青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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おかげさまで、本作のUAが3万を超えました。

ここまで多くの方に読んでいただけて、本当に嬉しく思っています。連載を続けていく中で、少しずつ読んでくださる方が増えていることを実感できるのは、とてもありがたいことです。

そして、『青春ブタ野郎はディアフレンドの夢を見ない』の公開も、いよいよ間近に迫ってきました。

原作の最終章がどのように映画で描かれるのか楽しみにしつつ、本作も引き続き、蓮真たちの物語を丁寧に書いていければと思います。

これからも岸和田蓮真の物語を、よろしくお願いします。



10.繰り返す三月で、過去の記録を辿る

 

 三月二十日

 

 藤沢駅の改札前に着いたのは、約束の九時より十五分ほど早かった。

 

 一度目と同じだった。

 

 家にいても落ち着かなくて、予定より早く出てきたところまで。

 

 でも、今日は少しだけ違う。

 

 上野動物園。

 

 浅草。

 

 それから、夕方のスカイツリー。

 

 どこへ行くかだけじゃない。

 

 日没時刻も調べた。

 

 のどかに見せたい景色まで、自分で考えた。

 

 一度目にも行った一日なのに。今は、その日が来るのをちゃんと待っていた。

 

 改札から出てくる人を眺めていると、見慣れた金色が視界に入る。

 

 今日は、いつもの編み込みサイドポニーテールではなかった。

 

 髪を下ろしている。

 

 チェック柄のジャケットとスカート。黒いインナーとブーツ。

 

 一度目にも見た姿。

 

 それでも、やっぱり少し目を奪われた。

 

 「おはよ、蓮真」

 

 のどかがこちらへ歩いてくる。

 

 「何?」

 

 「いや」

 

 「見てたでしょ」

 

 一度目なら、少し誤魔化したかもしれない。

 

 「……見てたよ」

 

 そう答えると、のどかが一瞬だけ目を丸くした。

 

 「そこは誤魔化してよ」

 

 「髪下ろしてるの珍しかったから」

 

 「それだけ?」

 

 「……似合ってるよ」

 

 少しだけ間を置いて言う。

 

 のどかの頬が赤くなった。

 

 「……ありがと」

 

 それから髪の先へ触れる。

 

 「お姉ちゃんがさ。たまには髪下ろして行ったらって」

 

 「麻衣先輩が?」

 

 「『蓮真くん、驚くんじゃない』って」

 

 「完全に読まれてるな」

 

 「でしょ?」

 

 のどかが笑う。

 

 「そういえば、横須賀の時も下ろしてたよな」

 

 「あ、覚えてたんだ」

 

 「まあ」

 

 「ふーん」

 

 少しだけ嬉しそうな顔をした。

 

 それを見ると、覚えていてよかったと思う。

 

 「じゃあ行くか」

 

 「うん」

 

 俺たちはホームへ向かった。

 

 今日はグリーン車にしてある。

 

 のどかがアイドルだから、人目を避けやすい方がいい。

 

 「蓮真、ちゃんと考えてる」

 

 「一応な」

 

 「一応なんだ」

 

 「スキャンダルになったら麻衣先輩に怒られそうだし。卯月や安濃さんたちにも迷惑かけるし」

 

 「そこ?」

 

 笑いながら、二階席へ上がる。

 

 並んで座ると、電車がゆっくり動き始めた。

 

 しばらく窓の外を見ていたのどかが、不意にこちらを向く。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「誕生日おめでとう」

 

 知っていた言葉なのに……やっぱり少しだけ呼吸が止まった。

 

 「……ありがとう」

 

 「今日はちゃんと祝うからね」

 

 「ほどほどで頼む」

 

 「やだ」

 

 即答だった。

 

 一度目と同じ。

 

 でも今度は……

 

 「……楽しみにしてるよ」

 

 少しだけそう返した。

 

 「え?」

 

 のどかが驚く。

 

 「何」

 

 「いや。蓮真がそんなこと言うんだなって」

 

 「俺の誕生日なんだろ?」

 

 「そうだけど」

 

 のどかは少し笑った。

 

 「じゃあ、ちゃんと楽しみにしてて」

 

 「ああ」

 

 上野駅で電車を降り、公園口から外へ出る。

 

 動物園へ向かう人は多かった。

 

 「すごい人」

 

 「今日は無料だからな」

 

 「無料?」

 

 「三月二十日は開園記念日」

 

 「へぇ」

 

 のどかは少し感心したあと、俺を見る。

 

 「じゃあ蓮真と同じ誕生日なんだ」

 

 「そうなるな」

 

 「なんかシンパシー感じる」

 

 「動物園に?」

 

 「蓮真に」

 

 さらっと返される。

 

 「……そういうの急に言うなよ」

 

 「今日の蓮真に言われたくない」

 

 人混みの中を正門へ向かう。

 

 途中、前を歩いていた家族連れが急に止まった。

 

 俺はぶつからないように一歩横へ避ける。

 

 その時、隣にいたのどかの手首へ軽く触れた。

 

 「こっち」

 

 人の流れから外れる。

 

 「あ、うん」

 

 離してから、少しだけ変な間があった。

 

 のどかがこちらを見る。

 

 「……手、繋がないの?」

 

 「え?」

 

 「あたしの誕生日は繋いでたじゃん」

 

 「……まあ」

 

 言われて、少し迷う。

 

 それから手を出すと、のどかはすぐに握ってきた。

 

 「今日は蓮真からじゃないんだ」

 

 「今、のどかが言っただろ」

 

 「そうだけど」

 

 少しだけ不満そうだった。

 

 でも、その手は離れなかった。

 

 最初はパンダだった。

 

 一度目と同じように、こちらへ背中を向けて竹を食べている。

 

 「またそっぽ向いてる」

 

 「パンダ側にも都合があるんだろ」

 

 「アイドルなら怒られるよ」

 

 「パンダはアイドルじゃないだろ」

 

 「上野じゃアイドルみたいなもんじゃん」

 

 しばらく待っていると、ゆっくりこちらへ顔を向けた。

 

 「あっ、蓮真!」

 

 のどかに言われてスマホを構える。

 

 今度はちゃんと撮れた。

 

 「撮れた」

 

 画面を見せる。

 

 「かわいい!」

 

 のどかの表情がぱっと明るくなる。

 

 その顔を見ていると、また来てよかったと思った。

 

 パンダがこっちを向いたからだけじゃない。

 

 そのことで、のどかがこんなに嬉しそうに笑っているから。

 

 「写真送って」

 

 「ああ」

 

 言われた通り送る。

 

 ついでに、画面に映っていたのどかの横顔も少しだけ視界に残った。

 

 写真に撮ろうかと思ったけれど、さすがにやめた。

 

 そこまで急に変わる必要もない気がした。

 

 園内を歩く。

 

 カワウソやフクロウを見て、トラの前まで来る。

 

 「前に咲太から、トラってあたしに似てるって言われたんだよね」

 

 「色?」

 

 「そう」

 

 金色の毛並みと、のどかの髪を見比べる。

 

 「……まあ、確かに」

 

 「同意しないでよ」

 

 「でも、のどかの方が綺麗だけど」

 

 口にしてから、少し言いすぎた気がした。

 

 案の定、のどかが固まる。

 

 「……今日の蓮真、何?」

 

 「俺にも分からない」

 

 「怖いんだけど」

 

 「怖がるなよ」

 

 そう言うと、のどかが笑った。

 

 一度目より、ほんの少しだけ、思ったことをそのまま言えている。

 

 そのくらいでいい。

 

 トラの展示を離れたところで、「そうだ。蓮真に見せたい動物いる!」とのどかが言った。

 

 「何?」

 

 今度も、知らないふりをする。

 

 「いいから、こっち」

 

 のどかが俺の手を引く。

 

 一度目と同じだった。

 

 ただ今回は、そのまま引かれるだけではなく。

 

 「歩くの速いって」

 

 「大丈夫」

 

 「何が大丈夫なんだよ」

 

 言いながら、少しだけ握り返す。

 

 のどかが一瞬こちらを見る。

 

 でも何も言わなかった。

 

 そのまま、西園まで歩いた。

 

 目的地はハシビロコウだった。

 

 灰色の大きな鳥が、相変わらず動かずに立っている。

 

 「これ」

 

 のどかが楽しそうに言う。

 

 「蓮真と似てる」

 

 「どこがだよ」

 

 「名前の響き」

 

 「はで始まるとこだけだろ!」

 

 思わず声が出る。

 

 のどかが笑った。

 

 「でも静かなところとか」

 

 「それはまだ分かる」

 

 「人のことじっと見てるところとか」

 

 「そんな見てるか?」

 

 「見てるよ」

 

 「今日だって駅で見てたし」

 

 「それは……」

 

 「それは?」

 

 少し迷う。

 

 「……髪下ろしてるの、似合ってたから」

 

 言ってから目を逸らした。

 

 今度は、のどかが黙る番だった。

 

 「……もういい」

 

 「何が」

 

 「なんでもない」

 

 でも、少し嬉しそうだった。

 

 その後はオカピやキリン、サイ、カバを見て回る。

 

 一度目より、少しだけ足早だった。

 

 全部をもう一度確認する必要はない。

 

 のどかが立ち止まれば一緒に見る。

 

 俺が気になれば、少し立ち止まる。

 

 そのくらいだった。

 

 レッサーパンダの案内板を見つける。

 

 「あ、次あそこ行こ」

 

 のどかが言う。

 

 「レッサーパンダか」

 

 「うん」

 

 俺たちは並んで歩く。

 

 木の上には、一匹が笹を食べている。

 

 少し離れたところでは、もう一匹がニンジンを持っていた。

 

 「かわいい」

 

 のどかがスマホを向ける。

 

 「レッサーパンダも笹食べるんだな」

 

 「ほんとだ」

 

 その瞬間。

 

 春の日差し。

 

 坂道。

 

 木の匂い。

 

 一度目の三月と同じ知らない景色が、一瞬だけ頭の中へ重なった。

 

 ——はすまくん、こっち。

 

 「……」

 

 胸の奥が、わずかに痛む。

 

 幼い女の子の声。

 

 そして。

 

 ——日本平。

 

 言葉が浮かぶ。

 

 「蓮真?」

 

 のどかに呼ばれて、我に返った。

 

 「どうしたの?」

 

 「……いや」

 

 少し迷って。

 

 「昔のこと、なんか思い出しかけただけ」

 

 「昔?」

 

 「ああ。でも、よく分からない」

 

 のどかが少しだけ心配そうな顔をする。

 

 「大丈夫?」

 

 「大丈夫」

 

 そう答えると、のどかが何も言わず、俺の手を握った。

 

 さっきまで繋いでいなかった手。

 

 「……のどか?」

 

 「別に」

 

 「何が」

 

 「ほら、次行くよ」

 

 そのまま手を引かれる。

 

 今度は、俺もその手を離さなかった。

 

 ギフトショップへ入ると、相変わらずパンダだらけだった。

 

 その一角で、ハシビロコウのグッズが妙な存在感を放っている。

 

 「蓮真、これ」

 

 のどかがクリップを持ってくる。

 

 「ノートに使えるよ」

 

 「実用的だな」

 

 「でしょ?」

 

 「じゃあ、それにする」

 

 「素直」

 

 「何だよ」

 

 さらに。

 

 「これも」

 

 差し出されたのは、ハシビロコウのマグカップ。

 

 「そこまでハシビロコウで固める必要ある?」

 

 「だって、お揃いじゃん」

 

 「のどかはライオンだろ」

 

 「同じシリーズだから」

 

 少し迷う。

 

 「……じゃあ、まあ」

 

 受け取る。

 

 「買うんだ」

 

 「のどかが言ったんだろ」

 

 「そうだけど」

 

 なぜかのどかは嬉しそうだった。

 

 卯月にはアザラシのマグカップを選ぶ。

 

 レジへ向かうと、のどかが先に財布を出した。

 

 「今日はあたしが払う」

 

 「卯月の分まで?」

 

 「いいの。蓮真の誕生日なんだから」

 

 一度目なら、少し戸惑った。

 

 今回は。

 

 「……じゃあ、お願いする」

 

 「うん」

 

 「ありがと」

 

 ちゃんと受け取る。

 

 それだけでも、前より少し違った。

 

 動物園を出たのは、昼過ぎだった。

 

 昼食は、のどかが予約してくれていた。

 

 湯島寄りのビルにある洋食店。

 

 落ち着いた内装を見て「いい店だな」と、思わず言う。

 

 「お姉ちゃんのおすすめ」

 

 「麻衣先輩、こういうところ詳しそうだな」

 

 「仕事で色々行くからね」

 

 俺はハンバーグ。

 

 のどかはオムライス。

 

 少しずつ分けながら食べる。

 

 しばらくして。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「今日、楽しい?」

 

 一度目にも聞かれた。

 

 でも今回は、ほとんど間を置かなかった。

 

 「楽しいよ」

 

 のどかが少しだけ目を丸くする。

 

 「ほんと?」

 

 「ああ」

 

 「そっか」

 

 嬉しそうに笑う。

 

 「のどかは?」

 

 今度は、俺から聞く。

 

 「楽しいよ」

 

 返事はすぐだった。

 

 「なんか今日の蓮真、いつもよりちょっと素直だし」

 

 「そう?」

 

 「そう」

 

 少しだけ考えて。

 

 「一回目より?」

 

 そう言いかけて、飲み込む。

 

 代わりに。

 

 「……まあ、今日は俺の誕生日だから」

 

 「それ関係ある?」

 

 「ないかも」

 

 のどかが笑う。

 

 「……でも、今日のどかと来れてよかった」

 

 のどかが一瞬黙る。

 

 「……うん」

 

 小さな返事。

 

 それで十分だった。

 

 このあと浅草へ行く。

 

 夕方にはスカイツリーへ行く。

 

 一度目にも行った場所。

 

 でもそこへ行けば、また一度目と同じものが待っているとは限らない。

 

 それが、今は少し楽しみだった。

 

 食事を終えて店を出る。

 

 のどかが隣を歩き始める。

 

 人の多い通りへ出たところで、少しだけ距離が開いた。

 

 俺は一歩だけ近づいて、のどかの手を取った。

 

 「……蓮真?」

 

 「はぐれそうだから」

 

 「またそれ?」

 

 「便利なんだよ、この理由」

 

 「ほんと素直じゃない」

 

 そう言いながらも、のどかは指を絡めるように握り返してきた。

 

 俺は少しだけ笑う。

 

 まだ自分から何でもできるわけじゃない。

 

 のどかに引っ張られることの方が多い。

 

 それでも今日は、一度目よりほんの少しだけ。

 

 自分から隣へ行けている。

 

 そのくらいで、今はちょうどいい気がした。

 

 俺たちは手を繋いだまま、浅草へ向かった。

 

 その先にある、まだ二人で見ていない、夕暮れへ。

 

 食事を終えた俺たちは、上野から銀座線に乗って浅草へ向かった。

 

 昼過ぎの車内はそれなりに混んでいる。

 

 浅草駅で地上へ出ると、聞こえてくる言葉の種類が一気に増えた。

 

 日本語。英語。中国語。韓国語。

 

 雷門へ向かう人の流れの中で、いろんな声が混ざり合っている。

 

 「すごい人だな」

 

 「浅草だもんね」

 

 のどかが楽しそうに周囲を見る。

 

 雷門が見えてくる頃には、さらに人が増えた。

 

 俺は一度、繋いでいた手を見て、そのまま少しだけ握り直した。

 

 「逸れそうだから」

 

 「……まだそれ言う?」

 

 「便利なんだよ」

 

 「ほんと素直じゃない」

 

 そう言いながら、のどかも指へ少し力を込める。

 

 仲見世通りを歩く。

 

 人形焼。せんべい。雷おこし。和柄の小物。

 

 のどかはあちこちへ視線を向けながら、それでも手は離さなかった。

 

 途中、外国人観光客らしい男性に渋谷までの行き方を尋ねられた。

 

 俺が答えるより先に、のどかが自然な英語で銀座線を案内する。

 

 「さすが国際教養学部」

 

 「今のくらい普通だよ」

 

 「いや、咄嗟にあれだけ出るのは普通じゃないだろ」

 

 「……蓮真に褒められると、なんか嬉しい」

 

 少し照れたように笑う。

 

 「発音も綺麗だしな」

 

 「お姉ちゃんの方が上手いけどね」

 

 「麻衣先輩も上手いな」

 

 後期の英会話の授業を思い出す。

 

 麻衣先輩だけじゃない。美東さんも、英語の発音が妙に自然だった。

 

 「歌が上手い人って、耳もいいのかもな」

 

 「あー、あるかも」

 

 「卯月もそうだろ」

 

 「卯月も発音いいよ。スペイン語も上手だったし」

 

 「じゃあ、のどかと麻衣先輩と卯月は確定だな」

 

 「蓮真もでしょ」

 

 「俺はいいよ」

 

 「なんで?」

 

 「自分で自分をそこに入れるの嫌だろ」

 

 のどかが少しだけ呆れた顔をする。

 

 「蓮真って、そういうとこあるよね」

 

 「どういうとこ」

 

 「できるのに、自分では大したことないって言うところ」

 

 「……」

 

 返事に詰まる。

 

 のどかは、それ以上追及しなかった。

 

 ただ……

 

 「でも、あたしは知ってるから」

 

 「何を」

 

 「蓮真が歌上手いこと」

 

 「それ大事か?」

 

 「大事」

 

 即答だった。

 

 「蓮真の声、好きだし」

 

 「……」

 

 一瞬、足が止まりそうになった。

 

 のどかは数歩進んでから、俺を振り返る。

 

 「何?」

 

 「いや」

 

 「照れてる?」

 

 「……そういうこと急に言うなよ」

 

 「今日の蓮真にだけは言われたくない」

 

 朝と同じことを言われた。

 

 俺は反論できず、代わりに繋いだ手を少しだけ握った。

 

 浅草寺では、二人で手を合わせた。

 

 今回も願う。

 

 今日が、ちゃんと終わりますように。

 

 でも……一度目とは少し違った。

 

 終わってほしくないと思っている自分もいる。

 

 矛盾している。

 

 それでも今は、それ以上考えないことにした。

 

 参拝を終え、仲見世を抜ける。

 

 俺はスマホで時間を確認した。

 

 予定より少し早い。

 

 これなら大丈夫そうだった。

 

 「蓮真、時間気にしてない?」

 

 隣からのどかが覗き込んでくる。

 

 「まあ」

 

 「スカイツリー?」

 

 「ああ」

 

 「チケットの時間決まってるんだっけ」

 

 「それもある」

 

 「それも?」

 

 のどかが怪訝そうな顔をする。

 

 「何?」

 

 「いや」

 

 「またなんか隠してる?」

 

 「別に」

 

 「その言い方、絶対なんかあるじゃん」

 

 「着けば分かるよ」

 

 そう返すと、のどかは少し不満そうに頬を膨らませた。

 

 「スカイツリー行くのは知ってるのに、まだ秘密あるの?」

 

 「大したことじゃない」

 

 「じゃあ教えてよ」

 

 「それじゃ意味ないだろ」

 

 「何の意味?」

 

 「……まあ、あとで」

 

 自分でも少し含ませすぎた気がした。

 

 のどかがじっと俺を見る。

 

 「蓮真、今日ちょっと生意気」

 

 「なんでだよ」

 

 「なんとなく」

 

 でも、口元は笑っていた。

 

 浅草から押上へ移動する。

 

 地上へ出ると、空へ向かって伸びる東京スカイツリーが見えた。

 

 「やっぱ近くで見るとでかいね」

 

 のどかが見上げる。

 

 「上野からも見えたけど、全然違うな」

 

 「今日、結構歩いたのにまだ上るんだ」

 

 「疲れた?」

 

 「全然」

 

 「ならよかった」

 

 ソラマチの中は、予想通り人で溢れていた。

 

 家族連れ、カップル、外国人観光客。

 

 受付へ向かい、事前に買っておいたチケットを見せる。

 

 「ちゃんと予約までしてるんだ」

 

 「祝日だし、混むだろ」

 

 「蓮真、こういうところはほんとちゃんとしてるよね」

 

 「こういうところは、って何だよ」

 

 「褒めてるって」

 

 エレベーターへ案内される。

 

 乗り込むと、扉が閉まり、身体がふわりと浮くような感覚がした。

 

 のどかが少しだけ俺の袖を掴む。

 

 「苦手?」

 

 「高いところは平気。急に上がる感じがちょっと」

 

 「分かる」

 

 表示される数字が一気に増えていく。

 

 そして扉が開いた。

 

 展望デッキへ出た瞬間。

 

 視界いっぱいに東京が広がった。

 

 でも、一度目とは違う。

 

 西の空にはまだ橙色が残っている。

 

 その上には淡い紫。

 

 さらに高いところには、昼の名残みたいな青。

 

 地上では、街の灯りが一つずつ点き始めていた。

 

 昼でもない。夜でもない。

 

 ほんの短い境目。

 

 「……うわ」

 

 のどかが小さく声を漏らす。

 

 窓の近くまで歩いて、じっと外を見た。

 

 俺はスマホの時計を見る。

 

 調べていた時間と、ほとんど同じだった。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「もしかして」

 

 のどかが窓の外を見たまま言う。

 

 「これに合わせて来たの?」

 

 「……まあ」

 

 「だから浅草で時間見てたんだ」

 

 「そう」

 

 のどかがこちらを振り向く。

 

 「日没時間まで調べた?」

 

 「一応」

 

 「一応じゃないでしょ」

 

 少し呆れたように言う。

 

 でも、その表情は嬉しそうだった。

 

 「マジックアワーっていうらしい」

 

 「知ってるよ、それくらい」

 

 「そっか」

 

 「でも」

 

 のどかはもう一度、窓の外を見る。

 

 「実際見ると、すごいね」

 

 橙色だった空が、少しずつ紫へ変わっていく。

 

 街の光が増える。

 

 同じ景色なのに、数分ごとに色が変わっていく。

 

 「……これ、見たかったんだ」

 

 のどかが言う。

 

 「俺も」

 

 「蓮真が?」

 

 「ああ」

 

 少しだけ間を置く。

 

 「のどかと見たかった」

 

 言った瞬間、のどかが黙った。

 

 「……」

 

 「何」

 

 「今日、それ何回目?」

 

 「何が」

 

 「そういうの」

 

 「そういうのって何だよ」

 

 「分かってないならいい」

 

 窓の方へ顔を向ける。

 

 耳が少し赤い。

 

 「でも」

 

 小さな声だった。

 

 「嬉しい」

 

 「……そっか」

 

 俺も景色へ視線を戻す。

 

 調べた時には、ただ綺麗そうだと思った。

 

 のどかも喜ぶかもしれないと思った。

 

 でも実際に隣で、こんな顔をして景色を見ているのどかを見ると。

 

 時間まで調べてよかったと思う。

 

 「何?」

 

 のどかがこちらを見る。

 

 「いや」

 

 「また見てた?」

 

 「……見てた」

 

 今度も誤魔化さない。

 

 「この景色見てるのどか、見たかったから」

 

 「……」

 

 また黙った。

 

 「言い方変だった?」

 

 「変じゃない」

 

 「じゃあ何」

 

 「蓮真が今日ずっとおかしい」

 

 「それ何回言うんだよ」

 

 「だって」

 

 少し笑う。

 

 「なんか、好きって言われてるみたいだから」

 

 心臓が一度、大きく鳴った。

 

 好きじゃないわけがない。

 

 もう、それは自分でも分かっている。

 

 でも。その言葉そのものを、今ここで改めて言うのは少し違う気がした。

 

 「……まあ」

 

 窓の外へ目を戻す。

 

 「……そんなに遠くはないよ」

 

 のどかが目を丸くした。

 

 「え」

 

 「何」

 

 「いや、蓮真がそこ認めるんだって」

 

 「のどかが言ったんだろ」

 

 「そうだけど」

 

 二人とも少しだけ黙る。

 

 夕暮れの東京だけが、ゆっくり夜へ変わっていった。

 

 展望デッキを一周したあと、ガラス床へ向かう。

 

 のどかは、一度目と同じように足を止めた。

 

 「これ怖いやつ」

 

 「行く?」

 

 「行く」

 

 先に俺が乗る。

 

 足元には、地上がそのまま見えた。

 

 「……分かってても変な感じするな」

 

 「蓮真、待って」

 

 のどかが俺の腕を掴みながら隣へ来る。

 

 「思ったより怖い」

 

 「戻るか?」

 

 「戻らない」

 

 「じゃあ見るしかないな」

 

 「そういう冷静なのやめて」

 

 腕を掴んだまま、恐る恐る下を覗く。

 

 「……すご」

 

 「落ちないから大丈夫だよ」

 

 「分かってる」

 

 「なら離してもいいんだぞ」

 

 「無理」

 

 即答だった。思わず笑う。

 

 「笑わないで」

 

 「悪い」

 

 でも、腕を掴まれているのは嫌じゃなかった。

 

 そのあと、天望回廊へ上がる。

 

 さらに高い場所へ出る頃には、空の橙色はほとんど消えていた。

 

 深い青の下。東京の街が、無数の灯りで埋まり始めている。

 

 「東京って、こんな広いんだね」

 

 のどかが呟く。

 

 「上からだと余計にな」

 

 「藤沢ってどっち?」

 

 「見えないけど、たぶんあっち」

 

 指を差す。

 

 「適当じゃない?」

 

 「方角は多分合ってる」

 

 のどかは、その方向を見る。

 

 「朝はそこから来たんだね」

 

 「そうだな」

 

 「上野行って、浅草行って、今ここ」

 

 「結構移動したな」

 

 「でも楽しかった」

 

 「……俺も」

 

 今度は迷わなかった。

 

 のどかがこちらを見る。

 

 「今日、のどかと一緒でよかったよ」

 

 「……」

 

 少しだけ間が空いた。

 

 それから、のどかが小さく笑った。

 

 「そっか」

 

 「うん」

 

 それだけだった。でも、それで十分だった。

 

 回廊の一番高いところで、のどかがスマホを取り出す。

 

 「写真撮ろ」

 

 「景色?」

 

 「二人で」

 

 「俺も?」

 

 「今日の主役でしょ」

 

 「またそれか」

 

 それでも断らなかった。

 

 窓際に並ぶ。

 

 のどかが少し身体を寄せてくる。

 

 俺も、それに合わせて少しだけ近づいた。

 

 背後には青へ変わった空。

 

 灯り始めた東京。

 

 シャッター音が鳴る。

 

 「撮れた」

 

 画面を見せてもらう。

 

 そこには、少し照れた俺と、嬉しそうに笑うのどかがいた。

 

 「いいじゃん」

 

 「……うん」

 

 写真が送られてくる。

 

 俺はしばらく、その画面を見つめた。

 

 三月二十日。

 

 一度目にもあった日。

 

 でもこの空は知らない。

 

 この写真も、さっき口にした言葉も。

 

 のどかが返した表情も。

 

 全部、今日初めて生まれたものだった。

 

 嬉しい。

 

 それなのに。

 

 少しだけ怖い。

 

 この瞬間も。

 

 やがて写真になって。

 

 記憶になって。

 

 過去になる。

 

 終わってほしくない。

 

 その気持ちが、胸の奥で少しだけ大きくなる。

 

 「蓮真」

 

 顔を上げる。

 

 のどかが隣にいる。

 

 「今日は来てよかったね」

 

 一度目にも聞いた言葉。

 

 でも今回は……

 

 「……うん」

 

 少しだけ笑う。

 

 「のどかと来れて、よかった」

 

 のどかも笑った。

 

 「うん」

 

 それだけで、また胸が温かくなる。

 

 だからこそ……

 

 この時間が終わることが。

 

 前よりも、少しだけ怖かった。

 

 スカイツリーを出る頃には、空はすっかり夜になっていた。

 

 ライトアップされた塔を見上げる。

 

 「ちゃんと時間まで考えてたんだね」

 

 のどかが言う。

 

 「まあ」

 

 「日没まで調べて」

 

 「綺麗そうだったから」

 

 「それだけ?」

 

 少し意地悪そうに聞いてくる。

 

 朝から何度目だろう。

 

 俺は少しだけ考えて。

 

 「……のどかが喜ぶかなって思ったから」

 

 答える。

 

 「……」

 

 「何」

 

 「やっぱ今日の蓮真、ずるい」

 

 「なんで」

 

 「知らない」

 

 そう言いながら。

 

 のどかが手を差し出すより少しだけ早く。

 

 俺から、その手を取った。

 

 「帰るか」

 

 のどかが一瞬驚いて、それから嬉しそうに握り返す。

 

 「うん」

 

 俺たちは並んで歩き出した。

 

 昼から夜へ変わった空の下を。

 

 一度目にも来た場所から、今日初めて見た景色を持って帰るように。

 

 押上から半蔵門線に乗り、大手町へ向かった。

 

 俺はそこで三田線に乗り換えて、目黒の実家へ帰る。のどかは東京駅から東海道線で藤沢へ戻る予定だった。

 

 今日一日、朝からずっと一緒にいた。

 

 上野へ行って、動物園を歩いて、浅草へ行って、スカイツリーから夕暮れの東京を見た。

 

 十分すぎるくらい一緒にいたはずなのに、大手町が近づいてくると、なぜか急に時間が短く感じた。

 

 「次、大手町だね」

 

 のどかが言う。

 

 「ああ」

 

 返事をして、少しだけ考える。

 

 一度目の三月二十日。ここから東京駅へ寄った。

 

 夜の丸の内駅舎を見て、そこでのどかからプレゼントをもらった。同じようにすればいい。最初は、そう思った。

 

 でも、それだけじゃないこともしてみたかった。

 

 電車が大手町に着く。

 

 ホームへ降り、人の流れに混ざりながら歩く途中、俺は三田線への案内を一度見て、そのまま通り過ぎた。

 

 「蓮真?」

 

 のどかが気づく。

 

 「三田線、そっちじゃない?」

 

 「うん」

 

 「じゃあ、どこ行くの?」

 

 少しだけ迷ってから言う。

 

 「……東京駅、見ていかない?」

 

 のどかが目を丸くした。

 

 「蓮真から言うんだ」

 

 「悪い?」

 

 「全然」

 

 すぐに笑う。

 

 「行こ」

 

 地下通路を抜けて、丸の内側へ出る。

 

 夜の空気が頬に触れた。

 

 正面にはライトアップされた東京駅。赤レンガの丸の内駅舎が、暗い空の下に浮かんでいる。

 

 その向こうには高層ビルの灯り。スカイツリーから見た東京とは違う。今度は、その街の中に自分たちがいる。

 

 「……綺麗」

 

 のどかが言った。

 

 「うん」

 

 並んで駅舎を見る。少し冷たい春の風が吹いて、のどかの下ろした髪が揺れる。

 

 朝から何度見たか分からない。それでも、夜の明かりの中で見ると、また少し違って見えた。

 

 「何?」

 

 すぐ気づかれた。

 

 「いや」

 

 「また見てたでしょ」

 

 「……見てた」

 

 今日はもう、誤魔化すのをやめた。

 

 「髪、下ろしてきてくれてよかったなって」

 

 「……何それ」

 

 「似合ってるし」

 

 「朝も聞いた」

 

 「じゃあ二回目」

 

 のどかが一瞬黙って、それから顔を逸らした。

 

 「今日の蓮真、ほんと調子狂う」

 

 「もう慣れてくれよ」

 

 「一日じゃ無理」

 

 でも、少し笑っていた。

 

 駅舎を眺めたあと、行幸通りへ歩く。

 

 広い道の先には丸の内のビル群が並び、植栽の間に灯りが落ちて、昼とは違う静かな雰囲気になっている。

 

 昼間の上野や浅草ほど、人も多くない。

 

 「こっちまで来るの?」

 

 「せっかくだし」

 

 「今日はほんと色々考えてたんだね」

 

 「一応」

 

 「また一応」

 

 「便利なんだよ、その言葉」

 

 「そればっかじゃん」

 

 のどかが笑う。

 

 通り沿いのベンチが空いていた。

 

 「少し座る?」

 

 今度は俺から聞く。

 

 「うん」

 

 二人で腰を下ろす。

 

 正面には東京駅。

 

 ライトアップされた赤レンガが、夜の向こうに見えている。少し離れたところを、何人かが写真を撮りながら歩いていた。

 

 「今日、いっぱい歩いたね」

 

 のどかが言う。

 

 「上野だけでも結構歩いたしな」

 

 「蓮真、疲れてない?」

 

 「大丈夫。のどかは?」

 

 「あたしも平気」

 

 そう答えてから、のどかがバッグの中を探り始めた。

 

 「あ」

 

 その動きを見て、一度目の記憶が蘇る。

 

 俺は知っている。このあとのことを。

 

 でも、知らないふりをする必要もない気がした。もちろん、先に何が出てくるかを口にすることもできない。ただ待った。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「はい」

 

 差し出されたのは、小さな包みだった。落ち着いた色の包装紙。細いリボン。

 

 「誕生日プレゼント」

 

 知っていたはずなのに、胸の奥が温かくなるのは一度目と変わらなかった。

 

 「……ありがとう」

 

 受け取る。

 

 「開けていい?」

 

 「もちろん」

 

 包装を外す。中に入っていたのは、薄型のフラグメントケース。一度目と同じもの。

 

 でも、手の中にあるそれを見ても、もう「同じだから」とは思わなかった。

 

 今、目の前にいるのどかが、俺のために選んで、俺へ渡してくれたものだ。それだけで十分だった。

 

 「蓮真、財布ちょっと大きいじゃん」

 

 のどかが言う。

 

 「大学とかバイトとか、ちょっと出る時ならこっちの方が使いやすいかなって」

 

 「うん」

 

 ケースを手に取って見る。

 

 「たぶん、かなり使うと思う」

 

 「ほんと?」

 

 「うん」

 

 のどかが嬉しそうに笑う。

 

 「よかった」

 

 「ありがとう。大事に使うよ」

 

 言うと、のどかが少しだけ驚いたような顔をした。

 

 「何?」

 

 「いや。今日の蓮真なら、もっと『高かったんじゃない?』とか言うかと思った」

 

 「言おうとはした」

 

 「したんじゃん」

 

 「でも」

 

 手の中のケースを見る。

 

 「のどかがくれたものなんだから、普通に喜べばいいかなって」

 

 自分で口にして、少し恥ずかしくなった。のどかも黙る。

 

 「……うん」

 

 小さく答えた。

 

 「そうして」

 

 春の夜風が、行幸通りを抜けていく。

 

 俺たちはしばらく、並んだまま東京駅を眺めた。今日が、もうすぐ終わる。そのことを考える。でも、今はまだ終わっていない。

 

 「のどか」

 

 「ん?」

 

 「もう少しだけ、歩いていかない?」

 

 言った瞬間、のどかがこちらを見る。

 

 「……蓮真から?」

 

 「今日それ多くない?」

 

 「だって珍しいんだもん」

 

 「じゃあ、嫌ならいいけど」

 

 「嫌なんて言ってないじゃん」

 

 すぐに立ち上がる。

 

 「行こ」

 

 俺も立った。

 

 「どこ?」

 

 「丸の内仲通り。少し歩いて戻ろう」

 

 「ちゃんと考えてんじゃん」

 

 「近いから」

 

 「はいはい」

 

 そう言って、のどかが隣へ来る。

 

 手が近づく。今日は何度も繋いだ。だからもう、理由を考える必要もなかった。

 

 俺から手を取る。

 

 のどかが少しだけ目を丸くした。でも何も言わず、そのまま指を絡めてきた。

 

 丸の内仲通りへ入る。

 

 高層ビルの間に街灯が一定の間隔で並んでいる。

 

 ショーウィンドウの明かり。飲食店から漏れる暖かな光。舗道へ伸びる、二人分の影。

 

 昼間の観光地とは違って、少しだけ時間がゆっくり流れているように感じた。

 

 「なんか、大人っぽいね」

 

 のどかが言う。

 

 「場所が?」

 

 「今日の最後が」

 

 「ああ」

 

 上野動物園でハシビロコウを見ていた数時間後とは思えない。

 

 「昼との落差すごいな」

 

 「ハシビロコウから丸の内だもんね」

 

 「言い方」

 

 のどかが笑う。その声が、夜の通りに少しだけ響く。俺も笑った。

 

 少し歩く。急ぐ必要はなかった。

 

 どこかへ行くためじゃない。ただ、二人で歩いている。それだけ。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「今日、一番どこがよかった?」

 

 「一番?」

 

 「うん」

 

 少し考える。

 

 パンダ。ハシビロコウ。浅草。スカイツリー。マジックアワー。東京駅。どれも楽しかった。

 

 「スカイツリーかな」

 

 「やっぱり?」

 

 「景色もよかったし」

 

 「うん」

 

 そこで止めてもよかった。でも、今日はもう一つだけ。

 

 「のどかが喜んでたから」

 

 そう言った。

 

 隣から返事がなくなる。見ると、のどかが前を向いたまま歩いていた。

 

 「……何」

 

 「今日そればっか」

 

 「何が」

 

 「急にそういうこと言うの」

 

 「思ったから」

 

 自分でも驚くくらい、すんなり言葉が出た。

 

 のどかがこっちを見る。

 

 「……ほんと変わったね」

 

 「そう?」

 

 「ちょっとだけ」

 

 「ちょっとか」

 

 「うん」

 

 少し笑って続ける。

 

 「でも、今くらいがいい」

 

 「今くらい?」

 

 「急に何でも言うようになったら、それはそれで蓮真じゃないし」

 

 「難しい注文だな」

 

 「だから今くらい」

 

 繋いだ手を、少しだけ握られる。俺も握り返した。

 

 通りの先まで歩いて、また東京駅の方へ戻る。夜はもう深くなり始めていた。

 

 そろそろ本当に帰らないといけない。それは分かっている。

 

 でも、さっきまでよりは少しだけ受け入れられた。

 

 今日が終わる。だから、この日がなくなるわけじゃない。

 

 手の中には、のどかからもらったものがある。スマホには、二人で撮った写真がある。

 

 そして、俺の中にも今日の記憶がある。

 

 丸の内駅舎が近づいてくる。

 

 「今日はありがとう」

 

 俺から言った。

 

 「こっちの台詞なんだけど」

 

 「俺の誕生日なのに?」

 

 「だから。楽しんでくれてありがとう」

 

 「……それなら」

 

 少しだけ笑う。

 

 「ちゃんと楽しかったよ」

 

 「うん」

 

 「かなり」

 

 付け加える。

 

 のどかが嬉しそうに笑った。

 

 「じゃあ成功」

 

 「何が?」

 

 「蓮真の誕生日」

 

 「のどかが決めるのかよ」

 

 「あたしが祝ったんだからいいでしょ」

 

 「まあいいけど」

 

 駅の入口が近づく。繋いだ手が離れる時間も近づいている。そう思うと、少しだけ足が遅くなった。

 

 のどかも、それに合わせる。

 

 どちらからともなく立ち止まった。

 

 「蓮真?」

 

 「ん?」

 

 「帰りたくない?」

 

 不意に聞かれる。

 

 「……」

 

 一度目なら、多分否定していた。終電がどうとか、明日がどうとか。何か理由をつけて。

 

 でも今日は……

 

 「……もう少し一緒にいたいとは思ってる」

 

 言った。

 

 のどかが目を丸くする。言ってから、少し恥ずかしくなる。

 

 「でも、帰らないとな」

 

 「……うん」

 

 のどかが笑った。

 

 「それでいいよ」

 

 「何が」

 

 「蓮真がそう思ってくれたなら」

 

 繋いだ手が、もう一度強くなる。俺も握り返す。

 

 「また来よう」

 

 今度は俺から言った。

 

 「丸の内?」

 

 「ここでもいいし、別のところでも」

 

 「……うん」

 

 のどかの声が柔らかくなる。

 

 「また行こう」

 

 東京駅の灯りが、俺たちを照らしていた。

 

 一度目にも見た夜。

 

 でも今日は、一度目には歩かなかった道を歩いた。一度目には言わなかったことを言った。

 

 そして、まだ知らない次の約束をした。

 

 今日が終わることは、やっぱり少しだけ怖い。

 

 それでも、終わった先にもまた二人で出かける日がある。

 

 今は、そう思えることが少しだけ嬉しかった。

 

 三月二十二日

 

 昨日の夜、目黒の実家から藤沢の家へ戻った。

 

 昼からはファミレスのバイトが入っている。

 

 玄関でスニーカーを履き、ポケットの中のスマホを確認する。時刻にはまだ余裕があった。

 

 その時、通知が届いた。

 

 LINEのグループチャット。

 

 《きっしー観察会》

 

 この名前にも、もうだいぶ慣れてしまった。

 

 観察する側だったはずの俺が、どうして観察対象になっているのかという疑問だけは残っているけれど。

 

 グループを開く。

 

 《きっしー、のどか、二十五日は小田原駅に十時ね!》

 

 卯月だった。

 

 「……やっぱり来たか」

 

 一度目の三月でも見たメッセージ。

 

 三月二十五日。三人で桜を見に行く。

 

 俺とのどかが付き合い始めた記念だとか、春のお出かけだとか、卯月はいろいろ理由をつけていたけれど、要するに俺たちのデートへ堂々と同行するつもりらしい。

 

 続けて届く。

 

 《目的地は、伊豆!》

 

 《伊豆かよ》

 

 知っていたのに、同じ返信をしてしまった。

 

 少し遅れて、のどかも反応する。

 

 《卯月のお母さん、ほんとに車出してくれるんだ》

 

 《うん!》

 

 《お母さん曰くスキャンダル対策だって!》

 

 《……まあ、そりゃそうだよな》

 

 スイートバレットのメンバー二人と、一般人の男一人。電車で長時間移動して観光地を歩き回れば、誰かに写真を撮られる可能性もある。

 

 特に今は、俺とのどかが付き合い始めたばかりだ。

 

 交際を公表しているわけでもない以上、慎重になるに越したことはない。

 

 そんな俺の考えなど知らないように、卯月は続けた。

 

 《のどかときっしーの写真いっぱい撮るね!》

 

 《カップル成立記念!》

 

 《卯月!》

 

 間髪入れず、のどかのつっこみが入る。

 

 そのやり取りを見て、少しだけ笑った。

 

 二度目でも卯月は卯月だった。

 

 二月二十七日。

 

 俺は卯月を振った。

 

 卯月の気持ちを受け取った上で、それでも、のどかを選んだ。

 

 それから卯月は、親友第一号になると宣言した。

 

 一度目の三月でも、こうして俺とのどかの間へ平然と入ってきた。

 

 そして今も同じように笑っている。

 

 少なくとも、表面上は。

 

 全部を乗り越えたなんて思わない。それでも、俺たちとの時間そのものをなくそうとはしていない。

 

 そのことは、やっぱり嬉しかった。

 

 スマホを見ながら玄関を出る。

 

 一度目は、このあと考え事を始めて玄関に立ち尽くし、危うくバイトに遅刻しかけた。

 

 同じ失敗まで繰り返す必要はない。

 

 鍵を閉め、駅へ向かって歩き始める。

 

 その途中で、またスマホが震えた。

 

 《あ、そうだ蓮真》

 

 のどか。

 

 《四月一日、横浜のホールでライブあるから来てね》

 

 《そうだったな》

 

 返信する。

 

 そこまでは一度目と同じ。

 

 そしてやっぱり、同じ疑問が浮かんだ。

 

 四月一日のライブ。

 

 その予定を初めて知ったのは、クリスマスイブの夜だった。

 

 俺と麻衣先輩以外の多くの人間が、現実としか思えない夢を見た。

 

 未来の夢。

 

 正確には、あり得たかもしれない可能性の世界。

 

 赤城はそう考えていた。

 

 別の世界にいる自分が見ている景色を、こちら側の人間が夢として観測する。

 

 のどかや卯月が見た四月一日のライブも、その一つだった。

 

 そして俺は、その夢を見なかった。

 

 一度目の三月でも考えたことだ。

 

 でも今は、一度目とは状況が違う。

 

 俺自身が、現在進行形で思春期症候群に罹っている。

 

 三月三十一日を迎えると、三月一日に戻る。

 

 今歩いているこの三月二十二日も、本当なら一度終わった日だ。

 

 しかも、一度目と全く同じではない。

 

 三月二十日には、のどかと一度目には見なかった夕暮れを見た。

 

 言わなかったことを言った。

 

 歩かなかった場所を歩いた。

 

 行動を変えれば、相手の反応も変わる。

 

 だから少なくとも俺にとって、今起きていることは単なる記憶の再生ではない。

 

 そう思う。

 

 それでも……これを他人に証明する方法は、やっぱりない。

 

 「……夢を見なかった理由か」

 

 歩きながら、小さく呟いた。

 

 一度目に考えた仮説は二つ。

 

 一つ目。

 

 俺が、どこかの可能性の世界で死んでいる。

 

 未来で死んでいる人間は、その先を夢として見ることができない。

 

 麻衣先輩が夢を見なかった理由についても、似た説明ができる。

 

 二月四日。

 

 辻堂で行われた一日警察署長のイベント。

 

 咲太が間に合わなければ、麻衣先輩は事故に巻き込まれていた可能性がある。

 

 もし夢の中の未来で麻衣先輩が死んでいたのなら、その先を観測する麻衣先輩自身が存在しない。

 

 福山の北海道時代の友人もそうだった。

 

 一月の交通事故で亡くなった。

 

 未来で存在しなくなる人間は、未来の夢を見ない。

 

 少なくとも、今まで聞いた話とは矛盾しない。

 

 そして俺にも、心当たりがないわけじゃない。

 

 中学一年の春。

 

 同じ三月を繰り返していた俺は、一度、生きることをやめようとした。

 

 俺にだって、死んでいた可能性はある。

 

 今こうして歩いている俺とは違う世界で、本当に死んでいる俺がいる。

 

 そう考えることはできる。

 

 「……考えたくはないけど」

 

 自然と歩く速度が少しだけ落ちた。

 

 でも、一度目よりは落ち着いて考えられる。

 

 自分が死んでいる可能性なんて、以前ならそこで思考を止めていた。

 

 今は少なくとも、仮説として並べることくらいはできる。

 

 二つ目。

 

 俺だけが、夢を見る条件から外れている。

 

 可能性の世界を観測する仕組みの中で、俺だけが別の位置にいる。

 

 その仮説を考えると、双葉に言われたことを思い出す。

 

 古賀の思春期症候群。

 

 未来をシミュレーションするという現象。

 

 そのどの未来にも、俺はいなかったという話。

 

 なのに現実では古賀と出会い、行動している。

 

 双葉は俺を、トランプのジョーカーに例えた。

 

 最初から山札に含まれていない札。

 

 計算で辿れる未来の中に固定されていない存在。

 

 特異点。

 

 そして今……俺自身は、三月を繰り返している。

 

 古賀の現象とは似ている。

 

 でも同じじゃない。

 

 古賀は未来を予測し、その結果を変えるために時間を繰り返した。

 

 俺は、終わることそのものを恐れて、時間を戻している。

 

 少なくとも今は、そう考えている。

 

 「……俺自身が観測する側だから、他の観測に引っかからない?」

 

 口にしてみる。

 

 それなら、クリスマスの夢を見なかったことにも説明はつくかもしれない。

 

 でもやっぱり、証拠はない。

 

 そして今なら、もう一つ考えられる。

 

 三つ目。

 

 「……俺が思春期症候群に罹ってるから?」

 

 歩きながら、自分で言った言葉を頭の中で転がす。

 

 夢を見る現象と、別の思春期症候群が同時には成立しない。

 

 一人の人間がすでに別の異常な観測状態にある場合、可能性世界の夢を見る側には回らない。

 

 そんなルールがあるとしたら。

 

 俺が夢を見なかった理由にもなる。

 

 今こうして三月を繰り返している以上、少なくとも俺には思春期症候群がある。

 

 中学時代に一度終わったと思っていただけで、本当は完全には消えていなかった。

 

 あるいは、クリスマスの時点ですでに何かが始まっていた。

 

 そう考えることもできる。

 

 それに……

 

 「岩見沢先輩も、夢を見なかったんだよな」

 

 周囲から岩見沢寧々として認識されなくなり、自分自身も霧島透子を名乗るようになった岩見沢先輩。

 

 彼女も、あのクリスマスイブに未来の夢を見なかったらしい。

 

 あの時点で岩見沢先輩は、明らかに思春期症候群の最中にいた。

 

 だったら。発症中の人間は、別の可能性世界を夢として観測できない。

 

 そう考えれば、一応筋は通る。

 

 「……いや」

 

 すぐに自分で否定する。

 

 それなら、麻衣先輩はどうなる。

 

 麻衣先輩も夢を見なかった。

 

 でも、クリスマスイブの時点で麻衣先輩が何か別の思春期症候群を発症していたという話は聞いていない。

 

 過去に周囲から認識されなくなったことはある。

 

 けれど、それは高校二年の時だ。

 

 クリスマスの時点でもまだ何かが続いていたと考えるには、材料がなさすぎる。

 

 俺と岩見沢先輩。

 

 二人だけなら、それらしく見える。

 

 麻衣先輩を加えた瞬間、かなり怪しくなる。

 

 「サンプル三人で法則作るなって、双葉に怒られそうだな」

 

 自分で言って、少し笑った。

 

 結局。

 

 一つ目。

 

 どこかの未来で俺が死んでいる。

 

 二つ目。

 

 俺が可能性世界の予測から外れた特異点だから。

 

 三つ目。

 

 別の思春期症候群を抱えている人間は、夢を見る側になれない。

 

 三つとも、それなりに説明はできる。

 

 三つとも、決定的な証拠はない。

 

 三つが完全に別々の理由とも限らない。

 

 そい思うことにする。

 

 しかも今の俺には、もう一つ厄介な問題がある。

 

 俺がこの三月を繰り返していること自体。

 

 なぜ起きているのか、その仕組みを理解できていない。

 

 中学時代と似ているから、同じ現象だと思っているだけだ。

 

 でも、本当に同じなのか。

 

 一度目の三月と二度目の三月で、違う行動を取れば違う結果になる。

 

 なら、この世界は何なんだ。

 

 時間そのものが巻き戻っているのか。

 

 別の可能性世界へ移っているのか。

 

 俺が未来をシミュレーションしているだけなのか。

 

 あるいは、この三月そのものが固定されているのか。

 

 「……分からないな」

 

 駅が見えてきた。

 

 一度目は玄関でここまで考えて、時間を忘れた。

 

 今回は歩きながら考えている。

 

 少なくとも、その程度には二度目を有効活用できているらしい。

 

 スマホが震える。

 

 《ちゃんと来てよ、蓮真》

 

 《そうだよ!きっしー!》

 

 のどかと卯月だった。

 

 考え込んでいる間に、さっきの会話を少し放置していたらしい。

 

 《分かった。行くよ》

 

 返す。

 

 すぐに卯月から桜のスタンプ。

 

 のどかからは《よし》と返ってきた。

 

 それを見ると、頭の中に並んでいた仮説が少し遠ざかった。

 

 三月二十五日は伊豆。

 

 四月一日は横浜。

 

 今の俺には、予定がある。

 

 未来の予定。

 

 そのことが、以前より少しだけ嬉しい。

 

 でも同時に、胸の奥に小さな引っ掛かりが残る。

 

 四月一日。

 

 その日は、本当に来るのだろうか。

 

 今いる三月が終われば。

 

 俺はまた、三月一日に戻る。

 

 少なくとも一度目は、そうなった。

 

 なら今届いたライブの誘いも。

 

 三月二十五日の伊豆も。

 

 俺が楽しみにしている予定も。

 

 全部、もう一度、なかったことになる可能性がある。

 

 ポケットの中のスマホへ触れる。

 

 三月二十日に撮った、のどかとの写真が入っている。

 

 丸の内を歩いた記憶もある。

 

 のどかからもらったフラグメントケースもある。

 

 今は、ちゃんと存在している。

 

 それなのに……終われば消えるかもしれない。

 

 「……」

 

 一瞬だけ、足が止まりそうになる。

 

 でも止めなかった。

 

 一度目と同じように、考え込んでその場に立ち尽くすのはやめる。

 

 分からないことは、今すぐ答えを出さなくてもいい。

 

 少なくとも、今日のバイトに遅刻する理由にはならない。

 

 駅へ入る前に時刻を確認する。

 

 まだ余裕がある。

 

 「……よし」

 

 一度目より、十分ほど早い。

 

 可能性世界。

 

 特異点。

 

 思春期症候群。

 

 自分が死んでいるかもしれない世界。

 

 そんなことを考えながらも。

 

 今の俺が気にするべきなのは、まず目の前のシフトだった。

 

 夢を見なかった理由は、まだ分からない。

 

 でも今の俺はもう、夢を見なかった側というだけじゃない。

 

 自分自身で、現実ではないかもしれない三月を、二度目まで見ている。

 

 その事実だけは、もうなかったことにはできなかった。

 

 ファミレスに着くと、見慣れた後ろ姿が目に入った。

 

 「咲太」

 

 名前を呼ぶと、裏口のドアへ手をかけていた咲太が振り返る。

 

 「岸和田か」

 

 「今来た?」

 

 「見れば分かるだろ」

 

 「まあ」

 

 スマホを見る。シフト開始まではまだ数分あった。一度目より早い。玄関で考え込まず、歩きながら整理した意味はあったらしい。

 

 「珍しいな」

 

 咲太が言う。

 

 「何が」

 

 「岸和田と僕が同時に来るなんて」

 

 「同じシフトなんだから、たまにはあるだろ」

 

 「豊浜とのデート帰りで寝坊したのかと思った」

 

 「してねえよ」

 

 反射的に返すと、咲太の口元が少しだけ上がった。

 

 「否定が早いな」

 

 「昨日は普通に実家から藤沢へ戻った」

 

 「誰も昨日とは言ってないけどな」

 

 「……」

 

 「分かりやすいな、岸和田」

 

 「うるさい」

 

 そんなことを言いながら、二人で休憩室へ入る。

 

 ロッカーを開け、制服へ着替える。俺はシャツのボタンを留めながら、隣にいる咲太を見た。

 

 今日は二人きりだった。

 

 三月十四日、のどかの誕生日に思春期症候群のことを考えた時とは違う。

 

 目の前には、咲太しかいない。相談するなら、今なのかもしれない。

 

 俺は三月を繰り返している。三月三十一日を迎えると、三月一日に戻る。一度目にはなかったことも起きている。

 

 それに、クリスマスイブの夢。俺だけが見なかった理由。今朝考えた三つの仮説。話したいことはいくらでもあった。

 

 それだけじゃない……

 

 牧之原さん。三月三日に会った、不思議な女の子。

 

 あの人のことも、咲太なら何か知っているかもしれない。

 

 高二の頃から、高三になった今までの咲太とのやり取りを見ていれば、二人の間に何かあるのだろうとは思っている。

 

 理由を説明できるわけじゃない。ただ、咲太と牧之原さんの間には、俺の知らない繋がりがある。そんな気がしていた。

 

 「……咲太」

 

 「なんだ?」

 

 名札をつけていた咲太がこちらを見る。

 

 言えばいい。少なくともこいつなら、思春期症候群だと言って笑うことはない。

 

 むしろ、信じる側の人間だ。それなのに、俺は言葉を飲み込んだ。

 

 「……いや。なんでもない」

 

 「そうか」

 

 咲太はそれ以上聞かなかった。

 

 こういう時、聞かないことが優しさになる人間もいる。こいつは、多分そういう奴だ。

 

 だから余計に、言えなかった。

 

 まだ証明できるものが何もない。二度目の三月を経験しているのは、今のところ俺だけだ。

 

 俺自身ですら、これが本当に時間のループなのか、別の可能性世界なのか分かっていない。 

 

 そんなものへ咲太まで巻き込むのは、もう少し整理してからでいい。

 

 そう思った。たぶん、また一人で考える理由を作っただけなのかもしれないけれど。

 

 「岸和田」

 

 「ん?」

 

 「あと二分だぞ」

 

 時計を見る。

 

 「分かってる」

 

 「なら早く着替えろ」

 

 「お前もまだエプロンしてないだろ」

 

 「僕は間に合う」

 

 「俺も間に合うよ」

 

 結局、二人ほとんど同時に準備を終えた。

 

 休憩室を出る。客席側からは、食器の触れ合う音と、子どもの笑い声が聞こえていた。

 

 可能性世界。思春期症候群。牧之原さん。

 

 今はまだ、どれも答えが出ない。

 

 それでもタイムカードを切れば、目の前にはいつもの現実がある。注文を取って、料理を運んで、空いた皿を下げる。

 

 少なくとも今この瞬間、俺はいつものファミレスで咲太と働いていた。

 

 夕方になると、昼間の忙しさが嘘みたいに客足が落ち着いた。

 

 ランチの時間帯には家族連れや学生で埋まっていた客席も、今は半分以上が空いている。

 

 俺はドリンクバー周辺を軽く拭きながら、欠伸を噛み殺した。

 

 その時、入口のチャイムが鳴った。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 反射的に顔を上げる。入ってきた客を見て、少しだけ目を瞬かせた。

 

 「……赤城?」

 

 「こんにちは。岸和田くん」

 

 赤城郁実だった。

 

 大学へ行く時にも使っている鞄を肩に掛け、いつもの落ち着いた表情で立っている。

 

 ここへ来ることは知っていた。一度目と同じなら。

 

 「一人?」

 

 それでも、同じように聞く。

 

 「うん。少し早いけど、夜ご飯にしようと思って」

 

 赤城はそう答えてから、店内へ視線を向けた。

 

 「それと、岸和田くんと梓川くんに話したいことがあって」

 

 やっぱり。

 

 「……とりあえず、席案内するよ」

 

 「お願い」

 

 窓際の席へ案内する。メニューを開いた赤城は、それほど迷わず顔を上げた。

 

 「濃厚カルボナーラで」

 

 「早いな」

 

 「前にも食べたから」

 

 「そうだったな」

 

 言ってから、少しだけ間が空く。赤城が俺を見る。

 

 「そうだったな?」

 

 「……前に来た時、食べてた気がしただけ」

 

 「そう?」

 

 「うん」

 

 危ない。

 

 二度目だから知っている情報と、元々知っていた情報が少しずつ混ざり始めている。

 

 端末へ注文を入力し、厨房へ送る。

 

 「それで」

 

 俺は赤城を見る。

 

 「三十一日のボランティアの打ち合わせの話だろ?」

 

 赤城が少しだけ目を丸くした。

 

 「覚えてたんだ」

 

 「前回決まってただろ」

 

 新しく入る学生の受け入れ方。学習支援に来ている子どもたちの状況共有。保護者への説明。学校との距離感。

 

 来年度へ向けて整理することはいくつもある。

 

 「友部さんから、支援記録の様式案も見ておいてほしいって言われてたし」

 

 「うん。その確認も含めて、三十一日に一度ちゃんと話したいの」

 

 「分かった。予定は空いてる」

 

 「ありがとう」

 

 赤城は小さく頷く。それから、一度目と同じように少し間を置いた。

 

 「それと、来年度のこと」

 

 「福浦?」

 

 今度は、赤城がはっきり目を丸くした。

 

 「……岸和田くん、今日すごく察しがいいね」

 

 「看護学科なら二年からそっちが増えるんだろ」

 

 「そうだけど」

 

 少し怪しまれた気がする。

 

 「前に聞いた気がしたから」

 

 「私、話したっけ?」

 

 「……どこかで」

 

 曖昧に返す。

 

 二度目は便利だけど、知りすぎているのも、それはそれで面倒だった。

 

 赤城はまだ少し不思議そうにしていたものの、それ以上追及しなかった。

 

 「二年になると福浦キャンパスでの授業が増えるし、看護実習も始まるから。今までみたいに毎回来るのは難しくなると思う」

 

 「ああ」

 

 「それで友部さんから、来年度は岸和田くんと友部さんを中心に場を回していけないかって」

 

 「俺もまだ一年しかやってないんだけどな」

 

 「私も一年だよ」

 

 「赤城と俺を同列にするなよ」

 

 「どういう意味?」

 

 その時。

 

 「濃厚カルボナーラです」

 

 咲太が料理を載せたトレーを持ってきた。赤城の前へ皿を置く。

 

 「ありがとう、梓川くん」

 

 「岸和田が四月から偉くなる話か?」

 

 「ならない」

 

 「子どもたちから先生と呼ばれるくらいには偉いだろ」

 

 「それはもう呼ばれてる」

 

 「じゃあ出世済みだな」

 

 「何の役職だよ」

 

 咲太は満足そうに軽く笑った。赤城もそれを見て、少しだけ笑う。

 

 「友部さんと一緒に、だから」

 

 「それでも十分だろ」

 

 咲太が言う。

 

 「岸和田は自分が思ってるより、人に頼られてるみたいだしな」

 

 「余計な分析するな」

 

 返すと、咲太は軽く肩をすくめた。

 

 赤城がフォークを手に取る。そして、話を切り替えた。

 

 「それで、梓川くんにも話があるの」

 

 「僕に?」

 

 「うん」

 

 ここからだ。一度目の記憶が自然と浮かんでくる。

 

 赤城は一度だけ周囲を見る。客は少なく、近くの席にも人はいなかった。それを確認してから、声を少し落とす。

 

 「梓川くん。クリスマスイブの夢、覚えてる?」

 

 その言葉に、改めて意識が赤城へ向いた。

 

 「……ああ」

 

 咲太が静かに答える。

 

 「麻衣さんが横浜のステージで、自分が霧島透子だってカミングアウトしてた夢だろ」

 

 そして、咲太は赤城を見る。

 

 「そこに赤城もいたんだよな」

 

 「うん」

 

 赤城は頷いた。

 

 「夢の中で、梓川くんから急に電話がかかってきたの。横浜駅で会えないかって。私に頼みたいことがあるみたいだった」

 

 「でも、こっちの咲太はスマホ持ってない」

 

 俺が言う。

 

 「うん」

 

 赤城がこちらを見る。

 

 「だから完全な正夢とは言えない」

 

 咲太が続けた。

 

 「可能性の世界がそのまま現実になるわけじゃない、ってことか」

 

 可能性の世界。その言葉に、今朝まで考えていたことが頭の中へ戻ってくる。

 

 別の可能性の俺。

 

 死んでいるかもしれない俺。

 

 古賀のシミュレーションに存在しなかった俺。

 

 そして、今繰り返している三月。

 

 中学一年の春も、本当に時間を巻き戻していたのか。それとも、そのたびに別の可能性を選び直していたのか。

 

 ふと、ノートのことを思い出した。

 

 中学一年の春。俺が三月を繰り返すたびにつけていた、記録ノートだ。

 

 感情はできるだけ書かず、起きたことだけを記録した。授業の進み方。

 

 まだ習っていない英語構文。教科書の巻末に載っていた統計。その日に起きる出来事。

 

 何度目の三月で、何が変わったのか。俺自身が忘れないために残した記録。

 

 一度目の今頃は、あのノートを改めて読み返そうとは思わなかった。

 

 昔のことをわざわざ掘り返したくなかったから。

 

 でも、今は違う。同じ現象が、もう一度起きている。それなら、昔の俺が残したものに、今の俺が見落としている何かがあるかもしれない。

 

 「……明日、読んでみるか」

 

 小さく呟く。

 

 「何を?」

 

 赤城が聞く。

 

 「いや。昔のノート」

 

 「ノート?」

 

 「中学の頃につけてたやつ」

 

 それ以上は言わなかった。赤城は少し不思議そうな顔をしたけれど、咲太は何も聞かなかった。

 

 また、聞かれなかった。そして俺も、自分から話さなかった。

 

 「それで」

 

 赤城が話を戻す。

 

 「だから今日、梓川くんにお願いしに来たの」

 

 「僕に?」

 

 「四月一日に、桜島さんが出る音楽フェスに一緒に行かない?」

 

 咲太が少しだけ目を細める。

 

 「わざわざ見に行くのは、いかにも赤城らしいな」

 

 「だって、もし夢と同じことになった時、私が側にいなくて困るのは梓川くんでしょ?」

 

 「……」

 

 「こっちの梓川くんはスマホ、持ってないし」

 

 確かに。

 

 夢の中の咲太は、赤城へ電話をかけた。今の咲太には、それができない。

 

 「それに」

 

 赤城は少しだけ表情を和らげる。

 

 「梓川くんも、夢と同じにならないか心配ではあるでしょ?」

 

 咲太はすぐには答えなかった。

 

 「僕は麻衣さんから聞いてる」

 

 「何を?」

 

 「四月一日のステージで、『私は霧島透子ではありません』って否定するって」

 

 咲太は静かに言う。

 

 「だから、夢と同じにはならないと思う」

 

 「……うん」

 

 「でも」

 

 咲太は赤城を見る。

 

 「赤城が心配してくれるなら行くよ」

 

 赤城の表情が少しだけ明るくなった。

 

 「ありがとう、梓川くん」

 

 そのやり取りを聞きながら、俺は別のところへ意識を引かれていた。

 

 霧島透子。その名前。三月二十日、上野動物園でレッサーパンダを見た時に浮かんだ景色。

 

 春の日差し。坂道。木の匂い。日本平。

 

 そして……

 

 ——はすまくん、こっち。

 

 また、胸の奥がざわつく。

 

 麻衣先輩は霧島透子じゃない。それは分かる。

 

 一度目にも、そう思った。

 

 麻衣先輩とのどかは一緒に暮らしている。

 

 もし麻衣先輩が霧島透子として曲を作り、歌い、ネットへ公開していたなら、のどかが何も気づかないとは考えにくい。

 

 歌声、生活時間、機材。何かしら違和感があるはずだ。

 

 でも、俺が麻衣先輩ではないと思う理由は、それだけじゃない。もっと、ずっと根本的なところで、知っている気がする。

 

 霧島透子という名前を……

 

 その名前の向こうにいる誰かを……

 

 「……岸和田?」

 

 咲太の声で我に返る。

 

 「ん?」

 

 「さっきから変だぞ」

 

 「ああ。悪い」

 

 「何か知ってるのか?」

 

 咲太が聞く。

 

 今度こそ、話す機会だった。

 

 霧島透子。牧之原さん。二度目の三月。中学時代のノート。全部が、どこかで繋がっているかもしれない。

 

 「……いや」

 

 それでも、首を横へ振った。

 

 「まだ、何も」

 

 嘘ではなかった。俺自身、本当に何も分かっていない。

 

 ただ、明日、中学時代のノートを読み返してみよう。一度目にはしなかったこと。二度目だから思いついたこと。

 

 そこに答えがあるとは思わない。

 

 それでも、今まで避け続けてきた、自分自身の三月だ。

 

 今の三月を理解するためには、ちゃんと振り返ってみてもいいのかもしれない。

 

 「岸和田くん、大丈夫?」

 

 赤城が心配そうに聞く。

 

 「ああ」

 

 頷く。

 

 「ちょっと昔のこと思い出してただけ」

 

 「昔?」

 

 「中学の頃」

 

 咲太が少しだけこちらを見る。その視線には気づいた。でも、今はそれ以上言わなかった。

 

 霧島透子という名前を聞くたびに浮かぶ、知らないはずの懐かしさ。高二の頃から高三の今まで、咲太と牧之原さんの間にあると感じてきた、俺の知らない何か。

 

 可能性の世界。そして、俺自身が残した、昔の記録。

 

 分からないことは増えている。それでも、一度目とは違う。

 

 今回は、分からないまま、何もしないつもりはなかった。

 




物語解説

今回は、二度目の三月二十日を迎えた蓮真が、一度目にはできなかったことを自分から選び、過去にも目を向け始める回でした。

訪れた場所は同じでも、蓮真の行動は変わっています。

のどかに「似合ってる」と伝え、人混みでは自分から手を取り、誕生日を祝ってもらうことを素直に喜び、さらに、のどかに見せたい景色のために日没時刻を調べ、東京駅では「もう少し一緒にいたい」と自分から伝えました。

一度目は今日が終わることを恐れていた蓮真が、二度目では、その先にも時間が続いてほしいと思い始めています。

一方で、伊豆や横浜を楽しみにするほど、それらが三月一日に戻れば消えてしまうのではないかという不安も生まれています。

三月二十二日には、クリスマスイブに見た「可能性の世界の夢」についても考えます。

なぜ自分は夢を見なかったのか。思春期症候群の影響なのか、それとも可能性世界の中で特異な存在だからなのか。

まだ答えは出ていません。

ただ、郁実との会話をきっかけに、蓮真は中学一年の春に残した記録ノートを思い出します。

一度目は過去を振り返ることを避けていましたが、今回は、三月を繰り返していた当時の記録を自分から確かめようとしています。それらは少しずつ、蓮真の過去へ近づいています。

一度目は分からないことを遠ざけていた蓮真が、二度目では、自分から向き合おうとしています。

次回は、中学時代の記録ノートに触れる予定です。

そこには、現在の三月へ繋がる出来事が残されているのか。そして、今の三月と過去の三月は、本当に同じものなのか。

引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
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