翌日から、ついに本格的な訓練が始まった。
朝は日の出と同時に起床。
眠い目をこすりながら動きやすい恰好に着替えると、まず“柔軟”というものをやらされた。
体を伸ばしたり縮めたりして、怪我を予防するための運動らしい。
正直、これで本当に効果があるのかは分からないけど、確かに筋が伸びている感覚はある。……まぁ、言われるがままやるしかない。
柔軟が終わると、街中を走る。
先頭はもちろんアリーゼさん。
ただのランニングかと思ったら、これがとんでもなかった。
まず速い。めちゃくちゃ速い。
「軽く走るだけだから大丈夫」なんて先輩に言われて安心していた私が馬鹿だった。気を抜いたら一瞬で置いていかれる。
しかも、変なルールがいくつもあるのだ。
一つ、前を走る人の背中を必ず触らなければいけない。触れなかったらペナルティ。
一つ、背中を触ったらその人と位置を交代する。
一つ、終了時に最後尾だった者にもペナルティ。
一つ、開始時に先頭だった者は背中を触られてはいけない。ただし距離を空けすぎてもいけない。
……いや、なんでこんなめんどくさいルールをわざわざ?
と思ったら、案の定アレスの考案らしい。あの悪魔め。
当然、私はずっとペナルティ続きだった。もう嫌になる。
ランニングが終わると休む間もなく次の地獄。最下位の罰をやらなければいけない。
膝を前に出さずに腰を上下させる“スクワット”。
腕を地面に突いて体を持ち上げる“腕立て”。
それから“体幹”という、動かずに耐える拷問みたいな訓練。
足や腕の奥で「プチプチ」と嫌な音がしたときは、本気で壊れるかと思って冷や汗が出た。
これ私が一番大変だろう」と思ったけど、どうやら違ったらしい。
一番きついのは、アリーゼさんだった。
汗で服が肌に張り付き、終了直後にはその場に倒れ込んで動けなくなっている。ときどき吐いているし。
私も初日は吐いたけど、二日目以降はギリギリ耐えている。
吐きながら次の準備をしている。
狂気だ。
先頭を務めるのは相当神経を使うらしい。
背中を触られないように、でも後ろが見失わないように、絶妙な距離感を保たなきゃいけない。
一度だけ輝夜さんが先頭を試したことがあるけど、その後「二度とごめんだ」と吐き捨てていた。
当たり前だ。
休憩はたった五分。すぐ次に移る。
基礎訓練だ。
各自、自分の武器を手に取り、決められた型をひたすら体に叩き込む。
数十分も続けるうちに、全員腕が重くなって上がらなくなっていく。
それでも、アリーゼさんは吐きながら剣を振っていた。ほんと、どうかしてる。
魔導士の先輩たちはどうしているのかと気になって見てみたら、杖を振っていた。
魔法の詠唱はしないのかと尋ねたら、ものすごい剣幕で怒鳴られた。
「走って息があがった状態で詠唱などできるか!!」
確かに。
途中、一人の先輩が明らかに手を抜いていた。
するとどこからともなくアレスが現れ、雷のような怒号を浴びせ、そのまま思いきり殴り飛ばした。
裏庭に響いたアレスの怒声に、私も含め全員がビクリと背を跳ねさせた。
剣を振る速度が一段階上がり、必死さが増す。
もちろん、私も例外じゃない。
――アレス、怖すぎる。
次は、対人訓練だった。
二人一組に適当に分かれていく。
全員、頭には木の棒が突き出した兜をかぶり、手にはそれぞれの得物に似せた木剣や木製のナイフを持つ。
開始の合図と同時に、相手の兜についている棒を折り合う戦いが始まった。
もちろん、これにもペナルティがある。
負ければ“腿上げ”――その場で足を高く上げ続けて走る罰だ。
……これが、本当にきつい。
だからこそ、誰もが必死に勝ちを狙う。
目つきが血走っていて、誰ひとり手を抜かない。
むしろ、長引けば二人とも倍のペナルティになるから、なおさら容赦はなかった。
早く決着をつければ、その分だけ休憩できる。だから最初から全力でぶつかり合う。
勝利の雄叫びと、負けた者の悲壮な叫びが、あちこちで響いていた。
こうして午前の訓練は終わった。
午後は、座学か、あるいはダンジョンへ。
私は基本的に座学組だ。
ダンジョンの知識、オラリオの現状、そして闇派閥に関する情報――。
知れば知るほど、この街の底の深さに怖さを覚える。
リオンさんや輝夜さんは、ほとんど毎日のようにダンジョンへ出ている。
アリーゼさんはというと、あまりダンジョンには行かない。
最初は私の勉強につきあってくれているのかと思った。
でも、どうやら違うらしい。
勉強がない日でも、彼女は裏庭でひたすら剣を振っていた。
その姿は、まるで何かを思い描きながら、見えない敵と戦っているようで。
最後に剣を収めるとき、必ずと言っていいほど悔しそうな顔をして汗をぬぐうのだ。
一体、何を相手に戦っているんだろう……。
入団して、どのくらい経っただろうか。
体力づくりや基礎訓練にも少しずつ慣れ、ようやく余裕が出てきたころ。
その日は、突然やってきた。
昼食時。
珍しく、アレスが食堂に現れたのだ。
途端に、みんなの手が止まる。視線が一斉に彼へと注がれた。
いつも通り、不機嫌そうな顔。
けれど珍しく酒瓶を持っていない。……もっとも、酒の匂いはぷんぷん漂ってきているけど。
アレスは何も言わず、しばらくじっと私たちを眺めて――。
「休憩終わったら裏庭に集合しろ」
その一言だけ残して、去っていった。
「な、なんでしょうね?」
私は隣にいたリオンさんに声をかけた。
けれど、彼の顔は血の気が引いて真っ青になっている。
「え? リオンさん……?」
周囲を見渡せば、みんな同じような顔をしていた。
まるで、いたずらが親にばれた子どものように固まっている。
「あの……みなさん、どうしたんですか?」
恐る恐る問いかけると、一人の団員が小さく答えた。
「……アレスの指導が始まる。地獄だ」
地獄。
その言葉だけで、背筋に冷たいものが走った。
「え? それって……アレスさんが直接、ってことですか?」
今までの訓練メニューは、ほとんどアレスが考案したものだ。
それも十分“指導”のようなものだったはず。
なのに改めて「直々に」と言うのなら――一体、どれほどのことをさせられるのか。
食堂に重苦しい空気が満ちた、そのとき。
「ええ、そうよ! アレスが見てくれるなんて、どれくらいぶりかしら! 楽しみだわ!」
澄んだ声でそう言ったのは、アリーゼさんだった。
ルンルンとした足取りで食器を片付けていく。
「変態だ」
「変態だな」
「変態ですね」
「正真正銘の変態ですわ」
みんな一斉にドン引きしていた。
……いや、正直、私もそう思った。
あのアレスだ。
乱暴で、口が悪く、短気で、不遜。
今までの訓練だって頭おかしい内容ばかりだったのに。
直々の指導なんて――考えただけで胃が痛くなる。
せっかく美味しかったはずのご飯も、もう味がしなかった。
味のしない料理を、普段よりずっとゆっくり口に運んだ。
食べ終えた私は、重い足取りで裏庭へ向かう。
もちろん、私だけじゃない。
みんな同じように沈んだ顔で歩いていた。
中には「仮病を使おうかな……」と真剣に呟く先輩までいた。
私は曖昧に笑ってごまかすしかなかった。
「おせぇ! なにチンタラ歩いてんだ! 走れ!」
裏庭に足を踏み入れた瞬間、アレスの怒号が飛んできた。
その声だけで背筋が震える。
みんな即座に反応し、駆け足に切り替えた。私も慌てて続く。
やがて二列に並び、整列。
空気が一気に張り詰めた。
「じゃあまず武器持て。総力戦だ。指揮官を一人決めろ。ルールはいつも通り。五分以内に準備を完了させろ」
総力戦……?
聞き慣れない単語に首を傾げていると、近くの先輩が小声で説明してくれた。
どうやら――私たち全員で、アレスと戦うらしい。
しかも真剣で。
指揮官を一人選び、その人は木の棒が刺さった兜をかぶる。
指揮官の棒を切られたら負け。
逆に、アレスの兜に刺さった棒を折ることができれば勝ち。
……胃が、ぎゅっと痛んだ。
いやいやいや、私レベル1なんですけど!?
開始直後に腹パンされて転がる未来しか見えないんですけど!?
「レベル7に勝てるわけないじゃないですか……」
思わず弱音が口から漏れてしまった。
「いえ、そんなことはありませんよ」
隣にいたリオンさんが指差す。
その先には――重厚なフルプレートに身を固めたアレスの姿があった。
まるで中世の騎士のような全身鎧。
兜も私たちが普段使っている簡易なものではなく、分厚いヘルム。
昔、どこかの貴族の護衛が似たものをつけていた記憶がある。
「あれは相当重いはずです。それに、ヘルムは視界がかなり悪い。勝機は十分あります」
リオンさんは自信満々に言い切った。
……え? じゃあ、なんで今まで勝ててないんですか!?
心の中で全力でツッコミを入れたけど、さすがに声には出せなかった。
リオンさんやアリーゼさんですら勝てない相手。
その事実だけで、アレスがどれほど高みにいるのかを思い知らされる。
「ティスリア、お前は見学な」
不意に、横からぶっきらぼうな声が飛んできた。
ライラさんだった。
「え?」
「アレスの野郎がな。『初回は見学してろ』ってよ」
思いがけない言葉に、私は固まった。
アレスのことだ。
てっきり「お前から叩きのめす」とか言い出すと思っていた。
だって、このあいだ、あんなことあったし……。
「わ、わかりました! みなさんのことは、決して忘れません!」
「まだ死んでねぇよ!」
……でも、死ぬかもしれないじゃないですか。