。

 

 スマホが光った。

 

 のどかからだった。

 

 《もう寝た?》

 

 画面を見て、少しだけ迷う。

 

 《まだ》

 

 《デートプラン考えすぎてる?》

 

 《考えてない》

 

 《絶対考えてる》

 

 《なんで分かるんだよ》

 

 《蓮真だから》

 

 「……何だよ、それ」

 

 小さく笑う。

 

 さっきまで胸に残っていた冷たい感覚が、ほんの少しだけ薄れる。

 

 《もう寝る》

 

 《うん》

 

 《おやすみ》

 

 少しして。

 

 《おやすみ、蓮真》

 

 その文字を見て、俺はしばらく動けなかった。

 

 昔の春。

 

 思い出せない誰か。

 

 なぜか胸に残る、失ったような寂しさ。

 

 それが何なのかは、まだ分からない。

 

 でも今は、三月二十日に会う人がいる。

 

 一緒に見たい景色がある。

 

 まだ来ていない未来を、自分で楽しみにしている。

 

 昔の春がどう終わったのかは思い出せない。

 

 それでも、今の春まで、同じように終わると決まったわけじゃない。

 

 俺はもう一度、のどかから届いた「おやすみ」を見てから、スマホの画面を消した。

 

 暗くなった部屋の中で、胸の奥に残る懐かしい声と、二十日の夕暮れを思い浮かべながら、ゆっくりと目を閉じた。

 

 三月十八日

 

 塾のバイトを終えて藤沢駅の南口を出ると、夜の空気はまだ少し冷たかった。

 

 真冬ほど刺すような冷たさではない。頬に触れた風には少しだけ湿り気があって、その奥に、春が近づいている気配が混ざっていた。

 

 三月十八日。

 

 あと二日で、三月二十日になる。

 

 俺の誕生日。そして、のどかとデートをする日。

 

 駅前の人波を抜けながら、そのことを頭の中で思い浮かべる。

 

 上野動物園。

 

 パンダ。

 

 浅草。

 

 スカイツリー。

 

 十六日の夜に調べた日没時刻も、まだ覚えている。

 

 のどかには秘密にしているけれど、できれば夕暮れの少し前には展望台まで行きたい。

 

 まだ空に昼の色が残っているうちに上って、街の明かりが少しずつ点き始めるところを見たい。

 

 それを、のどかと。

 

 「……」

 

 そこまで考えたところで、ふと足が緩んだ。

 

 自分でも不思議だった。

 

 俺は、三月二十日を楽しみにしている。

 

 それ自体は、もう認めていいと思う。

 

 嫌じゃないとか、のどかが楽しみにしているから付き合うとか。

 

 そういう言い方をする必要もない。

 

 俺自身が楽しみにしている。

 

 でも……だからこそ、少しだけ変な感じがした。

 

 俺にとって三月二十日は、初めて来る日ではない。

 

 この三月そのものが、初めてではない。

 

 一度目にも、俺は十九歳の誕生日を迎えた。

 

 のどかと動物園へ行った。

 

 浅草を歩いた。

 

 スカイツリーへ行った。

 

 その日がどういう一日だったかも、知っている。

 

 それなのに、二日後の予定を考えるだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。

 

 何時に待ち合わせるか。

 

 どの順番で回るか。

 

 浅草では何を食べるか。

 

 スカイツリーへ何時に向かうか。

 

 何を話すかなんて考える必要はないはずなのに、気づけばそんなことまで考えている。

 

 一度経験したはずの一日を……まるで、初めて迎えるみたいに。

 

 「……二回目なのにな」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 返事はない。

 

 当然だった。

 

 駅前のロータリーではバスが停まり、人が降りてくる。

 

 俺はその横を歩きながら、十四日のことを思い出した。

 

 あの日も、一度目と同じようなことがたくさん起きた。

 

 水族館へ行って。

 

 江の島を歩いて。

 

 七里ヶ浜へ行って。

 

 麻衣先輩の家で誕生日会をして。

 

 卯月と三人で桜を見に行く約束をした。

 

 それでも、一度目とは違った。

 

 俺とのどかは、藤沢へ戻ってきても手を繋いでいた。

 

 イヤーカフを付けたのどかに、前より余計なことまで言った。

 

 咲太には笑われた。

 

 俺から二十日のデートへ誘った。

 

 のどかも、同じことを言おうとしていた。

 

 同じ日だった。

 

 同じ人たちだった。

 

 なのに同じではなかった。

 

 それが、少しだけ分かってきた。

 

 一度目に何が起きたかを覚えていたとしても、目の前にいる人がその記憶通りに動くわけじゃない。

 

 俺自身だって、同じ行動を取るとは限らない。

 

 一度目を知っているから変わることもある。

 

 知らなかったことを知っているから、少し早く動けることもある。

 

 十六日のシュークリームもそうだった。

 

 一度目は、古賀と姫路さんの顔を見るまで忘れていた。

 

 今回は先に買った。

 

 大した違いじゃない。

 

 それでも、一度目にはなかった時間だった。

 

 俺はポケットからスマホを取り出した。

 

 通知は来ていない。

 

 なんとなく、のどかとのトーク画面を開く。

 

 十六日のやり取りが残っていた。

 

 《スカイツリーも楽しみ》

 

 《ああ》

 

 《じゃあ楽しみにしとく》

 

 そして。

 

 《俺も》

 

 自分が送った二文字を見つめる。

 

 今見ても、妙に恥ずかしい。

 

 でも、取り消したいとは思わなかった。

 

 「……俺も、か」

 

 小さく呟く。

 

 一度目の俺なら、送信するまで少し考えた。

 

 今回はそれほど迷わなかった。

 

 楽しみだから。ただ、それだけだった。

 

 それが、自分のことなのに少しだけ意外だった。

 

 誕生日なんて、長い間ただの日付だった。

 

 誰かに祝われることを期待する日でもなく。

 

 何か特別なことをしたいと思う日でもなく。

 

 三月二十日だからといって、自分が何か変わるわけでもない。

 

 それなのに今は、二日後に会う人がいる。

 

 自分から行きたい場所を考えている。

 

 見せたい景色まである。

 

 「……変なの」

 

 思わず笑った。

 

 その時だった。

 

 スマホを持つ指に何かが触れた。

 

 ケースの隙間から、紙の端が少しだけ覗いている。

 

 「あ」

 

 取り出す。

 

 小さな紙。手書きの電話番号。

 

 その下には、名前が書かれている。

 

 牧之原翔子。

 

 「……」

 

 胸の中にあったさっきまでの温かい感覚が、少しだけ別のものに変わった。

 

 三月三日。

 

 鎌倉高校前の踏切。

 

 そこで会った女の子。

 

 黒い髪。穏やかな声。

 

 初対面のはずなのに、俺の名前を知っていた。

 

 ——蓮真さん。

 

 あの呼び方を思い出す。

 

 そして……

 

 ——また、会いましたね。

 

 「……また」

 

 俺は紙を見ながら、その言葉を小さく繰り返した。

 

 あの時も気になった。でも、聞けなかった。

 

 聞き返せる雰囲気ではなかったというのもある。

 

 それ以上に。彼女の口から「また」という言葉が出たことを、不自然だと感じながら。

 

 どこかでは、不自然だと思わなかった。

 

 それが一番気持ち悪かった。

 

 会った覚えがない。

 

 なのに、「また会った」と言われて、完全には否定できなかった。

 

 むしろ、そうだったような気さえした。

 

 「……なんなんだよ」

 

 牧之原翔子。

 

 その名前を見る。

 

 三月三日に初めて知った名前ではない。

 

 咲太から、何度も聞いている。

 

 中学時代。

 

 七里ヶ浜。

 

 病院。

 

 咲太の人生に大きく関わった人。

 

 そのくらいは知っている。

 

 だから、名前に聞き覚えがあること自体はおかしくない。

 

 でも、それだけでは説明できない感覚があった。

 

 牧之原翔子。

 

 その名前に触れると。

 

 時々、俺の中で何かが反応する。

 

 最初にそれを強く感じたのがいつだったか。

 

 思い返す。

 

 高校時代の頃にも、一度あった。

 

 詳しいことは、今でもうまく思い出せない。

 

 ただ、牧之原翔子という存在へ意識が向いた時。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 自分が知らないはずの感覚が、頭の奥を横切った。

 

 そして、去年の十一月。

 

 あの日のことなら、もう少しはっきり覚えている。

 

 咲太の家へ行った。

 

 麻衣先輩やのどか、卯月、花楓ちゃんたちとカレーを作った日。

 

 玄関へ入る前。

 

 花楓ちゃんがポストから封筒を取り出した。

 

 沖縄から届いた手紙。

 

 差出人。牧之原翔子。

 

 あの名前を見た瞬間。

 

 胸の奥が強く跳ねた。

 

 視界の端が歪んだ。

 

 そして、声がした。

 

 ——思い出しちゃだめですよ、あなたはまだ……。

 

 「……」

 

 俺は歩きながら、無意識に胸へ手を当てていた。

 

 鼓動は普通だ。

 

 少しだけ速い。

 

 それでも、苦しいほどではない。

 

 あの時は違った。

 

 身体の奥から、何かが一気に持ち上がってくるような感覚だった。

 

 頭で考えるより先に。

 

 これ以上考えてはいけない。

 

 そう思った。

 

 理由は分からなかった。

 

 そのまま咲太の家へ入り。

 

 のどかや卯月たちとカレーを作って。

 

 咲太の帰りを待って。

 

 いつの間にか、その違和感は日常の中へ紛れていった。

 

 でも、消えたわけではなかった。

 

 そして三月三日。

 

 俺は、牧之原翔子本人に会った。

 

 「……」

 

 紙を持ったまま立ち止まる。

 

 夜の藤沢。

 

 駅から少し離れた通り。

 

 自転車が横を通り過ぎていく。

 

 自分だけが、少し時間から取り残されたみたいだった。

 

 どうして牧之原さんを思い出すと。俺は、こんな感覚になる?

 

 「知ってるから……?」

 

 咲太から話を聞いている。

 

 それだけかもしれない。

 

 人から何度も聞いた名前なら、本人と会った時に既視感があっても不思議じゃない。

 

 でも、それなら、あの声はなんだった?

 

 牧之原さんの名前を見た時に。

 

 なぜ「思い出すな」なんて言葉が浮かんだ?

 

 「……」

 

 自分で考えて、すぐに首を振る。

 

 思春期症候群。

 

 それで何でも説明しようとするのは簡単だった。

 

 俺自身、昔から散々あり得ないことを経験している。

 

 でも、だからといって。

 

 分からないことを全部、思春期症候群のせいにするのも違う。

 

 まずは、自分が何を感じているのか。

 

 そこから考えた方がいい。

 

 牧之原さんを見た時。

 

 懐かしいと思った。

 

 でも……昔の友だちと再会したような懐かしさとは違う。

 

 もっと。

 

 言葉にしづらい。

 

 知っている場面の中に、知らない人が立っているような。

 

 いや、逆かもしれない。

 

 知らないはずの人が。

 

 知っている場所から歩いてきたような。

 

 「……意味分かんないな」

 

 自分で言っておいて、苦笑する。

 

 でも、一番近い。

 

 三月三日の牧之原さんは。

 

 初めて会ったというより。

 

 ずっと知っていた人を、ようやく顔として見た。

 

 そんな感じがした。

 

 もちろん、そんなはずはない。

 

 少なくとも俺の記憶の中には、牧之原翔子はいない。

 

 中学時代のノートにも。

 

 高校時代の記録にも。

 

 牧之原翔子という名前が、自分自身の出来事として書かれていた覚えはない。

 

 咲太から聞いた人物としてならある。

 

 でも、それだけ。

 

 それなのに。

 

 「……また会いましたね、か」

 

 あの人は、俺を知っていた。

 

 蓮真さん、と呼んだ。

 

 しかも、番号を渡す時に言った。

 

 ——また会えるように。

 

 「……」

 

 また会えるように。

 

 変な言い方だった。

 

 また会いましょう。

 

 連絡してください。

 

 普通なら、そう言う。

 

 でも牧之原さんは、そうは言わなかった。

 

 また会えるように。

 

 まるで……会えること自体が、当たり前ではないみたいに。

 

 俺は紙を見つめる。

 

 電話番号。

 

 名前。

 

 今なら電話をかけられる。

 

 聞けばいい。

 

 どこで会ったんですか。

 

 俺のことをどうして知ってるんですか。

 

 「また」って、どういう意味ですか。

 

 それだけのことだ。

 

 なのに、電話をかけようとは思わなかった。

 

 怖いから。というのとは、少し違う。

 

 何を聞けばいいのか。

 

 自分でもまだ整理できていなかった。

 

 もし、「昔会ったことがあります」と言われたら?

 

 いつ?

 

 どこで?

 

 俺はなぜ覚えていない?

 

 逆に、「初めて会いました」と言われたら。

 

 あの「また」は何だった?

 

 考えるほど、分からなくなる。

 

 「……」

 

 再び歩き始める。

 

 そこで不意に、また別の景色が浮かんだ。

 

 春。

 

 暖かい光。

 

 動物園。

 

 柵の向こうを歩く動物。

 

 誰かが隣にいる。

 

 女の子。

 

 顔は見えない。

 

 笑っている。

 

 風が吹く。

 

 少し苦くて。

 

 少し甘い。

 

 青い匂い。

 

 そして。

 

 ——はすまくん。

 

 「……」

 

 胸の奥が、わずかに痛んだ。

 

 三月十六日にも浮かんだ記憶。

 

 いや、記憶と呼んでいいのかも分からない。

 

 ただの夢かもしれない。

 

 昔の何かを、都合よく組み合わせているだけかもしれない。

 

 でもあの声だけは妙に残る。

 

 ——はすまくん。

 

 牧之原さんは。俺を。

 

 ——蓮真さん。

 

 と呼んだ。

 

 「……違うな」

 

 声に出してみる。

 

 同じ人ではない。

 

 そう思う。

 

 根拠はない。

 

 でも、声の感じが違う。

 

 「はすまくん」と呼ぶ誰かの声は、もっと幼かった。

 

 もっと近かった。

 

 距離を測る必要がないくらい。

 

 それに対して牧之原さんの「蓮真さん」は、穏やかで。

 

 優しいけれど、どこか一歩離れたところにいる。

 

 そんな感じだった。

 

 なのになぜか……片方を思い出すと、もう片方も浮かぶ。

 

 「……なんでだ?」

 

 俺は立ち止まらず、そのまま歩きながら考える。

 

 牧之原翔子。

 

 はすまくん、と呼ぶ誰か。

 

 そしてもう一つ。

 

 霧島透子。

 

 その名前まで、自然に頭へ浮かんできた。

 

 「……」

 

 まただ。

 

 最近、霧島透子の名前を考えることが増えた。

 

 曲を聞いた時。

 

 名前を見た時。

 

 理由もなく。

 

 胸に何かが引っかかる。

 

 俺は霧島透子を知らない。

 

 そう思っている。

 

 でも……知らない人間の名前にしては、妙に残る。

 

 牧之原翔子。

 

 霧島透子。

 

 「はすまくん」と呼ぶ声。

 

 それぞれ別のものだ。

 

 そのはずだ。

 

 なのに時々、頭の中で同じ棚へ置かれる。

 

 俺自身にも、どうしてそうなるのか分からない。

 

 「……」

 

 ポケットの中でスマホが震えた。

 

 今度は本物だった。

 

 取り出す。

 

 豊浜のどか。

 

 《バイト終わった?》

 

 思わず少しだけ息が抜けた。

 

 《終わった》

 

 すぐ既読。

 

 《今帰ってる?》

 

 《うん》

 

 《ちゃんと寝てる?》

 

 《なんで急に》

 

 《二十日のプラン考えすぎて寝不足になってそう》

 

 「……」

 

 思わず笑う。

 

 《そこまでじゃない》

 

 《ほんと?》

 

 《ほんと》

 

 少しして。

 

 《ならいいけど》

 

 そのあと。

 

 《楽しみにしてるからね》

 

 「……」

 

 また胸の奥が少し温かくなる。

 

 さっきまで考えていたものが消えたわけじゃない。

 

 牧之原さんのこと。

 

 霧島透子のこと。

 

 春の動物園。

 

 誰かの声。

 

 全部残っている。

 

 でも同じ場所に、のどかのメッセージもある。

 

 《俺も楽しみ》

 

 打つ。

 

 一瞬だけ。

 

 送る前に指が止まった。

 

 一度目の三月二十日を、俺は知っている。

 

 だから本当に「楽しみ」と言っていいのか。

 

 そんなことが、ほんの少しだけ頭をよぎった。

 

 でもすぐに思う。

 

 知っているからといって。

 

 同じになるとは限らない。

 

 十四日だってそうだった。

 

 今ののどかは、記憶の中ののどかじゃない。

 

 二十日ののどかも。

 

 その日になってみなければ、俺には分からない。

 

 それなら……

 

 《俺も楽しみだよ》

 

 送信する。

 

 既読。

 

 少しして。

 

 黄色いキャラクターが笑っているスタンプ。

 

 《じゃああと二日》

 

 「……あと二日、か」

 

 呟く。

 

 不思議だった。

 

 一度経験している。

 

 なのにちゃんとあと二日ある。

 

 その時間を、俺は待っている。

 

 そのことが、やっぱり少しだけ変な感じがした。

 

 でも今は、それ以上うまく説明できなかった。

 

 俺はスマホを閉じる。

 

 ケースの中には。

 

 牧之原翔子の番号。

 

 画面の中には。

 

 のどかとの二十日の約束。

 

 その二つを同じポケットへ入れて、また歩く。

 

 家までは、もうそれほど遠くない。

 

 夜道はいつもと同じだ。何も変わらない。

 

 それでも頭の中には、二つの声が残っていた。

 

 ——はすまくん。

 

 幼い声……

 

 そして……

 

 ——蓮真さん。

 

 牧之原さんの声。

 

 似てはいない。

 

 呼び方も違う。

 

 なのに片方へ触れると、なぜかもう片方まで、遠くで揺れる。

 

 「……デジャヴ、か」

 

 思わず口にする。

 

 既視感。

 

 それだけなら。

 

 どうして俺は牧之原さん本人に会う前から。

 

 彼女の名前に、同じような感覚を覚えていたんだろう。

 

 「……次に会ったら、聞いてみるか」

 

 小さく言う。

 

 (何を聞くんだよ……)

 

 そこまではまだ決めていない。

 

 どこで会ったんですか。

 

 どうして俺を知っているんですか。

 

 どうして「また」と言ったんですか。

 

 聞きたいことはいくつもある。

 

 でも今すぐ、答えが欲しいわけでもなかった。

 

 答えを知れば、全部分かるとも思っていない。

 

 牧之原さん自身が、どこまで知っているのかも分からない。

 

 ただこの違和感を。今度は、なかったことにしたくない。

 

 それだけだった。

 

 春の風が吹く。

 

 一瞬少し青い匂いがした気がした。

 

 反射的に振り返る。

 

 誰もいない。

 

 駅から歩いてきた人たちが、遠くに見えるだけだった。

 

 「……」

 

 俺は前を向く。

 

 三月二十日まで、あと二日。

 

 一度目にも来た誕生日。

 

 それでも今は、少しだけ待ち遠しい。

 

 その理由が何なのか。

 

 どうして二回目なのに、こんな気持ちになるのか。

 

 まだ、うまく分からない。

 

 牧之原さんを思い出すと、どうして妙なデジャヴがあるのかも。

 

 霧島透子という名前が、どうして妙に胸に残るのかも。

 

 「はすまくん」と呼ぶ女の子が誰なのかも。

 

 分からないことばかりだった。

 

 でも二日後、のどかと会う。

 

 そのことだけは、今の俺がちゃんと楽しみにしている。

 

 その事実を、今夜はそれ以上疑わないことにした。

 

 家へ向かって歩き続ける。

 

 春はまだ来ていない。

 

 でも、もうすぐそこまで来ているような気がした。

 




物語解説

今回は、二度目の三月を過ごす蓮真が、「知っている出来事」と「これから来る未来」の違いを少しずつ実感していく回でした。

のどかの誕生日。麻衣の家での誕生日会。卯月とのホワイトデー。三人で桜を見に行く約束。そして、三月二十日のデート。どれも一度目の三月にもあった出来事です。

けれど、蓮真自身の選ぶ言葉や行動は、少しずつ変わっています。

一度目なら離していた手を、今回はそのまま繋ぎ、イヤーカフを見て「似合ってる」だけで終わらず、もう一歩先まで言葉にする。

そして三月二十日のデートも、のどかから誘われるのを待つのではなく、自分から「またデートしないか」と伝えました。

同じ出来事を知っているからといって、同じ時間になるわけではありません。

目の前にいるのどかも、卯月も、古賀も姫路も、その瞬間を初めて生きています。

そして蓮真自身もまた、一度目には選ばなかった言葉を選び、一度目には作らなかった未来を、自分から作り始めています。

三月十六日では、その変化がさらに日常の中へ現れます。

忘れていたシュークリームを先に用意し、自分の誕生日だからこそ、自分でデート先を考えること。

そして、のどかに見せたい景色のために、日没時刻まで調べること。

どれも小さなことですが、これまで相手に合わせることの多かった蓮真にとっては、自分から「こうしたい」と思う大きな一歩でもあります。

一方で三月十八日になると、蓮真はそのこと自体に少し違和感を覚え始めます。

一度目にも迎えた誕生日。一度目にも行った場所。それなのに、二度目の三月二十日を、初めて来る日のように楽しみにしている。

その理由を、蓮真自身はまだうまく説明できません。

そして同時に、別の違和感も再び浮かび上がってきます。

牧之原翔子。

「また会いましたね」という言葉。

以前から名前を目にするたびに感じていたデジャヴ。

春の動物園。青い匂い。

「はすまくん」と呼ぶ誰かの声。

そして、霧島透子という名前。

まだそれらは、蓮真の中で一つの答えにはなっていません。

ただ、分からないものが少しずつ近づいてくる一方で、のどかとの二十日を楽しみにしている気持ちだけは、確かにそこにあります。

二度目の春なのに、待っている未来は初めてのものに感じる。これからもまた、一度目にも訪れたその日が、二度目の蓮真にとってどんな一日になるのか。

引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
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