「悪い、アリーゼ……」
ベッドの上で静かに眠るティスリアを見下ろしながら、ライラは小さく呟いた。
あどけない寝顔だ。
だがその姿を見るたび、胸の奥が痛む。
アレスに殴られ、人形のように倒れ込んだ時、心臓が止まるかと思うほど焦った。
幸い医者の診断では大事には至らないと聞き、ライラはようやく安堵できた。
それでも――彼女が殴られる原因を作ったのは、自分だという自責の念は消えなかった。
本当は、初日に巡回に連れて行くことに疑念はあった。
けれど、そこで口をつぐんだ。
その結果がこれだ。
ライラは自分を責めずにはいられない。
「ライラ、そんなに思いつめなくても大丈夫よ! 私は副団長だけど、結局なにもできてないもの!」
アリーゼの明るい声に、ライラは救われる思いがした。
こんなことがあったばかりなのに、いつもと変わらず堂々と立つ姿――それは彼女にとって何よりの支えだった。
自然と、口元に小さな笑みがこぼれる。
(切り替えろ。私が沈んでどうする……今後のことを考えなきゃ)
「で、副団長様的には、今回の団長様の行動をどう思っているんだ?」
「問題だと思っているわ!」
「お、おお……」
「アレスはもちろん悪い。同じ団員に手を上げるなんて、あってはならないこと。だからアストレア様に正式に注意してもらうつもりよ」
「それで言うこと聞くと思うか?」
図星だった。
今まで何度もアストレア様に進言してきた。
だがアレスの態度が改まったことも、変わる兆しを見せたことも一度もない。
「それは……正直、わからないわ」
アリーゼが深刻そうに眉を寄せる。
それは当然だ。
「今回は……ティスリアの言葉も、よくなかったから」
「まぁ、それは、たしかにな」
その場面を思い出し、ライラも小さく同意する。
仲間をすべて失った人間に向かって「あなたのせいだ」などと口にすれば、怒りを買うのは火を見るより明らかだ。
――仲間を失った当時のアレスのレベルは6。
おそらくファミリアでも指折りの強さだったはずだ。
アレスは誰よりも強い。だからこそ、弱き者を守る責任が彼にはあった。
守り切れなかったのなら――その責任は彼にある。
ライラはほんの少しだけ、アレスの怒りに納得してしまう。
自分もかつて、似た轍を踏んだ。
だからこそ、アレスが同じ過ちを他の誰にも繰り返してほしくないと思う気持ちは理解できる。
――だとしても、やりすぎだ。
「なぁ、アリーゼ。あいつには一体なにがあったんだ? もう、いい加減教えてくれてもいいんじゃないか?」
今まで何度も問いかけてきた。
だが、いつもはぐらかされてきた。
流石に、もう知るべきだと思った。
「無理ね!」
アリーゼは即答した。
羽虫を追い払うように、ためらいもなくライラの願いを切り捨てる。
「私だって全部を知っているわけじゃないの。アストレア様に直接聞いたこともあったけど、教えてはくれなかった」
「……そうか」
ライラは重い息を吐いた。
自分の苛立ちも、疑問も、答えのない霧に覆われていくようだった。
「じゃあ……アストレア様に聞くしかねぇな」
=====
「アレス、今回はやりすぎよ」
談話室に透き通るような声が広がった。
ローテーブルを挟み、声の主――アストレアと向かい合う男が鋭い眼差しを向ける。
その手には空の酒瓶。
頬が赤く染まり、普段ならどれだけ飲んでも酔わないはずのアレスが、明らかに酒に呑まれていた。
彼が顔を赤らめているのを見るのは、アストレアにとって珍しいことだった。
心配の色を隠せないまま、彼女は目を細める。
「……んなことはわかってる」
口調は強い。
だがそこには、いつもの覇気も傲慢さも感じられなかった。
アストレアにはわかっていた。
アレス自身、誰に言われるまでもなく自覚しているのだ。
――手加減を誤ったこと。
――あの暴力に正当性などなかったこと。
――そして、ティスリアに突きつけられた言葉が図星だったこと。
あの瞬間、彼女の発言は正しかった。
反論の余地など、どこにもなかった。
「アリーゼたちから、また苦情を受けてしまったわ。これ以上同じことを繰り返せば、私も庇いきれない」
淡々と告げた言葉に、アレスは一瞬まぶたを伏せる。
――追い出される覚悟をしろ。
彼はそう受け取った。
仕方のないことだった。
ティスリアを殴ったのは、どこからどう見ても自分の過ち。弁解の余地など、なにひとつない。
「……わかってる」
そう答えながらも、アレスは懐から新しい酒瓶を取り出し、蓋をもがくようにして開け、口に運ぶ。
「あなた、本当にわかっているのかしら?」
反省の色をまるで見せない態度に、事情を知るアストレアですら眉をひそめた。
だがアレスはその視線を気にも留めず、ただ酒を喉へと流し込む。
一呼吸の間に瓶は空となり、また懐から新しい一本を取り出す。
その様子は、もはや酒を味わっているのではなかった。
ただ、己を呑み潰そうとするかのように――。
そんな姿を見つめながら、アストレアの唇からふと呟きがこぼれた。
「……そういえば、今日は、あの日なのね」
酒を飲む手がピタリと止まる。
「もう、一年が経ったのね」
アレスの仲間たちが命を落とした日。
ファミリアが、彼ひとりを残して全滅した――あの日。
「ティスリアも、タイミングが悪い時に悪いことを言ったわね」
思わず漏らした慰めに、アレスが低く首を振る。
「あいつは悪くねぇ」
かばうはずの言葉を、自ら否定した。
「あいつが言ったことは事実だ。俺がクソ野郎だから……あの人たちは死んだ。俺が殺したんだ」
酒に逃げても、脳裏に焼き付いた光景は薄れない。
血に染まる視界。
憧れの団長が無残に倒れ、戦友は首を刎ねられ、先輩の巨体は裂かれ、親友の腹には風穴が空いた。
赤黒い惨状が、今もまざまざと浮かび上がる。
「……ちくしょうっ!」
耳の奥に残る声が、何度も再生される。
団長が言った。――頼りにしている。
先輩が言った。――お前がいれば大丈夫だ。
親友が言った。――俺たちで黒龍を討とう。
それなのに、皆、死んだ。
「アレス……」
逃げるように酒を煽りながら、しかし決して逃げ切ることはできず、嗚咽と共に涙をこぼす男。
後悔と懺悔と悔恨を吐き出すその背を、アストレアは静かに抱きしめ、頭を撫でた。
「みんなに話したらどう?」
打ち明ければ、少しは楽になれる。
きっと受け入れてもらえる。
――少なくとも、アストレアはそう信じていた。
彼の痛みを知れば、皆の見る目も、きっと変わるはずだ。
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朝早く起きて、殴らて、気づいたら半日経っていた。
アリーゼさんやリューさんに心配され、ライラさんとアストレア様に謝らてた。
私がやりたくてやったことだから気にしないでほしい。
ただ、殴った本人が謝罪に来なかったのはちょとだけムカついた。
謝るタイプの人ではないと思っているけど、さすがにやりすぎだ。
一人で遅めの昼食と取り終わると、先輩たちがゾロゾロと食堂集まってきた。
そしてアレスをおいた全員が集まると――
「では第八十七回アストレア・ファミリア会議を始めるわ! はい、拍手!」
アリーゼさんが、いつもの調子で元気よく声を張り上げた。
私とリューさん、それから他の先輩方が手を叩く。
けれど、その中で二人だけが動かない。
一人はライラさん。そしてもう一人は、黒髪をきっちりまとめ、着物姿で座る女性だった。
「ほら! ライラも輝夜も拍手して!」
アリーゼさんに名指しされ、その人の名前がわかった。――輝夜さん。
「うわ、めんどくせ」
ライラさんが心底鬱陶しそうな声を漏らす。
どうやらこういう空気はいつものことらしい。
「さて、今回の議題は三つ! 一つ目は昨日の巡回について。昨日は色々あって報告会ができなかったからね」
「噂では聞いてますえ。昨日はたいそうやかましかったそうどすなぁ」
パチンと扇子を開き、口元を隠しながら輝夜さんが言う。
その視線はちらりとリューさんに向けられていた。
「なんですか? 何か私に言いたいことでもあるのですか」
リューさんが淡々と問い返す。
その声音には怒りはないけれど、氷のような冷たさを感じた。
「いえいえ、別に。……ただ、上品を繕っていたエルフの皮がはがれたなと。レベル2やレベル3の冒険者の喧嘩に割って入ったのに、大けがをさせたとか。喧嘩やなくて、金髪で貧相な体をしたエルフの方が一方的に痛い目を見た、そう聞いてますえ」
「ひ、貧相だと……!?」
「いや、つっこむところそこかよ」
ライラさんの呆れ声。
でも、私はそれどころじゃなかった。
なにこの人、感じ悪っ。
アレスとはまた違う、じわじわ人を苛立たせる性格の悪さ。
だってリューさんは、私を助けてくれたんだよ?
その人に、こんな言い方するなんて……。
気づけば頭に血がのぼっていた。
ああ、私ってこんなにカッとなりやすいんだ。初めて自覚した。
「別にって言う割には、すっごくおしゃべりですね」
できる限り笑顔を作って、言い返してやった。
「なっ……!」
温い空気が満ちていた部屋が、一気に張り詰める。
輝夜さんの目がカッと見開かれる。扇子の奥で口が大きく開いているのがわかった。
ほかの先輩たちも一瞬息を呑む。
「それに、その変なしゃべり方は何なんですか? ……田舎訛り?」
思わず口を突いて出た。
ライラさんが腹を抱え、声を殺して笑っている。
隣の輝夜さんは鬼のような顔で私を睨んでくる。――でも、アレスに比べたら全然怖くない。
「新入りのくせに口答えとはいい度胸だな」
「先輩なのに、仲間を煽るとか……器が知れてますね」
「ベッドがお望みなら、私が永遠に戻してやろうか」
「うわっ! そうやってすぐ暴力に頼るんですか! アレスがうつったんですか!? 診てもらった方がいいですよ!」
その瞬間、数人がこらえきれずに吹き出した。
「アレスがうつった」という一言が、どうやらツボに入ったらしい。
くの字に体を折って笑い転げる人たちまでいる。
「……輝夜、テメェの負けだよ。アレス相手に一歩も引かない奴に勝てるわけねぇ」
涙を拭いながら、ライラさんがニヤリと告げる。
「あんな化け物に引かないのは、確かに同じ化け物ぐらいだな」
その小さな悪口を、私はむしろ勝利の証として受け止めた。
そう、つまり私は勝ったのだ。
「さて、それじゃあ話の本題に入りましょうか。……アレスがうつる、フフフ」
アリーゼさんが堪えきれず笑いをこぼす。
「アリーゼ……」
リューさんが呆れたように肩を落とした。
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「それで、ライラとティスリアの報告は聞いているけど……ほかは? どうだった?」
アリーゼさんの言葉に、先輩方が順番を知っているかのように報告を始めていく。
巡回していた区画では、それぞれ闇派閥との戦闘で壊された建物がまだ手つかずで残っているらしい。復旧の目途は立っていない。
ただ、ここ数日で新たに戦闘や人の出入りの形跡もないとのこと。
つまり闇派閥は、住民に化けたり新しい諜報員を送り込んだりしてはいない――少なくとも、その痕跡は見つからなかった。
過去には、住民に化けた闇派閥に冒険者が不意を突かれ、命を落とした例があるらしい。だからこそ勇者をはじめとした指揮官は、今回も特に警戒しているのだとアリーゼさんは補足した。
「私の区域では、新たに行方不明になった子供がいることがわかりました。どれも孤児で、路地裏で暮らしていたようです。正確な人数までは不明です」
リオンさんの報告に、空気がわずかに重くなる。
「子供なんてさらって……あいつら、何がしたぇんだか」
ライラさんが肘をついたまま、吐き捨てるように言った。
けれど、その答えを知る人はいない。
目的がわからなければ、行動の意図も読めない。
意図が読めなければ、次の一手も予測できない。
つまり――八方塞がり、ということだ。
「人質……でしょうか?」
沈黙を破ったのはリオンさんだった。顎に手を添え、推測を口にする。
その言葉に、みんなが納得したようにうなずきかけた。
「いえ……違うと思います」
誰も指摘しないことを確認してから、私は思い切って声を出した。
「皆さんのお話では、子供の誘拐は一か月前から定期的に起こっているとのことですよね?」
「ええ、そうよ」
アリーゼさんがうなずく。
「だとしたら、その子供たちは今も人質として幽閉されているはず……。でも、本当にそうでしょうか?」
「違うのか?」
ライラさんが怪訝そうに眉をひそめる。
私はゆっくり首を横に振った。
「もし本当に人質にするつもりなら、食料や寝床を確保しなきゃいけないはずです。子供だって冒険者ほどじゃないにしても、食べなければ生きられません。けれど、相手は闇派閥です。そんな持続的に食料を確保できるとは思えません」
それに、と内心で続ける。
今までの事件で、誘拐された子供が人質として利用されたことは一度もない。
「だから……仮に闇派閥が子供を誘拐しているのだとしたら、それは人質目的じゃないはずです」
「ほな、あんさんは何のために闇派閥が子供をさらってる言わはるんどす?」
輝夜さんの視線が突き刺さる。問いかけに、私は言葉を詰まらせた。
冒険者と戦わせるため? ……いや、違う。
恩恵を受けたとしても、そんな短期間で強くなるはずがない。
それに、子供たちが自分の意思を持っている限り、反抗される危険だってある。
洗脳? ……それも違う気がする。
洗脳なんて、そんな簡単にできるものじゃない。
それにもし戦力にするなら、弱い冒険者を捕まえて洗脳した方がまだ効率がいい。……私みたいに。
「……わかりません。ただ一つ言えるのは、人質より厄介なことを企んでいる、ということだけです」
自分で口にしながら、背筋に冷たいものが走った。