朝、ふかふかのベッドで目を覚ました。
普段とは違う寝床――その柔らかさが、ここがもう自分の家ではなく、アストレア・ファミリアの団員としての生活の始まりなのだと、起きた瞬間に実感させた。
同時に、足に鋭い痛みが走る。
……筋肉痛。
体が強張るたび、昨日の巡回のことが鮮明に蘇る。
入団初日の夜。
ライラさんと一緒に街の巡回へ出た。
最初は雑談を交えながらの巡回で、思ったよりも楽しかった。
けれど同時に、オラリオという街の治安の悪さを肌で感じて、正直、少し怖かった。
壊れた建物があちこちに点在していて、人が住めるような場所じゃない区画もある。
あれはすべて、闇派閥との戦いの爪痕だとライラさんが教えてくれた。
半壊した街並みを抜けて、人通りの多い場所へ戻ってきたとき――事件は起きた。
冒険者たちのグループが口論をしていた。
ライラさんがすぐに間へ入り、仲裁しようとした。
けれど、男たちは止まらない。
言葉は荒くなり、互いに煽り立てるような調子で熱がどんどん上がっていく。
さすがにまずい。私も止めに入った。
――そこからが、最悪だった。
私が間に割って入ると、そのうちの一人が「女がしゃしゃり出てくるんじゃねぇ」と言って、唾を吐きかけてきた。
その瞬間、頭に血がのぼった。
「……女に仲裁されるような幼稚なこと、するなよ!」
気づけば、売り言葉に買い言葉で返してしまっていた。
私と冒険者の個人的な口論が始まる。
横では別の冒険者同士の口論が続いていて、ライラさんは両方を止めようとしていた。混乱の渦。
そして、男は私を罵り尽くしたあげくに吐き捨てた。
「黙れ、処女。クソブスが」
――ぷつん、と音がした気がした。
胸の奥で何かが切れて、気づけば腰のダガーナイフに手をかけていた。
けれど、その一瞬を待っていたかのように、男が剣を抜いた。
一人が抜けば、他も連鎖する。
周囲の冒険者たちも次々に武器を抜き放ち、鋭い殺気が一気に張り詰めた。
その動きは、まるで慣れきっているかのように無駄がなかった。
――やらかしたっ!。
息を呑んだ瞬間、ライラさんの低い声が響いた。
「……馬鹿野郎が」
彼女は何かを空へ打ち上げた。
直後、花火のような轟音が空に広がり、夜の街を震わせる。
五分も経たないうちに、長い金髪をなびかせたエルフが空から舞い降りてきた。
圧倒的な気配とともに冒険者たちを一掃していく姿は、あまりに現実離れしていた。
――リオンさんだ。
すべてが終わったあと。
私はライラさんに、はっきりと叱られた。
「だからナイフを抜くなって言ったじゃねぇか」
「……すみません」
深く頭を下げるしかなかった。
ナイフは護身用。
自分からは決して抜いてはいけない。
抜けば、相手も抜く。
それは、喧嘩の合図を自分から与えるようなものだ。
――私は、相手に戦う理由を与えてしまった。
昨夜の光景を思い出すたび、背筋がぞわりと冷える。
あのときリオンさんが来なければ、私はどうなっていたのだろう。
ライラさんまで巻き込んで、取り返しのつかないことになっていたのかもしれない。
「絶対に、相手が抜くまで武器には触れない」
この教訓を、私は胸の奥に深く刻み込んだ。
~~~~
ベッドから起き上がり、水でも飲もうと階段を降りると、男の声が聞こえた。
――私が嫌いな声だ。
「昨日、俺、お前に言ったよな? 教育しとけって。それでなんでああなるんだ? ああん?」
とてつもなく不機嫌な響き。
足が止まる。喉がきゅっと詰まった。
そっと食堂を覗くと、アレス・ヴァルガンとライラさん、そしてリオンさんが向かい合って座っていた。
テーブルの真ん中には紙か何かが置かれている。
「わ、悪い。言ったんだが……ティスリアの奴、動揺して武器を触っちまったんだよ」
「んなことはわかってんだよ!」
ドンッとテーブルを叩きつける音。
体がびくりと跳ねる。
――私のせいだ。
私のせいで、ライラさんが怒られてる。
いかなきゃ。守らなきゃ。
そう思うのに、足は床に張りついたみたいに動かなかった。
「それを含めて、教えて面倒を見るのがテメェの仕事だろうが!」
「アレス、ライラは悪くありません。これは――」
「黙れ、リュー! すまし顔で座ってやがるけどな、テメェもやりすぎなんだよ! レベル2やレベル3相手に骨折までさせやがって! 馬鹿が!」
「そ、それは……すみません。手加減が難しくて……」
リオンさんの声が、どんどん小さくなる。
「なんでお前らそんなゴミなんだ? なぁ、どうしてだ? ライラ、教育しておけって言ったよな? そもそも入団初日で巡回させるのも意味わからねぇしよ。脳みそドングリでできてんのか? なぁ? ……なぁ!?」
怒号の直後、椅子が倒れる音。
視線を戻すと、ライラさんが頬を抑え、床に崩れ落ちていた。
「なんとか言えよ、ゴミが!」
「わ、悪かった! あたしが悪かった!」
詰め寄るアレスに、ライラさんが必死に手を前に出して静止する。
けれど、そのままアレスは彼女の顔に蹴りを入れた。
リオンさんは――助けようとしない。
その場にいるのに、ただ見ているだけ。
私よりずっと強い人なのに。
どうして。助けてあげてよ……!
そう思った。
でも、その顔を見て理解してしまった。
リオンさんも怖いんだ。
あんなに強い人でも、アレスを前にすれば、ただの一人の人間なんだ。
「悪かったで済めば、こんなことにはなってねぇんだよ!」
ライラさんは鼻血を出し、お腹を押さえて蹲っている。
そこにさらに蹴りを叩き込むアレス。
リオンさんは青ざめた顔で、それを必死に見ないようにしていた。
――助けなきゃ!
だれか、だれか呼ばないと!
そのとき、不意にライラさんと目が合った。
胸が締めつけられる。
私はこの人を見捨てるのか。
昨日、あんなに親切にしてくれた人を。
「誰かを呼びに行く」なんて、ただの言い訳じゃないか。
この場から逃げたいだけじゃないか。
だれか、じゃない。
私が――私が助けるんだ。
昨日助けてもらったように、今度は私が!
「昨日もしかしたら――」
口から出かけた言葉を、自分で振り払うように叫んだ。
「や、やりすぎです!」
その瞬間、アレスの鋭い眼光が、私に突き刺さった。
「そ、そこまで、し、しなくても……いいじゃないですか!」
「あぁ? 雑魚がなに言ってんだ?」
膝が震えて、今にも崩れ落ちそうになる。
必死に耐えて立ち続ける。
「つ、強さとか……関係ないです!」
アレスが一歩、また一歩と私に近づいてくる。
その巨体が目の前まで迫った。
私よりも一回り以上大きな体。
首なんて、簡単にへし折られてしまいそうだ。
「なにニヤついてんだ、気持ちわりぃ」
声の温度が一段下がる。
その冷たい響きに、恐怖を覚えながらも――なぜか、殴られなかったことに一瞬の安堵を覚えてしまった。
「お前ら、影で俺の悪口言ってるだろ? なぁ、聞かせてくれよ。どうして俺より弱い奴が、俺より偉そうなことを言えるんだ? どうして入団したばっかのルーキーに、俺が反論されなきゃなんねぇんだ? テメェらは何をもって俺に反論してんの?」
ライラさんも、リオンさんも――黙ったままだ。
だめだ。
なにか言わなきゃ。
私が言わないと、また……殴られる。
だけど、何を? 何を言えば……。
アレスの肩がわずかに動いた。
次の一撃が来る。
「そ、それは……それは! アレスさんが、ま、間違っているからです!!」
「俺のどこが間違ってる? 言ってみろよ、クソカス」
言葉が喉に詰まりそうになる。
でも、止められなかった。
足がすくんで逃げられなくて、口だけが必死に動いていた。
この瞬間に吐き出した言葉を、私は心の底から後悔することになる。
言うのは怖かった。
黙っていればよかったかもしれない。
でも――誰かが言わなきゃ。
誰かが声を上げなきゃ……!
「あ、あなたが間違ってなければ……! あなたの前の仲間は、誰も死んでないはずだからですよ!」
刹那。
ドスッ――鈍い衝撃が、私の腹にめり込んだ。
「アッ……ガッ……!」
お腹……痛い……!
息が……できない……!
苦しい……!
気づけば私は床に倒れていた。
体が、動かない。
感覚が……ない。
苦しい。
あぁ……これ、死ぬのかな。
私……死ぬんだ。
視界の端で、ライラさんとリオンさんが焦った顔で何か叫んでいる。
でも、もう何も聞こえない。
世界が遠ざかっていく。
闇がじわじわと視界を覆っていく、その最後。
私は――視界の端に、アリーゼさんの姿を見た。