シーア大陸記   作:kita1751

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奉秀伝・前編

五皇十国、異端の男

この大陸は、常に英雄を求めていた。

かつて東方の雄国と謳われた「等」は、後殷の王によって滅ぼされ、諸国の豪族や武将たちはこぞって王を自称した。

その混乱の時代に、数多の英雄が生まれ、また散っていった。だが、その中に一人、異彩を放つ男がいた。

 

この時代、場伽空信仰が広く流行していた。亜祖の息子として生まれ、人々に火をもたらした神として、武人や諸侯たちの崇敬を集めていたのである。

特に十九代等皇・李儒はこの信仰に深く帰依していた。しかし生来病弱で、国内各地では反乱や暴動が頻発。さらに度重なる災害に心労を重ねた結果、等皇はついに寝たきりとなった。

その隙を突き、等皇の遠い親戚にあたる洞心が謀反を起こす。宮廷は動揺し、国家は危機に瀕する。信仰にすがる皇と、それを脅かす野望――混乱の渦中で、王朝の命運は大きく揺れ動いていった。

 

 

小国【概】の灯の町にて、三十歳にして職に就かぬ男がいた。姓は奉、名を秀という。

彼は下級役人の八人兄弟の末子にして、兄たちが父の下で働く間も、奉秀のみは定職に就かず、街を渡り歩く生活を送っていた。

町の人々は彼を浮浪者と呼んだが、奉秀はただの無頼ではなかった。身なりは小ぎれいで、大剣を抱え、大屋敷の前を根城にしてうろつき、商家や豪族の屋敷に断りなく入り込み、寝食を共にする。その振る舞いは迷惑千万であったが、無用な悪事を働くことはなく、士官や役人をただ困惑させるのみであった。

奉秀には、唯一の保護者があった。町の豪族、甲氏である。甲氏はその豪傑ぶりを気に入り、度々屋敷に招き、酒を振舞った。甲氏の庇護があればこそ、奉秀は自身の奔放な振る舞いによる危険から守られていたのである。

ある日、甲氏の屋敷に武芸の使い手が現れた。姓は武、名を善という。

武芸を見てもらいたく、また用心棒として雇って欲しいと願い出たのであった。

甲氏は試しに、下人数人を差し向けて武善を襲わせた。されど武道家は一瞬にして下人たちを倒した。甲氏は感服し、声を上げて称えた。

「貴公こそ鬼神の生まれ変わりなり」

その時、屋敷で寝ていた奉秀が笑った。

「児戯の如し」

耕善は怒り、槍を奉秀に向けた。されど奉秀は臆することなく、酒を彼の顔に浴びせた。

目を痛める耕善に向かい、奉秀はすかさず懐に入り込み、蹴りを放つ。その一撃は大男の睾丸を直撃し、武善は動けなくなった。

「これぞ、戦ぞ」

その日より、武善は奉秀に復讐を試みるも、ことごとく撃退される。

しかもその撃退の方法は、卑怯と呼ぶにふさわしいものであった。生来の善性と、武人としてのスポーツマンシップを備えた耕善は、ますます不快に感じるばかりであった。

されど喧嘩の中で、武善は自らに足らぬものを知る。

やがて彼は奉秀を「兄」と慕い、その腕に倣うようになった。

こうして、小国の灯の町には、異端の男と、忠実なる弟子が生まれたのであった。

 

奉秀と朱妃、概国の戦

奉秀には、一人、女がいた。

ある日、いつものように甲氏の屋敷に忍び込むと、娘が琴の弦を引いていた。奉秀の目に映ったのは、無愛想で無口、色白の女であった。町では、縁談のたびに破談となる呪われた娘との噂もあった。

奉秀は気に入り、己のものとした。

豪族は激怒し、奉秀を追い出したが、男は懲りることなく何度も屋敷に侵入し、娘を手篭めにした。

やがて女は、幾度も体を重ねるうちに奉秀への愛着を覚え、やがてその妻として振る舞うようになる。彼女こそ、後に「朱妃」と呼ばれる女性であった。

 

その頃、概の国に不穏な影が忍び寄っていた。

概の国は、かつて等皇国の李一族の末裔である歩正が興した国である。等皇族の墓を守る大義を掲げ、後殷に抵抗してきたのである。

しかし、その後殷は北国の「番」「極」と手を結び、等の国の残党勢力を一掃する南征を開始するのではないかと、概の国は恐れた。

そんな中、最も正統と謂われる『泳』の皇、淵水は暴走を止めるべく諸国に呼びかけ、『反後殷大同盟』を結成した。

概国王もこれに応じ、義勇軍を募ることとなった。

最初は民衆も渋ったが、奉秀は参加を決めた。

「後殷は弱く、手柄は取りやすい。出世は今しかない」

どこで奉秀が後殷の情報を得たのかは定かではない。もしかすると、風聞に頼っただけかもしれぬ。だが、その怠け者をその気にさせたのである。

すると街の若者たちは言った。

「あの無能が行くなら、俺も行く」

かくして、多くの兵が概国の義勇軍に集まった。

 

奉秀は年長者として百人隊の隊長に選ばれた。

戦に不馴れな奉秀であったが、幸運に恵まれていた。一人は百戦錬磨の傭兵、耕世が控えており、武器は最新鋭のものが支給されていたのである。

初陣は、武器輸送部隊との交戦であった。相手は少人数ゆえ、奉秀隊は勝利を収め、敵の武具を手に入れた。これらは一級品であり、奉秀隊だけが親衛隊の如き華美な装備を得ることとなった。

武具と耕世という二つの幸運を得た奉秀は、得意げに悠々と構えた。戦場では常に「耕さん、全部任せる」と言うのみであったが、それでも戦は勝利した。

やがて、反後殷軍の兵たちは自然と奉秀の下に集まった。数合わせの軍であり、まとまりは弱く、迷信も多い当時の民兵たちであったが、奉秀の存在は士気を高め、彼は司令官の一人として認められるようになった。

この戦は、ただの権力争いにあらず。場一族と李一族、二つの古き王朝の宿命の争いであった。

場一族は五世紀に興った王朝の末裔で、北方に祖廟を有する一族であり、それが「番」である。後殷の洞心もまた、その宗家の系譜に連なる将軍であった。

しかし等皇国はすでに滅びの淵にあり、飢饉や災害、汚れた政治、賄賂横行、北方・南方の異民族の謀反が相次ぐなど、国家は危機に瀕していた。洞心は将軍としてこの危機に立ち向かい、実力を重ねて出世したが、壮年に達する頃には青年の志は濁り、欲が芽生えるようになっていた。

その頃、等皇国には二十代皇、李貫がまだ五歳で即位していた。

洞心は心中で呟いた――「この幼き皇が我が上に立つというのか」と。ついに洞心は謀反を起こし、王室の子孫を滅ぼし、後殷の復活を宣言した。同時に、場一族の末裔である嘉幸占、断操も滅び、後殷は興ったのである。

しかし洞心は二つの致命的な過ちを犯していた。玉璽を手に入れられず皇を名乗れなかったこと。そして、李一族が各国に散在していたこと。次々と精鋭が敗れ、反後殷勢力は宮廷に迫った。将は無能を選び、北方の「番」「極」との同盟も結べず、自国優先を理由に断った。洞心は酒と女に溺れ、かつて英雄と謳われた男は堕落と無為の淵に沈んだのである。

義勇兵は各国から集い、総勢百万人に及んだ。戦は終盤に差し掛かりつつあったが、その中に一人、英雄が現れた。冠応――等の国の貴族にして、第20代皇后の外戚、また有力将軍の血を引く者である。等が滅びた後、冠応は田舎の豪族に身を寄せ、商人の援助を受け義兵を挙げた。

冠応の手には三万の兵しかなかった。対する後殷軍は百万に及ぶ。数の差は絶望的であった。しかし冠応は巧妙な策をもって戦場に臨んだ。正面衝突を避け、谷間や曲流の河川、森や丘陵といった地形を徹底的に利用。三万の兵を分散させ、百万の敵を翻弄する陣を敷いた。前衛には精鋭を置き、後方には伏兵を潜ませ、夜襲や陽動を組み合わせた連携攻撃を繰り返した。

圧倒的な数に頼る後殷軍は混乱し、味方同士が衝突する場面すら起こった。冠応自身も前線に立ち、兵を鼓舞する。

「我らは少数にあらず!知略と戦術こそ我らの刃なり!」

その声は兵たちを奮い立たせ、絶望を知らぬ戦意を生み出した。

日暮れまでに、百万の後殷軍は三万の冠応軍によって壊滅の危機に追い込まれた。洞心は敗北の報を受け、その名将としての誇りは地に落ちた。兵たちは散乱し、戦場には静寂が戻った。しかし冠応の名は、この日を境に歴史に刻まれ、英雄として語り継がれることとなった。

 

後殷の宮廷を前に、洞心の敗色は濃厚となっていた。だがその時、北方の地方豪族であり、かつて洞心と手を組み謀反を企てた番国の諸侯が行動を起こした。彼らは洞心の命運が尽きるのを見定め、これ以上の戦乱の拡大を避けようと考えたのである。

番国は陵国の使者、木孫の説得を受け入れた。木孫は穏やかに、しかし毅然と語った。

「戦火は民を滅ぼす。今こそ武を退き、平和の道を選ぶべき時にござる。今なら、領土の削減と、賠償金の支払いのみで許されます」

豪族たちは、洞心への援軍を送ることを断り、戦端を閉じることで停戦に同意した。洞心は、すでに自らの権勢を失い、援軍の望みも絶たれた状況であった。これにより後殷の滅亡は一層確実となり、冠応の躍進を止める手立てはもはや存在しなかった。

 

 

冠応は少数の兵を率いながらも、その進撃は止まることを知らなかった。わずか三万の軍勢は、巧みな戦術と地形の利用によって百万の後殷兵を翻弄し、敵軍の士気を次々と削いでいった。山間の狭路や曲流の河、森や丘陵を巧みに使い、伏兵や夜襲、陽動を組み合わせることで、後殷の大軍は次第に混乱に陥った。

洞心はかつての威光を失い、宴と酒に身を沈め、軍の統率は乱れた。精鋭とされた兵士たちも次第に疑心暗鬼に陥り、戦列は崩れ、戦場は敗北の色に染まっていった。洞心の目には焦燥と無力感が広がり、己の過ちを思い知る日々が続いた。

やがて冠応の軍勢は後殷の宮廷に迫る。洞心は抵抗の望みを断たれ、最後の決断を下す。彼は宮廷に火を放ち、炎に包まれる中で自ら命を絶った。後殷は滅亡し、国土には静寂が訪れた。

 

戦火が静まり、諸国の使節は領土分配の会合に臨んだ。泳国と概国はまず遠隔地の支配権について協議し、乗・九・関の諸地は金銭や戦利品によって調整することで合意した。北方の番国も、停戦の約束に従い領土の一部を削減し、賠償金を納めることで決着を見た。

しかし、最も注目を集めたのは、西方の冠応であった。彼は十五万の大軍を破り、洞心一族を捕らえた英雄である。その功績はあまりに抜群であり、会合の席においても無視できるものではなかった。諸侯たちはその発言に耳を傾けた。

「我、独立の意志あり」

冠応の宣言に、周囲の者は息を呑んだ。彼の堂々たる態度と自信に満ちた声は、戦場での伝説を思い起こさせた。

泳国の丞相、淵水が静かに言葉をかけた。

「国王とは誰もがなれるものではない。神託と正統な血筋が必要とされるのだ」

冠応は眼光鋭く答えた。

「我はバキャク神の子孫。天より与えられし血を有す」

この言葉に諸侯たちは驚きつつも、戦功を顧みれば退けることもできなかった。そしてついに、冠応は西方のオロス地方に独立の領国を打ち立てることを許され、「広」の国が誕生したのである。その国は、冠応の名を冠する英雄譚と共に歴史の舞台に刻まれた。

 

冠応は王の座に就くや否や、まず手を付けたのは洞心一族の処断であった。

広の宮廷に引き出された一族の男たちは、戦場での敗北をなじられ、次々と斬首された。血が石畳を染めるたび、兵士たちは鬨の声をあげたが、やがてその声も凍りついた。

「女も子も、皆斬れ」

冷ややかに冠応が命じた。

抱かれた幼子は泣き叫び、母は命乞いをした。しかし、王の命は絶対であった。泣き声はすぐに途絶え、沈黙が宮廷を覆った。

この非道は、諸侯や兵に衝撃を与えた。英雄として称えられた男が、王となった途端に冷酷な暴君へと姿を変えたのだ。民衆の間には動揺が広がる。

人心は静かに離れ始めていた。冠応の玉座の下に築かれたのは、恐怖と疑念の影であった。

さて、奉秀である。

この戦いの功により、概国の西部・中路建正郡の郡代、並びに偏西将軍の位を賜り、また武善は中州治官に任じられた。

やがて二人は概王歩孔への拝謁を許された。

この時のことを、概王自らが「愉面男会」と記録に残している。

「面白き顔の男に会った」という意味であるが、一国の王がわざわざ史に記すほどであるから、奉秀の風貌はよほど異様であったことがうかがえる。

概王はしばし彼を見つめ、

「この男、どこに置くべきか……」

と呟いた。

(中路が空いておる)

そう思案し、中路建正郡の郡代に任命したのである。

中路は、その名の通り東西交通の要衝にあたり、文化と人が集い栄える地であった。さらに聖地にも近く、巡礼者の往来も絶えなかった。中央の人々からは蛮地と侮られていたが、実際には東方の大都市にも劣らぬ繁栄を誇っていた。

赴任した奉秀は、早速に政務に取りかかった。

盗賊や野盗を討伐し、不正を働く商人を捕え、また汚職役人を取り締まる――その働きぶりは、かつての浮浪の姿とは似ても似つかぬ、誠実そのものであった。

しかし、この地には中州太守・光粋がいた。

光粋は典型的な悪代官で、私腹を肥やすばかりか、民衆を苦しめることを何とも思わぬ人物であった。

当然、奉秀はこの光粋を糾弾せんとしたが、配下の武善に制された。

「殿、光粋は大きな勢力を抱えております。迂闊に動けば、逆に殿が反逆の罪を着せられかねませぬ」

だが、奉秀は武善の言葉に耳を貸さなかった。

「法を犯す者を見逃すは、為政の恥なり」

そう言い放つと、彼は密かに証拠を集め、ついに光粋を捕縛した。

城下において糾弾の場が設けられると、光粋の悪事が次々と暴かれた。重税を課して民を飢えさせ、巡礼者からは賄賂を取り立て、さらに私兵を使って反抗する者を虐げていたのである。

奉秀は毅然と声をあげた。

「この者は民を苦しめ、国の法を踏みにじった逆賊に等しい!」

群衆はどよめき、やがて歓声となった。

「奉秀万歳! 正義の郡代よ!」

その声は都にまで届き、概王の耳にも入った。王は深く喜び、奉秀に褒美の品を与え、さらに任地を拡大してその功を賞した。

こうして奉秀の名は、一介の珍顔の男から、民を救う「義の将」として世に広まっていったのである。

さて、この頃、奉秀のもとには次々と人材が集まっていた。

武善の甥、勇猛なる双子の兄弟・武仙と武旬。幼き頃から剣を交えた旧友・万拓と伊水。さらに地元豪族の錬明、民政に長けた役人・安寧と草徳らが参じ、奉秀の陣営は日に日に厚みを増していった。

また、都での職務を通じて後に大宰相となる章成、そして未来の大将軍・陣仁とも知己を得た。彼らとの交流は、やがて大きな歴史の転換点を生む基盤となるのである。

しかし、中州にはひとつ大きな懸念があった。

西方の蛮族、「九」の国の存在である。

この九国、もとは等王朝の時代に辺境の守将として任じられた部族に過ぎなかった。だが次第に力をつけ、今や中陸にまで勢力を伸ばしつつあったのである。その急成長に驚き、危機感を覚えたのが南方の大国「乗」であった。

乗王は慌てて盟友である概国に救援を請う。だが概王にとって、遠方の蛮地へ兵を差し向けることは気乗りしない。

「できれば関わりたくはない……」

そう思案していた王であったが、ふとある若者の顔が脳裏に浮かんだ。

(そういえば、中路に“面白い顔の男”がいたな……)

珍顔として記録に残るほどの男――奉秀。その働きぶりを思い出し、王は即座に決断した。

「勅令を下す。偏西将軍・奉秀よ。乗国に赴き、十七代王・固了夫を助けよ」

こうして奉秀は、初めて大国間の戦役に身を投じることとなった。

これはやがて、彼を英雄へと押し上げる最初の舞台であった。

奉秀はついに、乗王十七代・固了夫に拝謁した。

固氏は「隋」の将軍の末裔であり、隋が滅亡する際に李一族の等に降った勢力である。その後、固氏は乗王として一国を任じられた。同じように「極」「九」もまた李一族に従属し、それぞれ辺境に封じられた氏族であった。共通して言えるのは、三族とも「蛮地」に左遷された一族であった、ということである。

その中でも乗は特別であった。固氏の家系は、古き「亜族」の血を引くと伝えられており、また亜教の守護者を自認していたのである。

アデム教とは等王朝の時代に皇自らが保護し、民衆からも厚く信仰された宗教であった。固氏もまたその伝統を継ぎ、熱心にアデム教を庇護した。

余談ながら、この時代、権威においてはまだ皇が中央教会を凌いでいた。皇命によって退位を余儀なくされた聖皇も何人か存在したほどである。中央教会が絶大な権勢を誇るようになるのは相王朝の末期であり、越初代帝・朱久でさえ一定の距離を置いていた。

さて、固了夫は奉秀を大いに歓迎した。

「英雄が我が国に来た!」と厚遇したのである。

固王は幼少の頃から中元に憧れを抱き、中元人を家庭教師として招いたことすらあった。そのため中元出身の奉秀を前に、一種の憧れと興奮を隠せなかったのである。

王は家臣の可作・塔衆という二人を奉秀に付け、九国と乗国の関係について語らせた。

「九と乗は隣国として、古来より常に争ってまいりました。等の時代から折り合い悪く、幾度も紛争を繰り返しております。特に漁業資源と塩の専売については、両国が激しく対立してきました」

「それと……聖地の問題がございます」

「聖地?」奉秀が眉を上げる。

「はい。聖地とは、かつて亜公が没した場所であり、多くの信徒が巡礼に訪れます。ところが九国は、巡礼者から勝手に通行料を徴収しているのです」

「ふむ……随分と根の深い問題だな」奉秀はうなずいた。

すると彼は傍らの安寧に意見を求めた。

「安よ、どう思う?」

安寧は静かに答えた。

「私も地籍調査の折に九人(くにん)を視察しましたが、九国の王は中央教会から直接洗礼を受けており、王自らが信徒となっております」

「なるほど……信徒であるがゆえに、聖地を“管理する権利”を主張しているわけか」奉秀は思案する。

安寧はさらに言葉を重ねた。

「一度、九国と直接会談し、この問題を議するべきかと」

奉秀は大きくうなずいた。

彼は行動力に長けた男であり、その長所は勇気と足の軽さにあった。すぐにでも九国に赴き、事を動かそうと決意したのである。

九国の代表、総督・牛生は静かに口を開いた。

「九王は中央協会より位を賜り、聖地の守護者たる権を得ております。乗王はその位を受けておらぬ。ゆえに聖地の管理は九に帰すのが当然と申す次第」

奉秀は眉一つ動かさず、傍らの安寧に問うた。

「位というものは、そこまで重き物か?」

安寧は眼を伏せ、慎重に答えた。

「正当性の根拠、とでも申しましょうか。中央協会の位は人々の信を集めます。民の眼にはそれが『権』の証たり得まする」

その程度――それが当時の位に関する世の認識であった。だが、事はただ格式だけの問題にとどまらぬ。九と乗は長年にわたり漁業資源、塩の専売権、さらには聖地の通行を巡って衝突を重ねてきたのだ。

屋敷に戻ると、奉秀は安寧と密に話し合った。夜気が二人の声を包む。

「仮に乗王が位を受ければ、どうなるかのう?」と奉秀。

安寧は即座に首を振った。

「それは現実的ではございませぬ。一つの位を二人が得ることはならず、仮に強行すればただ戦禍を招くのみ」

奉秀は黙って外の灯を見た。やがて口を結んで言った。

「ならば聖地の帰属は九にあろう。だがそれで任が終わる訳ではない」

次に議題は塩と海産の縄張りへと移った。安寧の説明は簡潔だった。

「両国ともに海産が豊かで、塩の採取も盛ん。故に中路の商人と交易線を巡り、激しい競争と抗争が続いておりまする」

奉秀はしばし考え、やがて一つの決断を口にした。

「よかろう。ならば中路の交易権を我が管理において調停せん。乗と九、双方が納得する形で中路の利権を配分しよう。これが争いを止める最良の道と見ゆる」

周囲は驚きを隠せなかった。中路は概国の所領――勝手に差し出すなどあってはならぬ、という声も上がる。だが奉秀は鋭く返す。

「我が勅命を以てここを司る。異を唱うる者は公の場で論じ、もし逆らえば法に則って討てば良い」

その強硬さと、かつての働きぶりを思えば、諸侯は抗し難かった。結果、奉秀の仲介で乗と九は互いの利害を刻み、同盟と停戦の文言を取り交わした。聖地の管理は形式上九に認められつつも、中路の交易権は奉秀の施策によって再編され、両国の交易路には新たな監察と通行規定が敷かれた。

九王、乗王はそろって奉秀に深く礼を尽くした。二人は感謝を述べ、奉秀の名は外交手腕のある将としてさらに広く知られることとなった。

さて、時は現在の東アジアである。

この広大な地には、番国・極国・乗国・泳国・陵国・沙国・西番国・荊国・南沙国・九国――いわゆる「十国」と呼ばれる強国群が覇を競っていた。

それぞれが悠久の歴史を誇り、王朝の血統や宗教的権威を根拠に国威を保っていた。

そこに突如として割り込んできたのが「広国」であった。

冠応が洞心を打ち破り、乱世の渦中から生まれた新興国である。

広国の軍は勇猛であり、冠応の威名は諸国に鳴り響いた。だが一方で、その政権はまだ基盤が浅く、古来からの十国から見れば「格下」とも「成り上がり」とも映った。

宮殿を建てようにも、十国は冷ややかな視線を向けた。材木を送らず、職人を貸し出さず、礼儀の場でも冠応を王として遇することを渋ったのである。

さて、時は現在の東アジアである。

この広大な地には、番国・極国・乗国・泳国・陵国・沙国・西番国・荊国・南沙国・九国――いわゆる「十国」と呼ばれる強国群が覇を競っていた。

それぞれが悠久の歴史を誇り、王朝の血統や宗教的権威を根拠に国威を保っていた。

そこに突如として割り込んできたのが「広国」であった。

冠応が洞心を打ち破り、乱世の渦中から興した新興国である。

広国の軍は勇猛にして苛烈、冠応の威名は諸国に轟いた。だが一方で、その政権はまだ基盤が浅く、古来より続く十国から見れば「成り上がり」と映り、同格と認めることを渋った。

宮殿を築こうにも、十国は冷ややかな態度を崩さず、材木を送らず、職人を貸さず、礼の場でも冠応を王として遇することを避けたのである。

だが、冠応はそれすらも不服であった。

「我こそが洞心を討ち、世を治めた者である」

そう誇らしげに語り、やがて心中に一つの思いを固めた。

冠応は勅を下した。

「宮殿を建てる。広国の威を示す大殿である。その費用、材木、石材、工匠、すべて十国にて賄え」

この言葉は雷のごとく諸国を駆け抜けた。だが返ってきたのは、冷笑と嘲弄であった。

「冠応ごときが皇を気取るか」

「玉璽もなく、血筋もなく、ただ戦場で勝っただけの成り上がりよ」

「我らに金を出せとは、片腹痛いわ」

番国の王は高らかに笑い、泳国の丞相は「狂人の戯れ言」と記録に残した。極国の使者は、広国に派遣されていた使者の席で扇を打ち鳴らし、「犬が皇を名乗るようなもの」と言い放った。

無論、十国は一笑に付したのである。誰一人として真に受けず、財も人も差し出す国はなかった。

だが、この侮りを冠応は忘れなかった。

「なぜだ……なぜ十国は、わしの言に従わぬのだ?」

冠応は玉座に腰を下ろしながら、酒杯を握り締め、苦々しい吐息を漏らした。

側に仕える班無が、深々と頭を下げて答えた。

「広王様……それは広国が十国と同格であるがゆえにございます。冠応様がいかに洞心を討ち果たし、英雄と称えられようとも、彼らにとっては『同じ列に並ぶ一王』に過ぎませぬ」

「同格……だと?」冠応は眉を吊り上げた。

班無は続けて言った。

「十国のうち、番国と極国は古き場一族の流れを汲む国にございます。彼らは独自の血脈と祖廟を掲げ、己が正統を誇っております。そして残る八国――陵国、乗国、泳国、沙国、西番国、荊国、南沙国、九国――はいずれもかつての等皇の末裔、あるいはその忠臣の家系にございます。等の王朝は滅びましたが、その祖廟は未だに守られ、祀りは絶えることがありませぬ」

「……」

「つまり、八国はみな『等の血脈を継ぐ』という一点で結束しているのです。彼らにとって冠応様は、ただ洞心を討った一武人にすぎぬ。彼らが笑い、財を渋るのも無理からぬこと……」

冠応はしばし黙し、やがて杯を投げ捨てた。

 

「ならば、どうすればよいのだ」

その声は怒りに震えていたが、同時に深い野望の色を帯びていた。

班無は静かに答える。

「――皇になるしかございますまい」

「皇だと……?」

「皇」とは単なる王号ではなかった。随の場極が東アジアを統一し、シルルク国を滅ぼした際に定められた称号であり、アデムの末裔としての正統性を伴う、王より格上の地位を示すものだった。その後、随や等を経て受け継がれ、称号としての権威は絶大なものとなった。王が一国を治めるにとどまるのに対し、「皇」は広く天下を統べ、諸国を従わせる正統の象徴として尊崇されていたのである。

 

「等皇が死去した今、新たな皇が天下万民に必要です。」

「ふむ、皇か……」

冠応は自尊心の強い人物であった。その自尊心は、過去の英雄たちの名を超え、歴史に名を刻みたいという渇望に支えられていた。幼少の頃から王族や諸侯の振る舞いを見つめ、己の力と才覚を磨き続けてきた彼にとって、「皇」という称号は単なる位階や名誉ではなく、自らの存在意義を天下に示すための究極の標であった。

冠応の瞳は鋭く光り、胸中に野望がふつふつと湧き上がる。

「ならば、我こそ新たな皇となり、乱れた世を一つにまとめよう……」

実は「皇」を名乗ろうとしたのは冠応だけではなかった。

等国の王・李蒙もまた、その野望を抱いていたのである。

李蒙は等の王族――李一族の末裔ではあったが、その血筋は本流から遠く隔たっていた。いわば傍流の傍流に過ぎず、幼き頃より家中でも軽んじられていたという。

だが、乱世は思わぬ者に機会を与える。戦乱の果てに多くの王侯が滅び去る中、繰り上がるようにして李蒙は国王の座に押し上げられたのであった。

しかし彼の胸中には、単なる「傍流の王」として埋もれることへの屈辱があった。

「我こそ正統なる皇統の継ぎ手なり」

そう信じ込むことでしか、己の存在を証せなかったのである。

李蒙は等の玉璽を手中に収めていた。正統なる皇統の象徴であり、その輝きは一族の権威を示すものだった。しかし、手にした玉璽の重みとは裏腹に、現実はあまりにも厳しかった。弱小国の後等にとって、皇位に即くための条件は、夢のまた夢に過ぎなかったのである。

ある夜、李蒙は側近の家臣に問いかけた。

「もし、我が身、皇に即位せんと欲すれば、何が必要であろうか」

家臣は慎重に答える。

「皇位には儀式が欠かせませぬ。中央神会より神官を召し、諸侯を招き、珍味や美物を供して祝賀せねばなりませぬ。我が国にその予算はございますか?。また、反対者を抑え込むだけの軍事力はございますか?」

李蒙は玉璽を手に取り、静かに目を閉じた。その重さに、正統性の輝きと、現実の無力さとが同時に感じられる。

冠応は李蒙の後等国に向け、使者を送った。手紙には明確な言葉が並んでいた――

「等皇の玉璽を、今すぐ差し出せ」

だが、李蒙は微動だにせず、毅然と断った。玉璽は自らの正統を示す唯一の証であり、たとえ冠応であろうと、容易に手放すわけにはいかなかった。

その知らせが広国に届くと、冠応は眉間に深い皺を寄せた。短く息をつくと、即座に決断を下した。

「ならば力ずくで奪い取るのみ」

広国から十万の兵が動員され、後等国への進撃が始まった。地を震わす軍馬の蹄の音と、軍旗が風に揺れるさまは、辺境の山々にも響き渡った。

李蒙は玉璽を胸に抱き、後等国の城門を固く閉ざした。城内の兵士たちも必死に応戦する覚悟を固める。しかし、広国の軍勢は十万――その数は城内の全軍の数倍を優に超えていた。

戦場に立つ李蒙の心中には、覚悟と悲哀が入り混じる。力の差は明白である。まるで虎と犬の戦い――牙も爪も虎の前では無力に等しい。

城壁の上から矢を放ち、兵を指揮しても、広国の軍勢は容赦なく押し寄せた。地響きのような足音、戦旗が翻る音、馬の鳴き声、鉄の衝突音――あらゆる音が一つに混ざり合い、城内を恐怖で満たした。

三日目の夕暮れ、後等国の都はもはや戦場の面影を失っていた。城門は粉々に打ち破られ、城壁は広国の兵馬の猛攻で崩れ落ち、かつての威容は瓦礫の山と化している。

李蒙の軍は初日に奮戦したものの、広国の十万の軍勢には到底刃が立たなかった。前線は次々と突破され、城内の兵士たちは疲弊と絶望に押し潰され、指揮系統は乱れ、兵士同士が互いに衝突する始末であった。

「守れ……守り抜け……!」李蒙は叫んだが、その声も瓦礫と火煙の中にかき消される。勇猛な将兵たちも、数の前には抗しきれず、戦列は次々と崩れ落ちた。

民衆は逃げ惑い、城中に火の手が上がる。広国の兵は冷徹に城内を制圧し、逃れる者を容赦なく討った。三日の間に、都は陥落し、後等国の威光は完全に地に落ちたのである。

 

李蒙は玉璽をしっかりと手に握りしめたまま、側近に低く命じた。

「この玉璽を、概国に届けよ……冠応に渡すわけにはいかない」

忠臣たちは目を見合わせ、険しい表情を浮かべた。都はすでに炎に包まれ、広国の軍が城を制圧した今、逃亡は命がけの行程である。

李蒙は懐から小瓶を取り出す。瓶には毒が入っており、彼の手がわずかに震えた。

彼は毒を口に含むと、ゆっくりと膝を折り、地に沈んでいった。

都の喧騒の中、李蒙の命は消えた。しかし玉璽は忠臣たちの手に握られ、概国への道を進む。乱世にあっても、正統なる皇の象徴は、こうして命をかけて次の時代へと渡されるのであった。

 

冠応は広国の軍勢を率いて中都へと入城した。街道沿いの瓦屋根には、逃げ遅れた民のざわめきが残っていた。城門にはわずかに守備の兵が立っていたが、長くはもたず退散していった。

冠応は馬の手綱を引き、堂々と城内を進む。兵たちは息を殺し、広王の威光に圧倒されていた。

「玉璽はどこにある」

その声は低く、鋭く、城内の壁に反響する。残った李一族の家臣たちは沈黙を保った。口を割る者はいない。冠応の目は氷のように冷たく光った。

「ならば死ね」

その命は冷酷そのものであった。翌日、都の中央広場にて、李一族と家臣523人が整列させられる。広場を埋め尽くす人々の視線が、恐怖と好奇で揺れた。冠応は高座に立ち、淡々と処刑を命じる。斬る者、吊るす者、火をもって罪を裁く者。命を絶たれた者たちの数は、広場に恐ろしい沈黙をもたらした。

民も兵も、ただただ彼の冷徹な意志に圧倒され、声も立てられぬまま広場を後にした。

523の命は奪われたが、それによって冠応の野望は、より一層、揺るぎないものとなった。

「どこに玉璽はあるのだ?」

冠応は軍勢を城内に留めさせ、自らは中都の広間にて目を光らせた。一ヶ月にも及ぶ捜索が続いたが、玉璽の行方は未だ掴めない。家臣たちは互いに顔を見合わせ、口々に推測する。

「恐らく、隣国にあるのでしょう……」

「隣国とは、荊、泳、陵、概のいずれかですな」

冠応の眉が険しくなる。重苦しい沈黙の中、側近が恐る恐る口を開いた。

「しかし、広王……泳も陵も、強国でございます。しかも野心が強く、民心を掌握しております。もし玉璽を手に入れれば、もはや『皇』の位に就くことでしょう。ですが、この一ヶ月、音沙汰がありません……」

広間の空気が一層重くなる。玉璽の所在が掴めぬまま、冠応は目を細め、低く唸るように言った。

「となれば、その二国は除外だ。荊と概に、それぞれ五万の兵を向けよ。超道、馬元、各々の部隊を指揮せよ」

部屋の空気が緊張に包まれる。側近たちは視線を落とし、命令を待つ。冠応の声は冷たく鋭く、まるで刃物のように響いた。

「敵を討つのではない。玉璽を奪い、我が手に取り戻すのだ。遅滞は許されぬ」

超道と馬元は深く頷き、広間を静かに後にした。

超道率いる広国軍は荊国の国境を越え、堂々と侵入した。砂塵が舞う平原を進む兵たちの甲高い金属音が、周囲の森や丘にこだました。城壁の向こうには荊国の兵が整列していたが、冠応の軍勢を目の前にして、その士気は揺らいでいた。

超道は荊国王に使者を遣わす。

「広王より命ず、玉璽を差し出せ。そうすれば、無用の血は流さぬ」

荊国王は眉をひそめた。

「そんなものは知らん」

事実、玉璽の所在について荊国王は詳しくは知らなかった。

「ならば、攻撃するのみ」

超道は号令をかけ、広国軍は一斉に前進した。荊国の兵も応戦し、城門前の平原は鋼の刃と盾のぶつかる音で震えた。しかし、鍛え上げられた広国軍は精鋭揃いで、統率も完璧であった。荊軍の陣形は次第に崩れ、矢を交わし、突撃に耐えるも、押し返される勢いが増していく。

超道は馬上から指示を飛ばし、各部隊に包囲の角度を指示する。荊国の兵は次々と混乱し、戦線は後退を余儀なくされた。広国軍の圧倒的な戦力の前に、荊軍の抵抗は時間の問題に過ぎなかった。

10日後、荊国はついに陥落した。城門は破られ、街は広国軍の足音に包まれていた。荊王は冠応の面前に連れてこられ、ひざまずきながら必死に懇願する。

「広王様、玉璽の所在を問われますが、我が国にはそのような物はございませぬ」

荊王の声は震え、額には冷や汗が光った。しかし冠応は冷ややかに答えた。

「玉璽の有無は問題ではない。だが、宮殿建設の費用を差し出さなかったことは、天下に対する反逆に等しい行為である」

荊王は言葉を失い、ただ恐怖に震えるばかりだった。

 

翌日、刃が振り下ろされる音が広場に響き、荊王と高官たちは次々と処刑された。その場に立ち尽くす者は皆、広王の非情さと権威を身をもって知ることとなった。

 

一方、概国の王・歩孔は、その血筋の確かさと家柄の重みで知られていた。歩一族は姓こそ李ではなかったものの、代々にわたり概国の分国王を兼任してきた由緒ある家系であり、李皇とは外戚関係にあたる深い縁を持っていた。

歩孔自身も、父・歩建が皇帝の末裔であったことから、その血統の正統性を受け継いでいた。歩建は一族の養子として迎えられたものの、皇統とのつながりは決して薄れなかったため、歩孔は生まれながらにして権威の重みを背負っていた。

十国の中でも概国は、李皇の血筋に近い存在として特別な位置を占めており、歩孔はその立場を自覚しつつも、国を治める責務と、乱世における生き残りの策を常に考え続けていた。血統の重みと家名の誇りは、彼の言動の背後で常に静かに影を落としていたのである。

 

歩孔の治世は、乱世にあっても穏やかで安定していた。小国ではあったが、その国土は勤勉な民と、節度ある役人に支えられ、平和な日々が息づいていた。雨の日であっても、歩孔は窓越しに濡れる城下町を眺め、静かに胸中を巡らせる。

軒先に落ちる雨粒は、城壁に響く音も小さく、街道を行き交う人々の足音を和らげるようだった。傘を差す農夫、荷車を押す商人、道端で雨宿りする子どもたち――その姿を見つめる歩孔の目には、王としての責任だけでなく、民への慈愛が宿っていた。

 

城の執務室。雨で湿った窓の外に灰色の空が広がる中、歩孔の家臣たちは緊張の面持ちで座していた。玉璽を前に、議論は白熱していた。

「王上、早く冠応に渡すべきです!広国の力は強大、拒めば我らの国が攻められます!」 一人の若い家臣が声を震わせながら叫ぶ。だ

が、隣の老臣が鋭い目で制した。

「甘い考えですぞ、若造。渡せば冠応の野望は止まらぬ。我らの小国は滅びるのみ。ここは、玉璽を処分する道しかありません!」 などと意見が別れた。

 

議論は激しく交わされたが、歩孔は沈黙を貫き、玉璽を見つめ続けていた。その手に伝わる重みと、指先に感じる冷たさ。歴史の重圧が胸を締めつける。家臣たちは息を潜め、王の次の言葉を待った。

やがて、歩孔はゆっくりと口を開いた。

「議論は尽くされた。だが、玉璽はただの物ではない。随、等、古の皇たちが守り続けてきた宝である。これを賊徒に渡すわけにはいかぬ。」

その言葉が広間に響き渡った、その瞬間、重い扉が勢いよく開かれた。雨に濡れた外套を纏った使者が駆け込む。胸まで息を切らし、使者は歩孔の前でひざまずいた。

「概王、広国の馬元将軍よりの書状でございます……」

使者が差し出した巻物には、冠応の威光を感じさせる筆跡でこう記されていた。

――『玉璽を即刻広国に差し出せ。従わぬ場合、貴国は火と鋼にて報いられる。』――

広間の空気が一層重く沈み、家臣たちは互いに顔を見合わせた。歩孔は玉璽を握りしめ、外の雨音に耳を澄ませる。まるでその一滴一滴が迫り来る危機の鼓動のように胸に響いた。

 

「全軍を戦の準備をせよ――」

歩孔の声は低く、しかし広間に響くと鉄のように重く、家臣たちの胸に緊張の波を走らせた。玉璽を守るため、時は刻一刻と迫っている。家臣たちは急ぎ、指示に従い兵を整えた。

そのころ、遠く九国から奉秀が帰国していた。彼は概王のもとで将軍の一人として幾度もの戦を駆け抜けてきた男である。戦場では冷徹でありながらも、その目は常に澄んでいて、状況を楽しむかのような余裕を感じさせた。他の兵士たちが戦の緊張に身を固くする中、奉秀だけはひょうひょうとした様子で、まるで祭りを楽しむ子供のように笑みを浮かべていた。

その余裕が、彼の周囲にいる者たちの心にも不思議な安心感を与えた。戦の空気は重いが、奉秀の存在はそれをわずかに和らげる風のようであった。

 

戦の幕は、夜明け前の闇に紛れて切って落とされた。概軍の奇襲である。黒い影のような兵たちが森を抜け、歩孔の陣営へと忍び寄った。火の手が上がり、兵糧庫が炎に包まれる。乾いた木の香と焦げる穀物の匂いが戦場に漂い、兵たちの士気に冷たい恐怖を落とした。

 

 

炎に包まれた夜が明け、戦場は煙と灰に覆われていた。広国軍の馬元将軍は陣頭で指揮を執る。敵の概軍は砦に籠り、城壁の上から石や矢を降らせて応戦していた。馬元は鋼のような顔を引き締め、騎兵と歩兵に命じて攻撃を仕掛ける。

「突撃せよ! 敵を押し込め!」

彼の声が戦場の喧騒を切り裂く。しかし、概軍の守りは堅く、城門を破るどころか前線は押し返される。矢が飛び交い、鉄の音が鳴り響く中で、多くの兵が倒れた。

さらに状況を悪化させたのは、兵糧の枯渇である。広国軍は連日の行軍と戦闘で疲弊し、補給も滞っていた。馬元は冷たい汗を額に浮かべながらも、表情を変えず指揮を続ける。

 

戦場の夜、火の粉が空に舞う中、馬元将軍は陣幕に兵を引き上げた。広国軍の将たちが集まり、疲弊した兵たちを前に会議が始まる。

「各将、現状をどう見るか」馬元は深く息をつき、眼差しを巡らせた。砦を守る概軍は依然として健在、兵糧も消耗が激しい。将たちは黙り込み、互いに顔を見合わせる。

ついに一人の老将が口を開く。

「馬元殿、我らの兵は既に限界に近い。砦を攻め続ければ、士気も兵力も失われ、逆に被害が拡大しまする。ここは一旦、撤退を――」

「撤退か…」馬元は低くつぶやき、掌で肩を叩くようにして自らの思考を整理した。「確かに一時の退却は戦略の一手。兵を休め、補給を整え、再び態勢を整えてから攻撃に移すのが賢明かもしれぬ」

他の将たちも頷き、意見はまとまる。

「よし、各隊、整列せよ。撤退は秩序立てて、無駄な犠牲を出すな」

馬元の声が再び陣幕に響くと、兵たちは少しずつ安堵を覚え、撤退の準備を始めた。だが、空にはまだ灰色の雲が垂れこめ、戦の影は完全に消え去ったわけではなかった。撤退は単なる休息に過ぎず、決戦はまだ、遠く先に控えていたのである。

灰色の霧が山間に立ち込める中、広国軍は秩序立てて撤退を始めた。足並みを乱さぬよう、馬元将軍は隊列を整え、兵たちは疲れた体を引きずりながらも規律を守った。だが、山道の先に待ち受ける影は、彼らの誰も想像していなかった。

奉秀は、暗い森の陰から隊列を見守っていた。九国において培った奇策と策謀の腕を駆使し、彼は今こそ広国の軍を翻弄する時と判断した。

狭い山道の両脇には、事前に仕掛けられた油壺が巧みに配置されていた。奉秀は細い指で合図を送り、炎を帯びた火矢が矢場から飛び出した。火矢は油壺に命中し、瞬く間に油が燃え上がり、山道を赤く染める。

「火だ!」広国の兵士たちが叫ぶ。煙と炎に包まれ、馬は暴れ、隊列は混乱に陥る。石を踏み外す者、倒れる者、炎を避けて逃げ惑う者――撤退はたちまち恐怖の混戦に変わった。

奉秀は森の奥から、冷静にその様子を見守る。兵の動揺、火の勢い、狭い山道の地形――すべて計算通りだ。広国軍の秩序は崩れ、退却はただの逃走に変わりつつあった。

馬元将軍は必死に声を上げる。

「隊列を乱すな!火を避けろ!各隊、落ち着け!」

だが、狭い道に密集する兵たちにその指示は届かず、煙と炎の中で広国軍の撤退は混乱の極みに達した。山道の奥、奉秀の影が微かに笑みを浮かべる――これが、彼の用意した一撃であった。

 

炎と煙に包まれた山道。広国軍の撤退は完全に崩壊していた。馬の悲鳴、兵士たちの叫び、石や倒木が道を塞ぐ音――混乱は山峡に反響し、絶望的な光景となった。

馬元将軍は先頭で指揮を執っていたが、炎の勢いと押し寄せる敵の奇襲に押され、ついに馬ごと崩れ落ちた。炎に囲まれ、兵士たちの叫びが耳をつんざく中、馬元はその場に散った。

広国軍は一戦で甚大な損害を被った。重装歩兵、騎馬隊ともに半数以上が倒れ、撤退は混乱したまま続く。火に包まれた山道で多くの兵が逃げ場を失い、広国軍の旗はところどころ引き裂かれ、血で染まっていた。

しかし、歩孔の軍も無傷ではなかった。奉秀は指揮の中心に立ちながら、犠牲を最小限に抑えるために兵を誘導し、混乱する敵の中に巧みに攻撃を仕掛け続けた。山道を制圧し、広国軍を完全に退けるその姿は、まるで闇から差す雷光のように鮮烈であった。

 

敗走した兵の残党が中都へ戻ったのは、春の気配が忍び寄る頃であった。痩せこけ、泥に塗れた彼らの姿は、かつて誇った広軍の威容をまるで感じさせなかった。

「馬元将軍、戦死……」

その報告を聞いた冠応の眼は怒りに燃え、広間の空気が一瞬で凍りついた。

「愚か者どもが! 小国ごときに我が軍を潰されるとは!」

彼は立ち上がり、腰の剣を掴むとすぐにでも馬に飛び乗らんとした。だが、控えていた老臣が必死に進み出て頭を下げた。

「広王……時節をご覧あそばせ。今は春。山野の雪解けで道はぬかるみ、兵糧もまた腐りやすくございます。これ以上の遠征は、広国の国力を損なうばかりにございます」

冠応の胸の奥で煮え立つ怒りは収まらなかった。だが、彼は天を仰ぎ、歯を食いしばった。春の訪れは、戦を封じる大きな壁であった。

「……無念よ。しかし、必ずや奪う。玉璽は我が手に帰すべき宝だ」

その言葉は、誰に聞かせるでもなく広間に低く響いた。冠応の野望は鎮まるどころか、いっそう深く燃え盛っていった。

冠応の後等侵攻は、十国の諸侯たちに強い衝撃を与えた。だが、彼らの多くは静観を選んだ。表面上は沈黙しつつも、水面下では互いの出方を窺っていたのである。

とりわけ、泳国と陵国。この二国は等の時代から幾度となく争いを繰り返してきた宿敵であった。王族同士の婚姻が結ばれればやがて破談となり、同盟を誓えば数年と経たずに反目する。その因縁は、諸侯の中でも最も根深く、血で血を洗う歴史を積み重ねていた。

しかも両国は等皇から特権を授かっていた。――塩の専売である。

塩は民の命をつなぐ必需にして、軍を養う要でもある。専売権を持つ泳と陵は、この特権を背景に莫大な富を蓄え、軍備を増強してきた。ゆえに、十国の中でも頭ひとつ抜けた強国として君臨していたのである。

しかし、だからこそ二国は互いを最大の敵と見なしていた。

冠応が玉璽を求めて動き出しても、泳と陵は結束するどころか、互いに隙を狙い合い、相手の失策を待ち望んでいた。

十国の空気は、まさに冷たい日和見の静けさに包まれていた。冠応の野望を止めるどころか、むしろそれを利用して己が覇を唱えんとする気配すら漂っていたのである。

 

 

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