社畜ちゃんの「もう帰ります」が、最強の交渉術だと勘違いされている   作:夜琥

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1. 報告書と定時の鐘と勘違いの巨人

時刻は、終業まであと三十分。

 

冒険者ギルドの奥にある、普段は使われない応接室の空気は、鉄床のように重かった。

 

長テーブルを挟んで対峙するのは、ギルドマスターのギデオンと、ドワーフ王国から派遣された商人代表、ボルガン。

 

議題は、ギルドが買い付けるミスリル鉱石の価格改定交渉。

 

ボルガンは伝統と格式を盾に強硬な値上げを主張し、交渉はすでに三時間も停滞していた。

 

「ギデオン殿、これ以上の譲歩はできんな。我がドワーフの誇りにかけて、この価格は揺るがん!」

 

「ううむ…しかしな、ボルガン殿。その価格では、駆け出しの冒険者たちが装備を揃えられんのだ…」

 

豪快さが売りのギデオンも、頑固一徹なドワーフを相手には苦戦していた。

 

壁際に控える主任のバルツは、ただ胃を押さえて青ざめている。

 

そして、そのバルツの隣。

 

書記として同席を命じられたリノアは、表情一つ変えず、ただひたすらに、己の内心と戦っていた。

 

(長い…。話が、あまりにも長い…! なぜこのドワーフは精神論ばかり語るんだ。さっさと数字の話をしろ! このままじゃ定時に帰れないじゃないか…!)

 

彼女の苛立ちは、刻一刻と限界に近づいていた。

 

そして、ボルガンが再び「我が一族に伝わる鍛冶の魂が…」と語り始めた瞬間、ついに何かが、ぷつりと切れた。

 

「――失礼」

 

凛とした声が、室内に響いた。

 

ギデオンも、ボルガンも、そしてバルツも、驚いて声の主を見る。

 

今まで空気のように沈黙を守っていた受付嬢、リノアが、すっと立ち上がっていた。

 

「ボルガン様。交渉が難航しているようですので、一つ、判断材料を提供してもよろしいでしょうか」

 

彼女はそう言うと、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 

それは、この三時間の退屈な交渉の間に、彼女が記憶と片隅の資料から書き上げた、分析レポートだった。

 

「こちらは、過去五年間のミスリル市場価格の変動グラフ。こちらが、ドワーフ王国と競合する三つの鉱山の採掘コスト比較。そして、こちらが最近流通し始めた『魔鋼合金』の登場による、純ミスリル需要の将来的な予測値です」

 

淡々と、しかし淀みなく紡がれる言葉。

 

ボルガンは、羊皮紙にびっしりと書き込まれた正確無比な数字とグラフに、目を剥いた。

 

「我々の提示価格は、これらのデータに基づき算出された、適正かつ、むしろあなた方に有利なものです。この交渉が長引けば、我々は『魔鋼合金』の仕入れ比率を上げるという選択肢も検討せざるを得ません。そうなれば、あなたの王国の利益は…どうなるでしょうね?」

 

リノアは、そこで言葉を切った。

 

そして、事務員としての笑みを浮かべる。

 

「ご返答は、明日の始業時刻までにお願いいたします。それでは、私はこれで」

 

一礼し、彼女は応接室を出ていく。

 

残されたのは、羊皮紙を握りしめたままわなわなと震えるドワーフと、口をあんぐりと開けたギデオン、そして(あいつ、いつの間にあんなデータを…!?)と戦慄するバルツだった。

 

十分後、ボルガンはギルドの提示価格を全面的に受け入れたという。

 

***

 

冒険者ギルドの喧騒が、心地よい終わりへと向かって遠のいていく。

 

傾いた太陽が窓から琥珀色の光を差し込み、酒と汗と埃の匂いが混じり合うホールに、長い影を落としていた。

 

常ならば依頼達成を祝う乾杯の声や、武勇伝を語る大声で満ちるこの場所も、今はもうまばらな人影が残るのみ。

 

一日の終わりを告げる、穏やかな時間が流れていた。

 

面倒な交渉を「処理」し、自分のデスクに戻ったリノアは、残りの事務仕事を進めていた。

 

(危なかった…。あのままだったら、確実に残業だった)

 

そして、最後の一枚の書類を所定のファイルに収め、誰にも気づかれぬよう、小さく、深く息を吐いた。

 

完璧だ。

 

彼女のデスクの上には、インク瓶とペン立て以外、何一つ置かれていない。

 

積み上げられた書類の山も、処理待ちの羊皮紙も、すべて彼女の的確かつ迅速な仕事によってあるべき場所へと整理された。

 

時刻は、終業まであと十五分。

 

(よし…)

 

心の中で、リノアは静かにガッツポーズをした。

 

このまま何事もなければ、今日もまた平穏な定時退社を勝ち取ることができる。

 

脳裏に浮かぶのは、帰り道にあるパン屋の焼きたての匂いと、読みかけの恋愛小説の甘い一節。

 

そのささやかな幸福を噛みしめようとした、まさにその瞬間だった。

 

轟音と共に、ギルドの樫の扉が乱暴に開け放たれた。

 

静寂を切り裂いて飛び込んできたのは、泥と煤にまみれ、装備のあちこちを破損させた三人の冒険者。

 

歩く災厄とでも言うべきその一団は、互いを罵り合いながらカウンターへと直進してくる。

 

「だから言ったんだ!お前が猪突猛進するからだろ!」

 

「ダリウスこそ、私の援護を待たずに突っ込むから!」

 

「うるせえ!そもそもてめえらの計画が甘いんだよ!」

 

パーティ「赤き誓い」

 

Cランクへの昇格がかかった依頼で、見事に何かをやらかしてきたらしい。

 

その絶望的な光景を前に、リノアの心に浮かんだ言葉は、ただ一つだった。

 

(――最悪だ)

 

受付部門主任のバルツが、深々と刻まれた眉間の皺を指で揉みながら、重い口を開いた。

 

「…リノア君、すまないが」

 

「はい、主任」

 

他の受付嬢たちが一斉に書類のチェックに没頭し始める中、リノアは笑みを浮かべて頷いた。

 

主任のバルツに押し付けられ、リノアは「赤き誓い」が待つカウンターへと向かう。

 

リノアが立つ受付カウンターは、分厚い樫の一枚板で作られた、さながら城壁のような代物だ。

 

冒険者たちの喧騒と、職員たちの聖域である事務スペースを隔てるそれは、長年の使用で表面には無数の傷やインクの染みが歴史のように刻まれている。

 

そして、そのカウンターの真上の天井に、一本の黒い隙間が走っていることを、ほとんどの冒険者は気にも留めない。

 

リノアは内心でバルツの胃に、追い打ちの呪詛をかけながら、彼女は絶望の塊――「赤き誓い」と対峙する。

 

「依頼は失敗だ!だが、道中に出くわしたオークの群れは、この俺が叩き潰してやったぜ!」

 

リーダーの戦士、ダリウスが、土と何か得体のしれない体液で汚れた報告書をカウンターに叩きつける。

 

その内容は、依頼の顛末そっちのけで、自らの武勇伝を書き連ねた叙事詩に近かった。

 

リノアはそれをほんの数秒で確認し、トントン、とペン先で報告書の一か所を叩いた。

 

「却下です」

 

「なっ!?」

 

「依頼は『ゴブリンの巣の偵察』。無関係な戦闘行為は契約違反にあたります。報告書は、依頼の成否と、その過程で起こった事実のみを時系列で記述してください。あなたの感想文は不要です」

 

氷のように冷たい事務的な声に、ダリウスの顔から血の気が引く。

 

続いて、半泣きの魔法使いエララが、大量の項目が記載された経費申請書を恐る恐る差し出した。

 

「あ、あの…途中でポーションとか、色々使ってしまって…」

 

リノアはそれを受け取ると、迷いなく赤ペンを走らせ、項目の八割に線を引いた。

 

「これも却下です。申請が認められるのは、依頼遂行に直接使用された分のみ。予備や、あなたの不注意で破損した装備は自己負担です。ギルドはあなたの財布ではありません」

 

「そ、そんな…」

 

崩れ落ちそうなエララ。

 

最後に、盗賊のフィンが舌打ち混じりに前に出た。

 

「待ちな!あんた、状況が分かってんのか!オークとの遭遇は不可抗力だったんだ!それに備えるのは当然だろうが!」

 

その言葉に、リノアはフィンの目を見た。

 

「不可抗力かどうかは問題ではありません」

 

凛とした声が、ギルドのホールに響く。

 

「クライアントがギルドに対価を支払ったのは『ゴブリンの巣の偵察報告書』という商品に対してです。あなた達はその商品を納品しましたか?」

 

「いや、しかし…」

 

「では、失敗です。途中でドラゴンを倒そうが、国を救おうが、契約した商品を納品できなければ、それは完全な債務不履行。ここは慈善事業ではない。ビジネスです」

 

正論だった。

 

三人は完全に沈黙し、バルツがそっと胃薬を取り出そうとした、その時。

 

「その通りだ!リノア!いいことを言う!」

 

背後から、雷鳴のような大声が響いた。

 

振り向けば、そこには腕を組み、満足げに頷く巨漢――ギルドマスターのギデオンが立っていた。

 

元伝説の英雄である彼は、ギルド内の不穏な空気を、若手への熱血指導と勘違いしたらしい。

 

先ほどの交渉時には鳴りを潜めていた、豪快さが場を支配していく。

 

「お前たち、運がいいな!ウチのギルドの至宝、リノア直々の指導だぞ!彼女の言葉は全て金言だと思え!一言も聞き漏らすなよ!」

 

(出たな、元凶…)

 

リノアの内心の悪態をよそに、ギデオンはニカッと笑い、事態をさらに悪化させていく。

 

完全に公開処刑の場となったカウンターで、ダリウスが震える声で絞り出した。

 

「じゃあ…俺たちは、どうすればよかったんだ…?」

 

その問いかけは、無情な音色によってかき消された。

 

――カーン、カーン…

 

終業を告げる鐘の音。

 

それを聞いたリノアの顔から、能面のような表情がすっと消え、ごくわずかに安堵の色が浮かぶ。

 

彼女は手早く私物をカバンにしまいながら、立ち上がった。

 

「それは、あなた達がこの依頼を受ける前に、熟考しておくべきことでしたね」

 

そして、踵を返し、出口へ向かう。

 

しかし、二歩ほど進んだところで、彼女はピタリと足を止め、振り向きもせずに、ただ一人、ギデオンに向かって静かに言った。

 

「――そうだ、ギルドマスター」

 

「ん?どうした、リノア!」

 

「若手への過度な期待は、彼らの自主性を損なうだけでなく、私の業務効率を著しく低下させる要因となります。今後、私の業務範囲外でのご采配は、お控えいただけますよう、お願い申し上げます」

 

文句の付けようのない丁寧な言葉遣い。

 

しかし、その声には絶対零度の圧が込められていた。

 

その瞬間、リノアの一番近くで全てを聞いていたバルツの胃に、氷の針をねじ込まれたかのような激痛が走った。

 

(言ったああああぁぁぁッ! あのバカ、よりにもよってこのギルドで一番話が通じない男に、真正面から正論を…! やめろ、その顔は…! ギデオンが何かを盛大に勘違いして、目を輝かせている時の顔だ…! 絶対に面倒なことになる! 明日の朝礼で『リノア式指導法』とかいう謎の新制度が始まって、俺の仕事が3倍になるやつだ、これ!)

 

バルツはカウンターの下で必死に胃薬を探しながら、これから起こるであろう事務処理の地獄を予見し、顔面蒼白でその光景を見守る。

 

「お、おお…?そ、そうか…?」

 

さすがのギデオンも、その気迫に一瞬たじろぐ。

 

リノアは、それ以上何も言わずに続ける。

 

「終業時刻ですので、失礼します」

 

唖然とするギデオン、顔面蒼白のバルツ、そして茫然自失の「赤き誓い」を置き去りに、リノアは今度こそ颯爽とギルドを後にした。

 

その直後。

 

ずしり、と金属が擦れる重々しい音が響き、天井に走っていた黒い隙間から、分厚い鉄格子が姿を現し、カウンターに穿たれた溝へと吸い込まれるように降りてきた。

 

ガチャン、という硬質な音を最後に、受付は封鎖される。

 

それは、今日の業務の終了と、これ以上の対話を拒絶するという、意思表示だった。

 

静まり返ったギルドで、最初に口を開いたのはギデオンだった。

 

彼は何かを深く理解したように、ポンと手を打った。

 

「…そうか!分かったぞ!リノアの奴、『お前たち自身の力で解決してみせろ』と、ああやって若者を突き放して、彼らの成長を促しているんだな!なんと深遠な教育的配慮だ!」

 

(ほら、始まった…)

 

バルツが遠い目をする横で、ギルドマスター直々の「公式解説」は続く。

 

その言葉は、三人の胸に深く、そして盛大に歪んで刻み込まれた。

 

「俺たちは…とんでもない人の逆鱗に触れて、そして、とんでもないチャンスを掴んだのかもしれない…」

 

ダリウスの呟きに、二人が固く頷いた。

 

***

 

その頃。

 

ギルドでの狂騒が嘘のような静寂に包まれた、街の一角にある質素な自宅の一室で。

 

きっちりと糊の効いたギルドの制服を脱ぎ捨て、着古したゆったりとした部屋着に着替えたリノアは、解放の息を大きく吐いた。

 

「…ぷはーっ」

 

そして、使い古されたラグの上に、ごろりと身を投げ出す。

 

今日の戦利品である、帰り道に買った肉と野菜がごろごろ入った熱々のミートパイにかじりつきながら、もう片方の手には読みかけの大衆恋愛小説を開いた。

 

タイトルは『冷徹公爵は、実は私にだけ甘い』

 

もぐもぐとパイを咀嚼しながら、彼女はヒロインと公爵がすれ違うじれったいシーンを、面倒くさそうに高速でめくっていく。

 

「まだくっつかないのか、この二人は。話が長い…」

 

彼女が求めているのは、甘い恋の駆け引きではない。

 

(…お、来た来た)

 

ページを飛ばし、物語の終盤、悪徳商人の罠にはまってヒロインの実家が潰れる寸前のシーンで、彼女は目を輝かせた。

 

――次のページ、絶体絶命のヒロインの元に、王家の紋章を掲げた使者が現れる。

 

公爵の裏回しによって、ヒロインの実家が悪徳商人から守った功績を認められ、王家直属の御用達になることが決定した、と。

 

たった数行の描写で、全ての借金問題と悪徳商人が一瞬で解決(破滅)した。

 

(これだ!これだよ!)

 

リノアはラグの上で足をばたつかせ、内心で快哉を叫ぶ。

 

(面倒な交渉も、金の計算も、証拠集めも、全部すっ飛ばして、権力の一撃で全てを終わらせる!ああ、ギルドの依頼も全部こうなればいいのに…!)

 

物語のご都合主義的な爽快感に浸り、最後のパイを口に放り込んだ瞬間。

 

ふと、今日の忌々しい出来事を思い出してしまい、リノアは急に現実に引き戻され、眉間に皺を寄せた。

 

「…あの脳筋ゴリラ、釘を刺したくらいじゃどうせ無駄だろうな…。ああ、面倒くさい。さっさと寝て、明日も定時で帰ろう」

 

読み終えた小説を枕元に放り投げ、ごろり、と再び寝返りをうち、彼女は意識を手放していく。

 

こうして、一人の社畜のささやかな願いとは裏腹に、偉大なる賢者の伝説が、静かに幕を開けたのだった。

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