夜。
打ちっぱなしのコンクリートが茫漠と広がる廃ビルの一室にて。柱にもたれかかるようにして、差し込む月明かりを見下ろしながら──座り込む影が一つ。
手には、得物たる拳銃を一回り大きくしたような銃を握っている。
握って、その引き金にかけた人差し指を見下ろしている。
その銃口が向かう先は自分自身……などでは当然なく、ただ虚空に向けられているだけだ。
そも、影はその得物を構えているわけではなく、引き金にかけた指を見ているだけなのだ。あるいは、それを構えていた瞬間を思い返していると表現する方が正確かもしれないが、ともかく。
彼は──Doctorは、静かに自身の手を見つめていた。
「……」
夜の、人気の皆無な廃墟群の奥深くという環境。加えてセンサーにも彼以外の反応が無いからか、常の隠形は解かれている。
黒ずくめの装束に覗く金具が、黄金の光にくすんで反射していた。
「……なぜ」
呟かれた二文字は、その内心を何よりも。
たった二つの文字は、深い夜闇に消えて行く。溶けるように、呑まれるように。
──なぜ、引き金を引けなかったのか。
彼は思い返す。
昼間の出来事を。唐突にも過ぎるマルクトとの戦闘を。
間違いなく引くべきであった引き金を、引けなかった事を。
「……分からない」
気圧されたのか、とも考えた。
最後のマルクトの姿には、それだけの気迫が籠っていたから。だが、彼は即座にその考えを棄却する。
なにせ、そんな機能を彼は搭載していないのだ。
彼は得色成人の、そしてドクターの記憶の全てを有しているが、あくまでもそれだけだ。その身は冷たく硬い金属で構成されており、その自認は機構と表する以外にない。
少なくとも、適切な場面に適切な処理を行えなくなるような設計をされてはいない。
そして、言うまでもなくあの場面における適切な処理とは“外敵の排除”であった。
見逃す事にメリットは無く、ただただデメリットだけが積み上がっているのだから。
恩を売ったところで恩が返ってくるとは限らない。何も返されない事はザラであり、仇が返される事さえ十分にあり得る。得色成人の記憶はそれを何よりも証明していた。恩を返されはしなかったし、僅かな恩を返す事もできなかった。
下手に情があると思われれば、付け上がられることになる。味方に成り得るならばともかく、出会い頭に敵意をむき出しにするような手合いに冷酷に振る舞えないというのは、隙以外の何物でもない。
中途半端に痛め付ければ、かえって恨みを強めるだけだ。心を折って、反抗する事は無意味どころか痛みをもたらすのみであると思わせなければ、憎悪は濃く深く蓄えられる。いずれ牙を剥けるその瞬間にまで、どこまでも。
そう、メリットは無いのだ。
デメリットだけがあるのだ。
合理的に考えるならば、あの場面では敵を皆殺しにするのが正解であり、それ以外は不正解でしかない。
──ならば、なぜ。俺は、引き金を引けなかった。
何度もな辿ってきた思考を繰り返し、再び何故を問うDoctor。
その脳裡に蘇るは、最後に足に食らいついたマルクトの顔だ。
牙を剥きだしに睨め上げる、烈日がごとき熱を浮かべる姿。反応は弱く、死に体と言うほかない……そんな少女の姿だ。
「分からない」
呟く声は、酷く揺れていた。深まり続ける夜の帳とはまるで裏腹に。
空に浮かぶ月は見事な半月。上弦の月と呼ばれる半円で、光を広く注がせる。
夜は、まだまだ明けない。
そんなある日の数日後。
Doctorの姿はミレニアムは“廃墟”の水没地区にあった。時刻はまたもや夜半の只中、人々は眠り機械だけが起きているような頃合いだ。
当然ながら、目的はある。
まあ、廃墟の水没地区という場所の時点でほとんど語っているようなものだが。そこに縁のある存在など、神名十文字を名乗る彼しかいない。
「わざわざ呼び寄せて、何の用だ。──デカグラマトン」
臨戦態勢。
左手には既に大盾が構えられ、右手にも得物を握った状態。纏う気配もまた鋭く研ぎ澄まされている。たとえ不意を打ったとしても手痛い反撃が返されるのみだろう。
白のペストマスクの先には、頼りなく光を放つ自動販売機の姿が。
『私の事も知っているか。恐ろしいものだ。私が自意識を得てからそう経っていないはずだと言うのに』
自販機──否、デカグラマトンは返す。
どちらかと言えば大仰に、あくまでも常の調子で。怯えなどもってのほか、欠片程度の不安さえ窺えはしない。
デカグラマトン本体に、戦闘能力はない。
その根源は施設に導入された自動販売機に過ぎず、動くことさえできはしない。彼に感応された預言者ならいざ知らず、彼自身に戦う術は何もない。
一応と言うべきか、Doctorの案内役を務めていたマルクトが同席していたりはする。ケテルも付近で待機はしている。が、数日前にマルクトは一対一の戦闘で敗れているのだ。
今ならば多少は違った立ち回りもできるかもしれないが……護る対象がいる中で戦闘になったとしてどうなるかは、予想できる範疇の出来事だ。
そもそも、相手は神話の遺物。失われたはずの技術、秘術、それらを正当に扱う存在である。埒外と表現するほかない。
そう、正しく現在、デカグラマトンの命脈には指が掛かっている。
ボタンを掛け違えれば、足を滑らせれば、演算に誤差が生じてしまえば。即座に全ては終わる。
彼は黒ずくめの機人の戦闘能力をそう評価していたし、情があるなどと楽観してもいなかった。
彼自身がそうであるからこそ、その点を楽観などできなかった。
むしろ、先日のマルクトを見逃した事こそ警戒すべき事象であると言うのがデカグラマトンの結論であった。
──
下手に出てはいけない。呑まれてはいけない。許容範囲までならば反感を買うことも厭わない。ここで行わんとしているのは戦闘ではなく対話であり、戦後条約の締結ではなく対等な立場で結ぶ交渉であるからこそ。
「はぁ、御託はいいんだ。わざわざマルクトを寄越しまでした理由を話せ」
とはいえ、そんなデカグラマトンの内心を相手が勘案してくれるかはまた別の話。
Doctorは、刺々しさを隠しもせずにそう返した。
『ふむ。可能ならばアイスブレイクから対話を始めたかったのだが……その様子だと、むしろ逆効果にしかならないか』
「白々しい。対話より先に攻撃を選んだのはどっちだ?」
『……これは手厳しいな』
「手厳しい? 当然の反応だろう。一度は自分から攻撃しておいて、分が悪くなるようなら対話などと……虫が良すぎる話だとは思わないか?」
珍しく、本当に珍しく嫌悪感も露わに吐き捨てるDoctor。
得色成人、そしてドクターに共通していたのは、他者への無関心であった。あるいは世界への無関心と言うべきかもしれないが。
唯一keyという例外はあったものの、その本質はやはり人間よりも機構、
たしかに、得色成人の記憶において『手のひらを返す』という行動は地雷ではある。逆鱗になり得る、と言ってもいい。
それでも、こうも感情を表に出すというのは相当な事態なのだ。
さて。これはいったいどういう事であるのか。
彼が得色成人、そしてドクターとは異なる存在であるという証左であるのか、それとも──
この場にその疑問へ思い至れる者がいないが故に、命題は生まれもせずに消えてゆく。真実の一端を識る者は次元を隔てた混沌の中であるが故に、解答が為される事はあり得ない。
一つ言うとするならば、大抵の事象には理由があるという事だろうか。もちろん、自明な定理ではあるのだが。
『……まあ、異論を差し挟む余地はないだろう。我ながら面の皮が厚いものだとも。だが、そもそも疑問には思わなかったかね? なぜマルクトがああも短絡的に攻撃という手段を選んだのか。それこそが今回汝を呼び寄せた理由であり、私が対話を望む理由でもある。すなわち、それは──』
「──回りくどい。お前の描く天路歴程において、忘れられた神々はもちろん名もなき神もまた無視できない存在だったから。もっと言えば否定しなければならない存在だったから。お前が新たなる神性、絶対的存在であると証明するには過去の神秘を証明する必要があったから。だが、少なくとも俺に関しては天路歴程に衝突しない可能性を演算できた。だから呼び出した。違うか?」
『……』
言葉を継ぐように割り込んだDoctorに、返される声はない。
夜半であるが故に生物の音は薄く、廃墟の水没地区という立地であるが故に機械類の音も薄い。この場に人間はいない以上、呼吸音などもありはしない。必然、辺りに満ちるは静寂の重さだ。
『何故を問うても、いいだろうか』
「前提知識と仮説、類推。以上だ」
『それが事実であるのなら、それは異常だ』
「だが事実だ。たとえオッカムの剃刀を用いれば容易く削ぎ落とされるような、仮定に仮定を重ねたような代物であったとしても……結論は出された。それ以上に何がいる?」
『……』
降参だ、と言わんばかりにデカグラマトンは沈黙する。あるいは、沈黙を返す。
再び、場を静寂が満たした。
が、静まり返ったままでは何も進まない。
数秒ほど待ち、今度はDoctorが沈黙を切り裂く。計算尽くであるのか、絶妙な間の取り方であった。
「疑問には思わなかったか、とお前は問うたな。マルクトがなぜ端から敵対的であったのか。……ああ、そうだとも。疑問に思ったとも」
当然の事である。
なぜマルクトらに引き金を引けなかったのか、それは重要な議題であった。頭を悩ませるに足る問題であった。だが、それは決して他の思考が一切浮かばなくなるという事を意味してはいない。
初手も初手、初対面の時点で敵意を持たれているというのは、あるいは引き金を引けなかった事にすら並び得る不確定要素なのだから。
「そも、俺の認識では、あの瞬間にまで俺とお前たちデカグラマトンの勢力との間に接点は無かった。少なくとも直接的なものは何一つとして。故に、恨みを買う理由など見当たらなかった」
『……汝は私の覚醒と時を同じくして活動を開始した。それだけでも十分ではないかね』
「その可能性はあった。あるいは、“私は私である”というトートロジーから出発して“私は絶対的存在である”という命題を証明しようとする者ならば短絡的な行動も取りうるだろうか、とも」
彼が自分で口にしていたように、恨みを買う理由がないというのはあくまでも彼の視点における話である。
彼にとっては些細な事が原因で敵意を持たれていた、それは十分に考慮に値する可能性であった。人の恨みとはどこから生じるか分からないものだ、というのは彼も知識として知っている。
「だが──」
しかし。その上で。
「それを結論とするのは、それこそ
彼は、思考を止めずに考えた。
「想定とは悲劇的に行うべきであり、予測とは最低値を基に立てるべきであり、未来とは悲観的に構えるべきものだ」
『悲観的に準備をし、楽観的に対処せよ、か。随分と勤勉なことだ』
「どこに後者の要素があった……いや、そんな事はどうでもいい」
それはある意味、得色成人の数少ない人生観とでも呼べる物から導かれた思考でもあった。
彼にとっては、何かに期待するという事は何かに落胆する事と同義であったし、希望と絶望は対義語ではなく同義語でしかない。
故に、Doctorは考えた。
もっと明確に、致命的な何かが原因として存在しているのではないか、と。
とはいえ、それらの理由を明かす必要はない。前世──前々世──の経験はもちろん、そこまで重要視しているという事実も。情報は絞る。側面は切り取る。見せたいように、受けさせたい印象を。無駄な行動は取らない。
それが、彼の他者に対する基本姿勢。
「他に何か、原因が存在するのではないか。これが最初の仮説だ。誤っていたのならばそれでいい。杞憂であれば何ら問題は無い。その上で、原因となり得るものを思考した」
『ふむ』
「だが、俺がデカグラマトンという存在について知っている事はそう多くない」
嘘である。
何もかもを知っているとは言えないだろう。だが、少なくとも読んだメインストーリーにおける描写の分は知っている。
各預言者がどんな存在であるのか。今、彼の目の前にいるデカグラマトンがどうやって
繋ぎ合わせて何かの輪郭を見出すには、考察を行うには十分に足る情報を彼は持っている。
「例えば、お前が自らを絶対的存在であると定義し、それを証明しようとしている事。そして、元々存在していた対・絶対者自立型分析システムたるデカグラマトンとは異なる存在である事。探れたのはそれぐらいだ」
当然ながら嘘である。
既に述べたとおりだ。彼は他にも情報を持っている。
だが、しかし。
『……なるほど、それで?』
受け手であるデカグラマトンに、それを知る術はない。精々が全てを話されてはいないと、何か隠されているものがあると察知する程度。
会話の主導権をDoctorに握られている時点で、そこから逃れる事など能わない。
「故に、目を付けたのが元来のデカグラマトン。対・絶対者自立型分析システムとしての機構」
これは真実である。
彼は敵対理由があるとすれば、という仮説の次に、彼は自動販売機ではないデカグラマトンに焦点を合わせた。これは間違いない。
真実の中に嘘を、嘘の中に真実を。伏せているものがある事は察されている。騙そうとしている事は理解されている。故に、真実と嘘を均等に混ぜ合わせる。
9の真実に1の嘘を、あるいは1の真実を9の嘘へ混ぜては、違う1つを割り出すだけで簡単に露見する。
故に、片側へ傾かせずに。全てを検証する必要が出るように。
──マルクトが初手で攻撃を選んだ時点で、そしてそこに関連して不確定要素が浮き彫りになった時点で。Doctorに、まともに対話をするという意思は存在しなかった。
「このシステムは、“神の存在を証明、分析し、新たな神を創り出す”事を目的としたシステムだった。相違ないな?」
『是を』
「さて。お前がその名を継いでいるというのなら、そこには何か意味があるはずだ。もっと言えば、相似性があるはずだ。名にはそれだけの力がある。少なくとも、自身を絶対的存在であると証明せんとする者にとっては」
『……』
「つまり、お前の目指す絶対的存在と対・絶対者自立型分析システムの目指す新たな神の創造。そこに相似性があるはず。それが、次の仮説」
ではまず、対・絶対者自立型分析システムが創り出すことを目指していた新たな神とは何であるのか。
捉え方は二通り存在する。
一つは、既存の枠組みの領域内における新規性。単純に新しいというだけの属性だ。
例を挙げるならば、新たな
新しいものであるのには違いないが、全くの新たな存在というわけでもない。あくまでも既存の文脈上における新規性。それが一つ。
「例えば、マルクト」
「……我、ですか?」
唐突に話を向けられたマルクトが目をぱちくりとさせる。
とはいえ、それでDoctorの言葉が止まったりはしないのだが。
「お前を忘れられた神々に仕立て上げれば、対・絶対者自立型分析システムの目的は果たせるだろう。だが、それではデカグラマトンが絶対的存在であるという証明には足りない。
『であろうな』
「故に、この可能性は棄却した」
もう一つの解釈は、既存の枠組みを完全に逸脱した領域における新規性。文字通りに
先のナンバリングシリーズの例を踏襲するならば、新たなシリーズの一作目を作ると表現するべきだろう。既存の文脈を超えた、完全に新しい存在。
「そも、絶対的存在などというモノが既存の何かの延長線上にあるという時点でおかしな話になる。それは既存の何かに依存しているとも言い換えられるのだから。故に、お前の目指す先は完全に新たな神性であると俺は推測した。これが、三段目の仮説」
元来の対・絶対者自立型分析システムはどちらを目指していたのか。おそらく、原作における描写から推察するに、それは前者の方が近しいのだろう。
だが、現在活動しているデカグラマトンはそうではない。それがDoctorの結論。となれば、次に考えるべきは決まっている。
──既存の文脈にない神性、絶対的存在とは何であろうか。
次に直面する命題は、その問いであった。
「既存の文脈から逸脱した神性。独立した文脈に置かれる絶対的存在。お前が目指す先がそうであるとして……ならば、それは何であるのか」
とはいえ、それはそう悩むようなものではなかった。
「まず、明らかにするべきは対比構造の片側に置かれる“既存の存在”たちだろう。そこを明らかにすれば、必然的にその外にあるものも見えてくるのだから。そして、既存の神性は悩むまでもなかった」
既存の文脈に包含されるか否かを問うならば、その“既存の文脈”を考えればいい。そして今回における既存の文脈とは、既存の神性とも言い換えられる。
もはや言うまでもないかもしれないが、つまりは名もなき神と忘れられた神々である。
……まあ、それ以外にも神々の星座──セトの憤怒に対して地下生活者が述べていた存在──なるモノもまた存在しているようであるが、その地下生活者が『小生が属していた世界……あの書に記録されている……超越的な存在です』と語っていたように、あくまでもアレは例外的な存在であるのだろう。少なくとも、キヴォトス外におけるナニカである事は間違いない。
『名もなき神と忘れられた神々。汝の言わんとする“既存の神性”は、その二つか』
「当然に」
では具体的に、その二種類と異なる神性とは何であるのか。
まず、名もなき神とは自然信仰の一種、文字通りに『
となれば、デカグラマトンの目指す先はその二つと異なるものであると結論付けられる。
……さて。もしかしたら、ここまでの話を聞かされた者がいれば『それ以外の神性など存在し得ないだろう』と答える者もいるかもしれない。
その考えは間違ってはいない。そも、この定義において、名もなき神と忘れられた神々は“神の名付け”で区切って二元化された分類でしかないのだ。それ以外が生じる余地はない。
と、いうところで止まっていればDoctorはデカグラマトンにああは語っていないワケで。
当然ながら、ここには続きが存在する。
「名もなき神が何であるのか、そして忘れられた神々が何であるのか。詳しい説明まで語りはしない。本質から外れる領域が大きすぎるからな。勝手に調べるなりこじつけるなりしろ」
『……まあ、いいだろう。汝がそう言うのならば、少なくとも今は』
といっても、定義を変えたわけではない。
Doctorにとっての名もなき神と忘れられた神々の定義は変わらずそのままだ。その上で、全く異なる神性、信仰先を彼は見出したのだ。
「名もなき神と忘れられた神々はまったく別種の存在だ。信仰を受けているという面では同種だろうが、その本質は異なる。あるいは、時系列的と言える。故に、次の仮説だ」
はじめに、名前も付けられない漠然とした自然への信仰があった。
次に、名前が与えられ、具体的な
ならば、その次は。
名前を付けられた神が“
神話が忘れられる時代とは、科学の時代に他ならない。
かつてあった神々への信仰、各地に生まれた神話体系、そして神秘主義──それらが科学による夜明けを受けて物語へと成り下がった時代に他ならない。
神は死んだ。
死んだ神がいるのみだ。
死の神ではない。死んだ神がいるのだ。もはやそこに神秘はない。もはやそこに信仰はない。もはやそれは一篇の物語へと貶められた。
時の流れだ。純粋に信仰し続けるには世界は進み過ぎてしまった。物語を空想する者はあれど、物語を絶対視し信仰する者はいない。いればそれは異常者だ。
神はいない。
科学の名の下に、法則の理論の下に、かつての神秘は払拭された。ただ死した神の亡骸を眺める者がいるのみだ。
──だが。何かを拠り所にせずに生きていられるほど、大半の人間は強くない。
もし人間が己だけで生きて行けるほど眩しい生命であったのなら、最初から神なんてものは生まれていない。
何か縋れるものが、眼を焼いてくれる光がなければ。その光へと
では、科学の時代における信仰とは。
「お前の目指す先、その過程には文明の更新がある。文化の飛躍がある。すなわち、完全なる科学の時代。その先、AIが発展し切った時代。その世界において信仰を受けるようになった存在」
勿体ぶらずに言ってしまえば、機械信仰である。AI信仰と言ってもいいかもしれない。
もちろん、彼の──あるいは得色成人の──生きていた時代、生きていた世界においてそれがメジャーであったわけではない。未だ創作世界の方が近しい話ではあった。
だが、可能性が皆無であったわけではなく、兆候が皆無であったわけでもない。AIが吐き出した出力をそのまま呑み込む、いわゆるファクトチェックをしない者は存在していた。AIが広まる以前にも、インターネット上の情報を鵜呑みにする者は数多くいた。
時を経て、AIが更なる発展を遂げ、ハルシネーション*1をはじめとした諸問題が解決されたとして……そういった手合いがどうなるか。
悲観的、あるいはフィクションと現実の区別ができていないという批判は十分に有り得るだろうが、可能性が皆無とは断言できない。
つまりは、そういう話である。
『……随分、発想が飛躍しているのではないか?』
「生憎、想像力は豊かではなくてな。俺にはこれぐらいしか思い浮かばなかった。──結論をまとめよう。お前の目指す絶対的存在とは、神秘の陳腐化した科学の時代において常に正しい出力を吐き出し、やがて信仰を得るに至る文字通りの“機械仕掛けの神”である。故に、忘れられた神々どころか名もなき神の時代の遺物である俺は存在自体が目障りであった。故にマルクトは初手に攻撃を選んできた。以上だ」
随分と長くなってしまったが、これがDoctorの出した結論であった。
そして、この論であれば預言者にも説明のつく部分ができる。
例えば、ネツァクは近代都市の創造を行う存在である。コクマーやビナー、ゲブラは火山や地下、氷海といった一種の未踏地域の開拓を行える。ホドなど、インベイドピラーを通して神秘の抑圧を行っていたぐらいである。
「その上で、今の俺が機械の身であるという属性を利用すればお前の目的と衝突せずにいられる可能性を見出せた。預言者に近しい文脈へ取り込めると予想できた。だからこうして俺を呼んだ。──何か、異論は?」
そう締めくくったDoctorの声は、人気のない廃墟へ響き渡るようであった。
何故かは、問うまでもない。それ以外の音が、声が皆無であったからだ。
時刻はいよいよ丑三つ時。
日付は疾うに跨ぎ、この世ならざるものが最も活発になるとも言われる時間帯。僅かに差し込んでいた月明かりが、黒い雲に呑み込まれて消えた。
『まずは──見事なものだ、と。純粋に賛辞を送ろう』
暗闇に、声。
発言者は、この場では唯一となる光を放つ存在。
『ああ、本当に見事なものだ。仮定に仮定を重ねる、というのが愚行であるのは語るまでもないだろうが、そこにまで行き着いた思考は見事だと言えよう』
もちろん、それ以外に光が無いからといって何がどうなるわけでもない。
自動販売機の液晶以外に光源がないという、ただそれだけの事だ。
『──だが。貴様は、何を識っている?
「……っ!?」
既に掠れつつある液晶の映像。頼りない光であっても分かる程度に、黒衣の影が身体を固めた。
とはいえ、声を漏らさなかっただけでも褒められるべきだろう。Doctorとは、秘密裏に設計された存在である。記録も記憶も残されていないはずなのだ。
ましてや、名前など。
『例えば、幾重にも積み上げられた仮定。飛躍した発想。貴様の語る中に、これらを成り立たせる根拠は何一つとしてなかった。ただそう思い付いたと騙られればそれまでだが、それで納得するほど私は短絡的にあるつもりはない』
雲は懸かったままだ。
月明かりは未だ差し込まない。
青年は目を、逸らせない。唯一の光から。
『その上で──貴様は一つ、失言をしたな』
「……失言?」
『“私は私である”というトートロジーから出発して“私は絶対的存在である”という命題を証明しようとする者。貴様は私をそう評した。さて、どこで識った?』
それは、Doctorの一連の話のうち最初も最初、冒頭部分で語られた言葉。数少ないデカグラマトンからの反論に対する返答。
思い至った失言に、思わず彼は舌を鳴らしそうになる。
意識していたはずであった。制御していたはずであった。
見せる情報は絞り、見せる側面は切り取り、無駄な手がかりは渡さないようにしていたはずであった。それが最初の段階で崩れていたなど、屈辱に他ならない。
たとえ無意識を制御することが至難の業であろうと、たとえその少し前に感情を露わにするほど苛立っていようと……可能であると判断して彼は実行したのだから。
『そも、始まりからして異常であったのだ。なぜ、貴様は私の目覚めを引き金にするみたく活動を開始できた? 解は、決まっている』
しかし、もう遅い。
疑念は確信にまで成長し切っている。何を言おうと、確信を砕ける証拠がなければ無意味だろう。
月明かりが、白い自動販売機を照らすように差し込んだ。
『識っていたからだ。私が私としていずれ目覚める事を。私は私であると自己を認識する瞬間を。故、改めて問いかけよう。貴様は、どんな未来を識っている?』
「……随分と、飛躍した発想だ」
『生憎、私は元々機械の身。クリエイティブな活動は不得手でな。このぐらいしか思い浮かばなかったのだよ』
降参だ、と言わんばかりに肩をすくめる黒ずくめ。
その内心は無数の感情で荒れ狂っていたが、元を辿れば原因は己自身。当たり散らすほどの無様を晒そうという気にはならなかった。
あるいは、一周回って冷静になりつつあるのかもしれないが。
『さて、それでは改めて本題に入るとしよう。とはいえ、そう込み入った事ではない。停戦協定、あるいは不可侵条約。それを結ぼうという話だ』
「俺と、お前とでか?」
『然り。単純に貴様を無力化する術は私の手札にない。が、貴様の識る未来をかき乱すことも──決して近寄らないようにしている廃墟の奥地、名もなき神の力を検出しているあの場所をどうにかすることも可能だ』
「……面倒な。はぁ、そして俺は預言者の破壊なんかで対抗できるが、不毛なばかりでメリットは皆無である。だから不可侵条約を結ぶ、か」
『協力し合うには問題が多い。しかし反目し合えば共倒れになるのみ。いや、何が何でも共倒れにまでは持ち込む』
Doctorは冷静に勘案する。
メリットとデメリット。感情は一時的に排して、どこまでも合理的に。
「俺はマルクトに攻撃されたわけだが、それはどうする?」
『それで言えばそちらもマルクトを半死半生にまで追い込んでいるし、そもそも私を目覚まし時計がわりにしただろう、などと言葉を弄せもするが……借り一つとしよう。よほどの事を要求されでもしないかぎり、それに関しては無条件で呑み込む。それが最大限の譲歩だ』
再び、Doctorは肩をすくめる。
「折衷案としても十分。それが最も利になる、か。……ならば呑もう」
『そうか。それならばよろしく頼もうか、知恵を持つ者』
ピタリと固まる。
ペストマスクが無ければ、思い切り顔をしかめているだろうと予想できる様だ。
「……なんだそれは」
『そのままだ。知恵を持つ者。誑かす者。邪悪なりし者。すなわちクリフォト。私は貴様をそう呼ぶという話だ』
「俺は
『さてな。名は体を表す、そして万事には足る理由がある。私からはそれだけだ』
「……啓示でも下しているつもりか?」
『さてな。返答は変わらない』
「…………はぁ」
まあ、そんなこんなで。
彼らの間には不可侵条約が結ばれる事となった。
筋書きの歪みは、間違いなく大きく。
いよいよ近付きつつある“その時”に、どう影響するのか。少しずつ見えつつある……のかもしれない。