社畜ちゃんの「もう帰ります」が、最強の交渉術だと勘違いされている   作:夜琥

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4. 面倒くさがり屋 VS 仕事の鬼

ワイバーン騒動から数日が過ぎ、冒険者ギルドには、つかの間の平穏が訪れていた。

 

特に、リノアのデスク周りは、かつてないほどの静けさに包まれていた。

 

あれ以来、パーティ「赤き誓い」が提出する報告書は、まるで教科書の見本のように完璧なものへと生まれ変わったのだ。

 

(…うん、いい感じ。このままギルド全体の報告書の質が上がれば、私の確認作業も格段に楽になる…)

 

リノアは、着実に近づく「定時退社が当たり前の日常」という名の理想郷を思い描き、誰にも気づかれないよう、小さく口角を上げた。

 

しかし、その平穏は、ギルドの扉を開けて入ってきた一人の男によって、無慈悲に破壊されることになる。

 

カツ、カツ、と硬質なブーツの音を響かせてホールを横切るその男の姿に、ギルド中の視線が集まった。

 

磨き上げられた白銀の鎧、背筋の伸びた完璧な姿勢、そして、一切の無駄を許さないとでも言うような、理知の光を宿した冷徹な青い瞳。

 

男は、受付カウンターの前で止まると、ギルドマスターのギデオンを一瞥し、簡潔に名乗った。

 

「王宮騎士団、監査官のクライヴ・アイゼンです。国王陛下の勅命により、先のワイバーン騒動における、当ギルドの危機管理体制について、監査を実施しに参りました」

 

その言葉に、ギルドの空気が凍り付いた。

 

(…監査官? なにそれ、面倒くさそう…)

 

リノアの眉間に、わずかな皺が寄った。

 

クライヴの監査は、苛烈を極めた。

 

「なぜ、あれほどの希少アイテムが倉庫で眠っていたのですか? 在庫管理台帳の最終更新日は?」

 

「緊急時における、王宮への報告ルートと指揮系統の図を提示されたい」

 

「そもそも、なぜCランクパーティに、これほどの重要案件のきっかけとなる調査を?」

 

矢継ぎ早に、的確すぎる質問が繰り出される。

 

「ガハハハ! 心配ご無用! 我がギルドに死角はない!」

 

ギデオンはそう豪語するが、具体的な質問には「ううむ、それは…バルツ!」とすぐに部下に丸投げし、ボロが出る。

 

バルツは「はぁ…」と胃を押さえ、青ざめるばかりだ。

 

そして、監査の矛先は、当然のように、この騒動の伝説の中心人物へと向けられた。

 

「――リノア殿。あなたですね?」

 

クライヴの冷たい視線が、リノアを射抜く。

 

「ワイバーンの出現を予知し、若手パーティを指導して防護香を発見させたと伺いました。あなたほどの人物が、ギルドのこの杜撰な管理体制を放置していたとは思えません。何か、明確な意図があったのですか?」

 

リノアは、その鋭い視線を受けながらも、表情一つ変えない。

 

彼女はちらりと壁にかけられた時計を確認すると、目の前に積まれた書類の束を、指でトントンと叩いた。

 

「監査官殿。王宮からのご公務、お察しいたします。ですが、私にも受付嬢としての通常業務がございます。この依頼書の処理が滞れば、冒険者たちの活動に支障が出て、結果として国の利益を損なうことにも繋がりかねません。あなたとのお話は、この業務が終わり次第。――十分後でよろしいでしょうか?」

 

王宮の監査官である自分を「待たせる」という前代未聞の対応に、クライヴの眉がピクリと動いた。

 

彼は、この田舎ギルドの受付嬢の無礼な態度に、明確な敵意を覚えた。

 

「…面白いことを言う。私は国王陛下の勅命でここにいる。一介の受付嬢の通常業務と、国家の危機管理監査、どちらが優先されるべきか、理解できないほど愚かではあるまい?」

 

「ご理解いただけていないのは、監査官殿の方では?」

 

リノアは、静かに、しかしはっきりと返した。

 

「ギルドが機能し、冒険者が依頼をこなし、その報酬から税金が納められ、王宮とあなたの給金が支払われる。私の通常業務は、その全ての土台です。つまり、私の仕事の遅延は、いずれあなたの不利益にも繋がる。それでも、監査を優先しろと?」

 

飾り気のない、しかし文句の付けようのない正論だった。

 

クライヴは一瞬言葉を失い、やがてその口元に、冷たい笑みを浮かべた。

 

(…面白い。この無礼な女の化けの皮、必ず私が剥がしてみせる…!)

 

約束の十分後。

 

リノアは、この監査という名の残業地獄から一刻も早く解放されるため、ギルドにいる自分の「弟子」や、自分の同僚たちをフル活用することに決めた。

 

「先ほどの在庫管理の件ですが」

 

クライヴの質問に、リノアは直接答えず、隣で控えていたダリウスに視線を送った。

 

「その件については、資源管理の重要性を叩き込まれた彼らが、最も詳しく説明できるはずです」

 

「は、はいっ! 師匠!」

 

指名されたダリウスは、待っていましたとばかりに胸を張る。

 

(やはり自分で答えられないと見える。質問から逃げているな…!)

 

クライヴが内心で嘲笑した、その時だった。

 

「師匠は我々に、まず『事実』を正確に捉えることを教えられました!」

 

ダリウスが、熱意のこもった声で語り始める。

 

「『巨大なオーク』ではなく『身長およそ2メートルのオーク』と。『いくつかの薬』ではなく『回復薬三本』と。全ての資源を主観ではなく、正確な数字で管理すること。それこそが、有事の際に『何が』『いくつ』『どこにあるか』を瞬時に把握するための、危機管理の第一歩であると!」

 

「なるほど…」

 

クライヴが唸る。

 

「では次に、緊急時の指揮系統についてですが、現状のギルドはあまりに属人的に見える。その点についてはいかがお考えか?」

 

クライヴの次の質問に、リノアは今度はダリウスの後ろにいたフィンに視線を送った。

 

「その点については、斥候として情報の重要性を理解している彼が説明します」

 

フィンは一瞬ためらった後、意を決したように口を開いた。

 

「師匠…いえ、リノアさんからは、報告は『誰が読んでも同じように理解できる』ように書けと指導されました。曖昧な表現をなくし、事実だけを簡潔にまとめる。そうすれば、現場からの情報が歪むことなく上層部に伝わり、トップは迅速かつ正確な判断を下せる。これこそが、理想的な指揮系統の根幹です」

 

「…冒険者への指導は徹底されているようだ」

 

クライヴは感心したように見せかけ、新たな質問を投げかける。

 

「では、職員間の情報共有体制は?口頭での伝達ばかりでは、有事の際に混乱を招くのでは?」

 

その質問に、リノアはカウンターの隣で仕事をしていた後輩のリリィに視線を向けた。

 

「その件は、彼女が導入した新しい回覧板制度について説明します」

 

「は、はいっ!」

 

突然指名されたリリィは、緊張で顔を赤らめながらも、背筋を伸ばして立ち上がった。

 

「リノア先輩のご指導で、ギルド内の伝達事項は全て、要点を三つに絞って簡潔に記す回覧板制度に変わりました!これにより、伝言ゲームのような情報の劣化がなくなり、全員が常に同じ情報を共有できるようになっています!全ては、リノア先輩が『私が何度も同じことを説明する手間を省くため』とおっしゃっていた、ご配慮のおかげです!」

 

熱弁を振るう彼らの姿に、クライヴは戦慄した。彼の敵意は、やがて畏怖へと変わっていく。

 

(まさか…事務職員だけでなく、冒険者にまで…これは…

 

まず、私を待たせることで、王宮の権威にも揺るがない組織の規律を見せつけた。

 

次に、私との論戦で、彼女自身の揺るぎない哲学を示した。

 

そして最後に、冒険者と職員、双方に語らせることで、その哲学が組織の隅々まで完全に浸透している事実を証明してみせた…

 

監査されているのは私ではない。

 

監査官である、この私が、彼女に試されていたというのか…!

 

彼女は、ただの受付嬢ではない。

 

ギルドという組織を、有事の際に機能する一つの軍隊として作り替えようとしている、恐るべき戦略家だ…!)

 

監査を終えたクライヴは、リノアの前に進み出ると、深々と頭を下げた。

 

「リノア殿、失礼ながら、私はあなたを誤解しておりました。あなたは、この国の守りの要です。ぜひ、今後も王宮にご協力いただきたい」

 

その言葉に、リノアは心底面倒くさそうな顔で、はっきりと告げた。

 

「協力は、お断りします。

 

我々の仕事が増えるということは、ギルド全体の情報処理速度が落ちるということです。

 

それは、有事の際にギルドが機能不全に陥るリスクを高める。

 

国を守るという大義のためには、組織の土台である現場の業務フローを乱すべきではない。

 

そうは思いませんか?」

 

あくまで自分の定時退社を守るための文言。

 

だが、クライヴの耳には、それは全く違う意味で響いていた。

 

(…そうか。そういうことか…!)

 

彼は、雷に打たれたような衝撃を受けていた。

 

(彼女は、王宮がギルドという一つの組織に過度に依存する体制そのものを、危惧しているのだ…!『我々に頼るな。あなた方自身で、国を守るための体制を盤石にしろ』と、そう、厳しくも愛のある叱咤激励を…!なんと気高いお方だ…!)

 

クライヴは、さらに深く頭を下げた。

 

「…承知いたしました。リノア殿のお考え、このクライヴ、確かに胸に刻みました」

 

(…話が通じてないな、この人)

 

リノアが内心で絶望していると、クライヴは去り際に、今や絶対の信頼を寄せる相手にだけ打ち明けるように、声を潜めてこう呟いた。

 

「…それにしても、不可解です。今回のワイバーン、まるで王都の防衛網を試すかのような、あまりに理性的な動きでした。まるで、誰かが裏で糸を引いているかのようで…」

 

その言葉に、リノアの眉がわずかに動く。

 

面倒事の予感が、これまでとは違う、より暗く、粘質なものへと変わっていくのを感じていた。

 

***

 

クライヴ・アイゼンという、これまでにない種類の面倒事をなんとか乗り切り、終業の鐘と共にギルドを後にしたリノアの足取りは、いつもより少しだけ重かった。

 

(…誰かが、裏で糸を…? やめてほしい、そういうの…。ただでさえ業務が多くて面倒なのに、これ以上、考えることが増えるのは…)

 

頭の片隅にこびりついたクライヴの言葉を振り払うように、彼女は小さく首を振る。

 

今日の疲れは、いつものパイやポトフでは癒せそうにない。

 

彼女が向かったのは、いつもの賑やかな市場とは逆方向の、人通りの少ない裏路地だった。

 

そこに、看板も出さずにひっそりと佇む、一軒の小さな食堂がある。

 

リノアが「隠れ家」と呼んでいる、行きつけの店だ。

 

年季の入った木の扉を引くと、カラン、と乾いたベルの音が鳴った。

 

店内は薄暗く、客はカウンターに座る老人と、隅のテーブルで静かに本を読む女性だけ。

 

誰もが、思い思いの静かな時間を過ごしている。

 

「…いらっしゃい」

 

カウンターの奥から、店主の老人が顔を上げた。

 

無口で、少し強面だが、その目には穏やかな光が宿っている。

 

「こんばんは」

 

リノアは、カウンターの一番端の席に腰を下ろした。

 

メニューに目をやるまでもなく、注文は決まっている。

 

「いつもの、お願い」

 

「あいよ」

 

店主は短く応えると、手際よく調理を始めた。

 

ジュウ、と肉の焼ける心地よい音と、香ばしい匂いが店内に満ちていく。

 

じゅう、と奥の厨房から食欲をそそる音が聞こえ、やがて、香ばしい匂いと共に湯気の立つ一皿がリノアの前に置かれた。

 

それは、指の幅ほどもある分厚いベーコンのグリルだった。

 

表面には焼き網の跡がくっきりと浮かび、こんがりとした焼き色がついている。

 

滲み出た脂が、鉄板の上で弾けた名残のように、ちりちりと小さな音を立てていた。

 

その隣には、大ぶりに切られた人参やじゃがいも、玉ねぎといった温野菜が、艶やかに湯気を立てて添えられている。

 

燻製の香ばしい匂いと、野菜のほのかな甘い香りが、リノアの空腹を優しく刺激する。

 

彼女は、ナイフを手に取り、ベーコンの端にそっと刃を入れた。

 

サクッ、という軽快な手応え。

 

表面はカリカリに焼かれているが、ナイフが沈み込むにつれて、その内側の柔らかさが伝わってくる。

 

一口大に切り分けたそれをフォークで刺し、ゆっくりと口に運んだ。

 

瞬間、じゅわっと凝縮された肉汁が口の中に溢れ出す。

 

燻製の豊かな香りと、強めの塩気。

 

噛みしめるほどに、とろけるような脂の甘みが舌の上に広がり、焦げ目の香ばしさが鼻へと抜けていく。

 

続いて、ほくほくとろけるじゃがいもを頬張れば、その素朴な甘さが、ベーコンの塩気を優しく中和してくれた。

 

ギルドでの鉄仮面が嘘のように、彼女の眉間の皺が、そっと解けていく。

 

夢中で目の前の食事と向き合うその姿は、ただの腹を空かせた少女のものだった。

 

「……今日は、厄介な客だったようだな」

 

グラスを拭いていた店主が、不意に呟いた。

 

リノアは、顔を上げずにベーコンを咀嚼しながら、小さく頷く。

 

「…頭を使う相手は、疲れる」

 

「だろうな。筋肉だけの連中の方が、よっぽど話が早い」

 

店主の言葉に、リノアの口元に、ふっと小さな笑みが浮かんだ。

 

それは、ギルドでは誰も見たことのない、年相応の少女の、素直な表情だった。

 

「…本当にね」

 

「だが、お嬢ちゃんの武器は、その頭だ。たまには、こうしてしっかり休ませてやれ」

 

そう言って、店主はことり、と陶器の小さな器をリノアの前に置いた。

 

「サービスだ。豆のスープ、今日のは出来がいい」

 

差し出されたスープは、とろりとした乳白色で、表面には緑色のハーブが散らされている。

 

立ち上る湯気と共に、豆の優しい香りがふわりと鼻をかすめた。

 

「…ありがとう」

 

リノアは、素直に礼を言って、木のスプーンでスープを一口すする。

 

豆を丁寧に裏ごししたであろう、滑らかな舌触り。

 

滋味深い豆の甘みと、ほのかな塩気、そしてハーブの爽やかな後味が、疲れた心にじんわりと染み渡っていくようだった。

 

この店がいいのは、誰も彼女に過度な期待をしないことだ。

 

誰も彼女を「師匠」とも「天才」とも呼ばない。

 

ただ、腹を空かせた一人の少女として、そこにいることを許してくれる。

 

食事を終え、勘定を済ませて店の外に出ると、ひんやりとした夜風が火照った頬に心地よかった。

 

「…よし」

 

リノアは、小さく呟く。

 

「明日も頑張って、さっさと帰ろう」

 

面倒な監査官も、見えざる敵の影も、今は少しだけ、遠くに感じられた。

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