青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない   作:もドえラん

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おかげさまで、本作のお気に入り登録数が200を超えました。

ここまで多くの方に読んでいただき、そしてお気に入りに登録していただけて、本当に嬉しく思っています。

連載を続けていく中で、少しずつ本作を楽しみにしてくださる方が増えていることを、とてもありがたく感じています。

そして本日、いよいよ『青春ブタ野郎はディアフレンドの夢を見ない』が公開を迎えました。

原作の最終章が映画でどのように描かれるのか、私自身もとても楽しみにしています。

本作も、原作の物語を大切にしながら、蓮真たちの物語を引き続き丁寧に書いていければと思います。

これからも岸和田蓮真の物語を、どうぞよろしくお願いします。



12.三度目の三月に、君と閉じ込められる

 

 三月三十一日

 

 「牧之原さん」

 

 呼びかける。

 

 長い黒髪が、海風に揺れた。

 

 牧之原さんはすぐには振り返らなかった。

 

 水平線の向こう。沈みきった太陽の名残を、もう少しだけ見ていた。

 

 それから、ゆっくりこちらを向く。

 

 「蓮真さん」

 

 少しだけ驚いたように目を見開いて、すぐに、いつもの柔らかな笑顔になった。

 

 「来てくださったんですね」

 

 「約束したから」

 

 「はい」

 

 短い返事だった。

 

 牧之原さんは、また海の方を見る。

 

 それから、砂浜へしゃがみ込んだ。

 

 膝を抱えるほど小さくはならず、両手を膝の前で重ねている。

 

 俺は、その少し後ろに立ったままだった。

 

 「座らないんですか?」

 

 「今はいいかな」

 

 「そうですか」

 

 それ以上は勧めてこない。

 

 波が寄せ、引いていく。

 

 夕暮れの色は、もうほとんど残っていなかった。

 

 西の空だけが、薄い橙色から紫へ。その上から、少しずつ群青が降りてきている。

 

 マジックアワー。

 

 その言葉が、ふと頭に浮かんだ。

 

 三月二十日。

 

 のどかの誕生日。

 

 上野から浅草へ歩いて。

 

 夕暮れの時間に合わせて、スカイツリーへ行った。

 

 展望台の窓から見た東京も、こんな色だった。

 

 昼の青と、夜の黒。

 

 そのどちらでもない時間。

 

 のどかが隣にいた。

 

 ガラス越しに少しずつ灯り始める街を見ながら、俺はあの時間を終わらせたくないと思った。

 

 でも……あの時の俺は、それでも夜が来ることを嫌だとは思わなかった。

 

 夜になれば、また別の景色が見える。

 

 東京駅へ行った。

 

 もう少し一緒にいたいと言った。

 

 次の約束もした。

 

 夕暮れが終わることと、一日がなくなることは同じじゃなかった。

 

 「……きれいだな」

 

 口から出た。

 

 牧之原さんが空を見上げる。

 

 「はい。とても」

 

 「この時間、好き?」

 

 「好きです」

 

 少し考えてから。

 

 「でも、少しだけ寂しくもあります」

 

 「終わるから?」

 

 牧之原さんは、こちらを見た。

 

 「蓮真さんは、そう思いますか?」

 

 質問を返される。

 

 俺も空を見る。

 

 最後に残っていた橙色が、ゆっくり消えていく。

 

 「前なら、そう思ったかもしれない」

 

 「前なら?」

 

 「終わることと、なくなることを、同じだと思ってたから」

 

 牧之原さんは何も言わない。

 

 俺は続ける。

 

 「でも最近、違うらしいって分かった」

 

 「そうなんですね」

 

 「ああ」

 

 のどかと卯月。

 

 二人のことを思い出す。

 

 変わっても、壊さない。

 

 その言葉。

 

 「終わっても残るものはあるし。変わっても、なくならないものもある」

 

 「……はい」

 

 牧之原さんは、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

 「それは、とても素敵なことだと思います」

 

 「牧之原さんが言うと、なんか意味深なんだよな」

 

 「そんなつもりはありませんよ」

 

 「本当に?」

 

 「はい」

 

 少し間があった。

 

 「たぶん」

 

 「たぶんなんだ」

 

 思わず笑う。

 

 牧之原さんも、小さく笑った。

 

 ほんの少し。それだけで、張っていたものが緩んだ気がした。

 

 七里ヶ浜まで来る途中。

 

 何を聞くか、何度も考えた。

 

 高校二年の春。

 

 どうして俺を知っていたのか。

 

 一度目と二度目の三月。

 

 どうして違う場所にいたのか。

 

 俺が知らない可能性を、牧之原さんは知っているのか。

 

 聞きたいことはいくつもある。

 

 でも、目の前にいる牧之原さんを見ると、最初に口から出たのは別の言葉だった。

 

 「さっきの水平線の話」

 

 「はい」

 

 「俺、知ってた」

 

 牧之原さんの目が、少しだけ大きくなる。

 

 「そうだったんですね」

 

 「ああ。昔、聞いたことがある」

 

 「誰にですか?」

 

 「……母親」

 

 自分で言ってから。

 

 思ったより自然に、その言葉が出たことに気づく。

 

 以前なら、少し間を置いていたかもしれない。

 

 牧之原さんは、ただ静かに頷いた。

 

 「大切な思い出なんですね」

 

 「多分」

 

 「多分、ですか?」

 

 「昔のことだから。細かいところはもう覚えてない」

 

 海を見る。

 

 「でも、言葉だけ残ってた」

 

 人の目の高さから見える水平線までの距離。

 

 だいたい四キロメートル。

 

 六年前のノートと同じだった。

 

 感情が消えても、名前を忘れても。

 

 何か一つだけ、残る。

 

 「……牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「聞きたいことがある」

 

 牧之原さんは、しゃがんだままこちらを見上げた。

 

 俺は立っている。

 

 視線の高さだけなら、俺の方がずっと上だった。

 

 なのに。なぜか、見透かされているような気がした。

 

 「高校二年の春」

 

 一度、息を吐く。

 

 「俺と会った時から、俺のこと知ってたよな」

 

 「はい」

 

 今度は、迷わなかった。

 

 「三月三日も。一度目とは違う場所にいた」

 

 「はい」

 

 「それに」

 

 少しだけ言葉を止める。

 

 「俺が名乗る前から、蓮真さんって呼んだ」

 

 風が吹く。

 

 空は、もうほとんど夜だった。

 

 牧之原さんの髪が揺れる。

 

 しばらくして。

 

 「……蓮真さん」

 

 彼女が口を開く。

 

 「わたしも、今日お話ししようと思っていました」

 

 「俺のこと?」

 

 「はい」

 

 そして。少しだけ困ったように笑った。

 

 「今の蓮真さんと」

 

 一度、言葉を切る。

 

 「わたしが知っている、別の蓮真さんのことを」

 

 波の音が響く。

 

 俺は、何も言わなかった。

 

 牧之原さんは、もう一度海を見る。

 

 昼でも夜でもない時間は、もう終わっていた。

 

 七里ヶ浜に。夜が来ていた。

 

 「……別の俺?」

 

 聞き返すと、牧之原さんは小さく頷いた。

 

 「はい」

 

 「どういうこと?」

 

 「その前に、少しだけ、わたしの話をしてもいいですか?」

 

 「牧之原さんの?」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、海の方へ向き直った。

 

 「わたし」

 

 少しだけ間を置いて。

 

 「心臓の病気だったんです」

 

 「……え?」

 

 思わず、彼女を見る。

 

 牧之原さんは、穏やかな表情のままだった。

 

 「生まれつき、心臓に病気がありました。小さい頃から、何度も入院していて」

 

 「……そうだったんだ」

 

 「はい」

 

 「今は?」

 

 「今は、元気ですよ」

 

 そう言って、少し笑う。

 

 「こうして海まで来られるくらいには」

 

 「……そっか」

 

 安心しかけた。でも、牧之原さんは続けた。

 

 「ただ、昔は、そうではなかったんです」

 

 「……」

 

 「小学校を卒業する頃には、心臓の移植を受けなければ、長く生きられないと言われていました」

 

 「移植……」

 

 その言葉を、頭の中で繰り返す。

 

 「はい」

 

 「……そんなに悪かったの?」

 

 「そうですね」

 

 牧之原さんは、静かに答えた。

 

 「中学生になれるかどうかも、分からなかったんです」

 

 言葉が出なかった。

 

 目の前にいる少女は、俺より少し年下で。

 

 今は普通に話している。

 

 この春から、峰ヶ原高校へ通うと言っていた。

 

 その牧之原さんが。中学生になれるかどうかも分からなかった。

 

 「……怖くなかった?」

 

 気づけば、そう聞いていた。

 

 牧之原さんは、少しだけ目を伏せた。

 

 「怖かったですよ」

 

 その答えは、思ったより早かった。

 

 「みんなが当たり前に話している将来のことが、わたしには、当たり前ではありませんでしたから」

 

 「……」

 

 「中学校へ行くことも。高校へ進学することも。大人になることも」

 

 海風が吹く。

 

 「だから、将来の予定を書くことが、なかなかできなかったんです」

 

 「予定?」

 

 「はい。小学校の授業で、将来の自分について考えることがあって」

 

 牧之原さんは、少し懐かしそうに笑った。

 

 「みんなは、なりたい職業や、やってみたいことを書いていました」

 

 「……うん」

 

 「でも、わたしには、未来の自分が想像できなかったんです」

 

 その言葉が、胸の奥に引っかかった。

 

 未来の自分。

 

 中学一年の俺も、似たようなことを考えていた。

 

 三月三十一日を越えられない。

 

 四月一日が来るかどうか分からない。

 

 ただ、俺の場合は。明日が来ないことを、望んでいた時もあった。

 

 牧之原さんは、違う。

 

 明日が来ることを、願っていた。

 

 「……それで?」

 

 俺が聞くと、牧之原さんは頷いた。

 

 「わたしは、未来へ進むことが怖くなってしまったんです」

 

 「未来へ?」

 

 「はい」

 

 「生きたいのに?」

 

 「……そうなんです」

 

 少しだけ困ったように笑った。

 

 「生きたいからこそ、怖かったんだと思います」

 

 「……」

 

 「未来へ進めば、いつか、わたしがいなくなる日が来てしまうかもしれない」

 

 波の音が響く。

 

 「でも、未来へ進まなければ、わたしが望んでいたことも、何一つ叶いません」

 

 「……そっか」

 

 「その気持ちが、思春期症候群になったんだと思います」

 

 俺は、顔を上げた。

 

 「……思春期症候群?」

 

 「はい」

 

 「牧之原さんも?」

 

 「そうなんです」

 

 その言葉で、ようやく話が繋がり始めた。

 

 高校二年の春。

 

 初めて会ったはずの俺を、牧之原さんは知っていた。

 

 三月三日。

 

 一度目とは違う場所に現れた。

 

 そして、今の三月について聞いても、肯定も否定もしなかった。

 

 「……どんな?」

 

 聞く。

 

 牧之原さんは、少し考えてから答えた。

 

 「まだ来ていないはずの未来のわたしが、現れたんです」

 

 「未来の?」

 

 「はい」

 

 「……それって」

 

 「中学生のわたしとは別に、大人になったわたしがいたんです」

 

 思わず、黙った。

 

 未来の自分。

 

 それが、今の世界に現れる。

 

 俺が経験した三月の繰り返しとは違う。

 

 でも、全く関係のない話にも思えなかった。

 

 「その大人の牧之原さんは、どうしてたの?」

 

 「咲太さんと出会いました」

 

 「……咲太と?」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、少しだけ笑った。

 

 「咲太さんが中学生だった頃、七里ヶ浜で」

 

 「……」

 

 「その時のわたしは、咲太さんより年上でした」

 

 咲太。

 

 七里ヶ浜。

 

 未来の牧之原翔子。

 

 その三つが、ようやく頭の中で結びつく。

 

 「……咲太が前に言ってた、初恋の人って」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、少し恥ずかしそうに頷いた。

 

 「わたしです」

 

 「……そういうことか」

 

 今まで、咲太が話していたこと。

 

 麻衣先輩と出会う前。

 

 七里ヶ浜で出会った少女。

 

 その理由が、ようやく分かった。

 

 「じゃあ、咲太が中学生の時に会った牧之原さんは」

 

 「未来の可能性の一つだったんです」

 

 「……可能性」

 

 その言葉に、反応してしまった。

 

 牧之原さんが、こちらを見る。

 

 「蓮真さん?」

 

 「いや」

 

 少し考える。

 

 「俺も、似たような言葉を最近ずっと考えてたから」

 

 「そうだったんですね」

 

 「ああ」

 

 中学一年の三月。

 

 選ばなかった可能性。

 

 母親が生きている世界。

 

 今の三月。

 

 そして、未来から現れた牧之原翔子。

 

 「……それで」

 

 俺は聞いた。

 

 「今の牧之原さんは、どうして元気になったの?」

 

 牧之原さんは、少しだけ表情を変えた。

 

 笑顔が消えたわけではない。

 

 ただ、さっきまでより、少しだけ静かになった。

 

 「心臓の移植を受けたからです」

 

 「……そっか」

 

 「はい」

 

 「よかったな」

 

 自然に、その言葉が出た。

 

 牧之原さんは、俺を見た。

 

 少し驚いたような顔だった。

 

 「……ありがとうございます」

 

 「ああ」

 

 「でも」

 

 彼女は、海の方へ目を向けた。

 

 「その心臓は、誰かが亡くなったことで、わたしのところへ来たものなんです」

 

 「……」

 

 「わたしが生きられるようになった未来には、別の誰かが亡くなった出来事がありました」

 

 波が、足元近くまで寄せてくる。

 

 俺は、何も言えなかった。

 

 「もちろん、心臓の移植は、誰かが亡くなったからといって、必ずできるものではありません」

 

 「……うん」

 

 「でも、わたしが見てきた未来の中には、そうして、わたしが助かった未来がありました」

 

 「……誰が?」

 

 聞いてしまった。

 

 牧之原さんは、すぐには答えなかった。

 

 少しだけ、唇を結ぶ。

 

 それから……彼女は、ゆっくり口を開いた。

 

 「……咲太さんです」

 

 「……え?」

 

 聞き返した。

 

 牧之原さんは、こちらを見なかった。

 

 ただ、海の方を向いたまま。

 

 「わたしが見てきた未来の一つでは、咲太さんの心臓を移植してもらったんです」

 

 「……咲太の?」

 

 「はい」

 

 その返事を聞いても、すぐには理解できなかった。

 

 咲太。

 

 梓川咲太。

 

 ついこの間まで、普通に顔を合わせていた。

 

 麻衣先輩の隣にいて。いつも通り、余計なことを言って。

 

 それでいて、誰かが困っていれば放っておけない。

 

 あの咲太の心臓が。牧之原さんの中に。

 

 「……待って」

 

 思わず言った。

 

 「それって」

 

 言葉が続かない。

 

 牧之原さんは、静かに待っていた。

 

 「……咲太が、死んだってこと?」

 

 「はい」

 

 波が寄せる。

 

 それから、引いていく。

 

 「その未来では、咲太さんは亡くなりました」

 

 「……なんで」

 

 声が、自分でも分かるくらい低くなった。

 

 「何があったの?」

 

 「交通事故です」

 

 「……事故?」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、小さく頷いた。

 

 「三年前の十二月二十四日。クリスマスイブのことでした」

 

 十二月二十四日。

 

 その日付を、頭の中で繰り返す。

 

 「咲太さんは、麻衣さんとイルミネーションを見に行く約束をしていたそうです」

 

 「……麻衣先輩と?」

 

 「はい」

 

 少しだけ、間があった。

 

 「でも、その途中で、事故に巻き込まれてしまったんです」

 

 「……」

 

 「雪でスリップした車が、咲太さんのところへ」

 

 そこまで言って、牧之原さんは口を閉じた。

 

 俺も、何も言えなかった。

 

 雪。クリスマスイブ。

 

 麻衣先輩との約束。

 

 そのどれもが、咲太の死と結びつかなかった。

 

 「……助からなかったの?」

 

 「病院へ運ばれました。でも、意識は戻らなかったそうです」

 

 「……」

 

 「そのまま、脳死と判定されました」

 

 風が吹いた。

 

 さっきまで、あまり気にならなかった寒さが、急に肌に触れた。

 

 「……そうだったんだ」

 

 それしか言えなかった。

 

 牧之原さんは、膝の前で重ねていた手を見つめている。

 

 「咲太さんは、わたしの病気のことを知っていました」

 

 「……知ってたの?」

 

 「はい」

 

 「心臓の移植が必要なことも?」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、少しだけ笑った。

 

 「ずっと、わたしが元気になることを願ってくれていたんです」

 

 「……咲太らしいな」

 

 思わず、そう言った。

 

 牧之原さんも頷いた。

 

 「はい。とても」

 

 でも、その笑顔は長く続かなかった。

 

 「ただ、咲太さんは、自分が事故に遭うことなんて知りませんでした」

 

 「……うん」

 

 「わたしを助けるために、事故に遭ったわけでもありません」

 

 「……そっか」

 

 「本当に、偶然だったんです」

 

 偶然。

 

 その言葉が、妙に重かった。

 

 誰かが選んだわけじゃない。

 

 誰かが望んだわけでもない。

 

 それでも、一人が亡くなって。

 

 もう一人が、生きられるようになった。

 

 「……じゃあ」

 

 俺は、少し考えてから聞いた。

 

 「牧之原さんは、いつ知ったの?」

 

 「手術が終わったあとです」

 

 「……手術のあと?」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、海から目を離した。

 

 「病院に、麻衣さんが来てくれたんです」

 

 「……麻衣先輩が」

 

 「手術が成功したことを、お祝いしてくれました」

 

 その光景を、想像しようとした。

 

 病室。

 

 手術を終えた牧之原さん。

 

 そこへやって来る麻衣先輩。

 

 でも……その世界には、咲太がいない。

 

 「……それで?」

 

 「最初は、いつも通りでした」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を伏せた。

 

 「でも、麻衣さんは、わたしに伝えなければならないことがあると」

 

 「……」

 

 「咲太さんが亡くなったことを、教えてくれました」

 

 波の音が響く。

 

 「それから」

 

 一度、言葉が止まった。

 

 「わたしの心臓のドナーが、咲太さんだったことも」

 

 「……」

 

 「咲太さんのお財布から、臓器提供の意思表示カードが見つかったそうです」

 

 「……そうなんだ」

 

 牧之原さんは、自分の胸元に手を添えた。

 

 「十二月二十七日。わたしは、心臓の移植を受けました」

 

 十二月二十七日。

 

 クリスマスイブから、三日後。

 

 目の前にいる牧之原さんは、今、普通に呼吸をしている。

 

 こうして話している。

 

 四月になれば、高校へ通う。

 

 でも、今聞いた未来では。そのために、咲太がいなくなっていた。

 

 「……牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「それを知った時、どう思った?」

 

 聞いてから。ひどい質問だったかもしれないと思った。

 

 でも、牧之原さんは怒らなかった。

 

 少しだけ考えてから、答えた。

 

 「……信じられませんでした」

 

 「……」

 

 「だって、咲太さんは、わたしが生きられることを、ずっと願ってくれていたんです」

 

 「うん」

 

 「元気になったら、やりたいことがたくさんありました」

 

 「……うん」

 

 「その時には、咲太さんにも、お礼を言いたかったんです」

 

 牧之原さんは、少しだけ笑った。

 

 「ありがとうって。元気になりましたって」

 

 「……」

 

 「でも、それができなくなってしまいました」

 

 笑顔が、ゆっくり消えた。

 

 「わたしが元気になった時には、もう、咲太さんはいなかったんです」

 

 何も言えなかった。ただ、波の音だけが聞こえた。

 

 「……それでも」

 

 しばらくして、牧之原さんが続けた。

 

 「咲太さんが、わたしに生きてほしいと思ってくれていたことは、分かっていました」

 

 「……うん」

 

 「だから、わたしも、生きようと思ったんです」

 

 牧之原さんは、夜の海を見つめた。

 

 「中学校を卒業して。高校へ行って。その先の未来も」

 

 「……」

 

 「咲太さんが願ってくれた分まで、というのは、少し違うかもしれませんけど」

 

 少しだけ、困ったように笑う。

 

 「わたし自身の未来を、ちゃんと生きてみたかったんです」

 

 「……そっか」

 

 ようやく、それだけ返した。

 

 昼でも夜でもない時間は、もう終わっている。

 

 それでも、海はそこにあった。

 

 波は、変わらず寄せてくる。

 

 「……なあ、牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「その世界の咲太は、麻衣先輩と付き合ってたんだよな」

 

 「はい」

 

 「……麻衣先輩は、どうしてた?」

 

 牧之原さんは、すぐには答えなかった。

 

 少しだけ、海の向こうを見つめる。

 

 「……悲しんでいました」

 

 「……そうだよな」

 

 「とても」

 

 その一言で、十分だった。

 

 麻衣先輩が、咲太を失う。

 

 そんなこと、考えたこともなかった。

 

 いつも二人でいるのが、当たり前になっていたから。

 

 「……その世界には」

 

 気づけば、聞いていた。

 

 「俺も、いたの?」

 

 牧之原さんが、こちらを見る。

 

 「はい」

 

 迷いのない返事だった。

 

 「蓮真さんも、いました」

 

 「……そっか」

 

 「だから、わたしは蓮真さんのことを知っているんです」

 

 風が吹く。

 

 牧之原さんの髪が、夜の海へ向かって揺れた。

 

 「……その俺は」

 

 一度、言葉を止める。

 

 「咲太が亡くなった時……どうしてた?」

 

 牧之原さんは、少しだけ考えた。

 

 そして、静かに口を開いた。

 

 「そのお話をするには、もう少しだけ、あの頃のことをお話ししないといけませんね」

 

 「……ああ」

 

 「咲太さんがいなくなったあとも、残された人たちの時間は、進んでいましたから」

 

 俺は、牧之原さんの言葉を待った。

 

  「……その世界には」

 

 気づけば、聞いていた。

 

 「俺も、いたの?」

 

 牧之原さんが、こちらを見る。

 

 「はい」

 

 迷いのない返事だった。

 

 「蓮真さんも、いました」

 

 「……そっか」

 

 「だから、わたしは蓮真さんのことを知っているんです」

 

 風が吹く。

 

 牧之原さんの髪が、夜の海へ向かって揺れた。

 

 「……その俺は」

 

 一度、言葉を止める。

 

 「咲太が亡くなった時……どうしてた?」

 

 牧之原さんは、少しだけ考えた。

 

 そして、静かに口を開いた。

 

 「……麻衣さんのそばに、いたそうです」

 

 「……麻衣先輩の?」

 

 「はい」

 

 「……そうなんだ」

 

 牧之原さんは、頷いた。

 

 「咲太さんが亡くなってから、麻衣さんは、しばらく学校をお休みしていたそうです」

 

 「……うん」

 

 「蓮真さんは、そんな麻衣さんのところへ、時々会いに行っていたと聞きました」

 

 「……俺が?」

 

 「はい」

 

 「……何をしに?」

 

 「特別なことは、何もしていなかったそうです」

 

 「何も?」

 

 「食事をしたか聞いたり。必要なものを買ってきたり。学校からの連絡を伝えたり」

 

 「……」

 

 「それから、麻衣さんが話したい時には、話を聞いていたそうです」

 

 波の音が響く。

 

 「……そっか」

 

 そう答えながら。

 

 胸の奥に、何かが引っかかった。

 

 麻衣先輩。

 

 咲太が亡くなった世界。

 

 その二つを並べた時。

 

 ふと、思い出したことがあった。

 

 高校時代の、大晦日。

 

 あの夜に見た、奇妙な夢。

 

 ……いや。あれは、本当に夢だったんだろうか。

 

 「……牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「咲太が亡くなったあと、通夜はあったんだよな」

 

 「……はい」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を伏せた。

 

 「わたしは、その場にはいませんでしたけど」

 

 「……そうだよな」

 

 「どうしてですか?」

 

 「いや……」

 

 言いかけて、止まる。

 

 覚えている。

 

 黒い服。

 

 線香の匂い。誰かのすすり泣く声。

 

 その中で、麻衣先輩だけが、妙に落ち着いていた。

 

 参列した人に頭を下げて。

 

 礼を言って。

 

 咲太のことを聞かれれば、静かに答えていた。

 

 でも……誰もいなくなった時。

 

 麻衣先輩は、ようやく顔を伏せた。

 

 俺は、その隣にいた。

 

 何を言えばいいのか分からなくて。

 

 それでも、何かを言わなきゃいけない気がして。

 

 結局何も言えないまま、そばにいた。

 

 ……そんな夢だった。

 

 「……蓮真さん?」

 

 牧之原さんの声で、我に返る。

 

 「……ごめん」

 

 「大丈夫ですか?」

 

 「ああ」

 

 少しだけ、息を吐く。

 

 「……昔、変な夢を見たことがあって」

 

 「夢、ですか?」

 

 「うん」

 

 牧之原さんは、何も言わなかった。

 

 俺は続ける。

 

 「咲太が亡くなって。麻衣先輩が、その通夜にいて」

 

 「……」

 

 「俺が、麻衣先輩のそばにいる夢」

 

 牧之原さんの表情が、わずかに変わった。

 

 「……そうだったんですね」

 

 「ああ」

 

 「いつ頃、見たんですか?」

 

 「高校生の時。大晦日だったと思う」

 

 「……大晦日」

 

 牧之原さんは、その言葉を小さく繰り返した。

 

 「……でも、それだけじゃないんだ」

 

 「はい」

 

 「そのあと、病院へ行く夢も見た」

 

 「……病院?」

 

 「うん」

 

 あの時のことも、覚えている。

 

 白い廊下。消毒液の匂い。

 

 病室の前に立つ、麻衣先輩。

 

 俺は、その少し後ろにいた。

 

 麻衣先輩は、これから病室にいる女の子に、大切なことを伝えなければならないと言っていた。

 

 咲太が亡くなったこと。

 

 そして。咲太の心臓が、その子に移植されたこと。

 

 「……麻衣先輩が、女の子に会いに行くんだ」

 

 「……」

 

 「中学生くらいの子だったと思う」

 

 牧之原さんは、黙って聞いていた。

 

 「俺は、病室の前まで一緒に行って」

 

 そこで、言葉が止まった。

 

 さっき聞いた話。

 

 麻衣先輩が、牧之原さんの病室を訪ねたこと。

 

 咲太の死を伝えたこと。

 

 心臓のドナーが咲太だったこと。

 

 ……同じだ。

 

 「……待って」

 

 思わず、呟いた。

 

 牧之原さんが、こちらを見る。

 

 「……どうしました?」

 

 「その病室にいた女の子って」

 

 口にしてから、自分でも、何を聞こうとしているのか分かった。

 

 「……牧之原さん、だったのか?」

 

 牧之原さんは、すぐには答えなかった。

 

 しばらくして「……そうかもしれませんね」と静かに、そう言った。

 

 「……かもしれない?」

 

 「はい」

 

 「……」

 

 「蓮真さんが、どんな夢を見たのか。わたしには、分かりませんから」

 

 「……そっか」

 

 確かに、そうだ。

 

 同じような出来事を夢に見たからといって。

 

 それが、本当に起きたことだとは限らない。

 

 でも偶然にしては、出来すぎていた。

 

 「……それで」

 

 牧之原さんが、口を開いた。

 

 「夢は、それだけだったんですか?」

 

 「……いや」

 

 答えてから。

 

 少しだけ、迷った。

 

 もう一つ。

 

 覚えている夢がある。

 

 それは、今までの二つとは、少し違っていた。

 

 横浜の街。

 

 人通りのある道。

 

 夕暮れの光。

 

 俺の前には、麻衣先輩が立っていた。

 

 でも。その時の俺は、麻衣先輩を、麻衣先輩とは呼んでいなかった。

 

 “麻衣さん”

 

 そう呼んでいた。

 

 いつものように、先輩をつけずに。

 

 そして……俺は、彼女に告白していた。

 

 何を言ったのか。細かい言葉までは、覚えていない。

 

 ただ。あの時の俺が、本気だったことだけは、妙にはっきり覚えている。

 

 「……もう一つ、あった」

 

 「はい」

 

 「でも、こっちは……」

 

 少しだけ、言葉に詰まる。

 

 牧之原さんは、急かさなかった。

 

 「……咲太が亡くなってから、何ヶ月か経った頃だと思う」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を見開いた。

 

 「……そうだったんですね」

 

 「……うん」

 

 変な気分だった。

 

 今の俺には、のどかがいる。

 

 麻衣先輩には、咲太がいる。

 

 だからそんな未来を、考えたことはなかった。

 

 「……なあ」

 

 「はい」

 

 「牧之原さんは、俺のこと、いつから知ってたの?」

 

 「……そうですね」

 

 牧之原さんは、少し考えた。

 

 「麻衣さんに紹介していただく前から、名前は知っていました」

 

 「……そうなの?」

 

 「はい」

 

 「誰から?」

 

 「理央さんです」

 

 「……双葉?」

 

 意外な名前だった。

 

 「はい」

 

 「双葉と、知り合いだったんだ」

 

 「咲太さんを通じて、お話しすることがあったんです」

 

 「……なるほど」

 

 「双葉さんは、蓮真さんのことを、時々話していました」

 

 「……何て?」

 

 牧之原さんは、少しだけ笑った。

 

 「人のことはよく見ているのに、自分のことになると鈍いって」

 

 「……双葉らしいな」

 

 思わず、苦笑する。

 

 「それから、少し心配もしていました」

 

 「……心配?」

 

 「はい」

 

 「……俺のことを?」

 

 「そうです」

 

 牧之原さんは、静かに頷いた。

 

 「誰かが困っていると、放っておけない人だからって」

 

 「……」

 

 「でも、その人自身が困っている時に、誰が気づいてあげるんだろうって」

 

 波の音が響いた。

 

 「……そんなこと、言ってたんだ」

 

 「はい」

 

 「……そっか」

 

 双葉理央。

 

 あいつなら、言いそうだった。

 

 面と向かって言われたら、少し腹が立つかもしれない。

 

 でも今なら、分かる気もした。

 

 「……それで、麻衣先輩に紹介されたんだ」

 

 「はい」

 

 「……どんな感じだった?」

 

 「最初は、少し緊張しました」

 

 「……牧之原さんが?」

 

 「はい」

 

 少しだけ、恥ずかしそうに笑う。

 

 「理央さんからお名前を聞いていましたし。麻衣さんからも、優しい人だと聞いていましたから」

 

 「……期待されてたんだ」

 

 「そうかもしれません」

 

 「……実際は?」

 

 牧之原さんは、少し考えた。

 

 「……思っていたより、静かな人でした」

 

 「……そう」

 

 「でも」

 

 彼女は、続けた。

 

 「わたしが話すのを、ずっと待ってくれたんです」

 

 「……」

 

 「病気のことも。咲太さんのことも。無理に聞こうとはしませんでした」

 

 「……そっか」

 

 「だから、少し安心しました」

 

 牧之原さんは、微笑んだ。

 

 「この人には、いつか、ちゃんとお話しできるかもしれないって」

 

 「……」

 

 「そう思ったんです」

 

 風が吹く。

 

 俺は、夜の海を見つめた。

 

 その世界の俺。

 

 咲太を失って。麻衣先輩のそばにいて。

 

 牧之原さんと出会って。

 

 ……それから。

 

 何を考えて、何を選んだんだろう。

 

 「……牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「その俺は、どんな人だった?」

 

 牧之原さんは、すぐには答えなかった。

 

 少しだけ考えてから。

 

 「……優しい人でした」

 

 そう言った。

 

 「……それだけ?」

 

 「いいえ」

 

 牧之原さんは、小さく首を横に振った。

 

 「少し、不器用な人でもありました」

 

 「……不器用」

 

 「はい」

 

 「……どんなところが?」

 

 「誰かの気持ちは、大切にするのに」

 

 一度、言葉を切る。

 

 「自分の気持ちは、後回しにしてしまうところです」

 

 「……」

 

 「麻衣さんのことも、わたしのことも、気にかけてくれていました」

 

 「……うん」

 

 「でも、自分がどうしたいのかは、なかなか話してくれませんでした」

 

 海を見る。

 

 「……今の俺と、似てるな」

 

 「そうですね」

 

 否定しないんだ。

 

 「でも、今の蓮真さんは、少し違うと思います」

 

 「……違う?」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、こちらを見た。

 

 「今の蓮真さんには、自分で選んだものがあるんじゃないですか?」

 

 「……」

 

 のどか。

 

 その名前が、真っ先に浮かんだ。

 

 三月二十日。

 

 スカイツリー。東京駅。

 

 もう少し一緒にいたいと言ったこと。

 

 次の約束をしたこと。

 

 「……あるよ」

 

 そう答えると牧之原さんは、嬉しそうに笑った。

 

 「そうですか」

 

 「……うん」

 

 「それなら、よかったです」

 

 その言葉が、妙に優しく聞こえた。

 

 俺は、もう一度、海を見た。

 

 咲太が亡くなった世界。

 

 麻衣先輩が、咲太を失った世界。

 

 その中で、俺は誰かを支えようとしていた。

 

 そしてあの夢が、本当にその世界の出来事だったのなら。

 

 俺は、麻衣先輩を好きになっていた。

 

 ……でも。

 

 今の俺は、違う。

 

 咲太は生きている。麻衣先輩も生きている。

 

 のどかがいる。卯月がいる。

 

 俺が選んだ三月が、ここにある。

 

 それなのに。どうして俺は、あの世界のことを夢に見たんだろう。

 

 「……牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「俺、もう一つ聞きたいことがある」

 

 「何でしょう?」

 

 「……その世界の記憶って」

 

 一度、言葉を止める。

 

 「今の俺にも、残ることがあるのかな」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を見開いた。

 

 それから静かに、海の方を向いた。

 

 「……そうですね」

 

 「わたしは、あると思います」

 

 「……どうして?」

 

 牧之原さんは、少しだけ微笑んだ。

 

 「だって、蓮真さん」

 

 彼女は、こちらを見る。

 

 「今、思い出したんですよね」

 

 「……」

 

 「わたしが知っている、別の未来のことを」

 

 何も言えなかった。

 

 ただあの大晦日の夢が。今までよりも、ずっと近くに感じられた。

 

 「……そういえば」

 

 ふと、思い出したことがあった。

 

 牧之原さんが、こちらを見る。

 

 「どうしました?」

 

 「俺たち、病院でも会ったことなかった?」

 

 「……病院、ですか?」

 

 「うん。高校生の時。十二月だったと思う」

 

 あの日のことは、今でも覚えている。

 

 インフルエンザと診断されて。

 

 病院で、偶然、咲太が入院していることを知った。

 

 病室の前まで行ったのに。

 

 結局、顔を合わせることができなかった。

 

 そしてそこで出会った、一人の女性。

 

 「……病院」

 

 牧之原さんが、静かに言った。

 

 「そうです。お会いしました」

 

 「……やっぱり」

 

 「はい」

 

 「じゃあ、あの時の……」

 

 「大人のわたしです」

 

 牧之原さんは、少しだけ笑った。

 

 「……そっか」

 

 ようやく、繋がった。

 

 あの時の女性。

 

 俺の名前を知っていて。咲太のことも知っていて。

 

 初めて会ったはずなのに、初対面とは思えなかった人。

 

 あれが、未来の牧之原翔子だった。

 

 「……あの時さ」

 

 「はい」

 

 「俺に、変なこと言ったよな」

 

 「変なこと、ですか?」

 

 「うん」

 

 少しだけ考える。

 

 あの時、何と言われたんだったか。

 

 記憶を辿る。

 

 病室の前。帰ろうとしていた俺。

 

 そして。

 

 『大丈夫ですよ。岸和田くんも、咲太くんにとっての“灯り”でしたから』

 

 「……灯り」

 

 口に出す。

 

 牧之原さんが、少しだけ目を見開いた。

 

 「……覚えていてくれたんですね」

 

 「ああ」

 

 「……嬉しいです」

 

 「でも、意味が分からなかった」

 

 正直に言う。

 

 「俺が、咲太の灯りだったって」

 

 「……はい」

 

 「咲太に助けられたことなら、いくらでもある。でも、俺があいつに何かしてやれたことって、そんなに思いつかないんだよな」

 

 牧之原さんは、何も言わなかった。

 

 「だから、ずっと気になってた」

 

 「……そうだったんですね」

 

 「うん」

 

 一度、息を吐く。

 

 「……あれ、どういう意味だったの?」

 

 牧之原さんは、少しだけ海の方を見た。

 

 それから、静かに口を開いた。

 

 「……蓮真さん」

 

 「うん」

 

 「さっき、わたしがお話しした世界のことを、覚えていますか?」

 

 「……咲太が亡くなった世界?」

 

 「はい」

 

 「もちろん」

 

 「その世界で、咲太さんが亡くなったあとも、残された人たちの時間は続いていました」

 

 「……うん」

 

 「麻衣さんも。花楓さんも。双葉さんも」

 

 少しだけ、間を置く。

 

 「そして、わたしも」

 

 波が寄せる。引いていく。

 

 「咲太さんがいなくなって、とても悲しかったです」

 

 「……」

 

 「それでも、みんな、生きていかなければなりませんでした」

 

 「……うん」

 

 「でも、そんな時に」

 

 牧之原さんは、こちらを見た。

 

 「蓮真さんが、いてくれたんです」

 

 「……俺が?」

 

 「はい」

 

 「……」

 

 「麻衣さんが、咲太さんのことを話したくなった時も」

 

 「……」

 

 「わたしが、咲太さんのことを思い出して、泣いてしまった時も」

 

 牧之原さんは、少しだけ微笑んだ。

 

 「蓮真さんは、そばにいてくれました」

 

 「……そっか」

 

 「はい」

 

 「……でも」

 

 少し考える。

 

 「それって、俺が麻衣先輩や牧之原さんを支えたって話だよな」

 

 「そうですね」

 

 「……咲太の灯りだったっていうのとは、違わない?」

 

 牧之原さんは、少しだけ笑った。

 

 「蓮真さんは、そう思いますか?」

 

 「……うん」

 

 「では、一つだけ聞いてもいいですか?」

 

 「……何?」

 

 「咲太さんは、麻衣さんや花楓さんのことを、どう思っていたでしょうか」

 

 「……どうって」

 

 考えるまでもなかった。

 

 「大切にしてたよ」

 

 「はい」

 

 「……ものすごく」

 

 「そうですね」

 

 「……それが?」

 

 「咲太さんは、きっと、みんなに幸せでいてほしかったと思うんです」

 

 「……うん」

 

 「でも、あの世界では、咲太さん自身が、みんなのそばにいることはできなくなってしまいました」

 

 波の音が響く。

 

 「……そうだな」

 

 「それでも、麻衣さんたちは、一人きりではありませんでした」

 

 「……」

 

 「蓮真さんが、いてくれたからです」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を細めた。

 

 「咲太さんが大切にしていた人たちを、蓮真さんも、大切にしてくれました」

 

 「……」

 

 「咲太さんがいなくなってしまったあとも、その人たちが前へ進めるように、そばにいてくれたんです」

 

 俺は、何も言えなかった。

 

 「だから、わたしは」

 

 牧之原さんは、続けた。

 

 「蓮真さんも、咲太さんにとっての灯りだったと思うんです」

 

 「……」

 

 「咲太さんがいなくなった世界で、咲太さんの大切な人たちを照らしてくれた灯りです」

 

 風が吹いた。

 

 遠くに見える街の灯りが、海面で小さく揺れていた。

 

 「……そっか」

 

 ようやく、それだけ返した。

 

 「……そういう意味だったんだ」

 

 「はい」

 

 「でも、それって」

 

 少しだけ、言葉を探す。

 

 「咲太の代わりになった、ってことなのかな」

 

 牧之原さんは、首を横に振った。

 

 「いいえ」

 

 迷いのない返事だった。

 

 「蓮真さんは、咲太さんではありませんから」

 

 「……うん」

 

 「麻衣さんも、わたしも、蓮真さんに咲太さんの代わりになってほしかったわけではありません」

 

 「……」

 

 「ただ、蓮真さんが蓮真さんとして、そばにいてくれたことが、嬉しかったんです」

 

 その言葉が、胸の奥に残った。

 

 咲太の代わりではない。

 

 俺は、俺として。誰かのそばにいた。

 

 「……なあ、牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「咲太がいなくなった世界の俺は、ちゃんと、誰かの役に立ててたのかな」

 

 牧之原さんは、少しだけ困ったように笑った。

 

 「……蓮真さん」

 

 「うん」

 

 「役に立ったかどうか、だけではないと思いますよ」

 

 「……え?」

 

 「わたしたちは、蓮真さんがいてくれて、嬉しかったんです」

 

 「……」

 

 「それだけでは、だめですか?」

 

 答えられなかった。

 

 役に立つこと。必要とされること。

 

 誰かを支えること。

 

 そんなことばかり、考えていた気がする。

 

 でも。誰かが、ただそこにいてくれること。

 

 それだけで、救われることもある。

 

 俺だって、知っているはずだった。

 

 「……だめじゃないよ」

 

 ようやく、答えた。牧之原さんは、嬉しそうに笑った。

 

 「よかったです」

 

 「……うん」

 

 しばらく、何も話さなかった。

 

 海は、もうすっかり暗くなっている。それでも、遠くの灯りは見えた。

 

 「……牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「ありがとう」

 

 「どういたしまして」

 

 「……あの時の言葉、ようやく分かった気がする」

 

 牧之原さんは、小さく頷いた。

 

 「それなら、よかったです」

 

 俺は、もう一度、海を見た。

 

 咲太が亡くなった世界。

 

 その世界にも、俺がいた。

 

 咲太の代わりにはなれなかった。

 

 でも。残された人たちのそばにいた。

 

 それが、あの世界の俺だった。

 

 ……そして。

 

 ふと、もう一つ思い出した。

 

 あの病院の廊下。牧之原さんに、灯りだと言われた直後。

 

 視界が、妙ににじんだこと。

 

 周りの音が遠ざかって。

 

 知らないはずの景色が、頭の中に流れ込んできたこと。

 

 あの時は、熱のせいだと思っていた。

 

 でも今になって思えば。あれも、ただの体調不良ではなかったのかもしれない。

 

 「……牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「俺、あの時、変なものを見たんだ」

 

 「……変なもの?」

 

 「うん」

 

 一度、息を吐く。

 

 「知らないはずの景色。経験した覚えのない出来事」

 

 「……」

 

 「でも、どこか懐かしかった」

 

 牧之原さんは、黙って聞いていた。

 

 「……あれも、別の世界の記憶だったのかな」

 

 彼女は、すぐには答えなかった。

 

 少しだけ考えてから、「……そうかもしれませんね」と静かに、そう言った。

 

 「……やっぱり?」

 

 「ただ、わたしにも、どうして蓮真さんがそれを覚えているのかは、分かりません」

 

 「……そっか」

 

 「はい」

 

 「……でも、何か関係があるんだよな」

 

 「わたしも、そう思います」

 

 波が寄せる。引いていく。

 

 咲太の通夜。病院の廊下。横浜の街。

 

 そして。十二月十四日に出会った、大人の牧之原翔子。

 

 別々の出来事だと思っていたものが、少しずつ繋がっていく。

 

 ……もしかしたら。

 

 俺が見ていた夢は。

 

 夢なんかじゃ、なかったのかもしれない。

 

 それに俺には、一つだけ心当たりがあった。

 

 思春期症候群。

 

 中学一年の三月。

 

 俺は、同じ時間を繰り返した。

 

 選ばなかったはずの可能性を見て。

 

 そこにあった出来事を、覚えていた。

 

 普通なら、経験するはずのない記憶。

 

 それが、今も俺の中に残っている。

 

 だったら。その時も同じようなことが起きているんじゃないか。

 

 牧之原さんが見てきた、別の未来。

 

 そこにいた、もう一人の俺。

 

 その記憶が、何かの拍子に、今の俺へ流れ込んできた。

 

 ……そんなことが、あるんだろうか。

 

 分からない。

 

 そもそも、俺の思春期症候群についてだって、まだ分かっていないことは多い。

 

 でも。全く関係がないとも、思えなかった。

 

 「……蓮真さん?」

 

 「……ん?」

 

 「何か、気になることでも?」

 

 「……いや」

 

 少し考えてから、答えた。

 

 「俺の思春期症候群が、関係してるのかなって」

 

 「……思春期症候群、ですか?」

 

 「うん」

 

 「……そうかもしれませんね」

 

 牧之原さんは、静かに頷いた。

 

 「でも、今はまだ、分からないことの方が多いと思います」

 

 「……そうだな」

 

 「はい」

 

 俺は、もう一度、海を見た。

 

 夜の七里ヶ浜。

 

 遠くの灯りが、水面に揺れている。

 

 あの世界の俺は、確かにそこにいた。

 

 少なくとも、牧之原さんはそう言っている。

 

 そして俺も、その世界の出来事を、夢として覚えている。

 

 どうしてなのかは、まだ分からない。

 

 でもいつか、その理由が分かる日が来るのかもしれない。

 

 そんなことを、考えていた。

 

 「……蓮真さん」

 

 牧之原さんが、俺を呼んだ。

 

 「ん?」

 

 「もう一つ、お話ししてもいいですか?」

 

 「……もう一つ?」

 

 「はい」

 

 さっきまでより、少しだけ声が静かだった。

 

 「今お話ししたのは、咲太さんが亡くなった未来です」

 

 「……うん」

 

 「でも、わたしが知っている未来は、それだけではありません」

 

 波の音が響く。

 

 「別の未来?」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、小さく頷いた。

 

 「咲太さんが生きていて、麻衣さんが亡くなった未来です」

 

 「……え?」

 

 思わず、聞き返した。

 

 「麻衣先輩が?」

 

 「はい」

 

 「……どうして」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を伏せた。

 

 「十二月二十四日。本当なら、咲太さんが事故に遭うはずだった日です」

 

 「……うん」

 

 「麻衣さんは、そのことを知りました」

 

 「……」

 

 「そして、咲太さんを助けたんです」

 

 言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。

 

 「……助けたって」

 

 「咲太さんの代わりに、車にはねられました」

 

 「……」

 

 「その未来では、麻衣さんが亡くなったんです」

 

 俺はさっきまで、咲太が亡くなった未来の話を聞いていた。

 

 そこでは麻衣先輩が残されていた。

 

 今度は逆。

 

 咲太が生きている。その代わりに、麻衣先輩がいない。

 

 「……そんなの」

 

 声が出た。

 

 その先は、続かなかった。

 

 どちらがいいなんて、言えるわけがなかった。

 

 咲太が死ぬ未来。麻衣先輩が死ぬ未来。

 

 どちらも、あってほしくない。

 

 「……咲太は?」

 

 ようやく聞いた。

 

 牧之原さんは、すぐには答えなかった。

 

 「とても、苦しんでいました」

 

 「……そうだよな」

 

 「自分が亡くなるはずだったのに、麻衣さんが代わりに亡くなってしまったから」

 

 「……」

 

 「自分が生きていることそのものを、受け入れられない時もあったと思います」

 

 咲太なら、そうなる。

 

 麻衣先輩に助けてもらったから生きている。

 

 そんなふうに、自分を責める。

 

 あいつならきっと。

 

 「……その世界にも」

 

 気づけば、聞いていた。

 

 「俺はいたの?」

 

 牧之原さんは、こちらを見た。

 

 「はい」

 

 迷わず頷く。

 

 「蓮真さんも、いました」

 

 「……そっか」

 

 「そして今度は、咲太さんのそばにいたんです」

 

 「俺が?」

 

 「はい」

 

 「……何をしてた?」

 

 「特別なことではありません」

 

 その答えは、さっきとよく似ていた。

 

 「学校へ行ける日は、一緒に学校へ行って」

 

 「……」

 

 「咲太さんが食事を取っていなければ、何か持っていって」

 

 「……うん」

 

 「花楓さんのことも、気にかけていました」

 

 「……」

 

 「咲太さんが麻衣さんのことを話したい時には、理央さんたちと話を聞いて」

 

 一度、言葉を切る。

 

 「話したくない時には、何も聞かなかったそうです」

 

 夜の海を見る。

 

 「……俺らしいな」

 

 「そうですね」

 

 牧之原さんは、小さく笑った。

 

 「でも」

 

 「ん?」

 

 「咲太さんは、最初は蓮真さんを追い返そうとしたそうですよ」

 

 「……あいつ」

 

 思わず笑ってしまった。

 

 「やっぱり言ったんだ」

 

 「分かるんですか?」

 

 「多分、『別に来なくていい』とかだろ」

 

 「似たようなことだったと思います」

 

 「咲太らしい」

 

 笑ったあと。

 

 少しだけ胸が痛んだ。

 

 それでも俺は、帰らなかったらしい。

 

 咲太が一人になりたいと言っても、本当に一人にしていい時と、そうじゃない時がある。

 

 その世界の俺は、多分、それを考えていた。

 

 俺自身が、そうしてほしかったように。

 

 「……咲太は」

 

 聞く。

 

 「そのあと、ちゃんと生きられた?」

 

 牧之原さんは、少し考えてから。

 

 「はい」

 

 答えた。

 

 「すぐではありませんでしたけど」

 

 「……うん」

 

 「少しずつ」

 

 彼女は海を見た。

 

 「麻衣さんがいない未来を、生きようとしていました」

 

 その言葉に、胸が詰まる。

 

 麻衣先輩がいない未来。

 

 今の俺には、想像することすら難しい。

 

 「……忘れたわけじゃないんだよな」

 

 「もちろんです」

 

 返事は、すぐだった。

 

 「咲太さんは、麻衣さんのことを忘れていません」

 

 「……そっか」

 

 「今でも、大切な人だと思います」

 

 「……うん」

 

 それを聞いて、少し安心した。

 

 自分でも、どうして安心したのかは分からない。

 

 「でも」

 

 「ん?」

 

 「大切な人を失ったからといって、その人の時間までそこで止まらなければならないわけではありません」

 

 俺は、彼女を見る。

 

 「……」

 

 「悲しかったことは、消えません」

 

 「うん」

 

 「麻衣さんとの思い出も、なくなりません」

 

 「……うん」

 

 「それでも、新しい時間は進んでいくんです」

 

 三月二十五日。

 

 のどかの言葉を思い出す。

 

 変わっても、壊さない。

 

 終わっても、なくならない。

 

 それと同じだった。

 

 その時、ふと、別の顔が浮かんだ。

 

 金色の髪。少し強気な目つき。

 

 照れ隠しをする時の、分かりやすい表情。

 

 「……なあ、牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「その世界の、のどかは?」

 

 牧之原さんが、こちらを見た。

 

 「のどかさん、ですか?」

 

 「うん」

 

 「……」

 

 「麻衣先輩が亡くなったんだろ」

 

 「……はい」

 

 「だったら、のどかは……」

 

 そこまで言って、言葉が止まった。

 

 麻衣先輩は、のどかの姉だ。

 

 ただの姉じゃない。

 

 ずっと憧れていて。追いかけていて。

 

 時には嫉妬して。

 

 それでも、誰よりも大切に思っていた人。

 

 そんな人が、突然いなくなる。

 

 「……どうしてた?」

 

 牧之原さんは、すぐには答えなかった。

 

 少しだけ、視線を落とす。

 

 「……わたしも、詳しく知っているわけではないんです」

 

 「……うん」

 

 「のどかさんとは、あまりお話しする機会がありませんでしたから」

 

 「……そっか」

 

 「でも」

 

 牧之原さんは、静かに続けた。

 

 「スイートバレットを、辞めてしまったそうです」

 

 「……え?」

 

 思わず、聞き返した。

 

 「……スイートバレットを?」

 

 「はい」

 

 「……いつ?」

 

 「麻衣さんが亡くなってから、しばらくして」

 

 「……」

 

 「詳しい時期までは、分かりませんけど」

 

 スイートバレット。

 

 のどかが、ずっと頑張ってきた場所。

 

 麻衣先輩とは違う、自分自身の居場所。

 

 アイドルとして、ステージに立って。

 

 卯月たちと歌って。自分の力で、誰かに認めてもらおうとしていた。

 

 その場所を。のどかが、自分から離れた。

 

 「……なんで」

 

 声が出た。

 

 「なんで、辞めたんだ?」

 

 牧之原さんは、小さく首を横に振った。

 

 「……ごめんなさい」

 

 「……」

 

 「わたしには、分かりません」

 

 「……そっか」

 

 それしか、言えなかった。

 

 少し考える。

 

 麻衣先輩が亡くなった。

 

 咲太が苦しんでいた。

 

 花楓ちゃんも、きっと。

 

 そして、のどかも。

 

 当たり前だ。そんなこと、考えるまでもない。

 

 なのにさっきまでの俺は、咲太のことばかり聞いていた。

 

 「……その世界の俺は?」

 

 気づけば、そう聞いていた。

 

 「はい?」

 

 「のどかに、何かしてた?」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を見開いた。

 

 「……蓮真さんが、ですか?」

 

 「うん」

 

 「……」

 

 「咲太のそばにいたんだろ」

 

 「はい」

 

 「花楓ちゃんのことも、気にかけてた」

 

 「……はい」

 

 「だったら、のどかのことも……」

 

 言葉が続かなかった。

 

 牧之原さんは、困ったように笑った。

 

 「……ごめんなさい」

 

 「……」

 

 「そこまでは、聞いていないんです」

 

 「……そっか」

 

 夜の海を見る。遠くに、街の灯りが見えた。

 

 「……俺、何してたんだろうな」

 

 小さく呟いた。牧之原さんは、何も言わなかった。

 

 「咲太が大変だったのは、分かる」

 

 「……はい」

 

 「麻衣先輩が亡くなったんだから、当然だと思う」

 

 「……」

 

 「でも、のどかだって……」

 

 そこで、言葉が止まった。

 

 のどかだって、麻衣先輩を失った。

 

 咲太と同じように。

 

 いや、同じじゃない。

 

 咲太にとっての麻衣先輩と。のどかにとっての麻衣先輩は。

 

 大切な人だということは同じでも、その意味は違う。

 

 どちらが苦しかったかなんて、比べられない。

 

 「……気づかなかったのかな」

 

 「……蓮真さん?」

 

 「その世界の俺」

 

 少しだけ、息を吐く。

 

 「のどかが苦しんでることに、気づかなかったのかなって」

 

 牧之原さんは、静かに首を横に振った。

 

 「それは、分かりません」

 

 「……うん」

 

 「蓮真さんが、何もしていなかったとは限りませんから」

 

 「……そうだな」

 

 「それに」

 

 少しだけ、間を置く。

 

 「誰かがそばにいても、すぐには元気になれないこともあります」

 

 「……」

 

 「大切な人を失うというのは、そういうことだと思います」

 

 俺は、何も言えなかった。

 

 牧之原さんの言う通りだった。

 

 誰かがそばにいれば、必ず救えるわけじゃない。

 

 どれだけ大切に思っていても。どれだけ頑張っても。

 

 どうにもならないことは、ある。

 

 分かっている。

 

 そのはずだった。

 

 でも……

 

 「……のどかは」

 

 「はい」

 

 「そのあと、どうなったの?」

 

 牧之原さんは、少しだけ考えた。

 

 「……しばらくしてから、芸能活動をお休みしていたと聞きました」

 

 「……そうなんだ」

 

 「はい」

 

 「……今は?」

 

 「……ごめんなさい」

 

 また、その言葉だった。

 

 「そのあとのことは、わたしも知らないんです」

 

 「……そっか」

 

 分からない。

 

 その世界ののどかが、今、何をしているのか。

 

 元気になったのか。

 

 もう一度、ステージに立ったのか。

 

 それとも。まだ、麻衣先輩のいない時間の中で、立ち止まっているのか。

 

 何も分からなかった。

 

 でもふと、一人の顔が浮かんだ。

 

 広川卯月。

 

 スイートバレットのリーダー。

 

 いつも明るくて、何を考えているのか分からないところがあって。

 

 それでも、周りのことをよく見ている。

 

 のどかが何かに悩んでいれば、あいつなら気づくんじゃないだろうか。

 

 少なくとも、今の俺が知っている卯月なら。

 

 のどかが一人で苦しんでいるのを、放っておくとは思えなかった。

 

 それにあの二人は、同じステージに立っていた。

 

 一緒に歌って。笑って。

 

 時には、ぶつかることもある。

 

 それでも、同じ夢を追いかけている。

 

 麻衣先輩が亡くなった世界でも。

 

 卯月は、のどかのそばにいてくれたんだろうか。

 

 「……スイートバレットの他のメンバーは?」

 

 「……詳しくは、分かりません」

 

 「……そうなんだ」

 

 牧之原さんは、少しだけ申し訳なさそうに笑った。

 

 「わたし、アイドルのことには、あまり詳しくなくて」

 

 「……そっか」

 

 「はい」

 

 「……牧之原さんは、広川卯月って、知ってる?」

 

 「……広川卯月さん?」

 

 牧之原さんは、少し考えた。それから、小さく首を横に振る。

 

 「ごめんなさい。わからないです」

 

 「……そっか」

 

 意外だった。

 

 でも、考えてみれば当然なのかもしれない。

 

 牧之原さんが知っている世界と、俺が今、生きている世界。

 

 そこでは、出会う人も、起こる出来事も違う。

 

 あの世界の俺は、卯月と出会っていなかったのかもしれない。

 

 咲太も。そして、のどかとの関係だって。

 

 今とは、違っていたのかもしれない。

 

 「……ごめんなさい、蓮真さん」

 

 「……ん?」

 

 「お力になれなくて」

 

 「いや」

 

 首を横に振る。

 

 「牧之原さんが謝ることじゃないよ」

 

 「……そうですか?」

 

 「うん」

 

 少しだけ、笑う。

 

 「知らないことがあるのは、当たり前だから」

 

 牧之原さんも、小さく笑った。

 

 「……ありがとうございます」

 

 俺は、もう一度海を見た。

 

 卯月。のどか。

 

 二人が並んで笑っているところを、思い出す。

 

 あの世界でも、二人は一緒にいたんだろうか。

 

 それとも俺が知らないところで、別々の道を歩いていたんだろうか。

 

 ……分からない。

 

 ただ、一つだけ。

 

 今の俺は、二人を知っている。

 

 のどかと出会って。卯月とも出会った。

 

 それは、あの世界の俺にはなかったものかもしれない。

 

 そして。今の俺にしか、選べない未来があるのかもしれなかった。

 

 そう。その世界のことを、俺はほとんど知らない。

 

 咲太が生きていて、麻衣先輩がいなくて。

 

 のどかが、スイートバレットを辞めた世界。

 

 そこで、みんなが何を考えて、どんな毎日を過ごしていたのか。

 

 俺には、想像することしかできない。

 

 今の俺が知っている誰かと、あの世界の俺が知っていた誰か。

 

 同じ人間でも、同じ関係だったとは限らない。

 

 だから。その世界の俺が、のどかを助けられなかったとも。助けられたとも。

 

 まだ、決めつけることはできなかった。

 

 「……難しいな」

 

 思わず、呟く。

 

 「何がですか?」

 

 「……同じ人がいても、同じ未来になるわけじゃないんだなって」

 

 牧之原さんは、少しだけ考えた。

 

 「そうですね」

 

 「……うん」

 

 「でも、違う未来だからこそ、出会える人もいるんだと思います」

 

 「……そっか」

 

 卯月と出会ったこと。

 

 のどかと、今の関係になれたこと。

 

 そのどちらも、当たり前に決まっていたわけじゃない。

 

 ほんの少し何かが違えば、なかったことになっていたかもしれない。

 

 それでも、今はここにある。

 

 「……牧之原さんも、そうなのかな」

 

 「わたし、ですか?」

 

 「うん」

 

 少しだけ笑う。

 

 「こうして話してるのも、何かが違えば、なかったのかもしれないだろ」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を見開いた。

 

 それから、嬉しそうに笑った。

 

 「……そうですね」

 

 「……うん」

 

 「でも、今はこうして、お話しできています」

 

 「……そうだな」

 

 「はい」

 

 しばらく、二人で海を見た。

 

 夜の七里ヶ浜。

 

 遠くの街の灯りが、水面に揺れている。

 

 その世界では、咲太が生きていた。

 

 麻衣先輩は、いなかった。

 

 それでも、残された人たちの時間は続いていた。

 

 ……そしてふと、思った。

 

 その世界で、牧之原さんはどうしていたんだろう。

 

 咲太が生きているのなら、さっき聞いた世界とは、違うはずだ。

 

 俺がそう考えた時だった。牧之原さんは、少しだけ息を吸った。

 

 「蓮真さん」

 

 「……うん」

 

 「その未来で、わたしも生きていました」

 

 「牧之原さんも?」

 

 「はい」

 

 「……心臓は?」

 

 聞いてから、気づいた。

 

 咲太は生きている。

 

 なら、さっきの未来のように、咲太の心臓を移植することはできない。

 

 牧之原さんは、自分の胸元へ手を添えた。

 

 「麻衣さんの心臓が移植されたんです」

 

 「……」

 

 今度こそ。

 

 何も言えなかった。

 

 「麻衣先輩の……」

 

 「はい」

 

 咲太を助けるために亡くなった麻衣先輩。

 

 その心臓が、牧之原さんへ。

 

 「……そっか」

 

 声が掠れた。

 

 「はい」

 

 「……それを」

 

 「咲太も知った?」

 

 「もちろんです」

 

 「……そうだよな」

 

 それが、どれほど複雑なことだったのか。

 

 想像することもできない。

 

 愛した人を失った。

 

 でも、その人の心臓によって、別の人が生きている。

 

 その人は、かつて自分を救ってくれた人でもある。

 

 「……咲太は、牧之原さんに会えたの?」

 

 「はい」

 

 「普通に?」

 

 「最初から、という意味なら」

 

 牧之原さんは、少し困ったように笑った。

 

 「そうではありませんでした」

 

 「……だよな」

 

 「はい」

 

 少しだけ、間があった。

 

 「わたしも、咲太さんにどう接すればいいのか分かりませんでした」

 

 「……」

 

 「わたしが生きていることを、咲太さんがどう思うのか」

 

 「……うん」

 

 「麻衣さんの心臓で生きているわたしを見ることで、咲太さんを苦しませるんじゃないかって」

 

 「……」

 

 「怖かったんです」

 

 それでも時間は進んだ。

 

 牧之原さんはそう言った。

 

 「すぐに何かが変わったわけではありません」

 

 「うん」

 

 「咲太さんは麻衣さんを忘れていませんでしたし」

 

 「……うん」

 

 「わたしも、麻衣さんの代わりになろうとは思いませんでした」

 

 その言葉に、顔を上げる。

 

 「代わりじゃない?」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、まっすぐ答えた。

 

 「わたしは、麻衣さんにはなれませんから」

 

 「……そうだな」

 

 「でも」

 

 少しだけ笑う。

 

 「牧之原翔子として、咲太さんのそばにいることはできました」

 

 その言葉は、さっき聞いたものと似ていた。

 

 咲太の代わりではない。

 

 俺は、俺として。

 

 今度は。麻衣先輩の代わりではない。

 

 牧之原翔子は、牧之原翔子として。

 

 「……それで」

 

 俺は、少しだけ迷った。

 

 「二人は、どうなったの?」

 

 牧之原さんは。

 

 ほんの少しだけ、頬を緩めた。

 

 「わたしが大学生になってから」

 

 「うん」

 

 「咲太さんと、結婚しました」

 

 時間が止まったみたいだった。

 

 「…………え?」

 

 自分でも驚くくらい、間の抜けた声が出た。

 

 牧之原さんは、少しだけ恥ずかしそうに笑った。

 

 「結婚しました」

 

 「……咲太と?」

 

 「はい」

 

 「牧之原さんが?」

 

 「はい」

 

 「……大学生で?」

 

 「そうです」

 

 頭の中で、何かが引っかかった。

 

 大学生。咲太。

 

 牧之原翔子。結婚。

 

 「……待って」

 

 声が出る。

 

 「蓮真さん?」

 

 「それ」

 

 胸の奥が、急にざわついた。

 

 知っている。

 

 いや知らない。

 

 でも。見たことがある。

 

 「……俺」

 

 頭を押さえる。

 

 「それ、見たことがある」

 

 「……え?」

 

 今度は、牧之原さんが驚いた。

 

 「いつですか?」

 

 「高校の時」

 

 記憶を辿る。

 

 「大晦日」

 

 あの日、俺は夢を見た。

 

 妙に現実感のある夢。

 

 起きたあとも、細かい部分が頭から消えなかった。

 

 知らないはずの未来。

 

 知らないはずの関係。

 

 それなのに夢の中の俺は、それを当たり前のこととして知っていた。

 

 言葉が勝手に出る。

 

 「あの夢の中で」

 

 咲太と牧之原さんが。夫婦になっていた。

 

 「……そうだったんですね」

 

 牧之原さんの声が、少し震えた気がした。

 

 「うん」

 

 「……どんな夢だったんですか?」

 

 「全部は、思い出せない」

 

 正直に答える。

 

 「でも」

 

 あの時の感覚。

 

 今なら分かる。

 

 夢の中の俺は、二人の関係を知っていた。

 

 突然結婚したわけじゃない。

 

 二人がそこへ辿り着くまでの時間があったことも。

 

 「咲太と牧之原さんが結婚したことを」

 

 一度、息を吐く。

 

 「俺は知ってた」

 

 「……」

 

 「当たり前みたいに」

 

 波の音だけが聞こえる。

 

 「それに」

 

 「はい」

 

 「……祝ってた気がする」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を細めた。

 

 「はい」

 

 「……え?」

 

 「蓮真さんは、祝ってくれました」

 

 息が止まる。

 

 「その未来でも?」

 

 「はい」

 

 「……俺が?」

 

 「そうです」

 

 牧之原さんは、柔らかく笑った。

 

 「咲太さんとわたしが結婚する時」

 

 少しだけ間を置いて。

 

 「蓮真さんは、祝福してくれました」

 

 「……そっか」

 

 胸の奥に、妙な感覚があった。

 

 嬉しい。寂しい。

 

 どちらとも少し違う。

 

 その世界には、麻衣先輩がいない。

 

 だから咲太と牧之原さんが結婚できた。

 

 そんな単純な話ではない。

 

 麻衣先輩が死んだから、二人が結婚したんじゃない。

 

 麻衣先輩を失ったあとも。

 

 咲太が生きた。牧之原さんも生きた。

 

 その二人が長い時間をかけて。お互いを選んだ。

 

 「……幸せだった?」

 

 聞いた。

 

 牧之原さんは少しだけ考えてから、「はい」と答えた。

 

 「とても」

 

 「……そっか」

 

 「でも」

 

 「うん」

 

 「麻衣さんのことを忘れた日は、一日もありませんでした」

 

 それを聞いて。なぜか、胸が軽くなった。

 

 「咲太も?」

 

 「はい」

 

 「……そうなんだ」

 

 「幸せになることと」

 

 牧之原さんは、夜の海を見る。

 

 「大切だった人を忘れることは、同じではありませんから」

 

 「……」

 

 その言葉が、強く残った。

 

 幸せになる。忘れない。どちらかを選ばなくていい。

 

 「……そっか」

 

 のどかと卯月。

 

 それから。六年前の女の子。

 

 今の俺が、ずっと怖がっていたもの。

 

 誰かを大切にすれば、別の誰かが消えてしまう。

 

 今を選べば、過去を捨てなければならない。

 

 そんなふうに考えていた。

 

 でも違う。

 

 牧之原さんは。

 

 麻衣先輩を覚えたまま。

 

 咲太と幸せになった。

 

 「……変わっても」

 

 小さく呟く。

 

 「壊れない」

 

 牧之原さんが、こちらを見る。

 

 「はい?」

 

 「いや」

 

 少しだけ笑う。

 

 「最近、似たようなことを言われた」

 

 「そうなんですね」

 

 「ああ」

 

 牧之原さんも、小さく笑った。

 

 「とても大切なことだと思います」

 

 「……うん」

 

 しばらく二人で海を見た。

 

 それから。ふと、気づく。

 

 「……なあ」

 

 「はい」

 

 「その世界の俺は」

 

 一度、言葉を止める。

 

 「咲太と牧之原さんが結婚したあと、どうしてた?」

 

 牧之原さんの笑顔が、ほんの少しだけ、変わった。

 

 「……蓮真さんは」

 

 すぐには続けなかった。

 

 「相変わらずでした」

 

 「相変わらず?」

 

 「はい」

 

 「それ、どういう意味?」

 

 「誰かが困っていれば、助けていました」

 

 「……」

 

 「咲太さんのことも」

 

 「……うん」

 

 「わたしのことも」

 

 「……」

 

 「花楓さんのことも。理央さんのことも」

 

 少しだけ、間がある。

 

 「麻衣さんが亡くなったあとも」

 

 牧之原さんは、静かに続ける。

 

 「蓮真さんは、ずっと誰かのそばにいました」

 

 「……そっか」

 

 「はい」

 

 「じゃあ」

 

 ふと。

 

 疑問が浮かぶ。

 

 「俺自身は?」

 

 牧之原さんは、何も言わなかった。

 

 「……俺自身は、どうだった?」

 

 しばらくして。

 

 彼女が小さく息を吐いた。

 

 「それが」

 

 声が、少しだけ寂しかった。

 

 「わたしにも、よく分からなかったんです」

 

 「……え?」

 

 「蓮真さんは、あまり話してくれませんでしたから」

 

 「……」

 

 「誰かのことは、たくさん話すのに」

 

 少しだけ困ったように笑う。

 

 「自分が何を考えているのかは、ほとんど」

 

 胸の奥に、何かが刺さった。

 

 「……今と変わんないな」

 

 「……少し」

 

 牧之原さんは否定しなかった。

 

 「誰かを支えて」

 

 「……うん」

 

 「その人が元気になれば、安心して」

 

 「……」

 

 「それで、自分のことは、また後回しにするんです」

 

 「……でも」

 

 俺は言う。

 

 「それで誰かが助かったなら、いいんじゃないか?」

 

 牧之原さんは、すぐには答えなかった。

 

 それから、ゆっくり、立ち上がった。

 

 服についた砂を払い、俺と同じ高さから、こちらを見る。

 

 「よくありません」

 

 静かな声だった。

 

 「……え?」

 

 初めてだった。

 

 牧之原さんが、こんなにはっきり否定するのを聞いたのは。

 

 「蓮真さん」

 

 「……うん」

 

 「さっき、わたしに聞きましたよね」

 

 「何を?」

 

 「咲太さんと結婚して、幸せだったか」

 

 「……うん」

 

 「わたしは、幸せでした」

 

 「……」

 

 「咲太さんにも、幸せでいてほしかったです」

 

 「……うん」

 

 「麻衣さんにも」

 

 一度、言葉を切る。

 

 「別の未来で、生きている麻衣さんにも」

 

 「……」

 

 「そして」

 

 牧之原さんは俺を見る。

 

 「蓮真さんにも、幸せになってほしかったんです」

 

 「……俺?」

 

 「はい」

 

 「……」

 

 「ずっと」

 

 その言葉が。思ったより、重かった。

 

 「でも」

 

 「はい」

 

 「その俺は、別に不幸だったってわけじゃ……」

 

 「そうかもしれません」

 

 「……」

 

 「でも、蓮真さん」

 

 彼女は、少しだけ悲しそうに笑った。

 

 「幸せじゃないわけではないことと」

 

 「……」

 

 「自分が幸せになろうとすることは、違います」

 

 何も言えなかった。

 

 「誰かを助けられたから」

 

 「……」

 

 「誰かの役に立てたから」

 

 「……」

 

 「それだけで、自分のことは後回しでいいなんて」

 

 牧之原さんは、小さく首を横に振った。

 

 「わたしは、思いません」

 

 波の音が聞こえる。

 

 「咲太さんが亡くなった未来では、蓮真さんが、わたしたちのそばにいてくれました」

 

 「……うん」

 

 「麻衣さんが亡くなった未来では」

 

 「……」

 

 「咲太さんのそばにいてくれました」

 

 「……うん」

 

 「どの未来でも、蓮真さんは誰かを助けていました」

 

 少しだけ間を置いて。

 

 「だから、ずっと思っていたんです」

 

 「……何を?」

 

 牧之原さんは。

 

 今までで一番真っ直ぐに、俺を見た。

 

 「蓮真さんのことは」

 

 静かに。

 

 「誰が助けてくれるんだろうって」

 

 言葉が出なかった。

 

 その言葉は、どこかで聞いたものと、似ていた。

 

 人のことはよく見ているのに。

 

 自分のことになると鈍い。

 

 誰かが困っていれば放っておけない。

 

 でも俺自身が困っている時には。

 

 「……別に」

 

 反射的に、言いかける。

 

 「俺は…-」

 

 でもその先を、続けられなかった。

 

 三月。六年前。

 

 母親が生きていた世界。

 

 明日に行きたくない。

 

 四月一日。

 

 そして今。

 

 また三月を繰り返している。

 

 分からないことばかりで。

 

 一人で考えて、何とかしようとして。

 

 「……蓮真さん」

 

 牧之原さんが呼ぶ。

 

 「……うん」

 

 「今度は」

 

 一度、息を吸う。

 

 「わたしにも、蓮真さんを助けさせてもらえませんか?」

 

 「……俺を?」

 

 「はい」

 

 「……」

 

 「咲太さんを助けたいと思ったように」

 

 「……」

 

 「麻衣さんに生きていてほしいと思ったように」

 

 彼女は続ける。

 

 「わたしは、蓮真さんにも」

 

 少しだけ笑う。

 

 「明日へ行ってほしいです」

 

 胸の奥が、強く鳴った。

 

 「……明日へ」

 

 「はい」

 

 「……」

 

 「四月一日へ」

 

 六年前。

 

 その日を俺は拒んだ。

 

 明日に行きたくない。

 

 そう書いた。

 

 でも今は……

 

 「……怖い?」

 

 牧之原さんが聞いた。

 

 少し考える。

 

 「……怖いよ」

 

 正直に答えた。

 

 「また全部変わるかもしれない」

 

 「はい」

 

 「三月が終わったら、今あるものがなくなるかもしれない」

 

 「……はい」

 

 「のどかのことも」

 

 名前が、自然に出た。

 

 「卯月のことも。咲太も。麻衣先輩も」

 

 「……」

 

 「今の関係が、そのまま残る保証なんてない」

 

 「そうですね」

 

 牧之原さんは、否定しなかった。

 

 「未来ですから」

 

 「……うん」

 

 「でも」

 

 彼女は言う。

 

 「蓮真さん」

 

 「何?」

 

 「変わることは」

 

 一度、言葉を切る。

 

 「全部がなくなることではありませんよ」

 

 またその言葉。

 

 のどか。

 

 卯月。

 

 そして、牧之原さん。

 

 同じところへ戻ってくる。

 

 「咲太さんは、麻衣さんを忘れませんでした」

 

 「……」

 

 「それでも、わたしと生きていく未来を選びました」

 

 「……うん」

 

 「わたしも、麻衣さんを忘れませんでした」

 

 「……」

 

 「それでも、幸せでした」

 

 牧之原さんは笑う。

 

 「大切なものは、一つしか持てないわけではありません」

 

 「……」

 

 「昔の誰かを思い出したからといって」

 

 少しだけ、間を置く。

 

 「今、大切な人が消えるわけでもありません」

 

 霧島透子。

 

 その名前が頭に浮かんだ。

 

 のどか。

 

 その顔も。同時に浮かんだ。

 

 どちらかじゃない。

 

 「……そっか」

 

 「はい」

 

 「……そうなんだな」

 

 牧之原さんは静かに頷いた。

 

 「だから」

 

 「うん」

 

 「一緒に探しましょう」

 

 「……何を?」

 

 「蓮真さんが」

 

 少しだけ笑う。

 

 「四月一日へ行く方法を」

 

 夜の海。波の音。

 

 遠くの街の灯り。

 

 「……一人で?」

 

 思わず聞くと。

 

 牧之原さんは、少しだけ呆れたように笑った。

 

 「一緒に、です」

 

 「……」

 

 「わたしと」

 

 その言葉が、妙に胸に残った。

 

 俺は、しばらく何も言わなかった。

 

 それから。

 

 「……頼ってもいい?」

 

 口にする。

 

 自分でも、少し驚いた。

 

 牧之原さんも、一瞬だけ目を見開いた。

 

 でもすぐに。柔らかく笑った。

 

 「もちろんです」

 

 その返事を聞いて、少しだけ、肩の力が抜けた。

 

 六年前。

 

 俺は、三月三十一日の夜を、一人で終わらせようとした。

 

 でも今は。一人ではなかった。

 

 明日が来るのは、まだ怖い。

 

 でも、明日になったら。

 

 会いたい人がいる。

 

 のどかに。会いたい。

 

 そんなふうに、思えるようになっていた。

 

 「……牧之原さん」

 

 「はい」

 

 「もう一つだけ、聞いてもいい?」

 

 「もちろんです」

 

 牧之原さんは、そう答えてから、少しだけ首を傾げた。

 

 俺はすぐには言葉を続けられなかった。さっきまで、四月一日へ行くことばかり考えていた。

 

 明日になれば、のどかに会える。約束していた場所へ行って、また一緒に笑える。

 

 そんな未来を、今度こそ自分の意思で選びたいと思った。

 

 それは、嘘じゃない。

 

 でも、牧之原さんから聞いた別の未来のことが、どうしても頭から離れなかった。

 

 「……さっき、のどかの話をしただろ」

 

 「はい。麻衣さんが亡くなった未来のことですね」

 

 「うん」

 

 牧之原さんは静かに頷いた。俺は夜の海へ目を向ける。遠くの街の灯りが、波に揺られていた。

 

 「その世界ののどかは、スイートバレットを辞めたんだよな」

 

 「……そう聞いています」

 

 「その理由は、分からない」

 

 「はい」

 

 「その世界の俺が、のどかとどういう関係だったのかも」

 

 「……そうですね」

 

 俺は、小さく息を吐いた。

 

 「じゃあ、今の俺がのどかと一緒にいることが、あいつにとって幸せなのかどうかも、分からないよな」

 

 牧之原さんは、少しだけ目を見開いた。

 

 「……蓮真さん?」

 

 「いや、変なこと聞いてるのは分かってる」

 

 そう言って、苦笑する。でも、笑って誤魔化せるほど軽い疑問でもなかった。

 

 「俺は、のどかと一緒にいたい。明日も会いたいし、四月になっても、その先も……できれば、ずっと」

 

 言葉にすると、思っていた以上に恥ずかしかった。

 

 牧之原さんは何も言わず、続きを待ってくれている。

 

 「でも、それって俺がそうしたいだけなんだよな」

 

 「……」

 

 「のどかが俺と一緒にいて、本当に幸せになれるのかは、別の話だろ」

 

 三月二十日。スカイツリーの展望台で、のどかは笑っていた。東京駅へ向かう途中、もう少し一緒にいたいと言った時も、嬉しそうにしてくれた。あの表情を疑っているわけじゃない。

 

 のどかが俺と過ごした時間を大切に思ってくれていることも、ちゃんと分かっているつもりだった。

 

 ただ、それが明日も続くとは限らない。

 

 来月も。来年も。その先も。

 

 俺が隣にいることで、のどかが何かを諦めることになるかもしれない。

 

 俺の知らないところで、傷つくことがあるかもしれない。

 

 そんな時、俺は本当に気づいてやれるんだろうか。

 

 「……その世界の俺はさ」

 

 「はい」

 

 「咲太のそばにいたんだよな。麻衣先輩がいなくなって、あいつが苦しんでいたから」

 

 「そうですね」

 

 「でも、のどかがどうしてたのかは、分からない」

 

 牧之原さんは、何も言わなかった。

 

 「俺がのどかのことを忘れてたとは思わない。何もしてなかったとも、決めつけたくない。でも……」

 

 そこで、言葉が止まる。

 

 「誰かを大切にしてるつもりでも、その人のことをちゃんと見られてるとは限らないんだなって」

 

 自分で言ってから、胸の奥が少し痛んだ。

 

 俺は、のどかの何を知っているんだろう。

 

 強がるところ。照れ屋なところ。姉への憧れと、それだけでは片づけられない複雑な気持ち。

 

 スイートバレットで頑張ってきたこと。卯月たちと過ごしてきた時間。

 

 知っていることは、確かに増えた。

 

 でも、知らないことだって、きっとそれ以上にある。

 

 「……蓮真さん」

 

 牧之原さんが、静かに口を開いた。

 

 「一つ、聞いてもいいですか?」

 

 「うん」

 

 「のどかさんは、蓮真さんと一緒にいたくないと、言ったんですか?」

 

 「……いや」

 

 答えは、すぐに出た。

 

 「むしろ、逆かな」

 

 「そうですか」

 

 牧之原さんは、少しだけ嬉しそうに笑った。

 

 「それなら、その気持ちも大切にしてあげてください」

 

 「……のどかの?」

 

 「はい」

 

 「……でも」

 

 「蓮真さんが、のどかさんの幸せを願っていることは、よく分かります」

 

 牧之原さんは、そこで一度言葉を切った。

 

 「でも、のどかさんが何を幸せだと思うのかは、のどかさん自身にも決めてもらわないといけないんじゃないでしょうか」

 

 「……」

 

 「蓮真さんが一緒にいたいと思うことと、のどかさんが一緒にいたいと思うこと。その二つは、どちらも大切な気持ちだと思います」

 

 波が寄せて、引いていく。

 

 「それに、誰かと一緒にいることで、悲しいことや苦しいことが一つも起こらなくなるわけではありません」

 

 「……そうだな」

 

 「わたしも、咲太さんと結婚した未来で、ずっと幸せなことばかりだったわけではありませんから」

 

 少しだけ、いたずらっぽく笑う。

 

 「咲太さんには、困らされることもありましたし」

 

 「……あいつなら、ありそうだな」

 

 思わず笑ってしまった。

 

 「はい。でも、それも含めて、わたしが選んだ未来だったんです」

 

 その言葉に、顔を上げる。

 

 「……選んだ未来」

 

 「はい」

 

 牧之原さんは、まっすぐ俺を見た。

 

 「誰かと一緒に生きることは、その人を絶対に幸せにするという約束ではないと思うんです」

 

 「……うん」

 

 「それでも、一緒にいたいと思うこと。相手もそう思ってくれること。そして、何かあった時には、二人で考えること」

 

 彼女は、柔らかく微笑んだ。

 

 「そうやって、少しずつ未来を選んでいくんじゃないでしょうか」

 

 俺は、しばらく何も言えなかった。

 

 牧之原さんの言うことは、分かる。

 

 のどかは、俺に守られるだけの人間じゃない。自分の考えがあって、自分の意思で物事を決める。

 

 俺が余計な心配をすれば、きっと怒るだろう。勝手に自分の幸せを決めるなと、そう言うかもしれない。

 

 そんな顔が、簡単に想像できた。

 

 「……そうだな」

 

 ようやく、答える。

 

 「俺が一人で決めることじゃないよな」

 

 「はい」

 

 「のどかにも、ちゃんと聞かないと」

 

 「そうですね」

 

 牧之原さんは、安心したように笑った。

 

 「それに、蓮真さん」

  

 「ん?」

 

 「のどかさんと一緒にいる時の蓮真さんは、幸せですか?」

 

 また、俺のことだった。

 

 今日の牧之原さんは、どうしても俺自身の気持ちを聞きたいらしい。

 

 少し考えてから、答える。

 

 「……幸せだよ」

 

 それは、迷わなかった。

 

 「すごく」

 

 牧之原さんの笑顔が、少しだけ深くなった。

 

 「それなら、その気持ちも忘れないでくださいね」

 

 「……うん」

 

 「蓮真さんが幸せでいることも、のどかさんにとって、大切なことかもしれませんから」

 

 「……そうなのかな」

 

 「それは、のどかさんに聞いてみないと分かりませんね」

 

 「……確かに」

 

 二人で、小さく笑った。

 

 不思議だった。さっきまで胸の奥にあった重たいものが、少しだけ軽くなっていた。

 

 四月一日へ行く。

 

 のどかに会う。

 

 そして、ちゃんと話す。

 

 これから先のことも。俺が考えていることも。できれば、のどかが考えていることも。

 

 全部を一度に話す必要はない。分からないことがあれば、その時に聞けばいい。

 

 今までだって、そうしてきたはずだった。

 

 「……ありがとう、牧之原さん」

 

 「いいえ」

 

 「なんか、少し分かった気がする」

 

 「それなら、よかったです」

 

 牧之原さんは、夜の海へ目を向けた。俺も隣に並んで、同じ方を見る。

 

 いつの間にか、空には星が見えていた。

 

 もう、夕暮れの色はどこにも残っていない。

 

 それでも、昼間に見た海と、今目の前にある海は、同じ海だった。

 

 終わったからといって、なくなるわけじゃない。

 

 変わったからといって、全部が壊れるわけでもない。

 

 そのことを、今なら少しは信じられる。

 

 ……ただ。

 

 どうしてだろう。

 

 のどかの笑顔を思い浮かべると、嬉しくなるのと同じくらい、胸の奥がざわついた。

 

 三月二十日。展望台の窓に映った、のどかの横顔。俺がもう少し一緒にいたいと言った時、少し驚いて、それから笑ってくれた顔。

 

 あの時、のどかは幸せだったんだろうか。

 

 きっと、そうだったと思う。

 

 少なくとも、俺にはそう見えた。

 

 でも、それは俺が見た、のどかの一つの表情にすぎない。

 

 これから先も、同じように笑ってくれるだろうか。

 

 俺と一緒にいることを選んで、いつか後悔することはないだろうか。

 

 そんなこと、今から分かるはずがない。

 

 分かっている。

 

 牧之原さんの言う通り、のどかの幸せは、のどか自身が決めることだ。俺が勝手に答えを出していいものじゃない。

 

 それでも……

 

 もし、のどかが俺と一緒にいることを選んで。

 

 その選択のせいで、何かを失ってしまったら。

 

 その時、俺はどうするんだろう。

 

 のどかが笑ってくれる未来を望むことと、俺がのどかの隣にいる未来を望むこと。

 

 その二つが、いつまでも同じ方向を向いているとは限らない。

 

 もし、違う方向を向いてしまったら。

 

 俺は、その時も自分の幸せを選べるんだろうか。

 

 「……蓮真さん?」

 

 牧之原さんの声がして、顔を上げた。

 

 「……ん?」

 

 「寒くありませんか?」

 

 「……ああ。少し」

 

 「そろそろ、戻りましょうか」

 

 「そうだな」

 

 俺は頷いた。

 

 今、考えても答えは出ない。それなら、明日になってから考えればいい。

 

 のどかに会って、話して、それから二人で決めればいい。

 

 そう思った。確かに、そう思ったんだ。

 

 四月一日が来てほしい。

 

 のどかに会いたい。

 

 もう一度、あの笑顔が見たい。

 

 それなのに。もし、俺がいなくても、のどかは幸せになれるのだとしたら。

 

 そんな未来が、どこかにあるのだとしたら。

 

 俺は、それでも。のどかの隣にいたいと、言っていいんだろうか。

 

 答えの出ない疑問だけが、夜の海に置き去りにできないまま、胸の奥に残っていた。

 

 牧之原さんと別れたのは、それから少し経ってからだった。

 

 七里ヶ浜の駅へ向かう道。

 

 振り返ると、もう海は見えなかった。

 

 それでも、波の音だけは、まだ耳の奥に残っている気がした。

 

 明日へ行く。

 

 四月一日へ。

 

 牧之原さんは、一緒に方法を探そうと言ってくれた。

 

 俺も、頼っていいかと聞いた。

 

 あの時の気持ちは、嘘じゃない。

 

 六年前の俺は、三月が終わることを拒んだ。

 でも今は違う。

 

 明日になったら、会いたい人がいる。

 

 それだけで、六年前とは違うはずだった。 

 

 ……違うはずだったんだ。

 

 電車に乗ってからも、牧之原さんの言葉を思い出していた。

 

 「のどかさんが何を幸せだと思うのかは、のどかさん自身にも決めてもらわないといけないんじゃないでしょうか」

 

 分かっている。

 

 のどかは、俺の知らないところでも、自分の意思で生きてきた。

 

 スイートバレットに入ったことも。麻衣先輩への憧れと向き合ってきたことも。

 

 俺と出会う前から、あいつが選んできたものだ。

 

 だから、俺が勝手にのどかの幸せを決めるべきじゃない。

 

 それなのに。どうしても、考えてしまう。

 

 俺と出会わなかったのどかは、どんな未来を生きていたんだろう。

 

 俺と一緒にいることを選んだのどかは、これから何を手に入れて、何を失うんだろう。

 

 そんなこと、誰にも分からない。

 

 分からないからこそ、怖かった。

 

 家に帰った頃には、すっかり夜も更けていた。

 

 靴を脱いで、部屋の明かりをつける。

 

 いつもと変わらない部屋だった。

 

 机の上に置いたノート。脱ぎっぱなしの上着。

 

 充電器につながれたままのコード。

 

 三月三十一日。

 

 あと少しで、今日が終わる。

 

 スマホを取り出した。

 

 画面には、通知が一つ届いていた。

 

 のどかからだった。

 

 何となく、口元が緩む。

 

 LINEを開く。

 

 《明日のライブ、ちゃんと来てよね》

 

 ……ああ。そうだった。

 

 明日は、スイートバレットのライブがある。

 

 俺も見に行く約束をしていた。

 

 もちろん、忘れていたわけじゃない。

 

 ただ、今日はいろいろなことがありすぎた。

 

 牧之原さんと話して。咲太や麻衣先輩が亡くなった未来のことを聞いて。

 

 自分が知らなかった可能性を、いくつも知ってしまった。

 

 そのせいで、明日のことを考える余裕がなくなっていた。

 

 ……明日。

 

 四月一日。

 

 のどかに会える。

 

 スイートバレットのステージに立つ、あいつの姿を見られる。

 

 そう考えると、少しだけ嬉しくなった。

 

 でも。ふと、気づいた。

 

 「……あれ?」

 

 もう一度、メッセージを見る。

 

 《明日のライブ、ちゃんと来てよね》

 

 ……こんな連絡。一度目の三月には、なかった。

 

 少なくとも、俺が覚えている限りでは。

 

 一度目の三月三十一日。

 

 のどかから、こんなメッセージは届いていない。

 

 そもそも、明日のライブについて、こんなふうに念を押された覚えもなかった。 

 

 「……なんでだ?」

 

 小さく呟く。

 

 一度目と二度目。同じ三月を過ごしているはずなのに、起こる出来事は少しずつ違っていた。

 

 俺が違う行動を取ったからだろうか。

 

 一度目には言わなかったことを、二度目には言った。

 

 一度目には選ばなかった場所へ行った。

 

 のどかとの関係だって、同じではない。

 

 一つ一つの違いが、少しずつ未来を変えているのかもしれない。

 

 でも本当に、それだけなんだろうか。

 

 そもそも、俺は本当に、同じ三月を繰り返しているんだろうか。

 

 

 一度目の三月と、二度目の三月。

 

 俺が同じだと思っているだけで、最初から違う可能性の世界だったとしたら。

 

 俺自身が、何かの拍子に、別の可能性へ移っていたのだとしたら。

 

 この違いにも、説明がつくのかもしれない。

 

 いや。分からない。

 

 俺の行動が未来を変えたのか。それとも、俺が別の可能性の世界に移ったのか。

 

 あるいは、全く別の理由があるのか。

 

 今の俺には、確かめる方法がなかった。

 

 牧之原さんの話を聞いた今なら、なおさらだった。

 

 それに、結局、聞けなかったこともある。

 

 二度目の三月三日。牧之原さんは、一度目とは違う場所に現れた。

 

 俺が三月を繰り返していることを知っているような素振りも見せていた。

 

 あの時、どうして違う行動ができたんだろう。俺と同じように、一度目の三月を覚えていたのか。

 

 それとも、牧之原さんが経験してきた未来の記憶と、何か関係があるのか。

 

 今日、あれだけ話したのに、その答えは聞けなかった。

 

 牧之原さんが知っている別の未来と、俺が繰り返している三月。

 

 その二つが、どこまで繋がっているのかも分からないままだった。

 

 そう……

 

 未来は、俺が思っていたほど単純なものじゃない。

 

 選ばなかった可能性が、夢として残ることもある。

 

 知っているはずの人が、別の未来では出会っていないこともある。

 

 そして、誰かが生きている未来では、別の誰かが亡くなっていることさえあった。

 

 だったら。この三月の違いにも、何か意味があるんだろうか。

 

 ……分からない。

 

 分からないことばかりだった。

 

 ただ、一つだけ。

 

 明日のライブに、のどかが俺を呼んでくれている。

 

 それは、確かだった。

 

 もう一度、画面を見る。

 

 《明日のライブ、ちゃんと来てよね》

 

 思わず、小さく笑った。

 

 「……行くよ」

 

 誰もいない部屋で、そう呟く。

 

 のどかが、俺に来てほしいと思ってくれている。

 

 俺も、のどかに会いたいと思っている。

 

 それだけで、十分なはずだった。

 

 なのに指が、返信欄の上で止まった。

 

 牧之原さんから聞いた、別の未来。

 

 麻衣先輩が亡くなった世界。

 

 そこで、のどかはスイートバレットを辞めていた。

 

 理由は分からない。そのあと、どうなったのかも分からない。

 

 俺がそばにいたのか。何かをしてやれたのか。

 

 それすら、分からなかった。

 

 今、画面の向こうにいるのどかは、明日のライブを楽しみにしている。

 

 俺にも、来てほしいと言ってくれている。

 

 でも、そんなあいつが、ステージを離れてしまった未来もあった。

 

 ……もしも

 

 今の俺が、のどかと一緒にいることを選んで。

 

 そのせいで、あいつの未来が変わってしまったら。

 

 俺がそばにいることで、のどかが何かを諦めることになったら。

 

 いや違う。

 

 のどかの未来は、俺一人が決めるものじゃない。

 

 牧之原さんにも、そう言われた。

 

 のどか自身が選ぶことだ。

 

 分かっている。頭では、ちゃんと分かっている。

 

 それでも俺は、のどかと明日を迎えたい。

 

 明日のライブを見に行きたい。

 

 四月になっても、その先も、一緒にいたい。

 

 でものどかにとって、その明日が幸せだとは限らない。

 

 胸の奥が、妙に冷たくなった。

 

 「……そんなこと」

 

 「今、考えたって仕方ないだろ……」

 

 時計を見る。

 

 三月三十一日。

 

 あと少しで、四月一日になる。

 

 六年前。俺は、明日が来なければいいと思っていた。

 

 でも今は違う。明日が来てほしい。

 

 のどかに会いたい。

 

 その気持ちは、嘘じゃない。

 

 ただ。明日になれば、また一つ、未来が決まる。

 

 俺とのどかが、一緒に過ごす未来。

 

 その先に、何が待っているのか。

 

 俺には、分からない。

 

 分からないまま、進んでいいんだろうか。

 

 返信欄を開く。

 

 《もちろん、行くよ》

 

そこまで入力する。

 

 あとは、送信するだけだった。

 

 でも指が、動かなかった。

 

 ……どうしてだろう。

 

 行きたいのに。会いたいのに。

 

 四月一日へ、進みたいのに。

 

 しばらくして、入力した文字を消した。

 

 スマホを伏せる。

 

 明日。

 

 明日になったら、返そう。

 

 ライブにも行こう。

 

 のどかに会って、ちゃんと話そう。

 

 それでいい。そう思った。

 

 確かに、そう思ったんだ。

 

 ベッドに横になり、部屋の明かりを消す。

 

 暗くなった天井を見つめながら、ふと、もう一つの名前が浮かんだ。

 

 霧島透子。

 

 今日、牧之原さんから聞いた話で、過去の可能性が記憶として残ることは、少しだけ理解できた気がする。

 

 でも、それで霧島透子のことまで説明できるわけじゃない。

 

 どうして今になっても、あの存在が気にかかるんだろう。

 

 牧之原さんの話を聞けば、何かが分かると思っていた。

 

 実際、分かったことはたくさんある。でも、すべてが繋がったわけじゃなかった。

 

 むしろ、知らなかった可能性を知ったことで、考えなければならないことが増えた気さえする。

 

 それでも、今、一番会いたいのはのどかだった。

 

 目を閉じる。

 

 (……のどか)

 

 明日、会おう。そう思った。

 

 でももし、明日が来なかったら。

 

 そんな考えが、ふと頭をよぎった。

 

 六年前とは違う。

 

 来てほしくないわけじゃない。

 

 ただ明日が来ることで、何かが変わってしまうのが。怖かった。

 

 そのまま、意識は遠のいていった。

 

 

———————————————————————

 

 

 目が覚めた。

 

 カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいた。

 

 いつもの天井。いつもの部屋。

 

 「……朝か」

 

 ぼんやりと、そんなことを思った。

 

 昨日は、ずいぶん遅くまで起きていた気がする。

 

 牧之原さんと、七里ヶ浜で話した。

 

 帰ってから、のどかのLINEを見た。

 

 結局、返事はできなかった。

 

 ……そうだ。返さないと。

 

 枕元のスマホを手に取る。

 

 四月一日。

 

 今日から、新しい月が始まる。

 

 そのはずだった。

 

 でも画面に表示されていた日付は。

 

 三月一日 水曜日

 

 「……え?」

 

 一瞬、意味が分からなかった。

 

 寝ぼけているのかと思った。

 

 もう一度、画面を見る。

 

 三月一日。

 

 間違いない。

 

 「……嘘だろ」

 

 思わず、声が漏れた。

 

 カレンダーを開く。

 

 今日の日付を確認する。

 

 三月一日。

 

 LINEの履歴を見る。

 

 昨日、のどかから届いたはずの言葉。

 

 《明日のライブ、ちゃんと来てよね》

 

 「……ない」

 

 スクロールする。

 

 何度も。

 

 でも、見つからなかった。

 

 昨日まで、確かにあったものが。消えている。

 

 「……またかよ」

 

 声が震えた。

 

 六年前と同じだった。

 

 いや。今の三月だって、そうだった。

 

 一度目の三月。

 

 二度目の三月。

 

 そして……

 

 「……三度目」

 

 口にして、ようやく理解した。

 

 また、三月が始まっていた。

 

 布団を跳ねのける。

 

 窓の外を見る。

 

 朝の街は、何事もなかったように動いている。

 

 車が走っている。

 

 誰かが歩いている。

 

 いつもと変わらない朝だった。

 

 俺だけが。昨日までの時間を、覚えている。

 

 ……いや。本当に、俺だけなんだろうか。

 

 そこまで考えて、頭を振った。

 

 今は、それどころじゃない。

 

 六年前。あの時の俺は、明日なんて来なければいいと思っていた。

 

 三月三十一日を越えたくなかった。

 

 四月一日になってほしくなかった。

 

 だから、三月を繰り返した。

 

 でも今は違う。

 

 明日が来てほしかった。

 

 四月一日へ行きたかった。

 

 のどかに、会いたかった。

 

 牧之原さんにも、そう伝えた。

 

 一緒に方法を探そうと言ってくれた。

 

 頼ってもいいかと聞いた。

 

 ……それなのに、俺はまた。

 

 明日へ行けなかった。

 

 「……なんでだよ」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

 机の中を漁る。

 

 ノートがあった。

 

 六年前。俺が忘れないために、書き続けてきたもの。

 

 手を伸ばしかけて、止める。

 

 今度は、忘れたくないからじゃない。

 

 忘れていない。ちゃんと覚えている。

 

 のどかの誕生日。

 

 三月十四日の江の島。

 

 三月二十日のスカイツリー。

 

 三月二十五日に交わした言葉。

 

 昨日、牧之原さんと話したこと。

 

 全部。全部、覚えている。

 

 それでも。四月一日には、行けなかった。

 

 スマホが震えた。 

 

 思わず、画面を見る。

 

 のどかからだった。

 

 心臓が、一度大きく鳴った。

 

 「……のどか?」

 

 通知を開く。

 

 《蓮真》

 

 それだけだった。すぐに、もう一通届く。

 

 《今、起きてる?》

 

 「……?」

 

 《変なこと聞いていい?》

 

 指先が、冷たくなる。そして……

 

 《今日って、三月一日だよね?》

 

 息が止まった。

 

 ……まさか。

 

 震える指で、返信欄を開く。

 

 《そうだけど》

 

 送信する。すぐに既読がついた。

 

 少し間があって。

 

 《だよね》

 

 それから……

 

 《あたし、昨日まで三月三十一日だった気がするんだけど》

 

 「…………」

 

 何も考えられなかった。

 

 

 画面を見つめる。

 

 何度も読み返す。

 

 昨日まで。三月三十一日。

 

 のどかも。覚えている。

 

 「……なんで」

 

 声が出たその瞬間。

 

 頭の中に、一つの景色が浮かんだ。

 

 三月十四日。

 

 稚児ヶ淵。

 

 海の向こうまで続く、岩場。

 

 のどかと並んで見た景色。

 

 (まさか……)

 

 双葉なら、何と言うだろう。

 

 量子もつれ。

 

 そんな言葉を、使うのかもしれない。

 

 でも、今は理屈なんてどうでもよかった。

 

 俺が、また三月を繰り返した。

 

 そしてその三月に。のどかまで、巻き込んでしまった。

 

 スマホが、もう一度震えた。

 

 《蓮真》

 《これ、どういうこと?》

 

 答えられなかった。

 

 俺にも、分からない。

 

 どうして、また三月なのか。

 

 どうして、のどかまで覚えているのか。

 

 何をすれば、四月一日へ行けるのか。

 

 何一つ、分からない。

 

 ただ。一つだけ、はっきりしていることがあった。

 

 今度の三月は。俺一人の三月じゃなかった。

 

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