存在し得ない異分子が存在するというのなら。
それは。
最初にソレに気付いたのは、先生であった。
戦う者として戦場の最前線にいた少女らではなかったのは、先生が最初に察知したのは、あるいはその鉄火場の中核から離れていたという事が理由なのかもしれない。
あり得ない仮定ではあるが、存在しない記憶の残滓が警鐘を鳴らした、という可能性もあるだろう。
ともかく。あるいは、とにかく。
先生は、違和感を察知した。
「空が……暗く?」
陽が沈むにはまだ早い。
そもそもついさっき、Doctorがアリス──あるいは“王女”と呼ぶべきかもしれないが──の頬へと手を触れさせ、発動されていたプロトコルATRAHASISを止めた際に、空からは光が差していたのだ。
夕陽ではなく、沈みつつある橙や茜ではなく。明るい、真昼の日差しを。割れた雲の隙間からは青色だって覗いていた。
だから、陽が沈むはずがない。
Doctorという間違いなく埒外の領域にいるであろう怪物との邂逅であったり、王女によるプロトコルATRAHASISの実行であったりと、この半日で随分と色々と経験こそしたものの。
それでも、彼の内にある常識はそれを否定していた。
だから、彼は顔を上げて。
だから、彼は気付いたのだ。
包むように、覆うように、一帯の上空を染める黒色へと。
──否、ただの黒色ではない。それは黒色に見えているだけだ。決して純色の黒ではない。そこには、無数の色が存在している。無数の色が溢れている。
単純な話だ。色をいくつも重ねれば、行き着く先は醜悪な黒色となる。幼い子どもであっても知っているだろう。天上を染めているのは、そんな単純な法則の極致であった。
冒涜的だ、と言うべきだろうか。涜神的だ、と形容すべきだろうか。色が、色が、色が混ざり合って、混ざり果てて、行き着いた黒色。
背筋を凍らせ、心胆を寒からしめ、あれは此処にあってはならないと思わせる混色。
空を見上げる先生の視線の先に、ソレが映っていた。
ああ、そして。
だから、
「まだ残ってやがったか!?」
声は、美甘ネルのもの。
それだけでなく、視線を下ろす最中にも『あれはあの時の』とか、『アリスちゃんを襲った』とか、そんな声がインカム越しに響いて。
ようやく目を向けた先生は、目を逸らさないままだった生徒たちに一歩遅れてそれを認める。
それ。つまりは。
魂が抜けたかのように身体を脱力させる天童アリスの姿と、全身を震えさせて譫言を零すDoctorの姿と、そのDoctorと無理やり目を合わせるようにするDivi:sionの姿を、だ。
先生らは、一つの事実を見落としていた。
すなわち、どのようにして“王女”は動き始めたのか。最初のきっかけとなるものは何であったのか。根本的な、そして根源的な問題である。
その原因が分かっていなければ、プロトコルATRAHASISの実行を止めたところで対症療法にしかならない。ともすれば対症療法にすらなり得ない。
はっきり言ってしまえば、これを見落とすのは言語道断というものである。
……まあ、とはいえ、これに関しては仕方のない部分も大きくはあった。
そも、その原因に関連する出来事を知っているのはゲーム開発部の3人のみ。鉄火場での大立ち回りなどもってのほか、戦闘経験すら薄いインドア派な少女らなのだ。動転するのも頷けよう。
加えて、焦って言葉足らずな内容にはなっていたものの、彼女らも起きた出来事をDoctorに伝えていた事を思えば──最低限、務めは果たせていたとすら言えるだろう。
問題は、その伝えた相手であるDoctorが冷静なように見えて誰よりも荒れていた事だったが。
ただ救われたからという理由だけで自身の人格を複製し、ただ救われたからという理由だけで自身が道具たるコピー体である事を受け入れられる存在。
まあ、狂人だ。狂人である。あるいは、強靭であるのかもしれないが。
ともかく、そんな彼が全ての支柱である少女に危害を加えられて、平時の思考を維持できるか。答えは否であった。
取り繕って、装って、どうにか冷静であるように見せかけていただけで。ちゃんと、その思考は精彩を欠いていた。
そういった諸々が重なった結果、“王女”の発現の原因は見落とされていた。
さて、さて、さて。
それでは話を戻すとしよう。
先生らは、最初にゲーム開発部を襲った特殊なDivi:sionの存在を知らなかった。
それが天童アリスに、keyに何らかの干渉を行って“王女”を発現させた事を知らなかった。
否、先生だけでない。生徒たちも、そしてDoctorでさえも知らなかった。
故に、終わったと思った。プロトコルATRAHASISを止めて、ひとまず事態は収束させられたと
ああ、油断である。
そして、戦場において油断した者がどうなるか、などと。もはや語るまでもないだろう。
世界が。
黒に。
「と、なられると困るので」
「──ぇ?」
両腕で顔を庇っていた先生は、声を漏らす。
肌を冷気が刺したからだ。澄んだ空気が肺に入ったからだ。知らない声が、耳朶を打ったからだ。
腕を下ろす。
その視界に映るのは、白と、青。
雪と、氷と、海と、空。たった二色で構成された、寂しさと美しさの共存した光景。有り体に言うのならば、氷海が広がっていた。
「いや、え……?」
自分の身体を見て、シッテムの箱を持っていない左手で頬をつねって、もう一度氷海を見回して。どういうことか、あの黒色はどこかへ転移させるような何かだったのか、だとして生徒たちはどこに、と思考が巡る。
「その前に、さっきの声は──」
「はい。我の声がどうかしましたか?」
「っ!?」
背後からの声に、先生は大きく振り返る。
空いていた左手には既に“大人のカード”が握られていた。まさしくというか、臨戦態勢であった。
「君は、いったい……?」
第一印象は、白色。誰何をしながらも、先生の思考は止まったりはしない。
白い肌に、白い装束。金の瞳。見覚えはない。文字通りに
疑うよりも信じる、というのが先生の常であるが、それは騙されやすいカモである事とイコールではない。
ちゃんと、猜疑心も、警戒心も持っている。Doctorの事も別に、信じ切ったりはしていなかった。生徒を預かる立場にあるのだ、当然だろう。
「お助けキャラ、とでも言っておきましょうか」
「名は、明かせないと」
「少なくとも、現時点では。
“あなたが我をそう定義することは、むしろ益になりますから”と、言葉は続けられる。
「さて。残念ながら時間は有限、アイスブレイクに興じていられるだけの猶予はありません。氷は周りに溢れていますがね」
「……」
天使が通り過ぎる。
身体を小さく撫ぜる風を、先生は妙に冷たく感じた。単純に氷海という環境故なのかもしれないが。
「ふむ。滑りましたか。慣れないことを無理にやるべきではありませんでしたね」
「ええっと、その」
毒気を抜かれた。彼の顔にはそう書かれていた。
もしくは、困惑している、かもしれないが。少なくともその身体からは力が抜けていた。ちょうど、梯子を外されたみたいに。
「まあ、時間がないのは事実です。本題に入るとしましょう」
「本題、って? いや、そもそもここは、みんなは……」
「それも含めて、です」
持ち直すように、仕切り直すように。そう言って、ニヤリと口角を上げて。
少女は。
「今ばかりは預言者ではなく探偵役として。それでは──解決編を、始めましょう」
そんな事を、口にした。
「まず、ここがどこで、付近にいたはずの忘れられた神々がどこへ行ったのか。それだけは答えておきましょうか」
「教えてくれるの?」
「それを初めに話さねば、あなたは話に集中できないでしょう」
「……それは、うん」
「さて、さて。話を進めましょう。ここは最後にあなたが見たであろう黒色へと我が干渉し、一時的に創り上げたセーフルームのような場所です。残念ながら忘れられた神々には距離があったため、あなただけをこちらへと引き寄せた、という形になります」
「っ! じゃあ、みんなは」
「この外側に。ですが、この領域の支配権を握っているのは我。話が終わるまで、決してあなたを出す事はないでしょう。──ご安心ください。ここにおいて、時間の概念は在って無いようなもの。あなたの生徒らが潰えるより、我の要件が終わる方が先となります」
安心など。できるはずが。
だが、そんな先生へと先手を打つように、白磁の少女は言の葉を紡ぐ。
「何より。今この領域を出たところで、あなたの生命は無為に終わるのみ。信用するかはご自由に。信頼するかも、どうぞご自由に。ですが、話は聞いていってもらいます。あなたとしても、そちらの方が益があるでしょう?」
「……」
「……」
睨み合い。
数秒ほど、沈黙が満ちる。
はたして、折れたのは。
「生徒たちは。無事、なんだね」
「少なくとも、今は。時の流れないここでこう言うのも変ですが、もうしばらくは大丈夫でしょう。まだ、依代は完成していませんから」
「……分かった」
先生には、どこまでが真実なのか分からない。
生徒たちの安否も。まるで味方であるかのように振る舞う少女の言葉も。その上で、この場で少女と争う事と手早く話を終わらせる事とを天秤に乗せ、測ったのだ。
もっと言えば──直感が警鐘を鳴らし続けている存在を、倒せるか否か。倒したとして、その消耗はどれ程になるか。
その結論が、先の言葉であった。
「それでは改めて、まずは前提条件からおさらいしましょう。時は遡り、遡り、太古の時代。この地がキヴォトスという名でなかった頃。名がなかった頃。名もなき神が未だ残っていた時代、すなわち神代。総ては、そこから始まりました」
「Doctorが教えてくれた時代の話、かな」
「是を。とはいえ、あれなるは相当な秘密主義者。秘されている事も多いかと」
「それはまあ、うん。なんとなく察してはいたかな」
Doctorと名乗る彼は、潜在的には何者も信じていない。常に敵対する前提で動いている。
故に見せる手札は最小限に収めるし、明かす情報は最低限で抑えている。
秘密主義者というより、人間不信と呼ぶべきなのかもしれない。その在り方は。
「さて、その神代において、存在していた勢力は二つありました。名もなき神と、忘れられた神々。先に在ったものと、後より来たりしもの。それぞれが根本的に相反しているが故に、それらは争いました」
「そして勝ったのが、忘れられた神々」
その辺りは、先生も知っている──Doctorに教えてもらった──事であった。
敗北を予見した名もなき神の勢力がAL-1S、天童アリスとなる彼女を創り上げた事も。
知っている。知っていた。
「戦争は長く続きながらも、趨勢は次第に傾き始めました。世界に君臨していた名もなき神は、世界の果てへと追い込まれたのです。しかし、自らの滅びを受け入れられる存在はいないもの。故に、名もなき神を信仰する無名の司祭らは手を打ちました」
だから、次の言葉に先生は声を漏らした。
「その一つが、“依代計画”。後に改められし名は──“プロトコル:ドクター”」
その名も知っている。
けれど、決してこのタイミングで出る名前ではないはずだと、そう彼は思っていた。
ああ、だけれども、自らを“お助けキャラ”と称した少女の言葉は終わらない。
「この世界には、色彩と呼ばれるモノが存在します。……正確には、この世界の外側には、ですが」
「色、彩」
「解釈もなく、理解もなく、疎通もなく、ただ到来する
ズキリと、その頭に痛みが走る。
先生には覚えのないその言葉、その名は、しかし奇妙なまでに強い印象を伴っている。まるで、忘れてはならないと。いつか越えねばならないと。そう告げるかのように。
「色彩が何であるのか、というのは我も知りません。ですが、無名の司祭にとってはそう恐れるものではなかった。もしかすれば、彼らはその正体を解していたのかもしれません。共存する方法を知っていたのかもしれません。しかし、そんな彼らであっても色彩を御する術は持っていなかった」
──これは、先生だけでなく彼女も識らぬ事実であるが。
一つの可能性、一つの世界線において、無名の司祭らは色彩の嚮導者を作り上げていた。色彩に意図を与え、意思を持たせる存在だ。
逆説的に。嚮導者という配役を生み出さねば、彼らであっても色彩に意図を与える事はできなかったのだ。
そして、もう一点。
色彩の嚮導者の誕生は、無名の司祭らの意図したところではなかった。無論、それが生まれることを願いはしていた。しかし、そのために何か直接的な手を彼らが打ったわけではなかった。
いわば偶然だ。偶然が重なって、その偶然に便乗して、そうして彼らの望む色彩の嚮導者は誕生した。
さあ、ならば考えてみよう。
無名の司祭は色彩の嚮導者──もっと言えば、すべての時空の“忘れられた神々”を滅ぼす存在を求めている。そして、色彩を統べるには器となる存在が必要である。
であるならば、だ。
「故に……彼らは研究しました。当然ながら。当然のように。色彩を己らの望むままに動かす術を、そのために必要なものを」
「ちょっと、待ってほしい。まさか、“依代計画”っていうのは」
「是を。色彩を導くもの、統べるもの。もっと言えば、器となりて降ろすもの。彼らはそれを生み出そうと研究したのです」
偶然に便乗する形であろうと、司祭は色彩の嚮導者を誕生させられる手法を有していた。
であるならば、それ以前に自分たちの手で生み出すための研究をしていたとしてもおかしな話ではない。
いや、むしろ行っていなければおかしいとさえ言える。
因果関係を整理するならば、逆なのだ。既に色彩の嚮導者、あるいはそれに類する存在を生み出すための研究をしていて、だから偶然であろうと条件が整えばそれを生み出せた。
そういう話である。
「色彩とは、それだけの力を持っている。いえ、正確にはその力そのものが色彩である、と言うべきでしょうか。我もそれそのものを直接観測した事はないため、推測ではありますが──色彩は、存在そのものがこの世の総てに特効を有している。存在するだけで世界を切り崩す事ができる」
「存在そのものが……」
「先の戦争を例に取れば、色彩を招来させるだけで勝敗が決まる。反則の鬼札というやつです」
だからこそ、研究した。
それを扱う術を。それを意のままに振るう術を。
研究して──
「──しかし。研究は、失敗しました。忘れられた神々の世が今日まで続いている時点で、まあ、自明ではあるでしょうが」
“その詳細はサルベージできませんでしたが”と、言葉は続けられて。
「本来は、それで終わるはずでした。研究の全てに成果が伴うわけではありません。失敗する研究など無数にありますし、それはそれで“できない事が分かった”とも解釈できる。そして、依代計画も、そんな失敗した研究の一つとなるはずでした」
あるいは、
だが、そうはならなかった。
如何なる因果か、廃棄されていた“依代”の器に魂が宿ってしまった。
それが、全ての始まり。
「もう、言わずとも分かるでしょう。Doctorと名乗る存在、それが依代計画の命運を変えたのです」
「……彼はいったい、何者なんだい」
「サルベージできた依代計画によれば、そこにはいくつかの条件があったようです。一つ、祭司の存在。色彩を器に降ろす際に、儀式を執り行う祭司。二つ、器の存在。人に似せた、しかし人ではない器。そして、三つ」
風が、吹き抜けた。
ゴウと音が鳴って、雪煙が僅かに立つ。
一転、静寂。
吹き抜けた風が消えた事で、静けさが際立てられる。
「純粋な魂の存在。生きていながら色を持たず、意思を持たない。そんな矛盾した、人非人とも呼ぶべき魂」
色彩は、単なる破滅装置ではない。
彼女が口にした通りだ。色彩は世界を滅ぼすのではなく、呑み込む存在である。世界を渡り、見つけた世界を片端から呑み込み、それ故に黒色になった。
無数の色が、世界が混ざり合ったが故に。
そも、色彩が破滅装置であるというのならば、その色彩に触れた者が無事なはずがない。色彩の嚮導者など生まれようがないのだ。
それ故に、嚮導者ではない依代、色彩を降ろす器は無垢でなければならなかった。
下手に色があれば、色彩に呑み込まれて終わってしまう。あらゆる色が混ざり合った結果が“色彩”であるが故に。
そして、それこそが依代計画が破綻した原因の一つでもあった。
そんな魂は存在し得ないから。生きていれば、何かしらの色を持つものだ。何かしらの思想を持って、何かしらの信条を持って、そうして何かしらのエゴを宿すものだ。
それをしない──それが
あり得るはずがない。
「Doctor、あるいはドクター。そう呼ばれる存在が、その魂が最後の条件を満たしてしまった」
ああ、故に。逆説的に。
それがあり得てしまったからこそ、世界は歪んだ。在り得べからざる事が起きるようになった。
「たった今起きた事象は、“プロトコル:ドクター”の完遂。すなわち、色彩の顕現」
「でも……それなら、どうして今になって? 彼は、ずっとこの世界にいるんだろう? ……いや、待って。それ以前に、どうして彼だけが生き残ってるんだ?」
「ふむ、思考を止めはしない、と。そして良い疑問です」
器に魂が宿ったのなら、後は儀式を行って色彩を降ろすだけのはず。少なくとも、聞かされた話ではそうだった。それがどうして今にまで引き延ばされているのか。
いや、それ以前に、どうして無名の司祭らは影も形もないのに彼だけが生き残っているのか。
そんな先生の疑問は、どうやらそれなりに鋭くはあったようで。少女は、感心するように瞳を細めた。
「答えは単純です。無垢であった、色を持たなかったはずの彼の魂が、色を持ってしまった。変わってしまった。その上で変わらなかった。鍵たる少女は真実世界の命運を大きく変える鍵であったのです。故にこそ依代計画はプロトコル:ドクターと名を改められ、彼の者は今の今まで続く事となった」
「鍵たる、少女……」
「ええ。相反せし者。否、相反せし物を持たせられし者。箱舟を鎖す鍵にして、海を拓く鍵。世界の分岐点となった者。そして──」
風が吹く。
「──今この時に於いても、全ての鍵となった少女」
昔話は、まだ、現在にまで届かない。追い付かない。
はたして、解決編とは誰にとっての解決なのか。