ようこそ希望と幸運に満ちた素晴らしき教室へ   作:予測精度30%のカムクラ

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5. 部活動と水泳と才能と

「Cクラスの椎名ひよりと申します。本日はお会いできるのをとても楽しみにしていました。よろしくお願いいたします」

 

 放課後、ボクは綾小路クンとともに体育館を訪れた。

 館内はすでに多くの生徒たちの熱気に包まれていた。パンフレットを手にそわそわする新入生。ユニフォーム姿で指示を飛ばすのは野球部員だろうか。時折り、運営スタッフらしき生徒が群衆の整理に駆り出されている。

 そして──藤の花房(はなぶさ)が風に揺れるように、こちらに向けて手を振る一人の女子。

 

 やはり椎名さんの希望(オーラ)は実に分かりやすい。

 何故だか足取りの重そうな綾小路クンを連れ、人の波をかき分ける。

 椎名さんを一目見て、すぐに振り向いた彼の表情は……どういう感情なんだろう。

 

「なぁ、狛枝」

「どうしたの? あまり嬉しくなさそうだけど」

「そんなことはない。本当に嬉しいと思ってる。ただな……」

 

 こっそりと、耳打ちの体勢に入る。

 

「女子とは聞いていない……!」

「そりゃそうだよ。だって女子なんてひと言も言ってないもん。もしかしてほしいのは男友達だった?」

「そういう訳じゃないが、心の準備の問題だ……」

 

 うじうじする綾小路クンの背中を押し出してやる。

 椎名さんの期待するような視線も、彼にとってはメデューサの瞳なのだろう。何度も首のあたりに手を擦り付け、ようやく口を開いたと思ったら。

 

「Dクラスの、綾小路清隆だ。よろしく」

 

 と、それだけで終わってしまった。今朝の堀北さんの挨拶と良い勝負だよ。彼は気づいているのだろうか。

 そんな錆びついた機械の彼を前にした椎名さんは、それでも満足げに頷いて。

 

「はい、よろしくお願いしますね。きっとあなたとも仲良くなれそうな気がします。狛枝くんが紹介してくれたお友達なんですから」

 

 なんて嬉しいことも言ってくれる。

 

 その後、ボクたちはしばらくの間、文学談義に花を咲かせていた。

 ちなみにこの学校に文芸部はないらしい。

 部活動説明会の前に関係ない話で盛り上がるのは少し悪い気もするけれど、そもそも読書愛好がきっかけで集まったメンバーなんだ。内容が趣味に偏るのは普通のことだよね。

 

 言葉を交わしていくうちに、綾小路クンも流石に慣れたのか──あるいは覚悟を決めたのか。椎名さんの目を見て話せるくらいには落ち着きを取り戻していた。

 

「そういえば狛枝はどうやって椎名と知り合ったんだ? 入学するまで面識はなかったんだろ?」

「ボクたちはちょうど同じバスに乗っててね。眩暈がして倒れそうになったところを、椎名さんに支えてもらったんだ。あの時は本当に助かったよ」

「なるほど、椎名が。ちょっと意外だな……あ、いや、悪気があるわけじゃないんだが」

 

 訂正しようとした綾小路クンに、椎名さんが「構いません」と首を振った。

 

「確かに今思えば、あれは私らしくない行動でしたね。普段は本を読むと周りのことが見えなくなってしまいますし。それに……」

「それに?」

「……親族でない男性の手を握るのは、あれが初めてでしたので」

 

 椎名さんの頬にうっすらと血色が広がる。

 綾小路クンからのねちっこい視線。何やら誤解しているみたいだ。

 

「残念ながら、キミが想像するほどロマンチックな感じじゃないよ。ボクが椎名さんを追い詰めて、無理やり手を取ってもらったようなものだから。反吐が出るほど汚らわしいボクの手をね。むしろ椎名さんは被害者なんだよ」

「…………」

「…………」

 

 二人が顔を見合わせる。無言の対話。

 どんなやり取りをしているのかは分からないけれど、ボクにとって不名誉な内容なのは何となく理解した。藪をつつくのは止めておこう。ボクだって蛇は怖い。

 

「椎名に対してもこんな感じなのか? 狛枝は」

「その言葉でおおよそ察します。昨日も言及してみたのですが、効果はなかったようですね」

 

 偶然にも彼らの距離が縮まった瞬間だった。

 

 そうこうしているうちに、ザザっという砂嵐の音に続いてアナウンスが響き渡った。

 司会による開会の挨拶。次いで、舞台上に部の代表者が並び始めた。

 派手な印象のサッカーウェアに、くすんだ白の柔道着。弓を携えた袴姿の男子から、優美に着物を纏う女子まで。

 目にも鮮やかな賑わいに、周囲の参加者たちもざわざわと色めき立つ。

 

 そして始まった、希望による希望のためのプレゼンテーション。

 

「たくさんの部活動があるのですね」

「そうだな。それに数だけじゃない。どれも全国クラスにレベルが高いみたいだ。設備なんかも並の学校より遥かに充実してるらしいし、力を入れているってのは本当なんだな」

「綾小路くんはどの部活に入るか決めましたか?」

「オレは……実はまだ考えてないんだ。ここに来たのも椎名に会うためだったし、その目的ももはや達成済みだからな」

「それなら私も同じですね。狛枝くんに誘われていなかったら今頃は図書館にいたかもしれません」

「……オレたちは狛枝のエサにつられた魚同士ってわけだ」

 

 発表は続いていく。運動部の活発さから一転、文化部による静の世界が幕を開けた。

 

「そういう椎名はどうだ? 何か気になる部活でも見つけたか」

「私は茶道部に入部してみようかと。運動は全般的に苦手ですし、本当は文芸部があれば良かったのですが……」

「確かにな。文芸部だったらオレでも入れそうだ。誰かと競い合うなんて柄じゃないしな」

「同意します。ところで、部活動の設立は一年生でも可能なのでしょうか?」

「どうだろうな……仮にできるとしても、メンバー集めとか顧問の確保とか、結構大変そうじゃないか?」

「…………」

「……オレは絶対に作らないぞ? 頼むなら狛枝にしてくれ」

「そうですね、彼なら何とかしてくれそうです。そう言えば狛枝くんにも聞くのを忘れていました。狛枝くんはどの部活への入部を考えていますか?」

「……どうした? 狛枝──」

 

 友人たちの会話が。壇上の演説が。見物人の雑多なノイズが。

 遠い波のように意識の外へと追いやられていく。

 

 世界が、ボクとモノクマの二人だけになる。

 

 ……あれ、ボクは何しにここへ来たんだっけ。

 

 ああ、そうだ。綾小路クンを椎名さんに紹介するためだったね。

 視界の端に映る彼らの影。もうすっかり雑談を交わせる仲になっている。まるで日向クンと七海さんの交流を眺めているみたいだ。

 すでに目的は果たした。だったら、もうここにいる意味はない。そろそろ帰ってもいいかな。

 

 そうだ。ボクは帰らなきゃいけない。

 彼らが待つ──あの島へ。

 

『狛枝クン。現実逃避はいけないよ』

 

 モノクマの赤い瞳がボクを射貫く。頭痛の波が押し寄せる。

 

『いい加減目を覚ましなよ。いつまで続ける気なの、この茶番劇?』

 

 茶番劇とは心外だ。ボクはただ、希望を見届けるために今を必死に生きているだけなんだ。

 あらゆる絶望を吹き飛ばす、本物の希望を。

 

『あーはいはい。耳にタコができるくらい聞きましたよーっと……で、結局見つかったの?』

 

 そりゃもちろんだよ。椎名さんに櫛田さん。それにまだ一度も会話したことないけど、高円寺クンだってとんでもない才能を持っているに違いない。

 他にも、みんな何かしらの希望を秘めているはずだよ。きっとボクが知らないだけで。

 オーラが感じ取れないのは、彼らがまだ蕾の状態だからだ。

 これから三年間。正しく導いてあげれば、希望という大輪の花を咲かせてくれると信じている。

 

 だって──彼らはこの学校への入学を許された、選ばれし人間なんだから。

 

『ふーん。じゃあさ、あそこにいる奴らは何なの?』

 

 モノクマが爪を向けたのは、部の紹介を終えて舞台から降りた生徒たちだった。簡易テーブルにチラシや名簿を並べ、入部希望者を受け入れる準備を着々と進めている。

 

『狛枝クンも気づいてたでしょ。アイツらには()()()()()()()()()()()()んだって。キミがいう三年間のうち二年も使って、出来上がったのがアレだよ? アイツらに希望が眠ってるって本気で思ってんの? バカなの?』

 

 何も答えない。コイツがべらべら喋ったことは、全て図星だったから。

 

『あんな()()()()()()()()濫造(らんぞう)しておいて、第二の希望ヶ峰学園? チョーウケるんですけど。希望の掃きだめの間違いだろ。マジでキショいわ~』

 

 いつの間にか、背後に彼女が迫っていた。

 後ろから抱き着くように。彼女の左手が、ボクの心臓のあたりを撫でまわす。

 

『ねぇダーリン。早く一緒に堕ちようよ~。いっぱい気持ちよくしてあげるからさ~。また前世(まえ)みたいに、楽しこと、しよ?』

 

 耳朶を甘噛みされる。背骨の髄が甘い蜜になって溶け出していくような、絶望的なまでの快感。

 

 彼女の中指が、薬指が。ボクの口をこじ開け、無遠慮に這い寄ってくる。

 くちゅくちゅと、唾液を絡ませながらボクの口内を、思考を搔き乱す。

 

 嗚呼、このまま堕ちてしまってもいいのかもしれない。

 

 そんな考えが脳裏をよぎり────

 

 

 

「────狛枝くん」

 

 意識が、覚醒する。

 

 薄紫色の双眸。とろんとした柔和な目つきでこちらを覗き込んでいるのは、裏切り者の筆頭である七海さん──じゃなかった。

 

「……どうしたんだい、椎名さん」

 

 声が上擦らないよう、意識的に声帯を制御する。

 

「いえ、いくら話し掛けてもぼんやりしていて反応が無かったものですから、少し心配になりまして。低血糖の症状は見られないので昨日のようなことにはならないとは思いますが……ちなみに本日は何を食べましたか?」

「心外だなぁ。いくら愚鈍なボクだってちゃんと学習はするよ。朝も昼もちゃんと食べたから安心してほしいな」

「何を食べましたか?」

 

 なんだろう。まるで出来の悪い子供を諭しているかのようだ。

 

「……朝は乾パンに、昼は食堂の山菜定食だよ」

 

 白状すると、溜息とともに無言の圧力がさらに力を増した。

 

「どちらも無料で手に入る食品ですよね。10万ポイントという大金にかまけず、食費を節約するのはとても素晴らしい心構えです。ですが、どう考えても栄養が足りませんよね。健康リスクは短期的よりも長期的な視点が重視されます。当然、狛枝さんもお分かりだと思いますが」

「……反論の機会は設けてもらえるのかな?」

「放課後の時間を有意義に過ごしたいと思っているのなら、あまりおすすめしません」

 

 なるほど、そうきたか。

 ボクとしてはいくらでも椎名さんと話していたいけれど、彼女の読書の時間を削ってしまうのは非常に不本意だ。

 

「分かった、ボクの負けだ。明日から食事内容を検討してみるよ」

「本日のご夕食からお願いします。それと、改善ができているか定期的にチェックしますのできちんとレシートを取っておいてくださいね。お食事の写真でも構いませんよ」

「……仰せのままに」

 

 降参の印に、小さく肩をすくめてみせる。彼女は「それがよろしいかと」と微笑み、視線を舞台に移した。

 

 ボクも同じように壇上を見遣った。

 トロンボーンを構えた女子の先輩が、演奏を交えつつ自身の所属する吹奏楽部について熱弁している。

 楽器の腕は悪くない。淀みない旋律は、むしろ彼女が優秀なプレイヤーであることを訴えている。

 

「素敵な音色ですね」

「……そうだね」

 

 しかし、やはり彼女のオーラは微々たるものだ。確かに優秀ではあるが、超高校級かと問われれば、ボクは否と即答する。

 他の生徒だってそうだ。

 輝きにバラつきはあれど、それも誤差でしかない。

 希望の象徴と称されるにはほど遠い。

 もし彼らが何かの間違いで希望ヶ峰学園に在籍していたら。三年生にもなってこんな為体(ていたらく)だったとしたら。ボクは発狂して包丁を振り回す自信がある。

 

 事実、さっきまでのボクは絶望に呑まれかけていた。

 

 ──けれど。

 あれだけ燃え上っていた黒い炎は、何事もなかったかのように鎮火した。

 椎名さんによってもたらされた恵の雨。モノクマも、アイツも、炎とともにどこかへ消え去っていった。

 

 ……消え去ったといえば。

 

「そういえば綾小路クンの姿が見えないね。彼はどうしたのかな」

「綾小路くんでしたらあちらにいますよ。Dクラスのご学友と話があるとのことでした」

 

 椎名さんが指す方向に目を向けると、綾小路クンの他にもう一人の影が見えた。

 ──堀北さんだ。

 孤高を愛する彼女も部活動に興味があったのだろうか。他に知り合いらしき生徒も見当たらないし、やはり一人で来ていたようだ。

 

 しかし、どうも様子がおかしい。

 声を掛ける綾小路クンに対し、何も届いていないのか彼女はじっと前を見つめているだけだ。

 無視ではなく、無反応。

 彼女の蒼白な面持ちが、ただ事ではないことを予感させた。

 

 何かに絶望している、わけではない。

 どちらかと言えば──。

 

「切望……?」

「そろそろ最後の一人ですね、狛枝くん」

 

 椎名さんに呼びかけられ、意識が舞台上に戻る。

 

 ──余計な肉をすべて削ぎ落とした、研ぎ澄まされた刃物。

 

 壇上に立っていた男子生徒を見て、ボクはまさにそんな感想を抱いた。

 

 洗練された立ち姿から、彼が一体どれだけの努力を積み重ねてきたのか一目で分かる。

 細身でありながら確かに武の備わった体躯。冷静に状況を分析するその瞳は、揺るぎない信念と知性を宿している。

 

 ただの沈黙。それだけで、お祭り気分で(はや)し立てていた新入生たちの視線を、心を縫い留めていった。

 ひと言も発さずに、体育館にあるもの全てを手中に収めた。

 

「私は、生徒会会長を務めている、堀北(まなぶ)と言います」

 

 ……偶然か否か。

 ちらりと、遠くの堀北さんに目を遣る。

 先ほどと変わらず、氷のように固まったまま──しかし目線だけは、確かに会長のことを捉えていた。

 

「上級生の卒業に伴い、生徒会は現在席が空いている状態となっています。通例として一年生から立候補者を募っており、今年度も同様に募集を考えています。基本的に誰でも立候補することが可能ですが、部活動との兼任は認めていません。立候補を希望する者は注意してください」

 

 張り詰めた空気の中、誰かの生唾をのむ音が聞こえた。

 

 演説に、鋭さが増していく。

 

「それから──我々生徒会は、甘い考えによる立候補を望まない。私欲や目先の利益のみを見ているような人間は、絶対に当選させない。学校に汚点を残すことになるからだ。それだけの権利と使命が、我が校の生徒会には認められ、同時に期待されている。真にこのことを理解できる者のみ、歓迎しよう」

 

 深い一礼。堀北会長は迷いのない足取りで階段を降り、そのまま体育館を出て行った。

 

 背中が見えなくなるまでの間、一年生は誰一人として声を発することができなかった。

 まるで捕食者に見つからないよう、息をひそめるネズミのように。呼吸すら満足にできない。そう感じさせる威厳が、彼にはあった。

 

「皆様、お疲れ様でした。説明会は以上となります。これより入部の受付を開始いたしますので──」

 

 どこか緩い口調の司会のアナウンスがなければ、それこそ誰も動かなかっただろう。

 重苦しかった空気が徐々に霧散する。戻りつつある賑わいの中、椎名さんが感嘆の溜息をもらした。

 

「堀北会長の演説、目を見張るものがありましたね」

「そうだね。それに話術だけじゃない。人を惹きつける力っていうのかな……彼が白と言えばあらゆるものが白になって、しかもそれを実現させるだけの力がある。そう不思議と確信できるような感覚だったよ」

 

 ボクの雑感にゆっくりと頷く椎名さん。

 

「事実、私も息をするのを忘れて見入ってしまいました。それまでの先輩方の紹介も創意工夫にあふれていましたが、最後に全てを持っていかれましたね」

「じゃあ椎名さんは生徒会に入るのかな?」

「ふふ、残念ながら私では力不足でしょう。それに私は茶道部に入部すると最初に決めていましたから」

 

 それは惜しいね。椎名さんが生徒会のメンバーとして希望を開花させる──なんてシナリオも見てみたかったけれど。

 

 入部の受付に向かった椎名さんを見送り、ボクは一足先に体育館を後にした。

 綾小路クンは扉付近で池クンたちに捕まっていたし、堀北さんは人知れず姿を消していた。

 

 ──脳裏に思い起こされる、生徒会長の演説姿。

 

 彼の放つオーラは凄まじいものだった。

 他の有象無象なんて目じゃない。彼には生まれ持った才能があり、そして才能に胡坐をかくことなく努力してきた人間だ。

 ボクがこの世界に生まれて、初めて希望の象徴になり得ると感じた存在。

 

 実に喜ばしい──そう思って然るべきはずなのに。

 

「……何なんだろうね。この物足りなさは」

 

 ボクの中で暴れ回っていた絶望の炎は、鎮火したはずなのに。

 

 燃え残った黒い(むくろ)。その下には、真紅の熾火(おきび)が消えずにただ(くすぶ)り続けていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 希望と絶望が渦巻いた──なんて思ってるのはボクだけだろうけど──部活動説明会から早くも一週間。ボクたちの学校生活は、本格的な授業の開始とともに動き出した。

 

 高度育成高等学校。

 その名の通り、ここの施設はあらゆる面で規格外だ。

 校舎の広さ、図書館の蔵書数、そして眼前に広がる──

 

「うっひょ~、やっぱこの学校はすげぇなあ! 街のプールよりも全然綺麗じゃん!」

 

 競泳パンツをぴっちり身につけた池クンが、歓声を上げて更衣室から飛び出した。

 

 屋内プール。それも50Mプールという、高校生が泳ぐにしては随分と立派なコースが、ボクたちを待ち構えていた。

 鼻につく塩素の匂いと、反響する男子たちの気勢。

 無人島の時とは異なる空気感に、ボクは柄にもなく心を躍らせていた。

 

 今日は記念すべき一回目の水泳の授業だ。

 四月に入学して早々にプール開きというのも気が早い話だけど、温水設備も完備されているおかげで風邪を引く心配はない。既存のカリキュラムに囚われない授業形態は、この学校ならではといったところか。

 何にせよ、健康な男性高校生諸君にとっては命よりも大事なイベントであることに変わりない。

 今朝は登校した直後から、彼らのボルテージが最高潮に達していたからね。

 

「女子は? 女子はまだなのかッ」

「櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん、はぁはぁはぁ」

「あの扉の奥には天国が……やばい、俺もう限界かも」

 

 興奮状態のクラスメイトたちをぼんやり眺めていると、中心から逃げるようにして綾小路クンが近寄ってきた。

 

「あそこまで露骨だと、輪に入るのは流石にためらわれるな」

 

 普段は無表情を貫く彼も、今回ばかりは呆れの色がにじみ出ている。

 ボクは苦笑を交えながら「まぁまぁ」と彼を迎えた。

 

「でも彼らの言うことも一理あるとボクは思うよ。青春において異性への関心とは、健全にして無限大のエネルギー源だからね。線引きは大事だけど、あれも立派な『生』に対する衝動なんだよ」

「……もしかして、狛枝までそっち側なのか?」

「まさか。ボクみたいな()()()()()がそんな高尚な欲望を持てるわけがないじゃないか。ただ、彼らの底抜けに明るい情熱──すなわち希望を見ていて、微笑ましいと思っただけさ」

 

 そう。彼らの原動力は単純明快で、実に分かりやすい。

 女子の水着が見たい。その一心だけでこれだけの熱量を生み出せるのだから、若さとは素晴らしいものだね。

 

 思い返せば、最初にオシオキで散っていった花村クンも同じくらい欲望を加速させていた。

 だからこそ、あんなにも劇的なシナリオを創り出すことができたのだ。

 

 生きること。たったこれだけで、人は輝くことができる。

 

 ──かつて生を捨てたことのあるボクには、眩しすぎるくらいに。

 

「……狛枝はまだ着替えないのか?」

 

 綾小路クンが、ボクの恰好を見て呟いた。

 周りの男子たちが競泳パンツ一丁で騒ぎ立てている中、ボクだけがジャージ姿のままでプールサイドに立っていたからだ。

 

「うん、残念ながらボクは見学だよ。見ての通り、ボクはこんなにも貧相な体つきをしているからね。人様にお見せできるような立派な肉体なんて持ち合わせていないんだ。そんな醜いものを晒して、みんなの目を汚してしまうのは忍びないからさ」

 

 へらりと笑って、袖を少しだけ摘まんでみせる。

 

 嘘は言っていない。

 実際、ボクの体は身長の割にやせ細っていて、健康的とは程遠い。体育の教師に見学を申し出た際も、「ちゃんと飯は食ってるのか」と背中を叩かれたほどだ。

 

 ただ、本当の理由は別にあるのだけれど──それを知りたいのなら、希望のカケラをもっと集めてもらわないとね。

 ジャージのポケットに左手を深く突っ込んで、ボクは彼に右手を振った。

 

「そうか。無理はしない方がいい」

 

 綾小路クンは視線をプールに戻し、淡々と頷いた。

 視線の先では、女子たちの待望の水着姿を目の当たりにした池クンたちが、狂乱と瞑想を繰り返している。

 

 ……深く追求してこなかったのは、単に人付き合いが苦手だからか。それとも、ボクから漏れ出てくる()()を無意識のうちに嗅ぎ取ったからか。

 

「気遣いありがとう。やっぱりキミは優しいね。ボクの分まで頑張ってきてよ」

「オレは事なかれ主義だからな。ほどほどに頑張るさ」

 

 気のない返事を残して、綾小路クンは数少ない友人たちの待つプールサイドへ歩いて行った。

 

 

 

 見学用の建物、その二階のベンチに腰を下ろす。

 欠席者はボクを含めて十六人。半数近くものクラスメイトが欠席を選択したことになる。

 純粋に体調が悪そうな生徒はあまり見受けられない。ほとんどがサボり、あるいは男子からの()()な視線を避けるために参加を見送ったようだ。

 

「狛枝くんも見学なんだ~、水着姿見たかったなぁ」

「てか腕も足もほそっ! 私、女子なのに負けてるかも……」

「みてみて、狛枝くん。この前パレットに行った時の写真なんだけどね──」

 

 なんて談笑を交わす余裕すらある。この強かさもまた、欲望による『生』のエネルギーの産物だと思うと、困惑よりも愛おしさが勝ってくるよ。

 

 キャーキャーと賑やかな彼女たちの一方で、憂鬱そうに日陰に座る女子も何人かいた。

 男子たちの一番人気を奪っていった長谷部(はせべ)さん。山内クンに告白したと噂の佐倉(さくら)さん。そして、頬に手を当ててむすっとプールを見下ろしている軽井沢さん。

 

 特に軽井沢さんとは、ランチのご相伴にあずかったあの日以来、会話どころか近寄りすらしてこなくなってしまった。

 仕方ないとは言え、突き放す言い方になってしまったのは反省点だろう。

 もう少し本で勉強してから言うべきだったね。

 これでは、彼女の希望を見届けるなんて夢のまた夢だ。

 

 軽井沢さんの横顔を眺めながら思案していると、不意にプールから歓声と悲鳴の合唱が響いた。

 

「──競争!? マジっすか!」

 

 なんでも、これから男女別で50M自由形の競泳を行うそうだ。

 一位を勝ち取った生徒には5000ポイントの特別ボーナスが、そして最下位には補習がそれぞれ贈呈されるとのこと。

 ……たかが授業ひとつにポイントまでチラつかせるとは。この学校の本気度には圧倒されると言う他ない。

 

 まずは女子からスタート。

 第一レースには堀北さんの姿も見えた。笛の合図とほぼ同時に飛び込んだ彼女は、勢いそのままに先頭争いを制し、首位を一度も譲ることなくあっという間にゴールタッチを決めた。

 タイムは28秒ほど。競泳の世界にいたわけでもないのにこの記録なのだから恐ろしい。専念すれば全国すら射程に入るだろう。

 

 これで堀北さんの優勝は固い──かと思われたが、現役水泳部の小野寺(おのでら)さんが第二レースにてさらに上回る26秒を叩き出し、5000ポイントをかっさらっていった。

 存外白熱した女子たちの戦い。

 男子たちは血眼になりながら──ある者は股間さえ押さえながら、惜しみない賞賛を送った。

 

「よーし、次は俺の番だな。ま、軽く優勝してやるよ。所詮水泳なんて遊びだぜ」

 

 一方の男子。鼻を鳴らした須藤クンの肉体は実に見事だ。

 隆々とうねりをあげる筋肉が日々の鍛錬の成果を物語っている。バスケによって培われたであろうその体躯は、まさに才能の器と呼ぶに相応しい。

 

 笛とともに水飛沫が上がる。

 須藤クンの飛び込みは豪快かつ鋭かった。

 粗削りなフォームだけど、それを補って余りある身体能力の高さ。水の抵抗もなんのその、他の男子を置き去りにした彼は瞬く間にゴールした。

 

「やるじゃないか須藤。25秒切ってるぞ」

 

 教師からの賛辞に、須藤クンはへへっと鼻の下をこすった。その表情には余裕すら見える。

 

 ちなみに綾小路クンも同じグループだったけど、結果はザ・平凡といった具合だ。

 泳ぐ前と何ひとつ変わっていない表情。

 そこには疲労も、達成感も、悔しさもない。あまりにも無味無臭な彼の在り様に、知らず知らずのうちに手に力がこもる。

 

「きゃー!」

「平田くん、こっち向いてー!」

 

 続いて平田クンがスタート台に立った。女子からの黄色い声援と、男子からの嫉妬の呪詛が屋内プールに響き渡る。

 彼の泳ぎもまた美しかった。

 須藤クンのストロークを剛とするなら、平田クンは柔というべきか。しなやかなフォームで水面に流線形を描き、同様に一位でフィニッシュ。

 結果は26秒少しと須藤クンに一歩及ばなかったものの、男子全体で見れば速いタイムに変わりない。決勝戦では熱いデッドヒートを繰り広げてくれそうだ。

 

「須藤、お前なら行ける! あのいけすかない野郎に正義の鉄槌を下してくれ!」

「平田くん、すっごく格好良かった! 決勝も頑張ってね。応援してる!」

 

 ──まぁ、残念ながら。

 

 ボクに言わせれば、二人ともただの()()()()()に過ぎないのだけれど。

 

「レディたちよ、私を巡って争うのはやめたまえ。私は皆のものなのだよ。仲良く見ていたまえ。真の実力者が泳げばどうなるのかを」

 

 高円寺六助。

 

 髪を掻き上げ、世界の中心は自分だと言わんばかりにスタート台に足をかけた。

 彫刻のように完成された肉体美と、それを強調するブーメランパンツ。色んな意味で高校生離れしている彼に対し、唖然、失笑、羞恥の空気が周囲に広がる。

 

 しかし、彼が完璧なスタートを決めた瞬間、その場の全員が息を飲んだ。

 

 水面を突き破るように進む、優雅な肢体。

 強烈な水飛沫にも見劣りしない洗練されたフォーム。

 まるで彼の進む道こそが王道だと主張するかのような、絶対的な支配力。

 

 高円寺クンは一度もペースを落とさないまま、悠々とゴールに手をついた。

 タイムは驚異的な数字だった。

 オリンピック候補生といっても過言ではない記録に、先生すらも口を開けて固まっている。

 

「……ふぅ。食後のシャワーにしては少し温すぎたかな」

 

 プールから上がり、濡れた髪を爽やかに掻き上げる高円寺クン。

 

「──美しい」

 

 思わず、感嘆の息が漏れた。

 

 彼から放たれる圧倒的な希望(オーラ)

 須藤クンや平田クン、堀北さんにも光るものはあったけれど、一年生でこれほどの輝きを見せた生徒がいただろうか。

 このクラスには彼がいる。彼の希望を間近で観察することができる。

 それだけで、ボクがDクラスに配属された意味があったというものだ。

 

 背筋がゾクゾクと粟立ち、反射的に立ち上がる。

 

「あれ、狛枝くんどうしたの? もうすぐ決勝始まっちゃうけど」

「……ちょっとお手洗いに行ってくるよ」

 

 口元を隠しながら、早歩きでトイレに駆け込む。

 洗面台の鏡は、歪みに歪んだボクの口角を不気味に映し出していた。

 

 遠くから喚声が耳に届く。

 決勝戦が始まったようだけど、結果は分かりきっている。

 

 ──絶対的な才能の差は、努力や根性では決して埋められない。

 

 どれだけ須藤クンが気炎を吐こうと。どれだけ平田クンに声援が送られようと。

 二人では、高円寺クンの天性の壁は絶対に超えられない。

 その事実を再認識するだけの決勝戦だ。観戦したいという気持ちは確かにあるけど、ボクからしたらただの出来レースみたいなもの。

 それよりも、今なお襲ってきている快感の余韻を少しでも堪能していたかった。

 

 ……ふと思う。

 もし、高円寺クンすら軽々と打ち倒してしまうような、凄まじい才能を持つ者がいたとしたら。

 その人はどんな顔をして、彼の希望を見るのだろうか。

 

 笑顔で歓迎するのか。焦りで顔を軋ませるのか。

 それとも──感情のない顔で、ただ見つめるだけなのだろうか。

 

「──ははっ」

 

 思わず笑ってしまう。

 無表情というワードで、連想されたとある友人の顔。

 何食わぬ顔で平均タイムと完全に一致する記録を叩き出し、意外にも引き締まった体を持つ綾小路クン。それも、ボクのような()()()など一つもない、温室育ちのような綺麗な肌。

 なのに、どうしてあんなに中身が空っぽに見えるんだろう。

 

 もし彼が、その怪物なんだとしたら──

 

「ま、そんなわけないよね」

 

 妄想を振り解くように鏡から目を逸らし、プールへと戻る。

 知らぬ間に強く握り込んでいたのか、蒼白した左手がドクドクと血脈を訴えていた。

 

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