議論から一夜が明けた。
初めての任務、そして初めて挑む深層――その緊張と高揚で、結局私は一睡もできなかった。
ベッドに潜り込んで目を閉じても、頭の中はダンジョンのことでいっぱいで。
階層の地形、モンスターの姿、罠のこと、そして……万が一の「死」のイメージまで浮かんでは消えていく。
気づけば、もう窓の外は白んでいた。
寝不足でぼんやりしているのは自分でもわかる。
まるで夢の中を漂っているように頭が霞んで、集中しようとしてもすぐに靄がかかる。
シャワーを浴びてリセットしようとしたけど、効き目は一瞬だけ。
冷たい水が頭を叩いた刹那、霧が晴れる。でも、タオルで髪を拭く頃にはもう戻ってしまう。
本当なら、こんな状態でダンジョンなんて絶対に行くべきじゃない。
だけど――アレスを連れていくことになったのは、結局、私の実力不足が原因だ。
「寝不足なので休みます」なんて、口が裂けても言えるわけがなかった。
玄関に行くと、すでにみんなが集まっていた。
誰もが顔色よく、活力に満ちていて、寝不足の影を見せるのは私だけみたいだった。
武器の調子を確認している人。
ステイタスの伸びを互いに比べ合って盛り上がる人。
食料やテントの確認を最後まで怠らない人。
その空気は、緊張よりもむしろ高揚感に包まれていて――冒険に出るんだ、というワクワクが空間を満たしていた。
そんな中で私は、ぎこちない笑顔を浮かべて輪に混じることしかできなかった。
「ティスリア、来たのね!」
アリーゼさんの声に、私は慌てて背筋を伸ばして笑顔を返した。
玄関に集まった団員の数は多く、いつもより広いはずの空間が、妙に狭く感じる。
そして、すぐに気づいた。
一人、足りない。
一番でかくて、一番目立って、そして一番厄介な――アストレア・ファミリア唯一の男。
「あの、団長は……?」
「アレスなら裏庭にいるわ。出発するから呼んできて頂戴」
……うえ。やっぱり私待ちだったのか。
しょうがない。覚悟を決めて裏庭へ足を向けた。
武器庫の扉が半開きで、その隙間から中を覗くと、アレスの背中が見えた。
「ア――団長。アリーゼさんが呼んでいます」
「汚いな」
返ってきた言葉はそれだけ。振り向きもせずに低い声で。
一瞬、何のことかわからなかった。
……もしかして掃除? いや、そんな話聞いてない。
だいたい、ここが定期的に掃除されてる雰囲気なんてなかった。
「帰ったら掃除するか」
「は、はい」
それきり、彼は黙ったまま。
こちらを振り向くことも、動く気配すらもない。
私はといえば、離れることもできない。呼んでこいって言われたし。
かといって、もう一度声をかける勇気も出ない。
無言が続くこの空気が息苦しくて、耐えきれなくなった私は、パッと目に映ったものを口にした。
「そういえば、奥の斧って誰のなんですか? あれだけすごく綺麗に手入れされていて……あれで戦ったら楽しそうだなって、アハハ……」
返事はなかった。
代わりに、アレスは無言でその斧を引き抜いた。
その扱いは驚くほど丁寧で――彼にとって、それがどれほど大事なものなのか、すぐに伝わってきた。
刃を覆っていた布を外し、慣れた手つきで綺麗に畳む。まるで儀式のように。
そして、そのまま武器庫の扉を閉じると、無言で玄関の方へ歩き出す。
私は慌ててその背中を追いかけた。
……酒の臭いはしなかった。
チームで何かを始める前にリーダーが意気込みを話す。
どうやらそれは冒険者でも同じらしい。
アリーゼさんが前に立ち、明るい声で意気込みを語る。
仲間たちはそれに応じて盛り上がり、笑顔や決意に満ちた声があちこちから上がる。
……なのに、私は眠気と必死に戦っていた。
頭がぼんやりして、言葉の一つひとつが水の中を通して聞こえるみたいに遠い。
気づけばアリーゼさんの言葉はほとんど記憶に残っていなかった。
でも、良いことを言ったのはわかる。
みんなの表情が一段と輝いていて、場の空気が一気に前向きに変わったからだ。
――懐かしい。
村で狩りに出発するときも、こんな雰囲気だった。
仲間たちの背中に勇気づけられて、気持ちが自然と高まっていくあの感覚。
胸がじんわり熱くなる。私もちゃんと、この空気の一部なんだ。
一番の下っ端である私の仕事は荷物持ち。
だから少しでも役に立ちたいと、積極的に手を伸ばして荷物を持とうとした――その瞬間。
「俺が持つ」
低く短い声が響いて、横から太い腕が伸びた。
気づけば目の前にあった大量の荷物は、一瞬でアレスの背に収まっていた。
「ありがとうございます」と言う間もなく、その大きな背中はすでに歩き出していた。
彼の背には、武器庫で見た斧とは別の巨大な戦斧が背負われている。
逞しい背中とその重さをものともしていない足取りを見て、思わず息を呑んだ。
――やっぱり、格が違う。
それでも、私は私にできることをやろう。そう思い直す。
こうして、私たちはダンジョンへ出発した。
***
新種モンスターの調査任務といっても、真っすぐ三十階層へ向かうわけではなかった。
途中、私の戦闘訓練も兼ねて進む。
十六階層までに出てくるモンスターは、基本的に私が相手をする。
……といっても私はまだレベル1。モンスター一体を倒すのがやっとだ。
周囲の敵は輝夜さんや他の団員が瞬く間に処理してくれる。
私は必死に食らいつき、戦うたびにライラさんから厳しい指摘を受ける。
そのたびに修正し、次に活かしていく。
剣を振るたびに、自分が少しずつ強くなっているのを感じた。
――楽しい。
体が軽い。
敵の動きが、いつもよりはっきり見える。
血が沸き立つような興奮に、思わず頬が緩んだ。
十七階層にたどり着くと、階層主のゴライアスが出迎えてきた。
圧倒的な存在感に心臓が跳ねる。だが、その巨体もリオンさんの前では数分も持たなかった。
「これじゃ後続が育たないだろ!」
輝夜さんが怒鳴り、リオンさんが言い返す。
また始まった、と仲間たちがため息をつく。
その口論をアリーゼさんが明るくなだめ、場を収めた。
そのまま十八階層では休憩を取らずに下へ進んでいく。
ここから先は、私にとって完全に未知の領域だ。
全身が緊張で強ばる。
モンスターは十七階層までとは比べ物にならないほど強い。
アリーゼさんたちは変わらず一撃で仕留めていく。
その背中に私は食らいつき続ける。
二十五階層へ降り立つと、地形が一変した。
巨大な滝が轟音を響かせ、水が迷宮のあちこちに流れている。
時折、魚の形をしたモンスターが川面から跳びかかってきた。
「身が引き締まって……すっごく美味しそうですね!」
思わず口から漏れた感想に、仲間たちが一斉に引いた視線を向けてくる。
え、そんなに変なこと言った?
いや、だって本当に美味しそうに見えたんだからしょうがないじゃん……!
その後もカニや亀のようなモンスターが襲ってきたが、大きな問題なく対処できた。
そんな中、分かれ道に差し掛かったとき。
「左に行け」
最後尾で荷物を一手に背負っていたアレスが、唐突に指示を出した。
アリーゼさんが振り返り、眉を寄せる。
「正規ルートは右よ? どうして左に?」
「左に用があるからだ」
言葉足らずすぎる説明。
普通なら誰も納得できないはずなのに――アリーゼさんはしばし考えた後、うなずいた。
「……わかったわ」
彼女がそう言えば、他のみんなも黙って従うしかない。
納得していない顔は明らかだったけれど。
それからも、分かれ道に来るたびアレス団長は進む方向を指示し続けた。
気づけば、見慣れた二十五階層の景色とはまったく違う場所に迷い込んでいた。
――水の階層なのに、水がない。
湿気もなく、空気は乾いている。
「ここは……どこでしょうか? 初めて見るエリアですね」
リオンさんが辺りを警戒しながら呟きにライラさんや輝夜さんも頷く。
私も不安を覚えながら、無言でアリーゼさんの背に従った。
やがて、通路の先は行き止まりになった。
天井は十メートルほどと高いのに、通路は三、四メートルほどしかない狭さ。
そして何より不気味なのは、正面にそびえる壁だった。
自然物にしては凹凸が少なすぎる。
まるで人の手で削り出したかのように、平らで滑らかな壁――。
背筋に冷たいものが走った。
ただのダンジョンの壁とは思えない。
「行き止まりじゃねぇか」
前方からライラさんの不満げな声が漏れる。
アレスは背負っていた荷物を私に預けると、無言のまま列の先頭へ歩み出た。
巨体が進むたびに壁に映る影が揺らめき、まるで不気味な獣のように形を変えて広がっていく。
その背を見送るだけで、胸の奥がじわりと冷たくなった。
列の仲間たちは自然と一歩下がり、誰も言葉を発さない。
背後に漂う緊張感が、空気そのものを重くねじ曲げていた。
壁の前に立つと、アレスはゆっくりと背中の戦斧に手をかける。
抜き放たれた刃は鋼の光を反射し、周囲の闇を切り裂くように冷たく輝いた。
その柄を握りしめるたび、隆起する腕の筋肉が唸りを上げ、まるで生き物が軋むような音が響く。
アレスが後ろへ下がり、重心を沈める。
次の瞬間、踏み込みと同時に斧が大きく振り上げられた。
地面ひび割れ、粉塵が舞い上がる。
斧が頂点に達した瞬間、周囲の空気が一気に凍りついた。
背後の壁までもが微かに揺れ、まるで落雷の直前に大気が息を潜めるかのように張り詰めていく。
そして――風を切る音。
金属と大地が衝突する前に、空気そのものが裂けた。
衝撃波が波紋のように広がり、振動は手足の先まで伝わる。
心臓が一瞬止まったかのように胸が強く圧迫され、呼吸を忘れる。
ほこりが激しく舞い上がり、視界が白く滲んだ。
落雷のような轟音が鼓膜を震わせ、胸をえぐる振動が全身を突き抜ける。
私は思わず耳を塞ぐのさえ忘れ、その一撃にただ見入っていた。
アレスの眼光は変わらない。冷たく、容赦なく、圧倒的な力そのものを体現していた。
その一撃は高火力の魔法にも匹敵する威力で、仲間たちも目を見開き、言葉を失っていた。
「洗礼だ」
轟音の余韻が残るなか、アレスは斧を地面に突き立てた。重々しい音が石床に染み込む。
「ここから無事正規ルートに戻れなければ今回の任務は中止。ホームに帰る」
「どういう――」誰かが声を上げたその瞬間、ダンジョンそのものが唸り声をあげた。
壁のあちらこちらに亀裂が走り、メキメキと嫌な音が響く。
気づけば、私たちは道を埋め尽くすほどのモンスターに囲まれていた。