ロキ・ファミリアからの調査依頼を受けてから一日が経った。
私が必死にダンジョンの知識を頭に叩き込んでいる間に、出発準備は着々と進んでいった。
廊下のあちこちから、誰かの声や物音が響く。
輝夜さんは魔剣やその他の装備を手際よくまとめ、研ぎ澄まされた刃を光にかざしては満足そうに頷く。
ライラさんは荷袋をいくつも肩にかけて出たり入ったりし、回復薬やマジックアイテムを買い揃えていた。
リオンさんは他のメンバーを束ねて食料の調達を指揮し、乾燥肉や干し果実、保存食を次々と確認していく。
アリーゼさんは全体を見渡し、リストを片手に「これがまだね」「こっちは済んだわ」と的確に指示を飛ばしていた。
誰もが自分の役目をこなし、迷いなく動いている。
その空気は活気にあふれていて、家中が遠足前夜みたいに賑やかだった。
笑い声も時折混じり、士気は自然と高まっていく。
玄関には荷物が次々と積まれていき、山ができあがっていた。
もう少しであの山が天井に届くんじゃないか、なんて思わず笑ってしまった。
胸が少しだけ高鳴る。これが“冒険へ向かう準備”なんだって実感があったから。
……その時。
廊下の奥から、重たい靴音が響いてきた。
その音が近づくにつれて、胸の高鳴りが一気に冷や水を浴びせられたみたいに萎んでいく。
「……アレス」
アリーゼさんが小さくつぶやき、顔を向ける。
姿を現したアレスの手には、やっぱり酒瓶。
アルコールの匂いが距離を置いていても鼻を刺す。
彼の存在が空気を一瞬で変える。
さっきまで弾んでいた空気が、まるで糸が切れたみたいに静まり返った。
みんなが次々と顔を出す。けれど誰も何も言わない。
視線を交わすこともせず、ただ眉をひそめて顔をしかめるだけ。
「アリーゼ、俺も行く。食料を追加しておけ」
酒をグビグビと喉に流し込みながら、それだけ短く言い放つと、アレスは踵を返して去っていった。
残された空気はどこか淀んでいて、さっきまでの高揚感が一気に色あせてしまった。
私は思わず小さく息を吐く。
……また、あいつがいるんだ。
「アリーゼ、それでどうするのですか?」
アレスの背中が暗闇に消えたあと、リオンさんがアリーゼさんに問いかけた。
「どうするって?」
リオンさんの抽象的な問いかけに私が首をかしげると、代わりに輝夜さんが答えてくれる。
「あの野蛮な男を連れていくかどうか、だ。準備はほぼ整っている。日の出を待つ必要はない」
……え、つまりアレスさんを置いていくってことですか?
私は内心で大きく頷いた。大賛成だ。でも、あとが怖そう。
脳裏に浮かんだのは――置き去りにされたアレスさんが鬼の形相で追いかけてくる光景。
ひぃ、絶対ヤバいやつだ。
「別に深く考えなくてもいいだろ。今までだって何度か置いていってるんだからよ」
ライラさんが肩の力を抜いたように言う。
それに対し、アリーゼさんは難しい顔をしたまま沈黙していた。
「まじですか……」
あの傲岸不遜でおっかない人を無視するとか、普通できないでしょ。みんな肝が据わりすぎ。
「まあ、その度に酷い目にはあったがな」
輝夜さんがふっと微笑み、他の人たちもそれにつられて笑みを浮かべる。
「え、アレスさんにあとで酷いことされたってことですか?」
「いいえ、違うわ」
輝夜さんたちが答える前に、アリーゼさんが静かに口を開いた。
ようやく言葉を紡いでくれたのだと、私は思わず彼女の顔を覗き込む。
その表情はとても柔らかく、どこか懐かしそうだった。
「実はね――」
アリーゼさんは、私がまだ知らないアストレア・ファミリアの過去を語り始めた。
まだ団員がいなかった頃。アリーゼさんとアレスさん、二人しかいなかった時代。
アリーゼさんは基本的に一人で行動していて、アレスさんが街の巡回やダンジョンに同行することはなかった。
けれど、ごくたまに、唐突に「一緒に行く」と言い出すことがあったのだという。
そのときは決まってトラブルに巻き込まれた。新種のモンスターが現れたり、地面が崩落して下層へ落とされたり……。
最初は偶然だと思っていたアリーゼさんも、二度三度と続けば疑念は確信に変わった。
アレスさんが同行すると、必ず“イレギュラー”が起こる。
けれど、やがて仲間が増え、状況は変わっていった。
アレスさんの態度は団員が増えるたびに悪くなり、仲間たちとの対立も深まった。
彼が「行く」と言っても、無視してダンジョンに向かうこともあったという。
その結果、当時の彼らでは対応できない強敵に遭遇し、生死の境をさまよった。
時には必死に逃げ、時には一丸となって戦い、なんとか勝利をもぎ取った。
死者はまだ出ていない。けれど、誰かが大怪我を負い、数日間も目を覚まさなかったことは一度や二度ではなかった――。
つまり、アレスさんの「同行する」という発言は、この探索がただの遠足では終わらない――そんな証明みたいなものなんだ。
「え? それだったら絶対に同行してもらった方がいいじゃないですか。躊躇う理由なんてなくないですか?」
思わず口を突いて出た。
だって、正直言って私はアレスさんが嫌いだ。
酒臭いし、横柄だし、キモいし、うざい。
でも……その強さは本物だ。いや、本物どころか一級品。
命が懸かっている以上、安全には代えられない。
「そうだな。しかし、奴を連れていくと闇派閥の活動が活発になる」
「あー……なるほどです」
「性格は腐っていても、実力は折り紙付きだからな」
輝夜さんの言葉にうなずく。
都市最強と呼ばれる男がダンジョンに潜る――それはつまり、オラリオに大きな隙が生まれるってことだ。
「それに、奴が同行すれば……いざ危機が訪れても、一人で片付けてしまう」
「それ、いいことじゃないですか?」
「いや、私たちの成長につながらない」
なるほど……。
そういう考え方もあるのか、と私は唸った。
その後もライラさんや輝夜さんが、アレスさんを同行させるメリットとデメリットを整理してくれた。
メリット
安全の確保
デメリット
オラリオに大きな隙ができる
成長の機会を奪われる
そして……アレスと一緒にいなきゃならない
こうやって書き出すと、デメリットの方が圧倒的に多く見える。
でも実際は違う。安全の確保という一点、その重みがとんでもなく大きいのだ。
実際、過去の探索で生死を彷徨ったことのあるマリューさん、セルティさん、イスカさんの三人はアレスさんの参加に賛成していた。
普段あんなにアレスの悪口を言っているくせに――いや、だからこそ説得力があるのかもしれない。
そして、たぶん私は三人と同じ考えだ。
アレスとの模擬戦で感じたけど、アリーゼさんたちの戦い方は、正直あまり優秀とは言えない。
隙や危うさが目につく。
昔、村の人たちと狩りをしていたことがあるけど……そのときと比べても、彼女たちの戦い方は質が悪いように思えてしまう。
もちろん、動物を狩るのとモンスターを相手にするのは全然違う。
それでも――どうしても不安になるのだ。
その後も、アレスを参加させるかどうかについては、延々と議論が続いた。
反対の声を強くあげていたのは、輝夜さん、ライラさん、リオンさんの三人だ。
三人の意見はほとんど同じで――「アレスに頼っていては成長できない」「彼に依存するのは良くない」というものだった。
話を聞いていてすぐにわかった。
この三人は他の誰よりも責任感が強い。だからこそ、厳しい言葉を選んでいるんだ。
今のアレスさんの状態を考えれば、いつファミリアを抜けてもおかしくない。
毎日酒をあおって、ぐうたらして、やる気なんて欠片も見せない。
逆に、どうしてまだ所属しているのかが不思議なくらいだ。
でも……もし本当に唐突にアレスが抜けたとしたら?
そのとき、肝心なところで彼に頼ってきた私たちは――間違いなく詰む。
とくに、闇派閥との闘い。
あれはアレスがいるからこそ抑えられている部分が大きい。
彼が抜けた瞬間、活動が活発になるのは火を見るより明らかだ。
そうなれば、今の戦力では輝夜さんたちでも抑えきれない。
きっと彼女たちは、その未来を誰よりも理解しているんだろう。
私は、ただ黙って聞きながら、胸の奥がざわついて仕方なかった。
安全と成長――どっちを選んでも犠牲はある。
「今回はティスリアもいるわ!」
堂々と響く声に、議論の空気が一瞬にして断ち切られた。
アリーゼさんだ。
その言葉に、私もハッと顔を上げた。
自分の名前が出たことに驚いて、心臓が跳ね上がる。
輝夜さんはしばし黙り、そして苦虫を噛み潰したような顔をする。
彼女の表情が、胸にズシリと刺さった。
――結局。
アリーゼさんの一言で、アレスを連れていく方向に話は進んでしまった。
私の存在が、その決定の理由のひとつになってしまった。
その重さに、思わず喉がカラカラになる。