アゲハが光風ファイナンスを訪れてから小一時間ほどが経過すると、依頼したトリヒュドラジンについての報告がまとまった。阿部がまとめた情報によると一番の大口顧客は十三号モノリス近辺を受け取り場所に指定して、毎週所定の場所に置かれたコンテナに入れているという。
鍵のついた堅牢な箱の中身を奪えるものは無く、例えジャンキーが盗もうとも光風会としては知った事かというスタンスでこのやり方に従っていた。
櫃間の事を桜子に任せたアゲハは斥候として件のコンテナの元に向かう。近くにそびえたつモノリスが放つ磁場はアゲハでもなんとなく感じ取れるほどで、バラニウムを弱点とするイニシエーターが浴びれば気分を悪くしそうだなと思うほどである。
言われた場所にあったのは巨大で堅牢な箱で、五メートル四方の大きさは確かに盗むのは難しそうである。
ガッチリと打ち付けられた楔に極太の南京錠が付いているため、それなりの道具が無ければ開けられないだろう。重機があれば力尽くで奪うことも叶うかもしれないが、そもそもが人気が無い人界と異界の境界線上である。東京エリアに入ろうと迷い込んだガストレアの死骸がいくつか転がっているほどのこの場所にわざわざ泥棒にくる方がイカれている。
一見不用心のようでその実とても安心な取引場所がそこにはあった。
「さて、とりあえず調べてみるか」
アゲハは周囲の捜索を開始した。こんな辺鄙な場所でクスリの受け取りをしているのは違法取引の安全性よりも手間の簡素化の方が大きいとアゲハ達は推測したからだ。本当なら桜子の方が向いた仕事だが彼女は櫃間の見張りと尋問という仕事が残っているので仕方がない。今日の所は見つけられれば大金星、本番は明日のつもりだった。
「なんだ?」
ここで偶然がアゲハに味方する。コンテナの内側から僅かながら音が響いたのだ。ドンという何かが叩きつけられるような音が聞こえ、アゲハは借りてきた鍵で錠を外してコンテナを開ける。
音は地面の下から響いており衝撃によるモノなのかバタバタと揺れる箇所がある。ライトを灯すとそこにはおあつらえ向きのマンホールがあり、ここから出入りしているのは容易に想像できる程である。
「深追いは禁物だが……少し見てくるか」
下水道に降りたアゲハはそのまま奥を目指した。
深追いする気はないし危険だと思ったら後に引くつもりである。しかし今日は一人と言うこともあり張りつめるアゲハのパーソナルスペースは広くなる。
サイレン世界で培ったこの勘の良さはこれまで数々の修羅場で役立っている。その勘が奥に何かがあると告げている。
入り組んだ下水道を音が鳴る方角に向かってアゲハは進む。迷路のように迷いそうな道程を左周りにしらみ潰す。
「コイツか」
十分ほど歩いた末にアゲハはついに音源にたどり着いた。黒く大きな蜘蛛型のガストレアが檻に五匹ほど蠢いていたのだ。
暴れているのはそのうちの一匹で他は大人しく眠っている。ガストレアが苦手とするバラニウム磁場がビリビリ響くこのような場所で平然としているのならば間違いない。コイツらが件の変異ガストレアだとアゲハにもすぐに判った。
アゲハは誰かいないかとあたりを見回すがパソコンが置いてあるだけで誰もいない。端末は当然のようにロックがかかっており机の上の資料を見てもアゲハには意味がわからない。
「お前達は危険だ」
アゲハはとりあえず目の前にいる五匹を殺し、資料を持ち出して別の場所に移動した。
その光景は監視カメラにはっきりと映っていたがその動きを見て手を出せる相手はいない。グリューネワルド教授は今回の件でアゲハを含めた里見蓮太郎関係者への関与を取りやめたからだ。
悠河もいくらキャパシティダウンがあるとは言え墓穴を掘ってなるモノかとアゲハを感知していても無視する。数匹殺されたところでいくらでも補充が出来るモノなど気にするほどではないからだ。
あくまで東京エリアにあるこの地下研究所はいわゆる出張所にすぎず、教授の頭脳さえあればそこが我々の本拠地なのだからと。だがブラックスワン・プロジェクト自体は当面は凍結せざるを得ない程に今回の進撃は痛手である。悠河としては苦虫を噛む思いなのは変わらない。
時刻はもうすぐ六時、もぬけの殻となった地下研究所を歩き回ったアゲハは総勢で三十匹ほどの変異ガストレアを狩り殺した。ブラックスワン・プロジェクトの検体としてこの施設で飼育されていた数は総勢五十匹ほどなので半数以上がアゲハ一人に狩り殺されたことになる。
いくら檻の中とはいえ短時間に倒せたのはひとえに暴王の月が凶悪な攻撃能力だからに他ならない。常人が焼き討ちで倒そうものならまだ準備に奔走していることであろう。
「そろそろ本命か?」
奥に進んでいったアゲハはいかにもな怪しい扉を発見した。
髑髏と交差した大腿骨のマーキングはいかにも危険立ち入り禁止と言っているのだが、こんな地下にあるには場違いとしか思えない。アゲハが分厚い鋼鉄の扉をこじ開けると、その先にはまさかの人物がいた。
白い仮面を被り、口元の隙間に流し込んだコーヒーをたしなむスーツ姿の男性。奇抜と言うよりも場違いなこの男の顔は簡単には忘れられない。
「……テメェ」
「おや、ようやく来たか。遅かったじゃないか」
まるで知人が訪ねてきたかのように受け応える奇術師。
IP序列元百三十四位、悪名高い殺人者、蛭子影胤がそこにいた。
「何故ここにいる?」
「ここは私の家みたいなものだからね。むしろキミが訪ねてきたことの方が驚きだよ夜科君」
「家……じゃあ娘もいるのか?」
「我が最愛の天使なら奥で寝ているよ」
影胤が指さす方をライズで眼を凝らすと、確かに小比奈がベットの上で眠っていた。無邪気に眠る少女の顔は穏やかで、眼前の男と共に快楽殺人者として跋扈しているときの姿とは似つかわないほどである。
だが子供と違って眼前の男は危険だとアゲハの脳は理解している。だからアゲハは警戒を解かない。
「そんなに身構えることはないじゃないか。私が敵意をもっているのなら呑気にコーヒなんて飲んでいないさ」
「なにがコーヒだ。それよりもここが家だということは、お前もブラックスワン・プロジェクトと関係あるってことでいいんだよな?」
「ブラックスワン……ああ、あれか。確かに私も関与しているがキミが望むような立場にはいないさ。この計画の元になったのは双魚宮の産んだ卵だからね。あれの回収を依頼された程度さ」
「双魚宮……ということは、お前ら親子がアレをここに連れてきたって言うのか!」
「そう、キミ達も目にしたあの『バラニウム磁場への耐性を備えたガストレア』をね」
アゲハの顔は赤くなっていた。
何が目的かは知らないし知りたくもないが、人類を滅ぼさんとする魔獣の卵を培養した馬鹿がいてその仲間が眼前に居るという事実には怒りしかない。
思い浮かべるのはサイレン世界という失われた時代において姉の思念体を傷つけておきながら姉への想いを語った時の天戯弥勒の姿である。「お前は何を言っているんだ」。アゲハはそういいたくてならない。
「お前……いや、お前達は何を言って……」
「簡単なことだよ。この変異ガストレアが量産された暁には、コレを使って東京エリアを潰すんだよ。もっとも、キミがサンプルを殺しまわったことで計画はお流れだけどね」
「お流れ? 馬鹿を言うな、反吐が出る計画だぜ。前にも思ったが……お前は東京エリアを潰して何がしたいんだ」
「愚問だね。要らないから……だから無くなっても構わないと思っているだけさ。潰すのは目的ではなくて手段、だから潰すことには不要だからという感情以外は別にないのさ。キミだって例えば瀕死になった恋人の命をガストレア一匹を殺すことで救うと言われたら、喜んで害獣の命を奪うだろう? 私にとってはこの東京と言う街にはその程度の価値しかないというわけだ」
「イカれてるぜ」
「そっくりそのままお返しするよ。調べさせてもらったが、キミの方こそ出身は旧愛知県だしこの街に来たのはここ最近だ。住み着いてから知り合った友人知人もいるだろうが、この街そのものに固執する理由はないと思うがね。それでも正義感を振りかざすつもりか? まるでガストレアが世界を滅ぼす前のキレイゴトのように」
「俺は救えるものなら出来るだけ救いたいだけだ」
「傲慢だね」
「お前が言うな」
二人の会話は平行線で噛みあう気配はない。
睨むアゲハと仮面の下を窺わせない影胤では対照的だが互いに相手を理解できない存在だと理解しているのは同じだった。
「―――この場所も潮時のようだ。そろそろ小比奈も目を覚ます、そうしたらここから出て行かせてもらおう。あわよくばキミのことを理解できればと思っていたが、どうやら気が合いそうにない」
「理解だぁ? 俺はアンタと仲良くする気はないぜ」
「だから『あわよくば』と言ったのだが……まあそれは別にいいか。こうして同じ空気を共有して察したことだが、キミとは反りが合いそうにない。ある人がキミのことを欲しいと漏らしていたのだが私には仲介役など無理だね」
「もったいぶっているがどうせここの親玉のことだろう? ケッ! 実験動物扱いしようとしている奴のところになんか誰が行くか」
「そういうと思ったよ」
「……パパ」
「おや、起きたようだね」
小比奈が目覚めると影胤は彼女の元に向かって肩に抱きかかえる。寝起きで虚ろな目をした小比奈は年相応に見えてアゲハにも愛らしく映る。
敵意をむけず背を晒す影胤はまさに無防備で、たとえあの妙な力で壁を作ろうともアゲハには無いも同然なのは互いの共通認識である。それでも無防備な姿にアゲハも流石に攻撃する気など起きない。
「それでは私たちは失礼させてもらうよ。そうだな……次に会う時はキミに勝つ算段をつけたときにさせてもらう。それとこの場を収める駄賃代わりに机の上のパソコンはキミにあげよう。なあに、持ち歩くには不便なデスクトップ型だから気にすることは無い。パスワードは『MYENGEL』だ」
一方的にアゲハにパソコンを差し出した影胤は、小比奈を抱きかかえてもう一つある出入り口から部屋を後にした。アゲハとしては影胤を放置したくはないが、ブラックスワン・プロジェクトという売られた喧嘩を無視して固執するほどの相手でもないので彼を見逃してパソコンを開く。
言われた通りのパスワードで開くと中には施設の見取り図や備品の帳簿に保管先と言った資料がまとめられており、これだけあればこの地下研究所を潰すには充分だった。
「あと二十匹か」
資料を印刷したアゲハは地図に沿って地下施設を進み、残りの変異ガストレアを刈り取った。
すべてを終えてブラックスワン・プロジェクトを頓挫に追い込んだのは実に夜八時を回る頃となる。
影胤の気まぐれなのか彼が残したメールはすべて自分のアドレスに転送しておりプリントアウトもしているので証拠としては確かな状態にある。この『櫃間』『教授』『ダークストーカー』のやり取りさえあれば警察も蓮太郎の冤罪を認めざるを得ないだろうとアゲハも確信していた。
後は目下逃亡中の蓮太郎と連絡が付きさえすればの話であるが。
地下研究所を潰す話
ひとまずこれでブラックスワン・プロジェクトは凍結です