青春ブタ野郎はパラレルスプリングの夢を見ない 作:もドえラん
先日、『青春ブタ野郎はディアフレンドの夢を見ない』を観に行ってきました。
せっかくなので、作品の聖地でもあるテラスモール湘南へ。
内容についてはネタバレを避けるため詳しく触れませんが、これまで青ブタシリーズを追いかけてきた人間として、非常に印象に残る作品でした。
咲太たちがこれまで積み重ねてきた時間や、それぞれが抱えてきたものを改めて感じさせられる内容で、観終わったあともしばらくその余韻から抜け出せませんでした。
テレビアニメから始まり、映画を重ね、大学生編まで続いてきた青ブタシリーズ。
ここまで長く追いかけてきたからこそ、今回の物語を観ながら、改めてこの作品に出会えて良かったと思いました。
楽しかったことも、苦しかったことも、少し寂しくなるような場面も含めて、そのすべてが「青春ブタ野郎」という作品らしい時間だったように思います。
そして何より、観終わったあとに残る余韻がとても素晴らしかったです。
物語が終わったあとも、咲太たちのこれからについて考えてしまう。
そんな作品に出会えたことを、改めて嬉しく思います。
だからこそ、今こうして自分なりの青ブタを書いている時間も、大切にしたいと思っています。
今回の物語も、そんな気持ちを込めて書きました。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
三月一日
《あたし、昨日まで三月三十一日だった気がするんだけど》
《蓮真》
《これ、どういうこと?》
画面に並んだ、のどかからのメッセージをもう一度読み返す。
文字が変わるわけでもない。
読み間違いでも、寝ぼけて見た夢でもない。
スマホの画面には、確かにのどかの言葉が並んでいた。
ベッドの上で、しばらく動けなかった。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
窓の外からは、車の走る音が聞こえた。
どこにでもある、三月の朝。
昨日までの一ヶ月が、何事もなかったかのように消えてしまった朝だった。
けれど、今度は。俺以外にも、その一ヶ月を覚えている人間がいる。
「……のどかも、覚えてるのか」
声に出してみても、実感が湧かなかった。
昨日まで三月三十一日だった気がする。
のどかは、そう書いている。
まだ、どこまで覚えているのかはわからない。
ただの日付の勘違いなら、こんな聞き方はしないだろう。
まして、わざわざ俺に確かめてくる理由もない。
のどかも、昨日までの三月を覚えている。
少なくとも、そう考えるほかなかった。
だとすれば、一つ、おかしなことがある。
一度目の三月が終わり、二度目の三月が始まったとき。
のどかは何も知らなかった。
俺が三月を繰り返していることも、三月三十一日の翌日に三月一日が来たことも。
あのときののどかにとって、三月一日はただの三月一日だった。
実際、二度目の三月で会ったのどかは、一度目に交わした会話も、一緒に過ごした時間も覚えていなかった。
それが、今回は違う。
つまり、最初からのどかがこの現象に巻き込まれていたわけではない。
二度目の三月を過ごす、そのどこかで。何かが変わった。
「……何があった?」
思い当たる出来事を、一つずつ辿ってみる。
のどかと過ごした時間。
交わした言葉。
一度目とは違う選択。
三月二十日の誕生日。
スカイツリーと東京駅。
三月二十五日のこと。
そして、三月三十一日。
昨日、牧之原さんから聞いた話。
けれど、のどかはあの場にいなかった。
俺が知らないところで、何かが起きていたのだろうか。
それとも、俺が何かをしたのだろうか。
「……俺のせい、なのか」
口にした途端、胸の奥が冷たくなった。
そもそも、この三月を繰り返しているのは俺だ。
原因も、終わらせ方も、まだわかっていない。
そんなものに、のどかまで巻き込んでしまった。
もし、俺が一度目とは違う行動を取ったせいだとしたら。
もし、俺がのどかとの時間を望んだことが、何かを変えてしまったのだとしたら。
「……最悪だな、俺」
のどかには、のどかの時間がある。
ライブがあって、仕事があって、友だちがいて。
これから先に進んでいくはずの毎日がある。
それなのに。俺が四月を迎えられないばかりに、のどかまで三月に閉じ込めてしまったのかもしれない。
昨日、牧之原さんに言われたことを思い出す。
のどかの幸せを、俺が勝手に決めてはいけない。
それは、わかっている。
わかっている、つもりだった。
けれど……
のどかが自分で選んだわけでもないのに、俺と同じ三月を繰り返すことになったのだとしたら。
それを、どう受け止めればいいのだろう。
スマホを握る指に、力が入る。
謝ろうかと思った。
けれど、何を謝ればいいのかわからない。
俺が原因だと決まったわけではない。
それでも、俺と無関係だとは思えなかった。
画面には、のどかの言葉が残っている。
きっと、向こうも混乱している。
こんなときに、俺まで取り乱してどうする。
「……まずは、確認だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
原因を考えるのは、そのあとでもできる。
少なくとも、今わかっていることを確かめなければならない。
ベッドから起き上がり、部屋の中を見回す。
家具の位置。
机の上に積まれた教科書。
本棚に並んだ本。
脱ぎっぱなしにしていた上着。
見える範囲では、昨日までと変わっていない。
もっとも、昨日までといっても、三月三十一日の部屋ではない。
記憶にある、二度目の三月一日の部屋だ。
あの朝も、同じように部屋を見回した。
何かが変わっていないか。
自分の知っている世界と、どこかが違っていないか。
そして、何も見つからなかった。
今回も、同じだった。
財布を開く。
現金。
通学定期。
学生証。
運転免許証。
どれも記憶にあるものと同じだった。
念のため、スマホのカレンダーも開いてみる。
三月一日。
登録されている予定は、一つだけ。
十八時三十分。
塾講師のアルバイト。
咲太も一緒で、山田くんと吉和さんがいる。
それは記憶と一致している。
最初にこの三月一日を過ごしたときも、夕方から塾へ向かった。
担当する生徒も、授業で扱う範囲も覚えている。
二度目の三月一日にも、同じ予定が入っていた。
今回も変わらない。
「……同じ、か」
カレンダーを閉じる。
少なくとも、確認できる範囲では、世界が別のものに置き換わった様子はない。
部屋も、持ち物も、予定も。
俺が覚えている三月一日と、何も変わっていない。
過去が書き換わったことを示すものも、今のところ見つからない。
変わったのは、日付だけ。
三月三十一日から、三月一日へ。
二度目のループが始まったときと、同じだ。
(いや……)
「……同じじゃ、ないか」
スマホの画面に、もう一度目を落とす。
のどかからのメッセージ。
あのときには、なかったもの。
部屋も、持ち物も、予定も変わっていない。
世界そのものが変わったようには見えない。
それなのに、のどかの記憶だけが、前の三月から続いている。
少なくとも、俺以外にも一人。昨日までの三月を知っている人間がいる。
それが、今回の明確な違いだった。
「……のどか」
名前を呟く。
昨日までの三月を覚えているのなら。
俺と過ごした時間も、覚えているのだろうか。
誕生日のことも。あの日、交わした言葉も。
そして、三月三十一日が終わったことも。
もしそうなら、のどかは今、何を考えているのだろう。
怖がっているのか。混乱しているのか。
それとも、俺と同じように、何が起きたのかを確かめようとしているのか。
わからない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
俺は、のどかに何が起きたのかを知らなければならない。
自分が原因なのかどうかも、まだわからないままだけれど。
それでも今度は、俺だけが知っている三月ではない。
その事実から、目を逸らすわけにはいかなかった。
とりあえず、のどかに返事をしよう。
画面を開き、メッセージを打ち込む。
《俺も、昨日まで三月三十一日だった》
送信する。少し考えてから、もう一通。
《詳しいことは、会って話したい》
既読がつくまで、それほど時間はかからなかった。
《え》
《蓮真も?》
《じゃあ、あたしの勘違いじゃないってこと?》
立て続けに届くメッセージ。
画面の向こうで、のどかがどんな顔をしているのか、なんとなく想像できた。
けれど、いつものように軽口を返す気にはなれなかった。
《たぶん、そうだと思う》
《俺もまだ、何が起きてるのか全部はわかってない》
《でも、話しておきたいことがある》
送ってから、続けて文字を入力する。
《今日か明日、予定空いてる?》
少し間が空いた。
《今日は無理。午後からライブのレッスンあるし》
《明日なら午前中空いてるけど》
明日。
三月二日、木曜日。
頭の中で予定を確かめる。
明日は夕方からファミレスのバイトが入っているだけだ。
午前中なら問題ない。
《俺も明日は夕方からバイトだから、午前中なら大丈夫》
《じゃあ、明日会おう》
《うん》
《でも、蓮真》
《これって、何なの?》
その問いに、指が止まる。
心当たりがないわけがなかった。
六年前の三月。
そして、昨日までの三月。
少なくとも俺は、同じようなことを経験している。
それを今、メッセージだけで説明するのは難しかった。
《心当たりはある》
《でも、ちゃんと会って話したい》
《明日、全部話すよ》
送信すると、しばらく返事がなかった。
その間にも、画面を閉じることができなかった。
やがて、短いメッセージが届く。
《わかった》
《じゃあ明日ね》
《うん。また明日》
最後のメッセージを送って、スマホを伏せる。
「……明日、か」
明日、のどかと会う。
ただそれだけのことなのに、妙な感覚があった。
一度目の三月でも、二度目の三月でも。
三月二日の午前中に、のどかと会う予定なんてなかった。
これまでの二回とは違う選択を、俺自身がした。
もっとも、のどかが昨日までの三月を覚えている時点で、すでに同じ三月ではなくなっているのだろう。
同じ日付。同じ部屋。同じバイトの予定。
けれど、明日会う約束は、前の二回には存在しなかった。
小さな違いだ。
ただ、その小さな違いが、これから何を変えるのかはわからない。
できれば、悪い方向には変わってほしくなかった。
何より、のどかにこれ以上、何かが起きるのは嫌だった。
そんなことを考えて、ふと昨日の言葉を思い出す。
自分の幸せを、勝手に誰かの不幸と結びつけないこと。
のどかの気持ちは、のどか自身に確かめること。
「……そうだったな」
まだ、できているとは言い難い。
それでも、明日会えば話ができる。
のどかが何を覚えているのか。
どうして俺に連絡してきたのか。
そして、今、何を考えているのか。
少なくとも、それを聞かないまま、一人で答えを決めつけるのはやめようと思った。
スマホを手に取り、もう一度カレンダーを開く。
三月二日。
午前中に、のどかと会う予定を追加する。
それから、今日の予定に戻った。
十八時三十分。
塾講師のアルバイト。
こちらは、一度目とも二度目とも変わらない。
咲太と山田くんと吉和さんがいる。
今日の夕方には、またあの塾へ向かうことになる。
けれど、その前に。
「……牧之原さんにも、連絡しておくか」
昨日、七里ヶ浜で話したことを思い出す。
三月を終わらせる方法を、一緒に探してくれると言っていた。
その翌日に、また三月一日へ戻ってしまった。
しかも、今度はのどかまで前の三月を覚えている。
牧之原さんにも、このことを伝えておいた方がいいだろう。
ただし、問題が一つある。
連絡先だ。
昨日までの三月で交換した連絡先は、当然ながら残っていない。
メッセージの履歴も、通話履歴も。
三月一日の時点で存在しなかったものは、すべて消えてしまっている。
だからといって、連絡する手段がないわけではなかった。
幸い、電話番号なら覚えている。
番号を、頭の中で一桁ずつ辿る。
こういうとき、数字を覚えるのが苦手でなくてよかったと思う。
もっとも、相手が俺のことを覚えているかどうかは別問題だ。
のどかという、例外が現れたばかりなのだから。
それでも、確かめてみる価値はある。
電話アプリを開く。
記憶を頼りに、番号を入力していく。
一桁。また一桁。
最後の数字まで打ち終えてから、画面を見つめた。
もし、牧之原さんが何も覚えていなかったら。
昨日の七里ヶ浜で交わした話も、俺が聞いた二つの可能性世界のことも、最初から説明し直さなければならない。
それは、少しだけ気が重かった。
けれど。今度は俺一人の問題ではない。
のどかも、この三月を覚えている。
だからこそ、できることはしておきたかった。
「……よし」
小さく息を吐く。それから、通話ボタンに指を伸ばした。
通話ボタンを押す。
呼び出し音が、一度。
二度。
三度目が鳴り終わる前に、音が途切れた。
「はい。牧之原です」
聞き覚えのある声だった。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
「……牧之原さん?」
「はい。蓮真さんですね」
返事は、あまりにも自然だった。
一瞬、言葉が出なかった。
「……俺のこと、分かるの?」
「もちろんです」
「昨日のことも?」
少しだけ間があった。
「七里ヶ浜でお話ししたことですか?」
胸の奥が、大きく鳴った。
「……覚えてるんだ」
「はい」
牧之原さんは、穏やかな声で答えた。
「三月三十一日だったことも。蓮真さんと海を見ながらお話ししたことも、ちゃんと覚えています」
「……そっか」
思わず、息を吐く。
のどかだけじゃなかった。
牧之原さんも、昨日までの三月を覚えている。
「牧之原さん」
「はい」
「今って、何月何日?」
「三月一日です」
迷いのない答えだった。
「やっぱり……」
「蓮真さんも、戻ってしまったんですね」
「うん」
言葉にすると、改めて実感が湧いてくる。
三度目の三月。
四月一日には行けなかった。
そして今回は、俺以外にも昨日までの時間を覚えている人がいる。
「それと」
「はい」
「のどかも、覚えてる」
電話の向こうが、静かになった。
ほんの数秒。
「……のどかさんも、ですか?」
「うん。朝、連絡が来た」
「昨日まで三月三十一日だった、と?」
「そう」
牧之原さんは、すぐには何も言わなかった。
何かを考えているようだった。
「何か分かる?」
「……いいえ」
少し申し訳なさそうな声だった。
「少なくとも、今のお話だけでは」
「そっか」
「ただ」
「うん?」
「前回とは、明らかに違いますね」
「やっぱり、そう思う?」
「はい」
「蓮真さんだけが記憶を持っていた二度目の三月とは違います」
「……うん」
俺も、同じことを考えていた。
のどかが覚えている。
牧之原さんも覚えている。
それだけでも、これまでの三月とは違う。
「蓮真さん」
「何?」
「直接、お話ししませんか?」
「……会って?」
「はい」
その方がいいと思った。
電話で話せることには限界がある。
それに、牧之原さん自身が何を覚えているのかも、もう少し詳しく聞きたかった。
「分かった。いつにする?」
「そうですね……」
少しだけ考えるような間があった。
それから。
「三月三日の、午後三時」
「三月三日?」
「はい」
数字が妙に耳に残った。
三月三日。
一度目と二度目の三月で、牧之原さんの行動が違っていた日。
「場所は?」
「江の島でどうでしょう」
「江の島?」
思わず聞き返す。
「はい」
「なんで?」
牧之原さんは、すぐには答えなかった。
「……少し、考えたいことがあるんです」
「考えたいこと?」
「はい」
一度、間があった。
「あそこは、わたしにとって、大切な場所でもありますから」
声が、少しだけ静かになった。
俺は、昨日聞いた話を思い出す。
咲太が亡くなった未来。麻衣先輩が亡くなった未来。
どちらも、牧之原さんが生きるために、誰かの命が失われた未来だった。
「……咲太と、麻衣先輩のこと?」
「はい」
牧之原さんは、静かに答えた。
「龍の灯籠の前の道は、二人が、わたしのために命を失った可能性とつながっている場所なんです」
「……そっか」
「だから、もう一度そこへ行ってみたいと思いました」
少しだけ間を置いてから。
「それに」
「うん?」
「……なんとなく、今回は江の島がいいような気がしたんです」
「なんとなく?」
「はい」
「今の話で十分理由になってると思うけど」
「そうなんですけど」
牧之原さんは、少しだけ困ったように笑った。
「それだけじゃないような気もするんです」
「……どういうこと?」
「分かりません」
返事は、あっさりしていた。
「自分でも、うまく説明できなくて」
「そっか」
「はい」
それ以上、牧之原さんも理由を探そうとはしなかった。
分からないものを、無理に答えにしない。
昨日と同じだった。
「では」
一度、息を吸う音がした。
「三月三日の午後三時」
少しだけ間を置いて。
「弁天橋の入口にある、龍の灯籠の前で待っています」
「……随分、細かいな」
「その方が、迷わないですよね?」
「まあ、それはそうだけど」
思わず苦笑する。
三月三日。午後三時。
江の島。弁天橋の入口。
龍の灯籠。
時間も場所も、妙にはっきりしていた。
けれど牧之原さん本人にも、そこを選んだ理由の全部が分かっているわけではないらしい。
「分かった。三日の午後三時」
「はい」
「龍の灯籠の前」
「待っています」
「……また、三月三日なんだな」
口にすると、牧之原さんが少しだけ黙った。
「そうですね」
「でも」
「うん?」
「今度は、一人で考えなくていいと思います」
昨日と同じような言葉だった。
胸の奥に、少しだけ残る。
「……そうだな」
俺は答えた。
「のどかもいるし」
「はい」
「牧之原さんもいる」
「はい」
「……双葉にも、そのうち話した方がいいかな」
「理央さんなら、きっと力になってくれると思います」
「だよな」
問題は、説明した時に何を言われるかだった。
「じゃあ、三日」
「はい」
「また連絡する」
「分かりました」
通話を切ろうとして。
ふと、牧之原さんが言った。
「蓮真さん」
「ん?」
「のどかさんにも」
少しだけ、柔らかな声になる。
「一人で抱え込まないでくださいね」
「……分かってるよ」
答えてから。
本当に分かっているのかと、自分でも思った。
それでも。今回は、少なくとも話すつもりだった。
明日。のどかに、話す。
六年前の三月のことも。
今の三月が、二度目ではないことも。
俺がまだ、四月一日へ行けていないことも。
「じゃあ、また」
「はい。また三日に」
通話が切れた。
静かになった部屋で、スマホを見つめる。
三月三日。午後三時。
江の島。弁天橋の入口。
龍の灯籠。
カレンダーを開き、新しい予定を入力する。
文字にしてしまえば、それだけの約束だった。
牧之原さんが、あの場所を選んだ理由も、一応は分かる。
咲太と麻衣先輩。
二人の命が失われた可能性とつながる場所。
牧之原さんにとって、忘れることのできない場所なのだろう。
ただ……
本人が最後に言った、なんとなく、今回は江の島がいいような気がした。
その言葉だけが、少しだけ引っかかった。
もちろん、それだけだった。
理由なんて、本人にも分からない。
今の俺にも、分かるはずがなかった。
だから、そのまま画面を閉じた。
夕方。予定通り、塾へ向かった。
一度目も。二度目も。
三月一日の夕方は、ここにいた。
ビルに入り、エレベーターで五階へ上がる。
受付に挨拶をして奥へ進むと、カウンターには咲太がいた。
机の上には、見覚えのあるプリントの束。
そして。白い封筒。
「岸和田か。早いな」
咲太が顔を上げる。
その言葉も、覚えていた。
「……お前もな」
短く返して、封筒へ目を向ける。
中身を確認する必要はない。
新江ノ島水族館のチケット。
二枚。
麻衣先輩からの、俺とのどかへの交際祝い。
これで三度目だった。
最初にもらった時は、これから先の予定だった。
二度目は、すでに一度経験した未来を示していた。
そして今は。その未来を、のどか自身も覚えている。
「ほら」
咲太が封筒を差し出してくる。
受け取る。
「麻衣さんから」
「……うん」
「なんだ、反応薄いな」
「そうか?」
「ああ」
当然だった。
もう三度目なのだから。
それでも、封筒は受け取った。
この三月でも、麻衣先輩は俺とのどかのことを祝ってくれている。
その事実まで、同じだった。
やがて。
「こんばんはー」
教室の入口から、聞き覚えのある声がした。
山田くん。
俺を見る。
咲太を見る。
それから、机の上の封筒を見る。
そこから先も、知っていた。
水族館のチケット。
彼女ができたのか。
どんな人なのか。
そして、山田くんの話が余計な方向へ逸れたところで。
「山田」
後ろから吉和さんの声が飛ぶ。
やっぱり、同じだった。
山田くんも。吉和さんも。
少なくとも、昨日まで三月三十一日だったことを覚えている様子はない。
二人のやり取りを眺めながら、二度目の三月一日を思い出す。
あの時は。ここにいる誰も覚えていなかった。
咲太も。山田くんも。吉和さんも。
俺だけだった。
でも、今は違う。
のどかがいる。
牧之原さんもいる。
この三月を、俺以外にも覚えている。
それだけで。同じ会話を三度聞いているはずなのに、前回とは少しだけ違って聞こえた。
チャイムが鳴る。
授業が始まる。
問題を説明して。答案を見て。
間違いを指摘する。
山田くんは相変わらずで。
吉和さんも相変わらずだった。
授業が終われば、二人はまた言い合いながら帰っていった。
静かになった教室で。
「……青春だな」
咲太が呟いた。
三度目だった。
思わず、小さく笑う。
「なんだよ」
咲太がこっちを見る。
「いや」
鞄へ教材をしまう。
「お前、毎回同じこと言うんだなって思って」
「毎回?」
「ああ」
言ってから少しだけ、止まる。
咲太が眉を寄せた。
「何の話だ?」
「……なんでもない」
「変なやつだな」
それも。やっぱり、同じだった。
ポケットには、白い封筒。
二枚の水族館のチケット。
前と同じ三月一日。
同じ塾。同じ咲太。
同じ山田くんと、吉和さん。
何も変わっていないように見える。
でも今回はもう。俺一人だけが、この先を知っているわけじゃなかった。
明日は、のどかに会う。
三日には、牧之原さんと江の島へ行く。
その二つだけは。
一度目にも。二度目にもなかった予定だった。
塾を出た頃には、外はすっかり暗くなっていた。
駅へ向かいながら、ポケットの中へ手を入れる。
指先に、紙の感触が触れた。
白い封筒。新江ノ島水族館のチケット。
麻衣先輩からの、のどかとの交際祝い。
これも三度目だ。
一度目は、素直に嬉しかった。
二度目は、同じものをもう一度受け取ったことが怖かった。
そして、今は。少しだけ、重かった。
家に着いて、上着を脱ぐ。
封筒を机の上に置いてから、スマホを取り出した。
麻衣先輩とのトーク画面を開く。
当然、昨日までのやり取りは残っていない。
三月一日。
この人にとっては、今日が初めて俺にチケットを贈った日だ。
少し考えてから、文字を打つ。
《麻衣先輩、チケットありがとうございました》
続ける。
《のどかと行ってきます》
そこまで打って、指が止まった。
のどかと行ってきます。
前の二回なら、それだけの言葉だった。
今は違う。
のどかは、昨日までの三月を覚えている。
俺と同じように、三月三十一日の次に三月一日を迎えた。
俺の思春期症候群かもしれないものに、巻き込まれている。
それなのに。俺はまた、何も知らない麻衣先輩から、のどかとの未来を祝ってもらっている。
胸の奥に、鈍い痛みがあった。
それでも、文章は消さなかった。
《周りには気をつけます》
送信する。
少しして、既読がついた。
返信も。
《どういたしまして》
続けて。
《楽しんできなさい》
同じだった。
一度目も。二度目も。
そして三度目も。
麻衣先輩は、同じように俺たちを祝ってくれる。
数秒後。もう一つ、通知が増えた。
《それと、ちゃんと手は繋いであげるのよ》
「……」
思わず、目を伏せた。
前なら、何を言ってるんだこの人は、と思った。
二度目は、同じ文章が来たことに寒気がした。
でも今は、申し訳なさが先に来た。
麻衣先輩は何も知らない。
のどかが俺と同じ三月に閉じ込められたことも。
俺が昨日の夜まで、のどかの隣にいていいのか分からなくなっていたことも。
それでも、この人は。当たり前みたいに、妹を俺に預けようとしている。
また通知が来る。
《咲太には言わなくていいから》
「……もう遅いですよ」
小さく呟く。
一度目なら、少し笑えた。
二度目は、笑えなかった。
三度目は。少しだけ笑って。それから、その笑いがすぐに消えた。
返信欄を開く。
前と同じなら。
《努力します》
そう返す。
そのあと麻衣先輩は、努力じゃなくて実行しなさいと言う。
そこまで、もう知っている。
指を動かしかけて。止めた。
別の言葉が、頭に浮かぶ。
“ごめんなさい”
でも。何に対して謝ればいい。
のどかを巻き込んだこと?
のどかと付き合っていること?
それを謝ったら、それこそのどかの気持ちまで否定することになる。
昨日、牧之原さんに言われたばかりだった。
のどかの幸せを、俺一人で決めないこと。
なのに……
今、麻衣先輩から「よろしく」と言われるのが、怖かった。
俺に、本当にそれができるんだろうか。
のどかの隣にいて。
あいつが苦しい時は必ず気づいて。
それでも、勝手に未来を決めずにいられるんだろうか。
画面を見つめる。
やがて、もう一通届いた。
《のどかをよろしくね、蓮真くん》
「……」
胸の奥が、強く痛んだ。
同じ言葉だった。
以前なら。任されたような気がして、嬉しかった。
今は。その言葉に、簡単に頷いていいのか分からなかった。
俺がのどかを幸せにする。
そんな約束なら。
今の俺には、できない。
でも明日、のどかに会う。
話をする。
あいつが何を考えているのか、ちゃんと聞く。
俺一人で答えを出さない。
それなら。少しくらいは、返せる言葉がある気がした。
ゆっくり指を動かす。
《はい》
そこで一度、止める。
それから。
《明日、ちゃんとのどかと話してきます》
送信する。
前の二回には、送らなかった言葉だった。
しばらくして、既読がつく。
返信は短かった。
《そう》
もう一通。
《なら、ちゃんと話してきなさい》
「……はい」
誰もいない部屋で答えた。
机の上には、三度目の水族館のチケット。
明日は、のどかに会う。
同じ三月一日を三度過ごして。
ようやく。次の日にすることだけは、前とは違っていた。
三月二日
午前十時を少し過ぎた頃。
藤沢駅北口のカフェ・ベローチェへ向かった。
店に入ると、のどかはすでに来ていた。
奥の席。テーブルの上には、飲みかけのアイスティーが置かれている。
俺に気づくと、のどかが小さく手を上げた。
「蓮真」
「おはよう」
「おはよ」
向かいの席へ座る。
注文してきたコーヒーを置いてから、改めてのどかを見る。
顔色。目の下。
いつもと変わらない。
少なくとも、体調が悪そうには見えなかった。
「……何?」
視線に気づいたのどかが、少し怪訝そうな顔をする。
「いや」
「めっちゃ見てたじゃん」
「大丈夫かなって」
「何が?」
「頭痛いとか。気持ち悪いとか。寝ても疲れが取れないとか」
「ないけど」
即答だった。
「ほんとに?」
「ないってば」
のどかは呆れたようにストローを咥えた。
「むしろ蓮真の方が顔やばくない?」
「そう?」
「朝からめちゃくちゃ考え込んでそうな顔してる」
「……まあ、考えてはいる」
「やっぱり」
当たっていた。
のどかが元気そうなのを確認して、少しだけ安心する。
それでも。昨日までの一ヶ月を覚えている。
その事実だけは変わらない。
「まず確認したいんだけど」
「うん」
「のどかが覚えてるのって、どこからどこまで?」
「どこからって?」
「昨日までの三月」
のどかは少し考えた。
「普通に全部だと思う」
「全部?」
「少なくとも、三月一日から昨日までは」
「……三月二十日は?」
「誕生日?」
「うん」
「覚えてるよ。スカイツリー行って、そのあと東京駅」
迷いなく答える。胸の奥が少しざわついた。
「三月二十五日も?」
のどかが俺を見る。
「覚えてる」
その答え方だけで、それ以上聞く必要はないと思った。
「そっか」
やっぱり日付だけじゃない。
のどかは、二度目の三月を覚えている。
俺と一緒に過ごした時間も。
俺が知っているのどかも。
昨日まで確かに存在していた。
「で」
のどかがストローから口を離す。
「教えてよ」
「何を?」
「これ」
テーブルの上のスマホを指で叩く。
画面には三月二日と表示されていた。
「なんで三月に戻ってるの?」
「……俺も分からない」
「分からない?」
少し声が大きくなる。
近くの席から視線が向いて、のどかは声を落とした。
「昨日、心当たりあるって言ってたじゃん」
「心当たりはある」
「じゃあ何?」
俺は少し迷ってから、話し始めた。
中学一年の三月。
一ヶ月を何度も繰り返した時、ただ時間が巻き戻ったというより、選ばなかった可能性まで混ざっていたこと。
違う選択をした世界。
過去そのものが違っていた世界。
母さんが生きていた世界まであったこと。
そして。三月が終わったあとも、その記憶の一部が俺の中に残ったこと。
全部を一度に説明するには、あまりにも話が長かった。
それでも、のどかは途中で口を挟まなかった。
黙って聞いていた。
「……つまり」
話が一段落してから、のどかが口を開く。
「今回も、それ?」
「可能性は高いと思う」
「思春期症候群?」
「多分」
「多分?」
「断定はできない」
自分でも、そこが一番厄介だった。
「中学の時と似てる。でも、同じとは限らない」
「なんで?」
「前は俺しか覚えてなかった」
のどかを見る。
「今回は、のどかも覚えてる」
「……あ」
「それに、牧之原さんも」
「牧之原さん?」
のどかは、わずかに眉を寄せた。
「……誰だっけ?」
「のどか、牧之原翔子さん。知ってるか?」
「名前だけなら……」
のどかは視線を少し上へ向け、記憶を探るように考えた。
「お姉ちゃん宛てに、たまに沖縄から手紙が来てたの。そこに書いてある宛名としては、見たことあるよ」
「中身は?」
「見てないけど」
「そうか」
のどかは、まだ納得していないような顔をしている。
「その人がどうかしたの?」
「昨日、電話したんだ」
「蓮真が?」
「うん」
「なんで?」
「三月三十一日のことまで覚えてたから」
のどかは黙った。
「……三月三十一日?」
「前の三月の最後の日」
「その人も、前の三月を覚えてるの?」
「そう」
「でも、あたしはその人のこと、知らないよ」
「……そうか」
その答えは、予想していたものとは少し違った。
牧之原さんがのどかを知っていたから。
当然、のどかも牧之原さんを知っていると思っていた。
けれど今ののどかにとって、牧之原さんは手紙の宛名に書かれていた名前でしかない。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
俺は、頭の中でいくつかの記憶を並べ直す。
牧之原さんがのどかを知っていたのは。
きっと、咲太か麻衣先輩が死んだ世界の延長での話だ。
あの世界では、のどかと牧之原さんは会っていた。
だから牧之原さんも、のどかを知っていた。
でも今のこの現実では。
咲太も、麻衣先輩も生きている。
牧之原さんとのどかが会う理由も、なかったのだろう。
同じ名前。同じ三月。
同じ人たち。
それでも、世界の繋がり方は違っている。
「じゃあ、あたしが覚えてる理由も分かんないんだ」
のどかの声で、意識が戻る。
「……うん」
その言葉を口にするのが、少し嫌だった。
「ごめん」
「なんで蓮真が謝るの?」
「だって」
「蓮真のせいって決まったの?」
昨日。同じことを自分でも考えた。
「決まってない」
「じゃあ謝らないで」
「でも、俺の思春期症候群だったら」
「その時考えればいいじゃん」
「……」
のどかは、俺の顔をじっと見る。
「勝手に全部背負おうとしてない?」
「……してない、つもり」
「『つもり』ね」
痛いところだった。
のどかは小さく息を吐いて、アイスティーを一口飲む。
「で、今日からどうなるの?」
「多分……」
言いかけて、少し考える。
「二度目の三月と、似た感じになると思う」
「似た感じ?」
「今日、仕事とかある?」
「午後からレッスン」
「前も?」
「うん」
やっぱり。
「終わったら?」
「帰る」
「それも前と同じ?」
「たぶん」
何気なく答えたのどかが、少し考える。
「まあ、今日に関してはほぼ同じかな」
「……そっか」
胸の奥に、また重いものが落ちる。
俺のせいかもしれない三月の中で。
のどかは、同じレッスンへ行く。
同じ曲を歌って。同じ振り付けを確認して。
同じ一日を、もう一度過ごす。
「蓮真」
「ん?」
「今また変なこと考えたでしょ」
「……別に」
「嘘」
見抜かれた。
「同じ一ヶ月やらされるの、嫌じゃないのかなって」
正直に言った。
のどかは一瞬きょとんとして。それから、少し呆れた顔をした。
「そりゃ、気持ち悪いよ」
「……だよな」
「でも蓮真だって三回目なんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ一人だけ可哀想みたいな顔しないで」
「してた?」
「してる」
即答された。
返す言葉がなかった。のどかは少しだけ笑う。
「まあ、ライブもう一回やるのは変な感じだけど」
「ライブも同じになるのかな」
「多分ね」
「……」
「何?」
「いや」
やっぱり。
のどかには、俺の知らない二度目の三月がある。
俺と一緒にいなかった時間。
ライブ。レッスン。メンバーとの会話。
家で過ごした時間。
俺は何も知らない。
当然のことだった。
なのに。今まで、そんなことをほとんど意識したことがなかった。
俺が見た三月。
俺が記録した三月。
俺が覚えている三月。
その外側にも、ちゃんと時間は流れていた。
「そうだ」
思い出して、顔を上げる。
「明日、牧之原さんと会うんだけど」
「うん」
「三時に江の島で」
「また江の島なんだ」
「弁天橋の龍の灯籠の前」
「細か」
俺も昨日、同じことを言った。
「のどかも来る?」
「明日?」
「牧之原さんも前の三月を覚えてるし。三人で話した方が何か分かるかもしれない」
のどかは申し訳なさそうに眉を下げた。
「あー……明日は無理」
「仕事?」
「レッスン」
「そっか」
「しかも終わったら卯月がうち来るし」
「卯月?」
「うん」
「何しに?」
のどかは少し嫌そうな顔をした。
「雛あられ撒きに来る」
「……何しに?」
聞き間違えたと思って、もう一度聞いた。
「だから、雛あられ撒きに来る」
「なんで?」
「知らないよ」
のどかも本当に知らないらしい。
「ひな祭りだからって昨日急に言い出して」
「普通、撒かないだろ」
「私もそう言った」
「食べるものだよな?」
「『豆撒くなら雛あられでもいいじゃん』とか言ってた」
「よくないだろ」
容易に想像できた。
袋いっぱいの雛あられを持った卯月が、妙に楽しそうな顔でのどかの家にやって来る姿。
少し笑いそうになって。
ふと、気づいた。
「……それ」
「何?」
「前の三月でもあった?」
のどかは、あっさり頷いた。
「あったよ」
「……」
「三日の夜。レッスン終わって帰ったら来た」
「雛あられ撒いたの?」
「撒いた」
「本当に?」
「掃除大変だった」
「……」
初めて聞く話だった。
一度目の三月でも。二度目の三月でも。
俺は知らなかった。
当然だ。
三月三日の夜。
俺はのどかの家にはいなかった。
卯月から聞いたこともない。
のどかから聞いたこともない。
だから俺の中には、存在していなかった。
でも。のどかにとっては違う。
三月三日の夜。
レッスンから帰って。卯月が家に来て。
雛あられを撒いて。
二人で笑ったのかもしれない。
掃除をしたのかもしれない。
俺が何も知らなかった時間を。
のどかは、ちゃんと過ごしていた。
「……蓮真?」
声をかけられて、顔を上げる。
「どうしたの?」
「いや……」
何でもない、と言おうとして。
やめた。
「ちょっと、気持ち悪くなった」
「さっき体調聞いてたのそっちじゃん」
「体調じゃなくて」
「じゃあ何?」
うまく説明できなかった。
「俺が知らない三月があるんだなって」
のどかが眉を寄せる。
「そりゃあるでしょ」
「分かってる」
当たり前だ。
のどかは俺と付き合っているからといって、二十四時間俺と一緒にいるわけじゃない。
俺が見ていない場所でも生活している。
そんなことは知っている。
でも同じ三月を繰り返して。
俺だけが前の世界を覚えていると思っていた。
だから、どこかで。
俺が覚えていることが、その三月の全部みたいに感じていた。
俺の記憶。俺のノート。俺が見た差分。
それらを並べれば、世界の変化を追えると思っていた。
違った。
俺の知らないところで。
のどかと卯月が雛あられを撒いていた。
たった、それだけのこと。
どうでもいいと言えば、どうでもいい出来事だった。
なのにそのどうでもいい出来事が、妙に気持ち悪かった。
俺が知らないところにも、前の三月は存在していた。
俺が観測していなくても。
俺が覚えていなくても。
俺のノートに書かれていなくても。
世界は勝手に続いていた。
「……当たり前なんだけどな」
「何が?」
「俺が知らなくても、みんな普通に生きてたんだなって」
のどかは少し黙った。
それから。
「そりゃそうでしょ」
やっぱり、そう答えた。
「蓮真が見てない時に、あたしが消えてるわけじゃないんだから」
「……うん」
何でもない言葉だった。
でも。妙に胸に残った。
俺が見ていない時に。
のどかが消えているわけじゃない。
牧之原さんも。咲太も。
麻衣先輩も。卯月も。
みんなそうだ。
俺の知らない時間がある。
俺の知らない選択がある。
俺の知らない感情がある。
それを全部知ることなんて、できない。
当然なのに。
今までの俺は。世界が変わるたび、その違いを一つ残らず見つけようとしていたのかもしれない。
「何?」
のどかがこちらを見ている。
「また難しいこと考えてる?」
「……ちょっとだけ」
「考えすぎ」
「かもな」
「じゃ、今はコーヒー飲めば?」
「冷めてる」
「知らないよ」
少し笑った。
昨日までとは違う三月二日。
でものどかが目の前にいる。
それだけは、今の俺にも、ちゃんと分かった。
のどかと別れたあと。夕方になれば、予定通りファミレスへ向かった。
一度目も。二度目も。
三月二日の夕方は、ここにいた。
着替えてホールへ出る前に、姫路さんがやって来る。
「あ、蓮真先生。おはようございます」
「おはよう」
少しして。
「蓮真先生、この間はごめんなさい」
やっぱり、同じだった。
バレンタインの話。俺に彼女ができた話。
そこへ古賀が来て。
「え!? きっしー先輩まで!?」
驚く。
「づっきー?それとも豊浜さん?」
「……のどかだよ」
「あー、そっか」
その反応まで、知っていた。
姫路さんも古賀も、俺とのどかのことを祝ってくれる。
昨日の麻衣先輩と同じように。
ただ今度は、のどかだけがその先を覚えている。
スカイツリーも。東京駅も。
俺と過ごした、昨日までの三月も。
授業ではなく仕事が始まれば。
そこから先も、ほとんど同じだった。
客を案内して。料理を運んで。
二十時半を過ぎた頃。
姫路さんが先に上がる。
「理央先生から出された宿題があるので」
進路と受験計画。
それも知っている。
でも今度は、先回りして確かめたりはしなかった。
姫路さんが帰ると、古賀がこちらを見る。
「ねえ、きっしー先輩」
「ん?」
「明日って暇?」
「午後三時から予定がある」
「あ、じゃあその前なら大丈夫だ」
古賀は両手を合わせた。
「明日、卒業式のカメラマンやってよ!」
やっぱりこれも同じだった。
「昼過ぎまでなら」
「ほんと? やった!」
峰ヶ原から江の島なら、間に合う。
「分かった」
「ありがとう、きっしー先輩」
古賀が笑う。そして。
「一生に一回だからさ」
その言葉も。
三度目だった。
けれど古賀にとっては、本当に一度目だ。
俺が三度覚えているからといって。
古賀の明日が、三度目になるわけじゃない。
朝、のどかに言われたことを思い出す。
俺が見ていなくても。みんなには、みんなの時間がある。
「……ちゃんと撮るよ」
「よろしく」
三月三日。
午前は古賀の卒業式。
午後三時には、江の島で牧之原さんと会う。
一度目にも。二度目にもなかった予定が重なる。
三度目の三月三日は。
少しずつ、前とは違う一日になろうとしていた。
三月三日
古賀たちの卒業写真を撮り終えた頃には、昼を少し回っていた。
「ありがと、きっしー先輩」
「どういたしまして」
「ちゃんと送ってよ?」
「分かってる」
最後にもう一枚。校門の前で、古賀たちへカメラを向ける。笑顔、制服、卒業証書。
一生に一度の景色を、シャッターに収めた。
それから古賀たちと別れ、江ノ電へ向かった。三時には江の島。牧之原さんとの約束がある。
駅へ向かう途中、ふと一枚のポスターが目に入った。
青い空。白い雲。
その下に広がる、どこまでも青い海。
砂浜を、制服姿の少女が裸足で歩いている。
長い黒髪を海風になびかせながら、少しだけ顔を上げて、空を見つめていた。
まだ中学生だった頃の、麻衣先輩だ。
大きな青い文字で書かれたタイトル。
『春が来る、冬が去る』
その横には、小さな縦書きの言葉が添えられている。
きみが、わたしに未来をくれた……
そしてポスターの一番下。
『ドナーを待っている心臓病の女の子』
その一文を見て、俺は足を止めた。
足が止まった。
知っている。
正確には、知識としては知っている。
麻衣先輩が中学生の頃に主演した映画で、この辺り、七里ヶ浜の近くを舞台にした物語だった。
麻衣先輩が演じたのは、生まれながらに重い心臓病を抱えた少女。
助かる方法は心臓移植だけ。けれど、ドナーは現れない。
それでも、限られた時間の中で生きようとする少女の姿が、多くの人の心を動かした。国内だけではない。海外でも評価され、いくつもの賞を受賞した。
その映画をきっかけに、心臓移植という医療そのものが、それまで以上に広く知られるようになった。
臓器提供に対する世間の意識も変わった。いい方向へ。
ということを、俺はあとから知った。
高校二年の初詣。麻衣先輩が昔出演した映画の話を聞いて、知らなかった俺は、そのあと自分で調べた。
だから、映画そのものの記憶はほとんどない。
当時、かなり話題になった作品らしい。同世代なら名前くらい知っていてもおかしくない。
けれど、俺にはその記憶がなかった。
不思議には思わなかった。
ちょうど、その頃だったから。
中学一年の三月。何度も世界を行き来したあと、転校して、人間関係も生活も何もかもが変わった時期だった。
それに、あの思春期症候群の後からときどきある。
記憶が抜け落ちること。事実だけ残って、その時に何を思ったのか分からなくなること。
逆に、みんなが知っているはずのことを、俺だけが覚えていないこと。
小学校の同級生の名前も、卒業アルバムを見ないと思い出せない人がいる。
当時流行っていた曲も、ニュースも、映画も、ところどころ綺麗に抜けている。
だから、この映画もその一つなのだと思っていた。
「……春が来る、冬が去る、か」
ポスターを見上げる。風に、紙の端が小さく揺れていた。
ふと、財布の中にあるものを思い出し、取り出してみる。
緑色のカード。臓器提供意思表示カード。
これを作ったのは、この映画を見たからじゃない。
小学五年生の時、母さんが目の前で倒れた。
急性の心臓病だった。
何もできなかった。助けることも、代わることも。
だから、せめて自分が死んだ時くらい、誰かの役に立てればいいと思った。
カードを財布へ戻す。
俺にとって、臓器移植は麻衣先輩の映画より前から、ずっと身近な言葉だった。
だからこそ、この映画についての記憶がなくても、特におかしいとは思わなかった。
電車へ乗る。窓の外に海が見えてくる。
七里ヶ浜。一度目の三月。二度目の三月。
何度、この景色を見ただろう。
鎌倉高校前駅を通り過ぎる。
海、線路、道路。見慣れたはずの景色。それなのに、三度目の今日は少しだけ違って見えた。
同じ場所。同じ三月。でも、俺の知らない出来事が、そこにはいくらでもある。
やがて江ノ島駅へ着き、改札を出て弁天橋へ向かった。
三時より少し前、龍の灯籠の近くまで来ると、牧之原さんはもうそこにいた。
「蓮真さん」
「待った?」
「いいえ。今来たところです」
たぶん、本当に今来たわけではない気がした。
並んで歩き始める。海から吹く風は、まだ冷たかった。
しばらく歩いて、さっき見たポスターのことを思い出す。
「そういえば」
「はい」
「途中で、麻衣先輩の映画のポスター見た」
牧之原さんがこちらを見る。
「『春が来る、冬が去る』ですか?」
「うん」
やっぱり。知っている。
「俺、あの映画ほとんど覚えてないんだ」
「そうなんですか?」
「あとから調べて知っただけ」
少しだけ間があった。
「有名だったんですよね」
「はい」
牧之原さんは海を見る。
「あの映画のおかげで、たくさんの人が臓器移植について知ってくれました」
「……うん」
「ドナー登録をする人も増えました」
声は穏やかだった。
「そして」
一度だけ、言葉を選ぶような間があった。
「わたしも、移植手術を受けることができました」
足が止まりそうになる。
「映画のおかげで?」
「それだけが理由ではありません」
牧之原さんは静かに笑った。
「でも、きっかけの一つだったと思います」
咲太が死ななかった世界。麻衣先輩も死ななかった世界。それでも、牧之原さんは生きている。
「最後は」
俺は聞いた。
「咲太は、麻衣先輩を選んだんだ」
「はい」
「それで、二人とも死ななかった」
「はい」
「それでも、牧之原さんも助かった」
「そうです」
風が吹く。髪を押さえながら、牧之原さんは少しだけ眩しそうに海を見た。
「誰かが死ななくても」
小さな声だった。
「わたしが生きられる未来は、ちゃんとありました」
その言葉が、胸の奥に残った。
少し歩いて、俺はずっと聞こうと思っていたことを口にした。
「牧之原さん」
「はい」
「どうして、そんなに俺のこと気にしてくれるの?」
牧之原さんがこちらを見る。
「昨日もそうだった」
続ける。
「咲太がいない未来でも。麻衣先輩がいない未来でも」
俺の話をしていた。俺が誰かを支えていたこと。
それでも、俺自身は幸せになろうとしていなかったこと。
「俺のこと、ずっと見てたみたいに話すから」
牧之原さんは少し考えた。
「見ていましたよ」
「……そうなの?」
「はい」
「咲太さんがいない未来も」
「麻衣さんがいない未来も」
「そこには、蓮真さんがいましたから」
「……」
「誰かが苦しんでいる時に、放っておけなくて」
牧之原さんが笑う。
「自分のことは、いつも後回しでした」
否定できなかった。
「だから」
少しだけ声が柔らかくなる。
「今度は、わたしが蓮真さんを気にかけてもいいんじゃないかって思ったんです」
「……そっか」
それなら、一応は分かる。でも、まだ一つ聞けていないことがあった。
「もう一個、聞いていい?」
「はい」
「霧島透子って」
牧之原さんの表情が、ほんの一瞬だけ止まった気がした。
「本当に知らない?」
波の音が聞こえる。牧之原さんは、すぐには答えなかった。
「前の三月三十一日に聞こうと思ってた」
俺は続ける。
「過去の可能性が、夢とか記憶みたいに残ることは、少しだけ分かった」
でも、霧島透子だけはまだ分からない。
どうして、あの名前だけがあんなに遠く、それなのに時々すぐ近くにあるように感じるのか。
「……牧之原さん?」
やがて、牧之原さんは静かに口を開いた。
「きっと」
声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「忘れたいこともあるから、人は忘れることができるんだと思います」
「……忘れたいこと?」
「はい」
海を見る。
「辛い記憶が永遠に続くなんて」
少しだけ間を置いて。
「それ以上に辛いことはありませんから」
「……」
答えにはなっていなかった。少なくとも、俺が聞きたかった答えではない。
「それって」
言いかけて、やめた。
牧之原さんは、たぶん何かを知っている。
でも、話したくないのか、話せないのか、今の俺には分からなかった。
ただ、無理に聞く気にはなれなかった。
昨日、のどかに言われたばかりだった。
俺が知らないところにも、みんなの時間がある。知らない記憶がある。
知らない理由がある。それを全部、俺が知らなければいけないわけじゃない。
「……分かった」
俺は言った。
牧之原さんが、少しだけ驚いたようにこちらを見る。
「聞かない」
「いいんですか?」
「よくはない」
正直に答える。
「気にはなる」
「……はい」
「でも」
海を見る。
「今は、それでいいよ」
牧之原さんは、しばらく何も言わなかった。それから、小さく笑った。
「ありがとうございます」
風が吹く。龍の灯籠の向こうには、海が広がっていた。
俺の知らない過去。俺の知らない未来。俺の知らない可能性。まだ、いくらでもある。
それでも、全部を知らなくても明日は来る。そんなことを、少しだけ信じてみてもいいような気がした。
少しの間。二人で海を見ていた。
波が寄せては返す。
三月の海は、見ているだけなら穏やかだった。
「蓮真さん」
牧之原さんが、ふいに名前を呼んだ。
「何?」
「わたしは」
一度、言葉を選ぶように間を置く。
「昨日のわたしよりも、今日のわたしがちょっとだけ優しい人間であればいいなと思いながら、生きています」
聞き覚えのある。でも初めて聞く言葉だった。
「……ちょっとだけ?」
「はい」
牧之原さんが笑う。
「たくさんじゃなくていいんです」
「昨日より今日。今日より明日?」
「そうですね」
海へ視線を戻す。
「毎日、正しい選択ができるわけではありませんから」
胸の奥に、少し引っかかった。
正しい選択。
ずっと。俺が探してきたものだった。
あの時、違うことをしていれば。
別の言葉を選んでいれば。
別の未来へ進んでいれば。
もっと誰かが幸せになれたんじゃないか。
そんなことばかり考えていた。
「それに」
牧之原さんが続ける。
「ちっちゃい幸せを、幸せだって思えることが」
こちらを見る。
「実は、一番幸せなことなんですよ」
「……」
言いたいことは、分かる。
たぶん。昨日の俺より。
今日の俺が少しだけ前へ進めばいい。
世界で一番正しい未来を見つけなくても。
目の前にある小さなものを、幸せだと思えればいい。
のどかと話すこと。
古賀の卒業写真を撮ること。
麻衣先輩から水族館のチケットをもらうこと。
咲太や卯月のくだらない一言に笑うこと。
そんなものを。ちゃんと大切にすればいい。
分かる。分かるのに。
「……難しいな」
口から出た。
牧之原さんは、少しだけ首を傾げる。
「そうですか?」
「俺には」
正直に答える。
「かなり難しい」
小さな幸せを、そのまま幸せとして受け取る。
未来のことを考えずに。
失う可能性を考えずに。
誰かにとって不幸になるんじゃないかと疑わずに。
そんなことが。
今の俺には。ひどく難しい。
「なんか」
小さく息を吐く。
「最後に、すごい宿題を置いていかれた感じがする」
牧之原さんが、少しだけ笑った。
「試練のつもりはないんですけどね」
「余計厄介だよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
でも嫌ではなかった。
少なくとも。正しい未来を探せと言われるよりは。
ずっと。
「牧之原さんは」
ふと聞く。
「これからどうするの?」
「一度、沖縄に帰ります」
「沖縄?」
「はい」
少しだけ困ったように笑う。
「それに。お父さんとお母さんを、ずいぶん待たせていますから」
その言葉に。
少しだけ安心した。
牧之原さんにも。帰る場所がある。
「そっか」
「はい」
「いつ?」
「近いうちに」
「じゃあ」
言いかける。
また会える。
そう言おうとして。少しだけ止まった。
俺たちは。過去の可能性が消えないことを話した。
終わることと、なくなることは違うと。
だったら別れることも。なくなることとは違う。
「……気をつけて」
そう言った。
牧之原さんは少しだけ目を丸くして。
それから笑った。
「はい」
「蓮真さんも」
「俺?」
「ちゃんと、四月一日へ行ってくださいね」
「……努力する」
「努力じゃなくて」
一瞬。麻衣先輩のメッセージが頭をよぎった。
思わず笑う。
「実行しろ?」
牧之原さんは笑った。
「そこまでは言いません」
少しだけ間を置いて。
「でも」
穏やかな声で。
「明日へ行きたいと思ってください」
「……」
それだけ。
牧之原さんは言った。
答えを教えてくれたわけじゃない。
三月を終わらせる方法も。
正しい未来も。
何も。
ただ。明日へ行きたいと思うこと。
昨日より少しだけ優しくなること。
小さな幸せを、幸せだと思うこと。
それだけを、俺に残した。
「……やっぱり、宿題だな」
「そうですか?」
「そうだよ」
牧之原さんは笑っていた。
俺も。少しだけ笑った。
海の向こうには。
まだ見えない明日がある。
三月四日。
三月五日。
そして。まだ辿り着けていない。
四月一日。
そこへ行くために。
俺はたぶん。
世界を変える方法より先に。
自分がどう生きたいのかを、決めなければならないのだから。