騎馬民族は基本的に文字を使わない。
そのため、1000年前以前は中元の農耕民族が記録しか残っておらず、歴史は曖昧で不確定な部分が多い。その記録は獰猛で倫理に欠け、野蛮で粗野と侮蔑されて、書かれている.。
欧州文字が生まれるとようやく騎馬民族の正当な記録が文字に起こされるようになった。
1000年以降にいくつかの部族が草原で抗争して、統一した国は生まれなかった。
中元の相国も北欧地方は分裂させた方が吉と見ており、一方に武器や食料の支援をして互い戦い合わせて、分裂を促進していた。
だが、一方でそんな相国のやり口を快く思わず、独立を目論む部族もあった。
その民こそ、元民族であった。
彼らは頭目テムジンを中心に団結し、草原の諸勢力を次々と駆逐した。やがて、元民族は草原統一を果たし、元国を興す。大陸史上、二つ目のシルルク系民族国家の誕生であった。
テムジンはシルルク教を国家運営に取り入れ、自らをシルルク神の末裔と称して信仰を深めた。もともと騎馬民族の間には簡易的なシルルク信仰が根付いていたが、これほどまでに国の運営に組み込んだ例はなかった。
統一された騎馬民族の力はまさに脅威であった。
厳格な規律と死をも恐れぬ勇敢さ、さらにテムジン自身の卓越した指揮能力と戦術眼により、元国は連戦連勝を重ねた。その勢力は瞬く間に中元の草原を席捲し、地上戦ではほぼ無敵を誇った。だが、相国の都市は城壁を有しており、草原で無敵を誇るテムジンも容易には侵入できなかった。そこで彼は、他国から攻城兵器を輸入し、都市の壁を破壊する手段を講じたのである。
テムジンの生まれた西欧地方は貧しく、土地は荒れ、資源を巡る争いが絶えなかった。文字はなく、政治組織も脆弱で、王が現れてもすぐ滅びるのが常であった。中族の者たちは、元族を「獣を追う野蛮人」と嘲り、軽んじていた。
だがテムジンは異なった。
彼は有力者イエスゲイの子であり、家の権威と頼もしい兄弟を持っていた。幼少期に父を敵に殺され、母と弟とともに貧しい暮らしを送った彼は、狩りを重ねる日々のなかで、こう考えた。
「この地には草も乏しく、獣も少ない。だが人はいる。豊かな土地を手に入れれば、争いも減るだろう」
成長するとテムジンは有力部族の娘を娶り、諸部族の抗争に積極的に参加して武名を高めた。剣の腕は凡庸であったが、外交の才は群を抜き、強硬に迫って相手を怯ませ、機を見て懐に入り味方へと引き入れる手腕は見事であった。さらに、彼の性格が民を惹きつけた。
草原の民でありながら殺戮を好まず、無益な殺生を嫌う。戦いを避け、相手の非を認めさせて和解に導くことを好んだ。飢えに苦しむ部族には自らの食糧を分け与え、武器を持たぬ者の殺害を禁じたため、敗れた者であっても帰順し、さらに勢力は拡大していったのである。
――1230年、草原統一
長きにわたり部族抗争の絶えぬ草原に、ついに一人の覇者が現れた。
テムジンは宿敵ジャムカを破り、草原を統一する。これまで「野蛮」と蔑まれ、互いに血を流し合ってきた騎馬民族が、初めて一つにまとまった瞬間であった。
統一を果たしたテムジンは、戦乱の民を富ませるため交易に目を向ける。モンゴル高原から中央アジアに至るまで道路を整え、隊商制度を設けて往来を保護した。馬、羊、ラクダの需要は急騰し、草原の産物は飛ぶように売れ、かつてない繁栄が訪れる。
同時に軍制改革も行った。百人長・千人長の制度を設け、兵の編制を明確化し、徹底した訓練を課した。さらに弱点とされた攻城兵器の研究開発にも着手し、騎馬軍団を支える技術の習得を急がせた。
こうして、テムジンの統率下で元国は、戦場において無敵の軍事力と繁栄を両立させる国家として、草原にその名を刻んだのである。
―1235年 発国征討
隣国・発国が国境を侵し、略奪を繰り返したのは、その五年後のことである。
テムジンは鍛え上げた騎兵を自在に操り、五万の敵軍を一挙に撃破した。
さらに自ら開発させた新兵器を用いて発都を攻め落とし、発国を滅ぼしたのである。
この征討により、元国は大量の捕虜と財貨を得た。その結果、元国の侵攻は城壁を突破した。
すると、発は和睦を提案。元国はそれを受け入れ、相国は毎年貢物を送る賠償金20万両、絹10万匹を支払い。ことを誓った。
元は得た資金でさらに交易を盛んにする。草原の優れた毛皮や馬を輸出することで利益を稼ぎ、巨万の富を築いた。
なかでも特筆すべきは、発国の学識ある貴族にして官僚、耶律阿海であった。
彼は草原の風習を深く研究し、元語にも通じていたため、テムジンに仕える通訳兼顧問として召し抱えられる。
―文字と法制の導入
阿海は進言した。
「国を強くするには、文字が必要です。税も法も軍も、記録なくしては整いませぬ」
試みに阿海の献策を取り入れると、その効果は直ちに現れた。
兵糧や馬の数が正確に把握され、軍制は一層整備された。
法律を文に落とせば民の不満は減り、治安も改善される。
この成果に喜んだテムジンは、以後アデム族の文化を積極的に受け入れた。
かくして「文字なき騎馬民族」は、はじめて書記を持つ国家へと変貌していく。
―宗教と聖位
阿海はさらに策を示した。
「中央神会に聖位を乞い、聖地の守護者となるべきです。
それにより元は天下の覇を名乗れるでしょう」
元族統一の偉業を経て、人々には新たな民族意識が芽生えつつあった。
その求心力となったのがシルルク教である。
この宗教は各地の土着神を「シルルク神の別名」と説き、抵抗なく人々の信仰をまとめ上げる術を持っていた。
やがて「我らはシルルク神の子孫」との誇りが、元族を一つに染め上げる。
テムジンもまた、豊かさを得るためにはアデム民族の支配が不可欠と悟り、聖地奪還を旗印に南征を開始した。
―元軍、聖地を衝く
五十万の大軍が南へ進んだのは、その絶頂の頃である。
草原から押し寄せた騎馬軍団は、ついに聖地の城門前に至った。
だが彼らの眼前に現れたのは、見たこともない堅固な城壁であった。
高さ十丈、深き堀と杭、堅牢な石積み――草原の戦士にとって、まさに異界の防壁である。
テムジンは果敢に攻め立てたが、雨のように降り注ぐ矢に阻まれ、やむなく退却した。
「発を攻めたときも城はあった。だが、あれほどのものではなかった……」
悔しさを滲ませる覇王に、耶律阿海が進言する。
「攻城兵器を造りましょう」
石と木を用いた巨大な投石器三基が築かれ、三方より同時に城壁を撃ち抜く策が立てられた。
だが亜琉の守将は狡猾であった。
投石器が射程に入ったその瞬間、伏せられていた兵が一斉に火矢を放ち、油を撒いて炎と煙で元兵を焼き尽くしたのである。
再び敗走する元軍。
テムジンは失意の中で本国へ退いたが、その眼には燃える執念が宿っていた。
――この日より、元国の野望は聖地と神我地方を射程に収め続けることとなる。
病床に侍るのは、四人の息子たちであった。
長子ジョチ、次子チャガタイ、三子オゴデイ、末子トルイ。
しかしそこに、兄弟の和やかな情愛は見られなかった。
かねてよりジョチとチャガタイは犬猿の仲である。
ジョチは勇敢にして度量広き男であったが、その生まれにまつわる影が絶えず彼を追い、兄弟の間にしこりを残していた。
チャガタイは剛直にして律義、法と掟を重んじる性格であった。ゆえにこそ、兄を「真の後継」と認めようとはしなかった。
会議のたびに二人の舌戦は火花を散らし、陣営を重苦しい沈黙で覆った。
その光景を見ていたテムジンは、静かに胸中で呟いた。
「この二人に継がせれば、草原は血で裂けよう……」
末子トルイは若くして軍才に優れ、兵の信望も厚い。だが彼はあまりに若く、国を背負う器量は未だ育ちきっていない。
残されたのは一人、三子オゴデイであった。
彼は穏やかで、調停に長け、軍政両面に柔らかさを持つ。兄弟の不和をなだめ、父の意志を受け継ぐにふさわしい「和」の器を備えていた。
「草原の未来を裂くわけにはいかぬ……」
大汗は最後の力を振り絞り、言葉を紡いだ。
「オゴデイを、我が後を継ぐ元王とせよ」
広間に重い沈黙が落ちた。
ジョチの顔は蒼ざめ、チャガタイの瞳には炎が揺らめく。
しかし、父の言葉は絶対であった。
こうして草原を統べた元王テムジンの意志は、三子オゴデイへと託された。
騎馬の民にとって、王の死は終わりではなく始まりである。
焚き火の煙が夜空へ昇るころ、兄弟たちはそれぞれの幕営で兵を集め、剣を研ぎ、部族の支持を取りつける。
「誰が最も多くの馬蹄を従えるか――それこそが正義」
それが草原の掟であった。
父の死後、領地はしばしば複数の子に分け与えられる。家を継ぐのは末子とされることが多かった。年老いた父母のそばに留まり、家族の財を守る役目を担うためである。
だがこの末子相続の慣習は、兄たちの不満を呼び、血で血を洗う争いの火種となった。
「なぜ幼き弟が父の遺産を独り占めするのか」
そうして兄弟は互いに刃を向け、草原は幾度も戦火に包まれた。
内紛とは、騎馬民族の呼吸そのものだった。
一方で、農耕の国は異なっていた。
定まった畑と村を治めるには秩序こそが命であり、後継は正妻の長子と決まっていた。
皇帝や王の血は天の意志とされ、官僚と貴族がこれを支えた。
もしもその秩序が乱れると、それは「天地が覆る異変」と記録され、史書には必ず「乱」と刻まれる。
内乱は例外であり、正統が揺らぐのは一瞬の不幸にすぎなかった。
草原の風は末子の家を守り、兄たちを戦に駆り立てた。
農耕の大地は長子を戴き、秩序を守ろうとした。
その違いこそが、二つの世界を分かつ境界であった。
テムジンの一族ボルジギン氏においても、末子相続の慣例は生きていた。
末子トルイは勇猛果敢で、軍中における功績は兄弟の誰よりも輝いていた。
父テムジンは彼を深く愛していたが、それでも後継者には指名しなかった。
「トルイは勇猛すぎる。王には、ときに臆病であることが必要だ。勇猛は、ときに無謀を生む」
テムジンはそう言い、三子オゴデイを後継に定めた。
トルイは納得できず、心中に燻る不満を抱えたまま父を見送った。
やがて彼は息子たちにこう語り継ぐ。
「ビライよ、モンケよ。お前たちこそ、次の王となれ」
こうしてオゴデイの即位を受け入れつつも、トルイは密かに己の血筋へと希望を託したのである。
オゴデイは元王となると、父の征服事業を継承した。
軍を率いて対国・九国・最国へと侵攻し、連戦連勝。
その武名は草原を越えて轟き渡り、やがて「草原の覇者」と称されるに至った。
だが、草原の宿命は変わらぬ。資源に乏しい土地では、長き持久戦を維持することはできない。
オゴデイはついに戦を中断し、盟約によって休戦を選んだ。
休戦の間に軍を鍛え、兵器を磨き、家畜を殖やし、再びの遠征の時を待った。
だが、時は彼を裏切る。
オゴデイは病に倒れ、五十二歳にしてあっけなく世を去ったのである。
後継を巡る政は、またもや混沌を呼んだ。
オゴデイの死後、その皇后ドレゲネが巧みな政治工作を重ね、ついに息子グユクを大汗に推し立てた。
グユクは父の政策を継ぎ、再び征服の旗を掲げる。
だが、その命は短く、わずか二年で病に斃れた。
元王の座が空白となると、草原は再び裂けた。
ジョチの血を継ぐバトゥ、トルイの子らビライとモンケ、さらにフレグ、アリクブケ――
草原の名だたる雄たちがそれぞれに軍を起こし、後継の正統を競い合った。
父祖の遺訓「草原を一つにせよ」はもはや遠く、焚き火の煙のごとく消えゆく。
騎馬の民にとって、王の死は終わりではなく始まり。
だがその始まりは、しばしば血と火の夜明けであった。
――かくして、モンゴル帝国は栄光の下に、すでに内なる崩壊の芽を抱えていたのである。
草原の帝国において、王座を巡る争いは尽きることがなかった。
オゴデイの子らはそれぞれ強大な軍と財を有し、やがて父の死後、長男ジョチの血を引くバトゥと激しく対立した。
当初はバトゥが優勢に見えた。
だが、トルイの子ら――ビライとモンケの緻密な策略がその命運を断つ。
夜半の酒宴、杯に仕込まれた毒がバトゥの喉を焼き、激しい咳と血にまみれて彼は息絶えた。
その死は一族に深い怨恨を残した。
こうして草原は再び裂け、バトゥの一族とモンケ・フレグ陣営との間に十年に及ぶ戦火が広がる。
馬蹄の轟きは絶えることなく、大地は血で染まり続けた。
やがて、敗勢を悟ったバトゥの子ベグがモンケに降伏する。
しかし戦はなおも続き、疲弊の極みに達した頃、モンケが病に斃れた。
後を継いだのは、トルイの子ら――ビライとアリクブケである。フレグはビライ側に付き、ビライを推薦した。
両者の争いは苛烈を極めた。
当初はアリクブケが優勢で、首都を掌握し、諸部族を従えた。
だが、ビライは巧みに武将を切り崩し、銀山の富を惜しみなく戦費に注いで逆転する。
七か月にわたる激戦の果て、ついにアリクブケは捕らえられた。
ビライは剣を収め、こう言った。
「血は水よりも濃い。兄弟を殺すは我が恥なり」
その言葉どおり命は赦されたが、失意と屈辱に沈んだアリクブケはやがて病を得、二年後に世を去った。
こうしてビライは、元王として草原を統べることとなった。
弟ということで一命は助けられたが、その二年後に病に倒れ、静かに息を引き取った。
こうしてビライは、ついに元の王座に就くこととなった。
その頃、ベグはバトゥの遺児とモンケ、さらにフレグのあいだを奔走し、和平を仲介する。長らく続いた骨肉の争いも、ここにひとまず終止符が打たれたのである。
時は1270年のことであった。
王となったビライは、かつてオゴタイに冷遇されていた将軍オルワを召し出し、厚く遇した。オルワは銀国の国境を守る武将であり、終生ビライに忠を誓った人物である。しかも彼は熱心なシルルクの信徒でもあり、ある日、王の前に進み出て、こう説いた。
「聖地は我らが信仰の源。これを奪い還さずして、いかに神に顔向けできましょう」
ビライは深くうなずいた。
「我が国の王座は神より授けられたもの、むやみに放棄するは許されぬ」
かくして両者は心を一にし、聖地を支配する最国への遠征を決断する。
元軍は五十軍にも及ぶ大軍を編成し、国境を越えて進軍した。
最国は必死の抵抗を試み、長城を築いて侵攻を防がんとした。しかし元軍はその弱点を鋭く突いた。幾百もの投石機を繰り出し、巨岩を雨のごとく浴びせかけたのである。やがて長城は石塊に埋もれ、守兵は次々と潰えた。最軍はついに力尽き、国は瓦解し、聖地は元の旗のもとに帰したのであった。
長城が消え去ると、元軍は一気に前進した。草原を駆ける騎兵の足音は風のように速く、わずかの日数で聖地は元の旗の下に帰した。ビライはそのまま聖地に入地し、中央神会より帝位と聖地守護の任を授かる。名実ともに「シルルク教の保護者」となり、その権威は草原の果てまで響き渡った。
しかし、帝はその後、領土拡張の野心を封じ、二十年の長きにわたり平和を保った。元国の民はその治世を称え、ビライを「太平王」と呼んだ。平和は民を喜ばせ、商業と文化を栄えさせた。人々は絹の衣をまとい、米を常食とし、詩や書、音楽に親しんだ。だが、農耕民族の文化が浸透するにつれ、勇猛であった騎馬民族の心は次第に遊戯に傾き、弓の腕は衰え、馬上の技量も失われ、軍服も剣も埃をかぶることとなった。
平和の享楽が長く続くほど、元国の軍事力は徐々に蝕まれていった。
そして1299年、最国は百万の大軍を結集し、元国へと侵攻してきた。だが元国の守備隊は既に戦う力を失い、国境防衛は従属国の越国に委ねざるを得なかった。越国は必死の抵抗を繰り広げ、最国の侵略を食い止める。だが最国は退かず、元都を目指して進撃を再開した。
元都には十万の守備兵が配され、城壁には緊張が張りつめていた。指揮を執るのは元帝ビライである。遠方に迫るサン帝の三十万の大軍を前に、城壁の守兵たちは弓矢を構え、砦の防衛線を堅めていた。ビライは高台に立ち、敵の動きと城内の士気を慎重に見極める。冷静な眼差しと的確な指揮により、兵たちは恐怖を抱きながらも秩序を保ち、守備線は微動だにしなかった。
その守備態勢により、元都は容易に陥落せず、サン帝の進軍は思わぬ阻害を受ける。草原と農耕の異なる文化が育んだ戦士たちの力、そして帝の知略が、この戦いに微妙な均衡をもたらしていた。
この二十年あまり、元国の戦は、かつてのように草原の勇士によってではなく、むしろ外から流れ来た者たちによって支えられていた。
たとえばホールやシルクといった亡命の将は、遠国から流れ着きながらも、その才覚と武勇で戦局を支えた。
また、ロワンのように白髪を交えた老将も、若き日の戦経験をもってなお最前線に立ち、若き兵を導いた。
だが、このこと自体が、元本来の兵士たちの衰えを示していた。
かつては一人ひとりが弓馬の道に生き、己の力で帝国を広げた民が、今や歌や劇に心を奪われ、狩りにも出ず、柔らかな絹衣に満足していたのである。
勇猛な戦士の代わりに、亡命者や老将が帝国を支えざるを得なかった事実は、繁栄の陰に潜む衰退の兆しを物語っていた。
また、シルクやホールといった将があまりに優秀であったことも、元国の弱体化を加速させた。
彼らが常に辺境の戦場を支え、侵攻してくる異民族を防ぎ続けたため、戦火が印都に及ぶことはほとんどなかった。
その結果、都の人々は長き平穏に慣れ、戦の厳しさを忘れてしまった。
兵は鍛錬を怠り、貴族や廷臣らは狩りや武芸ではなく、歌や劇に心を寄せ、絹の衣に身を包んで安逸を貪る。
こうして「平和ボケ」した帝都の兵は、かつて草原を駆けた勇敢な戦士の姿を失い、いざ大戦が迫った時には、辺境で鍛え上げられた越軍に頼らざるを得ないほどに衰えていたのである。
最軍の猛攻により、ついに印都はなすすべもなく崩れ落ちた。
城壁は炎に包まれ、門は破られ、街路を埋め尽くす敵兵の鬨(とき)の声が夜空を震わせる。
宮城も炎上し、瓦解の兆しが迫るなか、ビライ帝はわずかな近衛を連れて脱出を試みた。
だが、城門を出るよりも早く、待ち伏せていた英武の部下の一隊に襲われる。
逃走の途上で矢雨を浴び、馬から投げ出された帝は、最後に槍に貫かれ、その場に果てた。
かくして、元帝国の君主ビライは都と運命を共にし、その壮大な治世もここに幕を下ろすこととなったのである。
最軍の猛攻により、ついに印都はなすすべもなく崩れ落ちた。
城壁は炎に包まれ、門は破られ、街路を埋め尽くす敵兵の鬨(とき)の声が夜空を震わせる。
宮城も炎上し、瓦解の兆しが迫るなか、ビライ帝はわずかな近衛を連れて脱出を試みた。
だが、城門を出るよりも早く、待ち伏せていた英武の部下の一隊に襲われる。
逃走の途上で矢雨を浴び、馬から投げ出された帝は、最後に槍に貫かれ、その場に果てた。
かくして、元帝国の君主ビライは都と運命を共にし、その壮大な治世もここに幕を下ろすこととなった。
元は当初、西欧を統一し、東洋と西洋を融合させた多民族国家であった。
その文化は神秘的で多くの軍人を魅了したが、同時に鍛錬を怠る原因ともなった。
もはや元では、かつてのように騎馬民族の勇猛な戦士たちが戦場を席巻することはなく、国家は最国に飲み込まれていった。
しかし、元を受け継いだ越帝シルクは、ビライを好意的に受け入れ、帝として葬った。
その後、ビライの子孫は分国王として柵封され、こうして越の元で元文化は守り継がれていったのである。