初期(王朝の安定期)
初代:朱玖(シルク)帝(1300年~1315年)
シーア大陸を統一し、越都を築く。
第二代:朱恩(エルク)帝(1315年~1340年)
リア大陸遠征を敢行し、双大陸の支配を確立。
第三代:朱瑟(セルク)帝(1340年~1365年)
大陸歴史書と暦書を編纂し、文明の礎を築く。
第四代:朱雷(レイク)帝(1365年~1388年)
軍制を整備し、諸侯を従わせて治世を安定させる。
第五代:朱蓋(ガイア)帝(1388年~1408年)
版図を拡張し、宗教と政治を融合させた「神政」を樹立。
中期(繁栄と変革の時代)
第六代:朱遜(ソレン)帝(1408年~1419年)
民政を刷新し、学問と律法を重んじた。
第七代:朱伯(サルク)帝(1419年~1440年)
芸術文化の黄金期を築くも、財政破綻により国が揺らぐ。
第八代:朱典(トレン)帝(1440年~1445年)
大内乱を引き起こし、越都炎上。皇太子戦死、帝は逃亡の果てに餓死。
第九代:朱元(ゲンリ)帝(1445年~1460年)
宗室の傍流より挙兵し、胴国を討ち、王朝を再興。
第十代:朱発(バルク)帝(1460年~1528年)
中興の祖。遠征と改革で国力最盛期を築く。
後期(混乱と衰退の時代)
第十一代:朱導(ドウカ)帝(1528年~1555年)
内向と無策により、外敵と豪族が台頭。
第十二代:朱白炎(ハクエン)帝(1555年~1570年)
贅沢と浪費で国庫を尽くし、民乱頻発。
第十三代:朱雷火(ライカ)帝(1570年~1575年)
軍事独裁を敷くも遠征失敗、国力を損なう。
第十四代:朱乾理(カンリ)帝(1575年~1588年)
病弱と優柔不断の治世、帝国は瓦解寸前に。
第十五代:朱才利(サイリ)帝(1588年~1590年)
後周の侵攻により滅亡。越帝国、ここに終焉す。
■シルク伝(校正版)
神我――豊沃の地にして、古より神々が生まれた聖域とされる。
中族たちはこの地を荒らすことなく、あえて開拓もしなかった。
しかし、やがて「神土を治めることこそ覇権の正統性を証する」と知られ、帝王たちはこぞって神土を目指すようになった。
シルクは漢語で「朱玖」と記す。
シルルク神の末子シヒルニカを祖とする相の武官・朱金、そのひ孫にあたるのがシルクである。
朱一族は代々、相皇朝に仕え、朱羅の代には西域への移住を命じられた。
以来、彼らは西域民族との交易管理を担い、そのため異民族の言語にも精通していた。
ソカメンの反乱後、大陸は内乱の渦に包まれる。
朱一族は曹操に仕えたが、それは表向きであり、真の目的は曹操を監視し、相の宗廟を守ることであった。
やがてアールが銀を滅ぼすと、朱一族の一人・朱高(1216〜1249)は元国へ逃れる。
しかし囚われ、元都へ送られた。
その才を見込んだテムジンは朱高を家臣に迎える。
当初、異民族である元に仕えることを朱高はためらったが、アールが聖地を焼き、聖地に住まう朱一族を族滅させた報を受け、激怒。
「アールに復讐すること」を条件に、元への仕官を決意する。
朱高は通訳、道案内、交渉、交易などの任務から始め、一兵卒として戦場にも立った。
やがて武将として銀や発を攻め、数々の武功を挙げ、ついに南元後将軍の位に昇る。これは極めて異例の出世であった。
元国では、文官には相人を雇う例もあった。
元には文字がなく、法律や税制においては相人の知識が勝っていたからである。
だが武官となると、元人には敵わないとされていた。
彼らは物心つく前から武人であり、狩人であったため、純粋な戦闘能力は群を抜いていた。
ある相人将軍は「元人一人は相人三人の強さに匹敵する」と評している。
さらに戦術面においても、幾多の草原での修羅場を生き延びてきた経験が机上の兵法を凌駕していた。
それでも朱高は、元人に匹敵する武勇と知略を併せ持ち、その実力は元人からも尊敬された。
やがてテムジンの親族の娘を妻に迎え、朱命・朱均・朱理の三子をもうける。
しかしその後、元国内の内乱により朱一族は分裂し、その勢力も縮小、左遷の憂き目を見ることとなった。
■ 時は1260年。朱理(1239〜1270)はテムジン王から、娘カリン姫を後妻に迎えるよう命じられ、祝言を挙げたのち、クロー地方・周の町の主官に任じられた。現在で言えば町長にあたる職である。朱理はかつて朱高の将軍にまで任命された人物であったが、この任は明らかに格下であり、冷遇とも取れる人事だった。当時、朱一族は微妙な立ち位置に置かれていたのである。
このころ、テムジンの兄弟間で内乱が起こり、元人同士が争っていた。一方で、主要な相人官僚たちは、良くも悪くも辺境へ飛ばされる傾向にあった。
この年、朱理にシルクが誕生する。シルクは5歳で文字を覚え、8歳で詩を作るほどの天才だった。朱理はこの才を深く愛し、生涯にわたって可愛がった。
シルクは港町で育ち、世界を直に感じながら成長した。南国の風土、草原の文化、相族の文芸、東部の風習が混ざり合い、まるで小さなシーア大陸のような場所であった。多民族が集まる町は、文化の衝突そのものを体現していた。
朱理はこの難所とされた町の統治を任され、宗教の自由と集会の自由を認め、各宗派を保護した。また各民族の代表を「長老」として登用し、意見を述べられる場を設けた。一方、他民族間の犯罪には厳罰を科した。例えば相人が相人の牛を盗めば鞭打ち百叩き、異民族に同じことをすれば二百叩きを課した。こうして、大きな民族間衝突はほとんど起こらなかった。
この経験は、後のシルクの統治に大きな影響を与えた。
「民族とは宗派や思想、価値観が異なるものだが、それが必ずしも争いの原因にはならない」
そう考えるようになったシルクは、相語・東語・元語を習得し、流暢に話せるようになった。
しかし、シルクにはもう一つの顔があった。精励勤勉さは父朱理に似ていたが、「人間の本質はそれだけでは測れぬ」とも悟っていた。彼は時に街の不良仲間とつるみ、喧嘩や盗み、博打といった悪行にも手を染めた。
「お前は海のようだ」
旧友はそう評した。シルクは何事にも好奇心旺盛で、人から勧められれば大抵は試してみる性分だった。
「どうだい? シルク、やってみないか?」
「お前さんが言うなら、やろう」
そう言って悪事にも加担したが、そこには抜け目がなかった。彼は必ず町の郊外や人目の少ない場所を選び、痕跡を残さぬよう立ち回った。この狡猾さは、後年、彼が乱世の荒波を乗り越えるための重要な素地となる。
1270年、晩年を迎えた朱理は「我の唯一の心残りは、我が子が幸せになることだ」と語り、そのまま息を引き取ったという。
その跡を継いだのが、息子シルクであった。
シルクは父の死後まもなく、街の管理を正式に任されることとなった。
若き日の彼は悪事に手を染めたこともあったが、統治の責を負って以降は一切それを断ち切り、むしろ逆に海賊や盗賊の討伐に乗り出した。
「悪を知る者こそ、悪を断つことができる」
そう語ったと伝えられる。
シルクは地の利を活かし、街道や港を巡視する兵を増やし、交易の安全を確保した。これにより町は急速に繁栄し、商人や旅人が集うようになった。
だが彼は単なる治安維持にとどまらず、捕らえた盗賊の中から有能な者を選び、自らの兵に組み込むこともあった。
「腕と胆力さえあれば、昨日の賊も今日の将となる」――その言葉通り、彼は人材登用に一切の偏見を持たなかった。
こうして、かつて「海のよう」と評された奔放さは、次第に民を守り治める大器へと昇華していったのである。
シルクは街の統治を任されると、真っ先に思い浮かべたのはかつての悪友たちだった。
彼らは盗みや博打に明け暮れ、時にはシルクと肩を並べて喧嘩に加わった者たちである。世間から見れば無頼漢にすぎぬが、シルクにとっては誰よりも裏表のない仲間であり、その胆力と腕っぷしを知り尽くしていた。
「お前たち、俺に仕えぬか?」
突如として放たれた言葉に、不良仲間たちは唖然とした。
「冗談だろう、シルク。俺たちは盗賊あがりだぞ」
「盗賊あがりだからこそ、道を守れる。盗みの道も知る者が、盗みを防ぐのだ」
シルクは笑みを浮かべながらそう言った。
やがて彼らはシルクの護衛として集められ、街の警護を担うことになった。
粗野ではあるが勇敢で、金や地位には惑わされぬ忠誠を誓う者ばかりであった。彼らは「黒衛兵」と呼ばれ、民衆からは当初こそ不信の目を向けられたが、盗賊討伐や街道の治安維持で目覚ましい働きを見せると、次第に恐れと尊敬の入り混じった存在として語られるようになった。
シルクはこうして、過去の悪行さえも糧とし、自らの統治を支える力へと変えていったのである。
シルクはただ悪党に厳しいだけではなかった。
罪を犯した者には容赦なく罰を下す一方で、やむなく盗みに手を染めた貧者や孤児には、必ず正しき道を示した。
ある夜、飢えた子どもが市場で干し肉を盗んだとして、役人に突き出された。
役人は「法に従えば鞭打ち百叩き」と言いかけたが、シルクは静かに手を上げ、声を抑えながら告げた。
「飢えた者を孤児であり、盗人と呼ぶことはできぬ。法とは民を守るためにあるもので、飢えに抗えぬ者を裁くものではない」
そう言うと、シルクは市場の倉より干し肉を取り出し、子どもに手渡した。
そしてそっと教えた。「これを口にするのはよい。しかし、明日からは私の役人の下で働き、己の手で糧を得るのだ」
子どもは涙を浮かべながら頷き、シルクの名を胸に刻んだ。
このような柔軟かつ公正な裁きは、街の民に深い信頼をもたらし、やがて彼の統治下では、法と慈悲が共に行き渡る秩序が築かれることとなった。
1275年、元帝ビライが即位すると、その政に不満を抱いた末弟コヤンが兵を挙げ、都は一時的に混乱と恐怖に包まれた。街路には緊迫した空気が漂い、門前には武装した民衆と兵士が立ち並んだ。
この時、シルクは平連やロワンと共に、反乱鎮圧のため出陣する。
コヤンの兵は果てしなく膨張し、四十万にも膨れ上がった。理由は単なる動員数の増加ではない。 反乱を支援する諸侯や地方勢力が次々に兵を寄せ、流民や傭兵までも徴集されたためである。この年、オロス地方で大規模な飢饉があり
この年、オロス地方で大規模な飢饉が発生しており、飢えに苦しむ民衆が食料を求めて武器を取り、コヤンの軍勢に加わった。流民や農民が戦列に組み込まれ、統率の乱れも顧みず前線へ押し出されていく。こうして兵の数は圧倒的に膨れ上がったものの、士気や戦術的統制には大きな不安定さが残る膨張となった。
ロワンとシルクは、圧倒的なコヤン軍の攻勢を前に、戦線を維持することが困難と判断した。やむなく昆陽城へ退却し、堅固な城壁の内に身を寄せる。城内では急ぎ防御陣を整え、火矢や石弾を用いた守りの準備が始まった。民兵や残兵とともに城門を固め、城内の水源や食料の確保を急ぐなど、長期戦に備える緊迫した状況が展開された。
シルクは平連と共にこれを討つべく出陣し、幾たびもの激戦を経て乱を鎮圧した。この戦において両者は並ぶ者なき戦功を挙げる。
シルクは相武左将軍を拝命する。
また、この時期、山栄・具弦という二人の傑士を味方に引き入れ、彼らと共に戦場を駆け抜けた勇名は広く伝わり、世に「紅二十八将」と称されることとなった。
翌1276年、シルクは名門・戸氏の令夫人を妻に迎えた。
戸氏は代々、東方の大族として名を馳せ、宮廷にも深き縁を持つ名門であった。その縁組は単なる婚姻ではなく、都における立場を確かなものとする政治的結びつきでもあった。
婚礼の日、都の貴顕や諸将が列席し、豪奢な儀礼が執り行われた。だが、シルクの姿は華美に溺れることなく、ただ静かに新妻の手を取り、言葉少なに誓いを交わしたという。
「戦場に立つ我が身なれば、夫として共に過ごす時は限られよう。されど、必ずや国を鎮め、汝に安らぎをもたらすことを誓う」
この婚姻により、シルクの名は軍中のみならず貴族層にも浸透し、その威望はますます高まっていった。やがて彼は「武を以て辺境を治め、義を以て内を結ぶ者」と評されるに至るのである。
その後、シルクは武功のみならず、治政の才をも発揮した。
九周州太守、美州太守、暦州太守など歴戦の地を次々と任され、いずれの地においても民心を掌握し、治安と租税を安定させた。
彼の統治は厳正にして寛容。盗賊を容赦なく討ち取りながらも、貧しき民には救済を施し、また諸民族・諸宗派を等しく扱ったため、各地で争いは次第に収まりを見せた。
この手腕により、シルクの名は「武の将」から「治の能臣」へと広まり、都にも評判が届くこととなった。
こうしてビライ元帝は、彼を重んじてますます要地に任じ、国政の柱石の一人として遇したのである。
1289年――。
ついに元国は、長年の宿願たる聖地奪回の遠征を開始した。
シルクは宿将ロワン、名将ホールと肩を並べ、遠征軍の三柱としてその陣に加わった。
進軍の途上、敵は荒野の中央に広大な陣を構え、精鋭を揃えて本軍を迎え撃たんとした。ここを突破せねば聖地の城門には至れぬ。しかし正面から挑めば、大損害は必至であった。
その時、若き将シルクが進み出て、帝の御前に深く拝礼した。
「最も危うき囮の役目、このシルクにお任せあれ。
兵は少なくとも、我らが荒野を駆け抜け、必ずや敵を二つに裂きましょう」
自ら死地を乞うたその言葉に、一同は息を呑んだ。
やがて出陣の刻。
シルクは精鋭の騎兵を率い、砂塵を巻き上げて敵陣に突入する。矢の雨を浴びながらも退かず、荒野の只中で敵を翻弄し、ついにその戦列を真ん中から切り裂いた。
この一撃により、敵軍は二分され、統制を失う。
待ち構えていた本軍はその隙を衝いて中央突破を果たし、遠征軍は大勝を収めた。
――こうして聖地は、ついに元国の手に奪回されたのである。
この殊勲により、シルクは中路西州太守に任ぜられる。赴任するや、領内の港を大規模に整備し、波止場・倉庫・船渠を新設、商人を保護して交易を奨励した。これにより諸国の商館が相次いで建ち並び、港は諸方の貨物と人が行き交う活気に満ち、後世「港都」と呼ばれる大都市の礎が築かれたのである。
1295年、ついに北方より最軍が大挙して侵攻した。
その数十万、まさに黒雲のごとく押し寄せる敵勢を前に、シルクはわずか数万の兵を率いて対峙せねばならなかった。
開戦早々、敵の勢いは凄烈であった。
砂塵を巻き上げ、鉄騎が雷のように突進してくる。
若き日のシルクならば、無謀を承知で正面からこれを押し返そうとしたであろう。
しかし、この時の彼はすでに「雷原の敗北」を胸に刻んでいた。
彼は即座に全軍を三分し、中央は堅く守り、両翼を緩やかに退かせて敵を誘導した。
押し寄せる最軍に押し潰されぬよう、兵を小隊ごとに分散し、合図によって後退と集結を繰り返す。
まるで波が引いては寄せるがごとく、戦線を保ちながら少しずつ後方へと退いていったのである。
数日の戦いの末、ついに劣勢を覆すことはできず、全軍は退却を余儀なくされた。
だが、その退却は秩序正しく、兵たちは瓦解することなく陣を整えて帰還した。
討たれた者は多くとも、その大軍にしてなお半ば以上を保ち得たのである。
大都にて敗戦の報を受けたビライ帝は、群臣の非難を退けて言った。
「敗るることは恥ならず。全軍を保ち帰り、再戦の力を留めたは功である」
その冷静なる用兵はむしろ賞され、シルクは罪を問われるどころか再び任を受けた。
やがて彼はクロー地方東部の「九路太守」に着任し、辺境の要衝を託されることとなったのである。
クローには古くからアデム民族が多く住み、異民族支配の元帝国に不満を抱えていた。シルクはこれを力で抑えるのではなく、祭礼や慣習を尊重し、法の下での平等を掲げることで融和を図った。彼は人種差別の撤廃に尽力し、やがてクローでは諸民族が共に市を立て、同じ軍旗の下で戦うようになる。
この政策のもと徴兵された兵は「越軍」と呼ばれ、精鋭中の精鋭として諸戦場に名を轟かせた。さらにシルクは海軍の必要を説き、港に造船所を設け、武装船を建造して沿岸防備と海上交易の両面に寄与したのである。
1297年、シルクはついに西最への攻撃に踏み切った。
その軍勢は、十年近くの歳月をかけて鍛え上げた『越軍』の精鋭である。彼らは単なる兵士ではなく、アデム民族をはじめとした異民族同士の壁を越えて結束し、同じ旗印のもとで戦う者たちであった。長年の演習と戦場で培った規律は揺るぎなく、海と陸の両方で行動できる稀有な部隊となっていた。
シルクは、港湾都市で発展させた海運を軍事に応用し、戦役の兵站を完璧に整えた。物資は港から港へ、潮流と風を読み切った船団によって滞りなく前線へ運ばれた。これにより西最軍は、補給路を断とうと何度も試みたが、海と陸から支えられる越軍の進軍を止められなかった。
決戦の日、シルクは奇策を用いた。正面からの猛攻を装い、敵主力を引きずり出したうえで、機動力に優れた越軍の海陸混成部隊が背後を突く。包囲網が閉じると、西最軍の戦列は一気に崩れ、わずか三日で西最の要衝は陥落した。
だが、シルクは征服者として振る舞うことを嫌った。新領土でも従来と同じく、租税を軽減し、異民族間の軋轢を和らげる政策を施した。各地の長老や商人と直に会談し、港湾の開放と交易の自由化を進めることで人心を掌握する。彼が赴く町では必ず歓迎の太鼓と歌が響き渡り、「鉄の将軍」であると同時に「慈しみの君」として民から慕われたという。
1299年、サン帝が150万の大軍をもって元へ侵攻すると、シルク王は直ちに兵を率い、越も元防衛のため立ち上がった。
鋭く鍛えられた越軍は山川を盾に、堅牢な防衛線を築き、攻め入る最軍をことごとく退ける。矢雨が空を覆い、城壁の上では太鼓と角笛が響き、兵たちは声を枯らして鬨(とき)を上げた。越軍の徹底抗戦に手を焼いたサン帝は、やがて攻め口を変え、まず印都攻略に全軍を傾ける。
数週後、印都陥落の報がシルクのもとに届く。
その瞬間、王の双眸は烈火のように燃え上がった。
「元帝は我を拾い、育て、禄を与え、官位に就かせ、ついには王たる地位を賜った。父母の情に勝るその恩を、忘れてなるものか! 父母ある者は命を惜しむな。元帝が護り続けたこの大地を、汚すことなかれ!」
その声は戦場を震わせ、兵たちは一斉に武器を打ち鳴らし応えた。
越軍は全軍を挙げて反撃に転じ、最軍を一撃で粉砕する。
そのまま北へと矢の如く進撃し、行く先々の城や砦を次々と落とした。一月かかると目されていた行軍を、わずか十日で成し遂げる。
やがて辿り着いた印都は、50万の兵に守られていたが、シルクは3万の兵のみで総攻撃を敢行する。混乱と恐怖の中、城門は破られ、城壁は炎に包まれた。印都は陥落し、越軍の旗が高く翻った。
この急報に、サン帝は慌てて軍を引き返し、討伐の軍を整えるが、その頃にはすでにシルク軍は聖地へ向けて進軍を開始していた。
聖地には2万の守備兵があったが、まさか越軍がここまで追撃してくるとは思わず、陣備えも緩んでいた。
1299年10月
最都攻防戦が始まる。兵数では有利な最軍が優勢に見えたが、シルクの采配は予想を裏切るものばかりだった。
夜陰に乗じて川を渡り、煙幕を張って別方向から奇襲する。囮部隊が敵を誘き寄せる間に、本隊は城門を炎で焼き切る。連戦連勝で進む越軍は、ほとんど損耗を出さずに城下へ迫った。守備兵の中には、越軍の精強さと王の威に心を折られる者も現れた。
ついに聖地は越軍の手に落ちる。
勢いそのままにシルクは最都を包囲し、烈火のごとき猛攻を仕掛けた。戦いは三日にわたり炎と血に覆われ、多くの犠牲を出したが、ついに最都は陥落する。
敗報を受けたサン帝は、降伏の使者を遣わしたのち、静かに短刀を取り、自らの命を絶った。
シルク王はその死を悼み、かつての敵将を王としての礼を尽くして葬った。戦場を駆けた猛将の胸中には、義と恩に生きる男の誇りが、静かに燃えていた。
シルクは史上初のシーア大陸統一という偉業を成し遂げた。
大陸統一を成し遂げると、神我地方の「港都」を首都と定めた。
最帝の遺児であるユジラを西最王、ホールの遺児のエルスを西発王、ビライの遺児を西元王。
ハット一族から功績を残したホウリを幹王、ゲッショウを鳴王とした。
そして、帝王の遺児達からアデムの玉璽、シルルクの玉璽、ソカメン玉璽を献上されを3つを手中に収めた。
1300年、シルクは自らの支配領域の中心に位置する聖地に赴き、「聖地保護の儀」を厳かに執り行った。各地から集まった僧侶、貴族、軍将が見守る中、彼は「聖地保護の任」を正式に拝命し、さらに「聖四位」という最高栄誉の位階を授かる。儀式の終わりには諸侯の推戴を受け、「帝位」を贈られた。ここに、大陸史上初めて「大越帝国」が誕生する。
即位のやいなや、シルク帝は迷うことなく諸国へ使者を派遣した。大越の圧倒的な軍事力と経済力は既に各国に知れ渡っており、抵抗を試みる者はほとんどなかった。かくして西方の砂漠国家から東海沿岸の海商都市まで、全ての国が忠誠を誓い、史上唯一となる大陸統一が現実のものとなった。
1301年、中央神会から「大帝」の尊号を受ける。1302年には「太皇」、さらに1303年には歴史上空前の称号「帝皇」を授与された。これは神聖と世俗の両面において、彼が他の支配者を凌駕する存在であることの証であった。
そして、シルクの玉璽がされた。
治世においてもシルク帝は英断を重ねた。東西を結ぶ交易路を整備し、陸路のみならず海路の安全も確保した。特に海上貿易に注力し、造船技術と港湾施設を飛躍的に発展させた結果、莫大な富が帝国にもたらされる。この新たな交易網は後世「シルクロード」と呼ばれ、以後四百年にわたり大陸経済の中枢を成すことになる。
さらに、人頭税を大幅に軽減して民の負担を減らし、開墾政策を奨励して農地を広げた。これにより人口は増加し、農業生産力が高まり、各地で産業が勃興した。シルク帝は民の声に耳を傾け、飢饉や災害の際には直ちに救援を行ったため、その治世下では内乱も反乱もほとんど起こらず、長き平和が保たれた。
文化面でも彼は果敢に改革を推し進めた。帝国内の言語と文字の統一を目指し、各地の学者を都に召集して改良案を練らせた。もとより元朝の主要言語であった元語を基礎としつつ、発音・文法・文字体系を整備し、より簡明で広く使える言葉に仕上げた。この新言語はやがて「英雄の言葉」と呼ばれ、さらに時代を経て「英語」という名で大陸全土に広がっていくこととなる。
1315年、シルク帝は病に倒れ、床に臥すこととなった。最期に、後を継ぐ息子エルクへ「交易の拡大と海上進出」を遺言として託し、この世を去った。エルク王は父の偉業を称え、聖地近くに巨大な陵墓を築いた。
シルク帝の死後、その生涯と功績は数多くの史劇や小説に描かれ、彼の名は大陸中に知れ渡った。その人気は時代を超えて衰えず、今なお多くの参拝者が陵墓を訪れる。また、各地には「シルク廟」と呼ばれる祠が建立され、民の信仰を集めている。
後世の歴史家はこう評している。
「シルクはアデム民族とシルルク民族の融和に尽力し、優れた経済感覚と先見性をもって交易を発展させ、大陸全土の文化と産業を向上させた。その功により、越四百年の礎を築いた。さらに軍事面では、異民族の文化を吸収して軍を鍛え上げ、その巧みな軍略で幾多の敵を退け、越を建国した。そのカリスマ性と才能は、大偉人の域に達していた。」
朱玖(シルク)が大地を統べ、朱恩(エルク)が海を越えたのち、大越帝国は初めて「戦の時代」を離れた。
その舵を握ったのが、第三代・朱瑟(セルク)帝である。
セルクは剣を好まず、むしろ筆と紙に心を寄せた。彼は学者を集め、前代より伝わる記録を整理し、諸侯の年代記を集め、さらに異国から伝わる碑文や口承をも聞き集めた。やがてその膨大な記録は、「大越大陸史」と呼ばれる歴史書へと結実する。
この書は単なる年表ではなかった。天地の理、民族の興亡、戦の記録に加え、民の営み、農耕の習慣までも記された。セルクはこう言ったという。
「剣で国は築ける。しかし、歴史を刻むのは筆である。」
大越の民は、その歴史書を誇りとした。自らがいかなる大地に生まれ、どのような祖先を持つかを知ることができたからである。
セルクは大陸を「力」ではなく「記憶」で統べた皇帝であった。
やがて第四代・朱雷(レイク)帝は法を重んじ、第五代・朱蓋(ガイア)帝は外交に才を示し、第六代・朱遜(ソレン)帝は経済と制度の刷新に尽力した。彼らの治世は互いに補い合い、父祖の仕組みを受け継ぎながら世に広げていった時代であった。
大越帝国は、剣によって築かれた覇業を、制度と文化と仕組みによって盤石のものとし、初期の安定を越え、繁栄の時代へと歩みを進めていったのである。
サルク帝の治世、大越の都は絢爛を極めた。
詩人は歌を競い、画家は筆を走らせ、宮廷には雅楽が鳴り響き、異国の来賓はその華麗さに目を奪われた。人々はこの時代を「黄金の二十年」と呼んだ。
だが、その輝きは帝国の財を食いつぶしていった。宮廷の贅を支えるために課された重税は農民を苦しめ、度重なる飢饉が人心を荒らした。リア大陸に築いた植民地は反乱に揺れ、西方の胴国も独立を宣言した。帝国の外縁は崩れ始め、内には不満が渦巻いていた。
サルク帝は芸術と華やかさに心を奪われ、やがて民の呻きに耳を塞いだ。黄金期の裏に、帝国の根を腐らせる影が忍び寄っていたのである。
玉座に就いた朱典(トレン)帝は、父サルク帝の遺した煌びやかな宮廷をそのまま受け継いだ。だが彼の眼差しは虚ろであり、帝国の命運を握るにふさわしき才を欠いていた。
朝廷では外戚と宦官が権を競い、互いに帝を操ろうとした。朱典は彼らの言葉をそのまま信じ、誰の手をも借りて政を委ねるばかりであった。権力の空洞化は、やがて国を裂く裂け目となる。
――その隙を突いたのが、西方の「胴国」である。
かつて大越の属国として支配下にあったこの国は、サルク帝の末期に独立を宣言した。そしてトレン帝の治世、混乱する帝都を好機と見て兵を挙げたのである。
胴国の軍は国境を越え、旧領を奪還するかのように進軍した。大越の地方諸侯は、中央の命令が届かぬのを良いことに、それぞれ独自に兵を動かし、ある者は胴国と通じ、ある者は逆に帝都からの官軍を拒んだ。
帝都は内からは外戚と宦官の争いに引き裂かれ、外からは胴国の軍馬に脅かされた。
「大越はもはや一つにあらず」――民の口からその言葉が洩れたのも、この頃であった。
サルク帝の遺した華やかな都・越都は、トレン帝の治世で血と炎に呑まれた。
外戚と宦官が権を争ううちに、独立を果たした胴国が兵を挙げ、西方から鋼鉄の波のように押し寄せたのである。
宮廷の命令系統は崩れ、地方諸侯はそれぞれ勝手に動き、ある者は胴国に膝を屈し、ある者は帝都を見捨てた。誰も国のために兵を束ねることはなく、やがて胴国軍は越都の城壁を破った。
炎が帝都を焼いた。塔は崩れ、書庫は灰となり、民は街路に倒れ伏した。
その混乱の只中、若き皇太子は剣を抜き、兵を率いて奮戦した。帝の名に値する最後の矜持を示すかのように。しかしその奮闘も虚しく、皇太子は戦場で斃れ、その血は大越の皇統の直系を絶つものとなった。
朱典(トレン)帝はその報せを聞き、恐怖に駆られて都を捨てた。
彼は護衛も失い、わずかな従者と共に山野をさまよったが、もはやどこも彼を匿わなかった。民は飢えており、兵は離散し、彼に差し出す糧はなかった。
伝えられるところによれば、トレン帝は荒野の片隅で餓えに倒れ、痩せ細った姿で息絶えたという。
かつて玉座にあったはずのその身は、骨すら埋葬されることなく風雨にさらされた――。
かくして、大越帝国は内から裂け、外に押し潰されるかたちで沈んだ。
民は語った。「帝は天に見放された」と。だが、同じ時代を生きたある者はこうも言った。
「見放されたのは帝ではない。我ら大越そのものなのだ」と。
朱典(トレン)の治世は、国を破滅へと追いやった。宦官と外戚は権を争い、諸将は勝手に兵を挙げ、かつて大陸を支配した越の都は、内乱の炎に焼かれ果てた。
皇太子は最後の忠臣を率いて戦場に立ったが、奮戦むなしく討たれ、その血筋はここで断たれた。帝・トレンは都を棄てて西方へと逃れたものの、道すがら糧も尽き、ついに荒野にて餓死したと伝えられる。
この混乱のただ中に、一人の王が立ち上がった。名はゲンリ。セルク帝の子エルク、その息子カンの末裔であり、宗室の傍流に連なる血を引いていた。
彼は代々「兆国王」として地方を治め、農を助け、飢饉に際しては倉を開き、乱世に苦しむ人々を救った。民は彼を「仁王」と呼び、厚く信を寄せていた。
やがて胴国が独立を宣し、兵を興すと、ゲンリもまた挙兵する。旗には「正統を立て直す」の文字が記され、農民から士族、各地の豪族まで広く呼応した。人々は疲弊した都を見捨て、彼の陣へと雪崩れ込んだという。
大軍を得たゲンリは胴国を討ち破り、廃墟と化した都を再び掌中に収める。灰燼の中に立ったその姿を見て、老臣たちは「ついに天命はこの人に移った」と口を揃えた。
やがて、宗室の血を根拠に彼は帝位に就き、号を「越帝」と定める。かつて名乗った「兆国王」の称号を退け、正統の後継として自らを九代帝と称したのである。ここに、滅亡したかに見えた越朝は再び命脈をつなぎ、「越の再建」が宣言された。
越帝ゲンリは、国庫を空費することなく民を養うため、経済にも大鉈を振るった。
リスクの多い海洋貿易事業は縮小された。嵐や海賊により、莫大な損失を出すことも少なくなかったからである。彼は「海の彼方に夢を追うより、民の糧を確かにすべし」と語ったと伝わる。
その代わりに、国内産業の振興を図った。絹織物や綿織物の生産を奨励し、さらに各地の窯を整備して陶磁器を大量に焼かせた。これらは「越の精華」として、外国の商人に高値で売りつけられた。
利益は海に消えることなく、確実に国庫へと蓄えられ、また農地の復興や民の救済に充てられた。
こうしてゲンリの治世は、華やかではなかったが堅実であり、荒廃した大陸に「小復興」と呼ばれる息吹をもたらしたのである。
幼き日の朱発は、書物に囲まれた書斎で過ごすことが多かった。父・九代越帝ゲンリの薫陶を受け、歴史書や兵法、天文書まで学び尽くしたその姿は、周囲の者から「異才」と称されるほどであった。
父と共に胴国討伐の遠征に参加し、戦場でもその知略を発揮した朱発は、若くして皇太子の座についた。戦乱の只中で培った経験は、のちの治世に生きることになる。
即位後、朱発は父が築いた「復興」の基盤を受け継ぎつつ、さらに王朝の繁栄を取り戻すため政治の舵を握った。外交では隣国との同盟や交易を巧みに操り、経済では農業、織物、陶磁器など内需と輸出のバランスを緻密に計算して整えた。文化面でも奨励を怠らず、学問や芸術は隆盛を迎えた。
即位した朱発が最初に取り掛かったのは、反越の残党討伐であった。父・ゲンリの崩御後、各地で燻っていた叛徒は「宗室なき大陸」を夢見て蜂起し、辺境を荒らしていた。
朱発は若き日に戦場を知り、戦いを恐れぬ男であった。
「王朝の正統を疑うならば、刃にて答えよう」
その言葉と共に遠征軍を率い、叛徒を各地で打ち破った。捕らえられた反乱分子は容赦なく処刑され、その首は都へと送られ、民衆に示された。苛烈なる処断により、大陸に再び「越の威光」が刻まれたのである。
だが、朱発はただ剣を振るう帝ではなかった。戦火を鎮めた後、彼は意外な策を講じる。地方の自治を認め、分国には朱一族以外の諸侯をも王として任じたのだ。
「血筋のみでは国は治まらぬ。才ある者を用いよ」
この布告は、従来の宗室絶対の原則を揺るがすものであった。だが同時に、地方豪族や士族に安堵を与え、内乱を再燃させぬ賢策となった。
剣による恐怖と、緩和による信頼――。その二面を兼ね備えた治世の始まりは、後に「越朝中興」と呼ばれる黄金時代の序章であった。
治世三十年を越える頃、越朝は再び威光をしていた。都には学者が集い、詩や楽曲が宮廷を彩り、各地の窯では精緻な陶磁器が焼かれ、海を越えて異国へと運ばれた。農村には飢えがなく、市場には布と穀物が溢れ、人々は「仁君」として朱発を讃えた。
晩年、朱発は遠征を行わなかった。失地を取り戻す戦はすでに終わり、彼の眼差しは大陸の均衡と文化の興隆に注がれたのである。
やがて在位六十八年、彼は静かに世を去った。
史家はその治世をこう記した――
「剣に始まり、才に終わる。朱発は越朝の中興の祖なり」
朱導(ドウカ)帝の治世は、沈黙と無為に覆われていた。外敵が迫るとも、彼は兵を挙げず、地方に任せるばかり。豪族たちは武を磨き、民を束ね、やがて帝の威光をも凌ぐようになった。帝都は衰え、地方は肥え太る――その均衡が崩れはじめると、国は軋みをあげた。
その後を継いだ朱白炎(ハクエン)帝は、帝国の命脈にとどめを刺した。夜ごと灯る宮廷の灯火は酒宴のためであり、国庫は日に日に枯渇していった。白炎帝は金銀を惜しみなく費やし、ついに増税を命じる。重税にあえぐ民は鍬を棍棒に変え、反乱の旗を翻した。国は混乱の淵に沈み、都の城壁ですら民の怒声で揺れたという。
その混乱を力で押さえ込もうとしたのが朱雷火(ライカ)帝であった。雷火帝は剣を手に遠征軍を率い、外敵を打ち払おうとした。だがその戦は敗北に次ぐ敗北。出陣のたびに財は失われ、失地は広がった。国庫を満たすために課された税はさらに倍増し、民の恨嗟は深まり、帝国の屋台骨はもはや音を立てて崩れていた。
続く朱乾理(カンリ)帝は、優柔不断にして病弱であった。政務に身を投じることもできず、日ごとに床に伏し、重臣らの進言にただ頷くだけ。国の舵取りはなされず、外敵と豪族の力はさらに膨張した。帝国の軍旗は色褪せ、かつて栄華を誇った大越は、見る影もなく衰退していった。
そして最後に、若き朱才利(サイリ)帝が玉座に昇った。彼は必死に国を立て直そうとした。だが、南方では新たな強国・後周が勃興し、その勢いは大河の奔流のごとく北上する。反乱に疲弊し、国力を削ぎ落とされた帝国に抗う力はもはや残されてはいなかった。
才利帝は最後まで諦めなかった。城門に立ち、剣を抜き、残る兵とともに敵軍を迎え撃ったと伝えられる。だが、その抵抗もついに潰え、宮殿の炎が夜空を赤く染めたとき、朱帝国は二百余年の歴史に幕を閉じた。
かつてシーア大陸は、大小の王国が割拠し、血と炎にまみれた乱世の地であった。
その混迷を正したのは、帝皇朱玖(シルク)に始まる朱の一族である。彼らは智と力をもって群雄を圧し、越都に都を置き、大陸に新たな秩序を築いた。だが、栄光は永遠ではなかった
しかし――。王朝は急速に衰え、やがて南方の新興国・後周により滅ぼされた。
だが、越は完全には死ななかった。
朱の血を引く皇族の一部は戦乱の渦を逃れ、各地の豪族や王家に嫁ぎ、密やかにその系譜を繋いでいった。彼らはやがて北方の新王朝の中枢に入り込み、あるいは地方の貴族として根を張り、越の名を公には語らずとも、血脈としてその存在を刻み続けた。
さらに越が築いた制度――暦書、租税、交易の仕組み、そして軍制――は、新たに興った諸王朝の礎となった。人々は越の名を畏れと共に記憶し、「大陸をひとつに束ねた最初の帝国」として語り継いだ。
時が流れ、越を直接知らぬ世代が大陸を歩むようになっても、貴族の血統を辿れば必ず朱の名に行き当たる。後世の王たちは己の権威を正すために、越の血を継いでいると称した。
滅んだはずの帝国は、姿を変えて生き続けているのだ。
そして大陸の人々は、宴の席や夜更けの語らいで囁く。
「朱の炎は決して消えぬ。血は水より濃く、越は今なお我らの中に息づいている」と。