帝番号 名前 在位期間 在位年数
1 趙国 960–982 23年
2 趙義 983–997 15年
3 趙栄 998–1027 30年
4 趙印 1028–1043 16年
5 趙臥 1044–1064 21年
6 趙盧 1065–1071 7年
7 趙魏 1072–1075 4年
8 趙昭 1076–1085 10年
9 趙惠 1086–1090 5年
10 趙達 1091–1099 9年
11 趙成 1100–1105 6年
12 趙教 1106–1113 8年
13 趙芳 1114–1132 19年
14 趙隆 1133–1146 14年
15 趙安 1147–1166 20年
16 趙協 1167–1183 17年
17 趙子覚 1184–1201 18年(滅亡)広国を睨む北の地に、新たな英雄が現れた。相の開祖、趙国である。
趙国は北方の雄であった。父・趙孟は西番国の尉官であったが、西番が滅亡すると西へと逃れ、かつて密偵として縁を結んでいた騎馬民族・空六虞族を頼った。やがて趙孟と趙国は彼らの指導者として君臨することになる。
北東アジアを広国が支配すると、趙孟と趙国は使者を送り従属の礼を取った。だが、両者の胸中には密かな野心があった。その間に西方へ領土を広げ、四つの民族を従える。もっとも名目上は「広王のため」と称し、自ら王を名乗ることは避けていた。
949年、趙孟が没すると、趙国が跡を継ぐ。国号を「相」と称したのは、趙孟が相州太守であったことにちなむ。
相国は西番王・毛高赤の娘、毛夫人を娶り、その間に趙農をもうけた。さらに中元文化を取り込み、官制・法制・軍制を整備し、自らを随・等の後継であることを示そうとした。中元人を登用し、採掘や開墾を進め、国力を増強する一方で、騎馬民族の技術を活用し、馬術や牧畜を飛躍的に発展させた。
また、騎馬民族出身者を官吏や軍人に登用した。当時としては文明の水準に優れる中元人を差し置いて遊牧の民を用いるのは異例であったが、その武勇と機略は相国を大いに助けた。趙国自身も兵法や兵器研究に励み、自ら軍を率いるほどの将帥となった。
この独立の動きに広王・冠応は激怒し、五万の大軍を差し向けた。だが、趙国の騎馬軍団は広国軍を粉砕し、広国は大敗する。趙国はさらに勢力を拡大し、東北の遊牧諸族を従えて河北・河東をも支配した。
955年、南方の振国に従属を迫る。振国王・奉遂は玉璽を献上し、南無太守の称号を得て余生を送った。本来、趙国にとって振国は共に広国と抗う同志であり、愛着もあった。貿易や交流も盛んであった。今回の従属要求は、弟・趙義や将軍・易完、霊鳴、右仁らの強硬派によるものであり、趙国自身は快く思わず、彼らを後に冷遇して軍権を奪った。とはいえ奉遂には自らの娘を嫁がせ、死後には王の礼をもって葬儀を行ったという。こうして振国は名実ともに滅亡した。
その三年後、趙国は広国に兵を進める。折しも広国は内乱に揺れていた。王・奏秀の死から一年、広王も病没し、跡目争いが勃発する。二代目冠世は従兄弟の冠修に殺され、即位した冠修もまた外戚である場氏や李氏の陰謀により暗殺された。都は血の渦に沈み、平和に安逸していた広国は無残に蹂躙される。
趙国は幼い四代目冠郭を捕らえるも、丁重に保護し、後に山韓太守に任じ、その姉を側室に迎えた。こうして東アジアは統一され、約五十年ぶりに巨大な統一国家が復活した。乗国・九国も従属の礼を取った。
統一後、趙国は文治主義を推し進めた。科挙による官僚登用、アデム教の振興、中元文化の移植。さらには遊牧民族との交易により軍事力も強化された。
976年、趙国は病に倒れる。弟・趙義を枕辺に呼び、「二代目皇とせよ」と遺言した。だが、これは不可解なことであった。趙国には成人した男子が複数いたにもかかわらず、彼らを差し置いての弟の即位であったからだ。さらに即位した趙義は、兄の子らを謀反の嫌疑で処刑し、自らの子への継承を公然と打ち出した。そのため趙国は毒殺されたとの噂が絶えず、後世「千載不決の議」とされた。
それでも趙義は兄の政策を継承しつつ、治水や開墾、減税、交易拡大を進め、国力をさらに増強した。周辺国は恐れを抱いた。
趙義は四度の大遠征を敢行する。
980年、沙羅遠征。
981年、カムチャツカ遠征。
990年、オロス遠征。
999年、南欧遠征。
この最後の遠征で西九国を滅ぼし、統一を成し遂げた。統一からわずか三十年で世界最大の版図を誇る超大国が築かれたのである。後世の歴史家は、この覇権が成立したのは「趙国の軍事力の遺産」と「周辺諸国の国力の脆弱さ」によるものだと評している。
相皇国は全盛期を迎えた。
農業では二期作や麦との二毛作が普及し、生産量は飛躍的に増大した。品種改良により作物の味や収量は向上し、野菜や果樹の栽培も盛んになった。
航海術の発達により大型船の建造が可能となり、水運が拡張され、交易はさらに盛んになる。
商業も地方にまで広がり、仲買・小売・運送業が発達、貨幣経済が浸透した。相銭・鉄銭は広く流通し、金本位制が確立する。
財政は両税法を基盤に、塩・酒・茶の専売と商税により支えられた。国庫は潤沢で、相皇国は繁栄を極めた。
だが、その栄光は長く続かなかった。
文治の旗を掲げたその日から、相国の軍は静かに力を失っていった。武官たちの誇りは削がれ、軍事費は削られ、刀より筆が重んじられる世となる。代わって台頭したのは、科挙を経て官職に就いた新法党の文官たちであった。彼らは相国の古き貴族・旧法党と激しく対立し、互いに疑い、互いに憎み合った。政は次第に乱れ、国の柱は軋み始める。
その衰退は、ある年を境に決定的なものとなった。
西暦一〇〇五年。皇・趙義が崩じると、北方で遼国が独立の狼煙を上げた。若き三代皇・趙楊はこれを鎮めんと、二十万の大軍を率い北伐に赴いた。しかし戦は無惨なものだった。凍てつく原野に散った将兵は数知れず、二千万を超える命が失われたと伝えられる。この敗北こそ、相国の軍事力がもはや往日のそれでないことを示す象徴であった。
結局、澶淵の地で盟約が結ばれる。条約の文には「相を兄とし、遼を弟とす」と記されてはいたが、実情は逆であった。年ごとに絹二十万匹、銀三十万両を遼へ贈る屈辱の盟約――これにより相国の威は地に堕ち、恐れられる国から、侮られる国へと変わっていった。
歴代の皇は、果てしなき政争に心を倦ませ、やがて政に背を向ける。宮廷は腐敗し、権臣たちが利をむさぼる。だがその一方で、不思議なことに、文化の花はかつてないほど豊かに咲き誇った。書は流麗に、詩は優雅に、音楽と絵画は洗練され、多くの名作が生まれる。東シーアの大陸において、相国は芸術の中心地として輝きを放つに至ったのである。
さらに印刷の技が飛躍し、書物は庶民の手にも渡るようになった。「亜祖伝」「随等書」といった歴史書が次々と刊行され、アデム民族の誇りと、アデム教の信仰は広く人々の心を結びつけた。やがて軍人も商人も改宗し、寺院は各地に建ち、巡礼と布教の声は大陸を巡った。
衰退の影と繁栄の光。その相反する姿こそ、まさにこの時代の相国を象徴するものであった。
六代から十三代にかけての趙朝は、外戚・新法党・旧法党(相国貴族)の三者抗争によって常に揺れ動いた時代であった。外戚は皇室の血縁を背景に権勢を握るものの、政務に疎く短命に終わることが多い。新法党は財政再建や軍制改革など急進的な政策を打ち出したが、旧法党を中心とする保守勢力の強い反発を招き、宮廷内には暗闘が絶えなかった。旧法党は貴族や相国を拠り所に再び権力を奪回しようとし、そのたびに外戚や新法党との抗争は激化していった。
皇たちは日々の政務の重圧と陰謀に心身を蝕まれ、在位は長く続かず、病死や廃帝が相次いだ。都の宮廷には血の匂いと策謀の噂が絶えず、やがて民心は離れ、王朝の求心力は徐々に失われていった。短命の皇が続くこの混乱期は、趙朝の不安定な政治と三者抗争の苛烈さを象徴する時代として歴史に刻まれることとなる。
十四代皇・趙隆は、その荒廃のただなかに即位した。若き皇は即位早々、属国や発国、周国との外交を立て直し、長年の抗争で乱れた周辺関係を和解へと導いた。宮廷では新法党を重用し、旧法党を粛清して権力基盤を固め、官僚制度の刷新にも着手した。さらに市場規制を一部緩和し、商人や流通を奨励したことで、停滞していた経済は次第に活気を取り戻す。趙隆の治世は、政治の安定と経済回復を同時に成し遂げた短き光として、後世に「趙朝再興の礎」と称えられることになる。
十五代皇・趙安、そして十六代皇・趙協は、ともに趙隆の遺産を受け継いだ。両帝の治世は穏やかに進み、宮廷内に大きな抗争はなく、官僚も安定して政務を執り、民は久方ぶりの平和を享受した。しかしその安寧は外の戦火に脅かされる。周辺諸国との国境紛争において趙朝は幾度かの戦役に臨んだが、趙安と趙協の時代には思わぬ敗北が重なり、失地を余儀なくされたのである。宮廷の奥では皇たちが悔恨と外交の苦渋に沈み、民衆もまた安穏な日々と国土の損失との間で複雑な思いを抱きながら暮らしていった。
だが、その栄光は長くは続かなかった。相の衰退は加速度的に進んでいった。
周辺諸国への下賜、果てしない軍事費、さらには壮麗を誇る宮殿や公共工事が重なり、国庫は次第に底をつき、ついには深刻な赤字へと転落する。
財政を補うため、属国への課税は一層重くなり、その収入は軍費や工事に注ぎ込まれた。だが、最も強く反発したのが周・発・対の三国であった。彼らは皇統の血を引きながらも、外戚に婿入りしてその姓を名乗り、その権威を背景に政治を行っていたため、相の増税を決して容認できなかったのである。
やがて三国は兵を挙げ、相と干戈を交えるに至った。大軍を率いた相であったが、周・発・対の連合軍に敗れ、大きな痛手を被る。辛うじて皇位は趙一族に継がせたものの、広大な国土を削がれる結果となった。
その後も国勢は停滞し、政治の混乱は深まるばかりであった。
十七代、暴君・趙子覚が帝位に就くと、国内はさらに乱れる。彼はシルルク系住民を排斥し、官職を追放、苛烈な重税と苛酷な賦役を課した。さらに無謀な遠征を繰り返し、国中は怨嗟の声で満ち溢れた。
ついにソカメンという一将が挙兵する。大軍を率いて相都へと進軍したが、趙子覚は報告に耳を貸さず、酒と女に溺れて政務を顧みなかった。有様に愛想を尽かした臣下や兵は次々と逃げ去り、都の防備は瓦解する。
ソカメン軍が都に攻め込むと、抵抗する兵はなく、官邸はあっけなく陥落した。ソカメンは趙子覚を捕らえ、その首を刎ねた。ここに、二百四十余年の歴史を誇った相国(960~1201年)はついに滅亡したのである。
ソカメンは新たに「前真国」を興し、その支配を正当化するために趙一族を保護した。
しかし栄華は十年と続かず、前真国はまたしても滅びる。残された趙一族は再び兵を挙げて相の再興を試みたが、銀国や号国といったアデム民族の強国に阻まれ、その野望は潰えた。趙氏の命脈もここに絶える。
そもそも相は、軍人の専横を恐れるあまり軍制を縮小し、軍事費を削り、ついには徴兵制すら廃した。それが外国の侵略に抗し得なかった最大の要因であった。やがて朝廷では貴族の専横が増し、政治の混乱は極みに達する。
しかし一方で、相は「文治主義」を掲げ、文化の振興に心血を注いだ。詩文や書画が盛んに奨励され、数多の名作がこの時代に生まれた。国は滅んでも、その芸術と技術は後世に伝わり、アデム民族の文化の源泉となって受け継がれていく。
相国は亡んだ。だが、その精神は不滅であり、後の世に深い影響を残したのであった。