正義はめぐる   作:萌花千

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プロローグ

今日は、わたしの人生で一番大きな一歩を踏み出した日。

とうとうオラリオにたどり着いた。

 

朝早くから歩き続けて、やっと遠くに白い石の壁が見えたとき、胸がどきどきして、思わず立ち止まってしまった。あの高さ、あの大きさ……村で見たどんな山よりも圧倒的で、まるで大地そのものが城壁になったみたい。

 

「ここが……夢にまで見た街なんだ」

 

小さな声でつぶやいたら、なんだか涙が出そうになった。

七日間、ひたすら歩いてきた疲れが吹き飛んでしまったくらい。

 

門の前はすごい人だった。荷馬車を引く商人さん、鉄の鎧を着た人たち、見たこともない異国の服を着た人まで。香辛料の匂いと、馬の匂いと、焼いたパンの香りがいっしょくたに混ざって、目も鼻も頭も忙しくて仕方なかった。

 

村では、一年に一度の収穫祭でもここまで賑やかにならない。

「すごい……」

何度口にしたかわからない。

 

門番さんに呼び止められて、少し緊張した。

「身分証はあるか?」って言われて、手が震えたけど、村長さんに書いてもらった紹介状を出したら、ちゃんと通してくれた。

最後に「ようこそ迷宮都市オラリオへ」って言ってくれて……胸がじんわり温かくなった。

 

門をくぐった瞬間、目の前の景色に息をのんだ。

 

大通りは石畳で、両脇には大きな店や露店がずらっと並んでいた。

鮮やかな布を広げて呼び込む商人、香ばしい肉を焼く屋台、楽しそうに笑う子ども。まるで世界中の色と音と匂いが、全部ここに集まっているみたいだった。

 

でも、それ以上に衝撃だったのは――あの塔。

 

街のど真ん中に、天を突き抜けるようにそびえ立っている白い塔。

村の本で何度も読んだ名前を、つい口に出してしまった。

「バベル……」

 

首が痛くなるくらい見上げても、てっぺんは霞んで見えない。

本当に空に届いているんじゃないかって思った。

あの塔の下に迷宮があるんだ……。冒険者たちが命を懸けて潜る場所。

 

怖くないわけじゃない。

でも、それ以上にわくわくしてしまう。

わたしはずっと夢見てきた。弱い人を助けて、理不尽を許さない冒険者になるって。

 

村を出るとき、母さんに言われた。

「怖い人がいっぱいいる街よ。無茶しないで」

でも、わたしは答えたんだ。

「だからこそ、正義を貫く冒険者が必要なんだよ」って。

 

あのときの気持ちは、まだ胸の奥でちゃんと燃えている。

今日、オラリオの街を目にして、もっと強くなった。

 

これからどうなるんだろう。

宿は見つかるかな。ギルドの場所はどこだろう。右も左もわからないけど……不思議と不安よりも期待のほうが大きい。

 

「よし……!」

 

革袋を握りしめて、わたしは一歩踏み出した。

わたしの物語が、ここから始まるんだ。

 

=====

門を通った瞬間、わたしは胸の鼓動が止まらないくらい高鳴った。

だって目に飛び込んでくるもの、聞こえてくる声、漂ってくる匂い……全部が新しくて、眩しくて、押し寄せてきたんだもの。

 

大通りは本当に人だらけだった。

村の収穫祭でも人混みはあったけど、あんなのは比べ物にならない。

ぶつからないようにするだけで精一杯で、最初は少し怖かった。

でも、すぐにそれ以上の好奇心に負けてしまった。

 

右を見れば、大きな布を広げている店。

鮮やかな赤や青や金色の布地に、わたしの目は吸い寄せられた。

左を見れば、焼き串の屋台。

こんがりと焼けた肉の脂がじゅうじゅう音を立て、香ばしい匂いが風にのって漂ってきた。

思わずお腹が鳴って、顔が赤くなった。

 

「嬢ちゃん、一串どうだ?」と店主が声をかけてきて、慌てて財布の中身を確認した。

少し高かったけど、旅のご褒美に一本だけ買った。

熱々の肉をかじると、肉汁が口いっぱいに広がって……!

村の猪肉も美味しかったけど、これはまったく別物だった。

香辛料がきいていて、食べた瞬間、体の奥まで力が湧いてくるようだった。

 

思わず笑顔がこぼれて、「美味しい!」って声に出してしまったら、店主が豪快に笑って「気に入ったらまた来な!」と言ってくれた。

嬉しかった。

 

それから少し歩くと、今度は果物を山のように積んだ露店があった。

村じゃ見たこともない黄色い実を勧められて、一口味見させてもらったら、甘酸っぱくてとても美味しかった。

口の中で弾けるような味わいに、思わず目を丸くした。

露店のお姉さんは笑って、「遠くの国から来た果物だよ」と教えてくれた。

オラリオには、本当に世界中のものが集まってくるんだ……そう実感した。

 

けれど、楽しいばかりじゃなかった。

とにかく人の数が多くて、押されて転びそうになったり、行き交う声がうるさくて耳がくらくらしたり。

誰もわたしなんか気にしていないのに、肩が何度もぶつかって、胸の中がざわざわした。

 

少し落ち着きたくて、大通りから外れてみた。

細い路地に足を踏み入れると、急に静かになって、ほっと息をついた。

さっきまでの喧騒が嘘みたい。

 

壁際に腰を下ろして、買った果物の残りをちょっとかじった。

甘さが口に広がって、ようやく体も心も落ち着いてきた。

 

「ふぅ……」

 

人通りの少ない道で、やっと深呼吸できた。

大通りの眩しさも、屋台の楽しさも、忘れられないくらい強烈だったけど、こうして少し離れた静かな場所で休憩すると、自分が本当にオラリオに来たんだって実感が胸に広がっていく。

 

まだ宿も見つけていないし、やることは山ほどある。

でも、きっと大丈夫。

だって――こんなにも胸が躍っているんだから。

 

=====

 

壁際に座って果物をかじりながら、人通りの少ない道でしばし休んでいたときのことだ。

 

通りの向こうから、杖をついた老婆がゆっくりと歩いてきた。

背中は大きく曲がっていて、足取りもおぼつかない。

思わず「大丈夫かな」と目で追っていたら、そのときだ。

 

前から歩いてきた冒険者らしき男が、老婆にぶつかった。

 

ごつい体つきで、鎖帷子を引っかけ、肩からは大きな斧を下げている。

ぶつかった衝撃で、老婆は「きゃっ」と小さな悲鳴を上げ、尻もちをついてしまった。

 

だが、男は一瞥もせず、そのまま歩き去ろうとした。

まるで石ころにでもぶつかったかのように。

 

――その瞬間、胸の奥がかっと熱くなった。

 

気がつけば立ち上がって、声を張り上げていた。

 

「ちょっと、待ってください!」

 

男が振り向く。

近くで見ると、ますます威圧感があった。

腕は丸太のように太く、口元には無精髭が生えていて、目つきは鋭い。

柄の悪さが全身からにじみ出ていて、思わず膝が震えた。

 

けれど、言わなきゃいけなかった。

 

「今、ぶつかって転ばせたでしょう? 謝ってください!」

 

老婆はまだ尻もちをついたまま、驚いた顔でこちらと男を見ている。

 

男は鼻で笑った。

 

「はあ? なんで俺が、そんなババアに頭下げなきゃならねぇんだ」

 

吐き捨てるような言葉。

胸がぎゅっと縮み上がった。

怖い。声をかけなければよかった、とほんの一瞬思った。

 

けれど、胸の奥の熱は消えなかった。

 

「……謝るべきことは、ちゃんと謝るのが当たり前です!」

 

声が震えていた。

足もがくがく震えていた。

けれど、必死に踏ん張って、男を見上げた。

 

わたしは正義を貫くためにここに来たんだ。

こんな場面で黙って見過ごすなんて、絶対にできない。

 

 

引かない私に、冒険者はいら立ちを隠さず、一歩こちらへ近づいてきた。

 

その目はまっすぐ私をとらえており、睨みつけることで脅そうとしているのが伝わってくる。

 

自分の太ももほどもある太い腕を見た瞬間、心臓が跳ねた。

怖い。

それでも、私は睨み返すことをやめなかった。

 

数秒のにらみ合いが続く。

空気が重く張り詰め、胸が痛いほど苦しかった。

 

 

 

 

冒険者が腰の剣に手をかけた瞬間、心臓が喉まで飛び出しそうになった。

声も出せず、ただ見据えるしかなかったそのとき──鋭い声が空気を裂いた。

 

「そこまでよ!」

 

 張り詰めた緊張を一瞬で断ち切るような力強さに、私も男も同時に振り向いた。

 そこに立っていたのは赤い髪を翻す女冒険者。その姿を見た途端、男は血相を変えて叫んだ。

 

「スカーレット・ハーネル!!」

 

 次の瞬間には背を向け、転げるように走り去っていた。あれほどまでに威圧していた男が、まるで獣に追われた兎のように。

 呆然と立ち尽くす私の耳に、足音が近づいてくるのが分かった。

 

「大丈夫?」

 

 声をかけられて、はっと顔を上げる。

 彼女は私の前に立ち、優しくも確信に満ちた瞳をこちらに向けていた。すらりとした体格は私とそう変わらないはずなのに、全身から放たれる気迫だけであの大男を追い払ったのだ。

 胸の奥に熱いものが広がっていく。これが、憧れという感情なのだと直感した。

 

「は、はい。大丈夫、です」

 

 

 あんな風に強くなりたい。

 誰かを守れるように。

 私を震えさせた恐怖さえ、吹き飛ばせるように。

 

 彼女の視線が下から上と動く。

 

 どこか変だろうか。

 だとしたらとても恥ずかしい。

 

「オラリオには最近来たのかしら」

 

「きょ、今日来たばかりで」

 

「そうなのね。じゃあ気を付けて。最近治安が少し悪化してきてるから」

 

 治安が悪化?

 全然そんな感じしなかったけど。

 街の雰囲気もとても明るくて、人も多かった。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「いいのよ! これも仕事のうちだから!」

 

 得意げにいう姿に私はどう反応していいかわらかず、愛想笑いする。

 

「私はアリーゼ。アストレア・ファミリアに所属している、正義の眷属よ!」

 

「わ、わたしはティスリアです」

 

 アリーゼさんは私の名前を一度口にして、笑みを深めた。「いい名前ね。ティスリア、それにしてもあなたすごいわよ。冒険者でもないのに、あんな柄の悪い男に一歩も引かなかった」

 

「……でも、怖かったです。膝がまだ震えてて……」

 

「怖いのは当たり前よ。問題は、それでも逃げなかったこと」

 

 その言葉は、胸の奥深くまで届いた。私が必死で守ろうとした小さな誇りを、きちんと見てくれる人がいる。それだけで涙が出そうになる。

 

 アリーゼは少しだけ真剣な表情になり、私の目を見据えた。「ねえ、ティスリア。ひとつ提案があるの」

 

「提案……ですか?」

 

「私が所属しているアストレア・ファミリアに来ない? 正直、人手が足りなくて困ってるの。でも、それだけじゃない。あの場面で引かなかったあなたの姿勢は、アストレア・ファミリアにぴったりだと思う」

 

 言葉の意味がすぐには理解できなかった。脳が追いつかず、呆けたように彼女を見つめる。ファミリア。恩恵。冒険者になるということ。さっきまで自分には縁遠いと思っていた言葉が、急に手を伸ばせば届く場所に差し出されている。

 

「……私が、冒険者に?」

 

「そう。あなたならきっとやれる」

 

 真っ直ぐに言い切る彼女の瞳からは、一片の疑いも見えなかった。現実感がなくて、頭がくらくらする。けれど、その胸の奥では熱がどんどん膨れ上がっていった。

 

「いや、えっと、その、あの、はい」

 

 あんな恐ろしい男を名前だけど追い払えるすごい人がどうして私なんかを。

 それにファミリアに入って具体的何をすればいいの?

 全然わかんない。

 

 わかんないことだらけだ。

 

 けれど、脳が自体を把握する前に返事をしていた。

 

 

~~~~~~~~

 私の目の前に座っていたのは、まさしく女神様だった。

 言葉にするのもためらわれるほど美しい方。

 

 アリーゼさんの所属するファミリアを導く神――アストレア様。

 

 アリーゼさんたちのホーム、その客間で、私は三人で向かい合っていた。

 

 オラリオに来た理由。これまでの経歴。

 戦闘経験ややってきた仕事、趣味まで。

 得意なことや不得意なこと。

 

 ひとつひとつ答えていくたびに、自分の人生を丁寧に見つめ返しているような気分になった。

 

 そして最後に問われたのが――

 

「あなたにとっての正義とはなに?」

 

 胸が一瞬、強く締め付けられた。

 

 村では、私はよく「正義感が強い」と言われてきた。

 けれど、あの頃の私はただ感情のままに行動していただけだ。

 言葉で「正義とは何か」を語ったことなんて、一度もなかった。

 

 私は思い出す。

 自分が守ろうとしてきたもの。

 

 弱き者を守ること。

 定められたルールを守ること。

 

 口に出せたのは、その二つ。

 

 ――でも、私は村で弱者を責めたこともあった。

 ルールを破った人をかばったこともあった。

 

 それは正義から外れているはずだ。

 では、あれはなんだったのだろう。

 

 私にとっての正義は、本当にこの二つでいいのだろうか。

 答えようとするほどに、言葉は遠ざかっていった。

 

「……わかりません」

 

 声に出した瞬間、胸がじくりと痛んだ。

 

 正義の眷属になるための面接なのに、肝心な正義について自分の言葉で語れないなんて。

 情けなさと悔しさが同時に押し寄せ、視線を落とすしかなかった。

 

 やがて面接は終わった。

 けれど、私だけは部屋に残され、アリーゼさんとアストレア様は静かに部屋を出ていった。

 

 ひとり残された客間に、出されたお茶の湯気がふわりと揺れて消えていく。

 その白さをぼんやりと見つめながら、私は胸の中で自分に問いを繰り返していた。

 

 ――私の正義は、なんだろう。

 

 どれくらいの時間が過ぎただろうか。

 戸口の方で気配がして、二人が戻ってきた。

 

 ソファーに腰掛ける前、アストレア様がやわらかく微笑んで、アリーゼさんが口を開いた。

 

「ようこそ、アストレア・ファミリアへ!」

 

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