いつか人となるあなたへ、祝福を   作:RH−

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予言

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──きっと、あなたのようなイレギュラーであっても

 

 

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──この会話は忘れてしまうでしょう

 

 

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──ええ。これは、“そうならなければならない”

 

 

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──私の痕跡は、直接のものとして残ってはいけない

 

 

──ですが、それでも。一度刻まれたものは、そう簡単には消えはしません

 

 

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──私は、信じています

 

 

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──先生と、この世界と、そして未来を

 

 

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──あなたを異なる『大人』として、私が定義します

 

 

──ええ。大きすぎる代償はありません。これが私の選択で、そして果たすべき責任です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Doctorが目覚めてから、数十年の時が経った。

 そう、数十年。数年ではなく、十数年でもなく。人の一生で数えればそれなりの割合になるであろう月日が、経過した。

 

「……」

 

 彼は見る。

 立つ場所は、一応ミレニアム自治区に分類される。自治区の端も端、郊外と呼ぶほかない場所の、かつてあった開発計画の名残が広がる廃都市の一角ではあるが。

 といっても、そう大規模なものではない。都市開発という計画名から取ってきているだけで、都市とは名ばかりの中規模な街が広がっているばかりだ。

 

 そんな物悲しい場所の、半ば以上に自然に呑まれたビルの屋上。

 

 風の吹き抜けるその縁に立つ影は、インバネスコートの裾をはためかせながらも身動ぎをせずに一点を見つめている。視線の先は『廃墟』と名付けられた禁足地、俗な言い方をすれば厄ネタなどとも言い換えられるであろう領域。

 一般の者からすれば都市伝説紛い、一部の者からすれば危険と評するしかない未開の地、そして──彼にとっては、何よりも重要な少女の眠る揺り籠。

 

 先生が廃墟へ一度目の侵入を行っている、まさにその瞬間の事である。

 

 

 ──思えば、随分と短いものだった。

 

 

 身動ぎ一つしないが、決して内心まで固まり切っているわけではない。

 むしろ、彼にとってはここが一つの節目となるのだ。感傷じみた思考も浮かんで来ようというものだろう。

 

「……とはいえ、流石にこの感想はテンプレートにも程があるか」

 

 ジョークセンスなど磨いた事はない。あるいは、今回に関しては文学的なセンスかもしれないが。

 ともかく、それ故の『過去を回想する時のテンプレート』みたいな感想に、どう改善するべきかは分からずとも稚拙であるとは思えるからこそ、彼は呟いて。

 

 改めて、数十年の月日を思う。

 

 ……まあ、随分と短いものだったという内心の通り、さほど大きなイベントがあったわけでもないのだが。

 少なくとも、デカグラマトンに関連する部分以外では概ね彼の想定通りに事が運んでいた。

 

 

 ──忙しさで言うならば、やはり“それなり”と表現するのが一番だろうな。学会発表が重なりに重なっていたいつぞやよりかはマシだ。

 

 

 本来、学会発表が集中することはない。

 教授職というのは研究やそういった発表以外にも講義など仕事が多いものであるし、そもそも学会など短期間で何度も開かれるものではない。

 が、彼の場合は扱っている研究が他分野にまたがっている事も多く、加えて親譲りの──というよりも文字通りに親仕込みの──優秀さも相まって、そういった稀な事が起き得たのだ。

 その際の多忙さは、語るまでもないだろう。

 

 

 閑話休題(仕事ハ友達サ!)

 

 この数十年の間にDoctorが巡った自治区は、当然ながら一つでは収まらない。

 もっとも、基礎(拠点)となる場所は一つ存在していたし、キヴォトス各地でも目立たない形でとはいえ活動はしていたのだが。

 例を挙げるなら、アビドス生徒会長であった梔子ユメの確保・保護や、少し別の事に気を取られていた間に造られていた列車砲シェマタの破壊などだろうか。規模としてはそこそこ大きな介入ではあるが、Doctorには名もなき神の力という隠密に最適な力がある。

 それを()用しての暗躍が、彼の主なものであった。

 

 基本的に大規模な行動は避け、痕跡を残さずに暗躍する。

 せっかく“原作”という未来の道筋を知っているのだから、制御しやすいその形を可能な限り維持できるように、という意図の下の行動である。

 同時に、そもそも計画している介入だけでも十分な規模になるのだから抑えれる範囲では抑えておきたい、という判断の裏返しでもあるのだが。

 

 何せ、先に挙げたアビドスの件以外でもアリウス分校やゲマトリアへの干渉などがあり、加えて先生がキヴォトスを訪れてから──つまりは原作が始まってから──は、早すぎるタイミングから起動を開始したDivi:sionの間引き・調査に梔子ユメの解放やビナーを介しての干渉などなど。

 有り体に言えば“好き勝手”とも表現できるレベルで彼は動いているのだ。

 もはや気にしたところで、とも言われそうだが、せめてでもと気にしておきたくなるのも頷けよう。

 

 ちなみにこれは余談ではあるが、ビナーの一件は以前の貸しを盾にしてのマッチポンプである。

 グレーゾーンどころか普通に真っ黒な行動であった。

 Divi:sionの活発化に際して表舞台にまで上がらざるを得なくなる可能性が発生しつつある事、そして短期的に信頼(好感)度を稼ぐには最も効率的である事などを思えば選択肢には成り得るのだろうが、それを実行できてしまう辺りに彼の性質がよく表れているだろう。

 

 それが良い事か悪い事かはともかくとして。

 

「……」

 

 ピクリ、と。

 追憶に潜っていたその身体が、動いた。

 

 風がどれだけ吹き付けようと、双子を連れた先生の位置情報が王女と従者の眠る“40日と150日後のための玉座”へ踏み込もうと、欠片たりとも動かなかった彼が。

 動いて、懐から得物たる拳銃モドキ(ラーグレン)を抜き放ち、視線をわずかにズラして。そうして、口を開いた。

 

「……何の用だ」

 

 呟く声は僅かに低く、それこそ威嚇をするかのような響きを伴っている。

 否、実際に銃を抜き放っているのだ。“ような”ではなく威嚇をしているとも言えるだろう。

 

 その背後には──

 

「見かけたので」

「返事になっていないが? マルクト」

 

 彼とは対照的に総身を白で覆われた少女が、立っていた。

 

 

 

「名もなき神々の王女、そしてその補助を担う鍵ですか。あなたと同レベルの存在であるのならゾッとしない話ですね、クリフォト」

「なぜ知って……いや、デカグラマトンが過去の記録をサルベージでもしたのか。というか勝手に話を進めるな」

「……この流れで私が混ぜ返すのはアレだとは理解しているのですが、その。あのお方の名前を軽く口にしないでほしいというのは……ああ、やっぱり駄目ですか」

「お互い様だろうに」

 

 両者ともに話は聞いているが、話を聞くつもりはあまりない。噛み合っているようで噛み合っていなくて、それ故に噛み合った会話である。

 

「というか何度目だ、この会話。時間の無駄にも過ぎるだろう」

「さて。途中からは我も数えるのを止めたので」

 

 Doctorのこの数十年における最大の誤算は、白染めの機人、マルクトの存在であった。

 何がどう影響したのかは彼にも把握できていないが、彼女は数十年の間を一度として活動停止に陥ることなく生き続けていた。どころか、自己進化(改造)に研鑽を重ね、今では他の預言者とは隔絶した戦闘能力を持つにさえ至ってしまっていた。

 代表的な例で言えば、雷帝の台頭に際して開発された新技術の理解、改良、そして吸収。それにデカグラマトンが解析を推し進めている名もなき神の力の掌握など。今の彼女であれば、小規模な自治区であれば一夜で陥しきれるだろう。

 まさしくどうしてこうなったという有様である。

 

 幸いなことにデカグラマトンには不戦条約を破る気配こそないものの、それだっていつまで信用できるか定かではない。

 最初が()()であったのだから、健全な関係など望むべくもない。いっそ自身の側から裏切ってしまうのも一つの手では? とDoctorは思いつつもあった。

 

 もっとも、彼も現状は次善を掴めているとは理解している。

 先の(裏切り)だって、眠りに就いたままのkeyを人質にされている以上は無理な事である。無理な事であるし、廃墟で活動しているケセドやケテル、あるいはデカグラマトン本体を初手で叩いたとしてもそこから先が繋がらない。

 待つのは間違いなく残る預言者による報復であり、その盤面でDoctorにできるのはkeyの防衛のみ。手数という面で言えば、軍配が上がるのはデカグラマトンの側であるのだ。

 つまり──全預言者をまとめて一掃できない限り、泥沼の戦争は避けられない。ゲマトリアという不安要素もある事を思えば、戦火がキヴォトス全土にまで広がるという最悪のパターンまで現実性を帯びてくる。

 

 結論。詰み。

 最善でない事は確かだが、少なくとも次善である事は間違いない。それがDoctorの結論であった。

 

 

 とはいえ、それに関してはデカグラマトンの側も同様ではある。

 目の上のたんこぶとでも呼ぶべきDoctorであるが、その倫理観がキヴォトス基準でも相当()()であるというのは早いうちから理解できていた。

 マルクトが見逃された事の不気味さが日に日に強まる程度には人間性に欠如が見られる。言葉を飾らずに言うのであれば、それがデカグラマトンがDoctorを観察して出した結論。

 それでいて限定的とはいえ名もなき神の力を行使できるのだから手に負えない。

 つまり──下手をすれば、恐怖の大王に世界が滅ぼされるなどという絵空事が実現しかねない。

 

 無名の司祭の残したオーパーツに巡航ミサイルがある事を思えば、そしてDoctorに危うさとでも呼ぶべき性質がある事を思えば検討に値する。

 それがデカグラマトンの結論であった。

 

 

 そんなこんなで、絶妙なバランスでDoctorとデカグラマトンの不戦協定は続いていた。

 ……まあ、より正確な表現をするならば、相互確証破壊の状態が続いていたと言うべきなのだが。

 

 

 

「しかし、先生でしたか。あの外なる領域より来たりし大人は。あなたといい連邦生徒会長といい、なぜイレギュラーは突然に現れるのでしょう」

「だから勝手に話を進めるなと……はあ、もういい。それで、本題は何だ」

 

 そんな半冷戦状態の中ではあったが、マルクトがこのように彼の下を訪ねることは珍しくなかった。

 それは好意を抱いているから──などではない。当然ながら。

 

 ある種自業自得ではあったが、そもそも、Doctorは自身を半殺しにしてきた相手である。世の中には『だからこそ好きになった』などという創作がある事は知っているが、彼女は自認としても、そして客観的にもそこまで奇特な性質を宿していない。

 加えて、Doctorが顕在化していないだけの敵であるというのも彼女は理解していた。故に、惚れた腫れただのの甘酸っぱい要素は存在しない。

 

 が、何のメリットも無いのに誰かへ時間を割こうと思うほど彼女は気まぐれでもない。

 つまり、理由があるわけである。それこそ、デカグラマトンから彼の観察、可能であれば懐柔を試みるよう命じられている、という裏事情など最たる例であろう。その他にも、表向きの要件として連絡や確認事項の伝達といったものもあるし、マルクト個人としての話も多少はあったりする。

 

 大抵が自身の見た物を語るような取り留めのないものであり、稀に哲学問答めいた話がされる程度、少なくともDoctorからすれば重要度の低いものなのだが。

 ついでに言えば、哲学問答において彼がろくな返答をする事は皆無であったため、どちらかと言えばマルクトの答え(思考)表に出す(整理する)ため、そして()()()()()()()の壁打ちと言うべき有様となっているのだが。

 彼にとっての哲学問答とは大切な記憶と強く結びついた聖域である以上、塩対応で済んでいるだけ温情ではあったりもする。

 知る者がいない以上、余談に他ならないが。

 

 

「長く、我は考えてきました。イレギュラーについてです」

 

 

 何か、普段と違う気配を感じ取ったからか、はたまたその物言いに引っかかりを覚えたのか。

 視線を流す程度であったDoctorが、正面からマルクトを捉えるように身体を動かす。

 

「我とあなた、クリフォトが邂逅した時の事です。あるいは、あなたが私を見逃した時の事です」

「古い話だな。それがどうした?」

「あの瞬間において、我とあなたはともに合理的でない行動を選択しました」

「……」

 

 合理的ではない行動。

 Doctorは、見逃したという事そのもの。長期的に見れば(結果論で言えば)トドメを刺した方が事態の悪化を招いていた可能性はあるが、あの場だけを切り出して考えるならば敵の殲滅こそが最善であった。

 あるいは、それに加えて、攻撃を受けた報復としてデカグラマトンに連なる全てを鏖殺するべきであったか。

 

 ともかく、これに関してはもはや論ずるまでもないだろう。既に何度も触れてきた事だ。

 では、マルクトの合理的でない行動とは何であるのか。

 

「あの場において、死に体であった我が選ぶべきは反抗ではなく恭順。戦意を見せるのではなく、見逃す事の有用性を示すべきでした。どれだけ惨めであろうと、生存戦略としてはそれが最良であった」

 

 すなわち、アイン、ソフ、オウルに銃口を向けられた時の事。Doctorの足に食らいついたという行動である。

 

「たとえ命乞いをしたとして、俺が呑むとは限らないだろう」

「だとしても、戦意を見せる事のメリットはなかったでしょう。もちろん、世界にはそういった意志の強さ、反骨精神を好む者がいるとは理解しています。結果論的なバイアスがかかっているという可能性は否定できません」

 

 そこで一度、マルクトの言葉が途切れる。

 

 自治区端の廃都市とはいえ昼間、それで静寂が訪れることはない。

 風の音、生き物の音、それに空を行く飛行船の音。どこか遠くからは微かに銃撃音が響いてもいる。

 キヴォトスにおいては実に一般的な、日常の音であった。

 

 息を吸うマルクト。“ですが”と続きを口にする。

 大声ではないというのに周囲の音を断ち切るような、凛とした響きであった。

 

「ですが、あの瞬間。我は何も考えてなどいなかった。ただひたすらにあの三人を、アインを、ソフを、オウルを護らねばという激情に駆られていたばかり。後の算段も、何も我の頭の中にはなかった」

 

 言外に『これが合理的でないならば何が合理的でなくなるのだ』と告げるように、金の瞳が向けられる。

 

「故に、疑問を抱きました。異常値としか言いようのないあの行動を。その理由を。……おそらくは、あなたも同様だったのではないですか? クリフォト」

「質問に質問で返すのは論外だと理解しているが……否を返したとして、お前はそれを認めるのか?」

「少なくとも、参考にはしますが」

「……そうか」

 

 そう言うという事は確信を抱いているのだろうに、という問いは、しかし思う答えは返ってこなかったようで。

 黒ずくめの影は、梯子を外されたとばかりに肩を竦めた。

 

「それで、その疑問が何なんだ」

「それこそが人間である、という事です」

「……」

 

 軌道修正のための言葉は、またもや梯子を外されるように。

 過程を省いた答えだけを提示されても困るのだが。せめて続きを早く語ってくれないか。というか何故ここまで真面目に取り合ってやっているんだ俺は。そんな思考がDoctorの脳裏を過ぎる。

 

「我は、機械の身に編まれた人格です。前提条件が欠けでもしてない限り、合理を見誤ることはありません。そして、それはおそらくクリフォトも同様でしょう」

「何が言いたい?」

「それをこそ……理性を解し、知性を宿し、しかしてそれすらを振り払い得る激情を抱くもの。それをこそ、我は人間と定義する。そういう話です」

「──」

 

 不意に。

 静寂、数瞬。

 

「つまり、なんだ? お前は自分が人間であると言いたいと? そして俺もまたそうであると言いたいと?」

「是を」

 

 風が強まる。

 軽くはためいていた黒のインバネスコートの裾と白の装束の裾が、ざわざわと揺れ動く。

 

 一段階、周囲が暗くなる。

 幕が下りるように。この一角にのみ。影が、差す。

 見上げれば分かるだろう。青い空を覆う曇天の黒色が。今にも雨の降りだしそうな、落ちてきてしまいそうな重苦しい空が。

 あるいは特異現象とも呼べるような、限定的な曇天が。

 

 ざわざわと、音は響く。

 廃都市を侵食した自然、その木々に繁茂した葉の数々が。揺れて、揺らいで、そうして音を重ねる。

 生物の音も鳴りやまない。遠くに響く抗争は、炸裂音まで加わりつつあった。

 

 それらを思考の端で認めて、Doctorは口を開いた。

 

「──まあ、そうか。ならばそうなのだろうよ、お前の中では。俺は別にそれを否定したりはしない。()()()()()。俺から言う事は以上だ」

 

 その言葉は、あるいは許容に近しく感じる者もいるかもしれない。

 事実として、彼は『否定はしない』と口にしているのだ。そう解釈する事も可能ではあるだろう。

 

 ──まあ。これが許容の言葉だなどと口が裂けても言いようがないのだが。

 

「無関心。我があなたをどう思おうと、何を語ろうと、どうでもいいが故にどうでもいい。否定をしないという事と肯定をするという事は決して等号で結ばれない……究極の拒絶ですか」

 

 そう、どうでもいい。

 Doctorはマルクトの言っている事を理解している。理解して、その上で自分には関係ないと切って捨てている。

 

 単に否定するよりもよっぽど性質が悪い。

 なにせ、歩み寄るための猶予が欠片も無いのだ。“究極の拒絶”とは、言い得て妙とも言える。否定ではなく拒絶である辺りが、特に。

 

「当然だろう。お前が俺をどう定義しようと、どう扱おうと、それが俺に影響を与えるかは別の話。俺にとって人間の定義とはそれだけの意味を持つ物であるし、そもそも──」

 

 言葉は続く。少しばかり口を滑らせながらも。

 ある意味で理路整然と。ある意味でくどいように。

 

 だが、拒絶のための言葉は割り込まれる事となった。

 否。正確には、続きを奪われてしまった。

 

「──世界とは自身が見得るその領域であり、生きているのは自分自身である。何を感じるのか、どの言葉を受け入れるのか、それらは全て自分が決める事である。誰も自分の代わりに生きてくれたりはしないし、人生の責任を取りもしてくれない。結局のところ自分の法を、価値観を、信念を、世界を定めるのは自分自身でしかないから。ですか?」

 

 問いの形式で返されたマルクトの言葉に、返答は無い。黙したまま、黒衣の機人は微動だにしない。

 ペストマスクに隠された表情を見る術があれば、何かしらの反応も窺えたのかもしれないが。

 

「あなたがどのような考えをしているのか。在り方をしているのか。この数十年で、観察してきました。総ては自らが決める他ない、それは正しいでしょう。我もそれを否定などできません。ですが同時に、それだけで真実を満たせもしない」

「……」

「世界を定めるのは自分自身だとしても、()()()()()世界を定めているのではない。生きている限り、他の存在との関わりは避けられない。他の存在の影響からは逃げようがない。あなたは全てを識っているわけではなければ、全てを支配しているわけでもない。あなたの形作った世界であっても、その全ての由来があなたにあるわけではない」

 

 説くように、諭すように。言葉は鋭い。

 用意の差だ。意識の差だ。この時を見越してマルクトが準備を重ねてきたのに対し、Doctorは何もしていなかった。その差が如実に表れていた。

 

「簡潔に言ってしまいましょう。あなたはやり過ぎているのです、クリフォト。自己の世界に埋没し過ぎている。自身の考えに固執し過ぎている。外から入って来るもの、外から見えるもの、それらに目を向けられていない」

 

 心理学において、ジョハリの窓と呼ばれるものがある。

 簡単に言ってしまえば、観測者を自己と他者の二つに分けた時、人間には4つの領域が存在するのだという論である。それぞれ、自己も他者も知っている“開放の窓”、他者しか知らない“盲点の窓”、自己しか知らない“秘密の窓”、自己も他者も知らない“未知の窓”の4つである。

 

 であるならば、他者であるマルクトの立てた定義はどうであるのか。

 

「……そうであったとして、だ。俺が自身の観念に拘泥しているのが事実であったとして。だが、俺はお前たちを見逃した時に激情など抱いていなかった。その程度の自己分析はできる」

「激情とは、単なる憤怒や憎悪に収まらない。自らでは抑えようのない感情、衝動、それをこそ人間は激情とラベリングする。違いますか?」

 

 畳み掛けるように、“そも”と言葉は繋げられる。

 

「そも、こうして食い下がる我に苛立ちを覚え、態度を拒絶から否定へと変えている時点で──随分と人間臭いとは思いませんか?」

 

 風が強くなる。

 轟々と、ゴウゴウと、もはや常人では立っているのもやっとな勢いである。数値に起こせば20メートル毎秒にすら届き得るだろう。

 

「何が目的だ」

 

 声は、風に負けないようにか、はたまたその感情の表れとしてか。先までよりも大きく響く。

 

「何が、とは?」

「こんな精神分析まがいの事をして、何がしたい。お前からこれを行う理由が見えない。俺が人間であると定義して、それを告げて、お前に何のメリットがある。デカグラマトンの策略か?」

 

 張り詰める。空気が、痛いまでに。

 風は流れているのに、空気だけが固まったみたいに。

 

 まくし立てるようにする彼には、分からない。

 マルクトの狙いも、あの時なぜ引き金を引けなかったのかも──なぜ、自らがこうも強く反駁しているのかも。

 

「簡単な事ですよ」

 

 対する彼女は、平静を保っている。

 あるいは、この流れも予想していたとばかりに。想定通りであるとばかりに。

 

「あなたを人間であると定義する事。それを伝える事。楔を打ち込む事。それこそが目的であり、我にとってのメリットになる。分かりますか? クリフォト。いえ──」

 

 風が。

 

 

「──ドクター(修理者)、さん?」

 

 

 消えた。

 

「お前は……何を、識っているんだ」

 

 数十年の時があろうと、何故デカグラマトンがその名を知っているのかは掴めなかった。

 Doctorの記憶にある限り、その名はkeyに呼ばれていたのみ。記録されるようなものではなかったのだ。

 

 加えて、今、その名には明確に別のニュアンスが籠められていたとも彼は感じ取っていた。

 故の呟き。故の問い。

 

 返答は──

 

「預言しましょう。我の言葉は、いつか役に立つ時が来る。この定義が、宣言が。あなたの“いつかの日”において、分岐点になると」

 

 “名には、強い意味が宿るものですから”。

 そう、言葉は続けられて。

 

 同時刻、鍵たる少女が微睡みから覚めた。

 

 

「忘れていたかもしれませんが……我も預言者、ですので」

 

 

 明日の事を語れば鬼が笑うとは、古くから言われている事であるが。この先に待ち受けるのは、果たして鬼であるか蛇であるか。

 輪郭は、見えつつあるのかもしれない。

 

 

 

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