青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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11.選ばなかった春の、記録を見つめる

 

 三月二十三日

 

 目を覚ました時、カーテンの隙間から入る光はもうだいぶ明るかった。

 

 スマホを見ると、午前九時十三分だった。今日はバイトもない。

 

 大学も春休みで、特に急いで出かける予定もなかったから、そのままもう一度寝ようと思えば寝られた。

 

 でも、昨夜からずっと頭の片隅に残っているものがあった。

 

 中学一年の春、俺が何度も三月を繰り返していた頃に使っていた、記録ノートだ。

 

 布団から起き上がり、顔を洗って簡単に朝食を済ませてから机の前へ座る。

 

 引き出しを開け、奥に入れていたファイルをどける。大学の書類、高校時代のプリント、古いタブレット。

 

 そのさらに下に、ノートがあった。

 

 「……あった」

 

 ノートを取り出す。端が少し潰れている。何度も開いたせいなのか、表紙も新品の頃より柔らかくなっていた。

 

 中学一年生。もう六年近く前になる。

 

 なのに、手に取った瞬間、指先だけが妙に覚えている気がした。

 

 この重さ。紙のざらつき。ページを捲る時の音。

 

 机の上へ置く。でも、すぐには開けなかった。

 

 昨日までは読むつもりだった。読めば何か分かるかもしれないと思っていた。

 

 今の三月を理解する手掛かり。クリスマスイブに俺だけが未来の夢を見なかった理由。牧之原さん。霧島透子。全部ではなくても、何か一つくらい。

 

 でも、こうして目の前に置くと少し違う。

 

 手掛かりを探すというより、昔の自分を掘り返すような感じがした。それが嫌で、ずっと開かなかったのかもしれない。

 

 「……今さらか」

 

 小さく呟く。

 

 今はもう、三月を二回目まで生きている。逃げたところで、向こうから追いついてくる。

 

 表紙を開いた。

 

 最初の数ページには、日付と短い文章が並んでいた。今よりずっと幼い字。でも、間違いなく俺の字だった。

 

 三月一日。天気。授業。担任から言われたこと。父親が何時頃に帰ってきたか。テレビで流れていたニュース。スーパーで卵がいくらだったか。そんなものまで書いてある。

 

 「……細かすぎるだろ」

 

 思わず呟いた。中学生の俺に言っても仕方がない。

 

 でも、ページを進めるにつれて、その細かさの理由を少しずつ思い出した。

 

 最初から記録するために書いていたわけじゃない。

 

 最初の三月。俺はまだ、何が起きているのか分かっていなかった。

 

 母が亡くなってから二年。

 

 東京の私立中学へ進学したものの、学校の空気にも人間関係にも馴染めず、二学期の終わり頃には学校へ行けなくなりかけていた。

 

 そして父親は、俺の環境を変えることを決めた。東京を離れ、横浜市内の公立中学へ転校する。

 

 俺はそれを、当時は父親から捨てられたように感じていた。

 

 それでも時間だけは進んだ。三月三十一日まで。

 

 そして次に目を覚ますと、三月一日だった。

 

 最初は夢だと思った。時計が壊れたのかとも思った。

 

 スマホの日付を確認した。

 

 テレビも、新聞も確認した。全部、三月一日だった。

 

 一度目と二度目は、ほとんど同じだった。

 

 体育で誰が転ぶのか。授業で誰が当てられるのか。帰り道で誰とすれ違うのか。先に知っている。ただそれだけだった。

 

 だから最初は、ひどく現実感のある夢か、長いデジャブみたいなものだと思っていた。

 

 でも、三度目くらいから少しずつおかしくなった。

 

 ページを捲る。同じ日付が、何度も出てくる。

 

 ——三月四日。学校へ行かなかった。

 

 その数ページ先。

 

 ——三月四日。学校へ行った。

 

 さらにその横には、小さく「前回は行かなかった」と書かれていた。

 

 そこから、記憶が少しずつ戻ってくる。

 

 一度目の三月で、俺は学校へ行かなかった。

 

 二度目では、結果を知っているから、少しだけ行動を変えてみた。学校へ行った。

 

 それだけなら、俺が過去を知っていることで違う未来になっただけだと思えた。

 

 でも、その次の三月。朝起きると、俺が覚えていない出来事が残っていた。

 

 机の上には、学校で配られたプリントが置かれていた。

 

 俺は受け取った記憶がない。担任からも、「昨日は来られたんだから」と声を掛けられた。

 

 俺が覚えている前の三月では、その日は学校へ行っていない。なのに、この三月では、俺は学校へ行ったことになっていた。

 

 最初は自分の記憶を疑った。でも、似たようなことが何度も起きた。

 

 教室まで行った世界。保健室まで行って帰った世界。校門まで来たけれど中へ入らなかった世界。最初から外へ出なかった世界。

 

 俺が一度選んだ行動。選ばなかった行動。それが次の三月へ、少しずつ入り込んでいた。

 

 「……選ばなかった可能性」

 

 今ならそう呼べる。当時の俺には、そんな整理はできなかった。ただ怖かった。

 

 自分がやっていないことを、自分がやったこととして周りが覚えている。昨日までなかったものが部屋にある。逆に、確かにあった出来事が消えている。

 

 繰り返しているはずなのに、同じ三月ではない。何かを選ぶたびに、選ばなかった方の三月が消えるわけじゃない。

 

 どこかに残っていて、次の三月へ干渉してくる。そんな感覚だった。

 

 さらにページを捲る。

 

 ——三月十一日。担任と面談。転校について話す。

 

 その先。

 

 ——三月十一日。担任と面談。転校の話は出なかった。

 

 さらに……

 

 ——転校は決まっていない。

 

 その一行を見て、指が止まった。

 

 覚えている。

 

 最初は、小さな違いばかりだった。

 

 学校へ行ったか。行かなかったか。誰かに話しかけたか。黙ったか。

 

 でも繰り返すほど、違いは大きくなった。

 

 ある三月では、転校の準備をしていた。ある三月では、まだ何も決まっていなかった。

 

 ある三月では、父親とほとんど口を利いていなかった。別の三月では、夕食を一緒に食べていた。

 

 ある三月では、普通に教室へ通っていた。誰も俺を腫れ物みたいに扱わない。俺自身だけが、自分が一度学校へ行けなくなったことを覚えていた。

 

 もう、一つの三月を何度も繰り返しているという感覚ではなかった。

 

 違う可能性の三月へ行って、そこでまた別の選択をして、選ばなかった可能性が次の世界へ入り込む。そんなことを、何度も繰り返していた。

 

 あの時、学校へ行っていれば。あの時、父親へちゃんと話していれば。あの時、黙らずにいれば。別の方を選んでいれば。

 

 考えたことが、世界になる。

 

 でも、その世界も三月三十一日を越えられない。どれだけ良い世界でも、どれだけ悪い世界でも、三月が終わるとまた別の三月が始まる。

 

 ノートの途中から、書き方が変わっている。

 

 三月七日。雨。午前七時十二分。ニュースの内容。数学の授業。英語の教科書。夕食。父の帰宅時刻。

 

 事実だけ。

 

 「……ここからか」

 

 ノートを使い始めた理由。それだけは、今でもよく思い出せない。ただ、使い方なら覚えている。

 

 最初は普通に気持ちも書いていた。怖い。寂しい。今日は少し楽だった。明日は学校へ行ける気がする。そんなことも。

 

 でも、次の三月になると、その部分だけが変わった。文章そのものが全部消えるわけじゃない。意味だけが削られる。

 

 空が寂しく見えた、と書いたはずの文章は、次に読むと「薄曇りだった」という事実だけになっていた。

 

 嬉しかった。怖かった。安心した。腹が立った。そういうものは、世界が変わるたびに落ちていく。

 

 最後まで残ったのは、何時、どこ、誰、何が起きた、何を言われた、そんな冷たい記録だけだった。

 

 だから俺も、最初から感情を書かなくなった。どうせ消えるから。出来事だけを書いた。

 

 未来の自分が、次の三月で困らないように。

 

 まだ習っていない問題の答え。授業の進度。起きるニュース。誰が何日に何を言うか。それだけでも、何も分からないよりはましだった。

 

 今なら分かる。たぶん俺は、生き延びるために記録していた。

 

 ページを捲る。そこで、指が止まった。

 

 ——三月六日。女の子の夢。

 

 それだけ。

 

 「……女の子?」

 

 自分で書いたはずなのに、誰のことか分からない。その下には「夢で話した」とある。

 

 その次。

 

 ——三月九日。女の子。また夢で会った。

 

 さらにページを進める。

 

 ——三月十二日。女の子。「会いたい」と言った。

 

 胸の奥が、わずかに痛んだ。

 

 “会いたい”

 

 感情そのものなら、本来は次の三月へ残らない。でもこれは、誰かが実際に口にした言葉として残ったのかもしれない。

 

 俺が言ったのか。女の子が言ったのか。そこまでは書かれていない。

 

 「何だよ、これ……」

 

 ページを捲る。

 

 次の三月。

 

 ——女の子。

 

 さらに次。

 

 ——女の子。

 

 そこから先になると、女の子という言葉の出てくる回数が減っていった。ある三月では三回。次は一回。その次には、一度もない。

 

 おかしい。

 

 俺は、父親の帰宅時刻や、授業で教師が何ページまで進んだかまで書いている。

 

 そんな人間が、何度も会ったらしい相手について、名前すら書いていない。

 

 最初から名前を知らなかったのか。それとも、名前だけが残らなかったのか。

 

 次の可能性では、その子と出会わなかった。さらに次では、会ったことそのものがなくなった。

 

 それを繰り返しているうちに、記録だけじゃなく、俺自身の中からも誰かが消えていった。そんな気がした。

 

 ——はすまくん。

 

 不意に、頭の奥で声がした。女の子の声。聞き覚えがある。でも、誰のものか分からない。

 

 「……誰だよ」

 

 口にする。答えはない。

 

 その代わり、ノートの中にある女の子、会った、会いたい、その三つの言葉だけが妙に胸に引っかかった。

 

 霧島透子。

 

 その名前が浮かぶ。理由は分からない。

 

 岩見沢先輩がその名前を名乗っていた時から、ずっと感じていた。

 

 あの人は霧島透子じゃない。

 

 理屈なんてなかった。ただ、違うと分かった。

 

 双葉は、俺が忘れている感情側の領域なんじゃないかと言っていた。

 

 もし、この女の子が……

 

 「……いや」

 

 首を横へ振る。まだ早い。

 

 今分かるのは、中学一年の三月に、俺が何度も会いたいと思った女の子がいたこと。

 

 そして、俺はループを重ねるうちに、その子のことを忘れていったらしいこと。それだけだった。

 

 さらにページを進める。

 

 女の子の記録は、完全になくなった。代わりに、世界の違いがどんどん大きくなる。

 

 転校していない。学校へ普通に通っている。父親と会話している。家の中の雰囲気が違う。

 

 何度目なのか、もうノートを見てもすぐには分からない。

 

 そして、あるページで俺の指が止まった。

 

 ——三月一日。母。

 

 その一文字があった。

 

 呼吸が止まる。もう一度読む。

 

 ——三月一日。母。朝食。七時二十分。味噌汁。焼き魚。

 

 その下には、「行ってらっしゃい」と書いてある。文字が、そこだけ少し強い。

 

 「ああ……」

 

 覚えている。ようやく、あの世界だ。

 

 何度も、三月を繰り返した。学校へ行った世界。行かなかった世界。転校する世界。しない世界。

 

 父親と話した世界。何も言わなかった世界。いろんな可能性が、自分の現実へ入り込んだ。

 

 その中で、ずっと頭のどこかにあった、一番選びたかった可能性。

 

 もし、母が死ななかったら。小学生のあの日、別の未来があったなら。

 

 それだけは、考えないようにしても消えなかった。

 

 そして、ある三月一日。目を覚ました。

 

 台所から音がした。包丁がまな板へ当たる音。味噌汁の匂い。食器が触れ合う音。

 

 俺は部屋から出た。

 

 母がいた。いつもの場所に、何でもない顔で。

 

 「遅いよ」と、言った。

 

 俺は何も言えなかった。母が怪訝そうに俺を見る。

 

 「どうしたの?」

 

 「……いや」

 

 それだけしか言えなかった。

 

 食卓には三人分の朝食。母の写真へ話しかける必要もない。仏壇もない。母本人が、目の前にいる。

 

 玄関で、「行ってらっしゃい」と言われた。

 

 ずっと、もう一度聞きたかった言葉だった。

 

 俺は学校へ行った。普通に教室に入り、授業を受け、家へ帰った。そこに母がいた。夕食を食べ、三人でテレビを見て、くだらない話をした。

 

 全部、何でもない一日だった。そして、ずっと欲しかった一日だった。

 

 ノートを見る。そこからの記録だけ、異様に細かい。

 

 母が何時に起きた。何を作った。何を買った。どんなテレビを見ていた。何時に風呂へ入った。何を言った。

 

 一つ残らず、記録しようとしている。

 

 未来のためじゃない。この世界を失わないために。中学一年の俺が、必死で書き留めていた。

 

 でも、そこにも感情は書かれていない。嬉しい。幸せ。終わってほしくない。一つもない。事実だけ。

 

 だからこそ、今の俺には分かった。この頃の俺は、多分、今までで一番幸せだった。そして、一番怖かった。

 

 三月二十五日。終業式。

 

 転校は、この世界でもなくならなかった。

 

 俺が今の学校で上手くやれていなかったことまで、母が生きているだけで消えるわけじゃない。

 

 ただ、この世界では、父と母が二人で話して、俺のために環境を変えることを決めていた。

 

 父親一人に追い出される。当時の俺がそう感じていた現実とは、全然違った。

 

 部屋の隅には少しずつ段ボールが増えた。新しい制服の採寸票。転校の書類。教科書。四月から始まる新しい生活。

 

 でも、俺にはそれより先に気になることがあった。

 

 三月二十八日。母。

 

 三月二十九日。母。

 

 三月三十日。母。

 

 そして、三月三十一日。

 

 その日の記録だけ、妙に長かった。

 

 部屋の隅には、引っ越し用の段ボールが積まれている。

 

 教科書のほとんどは箱の中。机の上には、転校に関する書類が残っている。

 

 その光景を読んでいると、第何回目かも分からない三月三十一日の夜が、少しずつ戻ってくる。

 

 ベッドの上にノートがあった。一か月分。いや、何度もの三月で積み重ねた記録。授業。学校。父親。転校。母。

 

 俺は、それを何度も読み返した。

 

 明日は四月一日。

 

 普通なら、新しい月が始まる。でも俺は知っていた。三月三十一日を越えれば、また三月一日へ戻る。ずっとそうだった。

 

 だったら、この世界も同じかもしれない。

 

 目を閉じて、次に目を開けたら、母はいない。また写真だけになっている。台所から声はしない。朝食は二人分。あるいは、また全然違う世界が始まる。

 

 この一か月が、なかったことになる。

 

 今の俺にも、その恐怖は想像できた。いや、少しだけ分かってしまう。

 

 三月二十日。のどかと歩いた上野。浅草。夕暮れのスカイツリー。東京駅。

 

 それが三月三十一日を越えた瞬間に全部消えると言われたら、今の俺だって怖い。

 

 でも、中学生の俺が失おうとしていたのは、ようやく戻ってきた母親だった。

 

 ノートの最後。一行だけ、他より強い筆圧で書かれている。

 

 ——明日に行きたくない。

 

 そこだけ、感情の言葉が残っていた。

 

 なぜ残ったのかは分からない。

 

 もしかすると、これは感情じゃなく、あの時の俺が実際に選んだことに近かったから、事実として残ったのかもしれない。

 

 そこから先のページは、ほとんど白かった。

 

 俺は、あの夜、全部を終わらせようとした。

 

 母が生きている世界を失いたくなかった。また母がいない世界へ戻るくらいなら、次の可能性を見るくらいなら、もう何も選ばなくていいようにしたかった。

 

 どうやって、何をしたか。そこまでは思い出したくない。今でも、思い出す必要はないと思っている。

 

 ただ、四月一日、その朝のことだけは少しずつ戻ってきた。

 

 冷たかった。

 

 頬に触れていたのは、布団ではない。床だった。

 

 目を開けた。視界がぼやけていた。身体が重かった。自分の部屋。でも、何かが違う。

 

 カーテンの隙間から朝の光が差していた。しばらく動けないまま、床に臥せった状態で机の上にあるカレンダーを見た。

 

 四月一日。

 

 最初、意味が分からなかった。

 

 三月一日じゃない。

 

 もう一度見る。

 

 四月一日。

 

 戻っていない。三月が終わっている。

 

 俺は生きていた。

 

 そして……

 

 母はいなかった。

 

 台所から音はしない。家の中に母の気配はない。あの一か月は、もう終わっていた。

 

 床から身体を起こすまで、どれくらいかかったのか覚えていない。

 

 部屋の隅には、引っ越し用の段ボールが積まれていた。教科書は箱へ入っている。机の端には、制服の採寸票と転校関係の書類。

 

 元の世界にあったものが、全部そこにあった。

 

 ベッドの上には、ノートだけが残っていた。

 

 何度もの三月で積み重ねた記録。授業の内容。英語の構文。未来の出来事。父親。学校。母。女の子。

 

 そして……最後の白いページに、一言だけあった。

 

 ——会いたい。

 

 乱れた字だった。

 

 俺の字だ。

 

 でも、書いた記憶がない。

 

 あの夜。全部を終わらせようとした、その直前に書いたのだろうか。

 

 誰に会いたかったのか。

 

 当時の俺にも、もう分からなかった。

 

 ただ……明日へ行きたくないと思った、その一番奥で。

 

 俺はまだ、誰かに会いたいと思っていたらしい。

 

 ループは終わった。

 

 俺が終わらせたのか。勝手に終わったのか。今でも分からない。

 

 ただ、四月一日が来た。それだけだった。

 

 その後、予定されていた転校そのものは変わらなかった。

 

 父親との間にあったものも、すぐに全部消えたわけじゃない。

 

 俺は横浜へ移った。

 

 四月四日。新しい中学校へ初めて登校した。

 

 教科書がなくて困っていた俺に、メガネをかけた女子が「これ、貸そっか」と声を掛けた。

 

 それが、あの教室で初めてまともに息を吸えた瞬間だった。

 

 今なら知っている。

 

 赤城郁実。

 

 俺にとって、中学生活で最初にできた大切な友人。

 

 ループの後、そこからようやく時間は前へ進み始めた。少なくとも、俺はそう思っていた。

 

 気づけば、机の前でかなり長い時間が経っていた。

 

 目の前には、古いノート。今まで知っていたはずの過去。でも、ちゃんと見ようとしなかった過去。

 

 中学一年の春。俺は、一つの三月を繰り返していたわけじゃなかった。

 

 選ばなかった可能性が、次の世界へ干渉した。そのたびに、少し違う三月が生まれた。

 

 学校へ行った自分。行かなかった自分。父親と話した自分。話さなかった自分。

 

 転校する世界。転校しない世界。

 

 そして、母が生きている世界。

 

 いろんな可能性の中を、俺は渡っていた。

 

 だから、今の三月も、本当に時間そのものが巻き戻っているとは限らない。

 

 一度目の三月。二度目の三月。同じように見えて、少しずつ違う。

 

 のどかとの誕生日だってそうだった。同じ場所へ行った。でも、違う景色を見た。違う言葉を言った。違う写真が残った。

 

 だったら、あの頃と同じように、俺はまた別の可能性を渡っているのかもしれない。

 

 もう一度、ノートを最初から捲る。

 

 女の子。会った。また会った。

 

 “会いたい”

 

 そして、いつの間にか消えている。

 

 母が生きている世界へ近づくほど、学校や家族についての違いは大きくなる。

 

 その反対に、女の子についての記録は減っていく。

 

 「……なんでだ」

 

 俺が望んだものが、一つずつ現実になっていく。

 

 学校へ行ける。父親と話せる。母親がいる。

 

 でも、その過程で、俺は誰かを忘れている。

 

 その誰かと会わなかった可能性を選ぶたび、会った記憶が薄れて、話したことを忘れて、最後には最初から知らなかったみたいになった。

 

 頭の奥が少しだけ痛む。

 

 ——はすまくん。

 

 女の子の声。それだけは、まだ聞こえる。

 

 顔は見えない。名前も分からない。なのに、ひどく懐かしい。

 

 ノートを見る。

 

 “会いたい”

 

 その言葉。誰が、誰に、言った。

 

 「……霧島透子」

 

 小さく、その名前を口にしてみる。

 

 胸の奥が、わずかに痛んだ。

 

 岩見沢先輩へは感じなかったもの。霧島透子という名前そのものにだけ、ずっと感じていた違和感。

 

 知らない人のはずなのに、知らないと言い切れない。

 

 「……もしかして」

 

 それ以上は、言葉にしなかった。

 

 まだ証拠はない。女の子。会いたい。それだけで霧島透子と結びつけるのは早い。

 

 でも、少なくとも、俺はループの中で誰かを忘れた。そのことだけは、もう否定できなかった。

 

 そして、もう一つ分かったことがある。

 

 どうして、今の俺が三月を終わらせることを怖がっているのか。

 

 中学一年のあの日、俺はようやく辿り着いた幸せを、三月の終わりに失った。

 

 だから、終わることそのものが怖くなった。

 

 幸せになればなるほど、次に失うことを考えた。踏み込めば、なくなる。大切にすれば、なくした時に痛い。

 

 だったら、最初から少し離れていればいい。観察して、記録して、事実だけ残せばいい。

 

 多分、今の俺のかなり深いところまで、あの三月から続いている。

 

 でも、三月二十日、

 

 俺はのどかと夕暮れを見た。日没時刻を調べた。のどかと見たかった。そう思った。

 

 手を繋いだ。もう少し一緒にいたいと言った。また出かける約束をした。

 

 明後日には、卯月との予定がある。四月一日には、横浜のライブがある。

 

 中学生の俺は、四月一日へ行きたくなかった。

 

 でも、今の俺は。

 

 「……行きたいんだよな」

 

 四月一日へ、ちゃんと行きたい。

 

 それだけは、あの頃とは違う。

 

 ノートの最後にある白いページを開く。ペンを取る。

 

 中学一年の記録を読み返した。

 

 可能性の世界。選ばなかった未来。母。四月一日。女の子。

 

 そこまで書いて、一度、手を止めた。

 

 それから、その下へもう一つ、“会いたい”と書いた。

 

 誰が誰に言った言葉なのか、今は分からない。

 

 でも、昔の俺がその言葉を残そうとした。そのことだけは忘れたくなかった。

 

 そして、そのさらに下へ、『思い出したい』と書いた。

 

 次の三月で、この言葉が残るかどうかは分からない。感情なら、また消えるかもしれない。

 

 それでも、今は書いておきたかった。

 

 昔の俺は、事実だけを未来へ残そうとした。でも、それだけでは残らなかった人がいる。

 

 だから今度は、記録の中からその人を拾い直す。

 

 窓の外を見る。

 

 三月二十三日の空。

 

 あと八日で、三月は終わる。

 

 終われば、また三月一日に戻るのかもしれない。別の可能性へ移るのかもしれない。

 

 それでも、今度は四月一日へ行きたい。

 

 そのために、六年前の三月へ置いてきたものを、ちゃんと見つける。

 

 机の上のノートへ、もう一度手を置く。

 

 女の子。会いたい。霧島透子。

 

 三つの言葉は、まだ一本には繋がらない。

 

 でも、俺はその先にいる誰かを、確かに知っている気がした。

 

 三月二十五日

 

 朝の藤沢駅は、春休みに入った学生や通勤客で思った以上に混んでいた。

 

 改札前の柱にもたれながらスマホを確認すると、時刻は九時を少し過ぎたところだった。小田原駅での待ち合わせは十時。ここからなら、まだ余裕はある。

 

 画面には、少し前にのどかから届いたメッセージが残っている。

 

 《もうすぐ着くよ》

 

 その文字を見て顔を上げる。

 

 一度目なら、この少しあとに来る。そう思った直後、人の流れの向こうから、のどかがこちらへ歩いてくるのが見えた。

 

 白いパーカーの上に薄手のジャケット。顔の半分をマスクで隠し、帽子を深めに被っている。

 

 一見しただけでは豊浜のどかだとは分かりにくい。それでも、俺にはすぐに分かった。

 

 「お待たせ」

 

 「おはよう」

 

 「……何?」

 

 「いや」

 

 のどかが少し目を細める。

 

 「また見てた?」

 

 以前なら誤魔化したかもしれない。

 

 「見てた」

 

 そう答えると、のどかは一瞬黙ってから小さく笑った。

 

 「最近、ほんと素直だよね」

 

 「悪い?」

 

 「別に。そっちの方がいいだろ」

 

 俺の隣へ並び、のどかが聞く。

 

 「卯月から連絡来てる?」

 

 「朝から三件」

 

 スマホを見せる。

 

 《お母さん、もう準備できてるよ!》

 

 《お菓子も買った!》

 

 《カメラも持った!》

 

 「完全に遠足気分じゃん」

 

 (一度目もそうだったな……)

 

 危うく口に出しかけて、慌てて言い直す。

 

 「張り切ってるな」

 

 「昨日レッスン一緒だった時からずっとだよ。どこで写真撮るとか、何食べるとか、車の中で何流すとか」

 

 「そこまで決めてるのかよ」

 

 「あと、あたしと蓮真の写真いっぱい撮るって」

 

 「それも聞いた」

 

 「ほんと余計なことばっかり」

 

 そう言うわりに、のどかは嫌そうではなかった。

 

 俺たちは改札を抜け、東海道線のホームへ向かった。

 

 電車が来るまで、あと数分。ホームの端には、春の朝らしい柔らかな光が差し込んでいる。

 

 俺はその光を見ながら、二日前に読んだノートのことを思い出していた。

 

 女の子。会った。また会った。

 

 “会いたい”

 

 それだけ。それだけしか残っていない誰か。

 

 「蓮真?」

 

 「ん?」

 

 「また考え事?」

 

 「……まあ」

 

 「最近多いよね」

 

 否定はできなかった。

 

 電車がホームへ入ってくる。空いている車両へ乗り込み、二人並んで座った。電車が動き始め、藤沢の街並みが窓の外へ流れていく。

 

 のどかはスマホを取り出した。

 

 「また来た」

 

 「今度は?」

 

 「甘いお菓子としょっぱいお菓子、両方用意したって」

 

 「抜かりないな」

 

 「卯月だからね」

 

 のどかが笑う。

 

 その横顔を見ながら、俺は一度目にもこの電車の中で聞いたことを思い出した。

 

 卯月のこと。振られたあとも、どうしてあれだけ普通にしていられるのか。

 

 無理をしているんじゃないか。

 

 一度目の俺は、それが気になって、のどかへ聞いた。答えも知っている。

 

 それでも今回は、同じことを知っているから聞かない、とは思わなかった。

 

 「のどか」

 

 「何?」

 

 「卯月のことなんだけど」

 

 のどかがスマホから顔を上げる。

 

 「また心配してる?」

 

 「……分かる?」

 

 「分かるよ。蓮真だし」

 

 それだけで説明された。

 

 「一か月も経ってないからな」

 

 俺は窓の外を見る。

 

 「俺に振られて、それでも普通に俺たちと出かけて。俺とのどかの写真まで撮るって言って」

 

 「うん」

 

 「大丈夫なのかなって」

 

 のどかは少しだけ黙った。一度目と同じように。でも、今度はその沈黙の意味も知っている。

 

 「卯月が全然傷ついてないわけじゃないよ。好きな人に振られたんだから。当たり前じゃん」

 

 「ああ」

 

 「でもね」

 

 のどかが前を見る。

 

 「あたしと卯月、約束してたから」

 

 「……どっちかが振られても、どっちかと付き合っても、二人の関係は変えない?」

 

 言ってから、しまったと思った。のどかがこちらを見る。

 

 「……なんで知ってるの?」

 

 「……」

 

 二度目は、こういうところが難しい。

 

 記憶がある。でも、その記憶は今ののどかにはまだ話していない。

 

 「……なんとなく」

 

 「何それ」

 

 「二人なら、そういうこと言いそうだと思って」

 

 のどかはしばらく俺を見ていたけれど、やがて小さく息を吐いた。

 

 「まあ、当たりだけど」

 

 助かった。

 

 「でも、正確には」

 

 のどかが続ける。

 

 「何も変えない、じゃないよ」

 

 「え?」

 

 「あたしも卯月も、蓮真のことが好きだった。片方が選ばれたら、何も変わらないなんて無理じゃん」

 

 「ああ」

 

 「だから……変わっても、壊さない」

 

 その言葉に、俺は黙った。電車の音が、急に遠く聞こえた。

 

 変わっても。壊さない。

 

 「……どうしたの?」

 

 「いや」

 

 二日前のノートが浮かぶ。違う三月。

 

 学校へ行った世界。行かなかった世界。転校する世界。しない世界。母が生きている世界。

 

 何かを選ぶたびに、それまであったものが消えた。違う可能性へ変わった。

 

 俺にとって、変わるということは、ずっと失うこととほとんど同じ意味だった。

 

 だから、変わらない距離を選んだ。誰かへ近づきすぎない。踏み込みすぎない。失う時に痛くないように。

 

 でも、のどかと卯月は違う。

 

 二人とも俺を好きになった。

 

 同じ人を好きになった。俺は一人を選んだ。当然、関係は変わった。

 

 それでも二人はまだ友だちだった。

 

 そして今日、三人で伊豆へ行こうとしている。

 

 「……変わることと、壊れることは違う、か」

 

 「そう」

 

 のどかが言う。

 

 「全部前と同じは無理だよ。でも、それで全部なくす必要もないでしょ」

 

 「……そっか」

 

 「何、そんなに響いた?」

 

 「ちょっとな」

 

 「変なの」

 

 のどかは笑った。

 

 俺は窓の外へ目を戻す。変わっても、残るものがある。そんな簡単なことを、俺はずっと知らなかったのかもしれない。

 

 少しすると、手の甲に何かが触れた。見ると、のどかの手だった。

 

 「……何?」

 

 「卯月のことばっか考えてるの、ちょっと妬くから」

 

 「そういう話じゃないだろ」

 

 「分かってるけど」

 

 指が少しだけ絡む。

 

 「小田原までは、あたしとのデートだから」

 

 「小田原からも一応デートだろ」

 

 のどかが目を丸くした。

 

 「……蓮真から言うんだ」

 

 「卯月もいるけど」

 

 「余計なこと言わないでよ」

 

 「事実だろ」

 

 「そこまで含めて最近の蓮真、ちょっと腹立つ」

 

 でも、繋いだ手はそのままだった。

 

 小田原駅へ着いたのは、十時の少し前だった。改札を出てロータリーへ向かう。

 

 人の流れの向こう、見覚えのあるミニバンの横で、卯月が大きく手を振っていた。

 

 「きっしー!のどかー!」

 

 「声大きいって」

 

 のどかが呆れる。

 

 「変装してる意味なくなるぞ」

 

 「大丈夫!」

 

 「何が」

 

 「周りの人、私のこと見てるから!」

 

 「もっと駄目だろ」

 

 卯月が笑う。

 

 一度目と同じ。でも、その姿を見ていると、二日前にノートで読んだ女の子とは正反対だった。

 

 記録から消えた誰か。目の前にいる、消えなかった卯月。俺が選ばなかった相手。それでも、こうして笑っている。

 

 「きっしー?」

 

 「ん?」

 

 「どうしたの?」

 

 「いや」

 

 俺も少し笑う。

 

 「行こう」

 

 「うん!」

 

 卯月が勢いよく助手席のドアを開けた。

 

 運転席にいる卯月のお母さんへ挨拶し、俺とのどかは後部座席へ乗り込む。

 

 「今日はよろしくお願いします」

 

 「こちらこそ。二人とも楽しんでね」

 

 「お母さん!私もいるよ!」

 

 「はいはい。卯月もね」

 

 「扱い雑!」

 

 車がロータリーを離れる。卯月はすぐにカーナビを操作した。

 

 画面に表示された目的地は大室山。その麓にある、さくらの里だった。

 

 「今日の目的地、そこなんだよな」

 

 「そうだよ!」

 

 「桜がいっぱい咲いてるんだっけ」

 

 「そう!あとね!」

 

 卯月が膝の上に置いていたパンフレットを持ち上げる。表紙には、温泉へ浸かる丸い動物。

 

 「……カピバラ」

 

 「え?」

 

 卯月が固まった。

 

 一度目は、ここからしばらく追及した。でも今回は知っている。

 

 「伊豆シャボテン動物公園も行くんだろ」

 

 「きっしー、なんで知ってるの!?」

 

 「そのパンフレット見れば分かるだろ」

 

 「あ、そっか」

 

 「しかも本命はそっち」

 

 「違うよ!」

 

 「カピバラ七、桜三」

 

 「なんで割合まで知ってるの!?」

 

 今度こそ失敗した。のどかが隣で俺を見る。

 

 「……蓮真?」

 

 「いや」

 

 前を見る。卯月も振り返っている。

 

 「適当に言った」

 

 「当たってる!」

 

 「当たってるのかよ」

 

 「すごい!きっしー、エスパー?」

 

 「違う」

 

 「じゃあ観察?」

 

 「何でも観察で片づけるな」

 

 卯月のお母さんが、運転席で笑った。

 

 「この間から、ずっとカピバラのお風呂が見たいって言ってたのよ」

 

 「お母さん!」

 

 「やっぱり本命じゃないか」

 

 「でも桜もちゃんと見るから!」

 

 「割合は?」

 

 「今日は……六対四!」

 

 「増えただけじゃん」

 

 のどかが突っ込む。車内に笑い声が広がった。

 

 一度目にもあった会話。でも、少し違う。俺が先に知っているから、言葉が変わる。卯月の反応が変わる。

 

 のどかも違うことを言う。ほんの小さな違い。それでも、こうして別の一日になっていく。

 

 大室山の麓へ着いた頃には、昼を少し過ぎていた。さくらの里。車を降りる前から、窓の外に淡い桜色が広がっている。

 

 「桜ー!」

 

 卯月が最初に外へ飛び出した。

 

 「転ぶぞ」

 

 「大丈夫!」

 

 その直後、少しだけつまずく。

 

 「ほら」

 

 「転んでないからセーフ!」

 

 「基準が甘い」

 

 のどかが笑う。

 

 俺たちも車を降りた。風が少し冷たい。でも、日差しにはもう冬の硬さがなかった。

 

 大室山の麓、その周囲に何本もの桜が咲いている。

 

 まだ満開ではないものもあった。それでも、薄い桃色が春の空へ重なっていた。

 

 「きっしー、写真!」

 

 卯月がカメラを構える。

 

 「何を?」

 

 「あとのどか来て!」

 

 「俺いらないだろ」

 

 「いる!」

 

 「なんで」

 

 「カップル成立記念!」

 

 「まだ言ってるのかよ」

 

 「ほら、のどか!」

 

 「はいはい」

 

 のどかが俺の横へ来る。肩が触れるくらいの距離だった。

 

 「もっと近く!」

 

 「十分だろ」

 

 「カップルっぽくない!」

 

 「卯月!」

 

 のどかが怒る。

 

 「じゃあ手繋いで!」

 

 「注文多いな」

 

 「記念写真だから!」

 

 俺は少し迷って、のどかの手を取った。

 

 「あ」

 

 今度はのどかが驚く。

 

 「何?」

 

 「いや」

 

 少し笑う。

 

 「今日は言われる前なんだ」

 

 「卯月に言われたけどな」

 

 「それはカウントしない」

 

 「なんでだよ」

 

 「撮るよー!」

 

 卯月の声。二人でカメラを見る。シャッター音が鳴った。

 

 「もう一枚!」

 

 「何枚撮る気だよ」

 

 「いっぱい!」

 

 「宣言通りだな」

 

 卯月は楽しそうに何枚も撮る。その姿を見ていると、一度目より少しだけ安心した。

 

 何もなかったことになっているわけじゃない。傷ついていないわけでもない。

 

 でも、それでも卯月は今の関係を選んでいる。

 

 俺たちと一緒にいることを。

 

 さくらの里を歩いたあと、リフトへ向かった。大室山を麓から見上げると、丸い山肌が空まで続いている。

 

 「これ乗るんだ」

 

 のどかが上を見上げる。

 

 「リフトだけなんだな」

 

 「歩いて登っちゃ駄目なんだって!」

 

 卯月が言う。

 

 「山なのに?」

 

 「山を守るため!」

 

 「ちゃんと調べてる」

 

 「カピバラのついでにね」

 

 「桜がメイン!」

 

 卯月が抗議する。

 

 四人でリフトに乗り、山頂へ上がった。一度目にも見た景色。

 

 伊豆の海、山並み、遠くに見える街。

 

 火口跡を囲む遊歩道を歩く。卯月は先を歩きながら、気になるものがあるたびに立ち止まってカメラを向けていた。

 

 「きっしー、のどか、こっち!」

 

 「また?」

 

 「海すごい!」

 

 「さっきも見ただろ」

 

 「角度が違うよ!」

 

 そう言われると否定しづらい。

 

 三人で歩いていると、のどかが声を上げた。

 

 「あ、富士山!」

 

 ほとんど同時に、卯月も叫ぶ。

 

 「富士山!」

 

 二人が北西の方へ駆けていく。

 

 「走るなって」

 

 言っても聞いていない。俺も少し遅れて、二人の方へ歩く。

 

 そして、見えた。

 

 山々の向こうに、雪を残した富士山。一度目にも見た景色だった。そして一度目にも、何かを思い出しかけた。

 

 でも今回は、一昨日ノートを読んでいる。

 

 女の子。会った。会いたい。

 

 その文字が頭の中に残っている。

 

 風が吹く。一瞬、周囲の音が遠くなった。目の前の富士山へ、別の景色が重なる。

 

 同じ富士山。でも、今いる場所とは違う。もっと遠い。海が見える。街がある。隣に小さな女の子がいる。

 

 顔は、まだ見えない。

 

 でも今度は、声だけではなかった。小さな手。風に揺れる髪。俺より少し先を歩いて、振り返る。

 

 ——はすまくん。

 

 胸が痛む。

 

 ——富士山、大きいね。

 

 息が止まる。

 

 もう一つ、続きがある。分かる。思い出せる。

 

 ——いつか。一緒に、富士山行こうね。

 

 「……っ」

 

 頭の奥が痛んだ。手で額を押さえる。景色が消え、目の前には大室山から見える富士山だけが残った。

 

 「蓮真?」

 

 すぐ近くから、のどかの声がした。

 

 「大丈夫?」

 

 振り向くと、のどかが心配そうに俺を見ている。卯月も、少し離れたところからこちらを見ていた。

 

 「……ああ」

 

 いつもなら、そう言って終わらせた。でも、昨日までとは違う。

 

 俺は少し迷ってから言った。

 

 「また、思い出した」

 

 「前に言ってた昔のこと?」

 

 のどかが聞く。

 

 「ああ」

 

 「……何を?」

 

 答えるか迷う。でも、全部を一人で考える理由を作るのは、もうやめたいと思った。

 

 「女の子」

 

 「女の子?」

 

 「中学の頃のノートに、その子の記録があった」

 

 のどかの表情が少しだけ変わる。

 

 「ノートって、前に言ってたループの?」

 

 「ああ。三月を繰り返してた時の」

 

 そこまで聞いて、卯月も近づいてきた。

 

 「きっしー、大丈夫?」

 

 「ああ」

 

 「顔、ちょっと怖いよ」

 

 「怖い?」

 

 「なんか、難しいこと考えてる顔」

 

 「それはいつもじゃない?」

 

 のどかが言う。

 

 「確かに!」

 

 「おい」

 

 二人が笑う。その笑い声で、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 俺はもう一度、富士山を見る。

 

 「その女の子と」

 

 口にする。

 

 「一緒に富士山へ行く約束をした気がする」

 

 「……そっか」

 

 のどかはそれ以上聞かなかった。卯月も、珍しく何も言わない。

 

 でも、少しして卯月が言った。

 

 「じゃあ行けばいいじゃん」

 

 「え?」

 

 「思い出したら、その子と富士山」

 

 「……」

 

 「約束したんでしょ?」

 

 「そうみたいだけど」

 

 「なら行かないと!」

 

 あまりにも簡単に言う。

 

 「その子が誰かも分かってないんだぞ」

 

 「じゃあ先に探す!」

 

 「どこから」

 

 「それは、きっしーが考える!」

 

 「俺かよ」

 

 「きっしー、そういうの得意でしょ?」

 

 卯月が笑う。その横で、のどかも少しだけ笑った。

 

 「まあ、思い出したいなら、思い出せばいいんじゃない」

 

 「……いいのか?」

 

 何を聞いているのか、自分でもよく分からなかった。

 

 のどかは俺を見る。

 

 「何が?」

 

 「昔の女の子のこと」

 

 「蓮真」

 

 少し呆れた声だった。

 

 「あたし、そこまで心狭くないから」

 

 「そういう意味じゃ」

 

 「昔の大事な人なんでしょ?」

 

 「……多分」

 

 「じゃあ、大事にすればいいじゃん」

 

 のどかは富士山を見る。

 

 また、同じところへ戻ってくる。

 

 変わることと、壊れることは違う。過去を取り戻すことと、今を失うことも同じではない。

 

 俺はずっと、それらを同じものとして考えていた。

 

 「……ありがと」

 

 「何、急に」

 

 「言いたくなっただけ」

 

 「今日の蓮真、やっぱちょっと変」

 

 「最近そればっか言われる」

 

 「でも」

 

 のどかは少しだけ笑う。

 

 「悪くない」

 

 横からシャッター音がした。

 

 「卯月」

 

 「いい感じだったから!」

 

 「勝手に撮るなよ」

 

 「きっしーとのどか、富士山バック!」

 

 カメラの画面を見せてくる。そこには、富士山を背にした俺とのどかが写っていた。

 

 俺は少し驚いたような顔をしていて、のどかは俺を見て少し笑っている。

 

 「後で送ってくれよ」

 

 そう言うと、二人が同時に俺を見た。

 

 「え?」

 

 「何だよ」

 

 のどかが先に笑った。

 

 「蓮真から写真欲しいって言うの、珍しい」

 

 「……いいだろ」

 

 「うん」

 

 卯月も笑う。

 

 「送るね!」

 

 スマホが震える。写真を見る。

 

 富士山。のどか。そして俺。

 

 そこに昔の女の子はいない。でも、それでいい気がした。今の写真に、過去の誰かまで写る必要はない。

 

 大室山を下りたあと、卯月が今日一番の元気を取り戻した。

 

 「次、カピバラ!」

 

 「桜じゃなかったのか?」

 

 「桜見たから!」

 

 「目的達成扱い早いな」

 

 「次の目的!」

 

 「やっぱカピバラが本命じゃん」

 

 伊豆シャボテン動物公園へ着くと、卯月は入園口でもらった案内図をすぐに広げた。

 

 「カピバラがここ!リスザルがこっち! あとクジャクは自由に歩いてるんだって!」

 

 「桜のパンフレットはお母さん任せだったのに」

 

 のどかが呆れる。

 

 「だってこっちは重要だから!」

 

 「桜は?」

 

 「重要!」

 

 「割合は?」

 

 「カピバラ七、桜三!」

 

 「戻ってるじゃん」

 

 俺が言う。

 

 「大室山では桜もいっぱい見たから、今はカピバラ八!」

 

 「増えるのかよ」

 

 卯月が園内を進む。俺とのどかも、その後を追った。

 

 そして、柵の向こうに丸い背中がいくつも見えた瞬間、卯月の声が一段高くなった。

 

 「カピバラ!いた!」

 

 「いるに決まってるだろ」

 

 「写真じゃなくて本物だよ!」

 

 「動物公園だからな」

 

 卯月はしゃがみ込み、夢中でカメラを構える。

 

 それを見てのどかが笑い、俺もつられて笑った。

 

 一度目と同じ。

 

 でも、同じだからつまらないとは今は思わなかった。

 

 同じ卯月が、また同じように笑っている。そのこと自体が、少しだけ嬉しかった。

 

 カピバラの温泉まで来ると、卯月はしばらく真剣に眺めたあと、俺へ声をかけた。

 

 「ねえ、きっしー」

 

 「駄目だ」

 

 「まだ最後まで言ってない!」

 

 「言わなくても分かる」

 

 「端っこ空いてるよ?」

 

 「空席の問題じゃない」

 

 「気持ちよさそうなのに」

 

 「人間用じゃないから」

 

 「水着なら?」

 

 「そういう話じゃない」

 

 のどかも呆れた顔で卯月の腕を掴む。

 

 「ニュースになるからやめて」

 

 「『人気アイドル、カピバラと混浴!』」

 

 「見出しまで考えなくていい!」

 

 「スイートバレットの知名度上がるよ?」

 

 「そんな上げ方いらないから!」

 

 卯月がのどかに引きずられていく。

 

 「またね、カピバラ!」

 

 「二度と入ろうとするなよ」

 

 「次は水着持ってくる!」

 

 「だから違う!」

 

 思わず笑った。

 

 このくだらないやり取りも、もし三月が終わったら消えるのだろうか。一瞬、そんな考えが浮かぶ。

 

 でもすぐに、一昨日ノートへ書いた言葉を思い出した。

 

 思い出したい。

 

 仮に世界が変わっても、記録だけじゃない。俺が覚えていればいい。いや、覚えようとすればいい。

 

 それでも失うものはある。

 

 でも、失うことを恐れて今を持たないよりは、多分そっちの方がいい。

 

 園内を回る。

 

 リスザル、ワオキツネザル、フラミンゴ、クジャク。卯月は何か見つけるたびに声を上げ、のどかもなんだかんだ言いながら付き合っている。

 

 途中、園内を周遊するボートへ乗ることになった。二人分の席に、俺とのどかが先に案内される。

 

 「じゃあ、きっしーとのどか行ってきて!」

 

 卯月が言う。

 

 「卯月は?」

 

 「お母さんと次乗る!」

 

 「いいのか?」

 

 「うん!」

 

 屈託なく答える。のどかが一瞬、卯月を見る。

 

 「……ありがと」

 

 「何が?」

 

 「何でもない」

 

 「変なの」

 

 卯月は本当に、何がありがたいのか分かっていないようだった。

 

 俺とのどかはボートへ乗る。少し揺れて、のどかが俺の腕を掴んだ。

 

 「危なっ」

 

 「大丈夫?」

 

 「蓮真が揺らした?」

 

 「船だよ」

 

 岸から声が飛ぶ。

 

 「のどか、もうきっしー掴んでる!」

 

 「実況しなくていいから!」

 

 「写真撮るね!」

 

 シャッター音が鳴る。

 

 「もう撮ってるじゃん!」

 

 「出発写真!」

 

 ボートが岸を離れる。卯月が手を振っている。俺も少しだけ手を上げた。

 

 しばらく進むと、周囲の声が遠くなった。水面、動物たち、春の空。隣には、のどか。

 

 「……今日、どう?」

 

 のどかが聞く。

 

 「楽しいよ」

 

 「即答するんだ」

 

 「誕生日の時にも聞かれただろ」

 

 「あの時も前より早かったけど」

 

 「なら成長してるな」

 

 「自分で言う?」

 

 笑う。ボートがゆっくり進む。

 

 「さっきの女の子」

 

 のどかが言った。

 

 「うん」

 

 「本当に何も覚えてないの?」

 

 「ほとんど」

 

 少し考える。

 

 「声と、呼ばれ方と、今日思い出した約束くらい」

 

 「はすまくん、だっけ」

 

 「……覚えてたんだ」

 

 「蓮真の話なんだから覚えてるよ」

 

 簡単に言う。

 

 俺は少し黙った。

 

 「何?」

 

 「いや」

 

 「またそれ?」

 

 「……ありがとな」

 

 「だから今日それ何回目?」

 

 「思ったから」

 

 のどかは少しだけ照れたように前を向く。

 

 「そういうの、最近ずるい」

 

 「何が」

 

 「前より普通に言うから」

 

 「のどかが言えって言ったんだろ」

 

 「そこまで言ってない」

 

 「じゃあやめる?」

 

 「それは駄目」

 

 即答だった。

 

 俺は笑った。のどかも笑う。

 

 しばらくして、今度はのどかが少し真面目な顔になった。

 

 「蓮真」

 

 「ん?」

 

 「昔のその子を思い出しても」

 

 少し間がある。

 

 「あたしのこと、忘れないでよ」

 

 冗談のようにも聞こえた。でも、多分、全部が冗談ではない。

 

 のどかも、何も怖くないわけじゃない。

 

 卯月のこと、昔の女の子、霧島透子、俺自身の記憶。

 

 全部が俺とのどかの間へ入ってくる可能性はある。

 

 「忘れないよ」

 

 答える。今度は、考えるより先だった。

 

 のどかが俺を見る。

 

 「……ほんと?」

 

 「ああ」

 

 「絶対?」

 

 「絶対とかは、簡単に言いたくないけど」

 

 「そこは言ってよ」

 

 「でも」

 

 のどかを見る。

 

 「忘れたくないとは思ってる」

 

 のどかは少しだけ黙った。それから、

 

 「……それならいい」

 

 と言った。

 

 俺の手へ、のどかの指が触れる。ボートの上だから、はぐれる理由なんてない。それでも、俺から握った。

 

 のどかが少しだけ嬉しそうに笑う。

 

 夕方、卯月のお母さんの車で小田原へ戻る。

 

 助手席では、あれだけ騒いでいた卯月が途中から静かになっていた。寝ている。

 

 「寝たね」

 

 のどかが小さな声で言う。

 

 「朝から飛ばしすぎなんだよ」

 

 「昨日の夜も楽しみすぎて、あんまり寝てないって言ってた」

 

 「小学生かよ」

 

 「卯月だから」

 

 のどかが笑う。

 

 窓の外には夕方の海。春の光が水面へ伸びている。

 

 俺は今日撮った写真を開いた。桜、大室山、富士山、卯月、のどか、三人の写真、のどかとの写真。

 

 どれも一度目にも似たものはあった。でも、全く同じものは一枚もない。

 

 富士山を背にした写真を開く。俺とのどか。

 

 あの直前、俺は女の子との約束を思い出した。

 

 ——いつか、一緒に富士山行こうね。

 

 誰と、いつ、どうして。まだ分からない。それでも、二日前より少しだけ近づいた。

 

 「蓮真」

 

 隣から声がする。

 

 「ん?」

 

 「今日も考え事してる」

 

 「してる」

 

 「素直」

 

 「最近そうらしいから」

 

 「何それ」

 

 のどかが笑う。

 

 「でも」

 

 俺はスマホを閉じる。

 

 「楽しかったよ」

 

 「うん」

 

 「一度目より」

 

 そこまで口にして、止まる。のどかがこちらを見る。

 

 「一度目?」

 

 「……いや」

 

 少しだけ考える。今はまだ、このことまでは話せない。でも、いつか言えるかもしれない。

 

 「前に三人で出かけた時より」

 

 言い直す。

 

 「……そっか」

 

 のどかはそれ以上聞かなかった。俺も窓の外へ視線を戻した。

 

 夜。藤沢の家へ戻り、風呂を済ませたあと、俺は机の前へ座った。

 

 古いノート。一昨日開いた白いページ。三月二十三日。中学一年の記録を読み返した。

 

 可能性の世界。母。女の子。会いたい。思い出したい。

 

 その下へ、今日の日付を書く。

 

 三月二十五日。

 

 少しだけ迷ってから、続けた。

 

 ——富士山。

 

 ——女の子。

 

 ——約束。

 

 ペンを止める。

 

 昨日までなら、ここまでだったと思う。事実。残るものだけ。

 

 でも、もう一行書く。

 

 ——いつか、一緒に富士山へ行きたい。

 

 しばらく、その文字を見る。

 

 会いたい。行きたい。思い出したい。

 

 昔のノートなら、次の三月で消えたかもしれない言葉。感情。願い。

 

 でも今は、消えるから書かないのではなく、消えるかもしれないから書いておきたかった。

 

 ノートを閉じる。机の上にはスマホがある。画面を点けると、今日届いた写真が表示された。

 

 桜の下で、俺とのどかが手を繋いでいる。その横から、卯月が笑いながら顔を出している。何枚目かで、勝手に入ってきたらしい。

 

 俺は少し笑った。

 

 昔の俺は、選ばなかった可能性が選んだ世界を壊すことを恐れていた。

 

 でも、今日見たものは少し違った。

 

 俺はのどかを選んだ。卯月を選ばなかった。

 

 それでも、三人の関係は変わった。

 

 でも、消えなかった。壊れなかった。少なくとも今は、三人で笑っている。

 

 変わることと失うことは、同じじゃない。変わることと壊れることも、同じじゃない。

 

 だったら、過去を思い出すことも、今を失うこととはきっと同じじゃない。

 

 霧島透子。

 

 頭の中で、その名前を思い浮かべる。

 

 まだ、女の子とその名前は一本には繋がらない。でも、富士山、約束、会いたい。少しずつ、点が増えている。

 

 俺は照明を消す前に、ノートを引き出しへ戻さなかった。机の上へ置いたままにする。

 

 もう、見えないところへしまう必要はない気がした。

 

 照明を消そうとして、机の上のスマホへ手を伸ばす。

 

 その時、ふと別のものを思い出した。

 

 「……牧之原さん」

 

 三月三日。

 

 二度目の三月が始まって、まだ三日しか経っていなかった頃。

 

 一度目の三月三日。七里ヶ浜で、俺は牧之原翔子を見た。

 

 両親と一緒に歩いていた。俺とはすれ違っただけで、少なくともあの時の牧之原さんがこちらに気づいたようには見えなかった。

 

 だから二度目も、同じ時間、同じ場所にいると思っていた。

 

 でも、七里ヶ浜に牧之原さんはいなかった。

 

 それが気になって、俺は海沿いを歩いた。

 

 どうして探しているのか、自分でもよく分からないまま。

 

 そして鎌倉高校前の踏切で、ようやく見つけた。

 

 長い黒髪。海風。踏切の向こう側。

 

 俺が探していた少女は、まるで俺が来ることをどこかで知っていたみたいに、こちらを見た。

 

 あの時、俺はまだ自分から名前を教えていなかった。

 

 なのに牧之原さんは、ごく自然に俺を蓮真さんと呼んだ。

 

 高校二年の春。文化祭。大晦日。

 

 それまでにも、俺たちは何度か会っていた。

 

 でも、それだけでは説明できないことがあった。

 

 初めて会った時から。

 

 いや……

 

 会っていない時でさえ。時々。頭の中に“牧之原翔子”という名前が浮かぶことがあった。

 

 理由もなく。

 

 何かを思い出しかけたみたいに。

 

 でも、何を思い出そうとしているのかは分からない。

 

 三月三日に再会した時もそうだった。

 

 一度目とは違う場所にいた。

 

 俺が名前を言う前から、俺を知っていた。

 

 しかも帰り際。

 

 牧之原さんは、小さく折った紙を俺へ渡した。

 

 俺は椅子から立ち上がり、机の脇へ置いていた財布を手に取る。

 

 カードの奥。

 

 普段ほとんど触らないところへ差し込んでいた、小さな白い紙。

 

 取り出して広げる。

 

 十一桁の数字。

 

 その下には、手書きで名前がある。

 

 『牧之原翔子』

 

 三月三日に受け取った時と、何も変わっていない。

 

 あの時、牧之原さんは言った。

 

 ——また会えるように。

 

 会えるかどうか分からないのに。

 

 俺と会えた時のために。

 

 連絡先を書いた紙を、最初から用意していた。

 

 一度目にはなかったもの。

 

 二度目の三月で初めて、俺の手元に残ったもの。

 

 その時は、すぐには電話しなかった。

 

 何を聞けばいいのか分からなかったから。

 

 牧之原さんは、なぜ俺を知っている。

 

 なぜ、一度目とは違う行動を取った。

 

 そしてもしかしたら……

 

 俺と同じなんじゃないか。

 

 この三月を。

 

 一度目とは違うものとして見ているんじゃないか。

 

 そんな考えが、ずっと頭のどこかに残っていた。

 

 「……またこれか」

 

 自分で呟く。

 

 咲太にもそうだった。

 

 話せば信じてくれると分かっているのに。

 

 まだ整理できていないから。

 

 証拠がないから。

 

 そうやって、自分一人で考える理由を作る。

 

 二日前、ノートを読み返した。

 

 女の子。

 

 会った。

 

 会いたい。

 

 そして今日。

 

 富士山を見て、思い出した。

 

 ——いつか、一緒に富士山行こうね。

 

 顔は分からない。

 

 名前も分からない。

 

 でも確かに俺は、誰かとそんな約束をした。

 

 そして、その記憶へ近づくたび。

 

 霧島透子という名前が浮かぶ。

 

 牧之原翔子。

 

 霧島透子。

 

 二つに直接の繋がりがあるとは思っていない。

 

 ただ俺の記憶の外側にいる。

 

 その意味では、どこか似ていた。

 

 「……電話すればいいだけだろ」

 

 誰に言うでもなく呟く。

 

 俺はスマホを手に取る。

 

 電話の画面を開き、紙を横へ置く。

 

 一桁。

 

 二桁。

 

 三桁。

 

 十一桁。

 

 入力された番号を、紙と見比べる。

 

 間違っていない。

 

 通話ボタンへ指を置く。

 

 そのまま数秒止まった。

 

 今なら、まだやめられる。

 

 明日にしてもいい。

 

 もう少し考えてからでもいい。

 

 咲太や双葉へ相談してからでもいい。

 

 いくらでも理由は作れる。

 

 でも、今日、のどかに言われた。

 

 変わっても、壊さない。

 

 過去を思い出したからって、今のあたしが消えるわけじゃない。

 

 俺はずっと。

 

 知れば、選べば、何かを失うと思っていた。

 

 でも、そうじゃないのかもしれない。

 

 通話ボタンを押す。

 

 発信。

 

 耳へ当てる。

 

 呼び出し音が鳴った。

 

 一回。

 

 二回。

 

 三回。

 

 妙に心臓が速い。

 

 四回目へ入る直前、音が止んだ。

 

 小さなノイズ。

 

 それから。

 

 「はい、牧之原です」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

 「……もしもし」

 

 自分の声が思ったより硬い。

 

 「岸和田です。三月三日に……」

 

 そこまで言ったところで、電話の向こうがほんの少しだけ静かになった。

 

 「はい」

 

 牧之原さんの声が返ってくる。

 

 驚いた様子はなかった。

 

 「蓮真さんですね」

 

 「……うん」

 

 まただ。

 

 あまりにも自然に、俺の名前を呼ぶ。

 

 「今、大丈夫?」

 

 「大丈夫ですよ」

 

 少しだけ間を置いて。

 

 「連絡してくださって、ありがとうございます」

 

 「いや。むしろ遅くなって、ごめん」

 

 「謝らなくて大丈夫です」

 

 牧之原さんは、いつもの穏やかな声で答える。

 

 「蓮真さんが、話したいと思った時でいいと思っていましたから」

 

 その言い方も、どこか引っかかる。

 

 「牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「聞きたいことがある」

 

 「はい」

 

 「俺たちが高校二年の春に初めて会った時」

 

 一度、言葉を切る。

 

 「牧之原さん、俺のこと知ってたよな」

 

 電話の向こうが静かになる。

 

 「はい」

 

 「でも俺は、それより前に牧之原さんと会った記憶がない」

 

 「そうですよね」

 

 「じゃあ、なんで知ってた?」

 

 しばらく返事がなかった。

 

 「……説明するのが難しいんです」

 

 やがて、牧之原さんが答えた。

 

 「難しい?」

 

 「はい」

 

 「今は話せない?」

 

 「そういう意味ではありません」

 

 声は穏やかだった。

 

 「ただ、うまく説明するのが難しいんです」

 

 それ以上は言わなかった。

 

 三月三日にも。

 

 似たような反応だった。

 

 俺は少し迷ってから。もう一つだけ聞く。

 

 「牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「三月三日のこと」

 

 「はい」

 

 「一度目は、七里ヶ浜にいた」

 

 電話の向こうが静かになる。

 

 「でも、二度目はいなかった」

 

 「……」

 

 「俺は鎌倉高校前まで探しに行って、そこで牧之原さんと会った」

 

 「はい」

 

 「牧之原さん」

 

 一度、息を吐く。

 

 「今の三月って、初めて?」

 

 今度は。さっきより長い沈黙だった。

 

 「……どういう意味ですか?」

 

 「俺には」

 

 どこまで言うか迷う。

 

 でもここを隠したら。

 

 電話をした意味がない。

 

 「一度目の三月の記憶がある」

 

 牧之原さんは何も言わない。

 

 「今が二回目だって、俺は知ってる」

 

 「……」

 

 「牧之原さんも、そうなんじゃないかって思った」

 

 言葉にしてみる。

 

 ずっと考えていたこと。

 

 「だから一度目と違う場所にいたんじゃないかって」

 

 「……蓮真さん」

 

 返事が来る。

 

 「うん」

 

 「それも」

 

 少しだけ迷う気配。

 

 「今は、うまく説明できません」

 

 肯定でも。否定でもない。

 

 「そっか」

 

 それ以上は聞かなかった。

 

 ただ、やっぱり。何もないわけではない。

 

 そんな感じだけは残った。

 

 「もう一つだけいい?」

 

 「はい」

 

 俺は机の上のノートを見る。

 

 女の子。

 

 会いたい。

 

 富士山。

 

 約束。

 

 そして。霧島透子。

 

 「霧島透子って名前」

 

 口にする。

 

 「知ってる?」

 

 電話の向こうが。

 

 静かになった。

 

 一秒。二秒。

 

 ほんのわずかな時間。

 

 でも、それまでより、はっきり分かる間だった。

 

 「……牧之原さん?」

 

 「はい」

 

 返事は来た。

 

 「知らない?」

 

 「……すみません」

 

 牧之原さんが答える。

 

 「わたしは、霧島透子さんのことは知らないです」

 

 「そっか」

 

 それだけ。

 

 でもなぜか。

 

 完全には納得できなかった。

 

 名前を聞いた直後の沈黙。

 

 知らない名前を急に出されたから。

 

 それだけなのかもしれない。

 

 「変なこと聞いてごめん」

 

 「いえ」

 

 「最近、その名前が気になってて」

 

 「……どうしてですか?」

 

 「分からない」

 

 正直に答える。

 

 「昔から知ってる気がする」

 

 「昔?」

 

 「ああ。でも、多分気のせいかもしれない」

 

 牧之原さんは少し黙った。

 

 「……そうですか」

 

 それだけだった。

 

 中学一年の三月。

 

 女の子。

 

 会いたい。

 

 それについては話さなかった。

 

 牧之原さんに関係があるとは思えない。

 

 俺自身、まだ何も分かっていない。

 

 「それで」

 

 俺は話を戻す。

 

 「さっきのこと」

 

 「はい」

 

 「高校二年で俺を知ってた理由」

 

 「はい」

 

 「今度会った時に聞いてもいい?」

 

 電話の向こうで、小さく笑う気配がした。

 

 「もちろんです」

 

 「今、沖縄だよな?」

 

 「はい」

 

 「しばらく戻ってこない?」

 

 「実は」

 

 牧之原さんの声が少し明るくなる。

 

 「三月三十一日から藤沢へ行く予定なんです」

 

 「三十一日?」

 

 思わず聞き返す。

 

 その日付。

 

 今の俺にとって、嫌でも意識する日。

 

 「来月から峰ヶ原高校へ通うので」

 

 「ああ」

 

 そういえば、峰ヶ原高校へ進学するのだと言っていた。

 

 「学校が始まる前に、先生方へお話ししておくことがあるんです」

 

 「学校に?」

 

 「はい。学校生活のことで、事前に伝えておいた方がいいことがあって」

 

 詳しくは言わない。俺も聞かなかった。

 

 「それで藤沢に?」

 

 「はい」

 

 机の横。

 

 カレンダーを見る。

 

 三月三十一日。

 

 あと六日。そこを越えれば。また三月一日へ戻るかもしれない。

 

 「その日」

 

 口にする。

 

 「会える?」

 

 電話の向こうで、少しだけ息を吸う気配がした。

 

 「はい」

 

 返事はすぐだった。

 

 「わたしも、蓮真さんとお話ししたいです」

 

 「じゃあ三十一日」

 

 「はい」

 

 「夕方くらいでいい?」

 

 「大丈夫だと思います」

 

 「場所は?」

 

 少し考えるような間。そして。

 

 「七里ヶ浜はどうですか?」

 

 その名前に。三月三日の景色が戻ってくる。

 

 一度目に、俺が牧之原さんを見た場所。

 

 二度目には、牧之原さんがいなかった場所。

 

 そこから、俺は探しに行った。

 

 「……いいよ」

 

 答える。

 

 「七里ヶ浜で」

 

 「はい」

 

 「詳しい時間は?」

 

 「藤沢に着いたら連絡します」

 

 「ああ」

 

 十一桁の番号。

 

 今度は、連絡先としてちゃんと残る。

 

 「牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「ありがとう」

 

 「まだ、ほとんど答えられていませんけど」

 

 「それでも」

 

 俺は机の上を見る。

 

 古いノート。今日撮った写真。

 

 牧之原さんの字で書かれた電話番号。

 

 「電話してよかった」

 

 少し間を置いて。

 

 「……わたしもです」

 

 牧之原さんが答えた。

 

 「では、三月三十一日に」

 

 「ああ」

 

 通話が切れる。

 

 画面に、終了した通話時間が表示された。

 

 俺はしばらくスマホを見ていた。

 

 三月三十一日。

 

 夕方。七里ヶ浜。

 

 六日後。

 

 牧之原さんと会う。

 

 どうして高校二年の春。

 

 初対面の俺を知っていたのか。

 

 どうして二度目の三月で。

 

 一度目とは違う場所にいたのか。

 

 牧之原さんも。この三月を、俺とは違う形で見ているのか。

 

 その続きを聞く。

 

 霧島透子については。

 

 何も分からなかった。

 

 牧之原さんも知らない。

 

 少なくとも、そう言っていた。

 

 ほんの少しだけ。

 

 あの沈黙が気になった。

 

 でも、今はそれ以上の材料がない。

 

 俺はスマホに、十一桁の番号を登録する。

 

 名前。

 

 『牧之原翔子』

 

 保存。

 

 それだけのことなのに。

 

 紙に書かれていた数字が。

 

 ようやく誰かとの繋がりになった気がした。

 

 カレンダーを開く。

 

 三月三十一日。

 

 予定を追加する。

 

 七里ヶ浜。牧之原さん。

 

 保存。

 

 中学一年の俺にとって。

 

 三月三十一日は、来てほしくない日だった。

 

 明日へ行きたくない。

 

 そう書くくらいに。

 

 でも、今は違う。

 

 三月三十一日に。

 

 会う約束ができた。

 

 そこまで行かなければ。

 

 聞けないことがある。

 

 会えない人がいる。

 

 机の上のノートを見る。

 

 会いたい。

 

 思い出したい。

 

 行きたい。

 

 昔の俺なら、次の三月へ残らなかったかもしれない言葉。

 

 でも今の俺は。

 

 その全部を持ったまま。

 

 三月三十一日へ行こうとしている。

 

 照明を消す。

 

 暗くなった部屋の中。

 

 スマホのカレンダーには、三月三十一日。

 

 七里ヶ浜。

 

 その予定だけが、新しく残っていた。

 

 ——同じ時間の、沖縄。

 

 通話が終わったあとも、わたしはしばらくスマートフォンを見つめていた。

 

 『岸和田蓮真』

 

 三月三日に渡した番号へ、ようやく電話をかけてきた。

 

 机の上には、高校の入学関係の書類と、何通かの手紙が置いてある。

 

 その中から、一通を取り出した。

 

 差出人は、霧島。

 

 「……霧島透子さん」

 

 さっき蓮真さんから、その名前を聞いた。

 

 ——霧島透子って名前、知ってる?

 

 わたしは、知らないと答えた。

 

 本当は知っている。

 

 嘘をつくのは、好きじゃない。

 

 それでも今は、そう答えるしかなかった。

 

 直接会ったことはない。

 

 でも、文通を通して、少しずつ彼女のことを知った。

 

 どんな子だったのか。

 

 好きだったもの。

 

 そして、小さい頃にとても仲の良かった男の子がいたこと。

 

 一緒に遊んで、いつかまた会おうと約束していたらしい。

 

 名前までは知らない。

 

 それでも。今日、蓮真さん本人から霧島透子という名前が出た。

 

 しかも、昔から知っている気がする、と。

 

 「……何か、あるんですね」

 

 偶然かもしれない。

 

 でも、そう思えなかった。

 

 高校二年の春。

 

 蓮真さんを、わたしは知っていた。

 

 名前も。

 

 三月三日に会った時も。

 

 一度目とは違う場所にいたわたしを、蓮真さんは探しに来た。

 

 そして今日。

 

 ——今の三月って、初めて?

 

 そう聞かれた。

 

 はいとも。いいえとも。

 

 答えなかった。

 

 わたし自身、何が原因か分からないから。

 

 でも……透子さんのことは、まだ話せない。

 

 三月三十一日。

 

 七里ヶ浜で会う。

 

 その時までに、何を伝えるべきなのか決めなければいけない。

 

 なぜなら……

 

 わたしは、蓮真さんがずっと大丈夫だったわけではないことを知っているから。

 

 これまで見てきた、いくつもの可能性。

 

 その中でも蓮真さんは、いつも誰かの側にいた。

 

 困っている人の話を聞いて。

 

 誰かが苦しんでいれば、放っておけなくて。

 

 自分のことより先に、周りの人のことを考えていた。

 

 でも、だからといって。

 

 蓮真さん自身が、救われていたわけではなかった。

 

 未来が変わっても。形は違っても。

 

 蓮真さんは、自分の中にあるものを一人で抱えていた。

 

 そして今、三月の中にいる。

 

 「……今回も、なんですね」

 

 今日の電話で、ようやく分かった。

 

 一度目の三月を覚えている。

 

 二度目を生きている。

 

 それなのに。

 

 やっぱり蓮真さんは、自分だけで答えを探そうとしている。

 

 わたしは机の上の手紙へ目を落とした。

 

 今まで、蓮真さんは、何度も誰かの側に立ってきた。

 

 なら……今度くらいは。

 

 誰かが、蓮真さんの側に立ってもいい。

 

 わたしにできることがあるなら。

 

 今度は。蓮真さんを、三月の中に一人で残したくない。

 

 ただ、何を、どこまで話していいのか。

 

 それはまだ分からない。

 

 未来を知っていることで、逆に、その未来を変えてしまうこともある。

 

 未来を変えることは、きっと、思っているほど、簡単なことじゃない。

 

 ひとつ何かを変えれば、その先で別の何かが変わる。

 

 誰かにとって幸せな未来が、別の誰かにとっても同じように幸せだとは限らない。

 

 何かを手に入れた代わりに。

 

 誰かが、何かを失っていることだってある。

 

 わたしは、それを知っている。

 

 少なくとも、知らないふりはできないくらいには。

 

 だから蓮真さんに何を伝えるのか。

 

 慎重にならないといけない。

 

 それでも、何も伝えないままでいいとも思えなかった。

 

 だって。わたし自身。

 

 未来が変わったことで、透子さんから……

 

 そして、わたしには、もう一つ。気になっている未来がある。

 

 クリスマスイブに見た夢。

 

 現実としか思えない。まだ起きていない未来。

 

 その中で。わたしは、咲太さんと……

 

 三月三十一日

 

 赤城との打ち合わせを終えて、横浜市立大学を出たのは十四時を少し回った頃だった。

 

 金沢八景から京急線に乗る。

 

 横浜で東海道線へ乗り換え、空いていた席へ腰を下ろした。

 

 窓の外を流れていく景色を見る。

 

 三月三十一日

 

 とうとう、ここまで来た。

 

 中学一年の頃なら、今日が来ることをずっと怖がっていた。

 

 そして今も、怖くないと言えば嘘になる。

 

 今夜眠ったあと、次に目を覚ました時。

 

 四月一日なのか。それとも、また三月一日なのか。

 

 俺には分からない。

 

 でも今日はまだ、やることがある。

 

 スマホを見る。

 

 『牧之原翔子』

 

 数日前に登録した名前。

 

 《予定が終わったら連絡します》

 

 昼頃に、そうメッセージが来ていた。

 

 待ち合わせは夕方。

 

 七里ヶ浜。

 

 だからそこまでは行く。

 

 少なくとも今日は、前へ進む。

 

 戸塚を過ぎる。

 

 腹が小さく鳴った。

 

 「……」

 

 そして、ここで思い出す。

 

 一度目の三月三十一日。

 

 俺は、このあと大船で降りた。

 

 昼飯を食べ損ねていたから。

 

 そして、美東さんに会った。

 

 「……どうするかな」

 

 藤沢まで行ってもいい。

 

 そのまま七里ヶ浜へ向かっても、時間にはまだ余裕がある。

 

 でも今日は。美東さんにも、少し聞きたいことがあった。

 

 電車が大船駅へ滑り込む。

 

 ドアが開く。

 

 俺は立ち上がった。

 

 ホームへ降りる。

 

 一度目と同じ。

 

 改札へ向かう。

 

 ただ今回は。偶然を待っている自分がいる。

 

 改札を抜ける。

 

 人の流れから少し離れて、立ち止まる。

 

 数秒。

 

 十秒。

 

 「……来ないか」

 

 そもそも、一度目と同じになる保証なんてない。

 

 今日まで何度も分かったことだ。

 

 俺が違うことをすれば、周りも少しずつ変わる。

 

 諦めて歩き出そうとしたその時。

 

 「……岸和田くん?」

 

 背後から声がした。

 

 振り返る。

 

 明るめの髪をハーフアップにして、左目の下に泣きぼくろ。

 

 美東美織が立っていた。

 

 「美東さん」

 

 「久しぶり」

 

 柔らかく笑う。

 

 一度目とほとんど同じ。

 

 そのことに、少しだけ安心してしまった。

 

 「本当に久しぶりだな」

 

 「冬休み入ってから会ってないもんね」

 

 「連絡もできないし」

 

 「スマホないからね、わたし」

 

 「知ってる」

 

 「便利だよ。連絡取れない理由として」

 

 「それを便利って言うなよ」

 

 美東さんが笑う。

 

 やっぱり同じだ。

 

 少し違っていても。

 

 美東さんは美東さんだった。

 

 「今日は?」

 

 聞く。

 

 「二俣川」

 

 「免許か」

 

 美東さんが目を丸くした。

 

 「……なんで分かったの?」

 

 「二俣川って言われたら、まずそこだろ」

 

 「そう?」

 

 「少なくとも俺は」

 

 危ない。

 

 一度目を知っているから。

 

 反応が早すぎた。

 

 美東さんは少しだけ俺を見ていたが、すぐに笑った。

 

 「正解。今日取れたよ」

 

 「おめでとう」

 

 「ありがとう」

 

 少し得意そうだ。

 

 「梓川くんもいたよ」

 

 「咲太も?」

 

 知っている。

 

 でも、今回もちゃんと驚く。

 

 「うん。免許センターで会った」

 

 「受かった?」

 

 「二人とも」

 

 「そっか」

 

 「何その薄い反応」

 

 「咲太なら受かるだろ」

 

 「わたしは?」

 

 「美東さんも」

 

 「付け足した」

 

 「ちゃんと最初から思ってたよ」

 

 「怪しいなあ」

 

 美東さんは笑った。

 

 「お昼は?」

 

 今度は向こうから聞かれる。

 

 「まだ」

 

 「わたしも」

 

 「じゃあ」

 

 一度目と同じ言葉を言いかけて。

 

 少し変える。

 

 「免許祝いする?」

 

 「え?」

 

 「昼飯。俺が出すよ」

 

 美東さんがぱちりと瞬きをする。

 

 「岸和田くんから誘うんだ」

 

 「珍しい?」

 

 「ちょっと」

 

 最近、そればかり言われている気がする。

 

 「彼女できた影響?」

 

 「なんでそうなる」

 

 「人を誘えるようになったから」

 

 「俺を何だと思ってるんだよ」

 

 「一人で全部考えて、気づいたら一人で帰ってる人」

 

 「……」

 

 否定しづらい。

 

 美東さんが楽しそうに笑った。

 

 「図星?」

 

 「飯行くぞ」

 

 「あ、逃げた」

 

 美東さんの案内で、駅前を歩く。

 

 一度目にも通った道。

 

 店の看板。角にある自販機。商業ビル。

 

 記憶通りだ。

 

 でも。俺は前と同じ場所を歩きながら。

 

 前とは違うことを考えていた。

 

 「美東さん」

 

 「ん?」

 

 「記憶ってさ」

 

 「急に難しそう」

 

 「まだ何も言ってないだろ」

 

 「岸和田くんがその入り方する時、大体難しい話だもん」

 

 「そんなデータ取られてたのか」

 

 「観察です」

 

 「それ俺の役目じゃない?」

 

 「専売特許だったの?」

 

 笑いながら歩く。

 

 「で、記憶が何?」

 

 「人のことを忘れてたとして」

 

 俺は少し考える。

 

 「顔も、名前も思い出せないのに。何か一つだけ残ることってあると思う?」

 

 美東さんの歩く速度が。

 

 ほんの少しだけ落ちた。

 

 「何か一つ?」

 

 「声とか」

 

 続ける。

 

 「一緒にした約束とか」

 

 「……あるんじゃない?」

 

 「ある?」

 

 「記憶って、整理されたファイルじゃないでしょ」

 

 美東さんは前を向いたまま言う。

 

 「名前を忘れても、その人と一緒にいた時の感じだけ残るとか。逆に、名前だけ覚えてるとか」

 

 「そんなものか」

 

 「たぶん」

 

 「経験ある?」

 

 聞くと、美東さんは少しだけ笑った。

 

 「秘密」

 

 「やっぱりそれか」

 

 「便利だから」

 

 さっき俺が言ったことを返される。

 

 店へ入る。

 

 一度目と同じ、奥のテーブル席へ案内される。

 

 メニューを開く。

 

 俺は、最初から分かっていた。

 

 美東さんがどこを見るのか。

 

 「これ」

 

 案の定指が止まる。

 

 ブラックカツカレー。

 

 「肉肉しいやつ?」

 

 言ってしまった。

 

 美東さんが顔を上げる。

 

 「……食べたことあるの?」

 

 「いや」

 

 「じゃあなんで肉肉しいって分かるの?」

 

 「見れば分かる」

 

 「まだ写真しか見てないよ?」

 

 「写真でも分かるだろ」

 

 「怪しいわ〜」

 

 じっと見られる。

 

 「岸和田くん」

 

 「何」

 

 「今日ちょっと変じゃない?」

 

 「最近よく言われる」

 

 「豊浜さんにも?」

 

 「言われた」

 

 「じゃあ本当に変なんだ」

 

 「多数決で決めるな」

 

 美東さんは笑いながら、ブラックカツカレーを注文した。

 

 俺も同じものにする。

 

 料理を待つ間、美東さんが新しい免許証を出してきた。

 

 「見る?」

 

 「見せたいんだろ」

 

 「分かる?」

 

 「今日取ったばっかりだからな」

 

 受け取る。

 

 写真を見る。

 

 真顔。

 

 普段の柔らかい雰囲気がほとんどない。

 

 「美東さんっぽくないな」

 

 「でしょ?」

 

 「もっと笑ってるイメージある」

 

 「免許証で笑ったら怒られそう」

 

 「そこまでじゃないだろ」

 

 「でも、これで数年過ごすんだよ?」

 

 「諦めろ」

 

 「冷たい」

 

 俺の免許も見せることになった。

 

 美東さんが写真を見て、少し黙る。

 

 「……何?」

 

 「やっぱり考え事してそう」

 

 「証明写真だぞ」

 

 「岸和田くんって、真顔だと余計そう見える」

 

 「美東さんに言われたくない」

 

 「わたしはミステリアスだから」

 

 「自分で言うようになったのか」

 

 「岸和田くんが前に言ったんでしょ」

 

 前。

 

 その言葉に。

 

 一瞬だけ引っかかる。

 

 でも、大学で話した時のことだろう。

 

 「そうだったか?」

 

 「忘れた?」

 

 「全部覚えてるわけじゃないよ」

 

 答える。

 

 すると美東さんは少しだけ、俺を見る目を変えた気がした。

 

 料理が運ばれてくる。

 

 黒いカレー。厚いロースかつ。

 

 「肉肉しい」

 

 美東さんが言う。

 

 やっぱり、一度目と同じだった。

 

 思わず笑う。

 

 「何?」

 

 「いや」

 

 「今笑ったよね?」

 

 「言うと思った」

 

 「え?」

 

 「見たまんまだなって」

 

 「何それ」

 

 美東さんは少し不思議そうにしながら、カツを口へ運んだ。

 

 食事をしながら。

 

 明日のフェスの話になった。

 

 麻衣先輩。

 

 霧島透子。

 

 ネットでは相変わらず、麻衣先輩が霧島透子なんじゃないかという話が残っている。

 

 でも、俺はもう。一度目より強く、“違う”と思っていた。

 

 「美東さん」

 

 「何?」

 

 「霧島透子って」

 

 美東さんのスプーンが止まる。

 

 一度目にも見た、同じ動き。

 

 ほんの一瞬。

 

 でも今回は、見逃さなかった。

 

 「……何?」

 

 何事もなかったように顔を上げる。

 

 「前より気になるようになった」

 

 「前より?」

 

 しまった。

 

 「……前から」

 

 言い直す。

 

 美東さんは、何も言わない。

 

 「麻衣先輩じゃないと思う」

 

 「どうして?」

 

 「分からない」

 

 「また勘?」

 

 「ああ」

 

 俺は少し迷う。

 

 そして今度は。一度目には言わなかったことを言う。

 

 「それだけじゃない」

 

 「……何かあった?」

 

 「昔」

 

 カレーへ視線を落とす。

 

 「俺が忘れてる誰かがいるかもしれない」

 

 美東さんは黙った。

 

 「名前も分からない。顔も覚えてない。ただ」

 

 言葉を選ぶ。

 

 「声と、約束だけ少し思い出した」

 

 「どんな約束?」

 

 「富士山」

 

 「富士山?」

 

 「ああ。一緒に行こうって」

 

 美東さんは、俺を見ていた。

 

 さっきまでの、少しふざけた雰囲気が消えている。

 

 「それで」

 

 続ける。

 

 「そのことを考えると、霧島透子って名前が出てくる」

 

 「……」

 

 「理由は分からない」

 

 「そっか」

 

 それだけ。

 

 「美東さん」

 

 「ん?」

 

 「何か知ってる?」

 

 まっすぐ聞く。

 

 美東さんは、しばらく俺を見ていた。

 

 やがて、いつもの柔らかい笑顔に戻る。

 

 「どうして、わたしが?」

 

 「一度目も」

 

 言いかけて、止める。

 

 「……前から」

 

 「今日、言い間違い多くない?」

 

 「気のせい」

 

 「そうかなあ」

 

 美東さんは。

 

 それ以上追及しなかった。

 

 俺も、聞き方を変える。

 

 「霧島透子って、どんな人だと思う?」

 

 「どんな人なんだろうね」

 

 「答えになってない」

 

 「分からないから」

 

 「本当に?」

 

 「うん」

 

 笑う。

 

 その奥は、やっぱり見えなかった。

 

 少し踏み込むと、柔らかくかわされる。

 

 一度目と同じ。

 

 ただ今日は、そのかわし方そのものが。

 

 答えに見えてしまった。

 

 「岸和田くん」

 

 「何?」

 

 「思い出したいの?」

 

 不意に聞かれた。

 

 「……ああ」

 

 今回は。

 

 迷わなかった。

 

 「思い出したい」

 

 美東さんが、少しだけ目を細める。

 

 「怖くない?」

 

 「怖いよ」

 

 答える。

 

 「思い出したら、今まで自分が思ってたことが変わるかもしれない」

 

 「うん」

 

 「でも」

 

 のどか。卯月。

 

 二人の言葉を思い出す。

 

 「変わったからって、全部なくなるわけじゃないらしいから」

 

 美東さんが、ふっと笑った。

 

 「らしいんだ」

 

 「最近教えてもらった」

 

 「豊浜さん?」

 

 「それと卯月」

 

 「なるほどね」

 

 美東さんは残っていたカツを切る。

 

 「じゃあ」

 

 何でもないことみたいに言った。

 

 「思い出せるといいね」

 

 「……うん」

 

 「その人も」

 

 一度言葉が止まる。

 

 「岸和田くんに思い出してほしいかもしれないし」

 

 俺は顔を上げる。

 

 「それ」

 

 「何?」

 

 「なんでそう思う?」

 

 「なんとなく」

 

 「便利な言葉だな」

 

 「岸和田くんがよく使うから」

 

 美東さんは笑った。

 

 食事を終えて店を出る。

 

 駅へ戻る。

 

 「美東さんは?」

 

 「駅ビルで夕飯買って帰る」

 

 「今カツカレー食ったばっかりなのに?」

 

 「夜は夜」

 

 「強いな」

 

 「岸和田くんは帰るの?」

 

 聞かれて、スマホを見る。

 

 メッセージが来ていた。

 

 《予定が終わりました。十八時くらいなら大丈夫です》

 

 牧之原さん。

 

 時刻は。まだ余裕がある。

 

 「いや」

 

 答える。

 

 「七里ヶ浜に行く」

 

 「七里ヶ浜?」

 

 「人と会う約束してる」

 

 美東さんが。少しだけ口元を上げる。

 

 「女の子?」

 

 「そうだけど」

 

 「豊浜さんに言ってある?」

 

 「そういう関係じゃない」

 

 「その言い方、ちょっと危ないよ」

 

 「何が」

 

 「彼女持ちの男の人が言うやつ」

 

 「本当に違う」

 

 「信じてあげます」

 

 「上からだな」

 

 駅へ入る。

 

 そして。改札上の電光掲示板を見る。

 

 東海道線。運転見合わせ。

 

 「……やっぱり」

 

 小さく漏れた。

 

 「ん?」

 

 美東さんが振り向く。

 

 「何でもない」

 

 「今、やっぱりって言わなかった?」

 

 「言ってない」

 

 「言ったよ」

 

 「気のせい」

 

 美東さんが、じっと俺を見る。

 

 「今日の岸和田くん」

 

 「何?」

 

 「時々、答えを先に知ってる人みたい」

 

 心臓が、一度だけ強く鳴った。

 

 「そんなわけないだろ」

 

 「だよね」

 

 あっさり引く。

 

 でも笑顔の奥で。何かを考えているように見えた。

 

 「七里ヶ浜なら」

 

 俺は運行情報を見る。

 

 「湘南モノレールで湘南江の島まで行く」

 

 「即決だね」

 

 「約束あるから」

 

 「そっか」

 

 美東さんは、少しだけ優しく笑った。

 

 「じゃあ、遅れないようにね」

 

 「ああ」

 

 「大事な人?」

 

 「まだ分からない」

 

 「何それ」

 

 「会えば分かるかもしれない」

 

 美東さんは一瞬、驚いたような顔をした。

 

 それから、「そっか」と言った。

 

 改札前で別れる。

 

 「また大学で」

 

 「うん」

 

 美東さんが手を振る。

 

 俺も軽く手を上げる。

 

 「岸和田くん」

 

 背中から呼ばれて振り返る。

 

 「何?」

 

 美東さんは、少しだけ考えてから。

 

 「ちゃんと会えるといいね」

 

 「……誰に?」

 

 「今日会う人にも」

 

 少しだけ笑う。

 

 「思い出したい人にも」

 

 返事が一瞬遅れた。

 

 「……ああ」

 

 それだけ答える。

 

 美東さんは駅ビルの方へ歩いていった。

 

 俺は湘南モノレールの乗り場へ向かう。

 

 ホームには。湘南江の島行きが停まっていた。

 

 乗り込む。

 

 列車が走り出す。

 

 住宅街。

 

 高架。

 

 トンネル。

 

 そして、少し開けた場所へ出た時。

 

 霞の向こうに、富士山が見えた。

 

 「……」

 

 三月二十五日。

 

 大室山で思い出した声。

 

 ——いつか。一緒に、富士山行こうね。

 

 女の子。

 

 霧島透子。

 

 そして、今日俺がこれから会う牧之原翔子。

 

 まだ、どれも一本には繋がっていない。

 

 でも一週間前より、確実に近くなっている。

 

 湘南江の島駅で降りる。

 

 江ノ電へ乗り換える。

 

 鎌倉方面。

 

 車窓の向こうへ。

 

 海が広がる。

 

 腰越。

 

 鎌倉高校前。

 

 三月三日。

 

 牧之原さんと会った踏切が。

 

 一瞬だけ見えた。

 

 そして、次の駅。

 

 七里ヶ浜。

 

 電車を降りる。

 

 改札を抜ける。

 

 夕方の空は。

 

 少しずつ橙色へ変わり始めていた。

 

 海の方へ歩く。

 

 風が吹く。潮の匂い。

 

 国道を走る車の音。

 

 横断歩道を渡る。

 

 そして、海岸へ続く道の先。

 

 長い黒髪が、風に揺れている。

 

 牧之原さんは、まだ俺に気づいていなかった。

 

 海の方を向いている。

 

 夕暮れの水平線。

 

 空と海の境目が、遠くで一本に重なっていた。

 

 俺が声をかけようとした、その時。

 

 牧之原さんが、誰に言うでもなく口を開いた。

 

 「人の目の高さから見える水平線までの距離って、だいたい四キロメートルなんですよ」

 

 足が止まる。

 

 その言葉を、俺は知っていた。

 

 ずっと前。まだ母が生きていた頃。

 

 同じように海を見ながら、教えてもらったことがある。

 

 どうしてそんな話になったのか。もう、はっきりとは覚えていない。

 

 でも。その言葉だけは残っていた。

 

 俺は少しだけ笑う。

 

 (知ってるよ)

 

 海風が吹く。

 

 三月三十一日の夕暮れ。

 

 俺は、彼女の背中へ声をかけた。

 

 「牧之原さん」

 




登場人物紹介

名前 牧之原翔子『まきのはらしょうこ』
身長 160cm
誕生日 4月10日

幼少期から重い心臓病を抱えていた少女で、現在は病を乗り越え、この春から高校生になります。

もともとは恥ずかしがり屋でありながら、しっかり者で心優しい性格を持ち、雨の中で捨て猫へ傘を差していたところを梓川咲太と出会います。

幼い頃から自分に残された時間と向き合ってきたため、同年代の少女に比べてどこか達観したところがあります。

一方で、本質的には誰かの痛みを放っておけない人物でもあり、相手の事情を尊重しながら静かに手を差し伸べる優しさを持ちます。

生まれながらの心臓病によって将来への強い不安を抱き、その恐怖から思春期症候群を発症し、その結果まだ存在していないはずの成長した自分が現れ、咲太が中学生の頃、七里ヶ浜で出会った「牧之原翔子」へと繋がっていきます。

咲太にとって彼女は初恋の人であると同時に、その後、誰かの苦しみに手を差し伸べる生き方を形作った人物でもあります。

やがて心臓移植を受けることで病を乗り越え、現在は身体への負担を考えて沖縄で暮らしていましたが、中学卒業を機に再び神奈川へ戻ろうとしています。

穏やかで物腰も柔らかく、相手へ答えを押しつけることはほとんどありません。

しかし、その柔らかさの奥には非常に強い意志があり、自分自身が未来を恐れ、未来によって救われてきたからこそ、相手の人生を勝手に決めようとはしません。

蓮真とは高校時代から何度か接点を持っていますが、その関係には説明のつかない部分が残されています。

蓮真が知らないはずのことを知っているように振る舞い、二度目の三月では一度目とは異なる場所に現れ、彼が名乗るより先に「蓮真さん」と呼びかけます。

蓮真にとって彼女は、きちんと知っているとは言えないのに、どこか懐かしさを覚える人物でもあります。

未来を知っているようで、簡単には語らない。相手を救いたいと思っても、その人自身が選ぶ余地を奪わない。穏やかな笑顔のまま、誰かが明日へ進むための場所を残しておく。

牧之原翔子とは、過去と未来の間に立ちながら、静かに誰かの背中を支える人物といえます。
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